【選挙から学ぶ判例】crps 裁判例 lgbt 裁判例 nda 裁判例 nhk 裁判例 nhk 受信料 裁判例 pl法 裁判例 pta 裁判例 ptsd 裁判例 アメリカ 裁判例 検索 オーバーローン 財産分与 裁判例 クレーマー 裁判例 クレプトマニア 裁判例 サブリース 裁判例 ストーカー 裁判例 セクシャルハラスメント 裁判例 せクハラ 裁判例 タイムカード 裁判例 タイムスタンプ 裁判例 ドライブレコーダー 裁判例 ノンオペレーションチャージ 裁判例 ハーグ条約 裁判例 バイトテロ 裁判例 パタハラ 裁判例 パブリシティ権 裁判例 ハラスメント 裁判例 パワーハラスメント 裁判例 パワハラ 裁判例 ファクタリング 裁判例 プライバシー 裁判例 プライバシーの侵害 裁判例 プライバシー権 裁判例 ブラックバイト 裁判例 ベネッセ 裁判例 ベルシステム24 裁判例 マタニティハラスメント 裁判例 マタハラ 裁判例 マンション 騒音 裁判例 メンタルヘルス 裁判例 モラハラ 裁判例 モラルハラスメント 裁判例 リストラ 裁判例 リツイート 名誉毀損 裁判例 リフォーム 裁判例 遺言 解釈 裁判例 遺言 裁判例 遺言書 裁判例 遺言能力 裁判例 引き抜き 裁判例 営業秘密 裁判例 応召義務 裁判例 応用美術 裁判例 横浜地裁 裁判例 過失割合 裁判例 過労死 裁判例 介護事故 裁判例 会社法 裁判例 解雇 裁判例 外国人労働者 裁判例 学校 裁判例 学校教育法施行規則第48条 裁判例 学校事故 裁判例 環境権 裁判例 管理監督者 裁判例 器物損壊 裁判例 基本的人権 裁判例 寄与分 裁判例 偽装請負 裁判例 逆パワハラ 裁判例 休業損害 裁判例 休憩時間 裁判例 競業避止義務 裁判例 教育を受ける権利 裁判例 脅迫 裁判例 業務上横領 裁判例 近隣トラブル 裁判例 契約締結上の過失 裁判例 原状回復 裁判例 固定残業代 裁判例 雇い止め 裁判例 雇止め 裁判例 交通事故 過失割合 裁判例 交通事故 裁判例 交通事故 裁判例 検索 公共の福祉 裁判例 公序良俗違反 裁判例 公図 裁判例 厚生労働省 パワハラ 裁判例 行政訴訟 裁判例 行政法 裁判例 降格 裁判例 合併 裁判例 婚約破棄 裁判例 裁判員制度 裁判例 裁判所 知的財産 裁判例 裁判例 データ 裁判例 データベース 裁判例 データベース 無料 裁判例 とは 裁判例 とは 判例 裁判例 ニュース 裁判例 レポート 裁判例 安全配慮義務 裁判例 意味 裁判例 引用 裁判例 引用の仕方 裁判例 引用方法 裁判例 英語 裁判例 英語で 裁判例 英訳 裁判例 閲覧 裁判例 学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例 共有物分割 裁判例 刑事事件 裁判例 刑法 裁判例 憲法 裁判例 検査 裁判例 検索 裁判例 検索方法 裁判例 公開 裁判例 公知の事実 裁判例 広島 裁判例 国際私法 裁判例 最高裁 裁判例 最高裁判所 裁判例 最新 裁判例 裁判所 裁判例 雑誌 裁判例 事件番号 裁判例 射程 裁判例 書き方 裁判例 書籍 裁判例 商標 裁判例 消費税 裁判例 証拠説明書 裁判例 証拠提出 裁判例 情報 裁判例 全文 裁判例 速報 裁判例 探し方 裁判例 知財 裁判例 調べ方 裁判例 調査 裁判例 定義 裁判例 東京地裁 裁判例 同一労働同一賃金 裁判例 特許 裁判例 読み方 裁判例 入手方法 裁判例 判決 違い 裁判例 判決文 裁判例 判例 裁判例 判例 違い 裁判例 百選 裁判例 表記 裁判例 別紙 裁判例 本 裁判例 面白い 裁判例 労働 裁判例・学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例・審判例からみた 特別受益・寄与分 裁判例からみる消費税法 裁判例とは 裁量労働制 裁判例 財産分与 裁判例 産業医 裁判例 残業代未払い 裁判例 試用期間 解雇 裁判例 持ち帰り残業 裁判例 自己決定権 裁判例 自転車事故 裁判例 自由権 裁判例 手待ち時間 裁判例 受動喫煙 裁判例 重過失 裁判例 商法512条 裁判例 証拠説明書 記載例 裁判例 証拠説明書 裁判例 引用 情報公開 裁判例 職員会議 裁判例 振り込め詐欺 裁判例 身元保証 裁判例 人権侵害 裁判例 人種差別撤廃条約 裁判例 整理解雇 裁判例 生活保護 裁判例 生存権 裁判例 生命保険 裁判例 盛岡地裁 裁判例 製造物責任 裁判例 製造物責任法 裁判例 請負 裁判例 税務大学校 裁判例 接見交通権 裁判例 先使用権 裁判例 租税 裁判例 租税法 裁判例 相続 裁判例 相続税 裁判例 相続放棄 裁判例 騒音 裁判例 尊厳死 裁判例 損害賠償請求 裁判例 体罰 裁判例 退職勧奨 違法 裁判例 退職勧奨 裁判例 退職強要 裁判例 退職金 裁判例 大阪高裁 裁判例 大阪地裁 裁判例 大阪地方裁判所 裁判例 大麻 裁判例 第一法規 裁判例 男女差別 裁判例 男女差别 裁判例 知財高裁 裁判例 知的財産 裁判例 知的財産権 裁判例 中絶 慰謝料 裁判例 著作権 裁判例 長時間労働 裁判例 追突 裁判例 通勤災害 裁判例 通信の秘密 裁判例 貞操権 慰謝料 裁判例 転勤 裁判例 転籍 裁判例 電子契約 裁判例 電子署名 裁判例 同性婚 裁判例 独占禁止法 裁判例 内縁 裁判例 内定取り消し 裁判例 内定取消 裁判例 内部統制システム 裁判例 二次創作 裁判例 日本郵便 裁判例 熱中症 裁判例 能力不足 解雇 裁判例 脳死 裁判例 脳脊髄液減少症 裁判例 派遣 裁判例 判決 裁判例 違い 判決 判例 裁判例 判例 と 裁判例 判例 裁判例 とは 判例 裁判例 違い 秘密保持契約 裁判例 秘密録音 裁判例 非接触事故 裁判例 美容整形 裁判例 表現の自由 裁判例 表明保証 裁判例 評価損 裁判例 不正競争防止法 営業秘密 裁判例 不正競争防止法 裁判例 不貞 慰謝料 裁判例 不貞行為 慰謝料 裁判例 不貞行為 裁判例 不当解雇 裁判例 不動産 裁判例 浮気 慰謝料 裁判例 副業 裁判例 副業禁止 裁判例 分掌変更 裁判例 文書提出命令 裁判例 平和的生存権 裁判例 別居期間 裁判例 変形労働時間制 裁判例 弁護士会照会 裁判例 法の下の平等 裁判例 法人格否認の法理 裁判例 法務省 裁判例 忘れられる権利 裁判例 枕営業 裁判例 未払い残業代 裁判例 民事事件 裁判例 民事信託 裁判例 民事訴訟 裁判例 民泊 裁判例 民法 裁判例 無期転換 裁判例 無断欠勤 解雇 裁判例 名ばかり管理職 裁判例 名義株 裁判例 名古屋高裁 裁判例 名誉棄損 裁判例 名誉毀損 裁判例 免責不許可 裁判例 面会交流 裁判例 約款 裁判例 有給休暇 裁判例 有責配偶者 裁判例 予防接種 裁判例 離婚 裁判例 立ち退き料 裁判例 立退料 裁判例 類推解釈 裁判例 類推解釈の禁止 裁判例 礼金 裁判例 労災 裁判例 労災事故 裁判例 労働基準法 裁判例 労働基準法違反 裁判例 労働契約法20条 裁判例 労働裁判 裁判例 労働時間 裁判例 労働者性 裁判例 労働法 裁判例 和解 裁判例

「選挙 ビラ チラシ」に関する裁判例(17)平成16年 4月15日  名古屋地裁  平14(行ウ)49号 難民不認定処分取消等請求事件

「選挙 ビラ チラシ」に関する裁判例(17)平成16年 4月15日  名古屋地裁  平14(行ウ)49号 難民不認定処分取消等請求事件

裁判年月日  平成16年 4月15日  裁判所名  名古屋地裁  裁判区分  判決
事件番号  平14(行ウ)49号
事件名  難民不認定処分取消等請求事件
裁判結果  認容  文献番号  2004WLJPCA04150003

要旨
◆短期滞在の資格で入国したトルコ国籍を有する者の難民認定申請に対する法務大臣の不認可処分には条約難民性についての判断の誤りがあるとして、同不認可処分の取消請求が認められた事例

参照条文
出入国管理法62条の2

裁判年月日  平成16年 4月15日  裁判所名  名古屋地裁  裁判区分  判決
事件番号  平14(行ウ)49号
事件名  難民不認定処分取消等請求事件
裁判結果  認容  文献番号  2004WLJPCA04150003

原告 X
同訴訟代理人弁護士 名嶋聰郎
同 大橋毅
被告 法務大臣
野沢太三
被告 名古屋入国管理局主任審査官
田平啓剛
被告ら指定代理人 外ノ池佳子
同 熊代一雄
同 藤田光信
同 高木洋一
同 近藤政治
同 若林真由美
同 元藤賢士
同 川上直也

主  文

1  被告法務大臣が、原告に対して平成13年10月2日付けでした難民の認定をしないとの処分を取り消す。
2  被告法務大臣が、原告に対して平成12年1月7日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく異議の申出は理由がないとの裁決は無効であることを確認する。
3  被告名古屋入国管理局主任審査官が、原告に対して平成12年1月27日にした退去強制令書の発付は無効であることを確認する。
4  訴訟費用は被告らの負担とする。

 

事実及び理由

第1  請求
主文同旨
第2  事案の概要(以下、年号は、本邦で生じた事実については元号を先に西暦を後に表記し、本邦外で生じた事実については西暦により表記する。また、国名は、慣用例により適宜略記する。)
本件は、トルコ(共和国)国籍を有する原告が、同人に不法残留の退去強制事由がある旨の入国審査官の認定に誤りがないとの特別審理官の判定に対してした異議の申出について、被告法務大臣(以下「被告大臣」という。)が理由がないとの裁決をし、次いでその裁決に基づいて被告名古屋入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」といい、名古屋入国管理局を「名古屋入管」という。)が原告に対する退去強制令書を発付したため、同被告らに対してそれらの無効確認を求め、さらに原告が被告大臣に対して難民認定申請(第2次)をしたところ、同被告が難民の認定をしない処分をしたため、同被告に対して、その取消しを求めた抗告訴訟である。
1  前提事実(当事者間に争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実)
(1)  原告の入国・在留状況について
ア 原告は、1973年○月○日、トルコのアディヤマン県において出生したトルコ国籍を有する外国人である(甲1、乙1)。
イ 原告は、平成9(1997)年1月30日、トルコ政府発行に係る本人名義の旅券を所持して、トルコのイスタンブールからトルコ航空592便で新東京国際空港に到着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国審査官に対し、渡航目的「for business(商用)」、日本滞在予定期間「One Week(1週間)」と記載した外国人入国記録を提出して上陸申請を行い、同入国審査官から、在留資格「短期滞在」、在留期間「90日」とする上陸許可を受け、本邦に上陸した(甲1、乙1、2)。
原告は、在留期間更新許可申請又は在留資格変更許可申請をすることなく、在留期限である同年4月30日を徒過して本邦に残留した(乙22)。
ウ 原告は、平成9(1997)年8月19日、居住地を愛知県一宮市〈以下省略〉として外国人登録申請を行い、同年9月5日、外国人登録証明書の交付を受け、次いで、平成10(1998)年8月14日、三重県亀山市〈以下省略〉に、平成12(2000)年6月30日、同市〈以下省略〉にそれぞれ居住地変更登録をしている(乙3、4)。
その後、原告は、遅くとも平成15(2003)年9月ころまでに、肩書地に転居している。
(2)  原告の難民認定申請手続について
ア 原告は、平成9(1997)年10月3日、東京入管において、同人がクルド人であるために迫害を受けるおそれがあることを理由として、被告大臣に対し、出入国管理及び難民認定法(以下、法律名を示すときは「入管難民法」といい、条文を示すときは単に「法」という。)61条の2第1項に基づき、難民認定申請をした(以下「第1次申請」という。甲1、乙1、3、5)。
イ 東京入管の担当者は、平成9(1997)年10月7日付けで原告に対して、第1次申請の申請書上の住所に出頭通知書を郵送したが、転居先不明の理由で返送された。そのため、担当者は、同住所地に居住する者に電話で出頭要請の伝言を依頼したが、原告は出頭しなかった。さらに、平成10(1998)年7月22日付けで、原告に対して、外国人登録上の住所地に出頭通知書を郵送したが、「棟・室番号漏れ」のため返送され、原告は出頭しなかった(乙6の1・2)。
ウ 被告大臣は、平成10(1998)年10月27日、第1次申請について、法61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められないとして、難民不認定処分(以下「第1次不認定処分」という。)をし、同年12月17日、原告に通知した(甲7、乙3、7)。
エ 原告は、平成10(1998)年12月17日、被告大臣に対し、第1次不認定処分について異議の申出をしたため、名古屋入管難民調査官は、平成11(1999)年3月31日及び同年4月8日、原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙3、8ないし10)。
オ 被告大臣は、平成11(1999)年12月17日、原告からの異議申出について、法61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められないので、理由がない旨の裁決をし、平成12(2000)年1月6日、原告に告知した(乙11)。
カ 原告は、平成12(2000)年2月18日、被告大臣に対し、帰国したクルド人が殺害されたことを知って恐怖感を持った旨の理由を付加して、再度、難民の認定を申請した(以下「第2次申請」という。甲9、乙3、12)。
キ 被告大臣は、平成13(2001)年8月1日及び同月3日に実施された名古屋入管難民調査官による調査を経て、同年10月2日、第2次申請について、迫害を受けるおそれは認められず、難民とは認められないとして不認定処分をし(以下「本件不認定処分」という。)、同年11月7日、原告に通知した(甲10、乙3、13ないし15)。
ク 原告は、平成13(2001)年11月9日、被告大臣に対し、本件不認定処分について異議の申出をしたため、同被告は、名古屋入管難民調査官による調査の結果を受けて、平成14(2002)年5月31日、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見いだし得なかったとして、原告からの異議の申出は理由がない旨の裁決をし、同年6月14日、原告にこれを通知した(甲11、12、乙3、16ないし18)。
(3)  原告の退去強制手続について
ア 名古屋入管入国警備官は、平成9(1997)年9月4日、原告を法24条4号ロ(不法残留)該当容疑で立件し、平成11(1999)年1月13日、原告について違反調査を行った結果、同容疑について相当の理由があると判断し、同年2月23日、名古屋入管主任審査官から収容令書の発付を受け、同月25日、同収容令書を執行して、原告を名古屋入管収容場に収容するとともに、同日、上記容疑者として名古屋入管入国審査官に引き渡した(乙3、19ないし21)。
イ 名古屋入管入国審査官は、平成11(1999)年2月25日、原告について2度の違反調査を行い、その結果、原告が法24条4号ロに該当する旨の認定を行い、原告に通知した。なお、原告は、同日、名古屋入管入国審査官から仮放免を受けた(乙3、22ないし25)。
ウ 原告は、平成11(1999)年2月25日、この認定に異議があるとして、名古屋入管特別審理官による口頭審理を請求したが、同審理官は、同年4月8日、原告について口頭審理を行った結果、同認定は誤りがない旨判定し、原告に通知した(甲8、乙24、26、27)。
エ 原告は、平成11(1999)年4月8日、被告大臣に対し、この判定について異議の申出をしたが、同被告は、平成12(2000)年1月7日、原告に対し、上記異議の申出は理由がない旨の裁決を行い(以下「本件裁決」という。)、同裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同月27日、送還先をトルコとする退去強制令書を発付し(以下「本件発付処分」という。)、同月28日、原告に本件裁決を告知するとともに、原告を名古屋入管に収容した(乙28ないし31)。
オ 原告は、平成12(2000)年1月28日、被告主任審査官から仮放免を許可されたが、平成14(2002)年6月17日、仮放免期間延長については許可されず、同日付けの仮放免許可申請も不許可となって名古屋入管収容場に収容された。
その後、原告から同年7月4日付けで出された仮放免許可申請は、同年8月19日、許可されている(乙3、32ないし35)。
(4)  トルコにおけるクルド人の概況
ア トルコ内には、推定1000万人以上のクルド人(クルド系住民)が居住しており、クルド人が多数居住するトルコ南東部については開発の遅れが指摘されている。そして、トルコにおいて、親クルド的政党である人民労働党(HEP)、民主党(DEP)及び人民民主党(HADEP)が存在していたが、2003年、人民労働党及び民主党が解散を命じられた。また、クルディスタンのトルコからの分離独立を目指すクルド労働者党(又はクルディスタン労働者党。以下「PKK」という。)は非合法組織とされている。
イ 国連拷問禁止委員会(CAT)は、1993年11月に、ヨーロッパ拷問防止委員会(CPT)は、1996年12月に、それぞれ、報告又は声明の中で、トルコ政府に対し、拷問を一掃するための勧告を行い、「国連の超法規的即決又は恣意的処刑に関する特別報告者」や「国連の強制的失踪に関するワーキンググループ」は、トルコ政府に対し調査の機会を与えるように要請している。また、アムネスティ・インターナショナルは、1996年6月、トルコにおける現状についての報告書を発表し、トルコ政府による様々な拷問、超法規的処刑などの事案を認定した上で、その是正のための勧告を行っている。
(5)  難民の定義
入管難民法上の難民とは、「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書(以下「議定書」という。)第1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいう。」と定義されている(法2条3号の2)ところ、これらの規定による難民(以下「条約難民」という。)とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている(難民条約1条A(2)及び議定書1条2項)。
なお、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」とは、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているとの主観的な事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的な事情が存在していることを意味する。
2  争点
(1)  本件不認定処分は違法か-原告は条約難民に該当するか
ア 立証責任の所在、供述の信ぴょう性判断
イ トルコにおけるクルド人の状況
ウ 原告固有の事情
エ 原告の難民該当性
(2)  本件裁決は無効か。
(3)  本件発付処分は無効か。
3  争点に対する当事者の主張の要旨
(1)  争点(1)(本件不認定処分は違法か-原告は条約難民に該当するか)について
(原告)
原告は、後記アないしエについての原告主張のとおり、条約難民に該当する。それにもかかわらず、本件不認定処分は、原告が条約難民に該当することを認定するに足りる資料がないと判断しているが、これは、事実を誤認するものであるか、法令の適用を誤るものであって、違法である。
(被告ら)
後記アないしエについての被告ら主張のとおり、原告がトルコ政府から迫害を受けているという事実に関する原告の主張ないし供述には整合性も一貫性もないから、原告に対する迫害があったと認定できないし、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すると認めることもできない。したがって、原告が条約難民に該当する事実について立証はなされていないから、本件不認定処分は適法である。
ア 争点(1)ア(立証責任の所在、供述の信ぴょう性判断)について
(原告)
(ア) 立証責任の所在について
難民認定における立証責任は、原則として難民認定を申請する者が負担しているが、申請者は、出身国から逃れて来る者であるから、多くの場合、証拠となるものを持ち出す余裕がなく、最小限度の必需品のみを所持し、身分に関する書類すら携帯しない例もまれではない。他国に到着してからも、これらを入手することは困難であり、しかも、誤った不認定処分がなされれば、難民に極めて深刻な結果をもたらす。このような、申請者にもたらされる極めて深刻な結果と、客観的な証拠を入手することが困難な申請者の置かれた状況を考慮すれば、立証できない陳述が存在する場合において、申請者の説明が信ぴょう性を有すると思われるときは、反対の十分な理由がない限り、申請者は、いわゆる灰色の利益(「疑わしきは申請者の利益に」)を与えられるべきである。
この原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなどの各国の実務で採用され、難民条約35条によって同条約の運用を監督する責務を与えられた国際連合難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。)が発行する「難民認定手続ハンドブック」(以下「ハンドブック」という。)にも定められているところ(196、203)、その内容は、条約法に関するウィーン条約(昭和56年条約第16号)32条が定める「解釈の補足的な手段」に当たると考えられるから、その趣旨を十分に尊重すべきである。
(イ) 信ぴょう性判断について
難民の認定行為は、裁量行為ではなく、難民の要件に該当する事実が備わっていると認められるときは、羈束的に行われるべき事実の確定行為であるところ、この作業において、難民申請者の供述の信ぴょう性判断は、申請者が客観的証拠を提出することが例外的であるという事情もあって、決定的な要素となり得る。したがって、この判断を行う際には、難民申請者特有の心理的要因(心的外傷後ストレス障害、当局職員に対する不信感、残った親族等に対する配慮等)、文化的要因(文化、言語の相対性)、さらには難民認定手続が対審構造を採用していないこと(認定機関に権限が集中していること)などを考慮して、慎重な検討が必要である。
そのため、難民認定手続には証拠法の一般的諸原則がなじまないというべきであり、申請者の供述そのものに一貫性、信ぴょう性、誠実性が認められる場合には、これを補強する客観的証拠を要するものではなく、逆に証拠の一部に矛盾、不整合、変遷が存し、信ぴょう性が欠けていたとしても、それを絶対的なものとして扱って直ちに難民でないと判断すべきではなく、すべての証拠を検討した上で、当該申立て全体を通じての本質的に重大な証拠の矛盾や不一致が存在するか否かを検証しなければならないし、信ぴょう性について否定的結論に至るためには、それだけの理論的根拠と有効な反対証拠が実在しなければならない。また、出身国に関する情報の収集については、認定機関側の積極的関与がなされるべきである。
また、憲法13条、31条は、いわゆる適正手続の原則を表明しているところ、最高裁判所の判決は、行政手続においても、適正手続の保障が与えられるべきものと判断している。そして、難民認定手続は、誤った処分がなされた場合に失われる利益の重大性などにかんがみると、より一層この保障が要請される。したがって、難民認定手続において必要かつ重要な理念は公平の原則であることが強調されるべきであり、審査官が申請者により提出された証拠の信ぴょう性に疑いを抱いたときには、申請者にその心証を開示し、その事項について釈明する機会を付与すべきである。
(被告ら)
原告の主張は争う。
難民条約等は、いかなる手続を経て難民の認定がなされるべきかについて、何らの規定を設けておらず、これらを締結した各国の立法政策に委ねている。このことは、被迫害者が庇護を求める権利としての庇護権は、いまだ国際法上確立した概念となっておらず、難民条約等も、その前文などから明らかなように、難民を受け入れ、保護を与えるか否かは、結局、各締約国が主権的判断に基づいて決定すべきものとして、上記庇護権を保障するものでないことからも裏付けられる。したがって、難民認定の基準が難民条約等の解釈に還元され、それがすべてであるかのような原告の主張は、それ自体失当である。
(ア) 立証責任の所在について
法61条の2第1項が、申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者を難民と認定することができる旨規定し、法61条の2の3第1項が、申請者の提出した資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又はその取消しに関する処分を行うため必要がある場合には、法務大臣は難民調査官に事実の調査をさせることができる旨規定していることに照らすと、難民該当性の立証責任は申請者に課せられていると解すべきである。このことは、そもそも難民認定処分が授益処分であること、実質的に考えても、およそ難民該当性の判断に必要な出来事は外国でしかも秘密裏にされたものであることが多く、これらの事実の有無及びその内容については、それを直接体験した申請者が最も良く主張立証し得ることからも裏付けられる。
この点について、原告は、条約法に関するウィーン条約32条を援用するが、同条約31条1項は文理解釈を原則とすることを定め、解釈の補足的な手段は、〈1〉同条約31条の規定の適用により得られた意味を確認するため(同条約32条本文)、〈2〉同条約31条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合における意味を決定するため(同条約32条(a))、又は〈3〉同条約31条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合における意味を決定するため(同条約32条(b))に、初めて依拠することができるものであるから、難民条約等に難民認定手続に関する規定がない以上、難民認定手続に係る諸原理について、そもそも解釈すべき対象がなく、同条約31条、32条の適用が問題となる余地はないし、ハンドブックも、難民認定手続について規定しておらず、各国で異なった制度が採用されていることを当然の前提としている。
したがって、難民申請者は、一般の民事訴訟におけると同様、その難民性を合理的な疑いを容れない程度に証明しなければならず、被告大臣に難民認定に関する調査義務を負わせ、調査していない事項について法的義務違反を肯定するなど、立証責任を事実上転換するに等しい結果を招くのは、法61条の2第1項の解釈を誤るものというべきである。
(イ) 信ぴょう性判断について
原告は、申請者の供述の信ぴょう性の評価原則について主張するが、これらはいたずらに難民の認定が独自の法領域である旨強調しすぎるものであって、その引用するハンドブック等もいわば心構えを述べたものにすぎないから、絶対的なものではあり得ない。
例えば、供述の中に、誇張や一部事実をゆがめた供述、客観的事実に反した供述がある場合に、その部分を無視して他の供述の信ぴょう性を判断しなければならないとするのは、供述の信用性判断のプロセスを否定するものであって不合理であり、そのような部分を含めて供述全体の信用性を判断すべきである。また、供述の信ぴょう性の判断においては、その一貫性が重要な要素であることは自明であって、難民認定の特殊性を考慮しても、これを判断要素から排除することは不合理であり、このことは、ハンドブックにおいても指摘されている。さらに、供述の信ぴょう性を疑う場合に、それが虚偽であることの確たる証拠が必要であるとするならば、証拠収集が困難と考えられる事項しか供述されない場合、その供述は信ぴょう性があると判断せざるを得ない結果となり、不合理である。
この点について原告は、「灰色の利益」や「疑わしきは申請者の利益に」の原則を援用するが、これらは供述の信ぴょう性の評価原則ではなく、申請者の供述に信ぴょう性が認められることを前提として、申請者の立証責任を緩和するものにすぎない。
イ 争点(1)イ(トルコにおけるクルド人の状況)について
(原告)
原告は、以下のとおり、クルド人であることや政治的意見等を理由として迫害を受ける十分に理由のあるおそれがある。
すなわち、トルコ政府は、クルド人を「山岳トルコ人」と呼称し、民族の独自性自体を否定しており、これに抵抗するクルド人に対する弾圧は、その態様があまりに過酷かつ大規模であるため、国際社会においても非難を受けているが、トルコ政府は、その迫害の多くが国家組織によってなされているにもかかわらず、これを放置し、徹底的捜査を行わない結果、クルド人やクルド人の独自性を主張する者に対する迫害状況にはほとんど変化がなく、難民認定が認められずに帰国したクルド人に対する迫害も続いている。
(ア) 歴史について
a クルド人
クルド人とは、クルディスタン(トルコ・イラン・イラク・シリアの国境地帯にまたがる山岳地帯)に居住する民族であり、人種的にはインド・ヨーロッパ系であり、その言語であるクルド語もインド・ヨーロッパ語族に属する。また、クルド人は、中東第4位の人口を擁し、国家を持たない世界最大の民族であって、トルコには、推定で1000万人以上のクルド人が居住している。宗教的には、イスラム教スンニ派に属する者が多いが、少数派のアレヴィ派(3分の1)もいる。アレヴィ派は、トルコ人の中にもいるが、スンニ派の正式な要件を遵守せず、セメビと呼ばれる礼拝室で祈りを捧げる。
これに対し、トルコ人はアジア系であり、その言語であるトルコ語もクルド語と共通点はない。
b 第1次大戦後
第1次大戦後のオスマントルコの処理に関するセーブル条約(1920年締結)では、クルド人を一民族として認め、固有の国家を持つ資格があると認めたが、この条約は、トルコ共和国を築いたムスタファ・ケマル(後のアタチュルク。以下「ケマル」という。)の反対、イギリスの中東政策の変更等のため発効せず、その独立性は国際的に全く無視された。
ケマルらは、トルコの分割を画する欧州列強との戦いを祖国解放運動と位置づけ、その原動力として、トルコナショナリズムを標榜した。その結果、トルコ政府は、総人口の4分の1をも占めるといわれるクルド人などの他民族の存在自体を否定し、少数民族の独自性を主張するあらゆる行動を弾圧した。このことは、1924年憲法はもちろんのこと、1982年制定の憲法(以下「1982年憲法」という。)も、前文で「トルコの国家利益、国家と国土とが不可分であるというトルコの存立の原則、トルコ人であるという歴史的・精神的価値、アタチュルクの民族主義・原則・改革・文明性に反しては、いかなる思想も見解も保護されず、」と規定し、14条で「本憲法で定めるいかなる権利及び自由も、国土と国民とから成る不可分の国家の全体性を破壊し、トルコ国と共和制の存立を危うくし、基本的権利と自由を剥奪し、(中略)言語、民族、宗教及び宗派の相違を惹起すること等のいかなる方途であれ、かかる見解と思考に基づいた国家の秩序を構築する目的では行使し得ない」と規定していることにも表れている。また、クルド語の使用は、1924年に公式に禁止され、1930年代にはトルコ語を至上のものとする太陽言語理論が推進された。
これらの政策に対して、1925年2月のシャイフ・サイドによる反乱、1929年のジェラリー族による反乱、1937年のデルスィムによる反乱など、クルド人は何度も反抗を繰り返したが、そのたびに、無差別の虐殺など、トルコ政府による過酷な弾圧を受けた。これらの弾圧により、クルド人の部族社会は壊滅し、民族としてのアイデンティティを奪われた。
c 第2次大戦後
第2次大戦後、トルコは複数政党制の時代を迎えたが、政権は軍の許容する枠内で政策を実施したにすぎず、軍の許容する枠を超えると、軍はクーデタ(1960年、1971年、1980年の3回)などの手段で政権を交代させることを繰り返した。その間、トルコ政府は、ほぼ一貫してクルド民族の存在や分離主義を主張した者を、その主張自体を理由として逮捕し、実刑判決を言い渡し、沈黙を強いる政策を実行し、クルド人の多くが居住するトルコ南東部は、開発から取り残され、社会資本の充実が遅れたまま放置された。
これに対して、クルド人側は、クルディスタン民主党(KDP)やトルコ労働者党(TIP)の中の革命的東部文化クラブ(DDKO)などを拠点に言論によって抑圧を告発する活動をしたが、指導者は暗殺や逮捕、起訴されるなどの弾圧を受けた。そのような中で、それまでクルディスタンの独自性を主張して政治活動をしていたアブド・アッラフ・オジャラン(以下「オジャラン」という。)を中心に、1978年、PKKが設立されると、同党は非合法でありながら、クルド人の間に支持を広げていった。
d 1980年のクーデタ発生以降
1980年9月12日、トルコ3軍及び憲兵(ジャンダルマ)によるクーデタが発生し(以下「1980年クーデタ」という。)、その司令部である国家保安評議会(NSC)は、トルコ全土に非常事態宣言を布告した。この非常事態宣言は徐々に解除され、1984年に民政移管となったものの、南東部については解除は遅れ、軍司令官の一存で住民の諸権利が奪われる状態が続いた。それ以降の政治体制は、このクーデタによって作られた体制を受け継いでいる。
1980年クーデタの際、トルコ政府は、PKK党員であるという容疑で1790人を逮捕し、その多くが有罪判決を受けて受刑し、あるいは長期間勾留された。そのため、PKKは、1984年、武装闘争の方針を採った。1990年代に入り、PKKは支持を広げ、オザル大統領の時代には、独立から自治に要求を落とし、一方的に停戦を発表して、トルコ政府に対して交渉を呼びかけ、オザル大統領もこれに呼応するかのような時期もあった。しかし、1993年、同大統領が死亡してからは、トルコ政府軍は攻勢に転じ、衝突が続いている。
その他、クルド人の権利を擁護する政党として、1989年結成の人民労働党があるが、国会の宣誓式でクルド語を使用しようしたことや党会議での発言を理由に、1992年、憲法裁判所においてその合憲性が審査され、実質的に閉鎖に追い込まれた。同党の後継政党として、1993年結成の民主党も、党首の逮捕、議員・党員の暗殺等が相次ぎ、1994年、憲法裁判所によって閉鎖命令が出され、さらに、同年7月結成の人民民主党も、閉鎖命令が出されるに至っている。
(イ) クルド人に関するトルコ共和国の法制度について
a トルコ憲法とクルド語の使用禁止
1982年憲法26条3項は「思想の表現及び伝達において法律で禁止された言語は使用できない。」と、同法28条2項は「法律で禁止された言語では出版を行い得ない。」と、同法42条9項は「トルコ語以外のいかなる言語も、教育及び教導の機関においてトルコ国民に対し母国語として教授されることはない。」とそれぞれ規定し、これを受けた「トルコ語以外の諸言語での出版に関する法律」(1983年10月19日付け第2932号法)においても、1条ないし3条において、トルコ国民の母国語はトルコ語であり、トルコ語以外の言語による思想の表現等を禁止する旨規定し、4条ないし6条において罰則を規定している。
b 反テロリズム法の制定
上記2932号法は、1991年4月12日に制定された反テロリズム法の制定に伴い、廃止されたが、反テロリズム法は、クルド人による独立運動はもちろん、その独自性の主張などクルド人問題の存在に関する言論を含め一切の活動を排除すべく立法されたものであって、テロリズムを広く定義することにより、クルド人の独自性を主張すること自体を同法の適用対象とし(1条)、一定の犯罪がテロリスト犯罪として行われた場合には一般の法定刑の1.5倍の刑を科することとし(5条)、反テロリズム法を非難する行為、テロリスト犯罪摘発に従事する公務員の氏名を公表する行為、テロリスト団体の宣言文やパンフレットを印刷、出版する行為などを重罰金に処することとし(6条)、テロリスト団体を結成した者等に対して懲役刑及び重罰金刑の併科とし(7条)、トルコ及びその領土の統一性を破壊することを目的とする宣伝、集会、示威行動を禁止し(8条)、反テロリズム法違反の罪は、特別裁判所である国家保安裁判所(SSC)が管轄し(9条)、テロリズム犯罪防止のための職務に従事する警察、情報機関等の職員がその職務遂行中の行為に関して訴追された場合に、懲役刑を免除し、所属機関の費用で3人以下の弁護人を付する(15条)など、かかる活動を徹底的に封じ込めるためのあらゆる手段を有している上、運用においていくらでも反テロリズム法違反の容疑をかけることが可能な法律であった。その結果、いったんその容疑者とされた者は、当局による拷問に対し、トルコ共和国法上の保護を一切受けられないことになった。そして、反テロリズム法は、国際的非難によって何度も改正された(1995年10月25日の改正が比較的大きなものである。)が、法定刑の上限を下げる程度の内容にとどまり、実質的な改善はなされなかった。
(ウ) クルド人に対する迫害状況について
クルド人であっても、民族のアイデンティティを公然と又は政治的に主張しなければ、通常、迫害を受けることはないが、これらを主張したり、公の場でクルド語を話すことを支持する人は、迫害を受けるリスクを負っている。クルド人に対する迫害状況は、ジャーナリストに対するら致や行方不明が多数あるため、実態を正確に把握することが困難であるが、政治的意見又はクルド民族であるという理由によって迫害を受けたクルド人の具体例は枚挙にいとまがない。迫害の主体は、主として、軍、警察又は憲兵であるが、MIT(ミツリー・イステイヒバラット・テシユキリヤートウ)と呼ばれ、普段は民間人として働いているように見えながら、実際には、政府の指示を受けて、情報収集や暗殺等の任務を果たす機関とその構成員も、クルド人への弾圧行為を行うことがある。
その具体例は、政府寄りの新聞であるトルコデイリーニュースの報道からも知ることができるが、1980年代後半から発生したクルド人民間活動家に対する暗殺の被害者は、一説によれば1000名にも達し、村の焼き討ちによる被害者は200万人に上ると推定され、1996年までに南東部の各地における焼き討ちの際に銃殺された村民の数は1000人を超える。また、軍、警察、憲兵は、一切の適正手続を無視した暴力的尋問、逮捕、拘禁、拷問を繰り返し、1991年から96年までの5年間に少なくとも93名が拘束中に死亡し、1995年までに拘束中に行方不明になった例が100件以上報告されている。
以上の事態は、国連の強制的失踪に関するワーキンググループによる報告(1994年)、アメリカ国務省の国別人権状況リポート(1999年)、英国移民局の「連合王国における庇護国別評価 トルコ」(2000年)などの報告によっても裏付けられる。
このような迫害状況は、その後も改善されておらず、現に、トルコにおいて数年にわたって勾留され、裁判を受けた経験を有し、日本において難民認定を申請していたAは、認定を受けられる見込みがないため、やむなく帰国したところ、1999年7月ころ、自宅で殺害されたが、同人はトルコ治安当局によってPKKの日本における責任者とみなされており、その殺害状況の不自然さに照らすと、トルコ政府による謀略に基づく疑いがある。
なお、イスラム教アレヴィ派は、その政教分離論への強い傾斜から、伝統的に左派政党を支持してきたところ、トルコにおいては、同派は、宗教担当監督庁から財政援助を受けられず、中学校の宗教教科書にもスンニ派の情報のみが記載されるなど、差別の対象とされてきた。特に、アレヴィ派クルド人であることは、反体制派との疑いを増す要素となっている。
(エ) 国際的非難について
上記のようなトルコ政府の現状にかんがみ、国連拷問禁止委員会は1993年に、ヨーロッパ拷問防止委員会は1996年に、それぞれ報告又は声明の形式で拷問を一掃するための勧告を行い、また、同年1月18日、欧州議会は、1995年12月11日のPKKによる停戦の提案を評価して、トルコ政府に対して民主主義的改革のための政策強化と人権尊重などを求めたが、トルコ政府は、政治的干渉であるとして反発するばかりであったため、1997年12月にはクルド人弾圧を主な理由の一つとして欧州連合(以下「EU」という。)加盟対象から外されている。
トルコへの武器輸出国であるドイツは、1992年、1994年及び1995年に武器輸出を一時停止することにより抗議の姿勢を表明し、スイスも、1993年、首都においてトルコ大使館員によるクルド人デモ隊への発砲事件に抗議している。
(被告ら)
原告の主張は争う。
トルコは、以下のとおり、民主的クルド人文化を受容しており、クルド人は、その民族的出自のみを理由に迫害を受けるおそれがあるとは認められない。
(ア) 歴史について
原告の主張(ア)のうち、クルド人が主にトルコ、イラン、イラクにまたがる地域に居住し、その言語がクルド語であり、トルコ内に推定で1000万人以上のクルド人が居住していること、トルコにおける1980年クーデタを契機として、非常事態宣言が布告されたところ、南東部の11県においては、1990年代まで解除されなかったこと、親クルド政党である人民民主党に対し、その閉鎖を求める提訴がされたこと、以上の事実は認める。
しかし、非常事態宣言は2002年までにトルコ全土の全県で解除され、原告の出身地であるアディヤマン県においては、既に1986年に解除されているし、憲法裁判所は、人民民主党に対し、閉鎖を求める提訴がされたものの、1999年4月の総選挙に参加することを許可し、合法的に活動できることを保障している。
(イ) クルド人に関するトルコ共和国の法制度について
a トルコの民主化と憲法改正
1982年憲法は、1980年クーデタの影響下で策定されたものであり、国家治安の維持を重視した内容であったが、1990年代初頭からの治安の安定とともに、1987年、1993年、1995年、1999年(2回)、2001年と頻繁に憲法改正がなされ、トルコ社会全体が徐々にクルド人やクルド語を受け入れる民主的体制に変容してきている。
2001年10月3日の改正後の憲法(以下「2001年憲法」という。)においては、法律で禁止された言語の使用禁止条項が削除されるなど、思想、信条、表現の自由が憲法上より明確に保障されるように改められ、2002年8月3日には、クルド語の教育や放送を解禁する法案を含む14改革法案がトルコ国会で一括可決されている。2001年憲法は、トルコからの分離独立を目的とする活動を禁止しているが、これは、国家の治安維持を優先しなければならないような社会状況を背景とし、その後もトルコ社会が分離独立主義を掲げるPKK等の数多くの非合法組織によるテロ行為の脅威にさらされた経緯にかんがみれば、やむを得ないことであって、上記の趣旨も、そのようなテロ行為に象徴される反社会的行動を禁止するものにすぎず、クルド人の人権に対する制約を許容するものでないことは明白である。以上のことは、2001年憲法が、共和制、政教分離、民主主義を保障し、多様な基本的権利や自由を保障していること、禁止されているのは国家及び国家体制の根幹を破壊する具体的行為であって、思想、信条の自由が侵害されることはない旨確認されていること、トルコの国会にはクルド人議員が多数在籍していることなどからも明らかである。
なお、2001年憲法は、本件不認定処分直後に成立したものであるが、これにつながる社会情勢の変化は1990年代から継続的に起こっていたものである。
b クルド語の使用
1991年春には、トルコ国内においてクルド語を使用することを禁止する根拠となっていた法律が廃止され、クルド語の出版物や音楽著作物が合法的に流通し、クルド語による放送が一定の範囲内で事実上認められるようになったこと、トルコ政府は、前記憲法改正に先立ち、2001年3月、EU加盟に向けた国家プログラムを発表し、EUの政治条項に調和すべく、2004年までに憲法その他の関連立法について大々的に改正する計画を立てていること、2002年8月には、クルド語の教育や放送を解禁する法案を含む14の法案がトルコ国会で一括可決されていることからも明らかである。なお、反テロリズム法に基づく出版制限についても、テロ行為を奨励し、社会秩序を深刻に損なう思想の表現を規制するものであるから、テロ行為に無縁なクルド語の出版物が規制を受けるとはいえない。
c 反テロリズム法
原告は、反テロリズム法自体が人権に対する重大な侵害である旨主張するが、後記エ(ウ)における被告らの主張のとおり、テロリズムの取締りは国家の重要な責務であり、諸外国に比べ、殊更に過酷な刑罰を法定しているものではなく、手続保障もなされている。
しかも、1995年10月27日の法改正により、具体的な破壊活動を伴うものでなければ罰せられないことになり、テロ防止のために職務に従事している職員が訴追された場合に懲役刑を免除する旨の同法15条は削除され、同改正により多数の収監者が減刑されたり、釈放された。
また、2000年12月採択の恩赦法により、表現行為に対する処罰法令に基づく刑罰の執行は猶予されることになり、多数の有罪判決を受けた者及び未決勾留者が釈放され、テロ組織支援者に対しても、本人の明確な意思に基づいて故意に支援活動を行ったか否かが重要な点とされ、故意であっても食料を1回提供した程度で刑罰を適用されることはないなど、支援活動の動機、程度等を考慮して、処罰されるか否かが決められるようになった。
(ウ) クルド人に対する迫害状況について
a 民族的理由による差別
トルコにおけるクルド人は、その民族的出自のみを理由に迫害を受けるおそれがあるとはいえない。このことは、英国移民局や米国国務省の報告によっても、またUNHCRの報告によっても支持される。
例えば、英国移民局の報告によれば、トルコ南東部以外では、クルド民族のアイデンティティを公然と、又は政治的に主張しないならば、クルド人は迫害や差別を受けないし、都会のクルド人は、一般にクルド分離主義を支持せず、トルコ人と通婚し、社会的地位の高い者も相当数存在するとしているし、UNHCRも、本来クルド人であることだけに基づいて迫害が存在するとの主張を支持することはできないと述べている。
b 拷問等
トルコ憲法は拷問の禁止を定めており、トルコ政府は、人権に関する国務大臣を置き、人権委員会(IHD)を設立して、トルコ国内における人権保障の確立に努めている。加えて、トルコ政府は、警察に対し拷問が容認されないことを指導し、1997年3月には、拷問の抑止を目的として勾留期間を短縮し、弁護士による接見をより保障する改正を行っている。そして、実際にもトルコにおける状況は改善されており、拷問方法の厳しさは減少し、かつ、拷問はもはやトルコ政府によって承認ないし許容されているものとはいえないと報告されている。
c 地域的特殊性等
トルコ南東部のうち、1990年代に非常事態宣言下にあった11県(エラズー、マルディン、ビトリス、ビンギョル、バットマン、シルト、バン、ハッカリ、ディヤルバクル、トゥンジェリ、シルナク)は、歴史的にPKKの活動がもっとも活発であり、治安状況が深刻であったと考えられるイラン、イラク、シリアとの国境側の地域であるが、原告が出生したアディヤマン県は、それより中央に位置し、1980年代の半ばまでに非常事態宣言が解除されており、原告が主張するトルコ南東部の事情のすべてを難民性に関する国内情勢であるということはできない。
また、1999年2月のオジャランの逮捕等によってトルコ人とクルド人の関係が悪化した時期には、トルコ政府とPKKとの紛争進行中に紛争地域から逃れたクルド人が多数流入した地域において、PKKとの関係を疑われるクルド人がその他の地域へ定住することが困難であったとしても、近年においては、そのような緊張は緩み、UNHCRの追跡調査によっても、送還者の逮捕又は訴追はかなりまれであったと報告されている。
d 帰国者などの状況
原告は、難民申請を取り下げて帰国した者に対する迫害について主張するが、日本において、クルド人であること等を理由に難民申請をしていた者の多くが、日本において仕事がないことや迫害のおそれがないことを理由に、自主的に難民申請を取り下げている。このことは、難民申請した者に不法就労目的の偽装難民が多数混じっていたか、あるいは、社会情勢が変化して現在は迫害が消滅したかのどちらかである。
現に、英国を始めとする欧州諸国の大多数の国の裁判所は、クルド人をトルコへ強制退去させることが、難民条約33条などに違反するものではないと判断している。
(エ) 国際的非難について
原告の主張(エ)のうち、国連拷問禁止委員会及びヨーロッパ拷問防止委員会が、トルコに対して拷問を一掃するための勧告を行い、調査の機会を与えるよう要請したこと、ドイツが、武器輸出を一時停止したこと、スイスが、1993年、首都においてトルコ大使館員によるクルド人デモ隊への発砲事件の捜査のため、外交特権の免除措置をとるよう要請したこと、以上の事実は認めるが、その余は知らない。
クルド系トルコ人の民族的出自を理由とする迫害のないことは、各種報告書やUNHCR関係者の見解にも示されており、国際的認識といってもよい。すわなち、英国移民局の報告書は、「クルド民族のアイデンティティを公然と、又は政治的に主張するクルド人は、いやがらせ、虐待及び起訴の危険がある」とする一方で、「トルコ南東部以外では、もし彼らがそれらを主張しないならば、クルド人は通常迫害又は官僚的な差別さえも受けず」、「都会では主として同化され、民族的にほとんど差別されない。彼らの民族的起源を否定しない数多くの高い地位のクルド人の中には、前副総理大臣もおり、25パーセントの議員及び他の政府高官は民族的にはクルド人の背景を有すると見積もられている。」などと述べており、1997年10月付けUNHCR背景報告も、クルド人を迫害されたグループであるとは位置付けていない。
ウ 争点(1)ウ(原告の個別事情)について
(原告)
(ア) 原告は、1973(昭和48)年○月○日、クルド人である父B、同じく母Cの間に生まれた5人姉弟の3番目の子で、長男でもある。生まれたのはシリア国境の北に当たるトルコ南東部のアディヤマン県にあるエセンジェというクルド人の村であった。父は、1980年からアディヤマン県でブティックを経営している。宗教的には、イスラム教アレヴィ派に属している。
原告は、中学を辞めてから、15歳で父の営むブティックを手伝うようになったが、父とその親族は、町で金持ちとして知られており、原告は、来日前はお金に困ることはなかった。
(イ) 父の実家に住んでいた叔父は、村にやってきたトルコ軍から、「(クルドの)ゲリラと戦え。」と言われたが、「銃はいらない。」と断ったため、一家は村から追い出され、町に逃げることを余儀なくされた結果、家は放置されて崩壊した。
また、原告が小学校に入る前、伯父のDの背中にやけどがあるのを見つけ、どうしてできたかを聞くと、18歳のころ、ゲリラに食料を供給したことで、令状なしで憲兵の監視下に山中に連れて行かれ、尋問され、首筋に火のついたビニールを突っ込まれたときにできたということであった。
(ウ) 原告の家族らクルド人は、クルド語を使っているため、町の小学校に入学したころ、トルコ語が分からないことをバカにされて、「クロ(ロバ)」等と言われ、小学校を休学したことがあった。また、原告が、1993年8月30日から1995年1月28日までの間、兵役に服していた際にも、「クロ」、「おまえはどのゲリラの洞くつから来たのだ。」などとからかわれたり、ののしられたりした。
(エ) このような経験から、原告は、次第に自分の言葉、自分の文化を守りたいと思うようになり、中学校の放課後、友人たちとPKKの勉強をして、共感し、援助しようと決めた。
そこで、原告は、店を手伝い始めたころから、金銭と物資をPKKに供給するようになり、金銭については、2か月に1度、累計で1万5、6千ドルを、物資については、1か月に2度、衣料品、食料品、薬をゲリラに渡して援助した。そして、原告は、18歳の時、アディヤマン県中心地で行われたクルド市民の行進に参加したこともあったが、この際、政府批判の言葉を書いたプラカードを掲げたにすぎないのに、後に爆弾付きのプラカードを掲げたとの被疑事実で不在逮捕令状等が出されている。その後、原告は、兵役に行くまで年に5、6回、クルド人に対する虐待を止めることなどを求めた内容のポスターはりを行い、兵役後も1、2回ポスターはりをした。
なお、原告が17歳の時、憲兵が自宅に来て、原告に対し、「なぜPKKに援助する。うそをつくな。」と追求し、ヘルメットで目の近辺をたたいたが、そのときは証拠が見つからず、それ以上の事態にはならなかった。しかし、その後も兵役に行くまで2か月に1回程度、憲兵の来訪を受けた。
(オ) 原告は、兵役を終えた後、自宅に戻ったが、この間、アンカラの大学を中退してゲリラになった仲の良い友人が山中で殺され、その弟も行方不明になった話を聞いてショックを受けた。
さらに、原告は、密かにPKKに対する金銭の提供やポスターはりなどの支援活動をしていたところ、1995年10月、店に来た警察官に無理矢理連行され、取調中、2人の警察官から腹部、頭部や顔面を殴打されて、「活動しているだろう。あちこちにポスターを貼っているらしいが。」と言われたが、原告はすべて認めなかった。原告は、このときは他に証拠が無かったので、帰宅を許されたが、怖くて家に帰れなくなり、親戚の家に寝泊まりして、店に出ることもなくなった。その後、原告は、1996年、久しぶりに家に電話すると、逮捕状が出たと聞かされたため、現実的な恐怖を感じて、同年12月ころ、最終的に国外に逃げることを決心し、賄賂を使ってブローカーからパスポートを入手することができた1997年1月、トルコを出国した。
(カ) 原告は、日本に来てから、PKKに対する支援活動をしたわけではないが、クルド人の伝統的祭りであるネブルズ祭(3月21日)や、クルド人が初めて政府と戦った日を記念する「ジョの日(8月25日)」に参加したり、メーデーでクルド人の状況を日本人に訴えるなどの活動を行っているが、トルコ大使館員は、このような活動の参加者の写真を撮るなどの情報収集活動をしている。
そして、原告は、第1次不認定処分の後、帰国したクルド人が迫害に遭っていることを知り、帰国した際の危険性が高まり、帰国について強い恐怖を感じるようになった。
(キ) 原告に対しては、アディヤマン第一審刑事裁判所による管轄外決定及び不在逮捕令状(以下「本件逮捕状等」という。甲3の1・2)が出されているところ、その犯罪事実として、「辺地にいるPKKメンバーを助けたり、彼らに食料や衣料を運んだり、市内でチラシを配布した」ことのほか、「アディヤマン県エスキサライ地区のモスクに爆弾仕掛けのプラカードを取り付けたこと」が記載されているが、後者はでっち上げであり、かかる令状が出されていること自体が、原告に対する危害のおそれを基礎付けている。そして、原告がトルコの親族から取り寄せた住民登録票(以下「本件住民登録票」という。甲5)には、「警察にて捜索中」との記載があり、本件逮捕状等の記載と符合している。
この点について、被告らは、印字の乱れ、記載事項の不完全性や出国状況を理由に、本件逮捕状等は偽造であると主張するが、これらは原告の親族が当局から入手したものであり、タイプライターによって印字が乱れるのは当然であるし、記載事項の不完全性も、本件逮捕状等が当局が政治的な意図に基づいて事実に反して発行したものであることからすれば当然であって、そのような当局のずさんさによる責任を原告が負うべき理由はない。また、被告らは、本件住民登録票についても、「警察にて捜索中」という記載がされることがないことを理由に、偽造である旨主張するが、これは、原告の支援者であるEが、難民認定申請手続とは無関係に、原告を養子にするために取り寄せたものであって、信頼性は高い。
(被告ら)
原告の主張は争う。これに沿う同人の供述は、以下のとおり、信用できるものではない。
(ア) 原告の主張(ア)のうち、原告が、1973年○月○日、トルコのアディヤマン県で出生した事実は認めるが、その余は知らない。
(イ) 同(イ)の事実は知らない。
(ウ) 同(ウ)のうち、クルド人がクルド語を使っている事実は認めるが、その余は知らない。
(エ) 同(エ)の事実は知らない。
原告がPKKのメンバーか否かという重要な部分について、供述の変遷がある。また、原告は、PKKの党員又は支持者であると主張していながら、家族は迫害を受けておらず、親戚の家で平穏に1年間過ごせたのは不自然である。
(オ) 同(オ)の事実は知らない。
原告が、トルコを出国する際、その行き先が日本であることについて知った時期について、供述の変遷がある。
(カ) 同(カ)の事実は知らない。
原告は、日本でPKKの支援活動をすれば、原告の住所等が分かり、身の危険を感じると供述していながら、自分の考えでデモ等に参加していると主張しており、信用できない。そして、本邦入国後は、全くPKKに経済的援助をしていない。
また、原告は、当初、トルコから出国できれば行き先はどこでもよいと供述しておきながら、平成13(2001)年に行われた事実調査においては、日本以外の国に行きたくないと述べており、一貫しない。
本邦においてクルド人であることを理由に難民申請していたトルコ人が自主的に難民申請を取り下げ、帰国している例が少なからずあり、自らの迫害に係る供述が虚偽であることを自認した者や、不認定処分を受けて帰国しながら、トルコで新たに旅券を取得して正規の手続で出国した例もあり、不法就労目的の偽装難民が横行していることがうかがわれる。
(キ) 同(キ)の事実は否認する。
原告が、本件逮捕状等の発付等を知ったのがいつかという重要な部分について、供述の変遷がある上、本件逮捕状は、タイプの位置が著しく乱れ、原告の生年月日も相違し、被告人の罰条、罪名の記載もなく、犯行の時期も年までしか記載がなく、犯行の場所も都市名の記載しかないなど外形上の不備からしてその内容は信用できない。
さらに、住民登録票に刑事手続の事実が記載されることはあり得ないから、本件住民登録票も偽造されたものである。
エ 争点(1)エ(原告の難民該当性)について
(原告)
原告は、以下のとおり、条約難民に該当する。
(ア) 「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」の意義について
「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」とは、主観的な要素と客観的な要素の双方を含んでいるところ、その判断に当たっては、〈1〉申請者の個別的状況、〈2〉出身国の人権状況、〈3〉過去の迫害の状況、〈4〉同様の状況に置かれている者の状況、〈5〉一般的抑圧状況と個別的迫害などの事情を総合して判断すべきである。
その際、迫害は、常に一個人に対して個別単位で発現するとは限らず、一般化した抑圧状況では、迫害もまた一般化し得ること、欧州における一般化した迫害の歴史的背景を基に締約された難民条約が、「人種」、「宗教」、「国籍」、「特定の社会的集団」に属することといった集団的特徴を「十分に理由のある恐怖」に連結する形で迫害理由として列挙していることなどに照らせば、申請者が他者から選り分けられた形でより劣悪な状況に追い込まれていることの立証を申請者に求めることは、「合理的見込み」という基準を超えた証明を課すことになって不当である(迫害を受けている集団において、当該申請者が迫害の実際の被害者に選ばれるかは迫害者のみが知り得るところである。)。したがって、国籍国において集団的に行われている迫害等の一般的事情が、当該申請者個人にとって、十分に根拠の有する迫害のおそれを裏付ける場合には、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」と認められるべきであり、それ以上の個別的事情を要すると解すべきではない。
(イ) 原告の経験した事実が迫害を基礎付けるかについて
a 原告の生育歴や原体験は、クルド民族としての生育歴なのであるから、その後の自らの経験と相まってその恐怖を強め、原告の帰国による迫害のおそれを基礎付けるものである。この点について、被告らは、単に「古いことである」の一言で関連性を否定するが、被告らの評価は正しくない。
なお、被告らは、原告が出国できたことを根拠に、原告に対する迫害のおそれが存在しないと主張するが、被告らの主張によれば人権に関する法整備が整ったはずのトルコにおいて公務員による拷問が連綿として実行されていることを考えれば、仮にコンピューターシステムが空港にあったとしても、賄賂を使って出国できたことにつき不自然さはなく、迫害のおそれを否定することは相当でない。
b また、トルコ政府は、1996年、ネブルズ祭を全トルコの祭典と認定しつつ、他方で、2001年3月には、イスタンブールで人民民主党が主催して開催を計画していたネブルズ祭を禁止している。これは、ネブルズ祭を政府管理のもとでクルド人の民族的意義を取り去ろうとする意図によるものであるから、クルド人である原告が、クルド人主催のネブルズ祭に参加することは、迫害の危険を基礎付ける。
しかも、このような活動についても、トルコ大使館は、参加しているクルド人を撮影したり、クルド人によるクルド人の状況を紹介する日本国内の活動をテロ組織に当たるとして指摘するなど、クルド人への監視を継続している。
(ウ) 難民条約1条F(b)の非該当性及び政治的意見による迫害について
a 難民条約は、条約難民を、難民条約1条A及びBに該当し(ただし、議定書によりA(2)の規定の一定の文言が除かれている。)、同条Cの適用停止条項及び同条D、E、Fの適用除外事由に該当しない者であると定義しているところ、同条F(b)は、「難民として避難国に入国することが許可される前に避難国の外で重大な犯罪(政治犯罪を除く。)を行ったこと」を適用除外としている。
ここでいう「政治犯罪」は、「純粋の政治犯罪」(専ら政治的秩序を侵害する行為)と「相対的政治犯罪」(政治的秩序の侵害に関連して道義的又は社会的に非難されるべき普通犯罪が行われる場合)に分類される。そして、純粋の政治犯罪は、内乱を起こすなどの可罰的違法性を有する場合を除き、適用除外事由に当たらないのに対し、相対的政治犯罪の場合には、訴追が政治的動機から起こされた可罰的行為に限られ、予想される刑罰が当事国の一般の法令に合致しているのであれば、そのような訴追のおそれのみをもって申請人が難民となるものではないが、訴追が、政治的意見の理由で通常に比べて厳しい扱いをしていることが客観的状況から推認できる場合には、政治的迫害に当たると解される。
そして、テロリズムに対する国の防衛措置は、活動しているテロリスト、参加者又は活動支援者に向けられているときは、政治的迫害に当たらないが、その場合でも、通常に比べて厳しい刑罰を科すなど訴追の程度が強い場合には、政治的理由で訴追されていることが客観的に推認されるから、政治的迫害に当たる。したがって、たとえテロリスト団体といえども、単に構成員であること、個人レベルの少額の資金や食料などを援助したこと、その政治目的の宣伝活動をしたことなどは、普通犯罪ではなく、仮に訴追されるとすれば、専ら政治的な意味で犯罪とされ処罰の対象となるものであるから、純粋政治犯罪に該当し、その訴追は政治的意見故の迫害に該当するというべきである。
また、仮にテロリズムに対する国の防衛措置については別異に解する余地があるとしても、トルコ、特にその南東部において採られている措置は、この地域に住むクルド人がPKKの活動に共感又は支援を行っていることに対して不相応に厳しい処罰をもって対応しているのであって、テロに対する防衛のための国の措置としての限界を超え、政治的意見ないし人種を理由とする迫害に該当する。
b 被告らは、2001年憲法などを根拠に迫害のおそれがない旨主張するが、被告らによる本件の各処分は、上記改正前に行われたものであって、各処分時には2001年憲法は存在しない。また、改正前からもそのような法律の適用や運用がなされていたこともない。この点、被告らは、あたかもトルコの法執行機関が、憲法や法律に完全に従って行動しているという仮定の下に、迫害のおそれはないと主張するが、憲法等で名目上の自由を保障しない国はむしろまれであって、憲法等で保障していても、法執行機関や裁判所が運用によって事実上自由を制限し、拷問等を行っているのが一般的である。
しかも、反テロリズム法1条は、テロリズムを「共和国の基本政体、政治的・法的・経済的・社会的制度の変革等若しくは国家の統治権を弱める等、あるいは公共の秩序を威力などにより損なうことを目的とする団体に属する1人又は数人による一切の行為をいう。」と定義しており、政治的な目的で他者の生命身体に直接的な侵害行為を行う一般のテロ行為と比較し、はるかに包括的で無限定な概念を規定し、いわば国民を根こそぎ処罰できる法律である。そして、同法は、その運用からも明らかなとおり、クルド人である民衆が、民族、言語、又は文化の独自性を公然と主張する一切の行為を実質的に禁止し、処罰の対象としており、クルド人が民族性を公然と主張すれば、トルコの政体に触れるものとして日常的な行為までテロ行為として弾圧を許す仕組みとなっている。その7条も、1条に定める団体の「構成員をほう助し、あるいは当該団体の宣伝を行った」にすぎない者に対して厳しい刑罰を科すことを規定しており、行為と処罰との間の不均衡があることに照らすと、政治的意見故の迫害といわざるを得ない。
この点について、被告らは、反テロリズム法が諸外国のテロ立法に比較して殊更に過酷な刑罰を法定するものではなく、適正手続の保障を欠いていない旨主張するが、同法によって科される刑罰は過酷であり、手続的にも拷問等による自白の強要を事実上放任するかのような規定を設けており、民族的言論活動や運動を禁止の対象としている点でも、諸外国の反テロリズム法と全く性格を異にしている。また、被告らは、処罰が「政治的意見」に向けられたものか「行為」に向けられたものかを区別すべきである旨主張するが、反テロリズム法によるクルド人の拘束、拷問等が「政治的意見」に向けられていることは明らかである。
c 原告は、PKKのメンバーでもなく、その武力行使に加わったものでもなく、ただ、クルド民族の独自性を主張するPKKの意見に賛同して、金銭的支援を行い、クルド民族の尊厳とトルコ民族との融和を訴えるビラをはっていたにとどまり、決して、人の生命、身体に危害を加えるいわゆるテロ活動を行ったものではない。それにもかかわらず、反テロリズム法をクルド民族の民族主義的活動を排除する意図で運用すれば、容易に摘発することが可能である。したがって、難民条約に定める除外規定に該当することはない。
前記のとおり、原告は、もともと、クルド民族に対する迫害を逃れて日本にやって来た者であるが、日本においてもクルド民族独立運動に同調しており、その活動はトルコ政府に把握されていると考えざるを得ない。しかも、先にトルコに帰国した者の命運からみても、原告がトルコに帰国した場合、原告を日本におけるクルド民族の権利擁護を求める活動家であるとの嫌疑で身柄拘束されて拷問され、さらに訴追されるなどの迫害を受けるおそれがあることは明白である。
したがって、原告は条約難民に該当する。
(被告ら)
原告の主張は争う。原告は、以下のとおり、条約難民に当たらない。
(ア) 「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」の意義について
「迫害を受けるおそれがあるとの十分に理由のある恐怖を有する」というためには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的な事情を要するところ、そのためには、ある国の政府によって民族浄化が図られていることが明らかである場合はともかく、そうでなければ、単に迫害を受けるおそれがあるという抽象的な可能性が存するにとどまらず、当該申請者について迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような個別かつ具体的な事情が存することが必要である。例えば、ある国において、ある宗徒の一部が逮捕、訴追されているとしても、その国の政府が当該宗徒そのものの存在は容認しており、一定の宗教的活動に対する刑罰規定も厳格に適用されているものではないなどの事情の下では、当該難民申請者について迫害を受けるおそれががあるというためには、同人が行った又は行ったとされる宗教上の行為が当該国籍国における犯罪行為に該当するとして現に訴追されているか、又は既に逮捕状が発付されているなどの事情からみて将来訴追されるおそれがあるなどの個別具体的事情が存することが必要である。
このことは、難民条約等が集団全体を一個の難民として認定する手法を採用していないこと、ハンドブックにおいても、各個人の状況は、それぞれの事案ごとに評価されなければならないとされ、ある特定の人種的集団に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の真正を裏付けるのに十分とはいえないとしていることからも明らかである。
(イ) 原告の経験した事実が迫害を基礎付けるかについて
a 原告の生育歴等のうち、叔父からの話は、原告が幼少時代に聞いたものにすぎず、信ぴょう性が乏しく、トルコの情勢の変化にかんがみれば古きに失するというべきである。
b 原告は、1995年10月に警察官の取調べを受けた旨主張するが、仮にそれが事実であったとしても、PKKの活動を警戒して行われたものであり、証拠がなく2時間程度で釈放されたという程度のものであるから、これをもって、迫害のおそれがあるとはいえない。
仮に、本件逮捕状等が真正に作成されたとしても、その犯罪容疑がPKKのメンバーであること及び爆弾を仕掛けたことなどであるのであれば、それは、通常の刑事手続の一環にすぎず、難民条約上の迫害には当たらない。
c トルコの国境管理は、全国のほぼすべての国境についてコンピューター処理されたネットワークにより効率的に運営されており、旅券の発給にも警察のクリアランスが必要であることから、仮に、原告が迫害の対象となっているのであれば、たとえ賄賂を用いたとしても、正規の旅券の発給を受け、空路出国することが可能であるとは考え難い。したがって、原告が本人名義のトルコ旅券の発給を受けて、何ら問題なく出国している以上、トルコ政府の保護を受けているというべきである。
d 原告がイスラム教アレヴィ派に属しているとしても、家族に対する宗教的迫害はなく、トルコ政府もアレヴィ派に対する迫害を看過している状況にない。
e ネブルズ祭は、元々クルド文化固有の祝祭ではなかったものの、クルド人の間でも古くから祝われていた行事であるが、1994年にトルコ政府によってトルコ国民すべての祝日と宣言され、1996年に国家的祝祭として公認された結果、トルコ各地において大規模に開催されているから、原告が、日本で行われたネブルズ祭に参加したからといって、迫害の対象となるものではない。
また、デモ行進等に参加しただけの原告が、何十人何百人の参加者から特にPKK支持者としてトルコ政府に把握されるとは考えにくく、仮にそうであったとしても通常の刑事手続にすぎず、迫害には当たらない。
(ウ) 難民条約1条F(b)の該当性及び政治的意見による迫害の不存在について
a 反テロリズム法に基づく訴追ないし処罰については、それが「政治的意見」に向けられたものか、それとも政治的な動機による「行為」に向けられたものであるかを区別しなければならない。そして、訴追が政治的動機から犯された可罰的行為に限られ、かつ、予想される刑罰が当事国の一般の法令に合致しているのであれば、そのような訴追のおそれのみをもって申請者が難民となるものではない。また、難民は、あくまで不正義の被害者であって正義からの逃亡者ではないから、犯罪を犯した者が訴追や処罰を免れるため逃走する場合、通常、難民とは認められない。
そして、いかなる行為を犯罪とし、これにどの程度の刑罰を加えるかは、各国固有の歴史的文化的背景によって決せられるべきであるから、まずは当該国家の主権の問題であって、軽率に受入国が判断すべきものではないが、国家主権の名の下に国家による無法や法の濫用を無条件に放置することも難民条約の趣旨を没却する。そこで、両者の均衡の見地から、その者が行った行為により失われた正義とその行為に加えられる刑罰によって回復される正義とを比較して、罪質に比べて著しく刑罰が過酷な場合や、法律の立法過程に回復不可能なほどの瑕疵が存在し得る場合に、あるいは法の支配が完全に失われている場合に限り、例外的に迫害を認め得る。
テロリズムは、その定義に争いのあるところであるが、国際的にテロリズムと判断される行為及びその行為を行った集団については、普通犯罪と比べて強い可罰性が存在することは明らかである。そして、テロリズムを撲滅するには、直接的な破壊行為を行うテロリストのみならず、資金等を供給することによって支援する者についても処罰しなければその目的を達し得ないから、普通犯罪に比べてテロ犯罪についての法定刑や法手続が一見重く見えても、それは過酷なものとはいえず、正当な刑罰権の行使と評価されてしかるべきである。
b 反テロリズム法は、被告人の権利を守るために弁護士を3人まで付けられることや接見交通権を認め、仮釈放の制度を設けていることなどから明らかなとおり、被告人の権利を十分に考慮したものであり、適正手続が保障されないものではない。さらに、反テロリズム法8条は、1995年10月25日の改正により、同法1条に定めるテロ行為を奨励し、社会秩序を深刻に損なわしめる思想の表現を規制するものに改められ、その結果、思想又は意見の表現の方法が、社会、国家、体制及び社会秩序への明白かつ直接的な脅威を創出し、人々を法律に反する行動へと扇動するものでなければ規制の対象としなくなった(そもそも、市民的及び政治的権利に関する国際規約20条が、戦争のための宣伝や、差別・敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の提唱は法律で禁止すべきである旨定めているように、PKKのテロ行為を正当化するような表現行為を処罰する規定があるからといって、トルコが表現の自由を不当に侵害する国家であるとはいえない。)。
さらに、2001年憲法は、身柄拘束後48時間以内に、集団犯罪であっても4日以内に裁判所に送致されることを規定するなど、公正な裁判を受ける権利を明記しており、より適正な手続が期待できる。また、トルコの反テロリズム法が、殊更、諸外国の反テロリズム法に比較して、過酷な刑罰を法定したり、適正手続の保障を欠いているということはない。さらに、1999年制定の懺悔法により、戦闘に関与しなかったテロリストは減刑され、2000年12月に制定された「1999年4月23日以前の犯罪に係る恩赦法」により、多数の有罪判決を受けた者及び未決勾留者が釈放されるなどしている。なお、反テロリズム法15条には、原告が主張するような「テロ行為防止の職務としての行為は訴追されたとしても懲役を科されることはない。」との文言は存しない。
PKKは、トルコ国内においてゲリラ戦やテロ活動を行っている反政府武装集団であり、アムネスティ・インターナショナルの報告書においても、無差別又は恣意的な殺人をしていると非難されている。トルコにおいては、PKKが武装闘争を開始した1984年以来、治安部隊とPKKとの戦闘やテロ行為により、市民を含めて3万人の犠牲者が出ているといわれ、例えば、1999年2月にPKKのオジャラン党首が逮捕された際にも、イスタンブール及びトルコ南東部において放火や無差別的爆弾テロ事件が散発的に発生し、国外においても過激な抗議行動が起きている。このような活動状況に照らせば、トルコの治安当局が、国内外におけるPKKの活動を警戒し、これについて調査を行うのは、その責務であって、そのような調査等が行われるとしても、それは難民条約上の迫害とはいえない。
c 原告は、PKKを支援する活動を行ってきたものであり、そのために警察官によって逮捕されたことがある旨主張するが、短時間で釈放されたことに照らせば、身柄拘束がPKKに対する支援活動を容疑とするものとは考えられず、また、そもそも原告がクルディスタンという言葉やクルド人の歴史についてすら正確な知識を有していないことを考慮すれば、クルド人としての民族意識、問題意識をどの程度持ち合わせているか甚だ疑問である。
仮に上記逮捕が事実であったとしても、原告は、本人の明確な意思に基づいてテロリスト集団であるPKKに対する支援活動を行っていたことを供述しているから、それに対する取締りが行われたとしても、可罰的行為に対する刑事手続の発動にすぎず、難民条約上の迫害に当たるものではない。
(2)  争点(2)(本件裁決は無効か)について
(原告)
ア 在留特別許可について
条約難民に対し、在留特別許可を与えるか否かは、法50条1項ではなく、法61条の2の8に基づいて決定されるべきである。なぜなら、法50条1項3号が、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」と包括的な定めをしているのに対し、法61条の2の8が「……難民の認定を受けている者であるときは、第50条第1項の規定する場合のほか、……その者の在留を特別に許可することができる。」と規定しており、同条は、条約難民の在留特別許可について、特則を定めていると解されるからである。
また、不法に滞在する条約難民に関しても、法53条1項及び同条2項1ないし5号で列挙されている国が、難民条約33条1項に規定する「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域」の属する国に該当し、かつ、当該難民がその他の国に出国することを望まない場合には、その国に送還することを禁止していること(法53条3項)、しかも、難民条約34条が、締約国に対し、不法に滞在する条約難民についても当該締約国の社会への適応及び帰化をできる限り容易なものとすべきことを定めていることからすれば、法務大臣は、条約難民に対して、在留特別許可を与えなければならないという、難民条約上及び入管難民法上の義務を負っていると考えるべきである。
イ 本件裁決の効力について
トルコにおけるクルド人の人権状況及び原告の個別的事情によれば、原告は、トルコに帰国した場合、クルド民族の存在と権利を主張する者として逮捕・拷問・処罰を受けるという、政治的意見を理由とする迫害を受けるおそれがあるという十分に理由がある恐怖を有するので、条約難民に該当し、しかも、原告は、不法残留以外に日本の法律に違反した事実はなく、それも国籍国に帰国すれば迫害のおそれがあるという事情があったためであり、本邦で独立して生計を営んできたのであるから、在留特別許可をすべきであった。しかるに、被告大臣は、重大な事実誤認の結果、本件裁決をしたものであるから、無効というべきである。
(被告ら)
原告の主張は争う。
ア 在留特別許可について
法は、24条で退去強制事由を列挙し、27条以下でその手続を規定しているが、難民認定手続と退去強制手続の関係については何ら規定しておらず、むしろ、法61条の2の8の規定からは、難民認定を受けている者についても法24条1項各号に該当する限りこれを認定しなければならないし、退去強制手続も進めなければならないことを前提としていると解することができるから、難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていることは、退去強制手続を当然に停止せしめるものではなく、在留特別許可を付与するか否かについて判断する際に(難民認定を受けている者については法61条の2の8に基づき、それ以外の者については法50条に基づく。)、考慮することになる事情の一つにすぎない。
ところで、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、当該国家は、特別の条約ないし取決めがない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを自由に決することができるのであり、我が国の憲法上も、外国人は、本邦に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、在留の権利ないし引き続き本邦に在留することを要求する権利を保障されているものでもない。そのため、実定法上、上陸に関する国際礼譲が尊重されて、緩やかな要件により上陸が認められているものの、在留期間更新において厳しいチェックを受けることが必要とされている。具体的には、入管難民法は、適法に在留している外国人についても、在留期間の更新に関する申請権を認めつつ(法21条2項)、「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」許可できると定めて(法21条3項)、更新事由の有無の判断を法務大臣の裁量に委ねている。
これに対し、在留特別許可は、退去強制事由に該当することが明らかで当然に本邦からの退去を強制されるべき者に対し、特別に在留を認める処分であるから、その性質は恩恵的なものにすぎないものである。すなわち、在留特別許可については、申請権は認められず、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」(法50条1項3号)に特別に許可することができるものにすぎず、その際の条件も何ら具体的に規定されず、効果裁量が付与されていることからすると、その裁量の範囲は、在留期間更新の許否に関する裁量の範囲よりも、質的に格段に広範なものであることは明らかである。しかも、その判断に当たっては、当該外国人の個人的事情のみならず、その時々の国内の政治、経済、社会等の諸事情、外交政策、当該外国人の本国との外交関係等の諸般の事情を総合的に考慮すべきものであるから、このことからも、同許可に係る裁量の範囲は極めて広範囲なものというべきである。
したがって、被告大臣の判断が違法となるかを判断するに当たっては、被告大臣の広範な裁量権の行使としてなされたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があるため上記判断が全く事実の基礎を欠き、又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くことなどにより、在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するなど極めて特別な事情が認められる場合に限り、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして違法となるというべきである。
イ 本件裁決の効力について
しかるところ、〈1〉原告は、在留期限である平成9(1997)年4月30日を超えて本邦に残留している者であり、法24条4号ロに該当すること、〈2〉原告は、本国トルコで出生・生育しており、本邦に扶養を要する配偶者等があるわけでもなく、来日するまで我が国とは何らの関わりがなかったこと、〈3〉前記のとおり、原告は、条約難民に該当せず、原告が帰国した場合に迫害を受けるおそれがあるという十分な理由が認められないこと、〈4〉原告には、在留を特別に許可すべき事情が存在しないこと、以上の事実に照らせば、本件裁決が適法であることは明らかである。
なお、原告は、本件裁決が無効である旨主張するが、行政処分が無効となるためには、当該処分に重大かつ明白な瑕疵が存在しなければならず、瑕疵が明白であるためには、処分の外形上、客観的に誤認が一見して看取し得るか否かによって決せられるべきところ、本件裁決には、前記のとおり、何ら裁量権を逸脱、濫用したと認め得るような特別の事情は存在せず、まして、重大かつ明白な瑕疵が外形上客観的に看取することができるものとは到底いえないから、無効となる余地はない。
(3)  争点(3)(本件発付処分は無効か)について
(原告)
ア 本件発付処分の効力について
前記のとおり、被告大臣は原告に対して在留特別許可を与えるべきであったにもかかわらず、裁量権を逸脱して本件裁決をしたものであるから、これを前提とする本件発付処分には、重大かつ明白な違法が存在し、無効というべきである。
イ 難民条約等違反について
難民条約33条1項、難民の地位に関する議定書は、難民について、迫害を受けるおそれのある領域に送還することを禁止している(いわゆる「ノン・ルフルマンの原則」)ところ、前記のとおり、原告が条約難民に該当するにもかかわらず、本件発付処分は、原告の送還先を本国であるトルコと指定しており、同条約に違反している。
ウ 拷問等禁止条約違反について
拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下「拷問等禁止条約」という。)3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問が行われるおそれがあると信じるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は引き渡してはならない。」と規定しているところ、前記のとおり、原告は、本国に送還されると拷問を受ける実質的理由があるおそれがある。しかるに、本件発付処分は、送還先をトルコとしており、上記条約に違反する。
(被告主任審査官)
原告の主張は争う。
ア 本件発付処分の効力について
退去強制手続においては、容疑者が法24条各号の一つに該当するとの入国審査官の認定若しくは特別審理官の判定に容疑者が服したとき又は法務大臣から上記判定に対する容疑者の「異議の申出は理由がない」旨の裁決の通知を受けたときには、主任審査官は、当該容疑者に対する退去強制令書を発付しなければならないのであり、退去強制令書を発付するか否かについて主任審査官の裁量の余地は全くない。
したがって、本件裁決に何らの違法が存在しない以上、本件発付処分も適法である。
イ 難民条約等違反について
原告は、条約難民と認定されなくとも、帰国すれば迫害を受け、生命の危険を招来するおそれがあると主張するが、退去強制手続において、迫害を受けるおそれがあると主張する外国人からの法49条1項に基づく異議の申出がなされた場合には、被告大臣は、その送還が、難民をいかなる方法によっても人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること、又は政治的意見のために、その生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放又は送還してはならないという「ノン・ルフルマンの原則」(難民条約33条参照)に違反することにならないか否かについても考慮した上で、在留特別許可の許否の判断をしているから、何ら難民条約33条1項に反するものではない。
ウ 拷問等禁止条約違反について
また、原告は、拷問等禁止条約違反を主張するところ、同条約が対象としている「拷問」とは、公務員その他の公的資格で行動する者により、あるいはその扇動、同意又は黙認の下に、〈1〉ある者から情報若しくは自白を得る目的で、〈2〉ある者が行ったか若しくは行った疑いがある行為について罰する目的で、〈3〉ある者を脅迫し若しくは強制する目的で、〈4〉これらに類する目的で、又は〈5〉何らかの差別に基づく理由により、当該者あるいは第三者に、重い苦痛を故意に与えるような行為をいう。
しかるところ、前記のとおり、原告が帰国した場合に上記のような拷問を受けるおそれはないと認められるから、本件発付処分が上記条約に違反することはない。
第3  当裁判所の判断
1  争点(1)ア(立証責任の所在及び供述の信ぴょう性判断)について
一般に、抗告訴訟における主張立証責任については、その適法性が問題とされた処分の性質によって、分配原則を異にするのが相当である。すなわち、当該処分が、自由を制限し、義務を課するいわゆる侵害処分としての性質を有する場合は、処分主体である行政庁がその適法性の主張立証責任を負担し、逆に、特別な利益・権利を付与し、あるいは法定の義務を免れしめるいわゆる授益処分としての性質を有する場合は、原告がその根拠法令に定める要件が充足されたこと(申請却下処分が違法であること)の主張立証責任を負担すると解するのが原則であり、これに根拠法令の規定の仕方や、要件に該当する事実との距離などを勘案して、総合的に決するのが相当である。
しかして、国家は、国際慣習法上、外国人を受け入れる義務を負うものではなく、外国人を自国内に受け入れるか否か、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決することができるものとされている(最高裁判所昭和53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁)ところ、我が国は特別の条約である難民条約を受けて、難民認定制度を創設し(法7章の2)、その認定を受けた者に対し、一定の利益(法61条の2の5、61条の2の6、61条の2の8)を付与することとしている。そうすると、難民認定は、特別な利益・権利を付与する処分であり、これに、難民であることを基礎付ける事実は、これを主張する者の生活領域内で生ずるのが通常であることを考慮すると、条約難民に該当する事実の主張立証責任は、これを主張する者が負担すると解すべきである。
もっとも、条約難民は、迫害を受け又はそのおそれがある者であることから、経験則上、難民であることを証する十分な客観的証明資料を持って国籍国等を出国することが期待できないのみならず、出国後も、それを収集することは、物理的にも人的にも困難であるのが通常であると考えられる。したがって、難民認定申請者がこれらの資料を提出しないからといって、直ちに難民であることを否定すべきではなく、本人の供述するところを主たる資料として、恐怖体験や時間の経過に伴う記憶の変容、希薄化の可能性なども考慮した上で、基本的な内容が首尾一貫しているか、不合理な内容を含んでいないか等を吟味し、難民であることを基礎付ける根幹的な主張が肯認できるか否かに従って、最終的な判断を下すべきである。
2  争点(1)イ(トルコにおけるクルド人の状況)について
(1)  前記前提事実に掲記の各証拠を総合すれば、以下の事実が認められる。
ア クルド人について(甲13、46の1・2、乙36、53)
クルド人は、紀元前2千年紀ないし1千年紀に、クルディスタン(トルコ、イラン、イラク、シリアの国境地帯にまたがる山岳地帯)に移住してきたイラン語を話すメディア人と土着のゲティ人の混血によって原型が形成され、その後、アルメニア人、アッシリア人、アラブ人、トルコ人、モンゴル人などとの混血が進み、インド・ヨーロッパ系のクルド人の基本的な特徴が形作られた。その主たる居住範囲は、上記のクルディスタンであり、その言語であるクルド語もインド・ヨーロッパ語族に属する。これに対し、トルコ人はアジア系であり、その言語であるトルコ語もクルド語と共通点を有しない。トルコの全人口約6千数百万人のうち、推定で1000万人を超えるクルド人(1200万人ないし1500万人)は、トルコ最大の少数民族であり、トルコ東部及び南東部の貧困地域に集中して居住している。
なお、クルド社会は、一般に伝統的な部族社会を形成しており、部族相互間における共同扶助の思想は薄弱である上、部族においては、地主層を中心とする長老が強い支配力を有している。
イ トルコにおけるクルド関連政治史の概略について(甲13、14、18、19、22、25ないし29、34、46、61、乙36、37、39、45、48ないし53、55ないし61、73、75の1・2、76、77)
(ア) 第1次大戦まで
クルディスタン地域には、10世紀後半にアッバース朝の崩壊によってクルド人による地方政権が成立した時期があったが、セルジュクトルコの侵入で終止符が打たれた。その後、一時期、その西部はオスマン領、東部はサファビー朝領に編入されて半自治権を認められたことがあったが、19世紀半ばには、中央集権が強化され、半自治的状況は消滅した。
(1) 第1次大戦後
a 第1次大戦後のオスマントルコの処理に関するセーブル条約(1920年)には、クルド人について、クルド人が多数を占める東アナトリアの一部に自治権を与え、条約発効後1年以内に、所定の条件を満たせば、トルコは同地域についての権利及び資格を放棄することに合意する旨の条項が盛り込まれていた。しかし、この条約は、トルコ共和国を建国したケマルの反対やイギリスの中東政策の変更等のために発効せず、その後に締結されたローザンヌ条約(1923年)において、クルド人の住むクルディスタンは、トルコ、イラン、イラク、シリアなどに分割された。
b トルコ共和国は、ケマルを中心に第1次大戦後である1923年に成立したが、ケマルらは、トルコの分割を画する欧州列強との戦いを祖国解放運動と位置付け、その原動力として、トルコは一体不可分であるとのトルコ民族主義を標榜し、政教分離を掲げた(いわゆるケマリズム)。その一環として、トルコ政府は、同年の大国民議会選挙においてクルド系の候補者を排除し、クルディスタンでの上級公務員の全員と下級公務員の半分をトルコ人に替え、クルド語の地名をトルコ語の地名に変え、1924年には、クルド語の公式な使用を禁止し、学校における使用も禁止するなどのトルコ同化政策を実行した。そして、クルド人を山岳トルコ人と呼称して、クルド人の存在自体を否定し、クルド文化の独自性も否定する方針を採用した。
トルコ政府のこのような方針に反発して、1925年には、アザディの反乱やシャイフ・サイドの反乱が起こったが、トルコ政府は、同年3月に治安維持法を制定し、軍事力を使って鎮圧に努めた結果、同年9月には、シャイフ・サイドほか7500名を超える反乱参加者を逮捕し、うち約700名を処刑した。トルコ政府は、反乱を未然に防止するため、反抗的と考えられたクルド人地区の村落を破壊し、同地区からクルド人を強制的に移住させ、さらに、1930年、クルド人の弾圧に関わった何人も起訴されることはないという内容の不処罰法(法律第1850号)を成立させ、1934年6月には、非トルコ語を話す人が多数を占めるいかなる組織も禁止するなどの措置を採った。
(ウ) 第2次大戦後
1938年にケマルが死亡し、ケマルが認めた唯一の政党として政権を掌握していた共和人民党(CHP)が1946年1月に分裂すると、数多くの政党が成立し、トルコは複数政党制の時代を迎えたが、軍は、1960年5月と1971年に、ケマルの政教分離主義に反しているとして、クーデタを起こし、戒厳令を布告して、急進派学生運動の指導者らを処刑するなど、左翼活動に対する厳しい弾圧を実行した。その間、トルコ政府は、クルド民族の存在を主張したことや分離主義を唱えたこと自体を理由として、多数のクルド人を逮捕し、実刑に処するなどして、沈黙を強いた。
他方、クルド人の中でも、都市部で居住する者を中心に、トルコ社会に同化し、社会的にも有力な地位を占める者が相当数出現し、その中には、政界に進出し、政府高官の地位に上りつめる者もおり、これらの者の多くは、クルド人であることを公にしない傾向が見られた。このように、1950年代までは、クルド問題は、トルコ社会において深刻な話題となることはなかった。
しかしながら、その後、中産階級の若いクルド人などの間で、クルド民族の独自性を主張する動きが活発化し、1970年代には、それらが左翼革命主義と結びついて、武力による右派勢力との闘争を選択するようになった。その中心となったのが、アンカラ大学で政治学を学んでいたオジャランのグループであり、1974年に最初の政治組織を結成し、1978年に正式にPKKの名称を名乗った。左翼革命主義の理念を奉じ武力闘争路線を採るPKKは、必ずしもクルド人全体の強い支持を得ていたわけではなく、特に伝統的な部族社会の色彩の強いクルド人社会において有力者である地主層を敵視する姿勢などに対しては、批判的意見を持つクルド人も少なくなかったが、南東部の貧困層を中心に次第に勢力を伸ばしていった。
(エ) 1980年クーデタ以降
a 1980年9月12日、トルコ軍及び憲兵(ジャンダルマ)によるクーデタが発生し、その司令部である国家保安評議会は、トルコ全土に非常事態宣言を布告し、トルコ政府は、PKK党員であるとの容疑で1790人を逮捕し、その多くが有罪判決を受けて受刑し、あるいは長期間勾留されたが、PKKの有力幹部は、国境を越えてシリアに逃走し、その保護下に入った。
なお、軍政は程なくして民政に復帰したが、国家保安評議会は、その後も文民政府に対して強い影響力を持ち続け、構成員に占める軍人の割合が減じた現在においても、一定の影響力を維持している。
b PKKは、シリアの支援を受けて、1984年に軍事組織を作り、政府を支持する地主層やその家族、その通報者であるとの疑いから農村部の公務員、教員を襲撃して殺害するだけでなく、トルコ政府・軍に対してもゲリラ戦などの方法で武装闘争を挑むようになった。これに対するトルコ治安部隊側の攻撃、報復は激しく、警察やジャンダルマのほかに、近代兵器を装備した正規軍も加わって、強力な掃討作戦を繰り返し実施したが、その過程において、PKKの戦闘員や構成員とみなされた者が殺害、処刑の対象となることはもちろんのこと、その支援者、同調者と疑われた者は、超法規的な逮捕、拘禁、拷問の対象となることを免れなかった。このような治安部隊側の激しい攻撃に対し、PKKはより過激な闘争に走るようになり、武力衝突は深刻さを増した。
その結果、トルコのデミレル大統領が1999年末に発表したところによっても、1984年以降、政府とPKKの争いで、PKK側2万5139名、治安部隊側5882名、一般市民5424名の犠牲者を出したとされている。
c トルコ政府は、PKKに対する兵たん(戦闘員や物資の供給)を弱体化することを目的として、1985年4月、村落法を改正し、村民の権利を侵害する者を割り出して村長及び憲兵に通知し、違反者を捕まえ、前科のある村民の行動を村長及び憲兵に知らせることなどを任務とする村落防衛予備隊を創出した。村落防衛予備隊への参加は任意とされ、比較的高給が支給されたが、参加希望者が必ずしも多くなかったため、強制的に任務に就かせるために村の男性は頻繁に呼出しを受けて参加を強要され、かたくなに拒否すれば、多くの場合PKKを支援しているとの嫌疑がかけられて、村落の破壊や拷問、処刑を加えられることがまれではなかった。しかしながら、村落防衛予備隊は、1隊当たり5、6名にすぎず、容易にPKKの攻撃を受けたため、1987年には防衛隊員への応募者が2万人から6000人に激減した。そのため、トルコ政府は、同年7月、軍に非常統治下での特別な権限を付与し、任意とされていた村落防衛予備隊への参加を拒否した村民の強制立ち退きを実施した。その結果、トルコの人権大臣が1994年に議会に報告した数字によっても、200万人が家を失うことになったが、その後も強制立ち退きが行われた村落の数は増加し、1995年7月時点で合計2664、1999年までで3500に上り、合計250ないし300万人が家を失ったほか、焼き打ちの際に銃殺された村民の数は、1996年までに1000人を超えると報告されている。
d トルコ政府は、1987年7月、南東部の10県(ヴァン、ビトリス、トゥンジェリ、ディヤルバクル、シールト、ビンギョル、バトマン、ハッカリ、マルディ等)を非常統治下に置き、うち8県の知事の上に村落の強制疎開などの強力な権限を有する地域知事を任命した(その後、治安の回復とともに非常統治は随時解除され、2000年7月には4県となり、最後の2県は2002年11月に解除されている。)。
前記のとおり、大規模な人権侵害を繰り返す治安部隊側に対する反感などから、必ずしもPKKの方針に賛成でなかったクルド人の中にも、PKKを支持する動きが広まった結果、1980年代の後半から1990年代にかけて、PKKは更に勢力を伸長した。
クルド問題が深刻化するにつれて、トルコの政界の一部に融和的な動きが見られるようになり、クルド人の血を引くオザル大統領は、1991年4月、クルド語の使用を禁じた法律を改正したり(もっとも、同時に、後記の反テロリズム法が制定された。)、自治区創設に前向きな姿勢を見せ、これに対応して、PKKも一方的に停戦を発表し、トルコ政府に対して連邦制創設に関する交渉を呼びかけるなど、和解へ向けた動きが進展するかのような時期もあったが、1993年にオザル大統領が死亡し、保守派のデミレル大統領が後継者となってから、トルコの治安部隊は攻勢を強め、武力衝突が続いた。
このような動きを反映して、1991年から1998年までの間に、クルド人政治家及び活動家が54人殺害され、人権及びクルド問題に触れたジャーナリストが少なくとも15名殺害されているが、そのほとんどは、治安当局側に責任があるとの報告がある。なお、PKKは、1991年、教師等に対する従来の殺害路線の誤りを認め、これを放棄する旨の声明を出した。
e イラクは、トルコと表面的には緊密ではなかったものの、どちらの国もクルド人の分離独立問題を抱えていたため、緊急時においてはイラクとの国境を越えてPKKゲリラを追跡する権限を認める密約を結んでいたとの報告があり、現に、湾岸戦争後の1995年には、トルコ軍の部隊が越境してイラク国内のPKK部隊を攻撃したことがあった。
他方、シリアは、前記のとおり、PKKを支援する姿勢を有していたが、1998年10月、トルコとの間に軍事的緊張が高まったことから、それまで許容してきた国内におけるPKKの活動を認めなくなった。そのため、PKK党首のオジャランは、シリアを強制出国させられ、幾つかの国をさまよったあげく、1999年2月、ケニアにおいて逮捕され、トルコに強制送還された後、国家反逆罪の容疑で国家保安裁判所の裁判にかけられ、同年6月、死刑判決を受けた。その際、欧州全土とトルコにおいて、オジャラン支持者による抗議行動が行われ、その一部は暴力を伴う事態となった。イスタンブールにおけるクルドの新年の祝い(ネブルズ祭)の際には、多くの人が横断幕を掲げてスローガンを叫んだため、警察が介入し、警察官4名とデモ隊員1名が撃たれ、725名が拘束された。
f 1999年3月、PKKの政治部が行動は民主主義の枠内で行うと発表したのに対し、PKKの軍事部は軍事行動の拡大を呼びかけて対立した。しかし、オジャランが、公判中の同年4月30日に和平の呼びかけを行い、同年6月29日の死刑判決を受けた後である同年8月2日、弁護士を通じて、PKKに対し、「1999年9月1日をもって武装闘争に終止符を打ち、平和のために国境外に勢力を撤退させる」よう呼びかける声明を発したことにより、この方針はPKKの軍事部によっても支持され、その戦闘員はトルコ領内から撤収したため、政府とPKKの間の武力闘争は事実上終結し、トルコ軍とPKKの過激分子との間にごく少数の衝突が報告されるだけとなった。
PKKは、2000年中は、ほぼ完全に活動を停止し、2001年には、軍によれば武力衝突はわずか45件であり、2002年にはゼロに近かった。トルコ政府は、2000年1月12日、オジャランの死刑執行を控訴審の判断が出るまで停止することを求める欧州人権裁判所の命令を尊重することについて合意し、さらに死刑判決確定後である2002年10月3日、終身刑に減刑した。
トルコ政府は、南東部の治安状況を抜本的に改善するためには、同地域の経済状態を向上させる必要があるとの判断に基づき、南東部アナトリア開発計画(GAP)を策定、実施している。これは、ティグリス、ユーフラテス両河に相当数のダムを建設し、トルコ全土に送電すると同時に、流域に水利施設を造り、農業の集約化を促進することによって、生産能力を高めることを内容とするもので、計算上は、地域住民の一人当たりの所得が55パーセント程度増加することが見込まれている。
もっとも、南東部における土地所有形態、すなわち少数の不在地主が50パーセント以上の土地を所有している現状では、土地所有制度の根本的改革なくして、上記目的が達成される可能性はないとの悲観的な見方も存在する。
(オ) トルコにおけるクルド関連政党
トルコにおける野党である社会民主党(SHP)は、1986年、南東部における人権侵害状況を憂慮する旨の声明を発表したが、1988年には、国による鎮圧政策に異議を唱えたクルド人党員を除名したため、他のクルド人党員も、抗議のために一斉に離党した。
その中の7人のクルド人国会議員が中心となって、1989年、クルド人の権利を擁護することを党是とする人民労働党が結成され、1991年の総選挙では、南東部において社会民主党と選挙協力し、大量得票した結果、約20名の当選者を出した。しかし、右派勢力からは、同党はPKKの協力者と見なされ、2名の新議員が国会の宣誓式でクルド語を使用したことや、党会議での発言などを理由に、1992年、憲法裁判所によって、その合憲性が審査され、実質的に閉鎖に追い込まれた。
また、同党の後継政党として1993年に結成された民主党も、党首の発言が契機となって、本部の爆破、党首の逮捕、議員・党員の暗殺等が相次ぎ、1994年、憲法裁判所によって閉鎖命令が出されている。
さらに、同年5月に結成された人民民主党も、結党から20日の間に創立者2人が暗殺され、さらに8か月の間に党員10人が殺害されたが、これには治安当局が関与しているとの報告がある。同党は、1999年の総選挙において、国会での議席獲得ラインである10パーセントを超えることができなかったものの、4.75パーセントの得票率を得、同時に行われた地方選挙において、南東部を中心に幾つかの自治体で過半数の票を得た。その際、警察などの治安当局は、同党の運動員に対して、多くのいやがらせ、妨害行為を行ったと報告されている。なお、同党に対しても、閉鎖を求める提訴がなされ、2003年5月、閉鎖命令が出されている。
2002年の総選挙において、人民民主党、労働党(EMEP)及び社会民主党(SDP)の3党は、民主人民党(DEHAP)の傘下で連合することを決め、国会での議席は獲得できなかったものの、参加政党中6位の6.2パーセントの得票率を得た。
(カ) PKKのテロ組織としての認定
ドイツは、1993年、PKKとその関連組織をドイツ国内で非合法化し、アメリカ合衆国国務省は、1999年、PKKを海外テロリスト組織と認定し、その代表者又は特定の構成員は合衆国から退去させられる可能性があると表明した。イギリスは2001年に、EUは2002年に、それぞれPKKをテロ組織と認定し、国連安全保障理事会は、2002年5月、PKKをテロ活動グループのリストに挙げている。
ウ トルコにおけるクルド関連の法制度について(甲15、16、38、46、乙36ないし41、45、74、77)
(ア) 憲法
a 1982年憲法は、1980年クーデタで実権を掌握した国家保安評議会の主導の下での制憲議会で審議、制定(1987年に一部改正)された、全文177条(暫定条項16条)から成るもので、共和制の維持、主権在民、三権分立、政教分離などの近代国家ににおける諸原則を維持しつつも、大統領権限の拡大・強化、国家治安維持に関する規定の強化を特徴としている。とりわけ、トルコからの分離主義運動に対しては、禁圧の態度を明確にしている。
具体的には、その前文において、「トルコの国益、国家と国土とが不可分であるとのトルコの存立の原則、トルコ人であるという歴史的・精神的価値、アタチュルクの民族主義・原則・改革・文明性に反しては、いかなる思想及び見解も保護されない」ことを明らかにした後、14条は「本憲法で定めるいかなる権利及び自由も、国土と国民とから成る不可分の国家の全体性を破壊し、トルコ国と共和制の存立を危うくし、……言語、民族、宗教及び宗派の相違を惹起すること等、のいかなる方途であれ、かかる見解と思考に基づいた国家の秩序を構築する目的で行使し得ない。」と、26条3項は「思想の表現及び伝達において法律で禁止された言語は使用できない。」と、28条2項は「法律で禁止された言語では出版を行い得ない。」と、34条3項は「法律が明示する関係当局は、公共の秩序を重大に乱すような事件の発生、又は国家の安全保障の侵犯、若しくは共和国の基本的性格の破壊を目的とする行動が行われる情況では、特定の集会及び示威行進を禁止することができる」と、42条9項は「トルコ語以外のいかなる言語も、教育及び教導の機関においてトルコ国民に対し母国語として教授されることはない」とそれぞれ規定している。
b これに対し、本件不認定処分直後に採択された2001年憲法は、EU加盟を促進する目的を有するものであり、〈1〉旧憲法前文の「いかなる思想及び見解も」を「いかなる行動も」に修正し、〈2〉14条を「本憲法で包含されるいかなる権利及び自由も、国土と国家から成る不可分の国家の全体性を破壊する、又、人権に基づく民主主義及び政教分離の共和国を排除することを目的とする行動では行使し得ない。」と規定していた26条3項を削除して、「思想の表明及び伝達の自由の行使において適用される形態、条件及び手続は、法律でこれを定める。」と改め、〈3〉28条の報道出版の自由について「法律で禁止された言語では出版を行い得ない。」とされていた規定を削除するなどした。
この改正の結果、憲法上は、単なる思想、信条の段階にとどまる限り、クルドの独自性を主張する意見も保護の対象となり得ないものではなく、クルド語による印刷物の出版が処罰の対象から外されることとなるなど、近代憲法が目的とする人権保障を一歩促進する内容となっている。
(イ) 治安維持関連法
a 反テロリズム法
1995年改正前の反テロリズム法(1991年4月12日制定法律第3713号)と改正後の同法(以下、それぞれを対比するときは、「旧テロ法」、「新テロ法」という。)の抜粋は、以下のとおりである。
(a) テロの概念について、旧テロ法1条は、「テロリズムとは、憲法で定める共和国の基本政体及び政治的、法的、経済的、社会的制度の変革、国家及び領土の統一性の毀損、トルコの国家及び共和制体の存在を危うくし、国家の統治権を弱め、破壊し、あるいは奪取しようとし、基本的権利及び自由を侵害し、あるいは国家の内部的及び国際的安全、公共の秩序、厚生を、威力、実力行使、暴行、脅迫のいずれかの方法により損なうことを目的とする団体に属する1人又は数名の者による一切の行為をいうものとする。」と規定し、かかる団体に属する者による一切の行為が適用対象とされていたのに対し、新テロ法1条は、「テロとは、圧力、暴力、恐怖、脅威、制圧、あるいは強迫などを以て、憲法で明らかにされている共和国としての特色・政治・法律・社会・政教分離・経済体制を狂わせること、国家と国民全体の不可分性に対しての破壊行為、トルコ国家や共和国の存在を危機に貶めること、国家当局の没落・崩壊を企て略取しようすること、基本的人権や自由を奪うこと、国家内外の治安や公の秩序あるいは健康に危害を与えるなどの目的を以て、ある組織に属した人物または多数の人物によって企てられたあらゆる行為をさす。」と定め、適用対象は、あくまで圧力、暴力、恐怖、脅威、制圧、あるいは強迫などの破壊活動を伴うものに限定されることとなった。
(b) テロリスト犯罪について、旧テロ法4条は、1条で定める目的をもって行われるトルコ刑法145条、150条、155条、169条(非合法組織への支援)、499条2項で定める犯罪と定義していたが、新テロ法4条は、さらにトルコ刑法151条ないし154条、157条、384条、国家治安裁判法9条で定める犯罪を加え、その範囲を拡大している。
(c) 加重規定については、改正前後を通じていずれも同旨であって、「テロ罪又はテロ目的の犯罪を犯した者については、関係法律に基づき、その受刑者の自由刑期あるいは罰金の半分が加重される。ただし、自由刑に対する限界は、重懲役刑36年、懲役刑25年、軽懲役刑10年を超えないものとする。」と定める(5条)。
(d) 公安職員の公表等に対する規制について、旧テロ法6条は、「テロリスト犯罪摘発に従事する公務員の氏名を公表した者、その名を挙げると挙げないとに関わらず、これらの者を批判対象とした者も、それだけで500万リラ以上1000万リラ以下の重罰金に処する。」と規定していたのに対し、新テロ法6条は、「氏名や身元を明らかにし、あるいは明らかにしなくとも、誰が標的であるか判明できる方法で、その相手に対しテロ組織により犯罪が行われることを吹聴する者、あるいはテロ取締りにおいて任務を遂行している公務職員の身元を公表する者、又はそれを吹聴する者、あるいは人々に目標を掲げる者、テロ組織の通達又は見解を印刷した者、あるいは広報を行った者は500万リラから1000万リラまでの重罰金刑に処される。」と定め、規制対象となる行為の態様をより詳細に規定している。
(e) 国家の不可分性に反する宣伝について、旧テロ法8条は、「トルコ共和国及び領土の統一性を破壊することを目的とする書面又は口頭による宣伝、集会、デモンストレーションは、その方法、意図及びその背景にある思想のいかんを問わず禁止される。そのような行為を行った者は、2年以上5年以下の懲役及び5千万リラ以上1億リラ以下の罰金に処する。」と規定していたのに対し、新テロ法8条は、1項で「トルコ共和国国家と国民の不可分性を破壊することを狙い、書物や演説でプロパガンダをもって、集会、デモ、行進を行ってはならない。これを行った者には、1年から3年の懲役と1億リラから3億リラまでの重罰金刑が科せられる。」と、2項で「1項で規定するプロパガンダ罪が定期刊行物で行われた場合…経営者に科せられる罰金は1億リラを下ることはない。…」と定める。
8条は、かねて、平和的方法によって意見を表明した作家、ジャーナリスト、親クルド政治家、知識人たちを起訴、収監するために多用されていたが、改正により、刑期が短縮され、懲役刑から罰金刑への変換と執行猶予が可能となった((g))結果、1996年11月までに、約270名の囚人が釈放された。また、被告人を有罪とするためには、検察官は、同人が国家の不可分性を破壊する積極的意思・故意を有することを証明しなければならなくなった。
(f) 管轄については、いずれも、通常裁判所ではなく国家保安裁判所が管轄するものとし、その手続は反テロリズム法及び国家治安裁判法が適用されると定める(9条)。
なお、国家保安裁判所は、1999年までは軍人裁判官を構成員として含んでいたが、同年6月、国家保安裁判法の改正により、文民裁判官に入れ替えられることとなった。
(g) 改正の前後を問わず、反テロリズム法に違反する行為に対して懲役刑が定められている場合、それを罰金刑その他の刑に転換し、又はその執行猶予を付することはできないものと規定する(13条)が、新テロ法は、8条に基づいて科せられた刑期決定に対しては、同条は適用されないとして、例外を認めている。
(h) 取締機関の犯罪については、旧テロ法15条は、「テロリズム犯罪防止のための職務に従事している警察、情報機関などの職員がその職務遂行中の行為に関して訴追された場合、3人以下の弁護人を付することができるものとし、その費用は所属する機関が負担し、懲役刑は免除されるものとする。」と規定していたのに対し、新テロ法15条は、「テロ対策において任務に就いている職員が取締り任務遂行の際に、彼らが犯罪を発生させたと主張される訴訟において、3人を限度として弁護士を付けることができ、支払は関係機関の費用で対応される。」と定め、懲役刑の免除規定を削除している。
b 懺悔法と恩赦法
1999年8月、トルコ国会は、懺悔法を可決している。同法によると、戦闘に関与していなかった反乱者だけが恩赦を得て、その他は刑期の短縮による恩典を受けることができる。この恩典を求める者は、反乱運動についての情報を提供しなければならない。PKKの創設者と高級幹部は、同法の恩典を受けることができない。なお、死刑判決を受けた上で同法による恩典を受けたPKKの党員に対する処罰は、最大限の減刑を受けても懲役期間が9年間を下回ることはないが、終身刑の判決を受けた者は6年間まで懲役刑が減刑され得ることになる。
また、2000年12月、恩赦法が可決されている。同法は、1999年4月23日より前に犯された特定の違反行為の実行犯は刑期を10年間減刑されること、また、残りの刑期が10年未満の者は直ちに釈放されること等を定めている。この法律の適用範囲には、非合法組織への援助と支持に関する犯罪も含まれており、PKKを支持したことを理由に有罪判決を受けた1660人の釈放につながったが、反テロリズム法違反については、いかなる恩赦もあり得ないことを憲法が定めているため、恩赦法の適用対象にならない。その後、上記基準時後に犯された犯罪をも適用範囲とする改正案が国会に提出、可決された結果、2002年9月までに、4万人を超える囚人が恩恵を受けた。
(ウ) クルド語の扱いに関する法令
1982年憲法がトルコ語以外の言語での出版を禁止していることに基づき、「トルコ語以外の諸言語での出版に関する法律」(1983年10月19日付け第2932号法)は、トルコ国民の母国語はトルコ語とし、トルコ語以外の言語による思想の表現等を禁止していたが、1991年4月、放送、出版、教育以外の場面での使用を解禁する内容に改正された。
そして、2000年及び2001年3月時点では、テレビ、ラジオ放送についてはトルコ語を用いることとされ、ニュース、評論、議論等をクルド語で放送することは禁止されているものの、ある程度のクルド語の放送は許容されていて、クルド語での放送の合法化の是非が議論されている状況にあり、実際にも、2002年2月、クルド文化及び調査財団がクルド語を話す学生に対する奨学金に資金提供したことで起訴されたが、無罪判決が言い渡されたり、同年4月、トルコ語を話さないことを理由に診療を拒否したとされる医師が当局の調査を受け、起訴された事例が報告されるなど、クルド語の使用は、トルコ社会に着実に受容されつつある。
さらに2002年8月3日、クルド語の教育や放送を解禁する法案が、民主化を促進する他の13法案とともにトルコ国会で可決された結果、町ではクルド語による出版物や音楽カセットテープなどが出回るようになったが、同法によっても、政党活動、選挙活動など民主主義の根幹をなす言論活動においてクルド語を使用することは、従前と同様、禁止されている。
エ 拷問に関する内外の対応について(甲13、21、29ないし31、36、38、39、46の1・2、乙36、37、39、77)
(ア) 各種国際機関による報告及び勧告
a トルコ政府は、拷問の禁止を定めた1982年憲法17条を受け、1988年8月2日、拷問等禁止条約を批准している。同条約20条に基づく国連拷問禁止委員会は、1990年ころ、国際的人権団体等からトルコにおいては拷問が広範囲に行われているという情報を得て、トルコ政府に対し、同年8月31日までに情報の検討に協力し、見解を明らかにするよう要請したところ、トルコ政府は、当初その協力要請を拒否したが、最終的に1992年6月6日から18日まで、特別報告者による訪問調査を受け入れた。
国連拷問禁止委員会は、1991年11月19日から1992年10月15日までに調査メンバーが受け取った情報と特別報告者がトルコを訪問して行った調査を基に、1993年11月9日、第6年次報告書の補記の中に、トルコに関する調査結果の「要旨」を含めることを決定した。
これによれば、トルコ政府は、拷問があった旨の証言は基本的にテロリストと思われる者から得られたもので、それらの者が拷問を受けたと主張するのはトルコを陥れるための策略であると主張しているが、たとえ、完全に明らかになった拷問の例がわずかしかないとしても、収集された多くの証言が拷問の方法の記述や拷問が行われた場所及び状況と一致するので、トルコにおいて、系統的な拷問があったことは否定されないとした上、ここにいう系統的な拷問とは、報告された拷問のケースが特定の場所又は特定の時間に偶然に生じたのではなく、少なくとも当該国家の領域の相当部分で、習慣として広範囲にかつ故意に行われたことが明らかな場合、又は政府の直接の意図から生じなくとも、拷問を用いる余地を実際に認めているような不適当な立法が存在する場合も含まれ、いかなる緊急事態といえども拷問を正当化することはできないとして、トルコ政府が速やかに拷問を終了させるための強制的かつ実効的な措置を採るよう勧告した。
b トルコは、1988年、「拷問及び非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰の防止のためのヨーロッパ条約」(欧州拷問等防止条約)を締結しているところ、同条約に基づいて設置される欧州拷問等防止委員会は、1990年以降、度々トルコに対する訪問調査を行い、報告書を公表した。
1990年の訪問に関する報告書では、拷問その他の重大な不当な取扱いはトルコの拘置場所における際立った特徴であること、具体的には、腕をつるすこと、犠牲者の後ろで固定した手首をつるすこと、体の敏感な部分(生殖器を含む)への電気ショック、生殖器を圧迫すること、足の裏を激しく打ち付けること、冷水を浴びせること、非常に狭くて暗く空気の通らない独房に長期間監禁すること、深刻な精神的屈辱などの形態による拷問の申立てが非常に多いこと、拘置所に収容されている人々の境遇について欧州拷問等防止委員会の代表団を安心させるものは何もなく、代表団ははぐらかされ、虚偽の情報を与えられたと結論付け、トルコ政府に対し、拷問その他の不当な取扱いと戦うための様々な措置(拘置期間の短縮、弁護士へのアクセス等)を採るよう勧告した。1991年の訪問に関する報告書では、医者の報告書などを入手、検討した結果、警察による拷問や不当な取扱いをなくすことに何らの進展も見られないとの結論を出し、上記の勧告を繰り返した。1992年の報告書においては、刑務所問題に関しては成果を生み出し始めたが、警察施設での拷問その他不当な取扱いに関する勧告を実施することについては何ら具体的な進展がないこと、トルコ政府による人権委員会は、徹底的な調査を行うのに必要な権限も能力も有していないことを指摘した。
そして、欧州拷問等防止委員会は、1996年12月6日、3回の訪問の調査を基に、「トルコに関する公式声明」を公表したが、これによれば、トルコ政府は、おびただしい数の命令や通達を出し続け、トレーニング・プログラムや人権教育行動計画を策定してきたが、有言実行のためには非常に長いプロセスが必要であって、最近でも少なからぬ数の人々が警察によって虐待を受け、うちサカーリャ刑務所の7名は腕を宙づりされた拷問によって全員の上肢の運動機能及び(又は)感覚機能が害され、その多くが回復不能であったことが明らかとなり、そのために使われた道具や電気ショックの装置も発見されたと報告した上、拷問その他の不当な取扱いに対する法的保障が強化されるべきこと、警察技術を継続的に研究する措置が奨励されるべきこと、検察官は拷問等の訴えを受けた場合には、迅速かつ実効的に対処すべきこと、刑事手続の改善が奨励されるべきことなどの勧告を行った。
c また、法律及び人権に係る欧州連合委員会の代表団は、1991年7月の報告書の中で、「拷問は、トルコに感情的、伝統的に非常に深く根付いている。それは、被拘留者を威嚇し懲罰する方法として、また尋問方法として使われる。それは、公務員が彼の仲間である市民を尊重する方法についての精神性の一部を形成する。多くのトルコの家庭では、夫が彼の妻を、父が彼の子供を殴るのが普通である。警察が、なぜ犯罪者を同様にすべきでないといえるであろうか。」と述べた。
さらに、1997年10月に欧州拷問等防止委員会が行った調査によると、トルコ国内の各地の警察は、法改正後の最大期間の勾留期間を遵守しているものの、集合的な犯罪の場合には、一旦釈放し再逮捕した事例もあり、弁護士との面会については、警察官が同席したり、無視された事例もあると報告されている。
d なお、国連経済社会理事会の人権委員会特別報告者は、1997年11月、問題は残るものの拷問の状況に実質的な緩和があったことを確認し、トルコ政府によって承認され許容される拷問はないと結論付けた。
国連特別書記も、1998年11月のトルコ訪問の結果、拷問が、政治の最高レベルで承認され、許容されるという意味での組織的なものではないことを認めたものの、自白を確保し、威嚇を行うために法執行機関が用いる手法として拷問が浸透しているという意味においては、全国の数多くの場所で行われている拷問は組織的という分類に十分値し、さらに、足の裏をたたく、パレスチナ式つり下げ、電気ショック、強姦の発生はアンカラ及びディヤバキルといういくつかの地方で大幅に減少したが、一方では、目隠し、冷水の放水、真っ直ぐなつり下げ、性的虐待、強姦の脅威、非常に侮辱的な言葉の使用、被拘束者又はその家族の生命又は身体の安全への脅威の作出などは、国の多くの部分に満ちていると指摘した。
e また、米国国務省は、例年、人権状況に関する国別報告書を作成、公表しているが、2002年報告のトルコに関する部分では、殺害や拷問に関与した警察官や治安関係職員に対して有罪判決が下されることが稀で、刑も軽いため、これらの職員は罰せられないという風潮が相変わらず助長されており、それが被拘束者に対する虐待を促していることや、弁護士による接見が認められない勾留の期間が拷問又は虐待の原因となっていることを指摘した。
(イ) トルコ政府の対応
a トルコ政府は、度重なる国際機関からの批判、勧告を受けて、1997年3月、刑事手続の改善のための立法的措置を採り、勾留における拷問の抑止を目的として、1人又は2人が犯した一般犯罪のために逮捕された人は、最も近い裁判官の前での罪状認否に必要な時間を除き、24時間以内に、権限ある裁判官の前で罪状認否しなければならないことを定めた。もっとも、犯罪が国家治安裁判所の管轄に属する場合には、この期間は48時間とされ、また、この期間は、国家治安裁判所の管轄に属する犯罪を含む各犯罪について、検察官の文書による命令によって合計4日間まで延長することができ、仮に4日以内に捜査が終了しなければ、検察官は、その期間を7日間まで延長することを裁判官に請求することができ、さらに、非常事態地域で犯され、国家治安裁判所の管轄に属する犯罪については、7日間の期間は検察官の請求と裁判官の決定により10日間まで延長できるなどの特別措置が設けられている。また、普通犯罪に問われた被勾留者は、身柄を拘束された後、いつでも弁護士と接見できることが規定されたが、国家治安裁判所の管轄に属する犯罪による被勾留者は、裁判官の命令による延長された拘束期間、すなわち4日後に、各自の弁護士と会うことができると定められている。
b トルコ政府は、1997年6月、人権保障に関する改革を開始すべく、外務省、内務省、司法省、教育及び保健省の各次官と治安部隊の代表からなる人権審議会を設置し、さらに、1999年、人権保障を向上させるための計画を策定し、軍人判事を国家保安裁判所から排除し、拷問事件や拷問隠ぺい事件に関する医療報告を偽造した場合の刑の上限を加重したほか、拘禁施設に対する検察官による抜き打ち検査を増加し、警察と憲兵に対する人権教育を実施し、同年、国会が国会人権委員会を設置するなどの措置を講じた。
他方、トルコの国会に設置された人権委員会は、全国6県の査察を実施し、2000年5月、イスタンブール、エルズルム、トゥンジェリ等の司法施設の査察についての報告書を発表した。それによると、多くの取調室で拷問道具が発見され、同委員会が聞き取り調査を行った被拘束者の多くが拷問を受けたと答えたこと、多くの拷問が罪に問われていないこと、その状況に責任があるのは、県知事と検事であること、それでも、1998年と1999年にはトゥンジェリ県でかなりの改善が見られたことなどを指摘している。
そして、2001年には124人、2002年には87人の警察職員が虐待又は拷問を行ったことを理由に短期停職などの行政罰を受け、2002年1月から11月までの期間に、検察は、警察とジャンダルマによる拷問事件を980件受理し、そのうち456件を処理し、そのうちさらに32パーセントに有罪判決が出されたが、524件は調査中であったと報告されている。
c それでも、トルコの人権協会の調査によれば、1997年の1年間で、拷問によるものを含む身柄拘束中の死亡者が114人、拷問を同協会に訴えた者が366人、思想を理由に身柄拘束された者が2万7308人、身柄の拘束を受けたジャーナリストが298人に上り、拷問又は虐待を受けた者の数は、1999年に594人、2000年に594人、2001年に862人、2002年に876人に上ったと報告されている。
オ 超法規的殺害・強制的失踪・非自発的失踪について(甲24ないし26、29、38、39、46の1・2、乙36、39、77)
トルコにおいては、PKKとの武力衝突が激しさを増すのと比例して、理由の見当たらない失踪者が増加し、そのうちのある者については、遺体となって発見されている。失踪事案のほとんどは、失踪者がPKKへの所属を疑われて自宅で逮捕され、警察署に連行されたが、その拘束について、警察当局が否定するというパターンによるものであり、トルコのいくつかの人権団体によると、トルコの一部の法執行官は、容疑者を最初に勾留する際に故意に登録を行わず、万一尋問中に容疑者が死亡した場合には、勾留記録が存在しないとの申立てを行うと報告されている。
トルコの人権協会は、1998年9月、トルコにおける強制又は非自発的失踪の9割は、クルド問題と関連があり、同年に発生した13件の被害者は、政治的反対勢力のメンバー、反政府系新聞のジャーナリスト、労働組合員、PKKの支援者とみなされた村人であったと報告している。
このように、トルコにおける強制又は非自発的失踪のほとんどは、治安組織によるものと考えられており、警察の記録保持基準が低いこと、治安警察が被拘禁者の家族への通知を組織的に避けることなどによって支えられているといわれているが、その実態が解明され、実行行為者や責任者がその行為について裁判を受けたり、起訴されたりすることは滅多になく、政府による対応は不十分なままであると評価されている。
もっとも、PKKとの武力衝突が沈静化したここ数年、かかる事案は顕著な減少傾向を示しており、米国国務省は、政治活動家の失踪者数は、1999年の36に比較して、2000年は皆無であったと報告している。
なお、PKKも、かつてはその戦闘員などを調達するために、若い男性を誘拐したり、その家族を脅したりすることがあったが、南東部におけるPKKの活動能力が低下したことや、獄中にあるオジャラン党首が国内から撤退することを呼びかけたことなどが原因で、現在では事実上なくなっている。
カ EUとの関係について(甲37、46の1・2)
トルコは、1964年以来、当時の欧州共同体(EC)の準会員であり、1987年4月にはEUへの加盟を正式に申請したが、EUは、トルコにおける人権侵害の歴史などを理由に、1993年までこれを却下してきた。EU加盟国首脳会議は、1997年12月、トルコをEU拡大の候補者から外したところ、トルコは、1998年6月までに次の候補リストにトルコが含まれなければ、EU製品をボイコットすると表明した。EUは、1998年6月、トルコにおける人権の歴史が最大の懸案事項であると指摘する一方で、トルコがEUの一般基準を満たすか否かを観察する経過報告書を定期的に作成することを決め、1999年のヘルシンキ首脳会議では、トルコがEU加盟候補国となることを宣言した。
EUは、1999年11月、トルコに関する報告書を作成し、絶え間ない人権侵害、少数民族の取扱いにおける重大な欠陥、軍部を統制する真の文民支配の欠如について見解を述べ、次いで2000年4月、懸念されたように、トルコにおける改善状況は、ヘルシンキ首脳会議以来あまり大きな進展が見られないと言明し、人権状況を改善すべくトルコ政府によって立案された2001年3月の国家計画についても、文面上はEUの条件のほとんどを満たしているが、あいまいな言葉で表現され、死刑の廃止、国家安全保障会議の改革、クルド語による放送や教育の法制化に取り組む姿勢は明確に示されておらず、果たして改革が実際に履行されるか疑問であるとして、EU加盟を先送りする決定をしている。
キ 帰国したクルド人の状況について(甲42の1ないし7、乙12、36、39、46、77)
英国移民局によると、トルコへ強制送還された者の扱いを継続的かつ公式に監視する組織又は政府は存在しないが、原則として、トルコ政府は、強制送還者が到着した際、その者に対する質問を実施し、もしその者が何らかの理由で警察に知られていれば、尋問のために拘束されることがあるが、ほとんどの庇護希望者は、虐待を受けることなく、定型的な尋問の後で釈放され、外国で庇護を希望したという理由だけで迫害を受けることを示すものはないこと、ただし、送還後に正体不明の者に連行され、警察官に殴打され、逮捕、拘束される事案が増加しており、分離主義者と疑われる者や政治的デモに参加した者は、虐待を受ける可能性を排除することができないこと、1999年までの10年間で強制送還された庇護希望者は6416人であるが、そのうち虐待を受けたことが報告されたのは70件であり、最も多い年は1997年であったこと、もっとも、強制送還者に対する扱いを監視する組織は存在しないから、報告された人数よりも多くの強制送還者が虐待を受けた可能性があることなどが報告されている。
(2)  以上の認定事実によれば、トルコにおいては、その一体性を標ぼうする建国の理念を反映して、クルド人がその民族的独自性を主張することに反発、嫌悪を感ずる勢力が根強く存在し、特に軍政下はもちろんのこと、民政下においても強力な政治的発言権を有する軍部、治安当局においてはその傾向が強かったところ、左翼革命主義を掲げるPKKが、クルド民族主義を前面に押し出して武力による分離独立闘争を挑んだことから、せい惨な戦いが展開されることになったものであり、この間、PKKが公務員や政府側に協力的とみなした住民らに対するテロ活動を行ったこともあって、治安部隊側は、PKK構成員はもとより、その支援者、同調者との疑いを抱いた者、さらには人権活動家らに対し、超法規的な逮捕、拘束、拷問、処刑、追放などを含む大規模な人権侵害行為を引き起こしたと認められ、これによれば、トルコにおいては、いったん治安当局から上記のような疑いをかけられた場合には、その者は人権侵害行為の対象とされ、耐え難い肉体的、精神的苦痛を被るおそれが客観的に存在すると認められる。
(3)  この点について、被告らは、トルコにおける民主化の進展状況から、クルド人であるが故に重大な人権侵害行為を受けるおそれは存在しない旨主張するところ、前記認定事実のとおり、なるほど、クルド人であっても、その独自性やトルコからの分離独立を主張することなく、トルコ社会に同化して生活している者については、人権侵害行為を受けるおそれはなく、現に、都市部を中心に、政界を含めたトルコ社会において有力な地位を占めている者も少なからず存在する上、トルコにおけるPKKと治安部隊との武力衝突が、1999年ころから大幅に減少しているのと軌を一にして、治安当局による人権侵害状況に顕著な改善が見られるようになったと認められる。そして、トルコ政府自体が、憲法や反テロリズム法の改正などを通じて、人権侵害状況の改善に取り組んでいることは疑う余地がなく、このことは、近年になって、警察官らによる超法規的な人権侵害事件について、刑事訴追が行われるようになったと報道されていることや、治安対策としての目的があるにせよ、クルド人が多数を占める南東部を対象とした開発計画が実施されていることなどによっても裏付けられる。
しかしながら、上記訴追は、人権侵害事件であることが客観的に明白なものに限られ、無罪率が高く、有罪となっても量刑が軽いなどの問題点が指摘されている上、武力衝突の沈静化は、オジャランの逮捕と同人による武装闘争放棄の呼びかけ、シリアからの援助停止に伴うPKKの弱体化、トルコ治安部隊による軍事的制圧などの要因によるものであり、トルコ政府による民主化への取組みも、EU加盟を希望するトルコ政府に対するEU諸国や国連などからの外圧に負うところが大きいと考えられる。加えて、上記のような大規模な人権侵害を引き起こしたことに多大な責任を有すると考えられる軍部を始めとする治安組織が、抜本的な改革を受けて民主主義的な組織に改編されたとの報道はない(国家レベルにおいても、軍人を構成員に含む国家保安評議会による影響力が、低下したとはいうものの、いまだに残っている。)ことなどに照らすと、トルコの社会組織、とりわけ治安組織において人権尊重の姿勢が根付いているとは認め難く、もともと、民主化が進展する以前であっても、トルコの法体系上、拷問や超法規的処刑が許されていたわけではなかったことをも考慮すると、いったん、PKKの支援者ないし同調者との疑いをかけられた場合に、果たして法律に基づいた正当な取扱いを受け得るかははなはだ疑問であるといわざるを得ない。現に、本件の各処分時においても、親クルド政党員や、治安当局にとって目障りな人権活動家、ジャーナリストなどに対する恣意的な逮捕、拘束、拷問を含む人権侵害行為は、減少しつつも依然として存在すると報告されているなど、国際的には、改善への取組みが不十分であるとの認識が大勢を占めている。
そうすると、トルコにおいては、民主化が一定程度進展しつつあり、今後もこのような動きは期待できるとはいうものの、本件の各処分時において、クルドの独自性を主張したり、PKKの主張に共感を示すクルド人が、治安当局によって、その人種及び政治的意見を理由として、人権侵害行為を被る客観的なおそれが解消されたとはいえないというべきであるから、被告の上記主張は採用できない。
3  争点(1)ウ(原告固有の事情)について
(1)  前記前提事実、当事者間に争いのない事実及び証拠(甲2、43の1ないし3、44、45、乙5、9、10、13、14、17、19、24、26、28、原告本人)を総合すれば、以下の事実が認められる。
ア 原告は、1973年○月○日、クルド人である父Bと同じく母Cの間に生まれた5人の子供のうちの長男(3番目の子供)である。生まれた場所は、シリア国境の北に当たるトルコ南東部(ただし、その中では中央寄りに位置する。)のアディヤマン県内にあるエセンジェというクルド人が9割以上を占める村であるが、父は、1980年からアディヤマン県内の都市部においてブティック関係の店2店舗を親族と共に経営し、経済的には豊かな一家として知られていた。
原告は、7歳で小学校(5年制)に入り、2年間のブランクの後、中学3年に編入を許されたが、1989年、15歳のときに中学を中退し、その後、父の営むブティックを手伝い、販売を担当するようになった。
イ 原告の父方の実家に住んでいた叔父は、原告が幼いころ、村に来たトルコ軍から、銃を示して「(クルドの)ゲリラと戦え。」と命じられたが、叔父が「銃は要らない。」と断ったところ、自宅から追い出され、危険を感じた叔父一家は、村を離れて町へ移住することを余儀なくされた。無人となった上記実家は、その後、崩れ落ちて廃屋となっている。
また、原告は、小学校入学前ころ、伯父のDの背中にやけどのあとがあるのを見つけ、その理由を尋ねたところ、伯父は、18歳のころ、ゲリラに食料を提供したため、令状なしで憲兵によって山中に連行、尋問され、首筋に火のついたビニールを突っ込まれるなどの虐待を受けたときにできたと説明した。
原告は、学校ではクルド語の使用を禁じられ、理解できないトルコ語の使用を強制されたため、トルコ人教師や生徒らから、「クロ(ロバ)」等と罵られることがあり、その他差別的な取扱いに傷つくことが多かった。
ウ このような経験を経て、原告は、次第に自分たち(クルド)の言葉、文化を守りたいとの思いを強め、中学校の放課後などに友人たちとPKKに関する勉強をするうち、その主張に共感するようになり、仕事を始めたころから、PKKを支援すべく、金銭は2か月に1度程度、衣料品、食料品、薬などの物資は1か月に1度程度、ゲリラに加わった友人やその弟に渡すようになり、提供した金銭の総額は、1万5、6千ドルに達した。
原告が17歳のころ、憲兵が家に来て、「なぜPKKに支援するのか。嘘をつくな。」と追求し、ヘルメットで眼の近辺をたたいたが、証拠が発見されなかったため、それ以上の事態にはならなかった。
また、原告は、18歳の時、アディヤマン県の中心地で行われたクルド市民の行進に、政府批判の言葉を書いたプラカードを持って参加したことがあるほか、年に5、6回程度、クルド人に対する弾圧を非難したり、オジャランの思想を賞賛する内容のポスターはりを行うなどした。
その後、原告は、1993年8月30日から1995年1月28日までの間、兵役に就いたが、ここでも「クロ」とか「おまえはどのゲリラの洞くつから来たのだ。」などとからかわれたり、ののしられたりすることがあったほか、兵役を終えた後、ゲリラに加わった上記友人が、1994年に山中で殺害され、その弟も行方不明になったことを知って、ショックを受けた。
エ 原告は、その後も折りに触れてPKKに対する援助活動を行うことがあったところ、1995年10月、警察官の来訪を受け、無理矢理警察署に連行された上、2人の警察官から、「活動しているだろう。あちこちにポスターをはっているらしい。」と尋問され、腹部を殴られたり、頭部や顔面を平手打ちされるなどの暴行を受けたが、原告が容疑を否認し、他に証拠がなかったことから、2時間程度の拘束で帰宅を許された。
しかし、原告は、恐ろしさのあまり家に帰ることができなくなり、親戚の家で寝泊まりするようになったところ、1996年ころ、家に電話した際、家人から原告に対する逮捕状が出ていると聞かされた。そのため、原告は、実家の経済的支援を得て、国外へ脱出することを決意し、ブローカーに多額の金を渡してその手続を依頼し、その準備が整った1997年1月、イスタンブール空港からトルコ航空機に搭乗して出国した。
オ 原告は、本邦に入国してから、PKKに対する送金等の支援活動を行ったことはないが、3月21日に行われるネブルズ祭や、トルコでクルド人が初めて政府と戦った日を記念する「ジョの日(8月25日)」の行事に例年参加し、クルドの問題を日本でアピールするデモ行進にも参加したことがある。
なお、日本の国会議員が、2003年9月、トルコを訪問した際、国民議会の副議長は、同議員に対し、埼玉に開設されたクルド国民議会(KADEK)の代表事務所はテロリストの拠点となっていると指摘して、遺憾の意を表明するなど、他国におけるPKK支援の状況にも深い関心を抱いていることを示している。
カ 日本での仕事が見つけられないとして難民申請を取り下げ、1998年10月にトルコに帰国したAは、1999年7月、自宅において息子と争いになり、同人によって殺害されたと現地の新聞によって報道されたが、クルド人の間では、殺害状況や捜索の状況から、対テロを目的とする治安当局の関与を疑う意見もある。
他方、日本において難民認定を申請したクルド人のうち、申請を取り下げて帰国した者が相当数存在するが、そのうちのかなりの者は、母国において迫害を受けるおそれがあるとの申立ては虚偽であり、実際は仕事に従事して資金を稼ぐのが目的であったことを自認している。
もっとも、原告代理人である大橋弁護士が、第1次の難民不認定処分の後、かつて難民申請をしていたが、その後、帰国したクルド人の様子を確認すべく、現地に赴いて調査したところ、そのうちの一人から、帰国後、何度も警察による取調べを受けたり、暴行を受けたことがある旨の状況説明を受けた。
(2)  以上の認定事実によれば、原告は、かねてからPKKの主張に共感し、密かにその支援活動を行っていたところ、本邦に入国後は、PKKに対する支持の姿勢を公然と表明するようになったと認めることができる。
(2)  この点につき、被告らは、上記認定事実の根拠となった原告の供述等は信用できないなどと主張するので、認定理由について若干補足する。
ア 被告らは、まず、原告の供述等には、逮捕状が発付されていることを知っていたか、同人がPKKの支援者か党員かなどの点について、変遷があり、信用できない旨主張するところ、なるほど、前掲各証拠を外形的に見る限り、被告らの指摘に係る供述上の変遷が存在すると認められる。
しかしながら、前掲各証拠によれば、原告の難民性を基礎付けると考えられる根幹部分、すなわち、〈1〉原告は、年少のころ、その親族がPKKの支援者であることを疑われて負傷したと聞いたこと、〈2〉治安部隊によって原告の叔父一家が住居からの退去を強いられたと聞いたこと、〈3〉原告は、学校や軍隊でクルド人であることを理由にした蔑みを経験したことから、クルド人の自主独立を標榜するPKKの活動に共感するようになったこと、〈4〉原告は、父親の仕事を手伝うようになって以降、PKKを経済的に支援し、デモ行進に参加したことがあること、〈5〉警官にPKKの支援者であると疑われて連行され、暴行を受けたことがあること、〈6〉本邦入国後は、PKKに対する支援活動は行っていないが、クルド人の伝統的祭り等に参加していること、以上の供述内容は、基本的にほぼ一貫していると認められる上、被告が供述の変遷として指摘する部分についても、難民申請者の供述に関する心理的特異性(救済を得ようとする余り迫害の事実を誇張したり、官憲に対する不信感から事実を隠匿しようとしたり、心的外傷後ストレス障害等の影響から前後の供述が整合していないことなどは、しばしば見られることである。)、通訳技術上の巧拙、調査担当者の要約手法などによるものとも理解し得るから、全体としての信用性を否定することは相当でない。
イ 次に、被告らは、本件逮捕状等や住民登録票は偽造されたことが明らかである旨主張する。
そこで判断するに、証拠(甲3及び4の各1・2)によれば、本件逮捕状等の一部の印字がふぞろいであること、記載された原告の生年月日が事実と異なっていること、逮捕容疑には罪名、罰条の記載がなく、犯行の時期や犯行の場所も明確さを欠いていること、以上の事実が認められる上、証拠(乙68、69、77)によれば、法務省入国管理局審判係長が、原告から提出された本件逮捕状等の真偽について調査したところ、調査機関を通じて、管轄外決定は事実と関連が認められなかったこと及び本件逮捕状等がアディヤマン簡易刑事裁判所に属するものではないことが確認されたとの回答を得たこと、トルコ警察庁テロ対策局局長が、難民申請者の中にはブローカーに頼んで逮捕状等の偽造文書を作成している者があると回答していること、以上の事実が認められ、これらを総合すれば、本件逮捕状等は偽造されたものであるとの疑いを払拭することができない(前記のとおり、原告が本人名義の旅券を得て出国できた事実も、この疑いを強めるものである。)。
しかしながら、我が国の水準からみて体裁上の不具合があるからといって、直ちに本件逮捕状等が偽造であることにつながるものではないし、上記法務省係官による調査内容の詳細が判明しない以上、調査結果の妥当性を検証することができないから、偽造であると断定することにもちゅうちょせざるを得ず、結局、真偽不明というほかない。仮に偽造されたものであるとしても、証拠(原告本人)によれば、本件逮捕状等は、原告が、第一次不認定処分後、トルコに在住する親族に資料の送付を依頼したところ、原告に送られてきたものであることが認められ、このような入手の経緯に照らせば、原告自身がその作成に積極的に関与しているとまでは認められない。
次に、証拠(甲5の1・2)によれば、本件住民登録票には、原告の両親及び兄弟姉妹の氏名と住所が記載されているほか、その備考欄に「X 警察にて捜索中」と記載されていることが認められるところ、証拠(乙68)によれば、トルコに赴いた法務省入国管理局職員と面会したトルコ内務省戸籍・国籍局F次長が、戸籍に兵役拒否者や犯罪者であることなどを記載することはなく、住民登録票も戸籍の記載事項を転記したにすぎないから、かかる情報が記載されることはないこと、住民登録票の備考欄は、婚姻等身分事項の変遷の詳細を記入するためのものであって、逮捕状が請求されている旨の記載はあり得ないことなどを回答したこと、トルコ警察庁テロ対策局局長も、刑事手続と戸籍制度は別個のもので、戸籍に逮捕状が発付されていることが記載されることはあり得ない旨回答したこと、以上の事実が認められ、これによれば、本件住民登録票は偽造に係るものであるとの疑いを払拭できないというべきである。
他方、証拠(甲45、乙16、原告本人)によれば、本件住民登録票は、三重県鈴鹿市において建設業を営むEが、原告との間で養子縁組をするために、その必要書類として原告がトルコに居住している親族に依頼して取り寄せたものにすぎないことが認められ、これに、前記のとおり、トルコにおける治安機関が必ずしも法令を遵守しない体質を有することを考慮すると、これについても、結局、真偽不明というほかなく、また、上記取寄せの経緯に照らせば、仮に偽造されたものであるとしても、原告自身がその作成に積極的に関与しているとまでは認められない。
そうすると、本件逮捕状等及び本件住民登録票については、前記認定事実を客観的に裏付けるものとはいえないが、逆にこれを覆すに十分であるともいえないと判断するのが相当である。
4  争点(1)エ(原告の難民該当性)について
(1)  一般に、国家は、自らを弱体化させるような動きに対し、軍事、治安組織を可能な限り動員してこれを阻止しようとする本質を有するというべきであり、このような国家の自衛行為自体を直ちに難民条約上の迫害に当たると判断するのは適切ではなく、とりわけ実情を熟知しているとはいい難い外部者としては、慎重な態度が要請されるというべきである。しかしながら、歴史的に形成されてきた民主主義や人権保障の重要性が国際間で広く認識されるようになり、難民条約もかかる認識を前提として締約されていると考えられる以上、その理念を大きく損なうことが明らかな手段、方法による人権侵害行為については、もはや国家の自衛権の発動として肯認できる範囲を超えているというほかなく、かかる当事国から逃れてきた外国人については、その具体的状況を検討した上で、迫害から逃れた難民に当たると認定されることもやむを得ないというべきである。ちなみに、政府自体は、そのような人権侵害行為を容認しているわけではないとしても、政府組織に属する一部の人々が、国の法令によって確立された基準を尊重せず、かかる行為を推進している場合に、これを阻止する効果的な措置を講じていないときは、難民条約にいう迫害の存在を肯定するのが相当である(ハンドブック65参照)。
これを本件について見るに、前記2及び3の認定・判断を総合すれば、原告は、トルコ国内においてPKKを支援する活動を行い、本邦に入国してからもクルド人の置かれた状況の改善を訴えるデモ等へ参加しているところ、これらの行為は、反テロリズム法などによって、取締りの対象とされていることが認められるから、原告は、同法4条(刑法169条)ないし8条に違反するとの容疑で逮捕、訴追され、普通犯罪と比較して重い処罰を受ける可能性があるばかりか、その過程において、法律の定める刑事手続によらない虐待、暴行、拷問を受けるおそれがあると判断することができる。
もっとも、原告が警察官によって連行され、暴行を受けた経験を有するといっても、短時間で帰宅を許され、さらには多額の金銭を提供してブローカーに依頼した結果によるとはいえ、本人名義の旅券の交付を受けられたことなどに照らすと、上記連行は、単なるいやがらせないし日常的な情報収集活動にすぎなかったとも考えられ、トルコの治安当局が原告をPKKの支援者であると確定的に認定し、その行方を追及していることについて疑問を挟む余地がある(前記のとおり、本件逮捕状等や本件住民登録票も、これらが偽造された可能性を否定できない以上、この疑問を解消するものとはいえない。)。
しかしながら、前記のとおり、治安当局による人権侵害状況は、かなり改善されつつあるとはいえ、本件の各処分時においても、PKKの支援者ないし同調者との疑いを抱かれた者や、政府に反抗的と考えられたクルド人に対する恣意的な身柄拘束、暴行、虐待などの行為が無くなったわけではないことに照らすと、トルコにおいてPKKに対する支援活動を行い、我が国でもそのことを公然と表明した以上、外国におけるPKK支援状況についても深い関心を抱いている治安当局によって人権侵害行為の標的となると考えることについて客観的な根拠を欠くと判断するのは相当でない。
(2)  この点に関し、被告らは、人が政治的犯罪の故に訴追又は処罰の対象となっている場合には、訴追が「政治的意見」に向けられたものか又は政治的な動機による「行為」に向けられたものであるかを区別しなければならず、後者に対する処罰は、原則として各国の主権に委ねられるべき事項であって難民条約の対象とはならないところ、特にテロリズムは強い可罰性を有するから、原告がPKKに対する支援活動を行っていたことに対し、反テロリズム法が適用されて取締りの対象とされたとしても、難民条約上の迫害には当たらない旨主張する。
しかしながら、前記認定事実によれば、原告の行った行為は、クルド人の地位向上という政治的動機に基づき、分離独立の理念に共感したPKKに対して金銭等を提供したり、スローガンを記載したポスターをはったり、集会・デモ行進に参加したというにすぎず、原告自身が暴力行為を行ったとか、これに用いられる武器弾薬などの輸送を手伝ったといった、テロリズムに直接結び付く性質のものではないことが認められる。にもかかわらず、原告のこれらの行為に対して、反テロリズム法4条ないし8条が適用されることになれば、PKKへの支援行為についてはトルコ刑法169条で定める3年以上5年以下の重懲役刑の1.5倍の自由刑が、ポスターはりや集会、デモ行進への参加行為については、1年以上3年以下の懲役及び1億リラから3億リラまでの重罰金が科されるおそれがあるところ、予想されるこのような刑罰は、原告の行為の性質に照らすと、民主主義国家における刑罰と比較して、著しく重いと考えられる。加えて、トルコにおける治安活動の実態に照らせば、その訴追の過程において、適正手続が保障されないまま、暴行や拷問等の人権侵害行為が行われる可能性を否定することはできない。
そして、原告の行った上記の各行為が、難民条約1条F(b)の規定する「重大な犯罪」に該当するものでなく、同条Fの定めるその他の事由にも該当しないことは明らかであるから、原告に対する難民条約の適用が排除されるべきではない。
(3)  したがって、原告については、人種又は政治的意見を理由として、逮捕、訴追され、上記のような重い刑罰を科され、あるいは、拷問等を受けたりするおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すると認められるから、原告は条約難民に該当すると判断するのが相当である。
そうすると、本件不認定処分は、その処分時において、原告の条約難民性についての判断を誤ったものというほかなく、違法な処分として取消しを免れない。
5  争点(2)(本件裁決は無効か)について
(1)  退去強制事由の存在について
原告は、前記前提事実(1)記載のとおり、在留期限である平成9年4月30日を超えて本邦に残留している者であり、法24条4号ロに該当すると認められる。
(2)  難民性と在留特別許可における法務大臣の裁量権について
国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるか否か、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかなどを当該国家が自由に決定することができるものとされていて、外国人は我が国に入国する自由を保障されているものではないと解すべきことは前記のとおりであり、これからすると、法務大臣は、条約等によって特別の制約を受けない限り、法24条各号所定の退去強制事由を有する外国人に対して、在留特別許可を与えるか否かを決するにつき、政治的、外交上の見地からする裁量権を有するというべきであり、かつその裁量の範囲は、既に適法な在留資格を有して我が国に在留している者に関する在留期間の更新などの場合以上に広範であるというべきである。
ところで、難民条約等は、その締約国に対し、難民の定義に該当するすべての「難民」、「領域内にいる難民」、「合法的にその領域内にいる難民」、「合法的にその領域内に滞在する難民」等に分けて、各種の保護を与えることとしている(条約の関係各条及び議定書1条1項)。
他方、我が国においては、難民条約及び議定書が昭和56年10月15日及び昭和57年1月1日にそれぞれ承認され、いずれも後者の日から発効するのに合わせて、従前、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」4条により法律としての効力を有するものとされていた出入国管理令が、昭和56年法律第86号により、「出入国管理及び難民認定法」と改称された上、従前からの出入国管理に関する規定のほか、難民認定手続等についても新たな規定(18条の2、第7章の2(61条の2以下)及び70条の2)が設けられ、同日から施行されている。そして、難民条約等と入管難民法の各規定を比較すると、「本法に在留する外国人で難民の認定を受けている者」に交付される法61条の2の6の難民旅行証明書は、条約28条の「合法的にその領域内に滞在する難民」に対して発給されるべき「領域外への旅行のための旅行証明書」に相当するものであり、法70条の2の「難民である」者が、その生命等が害されるおそれのあった領域から直接本邦に入った場合に、そのおそれがあることにより、いわゆる不法入国、不法上陸、不法残留及び不法在留の罪を犯した者について、犯罪後遅滞なく入国審査官にこれらの事実を申し出たものについては、必要的に刑を免除することを定めているのは、条約31条の「その生命(等)が……脅威にさらされていた領域から直接来た難民」に対し、「不法に入国し又は不法にいることを理由として刑罰を科してはならない」を受けたものと考えられる。
そうすると、法70条の2が、難民条約31条を受けて単に「難民であること」をもって要件の一部としているのとは異なり、法61条の2の6が難民認定を受けていることを要件として規定しているのは、「合法的にその領域内に滞在する難民」に限定する趣旨であり、法61条の2の5及び61条の2の8が難民認定の効果として、永住許可及び在留特別許可の要件の緩和を定めていることも考慮すると、結局、入管難民法上の難民認定手続は、条約難民が合法的に日本に在留するための手続にほかならず、これ以上でもこれ以下でもないというべきである。したがって、難民認定を受けられなかったからといって、合法的に日本に在留すること以上の保護が受けられないというものではなく、当該外国人が実体的に「難民」でないことまで確定するものではないと解される。
ところで、難民条約33条1項によれば、「いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と規定しているところ、ここにいう難民は、合法的に滞在する難民に限定されるものではなく、その滞在又は居留が不法である難民も、上記原則の保護の対象とされなければならない。しかるところ、入管難民法においては、法24条各号所定の退去強制事由の一に該当する旨の入国審査官の認定(法47条2項)、これに対する容疑者からの口頭審理の請求を受けてするその認定に誤りがない旨の特別審理官の判定(法48条7項)を経て、これに対する異議の申出が理由がない旨を法務大臣が裁決した場合、その通知を受けた主任審査官は、退去強制令書を発付しなければならないとされている(法49条5項)が、その送還先は、原則として、その者の国籍又は市民権の属する国とされ(法53条1項)、この国に送還することができないときは、本人の希望に従って直前の居住国等のいずれかに送還されるものの(同条2項)、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除いては、送還先には、条約33条1項に規定する領域の属する国を含まないものとする(法53条3項)ことによって、ノン・ルフルマン原則が担保されている。
しかして、一口に当該外国人を送還するといっても、送還先とされた相手国の同意や受入れ態勢を無視して実現できるものではなく、さらには、その国の国情いかんによっては、人道上の問題を生じかねないことから、どの国に送還するのが相当か、あるいは送還先として適当な国が見当たらないなどの場合に送還自体が相当かについて、各国の国情を踏まえた高度な政治的判断が求められるべきところ、かかる判断主体としては、退去強制令書の発付につき裁量権を有しない主任審査官ではなく、法務大臣が適当であることはいうまでもない。したがって、法務大臣は、上記異議の申出に対する裁決を行うに当たり、法50条所定の在留特別許可を与えるか否かを決する過程で、当該外国人の「難民」該当性を判断した上、これが肯定される場合は、送還先をどの国にするか、あるいは送還自体の適否を判断すべきであり、難民該当性が肯定されるにもかかわらず、上記のような判断を加えることなく、異議の申出は理由がないとの裁決をすることは、特段の事情のない限り、法務大臣に与えられた裁量権を逸脱ないし濫用するものとして、違法との評価を免れないというべきである。
(3)  本件裁決の効力について
これを本件についてみるに、本件裁決時である平成12(2000)年1月7日時点において、原告が実体上の条約難民に該当すると認められることは前記のとおりであるから、被告大臣は、上記の説示したところに従って、在留特別許可を与えるか否かを決するに当たり、送還先の選定や送還自体の適否を判断すべきところ、本件裁決は、単に「異議申出は理由がない」との結論を示しているにすぎない(乙31)ことから外形的にも明らかなとおり、この点について何らの判断を加えることなく、原告が難民条約33条2項に該当する者でないにもかかわらず、同条1項のノン・ルフルマン原則に違反して、本国へ送還しようとするものであって、このような裁決は、在留特別許可に際しての被告大臣の広範な裁量権を前提としても、それを大きく逸脱ないし濫用するものというほかなく、その違法の程度は著しくかつ明白というべきであるから、本件裁決は無効と判断するのが相当である。
6  争点(3)(本件発付処分は無効か)について
法49条5項は、「主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、……退去強制令書を発付しなければならない。」と規定し、同条3項の法務大臣による裁決と退去強制令書の発付処分の両者が、いずれも退去強制という同一の目的に向けられ、相結合してその効果を完成する一連の手続を構成する関係にあり、かつ退去強制令書の発付処分の法的根拠が上記裁決にあることを明らかにしている。
しかるところ、前記判示のとおり、本件裁決は、重大かつ明白な違法があって無効と判断すべきものであるから、これに法的根拠を置く本件発付処分も、同様に重大かつ明白な違法があるというほかなく、無効と判断するのが相当である。
7  結論
以上の次第で、原告の本訴請求はいずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して(同法65条は行政事件訴訟法35条の関係で摘示しない。)、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 加藤幸雄 裁判官 舟橋恭子 裁判官 平山馨)


「選挙 ビラ チラシ」に関する裁判例一覧

(1)平成23年 1月18日  東京地裁  平22(行ウ)287号 政務調査費交付額確定処分取消請求事件
(2)平成22年 6月 8日  東京地裁  平21(行ウ)144号 難民の認定をしない処分取消等請求事件
(3)平成21年 2月17日  東京地裁  平20(行ウ)307号 難民の認定をしない処分取消等請求事件
(4)平成21年 1月28日  東京地裁  平17(ワ)9248号 損害賠償等請求事件
(5)平成20年11月28日  東京地裁  平19(行ウ)435号 難民の認定をしない処分取消等請求事件
(6)平成20年 9月19日  東京地裁  平17(特わ)5633号 国家公務員法被告事件
(7)平成20年 7月25日  東京地裁  平19(行ウ)654号 政務調査費返還命令取消請求事件
(8)平成20年 4月11日  最高裁第二小法廷  平17(あ)2652号 住居侵入被告事件 〔立川反戦ビラ事件・上告審〕
(9)平成20年 3月25日  東京地裁  平19(行ウ)14号 難民の認定をしない処分取消等請求事件
(10)平成19年 6月14日  宇都宮地裁  平15(ワ)407号 損害賠償請求事件
(11)平成18年12月 7日  東京高裁  平17(ネ)4922号 損害賠償等請求控訴事件 〔スズキ事件・控訴審〕
(12)平成18年 4月14日  名古屋地裁  平16(ワ)695号・平16(ワ)1458号・平16(ワ)2632号・平16(ワ)4887号・平17(ワ)2956号 自衛隊のイラク派兵差止等請求事件
(13)平成17年 9月 5日  静岡地裁浜松支部  平12(ワ)274号・平13(ワ)384号 損害賠償請求事件、損害賠償等請求事件 〔スズキ事件・第一審〕
(14)平成17年 5月19日  東京地裁  平12(行ウ)319号・平12(行ウ)327号・平12(行ウ)315号・平12(行ウ)313号・平12(行ウ)317号・平12(行ウ)323号・平12(行ウ)321号・平12(行ウ)325号・平12(行ウ)329号・平12(行ウ)311号 固定資産税賦課徴収懈怠違法確認請求、損害賠償(住民訴訟)請求事件
(15)平成16年11月29日  東京高裁  平15(ネ)1464号 損害賠償等請求控訴事件 〔創価学会写真ビラ事件・控訴審〕
(16)平成16年10月 1日  東京地裁  平14(行ウ)53号・平14(行ウ)218号 退去強制令書発付処分取消等請求、退去強制令書発付処分無効確認等請求事件
(17)平成16年 4月15日  名古屋地裁  平14(行ウ)49号 難民不認定処分取消等請求事件
(18)平成15年 4月24日  神戸地裁  平11(わ)433号 公職選挙法違反被告事件
(19)平成15年 2月26日  さいたま地裁  平12(ワ)2782号 損害賠償請求事件 〔桶川女子大生刺殺事件国賠訴訟・第一審〕
(20)平成14年12月20日  東京地裁  平10(ワ)3147号 損害賠償請求事件
(21)平成14年 1月25日  福岡高裁宮崎支部  平13(行ケ)4号 当選無効及び立候補禁止請求事件
(22)平成13年12月26日  東京高裁  平13(ネ)1786号 謝罪広告等請求控訴事件
(23)平成12年10月25日  東京高裁  平12(ネ)1759号 損害賠償請求控訴事件
(24)平成12年 8月 7日  名古屋地裁  平10(ワ)2510号 損害賠償請求事件
(25)平成12年 6月26日  東京地裁  平8(ワ)15300号・平9(ワ)16055号 損害賠償等請求事件
(26)平成12年 2月24日  東京地裁八王子支部  平8(ワ)815号・平6(ワ)2029号 損害賠償請求事件
(27)平成11年 4月15日  東京地裁  平6(行ウ)277号 懲戒戒告処分裁決取消請求事件 〔人事院(全日本国立医療労組)事件〕
(28)平成 6年 3月31日  長野地裁  昭51(ワ)216号 損害賠償等請求事件 〔長野東電訴訟〕
(29)平成 5年12月22日  甲府地裁  昭51(ワ)289号 損害賠償請求事件 〔山梨東電訴訟〕
(30)平成 4年 7月16日  東京地裁  昭60(ワ)10866号・昭60(ワ)10864号・昭60(ワ)10867号・昭60(ワ)10865号・平2(ワ)10447号・昭60(ワ)10868号 立替金請求併合事件 〔全逓信労働組合事件〕
(31)平成 2年 6月29日  水戸地裁  昭63(ワ)264号 市立コミュニティセンターの使用許可を取消されたことによる損害賠償請求事件
(32)昭和63年 4月28日  宮崎地裁  昭47(行ウ)3号 行政処分取消請求事件 〔宮崎県立大宮第二高校事件〕
(33)昭和57年 4月30日  東京地裁  昭56(行ク)118号 緊急命令申立事件 〔学習研究社緊急命令事件〕
(34)昭和56年 9月28日  大阪地裁  昭48(ワ)6008号 謝罪文交付等請求事件 〔全電通大阪東支部事件〕
(35)昭和55年 9月26日  長崎地裁  昭50(ワ)412号 未払給与請求事件 〔福江市未払給与請求事件〕
(36)昭和54年 7月30日  大阪高裁  昭53(行コ)24号 助成金交付申請却下処分無効確認等請求控訴事件
(37)昭和53年 5月12日  新潟地裁  昭48(ワ)375号・昭45(ワ)583号 懲戒処分無効確認等、損害賠償金請求事件 〔新潟放送出勤停止事件〕
(38)昭和52年 7月13日  東京地裁  昭49(ワ)6408号 反論文掲載請求訴訟 〔サンケイ新聞意見広告に対する反論文掲載請求事件・第一審〕
(39)昭和50年 4月30日  大阪高裁  昭45(ネ)860号 損害賠償ならびに謝罪文交付請求控訴事件
(40)昭和47年 3月29日  東京地裁  昭47(行ク)8号 緊急命令申立事件 〔五所川原市緊急命令申立事件〕
(41)昭和46年 4月14日  広島高裁  昭46(行ス)2号 行政処分執行停止決定に対する即時抗告申立事件 〔天皇来広糾弾広島県民集会事件〕
(42)昭和46年 4月12日  広島地裁  昭46(行ク)5号 行政処分執行停止申立事件
(43)昭和45年 4月 9日  青森地裁  昭43(ヨ)143号 仮処分申請事件 〔青森銀行懲戒解雇事件〕
(44)昭和37年 4月18日  東京高裁  昭35(ナ)15号 選挙無効確認請求事件
(45)昭和36年 6月 6日  東京高裁  昭35(う)2624号 公職選挙法違反被告事件
(46)昭和35年 6月18日  東京高裁  昭34(ナ)12号 選挙無効請求事件
(47)昭和29年 8月 3日  名古屋高裁  昭29(う)487号 公職選挙法違反事件
(48)昭和27年 3月19日  仙台高裁  昭26(ナ)7号 当選無効請求事件
(49)平成30年 7月20日  福岡地裁久留米支部  平28(ワ)69号 損害賠償請求事件


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