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政治と選挙Q&A「公認 候補者 公募 ポスター 新人 戸別訪問 国政政党 地域政党」に関する裁判例(88)平成17年 7月 6日 大阪地裁 平15(ワ)13831号 損害賠償請求事件 〔中国残留孤児国賠訴訟〕

政治と選挙Q&A「公認 候補者 公募 ポスター 新人 戸別訪問 国政政党 地域政党」に関する裁判例(88)平成17年 7月 6日 大阪地裁 平15(ワ)13831号 損害賠償請求事件 〔中国残留孤児国賠訴訟〕

裁判年月日  平成17年 7月 6日  裁判所名  大阪地裁  裁判区分  判決
事件番号  平15(ワ)13831号
事件名  損害賠償請求事件 〔中国残留孤児国賠訴訟〕
裁判結果  請求棄却  上訴等  控訴  文献番号  2005WLJPCA07060005

要旨
◆中国残留孤児が、早期帰国の実現及び帰国後の自立支援を怠ったことを理由として国に求めた国家賠償請求について、国に早期帰国や自立支援義務の違反は認められないとして、同請求が棄却された事例
◆原告らが、第二次世界大戦前後の混乱の中で、旧満州地区において孤児となり、長期にわたり残留を余儀なくされ、日本人孤児であるがゆえに中国で不当な取扱いを受けたことなどによる精神的苦痛や帰国後の日本語能力が不十分なことなどに起因する社会生活上の不便・不利益を受けないことは、法律上保護された具体的権利ないし利益といえるか(積極)
◆厚生大臣及び厚生省職員は、日中国交正常化以降、帰国を希望する残留孤児のために早期帰国を実現させる施策を立案・実行すべき条理上の作為義務を負っていたといえるか(積極)
◆厚生大臣及び厚生省職員は、日中国交正常化以降、帰国を希望する残留孤児のために早期帰国を実現させる施策を立案・実行すべき条理上の作為義務に違反したとは認められないとされた事例
◆国は、原告らが国家政策により残留孤児となったことを先行行為とする条理上の作為義務としての自立した生活を営むことができるよう支援すべき義務を負っていたといえるか(消極)
◆原告らは、日本人孤児であるがゆえに中国社会において不当な取扱いを受けたことなどにより精神的苦痛を受け、更に帰国後も日本語能力が不十分なことなどに起因して、社会生活上様々な場面で不便を来したり、不利益を受け、これにより精神的苦痛を受けたことが認められ、原告らがこのような不利益を受けないことは、人格的な利益として、不法行為法上の保護対象になり得る法的利益である。
◆厚生大臣及び厚生省の担当部局の職員は、日中国交が正常化した昭和四七年九月二九日の時点以降、多数の残留孤児の存在を認識し、残留孤児の永住帰国までの期間が長期化すれば言葉と文化の違いから残留孤児が日本社会において遭遇する困難が一層増大するおそれがあることを予見することができ、しかも、このような結果を回避するため、厚生省の所掌事務である引揚援護に関する政策として中国政府の協力を得て残留孤児の早期帰国の実現に向けた具体的な施策を採り得る状況になったというべきであるから、国策による旧満州への入植・国防政策の遂行という日本政府の先行行為に基づいて、帰国を希望する残留孤児のために早期帰国を実現させる施策を立案・実行すべき条理上の作為義務を負ったものと認めるのが相当である。
◆原告らが残留孤児となったことが国家政策に起因するからといって、国において、これを先行行為とする条理上の作為義務としての自立した生活を営むことができるよう支援すべき義務を負ったものと認めることはできないし、厚生大臣及び厚生省職員による原告ら残留孤児に対する中国から帰国後の自立支援の施策の立案・実行に関する権限の行使又は不行使が著しく合理性を欠きその裁量の範囲を逸脱した違法な行為であったとは認められない。

裁判経過
控訴審 大阪高裁 平17(ネ)2458号

出典
訟月 52巻5号1307頁
判タ 1202号125頁

評釈
人見剛・判時 1933号23頁(下)
人見剛・判時 1932号17頁(上)
小澤満寿男・訟月 52巻5号1307頁
西埜章・法律論叢(明治大学法律研究所) 79巻4・5号343頁(意見書)
井上泰・法と民主主義 413号25頁
岩田研二郎・民主法律 267号80頁
住川洋英・行政関係判例解説 平成17年 218頁
小栗孝夫・CHUKYO LAWYER 6号19頁

参照条文
外国人登録法3条
国家賠償法1条1項
児童福祉法2条
出入国管理法61条
出入国管理法6条2項
出入国管理法7条1項
日本国憲法13条
日本国憲法14条
日本国憲法15条
日本国憲法16条
日本国憲法18条
日本国憲法21条
日本国憲法22条
日本国憲法23条
日本国憲法24条
日本国憲法25条
日本国憲法25条1項
日本国憲法26条
日本国憲法26条1項
日本国憲法27条
日本国憲法29条1項
日本国憲法32条
日本国憲法44条
未帰還者援護法29条
未帰還者特措法1条

裁判年月日  平成17年 7月 6日  裁判所名  大阪地裁  裁判区分  判決
事件番号  平15(ワ)13831号
事件名  損害賠償請求事件 〔中国残留孤児国賠訴訟〕
裁判結果  請求棄却  上訴等  控訴  文献番号  2005WLJPCA07060005

原告 X1
外33名
原告ら訴訟代理人弁護士 西岡芳樹
同 久保井聡明 池内清一郎 井上耕史 岩田研二郎 江角健一
同 大江千佳 太田隆徳 大深忠延 大西克彦 大前治
同 大町良平 勝井映子 神谷誠人 工藤展久 越尾邦仁
同 小林徹也 島田佳代子 髙村至 竹橋正明 田島義久
同 豊島達哉 中島宏治 成見暁子 麦志明 古本剛之
同 前川直輝 三上孝孜 村田浩治 安元義博 山名邦彦
同 吉岡良治 依田高明 和田義之 鈴木經夫 小野寺利孝
同 安原幸彦 清水洋 鳥海準 神原元 村山晃
同 藤田正樹 黒澤誠司 宗藤泰而 大槻倫子 松本隆行
同(ただし、原告A、原告B及び原告C以外の原告らにつき訴訟復代理人弁護士) 阪田健夫
須田滋
飛山美保
大西賢一
亀井尚也
大河原壽貴
石田法子
原告ら訴訟復代理人弁護士 藤木達郎
木原万樹子
友弘克幸
小野順子
向井啓介
溝上絢子
竹内文造
古川美和
福山和人
上田孝治
堀川智子
宮腰直子
米倉洋子
被告 国
同代表者法務大臣 南野知惠子
同指定代理人 中井隆司
外29名

 

主   文
1  原告らの請求をいずれも棄却する。
2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由
第1  請求
被告は、原告らに対し、別紙請求一覧表〈省略〉の「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対する平成16年1月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2  事案の概要
本件は、日本が第二次世界大戦に敗戦した前後の混乱の中で、旧満州地区(現在の中国東北部(黒竜江省、吉林省及び遼寧省))で肉親と死別又は離別して孤児となり、その後日本に帰国した者又はその承継人である原告ら(以下、別紙請求一覧表記載の原告番号14―1ないし14―3の被承継人である亡X14を原告番号14とし、特にことわりのない限り、原告番号1ないし32の原告らを総称して、単に「原告ら」という。)が、被告において原告らを早期に帰国(引揚げ)させる義務(早期帰国実現義務)があるのに、帰国政策を推進することなく、かえって原告らの早期帰国を妨害する政策をとり、更に帰国した原告らが自立した生活を営むことができるよう支援すべき義務(自立支援義務)があるのに、十分な支援を行わなかったことにより、原告らが損害を被ったとして、国家賠償法(以下「国賠法」という。)1条1項に基づき、被告に対し、損害賠償を求めた事案である。
第3  当事者の主張
本件の争点は、(1) 原告らの被侵害権利又は被侵害利益の存否、(2) 被告の公務員の違法な公権力の行使の有無(被告の早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反の有無)、(3) 原告らの損害額(包括一律請求の可否等)、(4) 原告らの本件請求権の除斥期間(民法724条後段)の適用の有無である。
争点に関する原告らの主張は、別紙「原告らの主張」記載のとおりであり、被告の主張は、別紙「被告の主張」記載のとおりである。
第4  判断の前提となる事実
証拠(甲総1ないし73、75、77ないし107、110ないし113、114の3、114の4の22ないし30、117ないし119、甲総A1ないし7、9、11ないし13、17ないし21、25、甲総B1ないし44、46、48ないし49、甲総C3ないし6、甲総D1ないし8、11ないし14、甲総E1ないし20、甲総F1、甲1、2、甲個1ないし32、乙1ないし59、61ないし90、94ないし102、104ないし117、119ないし126、128ないし133、135ないし163、165ないし179(いずれも枝番のあるものは枝番を含む。)、証人菅原幸助、原告本人(原告番号1ないし4、8、11、12、15、19ないし22、24、30))及び弁論の全趣旨を総合すれば、以下の事実が認められる。
1  残留孤児の発生
(1) 満州国の建国に至る経緯等
日本は、1905年(明治38年)、日露戦争終結に際しての講和条約であるポーツマス条約により、ロシアから遼東半島の租借権等の権益を取得した後、1906年(明治39年)に関東都督府を設置、南満州鉄道株式会社(以下「満鉄」という。)を設立するなど、旧満州地区(現在の中国東北部)及び内モンゴル地域への影響力を強め、更に1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツが有していた山東半島における権益を継承、拡大した。
関東軍(中国東北部に駐屯する日本陸軍部隊)は、1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路の爆破事件(柳条湖事件)を起こし、これを契機として満州事変が勃発した。
関東軍は、1932年(昭和7年)3月1日、満州国の建国を宣言し、同年9月15日、日本政府は、「日満議定書」の調印により満州国を承認した。
国際連盟は、1933年(昭和8年)2月24日、リットン調査団の報告書に基づいて、満州国の不承認を可決した。同年3月27日、日本は、国際連盟から脱退した。
その後、1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の廬溝橋で日中両国軍が衝突する事件(廬溝橋事件)が発生し、戦線は、次第に中国各地に広がった。その中で、中国国民の抗日救国運動が起こり、国民政府(中華民国政府)は、同年9月末に中国共産党と第2次国共合作を行って抗日民族統一戦線が成立し、その後も抗戦を続け、日本は中国との全面的な戦争に至った。
そして、1941年(昭和16年)12月8日、日本は、アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。
(2) 満州国への移民の送出
日本政府は、1932年(昭和7年)8月16日、満州への1000名の武装移民を送出する旨の閣議決定を行い、同月30日の第62回国会において満洲移民案が承認された。
同年10月、第1次試験移民団が黒竜江省ジャムスに入植し、その後も、毎年試験移民団が組織され、1935年(昭和10年)までに合計4つの開拓団が中国東北部各地へ入植した。
日本政府は、1936年(昭和11年)8月25日、七大国策綱領を閣議決定し、その一つとして「対満重要策の確立―移民政策及び投資の助長策」を国策として決定した。日本政府は、1937年(昭和12年)1月、満洲へ開拓民を20年間に500万人、100万戸を送出する大綱を決定した後、同年11月30日、一般開拓民のほかに、いわゆる「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を閣議決定した。
その後、日本政府は、1941年(昭和16年)12月31日、「満州開拓第2期5か年計画要綱」を閣議決定し、5年間で開拓民22万戸(110万人)の入植を計画した。満州移民を主管した拓務省は、日本国内の未婚女性を義勇軍開拓団へ送るため、1942年(昭和17年)、「女子拓殖事業対策要綱」を作成した。
上記方針に基づいて、1945年(昭和20年)8月8日まで、日本から満州へ開拓団が送出された。
昭和20年5月時点における外務省調査による開拓民の人数は、一般開拓団員5万2428人・家族16万7829人、青少年義勇軍隊員6万9457人・家族1万0422人、青少年義勇隊(訓練中)2万1738人の合計32万1874人であった。
(3) ソ連の参戦から残留孤児の発生に至るまでの経緯等
ア 日本は、1941年(昭和16年)4月、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)との間で、「大日本帝國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約」(以下「日ソ中立条約」という。)を締結した。上記条約の締結の際に発出された「声明書」において、ソ連による満州国の領土保全及び不可侵が定められた。
その後、1945年(昭和20年)2月、アメリカ、イギリス及びソ連の3国の首脳会談(いわゆる「ヤルタ会談」)において、ドイツ降伏後の2ないし3か月後に、ソ連が対日参戦すること、その見返りとして、ソ連が当時日本領であった南樺太(サハリン)の返還等を受けることなどを協定した。
ソ連は、昭和20年4月5日、日本に対し、日ソ中立条約を期限満了(昭和21年4月)後に延長しない旨(不延長)の通告をした。
大本営(天皇直属の最高の統帥機関)は、同年5月30日、日本の本土防衛のため、満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し、朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域と決定するとともに、満州の4分の3を持久戦のための戦場とすることを決定した。なお、関東軍は、戦局の悪化から、昭和19年には師団の一部を南方に転用していたが、昭和20年3月には、本土決戦に備えるため、更に日本内地へ師団を転用していた。
大本営は、昭和20年7月10日、在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員約20万人を召集(いわゆる「根こそぎ動員」)し、国境付近に配置した。
同月26日、アメリカ、中華民国政府及びイギリスは、ポツダム宣言により、日本に対し、戦争終結の条件として直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言することなどを要求した。
ソ連は、同年8月8日、日本に対して宣戦布告するとともに、ポツダム宣言に加わった後、同月9日、中国東北部に侵攻を開始した。
日本は、同月14日、前記4か国に対し、ポツダム宣言受諾の意思を通告し、同月15日、終戦となった。
日本は、同月14日、在外機関に対し、「三ヶ国宣言受諾ニ関スル在外現地機関ニ対スル訓令」の中で、居留民をできる限り現地に定着させる方針を執り、現地での居留民の生命、財産の保護については、万全の措置を講ずるよう指示したが、その後の同年10月25日の連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令により日本政府の外交機能が全面的に停止されたことや、終戦に伴って発生した現地の混乱によって、在外邦人は、生活手段を喪失し、残留することが極めて危険、不安な状態となっていった。
同年8月19日、関東軍参謀総長とソ連軍極東最高司令官との間で停戦交渉が開始され、停戦、武装解除等について定めた協定が成立した。
しかし、ソ連軍は、上記協定にもかかわらず、各方面で無統制に武装解除を実施し、早期に在来の関東軍各編成部隊の指揮組織を破壊したことなどから、関東軍は、秩序ある武装解除が不可能となり、各地に分散した小部隊は混戦を続けることになった。
イ 旧満州地区に在留していた邦人は、昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻を受け、混乱のうちに避難を開始した。開拓団は、前記根こそぎ動員等のため、ほとんど老幼婦女子だけという状況にあり、その避難行動は困難を極め、逃避行の過程で、ソ連軍の侵攻、飢餓、疾病、集団自決等によって多くの犠牲者を出した。
その後戦闘による混乱も、同年10月ころには収まり、他国軍に留用された軍人及び邦人の一部を除いた残留邦人は、避難行動から、逐次、越冬態勢に移った。
学校、寺院、病院等の公共の建物を利用して行われた越冬生活は、厳しい寒冷気候の下で、住居の狭あい及び不良、食糧、衣服の不足等のため、栄養失調症や伝染病の流行等のため多数の死亡者を出した。この越冬期間内の死亡者は、昭和20年12月末までに約9万名、昭和21年5月までに累計約13万名に及んだ。
ソ連の参戦に伴う避難行動の過程で生じた極度の混乱、それに引き続く昭和20年冬の越冬生活、更には国民政府と中国共産党間の国共内戦による混乱などにより、肉親等と死別又は生き別れた婦女子のうち自活の手段を失った者は、やむを得ず現地住民に救いを求め、あるいはその妻等となり、また、多数の子供が、両親を失って孤児となり、あるいは親が養育できないために現地住民に託されるなどして、中国に在留することを余儀なくされた。
このように両親を失った孤児及び親が養育できないため現地住民に託した子供は、総数2500人以上と推定されている。
(4) 原告ら
原告らは、別表1〈省略〉記載のとおり、戦前、開拓団の家族等として満州国に移住した者又はその子であって、昭和20年8月9日のソ連の侵攻後に、孤児となって(同年8月15日の敗戦時の年齢・0歳から16歳)、中国に残留した後、昭和45年8月から平成12年4月にかけて、それぞれ日本に永住帰国(引揚げ)した。
原告らの永住帰国時の年齢は32歳から61歳であり、原告らが敗戦時から永住帰国時まで中国で生活した期間は25年から55年である。
なお、亡X14(原告番号14)は、平成16年10月11日死亡し、同人の妻である原告A、子である原告B及び原告Cが相続した。
2  日本政府の中国在留邦人への対応等(引揚げ、調査等)
(1) 終戦後の状況
ア(ア) 日本政府は、昭和20年8月15日、終戦対策処理委員会を設置し、同月30日、引揚者に対する具体的援護措置を示した「外地(樺太を含む。)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱」を決定した。
日本は、同年9月2日、連合国側との間で、降伏文書に調印した。
また、同日、GHQが発した指令第1号(陸海軍一般命令第1号)により、各地の日本軍部隊は、それぞれの地区の連合国軍司令官のもとに降伏することとなり、その結果、軍人、在留邦人を含めたすべての日本人は各外国軍隊の支配下に入り、旧満州地区は、ソ連軍管理地域となった。なお、ポツダム宣言には、軍人軍属の復員について「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたるのち、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的生活を営むべし」との条項(9項)があり、指令第1号はこの条項を踏まえたものであったが、一般人の引揚げについては、日本への引揚げを規定するような包括的な命令はなかった。
(イ) 日本政府は、昭和20年9月7日、「外征部隊及び居留民帰還輸送等に関する実施要領」を決定し、海外残留一般邦人の保護及び引揚者の受入れ援護等に関する措置についての基本的事項を示し、同月20日に「引揚民事務所設置に関する件」を、同月24日に「海外部隊並びに海外邦人帰還に関する件」を、更に同年10月4日に「海外部隊及び海外邦人に対する食糧、衣料、衛生材料其の他所要物資の補給並に宿営施設に関する件」を決定し、独自の立場で引揚援護の具体的施策を定め、実施した。
しかし、連合国の占領軍の日本進駐とともに、引揚援護業務も日本政府独自の業務としてではなく、占領政策の一環としてGHQの管理下で行われることとなり、同月18日、GHQの指示により、厚生省(省庁名は当時のもの。以下同じ。)が引揚げに関する中央責任官庁に指定された。
昭和20年10月25日、日本政府の外交機能は全面的に停止され、外国との交渉は、GHQを通じて行うか又はGHQが日本政府に代わって行うこととされた。このような状態は、連合国と日本政府との間で調印された日本国との平和条約(昭和27年条約第5号。いわゆるサンフランシスコ平和条約)の発効により、昭和27年4月28日に、日本が主権を回復するまで続いた。
イ GHQは、海外から引揚者の受入れのため日本側の執るべき措置の方針や具体的方法等について、日本政府に対し、その都度個別に指令を出していたが、昭和21年3月16日、これらの指令を一本化して「引揚に関する基本指令」を発した。
引揚者の輸送は、GHQの立案する引揚計画及びソ連政府からGHQへの通告に基づく輸送計画に従って実施され、GHQは、その輸送に当たり、各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り、軍人軍属の復員及び緊急を要する地域の邦人の引揚げを優先し、一般邦人については、各国との協定によって順次帰還させる方針をとった。しかし、ソヴィエト極東軍総司令部においては、GHQの上記方針は受諾されなかった。
日本政府は、ソ連との一切の通信手段が途絶していたため、GHQを通じて、ソ連軍占領下の在留邦人の保護を要請した。しかし、ソ連軍は、在留邦人の本国送還について何らの措置も執らないまま、昭和21年4月ころ、旧満州地区から撤退した。
(2) 前期集団引揚げ
昭和21年4月、ソ連軍が旧満州地区から撤退した後、中国東北保安司令官(国民政府軍)とアメリカ軍代表との間に、同年5月11日、在満日本人の本国送還に関する協定が成立し、更に同年8月には、中国共産党軍とアメリカ軍との間に、中国共産党軍が管理する地域における日本人の本国送還に関する協定が成立した。
上記各協定に基づいて、昭和21年5月から昭和23年8月までの間に、4期に分けて、大規模な集団引揚げが実施され、これにより約104万人の日本人が帰国した。
その後、国民政府軍と中国共産党軍の内戦の激化、昭和24年10月1日の中国共産党による中華人民共和国の樹立、日中国交断絶等の事情により、集団引揚げは中断された。以後、中国政府(中華人民共和国政府)の特別の帰国許可を得るなどして個別に引揚げが行われるようになった。
(3) 後期集団引揚げ
ア 日本政府は、GHQの「引揚に関する基本指令」に基づいて、その指揮監督の下に引揚業務を実施してきたが、昭和27年4月28日、日本国との平和条約の発効により主権を回復し、これに伴い、上記基本指令は失効した。
これに先立つ同年3月18日、日本政府は、引揚者の輸送、受入援護等の取扱いについて「海外邦人の引揚に関する件」を定め、自主的業務として、海外邦人の引揚援護を行うこととした。
しかし、旧満州地区からの引揚げについては、日本政府は、中国(中華人民共和国)と外交関係を有していなかったため、外交ルートによる実施は困難であった。
同年10月1日、中国政府がラジオ放送(北京放送)で帰国を希望する残留邦人の帰国の援助を表明したことを契機として、中国側の中国紅十字会と日本側の日本赤十字会、日中友好協会及び日本平和連絡会(以下、これらを併せて「引揚3団体」という。)との間で、民間レベルでの引揚げに関する会談が重ねられ、昭和28年3月5日、日本側と中国側との間で「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」(いわゆる北京協定)が成立した。
この北京協定に基づいて、中国地域からの集団引揚げが再開され、昭和28年3月から同年10月までに、第1次から第7次までの集団引揚げが実施され、約2万6000人が帰国した。
中国紅十字会は、同年11月、引揚3団体に対し、日本居留民の集団引揚げの打切りを通告した。
その後、昭和29年9月27日に集団引揚げ(第8次)が再開され、昭和33年7月(第21次)まで集団引揚げが実施された。昭和28年3月から昭和33年7月までの21次にわたる集団引揚げにより、3万2506人の日本人が帰国した。中国紅十字会は、引揚3団体に対し、第21次の引揚げをもって集団引揚げを終了する旨伝え、以後、個別引揚げに移行した。
イ 日本が昭和27年4月28日に主権を回復した後、昭和33年7月に後期集団引揚げが終了するまでの間、以下のとおり、日本政府と中国政府との間で直接交渉等があった。
(ア) 在ジュネーブ日本総領事は、昭和30年7月、閣議了解に基づいて、在ジュネーブ中国総領事に対し、現在中国に残留している日本人のうち、帰国を希望している者の帰国援助と消息不明となっている日本人の状況調査について、人道上の問題としてできる限りのことをされたい旨の覚書を手交した。
在ジュネーブ日本総領事は、同年8月、中国側から声明を伝えられたが、その内容は、国交正常化交渉についての提案にとどまった。
同年9月、ジュネーブで開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合において、中国紅十字会代表から約200人の日本人の帰国について準備をしている旨の発言があった。
日本政府は、同年10月、中国側に対し、上記発言等の事実関係の確認及び事実であれば、日本政府又は日本赤十字社で帰国者を受け入れる用意のあることを申し入れた。
在ジュネーブ日本総領事は、同年11月、中国側から回答を得たが、従来どおり国交正常化に言及しているにとどまり、引揚げに関する日中政府間交渉は進展せず、中断した。
その後、同年12月、上記約200人のうちの一部の者の引揚げが、従来の集団引揚げの方式により行われた。
(イ) 中国紅十字会は、昭和31年5月29日、引揚3団体に対し、「日本人戦犯のうち、起訴を免除された多数の者を5回に分けて釈放するが、これらの問題について協議するため代表を派遣されたい。」との通告をし、引揚3団体の代表は、同年6月24日から同月28日まで、中国紅十字会代表と会談を重ね、共同コミュニケ(いわゆる天津協定)に調印した。この協定により、昭和31年7月(第13次)から昭和32年5月(第16次)まで、5回の集団引揚げが行われた。
(ウ) 在ジュネーブ日本総領事は、昭和32年5月、在ジュネーブ中国総領事に対し、中国地域の未帰還者3万5671人の名簿を手交し、現在生存している者については現状を明らかにし、既に死亡している者についても、できる限り調査して欲しい旨申入れをした。これに対し、同年7月25日、中国側から、現在中国には、行方不明というような日本人は存在しない、中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は、中国政府として何ら責任を負うものではない、(日本の)岸政権がとっている最近の各種措置は、中国に対し非友好的である旨の回答がされた。
同年8月29日、留守家族団体全国協議会会長(有田八郎)は、北京を訪れ、周恩来総理及び中国紅十字会会長と会談をし、その際、日中両国は、今日まで国交を回復していないため、中国側は現在中国にいるおよそ6000人の日本人名簿を渡すことができないが、確実な根拠資料を添えて引揚3団体等から、個別的な申請があれば、中国紅十字会は必要な協力を与え、調査する用意があること等の確認を行った。
その後、留守家族団体全国協議会、引揚3団体等は、中国側(中国紅十字会)に対し、未帰還者の消息調査を依頼し、その一部(個々の留守家族からの直接の安否照会分を含む。)について、残留者名簿等により回答を得た。
(4) 個別引揚者に対する船運賃の国庫負担等
被告は、個別引揚者の経済的負担を軽減する目的で、未帰還者の引揚方策の便宜処置として、昭和27年3月1日から、個別引揚者の帰国に要する船運賃の国庫負担制度(乙105)を実施した。
その後、被告は、中国において帰国を希望しながら居住地から出境地(出港地)までの旅費を支弁することが困難であるため事実上帰国できない者の引揚促進を図る趣旨で、昭和37年6月1日から、留守家族の申請により、上記旅費を日本赤十字社を通じて帰国希望者に支給する制度(乙106)を実施した。
(5) 未帰還者調査について
ア 終戦から昭和29年ころまでの調査
(ア) GHQが日本人の引揚げの促進を占領政策の当面の目標とし、南方諸地域及び中国本土からの集団引揚げが行われ、昭和25年ころまでに、その大部分が終わったが、なおも生死不明の多くの未帰還者のあることが明らかとなった。
その中で、被告は、留守家族からの未引揚邦人届(未帰還者届)の収集、帰還者から覚書を収集して行う消息不明者の個人究明、現地からの通信の収集、各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備、残留者の状況に関する各般の調査、満州開拓団に関する調査等を行ってきたが、占領下の各種の制約及び終戦直後の国内情勢の混乱等のため、本格的な調査業務の実施までには至らなかった。
なお、昭和25年5月1日現在の未帰還者の統計資料(甲総31の1、2)によれば、未帰還者の総数は、34万0585人で、このうち「満州及び関東州」における未帰還者は、生存資料のある者5万3948人、死亡者15万8099人、生死不明者2万6492人の合計23万8539人であった。
(イ) 昭和28年8月1日、未帰還者留守家族等援護法(昭和28年法律第161号)が公布施行された。同法は、未復員者給与法及び特別未帰還者給与法を廃止し、「一般職の職員の給与に関する法律」に所用の改正を加え、未帰還者の留守家族そのものを対象とし、これまで行われていた各種の給付と同様の援護を目的としていた。
未帰還者留守家族等援護法1条は、「この法律は、未帰還者が置かれている特別の状態にかんがみ、国の責任において、その留守家族に対して手当を支給するとともに、未帰還者が帰還した場合において帰郷旅費の支給等を行い、もつてこれらの者を援護することを目的とする。」と規定し、同法2条1項は、「この法律において「未帰還者」とは、左の各号に掲げる者であつて、日本の国籍を有するものをいう。」と規定し、「もとの陸海軍に属していた者(もとの陸海軍から俸給、給料又はこれに相当する給与を受けていなかつた者を除く。)であつて、まだ復員していないもの(以下「未復員者」という。)」(同項1号)又は「未復員者以外の者であつて、昭和二十年八月九日以後ソビエト社会主義共和国連邦、樺太、千島、北緯三十八度以北の朝鮮、関東州、満洲又は中国本土の地域内において生存していたと認められる資料があり、且つ、まだ帰還していないもの(自己の意思により帰還しないと認められる者及び昭和二十年九月二日以後において、自己の意思により本邦に在つた者を除く。)」(同項2号)と規定している。同法は、未帰還者及び留守家族に対する援護の措置として、留守家族手当の支給(5条)、帰郷旅費(15条)、障害一時金の支給(26条)等について定めている。
同法29条は、「国は、未帰還者の状況について調査究明をするとともに、その帰還の促進に努めなければならない。」と規定している。
この趣旨に基づき、昭和29年4月、厚生省設置法の一部改正により、従来旧陸海軍関係の未復員者の調査は各残務処理機関が、未引揚邦人の調査は外務省が別個に行っていたものを、新たに厚生省の付属機関(未帰還調査部)を設置して一元的に実施することとなった。
イ 昭和30年ころ以降の調査
(ア) 被告は、旧満州地区の一般邦人及び開拓団員の調査について、日ソ開戦前における職域、隣組及び開拓団等ごとにその人員、人名を把握し、次いで行動群調査によりその足取りを追い、この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし、未引揚邦人の個人ごとの最終消息を基にして個人究明を行い、生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査を行っていた。具体的には、引揚上陸地における帰還者に対する聴取調査、帰還者に対する通信調査、招致調査及び探訪調査、留守家族等からの資料収集等を実施した。
被告は、昭和28年3月の後期集団引揚げ再開後も、帰還者からの情報をもとに残留者の調査を実施した。しかし、中国人の社会に同化して残留している者の消息等は明らかにすることができなかった。
これらの残留者を把握するため、昭和32年ころから、現地残留者から留守宅等に通信のある者及び未帰還者のうち一時帰国し、再渡航した者等で住所の明らかな者に対し、留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。なお、当時外交関係を有していなかった日中両国関係においては、現地調査は困難であった。
(イ) 昭和30年代に至り、各地の引揚げも終末に入り、留守家族団体から未帰還者調査の徹底、特に国の十分な施策を伴った未帰還者の最終的な処理等について強い要望が起こり始めた。
一方、未帰還者留守家族等援護法に基づいて支給される留守家族手当は、同法の施行後6年を経過した昭和34年8月1日以降においては、「過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない未帰還者」の留守家族に対しては、支給しない建前であり、この留守家族手当支給終了の時期である昭和34年7月末までに未帰還者の調査究明を完結することが望ましく、その必要もあったが、事実上は不可能に近かった。
従来、未帰還者の死亡処理は、戸籍法89条(事変による死亡)の規定に基づく取調官公署による「死亡の報告」によって行われていたが、「生存不明者」については、この要件に該当しないため、「生存不明者」の死亡処理は、失踪宣告制度(民法30条)によって行われていた。
昭和32年ころから、国会、留守家族団体等の間で、未帰還者の最終処理を中心とする諸問題について議論が続けられた。
同年12月17日、死亡推定措置等を盛り込んだ厚生省試案(「死亡したものと推定される未帰還者に関する措置」)が公表され、引揚同胞対策審議会に諮問されたが、留守家族団体代表から反対意見が出された。
昭和33年5月2日、未帰還者問題処理閣僚懇談会において、「未帰還者に関する措置方針」が申合せ事項として定められた。上記申合せ事項は、厚生省試案に比べて、未帰還者調査の徹底、留守家族に対する弔慰の意を表すること、昭和34年8月以降も留守家族手当の支給は、今後の未帰還者調査の状況に応じ、所用の措置を講ずること等の点において、留守家族団体の従来の要望を取り入れたものであり、また、厚生省試案における死亡推定措置制度を取りやめ、終戦前後に消息を絶った者等、死亡の公算の高い未帰還者については、留守家族の心情を斟酌の上、国又は都道府県知事が失踪宣告を申し立てる途を開くものであった。
昭和33年12月、閣議了解に基づいて、国と都道府県とが協働して、帰還者及び海外残留者に対し、広報機関や関係各種団体の協力を得て、国内及び国外にわたり、未帰還者の一斉特別調査を実施した。
在外公館を通じて行った現地残留者に対する国外調査(国外通信調査)によりソ連地域や南方諸地域については生存残留者の確認や消息資料を得ることができたが、中国については、国交がなく日中両国政府間の交渉による未帰還者の消息調査は未だ実現していないなどの諸般の関係から、名簿等を現地残留者に対して一斉に発送して調査することは見合わせ、日本赤十字社から、中国紅十字会に対して、現地残留者の内地向け通信に協力方を申し入れるにとどめたが、その結果を得られなかった。
厚生省は、未帰還者に関する特別措置の法律案についての検討を進め、昭和33年12月17日、要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問したところ、同審議会が、原則的に、厚生省案に賛意を表したので、上記要綱案に基づく法律案の起草、国会審議を経て、未帰還者に関する特別措置法(昭和34年法律第7号)が制定され(昭和34年3月3日公布)、同年4月1日に施行された。
ウ 未帰還者に関する特別措置法の概要及び運用状況
(ア) 未帰還者に関する特別措置法の概要は、次のとおりである。
同法1条は、「この法律は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者について、特別の措置を講ずることを目的とする。」、同法2条1項は、「未帰還者留守家族等援護法第2条第1項に規定する未帰還者(以下「未帰還者」という。)に係る民法第30条の宣告の請求は、厚生大臣も行うことができる。」、同条2項は、「前項の請求をする場合には、厚生大臣は、当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない。」、同条3項は、「第一項の規定による厚生大臣の請求に基く民法第30条の宣告(以下「戦時死亡宣告」という。)の取消の請求は、厚生大臣も行うことができる。」と規定している(なお、平成11年法律第160号による同法の改正により、同法中の「厚生大臣」が「厚生労働大臣」に改められた。)。
戦時死亡宣告を受けた者の遺族に対する援護の措置として、未帰還者が戦時死亡宣告を受けたときの遺族に対する弔慰料の支給(同法3条)、弔慰料の額(戦時死亡宣告を受けた者1人につき3万円、当該戦時死亡宣告を受けた者が13条1項の規定の適用を受ける者である場合においては2万円)(同法6条)、戦傷病者戦没者遺族等援護法等の適用(同法13条)について規定する。
戦時死亡宣告の請求を行う厚生大臣の権限は、未帰還者の本籍地の都道府県知事に委任されている(同法14条、未帰還者に関する特別措置法施行令1条の2)。
昭和38年の改正により、未帰還者に関する特別措置法の適用対象を未帰還者とみなされる者(同法13条の2)に拡大している。未帰還者とみなされる者は、「中国本土、フイリピン諸島その他の政令で定める地域内においてそれぞれ当該地域ごとに政令で定める日以後生存していたと認められる資料があるが、諸般の事情からみてすでに死亡していると推測される者(昭和20年9月2日以後自己の意思により帰還しなかつたと認められる者及び同日以後において自己の意思により本邦に在つた者を除く。)」(同条1号)、又は「未帰還者留守家族等援護法2条1項2号に規定する地域(中国本土の地域を除く。)又は前号の政令で定める地域内においてそれぞれ昭和20年8月9日又は同号の政令で定める日前に生存していたと認められる資料があるが、それぞれこれらの日以後生存していたと認められる資料がない者で、諸般の事情からみて同日以後に死亡したと推測されるもの」(同条2号)で、かつ、日本国籍を有する者である。
(イ) 運用状況
未帰還者に関する特別措置法の施行に関する実施要領等の概要(乙61ないし65)は、① 厚生省保有の資料(最終消息資料等)により、未帰還者のうち、未帰還者留守家族等援護法2条1項各号に該当すると認められる者について、「該当予定者」として、都道府県を通じて、遅滞なく戦時死亡宣告の請求に関する留守家族の意向調査を行うこととし、留守家族の同意を得て、戦時死亡宣告の審判の申立てを行うものとする、② 該当予定者の留守家族の意向調査を行うに当たっては、できる限り面接の上、個人の調査経緯内容、内外にわたって行った調査究明の概況、生存残留者の実体、戸籍抹消後における処遇等につき十分説明し、納得させて同意を得ることに努める、同意しない家族については、面接の上説得するとともに同意しない真因を十分に把握してその解明に努める、留守家族が同意する場合は、同意書の提出を求めた後、厚生省に報告して、戦時死亡宣告の請求に係る該当者の決定の通知を受け、都道府県知事名で、家庭裁判所に対し、戦時死亡宣告の審判の申立てを行うものとする、③ 戦時死亡宣告が確定した後において生存の事実が判明したこと等戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じた場合において、利害関係人が当該宣告の取消しの申立てをしないときは、都道府県からの通知を受け、厚生大臣が戦時死亡宣告の取消審判の申立てを行うものとする、というものである。
戦時死亡失踪宣告の審判が確定すると、当該未帰還者は、最終消息のあった時から7年を経過した日又は危難が去った時から3年を経過する日(ただし、昭和37年法律第9号による改正後は危難が去った時)に死亡したものとみなされ、戸籍から除籍される。
昭和34年4月1日から昭和51年12月31日までの間における戦時死亡宣告の審判確定者は、合計1万9834名で、このうち、中国地域のものは1万4100名である。
上記1万4100名の審判確定者の内訳は、昭和34年度から昭和39年度までが1万2035名、昭和40年度から昭和46年度までが1800名、昭和47年度から昭和51年12月31日までが265名である。
エ 未帰還者に関する特別措置法施行後から日中国交正常化までの調査等
(ア) 昭和37年度未帰還者等に関する調査整理業務実施計画(乙62)及び昭和38年度未帰還者等に関する調査等業務実施計画(乙61)によれば、① 現に生存している可能性の多い者については、外地に居住している好資料保有者に対する通信照会、最近の帰還者からの資料の収集又は留守家族等につき未帰還者からの通信の状況を承知する等、国の内外を通ずる調査により、その者の現在生存の事実及び帰国意思に関する資料を収集する、この調査は、中共地域に最終の資料のある者を重点として実施する、② 現に生存している可能性が少ないと認められる者については、その者の最終消息資料の内容に応じ、全般資料を基礎として既得の個人審査を行い、具体的な調査計画のもとに究明を促進し、死亡を確認し得る資料又は特別措置法2条1項に該当すると認められる資料を収得する、③ 戦時死亡宣告審判確定者等の調査については、戦時死亡宣告審判確定者等死亡を確認していない者の諸資料は、他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し、機会あるごとに死亡時期、場所、死因、遺骨等について調査するものとされていた。
(イ) 日中両国は、昭和47年9月29日、両国首相が北京において共同声明(「日本国政府と中華人民共和国政府との共同声明」)を発表し、国交回復(国交正常化)した。
民間ボランティアは、国交断絶中も独自のルートを通じて、残留孤児の帰国のための活動を継続していたが、昭和48年、民間の篤志家が「日中友好手をつなぐ会」を結成し、その後「日中友好手をつなぐ会」を中心として、民間の団体が活発に肉親捜しのための活動等を展開していった。
このような民間団体の活動が継続し、マスコミ各社も民間団体の活動を報道し、昭和49年8月ころから、孤児の手掛かりの特集の連載を始めるなどした。
3  日中国交正常化以後の中国残留孤児の身元調査について
昭和47年9月の日中国交正常化を契機として、残留孤児本人又は身元不明者の身元調査に協力している残留者からの日本国内への手紙による通信が活発化し、残留孤児等からの身元調査依頼が在北京日本国大使館、厚生省、都道府県等に数多く寄せられるようになり、また、中国からの永住帰国者や一時帰国者が急激に増大したことに伴い、帰国者からの中国残留孤児についての多くの情報も寄せられた。
このような経緯から、被告は、日中国交正常化後、保有資料による確認調査のほか、公開調査、訪日調査及び訪中調査等の中国残留孤児の身元調査を実施してきた。
(1) 保有資料による確認調査
被告は、昭和47年9月の日中国交正常化以後、中国残留孤児やその養父母等から寄せられた手掛かり資料を基に、厚生省が保有する旧満州地区の各地に入植した開拓団の名簿、戦時死亡宣告により除籍された者の名簿、旧満州地区から引き揚げた世帯の在外事実調査票、関東軍に所属した軍人軍属の名簿等の各種資料を照合して該当者と思われる者を抽出し、都道府県を通じて在籍の有無及び家族に確認を求めるなどの方法により孤児の身元調査を実施した。
また、厚生省の職員は、昭和48年3月、未帰還者、戦時死亡宣告により除籍された者、自己の意思により帰還しないと認められて未帰還者から除かれた者の名簿に基づいて、中国政府の許可を得て、中国での現地調査を行った。上記名簿は、在北京日本大使館を通じて中国政府に提出された。
(2) 公開調査について
厚生省は、孤児は幼時に肉親と離別し、調査の手掛かりの得られない者が少なくないため、保有資料のみをもってする究明には限界があることから、広く一般からの情報を得るため、昭和50年3月から、報道による公開調査を実施した。公開調査は、報道機関の協力を得て、孤児の顔写真、特徴、肉親と離別した時の事柄などを新聞、テレビ等によって一般に公開して孤児の情報を求めた。
公開調査は、昭和50年3月から昭和56年1月まで計9回実施され、437人が公開され、その結果、延べ166人の孤児の身元が確認された。
(3) 訪日調査(集団訪日調査)について
ア 厚生省は、公開調査で知らされる手掛かり資料だけでは肉親であるとする決め手が乏しいため実際に孤児と対面して身体の特徴、孤児が記憶している手掛かりを直接確認したいなどの要望が寄せられ、また、在日親族関係者の高齢化が進んでいる状況などから、昭和54年9月ころから、身元が確認できない孤児について、一定期間日本に招き、報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査の実施についての具体的な検討を始め、昭和56年3月から実施した。
訪日調査の概要は、① 孤児から寄せられる肉親捜しの依頼と手掛かり資料に基づいて、訪日調査名簿を作成し、これを外交ルートを通じて中国政府に送付し、中国政府において日本人孤児と確認されれば、訪日調査対象者として日本政府に通知し、このようにして日中両国政府で孤児と確認された者だけが、訪日調査に参加する、② 訪日孤児が確定すると、各種資料を照合しながら肉親関係者の抽出を行うとともに、報道機関の協力により、孤児の手掛かりを公表して、肉親関係者が名乗り出ることや情報の提供を求めるなど、訪日期間中の調査効果を高めるための準備を行う、③ 孤児が訪日した段階で、厚生省係官が、手掛かりの正確性の確認又は補足のため、直接本人からの聞き取り調査(面接調査)を行う、④ 公表した手掛かりなどから肉親関係者が名乗り出た場合には、孤児と直接確認して身元の確認(対面調査)を行う、⑤ 決め手に乏しく当事者双方が明確に判断できない場合や1人の孤児に対して複数の関係者が名乗り出た場合などにおいては、当事者双方の希望により、血液鑑定(平成2年以降はDNA鑑定)を行う、というものである。
イ 訪日調査は、昭和56年3月から平成11年まで計30回実施され、2116名の参加者のうち、670名の身元が判明(判明率31.7パーセント)した。昭和56年3月の第1回目の訪日人員は47名であったが、その後調査の規模が拡大し、同月から昭和62年3月までの間に1488名が訪日し、570名の身元が判明している。
(4) 訪中調査
ア 日中両国政府から中国残留孤児と確認されていながら、身体等に障害を有するため訪日調査への参加が困難な孤児について、平成3年及び平成4年に、厚生省職員が訪中して、中国政府の協力の下に、当該孤児から、直接面接して聞き取り調査を行い、公開調査のためにビデオ撮影を行い、その後の訪日調査に併せてこれらの収集したビデオ等の資料を報道機関に公開した。上記調査(調査対象者18名)の結果、3名の身元が判明した。
イ 日中両国政府のいずれかが中国残留孤児と確認できない者について、平成6年度以降、厚生省職員が訪中して、中国政府の協力の下に、当該孤児から、直接面接して聞き取り調査を行った。その結果、平成11年度までに、中国残留孤児である蓋然性が高いと判断された53名が訪日調査に参加し、4名の身元が判明した。
(5) 身元未判明者のキャラバン調査等
被告は、昭和62年8月24日、元開拓団の役員等から構成される「身元未判明孤児肉親調査委員会」を厚生省に設け、3か年計画で各都道府県に身元未判明孤児肉親調査委員及び厚生省職員とで編成する「肉親捜し調査班」を派遣し、肉親関係者や開拓団関係者等と面接して情報収集を行う調査(いわゆるキャラバン調査)を行った。昭和62年度から平成元年度の間に、25回(各約10日間)にわたり調査を行った。その結果、有力情報が得られた15名のうち、12名が再度訪日調査に参加し、8名の身元が判明した。
平成2年度以降、身元未判明孤児に対する肉親調査事業を継続するため、開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し、肉親関係者等からの情報収集を実施した。
(6) 訪日対面調査
日中両国政府は、平成12年3月29日、中国残留孤児の訪日肉親捜しの今後の実施方法に関する口上書を取り交わし、平成12年度から、事前に中国現地における共同調査を行い、日本で孤児の情報を公開し、肉親情報が得られた者のみを訪日調査に招致し、肉親との対面調査を行い、他の者は訪日調査を経ることなく、中国残留孤児として直接帰国できる仕組みに改めた。
(7) 中国残留日本人孤児問題懇談会の提言
ア 厚生省は、昭和57年3月、孤児問題の早期解決を図るため、広く有識者の意見を聴いて具体的な施策を検討する必要があるとの認識の下に、厚生大臣の私的諮問機関として、日本経済新聞社顧問圓城寺次郎を座長とし、帰国者三互会会長和泉清一、日中孤児問題連合会顧問坂口遼、日中友好手をつなぐ会会長山本慈昭ほか、各界の有識者(合計18名)で構成する「中国残留日本人孤児問題懇談会」(以下「懇談会」という。)を設けた。懇談会は、昭和57年8月26日、総合的な孤児対策を盛り込んだ「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書(乙88)を厚生大臣に提出した。
上記報告書には、「孤児問題についての基本的な考え方」として、「孤児問題を考えるに当たっては、孤児がこのように過去の不幸な戦争のなかで肉親と離別し、昭和47年の日中国交正常化までの長い間、自分の身元を明らかにしたいと思いながらその方法さえないまま、中国で暮らしてきたということを忘れてはならない。」、「孤児が自分の身元を明らかにしたいと願うことは、人間の本性に立った自然な気持ちであり、彼らが孤児となった事情を考えれば、身元調査の依頼を受けた日本政府が全力を挙げて肉親探しを行うべきことは当然である。また、孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には、政府、国民が一体となって、その受入れ、日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない。」、「肉親探しを通じて、日中両国間の交流が深まっているが、社会体制が異なっていることもあり、中国にいる孤児たちの間に、日本社会がバラ色で、日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような、事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが、それだけに、自分の生活は自分の手で築いていかなければならず、既に中年に達している孤児が、言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め、地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが、それはあくまでも側面的な援助であって、最終的には孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか、中国に留まったほうが幸せかは、そのような日本社会の実情をよく知った上で、孤児自身がよく考えて判断することであるが、日本国民も孤児の判断を誤らせないように、日本社会の実情を孤児に正しく理解させるよう努力しなければならない。孤児も、帰国を決意する以上は、多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう。」、「このようにして日本社会に定住し、自立した孤児たちは、日中両国の生活、文化にも通じている貴重な存在として、将来は、ますます深まる日中友好の「掛け橋」としての大きな役割を期待できよう。」などの記載がある。上記報告書には、① 肉親探しの計画的推進(昭和58年度以降3か年計画の訪日調査で肉親捜しを完了させること。1回の調査対象孤児60人程度、年3回)、② 養父母等の扶養(扶養費の貸付制度、送金代行制度)、③ 養父母や中国社会に対する感謝、④ 孤児等を帰国後直ちに一定期間入所させ、集中的に日本語教育を含めた生活指導を行う帰国者センターの設置など帰国後の定着化対策、⑤ 身元の判明しない孤児の受入れ(身元引受人制度の発足)、⑥ ボランティア団体による民間援護活動の推進について提言している。
イ 懇談会は、昭和60年4月以降、帰国後の定着自立促進対策を中心に討議を行った上、同年7月22日、厚生大臣に対し、「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を提出した。
上記報告書には、「孤児問題についての基本的な考え方」として、「肉親捜しの依頼があった孤児については、日本政府が全力を挙げて肉親捜しを行うとともに、日本への帰国を望む孤児については政府及び国民が一体となって受け入れ、日本社会への定着のための援助を行う必要があること」、「帰国した孤児が定着し、自立するためには、孤児自らが努力して困難を克服していかなければならないことはもちろんであるが、政府、地方公共団体は言葉と文化の異なる日本に帰国した彼等の直面する様々の困難を少しでも軽減するために、物心両面にわたる施策を積極的に推進する必要があること。また、孤児の肉親も、言葉と文化の違いに起因する様々の摩擦を忍耐強く克服して、孤児と共に問題を乗り越えていくことが必要であること」などの記載があり、① 肉親捜しの早期完了(訪日調査、訪中調査等)、② 養父母に対する扶養費の支払等、③ 定着自立促進対策の総合的推進(中国帰国孤児定着センターの拡充及び指導内容の充実、落ち着き先における日本語指導及び生活指導の強化、住宅対策、子弟等の就学対策、就労対策、民間援護活動等)について提言している。
ウ 厚生省は、懇談会の前記各報告書の提言を中国残留孤児問題の施策の指針として採用することとし、前記提言を受けて、後記のとおり、昭和59年2月に中国帰国孤児定着促進センターの開設、昭和60年に身元未判明孤児を対象とする身元引受人制度の実施、昭和61年から残留孤児の養父母に対する扶養費の支給等の施策を行っている。
4  残留孤児の帰国手続及び帰国援護
(1) 残留孤児の帰国状況
日中の国交が正常化した昭和47年9月29日から平成15年3月31日までの間に、中国から永住帰国した残留孤児は2472人(同伴家族を含めて9025人)、一時帰国した残留孤児は1048人(同伴家族を含めて2066人)である。
残留孤児の永住帰国者は、昭和61年度から平成2年度までにピークを迎え(1097人。同伴家族を含めて4271人)、以後は年々減少傾向にある。
(2) 帰国手続
ア 出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)61条は、本邦外の地域から本邦に帰国する日本人は、有効な旅券(有効な旅券を所持することができないときは、日本の国籍を有することを証する文書)を所持し、その者が上陸する出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官から帰国の確認を受けなければならないと規定し、同法6条2項は、前項本文の外国人(本邦に上陸しようとする外国人(乗員を除く。)で、有効な旅券で日本国領事官等の査証を受けたものを所持しているもの)は、その者が上陸しようとする出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官に対し上陸の申請をして、上陸のための審査を受けなければならないと規定している。
そして、同法7条1項は、入国審査官は、上陸の申請をした当該外国人について同項各号に掲げる上陸のための条件に適合しているかどうかを審査しなければならないと規定し、同条2項は、審査を受ける外国人は、上陸のための条件に適合していることを自ら立証しなければならないと規定し、同法施行規則6条別表第3において、立証のための資料の一つとして「身元保証人の身元保証書」の提出を求めることとされている。
また、外国人登録法3条は、本邦に在留する外国人は、本邦に入つたときは、その上陸の日から90日以内に、本邦において外国人となつたとき又は出生その他の事由により入管法第3章に規定する上陸の手続を経ることなく本邦に在留することとなつたときはそれぞれその外国人となつた日又は出生その他当該事由が生じた日から60日以内に、その居住地の市町村長に対し、外国人登録の申請をしなければならない旨規定している。
このため永住帰国者のうち、日本旅券を有する者又は帰国のための渡航書が発給された者については、日本人として帰国の手続が行われるが、中国旅券で入国しようとする者については、日本人としての帰国の確認を受けることができない限り、中国国籍を有するものとして入国手続をとらざるを得ず、また、外国人登録申請が必要とされた。
イ 昭和50年11月22日付け法務省管登第9660号通知(甲総49の1)は、中国旅券又は渡航証明書(駐中国日本大使館発給)を所持して中国から一時里帰り等の目的で入帰国する元日本婦人等日本人関係者について戸籍が除籍されていないことが判明した場合の登録事務の取扱いについては、外国人登録申請を行うよう指導し、当該人が、自己の日本国籍が記録上除籍されていないことを申し立てたときは、所轄の法務局等に日本国籍の有無について照会すること、日本国籍を有する旨回答を得た場合には、登録の無効措置等をとるとともに、最寄りの入国管理事務所において在留資格の抹消をするよう指導することとされた。
昭和57年1月23日付け法務省管登第826号通知(甲総49の2)は、前記通知による取扱いを改め、日本国籍の保有が確認されるまでは、登録事務上当該人を外国人と取り扱わざるを得ないが、国籍確認に要する期間を考慮し、入国後90日以内に法務局等から日本国籍の有無についての回答を得られる見込みのないときは、外国人登録法3条3項の「やむを得ない事由がある」場合に該当するものとみなし、当該人の申立てに基づき、申請期間を60日に限り延長して差し支えないこととされた。
昭和61年11月27日付け法務省管入第4542号通知(乙101)により、「終戦前渡中者(いわゆる残留孤児を含む。)」のうち、日本戸籍の存在が確認され、又は新たに日本戸籍への就籍が許可されたもの及びこれに同伴する一定範囲の家族については、身元保証書の提出を不要とし、在日関係者からの招へい理由書(身元未判明孤児で、定着促進センターに入所するものについては、本人からの帰国理由書をもってこれに代える。)及び戸籍謄抄本の提出があれば、中国旅券に在中国の日本公館限りで査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととされた。
このように中国残留孤児の帰国手続等は緩和されてきている。
(3) 旅費の国庫負担制度等について
ア 前記2(4)のとおり、中国から日本への引揚者に対しては、昭和27年3月1日から、個別に引き揚げる者の帰国に要する船運賃を国が負担し、昭和37年6月1日から、個別に引き揚げる者の中国国内の居住地から出港地までの旅費について、国が日本赤十字社に委託して負担していたが、昭和48年10月16日付け法務省援第1052号通知(乙84)により、中国からの引揚者及び引揚者に準ずる者(同伴する配偶者、未成年の子等の扶養親族)について、中国国内の旅費及び中国の出境地から日本までの船又は航空機の運賃を国庫負担とすることが明確にされた。
平成4年以降、引揚者に準ずる者の対象者の範囲が順次拡大され、身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯について、平成6年からは、高齢の本人と本邦で生活を共にするため同伴する成年の子及びその世帯も永住帰国援護の対象に加えられた。
イ 帰国旅費の申請手続は、引揚希望者の留守家族によって行われることとされたが、昭和59年3月17日、日中両政府間で中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書(乙85)が交換され、昭和60年に、身元未判明孤児の帰国が開始された以降は、身元未判明孤児については、日本永住帰国希望等調査票及び日本永住帰国のための旅費申請書を在中国日本国大使館に送付することとなり、他方、身元未判明帰国孤児以外については、帰国希望者が永住を目的として帰国を希望している旨の申立書(通信文で可)、中国に残る親族がいる場合は、新たな離別を避けるため、帰国希望者が永住の目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面を在日親族等に送付する取扱い(乙86)となった。
(4) 自立支度金の支給
昭和28年2月27日付け引揚援護庁援引第120号の1通知(乙4)に基づき、同年2月1日以後に本邦に永住の目的をもって引き揚げた引揚者に対し、帰還手当が支給されるようになった。昭和48年以降、帰還手当は順次増額され、また、昭和62年4月1日以降、従来の個人単位支給額に少人数世帯加算額を併せて支給されるようになり、帰還手当の名称も「自立支度金」と改められた。
(5) 養父母の扶養費の支給
昭和56年3月に始まった訪日調査により、肉親判明後、日本に永住帰国する孤児が増加したが、中国に残された養父母の生活の保障をどのようにするのか問題となった。現実に永住帰国した孤児が中国に残る家族を扶養することは極めて困難であることにかんがみ、「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」(昭和58年4月8日閣議了解)等に基づき、中国残留孤児の養父母の扶養費として、中国側と取り決めた一定金額を援助することとされた。
昭和59年3月17日、日中両政府間で交換された前記口上書(乙86)において、「日本国に永住帰国した孤児が、中国に残る養父母に対し、負担すべき扶養費の2分の1は、日本国政府が援助する。扶養費の標準額、支払方法等については、日中双方が別途協議する。」こととされ、昭和61年5月9日に交換された口上書(乙2の資料5)により、扶養費の具体的な金額、送金方法等について定められた。
この結果、上記口上書で定められた扶養費は、国と財団法人中国残留孤児援護基金が2分の1ずつ負担して、支払われている。
(6) 一時帰国援護
被告は、中国残留婦人等を中心として、日本への一時帰国を希望する者が存在する状況を踏まえ、昭和48年度以降、親族訪問、墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者に対し、中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給している。一時帰国旅費の援護は、当初一度限りの支給を想定していたが、昭和62年度以降随時その要件を改正し、平成7年度以降は前回帰国から1年経過すれば受給できることとしている。
なお、身元未判明孤児については、祖国訪問との位置付けにより、平成6年度以降、一時帰国旅費の援護を実施している。
5  永住帰国した残留孤児の自立支援策について
(1) 自立支援策の概要
ア 被告は、昭和21年4月25日、「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」を次官会議で決定し、海外引揚者について上陸後概ね1年間は援護を行うこととし、援護の機関を地方自治体(都道府県、地方事務所、支庁及び市区町村)と定めた。
各地方自治体は、帰国者向け一時宿泊施設を設置したり、引揚者相談所を設け、就職のあっせん、住居の世話等身近な生活問題の処理等を行っていた。
昭和47年9月の日中国交正常化以降、永住の目的をもって日本に帰国した中国残留孤児及びその家族が年々増加する中で日本社会へ定着して行く過程で、日本語習得の難しさ等の様々な問題が指摘されるようになり、日本の生活習慣や日本語を習得する訓練施設の設置要請が各方面から被告に寄せられるようになった。
被告は、昭和52年度から、中国帰国者に語学教材の配布を行い、また、同年度から、各都道府県に委託して、「引揚者生活指導員」(昭和62年度より「自立指導員」に改称)を中国帰国者の家庭に派遣している。
また、被告は、昭和54年4月1日から、中国帰国者について、帰国直後に、帰国後の援護の内容、各種行政機関の相談窓口等帰国後直ぐに必要とする事項についてのオリエンテーションを実施していた。
イ 被告は、厚生大臣の私的諮問機関である中国残留日本人問題懇談会(懇談会)の提言(昭和57年8月26日付け報告書。乙88)を踏まえて、昭和59年2月1日、中国残留孤児及びその同伴家族の帰国直後の日本における適応促進を目的として、帰国後の一定期間(4か月程度)、入所形式による日本語教育、生活指導等の援護を行う施設として、埼玉県所沢市内に、「中国帰国孤児定着促進センター」(平成6年4月に「中国帰国者定着促進センター」に名称変更。以下、この種の施設を「定着促進センター」という。)を開設した。
被告は、昭和62年8月1日以降、孤児の大量帰国に対処するため、5か所(北海道、福島県、愛知県、大阪府、福岡県)の定着促進センターを新たに開設した。その後、平成3年度には、孤児の帰国数が漸次減少したことにより、3か所(北海道、福島県、愛知県)の定着促進センターを閉所した。定着促進センターは、本来中国残留孤児を対象としていたが、平成5年度から中国残留婦人等の希望者も対象とし、更に平成6年度からは、高齢帰国者(65歳以上)の同伴子供世帯を国費援護の対象としたことに伴い、特に残留婦人等世帯の帰国増加が見込まれたことから、その受入対応策の一環として、所沢市の定着促進センターの分室を山形及び長野に設置し、平成7年度には、宮城県、岐阜県、広島県に新たな定着促進センターを設置した。
その後帰国者数の減少に伴い、定着促進センターは順次閉所され、現在は、埼玉県、大阪府及び福岡県の3か所が運営されている。
ウ 被告は、昭和63年6月1日以降、主として定着促進センターを修了した中国残留孤児をはじめとする中国帰国者及びその同伴家族の地域社会における定着自立の促進を図ることを目的として、「中国帰国者自立研修センター」(以下「自立研修センター」という。)を全国各地に設置し、一定期間(8か月程度)の通所形式により、日本語研修、生活相談・指導、就労相談・指導等を行うようになった。
自立研修センターの運営は、国が都道府県知事に委託して行われ、その設置都道府県(昭和63年度)は、山形県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、長野県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、広島県、高知県、福岡県、長崎県及び鹿児島県の15か所であった。
なお、昭和60年7月及び昭和62年7月に、中国残留孤児問題全国協議会から被告に対し、定着促進センターのほかに、「第二次センター」の設置が要望されていた。
被告は、平成7年度には、北海道、岩手県、福島県、東京都武蔵野市及び静岡県の5か所の自立研修センターを増設した。その後、平成11年に1か所(高知県)、平成12年に3か所(長崎県、静岡県、兵庫県)、平成13年に1か所(岩手県)、平成14年に3か所(東京都武蔵野市、福島県、鹿児島県)を閉所し、現在12か所の自立研修センターが運営されている。
エ 平成6年4月6日、「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(平成6年法律第30号。以下「自立支援法」という。)が公布され、同年10月1日施行された。
同法は、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的」とし(1条)、「国は、本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため、必要な施策を講ずるもの」とし(3条)、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため、必要な措置を講ずるもの」とし(4条1項)、「国及び地方公共団体は、中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に、策定し、及び実施するもの」と規定している(5条)。
同法は、施策として、中国残留邦人等が永住帰国する場合における国の永住帰国旅費の支給等(6条)、永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等の生活基盤の確立に資するために必要な資金(自立支度金)の支給(7条)、生活相談等(8条)、公営住宅の供給の促進(9条)、雇用の機会の確保(10条)、教育の機会の確保(11条)、就籍等の手続に係る便宜の供与(12条)、国民年金の特例(13条)、一時帰国旅費の支給等(14条)について規定している。
オ さらに、被告は、平成13年11月1日、自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として、東京都及び大阪府の2か所に「中国帰国者支援・交流センター」(以下「支援・交流センター」という。)を開設した。
このほか、被告は、昭和60年3月から、身元未判明孤児の社会への早期定着等を図ることを目的とした身元引受人制度、平成元年から自立支援通訳制度等の諸施策を実施している。
(2) 各種施策の内容の要旨
ア 自立指導員制度
被告は、各都道府県に委託して、昭和52年度以降、定着自立に必要な助言、指導等を行う「引揚者生活指導員」(昭和62年度からは「自立指導員」に名称変更)を、支援を必要とする中国帰国者の家庭へ派遣している。
自立指導員の派遣期間及び派遣日数については、派遣期間は帰国後1年間、派遣日数は24日とされていたが、派遣期間が昭和62年度に定着後2年間に、昭和63年度に定着後3年間に拡大され、また、派遣回数も適宜拡大されていった。
平成15年度現在、自立指導員の派遣期間は定着後3年間、派遣日数は1年目が84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内)、2年目が12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内)、3年目が12日以内で実施されている。
自立指導員は、中国語が理解でき、中国帰国者に深い関心と理解を持ち、日本社会への定着・自立に向けて積極的に協力できる民間の篤志家の中から選任し、その業務内容は、中国帰国者の日常生活等における諸問題に関する相談に応じ、必要な助言・指導を行うこと、市区町村、福祉事務所等の公的機関と緊密な連絡を保ち、必要に応じて帰国者等をこれらの窓口に同行して仲介すること、中国帰国者に対する日本語の指導、日本語教室等、日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと(昭和61年度以降)、職業訓練施設で受講している中国帰国者の相談に応じ、必要な助言・指導を行うとともに、技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮することなどである。
イ 定着促進センター
定着促進センターは、中国残留孤児が本邦に帰国した際に一定期間入所形式により集中的に日本語教育を含めた生活指導を行い、日本社会への定着を図ることを目的とされたもので、定着促進センターの業務は、財団法人中国残留孤児援護基金によって運営されている。
定着促進センターの入所期間は、帰国後4か月程度であり、この間、中国帰国者及びその同伴家族に対し、宿泊施設の提供、生活援助費の支給を行いながら、日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行っている。このほか、個別の就職相談・指導(昭和62年度以降職業相談員を配置)をはじめ、職業についての講話、公共職業安定所や職業訓練校の見学、職場体験実習、地域体験実習等を実施している。また、身元未判明帰国孤児については、就籍手続の説明・指導を実施している。
ウ 身元引受人制度
(ア) 懇談会の提言(昭和57年8月26日付け報告書)の中で、身元未判明孤児の受入れについて、「身元引受人」をあっせんする制度の提案がされた。また、昭和59年3月17日、日中政府間で「中国残留日本人孤児問題の解決に関する日中間の口上書」が交わされ、「日本政府は、孤児が希望する場合には、在日親族の有無にかかわらず、その同伴する中国の家族とともに日本への永住を受け入れる」ことが確認された。
被告は、昭和60年3月、身元未判明孤児及びその世帯員の日本社会への早期定着、自立更生を図ることを目的として、身元未判明孤児の身元を引き受けて相談相手となる身元引受人をあらかじめ登録し、身元未判明孤児にあっせんする身元引受人制度(乙13)を実施した。
この制度は、「中国残留日本人孤児であって、厚生省が実施した肉親探しのための訪日調査によっても身元が判明しないまま、永住の目的をもって本邦に帰国する者」(身元未判明孤児)を対象とし、身元引受人が、身元未判明孤児世帯の日常生活上の諸問題の相談、自立更生に必要な助言、指導を行うものとされ、身元引受期間は、孤児世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とした。
厚生省援護局長は、身元未判明孤児世帯が定着促進センターに入所中に、身元引受人登録者を当該孤児世帯に紹介し、双方の合意を確認の上、身元引受人として決定する取扱いをしている。
身元未判明孤児については、身元引受人の近隣に定住させることとなるため、残留孤児が帰国を希望する場合、被告は残留孤児から事前に居住地の希望を聞いて居住予定地の決定を経た上で、当該居住予定地に登録のある身元引受人との面談を行い、本人の了解を得た上で身元引受人をあっせんし、昭和61年以降は、本人の希望に応じて、定住地訪問も行っている。
また、昭和60年11月以降は、個人のほか、企業等法人も、平成元年度以降はボランティア等任意団体も身元引受人登録の対象とした。
(イ) 身元未判明孤児を対象とする身元引受人制度が導入されたことにより、入管法により必要とされた身元保証人を立てることができずに事実上帰国ができなかった身元未判明孤児につき、本人の意思で国費で帰国できる道が開かれた。
他方、身元判明孤児については、在日親族が自発的に孤児の身元引受けを行い、帰国申請手続をとることが前提とされていたが、年月の経過とともに近親の在日親族が亡くなっていたり、又は所在が不明となっている等の状況や家計の中心となる世代の交替等家庭の事情により、孤児の受入れに難色を示したり、明確に拒否したりするケースが増えてきた。
被告は、平成元年7月から、肉親(3親等内の親族で戸籍は回復されていないが、訪日調査等により肉親関係を確認された者を含む。)との血縁関係が遠い等の特別の事情のため、永住帰国できない身元判明孤児に対し、肉親に代わって帰国手続及び帰国後の定着自立に必要な相談、助言を行う特別身元引受人をあっせんする特別身元引受人制度(乙14)を実施した。
特別身元引受人の役割は、身元判明孤児世帯の帰国手続の遂行、生活上の諸問題の相談、定着自立に必要な助言、指導である。
平成6年1月以降は、特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接被告が行うこととし、その負担軽減を図った結果、特別身元引受人の役割は、未判明孤児に対する身元引受人と同様となった。
被告は、平成7年2月から、未判明孤児に対する身元引受人制度及び身元判明孤児に対する特別身元引受人制度を一本化した身元引受人制度(乙15)を実施した。
この制度は、本邦に永住帰国する中国残留邦人等(自立支援法2条1項に規定する者)のうち、在日親族がいない者(所在が不明の者を含む。)又は在日親族による身元引受けが行われない者に対し、在日親族に代わって帰国後の日常生活面での相談・助言等を行う身元引受人(団体を含む。)をあっせんする制度である。
エ 自立研修センター
自立研修センターは、中国帰国者を対象として、原則8か月程度(ただし、病気等やむを得ない事情がある場合には、4か月の延長可。日本語の再研修については2年以内)の期間、通所形式により、① 日本語研修(入所時の日本語習得の状況に応じて、2ないし4教室にクラス分けを行い、1日2.5時間、1週12.5時間を基準として、8か月412時間のカリキュラムを組み、日本語研修を実施。平成8年度以降、帰国後5年以内の者で、日本語の習得が不十分である者、又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に、自立研修センター退所後、1週7時間を基準として、2年以内の日本語の再研修を実施。これらの研修は、就労する通所者の利便も勘案し、平日昼間のみでなく、一部平日夜間や土・日曜日についても実施)、② 生活相談・指導、③ 就労相談員による就労相談・指導(就労安定化事業、就職促進のオリエンテーション事業等)、④ 日本の大学の入学に必要な12年の就学年限を満たしていない中国帰国者については、定着促進センターにおける4か月の研修及び自立研修センターにおける8か月の研修を修了することで、大学入学に必要な12年の就学年限を満たすものとされている大学進学準備過程等を行っている。
オ 支援・交流センター
支援・交流センターにおいては、自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として、地方公共団体との連携の下、民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら、① 日本語学習支援(進度別、目的別の日本語学習コースの開講、中国帰国者及びその家族に対する通所形式による日本語教育、遠隔学習(通信教育)及びその補完授業としてのスクーリング(月1回対面の方式による学習の機会の付与))、② 相談事業(相談窓口の設置、日本語会話が不自由な高齢単身者等に対する中国語で電話連絡を行う友愛電話事業(平成15年度以降)等)、③ ボランティアの活動情報の収集と提供、④ 中国残留邦人問題の普及啓発事業等を行っている。
カ 自立支援通訳制度
被告は、平成元年6月1日以降、都道府県に委託して、定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)3年以内の中国帰国者及びその同伴家族に対して、自立支援通訳の派遣を行っている。
自立支援通訳の派遣が認められるのは、① 「中国帰国者巡回健康相談事業」により、健康相談医の助言、指導を受ける場合、② 医療機関で受診する場合であって都道府県が派遣を必要と認めるとき、③ 福祉事務所等の関係行政機関から助言、指導又は援助を受ける場合であって都道府県が派遣を必要と認めるとき、④ 小中学校、高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について、又は中学校に通学する子等の進路について相談する場合であって都道府県が派遣を必要と認める場合、⑤ 介護保険制度による要介護認定の申請、介護サービス計画の利用及び介護サービスの利用を行う場合(平成14年4月1日以降)であって都道府県が派遣を必要と認める場合等である。
なお、「中国帰国者巡回健康相談事業」(乙32、33)は、平成元年6月1日以降、被告が都道府県に委託して、中国残留邦人に対して医療・保健衛生面における生活指導を行うことを目的として行われている健康相談事業である。定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯を対象とし、年1回、健康相談医が中国帰国者世帯に派遣されている。
キ 住居に関する支援
自立支援法9条1項は、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等の居住の安定を図るため、公営住宅等の供給の促進のために必要な施策を講ずるものとする。」と規定している。
被告は、公営住宅法に基づき財政措置を講じて、公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給しており、中国残留邦人もその施策対象者としてきた。
被告は、平成7年8月1日から、中国帰国者が帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する場合において、公営住宅優先入居の募集選考時期、地域要件又は当該住宅に空きがない等のため、やむを得ず民間住宅に入居する場合、当該中国帰国者に対し、礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給する「民間住宅入居時一部援助金支給事業」(乙35、36)を実施した。
ク 就籍に関する支援
自立支援法12条は、「国は、永住帰国した中国残留邦人等が……就籍その他戸籍に関する手続を行う場合においてその手続を円滑に行うことができるようにするため、必要な便宜を供与するものとする。」と規定している。
身元未判明孤児の就籍手続については、昭和61年から、財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け審判費用を負担していたが、その補助申請に際しては、確実に交付されるよう厚生省が副申していた。
被告は、平成7年4月1日以降、身元未判明孤児の就籍のための家事審判の手続に伴い必要とする経費(受任弁護士の手数料、印紙、郵券、交通費などの実費を含む。)を国庫負担とする取扱い(乙34)とした。
ケ 国民年金に関する支援
中国残留邦人等は、帰国時には高齢を迎えているため、年金への加入期間が短く受給できない事態や、中国に居住していた期間が年金額に反映されず、受給額が低額となる事態が生じていた。これについて帰国者やボランティア団体から改善を求める要望がされていた。
平成6年11月9日に成立した国民年金法等の一部を改正する法律(平成6年法律第95号)により自立支援法が改正され、平成8年4月1日から、中国残留邦人等に国民年金の特例措置(自立支援法13条、平成8年政令第18号)が講じられることとなった。
特例措置の概要は、① 中国居住期間のうち、国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国する前日までの期間(20歳以上60歳未満に限る。)は保険料免除期間とみなされ、この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映される、② 保険料免除期間とみなされた期間については保険料を追納することができ、追納すれば、その分が年金額に反映されるというものである。なお、保険料を追納する場合は、生活福祉資金の貸付制度を利用でき、その場合、償還期限が特別長期となる。
6  中国残留孤児の現状等について
(1) 厚生省が平成元年12月1日から平成11年11月30日までに永住帰国した中国帰国者本人2562人を対象とした生活実態調査結果(基準日・平成11年12月1日、回答・2225人。以下「平成11年調査」という。)によれば、残留孤児本人の平均年齢は58.3歳で、残留孤児世帯の生活保護受給率は65.5%である。前回の調査時(基準日・平成7年3月1日、対象・昭和36年4月1日から平成7年3月1日までに永住帰国した4532の中国帰国者世帯、回答・3458世帯。以下「平成7年調査」という。)の38.5%と比べ、生活保護受給率が大幅に増加している。
また、平成11年度の日本国民全体の生活保護受給率が0.79%であることと比べると、残留孤児世帯の生活保護受給率は著しく高い。
一方、年金の受給状況をみると、60歳以上の中国帰国者のうち、平成11年調査時に年金を受給している者は52%(種別では国民年金の受給者が88%)であるが、生活保護受給者については、生活保護法4条の保護の補足性の原理(保護は、生活に困窮する者がその利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限の生活の維持のために活用しても、なお最低限の生活を維持できない場合にその不足する分につき補足的に行われるとするもの)から、年金等の公的給付についてもその実際の受給額が収入認定され、生活保護費から控除されている。同様に、生活保護受給者が一時的に中国へ戻った場合には、中国滞在中の生活保護が停止される上、その渡航費用等相当額が収入認定され、生活保護費から差し引かれている。
(2) 平成11年調査によれば、帰国者本人のうち、60歳未満の残留孤児の就労率は29.2%であり、前回の調査(平成7年調査)時の51.2%を大きく下回っている。
また、平成11年調査によれば、就労している者の孤児世帯の収入月額は平均22万円(ただし、孤児本人のみが就労している世帯では平均15万1000円)であり、平成11年の一般世帯(家計調査(総務庁))の平均50万5000円の半分以下となっている。
上記収入月額は、前回の調査時の平均28万8000円と比べても、減少している。
さらに、平成11年調査によれば、就労している帰国者本人の職業は、「技能工、製造・建設・労務作業者」が87.4%(労働力調査(総務庁)における一般は30.6%)と最も多く、一方で、「専門的・技術的従事者」が3.3%(一般は13.3%)、「事務従事者」が0.4%(一般は19.5%)となっている。
(3) 平成11年調査によれば、孤児の日本語の習得状況については、帰国後1年未満で「日常生活が営める程度の会話ができるようになっている者」が27.4%、「日本語の会話が未修得と答えた者」は32.7%である。
また、日本語の理解度をみると、現在就労している孤児については、「会話に不便を感じない」と答えた者は5.2%、「TVニュースが理解できる」と答えた者は4%、「職場での仕事の会話ができる」と答えた者は47.1%、「買い物に不自由がない」と答えた者は24.1%、「片言の挨拶程度」と答えた者が19.5%であり、一方、現在就労していない孤児については、「片言の挨拶程度」と答えた者が47.7%と最も多く、次いで「買い物に不自由がない」と答えた者が38.6%、「会話に不便を感じない」と答えた者は2.6%、「TVニュースが理解できる」と答えた者は3%である。
(4) 平成11年調査によれば、帰国後の感想として、「後悔している」、「やや後悔している」と答えた孤児は合計11.8%であり、帰国して後悔している理由は、「老後の生活が不安」が36.5%、「言葉ができない」が33.9%、「生活が苦しくなった」が11.3%、「病気による不安」が10.4%である。
第5  争点に対する判断
1  原告らの被侵害権利又は被侵害利益の存否(争点(1))について
(1) 前記前提となる事実と証拠(甲個1ないし32(いずれも枝番のあるものは枝番を含む。)、原告本人(原告番号1ないし4、8、11、12、15、19ないし22、24、30))及び弁論の全趣旨を総合すれば、① 日本が第二次世界大戦に敗戦した昭和20年8月15日当時、0歳から16歳であった原告らは、同月9日のソ連軍の侵攻及び敗戦後の混乱の中で、旧満州地区において、家族と死別又は離別して孤児となり、中国に居住することを余儀なくされ、養父母によって生育されてきたものであるが、原告らのほとんどは、ソ連軍の侵攻からの逃避行の末、孤児となるに至る過程において、筆舌に尽くし難い辛苦を味わされたこと、② その後、原告らは、日本に永住帰国するまで25年から55年の長期間にわたり中国で生活してきたが、原告らの中には、小学校すら行けずに、農作業等の働き手として、養父母に強制労働をさせられたり、虐待を受けた者(原告番号3、10、12、13、20、22ないし24、26、28等)や、幼少期から日本人であるがゆえに受けた不当な仕打ちや迫害に耐え続けてきた者(原告番号3、10、12、13、20等)、文化大革命の時代(昭和41年ころないし昭和51年ころ)に日本人であることを理由に職場から貧困な農村に「下放」されるなど不当な差別的な取扱いを受けた者(原告番号1、4、5、11、14、21、29、30等)がいるなど、原告らは、いずれも中国社会の中で日本人孤児であることを理由に不利益を受けてきたこと(その概要は、別紙「原告ら個別被害事実」〈省略〉のとおり)、③ 原告らは、昭和53年から平成12年にかけて永住帰国したが、中国において日本語を習得する機会を得られなかったため(ただし、独学で学習した原告番号21を除く。)、帰国後、日本語による十分な意思疎通ができないことなどに起因して、就労できなかったり、就労できても職種が低賃金等のものに限定されてきたこと、医師の診療を受ける際に、病状等を正確に伝えることができず、医師の指示説明を十分に理解することが困難であること、市町村の窓口の各種手続を単独ですることが困難であることなど、社会生活上の様々な場面で不便を来し、不利益を受けていること、④ 現在、原告ら32名(別表1の原告番号1ないし32)のうち、29名が生活保護を受給していることが認められる。
(2) 原告らは、原告らが「中国に取り残されたことによる被害」、「日本語会話の不能又は困難による被害」、「日本社会に参加できないことによる被害」及び「経済的自立不能による被害」という4つの共通被害を受けたことにより、個人の尊厳に最高の価値を置き、基本的人権を保障する日本国憲法全体(13条ないし16条、18条、21条ないし27条、29条1項、32条、44条等)によって保障された「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害された旨主張する。
そこで検討するに、原告らの主張によれば、「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」とは、日本人としてのアイデンティティを持つ権利(日本人としての自覚をもち、その自覚に基づいて自らを表現し、行動することについて、他者から抑圧・制限されない権利)、自己実現を図る権利及び日本社会における生活基盤を築く権利を本質とする権利であるというものであるが、上記「(日本人としての)自覚に基づいて自らを表現し、行動すること」、「自己実現」は、その文言から一義的に意味内容が定まるものではなく、原告ら主張の「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」は、その権利内容が具体性を欠き、明確でないといわざるをえない。
加えて、日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定し、基本的人権の保障の理念的な前提としての個人の尊厳の原理を宣言し、国民の権利が、公共の福祉に反しない限り、国家によって最大の尊重を払われるべきことを定めているが、同条及び他の条項を含めた日本国憲法全体が、原告ら主張の「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」を、国民に対し、具体的な権利として保障したものと解することはできないし、他にこれを保障したことの根拠となる実体法上の規定も見いだし難い。
したがって、原告ら主張の「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」は、不法行為法上の保護の対象となる権利に当たるものと認めることはできない。
(3)  しかし、前記認定のとおり、原告らは、いずれも第二次世界大戦の敗戦前後の混乱の中で、旧満州地区において肉親と死別又は離別して孤児となり、長期にわたり残留を余儀なくされ、日本人孤児であるがゆえに中国社会において不当な取扱いを受けたことなどにより精神的苦痛を受け、更に帰国後も日本語能力が不十分なことなどに起因して、社会生活上様々な場面で不便を来したり、不利益を受け、これにより精神的苦痛を受けたことが認められる。
原告らがこのような不利益を受けないことは、人格的な利益として、不法行為法上の保護の対象になり得る法的利益であるものと解される。
2  被告の公務員の違法な公権力の行使の有無(争点(2))について
(1) 国賠法1条1項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものであり、被告の公務員が不法行為責任を負うことを前提に、その責任を国や公共団体が代位するものと解されるから、被告の公務員による原告らの前記法的利益に対する個別具体的な侵害行為の有無及びその違法性が問題になる。
原告らは、被告の侵害行為として原告らに対する早期帰国実現義務違反及び帰国後の自立支援義務違反を主張し、上記各義務に違反した被告の個々の公務員及びその権限等を明示するものではない。
しかし、原告らの主張(訴状48頁から49頁にかけての「2 厚生大臣・外務大臣及び国会議員の職務」、同63頁の「(1) はじめに」等を含む。)を全体としてみると、「引揚援護に関すること」を所掌事務(厚生労働省設置法4条1項103号。なお、平成11年法律第102号による廃止前の厚生省設置法4条2項1号、5条101号ないし103号、105号、108号の2等)とする厚生労働省(厚生省)の主任大臣である厚生労働大臣(厚生大臣)及び同省の職員又は「海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること」を所掌事務(外務省設置法4条9号。なお、平成11年法律第102号による廃止前の外務省設置法3条8号、4条17号等)とする外務省の主任大臣である外務大臣及び同省の職員が、その所掌事務に関する政策として原告ら中国残留孤児の早期帰国を実現するための施策及び帰国後の自立支援のための施策を立案・実行する権限を行使しなかった不作為又は作為(帰国妨害)並びに国会議員の立法不作為等をもって原告らの前記法的利益に対する侵害行為である旨主張しているものと解される。以下、これを前提として判断する。
(2) 早期帰国実現義務違反について
ア 原告らは、① 被告は、本来、敗戦直後の段階で、中国残留孤児を含め国外に取り残されたすべての国民を日本に早期に帰国させる義務(早期帰国実現義務)を負い、遅くとも、日本が自主外交権を回復し、中国側も残留邦人の引揚げに対する協力を申し出て後期集団引揚げが開始された昭和28年3月時点以降は、早期帰国実現義務は、原告らに対する具体的な義務として、より高度なものとなっていた、② 被告は、後期集団引揚げが打ち切られた昭和33年7月から日中の国交回復(国交正常化)がされた昭和47年9月までの間、早期帰国実現義務として、原告ら残留孤児の早期帰国実現のための政府間交渉の継続、民間団体による未帰還者の調査究明・帰還促進業務への援助、国内・国外調査の実施及び継続、孤児の帰国及び肉親捜しに対する援助をすべき義務があったのに、上記義務を履行せず、かえって、昭和33年4月に未帰還者に関する特別措置法に基づく戦時死亡宣告制度を導入し、これを強引に運用し、生存している多くの残留孤児について戦時死亡宣告を受けさせたり、自己の意思により帰国しないと認められる者と恣意的に認定して未帰還者調査の対象から外し、帰国に向けた調査を放棄することなどにより、原告らの帰国を妨害した、③ さらに、被告は、昭和47年9月の日中国交正常化以後、残留孤児の調査及び帰国に関する総合的な施策を立案し、帰国を実現させる措置をとるべき義務を負い、具体的には、外交ルートを通じて、中国政府に対し、残留孤児に関する情報を提供し、その所在調査と肉親捜し及び帰国実現のための協議を申し入れ、訪日調査を速やかに開始すべき義務、国内においても孤児や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し、肉親捜しを積極的に進めるべき義務、孤児らが安心して帰国を決断することができるよう日本での受入環境の整備を行う義務及び出入国管理行政上の帰国障害を除去し、帰国促進策を実施すべき義務があったのに、訪日調査を遅延・長期化させるなどして上記各義務を履行せず、かえって、出入国管理行政上、残留孤児を外国人として扱い、肉親の身元保証人のない限り永住帰国を不可能にするなどして、原告らの帰国を妨害した旨主張する。
そこで、まず、原告ら主張の早期帰国実現義務の法的根拠について検討する。
イ 原告らは、憲法13条、22条、26条、教育基本法、児童福祉法2条、未帰還者留守家族等援護法29条、未帰還者に関する特別措置法1条、旧厚生省設置法、旧外務省設置法、自由権規約12条4項、23条1項、ジュネーヴ条約24条、26条(追加議定書を含む。)、日本国との平和条約6条(b)項等の規定に基づいて、被告の早期帰国実現義務が発生した旨主張するが、以下のとおり、上記各条項は、原告ら主張の早期帰国実現義務の根拠となる実体規定とは認められない。
(ア)① 憲法13条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利(幸福追求権)は、国政の上で最大の尊重を必要とする旨規定しているが、このことから直ちに国民が国家に対し一定の作為を求めることを保障しているとはいえない。また、原告ら主張の早期帰国実現義務は、被告において、原告ら残留孤児の調査及び帰国に関する総合的な施策を立案し、帰国を実現させる措置等の作為義務をいうのであり、同条がこのような作為義務に対応する具体的請求権を原告らに保障しているものとは認められない。
したがって、憲法13条が、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものとは認められない。
② 憲法22条は、国内における居住・移転の自由、職業選択の自由、海外移住の自由(帰国の自由を含む。)及び国籍離脱の自由を保障するが、同条は、自由権を保障した規定であって、同条が、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものとは認められない。
③ 憲法26条1項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、同条2項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定め、同条は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したものであるが、同条が、原告ら主張の早期帰国実現義務に対応する具体的請求権を原告らに保障しているものとは認められない。
また、教育基本法は、教育及び教育制度全体を通じる基本理念及び基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって、同法が、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものとは認められない。
(イ)① 児童福祉法2条は、「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。」と規定し、国及び地方公共団体の児童育成責任を定めているが、同条が被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものと認めることはできないし、同法中にこれを規定した条項を見いだすこともできない。
② 旧厚生省設置法及び旧外務省設置法は、それぞれ厚生省及び外務省の所掌事務の範囲、組織等を定めたものであって、上記各設置法が、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものとは認められない。
③ 未帰還者留守家族等援護法29条は、「国は、未帰還者の状況について調査究明をするとともに、その帰還の促進に努めなければならない。」と定めているところ、同条の「努めなければならない。」との文言、同法中には未帰還者の調査究明及び帰還促進に関する具体的な手段、方策等を定めた規定がないことに照らすと、同法29条は、国に対し、政治上、道義上の一般的な責務として未帰還者の調査究明及び帰還促進の責務を負わせたにとどまり、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものと認めることはできない。
④ 未帰還者に関する特別措置法1条は、同法が、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、生死不明の者について、特別の措置を講ずることを目的とすることを定めた目的規定であって、「調査究明」の具体的な内容を規定したものではなく、同法の他の条項にも調査究明に関する具体的な手段、方策等を定めた規定がないことに照らすと、同条が、被告の公務員に原告ら主張の早期帰国実現義務を課したものと認めることもできない。
(ウ) 条約は、当事国に一定の権利義務関係を設定することを目的とした国家間の文書であって、国家間の法律関係を規律するものであるから、条約中に個人の権利の保護に関する条項が置かれていたとしても、国家が他の国家に対しそのような権利を個人に認めることを約するものであり、個人がその個人の名において国際的にその権利を主張できることを容認していることが明確に規定されていない限り、当該条項に基づいて個人が直接の請求の法主体となることは認められないと解される。
そして、原告ら主張の自由権規約12条4項、23条1項、ジュネーヴ条約24条、26条(追加議定書を含む。)、日本国との平和条約6条(b)項等は、原告ら主張の早期帰国実現義務に対応する原告らの具体的請求権を明確に規定するものではないから、これらの条項に基づいて、被告が原告ら主張の早期帰国実現義務を負うものではないというべきである。
(エ) 以上のとおり、原告ら主張の憲法、法律及び条約の各条項は、原告ら主張の早期帰国実現義務の法的根拠となるものではない。
ウ 原告らは、早期帰国実現義務の法的根拠として、先行行為に基づく条理上の作為義務を主張する。
すなわち、原告らは、① 近代立憲主義憲法の下では、そもそも政府は、人民の生命と自由を享受する権利を保障するために、人民により付託され組織されるものであるから、近代国家には、本質的にその本来的義務として「自国民を保護する義務」があり、国家自身の行為・政策遂行に起因して、自国民が主権の及ばなくなった地に置かれることとなった場合には、その帰国を実現すべき義務を負うものと考えられること(近代国家の本質)、② 原告らを含むすべての国民にとって、日本に帰国する権利は、憲法等(憲法22条、世界人権宣言13条2項、自由権規約12条4項)でも保障された重要な権利であること(帰国する権利の重要性)、③ 国際条約においても、紛争当事国には、武力紛争の結果生じた行方不明者、離散家族の捜索・再会のために施策をとることを義務付けるものが存すること(国際条約の存在)、④ 旧厚生省設置法、旧外務省設置法において引揚業務などが厚生省や外務省の所管とされ、しかも、未帰還者留守家族等援護法(29条)において、国は未帰還者の調査究明・帰還促進に努めなければならないと確認されていること(法律による義務の確認)、⑤ 幼くして中国に取り残された原告ら残留孤児にとって、祖国である日本に早期に帰国し、日本の地で人格を形成し成長する利益は憲法の趣旨から考えても極めて重要なものであること(原告ら残留孤児の利益の重要性)、⑥ 被告が戦前戦後の一連の政策により、原告ら残留孤児を生み出し、その後も危険な状態に放置したこと(被告の先行行為―危険の作出)、⑦ 原告ら残留孤児は自らの力によっては日本へ帰国することが到底不可能な状況にあったこと(高度の要保護性)、⑧ 被告が終戦直後から原告らのような孤児が数多く発生し、中国に取り残されていることを認識していたこと(予見可能性)、⑨ 被告には、国際情勢の変動などで時代ごとに程度の差こそあるものの、残留孤児の早期帰国実現策をとり得ることが十分に可能であったこと(回避可能性)、上記①ないし⑨の事情を前提とし、正義公平と信義則等を基礎に置く条理から考えて、被告においては、敗戦直後の段階で、中国残留孤児を含め国外に取り残されたすべての国民を日本に早期に帰国させる義務(早期帰国実現義務)を負い、遅くとも昭和28年3月の時点以降は、先行行為に基づく作為義務として、中国残留孤児である原告らに対し、より高度の早期帰国実現義務を負っていた旨主張する。
(ア) そこで、まず、原告ら主張の被告の先行行為等について検討する。
前記前提となる事実によれば、① 日本は、明治38年、日露戦争終結に際しての講和条約であるポーツマス条約により、ロシアから遼東半島の租借権等の権益を取得した後、旧満州地区(現在の中国東北部)及び内モンゴル地域への影響力を強め、その権益を拡大していったこと、関東軍が起こした柳条湖事件を契機として満州事変が勃発した後、関東軍は、昭和7年3月1日、満州国の建国を宣言し、日本政府は、同年9月15日、満州国を承認したこと、② 日本は、国際連盟が満州国の不承認を可決した後、昭和8年3月27日、国際連盟から脱退したこと、その後、昭和12年7月7日に廬溝橋事件が発生して、戦線は次第に中国各地に広がり、日本は、中国との全面的な戦争に至り、更に昭和16年12月8日、アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が開始されたこと、③ 日本政府は、昭和7年8月16日、満州への1000名の武装移民を送出する旨の閣議決定を行い、国会において満洲移民案が承認された後、同年10月から昭和10年までに合計4つの開拓団が中国東北部各地へ入植したこと、日本政府は、昭和11年8月25日、七大国策綱領を閣議決定し、その一つとして「対満重要策の確立―移民政策及び投資の助長策」を国策として決定し、昭和12年1月、満洲へ開拓民を20年間に500万人、100万戸を送出する大綱を決定した後、同年11月30日、一般開拓民のほかに、いわゆる「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を閣議決定したこと、その後、日本政府は、昭和16年12月31日、「満州開拓第2期5か年計画要綱」を閣議決定し、5年間で開拓民22万戸(110万人)の入植を計画し、上記方針に基づいて、昭和20年8月8日まで、日本から満州へ開拓団が送出され、同年5月時点における外務省調査による開拓民の人数は、一般開拓団員5万2428人・家族16万7829人、青少年義勇軍隊員6万9457人・家族1万0422人、青少年義勇隊(訓練中)2万1738人の合計32万1874人であったこと、④ 日本は、昭和16年4月、ソ連との間で、日ソ中立条約を締結し、上記条約の締結の際に発出された「声明書」において、ソ連による満州国の領土保全及び不可侵が定められたが、ソ連は、ヤルタ会談を経た後の昭和20年4月5日、日本に対し、日ソ中立条約を期限満了(昭和21年4月)後に延長しない旨(不延長)の通告をしたこと、⑤ 大本営は、昭和20年5月30日、日本の本土防衛のため、満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し、朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域と決定するとともに、満州の4分の3を持久戦のための戦場とすることを決定した後、同年7月10日、在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員約20万人を召集(いわゆる「根こそぎ動員」)し、国境付近に配置したこと、⑥ ソ連は、昭和20年8月8日、日本に対して宣戦布告し、同月9日、中国東北部に侵攻を開始した後、日本は、同月14日、ポツダム宣言を受諾し、同月15日、終戦となったこと、⑦ 旧満州地区に在留していた邦人は、昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻を受け、混乱のうちに避難を開始したが、根こそぎ動員等のため、開拓団は、ほとんど老幼婦女子だけという状況にあり、その避難行動は困難を極め、逃避行の過程で、ソ連軍の侵攻、飢餓、疾病、集団自決等によって多くの犠牲者を出し、更に同年から翌昭和21年にかけての越冬生活における栄養失調症、伝染病の流行等のため多数の死亡者を出し、このようなソ連の参戦に伴う避難行動の過程で生じた極度の混乱、それに引き続く昭和20年冬の越冬生活、更には国民政府と中国共産党間の国共内戦による混乱などにより、肉親等と死別又は生き別れた婦女子のうち自活の手段を失った者は、やむを得ず現地住民に救いを求め、あるいはその妻等となり、また、多数の子供が、両親を失って孤児となり、あるいは親が養育できないために現地住民に託されるなどして、中国に在留することを余儀なくされたこと、開拓団の家族等として満州国に移住した者又はその子である原告ら(敗戦時の年齢・0歳から16歳)も、ソ連の侵攻後に、孤児となったことが認められる。
以上の認定事実を総合すると、原告ら残留孤児は、日本政府の国策に基づいて旧満州地区に送出された移民の子であり、ソ連の侵攻及び敗戦後の混乱の中で孤児となり、中国からの自力による帰国が困難となったことが認められ、このように原告らが孤児となったのは、国策による旧満州地区への入植・国防政策の遂行という日本政府の先行行為に起因するものであるから、被告は、このような先行行為に基づき、帰国を希望する孤児に対し、できるだけ早期に帰国を実現できる措置をとるべき責務を負ったものと認められる。
もっとも、被告が上記責務を果たすためには、孤児の存在を具体的に把握し、その帰国意思を確認する必要があるが、孤児は日本の主権が及ばない中国に居住することから、被告は、日本国内で親族等から孤児に関する情報を得るほかに、外交交渉を通じて中国政府の協力を得なければ孤児の存在の調査及びその帰国意思の確認は困難であり、帰国を希望する孤児が実際に中国を出国し、日本に入国するまでの受入手続を整備する際にも、中国政府の協力が必要であることに照らすと、被告に上記責務があるからといって、中国政府から協力を得られる状況が整わなければ、上記責務を果たすことはできないというべきであるから(結果回避可能性の欠如)、被告が、原告らに対し、先行行為に基づく条理上の作為義務としての早期帰国実現義務を確定的に負ったものと認めることはできない。
(イ)  そして、前記前提となる事実と前掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、① 日本政府は、昭和20年9月2日、連合国側との間で、降伏文書に調印した後、連合国の占領下に置かれ、同年10月25日、日本政府の外交機能は全面的に停止されて、外国との交渉は、GHQを通じて行うか又はGHQが日本政府に代わって行うこととされたこと、このような状態は、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、昭和27年4月28日に日本が主権を回復するまで続いたこと、この間、日本政府は、GHQの「引揚に関する基本指令」に基づいて、その指揮監督の下に海外邦人の引揚業務を実施し、昭和21年5月から昭和23年8月までの間に中国から合計約104万人の集団引揚げ(前期集団引揚げ)がされたが、昭和24年10月1日の中華人民共和国の成立後、日中の国交が断絶されたこと等から、集団引揚げが中断されたこと、② 日本政府は、昭和27年4月28日の主権回復以後、自主的業務として海外邦人の引揚援護を行うこととしたが、旧満州地区からの引揚げについては、当時中国政府(中華人民共和国)との間で外交関係を有していなかったため、通常の外交ルートによる実施は困難であったこと、③ 昭和27年10月1日、中国政府がラジオ放送(北京放送)で帰国を希望する残留邦人の帰国の援助を表明したことを契機として、中国側の中国紅十字会と日本側の引揚3団体との間で、民間レベルでの引揚げに関する会談が重ねられ、昭和28年3月5日、日本側と中国側との間でいわゆる北京協定が成立し、この北京協定等に基づいて、昭和28年3月から昭和33年7月まで21次にわたり中国からの集団引揚げ(合計3万2506人)が実施されたこと、④ 一方、日本政府は、昭和30年7月から昭和32年7月にかけて、在ジュネーブ日本総領事を通じて、中国政府に対し、残留邦人の引揚げについて直接交渉を求めたが、中国側からは、国交正常化交渉についての提案がされるにとどまり、それ以上の政府間交渉は進展せず、昭和32年7月25日には、中国側から、現在中国には、行方不明というような日本人は存在しない、中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は、中国政府として何ら責任を負うものではないなどの回答がされ、その後、昭和47年9月29日に日中国交正常化がされるまで、政府間交渉により中国側の協力を得ることは事実上困難な状況にあったこと、⑤ 厚生省は、日中国交正常化前において、終戦直後の混乱の中で総数2500人以上の中国残留孤児が発生したものと推定していたが、肉親等から個別的に寄せられる身元調査依頼等からの情報によってもその手掛かりがうすく、中国国内の実情を知ることができなかったため、残留孤児の詳しい状況を把握しておらず、その全体像を掴めていなかったこと、その後、日中国交正常化を契機として、残留孤児本人又は身元不明者の身元調査に協力している残留者からの日本国内への手紙による通信が活発化し、残留孤児等からの身元調査依頼が在北京日本国大使館、厚生省、都道府県等に数多く寄せられ、厚生省の担当部局においては、これらの情報等から、中国における残留孤児等の分布、生活環境、帰国要請等の状況等を把握できる状況となり、また、日中国交正常化によって、外交ルートを通じて中国政府に対し、中国残留孤児の消息調査、身元調査等の協力依頼を求めることができる状況となったこと(乙138、139等)、⑥ 一方、厚生省の担当部局の職員は、日中国交正常化の時点では敗戦時から既に27年以上が経過してきたこと及びそれまで得られた残留孤児に関する情報等から、長年中国で生活してきた残留孤児が日本に永住帰国した場合には、言葉と文化の違いから日本社会において様々な困難に遭遇する可能性があり、更に永住帰国までの期間が長期化すればその困難が一層増大するおそれがあることを予見することができたことが認められる。
これらの事実及び前記(ア)で説示したところを総合すれば、厚生大臣及び厚生省の担当部局の職員は、日中国交が正常化した昭和47年9月29日の時点以降、多数の残留孤児の存在を認識し、残留孤児の永住帰国までの期間が長期化すれば言葉と文化の違いから残留孤児が日本社会において遭遇する困難が一層増大するおそれがあることを予見することができ、しかも、このような結果を回避するため、厚生省の所掌事務である引揚援護に関する政策として中国政府の協力を得て残留孤児の早期帰国の実現に向けた具体的な施策をとり得る状況になったというべきであるから、前記(ア)の日本政府の先行行為に基づいて、帰国を希望する残留孤児のために早期帰国を実現させる施策を立案・実行すべき条理上の作為義務を負ったものと認めるのが相当である。
(ウ) これに対し原告らは、日中国交正常化前においても、被告は、人道上の問題に絞れば日中政府間の直接交渉をすることが十分可能であったから政府間交渉を継続すべき義務を負い、更には引揚3団体等の民間団体に対し、被告の保有する未帰還者の資料を提供したり、民間団体の活動に財政支援を行うなど全面的に協力すべき義務、肉親捜し及び帰国希望を具体的に表明していた孤児に対し、肉親捜しのための一時帰国や、身元未判明の場合あるいは親族が帰国に同意しない場合にも永住帰国できるよう援助すべき義務を、早期帰国実現義務として負っていた旨主張する。
しかしながら、前記(ア)及び(イ)で説示したように、日中国交正常化前の段階においては、厚生省の担当部局に個別的な身元調査の依頼、帰国希望の表明等があっても、中国政府との政府間交渉を通じて、孤児であること及びその身元の確認調査、孤児が中国を出国し、日本に入国するまでの受入手続等について中国政府から協力を得ることは困難な状況にあったこと、原告らの主張する政府間交渉の継続義務及び民間団体に対する財政支援等の全面的な協力義務は、その内容が具体性を欠き、明確でなく、その主張自体から法的な義務とは認められないことに照らし、原告らの上記主張は、採用することはできない。
エ 原告らは、日中国交正常化前の昭和33年4月に、被告が未帰還者に関する特別措置法に基づく戦時死亡宣告制度を導入し、これを強引に運用し、生存している多くの残留孤児について戦時死亡宣告を受けさせたり、自己の意思により帰国しないと認められる者と恣意的に認定して未帰還者調査の対象から外し、帰国に向けた調査を放棄することなどにより、原告らの帰国を妨害した旨主張するところ、故意による帰国妨害は、被告の早期帰国実現義務の有無にかかわらず、帰国の自由を侵害するものとして違法な公権力の行使に該当する可能性があるので、この点について判断する。
そこで検討するに、前記前提となる事実のとおり、未帰還者に関する特別措置法は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、生死不明の者について、特別の措置を講ずることを目的とし(1条)、未帰還者に係る失踪宣告の請求権を厚生大臣(平成11年法律第160号による同法の改正後は「厚生労働大臣」)に付与し、厚生大臣の請求に基づき失踪宣告(戦時死亡宣告)を受けた者の遺族に対する援護の措置を定めたものであること、厚生大臣が戦時死亡宣告を請求する場合には当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならないものとされていること(2条2項)、厚生省が作成した同法の要綱案は、未帰還者の留守家族団体の要望や意見が取り入れられている上、引揚同胞対策審議会の諮問を経ていること、この要綱案に基づいて作成・提出された法律案について国会審議を経て、同法が制定されていることなどの同法の制定経過に照らすと、同法の法律案の提出、国会議員による立法行為が中国残留孤児の帰国を妨害するなどの違法、不当な目的を含むものとはいえないことは明らかである(なお、原告らの主張中には、厚生大臣に未帰還者の失踪宣告の請求権を付与したことその他同法の内容が違憲である旨の具体的な主張を含むものではない。)。
また、戦時死亡宣告は、厚生大臣から委任を受けた都道府県知事の申立てに基づいて(14条、未帰還者に関する特別措置法施行令1条の2)、家庭裁判所の審判官(裁判官)による審判手続によって宣告され、戦時死亡宣告の要件の有無については個別的な司法審査を経ているのであるから、戦時死亡宣告の申立てが不当、違法かどうかについても、個々の対象者との関係において申立権の濫用の有無等について判断されなければならないというべきであり、仮に本件の原告ら以外の残留孤児について不適切な調査(留守家族の意向調査)等に基づく戦時死亡宣告の申立て及び審判がされたとしても、そのことから直ちに原告らに対する違法行為があったことを裏付けることになるものではない。
そして、戦時死亡宣告を受けた原告ら(原告番号4、5、7、26、29ないし32)について、原告ら提出の究明カード(究明用カード)その他本件証拠によっても、被告の公務員による申立権の濫用等の違法な行為があったとまで認めるに足りない。
さらに、戦時死亡宣告制度施行後の調査においても、本件の原告らに対する関係で、被告の公務員による調査の放棄等の違法な措置により、原告らの帰国を妨害したとまで認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告らの上記帰国妨害の主張は採用することができない。
オ そこで、原告ら主張の被告の日中国交正常化以後の早期帰国実現義務違反の有無について判断する。
原告らは、被告は、早期帰国実現義務の具体的な内容として、国交正常化以後、外交ルートを通じて中国政府に対し、残留孤児に関する情報を提供し、その所在調査、肉親探し及び帰国実現のための協議を申し入れ、訪日調査を速やかに開始すべき義務、国内においても孤児や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し、肉親捜しを積極的に進めるべき義務、孤児らが安心して帰国を決断することができるよう日本での受入環境の整備を行う義務、出入国管理行政上の帰国障害を除去し、帰国促進策を実施すべき義務があったのに、訪日調査を遅延・長期化させるなどして上記各義務を履行せず、かえって、出入国管理行政上、残留孤児を外国人として扱い、肉親の身元保証人のない限り永住帰国を不可能にするなどして帰国を妨害した旨主張する。
ところで、前記1(3)の原告らの法的利益の内容及び前記2(2)ウ(イ)の被告の早期帰国実現義務の内容を総合的に勘案すると、被告が条理上の作為義務としての早期帰国実現義務に違反したというためには、客観的に被告の公務員が残留孤児の帰国を実現させる具体的な施策を立案・実行することが可能となった時期から長期にわたり遅延が続いたこと、その間、被告の公務員が通常期待される努力によって遅延を解消することができたのに、これを回避するための努力を尽くさなかったことが必要であるものと解される(最高裁平成3年4月26日第二小法廷判決・民集45巻4号653頁参照)。
(ア)  そこで検討するに、前記前提となる事実及び前掲各証拠を総合すれば、① 昭和47年9月29日の日中国交正常化以後、厚生省は、中国残留孤児やその養父母等から寄せられた手掛かり資料を基に、厚生省が保有する旧満州地区の各地に入植した開拓団の名簿、戦時死亡宣告により除籍された者の名簿、旧満州地区から引き揚げた世帯の在外事実調査票、関東軍に所属した軍人軍属の名簿等の各種資料を照合して該当者と思われる者を抽出し、都道府県を通じて在籍の有無及び家族に確認を求めるなどの方法により孤児の身元調査を実施したが、このような保有資料のみをもってする究明には限界があることから、広く一般からの情報を得るため、昭和50年3月から、孤児の顔写真、特徴、肉親と離別した時の事柄などを新聞、テレビ等によって一般に公開して孤児の情報を求める公開調査を実施したこと、この間、厚生省の職員は、昭和48年3月、未帰還者、戦時死亡宣告により除籍された者、自己の意思により帰還しないと認められて未帰還者から除かれた者の名簿に基づいて、中国における現地調査を行っており、また、その名簿は、在北京日本大使館を通じて中国政府に提出されていること、② その後、厚生省は、公開調査で公開される情報だけでは肉親であるとする決め手が乏しいため実際に孤児と対面して身体の特徴、孤児が記憶している手掛かりを直接確認したいなどの要望が多く寄せられたこと、在日親族関係者の高齢化が進んでいる状況などから、昭和54年9月ころから、身元が確認できない孤児について、一定期間日本に招き、報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査の実施についての検討を始め、昭和56年3月から実施したこと、③ 訪日調査の実施に当たっては、中国政府側で対象者が残留孤児であることの確認等を行う必要があったが、中国政府には、残留孤児を扱う専門の部署がなく、中央では公安部出入境管理局、地方では各省公安局出入境管理処が窓口となって行っていたことや、本人への連絡等準備期間に相当の時間を要するとともに、一度に多くの残留孤児を訪日させる体制をとることは困難であったこと、他方、日本側でも、訪日調査の実効性を上げるために、個々の孤児について少ない手掛かりの中から肉親につながる情報を蓄積し、整理するなど個々の孤児の訪日調査の準備に相当な時間を要したこと、訪日調査の実施に当たっては毎回、外交上の交渉を必要とし、外交文書のやり取り等にも相当の時間を要したこと、このような事情から1年間の訪日調査の開催頻度及び人数も自ずと制限せざるをえない状況にあったこと、昭和56年3月の第1回目の訪日調査における訪日人員は47名であったが、その後調査の規模が拡大し、同月から昭和62年3月までの間に1488名が訪日し、570名の身元が判明したこと(訪日調査全体としては、昭和56年3月から平成11年まで合計30回実施され、2116名が参加し、そのうち670名の身元が判明したこと)、④ 一方、訪日調査の実施後、日本に永住帰国する孤児が増加したが、中国に残された養父母の生活の保障が問題となり、それが事実上永住帰国の障害となる事例が生じたこと、しかし、現実に永住帰国した孤児が中国に残る家族を扶養することは極めて困難であったことから、「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」(昭和58年4月8日閣議了解)等に基づき、中国残留孤児の養父母の扶養費として、中国側と取り決めた一定金額を援助することとされ、日中両国間の交渉を経て、昭和59年3月17日、中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書の交換が行われ、更に昭和61年5月9日に交換された口上書により、扶養費の具体的な金額、送金方法等について定められたこと、上記扶養費は国と財団法人中国残留孤児援護基金が2分の1ずつ負担して、養父母に支払われていること、⑤ 厚生省は、平成6年度以降、厚生省職員が訪中して直接面接して聞き取り調査を行う訪中調査、身元未判明孤児の肉親調査に継続して取り組むためのキャラバン調査等を行ってきたこと、さらに、日中両国政府は、平成12年3月29日、中国残留孤児の訪日肉親捜しの今後の実施方法に関する口上書を取り交わし、上記口上書に基づいて、平成12年度から、事前に中国現地における共同調査を行い、日本で孤児の情報を公開し、肉親情報が得られた者のみを訪日調査に招致し、肉親との対面調査を行い、他の者は訪日調査を経ることなく、中国残留孤児として直接帰国できる仕組みに改めたこと、⑥ 厚生省は、昭和57年3月、孤児問題の早期解決を図るため、広く有識者の意見を聴いて具体的な施策を検討する必要があるとの認識の下に、厚生大臣の私的諮問機関として、各界の有識者(合計18名)で構成する「中国残留日本人孤児問題懇談会」(懇談会)を設けたこと、懇談会は、厚生大臣に対し、同年8月26日、総合的な孤児対策を盛り込んだ「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書(乙88)を提出し、更に昭和60年7月22日、「中国残留日本人孤児に対する今後の施策の在り方について」と題する報告書を提出して提言したこと、厚生省は、上記各報告書の提言を中国残留孤児問題の施策の指針として採用し、これを実行する施策をとってきたことが認められる。
以上の認定事実を前提に、原告ら主張の早期帰国実現義務違反の有無について検討するに、昭和47年9月29日の日中国交正常化後昭和56年3月に訪日調査が開始されるまで8年以上が経過しているが、その間に、厚生省は、保有資料による調査を実施した後、孤児やボランティア団体の要望等を受けて、昭和50年3月から公開調査を実施し、昭和54年9月ころから訪日調査の検討を開始し、昭和56年3月からその導入・実施に至ったものであり、事後的にみれば、より早期に訪日調査を導入した方がより望ましかったといえるとしても、当時の日本国内及び中国の社会的状況等に照らして、厚生省が訪日調査を導入するよりも前の段階で訪日調査を導入することが客観的に可能であったのに、その導入をしなかった事情は認められないこと、訪日調査の人数枠については、中国側の事情及び懇談会の提言(乙88の報告書によれば、1回の調査対象孤児60人程度、年3回で、昭和58年度以降3か年計画の訪日調査で肉親捜しを完了させるというものである。)等を踏まえて決定され、その後拡大されてきたこと(なお、乙88の報告書には、孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には、政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め、地方公共団体やボランティア団体が孤児たちのために援助を行うことが必要であるとするものの、それは側面的な援助であって、最終的には孤児自らが努力して困難を克服していかなければならず、日本に帰国した方が幸せか、中国に留まった方が幸せかは、日本社会の実情をよく知った上で、孤児自身がよく考えて判断すべきものと記載があり、日中国交回復後昭和57年当時までは、孤児の問題は、身元調査、肉親捜しが中心に考えられていたものとうかがわれる。)に照らすと、被告の公務員が訪日調査の開始を遅延し、これを長期化させたものと認めることもできず、また、仮に被告の公務員が訪日調査を遅延したとみるべき余地があるとしても、被告の公務員が通常期待される努力によってその遅延を解消することができたのに、被告の公務員がこれを回避するための努力を尽くさなかったものと認めることもできない。
したがって、被告が訪日調査を遅延・長期化させて早期帰国実現義務に違反した旨の原告らの前記主張は採用することができない。
(イ) 次に、原告らは、被告の早期帰国実現義務違反の具体的事実として、被告が帰国旅費国庫負担制度の申請手続を留守家族に限ったことから、残留孤児は、肉親の同意又は協力を得られずに帰国旅費を受給できず、帰国できない事態が生じたこと、法務省通知(昭和50年11月22日付け法務省管登第9660号通知及び昭和57年1月23日付け法務省管登第826号通知)により、出入国管理行政上、残留孤児を外国人として扱い、肉親の身元保証人のない限り永住帰国ができないようにしたことから、身元未判明孤児は、そもそも永住帰国することが不可能となり、身元判明孤児も親族に反対されれば永住帰国は不可能となったこと、身元未判明孤児に対する身元引受人制度が昭和60年3月に導入したにもかかわらず、身元判明孤児には依然として親族の身元保証人を要求し続け、身元未判明孤児よりも身元判明孤児の帰国が困難となるという新たな矛盾を生み出したこと、平成元年7月に身元判明孤児のための特別身元引受人制度を導入したが、その導入を遅延したことなどを主張する。
しかしながら、① すべての人の本邦の出入国に関し、公平かつ適正な管理を行うことを目的とする入管行政の必要上、外国人の入国のために、査証の受給を要し、かつ、その受給要件の立証のための資料の一つとして身元保証書の提出を求めていること(入管法61条、6条、7条、入管法施行規則6条別表第3等)は合理的な措置であり、被告が、中国旅券を所持して永住帰国のため上陸しようとする孤児について、日本人としての帰国の確認ができない限り、外国人として取り扱い、身元保証人の身元保証書の提出を求めた措置はやむをえないものであって違法とまでいうことはできないこと(なお、原告ら主張の昭和50年11月22日付け法務省管登第9660号通知及び昭和57年1月23日付け法務省管登第826号通知の内容は、前記前提となる事実の4(2)イのとおりであり、これらの通知を根拠として身元保証人の身元保証書の提出を求めるようになったわけではないものと認められる。)、② 昭和61年11月27日付け法務省管入第4542号通知により、「終戦前渡中者(いわゆる残留孤児を含む。)」のうち、日本戸籍の存在が確認され、又は新たに日本戸籍への就籍が許可されたもの及びこれに同伴する一定範囲の家族については、身元保証書の提出を不要とし、在日関係者からの招へい理由書(身元未判明孤児で、定着促進センターに入所するものについては、本人からの帰国理由書をもってこれに代える。)及び戸籍謄抄本の提出があれば、中国旅券に在中国の日本公館限りで査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととし、身元保証書の提出を求める措置を緩和していること、③ 個別引揚者に対する帰国旅費の申請手続(乙82、83、105、106)について、帰国希望者が残留孤児本人であることを確認する必要があることから、引揚希望者の留守家族によって行われることとされたことが不合理とまでいうことはできないこと、④ 昭和59年3月17日、日中両政府間で中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書が交換され(乙85)、昭和60年に、身元未判明孤児の帰国が開始された以降は、身元未判明孤児については、日本永住帰国希望等調査票及び日本永住帰国のための旅費申請書を在中国日本国大使館に送付することとなり、他方、身元未判明帰国孤児以外については、帰国希望者が永住を目的として帰国を希望している旨の申立書(通信文で可)、中国に残る親族がいる場合は、新たな離別を避けるため、帰国希望者が永住の目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面を在日親族等に送付することとなったこと、⑤ 昭和60年度以降、帰国後、定着促進センターに入所中に身元保証人に代わる身元引受人をあっせんすることとし、更に平成12年度以降は、事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については、肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも、中国残留孤児として日本に帰国できるものとしたこと、⑥ 被告は、孤児本人、ボランティア団体等の要望や懇談会の提言を受けて、上記②ないし⑤の各措置を導入・実施してきたことを総合考慮すれば、上記各措置の導入までに日中国交回復後から相当の期間を要していることを考慮しても、被告の公務員が上記各措置をとることを遅延したものと認めることはできないし、また、仮に被告の公務員がこれを遅延したとみるべき余地があるとしても、被告の公務員が通常期待される努力によってその遅延を解消することができたのに、被告の公務員がこれを回避するための努力を尽くさなかったものと認めることもできない。
したがって、原告らの上記主張も採用することができない。
その他原告らの早期帰国実現義務違反に関する主張は、以上の①ないし⑥及び前記(ア)において説示したところに照らし、いずれも採用することはできない。
カ 以上によれば、原告ら主張の被告の早期帰国実現義務違反は認めることはできない。
(3) 自立支援義務違反について
ア 原告らは、被告には、原告らの自立支援義務(帰国した原告らが自立した生活を営むことができるよう支援すべき義務)として、① 原告らが居住する地域や職場において円滑な社会生活が可能になる程度(最低限義務教育終了レベル)まで、日本語を修得させるための物的・人的な援助を行い、財政措置をとる義務、その中で原告らに就業に必要な社会的ルールや生活習慣などを学ぶ機会を保障する義務、原告らが日本語を理解できないハンデキャップを補うための制度、とりわけ病院や役所に同行する通訳を確保するなど原告らをサポートするための体制をつくる施策を講ずる義務、② 原告らに対し、就職先のあっせん、中国残留孤児を就業させる事業所に適当な優遇措置を与えて就業を促進するための措置をとることその他原告らの就業を確保し仕事を継続するための支援措置を講ずる義務、③ 原告ら残留孤児に対し、生活保護法による扶助とは異なる特別な措置(立法を含む。)をとり、そのための財政的措置を講ずる義務、④ 原告らとその家族が希望する地域に適当な規模の私営・公営の住居の確保及び居住の継続のための財政的措置を講ずる義務、⑤ 原告らがその配偶者及び家族と日本で生活することを望む場合には、家族の日本への呼び寄せ、家族が日本で永住するために必要な費用の援助、国籍の取得等を援助する措置を講ずる義務があるのに、被告は上記施策及び措置をとらなかったり、その導入を遅延し、また、導入された施策及び措置の内容は不十分なものであったから、被告は上記各義務に違反した旨主張する。
そこで、原告ら主張の自立支援義務の法的根拠について検討する。
イ(ア) 原告ら主張の憲法13条、14条、25条1項、26条、社会権規約11条、13条2項(d)、自立支援法の各条項は、以下のとおり、原告ら主張の自立支援義務の根拠となる実定規定とは認められない。
① 原告ら主張の自立支援義務の法的根拠のうち、憲法13条、26条、社会権規約11条、13条2項(d)は、前記2(2)イ(ア)及び(ウ)で説示したのと同様の理由により、自立支援義務発生の根拠規定となるものとは認められない。
② 次に、憲法25条1項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものとは解されないから、同条が、原告ら主張の自立支援義務に対応する具体的請求権を原告らに保障しているものとは認められない。
また、憲法14条は、法の下の平等の原理を定めるもので、同条が、原告ら主張の自立支援義務に対応する具体的請求権を原告らに保障しているものとも認められない。
③ さらに、自立支援法は、国等の責務として、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため、必要な施策を講ずるものとする。」(4条1項)と定め、生活相談等(8条)、雇用の機会の確保(10条)、教育の機会の確保(11条)、国民年金の特例(13条)等について規定しているが、その具体的な施策等については同法に定められていないことに照らすと、これらの条項に基づいて、被告が原告ら主張の自立支援義務を負うものではないというべきである。
④ 以上のとおり、原告ら主張の憲法、社会権規約及び自立支援法の各条項は、原告ら主張の自立支援義務の法的根拠となるものではない。
(イ) 原告らは、原告ら残留孤児の有する利益、すなわち、母国語(日本語)を習得する機会を得ること、日本社会に経済・文化・政治そのほかあらゆる面で参加する機会を得ること、経済的自立を確保することは、憲法や国際規約(社会権規約)などから考えても極めて重要なものであること(原告らの利益の重要性)、被告が残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行い、加えて、残留孤児の早期帰国を実現する施策をとらなかったため残留孤児の永住帰国が大幅に遅れたこと(先行行為)、原告らの日本への帰国が終戦後数十年もの長期間経過後となったため、原告らが日本語の壁に悩み、日本文化や習慣に戸惑い、日本社会に参加できない状況に置かれ、経済的にも困窮するであろうことは容易に予見することができ、ボランティア団体の各種要望書や新聞記事などでも、何度も指摘されていたこと(予見可能性)、これらの問題はいずれも原告らが日本へ帰国した後の問題であり、「懐に入ってきた」原告らに対し被告が十分な施策を行うことは十分に可能であったこと(回避可能性)、原告ら残留孤児は、身元未判明孤児はもちろん、身元判明孤児も、自助努力、親族の努力には大きな限界があり、そもそも本来個人や家族の問題に矮小化されるべき問題ではないと考えられること(高度の要保護性)、自立支援法が、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた」ことにかんがみ、中国残留孤児の「地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定」などのために必要な措置を講ずることを「国等の責務」とし法的義務を確認したこと、かかる事情を総合的に考慮し、更に憲法14条の保障する実質的平等、機会の平等を確保するという観点から、被告には、先行行為に基づく条理上の作為義務として、原告ら残留孤児の自立支援義務がある旨主張する。
そこで検討するに、原告らの上記主張によれば、条理上の作為義務発生の基礎となる先行行為は、① 被告が残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行ったこと(すなわち、当時の国際法に反する満州国の建国、満州国への開拓団等の日本人送出、満州における強引な農地確保、ソ連侵攻情報などの秘匿、根こそぎ動員、現地土着・日本国籍離脱方針など)、② 被告の早期帰国実現義務違反及び帰国妨害により、残留孤児の永住帰国が大幅に遅れたことの被告の一連の行為であるというものである。
しかしながら、原告らの主張②の被告の早期帰国実現義務違反及び帰国妨害の事実が認められないことは、先に説示したとおりである。
次に、原告らの主張①の「被告が残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行ったこと」とは、要するに、国家政策による満州への入植・国防政策の遂行という国の行為によって原告ら残留孤児を発生させたことを意味するものと解される。
そして、原告らが、帰国後、日本語能力が不十分であることなどに起因して社会生活上の様々な場面で不利益を受けていることは前記1で認定したとおりであるが、原告らのこのような不利益は、第二次世界大戦の敗戦前後の混乱の中で、原告らが孤児となって中国に取り残され、長期間にわたり帰国することができなかったこと、そのため原告らが帰国するまでの間に日本語を修得する機会を持つことができなかったことなどに起因して直接又は間接に発生した不利益であり、その出発点は原告らが敗戦前後の混乱の中で孤児となったことによるものであるから、第二次世界大戦及びその敗戦によってもたらされた損害ないし犠牲であって、戦争損害ないし戦争犠牲に属するものといわざるをえない。
そうすると、原告らが孤児となったことは、国家政策による満州への入植・国防政策の遂行という国の行為に起因するものの、その帰国後の社会復帰の過程において生じた不利益に対する支援の要否及び在り方については、戦争損害に対する補償の問題に帰着するものと解される。
ところで、戦中及び戦後において、国民のすべては多かれ少なかれその生命、身体、財産上の犠牲を耐え忍ぶことを余儀なくされていたのであるから、国民のひとしく受忍しなければならないものであり、このことは、その被害の発生した場所が国内又は国外のいずれであっても異なるものではないというべきである。
そして、戦争損害に対する補償の要否及び在り方は、事柄の性質上、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、これについては、国家財政、社会経済、当該被害(損害)の内容、程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断に委ねられているものと解される(最高裁昭和43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁、最高裁平成9年3月13日第一小法廷判決・民集51巻3号1233頁参照)。
また、行政府がその所掌事務に属する権限の範囲内で戦争損害に対する補償に係る政策を立案・実行する場合においても、上記と同様の総合的政策判断を要するものというべきであるから、その裁量的判断に委ねられているものと解するのが相当である。
したがって、原告らが孤児となったことが国家政策に起因するからといって、被告において、これを先行行為とする条理上の作為義務としての自立支援義務を負ったものと認めることはできない。
ウ(ア)  もっとも、引揚援護を所掌事務とする厚生省の主任大臣である厚生大臣及び同省の担当部局の職員による原告ら残留孤児に対する中国から帰国後の自立支援の施策の立案・実行に関する権限の行使又は不行使が著しく合理性を欠くと認められる場合には、これにより被害を受けた者との関係において、その裁量の範囲を逸脱したものとして、その行使又は不行使は違法となり得るものと解される。
これを本件についてみるに、前記前提となる事実のとおり、① 被告は、昭和21年4月25日次官会議で決定された「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」において、戦後海外に残留する者に対しては、国においては引揚援護を、地方自治体は帰国後の定着自立支援をそれぞれ担当するとされたことから、定着自立支援策については、当初、各地方自治体が、帰国者向け一時宿泊施設を設置したり、引揚相談所を設け、就職のあっせん、住居の世話等身近な生活問題の処理等を行ってきたこと、② 日中国交正常化(昭和47年9月29日)以降、永住の目的をもって日本に帰国する家族及びその家族が年々増加するに従って、孤児が日本社会へ定着して行く過程で、日本語習得の難しさ等の様々な問題が指摘されるようになり、日本の生活習慣や日本語を習得する訓練施設の設置要請が各方面から寄せられるようになり、厚生省は、昭和52年度から、各都道府県への委託により、引揚者生活指導員(昭和62年度より「自立指導員」に改称)を中国帰国者の家庭に派遣し、また、語学教材の配布などを行っていたこと、③ 厚生省は、昭和54年以降、中国残留邦人及び同伴帰国者(中国帰国者)については、中国から帰国した直後、帰国後の援護の内容、各種行政機関窓口、生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施していたこと、④ 被告は、懇談会の提言を踏まえて、帰国者の定着自立支援を強化する見地から、昭和59年2月、帰国直後の日本での適応促進を目的とするものとして、埼玉県所沢市に定着促進センターを設置し、昭和62年8月1日以降、新たに5か所(北海道、福島、愛知、大阪、福岡)の定着促進センターを開設したこと、その後、平成3年度には、孤児の帰国数が漸次減少したことにより、3か所(北海道、福島、愛知)の定着促進センターを閉所したこと、平成6年度からは、高齢(65歳以上)の中国残留邦人を扶養するために同伴して帰国する成人の子1世帯をも援護の対象としたことに伴い、その受入対応策の一環として中国帰国者定着促進センターの分室を山形及び長野に設置し、平成7年度には、宮城、岐阜、広島に新たな定着促進センターを設置したこと、⑤ 定着促進センター修了後の中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため、被告は、昭和63年6月1日以降、自立研修センターを全国各地に設置し、中国帰国者に対し、一定期間の通所形式による日本語研修、生活相談・指導、就労相談・指導等を行っていること、この間、平成6年4月6日、自立支援法が公布され、同年10月1日施行されたこと、⑥ 被告は、平成13年11月、自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として、東京都及び大阪府の2か所に、支援・交流センターを開設したこと、⑦ このほか、身元引受人制度、自立支援通訳制度、就籍費用の国庫負担、国民年金の特例措置(自立支援法13条、平成8年政令第18号)等の諸施策が実施されていることが認められる。
以上の認定事実を前提に検討するに、前記1(1)のとおり原告ら32名(別表1の原告番号1ないし32)のうち、29名が生活保護を受給していること及び原告らが帰国後に日本語能力が不十分なことなどに起因して社会生活上の様々な場面で不便を来たし、不利益を受けていること、平成11年調査にみられる中国残留孤児の生活保護受給率、就労率、日本語の習得状況等の生活実態(前記前提となる事実の6)に照らすと、原告らが主張するように被告の生活自立支援策が結果として十分な成果を上げることができなかった面があることは否定できないが、生活保護受給率、就労率等は社会経済情勢に大きく影響を受けるものであり、原告ら残留孤児の生活保護受給率、就労率等の生活実態のみから、厚生大臣及び同省の担当部局の職員において上記権限の不行使があって、それが著しく合理性を欠いたものであるとまで断ずることはできない。
また、事後的にみれば、被告(厚生省)が導入した上記各施策をより早期に導入することが望ましかった面はあるとしても、厚生省は、有識者で構成された懇談会の提言を受け、これを施策の指針として、中国残留孤児に対する施策を進めてきたものであるところ、懇談会の提言においても、残留孤児等の世帯が帰国直後に入所する帰国者センター(定着促進センターに相当する施設)の標準的な入所期間は4か月程度とし、その入所中に簡単な日常会話と日本社会における一般的な生活習慣を修得させた後、残留孤児が社会の中で自立することにより日本語を修得する考え方が示されていること(乙88)など、原告らが主張する被告が講ずるべき施策及び措置の中には当時の状況からは具体的に想定できなかったものを含むことをも考慮すると、被告(厚生省)は、その時代時代の具体的な事情の下において、総合的政策判断の下に、残留孤児の帰国後の自立支援の施策を立案・実行してきたものであり、その権限の行使が著しく合理性を欠いたものとは認められない。
(イ) さらに、原告らは、被告は、北朝鮮の拉致被害者等に対しては、拉致被害者支援法(北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律)に基づいて十分な支援をしているのに、原告らに対しては、同等の支援をしないのは、合理的な理由のない差別であるから、憲法14条に違反する違法な行為に当たる旨主張するが、拉致被害者支援法は日本が通常の独立国家としての活動ができる事態となった状況下において発生した事案を対象とするものであり、その被害は戦争損害ないし戦争犠牲と同視することはできないし、自立支援法及び拉致被害者支援法とでは制度目的が異なり、単純に施策の内容を比較したり、同列に論じることはできず、原告らの上記主張は採用することはできない。
その他原告らは、インドシナ難民、障害者に関する制度・施策と対比して被告の原告らに対する自立支援策の内容が不十分である旨の主張をするが、上記と同様に、単純に施策の内容を比較したり、同列に論じることはできず、原告らの上記主張は採用することができない。
エ 原告らは、残留孤児の生活保障及び老後保障のため、生活保護による扶助とは異なる特別法を制定しないことの立法不作為の違法を主張する。
ところで、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであつて、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるをえず、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであつて、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国賠法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものと解される(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁参照)。
このような見地からすると、国会議員の立法不作為が国賠法上違法と評価されるのは、特定の具体的な内容の立法を行わないことが、憲法の一義的な文言に違反している場合、すなわち、特定の具体的な内容の立法を行うべき立法義務が、憲法の明文をもって定められているか、又は憲法の文言の解釈上、その立法義務の存在が一義的に明白であるにもかかわらず、国会があえて当該立法を行わないというような例外的場合に限られるというべきである。
これを本件についてみるに、原告らが日本政府の国策による旧満州地区への入植・国防政策の遂行の結果孤児となり、長期間にわたり中国で生活したため、帰国後、日本語能力が不十分なことなどに起因して、社会生活上の様々な場面で不利益を受け、現状においては、原告ら孤児の多くが生活保護により生活をしている実態は看過することはできないが、原告らの孤児の生活保障及び老後保障のための特別法を制定すべきことを定めた憲法の明文の条項は存在せず、憲法の各条文の文言解釈上も、立法義務の存在が一義的に明白であるとは認められない。
そして、原告ら主張の特別法を制定するかどうかは、戦後補償という観点に加え、残留孤児に適用される年金制度の見直し等の見地からの総合的な検討が必要であり、その要否及び具体的な内容については、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、立法府の裁量に委ねられているというべきであり、本件における原告らの主張を前提としても、上記例外的な場合に該当するとまでは認め難い。
したがって、原告らの上記主張は採用することができない。
オ 以上によれば、原告ら主張の被告の自立支援義務違反も認められない。
3  結論
以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官・奥野寿則 裁判長裁判官・大鷹一郎は転補のため、裁判官・岡田慎吾は差し支えのため、いずれも署名押印することができない。裁判官・奥野寿則)

別紙  原告らの主張
第1 原告らの被侵害権利又は被侵害利益の有無(争点(1))について
1 原告らの地位
原告らは、いずれも、日本が第二次世界大戦に敗戦した混乱状態の中で、旧満州国(現在の中国東北部(黒竜江省、吉林省及び遼寧省))で肉親と死別又は離別して孤児となり、その後日本に帰国した者であり、各原告の経歴・現在の生活状況等は、別表1記載のとおりである。
なお、別表1の原告番号14亡X14は、平成16年10月11日死亡し、同人の妻である原告Aである原告B及び原告Cが訴訟承継した。
2 被害の実態
原告らは、被告による後記のとおりの早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反により、① 日本人であるにもかかわらず、人格あるいは生活基盤の形成過程において中国に取り残され、長年日本に帰国できない状態におかれたという意味での「中国に取り残されたことによる被害」、② 日本語によるコミュニケーションが不能あるいは極めて困難な状態に置かれ続けているという意味での「日本語会話の不能又は困難による被害」、③ 帰国後も、社会・経済・文化・政治その他あらゆる活動を通じて日本社会に参加する機会を奪われているという意味での「日本社会に参加できないことによる被害」、④ 帰国後、経済的に自立した生活を営むことができず、また、将来(老後)においてもそれが期待できない状況におかれているという意味での「経済的自立不能による被害」という4つの共通被害を被り、その結果、「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害された。
原告らの被害の実態は、別紙「原告ら個別被害事実」に記載のとおりであり、その被害の概要は、以下のとおりである。
(1) 中国に取り残されたことによる被害
第1に、原告らは、永住帰国した年と中国に取り残されていた年数は、別表1記載のとおりで、人格と生活基盤形成の重要な時期に、中国に取り残され、日本に帰国できなかった。敗戦後、日本に永住帰国できるまで平均で41年で、短いもので25年、長いもので55年間もの歳月がかかっており、このように原告らは、敗戦後、中国に取り残され、長期間帰国することができず、日本社会から隔絶された生活を余儀なくされたため、戦後日本の復興と繁栄の過程に参加する機会を奪われてきた、日本に帰国した後も、日本語教育の不十分さにより、日本語によるコミュニケーションができないこと、あるいは、経済的支援の不十分さにより経済的自立が困難な状況におかれていることは、復興と繁栄した日本社会に参加する機会さえも奪われ続けている(長期間帰国できなかった被害)。
第2に、原告らは敗戦後、日本政府の保護のないもとで、悲惨な逃避行や収容所生活などを強いられ、肉親の殺害や死亡、自らの生命の危機にも直面し、このような過酷な体験は、原告らの心に深い傷を残し、中国での生活は、この敗戦時の悲惨な体験を心の中に封じ込めたままではじまり、しかも、原告らは、日本人であることも隠して生きるよりほかなく、逃避行や収容所生活で受けた悲惨な体験を帰国するまで誰にも話すことができず、その後も長年にわたって中国に留め置かれることによって、この大きな心の傷を癒されることもないままに、その精神的な被害を回復することができなかった(悲惨な逃避行や収容所生活に起因し回復されなかった精神的な被害)。
第3に、原告らは、例外なく、家庭内の労働力として使われた、中国の養父母の中には、日本人孤児を自分の家における家内労働力として引き取った者もおり、原告らの中には、貧しい農村家庭などでは特に酷使され、およそ実の親の元で生活していれば考えられないようなひどい強制労働や虐待を養父母から受けた者、日本人孤児であることを理由に、中国人実子とあからさまに差別的な扱いを受けたり、人身売買同然に転々と複数の養父母のもとで生活した者、さらには、「童養息」(男児の妻とするため幼い時に買い取られた養女)とされ、自己の意思によらない婚姻を強いられることによって、人間としての尊厳を傷つけられた者もいる、また、原告のほとんど全員は、養父母の家庭の貧困や日本人孤児であることなどを理由に、小学校などの基礎教育さえ受けられず、それによって中国語の習得も遅れ、日本人であるが故の差別が助長された者もいる、このように原告らが日本語教育だけでなく、中国の教育も受けられなかったことは、原告らの日本語習得の困難さにも繋がった。教育を受けたことがないがために、勉強の仕方もよくわからず、日本語習得が困難になった(労働力としての使役・基礎教育の欠如)。
第4に、原告らの中には、稀に養父母に比較的大事に育てられた者もいるが、そのような原告でさえ、養父母が原告らを引き取った目的は、自分らの老後の扶養であったり、あるいは、「異民族の養父母」、「血のつながりがない」という埋めることのできない感情の中で、不自然な親子関係を持つことを余儀なくされ、また、原告らの中には、長年、自分が日本人であることを知らされず、養親を実親であると信じて生活していたものの、突然、「日本人の養子である」と聞かされ、それまで築いてきた親子関係に不信と不安を抱かざるをえなかった者もおり、このように原告たちは、人格形成時期を不自然な親子環境の元で過ごすことによって、人間の尊厳と自己実現の途を奪われ続けてきた(自然な親子関係を築けなかった被害)。
第5に、中国では侵略戦争を行った日本に対する反日感情は厳しく、特に原告らが居住していた中国東北三省では、戦前に日本人に土地を奪われ、虐げられた多くの中国人民衆の鬱憤や反感が、残留孤児に向けられ、原告らの多くは、日本人として「小日本」、「日本鬼子」などと呼ばれて馬鹿にされ、たたかれる、石を投げられる等のいじめにあい、また、比較的恵まれた家庭に引き取られた者でも、日本人の子どもとしていじめられたため、家族が何回も引越を重ねたり、昭和41年から始まった文化大革命の時代には、外国と繋がりのある者は迫害され、侵略戦争を行った日本人の子どもであることが周囲に知れると、厳しい迫害を受けるため、日本人であることを必死で隠していた者も多く、さらに、周囲には知られずに直接的な迫害を受けなかった者も、常に周囲の目に怯え暮らさなければならなかった、このように原告らは、日本が侵略し、多数の中国人を殺害するなど日本への敵意が蔓延する中国の地に残されたことにより、日本人であるがゆえに、職場、地域、学校などあらゆる場面で、過酷な迫害や差別を受けてきた。「小日本」という蔑称による子ども時代のいじめにはじまり、職場での昇進拒否、重要な企業や部署・地位からの排除、中国共産党への入党拒否などの不利益を受け、特に文化大革命の時期には、スパイなどの汚名を着せられ、大衆の前で、批判されることなどの屈辱も受けた(日本人であるための差別・迫害)。
第6に、原告らの中には、実父母と離別した時から自らが日本人であることを覚えていた者もあれば、幼少期にこれを知った者、成人に達してから知った者もあるが、原告らは共通して、自分が日本人として、自分の日本の親や親に繋がる親族と再会したい、日本の地に帰って生活したいという、極めて自然な感情として強い望郷の念を抱き続けていたところ、日本と中国の国交が正常化した昭和47年9月29日以降、原告らは、被告に対し、身元調査や帰国の希望を手紙などで訴えるようになったが、国は消極的かつ場当たり的な対策を講じるだけに終始し、身元調査は進まず、また、ある程度残留孤児の居場所を把握していたにもかかわらず、積極的な動きを見せなかったために、原告らの帰国の希望はなかなか叶えられなかった、さらに、被告は、日中国交回復後に中国旅券で来日するようになった中国残留孤児を、出入国管理及び難民認定法上外国人として取り扱った結果、帰国しようとする「残留孤児」は身元保証人を要求され、身元判明孤児は親族の同意を得なければ、永久帰国できず、他方、身元未判明孤児は彼等に在日親族がいないために永住帰国することは事実上不可能であり、このように、残留孤児は、長年の中国生活及び日本語が話せないことをもって、被告から「中国人」「外国人」あるいは、「日本社会における異分子」という扱いを受けつづけ、帰国に苦労したこと自体によっても、強い精神的苦痛を味わった(帰国遅延による精神的苦痛)。
(2) 日本語能力の不能又は困難による被害
ア 被告が昭和59年から平成11年までの間に8回にわたり中国帰国者に対して実施した生活実態調査(乙119の1から8)によると、「簡単な日常会話(買い物や交通機関、郵便局、銀行等において一人で用事を済ませることができる)が習得できていない」と答えている者が、平成元年の調査で22.1%、平成5年の調査で18.2%、平成7年の調査で27.9%、平成11年調査では、32.7%となっており、初歩的な日本語能力すら、身についていないという者が、調査対象者全体の約20〜30%も存在している。
また、上記生活実態調査によれば、帰国後6か月以内に簡単な日常会話を身につけたと答えた者は、平成元年調査で21.9%、平成5年調査で27.6%、平成7年調査で13.0%となっており、平成11年調査では、帰国後1年以内に簡単な日常会話を身につけたと答えた者が27.4%にとどまっている。
被告は、毎回生活実態調査において、「孤児」たちの日本語理解度を調査しており、日本語理解度を、① まったくできない、② 片言の挨拶程度、③ 買い物に不自由しない程度の会話ができる、④ 職場の人と仕事の話ができる、⑤ TVニュースで話している内容がわかる、⑥ 会話に何の不便を感じないという6段階に分類し、割合を出しているところ、原告らが、日本に定着し、自立していくためには、職場でコミュニケーションがとれ、かつ人と人とを結ぶ手段としてのより高度な日本語能力として、⑤以上の日本語能力が最低限必要である。ところが、⑤以上の日本語能力を身につけていると答えた者は、昭和62年調査によれば18.3%、平成元年調査によれば19.4%、平成5年調査によれば11.7%、平成7年調査によれば15.5%で、平成11年調査によれば、現在生活保護を受給している者で5.0%、今は生活保護を受給していないが、以前受給していた者で11.0%、生活保護を受給したことがない者で14.6%という状況であり、ほとんどの者が、真の意味で自立するための要である日本語能力を身につけていないことが明らかである。
さらに、全国の原告団で行ったアンケート調査(甲総A13―1 アンケート調査中間報告・全国(原告団))でも、日本語の習得度について、「少し話せるが会話はできない」とするものが59%、聞いて半分くらい分かるけど日本語は全く話せない」が18%いる。
以上のとおり、「孤児」たちのほとんどが、帰国直後のみならず、帰国してから何年も経過した現在に至っても、社会的に自立するために本来求められるべき、日本語能力を身につけるに至っていない。これは、後に述べるように、「孤児」たちの国費帰国が始まった当初は、国として日本語教育を全く行わずに、「孤児」任せにしたこと、その後、ボランティアなどの度重なる要請に押され、定着促進センターを作り、さらに遅れて、自立研修センターを作るなど、総合的な見通しもなく、場当たり的な施策を繰り返したこと、さらに、自立研修センター修了後の教育については、全くといっていいほど施策を行わなかったことなど、被告の施策が著しく不合理であったことが原因である。
イ 原告らの日本語会話の不能又は困難は、原告らが日本に帰国した後も社会・経済・文化・政治その他あらゆる活動を通じて日本社会に参加する機会を奪われている最大の要因にもなっている。原告らが日本に帰国して被ってきた被害は、次のような場面で最も顕著にあらわれている。
第1に、原告やその配偶者らは、高齢になり、病気などの治療のために医療機関で診察を受けることが不可欠になっているところ、日本語が理解できず、話せないために、医師への症状伝達や説明理解の困難を生じている(医療機関におけるコミュニケーションの困難)。
全国の原告団で行ったアンケート調査(甲総A13―1 アンケート調査中間報告・全国(原告団))でも、日本語で現在も困っていることとして、「病気したときに医者と会話ができない」をあげたものが83%もいた。このような事態は、単に日常生活上の便宜というレベルにとどまらず、状況によっては、生命の危険にも直結する重大なものである。
第2に、原告らは、日本語が不能又は困難なために、就労することができないか、又はきわめて低賃金の労働の機会しか得ることができなかった(就労機会の制約)。
第3に、原告らは、日本語ができない、又は不自由であるために、日本人であるにもかかわらず、日本社会において「中国人」として扱われることとなり、家族も含めて職場、地域で賃金・昇給差別を受けたり、いじめを受けている(地域、職場でのいじめや差別)。これは、被告が、中国残留孤児問題について、自らの責任を明らかにせず、日本国民に対し十分な啓発活動を行ってこなかったことによるものである。
原告らは、中国にいるときは日本人、日本にいるときは中国人として扱われ、差別を受け、社会から疎外され続けている。
(3) 社会参加できないことによる被害
原告らは、日本に帰国した後も社会・経済・文化・政治その他あらゆる活動を通じて日本社会に参加する機会を奪われている。
その原因は、前記の日本語能力の困難や、長年にわたり、中国に残され、日本での生活基盤(人的財産、社会的財産、経済的財産など)を築く機会が奪われ、そのハンディキャップを回復できるだけの自立支援がなされなかったことにある。
そのために、地域や社会とコミュニケーションが取れないために孤立している。また、子育てに際しては、学校行事への参加や担任教員との意思疎通が日本語能力の不足により著しく阻害された。
日常生活における社会サービスなど社会生活上のアクセスの困難があるほか、テレビ、新聞が分からないために、日本社会への理解が深まらない。したがって、主権者としての参政権も行使することもできないでいる。
また、中国で専門的な仕事や能力で従事していた原告も、日本でその能力を十分に発揮する職業にはつけず、その自己実現の機会を奪われた。
第1に、日本語ができないことにより、原告らは地域や社会とコミュニケーションをもつことがきわめて困難で、地域などで孤立を強いられている(地域・社会とのコミュニケーションの欠如)。
関東在住の中国残留孤児二世・三世グループが実施したアンケート調査(以下、全国アンケート調査という、甲総A13―1・13頁)において、日本人の友達や近所の人との交流に関する質問に対する回答で、「日本語がわからず日本人との交流は少ない」と回答した者が63%、「日本人との交流・友達は全くいない」と回答した者が28%と回答者の9割以上を占めていることは、「孤児ら」が帰国後も日本社会において新たな人的関係を築くことができなかったことを、端的に示している。
第2に、これまでに述べたような現在の孤児の悲惨な状況について、本来であれば、日本国民である孤児らは、表現の自由を駆使し世論に訴え、また参政権を行使することにより直接に国政にその意思を反映させる方途があるはずである。
しかし、原告らは、日本語能力が不能又は困難なために、主権者たる選挙権の行使も阻害されている。選挙に参加するには、選挙公報や政党や候補者の政治活動ビラを読んだり、テレビでの政党討論会、政見放送や街頭演説を聞いたりできることが必要である。しかし、原告らは日本語能力が不能又は困難であるために、政治参加の機会が妨げられている。このために、自らの意思を国政に反映させ、権利の保障を図る、といった民主主義の根幹に関わる方法すら制限されているのである(参政権が行使できない)。
第3に、原告らは、日本に帰国後、日本において子育てなどに従事したが、学校行事への参加や担任教員との意思疎通が日本語能力の不足により著しく阻害された(学校などにおけるコミュニケーションの困難)。
その順応性に差はあるものの、原告ら孤児の子どもたちも、日本社会への適応という点では、大きな問題を抱えていた。特に、思春期を迎え複雑な人格形成期にある2世にとって、突然の環境の変化に戸惑うことは少なくなかった。そのような場合にでも、原告らにとって、担任の教師などからその子らの状況について十分に説明を受けることが、日本語能力の欠如のために難しかった。このため、原告らは自身の苦悩のみならず、愛するわが子の苦悩を受けとめることすら困難な場合が多かった。
第4に、原告らは地域社会、職場における意思疎通、就労機会の制限、医療機関や学校などにおける意思疎通の困難のほか、社会的なサービスを受けたりするうえでも多大な困難を生じている(社会サービスなど社会生活上のアクセスの困難)。
全国の原告団で行ったアンケート調査(甲総A13―1 アンケート調査中間報告・全国(原告団))でも、日本語で現在も困っていることとして、「役所などで日本語ができず、手続ができない」をあげたものが51%もいた。
第5に、原告らは、重要な情報獲得手段であるテレビ放送も理解できず、新聞も読めないために日本社会のことが理解できず、社会に参画することができない(日本社会のことが理解できない。)。
前記の中国帰国者に対する生活実態調査(乙119の1から8。なお、甲総D11)でも、⑤「TVニュースで話している内容がわかる」以上の日本語能力を身につけていると答えた者は、昭和62年調査によれば18.3%、平成元年調査によれば19.4%、平成5年調査によれば11.7%、平成7年調査によれば15.5%で、平成11年調査によれば、現在生活保護を受給している者で5.0%、今は生活保護を受給していないが、以前受給していた者で11.0%、生活保護を受給したことがない者で14.6%という状況である。
このことを陳述録取書に記載しているものは一部だが、前記の日本語能力で分かるように、テレビ放送や新聞などが理解できず、日本社会への理解が深まらない点では、多くの原告が共通している。
第6に、原告らは、そのほとんどが中国で仕事に従事し、専門的な仕事や熟練労働を含めて、その経験や能力を培ってきたが、日本に帰国してからは、日本語の壁などから、その能力や経験を生かせず、自己を実現する機会を奪われている(自分の能力・経験を生かせない)。
(4) 経済的自立不能による被害
ア 原告らは、いずれも、高齢となり、老後生活に入るか、その時期に差しかかっているが、経済的に自立して老後生活を送る機会を奪われ、きわめて低い生活レベルに止めおかれている。
総務省統計局作成の平成14年度家計調査年報の「第8―5 世帯主の年齢階級別貯蓄及び負債の1世帯当たり現在高(全国・全世帯)」によれば、世帯主の年齢が70歳以上の世帯(平均年齢75.0歳)における持ち家率は90%、平均貯蓄額は2552万円とされている。すなわち、平均的日本人の場合、70歳に到達する頃には、そのほとんどが自分の家を持ち、また2500万円以上もの老後に備えた蓄えを持つことができているのである。
しかしながら、原告らのほとんどが生活保護を受給しており、またその全員が老後の不安を訴えている。原告らは、多くの日本人がするように、自分の家を持つことも、老後の生活に備えた蓄えを有することも、全くできなかったのである。
前述したように平均帰国時年齢約48歳、中国生活平均年数約42年という数字が示すように、原告らは、人にとって、経済的基盤を確立するうえで最も重要な時期を、中国社会で生活せざるをえなかった。このことは、逆に、日本社会において、就労等の経済活動によって経済的基盤を確立することをことごとく奪われてきたことを意味している。そして、原告らは、帰国後も、その経済的基盤を築くことができなかった。
さらに、通常の日本人が老後生活を蓄えと年金により支えているのに、原告らは、その年金によって老後の安心を得ることもできない。
まず、原告らは、帰国時期が遅れたために、国民年金受給資格に必要な掛け金支払年数を満たすことが困難となった。また、厚生年金についても、就労できないか、就労できたとしても就職が困難で賃金も低額であったため、受給できず、あるいは受給できた者もせいぜい月額3万〜5万円という低額にとどまっている。
被告は、ようやく平成8年に国民年金の特例措置を設けたが、それは、国民年金の国庫負担分(通常支払われる年金額の3分の1まで)を支給するに過ぎず、極めて不十分なものであった。この特例措置によって原告らが受給する国民年金はわずかに月額約2万円である。そして、この特例措置による国民年金分は生活保護を受給する残留孤児への保護費支給において、収入と認定されて保護費から差し引かれる(生活保護実施要領の「収入の認定」で「就労による収入以外の収入」として国民年金支給額も収入認定される取扱いとなっている)ので、生活保護を受給している大半の残留孤児には何ら生活の向上には役立っていない。
原告ら32名の収入から、特例措置による国民年金と生活保護受給費を除いて、原告らの自立した収入、すなわち、原告らが加入した厚生年金や国民年金収入、アルバイト収入を見ると、ほとんどがゼロであるし、あっても数万にとどまる。
その結果として、原告らは生活保護を受給するほかない。原告32名のうち、生活保護を受給しているものは29名にのぼっている。また、生活保護を受給していない3名(原告X1(原告番号1)、原告X21(原告番号21)、原告X28(原告番号28))についても、その収入は生活保護の水準と変わらないか、むしろ、それ以下である。
子らの援助を除いた年金、生活保護などの収入は、配偶者と二人世帯平均で、月額15万円程度、単身世帯で8万円にすぎない。しかも、アルバイトや厚生年金などの独自収入はほとんどなく、原告らは生活に必要な経費のほぼ全額を生活保護に頼って暮らさざるをえないのである。
イ 原告らは、現在の物質的・精神的に苦しい生活や老後の不安について、次のように主張する。
第1に、原告らの収入は生活保護基準かそれ以下であるために、生活の実際はきわめて質素なもので、たいへん生活に苦労している。また、原告らの住居はいずれも公営住宅や借家であり、貯蓄もできておらず、余裕が全くない。
また、原告らは経済的自立ができていないために、自己実現をする機会も保障されていない。ほとんどの原告は、帰国後、経済的な余裕がなかったために、旅行や文化活動などにも参加できていない。旅行や文化活動は、生活の質を高め、同時に他人との交流を深めて社会における自己の地位を確立していく格好の機会であり、人が尊厳をもって生きていくためには必要不可欠のものである。しかし、原告らは、その機会が保障されず、精神的苦痛を感じている。
第2に、高齢化した現在においては再び生活保護に閉じ込められるという不当な扱いを受けている。原告らに対して、通常の一般的な貧困対策である生活保護制度しか適用されないことにより、様々な不利益を被り、多大な精神的苦痛を受けている。
具体的には、原告らは生活保護受給に伴い、子からの援助がないか、中国に帰国していないかなど生活保護制度からくる監視を受けて生活することを余儀なくされている。原告らは、健康を害したり、一人暮らしの者も多く、唯一の話し相手になってくれる子どもたちとも一緒に暮らしたいと考えているが、経済的自立が困難な状況では、子や孫らと同居することもできない。
原告らは、収入のほとんどを生活保護に頼らざるをえない現状であり、同居すれば子どもたちの収入も収入認定されて、生活保護費が減額されてしまう。そのため、自分が同居することで子どもらに負担をかけてしまうという気持ちが強く、結局、同居をあきらめざるをえない。これは、原告らに、補足性の原則を貫く貧困対策である生活保護制度を適用することからくる大きな問題点である。
生活保護受給から来る重大な制限に、「中国へ里帰りできない」ということがある。
生活保護行政においては、対象者が国内にいない場合は、保護の必要がないものとして保護が停止される(生活保護法26条)が、原告ら残留孤児が中国に墓参りなどに一時帰国すると、これと同じ扱いをうけて住宅扶助を含めて停止され、家賃も支払えなくなる。
原告らが、中国で墓参りをし、養父母や親戚・知人に会うことは、原告らの心が最も安らぐ大切な行事のひとつなのである。それにもかかわらず、中国に墓参りなどに一時帰国しただけで、生活保護が住宅扶助を含めて停止されるために、帰国することができない。そのことによって、原告らは多大な精神的苦痛を受けている。
原告らにとって、生活保護に頼らざるを得ない帰国以後の生活は、中国での自立した生活とのギャップが大きく、耐え難いものである。「他人の税金で養ってもらっている」と、自分自身もゆえなき負い目を感じてしまう。
加えて、周囲の無理解・偏見がある。「本人の努力不足」といった、生活保護受給者一般に対する偏見に加え、本来ならば被告が孤児に対し独自の自立支援策を講じるべきなのに、それをせず生活保護の制度に押し込めていることに対し、それを国の責任ととらえるのではなく、孤児が不当に生活保護を受給しているかのように誤解して、原告らに冷たい視線を投げかける者が少なくない。
これらのことにより、原告らは、著しい精神的苦痛を受け続けている。
そもそも原告らは、被告自身の行為(中国への侵略とそれに伴う国策としての満州への入植促進、そして戦後の棄民)によってこのような人生を送ることになったのである。被告がその事実を真摯に受け止め、原告ら残留孤児に対していたわりの気持ちを持って具体的な支援策を打ち出していれば、地域社会の原告に対する理解も深まり、原告がこのようにつらい思いをしながら生活することはない。その意味で、残留孤児のための年金等が用意されていないという事実は、単に金銭の問題にとどまるものではなく、原告らの自尊心を傷つけ、重大な精神的損害をもたらしている。
第3に、原告らは、身元が不明であったり、判明していても、親兄弟がいないなど親族関係が崩壊していることが多く、また、経済的に自立困難な状況にあることから、墓を自前でつくることもできず、不安を訴えている。
祖先の墓に入ることが当然に予定されたり、自分の資力で墓地や納骨場所を用意できたりする者には想像しにくい、孤児特有の不安であるが、死後においても自らの居場所が見つからないというのは、これも見逃すことができない大きな精神的苦痛である。
3 権利侵害
日本国憲法は、個人の尊厳に最高の価値をおき、自らが幸福であると信ずるところを追求し、個人が人格的発展を遂げること、すなわち、自己実現を図る権利を保障している(13条)。この個人の尊厳の保障をより具体化するものとして、法の下の平等(14条)、奴隷的拘束及び苦役からの自由(18条)、表現の自由(21条1項)、居住・移転及び再入国の自由(22条1項)、職業選択の自由(22条1項)、学問の自由(23条)、家族生活における個人の尊厳と両性の平等(24条)、財産権(29条1項)といった種々の自由権が保障されている。
さらに、個人の尊厳の保障あるいは自己実現を図る権利の保障の基盤となるべき権利として、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利(27条)といった社会権が保障されている。
また、幸福追求権を行使しうる社会的・政治的環境を作り出すための選挙権、請願権といった参政権(前文1段落、15条、16条、44条等)が保障されるとともに、自己の権利や法益が侵害された、あるいはその侵害の危機にさらされた場合にその救済あるいは回復を求めるための裁判を受ける権利(32条)が保障されている。
この個人の尊厳(人間の尊厳)、幸福追求権、自己実現を図る権利には、当然のことながら、「日本人としての自覚をもち、その自覚に基づいて自らを表現し、行動することについて、他者から抑圧・制限されない権利」(日本人としてのアイデンティティを持つ権利)も含むものである。
また、個人の尊厳(人間の尊厳)が尊重され、幸福追求権、自己実現を図る権利が保障されるために、家族・知人といった人的関係を築き、日本語教育を含む義務教育を受け、経済的自立のための就労等の経済活動をすることによって、社会生活基盤を確立する機会が与えられている。
そして、このような教育及び経済的基盤を基礎として、社会・経済・文化・政治その他あらゆる活動を通じて日本社会に参加し、自己の幸福を追求し、あるいは自己実現を図る権利が与えられている。
また、自己が個人として尊重され、あるいは自らの幸福追求あるいは自己実現を可能とする社会的・政治的条件を作り出すための諸活動や参政権といった権利が保障されるとともに、自己の権利ないし法益が侵害されたときに、その救済や回復を求めるための裁判を受ける権利を行使する機会が与えられているのである。
すなわち、① 日本人としてのアイデンティティを持つ権利、② 自己実現を図る権利(自己実現を図る機会が与えられる権利)、③ 日本社会における生活基盤を築く権利をその本質とする「祖国日本の地において、日本人として人間らしく生きる権利」とは、日本国憲法全体において保障された、国民固有の根本的な権利であるといえる。
ところが、原告らが「長年中国社会に取り残されてきた」ということは、原告らの帰国の自由が奪われたことを意味するだけでなく、日本で生活した場合に、当然、日本国憲法によって保障されるはずであった、国民なら誰しもが当然享受しうる諸権利をことごとく奪われたことを意味する。
そして、原告らが、日本社会においても「日本語によるコミュニケーションが不能あるいは困難であること」及び「経済的自立が困難であること」は、原告らが、日本人としてのアイデンティティを持つ権利を含め、自らの信ずるところにしたがって、幸福を追求し又は自己実現を図る機会すら奪われ、また、社会生活基盤そのものを構築する機会すら奪われてきたことを意味する。
また、「日本社会へ参加できないこと」とは、「日本社会への参加」それ自体が幸福追求権あるいは自己実現の内容であるとともに、自己実現を可能とする社会的・政治的条件を作り出すための表現活動、参政権が奪われ、また、侵害された自己の権利・法益の救済あるいは回復を国政あるいは司法に求める手段すら奪われていることを意味する。
以上のとおり、原告らは、① 「中国に取り残されたことによる被害」、② 「日本語会話の不能又は困難による被害」、③ 「日本社会に参加できないことによる被害」、④ 「経済的自立不能による被害」という4つの共通被害を受けたことにより、全人生及び全人格にわたって、日本国憲法全体によって保障された「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害され続けている。
4 被害・損害の特質
(1) 共通性
原告らは、敗戦時、中国東北部(旧満州地域)において、肉親と死別あるいは離別して、一人中国に残された者達である。そして、敗戦時の原告らの年齢は、最高で16歳(女性)、最少で0歳、平均年齢6歳であり、自力で帰国することはおろか、自力で生きていくことすら困難な状況であった。このため、原告らは自らが生き延びるために、中国家庭で養育を受けざるをえなかったのである。
さらに、帰国が遅れることによって、原告らは、人格及び生活基盤を確立するうえで、最も重要な10代、20代という時期を通じ、短い者でも25年、長い者では55年という長期間にわたり、中国社会・文化に深く同化して生活することを余儀なくされた。その結果、原告らは、日本語によるコミュニケーション能力をはじめ、人的関係、教養、経済基盤といった日本社会において生活するために必要不可欠な基盤を失うことになった。
このように、原告らには、自らの力で帰国することが極めて困難であり、また、長期間の中国社会に同化しての生活を余儀なくされたことにより、日本社会の生活基盤を全く失っていたという共通の特性を有している。
(2) 連続性、累積性、拡大性、現在性
被告による帰国実現の遅れは、日本社会との隔絶された期間の長期化であり、中国社会への同化の深化を意味するものであるから、必然的に日本語及び日本文化習得、人的関係の形成、就労等の経済活動といった日本社会で自立した生活をし、日本社会に参加するための最低限の基盤の喪失を深めていくことになった。
さらに、帰国した原告らに対する被告の日本社会における生活基盤の回復及び補完に対する支援の欠如は、さらに、原告らの日本社会での自立した生活及び日本社会への参加を困難ならしめた。
特に、日本社会での生活及び日本社会への参加にとって、極めて重要なものは、日本語によるコミュニケーション能力であるところ、一般的に語学習得能力は年齢とともに低下するという関係にあることから、帰国実現や自立支援の遅れとともに原告らは高齢化し、より一層、日本語の習得に困難を極めることになった。
そして、日本語によるコミュニケーションが困難であることは、人的関係を悪化させ、就労等の経済活動をさらに困難にし、ますます、原告らは自立的生活を営み、日本社会へ参加していくことが困難になり、孤立を深めていくことになった。被告の不作為が継続すれば継続するほど、原告らの被害は、連続し、累積していったのである。
さらに、原告らは、自ら被害・損害を回復していく手段を、被告によって奪われ続けてきたことも、原告らの被害・損害を拡大させていくこととなった。
すなわち、被告の早期帰国実現義務違反は、原告らを日本社会から隔絶させ、原告らが日本社会に対し、自己の存在やその窮状を訴え、自己の救済と早期の帰国を求めることさえ困難にしてきたのである。
今、原告らは、平均年齢65歳を超え、老後を迎えている。しかし、原告らに残されたものは、何も無い。原告らは、十分な日本語能力も身につけることができず、自分の健康状態を医師に伝えることも、地域において人間関係を築くことも困難な状態であることは、帰国直後と何ら変わりない。
さらに、「孤児」の生活保護受給率は、年々上昇し、現在では「孤児」世帯の7割が生活保護受給世帯であるうえ、今後、さらにその数字が、増大することが予想されている。「孤児」らの中で、単身あるいは夫婦のみで世帯を構成し、子どもらと同居する世帯がほとんどなくなっていることも、「孤児」らの経済的困窮が進み、家族からの孤立も進んでいることを示している。
今、老後を迎えた原告らを待つものは、精神的に不安を抱え、経済的にも多くの制約を課された、日本社会から疎外された孤立した生活だけである。このことは、原告らは、日本語能力の欠如、経済的自立の困難性によって、未だに生活の基盤を築く機会を奪われ続け、そして、自己実現を図る道を閉ざされ続けていることを意味している。
被告の自立支援義務違反の継続は、原告らの被害を今もなお、拡大させ、継続させ続けているのである。
また、早期帰国実現義務違反と日本語教育を中心とした自立支援義務違反から引き起こされた日本語によるコミュニケーション能力の欠如は、原告らが、行政・政治・司法といった国家機構のみならず、友人、知人、地域社会といった身の回りの人にさえ、自らの被害・損害を訴え、被害回復や被害回避のための助言や助力を求めることさえ困難ならしめてきた。
(3) 被害の包括性・全面性
原告らの被害は、全人格に及び、全人生にわたる被害である。
敗戦直後、原告らは、中国に取残されるとともに、中国社会への同化を余儀なくされ、日本人としてのアイデンティティを持つ権利を奪われ、さらには、中国人養父母又は中国社会の中で、個人の尊厳そのものが侵害され、あるいは自己実現の道が奪われてきた。
中国における長期間の生活は、帰国した原告らから、日本社会で生活するうえでの必要不可欠な基盤を完全に奪った。そして、被告の自立支援策の無策により、帰国後も、原告らは、失われた基盤を構築する機会さえ奪われてきた。
日本語によるコミュニケーションが困難な状態におかれ、日本社会に参加することもできず、経済的にも自立が困難な状態におかれつづけてきた。
このような状況は、原告らから、日本社会において、自己実現を図る機会さえも奪うことになった。
そして、原告らは、いまもなお、社会から孤立し、疎外された生活を続けているのである。
このように、原告らは、人間の尊厳あるいは幸福を追求する権利を、敗戦時以降現在に至るまで奪われ続けているのである。
5 被告の主張に対する反論
(1) 日本国憲法は、個人の尊厳にその最高の価値をおき、基本的人権を保障している。そして、個人の尊厳と基本的人権の保障を実現するため、国民を主権者とし、あらゆる国政の過程あるいは社会活動に主権者たる国民が参加することができるシステムを定めている。
しかしながら、被告は、国民たる原告らを、中国に置き去りにし、長期間の中国生活を余儀なくさせることによって、原告らを日本社会から排除してきた。また、帰国後も自立支援を行なわず、実質的に国政の過程や社会活動から排除してきた。すなわち、被告は、日本の主権者たる原告らを、あらゆる国政の過程あるいは社会活動から、排除してきたといえる。
そして、その結果、原告らは、あらゆる局面で、自己実現を図る機会を奪われ、日本社会における生活基盤を構築することができず、人間の尊厳が深く傷つけられてきた。このような原告らの被害実態は、日本国憲法の基本的精神に完全に反するものである。
このような原告らの状況を、戦争被害としてとらえ、「日本国憲法が想定していない被害」であるとし、「その補償は行政の裁量に委ねられている」という主張は、まさに主客転倒、本末転倒の議論であり、日本国憲法に対する背理以外のなにものでもない。
原告らが、戦後、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」を奪われ続けてきた損害が填補され、回復されることは、まさに、日本国憲法の要請するところである。
(2) 被告は、原告らの本件請求は、国賠法施行前の被告の違法な先行行為に基づく損害の賠償を請求するものであって、国賠法附則6項により国家無答責の原則が適用されるから認められない旨主張する。
しかし、原告らは、本訴請求の根拠とする被告の公務員の違法な公権力の行使は、後記のとおり、昭和33年7月(引揚事業打切り)から現在に至るまでの被告の作為・不作為による行為をいうのであって、同法施行後の国の行為を本件における違法行為に基づく損害賠償を請求しているのであるから、被告主張の国家無答責の原則が適用となる余地はない。
また、そもそも、被告主張の国家無答責の原則は、国民主権及び基本的人権の尊重を基本原理とし、13条において個人の尊厳を規定し、これを受けて17条において国民の国家賠償請求権を基本的人権として保障している日本国憲法の下においては、これらの基本原理及び規定に著しく反し、全く合理性・正当性を有さないことは明らかであるから、国家無答責の原則を現行の法令である国賠法附則6項の趣旨に含まれると考えることは、まさに憲法の趣旨に反する解釈であり、許されないというべきである。
なお、原告らは、後記のとおり、被告の先行行為に基づく作為義務の当該先行行為は、違法な先行行為であるとは主張してはいない。
第2 被告の公務員の違法な公権力の行使の有無(争点(2))について
1 原告らの主張の概要
原告らが、現在でも被り続けている被害の内容は、多岐にわたるものであるが、この被害は、被告が戦前国策として行った「満州国」への日本国民の送出に起因し、その後現在までに至るまで取られている一連の政策に起因するものである。被告の一連の政策の違法性は、① 原告らの帰国を制限又は妨害し、原告らを早期に日本に帰国させる義務(早期帰国実現義務)を怠ったこと、② 帰国後の原告らの生活の自立を支援する義務(自立支援義務)を怠ったことに求められる。
2 早期帰国実現義務違反
(1) 早期帰国実現義務の発生
被告は、本来、敗戦直後の段階で、中国残留孤児を含め国外に取り残された全ての国民を日本に早期に帰国させる義務(早期帰国実現義務)を負い、遅くとも、日本が自主外交権を回復し、中国側も残留邦人の引揚げに対する協力を申し出て後期集団引揚げが開始された昭和28年3月の時点以降は、国外に取り残された残留邦人に対する具体的義務であったというべきであり、原告ら残留孤児に対し、より高度なものとなっていた。
被告の早期帰国実現義務の法的根拠は、以下のとおりである。
(2) 憲法、法律及び条約
ア 憲法及び法律
(ア) 憲法13条
憲法13条は、個人の尊厳と幸福追求権を保障するものであるが、母国日本に帰国し、日本人として成長することは個人の尊厳の重要な要素であり、これを実現することは個人の幸福追求に対する最低限度の保障であるというべきである。
被告は、国民が他国で個人の尊厳ないし幸福追求権を否定される環境におかれている場合、憲法13条に基づいて、その人権を回復するため帰国のための措置をとるべき義務がある。
(イ) 憲法22条
憲法22条は、居住・移転の自由及び海外への移住の自由を保障するものであるが、日本国民が海外から日本へ帰国する権利も保障すると解すべきである。
原告らは、幼くして中国に取り残され、自ら日本に帰る手段を持たなかったから、被告は、憲法22条に基づいて、原告らの帰国の権利を実現すべく具体的な措置を講ずる憲法上の義務を負っていた。
(ウ) 憲法26条及び教育基本法
憲法26条は、「すべて国民は、……その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、これを受けた教育基本法は、被告が子供たちに必要な教育を施す義務のあることを定める。
原告らは、幼くして肉親と死別・離別して中国人社会の中で成育することを余儀なくされ、日本人として教育を受ける機会を完全に奪われたのであるから、被告は、憲法26条及び教育基本法に基づいて、原告らに日本人として生きていくための教育を受けさせるために、原告らを帰国させる義務を負っていた。
(エ) 児童福祉法
児童福祉法は、「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身共に健やかに育成する責任を負う。」(2条)として、種々の施策を行うべきことを義務づけているところ、その趣旨は、児童の保護者が子供の育成に力を発揮できないとき、被告が保護者に代わって児童の育成を図ろうとするものである。
原告らは、幼くして肉親と死別・離別して中国人社会の中で成育することを余儀なくされ、肉親による保護が受けられない状態に置かれたのであるから、被告は、児童福祉法に基づいて、原告らの権利侵害の状態を回復するため、原告らを帰国させる義務を負っていた。
(オ) 未帰還者留守家族等援護法29条
未帰還者留守家族等援護法(昭和28年法律第161号)は、未帰還者が置かれている特別の状態にかんがみ、国の責任において、その留守家族に対して手当を支給するとともに、未帰還者が帰還した場合において帰郷旅費の支給等を行い、もつてこれらの者を援護することを目的とし(1条)、「国は、未帰還者の状況について調査究明をするとともに、その帰還の促進に努めなければならない。」としている(29条)。
未帰還者留守家族等援護法は、未帰還者の帰還については、国が重大な責務を有するものであり、現に未帰還者の置かれている特別の状態を考慮すれば、その留守家族に対しては、国の責任において援護を行うことが当然と考えられていたことから制定されたものであり、その制定当時、旧満州地区などに取り残され日本に帰国できない未帰還者が発生したことにつき、国に大きな責任があるということを当然の前提としているものと考えられる。また、「未帰還者の置かれている特別な状態」とは、日本人である以上、希望すれば祖国日本に速やかに帰国できなければならない、という考えを当然の前提としている。
したがって、同法29条は、単に、被告の未帰還者調査究明・帰国促進の政治的な責任を定めたものにとどまらず、その法的責任をも明確化するものであったことは明らかである。
この点は、同法が留守家族手当・帰郷旅費の支給など、未帰還者及びその留守家族への個別具体的な援護を定めた法律であること、援護の対象たる「未帰還者」の範囲も個別具体的に定められていること(同法2条1項2号)などから肯定されるべきである。
(カ) 未帰還者に関する特別措置法1条
未帰還者に関する特別措置法(昭和34年法律第7号)は、調査の継続によってもその状況が判明しない未帰還者が多数にのぼることから、本来留守家族等の利害関係人のみがなしうる民法上の失踪宣告の請求権限を被告に与えたものであり(戦時死亡宣告制度)、同法1条は、「この法律は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者について、特別の措置を講ずることを目的とする。」としている。
未帰還者特別措置法の制定過程において、未帰還者調査が打ち切られるのではないかとの危惧を抱いた留守家族団体が、厚生省試案による立法措置に強く反対する趣旨の宣言、決議を行い、政府・国会に陳情し、これを受けて、厚生省は、「未帰還調査を徹底的に行う」等の措置方針に基づいて法制化を進めることとしたとされる。
このような経過に照らせば、未帰還者特別措置法1条が、「国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者」と規定したことは被告に未帰還者の状況に関し調査究明を行う法的義務があることを認めたものと解すべきである。
したがって、未帰還者特別措置法1条は、被告による未帰還者調査究明・帰国援護義務について、重大な被告の責務・法的義務として規定したものと解すべきである。
この点は、同法が、未帰還者に対する戦時死亡宣告による弔慰料の支払という個別具体的な権利義務の発生要件を定めた法律であり、同法1条の調査究明が、このような具体的な権利義務発生の前提をなすものであることからも肯定されるべきである。
(キ) 旧厚生省設置法及び旧外務省設置法
被告は、昭和20年10月、連合国最高総司令官総司令部(以下「GHQ」という。)の指導により、厚生省を引揚げ業務に関する中央責任官庁と決定した。
平成11年法律第102号による廃止前の厚生省設置法(以下「旧厚生省設置法」という。)は、厚生省は、「引揚援護」を一体的に遂行する責任を負うものとし、内地以外の地域から内地に引き揚げた者に対する応急援護、未帰還者等の状況調査、中国残留邦人等の円滑な帰国の促進全般を所掌事務としていた。
また、平成11年法律第102号による廃止前の外務省設置法(以下「旧外務省設置法」という。)は、外務省は、「海外における邦人の保護」を任務とし、「海外における邦人の生命、身体及び財産を保護するため外交官憲と交渉すること」、「邦人の引揚に関する事務を行うこと」を所管するものとされていた。
これらは、被告は、未帰還者の調査や引揚援護、海外における邦人の生命・身体・財産保護を行うことが義務であることを前提に規定されているものであるから、被告は、早期帰国実現義務を負っているというべきである。
イ 条約
憲法98条2項は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めており、以下の条約からも、被告は、原告らを探索したうえ、帰国させる措置を講ずる義務を負っていた。
(ア) 国際人権法
世界人権宣言(昭和23(1948)年採択)13条2項は、「全てのものは、いずれの国からもはなれ、及び、自国に帰る権利を有する」と定める。この規定をより具体化した市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和54年条約第7号。以下「自由権規約」という)12条4項は、「何人も、自国に戻る権利を恣意的に奪われない」と規定する。
「帰国の権利」は確立した国際慣行であるから、被告は、自由権規約批准以前から「帰国の権利」を遵守する義務を負っていたものであり、「帰国の権利」の侵害が自国の行為に起因する場合には、帰国の権利を実現する積極的施策をとる義務を負っていたというべきである。
さらに、同規約23条1項は、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する。」と規定する。この規定と同規約12条4項の自国に戻る権利とをあわせてみるならば、何人も、自国に戻り、かつ、自国において家族と生活する権利を有し、この権利を国が恣意的に奪うことは許されないことを意味することとなる。
この点、世界人権宣言は、国連により採択された人権に関する国際的な宣言であり、法的な意味で直接に拘束力を持つものではないが、世界人権宣言は、18世紀以来、今日まで、世界中の各人権宣言が進化発展を続けてきた成果の国際的集大成として、人権の歴史において、きわめて重大な地位を占めるものであり、各人権宣言が進化発展した国際的集大成として諸国の憲法に編入されることを通じ、人権の国際的保障に関する最も基本的な文書として一定の規範性を獲得しているとも評価されている。
このように、「帰国の権利」は憲法及び確立した国際規約においても保障された極めて重要な権利であり、このことは国家が、本来、残留孤児を含め敗戦時に国外に取り残された全ての国民を日本に早期に帰国させる義務を負っていると解釈されるべき重要な要素である。
(イ) ジュネーヴ条約
戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(昭和28年条約第26号)24条1段落は、「紛争当事国は、戦争の結果孤児となり、又はその家族から離散した15歳未満の児童が遺棄されないこと並びにその生活、信仰の実践及び教育がすべての場合に容易にされることを確保するために必要な措置を執らなければならない。」、26条は、「各紛争当事国は、戦争のため離散した家族が相互に連絡を回復し、できれば再会しようとする目的で行う捜索を容易にしなければならない。各紛争当事国は、特に、この事業に従事する団体が自国にとって許容し得るものであり、且つ、その団体が自国の安全措置に従うものである限り、その団体の活動を助成しなければならない。」と規定している。
そして、千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(以下「追加議定書」という。)32条は、「この部の規定の実施に当たっては、締約国、紛争当事国並びに諸条約及びこの議定書に規定する国際的な人道的団体の活動は、主として、肉親の運命を知る家族の権利によって促されるものとする。」、33条1項は、「紛争当事国は、事情が許す限りできるだけ速やかに、かつ、遅くとも実際の敵対行為の終了の時から、敵対する紛争当事国が行方不明であると通報した者を捜索しなければならない。敵対する紛争当事国は、捜索を容易にするためそれらのものに関するすべての関連ある情報を伝達しなければならない。」、同条3項は、「1の規定に基づいて行方不明であると通報された者に関する情報及びそのような情報の要請は、直接に又は利益保護国、赤十字国際委員会の中央情報調査局若しくは各国の赤十字社(赤新月社、赤のライオン及び太陽社)を通じて伝達しなければならない。」、74条は「締約国及び紛争当事国は、武力紛争の結果離散した家族の再会をすべての可能な方法で容易にし、また、特に諸条約及びこの議定書並びに自国の安全上の規則に従いこの任務に従事する人道的団体の作業を奨励しなければならない。」と規定している。
これらの規定は、いずれも紛争当事国又は紛争当事国であった国家に対して、武力紛争の結果生じた行方不明者、離散家族の捜索・再会のために施策をとることを義務づけるものであり、このような国際条約の存在は、戦争終結の時点において、国家は、本来国民が国外に放置された場合に、国民を保護するため自国の主権下に戻すべき義務が存在することを裏付けるものである。
(ウ) 平和条約
日本国との平和条約(昭和27年条約第5号。以下「サンフランシスコ平和条約」という。)6条(b)項は、講和に伴う国際的な義務として、「日本国軍隊の各自の家庭への復帰に関する千九百四十五年七月二十六日のポツダム宣言の第9項の規定は、まだその実施が完了されていない限り、実行されるものとする。」と規定している。
この規定は、被告において、軍人等だけでなく、一般邦人の未引揚者についても帰国させる義務を負っていることを根拠づけるものである。
(3) 先行行為に基づく条理上の作為義務
① 近代立憲主義憲法の下では、そもそも政府は、人民の生命と自由を享受する権利を保障するために、人民により付託され組織されるものであるから、近代国家には、本質的にその本来的義務として「自国民を保護する義務」があり、国家自身の行為・政策遂行に起因して、自国民が主権の及ばなくなった地に置かれることとなった場合には、その帰国を実現すべき義務を負うものと考えられること(近代国家の本質)、② 原告らを含む全ての国民にとって、日本に帰国する権利は、憲法等(憲法22条、世界人権宣言13条2項、自由権規約12条4項)でも保障された重要な権利であること(帰国する権利の重要性)、③ 前記(2)イ(イ)のとおり、国際条約においても、紛争当事国には、武力紛争の結果生じた行方不明者、離散家族の捜索・再会のために施策をとることを義務付けるものが存すること(国際条約の存在)、④ 旧厚生省設置法、旧外務省設置法において引揚業務などが厚生省や外務省の所管とされ、しかも、未帰還者留守家族等援護法において、国は未帰還者の調査究明・帰還促進に努めなければならないと確認されていること(法律による義務の確認)、以上の①ないし④の事情にかんがみれば、被告は、本来、原告ら残留孤児を含め敗戦時に国外に取り残された全ての国民を日本に早期に帰国させる義務を負っていたというべきである。
そして、⑤ 幼くして取り残された原告ら残留孤児にとって、祖国である日本に早期に帰国し、日本の地で人格を形成し成長する利益は憲法の趣旨から考えても極めて重要なものであること(原告ら残留孤児の利益の重要性)、⑥ 被告が戦前戦後の一連の政策により、原告ら残留孤児を生み出し、その後も危険な状態に放置したこと(被告の先行行為―危険の作出)、⑦ 原告ら残留孤児は自らの力によっては日本へ帰国することが到底不可能な状況にあったこと(高度の要保護性)、⑧ 被告が終戦直後から原告らのような孤児が数多く発生し中国に取り残されていることを認識していたこと(予見可能性)、⑨ 被告には、国際情勢の変動などで時代ごとに程度の差こそあるものの、残留孤児の早期帰国実現策をとり得ることが十分に可能であったこと(回避可能性)、上記①ないし⑨の事情を前提とし、正義公平と信義則等を基礎におく条理から考えて、被告においては、遅くとも1953(昭和28)年3月の時点、すなわち、日本が自主外交権を回復し、中国側も残留邦人の引揚に対する協力を申し出て後期集団引揚げが開始され、「国は未帰還者の状況について調査究明するとともに、その帰還の促進に努めなければならない」と定めた未帰還者留守家族等援護法(29条)が公布された時点以降は、先行行為に基づく作為義務として、中国残留孤児である原告らに対し、より高度の早期帰国実現義務を負っていたというべきである。
以下において、⑤ないし⑨について詳述する。
ア 原告ら残留孤児の利益の重要性(前記⑤)
日本人として生まれた以上、日本の主権下において人格を形成し、長い年月をかけて日本での生活基盤(人的基盤・社会的基盤、経済的基盤など)を確立し、さらには文化的基盤を形成していくことは、国民の極めて重要な利益である。憲法13条からも、母国日本に帰国し、日本人として成長することは個人の尊厳の重要な要素であることは明らかであり、これを実現することは個人の幸福追求に対する最低限度の保障であることはいうまでもないであろう。この点は、憲法22条の居住移転の自由が「たんに経済的自由としての性格を有するだけではなく、人身の自由、表現の自由、人格形成の基盤としての自由という多面的な性質を有する複合的性格の権利である」と理解されていることからも基礎付けられよう。
しかも、原告ら残留孤児の場合、敗戦直後の極めて混乱した状況で敵国の中に置き去りにされることになったため、生命身体が危険にさらされ、仮に命を取り留めたとしても侵略国の出身者として様々な迫害・苦難が待ち構えているであろうことは十分予期されていた。
原告らが、早期に母国に帰国し、母国において平穏に暮らすことは、原告らの個人の尊厳を実現し、その人格的利益保護のために守られるべき当然の法益であり、基本的人権尊重の価値基準からして憲法上の保護に値する重要な利益であるといえる。原告ら残留孤児が、かかる憲法上の保護に値する重要な利益を有するということは、この利益を回復するものとして被告に早期帰国実現義務が課せられていると解される重要な要素と考えるべきである。
イ 被告の先行行為(前記⑥)
日本政府が、何ら正当性のない領土的野心に基づいて、当時の国際法上違法と目される軍事力の行使により中国東北部を侵略し、満州国という全くの傀儡政権を通じてその地を軍事力によって支配したことに起因し、このような経過によって生み出された満州国は、外部的にはソ連侵攻の危険にさらされ、国内的には常に抗日勢力を軍事力によって押さえつけなければならない、極めて危険な地域であったのであり、被告は、自ら作り出した危険な地域満州に、自国民を国策として送り出し、さらには、その危険が現実化した後も、自国民の生命・身体より軍事作戦の遂行を優先させその情報を与えなかったことにより、これによって多くの孤児が発生したのである。このように被告が、自らの行為によって作出した危険な地域に自国民を送出し放置した以上、自国民を再度安全を確保しうる主権下に早期に帰還させるべき義務を負うことは当然である。しかも、その送出は欺罔的・強制的なものであったから、かかる義務は一層強度なものとなるべきである。原告らが被告に早期帰国実現義務が発生すると主張する最大の根拠がこの一連の国の先行行為にある。
その具体的事情は、以下のとおりである。
(ア) 被告は、日本国内における農地の不足・戦時における資源確保のための兵站地・ソ連に対する国防上の便宜といった、中国国民の利益を全く顧みない、自らの領土的意図のみによって、1932(昭和7)年、当時の国際法に照らしても到底容認されない満州国を作り出した。そして、同年から4次にわたり送り出した「試験移民」を皮切りに、1936(昭和11)年には「七大重要国策要綱」を決定し、満州への100万戸入植計画を定め、さらに1937(昭和12)年11月30日には、「満州に対する青少年の移民送出に関する件」を閣議決定し、これ以降、多数の国民を満蒙開拓団や青少年義勇軍として満州に移住させた。また、被告はそれ以外にも、満州国の人的基盤を整備すべく、多くの日本人を送出している。
このように、そもそも、満州への日本人送出は、当時の国際的正義にも反する正当性を欠如したものであり、被告の領土的野心のみから行われたものであった。
(イ) 満州国の建国は、中国政府の承諾もなく軍事力によって既成事実化されたものであることから、当時の国際法に照らしても違法なものであり、また、建国された「満州国」自体、構造的に日本国政府の意図に反しえない、全くの日本の傀儡国家であった。このように、日本が国際世論から強い国際的非難を浴びながら、軍事力による侵攻を既成事実化することによって強引に「建国」した「満州国」は、国内外との関係において必然的に脆弱な基盤とならざるを得なかった。
被告は、満州への移民をスムーズに進める上で、いち早く用地を確保する必要があったため、日本人移住用地を中国人民から強制的に収用していく方法を採用した。その過程で、中国人民の抵抗にあい、歴史上有名な1934(昭和9)年3月に発生した「土竜山事件」などの武装ゲリラ等による反撃も生じた。このような日本の土地「強奪」に対する中国人民の恨みは激しく、敗戦時において、日本人開拓団民や家族が中国人民に武装襲撃され多くの死者と孤児を生み出したが、それはこのように日本政府が中国人民の農地を強奪したことに対する報復行為との要素も色濃い。このような、戦前の日本政府による農地強奪(買収)は、在留邦人に対する潜在化した危険性を一層大きくすることとなった。
また、満州国に送出された日本人は、満州国建国の経過、農地収奪の強引さ、ソ連との紛争の危険性など、自己の生命身体の安全の確保にとって重要な情報をほとんど与えられることなく送出された。そもそも、満州国建国の契機となった満州事変ですら、それが関東軍の一部による謀略であることが知らされたのは、戦後の東京裁判においてであった。
それどころか、移民を募集するにあたって虚偽の情報すら流されていたのである。たとえば、ラジオ放送で拓務相が宣伝をしたり、満州へ移民すれば男子は徴兵されないとの宣伝が行われたり(現実には終戦直前の根こそぎ動員など徴兵が行われた)、すぐにでも農業が営める10町歩の土地がすぐにでも手に入るかのような宣伝もされた。
孤児たちは、このような欺罔的な情報操作によって隠匿された危険、すなわちソ連の侵攻や抑圧されていた中国人の報復が現実化したことによって発生した。
さらに、送出された日本人は必ずしもその自由意思に基づいていたわけではなかった。もともと住み慣れた祖国を棄てて未知の場所へ赴こうとする者など、当然のことながら多数存在するはずはなかったが、国は、100万戸入植という非現実的な目標を達成するため、市町村に対して一定のノルマを課すなどして、地方による強引な説得を行った。ノルマが達成できない村では、暮れも正月も返上して村当局が奔走して人をかき集めたといった記録も残っている。このようにその自由意思を押さえつけ、危険な地域に多くの日本人を送り出したのである。
以上のような真実の情報を秘匿した強引な満州移民は、ソ連侵攻が確実視されることにより、その危険性が一層増大する一方で、大本営が本土防衛のために1945(昭和20)年5月末に満州の4分の3を持久戦のための戦場とすることを決定した後も継続され、あろうことか、実際にソ連が参戦通告をした同年8月8日まで継続されていた。
(ウ) 被告は、ソ連参戦を近い将来のものとして予測していたにもかかわらず、被告は、開拓団など一般邦人に対しては、何らの情報も与えてなかった。
満州における在留邦人らは、敗戦を迎えた段階で全く予期せぬソ連軍の侵攻を受け、その結果、筆舌に尽くしがたい逃避行を余儀なくされた。原告ら「残留孤児」の多くはこの逃避行の過程で発生しており、被告がソ連参戦の危険性の情報を伝達しなかったことが大きな要因となった。
また、1945(昭和20)年4月5日、ソ連が日ソ中立条約の不延長を日本政府に通告したことにより、大本営は、本土防衛のため、満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し、満州の4分の3を持久戦のための戦場とすることを決定し、当該地域の防衛と邦人の保護を放棄した。同時に、戦局の悪化から、南方あるいは本土に転用され大幅な軍事力の低下を招いていた関東軍を補うため同年7月10日、在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員約20万人を召集(いわゆる「根こそぎ動員」)し、国境付近に配置した。その結果、満州・内蒙古の開拓団には、高齢者・女性・子供しか残らず、これら在留邦人の自力での帰国を一層困難にさせた。このことも要因となって、その後の逃避行の過程で多くの「残留孤児」が生まれることになった。
さらには、ソ連の参戦が目前に迫っていることは明らかであったにもかかわらず、日本政府は、開拓団らに事実を知らせなかったばかりか、1945(昭和20)年8月2日、関東軍報道部長長谷川宇一大佐は、新京放送局から「関東軍ハ盤石ノ安キニアル。邦人、トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ、生業ニ励ムガヨロシイ。」と放送し、誤った情報まで流していた。そのため、8月9日午前零時を期して、ソ連軍が満州に侵攻開始した時点においても、大本営・関東軍から全く情報もなく、戦況について一切知らされていなかった開拓団民をはじめとする一般邦人は、真夜中突然のソ連軍の侵攻に曝され、混乱し、多数の犠牲を出しながら避難を開始することになった。
(エ) 敗戦後の満州における日本人の惨状については、駐満州大使からの報告などにより日本国内にも伝えられていた。しかしながら、日本の最高戦争指導会議は、これらの実態を無視し何ら救援措置を取ることなく民間人については現地土着の方針を取り、そのためには日本国籍を離脱することも構わないとの方針をとり続けた。そしてかかる現地土着方針のため、満州からの引揚げは、他地域からの引揚げと比べて、その開始時期が1946(昭和21)年5月と大幅に遅れたのである。かかる方針自体、残留邦人の帰国に対する、国の無責任な姿勢を示すものである。
また、原告ら残留孤児の多くは敗戦直後、筆舌に尽くしがたい悲惨な逃避行や収容所生活を送った。それはまさに、「地獄絵図」と形容するしかない状況であった。かかる逃避行・収容所生活の悲惨さは、国の先行行為の非人間性を意味するものであり、被告の早期帰国実現義務をより一層基礎付けるものとして考慮されるべきである。
さらに、被告が、終戦後の未帰還者調査・引揚業務において、一般邦人よりも軍人・軍属を優先させたこと、政治的当否は別にしてサンフランシスコ講和条約を締結し中国との間で国交を結ばないとの選択を行ったことなども、その後の「残留孤児」らの帰国実現を困難にしたものといえ、この点も、被告の早期帰国実現義務を基礎付けるものとして考慮されるべきである。
ウ 高度の要保護性(前記⑦)
原告ら孤児たちは、ソ連侵攻・敗戦に至る混乱のなかで、幼くして中国人家庭に預けられ、そこにおいて成長した者たちである。従って、幼少時においては、自力で帰国することなどできるはずもなかった。また、第二次大戦終了に伴う国際的混乱により正規の交通網は断絶したうえ、その後も長年の間、日中間においては通常の外交関係がなかったことから、孤児たちが中国にいながら日本の情報を得て、帰国後の生活の目処を立て、交通手段を確保し、帰国するということも極めて困難なことであった。基本的には、孤児らの帰国は、被告による外交努力によってしか実現しえなかったのである。
原告ら「残留孤児」が祖国日本に帰国し、日本の地で人格を形成し成長する利益は極めて重要なものである。ところが、その実現を「残留孤児」が自らの力で行なうことは到底不可能であり、被告の援助によらざるを得なかったという事情(高度の要保護性)も被告の早期帰国実現義務を強める大きな要因となる。
エ 予見可能性(前記⑧)
(ア) もともと開拓団は対ソ連の北辺の守りとして位置付けられ、実際に被告は開拓団をソ連との国境沿いに送出していた。そして、被告は戦争遂行上の作戦からソ連参戦が近いとの情報を一般邦人には一切伝えず、しかも終戦直前に「根こそぎ動員」を行ったため開拓団には高齢者・女性・子供しか残らない状況となったことを認識していた。かかる状況の中、ソ連軍が満州に侵攻したことにより開拓団は逃避行を余儀なくされ、日本人は日本人学校などの難民収容所に集団で避難をせざるを得ない状況となったが、上記、開拓団の配置や終戦直前に被告が自らとった作戦から、被告は当然開拓団の惨状を認識し得る状況にあった。また、開拓団以外の一般邦人についても、程度の差こそあれソ連軍侵攻などにより極めて厳しい状況に置かれたが、この点についても、被告は十分認識していた。
実際にかかる惨状は終戦直後からすでに大本営参謀から本国に対して、「残留邦人ハ開戦ト同時ニ無準備ニ移動セシ」(甲総22)との報告が行われ、駐満州大使の外務大臣に対する電報でも、「現在全満ニテ避難民約50万ナリ、新京ニ在ル避難民ヲ見テモ僅カニ……手回品スラ掠奪セラレ着ノミ着ノママニテ営外等ニ集団生活ヲナシ住民ニハ毎食ノ食事スラコト欠キ数日絶食ノ者スラ在リ……冬ニ入ラバ飢餓者凍死者ノ続出ヲ憂慮セラル……情勢以上ノ通ニシテ在留邦人ハ此ノママ放置セバ大部分流民化シ、冬トモナレバ死者続出スルコト明白ナリ」(甲総25)とあることなどから、被告は確実に認識していた。
孤児を含む日本人が数多く旧満州の地に取り残されたことについては、すでに終戦直後から繰り返し報道されていた(甲総A4の7、4の12、4の14、4の15、4の17、4の18、4の20、4の21等)。
(イ)① 1946(昭和21)年5月から始まった前期集団引揚では約104万5000人の日本人が帰国を果たしたが、これにより中国の孤児の状況などが正確にもたらされた。例えば1949(昭和24)年9月23日に舞鶴に入港した高砂丸では満州地区から1127名が帰還したが、この高砂丸帰還者からは、「東北各地の主要都市はもとより、僻村地区において、日本婦人並びに孤児の姿を見ないところはないといってよい。孤児はほとんど日本語を忘れ、一見しては、日本人と判別することは困難なほどである。」、「引揚促進の問題については、第1に海外の同胞は絶対に自分たち自らの力によって帰還促進運動を起こすがごときことは到底考えられない。第2に、中国人の妻妾、預けられた子供については中国社会の中に深く食いこんでおり、この救出については連合国の調査団のごときものの入国調査が絶対に必要である。第3に、尋ね人の時間や引揚促進大会の実況放送には、全満ラジオの聞ける日本人はことごとくラジオにかじりついて泣きながら聞いている。これらを利用して力づけることは極めて大事である。」などの孤児に関する情報がもたらされている(乙41)。
② 一旦途絶えていた集団引揚は1952(昭和27)年12月の中国北京放送をきっかけに、1953(昭和28)年3月から再開され(後期集団引揚)、孤児に関する情報がもたらされるようになり、留守家族を通じての通信による情報等も蓄積された。
1957(昭和32)年5月17日には被告はジュネーブ駐在総領事を通じて中共総領事に対し中共地域未帰還者3万5767名の名簿を手交した。この名簿では特別の事情のない限り生存していると推定される孤児2053名についての詳細な情報が掲載されていた。このように被告はこの時点で、確実に身元が分かっている孤児だけでも2000名以上を把握していた。
また、1958(昭和33)年7月17日衆議院「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で、厚生事務官(引揚援護局長)の河野説明委員は中共地区の未帰還者の状況につき、「大体6000ぐらい……その内訳はいわゆる国際結婚した人、あるいは向こうの中国人にもらわれて行った子どもというふうな、実質的に中国人になった人が大部分でございまして……さしあたり帰る希望を持っておられる方は非常に少数であろうと、かように考えておる」との答弁を行った(甲総34)。また、1966(昭和41)年6月8日衆議院社会労働委員会(甲総117の21)でも、「(実本政府委員・援護局長)……孤児の関係について実態調査しました結果が、41年の6月現在で2326名になっております」などと具体的答弁を行っていた。
③ 被告は、留守家族から未帰還者届が出されていた者については、究明用カードを個別に作成し、留守家族からの情報や引揚者からの情報を記録していた。これらのカードを見ると、実際に孤児らが取り残された場所や中国での居住地まで把握しているケースもあった。
(ウ) 1972(昭和47)年9月の日中国交回復を機に、身元未判明孤児の調査依頼が在北京日本大使館、厚生省、都道府県などに数多く寄せられるようになり、孤児から寄せられた手紙の多くは日本への帰国を希望するものであった(乙2、138)。
(エ) 以上のとおり、国は敗戦直後から原告ら「残留孤児」が旧満州地区に発生したことを確実に認識していた。その後時代が進むに連れ、引揚者からの情報の蓄積、新聞報道、国内での未帰還者調査の進展、身元判明孤児と留守家族との通信等により、被告の「残留孤児」に対する認識はより確実なものに高まっていったのである。そして、その過程において、被告は、早期帰国実現に向けた諸施策を国が速やかに行わなければ、「残留孤児」らが中国に取り残され長年日本に帰国できない状態に置かれるであろうことを確実に認識していた。これら被告の認識は早期帰国実現義務発生を基礎づける極めて重要な要素である。
オ 回避可能性(前記⑨)
(ア) 日本がGHQの占領下にあり旧満州地区が国共内戦中であった1946(昭和21)年から1948(昭和23)年にかけての前期集団引揚により、中共地区から約104万5000人の日本人が帰国していた。
1949(昭和24)年10月の中華人民共和国成立により国共内戦は決着し、被告も1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効により国際社会に復帰し自主外交権を回復した。
そして日中間には国交こそなかったが、1952(昭和27)年12月の中国側の北京放送(乙1・30年史109頁)、その後の北京協定締結により(同110頁、551頁)、民間三団体方式による後期集団引揚が1953(昭和28)年3月から1958(昭和33)年7月まで21次にわたって行われ、約3万2500人の日本人が帰国することができた。また集団引揚以外にも日中間の民間貿易が盛んに行われ(甲総113の2・日中貿易協定)、日中間では人と物の交流が活発に行われる状況であった。この間、日本と中国の間には政治的対立は存したものの、中国側は日本人引揚問題は人道上の問題であるとして、出来うる限りの協力を惜しまないと再三表明しており、被告もジュネーブ交渉という形で中国側と折衝を行いうる状況であった。
以上のように、1958(昭和33)年7月頃までの状況は被告が「残留孤児」の早期帰国実現に向けた施策(国内での調査はもちろんのこと外交上の交渉なども)を十分とり得る状況にあった。
(イ) 後期集団引揚が打ち切りとなった状況も決して中国側が一方的に打切ったものではなく、日本側の中国に対する施策も一因となっていた。また集団引揚を打切った後も、中国側は個別的な引揚については援助するとの姿勢を打ち出し(甲総A4の100)、1958(昭和33)年10月11日には北京放送で、中国紅十字会は再び日本人の帰国援助を行うことを日中友好協会訪中代表団に約束するなどしていた(乙42)。
このように後期集団引揚は打切りになったものの、中国側は依然として協力を行うと表明しており、当時の厚生省引揚援護局長も国会で同様の認識を示していた(甲総117の14)。
(ウ) 1958(昭和33)年5月の長崎国旗事件をきっかけに、集団引揚事業とともに日中間の貿易関係も一旦停止したが、民間貿易は間もなく再開され、1962(昭和37)年11月のLT貿易覚書締結(甲総113の14)をきっかけに日中間の貿易量は飛躍的に伸び国交回復まで右肩上がりの状況であった。しかも、この貿易は日本輸出入銀行の借款を利用して行われ、1964(昭和39)年8月には日中両国がそれぞれ相手国に貿易事務所を開設した。この貿易事務所は外務省も「相当程度公的な交渉窓口としての機能も果たした」と評価する存在であった(甲総113の20、21)。また中国側は日本の民間団体に対し、数回、日本人の生存者名簿の提供を行っていた。
このように1972(昭和47)年9月の日中国交回復までの間も人と物の交流が盛んに行われ公的な交渉窓口も存するなど、被告は、「残留孤児」の早期帰国実現に向けての交渉を行う余地は十分にあった。
(エ) 日中国交が回復したことにより、被告には正式な外交ルートで「残留孤児」問題を解決する道が開かれた。実際、国交回復後、大使館の開設、貿易協定調印、航空協定調印、漁業協定調印、平和条約調印など懸案事項について次々解決されていった。1973(昭和48)年6月、周恩来中国首相は「中国にいる日本人で中国人の妻や家族となっている人々の里帰りを全面的に支援したい。」と述べ、同年5月には中日友好協会会長が、現在中国には中国人の家族となっている日本人が約5000人いるとして「このなかには、中国に永住したい者、帰国したい者、あるいは一時的に里帰りしたい者がいる。われわれは、このいずれについても希望にそうよう努力している。」と述べていた(乙1)。
(オ) 以上のとおり、1952(昭和27)年4月に日本が自主外交権を回復し、中国側も残留邦人の帰還に協力すると表明し後期集団引揚が実際に再開した1953(昭和28)年3月以降、国際情勢の変動などで時代ごとに若干の程度の差こそあれ、被告は、「残留孤児」の早期帰国実現に向けて中国側に働きかけることは十分に可能であったのであり、被告からの働きかけがあれば中国側もこれに応じていた可能性が極めて高かった。また、「残留孤児」らの早期帰国実現に向けた措置は中国側との外交交渉のみならず、留守家族や個別の引揚者などからの丹念な調査を継続的に国内で行うことも重要であるところ、この点については当然、国際情勢の変動には影響されることなく実施することは可能であった。例えば1972(昭和47)年9月に日中国交が回復する前のいわゆる「空白の13年間」の間に被告がこれらの国内調査等を積み重ね、来るべき国交回復に十分に備えていたとすれば、国交回復と同時に国は中国側に早期帰国実現に向けた働きかけを行うことも可能だったと考えられる。
このように、被告は「残留孤児」の早期帰国実現に向けた施策を行うことは十分に可能であったのであり、仮にこれを被告が行っていれば「残留孤児」の早期帰国が実現していた可能性は高く、この点も被告の早期帰国実現義務発生の重要な要素である。
(4) 被告の早期帰国実現義務の内容
被告は、敗戦直後から「残留孤児」を含め国外に取り残された全ての国民を日本に早期に帰国させる義務を負っており、その義務は遅くとも昭和28年3月には、原告ら残留孤児に対し、より高度なものとなっていたものであるが、原告らは、遅くとも昭和33年7月以降、被告に早期帰国実現義務違反が生じていると主張するものである。
そこで、以下において、被告の具体的な義務内容について、昭和33年7月から昭和47年9月の日中国交回復前のものと国交回復後のものとに分けて論ずる。
ア 1958(昭和33)年7月から1972(昭和47)年9月の日中国交回復前の義務内容
被告が行うべきであった早期帰国実現義務の具体的内容は、例えば、① 政府間交渉の継続、② 民間団体による未帰還者の調査究明・帰還促進業務への援助、③ 国内・国外調査の実施・継続、④ 孤児の帰国及び肉親捜しに対する援助である。
(ア) 政府間交渉の継続
被告は、1955(昭和30)年7月及び1957(昭和32)年5月、ジュネーブにおいて、中国側に対し、「政治を超えた人道上の問題であるとして」、未帰還者問題について直接交渉を申し入れた。上記1957(昭和32)年の交渉の際には、未帰還者3万5767人の名簿(甲総78、79)を中国側に手交し、「現在生存しているものについてはできる限り調査してほしい」と申し入れた。上記各申入れは中国側の求める条件と日本の求める条件があわず実現しなかったが、被告はその後、政府間交渉を全く行わなかった。
しかし、被告は、後期集団引揚げが打ち切られた1958(昭和33)年7月以降も、このような中国側との直接交渉の努力を粘り強く継続し、未帰還者の調査究明・帰還促進について中国側の協力を求めるべきであった。未帰還者、とりわけ中国人家庭において養育され、自らの身元も帰国の手立ても知ることができない孤児の調査や帰国は、中国政府の協力なくして進展しないことは明らかである。過去に中国側が拒絶したからといって、被告が政府間交渉の努力を放棄することが許されるものではない。むしろ、被侵略国であった中国側の国内世論等に十分に配慮しながら、中国側の協力を引き出すためのあらゆる努力を行う義務が被告にはあったというべきである。
この点、この期間、日中の間に国交こそなかったが、前述のとおり、LT貿易をはじめとして民間貿易が盛んに行われ、相互に開設された貿易事務所は公的な交渉窓口としての機能も果たしていたのであり、政府間交渉は十分可能であった。また、最近の北朝鮮拉致被害者問題でも明らかなように、国交のない国との間であっても、人道上の問題に絞って直接交渉を行うことは十分に可能であり、単に国家間に国交がないというだけの理由で、政府間交渉に基づく孤児の調査ないし早期帰国の実現が不可能であったということはできない。
(イ) 民間団体による未帰還者の調査究明・帰還促進業務への援助
1949(昭和24)年10月1日の中華人民共和国成立後の1953(昭和28)年から1958(昭和33)年7月までの約5年間の帰還者は合計3万2500人にのぼった。これは、主に日本赤十字社などの民間三団体方式による帰国事業によるものであるが、被告も不十分ではあったものの、これら民間団体の事業に協力した。また、未帰還者の調査究明についても民間団体の果たした役割は大きく、中国紅十字会より中国「残留」者の名簿をたびたび受領した。
中国側は、ジュネーブ交渉が決裂した後の1957(昭和32)年8月においても、留守家族団体全国協議会会長との間で、中国に残留している日本人について「確実な根拠資料を添えて3団体等から個別的に申請があればその調査を実施する。」との内容を含む覚書を交換しており(乙1)、これに基づき留守家族団体全国協議会は中国側に対し1900人のカードを送って消息調査を要請した。中国側も、上記調査要請やその他の民間団体の調査依頼に対して、1961(昭和36)年、1962(昭和37)年、1965(昭和40)年に回答をしている(乙1)。また、集団引揚が終了した後の1958(昭和33)年10月11日にも、日中友好協会訪中団に対し、中国紅十字会が再び日本人の帰国を援助する旨表明している(乙42)。
したがって、被告は、これら民間団体の活動について、被告が保有する未帰還者の資料を提供したり、中国側から回答があったものについて留守家族との連絡をはかったり、財政支援も行うなど全面的に協力することにより、未帰還者の調査究明・帰還促進業務を継続すべきであった。
(ウ) 国内・国外調査の実施・継続
被告は、1959(昭和34)年までは、国内の留守家族に対する調査や、中国からの帰還者からの事情聴取、中国に残留して住所の明らかな者への通信調査等を不十分ながらも行い、一定の成果をあげていた。
したがって、被告は、1959(昭和34)年以降も、このような調査を粘り強く継続し、そこで得られた情報を公開するなどして、身元調査や帰還促進に努めるべきであった。
とりわけ、1958(昭和33)年の集団引揚終了後も、中国からは毎年約100人前後の者が個別引揚の形で帰国しており(乙1)、その中にはいわゆる「残留婦人」として中国社会に溶け込んで生活していた者も多数あった。「残留婦人」らは現地の孤児の状況に詳しいことが多く、国交回復後の孤児の肉親捜しにおいては、帰国した者も現地に残る者も、手弁当で民間ボランティア団体に協力して孤児のために奔走し、活躍したのである(甲総A6の34等)。被告が国交回復以前から、このような帰国者より詳しく事情を聴取したり、現地の「残留婦人」等に対する通信調査を行ったりし、そこで得られた情報と保有する未帰還者の資料とを照合し、留守家族への情報提供、公開調査等を精力的に行っていれば、国交回復以前においても多くの孤児の消息や身元が判明し、帰国の実現も図ることができた可能性が高く、また、国交回復後直ちに多数の孤児の帰国が実現できた可能性が高い。そして、このような活動は、中国との国交がなくても容易に行うことができたことは明らかである。
(エ) 孤児の帰国及び肉親捜しに対する援助
日中国交回復以前であっても、中国から毎年100人前後の者が個別に帰国していたことは前述のとおりである。また、国交回復以前においても、孤児本人から被告に対して身元調査依頼の手紙が届いているケースもあり、「親を探し得ても探せなくとも祖国に帰国の決心をしています。」等の帰国希望が明示されているケースもあった(乙149、乙129の1等)。
被告としては、少なくとも肉親探し及び帰国希望を具体的に表明した孤児に対しては、肉親探しのための一時帰国や、身元未判明あるいは親族が帰国に同意しない場合にも永住帰国できるような援助を行い、あわせて帰国した上での肉親探しを援助すべきであった。
イ 1972(昭和47)年9月の日中国交回復後の義務内容
被告は、日中国交回復後、すみやかに残留孤児の調査及び帰国に関する総合的な施策を立案し、帰国を実現させる措置を行うべきであった。
被告が行うべきであった早期帰国実現義務の具体的内容は、例えば、① 外交上の交渉・孤児への情報提供等、② 国内での公開調査、③ 出入国管理行政上の帰国障害の除去、帰国促進策の実施、④ 孤児が安心して帰国を決断できる受入態勢の整備である。
(ア) 外交上の交渉・孤児への情報提供等
被告は国交回復後直ちに、外交ルートを通じて、中国政府に対し、「残留孤児」に関する情報を提供し、その所在調査と肉親探し及び帰国実現の為の協議を申し入れ、すみやかに訪日調査を開始するべきであった。あわせて日本への帰国が可能であるとの情報を孤児に周知させるよう適切な措置をとるべきであった。
(イ) 国内での公開調査
被告は、国内においては、「孤児」らから殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し、肉親捜しを積極的に進めるべきであった。
(ウ) 出入国管理行政上の帰国障害の除去、帰国促進策の実施
肉親が判明しない場合や、判明しても親族が帰国に同意しない場合であっても、孤児らの帰国に障害が生じないように、被告は、出入国管理行政上適切な措置をとることや、帰国旅費国庫負担制度の円滑な運用に努め、帰国を希望する以上、直ちに帰国できる措置を講ずるべきであった。
(エ) 孤児が安心して帰国を決断できる受入態勢の整備
国交回復時点でも終戦から27年以上が経過しており、その間「孤児」が中国の地で育ち、生活してきたという特殊性を十分に配慮した、早期帰国のための措置がすみやかに講じられるべきであった。例えば、原告ら残留孤児の帰国にあたっては、家族の分断が帰国の障害とならないように残留孤児と共に帰国を希望する家族はその全員を帰国させることも、残留孤児に対する早期帰国実現義務の一環としての義務であった。また、帰国した後の生活が成り立つように受け入れ態勢を整備することも早期帰国実現義務の一環と考えるべきである。
(5) 昭和33年7月から昭和47年9月の日中国交回復までの義務違反
被告は、後期集団引揚げが打ち切られた昭和33年7月以降も、① それまでと同様に政府間交渉を継続し中国側の協力が得られるようあらゆる努力を行う義務、② 民間団体による調査究明・帰還促進業務への援助を行う義務、③ 国内・国外調査を実施・継続する義務、④ 孤児の帰国及び肉親捜しに対して援助を行う義務を負っていた。ところが、被告は1958(昭和33)年から1972(昭和47)年の日中国交回復までの間、上記義務をまったく履行しなかった。
そればかりか、被告は、「未帰還者」の最終処理を急いだ。すなわち、1959(昭和34)年3月に戦時死亡宣告を導入し多くの孤児を戸籍上死亡したものとみなし、生存していることが明らかな者についても、「自己の意思により帰還しないと認められる者」の認定を恣意的に行って「未帰還者」から除外し、以後援護の対象としなかったのである。この点において、被告の早期帰国実現義務違反は明らかである。
ア 後期集団引揚げの打ち切りの経緯
1958(昭和33)年7月に後期集団引揚が打ち切られた直接のきっかけは、同年5月2日の長崎中国国旗侮辱事件における被告の対応にあったが、この突発的事件が深刻化した背景には、鳩山前々内閣、石橋湛山前内閣の対中融和路線から一転した当時の岸内閣の対中強硬姿勢があり、決して中国側が一方的に打切ったというものではなかった。そして、もともとこの後期集団引揚が中国側の呼びかけ(1952(昭和27)年の北京放送)から開始されたものであり、中国側は一貫して引揚問題は人道上の問題として扱うとの姿勢を取っていたこと、後期集団引揚が終了した後にも、1958(昭和33)年10月11日に再び日本人帰国を援助する旨表明し(乙42)、1961(昭和36)年、1962(昭和37)年、1965(昭和40)年に民間団体の調査依頼に対する回答を行っていること(乙1)からすれば、仮に被告が改めて集団引揚再開を民間団体などを通じて行えば、中国側がこれに応じた可能性は極めて高かった。にもかかわらず、被告はこれを一切しようとしなかったのであり、この点からも国の早期帰国実現義務違反は明らかである。
イ 戦時死亡宣告制度の不当性とその後の帰国援助策の放棄
(ア) 制定経緯(被告主導での制度導入)
もともと未帰還者に関する特別措置法によって創設された戦時死亡宣告制度は戦後10年以上が経過し、未帰還者を「最終処理」する必要性から導入が検討されたものであった。このため、当初は民法の失踪宣告の特則たる戦時死亡宣告制度ではなく、「国が調査究明した結果、死亡の確認はできないものの、生存しているものと思われない者につき死亡したものと推定する(死亡推定手続)」制度の導入が検討されていたが、留守家族団体の反対により断念せざるを得なくなった。
このように、戦時死亡宣告制度はもともと、未帰還者の最終処理という被告の必要性から、被告主導で導入されたものである。被告は、戦時死亡宣告制度を導入し、失踪宣告の例外を大幅に緩和し意図的に戸籍抹消の安易な誘発を招いたのであるから、被告の故意による早期帰国実現義務違反の重大性は明らかである。
(イ) 一斉特別調査の不十分さ
被告は、戦時死亡宣告制度を導入するにあたり未帰還者の一斉調査を行った。これは、政府が強引に戦時死亡宣告制度を導入しようとしたところ、「最終処理だけが先きに出すぎている」、「辛うじて生き抜いてきた未帰還者の留守家族に対する死刑の宣告にもひとしい惨酷な措置である」などの強硬な反対意見が噴出したことから(乙42)、実施されたものであった。未帰還者に関する特別措置法1条が、「未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者」を対象とするものとしたのも、このような趣旨からであった。
しかし、現実に行われた調査方法は、被告が、各都道府県、帰還者及び海外在留者に対し、単に一斉通信調査を行うのみであり(甲総35)、特に原告らが遺棄された中共地域については、「諸般の関係から、名簿等を現地在留者に対して一斉に発送して調査することは見合わせ、日本赤十字社から昭和33年10月、中国紅十字会に対して、現地残留者の内地向け通信に協力方を申し入れる程度に止めた」(乙42)。
1958(昭和33)年9月18日参議院質疑で厚生大臣が行いたいと回答していた中国との外交交渉(甲総117の13)は全く行われなかった。
(ウ) 制度の強引な運用
未帰還者に関する特別措置法2条2項においては、「請求をする場合には、厚生労働大臣は、当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない。」とあるが、実際にはその申立てに積極的でない留守家族に対し、強引な説得が行われるなど、戦時死亡宣告制度の強引な運用がされた。
昭和37年5月18日付未帰還者等の調査究明業務に関する都道府県知事宛厚生省援護局長通知(乙62)5頁(3)には、「同意しない家族については、面接の上説得する」とされており、同5頁(4)には(面談の際の不用意な言動によって)「留守家族の心情を害し、まさつを起こした例もある」とあり、いかに強引な運用が行われてきたかがうかがわれる。また、岩戸景気と呼ばれ金の卵とされた中卒者の初任給が1万円を越えたといって話題になる時代に、戦時死亡宣告を受けた未帰還者の遺族に対し、3万円の弔慰金を出している(甲総A4の106、乙173)。
以下において、強引な運用の事実を明らかにする。
① 「自己の意思により帰還しないと認められる者」の恣意的認定
1953年(昭和28年)に制定された未帰還者留守家族等援護法2条は、元軍人の未復員者以外の一般邦人については、未帰還者の定義として、「昭和20年8月9日以後……生存していたと認められる資料があり、且つまだ帰還していないもの(自己の意思により帰還しないと認められる者……を除く)」としていた。つまり、一般邦人の場合には、未復員者とは異なり、「自己の意思により帰還しないと認められる者」は未帰還者から除外し、国は未帰還者として調査・究明・引揚援護などの対象としない、としていた。
被告は、1959(昭和34)年3月の戦時死亡宣告制度導入以降、「未帰還者の最終処理」を進めていたが、戦時死亡宣告制度は、「未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることができない者」を対象としており(未帰還者特別措置法1条)、家族との通信があるなどして中国で生存していることが明らかな者については、戦時死亡宣告の対象とすることはできなかった。そこで、被告は、さらに「未帰還者の最終処理」を進めるべく、従来はある程度慎重に行っていた「自己の意思により帰還しないと認められる者」の事実認定を積極的に行うこととし、中国で生存していることが明らかな者についても「未帰還者」から外し調査・究明・引揚援護の対象としないこととした。
この点に関し、昭和37年5月18日付厚生省援護局長発、各都道府県知事宛「昭和37年度における未帰還者等の調査究明業務について(通知)」(援発18362号)(乙62)には、「未帰還者のうち自己の意思により帰還しないと認められる者の事実の認定は、従来極めて少数のものにつき、これを行ってきたところであるが、本年7月をもって大部分の未帰還者の留守家族手当が打ち切られること等に関連し今日までの調査究明の結果、生存が確認された者(通例の場合は過去4年以内に生存していたと認められる資料のあるもの)のうち、本人からの来信、帰還者の確実な証言及び本人の生活状態等を総合判断して、残留希望が確実と認められる者についてこれの認定を行ない未帰還者から除外することとしたが……」との記載があり、昭和38年5月2日付厚生省援護局長発、各都道府県知事宛「昭和38年度未帰還者等に関する調査等業務実施計画について(通知)」(援発第10330号)の「調査業務実施計画」11条(乙61)には、「生存残留者または該否要究明者の調査によりえた資料において生存が確認され、かつ、残留希望が確実と認められる者については、自己の意思により帰還しないと認められる者として、遅滞なくその処理を行なうものとする」との記載がある。
これらの記載をみると、被告は、大部分の未帰還者留守家族手当が打ち切られる1962(昭和37)年7月の時点で、「自己の意思により帰還しないと認められる者」の事実認定につき、従来の方針を変更して積極的に行ない、遅滞なく処理を行なうこととしたことが読み取れる。とくに、事実認定の資料として、本人からの来信のほか、帰還者の証言や、本人の生活状態等を総合判断するとされているが、後述する原告らの「究明用カード」をみても、極めて不合理な形で「自己の意思により帰還しないと認められる」とされているケースが散見され、実際に原告ら自身の意思確認が全く行われないまま認定されている。
この当時、被告が「未帰還者の最終処理」を急ぐべく強引な認定を行なっていたことは明らかである。
このようにして被告は、1000人を超える人たちについて、「未帰還者」から外し(乙2、138)、その後の援護を一切放棄したのであり、この点においても、被告の早期帰国実現義務違反は明白である。
② 「究明用カード」の分析から判明する制度運用の実態
厚生省は、日本の留守家族から未帰還者の届出があった者について「究明用カード」を作成し、このカードに留守家族や引揚者からの情報、本人からの通信内容などが綴られている。原告らについても、24名につき究明用カードが開示されている。
原告らの「究明用カード」を分析すると、おおよそ次に述べることが、厚生省の調査の傾向・特徴として挙げられる。
第1に、厚生省は「残留孤児」を「戦時死亡宣告」として処理することには積極的であったことである。
例えば、原告X4(原告番号4)や原告X32(原告番号32)の場合では、究明用カード在中の資料中に、厚生省援護局が終戦時の当該孤児の状況に照らせば「現に生存の可能性が高いものと認められる」ので特別措置法には該当しないと、いったんは結論を出したにもかかわらず、その後、留守宅が望んでいるなどと理由をつけて、簡単に従前の判断を覆し、戦時死亡宣告として処理することを決定している。なお、原告X4について見れば、同原告の親族のその後の対応を見れば、戦時死亡宣告という処理を、留守家族が希望したとの記載は到底信用出来ないものである。
当時の実情としては、こうした「戦時死亡宣告」の審判申立に当たって、厚生省及びその意向を受けた都道府県が、留守家族に対して「戦時死亡宣告」に同意するように「説得ないし強要」がなされていた。現に、原告X31(原告番号31)の場合には、中国から引き揚げてきた同原告の兄からの情報を極めていい加減に扱った挙げ句、留守家族であるこの兄を強引に説得して戦時死亡宣告の処理に同意させたことが判明している。
留意すべきは、たとえ留守家族が希望したとしてもそれが「戦時死亡宣告」という処理を正当化するものではないということである。
すなわち、死者として戸籍から抹消されるという、本人の人格を否定する如き取扱いが正当化されるのは、やはり、本人が死亡している蓋然性が高い場合に限定されなければならないはずである。
そして、厚生省は、いったん「戦時死亡宣告」を獲得するや、当該「残留孤児」に関する調査を打ち切って完全に切り捨ててしまっている。もっとも、厚生省は、調査対象としての未帰還者を減らそうという目論見から、積極的に孤児を戦時死亡宣告処理してしまおうとしたのだから、これは当然の帰結といえる。原告X31の場合には、中国から引き揚げてきた同原告の兄から生存情報がもたらされたにもかかわらず、同人を強引に説得して、戦時死亡宣告として処理することに同意させている。
こうしたことは原告X31の場合だけに限ったことではなく、当時、多くの孤児の留守家族に対し、同様の説得ないし強要がなされていたのである。
第2に、昭和20年代に「残留孤児」について「戸籍上の死亡届出」がされた場合には、以後全く調査はせず、究明用カードを作成して経過記録を取ることすら放棄してしまっていることである。
こうした孤児の中には、その後、留守家族との通信の生存が確認され、帰国に至った孤児もいるが、原告X17(原告番号17)の場合などは、「死亡」届自体が極めて安易になされ、受け付けられてている。
こうした点に鑑みれば、戸籍上「死亡届出」がされているからといって、これを盲信するのではなく、こうした孤児についても敗戦時の消息等の情報を積極的に収集・調査すべきであり、そうしていれば、実際には生存していた孤児が、ずっと早期に帰国できていたはずである。
第3に、厚生省は、専ら、留守家族や引揚者からの事情聴取等を都道府県に指導するという方法でしか「残留孤児」の所在調査を行っていないということである。
厚生省は専ら留守家族や引揚者からの事情聴取を都道府県に指導するという傍観者的態度に終始しており、自ら積極的に所在調査を行った形跡は皆無である。
第4に、厚生省は、留守家族等から生存情報があったことから、「戦時死亡宣告」として処理出来なかった「残留孤児」に対しては、恣意的あるいは安易に「帰国意思なし」と決め付けようとしていることである。
厚生省は、留守家族や引揚者から伝えられた、「中国で結婚した」、「子どもが生まれた」、「配偶者が帰国に反対している」、などといった、正確性が担保されていない伝聞情報を基に、当該孤児について「帰国意思なし」と決めつけたり、あるいは決めつけようとしている事例がほとんどである。
また、孤児が「一時帰国」や「里帰り」という言葉を留守家族宛の手紙で用いた場合には、これを「永住帰国」についての否定的意思の表明と捉え、「帰国意思なし」と決めつけようとしている。
なお、昭和40年代後半以降に「究明用カード」が作成された原告については、究明用カードの最下部に、「状態」という項目を設け、本人の「帰国意思」について、「帰国希望」・「残留希望」・「意思不詳」のいずれかに印を付する欄が記載されている。
すなわち、原告X2(原告番号2)、原告X11(原告番号11)、原告X27(原告番号27)の「究明用カード」を見ると、「残留希望」の欄に○印が付けられている(甲個2―11、11―25、27―22)。
しかし、上記原告らは、いずれも、中国への残留を希望しているかなどと尋ねられたこともそのように答えたこともない。むしろ、皆、日本への帰国を熱望していたのである。正式に永住帰国を決定する前提として、とりあえず一時帰国し、日本の親族に会い、祖国の様子を見たい、ということにしたに過ぎない。むしろ、これら原告については「帰国希望」の欄に○印が付けられるべきであったのである。こうした「究明用カード」の記載も、やはり、厚生省が「一時帰国」イコール「帰国意思なし」と決めつけようとしたものであり、孤児の帰国実現には消極的な姿勢を顕著に現したものといえる。厚生省は、これら生存が確認されている孤児については、中国での住所・連絡先を把握していたが、その帰国意思の有無を判断するに当たって、直接通信を行なうことはなかったし、留守家族を通じてでも、帰国手続や終戦後の日本の状況、帰国後の日本での生活について、十分な情報提供を行なった上で、本人の帰国に関する真意を確認することはしなかったのである。
第5に、生存情報の収集には消極的であり、その管理も極めて杜撰なことである。
例えば、原告X13(原告番号13)と原告X12(原告番号12)は姉妹であるが、両原告の「究明用カード」には「昭和28年7月中国人と結婚」と全く同じ内容が書かれている(甲個12―11、13―14)。これは原告X12についての情報が原告X13の分としても誤って記載されたものである。しかし、これら究明用カードを一元管理している厚生省がこうした簡単な誤りに気付かなかったのか、都道府県に確認を求めず、その後修正もなされていない。
また、原告X31(原告番号31)の兄からもたらされた同原告の消息についての情報は、極めて杜撰に扱われ、誤った内容で究明用カードに記載されてしまっている(甲個31―16)。
これらの事実は、厚生省が孤児の生存情報を軽視し、杜撰に取り扱っていたことを如実に物語っており、こうした杜撰さは、厚生省が、孤児の生存情報収集に積極的でなかったことの裏返しなのである。
さらに、孤児の生存情報軽視の姿勢は、当時、厚生省が作成していた資料の書式にも表れている。
「究明用カード」ファイルに含まれている資料中に、「未帰還者等の資料照合票」という厚生省援護局と都道府県間の意見連絡を記した文書があり、それには「未帰還者の最終消息・資料区分」という欄が記載されているが、この欄が変遷している。例えば次のとおりである。
1963(昭和38)年2月1日〜1967(昭和42)年1月1日の調査の「資料照合票」の書式を見ると、「未帰還者の最終消息・資料区分」という欄には「過去7年以内の生存資料」「過去7年以内の死亡資料」という分類項目が印字されその該当部分に○印を付けるようになっているが(甲個6―9―17頁、甲個9―4―26頁)、1967(昭和42)年12月31日調査の同「照合票」の「未帰還者の最終消息・資料区分」欄からは「過去7年以内の生存資料」の項目の印字は消され、「過去7年以内の死亡資料」の項目の印字は残っている。
1968(昭和43)年12月31日の「照合票」の「未帰還者の最終消息・資料区分」欄には「過去7年以内の資料」の項目としてまとめられているが(甲個6―9―15頁、甲個9―4―20頁)、1969(昭和44)年12月31日以降の「照合票」では「過去7年以内の死亡資料」の項目だけが残されているのである(甲個6―9―14頁)。
この「資料照合票」の書式変更(「過去7年以内の生存資料」項目の削除)は、厚生省が孤児についての近年の生存情報の取得には全く関心が無くなったことを露骨に現している。すなわち、孤児の近年の情報としては、専ら、「死亡情報」のみに注意しておれば足りる、死亡したとの情報が入ってくれば速やかに死亡処理して未帰還者から除外すればよい、ということである。
(エ) 戦時死亡宣告による調査の打切り
戦時死亡宣告を受けた者も、同制度はあくまでも民法の失踪宣告制度の手続的特則であり、真実の死亡が確認されたものではなく、死亡が擬制されたに過ぎない。したがって、原告ら残留孤児を早期に帰国させる義務を負っている被告とすれば、戦時死亡宣告制度導入後も、中国残留孤児が事実として生存している可能性を重視し、消息調査や早期帰国実現のための施策を継続すべきであった。
ところが、実際には被告はこれを行わなかった。この点に関し、「未帰還者調査業務実施計画に関する昭和38年5月2日都道府県知事宛厚生省援護局通知」(乙61)の20頁の25条「戦時死亡宣告審判確定者などの調査」には、「他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し、機会あるごとに死亡時期場所死因並びに遺骨等について調査するものとする」との記載があるが、ここでは、あくまでも死亡関係情報を調査するものとされており、被告が戦時死亡宣告を受けた者の帰国に向けた調査を一切放棄していたことは明らかである。
また、乙42「続々・引揚援護の記録」172頁には、「大部の未帰還者については、特別措置法による戦時死亡宣告の申立てを目標に、未帰還者各人の消息のうち、反対または矛盾した資料を再調査して最終の資料や身分を確認する等、特別措置法の円滑な実施を図りつつ現在に至っている」との記載があり、これはまさに、未帰還者の消息の調査そのものより、特別措置法による最終処理を優先させることを明言したものである。そして、被告は、戦時死亡宣告制度導入後、残留孤児の最終処理を終えたものと扱い、それ以降、実質的な消息調査等を打ち切った。
そして、実際に戦時死亡宣告を受けた残留孤児については、戸籍の復活手続が複雑で時間がかかり、肉親側が戦時死亡宣告の取消しや戸籍復活をためらったり拒否したため中国からの帰国手続ができなかったり大幅に遅れるという深刻な事態も発生した。
また、未帰還者に関する特別措置法2条3項は、厚生労働大臣が取消の請求も行うことができるとしているが、その導入時には親族を強引に説得して申立に同意させた一方で、取消請求は行われなかった。
(オ) 世間一般に与える影響―引揚問題の終結の印象付け
中国に残留している日本人が今後引揚げできるのか否かは国民の一大関心事であったが、被告が戦時死亡宣告制度を導入することを決め、実際にこれを導入したことにより、世間一般に「引揚問題は終結した」との強烈な印象を与え、その後の中国からの帰還に対して大きなマイナス影響を与えた(甲総117の15)。
(カ) 日中国交回復後の調査遅れ
戦時死亡宣告制度は、1972(昭和47)年に日中国交が回復された後に、被告が速やかに消息調査や帰還援護を行おうとしなかったことの大きな要因となった。例えば、日中国交回復後、なかなか政府が動かなかったことについては、「一度死亡宣告で弔慰金を支払い戸籍から抹消した死人に調査費は出せない」とする大蔵省の主張などがあったと指摘されているし、日中国交回復の時点ですぐに被告が動かなかったのは、「もうすでに解決済みの問題である」「寝た子を起こすな」との意識があったと指摘されている。
(キ) 小括
以上のとおり、戦時死亡宣告制度導入は、「未帰還者」の最終処理を急ぐ国主導で制定されたこと、生存の期待の持てない状況になかった「残留孤児」らも対象としていること、実際の戦時死亡宣告制度の運用が強引に行われていたこと、前提となる一斉特別調査が極めて不十分なものであったこと、実際に戦時死亡宣告を受けた孤児の調査が打ち切られたこと、世論に対して「残留邦人の引揚問題は終結した」との印象を強く植え付けてしまったこと、日中国交回復以後の調査・帰国実現に向けた国の施策の遅れの大きな要因となったことなど、国の早期帰国実現義務違反は極めて重大であると評価されるべきであり、しかも、被告は故意にこの義務に違反したのである。
(6) 昭和47年9月の日中国交回復後の義務違反(1)
ア 被告は、日中国交回復後直ちに、外交ルートを通じて、中国政府に対し、「残留孤児」に関する情報を提供し、その所在調査と肉親探し及び帰国実現の為の協議を申入れ、訪日調査も速やかに開始すべき義務、国内においても、「孤児」や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し、肉親捜しを積極的に進めるべき義務、孤児らが安心して帰国を決断することができるよう日本での受入環境の整備を行う義務があったが、以下のとおり、上記各義務を履行しなかった。
まず、被告は、日中国交回復後、「残留孤児」などからの肉親調査依頼の手紙、あるいは帰国実現のための手助けを求める要請が殺到したにもかかわらず、それらの手紙を放置するなどして、なんら早期帰国の措置を講じなかったばかりか、留守家族などの嘆願に対して、「部局」が違う(甲総42)、あるいは「戸籍上死亡者となっている者を、今さら掘り起こして捜すことは出来ない」(甲総A5の19)などとして、「残留孤児」の消息、所在等の調査にもまったく応じようとしなかった。
このような姿勢を出発点としたことから、被告は、調査・帰国に関する総合的な施策を立案することなく、場当たり的にしか対応しなかった。中国政府に情報を提供して肉親探しの協議を開始したのは1980(昭和55)年、訪日調査を開始したのは1981(昭和56)年であった。
この点、中国残留孤児帰国者及び訪日調査表(甲総A5の67)によれば、国交回復後訪日調査開始までの帰国者数は以下のとおりであり、いかに少なかったかがよく判る。
帰国世帯  帰国人員(人)
昭和47年度 0 0
昭和48年度 0 0
昭和49年度 1 5
昭和50年度 9 30
昭和51年度 12 74
昭和52年度 13 56
昭和53年度 20 74
昭和54年度 24 80
昭和55年度 26 110
昭和56年度 37 172
1975(昭和50)年に公開調査が始まっていたにもかかわらず、ほとんど帰国者の数が増加していないという事実は、被告が早期帰国実現のための政策を懈怠してきたことを端的に裏付けるものである。
さらに、身元未判明孤児の帰国実現は1985(昭和60)年、親族が帰国に同意しない判明孤児の帰国がかろうじて制度的に実現したのは1989(平成元)年であった。本格的に永住帰国が始まったのは1985(昭和60)年頃からであり、帰国に当たっての様々な障害を取り除く努力もされていない。
以上の事実から、被告が残留孤児の消息、所在等についての調査、帰国させる義務を著しく懈怠していたことは明らかである。
イ 被告は、日中国交回復後、保有資料調査、公開調査、訪日調査等を段階的に行ってきたなどと主張しているが、これらの調査は、いずれも、孤児らの身元調査・肉親調査の域を出ないものであり、孤児らの「早期帰国実現そのもの」に向けられたものではなかった。このことは、例えば、1981(昭和56)年3月に訪日調査が開始した後の1982(昭和57)年1月に、改めて「残留孤児」らを原則として外国人と扱う旨の通達(甲総49の2)を出していることからも明らかである。真に国が、孤児らの「早期帰国実現そのもの」を目標にこれらの調査を行ったのであれば、これら調査を開始すると同時に、出入国管理行政上の障害を除去することや、受け入れ態勢の環境整備を行うなどをあわせて進めるはずである。ところが、被告は、そのようなことを行っていないのである。
のみならず、保有資料調査は、調査対象や調査方法からしても、被告が帰国実現義務を段階的に果たしていたと到底評価し得ないものであり、その後に被告の行った公開調査や訪日調査はいずれも、被告が段階を追って取り組んだものではなく、被告が取り組まないがゆえに、民間団体やマスコミが取り組み、それに対して世論の厳しい批判を受けて国が取り組まざるを得なくなったものである。
なお、被告は文化大革命の影響で残留孤児の早期帰国実現に向けた協力を中国に求めても、その実現可能性はなかったとの趣旨の主張を行なっているが、在中国大使館の報告(乙138)にもあるとおり、国交回復当初から中国在留邦人の帰国問題は重要課題と認識されていたのであるから、日中間の懸案事項と位置づけた取り組みが必要だったものである。また、1973(昭和48)年6月、周恩来中国首相は「中国にいる日本人で中国人の妻や家族となっている人々の里帰りを全面的に支援したい。」と述べ、同年5月には中日友好協会会長が、現在中国には中国人の家族となっている日本人が約5000人いるとして「このなかには、中国に永住したい者、帰国したい者、あるいは一時的に里帰りしたい者がいる。われわれは、このいずれについても希望にそうよう努力している。」と述べているのであり(乙1、125頁)、中国側が文化大革命のために孤児らの帰国を妨げていた事情は窺えない。この周総理の方針は、1973(昭和48)年8月の在中国大使の報告においても、「シュウ総理が既に指てきした通りこの問題では日本側に協力するという基本方針をとっている」とある(乙179)。さらに、1977(昭和52)年3月4日衆議院予算委員会においても、中国政府は積極的に協力してくれているとの答弁がなされており(甲総A12の1、甲総A11の1)、この点から文化大革命による影響はないと考えられる。
ウ さらに、被告の行った調査に関しては、次のような義務違反があった。
(ア) 訪日調査の開始の遅延
厚生省の保有資料調査(乙2)は、① 戸籍の有無にかかわらず、日本人を両親として出生した者であること、② 中国東北部などにおいて、昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)以降の混乱により、保護者と生別又は死別した者であること、③ 当時の年齢がおおむね13歳未満の者であること、④ 本人が自己の身元を知らない者であること、⑤ 当時から引き続き中国に残留し、成長した者であることのすべての要件を備えている者を中国残留日本人孤児として肉親捜しの調査の対象者とし、その調査の方法は、孤児から寄せられた手掛り資料を基に、厚生省又は都道府県が保有する未引揚邦人索引簿、邦人死亡者索引簿、開拓団在籍者名簿、在外事実調査票、中国本土にあった各種の職域などの在職者名簿、軍人軍属約65万人の名簿など各資料を照合して該当者らしい者を抽出し、都道府県を通じて家族に確認を求める、というものである。
この内容から明らかなように、保有資料調査は調査範囲が極めて限定されており(手紙が寄せられた孤児のみを対象とし、しかも年齢制限がある)、調査方法も厚生省の持つ名簿との照合・都道府県への連絡のみと限られたものであった。すなわち、厚生省は手元にある資料を世間一般に公開することすら行っていないのである。かかる調査をもって、「段階的に」孤児の早期帰国実現に向けて施策を行っていたとは到底評価し得ないことは明らかである。
次に、公開調査は1975(昭和50)年3月から9回実施されたが、この公開調査も十分なものではなく、早くから限界が指摘されていた。これは調査対象が保有資料調査と同様、上記5つの要件を満たす孤児についてのみ行われたに過ぎなかったこと、幼くして肉親と別れた孤児らにはそもそも資料と呼べるようなものが残っていないケースが多いことからも自明のことであった。
公開調査の限界が早くから認識されていたにもかかわらず、被告は中国に対し、日中国交回復から8年間も訪日調査開始の外交申入れを正式に行なわなかった。
すなわち、1980(昭和55)年10月22日の衆議院外務委員会において、田川議員が「国は中国に対して正式に申し入れを行なっているのか、日本政府から正式に申入れは受けていないと中国側から聞いた」と質したのに対し、伊東外務大臣は「12月に日中閣僚会議があるので、それまでに資料を整え中国の外務大臣に正式に出す」との答弁を行ない、この質疑の行なわれた直後の同月30日の外交文書(乙141)では、同月28日に中国外交部を訪問し協力要請をしたとされているのである。この一連の流れからも、被告は訪日調査を8年間にわたり正式申入れをしなかったことは明らかである。
このように訪日調査開始を正式に外交申入れを行なうまで8年以上が経過しているが、この申入れについても被告が率先して行なったものではなく、1980(昭和55)年7月に行なわれた山本慈照氏の孤児訪中調査報告書の内容が大反響を巻き起こしたことが大きかった。
以上のとおり、訪日調査の開始の遅れは、被告が訪日調査開始を中国に正式に申入れをせず、漫然と8年間もの長期間、放置していたためであり、被告の早期帰国実現義務違反は明らかである。
(イ) 訪日調査の長期化
① 1981(昭和56)年に第1次調査が行われたが、当時、厚生省に肉親探しを申し出ていた孤児は約1500人もいたのに、厚生省の調査は1年にわずか1回、それも45人を限度とした少数の招待予定にすぎなかった。1980(昭和55)年に訪日調査が予算化された時も、その規模は年間60人程度にすぎなかったのであり、中国にいる孤児たちは、「60人ずつなら孤児全員の里帰りが終わるまで何年かかるのか。」と、かえって不安感を高めた。
この点について、被告は、1981(昭和56)年8月、9月の中国大使発外務大臣宛電信(乙160の1、2)を根拠にむしろ中国側から昭和56年訪日調査計画は1回30人を超えない範囲でとの申し入れがあったのであり、中国側の事情であるとの趣旨の主張をしているが、上記電信を見ても、決して中国側は訪日調査に消極的態度ばかりに終始していたとは読めず、中国側が要望を出しているのも「日本政府に協力して日本孤児が一日も早く自分の親族を探し出すために協力したい」ということであり、中国側が要望している理由を見ても、飛行機や宿泊の手配などの技術的な問題を指摘しているだけで、一括して60人は多いということを述べていたに過ぎない。
また、中国側にしてみれば、突然、訪日調査の申入れを受けたわけであり、当初の段階でこのような要望を出していたからといって、その後も継続的に消極的態度に終始していたことを意味するものではなく、被告が日中国交回復前から継続的に外交努力や孤児の調査究明努力を継続し、国交回復直後に詳細な名簿や情報を準備の上、中国に申入れをしていれば、早期かつ大規模に訪日調査が行われていた可能性は極めて高い。
② 中国「残留孤児」が日本に帰国する場合に中国に残されることとなる養父母の養育費負担問題につき、被告国が当初あくまでも孤児個人の問題である、との姿勢を崩さなかったため、せっかく始まった訪日調査が1年近く中断したこともあった。
このような状況から、1984(昭和59)年、訪中した当時の厚生大臣が、中国側から「肉親捜しの申請は、2700人の孤児から来ている。現在のような訪日調査では、10年かかっても終わりませんよ」と批判されたが(甲総47)、これに対する被告の取り組み方は、厚生省の当時の現場責任者(和知金寿氏)すら、「現状の調査体制では、とても対応しきれない。ボランティアや報道機関の協力を、これまで以上にお願いするしかない」(甲総A4の109)と嘆かざるを得ないものであった。「残留孤児」が日本に帰国する場合、養父母の養育費問題が生じるのは必然である。被告国は「残留孤児」を早期に日本に帰国させる義務があったのであり、速やかにこの問題を解決すべき義務があったがこれも怠り調査が長期化したのである。
③ 被告は、1987(昭和62)年に、未だ訪日調査に参加した「残留孤児」の数が1488人にすぎなかったにもかかわらず、何ら合理的な根拠もなく、「今後、孤児からの調査依頼はさほどの件数はないとの見通しに立って」、訪日調査の概了宣言を行って、調査を打ち切ろうとした(乙2)。しかし、その後も「残留孤児」からの調査依頼が続々寄せられたため、被告は、同年11月から、「補充」調査と称して訪日調査を再開せざるを得なくなり、1999(平成11)年までに、さらに628人の「残留孤児」が訪日している(甲総82)。
そもそも、被告は、訪日調査開始の時点で、中国残留孤児は少なくとも約3000人はいたことを国は認識し(甲総A5の20)、実際に、1982(昭和57)年7月末の時点で、既に1391名もの「残留孤児」から調査依頼が寄せられていたのである。このように、まだ多数の孤児が残されていることが明らかであったにもかかわらず、調査が概了したと宣言した被告(厚生省)の態度は、訪日調査に対する消極性を如実に示しているものといわざるを得ない。
④ 訪日調査は、1981(昭和56)年から1999(平成11)年まで、実に18年にもわたって続き長期化した。全国アンケートの結果では訪日調査参加を希望して待たされた原告が71%にのぼっている(甲総A13の1の4頁)。中には5年以上待たされたとの回答も多い。訪日調査の長期化により「残留孤児」たちは、さらに一層、その人生にとって、将来取り返しのつかない貴重な歳月を失うこととなった。
本来、被告国には、積極的な予算措置をとるなどして、短期・集中的に訪日調査を進展させる義務があったがこれを怠った。
(ウ) 調査方法の不適切(血液検査について)
訪日調査においては、厚生省等の保有資料や孤児らが保有している手掛かり資料を基礎に対面調査が行われた。このような資料を基礎に行った対面調査は、通信調査と比較すれば飛躍的に有効な手段ではあったが、それでも孤児らの36年以上前の記憶や孤児らが保有する手掛かり資料のみでは十分ではない場合もあった。このため、訪日調査によってすら肉親判別率は高いとは言えず、中には肉親と判定された10年後に肉親でなかったことが判明し、そのことで孤児が自殺する事態さえ生じたのである。それゆえ、被告としては、保有資料や孤児らが保有している手掛かり資料だけで調査として十分でないと考えられる場合に、孤児やその親族が容易に科学的調査方法である血液鑑定やDNA鑑定を活用できる態勢を整え、それらを十分に周知し、当事者の希望があれば直ちに利用できるよう措置すべきであった。しかしながら、被告は血液鑑定には費用がかかるためこれに消極的であり、肉親関係者の血液鑑定の費用は原則肉親者の負担であったため、本来利用されるべきケースで利用されないことがあった。
また、昭和60年度予算明細書(乙77)によれば、血液鑑定料20人分、単価は6万円とある。昭和60年度には第8次〜10次の3回の調査に400人が参加しているが、3回行なわれた訪日調査での身元判明率はいずれも30%前後であり(乙74)、にもかかわらず予算は20人分しか組まれていなかった。
被告が血液鑑定等の科学的調査方法についても積極的な予算措置を講じていれば、身元が判明した孤児がより多くいた可能性が高いといわざるを得ない。
(エ) 原告らの具体的体験について
以下のとおり、被告の義務違反により、原告らの帰国が遅延した。
① 原告X1(原告番号1)は、1972(昭和47)年に日中の国交回復がなされたが、同原告は、帰国手続をどうすればよいのか全く分からなかった。日本のどこから満州に来たかも知らず、全く手がかりがなく、情報で聞いた長野県の厚生課長宛に肉親探しを依頼する手紙を書き、新聞記事を見た親族の連絡で身元が判明し、1976(昭和51)年6月1日39歳のときようやく帰国がかなった。
② 原告X2(原告番号2)は、成長するにつれ、日本人であるが故の差別・迫害は一層原告を苦しめ、日本に帰りたいとずっと思い続けていたが、帰国の情報は何もなかった。1972(昭和47)年に、日中国交が回復し、原告は日本に帰ることができるかもしれないという思いで、駐中日本大使館に肉親探しを要請する手紙を出したが、何の返事もなかった。1974(昭和49)年6月ころ、原告は、黒田了一大阪知事宛に、自分の境遇、日本名、大阪市出身であること、両親を捜してほしい旨の手紙を送り、日本の新聞に掲載され、実母と連絡が取れた。一時帰国の手続を申請してから4年経った1978(昭和53)年12月22日、ようやく一時帰国ができた。1981(昭和56)年頃、永住帰国の申請をしたが、永住帰国が叶ったのは2年後の1983(昭和58)年12月のことであった。
③ 原告X4(原告番号4)は、中国においては通化県からほとんど移動することもなく、国による調査は容易であったが、国は調査することなく、むしろ戦時死亡宣告によって帰国のための調査を打ち切った。そのため、同原告は、1996(平成8)年になって、ようやく帰国に関する情報を知り、自分から厚生省に手紙を書いて連絡を取ることが出来た。その後、同原告は、1998(平成10)年11月、身元調査のために帰国した。そして、翌年6月に血液鑑定を経て、ようやく同原告の身元が判明し、永住帰国に至った。
④ 原告X8(原告番号8)は、1982(昭和57)年頃、養母から聞いた話に基づいて、公安局外事課に身元調査を依頼した。肉親と会いたいという気持ちが募り、1983(昭和58)年8月に日本駐中国大使館宛に肉親捜しの手紙と肉親調査依頼書を書いて送った。同原告は、日本人孤児証明書をもらうために日本大使館に手紙を書いて送ったが連絡がなかった。そこで、同原告は、1985(昭和60)年4月、厚生省援護局宛に、再度肉親捜しの手紙を送って執拗に働きかけることで、漸く1986(昭和61)年9月の訪日調査が実現したが、身元は判明しなかった。その後、開拓団出身者の会である「双龍会」の佐々木氏が肉親捜しを手伝ってくれることになったが、数年経っても肉親は見つからず、佐々木氏に身元引受人になってもらい、1990(平成2)年4月10日にようやく永住帰国することができた。
⑤ 原告X6(原告番号6)は、1973(昭和48)年3月にはじめて日本に一時帰国することができたが、その際、国から永住帰国に関する何らの助言も説明もなかったため、日本に永住帰国しても、家族みんなが日本語も分からないし、日本の社会で原告の家族がどうやって暮らしていけるかの展望がなく、帰国する決断をすることができなかった。原告は、1980(昭和55)年にも長男、次男を連れて一時帰国し、1年間日本に滞在したが、この時も前回同様、国からは永住帰国後の生活に関する何らの助言もなく、しかも実際に日本社会に暮らしてみて、日本語ができないために仕事も見つからず生活に苦労するなど、日本での生活に対する大きな不安が解消できず、永住帰国する決断はできなかった。そして原告が永住帰国したのは1996(平成8)年4月のことであった。
⑥ 原告X12(原告番号12)においては、1962(昭和37)年に中国の何者かにより当時の厚生省に送られた手紙によって、その所在や状況を国は把握していた。にもかかわらず、同原告には、国交回復の前後を問わず、国から帰国を促したりする働きかけは一切なかった。結局、同原告は、1979(昭和54)年1月16日に国費によらず、自費で帰国することになった。
⑦ 原告X18(原告番号18)については、甲個18の15によれば、国は1963年(昭和38年)にはすでに同原告が中国で健在であることを把握していたと思われる。それにもかかわらず、被告が同原告の帰国意思を確かめるために具体的な措置を採ったことはなかった。先に永住帰国していた実母や兄を介せば本人と直接連絡を取ることも十分可能であったが、被告はそのような処置を講じなかったため、同原告の永住帰国は1986(昭和61)年4月まで遅れた。
⑧ 原告X9(原告番号9)は、中国でも日本名をそのまま名乗り、日本に帰りたいと思い続けていた。1957(昭和32)年よりおじと手紙をやりとりしたが、1962(昭和37)年、国に意思確認もないままに「帰国の意思なし」と一方的に決めつけられた。その後、国の援助も受けられず、帰国の手続もわからない状態が続き、ようやく帰国できたのは、1989(平成元)年であった。
⑨ 原告X10(原告番号10)は、幼いころから日本人であることを知らされて、いじめられるなどのひどい目に遭っていたことから、日本に帰りたいと思い続けていた。そして、1960(昭和35)年から、日本にいる兄と連絡を取り、帰国の意思を伝えていた。しかし、帰国のための旅費がなく、旅費が国から出ることも知らされなかった。そのため、同原告が帰国できたのは、1975(昭和50)年になってからだった。
⑩ 原告X25(原告番号25)は、中国に取り残された時から日本人であることを忘れたこともなく、祖国へ戻ることを望み続けていたが、帰国の術を知らずにいた。1981(昭和56)年にようやく人から聞いて在中日本大使館に手紙を出した。その後、同原告の再三の問い合わせにもかかわらず、訪日調査に参加できたのは、1986(昭和61)年であった。結局身元は判明せず、永住帰国できたのは、1988(昭和63)年である。
⑪ 原告X27(原告番号27)は、自分が日本人だとわかってから、日本に帰りたいと願っていたが、どのようにしたら日本に帰れるのか、全く情報がなく、日本に帰る機会があるということを長い間知らなかった。同原告は、国に対して、1981(昭和56)年と1982(昭和57)年の2回にわたって孤児証明書(甲個第27号証の19、20)を提出するとともに、肉親調査を求める手紙(甲個27の21の1ないし3)も出していたのに、訪日調査に参加できたのは1983(昭和58)年12月であった。その後、身元が判明したものの、実際の帰国は1989(平成元)年となった。
⑫ 原告X31(原告番号31)は、1983(昭和58)年日本人であることを知り、帰国のため肉親探しを開始し、1986(昭和61)年9月訪日調査で身元が判明したが、養母の扶養問題で義姉及び養母の同意が得られず、帰国が遅れた。国から同年5月には援護基金から養父母に養育費が出ることを知らされていれば、もっとスムーズに帰国できたはずである。そのことと国が身元保証人を要求しているため、結局帰国は身元判明から9年後の1995(平成7)年12月となった。
(7) 昭和47年9月の日中国交回復後の義務違反(2)
ア 被告は、肉親が判明しない場合や、判明しても親族が帰国に同意しない場合であっても、孤児らの帰国に障害が生じないように、出入国管理行政上適切な措置をとることや、帰国旅費国庫負担制度の円滑な運用に努め、孤児が帰国を希望する以上、直ちに帰国できる措置を講ずべき義務があった。
ところが、被告は、出入国管理行政上適切な措置を取るどころか、実質的に孤児らの帰国を妨害するような施策を取り続けたものであり(別表2〈省略〉参照)、上記義務に違反したことは明らかである。これは、被告の二つの根本的な過ちに起因する。
第1に、被告が、孤児の帰国問題について、原則として孤児個人及び家族の問題と取扱ったことである。帰国旅費国庫負担制度の申請手続を留守家族に限ったことや(昭和48年10月16日厚生省援発1052号・甲総45)、身元未判明孤児に対する身元引受人制度を1985(昭和60)年3月に導入したにもかかわらず(昭和60年3月29日厚生省援発206号・甲総50)、身元判明孤児には依然として親族の身元保証人を要求し続け身元未判明孤児よりも身元判明孤児が帰国しにくいとの矛盾を生み出したこと、1989(平成元)年7月にようやく身元判明孤児のための特別身元引受人制度を導入したものの(平成元年7月31日厚生省援発411号・乙14)、終戦時13歳以上のいわゆる「残留婦人」については、「自分の意思で中国に残ったので自己責任である」との理屈に基づきあっせん対象者から外したことなどは、いずれも被告のこの過ちから生まれている。
例えば、帰国旅費国庫負担制度についてみると、厚生省自身が「帰国するに当って、東北3省を中心に居住する残留邦人は、大部分が農村に居住していたことから経済的に余裕がない生活を送っており、これらの人々にとっては居住地から出境地までの中国国内の旅費及び日本までの渡航費用等を捻出することは不可能に近い」(乙2の397頁)と認めるように、日中の経済格差を考えると極めて困難であった。
そして、すでに日本在住の親族において新しい家族を持つに至っているケースなど、相続の問題や日中の生活習慣等の違いによるトラブルの可能性、帰国後の生活の面倒をみることができるのか否かの不安等々から、身元判明残留孤児の永住帰国に同意しないケースが数多くあった。
被告は、戦後30年ないし40年も経過して帰国するものである以上、このようなケースを十分に予測できた。このような日本在住の家族の不安は、被告が「残留孤児」問題を孤児とその家族の個人的な問題に矮小化せず、被告の責任で「残留孤児」の生活保障の問題を解決しておれば、当然避けられた問題であったが、被告はこの点でも何らの措置もとらなかった。肉親に協力を拒否された「残留孤児」達の心の苦しみは極めて深いものがあった。身元が判明した当初は、感激・感涙の対面として新聞紙上などで大きく扱われながら、その後親族が様々な理由で孤児の帰国に同意しないため、あの感激・感涙は何だったのかという悲惨な疑問が孤児の中に生まれたのである。他方、同意を求められながら様々な問題から協力できなかった肉親側の心労や悩みも深かったであろう。被告が帰国旅費の国庫負担申請にあたり留守家族からの申請を求めたことは、新たな家族の分断を生んだと言っても過言ではない。
第2に、被告が孤児を原則として外国人として扱ったことである。国交回復後間もない1975(昭和50)年11月に出された法務省通知(昭和50年11月22日法務省管登第9660号・甲総49の1)により、出入国管理行政上、「残留孤児」は外国人として扱われ肉親の身元保証人がない限り永住帰国が不可能となった。このため1985(昭和60)年3月に身元未判明孤児の身元引受人制度ができるまで、身元未判明孤児はそもそも永住帰国することが不可能となり、身元判明孤児も親族に反対されれば永住帰国は不可能となったのである。原告らの多くが、この身元保証人を立てることができず長年帰国できないケースがあった。
また、全国アンケートにおいても、身元未判明であったため身元引受人が就くまで待たされたと回答した原告が363人(35%)、身元判明したが日本の親族が身元保証人になってくれずに待たされたと回答した原告が415人(40%)と極めて多数にのぼっている(甲総A13の1の5頁)。
イ(ア) 帰国旅費の国庫負担問題、身元保証人問題、身元引受人問題などにより原告らの帰国が遅れたか、その一例を示す。これらの内容からも、被告国が帰国障害となる制度を除去しなかったことにより原告らの帰国が遅れたことは明白であり、被告国に早期帰国実現義務違反が成立することは明らかである。
① 原告X8(原告番号8)は、自分が日本人であることを当初から自覚しており、帰国を切望していた。1954(昭和29)年からは父と手紙を交わしており、日本への帰国や父との再会を願っていたが、帰国する費用もなく、自力で帰国することは叶わない状況であった。それでも、同原告は日本への帰国を切望し続けた。1972(昭和47)年には日中の国交回復がなされたが、同原告には、帰国旅費が国費から出されることは知らされることはなく、同原告はすぐには帰国することができずにいた。同原告は、1973(昭和48)年末頃、偶然、他の残留日本人から国費で一時帰国できることを聞かされ、日本に帰国できることを知り、1975(昭和50)年10月に一時帰国した。その後、同原告は永住帰国の手続を始めようとしたが、永住帰国のためには、身元保証人が必要であった。同原告は、弟に身元保証人になってくれるように頼んだが、身元保証人の役割について国から説明されなかったために、弟は同原告の生活を全て面倒見なければならないと誤解し、身元保証人になることを拒んだ。弟の誤解が解けるまでの間約11年間、同原告は帰国が遅れることとなった。そして、同原告は1987(昭和62)年8月7日、58歳にしてようやく日本に帰国できた。
② 原告X11(原告番号11)は、日中国交回復後4年を経た1977(昭和52)年、日中の国交が回復したこと、日本に帰国する方法があることを知った。そして、同原告は、1981(昭和56)年9月から翌年3月まで、妻と二女とともに、念願の一時帰国を果たすことができた。その後、同原告は、1983(昭和58)年頃、日本への永住帰国の申請をしたが、永住帰国に際し、国から身元保証人を要求された。両親・弟妹を失った同原告は、従兄弟に身元保証人の依頼をする他なかったが、身元保証人は帰国者の帰国後の生活に対する一切の責任を負わなければならない制度と思われていたことから、従兄弟らの承諾がなかなか得られなかった。結局、同原告が永住帰国を果たすことができたのは、1989(平成元)年8月であった。
③ 原告X13(原告番号13)は、終戦直後から日本に帰りたいという希望を持っており、この希望が、中国で大変な苦労をするなかで、年々強くなっていたにもかかわらず、日本政府の担当者が、手紙や電話などで直接に帰国意思を確認してくれたことは一度もなかった。日本政府は、帰国したいという強い意思を持ったまま中国で苦しんでいる原告に対し、帰国できる方法を教えないことで原告の肉体的・精神的被害を拡大した。厚生省開示資料によれば、1954(昭和29)年には日本政府は同原告の居場所を明確に把握し、1973(昭和48)年には同原告の身元と居場所、帰国を望んでいることも知っていたのである。しかし、結局、同原告が兄に身元保証人になってもらって、日本に帰国できたのは、10年後の1983(昭和58)年12月のことだった。同原告の帰国に10年もの年月を要したことの一因には、北京にある日本大使館の弁によると、「担当者が交代した関係で遅くなった。」とか、一度出した書類を「もう一度、提出してほしい。」と求められたことがある。
④ 原告X17(原告番号17)は、養父母に引き取られる前から自分が日本人であることは分かっており、帰国を切望していた。1980(昭和55)年、日本への帰国を決め、まずは一時帰国をすることにした。しかし、同原告の戸籍では、同原告は死亡したことにされており、戸籍の回復をしないと一時帰国できないということだったので、戸籍訂正の手続をとってもらった。そして、1982(昭和57)年12月18日、戸籍訂正審判が確定し、ようやく戸籍を回復することができた。この点につき厚生省開示資料の記載をみると、厚生省は、一時帰国の前に戸籍回復を行うことが先であるとの方針をとっていることがわかる。そして、1983(昭和58)年11月25日、同原告は、妻と子ども4人の6人で一時帰国したが、同原告の一時帰国が長くなるにつれ、冷たい対応をする親族が増えてきた。そのため、永住帰国時に親族に身元保証人になってもらうことは難しくなり、永住帰国は1987(昭和62)年1月23日になった。
⑤ 原告X29(原告番号29)は、敗戦時より日本に帰りたいと切望していた。しかし、国交回復後でも帰国の方法がわからず、また日本からも何の連絡もなく、放置されたままだった。その後、残留日本人から聞いて、1981(昭和56)年頃に駐中国日本大使に手紙を出したが返事もなく、公安局に申し出ても、日本政府からは「身元が判明しない」と断られた。同原告は自らの努力で肉親をさがし、叔母が見つかったために1987(昭和62)年に一時帰国した。その後、永住帰国を望んだが、叔母は身元保証人となれば、同原告の生活の面倒も見ないといけないと思い、身元保証人になってくれなかった。ようやく叔父に身元保証人になってもらい、永住帰国できたのは1993(平成5)年、同原告が61才のときであった。
⑥ 原告X20(原告番号20)は、1976(昭和51)年9月に一時帰国から中国に戻ってすぐに、近くに住んでいた残留婦人のD(中国名:D′)に永住帰国の手続を助けてくれるよう頼んだが、そのためには親族の同意書が必要であると教えてもらった(これはおそらく親族の身元保証人及び親族による帰国旅費申請のための同意書のことと思われる)。しかし、親族は同原告の永住帰国に反対して、作成を拒否した。そのため、同原告は長い間永住帰国できない状態が続いた。結局、同原告が永住帰国できたのは、1990(平成2)年11月16日であった。
⑦ 原告X22(原告番号22)は、永住帰国を望んでいたが、当時の厚生省は、国費で帰国しようとすれば身元判明孤児については日本の家族が帰国に同意して身元保証人を引き受けると共に帰国旅費の申請をしないかぎり永住帰国を認めていなかった。そこで1989(平成元)年の一時帰国のとき、同原告は実父や実母に日本に永住帰国したいが同意してくれないか、と頼んだが、同意してくれなかった。同原告はそのときは諦めざるを得なかった。結局、弟は1991(平成3)年2月に永住帰国し、同原告は、弟の家族全員の帰国が終了した後に、実父に永住帰国の同意書類を送り実父の同意を得て、1993(平成5)年2月、52歳のときにやっと永住帰国を果たした。
⑧ 原告X23(原告番号23)は以前から日本に帰りたいという気持があったが、兄が日本から送ってくる手紙で日本の状況を知り、さらに1972(昭和47)年に日本と中国の国交が正常化したということを知るに至り強く帰国を希望するようになった。1977(昭和52)年か1978(昭和53)年頃、同原告は日本の兄に手紙で日本への帰国について相談をしたが、同原告は兄から身元保証人となることや帰国旅費の国庫負担の手続申請を行う協力を得られなかったため、この時点での永住帰国を諦めざるを得なかった。1980年代の前半頃に入り、同原告は厚生省に対し日本への帰国希望を出したが、このときも兄に身元保証人や帰国旅費国庫負担の手続の協力をしてもらえず永住帰国できなかった。その後、兄は協力してくれるようになったが、永住帰国は終戦後、47年近くが経過した1992(平成4)年6月12日となってしまった。
⑨ 原告X26(原告番号26)は、祖国である日本に帰国したいと思っていた。しかし、同原告の叔母(同原告の母の妹)も亡くなっており、家族も親戚も日本にはおらず、身元保証人になってくれる人がいなかったので、同原告は、帰国することができなかった。その後、同原告は、一時帰国することはできたが、身元保証人が見つからない限り、永住帰国は困難だった。当時、同原告には、頼れる親族も親戚も日本にいなかった。日本語もわからない同原告が、日本在住の身元保証人を探すことは、不可能だった。1990(平成2)年ころに、日本から訪中団が訪れた時に、国が身元引受人を斡旋してくれるという制度(特別身元引受人制度)があるということを教えてもらった。同原告は、1991(平成3)年に、身元引受人のあっせんを申し込んだ。しかし、身元引受人は半年くらいで決まったものの、日本に来るのを待ってほしいと言われた。あまり長く待たされるので、同原告は、自分で身元保証人となってくれる人を探し始めた。そして、ようやく、中国で知り合いだった残留婦人の子どもが身元保証人になってくれたので、1993(平成5)年7月24日に、夫と一緒に永住のために帰国した。このように、同原告は、身元保証人が必要とされたこと、及び、特別身元引受人の運用のまずさのために帰国が大幅に遅れた。
⑩ 原告X28(原告番号28)は、日本人であることを理由に差別を受けたり、実父母がいないことで何度も苦労してきたので、日本の親族に会いたいとの思いが募っていた。同原告は、1977(昭和52)年9月に一時帰国した後、永住帰国の思いを募らせていたが、永住帰国するには親族の同意がなければ帰国することはできないと言われた。同原告の兄EもFも、中国人の夫や子どもらを連れて永住帰国するには同意してくれなかった。それでも同原告は、家族を連れて永住帰国したいという強い決意があり、兄が永住帰国に同意したという嘘の手紙を書いて北京にある日本大使館に送ってもらってまでして、日本に永住する許可を得た。そして、1979(昭和54)年5月、同原告は、子ども3人とともに自費で帰国した。同原告は一時帰国の時は国費で帰国したが、永住帰国も国費で帰ることができることを誰も教えてくれなかったために、自費で帰るしかないとの認識であった。また同原告の夫には雇用証明書が必要だということで、同原告らより1年遅れて入国せざるをえなかった。
⑪ 原告X32(原告番号32)は、1962(昭和37)年頃、密かに日本への帰国のための資料を集め始めたが、この時は帰国は実現しなかった。1972(昭和47)年の日中国交回復時も、同原告には、帰国や親族探しのための方策などは、何一つ知らされなかった。同原告に関しては、当時の厚生省は、同原告の生存可能性を高いものと認識しながら、1964(昭和39)年には、戦時死亡宣告により同原告の戸籍を抹消した。そのために同原告は、1986(昭和61)年10月になるまで訪日調査に参加することができず、永住帰国は1987(昭和62)年11月6日になった。
⑫ 原告X15(原告番号15)は、1980(昭和55)年ころになって、自分が日本人であることが明らかになったと考えた。そして、残留孤児の問題は公安局外事課が扱っているということを聞き、公安局外事課に、帰国するための申請書を提出した。一方で、北京の日本大使館か総領事館かに手紙を送ったがなんの返事もなかった。1981(昭和56)年ころ、同原告は、日本の厚生省に、手紙と自分の写真を送って訪日調査を申し込んだ。しかし、厚生省からはなんの音沙汰もなかった。同原告は、ここに至って、もう日本への帰国をあきらめるしかないと思った。1985(昭和60)年9月になってようやく、第8次訪日調査に参加するに至ったが、結局、同原告の肉親は判明していない。1988(昭和63)年6月3日、Gさんが身元引受人になってくれて、45歳でようやく長男とともに日本に永住帰国した。
⑬ 原告X19(原告番号19)は、1976(昭和51)年に北京の日本大使館へ肉親探しの要請書を提出したが、大使館からは何の連絡もなかった。その後、1980(昭和55)年頃、日中友好手をつなぐ会を知り、彼らに帰国要請等をしたが、「ちょっと待ってくれ、厚生省と交渉中だ」と言われるのが常であった。その後、1984(昭和59)年11月に訪日調査の機会を得たが、しかし親族に巡り合えなかった。これだけでも絶望感におちいる中、厚生省側から帰国するには身元保証人が必要だと言われた。同原告は、これでは、国は孤児を帰国できないようにさせようとしているのではないかと思わざるを得なかった。結局、同原告が永住帰国できたのは、1987(昭和62)年3月24日であった。
⑭ 原告X21(原告番号21)は、終戦時から、一貫して日本に帰りたいと願い、日本語の勉強を続けていたが、どのようにしたら日本に帰れるのか、全く情報がなく、日本に帰る機会があるということを長い間知らなかった。1982(昭和57)年ころに、同原告は「残留孤児」の集団訪日調査があるということを知ったが、訪日調査の対象者は終戦時13歳未満の者であり、同原告は終戦時13歳であったため参加できなかった。同原告は、1983(昭和58)年ころ、「日中友好手をつなぐ会」の民間ボランティアにも相談したが、「訪日調査も順番待ちだからきりがない。あなたは日本語ができるから、短期滞在のビザでもいいから自費で日本に来て、必要な手続をして、働きながら肉親探しをしたら良い。」ということになった。結局、同原告は、自費で1986(昭和61)年10月5日、妻と二女の3人で、90日の短期滞在のビザで日本に帰国し、帰国後東京に住んで肉親捜しを行い、厚生省とも直接交渉を行った。しかし身元判明に至らなかった。同原告はその後、在留期間の更新をしながら1988(昭和63)年2月に就籍審判を受けた。
⑮ 原告X24(原告番号24)は、まず日本大使館に手紙を書き、1981(昭和56)年5月に厚生省に対して手紙を書いた。しかし、いつ日本へ行くことができるのか日本政府からは連絡がなく、同原告はいつ日本に行けるか何度も日本政府に問い合わせ、1985(昭和60)年11月、1986(昭和61)年8月には厚生省にも手紙を書いたが、政府からまともな返事はなかった。公安局にも何度も通って問い合わせ、要請したが、日本政府がつくる名簿に載らないとだめだと言われるばかりであった。肉親に会える可能性がだんだん低くなると思って、日に日に焦る気持ちは募った。中国で孤児と証明されてから6年もたった1986(昭和61)年10月の第13次訪日調査団に、同原告はようやく参加することができた。1984(昭和59)年から、同原告は、戸籍を作ってもらうために、日本の「中国残留孤児の国籍を取得する会」に就籍の手続を頼んでいたが、訪日調査に行く直前の1986(昭和61)年7月に就籍の審判をもらい、日本の戸籍を取得できた。結局永住帰国ができたのは1988(昭和63)年7月のことであった。
(イ) 以上の原告らの個別の具体的体験をみても、被告が、孤児らを外国人として扱い、帰国問題を原則として孤児本人とその肉親の問題としたことにより、原告ら孤児の日本への永住帰国が遅れたことは一目瞭然である。
そして、別表2記載の被告の一連の通達に代表される孤児らの永住帰国に対する消極的姿勢は、中国に残された孤児たちに永住帰国を躊躇させる効果が大きく、実際に多くの孤児は一時的に永住帰国を諦めざるを得なくなったり、そもそも永住帰国を現実的に検討し始める時期が大きく遅れる要因となった。
被告の早期帰国実現義務違反はこの点からも重大であるといわなければならない。
ウ 被告による孤児らの帰国を実質的に妨害する一連の施策は、繰り返し国会において取り上げられ批判されてきた(甲総A12の1、3、4、6、7、9、11、14、15、甲総36)。にもかかわらず、被告の施策は遅々として進まなかった。この点からも被告の早期帰国実現義務違反の故意は明らかである。
また、被告は、国会で繰り返し問題点を指摘されてきたが、これを受けて自主的に制度を改善してきたものではなかった。制度変更に至る経緯にはボランティアらの血のにじむような努力及び孤児に対する支援があった。
3 自立支援義務違反
(1) 自立支援義務の法的根拠
ア 先行行為に基づく条理上の作為義務
① 原告ら残留孤児の有する利益、すなわち、母国語(日本語)を習得する機会を得ること、日本社会に経済・文化・政治そのほかあらゆる面で参加する機会を得ること、経済的自立を確保することは、憲法や国際規約などから考えても極めて重要なものであること(原告らの利益の重要性)、② 被告が残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行い、加えて、残留孤児の早期帰国を実現する施策をとらなかったため残留孤児の永住帰国が大幅に遅れたこと(先行行為)、③ 原告らの日本への帰国が終戦後数十年もの長期間経過後となったため、原告らが日本語の壁に悩み、日本文化や習慣に戸惑い、日本社会に参加ができない状況に置かれ、経済的にも困窮するであろうことは容易に予見することができ、ボランティア団体の各種要望書や新聞記事などでも、何度も指摘されていたこと(予見可能性)、④ これらの問題はいずれも原告らが日本へ帰国した後の問題であり、「懐に入ってきた」原告らに対し被告が十分な施策を行うことは十分に可能であったこと(回避可能性)、⑤ 原告ら残留孤児は、身元未判明孤児はもちろん、判明孤児も自助努力、親族の努力には大きな限界があり、そもそも本来は個人や家族の問題に矮小化されるべき問題ではないと考えられたこと(高度の要保護性)、⑥ 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年法律第30号。以下「自立支援法」という。)が、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた」ことに鑑み、中国残留孤児の「地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定」などのために必要な措置を講ずることを「国等の責務」とし法的義務を確認したこと、⑦ かかる事情を総合的に考慮し、さらに憲法14条の保障する実質的平等、機会の平等を確保するという観点から、被告には、条理上、原告ら残留孤児の自立を支援する義務があるというべきである。
以下において、①ないし⑦について詳述する。
(ア) 原告らの利益の重要性(前記①)
原告らが、母国語(日本語)を習得する機会を得ること、人間が所属する社会に経済・文化・政治そのほかあらゆる面で参加する機会を得ること、経済的自立を確保することは、いずれも憲法13条(個人の尊厳・幸福追求権)、25条1項(生存権)、26条1項(教育を受ける権利)、27条1項(勤労の権利)などに基礎付けられる極めて重要な利益である。国際規約を見ても、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和54年条約第6号。以下「社会権規約」という。)11条は、「この規約の締結国は、自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める。」とし、締約国にこの権利の実現を確保するための適当な措置をとることを義務づけ、13条2項(d)項は、「基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全過程を終了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること」を締約国の具体的な義務としている。
なかでも原告らの社会参加を阻み、経済的自立を妨げている最も大きな原因として日本語習得困難が挙げられ、日本語を習得する機会を得ることの重要性は格別である。子どもの学習権を基調とする憲法26条の保障は、その趣旨からすれば文字どおり学齢期にある子どもに対する権利の保障にとどまらない。原告らの場合、自らの責任と意思によらず、学齢期において、本来当然受けるべきであった日本人としての最低限度の教育を受ける機会を失った。しかも日本に帰国した時点では、長年、中国社会で生活を送ってきたため、日本社会において生活するための最低限の知識・経験・言語能力も持ち合わせていなかった。原告らは言わば、「子供」と同様、「一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するため」の学習を必要とする状況にあった。しかも、日本に帰国した時点では、孤児らは「自ら学習することのできない」状況に置かれていた。とすれば、原告らは憲法26条により日本人として学習をする権利を有しており、被告国は、原告らが帰国した後にその責務を果たすべき義務があるというべきである。
以上のとおり、原告らの利益は憲法上の保護に値する極めて重要なものであり、被告は、長期間中国で生活した後日本に帰ってきたことから、日本社会で生きていくための手だてをもたない原告らに対し、原告らが日本人として、日本の地で、人間らしく生きていくために必要な施策を講じる憲法上の義務を負うものである。
(イ) 先行行為(前記②)
被告は、残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行い、さらに危険な状態に放置を行なった(当時の国際法に反する満州国の建国、開拓団等の日本人送出、満州における強引な農地確保、ソ連侵攻情報などの秘匿、「根こそぎ動員」、現地土着・日本国籍離脱方針、戦後の引揚業務において一般邦人よりも軍人を優先し一般邦人の引揚の遅れを招いたことなど)。
さらに、被告は、本来、「残留孤児」の早期帰国を実現すべきであったにもかかわらず、① 1958(昭和33)年7月の後期集団引揚打切りから1972(昭和47)年9月の日中国交回復に至るまで、戦時死亡宣告導入や未帰還者留守家族等援護法上の「自己の意思により帰還しないと認められる者」の恣意的認定を行なうことにより、残留孤児の帰国はもちろんのこと、その調査究明すら行なわず、② 日中国交が回復して後も直ちに「残留孤児」帰国に向けた政策を立案実行しなかったばかりか、③ 残留孤児らを原則として外国人として扱うなどしてさらに永住帰国を遅らせた。
以上のように、被告は、残留孤児を発生させた根本的原因となる行為を行なった上で中国の地に放置し、その後も一貫して残留孤児の早期帰国実現に向けた施策を行なってこなかったのである。そして、原告らは、様々な苦難を乗り越え、ようやく祖国日本に永住帰国したが、長年、日本とは異なる言語・文化・習慣の中国で生活を送ってきたことから、日本に帰国後、日本社会に参加する機会を得られず、日本語によるコミュニケーションが不能又は困難な状態に置かれ、経済的自立困難な状況に追い込まれているのであるから、被告はこれら一連の先行行為に基づく条理上の作為義務として、原告ら残留孤児の日本での生活自立を支援する義務を負っているというべきである。
(ウ) 予見可能性(前記③)
原告らは、終戦後、長年日本への帰国が果たせず、言語、文化、習慣の全く異なる中国の地で生活を送ってきた。漸く日本へ帰国した時点では既に何十年も経過しており、成年を遥かに超えた年齢で帰国した。このようにして帰国した原告らが、日本語の壁に悩み、日本文化や習慣に戸惑い、日本社会に参加ができない状況に置かれ、経済的にも困窮するであろうことは自明であり、被告は、容易に予見しえた。
この点、日中国交が回復する前の1971(昭和46)年3月1日にすでに、「夜間中学における引揚者の日本語学級開設及び専任教師配当に関する請願―引揚者センター建設に向けての暫定的処置に対して」が東京都議会に出され、1972(昭和47)年7月12日にも東京都夜間中学校研究会が東京都民生局引揚援護課、東京都教育委員会に対して、「引揚者の日本語教育についての要望」を出し、就職問題、住宅問題、日本語学級の問題などについて具体的に問題提起をしていた。
また、新聞記事でも、日本語の壁に悩む引揚者の姿が何度も報道され(甲総A5の6、5の22、5の34、5の42、7の69ないし83)、ボランティア団体も要望書や請願を繰り返し提出していた。
以上のような状況から、被告は、原告らが帰国後、日本語の問題、社会参加の問題、経済的自立の問題などにおいて極めて厳しい状況に置かれるであろう事は容易に予見できた。
(エ) 回避可能性(前記④)
日本語の問題にしても、日本への社会参加の問題にしても、日本社会における経済的自立の問題にしても、いずれも原告らが日本へ帰国した後の問題である。言わば、原告ら残留孤児が被告の「懐に入ってきた」後の問題であり、当然、被告国には原告らの置かれている状況を調査した上で、原告らに対する十分な施策を行い、原告らが日本語の問題や、社会参加の問題、経済的自立の問題を克服できるような施策を行うことは十分に可能であった。このことからも、被告に自立支援義務が認められるべきである。
(オ) 要保護性(前記⑤)
孤児の中には当然、日本の親族が判明しなかった者も多く存する。これらの孤児にとっては、全く身寄りのない日本の社会において生きていくための孤児自身の自助努力は限界があり、被告国の保護の必要性は極めて高い。また、たとえ日本の親族が判明している者の場合であっても、何十年も経過した後に日本社会に帰国したため、必ずしも家族の歓迎を受けるケースばかりではなく、かえって被告の保護の必要性がより高いケースも存する。さらに言えば、そもそも「残留孤児」が生まれた経緯や日本社会への帰国が遅れた経緯に被告国の行為が深く関っていることからすれば、孤児の援護をその家族任せにすることは到底許されるものではなく、家族がいるから保護の必要性がない、との発想自体が大きな過ちである。
このように孤児自身の自助努力に大きな限界があり、高度の要保護性が認められることからも被告の自立支援義務が導かれる。
(カ) 自立支援法の制定(前記⑥)
1994(平成6)年4月6日、議員立法により成立した自立支援法(同年10月1日施行)は、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた」残留孤児の存在を認め(1条)、それらの者の「円滑な帰国の促進」(3条)、「地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定」(4条)、などのために必要な措置を講ずることを「国等の責務」としている。
この点、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた」とは、いうまでもなく、歴史的事実として、国際的非難を受け大戦のきっかけとなった満州国の建国、これを基本とする日本国民の送出、敗戦時の混乱、帰国の遅れ等の一連の経過を示すものと考えられ、実質的には、原告らの主張する先行行為に基づく条理上の作為義務と軌を一にするものである。そして、自立支援法はこのことを前提にした上で、「永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等が日常生活又は社会生活を円滑に営むことができるようにするため、これらの者の相談に応じ必要な助言を行うこと、日本語の習得を援助すること等必要な施策を講ずるものとする」(8条)、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等の雇用の機会の確保を図るため、職業訓練の実施、就職のあっせん等必要な施策を講ずるものとする」(10条)、「永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等が必要な教育を受けることができるようにするため、就学の円滑化、教育の充実等のために必要な施策を講ずるものとする。」(11条)、「永住帰国した中国残留邦人等に係る国民年金法による第1号被保険者としての被保険者期間その他同法に規定する事項については、同法の規定にかかわらず、政令で特別の定めをすることができる。」(13条)などとして、帰国後の日本人としての自立に必要な日本語教育、生活相談、就労、教育、年金面で支援すべきことを国等に法的義務として課したと解される。
自立支援法は、帰国した孤児たちが日本社会において極度の窮状に陥っていたこと、民間ボランティアから再三にわたり総合的な支援立法制定の要望や請願があったことを背景に、1993(平成5)年に残留婦人の「強行帰国」というショッキングな事件が契機となって、ようやく制定されたものであった。このような制定経過をも考えあわせれば、自立支援法は、終戦直後からの引揚援護策の延長として行われてきた「残留孤児」に対する各種施策の転換を図り、日本社会への適応までを国の責務と明言して法的義務を課したものと考えるべきであり、自立支援法の制定も被告が自立支援義務を負っている大きな根拠である。
(キ) 条理―特に憲法14条の実質的平等(前記⑦)
法の下の平等を定めた憲法14条は、国民に対して実質的平等、機会の平等を保障するものと言われる。この点、原告らは、幼少の時から、肉親らの保護もなく、中国での生活を余儀なくされ、日本人として必要な基礎教育を受ける機会も、日本で就業する機会も奪われた。そのため、日本で生まれ、日本で成長した日本人との間で重大な不平等が生じている。とりわけ帰国が遅れ、高齢で帰国した原告らについては、この不平等が一層拡大している。しかも、原告ら残留孤児が生まれ、長年日本への帰国ができなかったのには、前記のとおり、被告の先行行為が大きく関っているのであるから、被告は、自らの行為によって実質的に不平等な状況に置かれ続け、日本社会への参加の機会という面においても不平等な地位に置かれ続けている原告らに対し、法の下の平等を定める憲法14条の趣旨から、日本国内で生まれ、成長し、これまで通常の生活を営んできた日本人と実質的に平等に扱い、機会の平等を保障するために必要な自立支援策をとる法的義務があるというべきである。
イ 憲法、国際規約、自立支援法
(ア)① 憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」とし、国民の幸福追求権を保障するところ、国民が個人の尊厳ないし権利を否定される環境におかれた場合、被告国は個人の尊厳を回復し、幸福追求の権利を保障するため必要な施策をとることは憲法上の要請であるから、被告は、長期間中国で生活した後日本に帰ってきた原告らに対し、個人の尊厳を回復するために必要な施策をとる義務(自立支援義務)を負っていた。
② 憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し、26条は「すべて国民は、……その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」と定める。前者は、憲法上の社会権の根幹をなす規定であり、後者は、個人が人格を形成し、社会において有意義な生活を送るための不可欠の前提である教育を基本的人権として国家が保障することを宣言した。
原告らは、幼くしてかつて日本が侵略した中国人社会の中で成育することを余儀なくされ、日本人として教育を受ける機会を完全に奪われた。また、原告らの多くは、養父母家庭の貧困等の事情から中国での初等教育さえも満足に受けることができなかった。
被告は、長期間中国で生活した後日本に帰ってきたことから、日本社会で生きていくための手だてをもたない原告らに対し、原告らが日本人として、日本の地で、人間らしく生きていくために必要な施策を講じる憲法上の義務を負うものである。さらに、被告は、原告らを中国に遺棄し、長期間にわたり原告らの帰国を妨害するなどしたことから、原告らは中高年になってはじめて日本に帰国することができた。原告らは、帰国が遅れたことを決定的な原因とし、大半が日本語を理解することができず、それにより就業も困難で、帰国を果たしてからも日本人として文化的な生活を営む権利を侵害され続けている。原告らは、帰国前後を通じて、日本国民として健康で文化的な生活を営む機会を奪われ、日本社会において日本人として生きていくための教育の機会を奪われたものである。被告国は、これら原因を作ったのであるから、原告らのこれら権利侵害の発生を防止し、回復するより高度の憲法上の義務を負っている。
③ 被告は、法の下の平等を定める憲法14条の趣旨から、日本国内で生まれ、成長し、これまで通常の生活を営んできた日本人と原告らを平等に扱うために必要な自立支援策をとる義務がある。
(イ) 社会権規約11条は、「この規約の締結国は、自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準について並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める。」とし、締約国にこの権利の実現を確保するための適当な措置をとることを義務づけ、13条2項(d)項は、「基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全過程を終了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること」を締約国の具体的な義務としている。
そして、同規約13条2項(d)項にいう基礎教育とは、日本で文化的に暮らしていく上で必要な日本語教育を意味するものであり、原告らの多くは、帰国前の中国及び帰国後の日本において、これら社会権規約が保障する基礎的な教育を受けることができなかったのであるから、被告は、原告らのこの権利を実質的に保障する措置をとる義務を負っている。
(ウ) 前記ア(カ)のとおり、自立支援法は、被告に対し、残留孤児に対する各種施策の転換を図り、日本社会への適応までを国の責務と明言して法的義務を課したものである。
(2) 被告の自立支援義務の内容
ア 日本語教育
原告らが日本社会において「自己実現の機会」が十分保障され、「日本社会生活に不可欠な基盤」を獲得し、「日本人としてのアイデンティティ」を確立するためには、日本語の習得が極めて重要であることからすれば、被告には、原告らが居住する地域や職場において円滑な社会生活が可能になる程度(最低限義務教育終了レベル)まで、日本語を修得させるための物的・人的な援助を行い、財政措置をとる義務があり、その中で長期間中国で生活してきた原告らに対して就業に必要な社会的ルールや生活習慣などを学ぶ機会を保障する義務がある。
さらに、被告は、原告らが日本語を理解できないハンデキャップを補うための制度、とりわけ病院や役所に同行する通訳を確保するなど、原告らをサポートするための体制をつくる施策を講じる義務がある。
イ 就労支援
原告らが日本社会において生活していくための基盤を確保するためにも、「自己実現の機会」が十分に保障されるためにも、「日本人としてのアイデンティティ」を確立するためにも、自らの能力を活かす職業に就くことは極めて重要なことからすれば、被告には、最低限、原告らに対し、就職先の斡旋、中国残留孤児を就業させる事業所に適当な優遇措置を与えて就業を促進するための措置をとること、その他原告らの就業を被告の責任で確保し、仕事を継続するための支援措置を講じる義務がある。
例えば、中国語での職業訓練や、原告らが中国社会で有していた資格を生かす制度の導入、中国残留孤児の実情に応じた就職紹介、障害者の雇用促進に倣った一定の雇用枠の採用などの施策が考えられる。
ウ 生活支援・年金政策
現在すでに高齢化した原告らにとっては、たとえ就職の機会を与えられても実際に就労することは困難な状況にあり、今後ますますその傾向が強まることは間違いない。このような高齢化した原告らが日本社会において生活していくための基盤を確保し、「自己実現の機会」が保障され、「日本人としてのアイデンティティ」を確立するためには、被告には、原告ら残留孤児に対し、生活保護法による扶助とは異なる特別な措置(立法を含む。)をとり、そのための財政的措置を講ずる義務がある。
例えば、北朝鮮拉致被害者に対しては、これが「本邦に帰国することができずに北朝鮮に居住することを余儀なくされるとともに、本邦における生活基盤を失ったこと等その置かれている特殊な諸事情にかんがみ」(拉致被害者支援法1条)、「自立を促進し、生活基盤の再建又は構築に資するため、拉致被害者等給付金を、5年を限度として、毎月、支給」(同法5条)されている。このことに鑑みれば、「残留孤児」が被告の責任により本邦に30年以上もの間、帰国することができずに中国に居住することを余儀なくされるとともに、本邦における生活基盤も人的基盤も失ったこと等その置かれている特殊な事情に鑑み、被告は、残留孤児に対して、生活保護の水準よりも高い特別の継続的給付金を支給すべきである。そして、残留孤児が、日本語の壁によりあるいは高齢のため、就労からも年金からも収入を得ることができなくなった時点においては、被告は、残留孤児が普通の日本人と同程度の額の年金を受給できるよう、拉致被害者に拉致期間の国民年金保険料相当費用を負担する(同法11条)のとせめて同程度の継続的給付金を支給すべきである。
エ 住まいの支援
住まいを確保し家族とともに生活することは、原告らが日本社会で生活することができる基盤を確保するためには不可欠な要素であることからすれば、被告には、原告らとその家族が希望する地域に、適当な規模の私営・公営の住居を国の責任で確保すること、及び住居の確保・継続のための財政的措置を講ずる義務がある。
オ 家族の分断を回避するための措置
被告には、原告らが、その配偶者及び家族と日本で生活することを望むとき、家族の日本への呼び寄せ、家族が日本で永住するために必要な費用の援助、国籍の取得等を援助する措置を講じる義務がある。これは、日本社会において原告らが人間らしく生活し(「自己実現の機会」「日本人としてのアイデンティティ」など)、真の意味で自立を果たす(「日本社会で生活する基盤確保」)ためには配偶者や子供などの家族の支えが不可欠であることに由来する義務である。
(3) 被告の自立支援義務違反
ア 日本語教育に関する義務違反
(ア) 被告の施策の概要
被告は、昭和54年度以降、日本語学習教材等を支給し、昭和59年2月には中国帰国孤児定着促進センターを開設して生活指導の一環としての帰国後約4か月間の日本語教育をし、1988年(昭和63年)には中国帰国者自立研修センターを設置して原則約8か月間の通所教育をした等と主張している。
しかしながら、被告の日本語教育は、以下に見るように、施策導入がそもそも遅きに失したこと、個々の施策も残留孤児たちの特殊性を無視した極めて杜撰なものであった。
(イ) 施策導入の遅れ
被告は、日中国交回復と前後して、民間などからの要望書が出され、国会でも取り上げられ、新聞報道も盛んにされるなど(甲総D3、甲総A5の6、22、34、42、43、甲総117の22、117の26)、中国から帰国した孤児らが日本語の厚い壁に悩み苦しんでいることを十分に認識しながら、当初は全く何の施策も行わず、その後行ったカセットテープの配布や定着促進センター、自立研修センターの設置も遅きに失したものであり、日本語教育の点において、国に自立支援義務違反が成立することは明らかである。
① 昭和54年まで施策を放置した被告の姿勢
被告は、日中国交回復直後から、帰国してくる「孤児」たちが日本語会話ができないということを十分認識していた。
長年中国に取り残された孤児らが日本に帰国した後に、日本語の壁に悩み日本社会での自立が困難になることは自明の理であり、昭和48年7月5日付け中国大使発外務大臣宛電信「中国在留邦人の実態と帰国要請の現況」においても「戦後28年を経ているため、50年代の人でも日本語を忘れかけている者が多く」と指摘されていたことからも明らかである(乙138)。しかも、国交回復直後の国会ですでに、中国からの帰国者に対する日本語教育問題が取り上げられ、厚生大臣や厚生省援護局庶務課長は前向きな答弁を行っていた。
したがって、被告は、日中国交回復直後から孤児たちに対する日本語教育の進め方を検討し、孤児たちが日本社会で自立できるよう十分な日本語能力を身につけられるような日本語教育制度を確立し実施すべきであったにもかかわらず、昭和54年1月の日本語教材配布まで、孤児らに対し、日本語教育に関して全く何らの措置もとらなかったのであるから、この施策導入の遅れが被告の自立支援義務違反に該当することは明らかである。
② 定着促進センター設置の遅れ
「中国帰国者の年度別帰国状況」(乙81)によれば、訪日調査が実施される前の昭和55年度までの間にも、1050世帯(うち残留孤児105世帯)、3058人(うち残留孤児世帯の人員398人)が永住帰国しており、これだけの帰国者があったにもかかわらず、本格的な定着援護策に取り組まなかったことを正当化できない。実際に定着促進センターが設置されたのは昭和59年2月であるが、昭和59年度までの間に、1700世帯(うち残留孤児243世帯)、5394人(うち残留孤児世帯の人員999人)が永住帰国しており、ほぼ、これだけの帰国者が帰国後も定着促進センターの利用ができなかったのであるから、このセンター設置の遅れも被告の自立支援義務違反を構成する。
③ 自立研修センター設置の遅れ
ボランティアや弁護士会等の度重なる要望を受け、被告は、定着促進センター開所からさらに4年後の昭和63年6月から全国15か所に自立センターを開所したが、前年の昭和62年度までには、累計で730世帯、2996名が中国から国費帰国をしており、これらの帰国者には、自立研修センターにおける8か月間の日本語教育を受ける機会が与えられなかったのである。
被告が戦後40年以上経った後に自立研修センターを設置したからといって、被告が自立支援措置を行っていたと評価しうるものではなく、このセンター設置の遅れも被告の自立支援義務違反を構成する。
(ウ) 日本語教育の内容の不十分さ
① 定着促進センター
定着促進センターにおける日本語教育の実態は、挨拶や買物など日常生活に必要な基礎的な日本語研修を主内容としており、就職活動や就労技能を修得するのに必要な水準の語学教育というには程遠いものであった。しかも、このような簡単な日本語能力すら習得できなかった残留孤児が少なくなかった。厚生省の各生活実態調査によれば、帰国後6か月以内に簡単な日常会話を身につけたと答えた者は、平成元年調査で21.9%、平成5年調査で27.6%、平成7年調査で13.0%となっており、平成11年調査では、帰国後1年以内に簡単な日常会話を身につけたと答えた者が27.4%にとどまっており、被告が日本語教育の基本としている定着促進センターにおける日本語教育が破綻していることは明らかである。
また、全国アンケートで、孤児らの中国における学歴をみると、学校に入らなかったもの20%、小学校中退22%、小学校卒業が20%という状況である(甲総A13の1の1頁「質問2(1)中国での学歴等」)。中国においてすら学習した経験の乏しく40歳を超えた孤児らに対し新たな言語である日本語を身につけさせるためには、4か月程度の教育ではどうしようもないことは、明白であった(甲総117の30)。
さらに、所沢の定着促進センターの開設時の収容人員は30世帯に過ぎなかった。当時、国費帰国者はすべて所沢センターに収容して4か月で修了するという課程であったから、年間90世帯しか収容できないことになる。このため、日本国籍を持っているにもかかわらず、帰国の順番を1年以上待たなければならない残留孤児も続出することとなった。
以上のように、定着促進センターでの日本語教育は極めて不十分であったのであり、この点からも被告の自立支援義務違反が成立することは当然である。
② 自立研修センター
自立研修センターは、建前としては就労しながら通所する施設として位置づけられていたが、現実には残留孤児たちが就労することは難しく、就労しながら自立研修センターに通所できる者は稀であった。加えて、被告は、孤児たちを全国に分散させる施策をとったため、自立研修センターが定住地の近くになく、通所できない孤児たちが少なからず存在した。
また、被告は、自立研修センターを開所するに当たり、定着促進センターを1次センター、自立研修センターを2次センターと位置づけ、2次センターは本来1次センター修了者を主な対象として定着地での研修を実施しようと考えていたが、現実には、定着地に定着した帰国者が中国に残してきた2世家族を次々呼び寄せることによって、自立研修センターには、定着促進センターを通過せずに、直接定着地に呼び寄せられた2世家族と1次センターを通過してきたものとが同時に通学することになり、ほとんどの自立研修センターで、定着促進センター修了者が受講者の全体の半分以下しかいない状態となっており、自立研修センターは、実質的に1次センターと2次センターの両方の機能を果たさなければならなくなっている。全国分散という施策の方針から、自立研修センターに通学する帰国者はセンター毎に見ると人数的には決して多くない。施設も総じて小規模であり、教室も1つか2つというところが多い。学習適性や既習レベルの差が大きい学習者を小クラスに編成するしかないという状況である。これに、呼び寄せ家族が不定期に帰って来るという悪条件が重なるため、複式学級等の工夫をしても、どうしても1クラス内の学習者の格差が生じてしまい、孤児の日本語習得レベルに応じたきめ細かな教育がなされていない。
以上のとおり、自立研修センターの教育実態の問題点をみれば、被告の自立支援義務違反は明白である。
③ 自立指導員
被告は、昭和52年7月から生活指導員(後に「自立指導員」と改称)の派遣を開始したが、派遣期間は、当初、1年間とされ、派遣日数も年24日(原則月2日)に制限されていた。その後、派遣日数が漸次増やされ、昭和62年5月から派遣期間は2年間とされ、派遣日数は1年目84日(月7日)、2年目12日(月1日)と変更され、さらに昭和63年4月から、生活保護受給世帯に限り派遣期間が3年間(1年目84日、2年目12日、3年目12日)とされた。
しかし、孤児たちの置かれている状況は各人様々であり、日本語の能力も大きく異なるため、生活指導員の援助の必要性も人によって大きく異なるにもかかわらず、派遣日数を一律に制限したため、本来必要としている者が、必要なときに自由に生活指導員の援助を受けることができなかった。
また、ほとんどの孤児が現在でも日本語で会話をすることができない状況にあるにもかかわらず、2年目以降の派遣日数を12日(月1日)に制限し、さらに、最長3年間で派遣を打ち切ってしまった被告の施策は、孤児の実情を全く無視した不当なものといわなければならない。
原告ら残留孤児たちが真の意味で自立するための日本語教育を施すためには、専門知識や技能を備えた指導者による指導が不可欠であり、自立指導員に日本語教育指導を委ねること自体、無責任極まりない対応といわざるを得ず、被告の残留孤児たちに対する日本語教育の位置づけの低さを如実に現している。この点でも被告の自立支援の不十分さは明白である。
(エ) 通訳制度・巡回健康相談等
原告ら弁護団が実施した全国アンケート(甲総A13の1)によれば日本語で現在最も困っていることの圧倒的1位は病院・病気になったときに病状などを適切に説明できないということであり(6頁「質問7(5)」)、病院に通っている孤児が57%、病院に通ってはいないが病気があるが25%で合計80%以上が何らかの持病を持っている(15頁「質問9(16)」健康について)。
被告は、平成元年6月から、「孤児」たちが医療機関で適切な診療を受けられるようにすること等を目的として自立支援通訳派遣事業、巡回健康相談事業を開始したと主張しているが、これらの制度は、上記開始前に帰国した孤児たちには、利用の機会が与えられず、また、生活指導員の派遣と同様、適用要件(派遣通訳については定着促進センター修了後3年以内の帰国孤児等に限定、巡回健康相談はセンター修了後1年以内の孤児世帯に年1回実施のみ)や通訳派遣回数を制限したため、本来必要としている「孤児」たちが利用することのできない極めて不十分な制度となっている。
さらに問題なのは、制度自体が孤児らに周知されていないことである。全国アンケートによれば、派遣通訳制度を知っているのは15%に過ぎない。
以上のとおり、これらの制度の実施をもって被告が自立支援義務を果たしていたものと評価することは到底できない。
(オ) 原告らの日本語習得の困難
被告の自立支援の不十分さのために原告らの日本語習得が困難であった事実は、以下の例からも明らかである。
① 原告X16(原告番号16)は、1981(昭和56)年12月に永住帰国した当初、市役所に行って何を言われても日本語が分からないので苦労した。意味も分からず「はいはい」と言って帰ってきたこともあった。大きな駅では迷ってしまった。日常生活の基本を誰も教えてくれず、また迷惑をかけてもいけないという思いもあって、できるだけ自力で周りに聞きながらやってきた。同原告は、日本のテレビドラマなどを見て、自力で日本語を勉強した。政府が配布していたという日本語教育のカセットテープも受け取っておらず、そのようなカセットテープがあることも知らなかった。ドラマを見ながら、分からない単語はすぐ辞書を引くようにした。しかし発音をうまく聞き取れず辞書がきちんと引けないこともしばしばであった。
② 原告X30(原告番号30)は、1982(昭和57)年9月に永住帰国したが、中国で日本語教育を受けることがまったくできなかった。日本に永住帰国した当時、定着促進センターも自立支援センターもなく、国の施策としての継続的な日本語教育を受ける機会はなかった。その後は、自分で単語帳を作り、毎日夜遅くまで日本語を勉強しなければならなかった。しかし、現在でも、日本語での複雑な会話は無理であり、簡単な文章でなければ書けない。
③ 原告X2(原告番号2)は、中国に取り残されたため、日本語の教育を受けることは全くできなかった。1983(昭和58)年12月に永住帰国をしたときは、日本語は全く話せず、帰国して約1年間、愚公時習社で1年間、守口第3中学の夜間学校で半年、日本語を学んだが、愚公時習社での勉強は、「あいうえお」から習った。そして、簡単な買い物ができる程度の初級班で終わり、生活できるだけの日本語の習得にはほど遠かった。
④ 原告X18(原告番号18)は、1986年(昭和61年)4月、50歳のとき永住帰国したが、定着促進センターについて国から説明も受けず実際に入所しなかった。同原告はその後も国の行った日本語教育を何ら受けていない。同原告は現在、日本語である程度の日常会話をすることが可能となったが、それは先に永住帰国していた兄や妹の支援、そして同原告自身の必死の努力によるものであった。
⑤ 原告X17(原告番号17)は1987(昭和62)年1月永住帰国したが、定着促進センターでの日本語の勉強は、実際の生活では使えず、あまり役に立たなかった。センターの最初の先生は中国語が全くできなかった。その後2か月くらいして別の先生に交替し、その先生は中国語を少し話せる先生であったが、中国語で質問して、中国語で教えてもらっても、先生の言っていることがよく分からないことがあるような状況であった。
⑥ 原告X19(原告番号19)は、1987(昭和62)年3月に永住帰国後、大阪中国帰国者センターで、6か月間通い、日本語を習った。しかし、帰国者センターでの日本語の授業は、当初は1日3時間、その後は1日2時間。教師は中国語ができない。そのため日本語での説明は理解できず、質問しようにも教師は中国語がわからず、質問もできなかった。また、日本語の時間が終われば、皆集まって中国語で悩みや世間話をする環境で、およそ日本語を習得できる状況ではなかった。同原告は中国にいたときから日本語を勉強し、帰国後も家族全員でその努力をしたが、現在でも日本語をほとんど話すことはできない。
⑦ 原告X32(原告番号32)は、1987(昭和62)年11月に49歳で永住帰国した際、日本語は全く話せなかった。同原告は、福岡市の帰国者支援センターにおいて、4か月間、日本語の教育を受けたが、日本語だけで授業がなされたため理解ができず、日本語は身に付かなかった。その後、長崎市の自立支援センターで15か月間、日本の生活習慣と日本語を習った。教本の他にテープももらったが、テープは全て日本語だったので、内容が分からず、結局、簡単な挨拶程度の日本語しか習得できなかった。
⑧ 原告X24(原告番号24)は、1988(昭和63)年7月永住帰国したが、愛知県の帰国者定着促進センターで4か月間生活し、1988(昭和63)年伊丹市に転居した。伊丹市では、ユネスコ日本語教室で短期間の日本語教育を受けたが、先生が中国語で解説してくれないので、文法の説明を受けても意味が理解できなかった。同原告は、小学校までしか行かせてもらえなかったので、中国語も書くことは苦手で、なかなか日本語や漢字を覚えられなかった。自立するためにパートに出て仕事をしたが、職場ではほとんど周囲と話す必要のない仕事ばかりを任され、友人もできず、日本語はうまくなることがなかった。
⑨ 亡X14(原告番号14)は、1989(平成元)年4月7日、日本に永住帰国してから、大阪中国帰国者センターで日本語を学んだが、既に同原告は、45歳であったため、語学に対する適応性が低く、日本語をマスターできなかった。いまでも、ほとんど日本語を話すことはできない状態であった。
⑩ 原告X11(原告番号11)は、1989(平成元)年8月に永住帰国し、大阪の中国帰国者定着促進センターにおいて、4か月間日本の生活習慣や日本語の教育を受けたが、同センター修了時では、挨拶程度の日本語しか習得できなかった。ところが、同原告は、同センターの職員から、同センター終了後は、身元保証人のいる地域に行くのが決まりだと言われ、香川県高松市への移転を余儀なくされた。香川県では、日本語教育を受ける機会が全くなく、近所との交流をすることもできなかった。同原告は、3か月間、高松で生活した後、大阪に戻り、自立支援研修センターに通所して、日本語教育を受けたが、午前中2時間だけの授業しかなかった。さらに、同原告が、中国に残してきた子どもらの身元保証人になるためには、就労していることが条件であった。このため、同原告は挨拶程度の日本語しか話せない状況であるにもかかわらず、同センターの修了とともに、日本語の勉強を断念し、就職しなければならなかった。
⑪ 原告X20(原告番号20)は、1990(平成2)年11月永住帰国したが、中国で学校に行けなかったため、中国語の文字の読み書きさえできず、しかも、眼が不自由であるため、日本語を学習することは極めて困難であった。日本語学習のカセットテープを受け取ったが、テキストを併用して使うことになっているので役立たなかった。
⑫ 原告X23(原告番号23)は、1992(平成4)年6月に永住帰国し、埼玉県所沢市の定着促進センターで4か月間日本語を勉強したが、中国でも全く学校に行ったこともなく、中国語の読み書きもできない状況であったこと、帰国時55歳という高齢であったことから日本語を身につけることができなかった。その後、同原告は兄の住む岩手県で生活をするようになったが、岩手県には当時は自立研修センターがなく、ここでも日本語の勉強はできず、中国の田舎の農村で長年暮らしてきた同原告ら夫婦は日本との習慣のギャップに大変苦しみ悩んだ。
イ 就労支援に関する義務違反
(ア) 被告の施策の概要
被告は、孤児らに対する就労支援策として、定着促進センターにおける職業相談員の配置(昭和62年度から)や自立研修センターにおける就労相談員の配置(昭和63年度から)、就職促進オリエンテーション(平成9年度から)、就労安定化事業(平成4年度から)、職業転換給付や特定求職者雇用開発助成金の支給を実施したことなどをあげている。
(イ) 施策導入の遅れ
被告が前記の各施策を導入したのは、いずれも日中国交回復から15年以上が経過した後であり、敗戦後40年以上が経過していたため、孤児らは40歳代、50歳代という年齢に差し掛かっていた。このような導入の遅れだけをとっても、これらの施策を導入したことで国が就労問題に関し自立支援義務を果たしていたと評価することは到底できない。
この間、帰国した残留孤児ら及びボランティア団体(孤児全京協、日中友好手をつなぐ会等の諸団体)も、孤児の実情に即した就労支援を繰り返し、被告に要望していたが(甲総62、甲総B24等)、被告は容易に動こうとはしなかった。
(ウ) 就労支援策が現実に役立たなかったこと
① 残留孤児らに自己の能力と適性を生かした労働の機会を保障するためには、可及的に中国において保有していた資格と同種の資格を日本においても認めることが必要であり、仮にそれができない場合でも、前職での資格や技術が生かせるよう、日本語教育とともに日本における同種の資格や技術の取得ができるような職業訓練の場を提供することが必要であった。また、職種を転換して、新たな資格ないし技術の取得を希望するのであれば、他の日本国民同様職業訓練を受けることになる。
ところが、いずれの場合にも、残留孤児らは、日本語を習得していないのであるから、日本語で他の国民に実施するのと同じように職業訓練を行っても、その言葉の意味が理解できなければ訓練の実はあがらないことになるため、「残留孤児」らが実質的に職業訓練を受けたと言いうるには、日本語教育を受けると共に、日本語の習得が十分でない段階でも職業訓練は受けられるよう、その使用言語を用いた職業訓練の機会を提供することが必要であったが、被告が導入したという各施策はこのような発想を全く欠いていたため、現実に孤児らの就職には結びつかなかった。
同様に、就労相談員についても、就労相談員自身が中国語を話せるとは限らず、孤児の日本語能力の壁から十分な効果を上げられなかった。
そもそも残留孤児らは、長年日本と異なる文化圏で生活をしてきており、日本の雇用環境や風習については知らないのであるから、職業紹介にあたっては、その残留孤児の日本語能力及び職業能力・適性、希望を十分に把握し、公共職業安定所や地方自治体の関係部局などの諸機関の緊密な連携のもと、本人とよく相談をしながら実情に即した支援が必要であった。例えば、北朝鮮当局による拉致被害者に対する就労支援では、地元公共職業安定所に所長を長とした支援チームを設置し帰国被害者等の希望に応じ、求人情報の収集・提供、求人開拓、職業相談、職業紹介等を通じて確実な就職に結びつけるよう施策が実施されている。しかしながら、孤児らに対してはこれと同様の施策は全く行われていない。
② 残留孤児らは、1999(平成11)年度の生活実態調査によれば、帰国後2年未満の者で就職を果たせた者は皆無であり、帰国後3年未満の者のうちでも15.9%にとどまり、ようやく帰国後5年未満の者のうちで就労経験のある者(「現在就労している者」ではない)が5割を超える程度にとどまっている(甲総71のグラフ35の帰国後経過年数別就労状況(帰国者本人))。また、就職を果たせた者でも、その87.4%は、自己の職業能力や適性とは関係なしに、製造や建設関係の単純な労務作業についており(甲総70の表6就労者の職業別状況(一般との比較))、月収も20万円未満が74.2%と圧倒的になっている(甲総70、表7の世帯の就労者別就労収入月額(孤児世帯)の本人のみが就労欄参照)。そして、孤児全体の中での生活保護受給率は、平成11年調査時点でさえ65.5%であり、一般平均の0.79%の実に約83倍という惨状におかれている。
このような結果からみれば、被告が孤児らの就労支援のための自立支援措置を十分に行ったと評価し得ないことは明白である。
(エ) 原告らの具体的体験
以下の例からも、被告の就労支援に関する施策がほとんど役に立たなかったことは明らかである。
① 原告X1(原告番号1)は、1976(昭和51)年6月に39歳で永住帰国後、3年間、毎日夜半過ぎ2時頃まで独学で日本語を勉強し、なんとか日常の会話が大体話せるようになったので、仕事を探すため職業安定所に3回行った。しかし、その時、職安の職員から「日本語をもっとよく勉強して身につけないと仕事の紹介はできない。もっと日本語を覚えてから来なさい。」と仕事の紹介を冷たく断られ、絶望のどん底に突き落とされた。同原告は、「なんと冷たい国か、日本語話せなければ就職もできない。だから生活保護から抜け出て早く自立するため一生懸命独学してきた。この気持さえ日本という国では通じないのか。日本語が話せないのは私の責任でない。国策で開拓団を中国に送り込み、中国に私たちを捨てた日本政府によって、私は肉親を喪い、孤児となり、日本語が話せない日本人になった。私は自分の意志で中国に残ったのではない。歴史を知らな過ぎる。こんな冷たい祖国で、40歳過ぎて子どもを抱え、どうやって生きていけばよいのか。」(原告本人尋問)と怒り、悲しみ、絶望感でいっぱいとなった。
② 原告X24(原告番号24)は、1988(昭和63)年7月に42歳で永住帰国したが、1990(平成2)年3月には役所から生活保護を打ち切るので仕事を探すように言われ、兵庫県伊丹市の職業安定所に仕事の紹介をしてもらいに何度も通った。毎回2、3件の会社を探して、担当職員が電話をしてくれるのであるが、日本語ができないと聞くとすべて断られた。10回以上通ったが、とうとう面接してくれる会社はひとつもなくなった。1990(平成2)年6月に旭区の文化住宅に転居後、大阪で仕事を探そうと職業安定所に通い、5回くらい通ってなかなか面接まで行き着くことがなく、やっと5回目で、化粧品の包装用箱を作る会社で面接をしてくれる会社が現れた。担当者からは重いものを持つ仕事だけれど大丈夫かと心配されたが、仕事を選んでいるわけにはいかないので、就職した。重いものを持つ作業で腰を痛め、腰椎ヘルニアになり、1992(平成4)年ころ退職せざるをえなかった。
③ 原告X17(原告番号17)は、1987(昭和62)年1月50歳で永住帰国し、センター修了後、職業安定所に2度ほど行ったが、日本語がしゃべれないことを理由に仕事を紹介してもらえなかった。職業安定所には中国語の通訳がいなかったので、自分の意思を伝えるのに苦労した。また、身元保証人に連れて行ってもらって、寿司屋と機械工場の面接に行ったが、どちらも雇ってはもらえなかった。
④ 原告X22(原告番号22)は、1993(平成5)年2月に52歳で永住帰国し、長野県の自立センター修了直前の1994(平成6年)1月、職業安定所を2回ほど見学したが、実際に最初に面接した工場も次の清掃のパートも採用してもらえなかった。自立研修センターには就労の相談にのってくれる人がいたものの、なかなか就職先が決まらなかった。ようやく、自分で見つけたのが「きのこ工場」での仕事だったが、きのこの包装、収穫、ごみ処理などの仕事を行い、3か月位経つと、きのこを殺菌する薬が身体を刺激し、夜中咳が出るようになり、眠れなくなってしまった。さらに、夜になると胃も痛むようになった。ずっと体調は悪く、この仕事を1年くらいで辞めた。その後は一度も就職することができなかった。
⑤ 原告X16(原告番号16)は、1981(昭和56)年12月に39歳で永住帰国し、収入を確保するために仕事を見つけるため職業安定所に何回も通ったが、仕事を見つけることはできなかった。一緒に帰国した同原告の夫は、サッシを作る下請けの仕事や鉄工所などいくつか仕事をしたが、賃金は月7万円くらいでどこも安く、日本語ができないため、最初は職場で他の人より多く仕事を押しつけられるなどのいじめにあった。
ウ 生活支援・年金政策に関する義務違反
(ア) 被告の施策の概要
被告は、孤児らに対する生活支援策、年金政策として、① 自立支度金の支給、② 平成8年4月から国民年金につき、孤児らが中国に「残留」していた期間の一部につき保険料免除期間とし、これによりこの期間につき国庫負担相当額(月額2万円余り)を年金額に反映させること、③ 国民年金保険料につき追納を認める制度を導入したことなどを主張している。
他方、被告は、残留孤児らに対する特別の年金制度を創設することはせず、生計を自ら立てることができない者については生活保護によるべきとの方針である。
以下に述べるとおり、被告の生活支援・年金政策の点においても、自立支援義務違反がある。
(イ) 生活保護
① まず、生活保護受給率でみると、原告ら32名の中で、生活保護を受けていないのはわずか4名にすぎず(甲総120の1)、実に87パーセントを超える原告らが生活保護を受給している。日本人全体の生活保護受給率が平成14年で0.98パーセントであること(甲総120の5の「生活保護」に関する公的統計データ一覧)を考えると、著しい高率である。
また、原告らのうち、生活保護を受給していない原告4名の収入について検討しても、平成14年の世帯総収入の平均は年202万0959円、夫婦全体の収入だけでみると平均年166万0959円、本人だけの収入でみると平均年67万2500円という状況である。本件及び大阪訴訟の別件の原告を合わせた140名をみても、生活保護を受給していないのは38名であり、その収入については、平成14年の世帯総収入が平均299万5069円であり、夫婦全体の収入だけでみると平均217万1451円、本人だけの収入でみると平均101万3195円である。これらの数字は日本人全体の平成15年の実収入平均月47万8096円(年573万7152円)(甲総120の6・総務省統計局家計調査(総世帯)結果表)や、日本の全世帯の消費支出の平均月30万4203円(年365万0436円)からすると著しく乖離している(甲総120の5・総務省統計局家計調査報告平成16年平均速報)。また、全国アンケートによれば厚生年金を受給している残留孤児は25%であるが、中国における長期にわたる就労(勤続年数20年ないし40年)は、受給額に全く評価されていない。
戦後60年の今年(平成17年)、孤児は例外なく60歳以上の高齢者となった。今後ますます高齢化が進むにつれて、このまま国が放置すれば生活保護受給率も上がることは間違いない(甲総A13の1の10頁「質問9(6)⑤」で現在生活保護を受給していないが今後申請を考えざるを得ないという原告が5割)。全国アンケートによれば、孤児らの現在の不安は、生活保護を受給している人は保護費が少なく安心して老後を送れないが86%(甲総A13の1の11頁「質問9(7)」)、生活保護を受給していない人も老後の暮らしに不安が強くあると答えた原告らが93%にのぼっており(同12頁「質問9(11)」)、いかに原告らの不安が強いかが如実にあらわれている。
② 生活保護は、こと「残留孤児」に対しては、その自立を助長することなく逆にこれを阻害する運用がされた。
例えば、高校への進学費用や高校の授業料は教育扶助によっては支給されないから、その子女が義務教育以上の教育を受けることは困難であり、また、残留孤児本人が鍼灸師等を目指して専門学校に入学した場合にも、生活保護は打ち切られた(甲総63、64)。また、残留孤児の子女が、住居地から遠隔地に就職が決まっても、福祉事務所から世帯分離を阻まれて就職は破談となった(甲総64)。
さらに、残留孤児である妻と共に帰国した中国人の夫が、職場で左腕切断の怪我をしても、医療扶助を受けるためには災害補償金も障害年金も返却せねばならず、妻がやむなく離婚手続を取ったところ、離婚した後にも同居していることを責められるという悲惨な例も存した(甲総75)。
残留孤児が、養父母等との面会又はその墓参のために一時的に渡中した場合、その渡航費用及び中国滞在中の生活費が支給されないことはもちろん、この間に受給した扶助費はこれを返還するよう求められた(甲総77)。
加えて、私立の日本語教室に通うための学費、地方においては中心都市にのみあるボランティアが開設する日本語教室に通うための交通費、分断された家族を中国から呼び寄せるための帰国費用を貯蓄することも許されないという状況であった。
これらの状況は、普通の日本人である生活困窮者には生じない状況である。
原告ら残留孤児の中には、このような生活保護の運用による自立の阻害を阻むため、生活保護受給を拒み、生活保護受給世帯よりも貧しい生活に耐えながら帰国費用を貯蓄し、その金で、自ら、家族を呼び寄せた原告らも多数存した。しかし、生活保護の受給を拒んで就労した残留孤児も、定年のためあるいは就職先の雇用調整のため、日本語を話せぬ孤児らは真っ先に整理の対象とされ、就職先からの退職を余儀なくされ、また結局は、生活保護受給へと転落せざるを得なくなっているのである。
何よりも、異国中国で懸命に努力をして自立した生活を送った後に母国日本に帰国し、普通の日本人として自立した生活を望んでいた原告ら残留孤児にとって、日本に帰国したがために困窮に陥り生活保護を受給することとなるのは著しい抵抗感があった(甲総75)。
③ 以上のとおり、生活保護は、原告ら残留孤児に対する自立支援措置ではあり得ないのであり、残留孤児らに対する特別の年金制度を作らず、生活保護方針をとっているという一事をもって、生活援助の面で被告に自立支援義務違反が成立することは明らかである。
(ウ) 自立支度金制度
自立支度金制度は、原告ら残留孤児の特殊性に着目した特別の制度ではなく、昭和28年3月に実施された海外からの引揚邦人一般を対象にしたものであり、根拠となる援護局長通達(甲総51)をみても、ソ連や台湾からの引揚者を含めた帰国者への制度であることは明らかであり、原告らの特殊性(異国の地において幼少時に実親と別れ、長期間中国に置かれ、日本語が全くできない状況)を考慮した制度ではない。
また、継続的給付金ではなく、耐久消費財の購入等当面の生活資金に充てるための一時金に過ぎず、さらに、自費帰国者に対しては原則として支給されないこととされていたものであり(甲総51、53)、自立支度金制度は、その目的も実体も、日本語を習得しておらず、中国における職業資格も通用せず、生活の基盤を有しない「残留孤児」の自立を援助するに足るものと評価できるような施策では全くなかった。
(エ) 国民年金保険料免除・保険料追納制度
被告は、平成8年4月に至り、国民年金保険料の一部免除及び保険料の追納制度などを設けたが、この施策は戦後50年近く、国交回復からも25年近くが経過した後にようやく導入されたものであり、余りに遅きに失したものであること、及び保険料の一部免除制度は免除額も少なく、生活保護を受給している多くの原告らにとっては実際上役立っていないこと、保険料の追納制度を現実に利用できる孤児も極めて例外的で限られていることなど、被告が自立支援義務を果たしたものとは到底評価できない。
① 施策導入の遅れ
国民年金制度の特例措置が導入される15年以上前である昭和56年3月19日、年金制度の問題点について、国会(衆議院社会労働委員会)で取り上げられ、当時の園田厚生大臣は前向きの答弁を行ったこと(甲総117の27)、ボランティア団体及び弁護士会等は、訪日調査後に原告ら残留孤児が定着をし始めた当初から、度重なる要望、請願等を行っていたこと(甲総49の3、62、63、67、95、99ないし101、108、甲総A7の104、甲総B22、26の2)、そのうえでようやく自立支援法制定を契機に導入されたものであり、このように15年以上も政策変更がなされずに放置されていたことから、施策導入の遅れは明らかであり、この点でも被告の自立支援義務違反は明白である。
② 国民年金保険料一部免除制度
国民年金保険料一部免除制度の適用の結果、残留孤児への国民年金支給は、国庫負担相当額だけが支給されるというものであり、保険料を納付し続けた場合の3分の1の額が支給されるにすぎず、年金支給額は月額2万円余りにすぎない。
生活保護を受給している場合の最大の問題点は、被告の特例措置によって受給できることとなった国庫負担分に相当する月額2万円余の国民年金も、また、たとえ厚生年金を受給することができている孤児であっても、その年金も収入認定されてしまうため、結局各自の受給額と同額が生活保護費から差し引かれてしまう点である。
これは、生活保護法4条1項で「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために利用することを要件として行われる」との補足性の原則がとられ、これを受けた「生活保護実施要領」の「収入の認定」において、国民年金支給額も収入認定される取扱いになっていることから生じている。
したがって、上記年金特例は、残留孤児の多数を占める生活保護受給者に関しては、効果が極めて乏しい制度といわざるを得ない。
③ 保険料追納制度
被告は、残留孤児は特例として昭和36年4月1日以降永住帰国するまでの期間(保険料免除期間)については、保険料を追納でき、この期間については全額が年金額に反映されるとして、これを「国民年金に関する支援」の一環と位置づける。
しかし、同制度はあくまで残留孤児に「年金保険料を自分で後払いする」ことを認めるにすぎないうえ、後払いする保険料は、保険料に、納付すべき年度に遡り、年利5.5パーセントの利子を付した金額(月額6000円)を支払わなければならないから、残留孤児にとっては多大な金額の負担が生じ、実際には利用困難な制度である。
例えば、昭和56年に帰国した残留孤児の場合は、追納期間は、昭和36年から昭和56年までで、この間の保険料の平均額は毎月943円であるが、上記のとおり月額6000円の利子(21年間で151万2000円)を支払う必要がある。
そして、追納期間は昭和36年から永住帰国するまでの期間であるから、永住帰国の遅れた残留孤児はそれだけ追納期間も長くなり、追納保険料は300万円にものぼることとなる。
このように、保険料の追納制度といっても、残留孤児に自己負担を強いることによって一定の年金支給額上積みを認めるというものにすぎず、被告が自己の責務として積極的な施策を講じているとは到底評価できない。
なお、被告は、保険料の追納にあたって生活福祉資金の貸付制度を利用できると主張するが、同貸付制度は、年利率3%・期間10年の定めであり、本人が死亡した場合は親族が返済しなければならない約定となっていることから、現実問題として経済的に困窮した残留孤児が利用することは極めて困難である。
例外的にこの制度を利用できた場合も、到底十分な年金が保証されるとはいえない。
エ 他の制度との比較
以下に述べるとおり、他の制度と比較しても、被告の残留孤児に対する自立支援に関する施策が不十分であったことは明らかである。
(ア) 拉致被害者支援法は、「拉致された被害者が、本邦に帰国することができずに北朝鮮に居住することを余儀なくされるとともに、本邦における生活基盤を失ったこと等そのおかれている特殊な諸事情にかんがみ、被害者及び被害者家族の支援に関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、帰国した被害者及び帰国し、又は入国した被害者の配偶者等の自立を促進し、被害者の拉致によって失われた生活基盤の再建等に資するため」の施策を実施するために制定されたものとされており(同法1条)、拉致に関しては直接の責任のない国が、被害者がおかれた特殊な事情にかんがみ、被害者だけでなくその家族も含め、拉致により失われた生活基盤の再建を支援することを明言し、同法による被害者支援が、まさに国家の後見的作用から、外国国家により不当な被害にあった被害者を救済するため、国の責務として種々の支援を行うことを目的としたものであり、生活基盤を持たない日本において永住帰国するという拉致被害者と共通性を有する「残留孤児」の場合にも指針とし得るものといえる。
拉致被害者等が永住帰国する場合に支給される拉致被害者等給付金は、5年を限度として、毎月、単身者で月額17万円、2人世帯で24万円を支給することとされていること(拉致被害者支援法5条)、直接の被害者だけでなく、被害者の配偶者、子及び孫等も「被害者の配偶者等」として、支援の対象とし(同法2条)、これらの者の相談に応じ必要な助言を行うこと、日本語の習得を援助すること等必要な施策を講ずるものとしていること(同法6条)、拉致被害者等に対し、国及び地方公共団体の責務として、公営住宅等の供給の促進(同法7条)、職業訓練の実施及び就職のあっせん(同法8条)、並びに就学の円滑化及び教育の充実等(同法9条)の必要な施策を講ずることを定めていること、40歳以上で、市町村内に住所を有する帰国被害者等に対しては、老人保健法の規定により、心身の健康を保持するために行われる診査及び当該診査に基づく指導を内容とする健康診査を行うとともに、精神的ケアについても精神保健福祉センターや保健所において、心の健康相談を初めとする精神保健福祉相談をすることとされ、特別支援として、地元精神科医及び心のケアに関する中央の専門家による精神的ケア実施体制を整備し、今後、被害者本人等の申出により、地元精神科医等が中心となって精神的ケアを実施する中で、適宜専門家を派遣するとされていることなど、このように、拉致被害者の場合には、社会生活を円滑に営むために単なる語学習得という側面だけでなく心身の健康面までをも含めサポートし実質的に社会生活が円滑に営めるよう支援策がとられているという点で、その施策の内容は原告ら残留孤児に対するそれと際立った相違を見せているのである。
また、雇用機会の確保については、公共職業安定所による就職あっせん(地元公共職業安定所に所長を長とした支援チームを設置し帰国被害者等の希望に応じ、求人情報の収集・提供、求人開拓、職業相談、職業紹介等を通じて確実な就職に結びつけ、職業訓練の実施)、求職登録、受講あっせんにより、無料で公共職業訓練を提供するとともに、訓練受講中の生活の安定を図る等のため雇用対策法に基づく職業転換給付金制度の適用により訓練手当等を支給するとされている。
このように、拉致被害者の場合には、極めて具体的な支援策が速やかに規定されたが、残留孤児の場合には訓練手当等支給についてみても昭和57年度になり初めて支給されるということになったもので、この点、支援策の取り組みに大きな違いがある。
拉致被害者の場合は、国民年金制度の特例的措置として、拉致された日以降の期間であって政令で定めるものを国民年金の被保険者期間とみなし、国がその期間に係る保険料に相当する費用を負担すること等により年金額を改善するとされている。このように、拉致期間をも被保険者期間とみなし、その期間の保険料に相当する費用も国が負担することから、拉致被害者に対しては、老後の年金生活の保障をも行えるようになっている(同法11条)。
これに対して、残留孤児の場合には、平成8年からわずかに3分の1について保障されることとなったが、生活保護受給者の場合には、生活保護費から差し引かれるという不十分なものに止まっており、この点においても、制度上の差異は明白である。
(イ) いわゆるインドシナ難民問題は、ベトナム戦争が終結した昭和50年ころから、ベトナム新政府の下、旧南ベトナム政府関係者や新政府の方針に相容れない者等が、故国を出国し、公海上で救助されたり、日本等の近隣諸国に漂着し、多数の難民受け入れが人道的問題となって国際的な政治問題となったものであるが、政府は、ボート・ピープルの発生が国際問題化してから4年間で、800人を超える大量難民の本邦入国という事態が発生し、最初の閣議了解により、連絡会議が設置されてから2年後の昭和54年には、「①国連に対する資金援助、②定住許可条件の緩和、③定住促進策、一時上陸許可の弾力的運用、④連絡調整機能の強化として「インドシナ難民対策連絡調整会議」を内閣に置き、会議の議長は内閣官房長官とし、関係各省庁との連絡を強化する」ことを政府の方針として確認していた。
被告は、昭和56年には難民条約に、翌昭和57年には難民議定書にそれぞれ加入し、それに伴い国内法も整備されるとともに、出入国管理及び難民認定法に難民の認定手続が整備されることとなった。
以上のように、インドシナ難民に関しては、国は、問題発生とともに機敏に基本方針を定め支援策を実施してきたが、残留孤児に関しては、政府の基本方針は確立されないまま今日まで推移している。むしろ、「残留孤児」に関しては、民間先行型の支援策が取られる中で遅れて被告の不十分な施策が実施されるという状況が続いてきた。
(ウ) 障害者基本法の理念との対比
原告ら残留孤児は、昭和20年8月以来、中国の社会で、中国人として生活し、そのほとんどが40歳を過ぎてから帰国し、日本語を話せず、また、日本の文化、習俗の中で生育したのではないから、日本の社会に適応し、自立し、「日本人として人間らしく」生活していくには、妨げとなる大きな障害を抱えていた。それは、身体障害や、知的又は精神障害を有する障害者のように、肉体的若しくは精神的機能障害に由来するものではないが、日本の社会で生きていくうえでは、いわば社会的な障害を持つと評価できる。この「社会的な障害」のために原告ら残留孤児は、日本社会で社会的不利益を受け、社会、経済、文化、その他の活動分野に、同年代の日本人と同じように参加することはできず、就職、収入、年金、その他でも差別を受けてきたから、その意味では、残留孤児は、障害者基本法2条にいう「長期にわたり、日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」と一定の範囲で共通の基盤を有するとの評価も可能である。
残留孤児は、日本語能力の不十分などのいわゆる社会的な障害を持つため、日本人として「通常の人間的ニーズを満たすのに特別な困難を持つ普通の市民」(国際障害者年行動計画63条、1979年)との評価も可能であり、しかも、その数も厚生労働省が把握しているだけでも、約2400名にのぼるとすれば、被告は、残留孤児に対しても、「同年齢の市民と同等の基本的権利を有し」、「できる限り普通の、また十分に満たされた、相当の生活を送ることができる権利」(障害者の権利宣言・1975年国連総会決議)を享受できるように、総合政策を立案し、残留孤児の自立を促すとともに、中国の文化、その生活習慣から抜け出せない残留孤児も、日本で共生できるように、社会の仕組みを変えていくことを義務づけられているというべきである。
上記の権利は障害者のみならず、残留孤児のように、被告の適切な援護がなければ、ほぼ同じような社会的不利益を受ける立場にある者にも、そのまま適用されるべきである。
障害者基本法は、「障害者は個人の尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有し」(同法3条1項)、国に「障害者の福祉を増進」する基本的な責務を課し(同法4条)たうえで、障害者の状況に応じた、「有機的連携の下に総合的に策定された」きめ細かい施策が予定され(同法7条)、第2章では、その施策を詳細に規定している。医療、施設への入所及び在宅者への支援、教育、職業指導、雇用の促進、措置後の指導助言、施設の整備、技術職員の確保、資金の貸付、住宅の確保、情報の利用、経済的負担の軽減、施策に対する配慮、文化的諸条件の整備、さらには国民の障害者に対する理解を深めさせる施策等をきめ細かく規定している。そのうえ年金等については、同法20条で、国に対し、「生活の安定に資するため、年金、手当等の制度に関し必要な施策を講ずる」ことを義務づけている。
これらと対比すれば、残留孤児に関しては、同様の施策は全くなかったか、極めて不十分なそれしか実行されず、ましてや、残留孤児の置かれた個別の条件に応じて、自立の方法に柔軟に配慮するとか、残留孤児全体が置かれている状況をみて、総合的な施策を立てることがされなかった。
(エ) 以上、北朝鮮拉致被害者、インドシナ難民、身体障害者、知的又は精神障害者と原告ら残留孤児の根本的違いは、前者の対象者が特別な施策の対象とされる理由(外国国家による不法な拉致、政治的迫害等から逃れたことによる祖国喪失、先天的若しくは後天的な身体的、知的又は精神的な障害)が、いずれも被告の行為とは別の原因によってもたらされたものであるのに対して、原告ら残留孤児に対して被告が自立支援を行うべき義務を負う理由は、まさしく残留孤児を生み出した根本的な原因が、ほかならぬ被告自身の行為にある点である。
原告ら残留孤児に対する施策が、北朝鮮拉致被害者らに対する上記の各施策と比較して、同等若しくはそれ以上に手厚いものでなければならない理由がこの点にある。
第3 原告らの損害額(争点(3))について
1(1) 原告らは、被告の早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反によって、「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」を全人生にわたって侵害されたとして、そこから生じる全損害を包括し、最小限、原告らに共通する損害として、一律に請求するものである。
原告らは、それぞれ帰国の時期が異なるものの、比較的早い時期である1970年代に帰国できた原告らは、逆に被告の自立支援策が皆無だった時期に帰国したことを意味している。他方、比較的遅い1980年代後半に帰国した原告らについては、1970年代と比較すると被告の自立支援策が多少存在していたものの、その施策がほとんど効果を示さないほど、中国における長期間の生活を余儀なくされていたことを意味している。
したがって、早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反によって侵害された原告らの前記権利の程度は、帰国の時期によって左右されるものではなく、原告ら全員が等しく損害をこうむっているといえる。
(2) 大阪空港航空機騒音訴訟に関する昭和56年12月16日最高裁大法廷判決が、「全員について同一に存在が認められるものや、また、例えば生活妨害についていえば、その具体的内容において若干の差異はあっても、静穏な日常生活の享受が妨げられるという点においては同様であって、これに伴う精神的苦痛の性質及び程度において差異がないと認められるものも存在しうるのであり、このような観点から同一と認められる性質・程度の被害を被上告人全員に共通する損害としてとらえて、各自につき一律にその賠償を求めることも許されないではない」として、その正当性を是認している。
上記最高裁大法廷判決では「同一と認められる性質・程度の被害を……全員に共通する損害としてとらえて、各自につき一律にその賠償を求めることも許されないではない」と判示していることからすれば、被害の性質・程度が同一と認められる損害は、慰謝料に限定されることなく、包括一律請求が可能である。
(3) 前述したように、原告らの損害は、個人の尊厳にかかわる人格権を侵害されたことによる深刻な精神的苦痛にとどまらず、経済的損失も、原告らと同年代の平均的日本人の財産状況と比較すれば、共通した経済的損害を被っていることは明らかである。
したがって、「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害されたことにより、原告らが慰謝料のみならず、その経済的損害も共通損害として、包括一律請求することは、極めて正当であるといわなければならない。
2(1) 原告らは、全人生及び全人格にわたって、「祖国日本の地において、日本人として人間らしい生活をおくる権利」を侵害され続けているのである。
このような原告らの損害の深刻さ重大さにかんがみるとき、これを金銭的に評価すると3000万円を下回ることはない。
(2) 原告らは、本訴の提起遂行を代理人らに委任し、勝訴判決が得られた後の報酬等の支払を約した。
本件訴訟の難易その他諸般の事情からみて前記損害額の10%に相当する弁護士費用については、相当因果関係のある損害である。
(3) 原告番号14の亡X14は、平成16年10月11日死亡し、その妻である原告A(原告番号14―1)が法定相続分である2分の1の割合で、子である原告B(原告番号14―2)及び原告C(原告番号14―3)が法定相続分である各4分の1の割合で亡X14の損害賠償請求権を相続した。
3 以上によれば、原告らの損害額は、別紙請求一覧表の請求金額欄記載のとおりとなる。
第4 原告らの本件請求権の除斥期間(民法724条後段)の適用の有無(争点(4))について
1(1) 原告らが、請求の根拠とする被告の行為(国賠法1条1項にいう公務員による「違法」な「公権力の行使」)は、昭和33年7月(引揚事業打切り)から現在に至るまでの被告の作為・不作為による行為をいうのであって、先の大戦により原告らが被った被害一般の「補償」を求めているわけではない。
継続的な不作為という違法行為により、その損害が継続的・累積的に発生する場合においては、民法724条後段に定める「不法行為ノ時」とは、違法行為が終了し、損害が確定した時を意味するものというべきである。
原告らは、被告の戦前の違法な国家政策によって原告らに危険を生じせしめたことを先行行為として作為義務発生根拠の1つととらえ、先行行為及びその他の事情により発生した早期帰国実現義務及び自立支援義務を、被告が戦後不履行を続けたという作為義務違反を被告の加害行為として主張するものである。そして、このような被告の加害行為により、戦後、原告らに新たに生じた損害、あるいは、被告の加害行為により、原告らに敗戦後生じた損害がさらに拡大・増幅させられたことによる損害に対する賠償を求めているのである。
原告らについて生じた4つの共通被害事実は、その発生が時期的には異なるものの、「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」という一つの権利ないし法益の侵害に結びつくものであり、そして、原告らは、ほぼその全生涯を通じて、「祖国日本において、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害され続けているのである。このように、原告らの被害は、いずれの時期においても人格権侵害という同質性を有する被害であり、かつ、それぞれの被害は累積し、連続するという関係にあるため、原告らの被害は、密接不可分かつ一体の被害としてとらえられるべきである。
(2) そして、被告の加害行為が継続し、原告らの被害が拡大・累積し続けている以上、被告の違法行為は、いまだ終了しておらず、かつ、原告らの損害も確定していないのである。
したがって、民法724条後段に定める「不法行為ノ時」という起算点は、いまだ到来していない。
2 次に、予防接種ワクチン禍事件の最高裁第二小法廷判決(平成10年6月12日)は、「その心身喪失の常況が当該不法行為に起因する場合であっても、被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に20年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、20年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものといわざるを得ない。そうすると、少なくとも右のような場合にあっては、当該被害者を保護する必要があることは、前記時効の場合と同様であり、その限度で民法724条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである。」と判示し、① 被害者が心神喪失等の状況により権利行使が不可能な常況にあり、② 被害者の権利行使が不可能な常況が加害行為に起因する場合には、正義・公平の理念から、除斥期間の適用が制限されるというものである。
そして、原告らは、帰国前は日本社会から隔絶されてきたことにより、自らの被害を訴えることすらできず、帰国後も、日本語能力の欠如、日本の文化・システムに関する知識の欠如及び経済的自立の困難性が障害となって、自らの権利を行使することは不可能であった。このことは、前記平成10年最高裁判決にいう「心神喪失により権利行使が不可能な常況」にあった場合と同様に考えることができる。
さらに、原告らの前記障害事由は、まさに被告の早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反という加害行為に起因するものである。
このことからすれば、前記平成10年最高裁判決の趣旨に照らし、正義・公平の理念にもとづき、本件について除斥期間の適用は排除されるべきである。
3 以上によれば、被告の除斥期間の主張は理由がない。

別紙  被告の主張
第1 原告らの被侵害権利又は被侵害利益の存否(争点(1))について
1 原告らの主張する被侵害利益は、具体的権利ないし法的利益ではない。
本件において、原告らは、被告の公務員(厚生大臣、外務大臣、国会議員)が、中国残留邦人を早期に帰国させるための措置を採らず、原告らの帰国を制限して妨害し、帰国後においても原告らの生活の自立を援助する措置を採らなかったという点が違法であったとし、これによって、原告らに共通する「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」が侵害されたとして、被告に対し、国家賠償法(以下「国賠法」という。)1条1項に基づき、損害賠償を請求している。
そして、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」の内容については、「日本人であれば誰しも当然に享受すべき人格権、幸福追求権、個人の尊厳の原理等」を根拠として、「祖国日本において、日本人としての人格形成・自己実現を図る機会を享受する基本的権利」があるとする。
しかしながら、原告らの主張する「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」なるものは、その概念そのものが抽象的かつ不明確であるばかりでなく、せいぜい、「日本語を覚える機会」、「日本固有の生活習慣を覚える機会」、「日本国内で教育を受ける機会」、「日本国内で自ら望む職業に就労する機会」、「健康で文化的な生活を送る機会」などを得ることの総体であって、一義的な内容を持つ一個の権利でなく、その外延を画することすらできない極めてあいまいなものであるから、具体的な権利ないし法的利益ではあり得ない。
また、原告らの主張からすると、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」の内実とは、原告ら全員が共通して侵害された権利利益を指すことになると思われるが、原告らの主張する事実は、第二次世界大戦の敗戦前後の逃避行のさなか、幼少期において、家族との死別又は離別を余儀なくされたこと、原告らの多くは、幼少期から貧困な農家で、放牧、農作業等の働き手として、辛うじて生きながらえてきたものであり、小学校すら行けずに働いた者も多いこと、原告らの中には、養父母から強制労働や虐待を受け、日本人であることからくる仕打ちに耐え続けてきた者や、人身売買同然に転々と複数の養父母の下で生活した者がいること、原告らの多くは、「小日本」、「日本鬼子」などと呼ばれて迫害されたことなどである。
しかしながら、原告ら提出の甲総A13の2(アンケート調査中間報告(大阪地裁分))をみると、原告らには、① 未就学者(27%)がいる反面、大学卒業者(3%)もいること、② 中国における生活レベルも「生活は苦しかった」者(33%)もいる反面、「上で安定していた」者(10%)がいること、③ 幼いころに日本人であることを理由に「ひどくいじめられた」者(40%)がいる反面、「ほとんどいじめはなかった」とする者(18%)がいること、④ 身元が判明している者(68%)がいる反面、未判明の者(32%)もいること、⑤ 日本語の習熟度についても、日本語が全く話せない者(12%)がいる反面、全く不自由のない者(6%)がいること、⑥ 自分が希望する職に就くことができたかとの問に対し、「全く出来なかった」という者(58%)がいる反面、「大いに満足できた」としている者(11%)がいること、⑦ 日本人の友達や近所の人と「親しくしている」者(13%)がいる反面、「日本人との交流・友達は全くいない」とする者(37%)がいることなど、原告らが主張する事実を含め、あらゆる面において相反する回答がなされているのであり、原告ら全員が共通して侵害された権利利益を想定することは困難である。
このことからも明らかなとおり、中国残留邦人が、今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き中国に居住することを余儀なくされ、その多くの人々がそれぞれの困難な状況下で様々な労苦を負わされたことは想像に難くないが、その具体的状況、内容、程度等は極めて個別性が強いものと考えられるから、原告ら全員に共通する被侵害利益としての「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」というものを法的権利として観念することはできないし、また、その共通の侵害があったと考えることはできないというべきである。
2 原告らの本件請求の実質は戦争損害に対する補償を求めるものである。
原告らの主張は、被告が原告らに対して行った何らかの作為から直接発生した被害をもって損害とするのではなく、先の大戦終結時に中国にいた原告らが、終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず、長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったことから直接発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益を挙げ、これを除去する内容の政策を、被告において立案、実施すべきであったというものである。
換言すれば、原告らは、正に、先の大戦により中国に残留することを余儀なくされたという異常な事態に起因する戦争損害に対して、被告は、広範な補償措置を講ずべきであったのにこれをしなかったことをもって、国賠法上の違法とするものと解することができる。
しかしながら、原告らが中国に留め置かれたことにより各種不利益が発生したとしても、先の大戦によりほとんどすべての国民が様々な被害を受けたこと、その態様は多種、多様であって、その程度において極めて深刻なものが少なくないこともまた公知のところである。
戦争中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって、原告らのみが犠牲を強いられたものではない。
そして、このような犠牲は、いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として、国民がひとしく受忍しなければならなかったところであり、これに対する補償は憲法の予想するところではなく、その補償措置の要否及び在り方は、事柄の性質上、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、立法府ないし行政府の広範な裁量にゆだねられており、原告らが主張するように、これを一義的に決することは不可能であるというほかない。
そして、戦争によって国民が被った被害に対する補償は憲法の予想するところではなく、その補償措置の要否及び在り方が立法府ないし行政府の広範な裁量的判断にゆだねられていることは、確立した判例となっている(最高裁昭和43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁等)。
また、原告らの主張する政策は、① 原告らを早期に帰国させるために採られるべき各種の施策に関するものと、② 帰国した原告らに対して採られるべき各種の施策に関するものの2種類に大別することができる。政府がこのような総合的な政策を立案し、具体的措置を施行するためには、国際情勢や国家財政、国内の経済社会情勢を勘案しなければならないことは論をまたないところであるから、このような場合、政府においてその時々における内外の情勢のもとで具体的にいかなる措置を採るべきかは、事の性質上専ら政府の裁量的な政策判断にゆだねられている事柄とみるべきものであって、仮に一定の目標を達成することができず、又はこれに反する結果を招いたとしても、これについて政府の政治的責任が問われることがあるのは格別、法律上の義務違反ないし違法行為として国賠法上の損害賠償責任の問題を生ずるものとすることはできないのである(最高裁昭和57年7月15日第一小法廷判決・訟務月報29巻2号188頁参照)。
以上のとおり、原告らの主張する被害は、いずれも戦争犠牲ないし戦争損害に属するものであり、これに対する補償は憲法の予想しないところであって、その補償の要否及び在り方は、事柄の性質上、国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであり、立法府ないし行政府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である。また、原告らの主張する事柄の性質からみても、いかなる政策を立案し、実施するかは、立法府ないし行政府の広範な裁量にゆだねられているのであって、実施すべき政策を一義的なものとして措定することはおよそ不可能である。
したがって、原告らの本件請求は、憲法の枠外にあり、法律上の義務違反ないし違法行為として国賠法上の損害賠償責任の問題を生ずるものではないから、失当であることは明らかである。
第2 被告の公務員の違法な公権力の行使の有無(争点(2))について
1 原告らの主張が失当であること
国賠法1条1項は、個別国民の国賠法上保護された特定の権利ないし法益の侵害があることを前提とし、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、当該公務員が公権力の行使に当たって、上記特定の権利ないし利益を有する個別の国民との関係において遵守すべき職務上の法的義務に違背して当該国民等に損害を与えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものであるから(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁参照)、同条項に基づき損害賠償を求めるに当たっては、その要件事実として、被告のいかなる公務員が、いかなる法令の根拠に基づいて、原告らに対し、いかなる職務上の法的義務を負っていたとするのか、そして、当該公務員のいかなる行為が、その職務上の法的義務に違背するとするのかを特定する必要があり、また、原告らの有する国賠法上保護された法益が当該公務員の義務違背によって侵害されたことを主張する必要がある。
しかし、原告らの主張は、国賠法1条1項の定める賠償責任についての上記要件事実の主張が尽くされたものとはいえず、それ自体失当である。
2 早期帰国実現義務違反について
(1) 早期帰国実現義務の実定法上の根拠の欠如
原告ら主張の被告の早期帰国実現義務の法的根拠は、以下のとおり、いずれも実定法上の根拠とはなり得ない。
ア 先行行為に基づく条理上の作為義務について
(ア) 不作為は外形上は何もない状態であるから、国賠法上の「公権力の行使」及び「違法性」が認められるためには、国賠法上の作為義務が認められる必要がある。そして、その作為義務が認められるためには、法令の定めがあるか、これがなくともこれに準ずるような法律関係(それがある場合には国賠法上の作為義務が当然に発生するという関係)が必要である。
原告ら主張の先行行為に基づく作為義務は、自己の行為により損害発生の危険を作出した者は条理上その損害発生を防止する義務があるとの考え方に基づくものであり、その内実は、将来の損害発生を防止するという結果回避義務である。
原告らは、先の大戦終結時に中国にいた原告らが、終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず、長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったということから直接発生し又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益を被害とし、これらの被害は、① 傀儡国家である満州国を建国し、② 軍事的意図から、国策として27万人もの日本人を開拓団等として満州へ送出し、③ 戦局が悪化した後は、ソ連侵攻の具体的蓋然性を予測しながら、開拓団民に戦局の悪化を知らせず、開拓団民の保護策も講じず、それどころか開拓団民の男子を根こそぎ動員して兵役に就かせ、開拓団民の保護を一切行わずに満州の4分の3を放棄する作戦を取り、④ ソ連侵攻後も引き続き開拓団民の保護策を講じず、逆に軍人軍属とその家族を避難させることに終始して、民間人を保護しなかったばかりか、現地土着政策をとり、その結果、零下30度から40度の極寒の中での越冬を余儀なくしたことなどの被告の国家政策(先行行為)を原因として生じたものであると主張する。
原告らの主張によれば、先の大戦終結時に中国にいた原告らが、終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず、長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったことが、原告らの被害の中核部分であるから、原告らの主張するかかる法益侵害状態は、被告の戦前の国家政策の実施等、原告らの掲げる行為によって直ちに発生しているのであり、原告らのいう作為義務の内実は、既発生の法益侵害状態を回復するための原状回復義務であって、先行行為に基づき発生するとされる、将来の損害発生防止のための結果回避義務ではない。
そして、原告らが家族と離別して孤児となった原因は、ソ連軍の満州侵攻や敗戦によって発生した極度の混乱状態とそれに引き続く半年にわたる越冬生活であり、そのことは、在外邦人のうち、残留邦人の問題を生じているのがほとんどソ連軍占領地域にいた邦人に関するものであり、他の地域においては残留の問題がほとんど生じていないことからも明らかである。したがって、原告らが先行行為として挙げる上記①ないし④の点は、いずれも原告らの被害との間の相当因果関係が認められないから、これらによって、被告の公務員の作為義務が発生するとは到底解されない。
(イ) ところで、国賠法施行前においては、国又は公共団体の権力的作用については、私法たる民法の適用はなく、損害賠償責任は否定されていたものであり(国家無答責の原則。大審院昭和16年2月27日判決・民集20巻2号118頁、最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決・裁判集民事3号225頁参照)、また、国賠法附則6項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定め、国賠法施行前の公権力の行使に伴う損害賠償が問題とされる事例については、国賠法それ自体の遡及適用を否定するのみならず、それまでに採用されていた国家無答責の法理という法制度がそのまま従前の例として適用されることにより、国又は地方公共団体が責任を負わないことを明らかにする趣旨をも有するものである。
原告らは、原告らが主張する国賠法上の違法行為は、すべて国賠法が施行(昭和22年10月27日)された後である昭和33年7月以降の行為に限られているなどとして、原告らが主張する違法な先行行為と被告の公務員の不作為を恣意的に切り離し、後者をもって違法行為であると主張する。
しかし、原告らの主張を前提とすれば、被告の先行行為は、遅くとも、国賠法の施行前に行われたものであり、国家無答責の法理が支配した時期の行為であるから、かかる行為については、国家無答責の法理により民法は適用されず、「違法」と評価する根拠となる法令が存在しない。
かかる行為を先行行為として、十数年後以降の不作為を国賠法上の「公権力の行使」とするのは、先行行為自体が国賠法施行前の行為であるため、これによっては国家無答責の法理によって賠償責任が発生しないことから、国賠法施行後の作為義務違反を観念することによって、国に賠償責任を認めようとするものにほかならず、このような解釈は国賠法附則6項を潜脱するものであり、不当である。
したがって、仮に原告らの主張を前提にしたとしても、原告らの本件請求は、国賠法附則6項の趣旨に反し認められない。
なお、原告らは、作為義務の根拠として条理をも挙げるが、条理の名において、仮に民法不法行為法の適用があっても認められない原状回復義務を、民法不法行為法の適用のない本件で認めることは、法解釈の限界を超え、立法作用に等しいというべきであって、到底容認されるものではない。
イ 憲法
(ア) 憲法13条について
憲法13条の規定する幸福追求権は、「憲法に列挙されていない道徳的権利ないし理念的権利ともいうべき抽象的な利益が一定の段階に達したとき、それを憲法上保障される法的権利とみなす根拠となる規範」であり、包括的基本権といわれるが、「幸福追求権は、実質的には自由権を主たる内容とする権利」であると解されている。
しかし、原告ら主張の早期帰国実現義務に対応する請求権が、憲法上の権利として認められる段階に達しているとは認められないばかりか、それらは国に対する積極的な請求権の存在を前提とするものであるところ、そのような社会権的権利が、自由権を主たる内容とする幸福追求権を根拠として認められる根拠も乏しい。ある利益が同条で保護されるとしても、そのことが直ちに、その利益保護のための措置を執るよう国に要求できること(国がかかる措置を執る義務を負うこと)を意味しないことは、いうまでもない。憲法13条は、個々の国民において、自らその人格権を主体的に実現するという自由主義、個人主義を基調として、国家がこれを保障する趣旨の規定であって、同条が人格権を保障しているからといって、それだけでは、国家に対し、一定の作為を求めることを根拠づけることはできない。
したがって、憲法13条が、原告ら主張の上記義務に対応する請求権を保障しているとはいえず、同条から前記義務を根拠づける原告らの主張は、主張自体失当である。
(イ) 憲法22条について
憲法22条1項、2項は、その規定から明らかなように、国内における居住・移転の自由、海外への移住の自由(帰国の自由を含む)など、自由権を保障した規定である。原告らの主張する早期帰国実現義務は、国に対する積極的な請求権の存在を前提としたものであり、このような義務を憲法22条1項、2項から導くことはできない。
したがって、憲法22条1項、2項から前記義務を根拠づける原告らの主張は、主張自体失当である。
(ウ) 憲法26条及び教育基本法について
憲法26条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定しており、国は「法律に定めるところにより」その権利を確保するために必要な措置を講ずることが要請されているにすぎない。そして、同条2項の規定をみれば、憲法26条は「福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかんがみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したもの」であり(最高裁昭和51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁)、国の責務として憲法上予定されているものは、義務教育制度を設置し、その費用を負担することであって、原告らが主張するような義務は憲法26条から生じる余地はない。また、教育基本法を根拠として、原告らが主張するような被告の公務員の法的義務は発生しないから、憲法26条及び教育基本法によって被告の早期帰国実現義務が導かれるとする原告らの主張は失当である。
ウ 児童福祉法について
児童福祉法は、被告の公務員に対し、中国残留邦人を早期に帰国させる義務を規定しているものではないから、同法から当該義務が発生することはない。
エ 国際法について
国際法は、基本的に国家と国家との関係を規律する法であり、条約であれ国際慣習法であれ、第一義的には、国家間の権利義務を定めるものであって、国際法が個人の権利の保護、確保に関する規定を置いていたとしても、それは、国家が他の国家に対し、そのような権利を個人に認めること、あるいは、そのような義務を個人に課すことを約するものであって、そこに規定されているのは、直接的には、国家と他の国家との国際法上の権利義務である。したがって、国際法が、個人の生活関係・権利義務を対象とする規定を置いたということから直ちに、個人に国際法上の権利義務が認められたとし、また、これによって個人が直接国際法上何らかの請求の主体となることが認められるものではない。
また、原告らの指摘する条約等(世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約、文民の保護に関するジュネーヴ条約、日本国との平和条約)の規定そのものをみても、原告らの指摘する条約等において、原告ら主張の各義務が一義的な義務として規定されていると認められないことは明らかである。
したがって、国際法から前記各義務を根拠づけようとする原告らの主張は、主張自体失当である。
オ 旧厚生省設置法及び外務省設置法について
旧厚生省設置法や外務省設置法という行政組織法の規定は、厚生大臣や外務大臣が、原告らが主張するような個別の国民に対する職務上の法的義務を負う根拠とはなり得ない。
すなわち、ある自然人の行為が国家、公共団体の行為として評価されるためには、その自然人が、当該公共団体の行政機関としての地位を占めており、かつ、その行為が当該行政機関の所掌事務の範囲になければならない。この行為の帰属関係を定めるのが組織規範であり、各省庁の設置法は、ある行為を根拠づける根拠規範ではなく、行政機関の行為の限界を画するものにすぎないから、行政組織法の規定が個別の国民に対する職務上の法的義務の根拠となるものではない。
したがって、原告らの主張は失当である。
カ 未帰還者留守家族等援護法について
未帰還者留守家族等援護法は、「未帰還者が置かれている特別の状態にかんがみ、国の責任において、その留守家族に対して手当を支給するとともに、未帰還者が帰還した場合において帰郷旅費の支給等を行い、もつてこれらの者を援護することを目的」として制定されたものであり(1条)、「国は、未帰還者の状況について調査究明をするとともに、その帰還の促進に努めなければならない」(29条)と定めている。
しかし、同法29条の調査究明や帰還促進に関する手段・方策に関する具体的な規定が同法には定められていない上、そもそも、政府が、このような政策を総合的に立案し、具体的措置を行うためには、国際情勢や国家財政、国内の経済社会情勢を勘案しなければならないことは論をまたないところであるから、これによって国が負う責務は、政治上、道義上の一般的な責務であるにとどまり、個々の国民に対する法的な作為義務として評価されるものではないというべきである。
前述したように、政府において、その時々における内外の情勢の下で具体的にいかなる措置を採るべきかは、事の性質上専ら政府の裁量的な政策判断にゆだねられている事柄とみるべきものであって、仮に一定の目的を達成することができず、又はこれに反する結果を招いたとしても、これについて政府の政治的責任が問われることがあるのは格別、法律上の義務違反ないし違法行為として国賠法上の問題を生ずるとすることはできない。
キ 未帰還者に関する特別措置法について
未帰還者に関する特別措置法1条の「この法律は、未帰還者のうち、国がその状況に関し調査究明した結果、なおこれを明らかにすることが出来ない者について、特別の措置を講ずることを目的とする。」との規定は、未帰還者のうち、国の調査究明の結果、その状況を明らかにできない者に対して特別の措置を講ずることとする同法の目的を規定したものであり、そもそも同法は未帰還者の調査究明自体を目的としたものでないことは明白である。同規定が「調査究明」に言及しているのは、同法が定める「特別の措置」を講ずる対象を明らかにしたにすぎず、これをもって、未帰還者の「調査究明」が被告の公務員の職務上の法的義務として定められているとするのは、文理上も取り得ない解釈である。
同法1条の「調査究明」についても、その調査に関する手段・方策に関する具体的な規定が同法には定められていない上、政府がこのような政策を総合的に立案し、具体的措置を行うためには、国際情勢や国家財政、国内の経済社会情勢を勘案しなければならないから、同法1条の調査究明は、政治上、道義上の一般的な責務であるにとどまり、個々の国民に対する法的な作為義務として評価されるものではないというべきである。
ク したがって、原告らの主張する早期帰国実現義務が実定法上の根拠を欠くことは明らかである。
(2) 被告が早期帰国実現のために十分な施策を採ったこと
被告は、中国残留邦人の早期帰国実現のため、可能な範囲で十分な施策をとってきた。その詳細は、以下のとおりである。
ア 引揚げ・帰国援護、未帰還者調査等について(日中国交正常化前)
(ア) 引揚げ・帰国援護について
中国残留邦人の多くが居住していた中国東北地区(旧満州地区)からの引揚げについては、戦後我が国が連合国軍総司令官総司令部(GHQ)の管理下にあった時代においては、GHQの「引揚に関する基本指令」に基づき、また、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効後(昭和27年4月28日以降)は、「海外邦人の引揚に関する件」に基づき、ソ連軍の駐留、中国における内戦の激化や我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有していなかったという状況の中で、国として可能な限り実施してきた。
① 集団引揚げの実施
a 前期集団引揚げ
国賠法が施行された昭和22年10月27日当時、旧満州地区の管理は、中国東北保安司令官に引き継がれており、同司令官と米軍代表との間で成立した旧満州地区に在留する日本人の送還に関する協定により、米国及び中国の監督及び支援の下、大規模な集団引揚げが実施された。この集団引揚げは、昭和23年8月までの間に4期にわたり実施され、これにより約104万5000人の日本人が帰国した。
しかし、その後、中国における国民政府軍と中国共産軍の内戦の激化、中華人民共和国の成立等の事情により、集団引揚げは中断されることとなった。
b 後期集団引揚げ
我が国は、昭和27年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効により主権を回復したが、これに先立つ同年3月18日、「海外邦人の引揚に関する件」を閣議決定し、これに基づき自主的事業として、海外邦人の引揚げ援護を行うこととした。
旧満州地区からの引揚げについては、我が国は中華人民共和国と当時外交関係を有していなかったため、外交ルートによる実施が困難であったが、この問題を人道上の問題として、国際的性格を担う赤十字機関の仲介により、集団引揚げが実施された。
昭和28年3月5日、日本側(日本赤十字社、日中友好協会及び日本平和連絡会。以下「引揚3団体」という。)と中国側(中国紅十字会)との間で「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ(北京協定)」が成立し、これに基づき、中国地域からの集団引揚げが再開され、第1次ないし第7次の引揚げにより約2万6000人が帰国した。
しかし、昭和28年11月、中国紅十字会は引揚3団体に対して日本居留民の集団引揚げの打ち切りを通告し、引揚げは中断された。
その後、昭和29年11月3日、中国紅十字会会長等の来日に伴い、中国紅十字会訪日代表団と引揚3団体代表団との間で「帰国問題に関する懇談の覚書」が確認され、また、昭和31年6月28日には中国紅十字会代表と引揚3団体代表との間で「天津協定」が成立し、これらに基づき、集団引揚げが引き続き実施された。
昭和28年3月から昭和33年7月までの間に、21次にわたり集団引揚げが実施され、これにより約3万3000人の日本人が帰国した。
ところが、昭和33年7月、中国紅十字会より引揚3団体代表に対し、集団引揚げを打ち切る旨が通告されたため、これ以後、個別の引揚げに移行することとなった。
② 中国側との直接交渉
我が国は、昭和27年4月の主権回復以降、前記のとおり集団引揚げが実施される中で、我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有しておらず外交ルートによる引揚げの実施が困難な状況において、中国側に対して可能な限りの申入れ等を行い、中国残留邦人の帰国援護に努めた。
a ジュネーブにおける日中政府間交渉
昭和30年7月、閣議了解に基づき、在ジュネーブ日本総領事より在ジュネーブ中国総領事に対して、現在中国に残留している日本人のうち帰国を希望している者の帰国援助と消息不明となっている日本人の状況調査について、人道上の問題としてできる限りのことをされたい旨の覚書を手交した。
これに対し、昭和30年8月、日本総領事に対して中国側の声明が伝えられたが、中国側は国交正常化交渉について提案するのみで、引揚げに関する政府間交渉は進展しなかった。
また、昭和30年9月、ジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合における中国紅十字会代表の「約200人の日本人の帰国について準備をしている」旨の発言等を受け、同年10月、中国側に対し、事実関係の確認と、事実であればこれらの帰国者を政府又は日本赤十字社で受け入れる用意のあることを申し入れた。
これに対し、昭和30年11月、日本総領事に対して中国側の回答が寄せられたが、従来どおりの見解が述べられたにすぎなかった。
さらに、昭和32年5月、在ジュネーブ日本総領事より在ジュネーブ中国総領事に対し、中国地域の未帰還者に係る名簿を手交し、生死確認や現状に係る調査を申し入れた。
これに対し、昭和32年7月、中国側から、現在中国には、行方不明という日本人は存在せず、また、中国の侵略戦争に参加して行方不明となった日本人の問題は、中国政府として何ら責任を負うものではない旨の回答がなされ、その協力を得ることはできなかった。
b 衆議院海外同胞引揚特別委員長以下の訪中申入れ
昭和32年6月、衆議院海外同胞引揚特別委員会の広瀬正雄委員長より、中国首相及び中国紅十字会会長あてに、中国に残留している日本人の帰国の促進、未帰還者の調査等の問題について委員会として中国側に懇請するため、委員長ほか委員3名及び若干名の政府職員の訪中を申し入れた。
これに対し、昭和32年7月、中国側から中国紅十字会会長名の書簡により引揚3団体あての回答があったが、その内容は訪中を拒否するものであった。
③ 帰国旅費の国庫負担
我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有しておらず、容易に集団引揚げを実施できないという中国地域の特殊事情にかんがみ、個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減し、引揚げの促進を図るため、昭和27年3月1日から、個別に引き揚げる者の帰国に要する船運賃を国が負担することとした。
その後、個別に引き揚げる者の中国国内の居住地から出境地までの旅費についても、国が負担することとしたが、外交ルートによる実施が困難であったため、この取扱いを日本赤十字社に委託し、昭和37年6月1日から実施した。
(イ) 未帰還者調査について
中国残留邦人の消息調査については、戦後のGHQによる占領や中華人民共和国と当時外交関係がなかったという状況の中で、都道府県や親族等留守家族と連携をとりつつ、可能な限り実施してきた。
① 昭和29年ころまで
昭和23年ないし25年ころ、南方諸地域及び中国本土からの引揚げは既にその大部分が終わったとはいうものの、なお生死不明の多くの未帰還者のあることが明らかとなり、特に、旧満州地区等の地域からの引揚者数は、GHQ代表と対日理事会ソ連代表とによって結ばれた「ソ連地区引揚米ソ協定によるソ連邦及びソ連軍支配下の領土よりの日本人引揚者数は月5万名」とする協定数をはるかに下回る状況であった。ソ連関係の引揚げに関する限り、これが米ソ間の政治問題の道具にされたことが未帰還問題解決の一つの障害となるなど、占領下の各種の制約と終戦直後の国内情勢の混乱等のため、調査業務の実施に非常な困難を来した。
その中で、未引揚邦人届の収集、帰還者より覚書を収集して行う消息不明者の個人究明、現地からの通信の収集、各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備、残留者の状況に関する各般の調査、満州開拓団に関する調査等の業務を行った。そして、昭和24年3月、留守家族から未引揚邦人の届を提出させ、また、開拓団、在外商社等にも広く呼びかけて関係資料の提出を求めて未帰還者の掌握に努め、昭和25年4月から6月の間には、各都道府県を通じて留守宅に対する一斉調査を行って個人究明の促進を図り、同年10月に実施された全国国勢調査の際には、調査員に未引揚者の調査を依頼し、他方、上陸地において引揚者から残留者又は死亡者に関する情報を取得するとともに、帰郷後においては通信調査、合同調査などにより現地の残留者の動態資料を入手することに努め、未引揚邦人の調査を推進した。
こうして、未帰還調査業務は、昭和25年ころから体制が整って本格的に実施されるようになり、急速に進展した。昭和28年8月に未帰還者留守家族等援護法が制定された。
② 昭和30年ころ以降
未帰還者留守家族等援護法の趣旨に基づき、昭和29年4月以降、未引揚一般邦人に関する調査業務について、旧厚生省に設置した未帰還調査部において、軍人軍属の未帰還者に係る調査業務と一元的に実施することとされた。
中国残留邦人に係る消息調査については、我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有していなかったことから現地に赴いて調査を行うことが困難な状況であったが、政府としては、保有資料の分析や引揚者等からの情報収集をはじめとする国内調査を中心として調査を進めつつ、現地に対する通信調査等を実施し、また、中国側の協力を得るため政府間の直接交渉を実施するなどして、可能な限りその消息の調査究明に努めた。
a 国内調査の実施
旧満州地区の一般邦人及び開拓団員の調査は、日ソ開戦前における職域、隣組及び開拓団等ごとにその人員、人名を把握し、次いで行動群調査によりその足取りを追い、この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし、未引揚邦人の個人ごとの最終消息を基にして個人究明を行い、生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査を行った。この際、引揚上陸地における帰還者に対する聴取調査、帰還者に対する通信調査、招致調査及び探訪調査、留守家族等からの資料収集等を実施し、各種情報の収集に努めた。
b 国外調査の実施
我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有しておらず、現地に赴いて調査を行うことが困難な状況の中で、政府としては、留守宅等に通信がある等により現地住所が明らかな者に対し、積極的に通信調査を実施するなどして、可能な限り未帰還者の状況について調査究明に努めた。
昭和33年及び昭和35年においては、未帰還者の消息の調査究明の徹底を図るため、中国地域に残留しその現地住所の明らかな者の名簿を作成し、これを都道府県に配付し、留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。
c 一斉特別調査の実施
昭和33年12月、「未帰還者の調査究明促進に関する特別措置について」(昭和33年7月第3回未帰還者問題処理閣僚懇談会申合せ事項)に基づき、各種の手段を尽くして現に外地に残留している者を把握するとともに、状況不明な未帰還者について極力その消息資料を収集する目的で、一斉特別調査を実施した。
d 中国との直接交渉
(a) ジュネーブにおける日中間交渉
我が国が中華人民共和国と当時外交関係を有しない中で、前記のとおり、政府としては、昭和30年7月と昭和32年5月、ジュネーブにおいて、中国に対し、未帰還者調査についての協力を依頼したが、中国側から協力する旨の回答を得ることはできなかった。
(b) 民間団体を通じての情報入手
昭和29年以降数次にわたり、中国側(中国紅十字会)に対して、日本赤十字社や留守家族団体等民間団体を通じて未帰還者の消息調査を依頼し、留守家族等が直接中国側に消息調査を依頼したものも含めて、一部について回答を得た。
(ウ) 未帰還者に関する特別措置法の趣旨・目的・立法経緯・具体的運用
① 集団引揚等によって、未帰還者の数は逐次減少してきていたが、それでも、昭和32年10月1日現在で、その数は4万6650人であった。ところで、これらの未帰還者の大部分は、終戦前後の混乱期にその消息を絶った者であり、戦後十年以上にわたる調査究明によっても、その状況を明らかにすることができず、大部分の未帰還者は生存の期待の持てないものではないかと推測された。留守家族団体から未帰還者調査の徹底、特に国の十分な措置を伴った未帰還者の最終的処理等についての要望が起こり始めたのも、これらの情勢に基づくものであった。
一方、未帰還者の留守家族に対する国の援護措置として、未帰還者留守家族等援護法によって支給されている留守家族手当は、昭和34年8月1日以降においては、「過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない未帰還者」の留守家族に対しては、支給しない建前であったから、昭和34年7月末までに、未帰還者の調査究明を完結することが望ましく、また必要でもあったが、事実上は不可能に近く、したがって、未帰還問題の最終処理について何らかの特別な措置を講ずることが必要であると考えられた。
従来、未帰還者の死亡処理は、戸籍法89条(事変による死亡)の規定に基づく取調官公署による「死亡の報告」によって行われていたが、この死亡報告は、死亡を確認するに足りる資料があって、「四囲ノ状況ニ照シ万生存ノ疑ヒナキトキ」に限定されており、死亡推定可能という程度であっても、「生存不明者」である限りは、これに該当しないため、この死亡報告制度で、未帰還者の全部を処理することは不可能であって、「生死不明者」の死亡処理は、当時としては、民法30条の失踪宣告制度以外にはなかった。ところで、この失踪宣告の請求ができる者は不在者の利害関係人に限られており、国は利害関係人に含まれていないが、これは、「遺族が帰還を待っているのに、国家が失踪宣告を請求するのは不適当だという理由」によるものとされていた。したがって、国が、この失踪宣告を請求することができるようにするには、特別の立法措置が必要であり、立法に当たっては、留守家族の希望を考慮すべきものと考えられた。
上記の検討を経て、昭和32年12月17日、厚生省試案が公表されたが、これに対しては、引揚同胞対策審議会において、留守家族団体代表者から反対意見が出されたので、更に検討することとなった。
このような留守家族団体側の動きの真意は、戦後十年以上も経過し、今なお生死が分明でない未帰還者については、その大部分は死亡したものと推測されることから、その処理について何らかの特別な措置を必要とすることは承認しながらも、死亡推定の法制化に伴って、未帰還者の調査が打ち切られることを懸念する一方、長期にわたって待たされたことに対する十分な慰謝と、一般邦人で恩給、遺族年金の支給を受けられなくなる者に対する処遇問題を解決してほしいということにあるものと考えられた。
昭和33年3月20日、留守家族団体において、① 未帰還者の調査に全力を尽くし、引揚げを促進すること、② 留守家族の心情に即して、未帰還問題の最終処理を急ぐこと、③ 留守家族の援護をよくし、死亡処理した未帰還者の家族に、特別な弔意と慰謝の措置を講ずることの決議がされ、これを受けて、同年5月2日、第2回未帰還者問題処理閣僚懇談会において、未帰還者に関する措置方針が申合せ事項として定められた。これは、厚生省試案に比べて、「未帰還調査を徹底的に行うこと」、「留守家族に対して弔慰の意を表すること」、「昭和34年8月以降も留守家族手当の支給を考慮すること」等の点において、留守家族団体の従来の要望を相当取り入れたものである。また、当初の試案では、「民法の失踪宣告」制度と別に、「死亡推定措置」を考えていたのに対して、この取扱いは「民法の失踪宣告」制度に乗せて、その手続の大部分を司法機関(家庭裁判所)にゆだねようとするものであって、当初の試案に比べて、一層慎重を期するものであった。
② 未帰還者に関する措置方針に基づく調査究明の促進を図るため、各種の手段を尽くして、現に外地に残留している者を把握するとともに、状況不明な未帰還者について極力その消息資料を収集する目的で、前記のとおり、昭和33年12月、広く国内及び国外にわたり、未帰還者の一斉特別調査を実施した。
この調査は、国と都道府県とが協働して、140万人の帰還者及び外地残留者に対し、一斉に通信調査を行い、1170万円の予算を充当し、広報機関や関係各種団体も協力するという大規模なものであった。具体的には、厚生省は、未帰還者の名簿を作り、帰還者約46万名を指定の上、これを都道府県に送付し、都道府県は、昭和33年11月末から12月末までの間に自己管内の未帰還者の名簿とともに、これを厚生省の指定した者及び自ら選定した管内の帰還者に対し発送した。各都道府県は、各市区町村の協力の下に、主として、未帰還者連名簿発送の前後において、自己の機関誌やポスター、広報車等を利用したほか、広く新聞、ラジオ、関係諸団体の協力を得て、特別調査の趣旨についての広報宣伝に努めた。また、ほとんど全部の都道府県は、新聞に、未帰還者の氏名、消息等を発表して、直接帰還者に呼びかけ協力を求めた。
以上実施した国内調査に併行して、厚生省は、国外調査も地域ごとに、それぞれの特性に応じて実施したが、中共地域については、国交がなく日中両国政府間の交渉による未帰還者の消息調査は未だ実現していないなどの諸般の関係から、名簿等を現地残留者に対して一斉に発送して調査することは見合わせ、日本赤十字社から昭和33年10月、中国紅十字会に対して、現地残留者の内地向け通信に協力方を申し入れるにとどめた。これに対して中国側から回答を得ることはできなかった。
一斉調査が国内諸機関の全面的な協力の下に、総洗い的に徹底して行われたことは、被告として、未帰還問題の最終処理に踏み切る決意を固める上において、所期の成果を収めた。
そこで、厚生省は、未帰還者に関する特別措置の法律案についての検討を進め、昭和33年12月17日、要綱案を引揚同胞対策審議会に諮問したところ、同審議会が、原則的に、厚生省案に賛意を表したので、法律案の起草、国会審議を経て、未帰還者に関する特別措置法は、昭和33年3月3日公布され、同年4月1日施行された。
③ 未帰還者に関する特別措置法の具体的運用に当たっては、戦時死亡宣告を受ける者の名誉を尊重し、その留守家族の心情を十分斟酌する必要がある。
そこで、同法2条1項各号に規定する戦時死亡宣告申立該当者の決定については、厚生省保有の資料により、これに該当すると認められる未帰還者について、あらかじめ「該当予定者」として、都道府県を通じて留守家族に通知し、当該留守家族が戦時死亡宣告の申立てに同意した後に「該当決定」とすることとし、都道府県においては、厚生省から通知された「特別措置法該当予定者」について、その留守家族(少なくとも配偶者、子、父母程度は必要とされている。)の意向を調査(通信調査のみでは不十分であるため、直接、間接に面接する必要がある。)し、戦時死亡宣告の申立てに同意する場合は、同意書の提出を求めた後、厚生省に報告して、「特別措置法該当決定」の通知を受け、当該未帰還者の消息資料を整理して添付の上、知事名で、当該都道府県庁の所在地にある家庭裁判所に対し、戦時死亡宣告を申し立てることとされた(厚生省援護局長通知「未帰還者等に関する調査及び処理実施要領について」(昭和53年10月6日付け援発第883号))。そして、家庭裁判所は、未帰還者に関する特別措置法2条1項各号に該当する未帰還者であるかどうか、留守家族が真に申立てに同意しているかどうか等について審査した後、6か月以上の期間を定めて、官報に公示催告を行い、同期間の満了後に審判を行い、同審判の確定により当該未帰還者は、最終消息のあった時から7年又は危難が去った時から3年を経過する日に死亡したものとみなされることとなる。
④ 未帰還者に関する特別措置法の趣旨・目的・立法経過・具体的運用は、以上述べたとおりであって、残留邦人が生存して帰国した場合に、戦時死亡宣告を受けて自己の戸籍が抹消されていたことを知れば、これに対し不快感を抱く心情は理解できるものの、そうであるからといって、同法が違法となるものではないことは当然であるし、同法の制定・施行は、未帰還者調査に何ら影響を与えるものでもない。
(エ) 未帰還者に関する特別措置法施行後の調査
被告は、未帰還者に関する特別措置法施行後、都道府県と連携して戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者の調査を続けていた。
すなわち、厚生省においては、戦時死亡宣告制度が導入された後にも、資料の整備、留守家族からの事情聴取、引揚者の事情聴取(上陸地における聴取調査、招致調査、探訪調査)を実施したほか、日本赤十字社や日中友好協会などに、情報提供を求めるなどして、中国残留邦人の情報の収集につとめ、調査対象者ごとに「究明カード」に情報を集約するとともに、各種資料を整理保管するなどし、調査を継続した。
厚生省援護局長通知「昭和37年度における未帰還者等の調査究明業務について」(昭和37年5月18日付け援発第18362号)の別冊「昭和37年度未帰還者等に関する調査整理業務実施計画」(乙62)12条の規定では、いまだ未帰還者として把握されていない「生存残留者」については、外地に残留している好資料保有者に対し通信調査を実施することにより、その者の現在の生存の事実及び帰国意思に関する資料を収集するものとしており、さらに同条2項において「前項の調査は中共地域に最終の資料のある者を重点として実施するものとする。」とされている。
昭和33年10月から昭和36年12月までの間に2208通の通信調査を行い、昭和21年以前の消息しかなかった者が199人判明し、また、まだ未帰還者として把握されていなかった者が84人判明した。
また、「戦時死亡宣告審判確定者等死亡を確認していない者の諸資料は他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し機会あるごとに死亡時期、場所、死因ならびに遺骨等について調査するものとする」とされ、戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者についての調査を続け、戦時死亡宣告確定者の生存の事実が判明するなど、戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたときには、厚生省引揚援護局長通知「特別措置法の施行に関連する未帰還者の資料通報要領について」(昭和34年4月28日付け援発第10008号)の別冊「特別措置法の施行に関連する未帰還者の資料通報要領」(乙63)に定める事務処理を迅速に行うこととしていた。
具体的には、利害関係人が存在する場合には、都道府県が利害関係人に対し民法の規定に基づく失踪宣告(戦時死亡宣告)の取消審判申立てを行うよう指導し、利害関係人が申立てを行わない場合は、都道府県からの通知を受け、厚生大臣が戦時死亡宣告の取消請求を行い、裁判所による審判確定後においては、本籍地市区町村に戸籍の処理について依頼するとともに、都道府県を通じ利害関係人に戦時死亡宣告取消しについて通知することとしていた。
このように戦時死亡宣告の制度が導入されたことによって、未帰還者調査自体が中止された事実はないし、実際に戦時死亡宣告がなされた者についても、調査が継続されていた。
イ 帰国援護、未帰還者調査、身元調査等について(日中国交正常化以後)
昭和47年9月29日の日中国交正常化以後も、中国残留邦人については、帰国旅費の国庫負担等の援護を行い、その帰国を促進するとともに、北京に設置された日本大使館を基点として現地調査を行う等、未帰還者の消息調査に努めてきた。また、中国残留邦人の中で、自己の身元を知らない者(中国残留孤児)については、報道機関の協力の下での公開調査や肉親捜しのための訪日調査、訪日対面調査等の手法により身元調査を行い、その身元の判明と帰国の促進に努めてきた。
(ア) 帰国援護について
中国残留邦人が中国から日本へ引き揚げる際の、居住地から出境地までの旅費及び船運賃については、日中国交正常化後も引き続き支給するとともに、昭和49年9月に日中航空協定により東京・大阪と北京・上海間に航空機の相互乗入れが実現したこと等に伴い、昭和48年10月以降、航空機により帰国した場合の運賃についても支給している。
なお、帰国旅費の国庫負担については、昭和28年の援護開始当初から、中国残留邦人本人のみならず、同行する配偶者や未成年の子等の扶養親族についても実施しており、これに加えて、平成4年度以降は身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯について、また、平成6年度以降は高齢の中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯についても実施している。
(イ) 未帰還者調査について
昭和48年3月、未帰還者、戦時死亡宣告により除籍された者及び自己の意思により帰還しないと認められ未帰還者から除かれた者の名簿を、在北京日本大使館に送付し、これに基づく現地調査を行うとともに、調査担当官を同大使館に派遣して、中国における未帰還者の調査を促進した。
そして、都道府県との連携の下、飛躍的に増大した永住帰国者や一時帰国者からの情報収集を実施して未帰還者の調査究明に努め、現在に至っている。
(ウ) 身元調査及び帰国援護について
留守家族から届出のあった状況不明の孤児及び現地に残留している孤児等の身元については、従来から都道府県との連携の下、調査を行っていたが、日中国交正常化を契機として、中国からの引揚者や一時帰国者が急激に増大し、また、中国に残留している者からの日本国内への通信が活発化したことに伴い、中国残留孤児についての多くの情報が寄せられるようになった。
そこで、保有資料による調査、昭和50年以降報道機関の協力の下での公開調査、昭和56年以降肉親捜しのための訪日調査、平成12年度以降訪日対面調査と、状況の変化に合わせて調査手法を改めながら、中国残留孤児の身元調査を実施してきた。
① 身元調査について
a 保有資料による調査
日中国交正常化以後、当初は、中国残留孤児やその養父母等から寄せられた手掛かり資料を基に、未帰還調査などにより収集整理された各種資料を照合して該当者と思われる者を抽出し、都道府県を通じて家族に確認を求めるなどの方法により実施した。
b 公開調査
幼い頃肉親と離別した中国残留孤児は、自分や両親の氏名、居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていない、あるいは記憶が曖昧であることなどが多く、また、養父母が中国残留孤児の身元の状況についての資料を有していない場合も多く、保有資料による調査のみでは身元の解明が困難なケースが生じた。
被告は、昭和49年ころ、ボランティアによる「残留孤児」の肉親捜しに連動して、朝日新聞が中国からの便りを新聞で報道したことが反響を呼んだことを参考にしつつ、新たな調査方法として公開調査を開始したものである。
そして、公開調査の実施に当たっては、各報道機関の協力を得て、国から積極的に、広く国民一般に対して、孤児の顔写真、特徴、肉親と離別した時の事柄などを新聞、テレビ等に公開して孤児の情報等を周知することにより、身元調査の促進に努めてきた。
公開調査は、昭和50年3月から昭和56年1月まで計9回実施され、437人が公開され、その結果、延べ166人の孤児の身元が確認された。
c 訪日調査
(a) 経緯と概要
手掛かり資料の乏しい中国残留孤児については身元の解明が困難であり、また、実際に孤児と対面して顔を見、声を聞き、身体的な特徴、孤児が覚えている手掛かりを確認したいとの在日親族からの要望を踏まえ、中国残留孤児の身元調査を更に進め、昭和56年3月以降、身元が確認できない中国残留孤児について、一定期間日本に招き、報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査を実施した。
訪日調査の実施に至る経緯は、次のとおりである。
昭和47年9月に日中国交正常化が実現したものの、当時、中国国内は文化大革命(1966年(昭和41年)から1977年(昭和52年))の最中であった。文化大革命終息後、被告は中国政府との間で、訪日調査実現に向けて外交交渉を行ったものの交渉には相当の時間を要した。
他方、当時、中国公民として生活していた残留孤児を肉親調査のために訪日させることについては、我が子を手放したくない中国国内の養父母からの反対があり、また、中国の公安当局も戦後30年余り経て中国公民として生活している残留孤児を帰国させることに難色を示した。
訪日調査の実現には、こうした問題を解決しなければならず、被告は中国政府と度重なる交渉をすることを余儀なくされた。
さらに、訪日調査が日中両国をまたぐ調査であり、両国とも初めての試みであったことなどから、両国政府において、訪日対象者の確認、本人への連絡(中国国内の通信事情により、数か月かかることもあった。)、受入れ態勢の整備、残留孤児の手掛かりの調査結果の取りまとめ等解決すべき事項が多岐にわたり、両国政府の間の外交交渉にも相当程度の時間を要した。
例えば、訪日調査に至る前の日中両国政府でなされる調査や両国間のやり取りについていえば、まず、孤児から郵送あるいは帰国者に託すなどの方法で、在中国日本国大使館あるいは厚生省等に寄せられた身元調査の依頼に基づき、彼らの手掛かり等と厚生省の保管資料等とを照合して、孤児と確認された者を孤児対象者名簿に登載し、被告から中国政府に送付する必要がある。その後、同政府においても、当人が孤児か否かの確認を行った後、結果を外交ルートに乗せて再度、厚生省に連絡することによって、日中両国政府において「認定孤児」とする。その後、厚生省より外交ルートに乗せて、中国政府を通じ対象孤児に対して、調査結果及び認定孤児には訪日調査に参加してほしい旨の連絡をするなどしており、この他にも様々なやり取りや調査等を行う必要があった。このようなやり取りは、すべて外交上の文書で行われるため、かなりの時間を要した。
訪日調査は、こうした経緯を経つつ、両国の努力により様々な障害を乗り越えて実現したものであり、このための時間の経過をもって、原告らの主張するように訪日調査が遅れたなどということはできない。
そして、訪日調査は、昭和56年3月から平成11年まで計30回実施され、計2116人の参加をみて、670人の身元が確認された。
(b) 調査の方法
訪日調査の対象者は、手掛かり資料等に基づき日中両国政府が中国残留孤児と確認した者である。
訪日前には、訪日期間中の調査効率を高めるため、保有資料の調査により肉親関係者の抽出を行うとともに、報道機関の協力により手掛かり資料を公表し、肉親関係者の名乗り出や情報の提供を求める公開調査等を行った。そして、訪日後は、まず、手掛かり資料の正確を期するため、調査担当官による本人からの聞き取り調査(面接調査)を行い、その結果新たに把握されたり、修正された手掛かり資料については、直ちに報道機関を通じて公開した。また、報道機関の協力により、孤児自らがテレビに出演し、全国に身元の手掛かりを訴え、ルーツを求める呼びかけを行った。そして、肉親関係者が名乗り出た場合は、孤児と直接対面してもらい、身元の確認を行った(対面調査)。
なお、対面調査によって、孤児・肉親の双方が身元確認について明確に判断できない場合や、一人の孤児に対して複数の関係者が名乗り出た場合などにおいては、当事者双方の希望により、血液鑑定(平成2年以降はDNA鑑定)を実施した。
(c) 原告らの訪日調査の長期化の主張に対する反論
原告らは、訪日調査の参加人数が少なかったことが、訪日調査が長期化した原因の一つである旨主張する。
訪日調査の参加人数をある程度限定せざるを得なかったのは、次の事情による。
訪日調査の実施に当たっては、中国政府側でも残留孤児であることの確認等を行う必要があったが、中国政府には、残留孤児を扱う専門の部署がなく、中央では公安部出入境管理局、地方では各省公安局出入境管理処が窓口となって行っていた。しかし、これらの機関は円滑に機能していなかったため、本人への連絡(中国国内の通信事情により、数か月かかることがあった。)等準備期間に相当の時間を要するとともに、一度に多くの「残留孤児」を訪日させることは難しかった。このように中国当局においても、中国残留邦人の調査には苦慮し、相当の時間を要していたことが明らかであり、原告らが主張するように個人ごとに「档案(トウアン)」という個人情報を集積した書類が作成されていて、中国側の調査が容易であったという事実はない。
他方、被告側でも、訪日調査の実効性を少しでも上げるために、個々の孤児について少ない手掛かりの中から、肉親につながる情報を蓄積し、整理するなど、非常に丹念な作業と綿密な調査が必要であり、個々の孤児の調査に時間を要した。
訪日調査は、日中両国をまたぐ国際的な調査であり、実施に当たっては毎回、外交上の交渉が必要であり、外交文書のやり取り等にも相当の時間を要し、このため、1年間の訪日調査の開催頻度も自ずと制限された。
このように、様々な理由から被告は当初訪日調査の人数を決定してきたものである。
そして、日中両国政府の外交努力により、訪日人数は、昭和58年度に計105人(訪日調査・年2回実施)、昭和59年度に計140人(同・年2回実施)、昭和60年度に計360人(同・年3回実施)、昭和61年度に672人(同・年5回実施)と拡大した。また、本件訴訟の原告を対象としたアンケート調査でも、訪日調査に参加を希望して希望どおり参加できたという原告らが51%(甲13の2)と過半数を占めており、このような調査結果からしても、原告らの主張は、原告らの実態を反映していないものであることは明らかである。
次に、原告らは、養父母の扶養費負担問題が、訪日調査の長期化の原因の一つとなった旨主張するが、そのような事実はない。
被告は、当初、本来民法上の扶養義務を負う孤児が負担すべきものを全額国庫負担することとしていたが、その後、国及び国民の浄財で扶養費を折半することとし、昭和58年1月より政府間で協議を行い、昭和59年3月に日中間で第1回の口上書が交わされ、さらに具体的な金額等について、昭和61年5月に第2回の口上書が交わされた。
これら口上書の交換が長期化した理由としては、① 養父母らに仕送りする資金のない孤児に低利で融資する「養育費扶養費貸付制度」を日本側が提案したところ、中国側がこれに難色を示したこと、② 中国側が日本側に、一時帰国した孤児を中国側に戻すよう強い表現を盛り込むよう求めたのに対し、日本側は孤児が日本人である以上、中国への強制送還につながる表現を用いることはできないとしたこと、③ 日本側は中国からの提案が納得できるものであれば尊重して早期解決を図るとしたが、扶養費の額について中国側の提案が二転三転したことがあげられ、結果として、「交渉経過をみると、決着が長引いたのが日本だけの責任とはいえない」と報道(甲総A6の41)されているように、養父母の扶養費負担問題における被告の対応に問題があったために訪日調査の中断があり、長期化につながったとする原告らの主張は的を射ていない。
さらに、原告らは、文化大革命が残留孤児の帰国の障害となった実態はみられず、むしろ、文化大革命中であっても、中国政府自体積極的に帰国を促していた事実すらみられるなどと主張する。
しかしながら、「中国残留孤児からの身元調査依頼について(報告)」(乙140)には、「(1) 新規依頼件数の増大傾向 四人組打倒以降漸次地方レベルまで深まりつつある当国国内の開放的な雰囲気及び日中間の友好関係プレイアップを反映して依頼件数は78年下半期以後益々増加の一途をたどっており……」とあり、このことは、1978年(昭和53年)までは、地方レベルまでは十分に国内開放がされていなかったこと、文化大革命末期の混乱を巻き起こしたとされる「四人組」が政治の舞台から消えた後に、ようやく円滑に身元調査依頼がされるようになったこと、その結果、地方に居住する残留孤児らに対し、地方公安局が被告の支援等の周知を行えるようになり、自己の身元を知らない残留孤児らからの肉親調査依頼件数(1973年〜1976年末 289件、1977年 73件、1978年 235件、1979年 461件、1980年1月〜5月 209件)が激増したことを端的に示している。
このように文化大革命による政治的な混乱があったことによって、結果として、中国残留邦人らの帰国が困難となったことは、当時の文書によっても裏付けられている。
d 訪中調査
(a) 障害を有する残留孤児の調査
訪日調査の対象者ではあるが、身体に障害を有しているために訪日調査に参加することが困難な中国残留孤児の肉親調査を促進するため、平成3年度及び平成4年度に、調査担当官を中国へ派遣して、中国政府の協力の下、中国現地での残留孤児との面接調査や手掛かり資料の収集、公開調査のための孤児のビデオ撮影などを実施した。これらの資料に基づく公開調査により、調査対象者18名のうち3名の身元が確認され、本邦への帰国を希望した者は帰国した。
(b) 未確定者の調査
中国残留孤児調査を促進するため、日中両国政府のいずれかが中国残留孤児と確認できない者について、平成6年度以降、調査担当官を中国へ派遣し、中国政府の協力の下、中国現地での残留孤児等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施し、中国残留孤児である蓋然性が高いと判断した者については、訪日調査に参加させた。平成11年度までに53名が訪日調査に参加し、4名の身元が確認された。
e 訪日対面調査
手掛かり資料の減少や、中国残留孤児の高齢化を踏まえ、孤児の訪日に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつ、早期の帰国希望に応えるため、平成12年度以降、訪日調査に代えて、調査担当官を中国に派遣し、孤児等との面接調査を日中政府共同で行い(共同調査)、日中両国政府で中国残留孤児と確認された者について、日本で顔写真、身体的特徴、肉親との離別の状況等の情報を「孤児名簿」として公開し、肉親情報を収集し(情報公開調査)、肉親情報のあった者について訪日させ、肉親と思われる者との対面調査(訪日対面調査)を行っている。
この調査により、平成12年度以降平成14年度末までの間に46名が中国残留孤児と認定され、うち8名の身元が確認された。
なお、訪日対面調査においては、事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については、肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも、中国残留孤児として日本に帰国できることとしている。
f その他
(a) キャラバン調査等
訪日調査に参加したが身元を確認することができなかった中国残留孤児(以下「身元未判明孤児」という。)の肉親調査を促進するため、昭和62年度から3か年計画で全国的規模での情報収集等に取り組む、いわゆるキャラバン調査を実施した。
具体的には、民間団体の協力の下、肉親捜し調査班を編成して各都道府県に派遣し、未帰還者届を提出している関係者や当時の状況に詳しい元開拓団関係者等と面接して情報収集を行った。
この調査により、15名の中国残留孤児について、肉親に係る有力な情報を得ることができ、これらの者については、中国政府の協力の下、再度訪日調査を行う等により、うち8名の身元が確認された。
(b) 孤児名鑑の発行
中国残留孤児に関する情報収集を促進するため、昭和58年3月、「肉親探しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児」(3分冊)を作成し、各都道府県及び市町村等に配付し、広く一般に公開して孤児に関する情報の提供を求めた。昭和62年には、キャラバン調査を機にこれを改めて編纂し直した「まだ見ぬ肉親を求めて・身元未判明中国残留日本人孤児名鑑」を作成し、その後も適宜情報を更新し、一般からの情報の提供を求めている。
(c) 身元未判明孤児肉親調査事業
キャラバン調査の効果を踏まえ、引き続き国内における肉親調査を全国規模で実施していくため、平成2年度以降、元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し、肉親関係者等からの情報収集などを行い、肉親調査の徹底を図っている。
② 帰国援護について
a 帰国旅費の国庫負担制度
中国残留孤児についても、帰国旅費の国庫負担を行い、その帰国の促進を図っている。
b 身元未判明孤児に対する援護
身元未判明孤児については、日本の戸籍の確認ができず、中国旅券で帰国することとなるため、出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)上外国人として取り扱われることとなり、当初、帰国する場合には身元保証人が必要とされていた。しかし、身元未判明孤児については、在日親族や知人がいないことや身元保証人を捜す手段や連絡方法もないことから、身元保証人を立てて帰国することが困難な状況にあった。
身元未判明孤児及びその家族の帰国を促進するため、昭和60年度以降、身元保証人の代替措置として、帰国旅費国庫負担承認書及び「中国帰国孤児定着促進センター」(平成6年4月に「中国帰国者定着促進センター」に名称変更。以下、この種の施設を「定着促進センター」という。)への入所通知(平成6年以降は帰国旅費支給決定通知書)をもって、身元保証人なしで入国査証を発給することとし、帰国後、定着促進センターに入所中に身元引受人をあっせんすることとした。
また、平成12年度以降、肉親調査の方法を集団訪日調査から訪日対面調査に改めたが、孤児の集団訪日に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつ、早期の帰国希望に応えるため、事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については、肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも、中国残留孤児として日本に帰国できることとしている。
(3) 原告らの帰国妨害の主張に対する反論
原告らは、被告が原告ら残留孤児を外国人として扱い、永住帰国のためには原則として身元保証人を立てることを要求したため、身元未判明孤児はそもそも帰国することが不可能となり、身元判明孤児も肉親が身元を引き受けない場合、永住帰国は不可能となったものであり、早期帰国実現義務に違反し、原告らの帰国を妨害した旨主張する。しかしながら、以下のとおり、入管法の運用上、違法な点はない。
ア(ア) 「外国人」とは日本国籍を有しない者をいい(入管法2条2号)、外国人の入国に関しては、有効な旅券又は乗員手帳を所持し、かつ、正規の手続に従い入国審査官から上陸の許可等を受けて我が国に上陸しようとするものであることが要件とされている(同法3条1項)。また、外国人の上陸に関しては、原則として有効な旅券で日本国領事官等の査証を受けたものを所持しなければならず、かつ、その者が上陸しようとする出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官による上陸のための審査を受け、その許可を受けることが要件とされている(同法6条以下)。
査証発給事務をつかさどる外務省(外務省設置法4条13号)が、入管法の定める要件を踏まえ処理を行っているが、中国旅券所持者が査証を申請するに当たっては、身元保証書の提出を要する取扱いとされていることから、中国旅券を所持して我が国に上陸しようとする外国人が上陸許可を受けるためには、結果として、あらかじめ査証申請の際に、身元保証書を提出することが要件となる。
国際慣習法上、国家は外国人の入国を認めるべき義務は負っておらず、外国人の入国の許否は、当該国家の自由裁量により決定し得るところ(最高裁昭和32年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁)、外国人は入国のために査証の受給を要し、かつ、その受給のために身元保証書の提出を要するとすることは、外国人の入国に関して条件を附することであるから、これらもまた、国家が自由裁量により決定し得ることは明らかである。そして、査証発給については、法令上、その事務を外務省がつかさどるとされるのみで、その要件を定めた規定は存しないから、外務省の上記取扱いが国賠法1条1項の適用上、違法とされる余地はない。
なお、外務省が査証付与につき条件ないし制限を付するに当たっては、これを恣意的に行うのではなく、入管当局と十分調整の上、入管法上の要件等との整合性が確保されてきているものである。
(イ) 一方、日本人の帰国に関しては、「本邦外の地域から帰国する日本人(乗員を除く。)は、有効な旅券(有効な旅券を所持することができないときは、日本国籍を有することを証する文書)を所持し、その者が上陸する出入国港において、法務省令で定める手続により、入国審査官から帰国の確認を受けなければならない。」(入管法61条)とされ、入管法施行規則54条は、「法第61条に規定する帰国の確認は、旅券に別記第72号様式による帰国の証印をすることによつて行うものとする。ただし、旅券を所持していない者については、別記第73号様式による帰国証明書の交付によつて行うものとする。」と規定している。
そして、日本人の帰国の手続においては、入国審査官が帰国する者本人に直接面接し、相手が日本国籍を有することを確認することになる。その際、相手が、入管法61条所定の有効な日本旅券等を所持する場合には、それにより相手が日本国籍を有することが確認されることになるが、これらの文書を所持しない者であっても、日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できた場合は、入国審査官は、日本人の帰国の手続をさせ、他方、これを確実な資料に基づき確認できない場合は、入国審査官は、外国人の上陸の手続をさせることとなる。このように、入国審査官は、相手が日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できた場合は、日本人の帰国の手続をさせており、このことは、相手が中国旅券を所持して上陸しようとする者であっても同様である。
イ 我が国に入国しようとする者について、日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できない場合は、上記のとおり、入国審査官は、外国人の上陸の手続をさせることになるが、これは入管法の運用上、当然のことである。すなわち、入管法は、主として外国人の入国、上陸及び在留の管理にかかわる法令であり、そのため、日本への入国が禁止される外国人が日本の領域内に入った場合に必要な措置を採ること(入管法27条以下)、日本に上陸しようとする外国人の身分事項、入国目的等を審査し一定の基準に基づき上陸許可又は退去命令の処分を行うこと(同法45条以下)、日本に在留する外国人の在留状況等を審査しその在留期間の更新等の許可又は不許可の処分を行うことなどを定めている(同法19条以下)。
このように、入管法は、我が国にとって好ましくないと認められる外国人を排除することを重要な目的の一つとするから、ある者について我が国への上陸を認めるか否かに際しては、その者が日本人か外国人かの判別を慎重に行わざるを得ず、日本人であることの確認ができない限り、無条件に上陸を認めることはできない。
このことは、我が国に上陸しようとする者が中国残留邦人であっても異なるところはない。入管法上、外国人と日本人は明確に区分されているところ、外国人の意義については、単に「日本の国籍を有しない者をいう。」(入管法2条2号)とされるのみで、中国残留邦人が除外されていないことはもとより、その者が日本国籍を有しない事情は一切問われていない。したがって、中国残留邦人であっても、日本人であることの確認ができない者は、日本国籍を有しない者として入管法上の外国人であるといわざるを得ないのである。
ウ 憲法10条は、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定し、これを受けた国籍法は、日本国民たる要件、すなわち、日本国籍の取得要件及び喪失要件を定めているから、日本国籍を有することの確認とは、対象者について、国籍法所定の日本国籍の取得要件があり、かつ、その喪失要件がないことを認定判断することにほかならない。そして、国籍法は中国残留邦人に対しても適用されるから、中国旅券で我が国に上陸しようとする中国残留邦人について、日本国籍を有することが確認されるためには、日本国籍取得の事実があり、かつ、その喪失の事実がないと認定判断されることが必要である。
そして、日本国籍取得の事実は、通常、戸籍の記載により確認し得るが、帰国時に身元が判明している者はともかく、未だ判明していない者については、帰国時に戸籍の記載がないためその確認ができないことが通例である。また、仮に日本国籍取得の事実が確認されたとしても、これらの者は中国から旅券の発給を受けた者、すなわち、中国国籍を取得した者であるから、その取得の経緯次第では、「自己の志望によつて外国の国籍を取得した」(国籍法11条1項、昭和59年法律第45号による改正前の同法8条)として、日本国籍を喪失していることがある。このように、中国旅券で我が国に上陸しようとする中国残留邦人のうちには、帰国時において、そもそも日本国籍を取得した事実すら確認できない者のほか、これを喪失した事実が疑われる者もおり、これらの者は、日本国籍を有することを確認できない者に当たるといわざるを得ない。
そして、上述のとおり、入国審査官が、日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できない者について、外国人の上陸の手続をさせることは、入管法の目的に照らせば当然の取扱いであるから、中国残留孤児について日本国籍を有することを確認できないとして外国人の上陸の手続をさせることが、直ちに違法とはいえないことは明らかである。
エ しかるところ、原告X19(原告番号19)及び原告X31(原告番号31)については、中国旅券で帰国しており、他に日本国籍を有することを確認できる確実な資料を提出した事実もうかがわれないから、外国人としての上陸手続をすることになり、身元保証書を提出することが要件であったことは当然の取扱いということになるし、原告X1(原告番号1)については、当初、仮に身元保証書の提出を求められた事実があったとしても、それは上記原告両名と同じ観点から身元保証書の提出を求めたものにすぎないし、その後、帰国のための渡航書によって日本人として帰国しているということであるが、それは日本国籍を有する者であることが同人が提出した資料に基づき確認されたからであって、いずれについてもその取扱いは入管法に基づいた適法なものである。
なお、当初は、上記のような規定に基づき、上陸手続にあたって中国残留邦人に対して結果として身元保証書の提出を要求することになった事例も存したと思われるが、昭和61年11月には、中国旅券で入国しようとする者であっても、査証申請時に日本戸籍の存在が確認され、又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びこれらの者と中国において生計を一にし、かつ、同伴して入国する家族で一定範囲の者については、身元保証書の提出を不要とするなどの措置がとられている。
(4) まとめ
以上のとおり、原告らの主張する早期帰国実現義務は、法的根拠を欠いているのであるが、仮に、被告に同義務が認められると仮定しても、被告は、中国残留邦人の早期帰国実現のために、可能な範囲で十分な施策を講じてきたものであるから、早期帰国実現義務違反もない。
3 自立支援義務違反について
(1) 原告らの主張する権利の内容が極めて不明確であること
原告らの自立支援義務違反によっても、原告らが具体的にいかなる措置を受ける権利を有するのかが極めて不明確であり、具体的な義務内容の特定及びそれを実行すべき公務員の特定を欠いているから、原告らの主張は、それ自体失当である。
原告らの中にも、定着促進センターや自立研修センターに入所して、日本語教育を受けたものの、日本語の習得度において成果がみられないと主張する原告がいる反面、原告X9(原告番号9)などは、被告が実施した日本語習得に向けた支援を利用していないものの、職場や地域住民等とのコミュニケーションの効果で日常会話程度は理解できるとしている。
さらに、就労についていえば、就職をしても転職する者がいる反面、「とてもうまくいっている」とか、「なんとかがまんして勤めている」とする者もおり、また、住宅についても、厚生省に定住地を決められ不満だったとする者がいたり、そのため転居した者がいる反面、希望地に定住できたとする者もおり、このこと自体からも、自立のための措置として何をなすべきかということが、一義的に定まらないことは明らかである。
(2) 自立支援義務の実定法上の根拠の欠如
原告ら主張の被告の自立支援義務の法的根拠は、以下のとおり、いずれも実定法上の根拠とはなり得ない。
ア 先行行為に基づく条理上の作為義務
原告らの主張する早期帰国実現義務違反が成立せず、被告の帰国妨害も認められないことは上述のとおりであり、被告の先行行為によって自立支援義務が発生する旨の原告らの主張は失当である。
イ 憲法
(ア) 憲法13条
原告らの主張する前記各義務は、国に対する積極的な請求権の存在を前提とするものであるところ、前記各義務に対応する請求権が、憲法上の権利として認められる段階に達しているとは認められないばかりか、自由権を主たる内容とする幸福追求権により認められる根拠も乏しい。ある利益が同条で保護されるとしても、そのことが直ちに、その利益保護のための措置を執るよう国に要求できること(国がかかる措置を執る義務を負うこと)を意味しないことはいうまでもない。憲法13条は、個々の国民において、自らその人格権を主体的に実現するという自由主義、個人主義を基調として、国家がそのような自由を保障する趣旨の規定であって、国家に作為を請求できる社会権を認めるものではないから、同条が人格権を保障しているからといって、それだけでは、国家に対し、一定の作為を求めることを根拠づけることはできない。
したがって、憲法13条が、前記各義務に対応する請求権を保障しているとはいえず、同条から前記各義務を根拠づける原告らの主張は、主張自体失当である。
(イ) 憲法25条1項、26条
憲法25条1項の規定は、「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない」(最高裁昭和42年5月24日大法廷判決・民集21巻5号1043頁)から、同条項から、前記各権利が導かれるとする原告らの主張は失当である。そして、国家が国民の社会的自立を援助すべき責務は、政治上、道義上の一般的な責務であるにとどまり、個々の国民に対する法的な作為義務として評価されるものではない。
また、前述したとおり、憲法26条に関し、国の責務として憲法上予定されているものは、義務教育制度を設置し、その費用を負担することであって、原告らが主張するような義務は憲法26条から生じる余地はない。
(ウ) 憲法14条
平等は関係概念であって、実体を有しないから、平等を権利ととらえても、それは財産権や選挙権のような実体的権利ではあり得ない。その意味では、手続的正義の表明である手続上の権利の一種とみることができる。
そうすると、ある利益が被侵害利益であるか否かが問題とされている場合に、憲法14条によって、その被侵害利益性を根拠づけることはできない。また、平等原則違反の救済は、差別を解消することによってなされるが、これをどのように具体化するかは、平等原則自体からは出てこないのであって、社会権や国務請求権のような分野においては、真の救済のためには国による立法措置が必要であり、それは立法府の判断にゆだねられることになる。
したがって、原告らが主張するような義務は憲法14条から生じる余地はない。
ウ 国際法
国際法が、個人の生活関係・権利義務を対象とする規定を置いたということから直ちに、個人に国際法上の権利義務が認められたとし、また、これによって個人が直接国際法上何らかの請求の主体となることが認められるものではないことについては、前述したとおりである。
また、原告らの指摘する条約等(社会的及び文化的権利に関する国際規約)の規定そのものをみても、原告らの指摘する条約等において、前記各義務が一義的な義務として規定されていると認められないことは明らかである。
したがって、国際法から前記各義務を根拠づける原告らの主張は、主張自体失当である。
エ 自立支援法
自立支援法は、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的」として制定されたものであり(1条)、「国は、本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため、必要な施策を講ずるものとする。」(3条)、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため、必要な施策を講ずるものとする。」(4条1項)と定めている。
しかし、これらの規定における「必要な措置」の手段・方策に関する具体的な規定は同法に定められていない上、その時々における内外の情勢の下で具体的にいかなる措置を採るべきかは、事の性質上専ら政府の裁量的な政策判断にゆだねられている事柄とみるべきものである。
したがって、これらの規定によって国が負う責務も、政治上、道義上の一般的な責務であるにとどまり、個々の国民に対する法的な作為義務として評価されるものではないというべきであって、仮に一定の目的を達成することができず、又はこれに反する結果を招いたとしても、これについて政府の政治的責任が問われることがあるのは格別、法律上の義務違反ないし違法行為として国賠法上の問題を生ずるとすることはできない。
(3) 被告が自立支援のために行った措置
被告は、帰国した中国残留邦人の生活の自立を援助(支援)するため、以下のとおりの措置を講じている。
ア 受入援護(帰国直後の援護)について(日中国交正常化以後)
言語、生活様式、生活習慣等多くの面で日本とは異なる中国で幼い頃から生活し、生活の基盤がない日本に帰国した中国残留邦人に対しては、帰国旅費の国庫負担の援護を受けて同伴して帰国する親族等(同伴帰国者)とともに、帰国直後から、本邦到着時におけるオリエンテーションの実施、定着促進センターにおける帰国後の一定期間、入所形式による日本語教育を含む生活指導等の実施、定着促進センター退所後の定着先のあっせん、自立支度金の支給等、受入援護のための各種施策を実施している。
また、肉親の判明しない身元未判明孤児や、在日親族の死亡や高齢化等により親族による受入れが困難となっている中国残留邦人のため、身元引受人制度を発足させ、これらの者の帰国、日本社会への早期定着、自立促進を図っている。
(ア) 自立支度金の支給
昭和28年3月以降、中国残留邦人を含む引揚者に対して、帰国後の当面の生活資金等に充てるものとして、帰還手当を支給してきた。
昭和62年度以降は、名称を「自立支度金」に改めるとともに、少人数の世帯について一定の金額を加算して支給している。平成15年度における自立支度金の額は、大人1人につき16万0400円であり(小人半額)、例えば、大人4人、小人1人世帯の場合、72万1800円となっている。
(イ) オリエンテーション
中国残留邦人及び同伴帰国者については、昭和54年以降、中国から帰国した直後、帰国後の援護の内容、各種行政機関窓口、生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施している。
(ウ) 定着促進センター
① 定着促進センターの開設と変遷
昭和56年3月に第1回の訪日調査が実施され、いわゆる「残留孤児」の帰国者が増加する中で、各地方自治体の帰国者の定着自立支援策の取組みにもかかわらず、次第に帰国者の定着自立支援策を補う必要性が出てきたため、被告は、帰国者の定着自立支援を強化する見地から、第1回訪日調査実施から1年後の昭和57年度には早くも、次年度(昭和58年度)の予算要求事項として、定着促進センターの設置を盛り込み、昭和59年2月、定着促進センターを設置するに至ったものである。
昭和59年2月、埼玉県所沢市に定着促進センター(所沢センター)を開設した後、昭和62年度には、帰国希望者数の増加に伴い、新たに、北海道、福島県、愛知県、大阪府及び福岡県の5か所に開設した。その後、平成3年度には、帰国者数が漸次減少したことにより、北海道、福島県及び愛知県の3か所を閉所したが、援護対象者の拡大(高齢の中国残留邦人を扶養するため同伴帰国する子1世帯への援護)による帰国者の世帯員数の増加が見込まれたことに伴い、平成6年度には、所沢センターの分室を山形県及び長野県に開設し、さらに、平成7年度には、新たに、宮城県、岐阜県及び広島県の3か所に開設した。
その後帰国者数の減少に伴い、これらを順次閉所し、現在は、埼玉県、大阪府及び福岡県の3か所が運営されている。
② 定着促進センターにおける援護の内容
定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度であり、この間、宿泊施設の提供、生活援助費の支給を行いながら、日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行っている。
この4か月程度という期間は、昭和57年開催の中国残留日本人孤児問題懇談会において、日本に帰国した孤児をあまり長い期間一般社会から遠ざけておくことは好ましくないので、標準的な入所期間は4か月程度にとどめることが適当であるとの提言がされ、これを踏まえて決定されたものである。
a 基礎的日本語の研修
年齢構成や日本語学習歴、学歴等を勘案したクラス編成を行い、日本社会に定着する上で必要な初歩的な日常会話レベルの日本語研修を行っている。
b 基本的生活習慣の指導
日本で生活していく上で必要な知識や守るべき規則等についての指導を、日常生活、対人関係、制度・法律等の分野に分けて、買物や交通機関の利用等の実習を取り入れつつ、個別の指導目標を定め、実施している。
c その他
個別の就職相談・指導をはじめ、職業についての講話、公共職業安定所や職業訓練校の見学、職場体験実習、地域体験実習等を実施している。また、身元が判明していない中国残留孤児については、就籍手続の説明・指導を実施している。
(エ) 身元引受人制度
① 制度の概要と変遷
身元未判明孤児は、在日親族がおらず、定着自立の面から、肉親に代わって相談相手となる者が求められた。
そこで、身元未判明孤児の日本社会への早期定着、自立促進を図ることを目的として、昭和60年に身元引受人制度を創設し、身元未判明孤児の身元を引き受けて相談相手となる身元引受人をあらかじめ登録し、身元未判明孤児に対し、定着促進センター入所中に、身元引受人をあっせんすることとした。
また、在日親族の死亡や高齢化等により親族による受入れが困難となっている身元判明孤児や中国残留婦人等の帰国、日本社会への早期定着、自立促進を図るため、帰国手続や帰国後の受入れを伴う特別身元引受人制度を創設し、身元判明孤児について平成元年7月から、中国残留婦人等について平成3年度から実施している。
その後、平成6年1月以降は特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接政府が行うこととし、身元引受人と特別身元引受人の役割等が同様になったことから、平成7年2月以降両制度を一本化した身元引受人制度を実施している。
② 身元引受人の役割等
身元引受人の役割は、中国残留邦人の身元を引き受け、その世帯の身近にあって、一日も早く自立して生活を営めるよう日常生活上の諸問題の相談に応じ、自立に必要な助言・指導を行うことである。
身元引受期間は、中国残留邦人世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされている。
身元引受人の資格は、中国残留邦人世帯及びその肉親の置かれている立場に理解を有し、かつ、社会的人望が厚く、中国残留邦人世帯構成員の日本社会への早期定着自立のための指導に熱意をもって当たることができる者とされており、個人のほか、昭和60年11月以降は企業等法人についても、平成元年度以降はボランティア等任意団体についても身元引受人登録の対象としている。
そして、身元引受人の選定に当たっては、身元引受人希望者から身元引受人希望申請書を居住地の都道府県援護担当課に提出させ、当該都道府県民生主管部局長が必要に応じて身元引受人希望者と面接し、市区町村長等の意見を聴取するなどの調査を行い、身元引受人となるにふさわしい者を各都道府県知事から、厚生省援護局長に推薦することとし(厚生省援護局長通知「本邦に永住帰国する身元未判明の中国残留日本人孤児に対する身元引受人制度の実施について」(昭和60年3月29日付け援発第207号))、さらに、平成元年度以降は、身元引受人を対象とした身元引受人会議を毎年開催し、新たな行政知識の付与及び資質の向上を図っている。
また、身元引受人の数については、日中国交正常化後、最も身元引受人があっせんされた平成8年においても、身元引受人をあっせんされた者264人に対し、身元引受人として2102人の登録者がおり、量的な確保は図られていた。なお、平成14年においても、身元引受人をあっせんされた者29人に対し、身元引受人として1,670人の者が登録されている。
(オ) 定着地のあっせん
中国帰国者については、帰国後の定着地のあっせんを行っている。
中国残留邦人のうち、身元が判明している者(身元判明孤児)や自己の身元を知っている者(中国残留婦人等)については、事前に本人の希望を聞き、公営住宅の空き状況等を勘案し、関係都道府県との調整を行いながら、可能な限り本人の希望に沿った定着先をあっせんしている。
また、身元未判明孤児については、身元引受人の近隣に定住させることとなるため、身元引受人のあっせんの際には本人の定住希望地も考慮し、可能な限り本人の希望に沿った定着地をあっせんしている。
なお、被告は、残留孤児が帰国を希望する場合、残留孤児から事前に居住地の希望を聞いて居住予定地の決定を経た上で、当該居住予定地に登録のある身元引受人との面談を行い、本人の了解を得た上で身元引受人をあっせんし、昭和61年以降は、本人の希望に応じて、定住地訪問も行った上で、本人の承諾を得ており、このように被告としては、孤児の定住地を決定する際に、できるだけ本人の希望を尊重して定住地を選定しており、身元引受人制度のために原告ら残留孤児の居住地が制限されたということはない。
イ 定着自立援護について(日中国交正常化以後)
言語、生活様式、生活習慣等多くの面で日本とは異なる中国で幼い頃から生活し、生活の基盤がない日本に帰国した中国残留邦人に対しては、同伴帰国者とともに、日本における定着自立を支援するため、中国帰国者自立研修センターや中国帰国者支援・交流センターにおける日本語教育・就労支援等各種支援、自立指導員等の派遣等を行うとともに、住居、就労、教育、年金等様々な面において、各種施策を実施している。
(ア) 自立研修センター
① 概要と変遷
定着促進センター修了後の中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため、昭和63年度以降、中国帰国者自立研修センター(自立研修センター)を全国各地に設置し、中国帰国者に対し、一定期間の通所形式による日本語研修、生活相談・指導、就労相談・指導等を行っている。
設置都道府県は、昭和63年度は山形県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、長野県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、広島県、高知県、福岡県、長崎県及び鹿児島県の15か所であったが、帰国者数の増加が見込まれたため、平成7年度には、新たに、北海道、岩手県、福島県、東京都武蔵野市及び静岡県の5か所を増設した。その後、帰国者数の減少に伴い、平成11年に1か所(高知県)、平成12年に3か所(長崎県、静岡県、兵庫県)、平成13年に1か所(岩手県)、平成14年に3か所(東京武蔵野市、福島県、鹿児島県)を閉所し、現在12か所が運営されている。
② 自立研修センターにおける援護の内容
自立研修センターでは、中国帰国者を対象として、原則8か月程度(ただし、病気等やむを得ない事情がある場合には、4か月の延長可。また、日本語の再研修については2年以内)の期間、通所形式により、日本語研修、地域の実情を踏まえた生活相談・指導、就労相談員による就労相談・指導、大学進学準備過程、地域住民との交流事業等を行っている。
a 日本語研修
入所時の日本語習得の状況に応じて、2ないし4教室にクラス分けを行い、1日2.5時間、1週12.5時間を基準として、8か月412時間のカリキュラムを組み、日本語研修を実施している。
また、平成8年度以降、帰国後5年以内の者で、日本語の習得が不十分である者、又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に、自立研修センター退所後、1週7時間を基準として、2年以内の日本語の再研修を実施しており、これらの研修は、就労する通所者の利便も勘案し、平日昼間のみでなく、一部平日夜間や土・日曜日についても実施している。
b 生活相談・指導
中国帰国者の地域社会での生活において生じた諸問題について、通所者からの相談に応じ、必要な指導を行っている。
c 就労相談・指導
(a) 就労相談員の配置
中国帰国者の就労を促進するため、専門的な知識を有する就労相談員を配置し、通所者の就労に関する相談に応じ、帰国者の個々の実情を踏まえて就労へ向けた計画的な指導を行っている。
具体的には、中国帰国者に対し、日本の労働事情及び雇用慣行並びに地域固有の職業事情についての説明を行うとともに、日ごろから中国帰国者と十分に接して適性を見極め、個々の事情にあった職業を選択し、指導している。また、公共職業安定所、公共職業訓練施設、企業等への集団見学を行うとともに、就労指導のために、公共職業安定所や企業等へ個別に引率することも行っている。さらに、地域の企業等の雇用主等に対し帰国者の置かれている状況について説明し、職場開拓を行うことにも努めている。
(b) 就労安定化事業
中国帰国者の早期離職を防止し、安定した就労を促すことを目的として、平成4年度以降、自立研修センター通所中あるいは修了後1年以内に就労した中国帰国者を対象に、就労相談員が一定期間、定期的に中国帰国者の職場を訪問して、事業主に中国帰国者の職業意識・慣習等を説明し、認識を深めてもらうとともに、中国帰国者の勤務状況を把握し、指導を行うことにより、中国帰国者と事業主との相互の調整を行う就労安定化事業を実施している。
(c) 就職促進のオリエンテーション事業
中国帰国者で就労していない者に対し、日本における就労の意義や実態を紹介し、理解してもらうことにより、就労意欲の向上を図ることを目的として、平成9年度以降、日本の雇用システム、職業能力の習得方法、職業選択の実態や中国との相違点などに関する講演、既に職業能力開発校を卒業し就労している帰国者による体験発表等の交流会、職業能力開発校等の見学等を行う就職促進オリエンテーション事業を実施している。
d 大学進学準備課程
日本と中国との学制の相違により、日本の大学の入学に必要な12年の就学年限を満たしていない中国帰国者については、定着促進センターにおける4か月の研修及び自立研修センターにおける8か月の研修を修了することで、大学入学に必要な12年の就学年限を満たすものとされている。
このため、全国10か所の自立研修センター(千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県(平成12年閉所)、広島県、福岡県)に専任講師を配置し、該当する通所者に対し、英語、数学、理科及び社会の一般科目について、210時限(1時限50分)の講義を行っている。なお、自立研修センターの通所期間は原則8か月であり、病気等やむを得ない事情がある場合には、4か月の延長を可能としているが、一般科目の受講者でこれを修了することができない者については、更に4か月の延長を可能としている。
e 地域住民との交流
中国帰国者と地域住民との交流を図るため、関係機関と連携をとり、盆踊り、餃子作り、花見、社会見学等地域住民が気軽に参加できる行事を企画・実施するとともに、地域の諸行事への通所者の積極的な参加を図るほか、中国帰国者に対する地域住民の理解を深めるための啓発広報活動を行っている。
f その他
このほか、就籍の相談、子女の就学についての情報の提供等、中国帰国者の定着自立の促進に資する事業を実施している。
(イ) 自立指導員制度
① 概要
長期にわたり海外で生活してきたため、言葉、生活習慣等の相違から、定着先の地域社会で定着し自立していく上で種々の困難に遭遇している中国帰国者の状況にかんがみ、昭和52年度以降、定着自立に必要な助言、指導等を行う引揚者生活指導員(昭和62年度からは「自立指導員」に名称を変更)を支援を必要とする中国帰国者の家庭へ派遣している。
自立指導員の役割や派遣期間、派遣日数等については、中国帰国者の状況に合わせ、制度創設以降、適宜拡大してきており、制度創設当初は帰国後1年間のうちで24日とされていたが、派遣期間は昭和62年度に定着後2年間、昭和63年度に定着後3年間と拡大され、また、派遣回数も適宜拡大された。平成15年度現在、自立指導員の派遣期間、日数は、定着後3年間、1年目については84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内)、2年目については12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内)、3年目については12日以内とされている。
② 自立指導員の役割
自立指導員は、中国語が理解でき、中国帰国者に深い関心と理解を持ち、日本社会への定着・自立に向けて積極的に協力できる民間の篤志家の中から選任している。
自立指導員の業務内容は、① 中国帰国者の日常生活等における諸問題に関する相談に応じ、必要な助言・指導を行うこと、② 市区町村、福祉事務所等の公的機関と緊密な連絡を保ち、必要に応じて帰国者等をこれらの窓口に同行して仲介すること、③ 中国帰国者に対する日本語の指導、日本語教室等、日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと(昭和61年度以降)、④ 職業訓練施設で受講している中国帰国者の相談に応じ、必要な助言・指導を行うとともに、円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう、援護措置を講じ、もって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮することである。
(ウ) 支援・交流センター
① 概要
中国残留邦人やその家族の地域社会における定着・自立を中長期的、継続的に支援していくため、平成13年11月、東京都及び大阪府の2か所に、中国帰国者支援・交流センター(支援・交流センター)を開設した。
支援・交流センターにおいては、自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として、地方公共団体との連携の下、民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら、日本語学習支援、相談事業、中国帰国者相互及び地域住民との交流事業、ボランティアの活動情報の収集と提供、中国残留邦人問題の普及啓発事業等を行っている。
② 支援・交流センターにおける援護の内容
a 日本語学習支援
高齢者や中国残留邦人の子・孫の増加等により多様化した中国帰国者の様々なニーズに対応するため、進度別、目的別の日本語学習コースを開講し、中国残留邦人とその家族に対する通所形式による日本語教育を行っている。
また、いつでもどこでも日本語が学べるよう遠隔学習(通信教育)も実施しており、遠隔学習の場合は、補完授業として、各都道府県の協力の下、スクーリング(月1回対面の方式による学習の機会の付与)を実施している。
b 相談事業等
相談窓口を開設し、対面による相談に応じるほか、電話や手紙、Eメールにより、全国各地の中国帰国者の多種多様な内容の相談に対し、専門機関、行政機関等と連携しつつ対応している。
また、高齢帰国者の引きこもり防止対策として、平成15年度から、日本語会話が不自由な高齢単身者等に対して、支援・交流センターから中国語で電話連絡を行う友愛電話事業を実施するとともに、必要に応じてボランティア等が対象者宅を訪問する友愛訪問事業を実施している。
c 交流事業等
高齢者を対象とした常設サロンを提供するため談話室を設置し、また、日本語学習で利用する教室を中国帰国者・ボランティア団体・サークル等の利用に供することにより、中国帰国者同士や中国帰国者と地域住民、ボランティアとの交流・コミュニケーションの場を提供している。
また、ボランティアの活動情報等各種情報を収集するとともに、ホームページを開設し、ボランティア団体や帰国者が現に参加しているサークル等の情報提供を行うほか、情報誌を発行し、中国帰国者が必要な生活情報の提供を行っている。
さらに、各地域の支援者やボランティア等を対象に研修会「まなびや」を開催し、交流の場を提供するとともに、中国帰国者支援に必要な情報提供等を行い、支援者の拡大、育成を図っている。
d 普及啓発事業
中国残留邦人問題について、広く国民の関心を促し、その理解を得るため、資料収集検討会を設置し、中国残留邦人に係る各種資料の収集・提供のための方策等について、検討を行っている。
(エ) その他の支援
① 自立支援通訳制度
日本語の会話が不自由な中国帰国者について、医療機関における適切な受診を確保するとともに、関係行政機関等での助言、指導及び援助を受けやすくするため、平成元年度以降、定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)3年以内の者に対して、一定の派遣要件の下、日中両国の通訳の能力を有し、中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳の派遣を行っている。
自立支援通訳の派遣が認められるのは、① 巡回健康相談事業により、健康相談医の助言、指導を受ける場合、② 医療機関で受診する場合、③ 福祉事務所等の関係行政機関から助言、指導又は援助を受ける場合、④ 小中学校、高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について、又は中学校に通学する子等の進路について相談する場合、⑤ 介護保険制度による要介護認定の申請、介護サービス計画の利用及び介護サービスの利用を行う場合(平成14年度以降)等で、都道府県が派遣を必要と認める場合である。なお、②及び⑤の場合においては、平成15年度以降定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)4年目の帰国者も対象者としている。
② 巡回健康相談事業
日本と中国では、医療事情や食生活等に違いがあることから、中国残留邦人に対して医療・保健衛生面における生活指導を行うことを目的として、平成元年度以降、定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯に対し、都道府県知事が選任した医師(健康相談医)を派遣し、健康相談を実施するとともに、必要な助言・指導を行っている。
③ 就籍に関する支援
身元未判明孤児は、戸籍が特定できず、本籍も不明であるため、家庭裁判所に就籍の申立てを行い、就籍の許可を得ることで、初めて日本において本籍及び戸籍を得ることとなる。
就籍手続を容易にするため、家庭裁判所からの要請に対して適宜調査資料等を提供するとともに、平成7年度以降、印紙代、通信費、交通費、中国から持ち帰った資料の翻訳や弁護士への委任のための費用等、就籍手続に要する経費について、援助を行っている。なお、それまでの間も、昭和61年から財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け審判費用を負担し、孤児本人に経済的負担が及ばないよう措置しており、その補助金申請に際しては、確実に交付されるよう厚生省が副申している(厚生省社会・援護局長通知「財団法人法律扶助協会の事業に対する協力依頼について」(平成4年10月23日付け社援発第199号)等)。
④ 住居に関する支援
公営住宅法に基づき財政措置を講じて、公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給しており、中国残留邦人もその施策対象者とするとともに、入居者選考及び決定において優先的な取扱いを講じている。
平成7年度以降、中国帰国者が、帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する場合において、公営住宅優先入居の募集選考時期、地域要件又は当該住宅に空きがない等のため、やむを得ず民間住宅に入居する場合、当該中国帰国者に対し、礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給している。
⑤ 就労に関する支援
永住帰国者に対し、昭和57年度から職業転換金給付制度(訓練手当、広域求職活動費、移転費、職場適応訓練費)を適用するとともに、昭和59年度から特定求職者雇用開発助成金を適用して、その雇用の促進を図っている。また、昭和62年度からは、定着促進センター等に設置した職業相談員による職業相談等の業務を実施するなど援助の充実を図っている。
⑥ 教育に関する支援
a 日本語教育に関する支援
昭和52年度以降、中国残留邦人に対し、日本語習得のための語学教材として、カセットレコーダー、カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給してきた。
また、昭和59年度以降、日本語教師用の指導参考資料の開発・作成を実施している。
b 子の教育に関する支援
就学の円滑化や教育の充実のため、① 各教育委員会や学校に対し、受入手続や配慮事項等についての周知・指導、② 中国等帰国子女日本語指導教材の作成・配布、③ 中国等帰国子女教育研究協力校の指定等の施策を行ってきている。
さらに、中国等帰国児童生徒を含む日本語指導を必要とする児童生徒が速やかに我が国の学校に適応できるよう、① 日本語指導等に対応した教員の加配、② 母語の分かる教育相談員の派遣、③ 担当教員等の研修会の開催、④ 日本語指導教材及び指導資料の作成・配布、⑤ 日本語指導と教科指導を統合した学校教育におけるJSLカリキュラムの開発等受入体制強化のための諸施策を実施している。
⑦ 国民年金に関する支援
中国残留邦人等は、帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く、受給額が低額か又は受給できない事態が生じていたことから、平成8年に特例措置を講じた。
すなわち、国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国するまでの期間(20歳以上60歳未満に限る。)は保険料免除期間とみなされ、この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映される。
また、保険料免除期間とみなされた期間については保険料の追納ができ、追納した場合は、この期間について全額が年金額に反映される(通常は、直近の10年分の保険料についてのみ追納が認められるが、中国残留邦人等の場合は昭和36年4月1日から永住帰国するまでの期間追納が可能である。)。
なお、保険料を追納する場合は、生活福祉資金の貸付制度を利用でき、その場合、償還期限が特別長期となるほか、生活保護受給者については、貸付金を収入認定から除外し、この償還に充てる費用も世帯収入から控除している。
⑧ 一時帰国援護
中国残留婦人等を中心として、日本への一時帰国を希望する者が存在する状況を踏まえ、昭和48年度以降、親族訪問、墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者に対し、中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給している。
一時帰国旅費の援護は、当初一度限りの支給を想定していたが、昭和62年度以降随時その要件を改正し、平成7年度以降は前回帰国から1年経過すれば受給できることとしている。
なお、身元未判明孤児については、在日親族が明らかでないため、親族訪問、墓参等を目的とすることはできないが、祖国訪問との位置付けにより、平成6年度以降、一時帰国旅費の援護を実施している。
⑨ 養父母の扶養費の支給
永住帰国する中国残留孤児の中国に残された養父母の扶養については、本来孤児本人の問題であるが、現実に永住帰国した孤児が中国に残る家族を扶養することは極めて困難であることにかんがみ、「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」(昭和58年4月閣議了解)等に基づき、中国残留孤児の養父母の扶養費として、中国側と取り決めた一定金額を、国民の浄財により設立された財団法人中国残留孤児援護基金(以下「援護基金」という。)と2分の1ずつの負担により、支払っている。
⑩ 中国帰国者生活実態調査の実施
中国帰国者世帯の定着地における生活の実態を把握し、今後の自立促進対策の充実を図るための基礎資料とするため、昭和59年以降、不定期的に中国帰国者の帰国後の生活状態実態調査を実施している。
⑪ 中国残留邦人問題の普及啓発
帰国者の経済面、精神面両面における自立の達成のためには、定着先における地域住民の中国残留邦人問題に対する認識が不可欠であることから、政府としては、自立研修センターや支援・交流センターを拠点として中国残留邦人問題の普及啓発を図っている。また、平成7年以降、厚生省及び援護基金の主催により、「中国残留邦人問題への理解を深める中央大会」を3回開催し、広く国民に対して中国残留邦人問題について普及啓発を行った。
(4) まとめ
以上のとおり、原告らの主張する自立支援義務は、法的根拠を欠いているのであるが、仮に被告に同義務が認められると仮定しても、被告は、帰国した中国残留邦人の生活の自立を援助するために、可能な範囲で十分な施策を講じていたものであるから、自立支援義務違反の事実もない。
第3 原告らの損害額(争点(3))について
原告らの主張は争う。
第4 原告らの本件請求権の除斥期間(民法724条後段)の適用の有無(争点(4))について
1 民法724条後段にいう「不法行為ノ時」とは、原則として、損害発生の原因となる加害行為が行われた時と解すべきである。すなわち、不法行為により発生する損害の性質上、加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生する通常の場合には、加害行為の時を除斥期間の起算点とするものと解される。
そして、原告らの本件請求の実態は、被告が(違法な)国家政策により原告らに被害を発生させたとして、その賠償を求めるものであり、当該不法行為により発生する損害の性質上、加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生する場合に当たるから、除斥期間の起算点は、損害発生の原因となる加害行為が行われた時(損害の全部又は一部が発生した時)である。
2 原告らの本訴請求は、その主張する加害行為(被告の戦前の違法な国家政策が実施された時)から50年以上が経過した後にされたものであり、その主張する損害の全部又は一部が発生した時(終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず、長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になった時)からでも、同様に50年以上が経過している。すなわち、原告らの被告に対する損害賠償請求権が仮に発生したとしても既に消滅しているから、原告らの請求は失当というべきである。

別紙
請求一覧表〈省略〉
原告ら個別被害事実〈省略〉
別表  1、2〈省略〉
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政治と選挙の裁判例「公認 候補者 公募 ポスター 国政政党 地域政党」に関する裁判例一覧
(1)平成19年 7月12日 東京地裁 平17(行ウ)63号・平17(行ウ)295号・平17(行ウ)296号 退去強制令書発付処分取消等請求事件
(2)平成19年 7月 3日 東京地裁 平17(行ウ)530号・平17(行ウ)531号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分無効確認請求事件
(3)平成19年 6月21日 東京地裁 平16(ワ)10840号 損害賠償等請求事件
(4)平成19年 6月14日 宇都宮地裁 平15(ワ)407号 損害賠償請求事件
(5)平成19年 6月13日 最高裁大法廷 平18(行ツ)176号 選挙無効請求事件 〔衆院選定数訴訟・上告審〕
(6)平成19年 6月13日 最高裁大法廷 平18(行ツ)175号 選挙無効請求事件 〔衆院選定数訴訟〕
(7)平成19年 6月 8日 東京地裁 平18(行ウ)14号 難民の認定をしない処分取消請求事件
(8)平成19年 5月30日 東京地裁 平19(ワ)4768号 損害賠償請求事件
(9)平成19年 5月30日 東京地裁 平17(行ウ)55号・平17(行ウ)132号・平17(行ウ)133号・平17(行ウ)134号 各難民の認定をしない処分取消請求事件
(10)平成19年 5月25日 東京地裁 平17(行ウ)337号・平17(行ウ)338号・平17(行ウ)339号・平17(行ウ)340号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分取消等請求事件
(11)平成19年 5月25日 青森地裁 平17(行ウ)7号 政務調査費返還代位請求事件
(12)平成19年 5月10日 東京高裁 平18(う)2029号 政治資金規正法違反被告事件 〔いわゆる1億円ヤミ献金事件・控訴審〕
(13)平成19年 5月 9日 東京地裁 平18(行ウ)290号 損害賠償等(住民訴訟)請求事件
(14)平成19年 4月27日 東京地裁 平17(行ウ)439号・平18(行ウ)495号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(15)平成19年 4月27日 東京地裁 平14(行ウ)390号・平17(行ウ)328号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分取消請求事件
(16)平成19年 4月27日 東京地裁 平14(ワ)28215号 損害賠償請求事件
(17)平成19年 4月27日 仙台地裁 平15(行ウ)8号 政務調査費返還代位請求事件
(18)平成19年 4月26日 東京地裁 平17(行ウ)60号 退去強制令書発付処分無効確認等請求事件
(19)平成19年 4月20日 東京地裁 平15(ワ)29718号・平16(ワ)13573号 損害賠償等請求事件
(20)平成19年 4月13日 東京地裁 平17(行ウ)223号・平18(行ウ)40号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(21)平成19年 4月13日 東京地裁 平17(行ウ)329号 退去強制令書発付処分取消等請求事件
(22)平成19年 4月12日 東京地裁 平17(行ウ)166号 退去強制令書発付処分無効確認等請求事件
(23)平成19年 4月11日 東京地裁 平17(ワ)11486号 地位確認等請求事件
(24)平成19年 3月29日 仙台高裁 平18(行コ)25号 違法公金支出による損害賠償請求履行請求住民訴訟控訴事件
(25)平成19年 3月28日 東京地裁 平17(行ウ)523号・平17(行ウ)534号・平17(行ウ)535号 難民の認定をしない処分取消請求事件
(26)平成19年 3月28日 東京地裁 平17(行ウ)424号・平17(行ウ)425号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分無効確認請求事件
(27)平成19年 3月27日 岡山地裁 平11(ワ)101号・平13(ワ)257号・平13(ワ)1119号・平13(ワ)1439号・平14(ワ)1177号・平14(ワ)1178号 退職慰労金請求事件、貸金請求事件、損害賠償請求事件、所有権移転登記抹消登記手続等請求事件 〔岡山市民信金訴訟・第一審〕
(28)平成19年 3月23日 東京地裁 平17(行ウ)474号・平17(行ウ)525号・平18(行ウ)118号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分取消等請求事件、訴えの追加的併合申立事件
(29)平成19年 3月23日 東京地裁 平16(行ウ)462号・平17(行ウ)344号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(30)平成19年 3月16日 東京地裁 平17(行ウ)380号・平17(行ウ)381号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分取消等請求事件
(31)平成19年 3月 6日 東京地裁 平17(行ウ)111号・平17(行ウ)113号 難民の認定をしない処分取消請求事件、退去強制令書発付処分無効確認請求事件
(32)平成19年 2月28日 東京地裁 平16(行ウ)174号・平17(行ウ)162号 退去強制令書発付処分無効確認等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(33)平成19年 2月26日 熊本地裁 平17(わ)55号・平17(わ)113号 贈賄被告事件
(34)平成19年 2月22日 東京地裁 平16(行ウ)479号・平16(行ウ)480号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(35)平成19年 2月21日 東京地裁 平17(行ウ)375号・平17(行ウ)376号 退去強制令書発付処分取消請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(36)平成19年 2月 9日 東京地裁 平17(行ウ)154号・平17(行ウ)155号・平17(行ウ)479号・平17(行ウ)480号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、退去強制令書発付処分取消請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(37)平成19年 2月 8日 東京地裁 平17(行ウ)22号 退去強制令書発付処分取消等請求事件
(38)平成19年 2月 7日 大阪地裁 平17(わ)7238号・平17(わ)7539号 弁護士法違反、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反被告事件
(39)平成19年 1月31日 東京地裁 平16(行ウ)323号・平17(行ウ)469号 退去強制令書発付処分取消等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(40)平成19年 1月31日 東京地裁 平16(行ウ)396号・平16(行ウ)399号 退去強制令書発付処分無効確認等請求事件、難民の認定をしない処分取消請求事件
(41)昭和27年 4月 4日 佐賀地裁 昭25(行)1号 休職退職取消並びに損害賠償請求事件
(42)昭和27年 1月14日 福岡高裁 昭26(ナ)9号 裁決取消ならびに当選有効確認事件
(43)昭和26年12月25日 福岡高裁 昭26(う)2846号 団体等規正令違反事件
(44)昭和26年12月 3日 大阪高裁 昭26(う)1094号 昭和二五年政令第三二五号違反被告事件
(45)昭和26年11月30日 福岡高裁 昭26(ナ)4号 当選の無効に関する異議申立に対する決定取消請求事件
(46)昭和26年11月20日 名古屋高裁 昭26(ナ)12号 町長選挙に関する選挙無効事件
(47)昭和26年11月 1日 名古屋地裁 昭24(ワ)561号 解雇無効確認請求事件 〔名古屋市職員免職事件〕
(48)昭和26年10月24日 広島高裁松江支部 昭26(う)54号 収賄被告事件
(49)昭和26年10月19日 福岡高裁 昭26(う)2437号 公職選挙法違反被告事件
(50)昭和26年 9月29日 名古屋地裁 昭24(ワ)561号 組合員除名無効確認請求事件 〔名古屋交通組合除名事件〕
(51)昭和26年 9月26日 札幌高裁 昭26(う)365号・昭26(う)366号・昭26(う)367号 国家公務員法違反被告事件
(52)昭和26年 9月 3日 札幌高裁 昭26(う)507号 昭和二五年政令第三二五号違反被告事件
(53)昭和26年 8月24日 高松高裁 昭24(控)1374号・昭24(控)1375号・昭24(控)1376号・昭24(控)1377号・昭24(控)1378号 衆議院議員選挙法違反・虚偽有印公文書作成・同行使等被告事件
(54)昭和26年 8月 7日 札幌高裁 昭26(う)475号 昭和二一年勅令第三一一号違反被告事件
(55)昭和26年 7月 7日 東京地裁 昭25(モ)2716号 仮処分異議申立事件 〔池貝鉄工整理解雇事件〕
(56)昭和26年 6月15日 名古屋高裁 昭26(う)529号 公職選挙法違反事件
(57)昭和26年 5月26日 大阪地裁 昭25(ワ)1824号 解雇無効確認請求事件 〔大阪陶業不当解雇事件〕
(58)昭和26年 5月 9日 広島高裁 昭25(ナ)2号 当選の効力に関する訴訟事件
(59)昭和26年 3月30日 東京高裁 昭25(う)4120号 電車顛覆致死偽証各被告事件 〔三鷹事件・控訴審〕
(60)昭和26年 3月28日 札幌高裁 昭25(う)692号 地方税法違反被告事件
(61)平成18年 6月29日 東京地裁 平16(特わ)973号 国家公務員法違反事件 〔国家公務員赤旗配付事件〕
(62)平成18年 6月20日 京都地裁 平16(行ウ)40号 地労委任命処分取消等請求事件
(63)平成18年 6月13日 東京地裁 平15(行ウ)416号・平16(行ウ)289号 難民の認定をしない処分取消等請求、退去強制令書発付処分取消等請求事件
(64)平成18年 5月15日 東京地裁 平17(ワ)1922号 慰謝料等請求事件
(65)平成18年 4月21日 東京地裁 平16(ワ)7187号 謝罪広告等請求事件
(66)平成18年 3月31日 大阪高裁 平17(行コ)22号・平17(行コ)23号 同和奨学金賠償命令履行請求各控訴事件
(67)平成18年 3月30日 東京地裁 平16(特わ)5359号 政治資金規正法違反被告事件 〔いわゆる1億円ヤミ献金事件・第一審〕
(68)平成18年 3月30日 京都地裁 平17(ワ)1776号・平17(ワ)3127号 地位不存在確認請求事件
(69)平成18年 3月29日 東京地裁 平17(行ウ)157号・平17(行ウ)184号・平17(行ウ)185号・平17(行ウ)186号・平17(行ウ)187号・平17(行ウ)188号・平17(行ウ)189号・平17(行ウ)190号・平17(行ウ)191号 国籍確認請求事件 〔国籍法三条一項違憲訴訟・第一審〕
(70)平成18年 3月28日 東京高裁 平17(行ケ)157号・平17(行ケ)158号・平17(行ケ)159号・平17(行ケ)160号・平17(行ケ)161号・平17(行ケ)162号・平17(行ケ)163号 選挙無効請求事件
(71)平成18年 3月23日 名古屋地裁 平16(行ウ)73号・平16(行ウ)76号 退去強制令書発付処分取消請求、難民不認定処分等無効確認請求事件
(72)平成18年 2月28日 東京地裁 平13(行ウ)150号 行政文書不開示処分取消請求事件 〔外務省機密費訴訟〕
(73)平成18年 2月28日 横浜地裁 平16(行ウ)1号 不当労働行為救済命令取消請求事件 〔神奈川県労委(東芝・配転)事件・第一審〕
(74)平成18年 2月 2日 福岡高裁 平17(行コ)12号 固定資産税等の免除措置無効確認等請求控訴事件
(75)平成18年 1月19日 最高裁第一小法廷 平15(行ヒ)299号 違法公金支出返還請求事件
(76)平成18年 1月12日 大分地裁 平15(わ)188号 公職選挙法違反被告事件
(77)平成18年 1月11日 名古屋高裁金沢支部 平15(ネ)63号 熊谷組株主代表訴訟控訴事件 〔熊谷組政治献金事件・控訴審〕
(78)平成17年12月26日 東京地裁 平17(行ウ)11号 不当労働行為救済命令取消請求事件 〔JR西(岡山)組合脱退慫慂事件〕
(79)平成17年12月 1日 東京高裁 平16(行コ)347号 難民の認定をしない処分取消請求控訴事件
(80)平成17年11月15日 東京地裁 平16(ワ)23544号 損害賠償請求事件
(81)平成17年11月10日 最高裁第一小法廷 平17(行フ)2号 文書提出命令申立却下決定に対する抗告棄却決定に対する許可抗告事件 〔政務調査費調査研究報告書文書提出命令事件〕
(82)平成17年10月25日 東京地裁 平16(ワ)14421号 損害賠償請求事件
(83)平成17年 9月15日 東京高裁 平17(ネ)707号 謝罪放送等請求事件
(84)平成17年 9月14日 大阪地裁 平15(行ウ)55号・平15(行ウ)56号・平15(行ウ)57号 所得税賦課決定処分取消請求事件
(85)平成17年 9月 8日 名古屋地裁 平16(行ウ)46号 難民不認定処分取消請求事件
(86)平成17年 8月31日 名古屋地裁 平16(行ウ)48号・平16(行ウ)49号・平16(行ウ)50号 裁決取消等請求各事件
(87)平成17年 8月25日 京都地裁 平16(行ウ)12号 損害賠償請求事件
(88)平成17年 7月 6日 大阪地裁 平15(ワ)13831号 損害賠償請求事件 〔中国残留孤児国賠訴訟〕
(89)平成17年 6月15日 大阪高裁 平16(行コ)89号 難民不認定処分取消、退去強制命令書発付取消等各請求控訴事件
(90)平成17年 5月31日 東京地裁 平16(刑わ)1835号・平16(刑わ)2219号・平16(刑わ)3329号・平16(特わ)5239号 贈賄、業務上横領、政治資金規正法違反被告事件 〔日本歯科医師会事件〕
(91)平成17年 5月30日 名古屋地裁 平15(行ウ)63号 政務調査費返還請求事件
(92)平成17年 5月26日 名古屋地裁 平16(行ウ)40号 岡崎市議会政務調査費返還請求事件
(93)平成17年 5月24日 岡山地裁 平8(行ウ)23号 損害賠償等請求事件
(94)平成17年 5月19日 東京地裁 平12(行ウ)319号・平12(行ウ)327号・平12(行ウ)315号・平12(行ウ)313号・平12(行ウ)317号・平12(行ウ)323号・平12(行ウ)321号・平12(行ウ)325号・平12(行ウ)329号・平12(行ウ)311号 固定資産税賦課徴収懈怠違法確認請求、損害賠償(住民訴訟)請求事件
(95)平成17年 5月18日 東京高裁 平16(行ケ)356号 選挙無効請求事件
(96)平成17年 4月27日 仙台高裁 平17(行ケ)1号 当選無効及び立候補禁止請求事件
(97)平成17年 4月21日 熊本地裁 平16(行ウ)1号 固定資産税等の免除措置無効確認等請求事件
(98)平成17年 4月13日 東京地裁 平15(行ウ)110号 退去強制令書発付処分取消等請求事件 〔国籍法違憲訴訟・第一審〕
(99)平成17年 3月25日 東京地裁 平15(行ウ)360号・平16(行ウ)197号 難民の認定をしない処分取消請求、退去強制令書発付処分等取消請求事件
(100)平成17年 3月23日 東京地裁 平14(行ウ)44号・平13(行ウ)401号 退去強制令書発付処分取消等請求事件


政治と選挙の裁判例(裁判例リスト)

■「選挙 コンサルタント」に関する裁判例一覧【1-101】
https://www.senkyo.win/hanrei-senkyo-consultant/

■「選挙 立候補」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-senkyo-rikkouho/

■「政治活動 選挙運動」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seijikatsudou-senkyoundou/

■「公職選挙法 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kousyokusenkyohou-poster/

■「選挙 ビラ チラシ」に関する裁判例一覧【1~49】
https://www.senkyo.win/hanrei-senkyo-bira-chirashi/

■「政務活動費 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seimu-katsudouhi-poster/

■「演説会 告知 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/senkyo-seiji-enzetsukai-kokuchi-poster/

■「公職選挙法 ポスター 掲示交渉」に関する裁判例一覧【101~210】
https://www.senkyo.win/kousyokusenkyohou-negotiate-put-up-poster/

■「政治ポスター貼り 公職選挙法 解釈」に関する裁判例一覧【211~327】
https://www.senkyo.win/political-poster-kousyokusenkyohou-explanation/

■「公職選挙法」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kousyokusenkyohou/

■「選挙 公報 広報 ポスター ビラ」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/senkyo-kouhou-poster-bira/

■「選挙妨害」に関する裁判例一覧【1~90】
https://www.senkyo.win/hanrei-senkyo-bougai-poster/

■「二連(三連)ポスター 政党 公認 候補者」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-2ren-3ren-poster-political-party-official-candidate/

■「個人(単独)ポスター 政党 公認 候補者」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kojin-tandoku-poster-political-party-official-candidate/

■「政党 公認 候補者 公募 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-political-party-official-candidate-koubo-poster/

■「告示(公示)日 公営(公設)掲示板ポスター 政党 議員 政治家」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kokuji-kouji-kouei-kousetsu-keijiban-poster-political-party-politician/

■「告示(公示)日 公営(公設)掲示板ポスター 政党 公報 広報」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kokuji-kouji-kouei-kousetsu-keijiban-poster-political-party-campaign-bulletin-gazette-public-relations/

■「国政政党 地域政党 二連(三連)ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kokusei-seitou-chiiki-seitou-2ren-3ren-poster/

■「国政政党 地域政党 個人(単独)ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kokusei-seitou-chiiki-seitou-kojin-tandoku-poster/

■「公認 候補者 公募 ポスター 国政政党 地域政党」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-official-candidate-koubo-poster-kokusei-seitou-chiiki-seitou/

■「政治団体 公認 候補者 告示(公示)日 公営(公設)掲示板ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-political-organization-official-candidate-kokuji-kouji-kouei-kousetsu-keijiban-poster/

■「政治団体 後援会 選挙事務所 候補者 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-political-organization-kouenkai-senkyo-jimusho-official-candidate-poster/

■「政党 衆議院議員 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-shuugiin-giin-poster/

■「政党 参議院議員 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-sangiin-giin-poster/

■「政党 地方議員 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-chihou-giin-poster/

■「政党 代議士 ポスター」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-daigishi-giin-poster/

■「政党 ポスター貼り ボランティア」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-poster-hari-volunteer/

■「政党 党員 入党 入会 獲得 募集 代行」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seitou-touin-nyuutou-nyuukai-kakutoku-boshuu-daikou/

■「政治団体 党員 入党 入会 獲得 募集 代行」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-seiji-dantai-nyuutou-nyuukai-kakutoku-boshuu-daikou/

■「後援会 入会 募集 獲得 代行」に関する裁判例一覧【1~100】
https://www.senkyo.win/hanrei-kouenkai-nyuukai-boshuu-kakutoku-daikou/


■選挙の種類一覧
選挙①【衆議院議員総選挙】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙②【参議院議員通常選挙】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙③【一般選挙(地方選挙)】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙④【特別選挙(国政選挙|地方選挙)】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)


【資料】政治活動用事前街頭ポスター新規掲示交渉実績一覧【PRドットウィン!】選挙,ポスター,貼り,代行,ポスター貼り,業者,選挙,ポスター,貼り,業者,ポスター,貼り,依頼,タウン,ポスター,ポスター,貼る,許可,ポスター,貼ってもらう,頼み方,ポスター,貼れる場所,ポスター,貼付,街,貼り,ポスター,政治活動ポスター,演説会,告知,選挙ポスター,イラスト,選挙ポスター,画像,明るい選挙ポスター,書き方,明るい選挙ポスター,東京,中学生,選挙ポスター,デザイン


(1)政治活動/選挙運動ポスター貼り ☆祝!勝つ!広報活動・事前街頭(単独/二連)選挙ポスター!
勝つ!選挙広報支援事前ポスター 政治選挙新規掲示ポスター貼付! 1枚から貼る事前選挙ポスター!
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(7)地域密着型ポスターPR広告貼り 地域密着型ポスターPR広告(街頭外壁掲示許可交渉代行)
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【対応可能な業種リスト|名称一覧】地域密着型ポスターPR広告(街頭外壁掲示許可交渉代行)貼り「ガンガン注目される訴求型PRポスターを貼りたい!」街頭外壁掲示ポスター新規掲示プランです。

(8)貼る専門!ポスター新規掲示! ☆貼!勝つ!広報活動・事前街頭(単独/二連)選挙ポスター!
政治活動/選挙運動ポスター貼り 勝つ!選挙広報支援事前ポスター 1枚から貼る事前選挙ポスター!
「政治活動・選挙運動ポスターを貼りたい!」という選挙立候補(予定)者のための、選挙広報支援プロ集団「選挙.WIN!」の事前街頭ポスター新規掲示プランです。

(9)選挙立札看板設置/証票申請代行 絶対ここに設置したい!選挙立札看板(選挙事務所/後援会連絡所)
選挙事務所/後援会連絡所届出代行 公職選挙法の上限/立て札看板設置 1台から可能な選挙立札看板設置
最強の立札看板設置代行/広報(公報)支援/選挙立候補者後援会立札看板/選挙立候補者連絡所立札看板/政治活動用事務所に掲示する立て札・看板/証票申請代行/ガンガン独占設置!


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申し込み お問合せ 日本語 お問合せ 問い合わせ お問合せ 問合せ ギャラクシー お問い合わせ グラクロ お問い合わせ グラブル お問い合わせ ゲームアイテム名 グラブル お問い合わせ どこ グラブル お問い合わせ モバゲー グラブル お問い合わせ 巻き戻し ゲーム お問い合わせ 書き方 ゲームトレード お問い合わせ ゲオ お問い合わせ ザトール お問い合わせ ザレイズ お問い合わせ シャープ お問い合わせ 050 シャープ お問い合わせ 冷蔵庫 シャドバ お問い合わせ ネタ ズーキーパー お問い合わせ ズーム お問い合わせ ずんどう屋 お問い合わせ ゼクシィ お問い合わせ セディナ お問い合わせ ローン ゼノンザード お問い合わせ ゼロファクター お問い合わせ ゼンハイザー お問い合わせ ゼンリー お問い合わせ ゼンリン お問い合わせ ゾゾタウン お問い合わせ 電話番号 ソフトバンク お問い合わせ 157 ソフトバンク お問い合わせ 24時間 ソフトバンク お問い合わせ 無料 ダイソー お問い合わせ ダイソン お問い合わせ ドコモ お問い合わせ 151 ドコモ お問い合わせ 24時間 ドラクエウォーク お問い合わせ 2-7-4 トレクル お問い合わせ 400 トレクル お問い合わせ 502 ニトリ お問い合わせ 0570 ヌビアン お問い合わせ ネスレ お問い合わせ ノエル銀座クリニック お問い合わせ ノートン お問い合わせ ノーリツ お問い合わせ ノジマ お問い合わせ パスワード お問い合わせ バッファロー ルーター お問い合わせ ぴあ お問い合わせ ピカラ お問い合わせ ピクトリンク お問い合わせ ピグパ お問い合わせ ピザハット お問い合わせ ビセラ お問い合わせ ビックカメラ お問い合わせ ビューカード お問い合わせ ペアーズ お問い合わせ ペイペイ お問い合わせ 電話 ポケコロ お問い合わせ ポケットカード お問い合わせ ポケ森 お問い合わせ ポンタカード お問い合わせ マイナビ お問い合わせ 2021 ムーモ お問い合わせ メルカリ お問い合わせ ページ メルカリ お問い合わせ ログインできない モバイルsuica お問い合わせ ヤマト運輸 お問い合わせ 0570 ゆうパック お問い合わせ 見つからない りそな銀行 お問い合わせ 24時間 ルイヴィトン 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