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政治と選挙Q&A「政治資金規正法 ポスター貼り(掲示交渉)代行」に関する裁判例(120)平成15年 3月 4日 東京地裁 平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕

政治と選挙Q&A「政治資金規正法 ポスター貼り(掲示交渉)代行」に関する裁判例(120)平成15年 3月 4日 東京地裁 平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕

裁判年月日  平成15年 3月 4日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号
事件名  日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
裁判結果  有罪  上訴等  確定  文献番号  2003WLJPCA03040001

要旨
◆未公開株式の賄賂性について、店頭登録を控えた未公開の株式を店頭登録後に見込まれる価格を下回る価格で取得する利益は贈収賄罪の客体になるとした事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、内閣官房長官に対し、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をし、請託に対する報酬として店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、衆議院議員に対し、衆議院の委員会で国の行政機関に就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨等の請託をし、請託に対する報酬として同社の関連会社から衆議院議員の関連会社へ技術指導相談料名目で送金し、かつ店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社や中途採用者等向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、労働省職業安定局長を経て労働事務次官の地位にある者に対し、各社の就職情報誌の発行等に対し職業安定法を改正して法規制をする問題につき、好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼等の趣旨の下に店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆回線リセール事業及びRCS事業を新規事業として展開する会社の代表者が、NTTの代表取締役社長を含む幹部三名に対し、右事業展開に種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼等の趣旨で店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、NTT法所定の贈賄罪の成立を認めた事例
◆高卒予定者向けの進学・就職情報誌事業を営む会社の代表者が、文部省初中局長を経て文部事務次官の地位にある者に対し、同社の進学・就職情報誌の配本につき高校教諭が便宜を供与する問題に対し実態調査をしたり是正を求めるなどの措置を執られなかったことなど種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼等の趣旨で店頭登録を控えた未公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆単独又は部下と共謀の上、四件の贈賄及び三件のNTT法上の贈賄を敢行した被告人について執行猶予付きの有罪判決が言い渡された事例

出典
判タ 1128号92頁

評釈
甲斐淑浩・ジュリ増刊(実務に効く企業犯罪とコンプライアンス判例精選) 102頁

参照条文
刑法197条1項
刑法198条
電電会社法18条1項(平4法61改正前)
電電会社法20条1項(平4法61改正前)
裁判官
山室惠 (ヤマムロメグミ) 第26期 現所属 依願退官
平成16年6月30日 ~ 依願退官
平成16年4月1日 ~ 平成16年6月29日 東京高等裁判所
平成9年10月29日 ~ 平成16年3月31日 東京地方裁判所
平成9年4月4日 ~ 平成9年10月28日 東京高等裁判所
平成5年4月1日 ~ 平成9年4月3日 司法研修所(教官)
平成1年8月1日 ~ 平成5年3月31日 東京地方裁判所
~ 平成1年7月31日 司法研修所(教官)

辻川靖夫 (ツジカワヤスオ) 第40期 現所属 高松家庭裁判所(所長)
平成30年11月1日 ~ 高松家庭裁判所(所長)
平成28年11月30日 ~ 東京家庭裁判所(部総括)
平成27年4月1日 ~ 東京地方裁判所(部総括)
平成23年4月1日 ~ 最高裁判所調査官
平成20年4月1日 ~ 平成23年3月31日 札幌地方裁判所(部総括)
平成15年11月1日 ~ 平成20年3月31日 司法研修所(教官)
平成12年4月1日 ~ 平成15年10月31日 東京地方裁判所
平成9年4月1日 ~ 平成12年3月31日 盛岡地方裁判所一関支部、盛岡家庭裁判所一関支部
平成7年4月1日 ~ 平成9年3月31日 東京地方裁判所
平成5年4月1日 ~ 平成7年3月31日 事務総局刑事局付
平成2年4月1日 ~ 平成5年3月31日 大阪地方裁判所
~ 平成2年3月31日 千葉地方裁判所

大内めぐみ

関連判例
平成14年10月22日 最高裁第二小法廷 決定 平10(あ)252号 収賄被告事件 〔リクルート事件文部省ルート事件・上告審〕
平成11年10月20日 最高裁第一小法廷 決定 平9(あ)416号 受託収賄被告事件 〔リクルート事件政界ルート藤波元内閣官房長官関係・上告審〕
平成10年 1月19日 東京高裁 判決 平8(う)1013号 収賄被告事件 〔リクルート事件文部省ルート事件・控訴審〕
平成 9年 9月17日 東京地裁 判決 平元(刑わ)1048号・平元(刑わ)632号 リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決
平成 9年 3月24日 東京高裁 判決 平7(う)705号 受託収賄被告事件 〔リクルート事件政界ルート藤波元内閣官房長官関係・控訴審〕
平成 8年10月 8日 東京高裁 判決 平6(う)257号 贈賄被告事件 〔リクルート事件労働省ルート・控訴審〕
平成 7年12月 8日 東京地裁 判決 平元(刑わ)753号・平元(特わ)259号・平元(特わ)361号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄、収賄被告事件 〔リクルート事件NTTルート・文部省ルート判決・第一審〕
平成 6年12月21日 東京地裁 判決 平元(刑わ)1048号 日本電信電話林式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件政界ルート判決〕
平成 6年 9月27日 東京地裁 判決 平元(刑わ)1047号 受託収賄被告事件 〔リクルート事件政界ルート藤波元内閣官房長官関係・第一審〕
平成 5年12月16日 東京地裁 判決 平元(刑わ)632号 贈賄被告事件 〔リクルート事件労働省ルート判決〕
平成 4年 3月24日 東京地裁 判決 平元(刑わ)632号 収賄被告事件 〔リクルート事件労働省ルート判決〕
平成 3年 4月26日 東京地裁 判決 平元(特わ)259号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件NTTルート(式場関係)判決〕
平成 2年10月 9日 東京地裁 判決 平元(特わ)361号 日本電信電話株式会社法違反被告事件 〔リクルート事件NTTルート事件〕
昭和63年 7月18日 最高裁第二小法廷 決定 昭59(あ)347号 証券取引法違反、贈賄被告事件 〔殖産住宅等贈収賄事件・上告審〕

Westlaw作成目次

主文
理由
【罪となるべき事実】
第一 乙山一郎に対する贈賄
一 前提事実
二 犯罪事実
第二 丙川二郎に対する贈賄
一 前提事実
二 犯罪事実
第三 丁谷三郎に対する贈賄
一 前提事実
二 犯罪事実
第四 戊田四郎、己畑五郎及び庚町六…
一 前提事実
二 犯罪事実
第五 辛村七郎に対する贈賄
一 前提事実
二 犯罪事実
【事実認定の補足説明】
〔説明〕
1 昭和二八年以降の「昭和」及び…
2 論述中又は認定事実末尾の括弧…
3 公判手続更新の前後を問わず、…
4 検察官に対する供述調書は「検…
5 証拠書類の記載(検面調書に記…
第一章 総論
第二章 判示第一及び第二の各贈賄につ…
第三章 判示第三の事実(丁谷三郎に対…
第四章 判示第四(日本電信電話株式会…
第五章 判示第五の事実(辛村七郎に対…
【法令の適用】
【量刑の理由】
一 本件は、リクルートの代表取締…
二 犯行の動機について見ると、被…
三 コスモス株の譲渡に当たっては…
四 個々の犯行について見ると、ま…
五 本件各犯行により、収賄側は、…
六 被告人は、捜査段階においては…
七 賄賂罪は、公務の公正及び公務…
八 他方、被告人に有利に斟酌し得…
1 本件各行為は、未公開株の譲渡…
2 各犯行とも、違法不当な行為に…
3 本件の背景には、被告人が業務…
4 個々の贈賄行為について見ると…
5 さらに、①被告人は、リクルー…
6 加えて、一連のリクルート事件…
九 以上の諸事情を併せ考えると、…

裁判年月日  平成15年 3月 4日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号
事件名  日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
裁判結果  有罪  上訴等  確定  文献番号  2003WLJPCA03040001

《目次》
前文〈省略〉
主文/100
理由/100
【罪となるべき事実】/100
第一 乙山一郎に対する贈賄/100
第二 丙川二郎に対する贈賄/101
第三 丁谷三郎に対する贈賄/102
第四 戊田四郎、己畑五郎及び庚町六郎に対する贈賄/102
第五 辛村七郎に対する贈賄/103
【証拠の標目】〈省略〉
【事実認定の補足説明】/104
〔説明〕/104
第一章 総論/104
第一 本件各事件の前提又は背景となる事実/104
一 被告人の経歴/104
二 リクルート及び関連会社の概要等/104
三 主なリクルート関係者の経歴、職務等/105
四 リクルートの取締役会/105
第二 コスモス株の譲渡(判示第二の二1を除く全事実に共通)/106
一 前提事実/106
二 コスモス株の譲渡状況/111
三 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み及び被告人の認識/114
四 入手困難性及びその認識/119
五 小括(コスモス株の譲渡の賄賂性)/119
第三 被告人の検面調書の任意性及び信用性の判断に関する前提事実/119
一 リクルート事件の社会問題化と被告人の健康状態等/119
二 逮捕前の被告人の取調状況等/119
三 逮捕勾留中の被告人の取調べ、接見及び調書の作成状況等/120
第二章 判示第一及び第二の各贈賄について/120
第一節 判示第一及び第二の各事実に共通の前提又は背景となる事実関係/120
第一 就職協定及びこれに関連する政府の動向等/120
一 就職協定及び公務員試験の日程に関する従前の経緯/120
二 各省庁人事担当課長会議/123
三 五八、五九年当時の就職協定及び公務員試験の日程を巡る状況/123
四 六〇年前半当時の就職協定を巡る状況/125
五 臨時教育審議会における審議等/126
第二 リクルートと就職協定/126
一 リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業/126
二 リクルートの事業と就職協定との関係/128
三 五九年当時の就職協定を巡るリクルートの取組み/130
四 六〇年度の就職協定を巡るリクルートの取組み/131
第二節 判示第一の事実(乙山に対する贈賄事実)について/131
第一 前提又は背景となる事実関係/131
一 乙山の経歴、職務権限等/131
二 被告人又はリクルートと乙山との関係/132
第二 五九年三月の請託の存在について/133
一 五九年三月一五日の被告人と乙山との会談/133
二 公邸訪問前にリクルート内部で公務員試験の日程等を巡って検討した状況等/133
三 公邸訪問時の乙山との会談の内容に関する被告人の供述/136
四 公邸訪問後の被告人、リクルート及び乙山の行動/140
五 五九年三月二四日にR6らが乙山を訪問した状況及びその趣旨/141
六 まとめ/145
第三 六〇年三月ころの請託の存在について/149
一 問題の所在/149
二 R8、R7及び被告人の捜査段階における各供述/149
三 弁護人の主張と被告人及び関係者の公判段階における各供述/155
四 考察/155
第四 乙山に対するコスモス株の譲渡/160
一 A1名義によるコスモス株の譲渡/160
二 関係証拠上明白な事実/160
三 被告人から乙山に電話でコスモス株の譲渡を持ちかけたことについて/161
四 コスモス株の売却代金の使途について/163
五 結論(コスモス株一万株を譲渡した相手方が乙山であること)/164
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性/164
一 問題の所在/164
二 被告人の供述/164
三 乙山に対し小切手を供与した状況とその趣旨/165
四 まとめ/176
第六 補足(公務員の青田買い防止と官房長官の職務権限について)/177
第三節 判示第二の事実(丙川二郎に対する贈賄事実)について/178
第一 前提又は背景となる事実関係/178
一 丙川二郎の経歴等/178
二 丙川二郎の職務権限/178
三 リクルートと丙川二郎との関係/179
第二 五九年五月下旬から七月下旬までの間の数回にわたる請託の存在について/179
一 検討の趣旨/179
二 背景事情/179
三 丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑及び意見/180
四 右質疑前の時期にリクルート内で作成された文書/182
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等/182
六 関係者及び被告人の各供述/183
七 考察/192
第三 六〇年六月中旬ころの数回にわたる請託の存在について/196
一 検討の趣旨/196
二 背景事情/196
三 丙川二郎の六〇年六月一九日の衆議院文教委員会における質疑/197
四 右委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等/198
五 被告人及び関係者の各供述/198
六 考察/202
第四 六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間の数回にわたる請託の存在について/205
一 検討の趣旨/205
二 背景事情/205
三 丙川二郎の衆議院予算委員会及び文教委員会における質疑/206
四 六〇年後半当時の就職協定を巡るリクルートや被告人の動向/209
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況/211
六 被告人及び関係者の各供述/211
七 考察/217
第五 コスモスライフから有限会社b1に対する三〇〇万円の送金とその賄賂性/221
一 問題の所在/221
二 関係証拠上明白な事実/221
三 コスモスライフからb1社に対する送金の趣旨及び被告人の関与/222
四 コスモスライフからb1社に対する送金についての丙川二郎の関与と認識/228
五 R1との共謀/233
第六 丙川二郎に対するコスモス株の譲渡とその賄賂性/234
一 B1名義によるコスモス株の譲渡の事実/234
二 関係証拠上明白な事実/234
三 B1名義によるコスモス株の譲渡についての被告人の関与/235
四 コスモス株の譲受けについての丙川二郎の関与と認識/242
五 R1との共謀/246
第三章 判示第三の事実(丁谷三郎に対する贈賄事実)について/247
第一 問題の所在/247
一 丁谷三郎に対するコスモス株の譲渡の事実等/247
二 争点/247
第二 前提となる事実関係/247
一 リクルート及び関連会社の就職情報誌事業/247
二 丁谷の職務権限等/248
第三 コスモス株の譲渡前のリクルートと労働省との関係(丁谷との関係を含む。)/248
一 五八年ころまでの就職情報誌事業と労働省との関係/248
二 労働省における就職情報誌の発行等に対する規制を巡る動き/249
三 労働省における法規制の動きへのリクルートの対応/250
四 五九年二月から四月初めまでの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等/252
五 五九年四月中旬から五月下旬までの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等/253
六 五九年五月下旬ころから八月までの労働省の動きとリクルートの対応等/256
七 五九年九月以降の労働省の動きとリクルートの対応等/259
八 就職情報誌に対する法規制問題に関する被告人の認識について/261
第四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与/263
一 問題の所在/263
二 関係者及び被告人の各供述/263
三 丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR7であること/269
四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与/275
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性等/288
一 被告人らが就職情報誌に対する法規制問題への丁谷の対応に謝意を抱いていたこと/288
二 被告人らが丁谷による将来の好意的な取り計らいに対する期待を抱いていたこと/289
三 コスモス株の譲渡の賄賂性/291
四 賄賂性に関する丁谷の認識/291
五 R1及びR7との共謀/292
第四章 判示第四(日本電信電話株式会社法違反の各事実)について/293
第一 問題の所在/293
一 戊田、己畑五郎及び庚町に対するコスモス株の譲渡の事実等/293
二 争点/295
第二 前提となる事実関係/295
一 電気通信事業の自由化とNTTの発足/295
二 戊田、己畑及び庚町の職務権限等/295
第三 リクルートとNTTとの関係(戊田、己畑及び庚町との関係を含む。)/296
一 リクルートの回線リセール事業とNTTの業務との関係等/296
二 リクルートのRCS事業とNTTの業務との関係等/305
三 関連する弁護人の主張等について/308
第四 コスモス株の譲渡の賄賂性/313
一 NTT法上の贈収賄に関する規定の意義について/313
二 戊田らの支援と協力に対する被告人らの謝意と今後の期待/314
三 被告人が戊田らにコスモス株を譲渡した趣旨/320
四 コスモス株の譲渡の賄賂性に関する戊田らの認識/322
第五章 判示第五の事実(辛村七郎に対する贈賄事実)について/325
第一 前提となる事実関係/325
一 リクルートの進学・就職情報誌事業の実態/325
二 辛村の職務権限等/327
第二 リクルートの進学・就職情報誌事業と文部省との関係等/328
一 進学・就職情報誌事業における高校教諭らの協力の重要性等/328
二 リクルートの進学・就職情報誌事業に対する各方面からの指摘、批判等/329
三 進学情報誌を巡る問題点に対する文部省の動向/334
四 各方面からの問題指摘、批判等へのリクルートの対応/341
五 文部行政の動向へのリクルートの対応/346
六 リクルートの役職員の文部省所管の各種審議会等の委員等への就任/350
七 辛村に対するコスモス株の譲渡後の進学・就職情報誌事業を巡る状況/355
第三 辛村に対するコスモス株の譲渡及びその趣旨/357
一 辛村に対するコスモス株の譲渡/357
二 コスモス株の譲渡の賄賂性/357
三 賄賂性に関する辛村の認識/363
四 その他の弁護人の主張について/364
五 結論/364
【法令の適用】/364
【量刑の理由】/364
後文/367
別紙(一) 訴訟費用負担目録〈省略〉
別紙(二) 取調経過等一覧表〈省略〉

主文
被告人を懲役三年に処する。
この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用のうち、別紙(一)(訴訟費用負担目録)に記載した分は被告人の負担とする。

理由
【罪となるべき事実】
第一  乙山一郎に対する贈賄
一  前提事実
1 被告人の立場
被告人は、株式会社リクルート(以下「リクルート」という。)の代表取締役社長をしていた者である。
2 乙山一郎の職務等
乙山一郎(以下「乙山」という。)は、昭和五八年一二月二七日から昭和六〇年一二月二八日までの間、国務大臣である内閣官房長官として、閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整等に関する事務を掌る内閣官房の事務を統轄するなどの職務に従事していた。
3 就職協定を巡る状況
昭和五八年ないし昭和六〇年当時、国立大学協会等の国公私立の大学、短期大学及び高等専門学校(以下「大学等」という。)の団体は、例年、文部省が実施する就職問題懇談会において、最終学年の学生が勉学に専念できる期間を確保するため、大学等卒業予定者による求職のための企業との接触開始日を卒業前年の一〇月一日とし、企業による採用選考開始日をその年の一一月一日として就職事務を行う旨の申合せをし、産業界においても、これと歩調を合わせ、大学等卒業予定者の早期採用選考を防止して求人求職秩序の確立を図るため、日本経営者団体連盟等の雇用者団体が、労働省の設置する中央雇用対策協議会において、民間企業の行う求人活動等につき、大学等卒業予定者の会社訪問開始日を卒業前年の一〇月一日とし、採用選考開始日をその年の一一月一日とする旨の申合せをしていたが(双方の申合せを一括して、以下「就職協定」という。)、就職協定が遵守されず、申合せに係る活動時期に先立つ採用選考活動(以下「青田買い」という。)が広く行われる状況にあった。
4 リクルートの事業等
リクルートは、民間企業等から掲載料を得て、大学等卒業予定者向けの求人広告を情報として掲載する就職情報誌を発行し、大学等卒業予定者に無料で配本する事業(以下「新規学卒者向け就職情報誌事業」という。)等を営んでいたところ、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、国の行政機関が国家公務員採用上級甲種試験(昭和六〇年度は国家公務員採用Ⅰ種試験)の合格者の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことが民間企業の就職協定違反の一因になっており、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの右事業を遂行していく上で大きな障害になると考えていた。
二  犯罪事実
被告人は、乙山に対し、
① 昭和五九年三月一五日、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の内閣官房長官公邸において、民間企業で就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が国家公務員の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことに一因があるので、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をし、
② 昭和六〇年三月ころ、右①所在の内閣官房長官公邸において、リクルート専務取締役のR8及びリクルート社長室長のR7(以下「R7」という。)を介して、右①と同趣旨の請託をし、右各請託に係る報酬として、昭和六一年九月中、下旬ころ、同区永田町〈番地略〉所在の○○ビル六〇二号室の乙山事務所等において、同年一〇月三〇日に社団法人日本証券業協会に店頭売買銘柄として登録されることが予定されており、右登録後にはその価格が一株当たり三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれ、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人がその価格で入手することの極めて困難な株式会社リクルートコスモスの株式(以下「コスモス株」という。)一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同年九月三〇日付けでA1名義により譲渡する手続をして、同日、これを乙山に取得させ、もって、乙山の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第二  丙川二郎に対する贈賄
一  前提事実
1 被告人及び共犯者の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者であり、R1(以下「R1」という。)は、リクルートの社長室秘書課長兼文書課長、社長室次長等をしていた者である。
2 丙川二郎の職務等
丙川二郎は、昭和五八年一二月二八日及び昭和六一年七月六日の各総選挙に当選し、衆議院議員であった者であるが、昭和五八年一二月二八日から昭和六一年六月二日までの間及び同年七月二三日から同年一二月二四日までの間、衆議院文教委員会の委員として(ただし、右期間中に数回同委員を辞任したが、辞任当日中に他の委員の辞任に伴う補欠選任により同委員に復した。)、文部省の所管に属する事項等に関する議案、請願等を審査するほか、国政に関する調査に関与する職務権限を有しており、昭和五九年一二月一八日から昭和六一年六月二日までの間、衆議院予算委員会の委員として(ただし、右期間中に数回同委員を辞任したが、辞任当日中に他の委員の辞任に伴う補欠選任により同委員に復した。)、予算に関する議案、請願等を審査するほか、国政に関する調査に関与する職務権限を有していた。
3 就職協定を巡る状況
就職協定を巡る状況は前記第一の一3のとおりであり、昭和五九、六〇年当時、国の行政機関も、各省庁人事担当課長会議において、その職員の選考に関し、就職協定に協力し、選考開始日は一一月一日であるという認識の下に一〇月一日前の学生のOB訪問及び一〇月一日以降の官庁訪問に対しても就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せをしていた。
4 リクルートの事業等
リクルートは、前記第一の一4のとおり、新規学卒者向け就職情報誌事業等を営んでいたところ、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、国の行政機関が国家公務員採用上級甲種試験(昭和六〇年度は国家公務員採用Ⅰ種試験)の合格者の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことが民間企業の就職協定違反の一因になっており、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの右事業を遂行していく上で大きな障害となることから、右3の申合せが遵守されることが事業遂行上重要であると考えていた。
二  犯罪事実
被告人は、R1と共謀の上、丙川二郎に対し、
① 昭和五九年五月三〇日、同年六月一五日、同年七月一八日及び同月二三日の四回にわたり、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の衆議院第一議員会館等において、リクルート社長室長のR7、リクルート事業部次長のR9らを介して、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の遂行に多大な支障を来すこと、同年三月に各省庁人事担当課長会議において国の行政機関の職員の選考に関し就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せがなされたのに、これに反して通産省及び労働省が青田買いをしていることなどを説明した上、衆議院文教委員会で、通産省及び労働省が右申合せに違反していることを指摘して、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
② 昭和六〇年六月上旬ころ、右①所在の衆議院第一議員会館又は東京都中央区銀座〈番地略〉所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、R7及びリクルート事業部事業課長のR10(以下「R10」という。)を介して、同年も各省庁人事担当課長会議において前年同様の申合せがなされたことなどを説明した上、衆議院文教委員会で、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、さらに、同月一八日、右①所在の衆議院第一議員会館において、R7、R10及びリクルート事業部付課長のR11を介して、通産省が右申合せに反して青田買いをしていることなどを説明した上、衆議院文教委員会で、通産省の青田買いの問題を取り上げるなどして、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
③ 昭和六〇年一〇月中旬ころ及び同月二六日から同月二九日までのある日、右①所在の衆議院第一議員会館又は右②所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、リクルート事業部担当取締役のR7及びR10を介して、衆議院予算委員会で、臨時教育審議会の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止等が取り上げられていることを指摘し、実効性のある就職協定の早期取決め等について国の行政機関が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨の請託をし、さらに、同年一一月一四日、右①所在の衆議院第一議員会館において、R7及びR10を介して、衆議院文教委員会で、実効性のある就職協定の早期取決め等について国の行政機関が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
右各請託に係る報酬として、
1 R1が、昭和六一年五月三一日、リクルートの関連会社である株式会社コスモスライフと有限会社b1との間で同月二八日付けで締結した架空のビル管理技術指導相談に関する契約に基づく相談料の名目で、東京都世田谷区玉川〈番地略〉所在の三菱銀行玉川支店の有限会社b1(代表取締役B5)名義の口座に三〇〇万円を振込送金して丙川二郎に取得させ、
2 R1が、昭和六一年九月中旬ころ、右②所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、前記第一の二と同様のコスモス株五〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けでB1名義により譲渡する手続をして、同日、これを丙川二郎に取得させ、
もって、それぞれ丙川二郎の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第三  丁谷三郎に対する贈賄
一  前提事実
1 被告人及び共犯者の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者であり、R1は、リクルートの社長室次長をしていた者であり、R7は、リクルートの関連会社である株式会社コスモスライフの代表取締役等をしていた者である。
2 丁谷三郎の職務等
丁谷三郎は、昭和五八年七月八日から昭和六〇年六月二五日までの間、労働省職業安定局長として、職業の紹介及び指導その他労務需給の調整、労働者の募集、職業安定法等の法律の施行、雇用に係る政策の企画等に関する同局の事務全般を統括する職務に従事し、その後、昭和六一年六月一六日から昭和六二年九月二九日までの間、労働事務次官として、労働大臣を助け、省務を整理し、労働省各部局等の事務を監督するなどの職務に従事していた。
3 リクルートの事業
リクルートは、前記第一の一4のとおり、新規学卒者向け就職情報誌事業を営み、リクルートの関連会社である株式会社リクルート情報出版は、転職希望者向けの求人広告等を情報として掲載する就職情報誌を発行・販売する事業等を営み、同じくリクルートの関連会社である株式会社リクルートフロムエーは、アルバイトやパートタイム労働希望者向けの求人広告等を情報として掲載する就職情報誌を発行・販売する事業等を営んでいた。
二  犯罪事実
被告人は、R1及びR7と共謀の上、丁谷三郎に対し、職業安定局長であった丁谷三郎から、リクルート、株式会社リクルート情報出版及び株式会社リクルートフロムエーの営む就職情報誌の発行等に対し職業安定法を改正して法規制をする問題につき、就職情報誌業界による自主規制に向けた行政指導をしてもらい、同局内部の検討状況に関する情報の提供を受け、結果的にも右法規制が見送られるなどの好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び労働事務次官である丁谷三郎から就職情報誌の発行等に対する法規制の問題等につき、今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨の下に、R7が、昭和六一年九月末ころ、前記第一の二と同様のコスモス株三〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、R1が、その数日後、東京都千代田区霞が関〈番地略〉所在の労働省の労働事務次官室において、同月三〇日付けで譲渡する手続をし、そのころ、これを丁谷三郎に取得させ、もって、丁谷三郎の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第四  戊田四郎、己畑五郎及び庚町六郎に対する贈賄
一  前提事実
1 被告人の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者である。
2 戊田四郎の職務等
戊田四郎(以下「戊田」という。)は、昭和六〇年四月一日から昭和六三年六月二八日までの間、国内電気通信事業等を営む日本電信電話株式会社(以下「NTT」という。)の代表取締役社長として、同社を代表し、取締役会の決議に基づいて同社の業務を総理する職務に従事していた。
3 己畑五郎の職務等
己畑五郎は、①昭和六〇年四月一日から昭和六一年六月二五日までの間、NTTの東京総支社長の職にあり、このうち同年三月二日までは、同総支社の管轄区域(東京都の全域を含む。)内の電話の加入等、データ通信、電気通信施設の建設についての設備計画、同施設の工事の計画、電気通信設備の工事の設計、同設備の建設及び保全、不動産の建設、貸借等、職員の人事等に関することなどの事務(ただし、昭和六〇年一一月二九日以降は、電話サービス以外のサービスに関する事務を除く。)について、所属の社員を指揮監督して事務を執行する職務に従事し、昭和六一年三月三日以降は、同総支社の管轄区域内の地域の電話サービスに係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事し、②同年六月二六日から昭和六二年三月五日までの間、NTTのデータ通信事業本部長として、データ通信サービスに係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事していた。
4 庚町六郎の職務等
庚町六郎(以下「庚町」という。)は、昭和六〇年四月一日から昭和六二年一月一九日までの間、NTTの企業通信システム事業部長の職にあり、このうち昭和六一年三月二日までは、金融関連、流通関連等の企業通信システムのコンサルティング、設計、建設等の事務について、所属の社員を指揮監督して事務を執行する職務に従事し、同月三日以降は、大規模な複合通信システムのコンサルティング、設計、建設、販売等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事していた。
5 リクルートの事業
リクルートは、昭和六〇年に、新規事業として、NTTから有料で提供を受けた高速デジタル回線を小分けして、その利用権限を第三者に再販売する事業(以下「回線リセール事業」という。)及び「リモート・コンピューティング・サービス事業」と称して、汎用コンピューターやスーパーコンピューターを他社に時間貸しするなどの事業(以下「RCS事業」という。)を開始し、昭和六一年九、一〇月当時も右両事業を営んでいた。
二  犯罪事実
1 戊田関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT本社において、右一2の職務に従事していた戊田に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークの設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたこと及びリクルートが営むRCS事業に使用するクレイ・リサーチ社製スーパーコンピューターの調達やこれを組み込んだシステム構築の設計、建設等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼並びに今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けでN1名義により譲渡する手続をして、同日、これを戊田に取得させ、もって、戊田の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
2 己畑五郎関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、前記第二の二②所在のリクルート銀座八丁目ビル等において、右一3①の職務に従事し、引き続き同②の職務に従事していた己畑五郎に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークの設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたこと及びリクルートが営むRCS事業に使用するクレイ・リサーチ社製スーパーコンピューターの調達やこれを組み込んだシステム構築の設計、建設等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼並びに今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを己畑五郎に取得させ、もって、己畑五郎の右一3の職務に関し賄賂を供与した。
3 庚町関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT企業通信システム事業部において、右一4の職務に従事していた庚町に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークのコンサルティング、設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼及び今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株五〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを庚町に取得させ、もって、庚町の右一4の職務に関し賄賂を供与した。
第五  辛村七郎に対する贈賄
一  前提事実
1 被告人の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者である。
2 辛村七郎の職務等
辛村七郎(以下「辛村」という。)は、昭和五八年七月五日から昭和六一年六月一六日までの間、文部省初等中等教育局長として、教育課程、学習指導法等初等中等教育のあらゆる面について、教育職員その他の関係者に対し専門的、技術的な指導と助言を与えること、初等中等教育における進路指導に関し援助と助言を与えること、文部大臣の諮問機関である教育課程審議会に関することなどの同局の事務全般を統括する職務に従事し、その後、同月一七日から昭和六三年六月一〇日までの間、文部事務次官として、文部大臣を助け、省務を整理し、文部省各部局等の事務を監督するなどの職務に従事していた。
3 リクルートの事業等
リクルートは、高等学校生徒向け進学・就職情報誌を発行してこれを高等学校生徒に配本するなどの事業を営んでいたところ、昭和五八年ころないし六一年当時、リクルートの発行する進学情報誌に対し、配本方法や掲載内容について高等学校の教諭からやマスコミ報道による批判が高まっており、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、文部省がこれらの批判の動きに対応してリクルートの右事業の遂行に支障を来すような行政措置を執ることを憂慮し、他方、リクルートの役職員が文部省所管の各種審議会等の委員等に選任されることはリクルートの右事業の遂行に有利に働く行政措置であるとして、文部行政の動向がリクルートの右事業を遂行していく上で大きな影響を及ぼすものと考えていた。
二  犯罪事実
被告人は、辛村に対し、昭和六一年九月上旬ころ、東京都千代田区霞が関〈番地略〉所在の文部省の文部事務次官室等において、辛村から、リクルートの行う進学・就職情報誌の配本につき、高等学校教諭が高等学校生徒の名簿等を収集提供するなどして便宜を供与する問題に対し実態調査をしたり是正を求めるなどの措置を執られなかったことや、リクルートの事業遂行上有利になる文部省所管の各種審議会等の委員等の選任につき、リクルートの役職員を就任させてもらうことにより、種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同年九月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを辛村に取得させ、もって、辛村の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
【証拠の標目】〈省略〉
【事実認定の補足説明】
〔説明〕
この項目中の記載は、次の例による。
1  昭和二八年以降の「昭和」及び平成元年以降の「平成」の各年号の記載を省略する。
2  論述中又は認定事実末尾の括弧内に、引用証拠や当該事実の認定に供した主要な証拠について、公判期日の回数、供述者(他との区別の必要がある場合を除き、氏のみとする。また、前後の記述から明らかな場合は省略する。)、証拠番号(番号が連続する場合には「〜」を用いる。)等により適宜略記する。
3  公判手続更新の前後を問わず、公判廷及び公判期日外における被告人又は証人の供述は「公判段階における供述」と呼称する。ただし、証人の公判段階における供述は「証言」と呼称することもある。
4  検察官に対する供述調書は「検面調書」と略記する。
5  証拠書類の記載(検面調書に記載された供述を含む。)を引用する場合において、誤字や脱字があっても、原則として、特に断りなく、そのまま引用する。なお、引用文中の〔 〕内の記載は、趣旨を明確にするために裁判所が補足したものである。
第一章  総論
第一 本件各事件の前提又は背景となる事実
一 被告人の経歴
被告人は、三五年三月に東京大学教育学部を卒業後、在学中に東大新聞会で企業からの求人広告募集を担当した経験を生かして、大学新聞広告社の名称で、大学新聞に掲載する広告の取次業を個人で開始し、同年一〇月に株式会社大学広告を設立して代表取締役社長に就任した。同社は、三六年に多数の企業からの求人広告をまとめた「企業への招待」と題する冊子の発行・配本事業を開始して次第に業績を伸張したが、被告人は、三八年五月ころに株式会社日本リクルートメントセンターを設立し、さらに、同年八月二六日にリクルート(当初の商号は株式会社日本リクルートセンターであり、五九年四月一日に現在の商号に変更された。以下、商号変更前の同社についても「リクルート」という。)を設立して代表取締役社長になり、右事業の業績を拡大させた。被告人は、また、主として被告人個人やリクルートの出資により、後記の各社を含む多数の関連会社を設立して情報産業や不動産業等に広く進出し、それらの代表取締役社長等として業務を統括し、各社の業績を拡大させた。
なお、被告人は、六三年一月にリクルートの社長を辞任して代表取締役会長になり、さらに、同年七月には代表取締役会長を辞任した上、同年一二月には取締役も辞任した。
(〈証拠略〉)
二 リクルート及び関連会社の概要等
1 リクルート
リクルートは、本章第一の一のとおり、三八年八月二六日に被告人が設立した株式会社であり、当初は、被告人個人が創業した事業を株式会社大学広告等を経て承継し、「企業への招待」(四四年に「リクルートブック」と改題)の発行等の業務を行っていたが、その後、次第に業務を拡大し、五九年四月一日に現在の商号に変更された。
五九年ないし六一年当時、リクルートは、東京都中央区銀座〈番地略〉所在のリクルート銀座八丁目ビル(以下「リクルート本社ビル」という。)に本社を置き、広告事業、出版事業等を目的とし、主要な事業は、新規学卒者向け就職情報誌事業(商品名「リクルートブック」等)を中心とする広告事業、不動産広告や関連情報等を掲載する「週刊住宅情報」の発行・販売を中心とする住宅情報事業、私立大学・短期大学・専修学校等の学生・生徒募集広告や関連情報を掲載する「リクルート進学ブック」の発行・配本を中心とする教育機関広報事業であり、そのほかにも各種情報誌の発行・販売等を行っていた上、六〇年四月から電気通信回線の転貸事業(回線リセール事業)やコンピューターの時間貸し事業(RCS事業)を開始するなど、新規事業にも積極的に進出していた。
リクルートは株式未公開の株式会社であり、設立当初は被告人が九割以上の株式を保有しており、五九年ないし六一年当時でも、被告人が三割以上(家族名義を含めると約四割)の株式を保有し、社員持株会(三割以上を保有)以外には大株主といえる存在はなく、被告人は、オーナー経営者として、リクルートの経営に関し大きな権能を有していた。
リクルートの代表取締役社長は、設立以来被告人であり、被告人のみが代表権を有していたが、六三年一月に被告人が社長を辞任して代表取締役会長になった際にR6(以下「R6」という。)が代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
2 リクルートの関連会社
五九年ないし六一年当時、リクルートには、株式会社リクルートコスモス(六〇年三月の変更前の商号は環境開発株式会社であるが、商号変更の前後を問わず、以下「リクルートコスモス」という。)、ファーストファイナンス株式会社(以下「ファーストファイナンス」という。)、株式会社リクルート情報出版(五九年四月の変更前の商号は株式会社就職情報センターであるが、商号変更の前後を問わず、以下「リクルート情報出版」という。)、株式会社リクルートフロムエー(以下「リクルートフロムエー」という。)及び株式会社コスモスライフ(六〇年一〇月の変更前の商号は株式会社日環サービスであるが、商号変更の前後を問わず、以下「コスモスライフ」という。)を含んで約二〇の関連会社があり、その主要な会社については被告人が代表取締役社長又は同会長を務め、それ以外の会社も、リクルートの取締役が代表取締役社長を兼任し、あるいはリクルートの出身者が代表取締役社長に就くなどして、グループ企業として密接な連携を保っていた(以下、リクルートと関連会社を併せて「リクルートグループ」という。)。
(〈証拠略〉)
三 主なリクルート関係者の経歴、職務等
1 R1(全事実の関係)
R1は、四九年にリクルートに入社し、五七年一一月に社長室課長(五八年三月までは広報室課長兼任)になり、その後、五九年一月から社長室秘書課長兼文書課長、六〇年七月から六二年三月までは社長室次長(六〇年一〇月から一二月まで文書課長、六一年一月から秘書課長を兼任)として、社長である被告人の秘書業務や文書管理業務等に従事し、その間、五八年一〇、一一月ころ以降は、秘書業務の一部として、政治家に対する資金援助の手続を担当し、また、六一年一月に社長室に経営会議統括課長が置かれるまでは、経営会議等の管理統括業務等にも従事し、その一環として、取締役会等の会議開催日時の設定及び通知、議題の収集整理、議事録の作成及び配付等の事務もしていた。
(〈証拠略〉)
2 R2(全事実の関係)
R2(以下「R2」という。)は、リクルートにおいて、事業部、住宅情報事業部等を経て、六〇年七月に広報室長兼社長室長になり、同年八月には取締役にも就任し、六二年四月に住宅情報事業本部本部長兼販売担当に異動した。その間、広報室長兼社長室長の時期には、社長である被告人の秘書業務の一環として、政治家やその秘書との連絡等も担当していた。
(〈証拠略〉)
3 R3(判示第二の二1を除く全事実の関係)
R3は、三八年に株式会社大学広告に入社し、株式会社日本リクルートメントセンターを経てリクルートで勤務し、四五年六月から取締役、その後監査役、五二年一二月からリクルート情報出版の取締役(六一年四月辞任)、五七年一〇月リクルートフロムエーの代表取締役(六二年三月辞任)、五八年三月から再度リクルートの取締役(六〇年八月辞任)等を歴任して、六〇年四月にリクルートコスモスの取締役に就任し、同年七月三〇日に被告人に替わって同社の代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
4 R4(判示第二の二1を除く全事実の関係)
R4(以下「R4」という。)は、三九年五月にリクルートに入社し、五二年一一月ころに経理部次長兼財務課長になり、五八年七月にリクルートコスモスの経理部長として出向した後、六〇年一月に財務部長になり、同年四月に転籍になってリクルートを退職し、同年七月にはリクルートコスモスも退職して、ファーストファイナンスの代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
5 R5(判示第一ないし第三関係)
R5(以下「R5」という。)は、被告人の大学時代の後輩であり、四〇年一月にリクルートに入社し、四二年九月に取締役に就任した上、五〇年ころに取締役総務部長になって管理部門を担当し、五四年四月に常務取締役、五七年一一月に専務取締役(管理部門担当は六二年末まで)に昇格し、二年一月に取締役顧問に退いた。
(〈証拠略〉)
6 R6(判示第一ないし第四関係)
R6は、四四年七月にリクルートに入社し、五一年一二月に取締役に就任し、五九年四月に専務取締役に昇格し、六三年一月に被告人に替わって代表取締役社長に就任した。その間、R6は、五一年一二月に広告事業を行う営業本部(後に広告事業本部と改称)担当になり、五六年一二月から五九年一〇月までは事業部も担当した。
(〈証拠略〉)
7 R7(判示第一ないし第三関係)
R7は、三八年に株式会社大学広告に入社し、株式会社日本リクルートメントセンターを経てリクルートで勤務し、四七年一二月から事業部長を務めた後、五六年から広報室長の肩書で社長である被告人の秘書的業務を行うようになり、五七年四月、社長室の設置に伴って社長室長になった。R7は、六〇年七月に再び事業部長(ビル事業部長及び審査室長兼任)になった後、同年八月に取締役(事業部担当)に就任し、同年一〇月にコスモスライフの代表取締役にも就任し、六一年三月にはリクルートの取締役を重任したが、同年八月にこれを辞任し、六二年四月にはコスモスライフの取締役を辞任して代表取締役を退任し、リクルートグループを離れた。
(〈証拠略〉)
四 リクルートの取締役会
五八年三月当時、被告人以外の取締役は、R12、R5、R8(以下「R8」という。)、R6及びR13の五人であったが、同月三〇日にR3が取締役に就任し、五九年四月にR14及びR15も取締役に就任した。その後、六〇年中にR13及びR3が取締役を辞任し、同年八月にR7、R12ほか三名が取締役に就任した。
五九、六〇年当時、リクルートでは、取締役及び監査役を招集する商法上の取締役会とは別に、取締役全員が出席して、定例の取締役会議(「T会議」と略称されていた。)と「じっくり取締役会議」と呼ばれる会議(「じっくりT会議」と略称されていた。)を開催しており、定例の取締役会議は、時期により毎週又は隔週一回開かれ、じっくり取締役会議は、各四半期に一回程度、都内のホテル等で長時間にわたり自由に議論を深める目的で行われるものであった。
取締役会議及びじっくり取締役会議に際しては、各取締役が担当する事業部門に関する経営上の重要な問題を議題として提出し、被告人を中心に実質的な議論をした上、意思決定を行っていた。また、これらの会議には、社長室のR7やR1らが事務方として陪席し、R1が議事内容を記録して、「取締役会議事録」、「じっくりT会議議事録」等と題する議事録を作成し、その写しを各取締役に配付していた。
(〈証拠略〉)
第二 コスモス株の譲渡(判示第二の二1を除く全事実に共通)
一 前提事実
1 株式の店頭登録について
(一) 六一年当時の店頭登録手続の概要
株式の店頭登録とは、株式公開の一方法であって、社団法人日本証券業協会(以下「日本証券業協会」という。)に店頭売買銘柄として登録することを意味する。店頭登録制度は、五八年一一月、株式店頭市場が中堅中小企業の資本調達の場として十分に機能し得るようにし、かつ投資家にとっての魅力を高める観点等から大幅に改定されたが、右改定のあった同月ないし六一年一〇月当時、店頭登録手続は、日本証券業協会の協会員である証券会社二社以上が、登録しようとする株式の発行会社(以下「発行会社」という。)の内容について審査し、日本証券業協会の公正慣習規則等で定められた登録基準等に照らして適当であると判断した場合に、連名で、日本証券業協会に対し登録申請書及び所定の添付書類を提出して店頭登録を申請し、日本証券業協会が、当該株式が登録基準に適合し、登録申請書及び添付書類に適正な記載がなされていると認めたときに、当該株式の銘柄、数量等を日本証券業協会に備える登録原簿に登録することにより行われた。そして、右登録申請を行う証券会社(以下「申請証券会社」という。)は、幹事証券会社とも呼ばれ、その中でも主として手続をする一社が主幹事証券会社と呼ばれる。
株式が店頭登録されると、日本証券業協会加盟の各証券会社が日本証券業協会の規則に従って店頭における株式の売買取引を行うことになり(もっとも、証券会社がその店頭で投資家と直接取引をすることはまれであり、通常は、証券会社が投資家の注文を日本店頭証券株式会社に発注し、同社において取引が成立する。)、当該株式は一般投資家の取引対象になって、市場性を有することになる。
(〈証拠略〉)
(二) 分売の方法及び分売価格の決定方式等
店頭登録銘柄は登録前にはほとんど流通していないため、日本証券業協会の公正慣習規則により、その流通を図るため、店頭登録時に発行済み株式数に応じた一定数以上の株式を公開することとされており、六一年一〇月当時、株式の公開方法としては、①既発行株式の売出し、②売出しと公募増資の併用、③分売という三つの方法が認められていた。このうち、右③の分売の方法とは、発行会社の創業者等が分売人になって、申請証券会社に対し、所有する既発行株式のうち所定の公開株式数以上の分売を依頼し、株式が店頭登録されて売買が開始される当日に、申請証券会社が日本店頭証券株式会社に最低分売値段(日本証券業協会規則等における公的な呼称は「最低分売値段」であるが、「最低分売価格」といわれることが多いので、以下「最低分売価格」という。)及びその一三〇パーセント相当額である最高分売値段(以下「最高分売価格」という。)を付して売委託をし、他方で、同社が日本証券業協会加盟の証券会社から投資家の買注文を受注し、右売委託と買注文の結果により、一種の入札の形で決定された売買価格(初値)である分売値段(以下「分売価格」という。)で分譲して株式を公開する方法をいう。最高分売価格を付すこととされているのは、初値が高くなりすぎて登録後の株式の流通の円滑が害されることを防ぐためであり、初値である分売価格は、最低分売価格と最高分売価格の範囲内で決定される。そして、分売の方法による場合、分売する株以外の株の取引は売買開始日の翌取引日から行われる。
右の最低分売価格及び最高分売価格は、店頭登録に先立って日本証券業協会に提出する株式分売申告書に記載されるが、その提出期限の目安は店頭登録日の約二週間前とされている。最低分売価格は、日本証券業協会の指導により、類似会社比準方式で算定することとされており、具体的には、店頭登録申請直前の決算期(リクルートコスモスの場合は四月三〇日)における発行会社の一株当たりの配当金、純利益及び純資産と類似会社(業種・業態、業績等が発行会社と類似する会社)のそれとを比較し、三要素の比率(発行会社の数値を類似会社の数値で除して得られたもの)を加算した上で三分し、これに日本証券業協会に対する株式分売申告書の提出直前一か月間の類似会社の平均株価を乗じて求めることとされており、類似会社として複数の会社を選択する場合には、類似会社ごとに右計算をした上で平均を取ることになる。したがって、類似会社としてどの会社を選択するかを決めると、発行会社及び類似会社の決算が確定していれば、類似会社の平均株価以外の算定要素は確定するので、類似会社の株価の変動が少ないと見込まれる状況であれば、最低分売価格及び最高分売価格が概ねどの程度になるかを推測することができる。
類似会社をどの会社にするかについては、日本証券業協会では、申請証券会社の判断により決めるように要請していたが、実務的には、主幹事証券会社が類似会社の候補を提案するなどして発行会社や分売人と協議し、その意向を踏まえて日本証券業協会の担当者と折衝し、内諾を得た上で決定されていた。
(〈証拠略〉)
(三) 従前の新規店頭登録株式の価格の形成・推移等
店頭登録制度が大幅に改定された五八年一一月以降六一年九月までに新規に店頭登録された株式は三七銘柄あるが、いずれも投資家の人気を集めていた。
そのうち分売の方法により公開されたものは六銘柄であるが、五九年及び六〇年に登録された五銘柄を見ると、いずれも、最高分売価格に当たる買注文株数が売委託株数を超えたことから、初値は最高分売価格で決定され、その翌日以降の一般取引開始後の株価も三か月以上右初値以上で推移し、一年後においても、いわゆる新株落のあった一銘柄を除いて、右初値を上回っていた。また、六一年に登録されたものは同年八月二二日登録の一銘柄のみであるが、その初値も最高分売価格で決定され、登録後六日間の売買価格は右初値を大幅に上回って推移し、約一か月後の属する一週間でも同様であった。
右(二)①の既発行株式の売出し又は右(二)②の売出しと公募増資の併用方式により公開された三一銘柄について見ても、六一年二月までに登録された二二銘柄は、初値が類似会社比準方式で算定された公開値段(以下「公開価格」という。)を約一一パーセントないし二二三パーセント上回り、その後も一銘柄が一週間以内に公開価格を下回った以外は公開価格を上回って推移し、三か月後においても、右一銘柄と新株落のあった一銘柄を除いて、公開価格を上回っていた。また、同年八月及び九月に店頭登録された九銘柄についても、初値が公開価格を約二四パーセントないし一四〇パーセント上回り、登録後六日間の売買価格や約一か月後の属する一週間の売買価格は、すべて公開価格を大幅に上回っていた。
このように、新規登録株式が一般的に人気を呼び、店頭登録後の株価が高い水準で始まって、その後も相当の期間にわたり分売価格や公開価格を上回って推移することは、六一年当時、株取引に関心のある者の間で広く知られていた。
(〈証拠略〉)
2 コスモス株の店頭登録の経緯
(一) リクルートコスモス
リクルートコスモスは、被告人が中心となって四四年六月に映画等の企画、製作等を目的として株式会社日本リクルート映画社の商号で設立した株式会社であるが、その後に休眠状態になっていたところ、被告人が不動産業に進出することを企図して他の出資者から株式を買い取り、四九年二月、商号を環境開発株式会社に、目的を不動産の所有、管理、売買、賃貸等にそれぞれ変更して再出発させたものである。同社は、主としてマンションの企画、販売事業を展開し、六〇年三月に商号を株式会社リクルートコスモスに変更した。
リクルートコスモスの代表取締役社長は設立以来被告人であったが、六〇年七月三〇日、R3が代表取締役社長に就任し、被告人は代表取締役会長になった。
なお、被告人は、六三年七月にリクルートコスモスの代表取締役会長を辞任し、同年一二月には取締役も辞任した。
(〈証拠略〉)
(二) 公開準備段階
五九年当時、リクルートコスモスは定款で株式の譲渡制限を定める株式未公開の会社であって、被告人が49.5パーセント、リクルートが約38.3パーセントの株式を所有しており、被告人は、代表取締役社長であったことに加えて、株式所有の面でも、直接及びリクルートを介して、支配的な大株主であった。
被告人は、五九年夏ころ、不動産業が多額の資金を必要とすることから、リクルートコスモスの株式を公開して、資本市場から低コストの資金を調達し、同時に企業イメージの向上を図ろうと考え、東京証券取引所第二部への上場等による株式の公開を企図し、同年九月ころ、経理部次長(六〇年一月から経理部長)のR16(以下「R16」という。)を中心に、大和證券株式会社(以下「大和証券」という。)からR17を出向者として受け入れて、株式公開の準備を開始した。以後、リクルートコスモスは、東京証券取引所や日本証券業協会の審査に備えて、大和証券の協力と指導を受けながら、株式分割、単位株制度の採用、会計制度の是正、リクルート所有のコスモス株を社員、政治家、財界人等に譲渡することによる株主数の増加、第三者割当増資をすることによる自己資本の充実と株主数の増加、社員持株会保有株式を社員に分譲することによる株主数の増加、リクルートの関連会社で資産価値のある建物を所有していた日環建物株式会社と合併することによる資産基盤の強化、監査室設置等の内部管理体制の整備、リクルートとの役員兼任を一部解消することなどによる自立性の強化等に取り組んだ。
右のうち、第三者割当増資は、五九年一一月に社員持株会を割当先とし、六〇年二月に金融機関等二六社を割当先とし、同年四月にも取引先、関連会社等三七法人一個人を割当先として実施したが、同年二月及び四月の増資に際しては、五九年一〇月に大和証券引受部が作成した株価算定に関する参考資料において、リクルートコスモスの株式公開目標時期の直前決算期である第一七期(六一年四月三〇日終期)の予想業績を基にし、大京観光株式会社(以下「大京観光」という。)と日榮建設工業株式会社(以下「日栄建設」という。)の二社を類似会社として五九年四月から九月までの平均株価を用いて類似会社比準方式で計算した数値から約五パーセント差し引くと一株二万五〇〇〇円(分割後の五〇円額面換算で二五〇〇円)となる旨の試算結果を基準として、一株当たりの発行価格を二五〇〇円として実施した。
これらの増資や合併に伴う株式発行の結果、六〇年四月末現在のリクルートコスモスの株主数は二四三名となり、その所有割合は、リクルートが約34.1パーセント、被告人が約13.6パーセントになった。
その間、六〇年七月には、三和銀行でリクルートグループを担当していたR18(以下「R18」という。)がリクルートコスモスに財務部長として入社し、取締役にも就任して、同社の財務システムの改善に取り組んだ。
ところが、リクルートコスモスは、六〇年夏ころまで、社内の管理体制の整備が進まず、同年一〇月の中間決算期の業績予想も振るわなかったことなどから、東京証券取引所第二部への上場を断念し、店頭登録による株式公開を目指すこととして、準備作業を続けた。
(〈証拠略〉)
(三) 六〇年四月の第三者割当増資の実情
右(二)の第三者割当増資うち、六〇年四月の増資に際しては、被告人が親交の深い経済人であるM1(以下「M1」という。)、M2(以下「M2」という。)、M3(以下「M3」という。)及びM4(以下「M4」という。)に新株の引受けを依頼し、M1が経営するm1株式会社(以下「m1社」という。)に八万株、M2が経営する株式会社m2(以下「m2社」という。)に八万株、同人が経営するm3株式会社(以下「m3社」という。)に一二万株、M3が実質上経営するm4株式会社(以下「m4社」という。)に二〇万株、M4が経営する株式会社m5(以下「m5社」という。)に二〇万株を割り当てて、新株を発行した。
これらの者のうち、M2は、被告人の大学時代からの親しい友人で、リクルートコスモスの監査役でもあった者であり、被告人は、m2社とm3社の両社がリクルートコスモスに支払う新株の申込証拠金の全額をリクルートから貸し付け、発行されたコスモス株も、右貸付金の担保としてリクルートで管理した。
(〈証拠略〉)
(四) 店頭登録に向けた手続の進行
リクルートコスモスでは、リクルートと同様に(本章第一の四)、定例の取締役会とは別に、取締役が重要な経営課題につき討議を深めるために行う長時間の取締役会を「じっくり取締役会」と称して開催していたところ、六一年二月二〇日にじっくり取締役会が開催された当時には、期末に集中するマンションの販売と引渡しを見込んだ上での第一七期(六〇年五月一日から六一年四月三〇日まで)の決算見通しが改善して、同年一〇月に店頭登録を実現できる見通しが立ち、同年二月二四日の取締役会で、同年九月一日に日本証券業協会へ登録申請し、店頭登録予定日を同年一〇月下旬にすることなどを内容とする店頭公開スケジュールや幹事証券会社を大和証券とすることを決定した。
その後、リクルートコスモスは、関連会社との役員兼任を更に整理するなどして、社内体制の整備を進め、また、営業努力の結果、期末に竣工や引渡しを予定していた物件の建築、販売、引渡しも概ね順調に進んだ。なお、期末に竣工や引渡しを予定していたマンションのうち約一四〇戸(販売価格合計約四〇億円)については、六一年四月末までの顧客に対する販売が間に合わなかったが、これらの物件はファーストファイナンスが賃貸用に購入し、リクルートコスモスは、第一七期の売上目標を実現した。
なお、ファーストファイナンスは、五九年三月に設立され、不動産及び不動産に関する権利又は有価証券を担保とする金銭貸付等を目的とする株式会社であり、リクルートコスモスが販売するマンションの購入者に対する不動産担保融資が業務の中心であった。ファーストファイナンスの代表取締役社長は、設立以来六〇年六月まで被告人であったが、同年七月、R4が代表取締役社長に、被告人が代表取締役会長にそれぞれ就任し、その後、六一年四月、被告人が同会長を辞任し、併せて取締役を辞任した。
ところで、第一七期の売上目標を実現したリクルートコスモスは、マンション供給戸数で業界二位の業績を上げ、第一七期の決算は、営業収益一〇八二億円余り(前年比約70.5パーセント増)、経常利益七二億円余り(前年比約九八パーセント増)、当期利益(純利益)三二億円余り(前年比約六五八パーセント増)、純資産四五九億円余り(前年比約7.5パーセント増)となり、一株につき一〇円(前年の二倍)の配当を実施した。
リクルートコスモスは、株式公開に向けた態勢の整備を更に進めた上、六一年五月一九日の取締役会で、主幹事証券会社を大和証券、副幹事証券会社を野村證券株式会社(以下「野村証券」という。)ほか二社とするとともに、各証券会社の分売時の取扱いシェアを決定した。
六一年七月二八日のリクルートコスモスの取締役会では、同年九月一日に幹事証券会社が日本証券業協会に対し店頭登録申請を行う要領により株式公開することを正式に決定し、同年七月二九日の株主総会の決議により定款の株式譲渡制限規定を削除し、同日の取締役会で株式取扱規則を改訂した上、同年八月初旬ころ、大和証券に対し店頭登録申請資料を提出した。
六一年八月一九日のリクルートコスモスの取締役会では、同年一〇月下旬に予定する店頭登録に伴う株式公開の方法を被告人所有の株式を分売する方法によること、分売株式数を二八〇万株とすること、最低分売価格は同月上旬に決定することなどを正式決定し、これを受けて、大和証券等の四幹事証券会社は、同年九月三日、連名で日本証券業協会宛に店頭売買登録銘柄登録申請書を提出した。
(〈証拠略〉)
(五) コスモス株の最低分売価格等を決定した経緯等
六一年二月二〇日のリクルートコスモスのじっくり取締役会(被告人も出席)では、議長が、第一七期の業績見通しとして、売上高一一〇〇億円前後、税引き前利益約六一億円、税引き後利益約二一億円が見込まれ、店頭登録時の価格が第三者割当増資の際の価格である一株二五〇〇円を上回ることはほぼ確実である旨の報告をした。
六一年二月二四日のリクルートコスモスの取締役会(被告人は欠席)でも、R17が作成した資料に基づき、第一七期の業績予想を基礎として、一株当たりの配当金を一〇円とし、大京観光と日栄建設の二社を類似会社として、同月二一日の両社の株価を基にした類似会社比準方式による株価を二五九六円と算定した上、分売価格が二三三〇円ないし三〇二〇円となる旨の予想が報告され、また、その場で、ほとんどの場合は最高値が初値となる旨の説明もなされた。
その後、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会(被告人は出席)では、社員持株会加入の従業員が退職する際の社内の株式売買価格である社内流通価格の変更が議題とされ、その資料として、同年七月二九日付け株式課作成の「当社流通株価について」と題する書面(甲書1三二三添付のもの)が提出された。同資料には、リクルートコスモスの第一七期の決算を基礎とし、大京観光と日栄建設の二社を類似会社として、同日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となり、非公開かつ非上場会社であることを根拠に社内流通価格を右数値の約四〇パーセント減の二一〇〇円と算定する旨の記載があった(同資料記載の大京観光の当期利益、純資産及び発行済株式総数を基にして計算すると、一株当たりの利益は80.11円となり、一株当たりの純資産は718.79円となるはずであるのに、同資料には、前者が79.58円、後者が825.11円と記載されており、同資料は計算違いを含むが、その点を是正して試算し直すと、右方法によるコスモス株の当時の試算価格は三六〇〇円を上回る。)。同年八月四日の右取締役会では、右資料に基づいて審議した上、同月一日から店頭登録までのコスモス株の社内流通価格を右資料の記載どおり二一〇〇円とすることを決定した。
大和証券では、公開引受部課長代理のS1が中心になって最低分売価格の試算等をしていたが、同人は、六一年九月中旬ころ、リクルートコスモスを担当していた第二事業法人本部事業法人第二部次長のS2(以下「S2」という。)及び専務取締役のS3(以下「S3」という。)が被告人をはじめとするリクルート及びリクルートコスモスの幹部と類似会社の選定について打合せを行うための参考資料(甲書1二七七添付の「株式会社リクルートコスモス価格算定に関する参考資料」と題するもの)を作成した。右資料には、同月九日までの一か月間の平均株価を基にして、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となる旨の試算結果が記載されるとともに、類似会社の候補として、右二社のほかに株式会社長谷川工務店、三井不動産株式会社(以下「三井不動産」という。)等六社が挙げられ、大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定する場合の最低分売価格を試算した表が添付されて類似会社の検討を求める内容になっており、このうち、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合の最低分売価格の試算価格は、4162.29円と記載されていた。また、右資料には、五九年一月から六一年九月一〇日までに新規店頭登録された株式三六銘柄(うち分売の方法によるものは六銘柄)の店頭登録当日の価格形成状況が記載された表や、六〇年四月から六一年八月までに新規店頭登録された株式二一銘柄(うち分売の方法によるものは二銘柄)の新規登録後一か月間の毎日の終値及び売買高、登録の一か月後、二か月後、三か月後、六か月後及び六一年九月八日現在の終値等が記載された表も添付されていた。
大和証券のS2次長及びS3専務は、六一年九月一六日、リクルート本社において、被告人、R3、R18らと会合し(以下この会合を「大和会議」という。)、被告人らに右参考資料を交付した上、五九年三月から六一年八月までに分売方式により店頭登録された事例ではすべて最高分売価格が分売価格となった旨説明し、第三者割当増資の際と同様に大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となるが、資料に記載された類似会社の組合せ候補の中から選定してほしい旨説明したところ、マンション売上戸数で業界第一位の大京観光を類似会社に選定することは異存なく決まった。さらに、被告人とR3が、日栄建設ではなく、総合不動産業の業界第一位で、従来からリクルートコスモスが目標としている三井不動産を類似会社としたいという意向を示して、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とするリクルートコスモス側の方針が定まり、S3専務は、引受け担当者と相談して日本証券業協会と掛け合う旨答えた。
被告人は、大和会議の際のS3専務らの説明と交付された参考資料により、平均株価の変動が少なければ、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には、最低分売価格が三二九〇円程度、最高分売価格が四二七〇円程度となり、被告人らリクルートコスモス側の意向どおりに大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には、最低分売価格が四一六二円程度となり、その三〇パーセント増しの価格である最高分売価格が五四一〇円程度となることを認識した。
大和証券公開引受部のS1は、リクルートコスモスの右意向を受け、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする株価算定資料を作成して、日本証券業協会の担当者と面談し、類似会社を第三者割当増資の際と異なる会社にする理由として業績の伸長があったことなどを説明し、その指導を受け、大京観光と三井不動産の二社に藤和不動産株式会社を加えた三社を類似会社とする場合の株価算定資料を作成するなどして相談を重ねた結果、六一年一〇月初めころ、日本証券業協会の担当者から大京観光と三井不動産の二社を類似会社とすることについて了解を得られ、その旨をリクルートコスモス側に伝えた。被告人も、そのころ、R18から報告を受けて、その旨を承知した。
大和証券は、リクルートコスモスの意向どおり、大京観光と三井不動産の二社を類似会社に選定し、両社の六一年九月一〇日から一〇月九日までの一か月間の平均株価(大京観光は2827.72円、三井不動産は1957.73円)を用いた類似会社比準方式で算定して、コスモス株の最低分売価格は四〇六〇円が妥当である旨の株価算定書を作成し、同年一〇月一三日までにリクルートコスモスに交付した。そして、リクルートコスモスでは、同月一三日の取締役会で、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする類似会社比準方式により、コスモス株の最低分売価格を四〇六〇円とする旨決定し、大和証券等の四幹事証券会社は、右決定を受けて、同月一四日、日本証券業協会に対し、分売株式総数を二八〇万株、最低分売価格を四〇六〇円、最高分売価格を五二七〇円とし、分売予定日を同月三〇日とすることなどを内容とする株式分売申告書を連名で提出した。
その後、日本証券業協会は、六一年一〇月三〇日をもってコスモス株を店頭売買銘柄として登録する旨決議した。
(〈証拠略〉)
3 特別利害関係者の株集め等の規制と被告人の認識
(一) 特別利害関係者の株集め等の規制
日本証券業協会における審査は業務委員会で行われるところ、同委員会の内規では、株式店頭市場の健全な運営を図るため、店頭登録申請前に第三者割当増資等を行っている発行会社の登録申請については、「発行会社の特別利害関係者等が、登録申請日の直前決算期日の一年前の日以降に、当該会社の株集め又はこれに類する行為を行ったと認められるときは、登録申請を受理しないこととする。」「特別利害関係者等とは、①当該会社の役員、その配偶者及び二親等内の血族並びに主要株主、②関係会社及びその役員、③申請協会員及びその役員をいう。」と定められており、日本証券業協会の事務局では、発行会社の役員等の特別利害関係者が第三者割当増資先から発行会社の株式を買い受ける行為が株集めに該当することは当然として、特別利害関係者が自らの所有する発行会社の株式を譲渡する行為も株集めに類する行為に該当すると解釈しており、この解釈は日本証券業協会の協会員である証券会社の実務担当者に周知されていた。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人の認識等
被告人は、六一年四月までに大和証券のS3専務から説明を受けて、大株主である被告人が所有するコスモス株を公開直前の決算期の一年前以降に他に譲渡することは、日本証券業協会の内規により、原則として店頭登録申請不受理の理由になることを承知しており、同月に自己所有のコスモス株の一部を社員持株会へ譲渡した際には、事前に大和証券を介して日本証券業協会に照会し、大株主から社員持株会に対する株式移動は株集め等の規制の例外として許容され、店頭登録手続の支障にならないことを確認した上、実行した。
(〈証拠略〉)
4 コスモス株の店頭登録当時の株式市場の情勢
コスモス株の店頭登録の準備を進めていた当時、我が国の株式市場は活況を呈していて、五八年初頭ころ以降、株価の大幅な上昇傾向が続いており、六一年に入ってからも、一時的に下がる局面はあったものの上昇基調にあって、年初に約一万三〇〇〇円であった日経平均株価が同年八月二〇日に一万八九三六円まで上昇した。同株価は、その後同年一〇月にかけて値下がり傾向になったが、同年一一、一二月は再び上昇基調になり、右最高値近くまで回復した。
なお、類似会社とされた三井不動産の株価は、六一年七月から九月にかけて二〇〇〇円前後で上下しながら推移し、同年九月三〇日に二二一〇円の終値を付けたが、以後大幅な下落傾向になって、同年一〇月二五日に一三七〇円の安値を付け、以後上昇傾向に転じたが、コスモス株の店頭登録日である同月三〇日の終値は一七二〇円であって、コスモス株の分売価格算定の基礎とされた時期の平均株価を下回った。一方、大京観光は、同年六月から八月にかけて三〇〇〇円前後、同年九月中は二九〇〇円前後で推移した後、同年一〇月中は下落傾向になって同月二一日に二五〇〇円の安値を付けたが、その後上昇傾向に転じ、同月三〇日の終値は二九一〇円となって、コスモス株の分売価格算定の基礎とされた時期の平均株価を上回った。
(〈証拠略〉)
5 コスモス株の店頭登録の状況及び実際の公開価格
コスモス株は、六一年一〇月三〇日に店頭登録されて分売が実施されたところ、分売株式数二八〇万株に対し、その約6.7倍の買注文があり、最高分売価格による買注文のみでも約一四〇〇万株の注文があって、分売株式の全部につき一株五二七〇円の初値で売買約定が成立した。また、翌三一日から分売株以外のコスモス株の店頭取引が開始されたところ、同日の高値は五四二〇円、安値は五二七〇円であり、その株価は、六二年九月八日に安値が五二五〇円となるまで、高値、安値ともに右初値を超えて推移し、その間の最高値は、同年四月二日の七二五〇円であった。
(〈証拠略〉)
6 関連する弁護人の主張について
以上の認定のうち、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会(右2(五))における議事に関し、弁護人は、同日付け取締役会議事録(甲書1三二三)は添付資料も含め、事後に日付をさかのぼらせて作成されたものであって、同月当時は存在せず、実際には、R17は、同年七月下旬、第一七期の決算を踏まえて大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年六月の一か月間の平均株価を用いて試算した数値から一〇パーセントを減じ、コスモス株の類似会社比準方式による価格を三〇〇〇円と試算し、その結果をR18に報告しており、そこから更に三〇パーセントを減じて二一〇〇円の社内流通価格を定めたものである旨主張し、R18は、右主張に沿う証言をしている。
しかし、右取締役会議事録や添付資料が事後に作成されたというR18の証言は、全くの推測を述べるものにすぎない上、社内流通価格を算定した際に実際に利用した資料と異なる内容の資料を事後に作成した理由として推測を述べる点も、その必要があったことを具体的に指摘するものでなく、他の取締役や事務担当者の証言等の裏付けもないから、信用することができない。
したがって、R18の右証言は右2(五)の認定を妨げるものではない。
二 コスモス株の譲渡状況
1 認定事実
(一) 第三者割当増資先にコスモス株の放出を働きかけた状況等
被告人は、六一年六月ころ、役員や幹部職員の勤労意欲を高めるために自社の株式を所有させることが経営上望ましいという発想から、社員持株会とは別に、リクルートコスモスの役員及び部次長以上の職員に店頭登録に先立ってコスモス株を取得させることを企図したが、本章第二の一3の店頭登録手続上の規制により、被告人自身の所有株式を譲渡することはできない旨の説明を受けていたことから、被告人の主導でコスモス株を所有するリクルートの幹部に働きかけて、これらの幹部からリクルートコスモスの役職員にコスモス株を一株一三〇〇円で譲渡させた。同年八月上、中旬ころ、被告人は、更にリクルートコスモスの役職員に自社の株式を所有させるために、六〇年四月に実施した第三者割当増資(本章第二の一2(二))の引受先のうち被告人と親しい者が経営する会社からコスモス株を放出してもらうことを企図し、R18に譲渡価格を幾らにすべきか相談した。その際、被告人は、R18に対し、二五〇〇円に金利分を上乗せすれば足りるのではないかと述べたが、R18は、安すぎると譲渡する法人の側に税務上の問題が生じる旨進言した上、一株三〇〇〇円の価格であれば大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする類似会社比準方式により説明がつき、税務上の低廉譲渡等の問題が生じないという回答をした。
そこで、被告人は、一株三〇〇〇円であれば、増資時の価格を五〇〇円上回るので、放出先の理解も得られ、低廉譲渡等の税務上の問題も生じず、かつ、譲受人も店頭登録時に値上がりによる利得を得られると判断して、六一年八月中旬ころ、親しい関係にあったM3に対し、m4社所有のコスモス株二〇万株を一株三〇〇〇円で買い戻したい旨申し入れて、その承諾を得た。
被告人は、さらに、六一年八月下旬ころ、リクルートコスモスの役職員に限らず、同会社外の特定の者(以下「社外の者」という。)に対しても店頭登録前にコスモス株を取得させて、その値上がり益を取得させることを思い立ち、そのために必要なコスモス株を確保すべく、同年九月上旬ころまでに、M3に対するのと同様にして、M4、M2(当時、リクルートコスモスの監査役は辞めていたが、ファーストファイナンスの取締役であった。)及びM1と交渉して、m5社所有の二〇万株、m2社所有の八万株、m3社所有の六万株並びにm1社の関連会社で同社及び株式会社ヤクルトからコスモス株を譲り受けていた株式会社m6社(以下「m6社」という。また、m4社、m5社、m2社、m3社及びm6社の五社を合わせて、「m4社等五社」ともいう。)所有の一六万株をそれぞれ一株三〇〇〇円で譲渡することについて了承を得た。
右各社所有のコスモス株を譲渡してもらう具体的な手続は、被告人の指示で、R18が中心になり、m4社についてはR18が自ら行い、m5社についてはリクルート大阪支社のR19が、m2社、m3社及びm6社についてはR4がそれぞれR18の依頼を受けて行った。
(〈証拠略〉)
(二) コスモス株の譲渡の相手方を選定した状況
被告人は、R18の意見も聴きながら、リクルートコスモスの役職員一六名に取得させるコスモス株の株数(計三〇万株)を定め、社外の者についても、六一年八月末ころから九月上旬にかけて、コスモス株を取得させる相手方を選定し、その後、同月上旬、当時のリクルート社長室長のR2及び同室次長のR1を同席させた上、R2の意見も聴きながら、R1を書記役として、国会議員、議員秘書、財界人、財界雑誌、マスコミ関係者等を選定するとともに、各人に取得させる株数を定めたほか、それとは別の機会に自ら思いついたり、リクルートグループの幹部から推薦を受けるなどして譲渡の相手方を選定し、取得させる株数を決めて、同年九月末か一〇月初めころまでに、R2やR1に伝えるなどして、合計四十数名の譲渡の相手方を選定した。
また、被告人は、R2やリクルートコスモス代表取締役のR3、同専務取締役のR20(以下「R20」という。)及び同常務取締役のR21(以下「R21」という。)に対しても、確保したコスモス株の一部について譲渡の相手方を選定した上、R18と相談して手続をするように指示した。
なお、被告人は、ファーストファイナンスの代表取締役社長であるR4に対し、社外の譲受人が希望すれば、ファーストファイナンスから、譲受けに係るコスモス株を担保に、株式譲受価格全額を融資するように指示し、貸付期間は一年とし、金利を七パーセントとしたい旨のR4の意見を了承した。
(〈証拠略〉)
(三) 譲渡の相手方に対する働きかけと株式売買約定書の作成状況等
被告人は、コスモス株の譲渡の相手方に選定した者の大部分について自らが本人や秘書に電話をするか面談をし、一部についてはR2やR1らを介して、近く株式公開予定のコスモス株を一株三〇〇〇円で譲り受けてもらいたい旨持ちかけて、その買受けを勧誘し、その承諾を得た上、R2、R1、R18及びR4に対し、承諾を得た者に関するコスモス株の譲渡手続を六一年九月末日までに終えるように指示して、具体的な手続をさせた。
R2、R1、R18及びR4は、m4社等五社とコスモス株の譲渡の相手方との間で株式売買約定書を取り交わす手続を進めたところ、m4社所有のコスモス株のうちリクルートコスモスの役職員が譲り受ける分と、社外の者が譲り受けるm2社所有のコスモス株の一部については、譲受人の署名押印を得た上でm4社等に持参して譲渡人欄の記名押印を得たが、その他については、六一年九月中旬ころに譲受人欄空白のまま多数の株式売買約定書の譲渡人欄に記名押印を得た上、順次譲受人側の署名押印を得る手順で株式売買約定書を作成した。
右約定書の作成は、実際には一部が六一年一〇月中にずれ込んだが、約定書の記載上は、リクルートコスモスの役員三名が譲り受けるm5社所有の一〇万株を除きすべて同年九月三〇日付けとして、いずれも一株三〇〇〇円で、①譲渡人名義をm4社とし、リクルートコスモスの役職員一二名及び社外の者二名を譲受人とする合計二〇万株(譲受人名義をA1とする一万株を含む。)、②譲渡人名義をm3社とし、政治家等一三名を譲受人とする合計六万株(丁谷三郎に対する二〇〇〇株及び譲受人名義をB1とする五〇〇〇株を含む。)、③譲渡人名義をm2社とし、政治家等九名を譲受人とする合計八万株(丁谷三郎に対する一〇〇〇株、庚町に対する五〇〇〇株及び己畑五郎に対する一万株を含む。)、④譲渡人名義をm5社とし、リクルートコスモス役員三名を譲受人とする計一〇万株及び政治家、財界人等二一名を譲受人とする計一〇万株、⑤譲渡人名義をm6社とし、政治家、財界人等二二名(法人を含む。)を譲受人とする合計一六万株(辛村に対する一万株及び譲受人名義をN1とする一万株を含む。)の株式売買約定書が作成された。
なお、売買代金の支払は、リクルートコスモスの役員三名が譲り受けたm5社所有のコスモス株一〇万株分については、ファーストファイナンスが六一年九月二五日に各譲受人名義でm5社に送金し、その余の六〇万株のうち、m5社所有のコスモス株五〇〇〇株については、譲受人が自分で代金を送金したものの、残りの五九万五〇〇〇株分については、ファーストファイナンスが同月三〇日にm4社等五社に対し、譲受人がファーストファイナンスの融資を利用するか否かにかかわらず、また、そもそも譲受人が未確定の分も含め、一括してコスモス株の売買代金を振込送金し、その後、コスモス株の譲受人のうち、融資を利用する者については貸付金として、それ以外の者については仮払金として経理上の処理をした。
R18やR4らは、そのころ、譲渡に係るコスモス株の株券を譲渡人から受領し、ファーストファイナンスの融資を利用した者の分については、その担保としてファーストファイナンスで預かり、そのほかは譲受人に交付した。
(〈証拠略〉)
2 譲渡人が被告人であることについて
(一) 弁護人の主張及び被告人の供述
弁護人は、コスモス株の譲渡は被告人がその主体となったものではなく、被告人はm4社等五社と各譲受人との間の売買を斡旋したにすぎない旨主張する。また、被告人は、公判段階において、同旨の供述をするが(〈証拠略〉)、他方で、被告人の元年五月二〇日付け検面調書(乙書1六)には、コスモス株は被告人がm4社等五社から買い戻した上で譲渡したものであって、自らが当事者となった売買であり、捜査段階の初期において売買の仲介斡旋をしたにすぎない旨述べたのは、証券取引法四条違反の罪に問われることを懸念したからであって、真実ではない旨の記載がある。
(二) 判断
確かに、右1(三)のとおり、コスモス株売買約定書の譲渡人欄には、判示各事実に係る譲渡を含めて、いずれも被告人ではなく、m4社等五社の会社名が記載されている。
しかし、他方で、
① コスモス株の店頭登録に先立って社外の者数十名にコスモス株を取得させることを発案したのは被告人であり、譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めたのも被告人であること(右1(一))、
② 被告人は、増資の際の第三者割当先のうちで個人的親交に基づいて割り当てたM3らに対し、コスモス株の放出を依頼して、その承諾を得たのであり、M3らの側から売却の斡旋を依頼されたわけではないこと(右1(一)、〈証拠略〉)、
③ 被告人は、コスモス株の放出を依頼した相手に対し買受人が誰かを告げたことはなく、コスモス株の放出を依頼された者のうち、(ア)M3は、被告人がいろいろな人からコスモス株の譲受けを依頼され、足りなくて困っているので、コスモス株を買い戻したいという申出をしてきたことから、譲渡の相手方は被告人又はその主宰する会社であるという認識の下に、被告人が取得させたいとする相手方が誰であるかを問うこともなく、被告人が言ったとおりの価格で譲渡することを承諾し、(イ)M2も、被告人が、コスモス株を分けたい人がいるが、自分が所有する株を分けることはできないので、m3社とm2社所有のコスモス株を譲ってほしい旨求めてきたことから、被告人が分けたいとする相手方が具体的に誰であるかを問うこともなく、売却先を誰とするかは被告人の自由に任せる意思で、その申出を承諾した後、R4の使いの者が持参した譲受人欄空白の株式売買約定書多数に記名押印し、ファーストファイナンスから一括して譲渡代金が支払われた後にR4から株式売買約定書を届けられて初めて、コスモス株を売却する相手方が誰であるかを知ったのであり、(ウ)M4も、被告人が、コスモス株を回してやりたい人がいるなどと、コスモス株の放出を求めてきたことから、被告人が回したいとする相手方が具体的に誰であるかを知らないまま、その申出を承諾し、部下に具体的な手続を執るように指示したのであって、いずれも譲渡の相手方の選定には全く関与していなかったのであり、また、M3らの側には、店頭登録が近づいた時点で、後記のとおり高値の予想されたコスモス株を一株三〇〇〇円という価格で譲受人に譲渡して、予想される利益を移転すべき事情はなかったこと(〈証拠略〉)、
④ 被告人は、主として自分自身で、一部は他のリクルートグループの幹部に指示して、コスモス株の譲渡の相手方を選定し、取得を持ちかける株数を決定した上、譲渡の相手方に対し、自ら又はリクルートグループの幹部を介してその取得を持ちかけ、承諾を得ていたこと(右1(二)、(三))、
⑤ 被告人による譲渡の相手方の選定に同席し、その命を受けて一部の譲渡の相手方との交渉や手続に当たったR2も、被告人やR3を代表とするリクルートコスモスの経営陣が名義人と何らかの了解に至ったがために自由にできる株式を譲渡するという理解の上で譲渡手続に当たっていたこと(〈証拠略〉)、
⑥ 被告人は、コスモス株の取得を持ちかけた相手方に対し、契約書上の譲渡人となる従来のコスモス株の所有者が誰であるかを説明しておらず、被告人から持ちかけられてコスモス株を購入した者のうち、(ア)被告人と親しい経済人のM5は、被告人と面談した際、コスモス株をお持ち願いたい旨勧誘され、被告人が関係する株を被告人の指示で譲り渡してもらえるものと認識して承諾し、(イ)当時リクルートの顧問税理士であったM6は、被告人から電話で、近々店頭公開するコスモス株をお世話になった方々に持っていただいているなどと、その購入を勧誘されて、これを承諾し、株式売買約定書の作成時に譲渡人としてm2社の名を見た際には、「甲野さん側」又はリクルートグループが買い取った株を中間省略的にm2社名義で譲渡したのではないかという感想を持ち、(ウ)信託銀行の役員であったM7は、被告人の訪問を受けてコスモス株の取得を勧誘され、被告人本人からの譲渡であると認識して、息子名義で譲り受けることを承諾し、(エ)「被告人と親しい財界人であったM8も、被告人から電話でその取得を持ちかけられた際、被告人又はその関係者所有の株を譲り受けるものと認識して了解し、後に株式売買約定書の譲渡人としてm6社の名を見た際には意外感を抱いたこと(〈証拠略〉)、
⑦ コスモス株の譲渡に必要な手続は、被告人の指示を受けたR2、R1、R4らリクルートグループの幹部が譲渡の相手方やその秘書等と面談するなどしてこれを行い、m4社等五社と譲渡の相手方との間には全く交渉がなかったこと(右1(三))、
⑧ 六一年九月ころは、日本証券業協会の規制により、リクルートコスモスの役員かつ主要株主で、しかも親会社のリクルートの役員でもあった被告人自身が所有するコスモス株を譲渡することはできず、あるいはいったんm4社等五社から被告人に対する譲受手続をした上で他に対する譲渡手続をすることもできなかったこと(本章第二の一3(一))、
⑨ 被告人自身、分売の方法で株式を公開する場合には、「親引け」(公募増資の際に、発行会社の希望する割当先に優先的に新株を取得させること)をして、あらかじめ親しい者に株式を取得させ、初値との差額をプレミアムとして得させることができず、また、被告人所有のコスモス株を売却して同趣旨のことをするのも日本証券業協会により禁じられていると聞いたために、代わりの「親引け的な行為」として、m4社等五社の有するコスモス株を放出してもらって社外の者に取得させることを考えた旨供述していること(〈証拠略〉)、
⑩ R4は、六一年九月三〇日、m4社等五社に対し、ファーストファイナンスの融資を利用するか否かにかかわらず、また、譲受人が未確定の分も含め、ファーストファイナンスから一括してコスモス株の売買代金を振込送金し、その後に、融資を利用する譲受人については貸付金として、それ以外の者については仮払金として経理上の処理をしたこと(右1(三))、
以上の各事実が認められるのであり、これらの諸事実からすると、被告人の捜査段階における供述を除いて判断しても、被告人は、本章第二の一3(一)の規制があるために、これに違反することを免れようとして、形式的に書類上の譲渡人をm4社等五社としたにすぎず、実質的にみれば、一連のコスモス株の譲渡は、被告人がm4社等五社からコスモス株を一株三〇〇〇円で譲渡することの承諾を得て、自己の自由に処分し得る権限を取得した上、これらを譲受人に譲渡したものということができる。
なお、被告人は、公判段階において、R2に選定を任せた譲渡の相手方と、リクルートコスモスの幹部に選定を委ねた譲渡の相手方については、一部を除いて報告を受けておらず、譲渡の相手方のうちの二〇件一九人(丁谷三郎及びB1を含む。)は、一連のコスモス株の譲渡がマスコミ等で疑惑として取り上げられるまで譲渡の事実を知らなかったとし、報告を求めなかった理由は、株を持ってもらうことがさほど重要なこととは思っておらず、そのプレミアム分がどこに帰属するかということはさほどの関心事項ではなく、誰に行こうとどうせ市中に出る株であるから、優先的に行くのが誰であるかについては関心を持たなかったからである旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、そもそも、一連のコスモス株の譲渡を発案し、M3らに依頼して譲渡する株を確保したのは被告人自身である上、被告人自身が公判段階において、「親しくて、かつ社会的にそれなりに活躍しておられる方」を譲渡の相手方に選定し、政治家については、コスモス株の値上がりによりプレミアム部分が政治活動に資するものとなれば嬉しいことであると考えて、ニューリーダーやネオニューリーダーと言われる日本の将来を背負って立つ方々を中心にコスモス株を持ってもらったなどと供述していること(〈証拠略〉)からも、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の選定を重要な問題と考えていたことは明らかである。そうすると、被告人が譲渡の相手方が誰であるかについて関心を抱いていなかったというのは疑問であるが、仮に被告人が、他のリクルートグループの幹部が譲渡の相手方として誰を選定したか知らなかったとしても、m4社等五社から承諾を得て自己の自由に処分し得る権限を取得したコスモス株の譲渡の相手方の選定と譲渡の手続を他の者に委ねたというにすぎないから、譲渡の主体が被告人であることに変わりはない。
三 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み及び被告人の認識
1 検討の趣旨
被告人は、捜査及び公判段階を通じ、本章第二の二1(一)のとおり、一連のコスモス株の譲渡に際して譲受人に値上がり益を取得させる目的があったことを認め、店頭登録に際して値上がりすると見込んでいた旨供述するが、捜査段階における供述と公判段階における供述とでは、値上がり見込みの確実性の程度に若干のニュアンスの差がある。弁護人は、本件各コスモス株を譲渡した当時、コスモス株が値上がりすることは客観的には必ずしも確実ではなかった旨主張し、他方、検察官は、被告人には店頭登録後のコスモス株は少なくとも一株五〇〇〇円以上になるという認識があった旨主張する。
そこで、六一年九月ころ当時において、コスモス株の店頭登録後の価格として確実と見込まれた価格の程度及びその点に関する被告人の認識について検討を加える。
2 被告人の供述及び弁護人の主張
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、捜査段階において、コスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた事情及びその値上がり確実性の認識につき、次のとおり供述している(乙書1四)。
「〔六一年〕八月上旬ころ、〔中略〕R18を呼び、『株価の方はどうなりそうか。』と質問しました。R18君は、『七月末の理論値で三、〇〇〇円位です。』と答えました。理論値というのは、最低分売値を算出する上で、類似会社何とか方式という方法で計算した株価です。〔中略〕私は、R18君からこの数値を聞き、公開直後には、株式相場の基調の強さ、不動産業界の好景気、未公開株に対する人気といった一般的な材料に加え、RC〔リクルートコスモス〕の業績の伸びといった具体的要因が手伝い、プレミアがつき、三、五〇〇円〜四、〇〇〇円位にはなるだろうと思いました。」「私が値決めで一番重視したことは、合理的な範囲内で最大限度喜んでいただくということでした。合理的な範囲内というのは、税務上低廉譲渡といった問題が生じないということでした。そのためには、どうしても、その時点の理論値を据えざるを得ませんでした。」「R18との話し合いの席で、彼が『お金のない人にはファーストファイナンスのファイナンスを付けたら良いでしょう。』旨進言してきましたので、私もそれを了解しております。〔中略〕そうした取り扱いをした一因として、私を始めR4達関係者間の者が、値上がりが確実に見込まれる株を担保にすることから貸金の保全回収の不安が少ないと思っていたことがあることは認めます。」
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、値上がり確実性の認識について、概ね次のとおり供述している(〈証拠略〉)。
① 六一年八月にR18に対し類似会社比準方式で幾らになるか尋ねたところ、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年七月末の株価を基準として算定すると、三〇二〇円か三〇一〇円の株価となり、三〇〇〇円であれば低廉譲渡に当たらない旨の説明を受けた。低廉譲渡としてm4社に課税されることがないようにするということは意識したが、税務的に許容される範囲内で最も安い価格として三〇〇〇円に決めたのではなく、類似会社の株価変動がないと仮定した場合の株式公開時の売出価格と同じ価格が三〇〇〇円であると考えていた。
② 六一年八、九月当時は、新規公開株にプレミアムが付くのは常識であるという認識であり、かつ、七月末の大京観光と日栄建設の株価を基にした類似会社比準方式による算定価格が三〇〇〇円であると聞いていたことから、店頭登録時には五〇〇円から一〇〇〇円程度のプレミアムが付いて、普通に順調に推移すれば三五〇〇円程度になり、よほど人気が出れば四〇〇〇円程度になるであろうという漠然とした認識があった。株のことであるから一〇〇パーセント確実とは言い切れず、予測不能な国際的な経済情勢の大変動や戦争等が起きて株価が大幅に下落すれば大変なことだという心配は持ちながらも、順調に行くであろうと思っていた。コスモス株を取得させる相手方に政治家を含めたのは、コスモス株の値上がりによるプレミアム部分が政治活動に資するものであれば嬉しいことであると考えたからである。
③ 新規公開の場合の株価算定方式として類似会社比準方式が用いられるということは六一年に入る前後から知っていたが、同年九月一六日の大和会議までは、分売当日は右方式で計算した一定の価格で取引をし、買注文が多数の場合には抽選によって売買が成立し、右一定価格で株式を取得した株主が翌日以降の取引でプレミアムを得るものと思っていた。大和会議の際に初めて、類似会社比準方式で算出する最低分売価格とその三割増しの最高分売価格の範囲内で分売価格が定まるということを知った。
④ 大和会議の際も、S3専務からは、従来は概ね最高分売価格で初値が付いた事例が多いが、コスモス株は量的に非常に多く、店頭市場始まって以来の規模なので、最低分売価格と最高分売価格との間のどこで価格が決まるか分からず、日栄建設に替えて三井不動産を類似会社とする場合には四〇〇〇円から五〇〇〇円の間で決まるが、価格が高くなると買い手が減る心配があるので、最低分売価格の四〇〇〇円で埋まることも覚悟しておいてもらいたい旨言われた。自分自身でも、投資家の側から見れば四〇〇〇円というのは高く、あまり買い手が付かない心配があると感じた。
⑤ その際、S3専務からは、三井不動産を類似会社とすることについて日本証券業協会に働きかけるが、了承を得られない場合には、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とすることになる旨言われた。
(三) 弁護人の主張
被告人が、コスモス株の譲渡を持ちかけた時点において、新規公開株人気により、店頭登録に伴って、譲渡価格である三〇〇〇円に対し一定のプレミアムが付くこと(値上がりすること)を認識していたことは認める。しかし、①新規公開株の人気は絶対確実なものではあり得ず、殊に、コスモス株が二八〇万株という店頭市場ではかつてない大規模な株式の分売であったことから、公開株数が数十万ないし一四三万株であった従前の分売の場合と同様に買人気を呼ぶとは限らず、初値が最高分売価格で決定されることが確実とはいえなかったこと、②リクルートコスモスの第一七期の決算において純利益が多額となったのは、コスモス株の分売価格を高く算定するために、期末における大量の押し込み販売(本来翌期以降に計上すべき売上げを期末に前倒しして計上する扱い)、期末におけるファーストファイナンスに対するマンションの在庫の販売及び有価証券売却益等の多額の営業外利益の計上という無理を重ねた結果であり、当時のリクルートコスモスの実力を反映した数字とはいえなかったこと、③類似会社の株価は当然に変動が予想されるものであるから、被告人が譲渡価格を一株三〇〇〇円と決めた当時や大和会議の時期と株式分売申告書提出の直前の時期との間で、類似会社の株価が大幅に変動する危険があり、実際にも六一年一〇月には大幅に下落していたことから、本件各コスモス株を譲渡した当時、コスモス株が三〇〇〇円から値上がりすることは、客観的には必ずしも確実といえなかった。したがって、本件各事件においては、賄賂の目的となる利益が認められない。
3 判断
(一) 被告人がコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた事情
この点につき、R18は、公判段階において、六一年七月に社内流通価格を決めるために、R17に同年六月の類似会社の株価を基にしてコスモス株の価格を算定してもらったことがあり、その際は、類似会社比準方式による算出価格から一〇パーセント差し引く方式で一株三〇〇〇円に若干の端数が付く金額となっており、同年八月中旬ころ被告人からコスモス株を幾らで従業員に売ったらよいのかと聞かれた際は、同年七月の類似会社の株価を使って右と同様の方法で再計算し、その結果が三〇〇〇円に数十円の端数が付く金額であったので、三〇〇〇円と回答したとして、被告人の公判段階における右2(二)①の供述に沿う供述をしている(〈証拠略〉)。
しかし、本章第二の一2(五)(本章第二の一6で補足)のとおり、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会では、同社の第一七期の決算を基礎として、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年七月二九日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となり、非公開かつ非上場会社であることを根拠に社内流通価格を右数値の約四〇パーセント減の二一〇〇円と算定する旨の記載がある資料に基づいて審議した上、コスモス株の社内流通価格を一株二一〇〇円と決定しており、被告人は代表取締役会長として、R18も取締役として、この議事に参加していたのである(同日の取締役会議事録〔甲書1三二三〕により明らかである。)から、R18が、同年八月上、中旬ころ、被告人に対し七月末の類似会社比準方式で算出した最低分売価格が三〇〇〇円くらいである旨話すとか、被告人がR18の右説明によって類似会社の株価変動がないと仮定した場合の株式公開時の売出価格が三〇〇〇円であると考えるなどということは、右取締役会の際の資料や議事内容に照らすと、不合理であって、信用することができない。むしろ、右取締役会における審議の経緯に加え、被告人の捜査及び公判段階における供述(右2(一)、(二)①)を総合すれば、被告人は、その当時の類似会社比準方式で試算したコスモス株の価格(店頭登録時の最低分売価格に相当する価格)が三五四二円余りであると認識した上、いまだ公開前の段階であることから、一株三〇〇〇円であれば一応合理的な価格として説明が付き、税務上の低廉譲渡の問題は生じないと判断して、その価格を定めたものと認められる。
(二) 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み
(1) 以上で認定したとおり、
① 店頭登録制度が大幅に改定された五八年一一月以降六一年九月までに新規に店頭登録された株式の価格の形成や推移を見ると、そのすべてが投資家の人気を集め、そのうち分売の方法により公開された六銘柄については、いずれも最高分売価格に当たる買注文株数が売委託株数を超えたことから、初値は最高分売価格で決定され、その翌日以降の一般取引開始後の株価も長期間右初値以上で推移し、既発行株式の売出し又は売出しと公募増資の併用方式により公開された三一銘柄についても、すべて初値が類似会社比準方式で算定された公開価格を大幅に上回り、その後も大部分の銘柄が相当の期間公開価格を上回って推移したのであり、このように、新規登録株式が一般的に人気を呼び、店頭登録後の株価が高い水準で始まって、その後も相当の期間にわたり分売価格や公開価格を上回って推移することは、株取引に関心のある者の間で広く知られていたこと(本章第二の一1(三))、
② 六一年当時のリクルートコスモスの業績は良好で、マンション供給戸数で業界二位の業績を上げ、店頭登録直前の第一七期(六〇年五月一日から六一年四月三〇日まで)の決算では、営業収益一〇八二億円余り(前年比約70.5パーセント増)、経常利益七二億円余り(前年比約九八パーセント増)、当期利益(純利益)三二億円余り(前年比約六五八パーセント増)、純資産四五九億円余り(前年比約7.5パーセント増)となり、一株につき前年の二倍に当たる一〇円の配当を実施したこと(本章第二の一2(四))、
③ 右決算の結果、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、六一年七月二九日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式で計算したコスモス株の価格(店頭登録の際の最低分売価格に当たる価格)が三五〇〇円を上回る価格となっていたこと(本章第二の一2(五))、
④ 六一年当時、我が国の株式市場は活況を呈していて、一時的に下落する局面はあったものの、基調としては、五八年初頭ころ以降、株価の上昇傾向が続いており、六一年九月中旬ころにおいても、同月九日までの一か月間の平均株価を基にしたコスモス株の分売価格が、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円と試算され、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には最低分売価格四一六二円、最高分売価格五四一〇円と試算される状況であったこと(本章第二の一2(五)、4)
を総合すると、コスモス株の分売株数が従前の分売の方法による新規店頭登録株の分売株数と比べて相当に多量であったという事情を考慮に入れても、六一年九月ころ当時、証券取引市場に参加する者の間では、コスモス株の店頭登録時の初値が最高分売価格又はそれに近い価格で形成され、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移することは確実であると見込まれていたと認められる。
また、六一年九月ころ当時に見込まれたコスモス株一株当たりの価格が具体的に幾らであったかについては、類似会社を大京観光及び日栄建設とするか、それとも大京観光及び三井不動産とするかが確定していなかったこと、分売価格決定までに類似会社の株価が相当の幅で変動する可能性があったこと、店頭登録当日までに経済情勢の変動等の株価市況全般に影響を与える事情が生じる可能性もあったことを考慮すると、確定した数値を認定することはできないが、右①ないし④の諸事情や店頭登録までの期間が短かったことからすれば、類似会社の株価や株価市況一般の急激な下落がなく、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には一株四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には一株五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移することが予想され、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、コスモス株の店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる客観的状況にあったと認められる。
(2) これに関連して、かつて野村証券で証券審査部課長などとして株式の店頭登録や上場の審査等に携わった経歴を有するS4は、コスモス株の店頭登録の過程で大和証券から野村証券に送付される資料を検討したこともあるところ、同人は、株価には、経済情勢、政治情勢、自然現象、事故、テロ、特定業界や個々の会社の問題等の種々のリスク要因があり、いくら上昇基調の時でも、リスク要因の実現により突然下がることが常にあり得るから、その予測は困難である旨証言するところ(〈証拠略〉)、確かに、株価に関する一般論としては右指摘には正しいものがあり、実際にも、本章第二の一4のとおり、類似会社とされた三井不動産の株価は六一年一〇月一日から二五日にかけて相当大幅に下落し、大京観光の株価も同年九月ころから一〇月二一日にかけて下落していたのであり、コスモス株についても、譲渡後分売価格確定までに大規模な災害や国際的な政治経済情勢の影響等により類似会社の株価が暴落して最低・最高分売価格が低額となったり、分売価格確定後店頭登録当日までに右のような事情が生じて投資家の人気が減退し、最低分売価格による買注文も集まらないというようなリスクが客観的に皆無であったとまではいえず、本件各譲渡当時、客観的に一〇〇パーセントの割合で店頭登録後の価格が三〇〇〇円を上回ることが確実であったとまでは断定し難い。
しかし、新規公開に先立つ株式の譲渡に際して、いかなるリスクが発現しても必ず譲渡価格を上回るという意味で確実性がなくても、一般的な投資家が認識・予測し得る事情を前提とすれば譲渡価格を上回ることが確実と見込まれる状況にあれば、そのような株式の譲渡を受けることは十分に利益性を有するから、贈収賄罪の客体となり得るというべきである。
コスモス株については、右の趣旨で店頭登録後に一株三〇〇〇円を上回ることが確実と見込まれていたと認めることができるのであり、S4が指摘するような一般的に予測不可能なリスクの存在は右認定を妨げる事情とはいい難い。
(3) 次に、S4は、リクルートコスモスは、当期利益が前年度に比して急激に増えており、その中身も、決算期直前に出た利益が多いことから、本来は翌期の売上げとなるべきものを前倒しにした「押し込み売り」が窺われ、営業外利益が多いなどの問題があり、自分自身や野村証券の審査担当者は、大変危うい公開であると考えていた旨証言している(〈証拠略〉)。
しかし、野村証券は、主幹事証券会社にならなかったとはいえ、幹事証券会社の一つとしてコスモス株の公開を推進していたのであるから、S4らが、六一年当時に大変危うい公開であると考えていたという右証言は信用し難い。
むしろ、他の関係者の認識を見ると、①大和証券の前次長は、従来の新規店頭登録株の価格形成の実情を踏まえて、新規店頭登録株の初値は最高分売価格で寄り付くのが常識であると理解していたのであり(〈証拠略〉)、②コスモス株を放出した者の側でも、(ア)m4社の実質上の経営者であるM3は、六一年八月中旬の段階で、リクルートコスモスのような業績の会社であれば、巨大地震でもない限り三〇〇〇円よりも高くなることは間違いないと考えていたし、(イ)m2社及びm3社の経営者であるM2も、三〇〇〇円という譲渡価格は予想される価格に比べて低いという不満を持ちながらも、やむを得ず譲渡を了承したのであり(〈証拠略〉)、③コスモス株の譲受人の側でも、(ア)リクルートグループの顧問税理士であったM6は、新聞記事等から新規店頭登録株は一般的に店頭登録後に値上がりすると認識していたし、(イ)被告人と親しい会社経営者であるM5も、被告人からコスモス株を持ってもらいたい旨持ちかけられた際、従前の株取引の経験も踏まえて、店頭登録時には倍くらいの価格になるものと予測していたほか、(ウ)被告人と親しい信託銀行役員のM7も、株式市場全体が順調であり、リクルートコスモスの業績も好調であったので、公開後値上がりすることは確実に近いと認識して譲受けを承諾したのであり(〈証拠略〉)、これらは、右(1)の認定を裏付けるものということができる。
さらに、六一年一〇月三〇日の店頭登録に際しては、類似会社とされた二社、特に三井不動産の株価が低迷する状況の中でも、コスモス株に対する最高分売価格による買注文が分売株数の約五倍に当たる約一四〇〇万株もあったのであり(本章第二の一5)、このことも、株式市場に参加する投資家の多くがS4の証言するような危惧感を抱かなかったことを示すものであり、右(1)の認定を裏付ける事情ということができる。
(三) コスモス株の値上がり確実性に関する被告人の認識
右(二)で認定した諸事実に加え、
① 被告人は、リクルートコスモスの代表取締役社長としてコスモス株の公開を企図し、大和証券から出向者を受け入れるなどして公開の準備を進め、六一年七月に社長をR3に譲って会長になった後も、依然、代表取締役としてリクルートコスモスの営業や店頭登録手続に関与していたのであり、同社の取締役会においても、店頭登録に向けて各種の審議や議決もなされていたところ、同年八月四日の取締役会でコスモス株の社内流通価格の変更が議題とされた際、リクルートコスモスの第一七期の決算を基礎として、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となる旨の資料に基づいて審議していたこと(本章第二の一2(一)〜(五))、
② 被告人が、六一年八月にコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた際には、その当時の類似会社比準方式で試算したコスモス株の価格(店頭登録時の最低分売価格に相当する価格)が三五〇〇円以上になることを認識した上、未だ公開前の段階であったことから、一株三〇〇〇円であれば一応合理的な価格として説明が付き、税務上の低廉譲渡の問題は生じないと判断して、その価格を定めたこと(右(一))、
③ 被告人は、捜査段階において、「公開直後には、株式相場の基調の強さ、不動産業界の好景気、未公開株に対する人気といった一般的な材料に加え、RC〔リクルートコスモス〕の業績の伸びといった具体的要因が手伝い、プレミアがつき、三、五〇〇円〜四、〇〇〇円位にはなるだろうと思いました。」と供述していること(右2(一))、
④ そもそも、被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させることを考え、社外の者に対する譲渡を企図したこと(〈証拠略〉)、
⑤ 被告人は、六一年九月一六日、大和会議に参加し、その際に示された資料には、同月九日までの一か月間の平均株価を基にして、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となる旨の試算の記載があったばかりでなく、類似会社の候補として、右二社のほかに三井不動産等六社を挙げ、大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定した場合の最低分売価格を試算した表や、五九年一月から六一年九月一〇日までに新規店頭登録された株式三六銘柄(うち分売の方法によるものは六銘柄)の店頭登録当日の価格形成状況のほか、六〇年四月から六一年八月までに新規店頭登録された株式二一銘柄(うち分売の方法によるものは二銘柄)の新規登録後一か月間の毎日の終値及び売買高、登録の一か月後、二か月後、三か月後、六か月後及び同年九月八日現在の終値等が記載された表も添付されていたし、また、右期間内に分売方式により店頭登録された事例ではすべて最高分売価格が分売価格となった旨の説明を受けた上、類似会社を検討し、その際、R3とともに、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする意向を示し、それが実現した場合に両社の株価が右資料の基礎とした時期と同程度で推移すれば、コスモス株の最低分売価格が四一六二円程度となり、最高分売価格が五四一〇円程度となることを認識したこと(本章第二の一2(五))
を併せ考慮すれば、被告人がコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた六一年八月以降同年九月一六日の大和会議に参加するまでの間は、公判段階において自認するように、普通に順調に推移すれば店頭登録時のコスモス株の株価が一株三五〇〇円程度になり、よほど人気が出れば一株四〇〇〇円程度になるであろうという漠然とした認識があったというにとどまらず、店頭登録当日の初値として通常に推移すれば一株三五〇〇円以上は確保でき、順調に行けば一株四〇〇〇円程度となる可能性も高く、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況にあることを認識していたと認められる。そして、大和会議に参加した後は、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には一株四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には一株五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移するものと予想し、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況であることを認識していたと認められる。
4 検察官主張の値上がり確実性の認識について
検察官は、被告人は、かねてから、リクルートコスモスの役職員に対し、「三井不動産を目指せ」という檄を飛ばしており、リクルートコスモスの役職員が、六一年六月ころから、被告人の右意向を踏まえて大京観光と三井不動産の二社を類似会社としてコスモス株の分売価格を試算したところ、最低分売価格が約四二〇〇円、最高分売価格が約五四〇〇円と算出され、被告人は、R16経理部長からその旨の報告を受けるなどして店頭登録後のコスモス株の株価は五〇〇〇円以上になるものと認識した旨主張するところ、確かに、R16の検面調書(甲書1三六、三七)中には、六一年六月ころには、大京観光と三井不動産の二社は間違いなく類似会社として選定されると認識しており、そのころに行った第一七期の決算結果を踏まえた試算では、最低分売価格が四二〇〇円くらい、最高分売価格が五四〇〇円くらいという結果が出て、同月ころ、R18及びR20専務とともに被告人へ報告に行って、「五、四〇〇円位を目標に頑張っております。この状況なら旨くいくと思います。」などと話し、その後の部次長会議でも、R3社長やR20専務らから「順調にいけば公開時の高値が五四〇〇円位に付けられそうだから、頑張ってくれ。」などと指示があった旨の記載がある。
しかし、R16の検面調書の記載も、「いつの時点のどの試算値によったものか今ではよく思い出せませんが、低値四、二〇〇円位、高値五、四〇〇円位といった線で落ち着くのではないかという予測が立てられていたのです。」(甲書1三七)という曖昧なものであり、調書作成に際して示された株価チャート表によれば、六一年五月から七月にかけて、大京観光、三井不動産の両社とも株価に相当の値動きがあり、仮に右両社を類似会社としても、どの時期の株価を基にするかによって、コスモス株の分売価格試算結果は相当の幅で変動するはずであるのに、何故に「低値四、二〇〇円位、高値五、四〇〇円位といった線で落ち着くのではないかという予測が立てられ」たのかという肝心な点について、具体的な供述が記載されていない。
なお、右調書を録取したP1検事は、R16が、取調時に、六一年六月ころに試算した結果で五四〇〇円くらいでいけるということが幹部クラスの間のコンセンサスとなっており、同月ころ、被告人に対し五四〇〇円でいけるでしょうと報告し、部次長会議の席においてもR3社長やR20専務が理論値の高値五四〇〇円くらいの値を付けたいという話をしていた旨の供述をしたので、いつの時点の試算でその金額が出たのか明確にするために、用意した株価チャートに基づいて一緒に計算したところ、六一年六月ころで高値五四〇〇円という数字が出たので納得した旨証言するところ(〈証拠略〉)、R16の検面調書(甲書1三七)には、大京観光一社を類似会社として六一年五月七日の株価を基に試算すればコスモス株の最低分売価格四一五一円、最高分売価格五三九六円となるとして、五四〇〇円に近い金額の記載があるが、当該株価は大京観光株が前後数か月間で最高値を付けた際の株価であって、その一時点の数値のみをコスモス株の分売価格の推測の根拠とすることに何らの合理性もないことは自明であるし、そのほかの同調書記載の試算を見ても、コスモス株の最高分売価格を五四〇〇円と算出した根拠になり得る試算は何ら記載されていない。
また、六一年九月一六日の大和会議以前に大京観光と三井不動産の二社を類似会社とすることを前提に検討した資料は本件全証拠中に見当たらず、本章第二の一2(五)のとおり、大和証券が、大和会議に際して、類似会社の選定に関する被告人及びリクルートコスモスの意向を確認するために用意した資料では、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合の最低分売価格と最高分売価格の試算を示した上、類似会社の候補として、右二社のほかに長谷川工務店、三井不動産等六社を挙げているが、これも大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定する場合の最低分売価格の試算を提示する内容になっていることからすると、大和会議の時点までは、公開準備の実務に当たっていた者は大京観光と日栄建設の二社を類似会社とすることを一応予定していたとみるのが自然である。
結局、R16の右各検面調書の記載は、具体的な根拠を欠き、他の関係証拠により認められる経緯とも符合しないものであって、信用することができず、他に被告人が店頭登録後の株価が五〇〇〇円以上になると認識していたと認めるに足りる証拠もないから、検察官の主張は失当である。
四 入手困難性及びその認識
本章第二の一2(二)、(四)のとおり、コスモス株は、六一年九月ころの時点では、未公開株であり、同年七月二九日に株式譲渡制限の規定が撤廃されて間がなく、株主数も少なかったのであるから、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人が入手することが困難であったのであり、しかも、同年一〇月三〇日に予定されていた店頭登録時には一株三〇〇〇円を上回る価格で初値が付き、その後も相当の期間右価格を上回る価格で推移することが確実であると見込まれており、実際にも、コスモス株の店頭登録時には、最高分売価格である五二七〇円による買注文だけでも分売株式数を大幅に上回ったことからすると、一般人が一株三〇〇〇円の価格でコスモス株を入手することが極めて困難であったことは明らかである。
被告人が右入手困難性を認識していたことは、右の客観的状況と被告人の立場からして明らかであるし、被告人自身、公判段階においても認めるところである(〈証拠略〉)。
五 小括(コスモス株の譲渡の賄賂性)
以上のとおり、コスモス株は、六一年九月ころの時点では、同年一〇月三〇日に予定されていた店頭登録後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれていたものであり、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては、極めて困難であったものである。
したがって、コスモス株を店頭登録後に見込まれる価格を下回る一株三〇〇〇円で取得する利益は贈収賄罪の客体になる。
第三 被告人の検面調書の任意性及び信用性の判断に関する前提事実
弁護人は、被告人の検面調書の多くについて、任意性を欠き、かつ、取調べの違法性の故に違法収集証拠として証拠能力を欠く旨主張し、その信用性も争っている。これらに関しては、各争点について判示するに当たり必要に応じて判断を加えるが、各検面調書は一連の事件の取調べの過程で録取されたものであり、その任意性等は相互に関連するので、ここで、判断の前提となる取調べや調書作成経過等の概略を整理して記述する。
一 リクルート事件の社会問題化と被告人の健康状態等
被告人は、六三年六月一八日に川崎市助役に対するコスモス株の譲渡問題が新聞で報道されて以後、一連のコスモス株の譲渡が社会問題化し、コスモス株を譲り受けたことを理由に役職を辞任する者も出たことから、同年七月六日にリクルートの代表取締役会長を辞任したが、それ以後も、政治家にコスモス株を譲渡したことが報道されて、被告人に対する取材活動が激しくなったことなどから、憔悴するようになって、不眠、食欲不振、全身倦怠感など強い抑うつ気分が続き、精神の刺激性衰弱、集中力減退、血圧の不安定な動揺を伴う全身衰弱に陥ったため、同月二六日に心因反応の病名で半蔵門病院に入院し、その後、同年八月下旬に約一〇日間の転地療養をしたが、同年九月五日に再度半蔵門病院に入院し、元年二月に逮捕されるまで入院を継続した。被告人の症状は、右入院中もさほど好転せず、半蔵門病院の医師により、元年一月二〇日付けで、心因反応による不眠、食欲不振、全身倦怠感、集中力減退などの抑うつ状態(いわゆる刺激性衰弱)が見られるという診断書が作成された。
その間、六三年八月一一日には、被告人の自宅に散弾銃が撃ち込まれて、「赤報隊」と名乗る団体から犯行声明が出され、以後も、リクルートや被告人宛に多数の脅迫状が送付されたほか、コスモス株の譲渡問題を中心に、被告人や家族のプライバシーに属する事柄を含めて、マスコミによる取材や批判的な報道が相次ぎ、多くのコスモス株の譲受人が疑惑の対象として報道され、その役職を辞任する事態が続いた。
また、被告人は、入院中に、右状況を苦慮し、自殺をすれば楽になるのではないかと考えて遺書を書いたこともあった。
(〈証拠略〉)
二 逮捕前の被告人の取調状況等
被告人は、六三年一〇月一二日、半蔵門病院において、衆議院税務特別委員会の臨床質問を受けた後、同年一一月七日ころ、同病院において、リクルートコスモスの社長室長を被疑者とする贈賄被疑事件に関し検察官の取調べを受け、同月二一日に衆議院のリクルート問題に関する調査特別委員会に証人として喚問されて証言し、同年一二月六日には、参議院の税務特別委員会でも証人として喚問されて証言した。
その後、六三年一二月下旬から元年一月にかけて、当時東京地方検察庁特別捜査部副部長で一連のコスモス株の譲渡を巡る事件の主任検事であったP2(以下「P2検事」という。)から、証券取引法違反及び日本電信電話株式会社法違反被疑事件の被疑者として、一連のコスモス株の譲渡についての被告人の関与を中心に、東京都内にあるリクルートグループのホテルで五、六回取調べを受けた。
さらに、元年一月下旬からは、P3検事(以下「P3検事」という。)が、豊島区検察庁において、被告人を数回取り調べたが、被告人は、P3検事の取調時の発言に対する不満等を理由として、途中から黙秘するようになり、P3検事が作成した数通の調書について署名押印を拒否した。
なお、被告人は、これらの取調べの際は、入院中の病院から取調場所に出向いて取調べに応じており、その前後には、必要に応じて弁護士と相談するほか、弁護士から他の弁護士が出版した「刑事裁判の光と影」と題する書籍を渡されて閲読するなどした。
(〈証拠略〉)
三 逮捕勾留中の被告人の取調べ、接見及び調書の作成状況等
1 取調べ等の概要
被告人は、元年二月一三日、己畑五郎及び庚町に贈賄したという日本電信電話株式会社法違反被疑事件(判示第四の二2、3)で逮捕されて、東京拘置所に留置され、同月一四日に同事件で勾留された上、同年三月四日、同事件で起訴され、同月六日、戊田に贈賄したという同法違反被疑事件(判示第四の二1)で逮捕され、同月八日に同事件で勾留された上、同月二七日、同事件で起訴され、同月二八日には丁谷三郎に贈賄したという事件(判示第三)でも起訴されるとともに、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で逮捕されて、同月三〇日に同事件で勾留された上、同年四月一八日、同事件で起訴された。
右の間、被告人は、ほぼ毎日、東京拘置所内において、主としてこれらの事件について検察官の取調べを受け、元年四月一八日に起訴された後の勾留中も、乙山及び丙川二郎に贈賄したという事件(判示第一及び第二)を中心に検察官の取調べを受けて、同年五月二二日に右両事件で起訴され、同年六月六日に保釈された。
取調担当検事は、最初の逮捕から元年三月二七日までは、P2検事が一度取り調べた以外、すべてP3検事であり、同月二八日から同年四月一〇日までは、P4検事(以下「P4検事」という。)であり、同月一一日以降は、P4検事とP2検事の両名又はいずれか一名であった。
この間における取調べのための被告人の舎房出入時刻、取調担当検事、検面調書の作成状況、弁護人との接見時間等は、別紙(二)取調経過等一覧表記載のとおりである(関係証拠によれば、別紙(二)に記載した以外にも、検察官が本件各事件の証拠として請求せず、弁護人に開示していない調書が相当数あることが窺われるが、明確に認定するに足りる資料が存しないため、これらを掲げていない。)。
(〈証拠略〉)
2 弁護人との接見の状況
被告人は、別紙(二)記載のとおり、判示第五の事件で起訴されるまでの間は、三日に一回程度の割合で弁護人と接見し、一回当たりの接見時間は、概ね二〇分ないし三〇分程度であったが、右起訴後は、拘置所の閉庁日である日曜祝祭日と第二・第四土曜日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見し、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供等を受けていた。そして、検察官の取調べは弁護人の接見時には中断された。
(〈証拠略〉)
3 被告人の健康状態
被告人が逮捕された直後である元年二月一四日、半蔵門病院医師から検察官に対し、被告人の病状に関する捜査関係事項回答書が出されたところ、この回答書には、心因反応の病名で、安定剤、食欲増進剤、栄養剤、睡眠剤を投薬しており、不眠、食欲不振、全身倦怠感、集中力減退などの抑うつ状態(いわゆる刺激性衰弱)にあって、血圧もやや高めに動揺しがちな状態にあり、今後、病因であるストレスにより一進一退の状態が続くと思われる旨の記載があるほか、参考事項として、本人より抗うつ剤ルヂオミールが有効と聞いたことがあり、本人の希望があればご高配いただきたい旨記載されている。
被告人は、東京拘置所における勾留中に医務室で二回診察を受けて、睡眠障害及び胃腸症と診断され、睡眠導入剤、精神安定剤や胃腸薬等、数種類の薬剤の投与を受けた。ただ、抗うつ剤については、被告人が処方を希望したものの、処方を受けることができなかった。
(〈証拠略〉)
4 被告人の検面調書の作成状況
被告人は、逮捕当初は、逮捕当日の弁解録取を除いて、元年二月一六日までP3検事の取調べに対し黙秘していたが、同月一七日に黙秘を解いて供述するようになり、以後、別紙(二)記載の各検面調書が作成された。
なお、被告人が取調べを受けている途中の元年四月二五日、当時のI1(以下「I1」という。)内閣総理大臣が予算案成立後に内閣総辞職する旨の表明をし、同月二六日、I1内閣総理大臣の元秘書でコスモス株の譲受名義人の一人であった者が自殺するという出来事があり、被告人も、それらの事実を取調検事や弁護人から聞いて知った。
(〈証拠略〉)
第二章  判示第一及び第二の各贈賄について
第一節 判示第一及び第二の各事実に共通の前提又は背景となる事実関係
第一 就職協定及びこれに関連する政府の動向等
一 就職協定及び公務員試験の日程に関する従前の経緯
1 四七年ころまでの経緯
大学(短期大学を含む。以下同じ。)は、職業安定法三三条の二により、その学生について無料の職業紹介事業を行うことができるため、各大学では、従来から卒業予定者について就職のあっせん業務を行っていたが、文部省は、就職難の状況の中で学生の企業に対する働きかけが強まることにより教育面に与える影響を懸念して、二八年六月、国立大学協会、日本私立大学連盟等の大学関係団体七団体、経済産業界の団体二八団体のほか、労働省及び人事院も参加する大学卒業者就職問題懇談会を開催し、同懇談会において、大学関係団体が大学卒業予定者を企業に推薦する時期を一〇月一日以降とする申合せを行い、経済産業団体はこれに協力することを約束し、以後、推薦開始時期について若干の変動があったものの、三六年まで毎年同趣旨の申合せが行われた。
右大学関係団体の申合せやそれに協力する旨の経済産業団体の約束は、一般に「就職協定」と称されるようになり、関係者の間では、その果たす役割として、大学卒業予定者の早期選考防止、選考時期等の明確化による大学卒業予定者の就職の機会均等の確保、卒業年次における大学教育の適正な実施、企業の人事採用計画の円滑な実施(過当採用競争の沈静化)、採用内定から就職までの期間の適正化による企業の業績悪化を理由とする採用内定取消しの防止等が挙げられていた。
しかし、日本経済の高度成長に伴って、求人難になり、学生の採用選考前の会社訪問が慣行化したことなどから、採用活動は早期化し、三七年から四四年までは、経済産業団体が申合せに参加せず、文部省が実施する大学関係団体のみの懇談会において、同趣旨の申合せをした。その後、四五年には、文部省が実施する懇談会に経済産業団体も参加し、同懇談会が大学関係団体の申合せに協力することを確認して、実現を期することを表明する形で、経済産業団体を含む就職協定が成立したが、四六、四七年については、再び大学側の申合せのみとなった。
ところが、四六、四七年には、採用選考が一層早期化し、四八年三月大学卒業予定者については、大学三年次の四六年一二月ころから学生の会社訪問が始まり、業界によっては四七年二月ころに内定が出される状態であり、他方で、同年三月大学卒業予定者について、四六年八月のニクソンショック(米ドルの金兌換停止等の発表)等の影響で日本経済の先行き不安が高まり、一部企業が卒業直前になって採用内定を取り消す事態も生じた。
(〈証拠略〉)
2 四七年から五七年にかけての動向
(一) 就職協定で申し合わされた時期に先立つ採用選考活動は、「青田買い」や「青田刈り」と呼ばれて、次第に社会問題化し、四七年五月の衆議院内閣委員会で労働省に対し大学卒業予定者の青田買いによる弊害に関する質疑が行われたこともあって、四八年度の就職協定(四九年三月大学卒業予定者についての四八年における就職活動に関するものをいう。以下、他の年度についても同じ。)には、文部省及び労働省が積極的に関与した。
すなわち、大学関係団体は、四七年一〇月二五日に文部省が実施した就職問題懇談会において、四八年度の就職協定に関し、就職事務は七月一日より前には行わず、求人側に対する卒業予定者の推薦は一〇月一日以降の実施をめどとして行うことを申し合わせ、同時に、文部省、労働省及び経済諸団体においても各企業が右申合せを遵守するように緊急に特段の措置を講ずることを要望した。
文部大臣及び労働大臣は、四七年一〇月二五日、日本経営者団体連盟(以下「日経連」という。)等のいわゆる経済四団体の代表と青田買い防止について懇談し、①経済四団体は早期選考防止を申し合わせるとともに、業種別の団体に対し強力に働きかけ、業種別団体は自主的に申合せを行うこと、②違反した企業に対しては、経済四団体及び各業種別団体が警告等の必要な措置を講ずること、③文部省及び労働省は、業種別の団体等に対し協力の要請を行うとともに、申合せの実効性が確保されるように関係各省とも協力して必要な行政指導を行うこと、④大学に対しても、指導を一層強化することなどを申し合せた。さらに、同月二七日の閣議において、文部大臣及び労働大臣が、文部省及び労働省としては、右申合せの趣旨に従い、今後積極的に対策を進めるので、関係各省にもこの趣旨の了解と協力をお願いするとともに、政府関係機関の職員についても、右懇談会で早期選考が行われているという指摘があったので、このようなことのないように十分な配慮をお願いしたい旨の発言をし、これに対し他の大臣から異論は出なかった。
右動きを受けて、産業界側でも、全国銀行協会連合会が求人事務開始日や選考開始日について申合せをするなど、求人秩序を形成する動きが高まり、労働省職業安定局長(以下「職安局長」という。)や文部省大学局長等が業界別団体の代表らと懇談し、早期選考防止対策を求めるなどの経緯を経て、四七年一一月二〇日、労働省が中央雇用対策協議会(以下「中雇対協」という。)を開催した。中雇対協は、日経連、日本商工会議所、全国中小企業団体中央会及び労働省が世話団体になり、日本鉱業協会等の多数の業界別団体が構成団体になっている雇用問題に関する協議会であるが、同日の中雇対協には、通常は非構成団体である経済団体連合会及び経済同友会並びに全国銀行協会連合会、生命保険協会等の業界別団体も特に招集されて出席した上、大学卒業予定者の採用に関し、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)は卒業前年の七月一日以降とし、学生の企業訪問の受付、就職説明会、就職案内の送付等の求人のためにする一切の行為は五月一日以降とする決議をし、大学関係団体の申合せとは内容面の食い違いがあったものの、いわゆるブリッジ方式の就職協定が成立した。
そして、文部省は、各国公私立大学等の長に対し、大学学術局長通知を発して、就職協定の周知を図るとともに学生に対する指導の徹底を求め、また、主要事業主、主要経済関係団体の代表、各省庁や都道府県知事等に対し、依頼文書を発して、協力を求めた。労働省も、職安局長名義の依頼文書を発して、各都道府県知事や主要な業種別の全国的団体に対し、就職協定の周知徹底や実効性確保のための措置を執るように配慮を求め、業界を監督する国の機関に対し、就職協定の実効性確保のための指導を求め、任用を担当する国の機関及び特殊法人に対し、就職協定の遵守を求め、新規学卒者向け企業紹介誌を発行していたリクルート及び株式会社ダイヤモンドビッグ社に対し、企業紹介誌の発送を四月一五日以降とするように協力を要請するなどした。
さらに、四八年三月には、リクルートが同年五月に就職のための会社説明会として企画した「リクルートガイダンス」を巡り、労働省職安局長が、就職協定の趣旨に違反し、一般企業に対する指導にも支障を来すことになると考えられるので、学生に対する案内等の送付を五月一日以降とするように強く要請する文書をリクルートの代表取締役の被告人宛に発し、リクルートが右要請に応じて企画内容を変更するという出来事もあった。
(〈証拠略〉)
(二) 四九年度の就職協定は、四八年度と同様の内容で成立し、また、五〇年度は、文部省及び大学関係団体が就職問題懇談会において前年度と同様の申合せをし、中雇対協も、いったんは、決議の対象に高等専門学校卒業予定者を加え、求人のためにする行為の開始時期を六月一日としたほかは、前年度と同様の決議をしたが、オイルショック後の経済情勢の悪化に伴って、五〇年三月卒業予定者に対する採用内定取消しや自宅待機等の事態が生じたため、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)は卒業前年の一一月一日以降とし、求人のためにする一切の行為は九月一日以降とする決議に改めた。なお、五〇年度の中雇対協の決議では、就職情報資料出版社の出版する企業案内書に採用予定人員、採用予定者に係る初任給その他の労働条件、採用方法(選考期日、選考場所、選考方法、応募書類等)や採用担当部課名を掲載することを求人のための行為とみなすものとした。
文部省及び労働省は、四八年度と同様に、通知や依頼文書を発出して、就職協定の周知徹底や遵守を求める指導をした。
(〈証拠略〉)
(三) 人事院は、国家公務員の幹部候補職員を採用するために実施する国家公務員採用上級甲種試験(以下「公務員試験」という。なお、六〇年度以降は、名称が「国家公務員採用Ⅰ種試験」と変更された。)について、四五年度から四九年度までは、その最終合格者発表日(以下「合格発表日」という。)を八月中旬ないし九月上旬としていたが、五〇年度の中雇対協の決議で、企業の採用選考開始日がそれまでの七月一日から一一月一日に繰り下げられたことに伴い、五〇年度の公務員試験の合格発表日もこれに合わせて一一月一日に繰り下げた。
その後、公務員試験の合格発表日については、五一年度は一〇月二六日、五二年度及び五三年度は一〇月二五日、五四年度から五八年度までは一〇月一五日とされた。
(〈証拠略〉)
(四) 五一年度については、企業側が、中雇対協において、求人のためにする一切の行為を卒業前年の一〇月一日以降とし、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)をその年の一一月一日以降とする決議をし、大学関係団体も、就職問題懇談会において、企業と大学等卒業予定者との接触開始日を卒業前年の一〇月一日とし、企業の採用選考開始日をその年の一一月一日とする申合せをし、この結果、企業側と大学側がいわゆる「一〇―一一協定」で一致した。
一〇―一一協定は、以後、五六年度まで継続して実施され(ただし、中雇対協の決議は、五二年度以降、一〇月一日を始期とする行為を「求人(求職)のための企業と学生との接触(電話等による連絡を含む。)」と改め、求人票や就職案内書等の大学に対する送付は別に運用することを明確にした。)、その間、五四年度には、大学側の申合せに高等専門学校の団体が加わり、大学等関係一一団体は、五四年一月、最終学年の学生が勉学に専念できる期間を確保するために、当分の間、五四年度以降の大学等卒業予定者については、卒業前年の一〇月一日を求人(求職)のための企業と学生との接触開始、一一月一日を選考開始とすることとして就職事務を行うことを申し合わせた(以下「五四年度大学側申合せ」という。)。
文部省及び労働省も、右の間、通知や依頼文書を発出して、就職協定の周知徹底や遵守を求める指導を継続したほか、労働省は、就職協定に関する中雇対協の決議の実効性を確保するために、五四年度の就職協定から、中雇対協に決議遵守委員会(労働省、日経連等で構成)を設置して、就職協定に違反した企業に対し注意、勧告及び公表の制裁措置を講ずるなどの遵守活動を行うこととし、実際に、五六年度まで、違反した企業に対し注意及び勧告の措置を執り、五六年度においては、さらに、労働省の幹部が大手企業を訪問して就職協定の遵守を要請したり、大学の就職担当教授や部課長に対し就職協定の周知を図るなど、例年以上に遵守活動を展開した。また、五六年度には、中雇対協決議遵守委員会がリクルートを含む就職情報誌出版企業に対し、企業・就職案内書の作成に当たり中雇対協の決議の趣旨を理解し、アンケートや資料請求用葉書に一〇月一日前の企業と学生との接触を助長しかねない記載事項を設けないことなどを求める文書を送付した。
(〈証拠略〉)
(五) しかし、五六年度においても、就職協定に違反する企業が後を絶たず、大学OBや縁故を通じた事実上の選考活動が横行した。
右状況を受けて、労働省は、五六年一一月の中雇対協で見解を発表し、五七年度の就職協定に関する中雇対協の決議には参加しない方針を明らかにした。
結局、五七年度の就職協定に関しては、大学等関係団体は前年度までと同様の申合せをしたが、産業界側では、従前のような決議の形を取らず、決議遵守委員会も設けず、五七年一月、中雇対協(労働省を除く。)において、「一〇―一一協定」を継続する申合せをして、就職協定を成立させた。労働省は、申合せ自体には参加しなかったものの、就職情報誌出版企業に対し、企業案内書の送付時期や資料請求はがきの記載項目等に関する要請をするなど、就職協定を遵守する環境整備のための行政指導は継続して実施した。
五七年度の就職協定は、労働省が撤退した危機感も加わって概ね遵守されたと関係者から評価される状態で推移した。
(〈証拠略〉)
二 各省庁人事担当課長会議
五六年ないし六〇年当時、内閣官房に属する内閣参事官のうち人事担当の内閣参事官が主宰して、各府省及び国務大臣がその長である庁の人事担当課長等で構成する各省庁人事担当課長会議(以下「人事課長会議」という。)が原則として毎月二回の頻度で開催されており、内閣参事官が議題を選定して、閣議決定、閣議了解等の人事に関する内閣の方針を周知徹底させ、遵守を図るほか、内閣官房長官及び副長官から人事に関する指示の伝達等がなされていた。また、人事担当の内閣参事官は、総理府の人事担当課長である内閣総理大臣官房人事課長を兼務しており、主宰者たる内閣参事官としての立場のほか、総理府の人事担当課長の立場でも人事課長会議に出席していた。
なお、人事課長会議においては、例年二、三月ころ、各省庁の人事上の要望を取りまとめた上、「人事行政に関する関心事項」と題する書面を作成して人事院に提出し、人事院主宰の人事管理官会議幹事会において、内閣総理大臣官房人事課長が代表して右関心事項を表明していた。
(〈証拠略〉)
三 五八、五九年当時の就職協定及び公務員試験の日程を巡る状況
1 五八年度の就職協定と公務員試験の合格発表日の繰上げ問題
五七年一二月、中雇対協(労働省を除く。)は、五九年三月以降の大学等卒業予定者については、卒業前年の一〇月一日を会社訪問開始、同じ年の一一月一日を採用選考開始とする申合せ(以下「五八年度中雇対協申合せ」という。)をし、大学等関係団体も五四年度大学側申合せを継続することを決定した。
一方、五七年度までの公務員試験は、七月上旬に第一次試験、八月上旬から二〇日ころまで第二次試験、一〇月一五日に合格発表日という日程で、合格者の中から各省庁が必要な職員を採用するというものであったため、公務員を志望する受験者は、就職協定による企業との接触開始日(会社訪問の解禁日)である一〇月一日を経過しても公務員試験の合否が判明しない状態にあった。
そこで、各省庁の人事担当者の間で、公務員試験の受験者がその合否に不安を抱き、先に民間企業の採用内定を受け入れる傾向があるとして、そのような事態を回避して優秀な人材を確保するために、公務員試験の合格発表日を繰り上げるべきであるという意見が強まり、五六年ころ以降、人事課長会議で取りまとめた上で人事院主宰の人事管理官会議幹事会で表明される「人事行政に関する関心事項」の中にも、公務員試験の最終合格者の発表及び合格者名簿の配布を民間企業の会社訪問解禁日の前日までに行うことが盛り込まれるようになり、五七年春の同幹事会でも同趣旨の関心事項が表明された。
右状況の中で、人事院の幹部も、就職協定による会社訪問解禁日には公務員試験の合格者が各省庁を訪問することができるようにするため、公務員試験の合格発表日を遅くとも一〇月一日に繰り上げる必要があると考えるようになり、五八年に入ってから、人事院の担当者が文部省及び労働省の就職協定担当者や日経連の担当者と接触して感触を探ったほか、同年二月、中雇対協幹事会において、五八年度の公務員試験の合格発表日を一〇日ないし一五日程度早めるように準備中である旨表明し、通商産業省(以下「通産省」という。)及び大蔵省の人事担当課長である秘書課長も、L1日経連専務理事(以下「L1日経連専務理事」又は「L1」という。)に対し、同様の意見を述べた。
しかし、産業界側では、前年度にうまくいき、五八年度も既に合意済みの就職協定の遵守に悪影響を与えるとして、反対が強く、中雇対協座長名で、労働大臣に対し、公務員試験の合格発表日の繰上げに反対する人事院総裁宛の申入書を添えて、善処方を求める文書を提出し、文部省や労働省職業安定局(以下「職安局」という。)も五八年度の就職協定が決定済みの段階で公務員試験の合格発表日を繰り上げることは避けるべきであるという意見を述べ、就職問題懇談会就職協定遵守委員会でも大学側の反対意見を集約して人事院に提示するなどしたため、人事院も五八年度はこれを断念し、従前どおり、一〇月一五日を合格発表日として公務員試験を実施した。
(〈証拠略〉)
2 五八年度の採用選考活動の実情等
五八年度の就職協定では、またも、新規大学等卒業予定者の夏期休暇期間中の就職活動が目立ったほか、OB訪問と称する事実上の面接選考が横行し、協定に違反する行動が数多く指摘される状態であり、五九年一月一二日、中雇対協の座長でもあるL1日経連専務理事が、記者会見で、私見と断りつつも、就職協定は守られていないので、やめたいと思っており、その方向で関係各界と話し合いたい旨の発言をし、その発言は翌日の朝日新聞等で大きく報道された。
(〈証拠略〉)
3 公務員の採用選考が民間の青田買いに与える影響に関する関係者の認識
五八、五九年当時、民間企業の採用担当者や日経連の担当者の間では、青田買いが横行する大きな原因の一つとして、国の行政機関が就職協定の対象外であったため、公務員試験の第二次試験終了後、民間の会社訪問解禁前から、各省庁の採用担当者と学生とが接触して事実上の採用選考が行われている実情(以下これを「官庁の青田買い」という。)があり、このために、官庁と採用の対象が共通する大手金融機関等が優秀な人材の確保を目指して青田買いに走り、その動きが他の民間企業にも波及する事態が生ずるという意見が強く主張されており、大学生の就職問題と関係を有する文部省、労働省及び人事院の担当者も、民間企業側の右主張を認識していた。
リクルートは、企業の採用担当者向けに「リクルート採用セミナー」を開催していたが、五九年三月六日の同セミナーでは、D1文部省大学局学生課長(以下「D1文部省学生課長」という。)、L2日経連労務管理部雇用課長(以下「L2日経連雇用課長」という。)らによるパネルディスカッションでも、①コーディネーターである評論家が、中央官庁がかなり早期に内定をし、その動きが日銀をはじめ政府関係の金融機関や都市銀行にまで波及したと思う旨の発言をし、②D1文部省学生課長が、コーディネーターから、公務員試験の二次試験後の内定の早期化が他の大手企業の動きにも影響しているという問題について対応策を問われたのに対し、各省庁に聞いてみたところ、一〇月一五日以前の内定はあり得ないということであったが、問題になっているのは事実であるから、労働省にもお願いして文部省とともに各省庁へ協力を要請していこうと思うし、D2文部大臣(以下「D2文部大臣」又は「D2」という。)が就職問題について非常に関心を持っているので、協定遵守のための環境作りをしていきたい旨の発言をし、③L2日経連雇用課長が、官庁側が二次試験に受かれば来てもらうという約束をし、これで実際に採用されるケースが多く出ると、実質的な内定であり、しかも民間に比べてかなり早期の内定であるということが問題であり、自主協定を維持していくためには、何としてもこのような公務員の八月からの動きをやめてもらわなくてはならないし、役所は別であるという考え方は是非とも改めていただく必要がある旨の発言をし、これらの発言は、同セミナーの内容をまとめたリクルート企画室作成の書面(甲物1三四)にも記載されていた。
(〈証拠略〉)
4 五九年度の就職協定(大学側)と文部省の対応
大学等関係団体は、五九年一月三〇日の就職問題懇談会において、五九年度も五四年度大学側申合せにより就職事務を行うことを決定した上、学生がOB訪問等の名目で一〇月一日以前に企業を訪問することは、企業の人事担当者やその意向を受けたOB等との接触により事実上の面接選考に結びつきやすい面があるため、就職秩序を混乱させるおそれがあるとともに、大学、企業の地域的な配置やOBの有無により就職の機会均等と公平性が損なわれるという問題もあるなどとして、「一〇月一日以前の企業研究については大学等が収集した資料によって行うこととし、大学側としては、学生に対して、大学のOB等企業関係者の人媒体を通じた企業研究を奨励することは自粛することとする。また、企業側にも、このことの理解と協力を求めることとする。」と決定した。
文部省は、五九年三月一日、大学局長通知を発して、各大学等に対し、学生に就職協定に沿った行動を指導するように求めるとともに、大学等関係団体に対しても、加盟大学等へ周知徹底を図るように求め、さらに、主要経済団体、約一万三六〇〇名の事業主、任用を担当する国の機関、特殊法人、都道府県、特殊法人の監督機関、主要就職情報出版企業及び労働省職安局長に対し、大学局長名義の依頼文書を発して、就職協定に関する協力や周知徹底を依頼し、同月六日及び八日のリクルート採用セミナーにD1文部省学生課長が出席するなど、就職協定の遵守確保のための措置を執った。
(〈証拠略〉)
5 公務員試験の合格発表日の繰上げ、人事課長会議申合せ及び就職協定(企業側)
五九年度においても、各省庁の人事担当者の間では公務員試験の合格発表日を繰り上げる要望が強く、人事院の担当者が、五九年二月末ころ、L2日経連雇用課長に対し五九年度の公務員試験の合格発表日を一〇月一日に繰り上げることについて検討を申し入れたところ、同課長からは、官庁側が就職協定の趣旨を尊重することを求められた。
そこで、この問題を担当していたG1人事院事務総局任用局企画課長(以下「G1人事院企画課長」又は「G1」という。)は、公務員試験の合格発表日の繰上げにつき民間企業側の了解を得るための方策として、官庁側が人事課長会議で就職協定の趣旨を尊重する申合せをすることを企図し、五九年三月九日、人事課長会議を主宰するI2内閣参事官兼内閣総理大臣官房人事課長(以下「I2内閣参事官」又は「I2」という。)及び優秀な学生の採用について産業界と競合する傾向の強い大蔵省と通産省の秘書課長とともに、L2日経連雇用課長と公務員試験の合格発表日の繰上げについて意見交換を行い、さらに、同月一六日には、日経連、日本商工会議所及び全国中小企業団体中央会の幹部による中雇対協幹事会にG1が出席して会談した結果、国の行政機関が就職協定の趣旨を尊重する申合せをすることを条件として、公務員試験の合格発表日を繰り上げることにつき基本的な了解が得られ、同月二一日、G2人事院事務総局任用局長(以下「G2人事院任用局長」又は「G2」という。)がL1日経連専務理事と会談し、経済団体側が公務員試験の合格発表日を繰り上げることを了承し、国の行政機関は就職協定の趣旨を尊重しこれに協力する旨の合意が成立した。
そして、五九年三月二八日の中雇対協にG1が出席し、公務員試験の合格発表日を繰り上げる必要性や官庁側の申合せの予定を説明して理解を求め、中雇対協(労働省を除く。)は、右繰上げを了承するとともに、五九年度も五八年度中雇対協申合せを継続することを決めた。
また、I2内閣参事官は、五九年三月二八日の人事課長会議において、「1求人求職秩序の維持のため、いわゆる10―11協定に協力する。 2 このため、選考開始日は、11月1日であるとの認識の下に10月1日前の学生のOB訪問及び10月1日以降の官庁訪問に対しても協定の趣旨に沿った対応をするものとする。」という申合せをすることを提案し、同会議は、その旨の申合せをすることを了解した(以下「五九年度人事課長会議申合せ」ともいう。)。(〈証拠略〉)
6 官庁の青田買いに関する新聞報道
五九年四月二七日付けサンケイ新聞において、「通産省が“青田買い”」「東大へ官僚参上、『協定』踏みはずす」という見出しの下、同年三月二八日に人事課長会議申合せがなされたばかりであったにもかかわらず、同年四月二六日、東京大学において、通産省の官僚が国家公務員試験説明会の名目で翌春卒業予定の工学部学生を対象とする就職説明会を開いた旨報道された。
右報道を受けて、人事院では、通産省秘書課長から事情を聴取した上、五九年五月九日の人事課長会議において、人事院任用局企画課長が、各大学から就職説明会へ職員の派遣要請を受けた場合に、役所として要請を公的に受け止め、職員を派遣し、職員の出席を仲介することは適当でないと考える旨の発言をし、文部省大学局学生課が、同月一〇日、就職問題懇談会就職協定遵守委員会名で、各大学就職事務担当部局長に対し、五九年度人事課長会議申合せに従った就職事務を行うように求める依頼文書を発出した。
ところが、五九年五月二七日には、サンケイ新聞において、「労働省 率先垂『犯』?!青田買い」、「京大でOBが説明会」という見出しの下、同月二六日、京都大学において、同大学OBの労働省官僚二人が翌春卒業予定の学生の主催した「労働省京卒OBとの集い」名目の就職説明会に現れ、三時間にわたって話をし、就職協定の遵守を指導していた労働省が自らフライングをした旨報道された。
(〈証拠略〉)
四 六〇年前半当時の就職協定を巡る状況
1 五九年度の就職協定の遵守状況
五九年度の就職協定は、経済全般の好況も一因となって、五九年八月下旬ころから企業側が採用活動に動くなど形骸化が進み、日経連が日経連の役員や会員企業を対象として行った調査では、就職協定が守られなかったという回答が九割近くありながら、就職協定を続けた方がよいとする回答が九割近いという結果が出た。また、同年一二月一〇日の就職問題懇談会においては、OBによる大学訪問が活発に行われたことや金融機関による学生の拘束が問題として指摘されたほか、日本銀行、大蔵省等が早く動いたことが口火になり、他の企業もそれに引きずられて内定が早期化したという実態があるので、人事院をはじめ、関係省庁、政府関係機関に協定遵守の協力要請を行ってはどうかという意見や、就職情報誌の学生に対する送付時期を四月下旬以降とするように労働省を通じて就職情報企業に要請してはどうかなどという意見も出された。
(〈証拠略〉)
2 六〇年度の就職協定とそれを巡るL1の発言
六〇年一月二一日の中雇対協においては、六〇年度についても、五八年度中雇対協申合せを継続することを決定し、大学等関係団体も、六〇年一月二八日及び二月一二日の就職問題懇談会において、五四年度大学側申合せを継続して実施することを決定し、文部省は、前年度と同様に、就職協定の遵守確保のための措置を執り、労働省も、各都道府県知事、任用を担当する国の機関の長、主要就職情報出版企業等に対し協力を求める依頼文書を発した。
しかし、中雇対協の会合後に行われた記者会見において、中雇対協座長であるL1日経連専務理事は、「私は本件について完全に熱意を失っております。一〇―一一月協定が守られなかったと思われる方が全体の九割、しかも、昭和六一年三月卒業の諸君についても一〇―一一月協定を続けろとおっしゃる方が全体の九割。このように矛盾した結論の出てきた最大の理由は、一〇―一一月協定をやめたら、より一層混乱するからというにあるようです。『より一層混乱する』というのはどういう情況をさしていられるのかわかりませんが、おそらく学生の就職活動、企業の採用内定ないし内々定が昭和五九年の場合よりもっと早くなることをさしていられるのではないかと思われます。一〇―一一月の紳士協定をしておきながらそれを守らず二ヶ月、三ヶ月前に就職内定のことがいわれるのは普通の『混乱』であり、それが四ヶ月、五ヶ月前に行われるのは『より一層の混乱』であるという認識には私は同調いたしかねます。しかし、日経連も商工会議所も中小企業団体中央会も、傘下企業にサービスすることを目的としています。傘下企業の九割が一〇―一一月協定を作れといわれれば、サービス団体として『ノウ』とはいえません。その意味において、昭和六一年三月卒業の学生諸君の会社訪問開始日は昭和六〇年一〇月一日、就職試験開始日は同年一一月一日ということを中央雇用対策協議会の決定ということにして頂きました。全体の九割の方が希望していられる通りに決定をみたわけですから、各企業人事担当者はその良心の一かけらでもこの決定の上にそそがれることを望みます。昭和六二年三月以降卒業の大学生の就職問題についてどうしたらよいかは、この決定の実施状況をみてから、中央雇用対策協議会のメンバーにおいてじっくり考えて頂きたい―本問題を中央雇用対策協議会においてとり扱うのが適当であるのか否かも含めて―ということを、とくに座長の私から皆さまに要望しておいたことをつけ加えます。」と発言し、翌日の新聞各紙でその旨報道された。
さらに、六〇年三月一四日にリクルートが開催した「今年度の就職協定と採用」と題するセミナーでは、①L2日経連雇用課長が、五九年度には、従来と異なり、大学側に一〇月一日前の学生のOB訪問自粛を強く要請し、官庁側に就職協定の遵守へ向けた協力を決めてもらうなどの取組みをしたが、日経連の調査結果では就職協定は守られていないという回答が九割近くあり、来年度以降は今年度の状況を見た上、本当に就職協定が必要なのか、中雇対協で決めることが適当なのかを考えてもらうことになっており、就職協定の存続はひとえに今年の就職協定の遵守にかかっているといってもよいと思う旨の発言をし、②X日本大学就職部課長が、五九年度にはいわゆる官公庁問題を含めて条件整備をしたが、結果的には惨敗であり、早期化に火を付けたのは、中央官庁が夏以前に国家公務員上級職の選考に動き出したことである旨の発言をし、③L2日経連雇用課長が、官庁に対する指導こそが最も必要な環境整備の仕事であると思われるので、五九年度同様に人事管理官会議で申合せが行われ、就職協定の遵守の徹底が図られるように、文部省及び労働省の努力をお願いしたい旨の発言をした。(〈証拠略〉)
3 人事課長会議申合せ
六〇年四月一〇日の人事課長会議においては、人事院任用局企画課長から、連絡事項として、六〇年度における中雇対協及び大学等関係団体の就職協定の内容が紹介され、官側としても産業界及び大学等と同様、五九年三月二八日の人事課長会議における申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めていただきたいと考えているので、よろしく協力をお願いしたい旨の発言があり、これが了承された(以下「六〇年度人事課長会議申合せ」という。)。(〈証拠略〉)
4 官庁の青田買いに関する新聞報道
六〇年六月一五日付けサンケイ新聞において、「通産省が“青田買い”居酒屋に東大生46人」という見出しの下、東京大学出身の通産省の官僚が同月一四日に東京大学付近の居酒屋で東京大学法学部と経済学部の翌春卒業予定の学生を対象とした就職説明会を開いた旨報道された。
(〈証拠略〉)
五 臨時教育審議会における審議等
1 臨時教育審議会の設置
内閣は、五九年の第一〇一回国会に臨時教育審議会設置法案を提出し、I3(以下「I3」という。)総理大臣は、同年八月の参議院内閣委員会における同法案審議の際の質疑において、臨時教育審議会(以下「臨教審」という。)を総理大臣が直接管理する機関として設置する理由につき、総合的な広い視野に立ち、内閣総がかりで行おうという気迫と念願に立って行おうとしているのであり、例えば、大学教育の改革の中では卒業生を受け入れる社会の問題が大事であり、就職の際の青田刈りや学歴偏重から来る大学教育のひずみなどを改革するためには内閣全体の力がなければできにくいから、強い意志を持って徹底した改革を行うために、各省や各国務大臣の全面的な協力体制を作っていこうという考えに立って総理の直属とするものである旨答弁した。
同法案はその後成立し、五九年八月二一日、教育制度の改革について調査し、審議するための機関として臨教審が総理府に設置され、同年九月五日の第一回総会において、I3首相から、我が国における社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現を期して各般にわたる施策に関し必要な改革を図るための基本的方策について諮問された。
(〈証拠略〉)
2 臨教審における審議
臨教審においては、五九年一〇月の総会で四つの部会を設け、そのうち第二部会において社会の教育諸機能の活性化を審議事項とし、「学歴偏重の是正(雇用慣行、資格制度など)」をその検討課題例とすることを決め、また、六〇年一月の総会で同年五月ないし六月をめどに第一次答申を取りまとめることなどを決めた。
第二部会は、六〇年一月以降、学歴社会の問題を取り上げて審議を進めたが、同年三月ころには、我が国は、社会の変化に伴い、実態としては諸外国に比して一概に学歴社会とはいい難くなっているが、社会には学歴社会意識が根強くあり、就職等の場合に有名校重視の傾向が残されていることも事実であるという現状認識の下に、官公庁、企業等の採用方法等の検討が学歴社会を是正する方策の一つとして必要であると確認された。なお、第二部会の審議の過程では、文部省高等教育局が学生課長に対するヒアリングの際の発言や書面の提出等により、就職協定の概要、経緯、遵守状況や文部省の施策等を説明し、青田買いの問題点や大学側、企業側双方の参加による就職協定の内容改善等のための委員会を設置する必要性を指摘するなどした。
(〈証拠略〉)
3 臨教審の第一次答申における青田買い問題への言及
臨教審は、部会及び総会における審議を重ねた上、六〇年六月二六日、教育改革に関する第一次答申をI3首相に提出したが、同答申では、「学歴社会の弊害の是正のために」の項目において、「企業・官公庁においては、採用、評価などの人事管理において多様な能力が評価されるよう、次の諸点にわたり、一層積極的に努力していくことが望まれる。」とし、その第一点として、「特色ある教育を行っている学校を適切に評価し、また、有名校の重視につながる就職協定違反の採用(青田買い)を改め、指定校制を撤廃するなど就職の機会均等を確保するとともに、特定の学校に過度に偏らない、多様な学校からの採用」が挙げられた。
(〈証拠略〉)
第二 リクルートと就職協定
一 リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業
1 新規学卒者向け就職情報誌事業の概要
リクルートの行う新規学卒者向け就職情報誌事業は、民間企業等から掲載料を得て、大学等卒業予定者向けの企業案内や求人案内という広告類を情報として掲載した就職情報誌を発行し、これらを大学等卒業予定者に無料で配布することを主な内容とする広告事業である。
同事業は、第一章第一の一、二1のとおり、創業期に創刊した「企業への招待」(四四年に「リクルートブック」と改題)を母体とするもので、就職を希望する大学等卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体として広く知られるようになって、リクルートの基幹事業になり、五八年ないし六〇年当時も、「日本のビッグビジネス」、「日本の実力派企業」、「成長企業の研究」、「産業研究編」、「就職情報編」、「会社おもしろカプセル」、「リクルート速報」、「とらばーゆ短大生特集」、「とらばーゆ女子大生特集」、「とらばーゆ速報」や、地域ごとの「ローカル産業研究編」、「ローカル就職情報編」等、多種類の媒体(リクルートでは、これらを総称して、「リクルートブック」又は「RB」と呼んでいた。)を発行し、業界で圧倒的に高い市場占有率を有して、多額の収益を上げており、依然としてリクルートの基幹事業の地位を占めていた。
各媒体は、時期に応じて内容や対象者を異にするものが発行されており、例えば、五八年度のリクルートブックは、三月に大学三年生を対象とする「日本のビッグビジネス」を、五月に「産業研究編」及び「魅力の実力派企業」を、五月、六月に「成長企業の研究」を、六月に技術系向けの、九月に事務系向けの各「就職情報編」を、九月に「とらばーゆ女子大生特集号」及び「とらばーゆ短大生特集号」の配本を予定し、概ねそのとおり発行・配本したほか、さらに、追加募集用の媒体として、九月から一一月ころにかけて「リクルート速報」(首都圏では旬刊)等を発行・配本した。また、六〇年度も、大学三年生を対象にして、一月に「会社おもしろカプセル」を、三月に「日本のビッグビジネス・就職情報編」を、大学四年生になると、四月に「産業研究編」を、五月、六月、七月に「成長企業の研究」を、四月、五月、六月、七月、八月に「テクノビジネスの研究」及び「会社研究速報最新企業情報」を、六月に理科系向けの、九月に事務系向けの各「就職情報編」をそれぞれ予定配本時期とし、九月上旬から一一月上旬まで週刊の「リクルート速報(関東版)」等の発行を予定していた。
なお、例年、文部省大学局長から就職情報出版企業宛に、採用予定人員、初任給その他の労働条件及び採用方法を掲載した企業案内書の学生に対する送付は一定の日(五九年の場合で九月一〇日)以降とするように求める依頼文書が送付されていたことから、リクルートでも、これに従って、右期日前に配本する就職情報誌にはこれらの項目を掲載せず、企業イメージの広告を主な内容としていた。
五八年ないし六〇年当時、同事業の業務のうち、民間企業等からの求人広告の受注や新規学卒者向け就職情報誌の製作は広告事業本部(五六年一一月に従来の営業本部から改称したもの)が担当し、大学生等に対する配本業務は事業部が担当していた。ただし、六〇年一〇月以降、事業部は広告事業本部内の一部門になった。
営業本部や広告事業本部長は取締役が充てられ、五一年一二月から五九年一〇月まではR6、その後はR15が担当取締役であった。
事業部にも担当取締役がおり、四七年一二月から五七年一一月までR8、五六年一二月から五九年一〇月末までR6、その後はR15が担当取締役であり、六〇年八月からはR7も担当取締役になった。ただし、R6は、五九年一〇月末に事業部担当を外れた後も、後記本節第二の三1の職安法改正問題対策プロジェクトチームの活動が継続していた関係から、六〇年三月ころまでは事業部の仕事に関与していた。
(〈証拠略〉)
2 弁護人の主張について
弁護人は、五八年ないし六〇年当時、新規学卒者向け就職情報誌事業の売上げと利益がリクルート全体の事業の中で持つ営業上の意味は大きくなかった旨主張し、その根拠として、リクルートにおける第二三期(五八年)の売上げは約一〇一一億円、広告事業本部の売上げは約三九四億円であったのに対し、大学生向けリクルートブックの売上げは約一一三億円であって、広告事業本部の売上げの約二九パーセント、リクルート全体の売上げの約一一パーセントにとどまり、第二四期(五九年)でも、リクルート全体の売上げは約一一八六億円、広告事業本部の売上げは約四七四億円であったのに対し、大学生向けリクルートブックの売上げは約一六九億円であって、広告事業本部の売上げの三六パーセント弱、リクルート全体の売上げの約一四パーセントを占めるにとどまり、利益の点でも、広告事業本部全体の利益は、第二三期が五二億円余り(会社全体の利益の39.4パーセント)、第二四期が七九億円弱(同54.1パーセント)であったところ、大学生向けリクルートブックによる利益は、売上高に対応して広告事業本部の利益の三分の一程度とみられ、リクルート全体の利益の二〇パーセント以下とわずかであった旨指摘する。
確かに、リクルート企画室作成の第二三期及び第二四期の広告事業アニュアルレポート(弁書1二七、二八)によれば、売上高については弁護人指摘のとおりと認められるが、三分の一程度という数値は、「わずか」などというものではなく、むしろ多大なものというべきである。
また、利益に関しては、各アニュアルレポート中で実原価率の計算もなされているところ、その原価率は、第二三期では、大学生向けリクルートブックは28.6パーセント、高校生向けリクルートブック(売上高は大学生向けリクルートブックの一六パーセント程度である。)は36.0パーセント、企画商品(リクルートブックと並ぶ広告事業本部の主要商品であり、売上高ではリクルートブックを上回る。)は61.8パーセントと分析され(弁書1二七の一二、一三頁)、第二四期でも、大学生向けリクルートブックは27.0パーセント、高校生向けリクルートブックは36.0パーセント、企画商品は71.3パーセントと分析されている(弁書1二八の一二、一三頁。なお、甲書2八〇八〔リクルートの第二四期営業報告書〕でもほぼ同様である。)。このことからすると、大学生向けリクルートブックによる利益が売上高に対応して広告事業本部の利益の三分の一程度とみられる旨の弁護人の主張は誤っており、むしろ、大学生向けリクルートブックの原価率の低さ(収益率の高さ)が広告事業の高利益を支える重要な要素になっていたことが明らかである。さらに、広告事業の利益がリクルート全体の利益中に占める割合が、第二三期で約39.4パーセント、第二四期で約54.1パーセントと非常に高く、他の事業部門を圧倒していたこと(弁書1二七、二八。甲書2八〇八でもほぼ同様である。)からすれば、大学生向けリクルートブック、すなわち新規学卒者向け就職情報誌事業の高利益がリクルート全体の高利益を支える重要な要素になっていたということができる。
したがって、新規学卒者向け就職情報誌事業がリクルートの行う諸事業の中で、売上げ及び利益の両面、とりわけ利益の点で、基幹事業の地位を占めていたと評価することができるのであり、その営業上の意味が大きくなかったなどということはできない。
3 リクルート事業部の概要
(一) 主な事業部関係者
事業部の部長は、五六年四月から六〇年六月までR22(本章及び次章中に限り、以下「R22」という。)であり、同年七月からは、R22の前任者であったR7が同部長に復帰した。
R9(以下「R9」という。)は、五六年四月から、出版部業務課長との兼任で事業部事業課長を務めた後、五七年八月から六〇年二月まで事業部次長(五八年九月までは事業課長兼任)の地位にあった。
また、R11(本章において、以下「R11」という。)は、五九年四月から六〇年六月まで同部付課長、同年七月から六一年一二月まで同部次長を勤めており、R10は、五五年八月からの同部事業課勤務を経て、五八年一〇月から同課課長代理、五九年四月から同部付課長代理、六〇年一月から六一年三月まで同部事業課長であった。
(〈証拠略〉)
(二) 事業部の課題
事業部では、五八、五九年当時、①リクルートブック等のリクルート発行の媒体を的確に学生の元に届けること、②学生及び学校側のニーズや動向を的確にとらえて、営業部門に情報提供し、企画に反映すること、③リクルートの事業環境を整えるために、「対学校・行政リレーションをとる」ことが事業部の役割であると認識しており、五八年度は、「攻めのリレーション作り」の一環として労働省及び文部省に対する影響力を強化することを年度の課題の一つとし、五九年度は、就職協定を遵守するための働きかけを課題の一つとし、六〇年度も、就職協定の遵守及びグッドウイルを獲得するための大学・行政・経済団体とのリレーション強化を年度の方針の一つとしていた。
(〈証拠略〉)
二 リクルートの事業と就職協定との関係
1 認定事実
(一) 新規大学等卒業予定者が就職協定による求人企業との接触開始日前に求人企業に関する情報を得ようとするには、企業から直接情報を入手することが困難であるため、リクルートブック等の新規学卒者向け就職情報誌が活用されることになり、したがって、就職協定が存在し、遵守される場合には、就職希望の新規大学等卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体としての就職情報誌の価値が高まる。一方、就職協定が廃止され、あるいは遵守されない場合には、求人企業と新規大学等卒業予定者とが早い時期から接触して採用活動や就職活動をするようになり、その結果、両者間の媒体としての就職情報誌の価値は低下し、就職協定が遵守される場合と比較して、求人企業から入る広告料等の収入が減少する可能性が高い。
(二) また、リクルートでは、例年、本節第二の一1のとおり、時期に応じて多種類の異なる内容の就職情報誌を発行・配本していたが、これらは、就職協定による接触開始時期や採用選考時期を踏まえて、製作スケジュール等の事業計画を策定し、事業を遂行していた。したがって、就職協定が廃止され、あるいは遵守されない場合には、多種類のリクルートブックの計画的な発行・配本の業務に重大な支障を来すことが懸念される状況にあった。
(三) さらに、五九年一月、R6らが労働省職安局業務指導課長であったC1から、①新規学卒者向け就職情報誌が就職活動の早期化の要因になっていると指摘する者がおり、②九月一〇日以前に発行されているガイドブックも募集文書とみなさざるを得ず、③新聞関係者からガイドブックが事前に配布されているのを規制すべきであるという申入れがある旨の話をされたこともあった。
(四) このため、被告人を含むリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、同事業に右(一)、(二)のような悪影響を来し、さらには、大学等卒業予定者に対する就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、この種就職情報誌に対する法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していた。
(〈証拠略〉)
2 右認定の補足
(一) 弁護人は、右1(一)に関し、①就職協定が乱れるのは、好景気で企業の採用意欲が高まる時期であるから、リクルートブックの売上げは、減少するどころか、むしろ増大する関係にあり、②就職協定が乱れる六月ころには既にほとんどのリクルートブックの営業が終了しているから、その乱れは売上げの大勢に影響を及ぼさないし、③そもそも、リクルートブックの利用価値は、情報の発信者と受け手とを結ぶ就職情報専門誌としての経済性と効率性にあり、就職協定とは無関係である旨主張し、被告人も、公判段階において、就職協定の存続及び遵守とリクルートブックの売上げとの間に相関関係はなく、むしろ、好景気の時期には、就職協定が乱れるとともに、大学生の就職に関する情報サービスの需要が増えて、売上げが増える旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、関係証拠によれば、被告人らは、五九年一月一八日のリクルートのじっくり取締役会議において、五九年度の就職協定につき、就職協定が乱れることはリクルートの事業にとって大変不利であり、少なくとも前年並みの遵守を関係者に働きかける必要があることなどを話し合い、しかも、その要旨を経営情報を記載した「RMB」と題する幹部職員向け社内誌(以下「RMB」という。)に掲載して幹部職員に対する周知を図っていたほか(〈証拠略〉)、被告人が六〇年六月一四、一五日のリクルートの全社部次長会で幹部職員を対象にスピーチした際、広告事業に関し、民間企業の採用意欲は非常に旺盛であるという新聞記事や通産省が青田買いという新聞記事があって、就職活動の早期化が進むのではないかという懸念があるが、就職活動の早期化が進むと、商機が短くなり、事務系の採用活動時期が九月まで延びる場合と延びない場合とではおそらく一〇億円程度売上げが違う旨話していたこと(〈証拠略〉)が認められるのであり、これらの各事実からすると、被告人らが、就職協定が遵守されない場合には、それが遵守される場合と比較して新規学卒者向け就職情報誌の売上げが減ると認識していたことは明らかであり、これに反する被告人の公判段階における右供述は信用することができない。
確かに、弁護人が主張し(右①)、被告人が供述するとおり、好景気で企業の採用意欲が高まる時期には、リクルートブック等の新規学卒者向け就職情報誌に対する需要が高まるとともに、就職協定に反する早期の採用活動が行われやすいという面はあると考えられるが、その場合でも、「就職協定が乱れることでリクルートブックの売上げが増加する」という関係にあるわけではない。むしろ、被告人が六〇年六月にスピーチしたとおり、企業の採用意欲が旺盛な時期でも、就職協定が遵守されれば、遵守されない場合と比較して、新規学卒者向け就職情報誌事業の商機が長くなり、より一層の売上げ増が見込めるのは、至極当然のことであり、弁護人の右①の主張や、それに沿う被告人の右供述は、右1(一)の認定を左右するものではない。
なお、R6も、被告人の公判段階における右供述に沿う証言、すなわち、就職協定が乱れる場合には前倒しで一月や二月から受注活動することで対処するので、年間を通じた売上げは減少しない旨の証言をするところ(〈証拠略〉)、一月や二月の段階で、翌年の卒業予定者に関する就職協定が乱れるかどうかを予測することは容易ではないし、他方で、就職協定が遵守されずに就職・採用活動が事実上活発化した段階で計画よりも前倒しして受注しようとしても、その状態になれば、もはや多くの企業にとって十分な広告効果が期待できず、就職協定が遵守された場合と比して売上げが減少することは当然に予想されることであるから、R6の右証言も不合理というべきである。
(二) 本節第二の一1のとおり、例年、文部省大学局長から就職情報出版企業宛に、採用予定人員、初任給その他の労働条件及び採用方法を掲載した企業案内書の学生に対する送付は一定の日(五九年の場合で九月一〇日)以降とするように求める依頼文書が送付されていたところ、弁護人は、採用予定人員等の募集要項を掲載したものはごく一部であり、リクルートブックの八割程度はこれらの項目を掲載しないものであるから、就職協定の制約を受けずに自由に発行・配本をすることができた上、その企画立案も配本時期を含めて就職協定と無関係に決定されていたから、就職協定が事業に及ぼす影響は小さかった旨主張する。
確かに、関係証拠によれば、リクルートブックのうち、「会社おもしろカプセル」、「日本のビッグビジネス」、「リクルートブック産業研究編」、「成長企業の研究」等、募集要項を掲載せずに企業イメージの広告を中心とする就職情報誌が大きな割合を占めており、それらが九月一〇日より前に多種類発行されていたことは認められるが、それらの各種リクルートブックが企業と学生とを結ぶ媒体として高い価値を有していた理由は、まさに、就職協定によって求人する企業と求職する学生との接触が一定の時期まで禁止されていたからである。したがって、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の中で募集要項を掲載しない就職情報誌の占める割合が大きかったことは、リクルートにとって就職協定の存続及び遵守が重要でなかったとする理由にはならない。
(三) 弁護人は、さらに、右1(三)に関連して、就職情報誌に関する法規制は言論出版の自由との関係で実現不可能なものであるから、その懸念を表すリクルート関係者の供述に現実味はない旨主張する。
しかし、R6が、右1(三)のとおり、五九年一月、労働省の担当課長から、新規学卒者向け就職情報誌に対する法規制の可能性を示唆する話をされて、取締役会にもその旨報告していたことは関係証拠(〈証拠略〉)から明らかであり、弁護人の右主張には理由がない。
(四) 他方、①文部省大学局長、高等教育局長や文部事務次官であったD3(以下「D3」という。〈証拠略〉)、L2日経連雇用課長(〈証拠略〉)、文部省高等教育局学生課課長補佐であったD4(〈証拠略〉)、労働省職安局業務指導課職員であったC2(〈証拠略〉)は、いずれも就職協定の実務に深く関与した立場から、新規学卒者向け就職情報誌は就職協定による接触禁止期間中の大学卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体として利用価値がある旨証言し、②リクルートの者も、捜査段階において、広告事業本部長であったR6(〈証拠略〉)、事業部長であったR7(〈証拠略〉)、事業部事業課長代理、同課長等を歴任したR10(〈証拠略〉)、古くからの役員であったR5(〈証拠略〉)がそれぞれ右1の認定に沿う供述をし、公判段階においても、事業部次長であったR9(〈証拠略〉)が右1の認定に沿う供述をするほか、R6(〈証拠略〉)が、就職協定が就職情報誌の発行・配本等の事業計画の前提となり、就職協定が遵守されずに採用が早く決まってしまうと、後半時期におけるリクルートブックの売上げ(企業からの広告料収入)が減少する事態はあり得た旨の供述をし、R5(〈証拠略〉)及びR7(〈証拠略〉)も、少なくとも就職協定と就職情報誌の発行・配本計画との関係及び就職情報誌が青田買いを助長しているという批判に対する懸念については、右1の認定に沿う供述をするところ、これらの者の各供述は、新規学卒者向け就職情報誌事業の内容に照らすと、合理的であり、信用することができる。
(五)  したがって、被告人をはじめとするリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者が、右1で認定したとおり、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料等の収入が減少し、計画的な発行・配本業務に支障を来し、さらには、大学等卒業予定者に対する就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のために就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたことは、明らかというべきである。
(六) ところで、弁護人は、就職協定は学生の勉学環境を確保し、就職における学校間格差(学歴社会の弊害)を是正し、学生に機会均等を保証し、ひいては、企業の計画的で秩序ある採用活動に資することを目的とする社会的意義の大きいものであって、その存続及び遵守は社会の強い要請であり、国の方針でもあったことから、リクルートにおいても、学生の就職問題に直接かつ密接に関連するリクルートブックの配本という事業を営む企業の社会的責任として、公益的な見地から、就職セミナーや講演会を開催し、発行する雑誌に記事を掲載するなど、協定の啓蒙と遵守を呼びかける活動を行っていたのであり、営業上の利害得失からではない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
しかし、仮に、リクルートにおいて、社会的要請に応じ、公益的な見地から就職協定の存続及び遵守に向けた活動をしていたという側面があったとしても、そのことと自社の事業の順調な展開を目的として就職協定の存続及び遵守に向けた活動をすることとは両立するものであり、公益的見地の存在は、右1の認定を左右するものではない。
三 五九年当時の就職協定を巡るリクルートの取組み
1 五九年前半の取組み
リクルートは、五八年度の就職協定に関し、じっくり取締役会議において、R8、R9及び社長室が担当して政治的アプローチを行うことを決めるなどし、その遵守に向けた対策に取り組んだが、五八年度の就職協定については、本節第一の三2のとおり、協定違反が随所に見受けられた上、五九年一月一三日には、L1日経連専務理事が就職協定をやめたい旨の発言をしたという新聞報道もあったことから、被告人らリクルートの経営陣は、五九年度の就職協定の存続及び遵守について強い危機感を抱くようになり、同月一八日のじっくり取締役会議において、五九年度の就職協定が乱れることはリクルートの事業にとって大変不利であること、少なくとも前年並みの遵守を関係者に働きかける必要があること、そのためにも政治的折衝力が大切であることなどが話し合われ、議論の結果、就職協定問題を「文部省マター」として、就職協定の遵守に文部大臣の協力をいただくように働きかけることを基本路線とし、R7及びR9を中心に文部省等の関係機関とのリレーションを担当する外交組織を設けることを決めた。
また、被告人は、実際に、五九年一月中にD2文部大臣に面会し、①文部大臣が就職協定の存続と秩序維持が必要であると考えており、文部省として協定遵守に向けて従前以上に積極的に取り組んでいきたい旨の発言をすること、②協定の実効を期すために、就職問題懇談会の下部機構である協定遵守委員会に日経連や人事院等の参加を呼びかけて、同委員会の拡大強化を図ること、③文部大臣が就職協定正常化に深い関心と熱意を持っていることを担当局長と課長に表明することなどを求める書面を交付して、その旨の陳情をした。
その後、五九年一月末ころの取締役会において、事業部担当取締役のR6、前事業部長で当時社長室長のR7、事業部長のR22、事業部次長のR9らで職安法対策プロジェクトチームを結成し、当時の職業安定法(以下「職安法」という。)改正論議の中で持ち上がっていた就職情報誌一般に対する法規制問題に当たらせるほか、R7やR9を中心にして、右プロジェクトチームのメンバーに就職協定に関連する情報収集や対応策の策定にも当たらせることを決めた。
以後、これらの者がL2日経連雇用課長らから就職協定に関する情報を収集し、その情報は、適宜、取締役会に報告され、議論の対象とされた。また、リクルートの幹部自身も、五九年二月六日、被告人がR6、R22及びR9とともに、都内の割烹「子」でD3文部省大学局長、D1文部省学生課長らを接待し、同年三月一四日にも、被告人がR8、R12及びR6とともに、同店で同局長、同課長らを接待し、同月二五日には、R6、R22らが同局長、同課長らをゴルフに接待して、就職協定を巡る問題等につき情報収集や意見交換をした。
(〈証拠略〉)
2 その後の取組み
リクルートでは、その後も、就職協定に関する情報収集を続け、五九年八月二三日には、R6、R9及びR11がD1文部省学生課長やL2日経連雇用課長らと就職協定に関して懇談し、その際、大蔵省が同月一三日から動き出したことに起因して都市銀行の一本釣りが始まる気配であること、日銀が同年七月ころにほとんど絞り込みを終了しており、一番の問題企業であることなどが話し合われた。
また、R10は、五九年一二月一〇日に文部省が就職問題懇談会を開催した当日かその翌日、D1文部省学生課長から六〇年度の就職協定に向けた大学側の検討状況や就職協定の遵守に関する問題点等を聴取して、リクルート内の関係者に報告した。
(〈証拠略〉)
四 六〇年度の就職協定を巡るリクルートの取組み
1 六〇年一月二三日ころの取締役会における決定
被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、六〇年一月二一日になされたL1日経連専務理事の発言(本節第一の四2)を受けて、就職協定が廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、同月二三日ころの取締役会において、六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審の関係者に右方向で働きかけをする旨合意した。
なお、「1/23T会議決定事項」と題する書面(甲書1五二〇)は、R6がR10に指示して右取締役会における決定事項を書き取らせたものであるが、同書面には、「協定(決め手なし)」の表題の下で、「① 経済三団体中心にテコ入レ 特に、日商、中央会とのリレーションを強め、会合の場においての発言力を高めてもらい、L2課長を鼓舞させる。」「② 文部大臣とのトップリレーションを深め(甲野、R6T)、協定への関心を深めてもらう。(大学での成績が就職先と深く関係させ、大学で勉強させるようにする 臨教審と協定との関係)」、「③ 就職協定セミナーはタイミングをみて実施する。(東京、大阪) 今年の採用戦線と協定とのような形にすることも考える」と記載されている。
(〈証拠略〉)
2 六〇年三月ころまでの取組み
R6は、右方針を踏まえて、そのころ、文部省にD6文部大臣(以下「D6文部大臣」という。)を訪ねて、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明し、臨教審で議論の対象として取り上げてほしい旨陳情した。
また、被告人は、六〇年一月二一日、臨教審第四部会において、「学歴と雇用について」と題して意見を述べ、学歴社会は世に言われるほどはっきりとした形では存在せず、激しくはないこと、むしろ、社会への入口の段階で「学校歴」の問題が激しいこと、民間企業が大学卒業予定者を採用する過程では、一〇月一五日以降でないと学業成績が出されないため、面接重視にならざるを得ないこと、採用試験が早期化しているのは事実であり、就職協定を遵守する方向を採るか、就職試験の時期を後にずらすことによって、大学における学業成績が就職の際に重視される度合いが現在よりも高まり、大学生は従来よりも勉学に励むようになるはずであることなどの見解を示し、同年二月二七日、臨教審第二部会のヒアリングにおいて、「学歴社会について」と題して意見を述べ、我が国の産業界では、大学の大衆化に伴って有名大学卒を重視する風潮は少なくなり、高卒者と大卒者の生涯賃金の差は小さく、昇進面でも実力主義の人事管理をしようとする企業の姿勢があるなど、学歴社会の問題は少なくなっているが、企業の採用の段階では、大学における成績を参考にせず、有名校を重視した採用をしており、その理由の一つとして、就職協定により大学は一〇月一日以降でなければ企業に紹介状を出さないのに、事実上は一〇月一日までに多くの採用を決めており、そのため企業が成績を見ることなく採用を決める実情にあることなどを指摘した。
さらに、リクルートでは、就職協定が遵守されるようにするための一方策として、六〇年三月、東京及び大阪で就職協定セミナーを開催した。
(〈証拠略〉)
3 その後の取組み
リクルートでは、六〇年四月から六月にかけても、事業部を中心に、学生や企業の就職・採用活動の状況、就職協定の遵守に向けた公式、非公式の各種会合の状況、臨教審で青田買い問題が取り上げられたこと、青田買いに関する新聞報道等について情報収集活動を続け、重要な情報は被告人にも報告された。
(〈証拠略〉)
第二節 判示第一の事実(乙山に対する贈賄事実)について
第一 前提又は背景となる事実関係
一 乙山の経歴、職務権限等
1 乙山の経歴と五九、六〇年当時の地位
乙山は、早稲田大学第一商学部を卒業後、三重県議会議員等を経て、四二年一月の衆議院議員総選挙で当選し、以後連続して当選を重ね、五九年ないし六一年当時も衆議院議員の地位にあった。
乙山は、自由民主党(以下「自民党」という。)に所属し、衆議院議員当選後、科学技術政務次官、文部政務次官、自民党文教部会長、政策集団新生クラブ座長、自民党政務調査会副会長、労働大臣、自民党副幹事長等を歴任し、五七年一一月に内閣官房副長官に就任した後、五八年一二月二七日、I3を総理大臣とする内閣において、国務大臣に任命されるとともに内閣官房長官を命じられ、六〇年一二月二八日までその職にあった。
(〈証拠略〉)
2 乙山の内閣官房長官としての職務権限
乙山が内閣官房長官の職にあった当時、内閣官房は、内閣に置かれ、「閣議事項の整理その他内閣の庶務、閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整及び内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る」ものとされていた(当時の内閣法一二条一、二項)。また、内閣官房長官は、内閣官房に一人置かれ、国務大臣をもって充てられる官職であって、「内閣官房の事務を統轄し、所部の職員の服務につき、これを統督する」ものとされている(内閣法一三条一ないし三項)。
3 乙山の事務所及び秘書
五八年一二月に乙山が内閣官房長官に任命された際、古くからの乙山の秘書で、それまで公設第一秘書であったA1(以下「A1秘書」又は「A1」という。)が官房長官秘書官(政務)になり、A1は、乙山が六〇年一二月に内閣官房長官を離任した際、乙山の公設第一秘書に復帰し、六一年九、一〇月当時もその職にあった。
乙山は、五九年ないし六一年当時、地元及び衆議院第二議員会館(本節中に限り、以下「議員会館」という。)内の事務所のほか、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の○○永田町○○ビル(以下「○○ビル」という。)八〇七号室(ただし、六〇年八月一日以降は六〇二号室に変更した。)に東京事務所を構え、同事務所では、事務所の責任者であったA1のほか、私設秘書であったA2(以下「A2秘書」又は「A2」という。A2は、A1の官房長官秘書官在任中は公設第一秘書であった。)、A3(以下「A3秘書」又は「A3」という。)らが執務していた。
(〈証拠略〉)
二 被告人又はリクルートと乙山との関係
1 会合への出席等
リクルートは、乙山が五四年一一月に労働大臣に就任した後、五五年一月に開催した新春シンポジウムに出席を依頼して、「八〇年代の雇用問題を考える」と題する講演をしてもらい、その際、被告人が一緒に食事をして以降、乙山との関係を深め、五五年六月に開催した「創業二〇周年記念謝恩の集い」にも出席を得て、教育界と産業界とを結ぶリクルートの存在意義等に言及した祝辞を受けたほか、乙山が労働大臣を退任した後も、取締役会に招いて講演してもらい、六〇年四月に開催した「創業二五周年謝恩の集い」にも主賓として招待して出席を得るなどした。
また、被告人は、五七年ころ、日本青年会議所会頭を務めたA6から要請されたことなどを契機に、被告人個人名義、リクルートや関連会社名義で、乙山に資金提供をするようになり、五九年三月には、A6が中心になって日本青年会議所OBの若手経済人らで構成する乙山支援の会「a1会」に入会し、その会合に出席するなどして親交を深め、同年四月には、A6らも交えて乙山とゴルフをした。
さらに、R7らも、五九年六月一二日及び八月二日、議員会館の乙山事務所を訪問するなどして乙山との接触を継続していた。
なお、乙山は、六〇年八月、官房長官秘書官事務取扱を務めていた内閣事務官を介して、大蔵省主税局に対し、被告人を内閣総理大臣の諮問機関である税制調査会の特別委員の候補者とするように指示し、同年九月、同局は、右指示どおり、被告人を同委員に任命する手続をし、同月一二日に被告人が同委員に任命された。
(〈証拠略〉)
2 リクルート等から乙山に対する資金提供の状況
(一) パーティー券の購入、秘書の給与の負担
リクルートは、五五年五月ころ、乙山の俳句集出版記念の集まりのパーティー券数枚を購入し、五七年一〇月には、同年一一月二日に開かれる乙山の著書「○○」出版記念の集まりのパーティー券二〇〇枚(代金合計四〇〇万円)を購入した。
さらに、被告人は、五五年一一月ころ、乙山に対し、その秘書一人分の給与をリクルートで負担することを申し出て、その了承を得た上、五八年一月以降、三重県伊勢市の乙山一郎事務所で秘書をしていたA5を経理上リクルートの従業員として扱い、月額約一七万円(六月と一二月には別に賞与として二十数万円)をA5名義の銀行預金口座に送金するようになった。右送金は六一年四月まで継続され、翌五月以降も、同人をリクルートの関連会社である株式会社大西企画(同年一一月株式会社オー・エヌ・ケーに商号変更)の取締役扱いとして、月々約二〇万円ないし約二三万円(六月と一二月に別に賞与として二十数万円)を右口座へ送金し、六三年一二月に同人がリクルート関連会社の役員になっている旨の新聞報道がなされたことを契機に辞退を申し出たため、元年一月分の送金を最後として終わった。この間、同人がリクルートや関連会社で従業員や役員として仕事をした事実はない。
なお、リクルートは、同様の方法による資金援助を他の政治家に対しても行っており、このような架空職員を「非常勤S職」と称していた。
(〈証拠略〉)
(二) 後援会費等の支払
被告人は、五九年三月以降、右1の「a1会」の会費として年間四八万円を支払っていたほか、同年五月には、リクルートを乙山の政治資金規正法による届出団体である「a2会」に加入させ、以後年会費一〇〇万円を支払っていた。
(〈証拠略〉)
第二 五九年三月の請託の存在について
一 五九年三月一五日の被告人と乙山との会談
1 会談の事実
被告人は、五九年三月一五日朝、判示第一の二①のとおり、内閣官房長官公邸(以下「公邸」という。)を訪ねて、乙山と会談した。
(〈証拠略〉)
2 問題の所在
被告人は、捜査段階において、右1の訪問の際に乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方につき請託した旨供述している。
弁護人は、右訪問について、被告人は、八月上、中旬に実施される公務員試験の面接試験(第二次試験)で実質的な公務員の選考が始まり、一〇月一五日の合格発表直後から具体的な採用選考が行われる結果、就職協定による採用選考開始日が一一月一日である民間に比較して公務員の採用が優先されるという「官尊民卑」の状態になっていると考えるとともに、このような状況が民間企業や学生を浮足立たせ、企業に就職協定に違反する口実を与える原因にもなっていたことから、公務員試験の面接試験を民間の会社訪問解禁日の一〇月一日以降にするか、合格発表日を民間の選考開始日に合わせて一一月一日に繰り下げるべきであり、これと反対に合格発表日を一〇月一日に繰り上げることは、ますます公務員の採用が優先することとなり、就職協定の秩序に一層の混乱を与えることになると考え、かつ、日経連等も公務員試験の合格発表日の繰上げに異を唱えているものと考え、このような経済界の考えをどのような形で陳情すればよいかを官房長官として官庁組織に精通している乙山に相談するために訪問したものであり、実際にも、右訪問の際は、公務員試験の日程の繰下げを巡る問題を話題にしたにすぎず、官庁の青田買い防止の善処方について請託したことはない旨主張し、被告人も、公判段階においては、弁護人の主張に沿う供述をしている。
そこで、以下、右訪問の際の請託の有無に関する被告人の供述のほか、その前後の被告人、リクルート及び乙山の行動や、検察官が被告人による請託のフォローアップのためと主張する五九年三月二四日のR6らによる乙山訪問の状況等について検討し、判示第一の二①の請託を認定した根拠を説明する。
二 公邸訪問前にリクルート内部で公務員試験の日程等を巡って検討した状況等
1 リクルートの情報収集状況
リクルートでは、五九年三月中旬までに、事業部の幹部が中心になって、L2日経連雇用課長らから就職協定を巡る動向について情報収集をしたほか、以前に政治家の秘書をしていた関係でI2内閣参事官と面識のあったリクルート社長室の女性職員がI2内閣参事官に電話して、公務員の採用スケジュールに関する情報を収集するなどした。
また、R6は、五九年三月八日、リクルートが大阪で開催したリクルート採用セミナーの際、パネラーとして出席していたL2日経連雇用課長から、同人が公務員のことで翌日の法曹会館における会合に呼ばれているという話を聞いた。
(〈証拠略〉)
2 関連するリクルートの社内文書の記載
リクルート事業部で勤務していた女性が上司の指示を受けて清書した五九年三月一三日付け文書(甲書1五一〇)には、「本年度の公務員採用スケジュール、決定プロセス」の表題の下で、「3/14 各省、人事担当会議(実質的に決まる)」、「3/中旬〜下旬 産業界(中雇対)に根まわし」、「3/下旬 人事院、人事官会議にて試験、発表日等決定」等の日程に加えて、「注1 試験日程については既に決めており、会場及び二次試験の採点スケジュールとの関係から実質的に動かし難い」、「注2 日経連が人事院、大蔵、通産、総理府と極秘裏に折衝中(内容は二次試験発表を10/15から10/1に早める。そのかわり10/1以前の学生との接触を自粛する)」という記載がある上、「今後の対応」の表題の下で、「人事官に政治家ルートにより申し入れる」、「試験日程の繰り下げ(一次試験が無理なら二次試験だけでも)」、「10/1以前の学生との接触をやめる(OB派遣、官庁訪問学生のシャットアウト等)」と記載されている。
なお、右文書中で、「(実質的に決まる)」の「る」に抹消線が引かれて、「らなかった」と加筆され、「根まわし」の次に「3/21 L1―任用局長(G2)」と加筆されているが、これらは、R9が記載したものである。
(〈証拠略〉)
3 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R22、R7、R6、R5及びR8は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述(元年五月一三日付け検面調書・甲書1一五三)
「〔五九年〕一月中頃のL1発言もあって、当時、事業部内では、本当に就職協定がなくなるのではないかという心配が起き、危機意識を持っていた〔中略〕。」「事業部では、R7社長室長も加わって、五九年度の国家公務員上級試験の採用スケジュールを検討する中で、これも民間の就職協定に足並みを揃えてもらうようにして、官庁側を就職協定の中に実際上取り込む形にして、この民間の就職協定の危機を乗り切ることを検討したのでした。この考え方は、甲野社長の指示によるものであったのでした。この会議については、R6取締役、R22事業部長、R9事業部次長、R24事業部課長、R7社長室長、それに私も加わって何回か開かれて協議したもので、R22、R24あたりが日経連のL2雇用課長や人事院の担当者などから公務員試験のスケジュールや日経連の情報を収集してきたのでした。この中で、日経連では、人事院など主な省庁と根回しして、国家公務員上級試験の二次試験発表を従来の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げるとの官庁側の要望をのむことにし、その代り、一〇月一日以前の学生との接触を官庁側にも自粛させるとの方向でまとめる動きをしていることがわかりました。」「しかし、R6取締役やR7社長室長の話しでは、甲野社長は、逆に、この際、官庁側に二次試験の発表日を繰り下げて民間の就職協定に足並みを揃えさせるという徹底した改革をする必要があるという抜本的解決策を考えて、むしろ、その方向で内閣総理大臣ないし内閣官房長官に働きかけて、各省庁の人事担当者に青田買いをやめるように指示してもらい、同時に、国家公務員上級試験の二次試験発表日を就職協定に合わせて繰り下げるように申し合わせなどしてもらうということでした。この甲野社長の指示は、二、三月ころの取締役会で行われたということで、そのことは、R6取締役あたりから聞かされていたのです。」「この官庁側の日程のうち、一次試験の日程は変えられないとしても、二次試験についてはその発表日を就職協定の一一月一日に繰り下げようというのが甲野社長の指示であったのです。」「今見せてもらったの〔甲書1五一〇〕が昭和五九年三月一三日付けの書面ですが、これが今説明した事業部の就職協定に関する会議で検討されて、その決定された内容を私がまとめて起案し、これを当時庶務係をしていたR23さんに清書してもらったものでした。」「『今後の対応…』と記載のあるのが、先程述べた甲野社長の指示で、当時の取締役会で決定された基本方針をこのように確認したものです。ここで政治家ルートというのは首相官邸筋ということで、特に、各官庁を束ねる総元締めの当時の乙山官房長官を指し、人事官というのは人事院を考えていたものでした。R7社長室長も、『甲野社長はI3、乙山ラインにすでに親しくなっているので、そこに頼むのが一番いい。』ということを説明したのでした。甲野社長なり他の取締役などにおいて、乙山内閣官房長官に、各省庁人事担当課長会議において、国家公務員上級試験の二次試験の発表日を一〇月一日に繰り上げるのではなく、繰り下げることと、一〇月一日以前の学生との接触を禁止することの内容で申し合わせを行うように人事院などに働きかけてもらうというものでした。」「この文書には、宛名など入れてありませんが、これは時期的に急を要する事柄であることから、取締役会にかけずとも、一気にR7社長室長から甲野社長に上げられるようにしたものと記憶していますが、あるいは、そのころの取締役会議でこれが再確認されているかもわかりません。」
(二) R22の供述(元年四月二六日付け検面調書・甲書1一〇九一)
「見せて貰った書面〔甲書1五一〇〕は、プロジェクトチームの庶務であるR23の筆跡によるものです。当時のプロジェクトチームで話し合った内容を取締役会かあるいはR6担当取締役に宛て報告した文書ではないかと思います。このころのプロジェクトチームの会議に出席していたのは、私の他、R7、R9、R11、R10、R24らでありました。R6担当取締役も、時折出席しておりました。」「リクルートとしては、当時、公務員試験の日程の繰り下げと、民間の会社訪問解禁日である一〇月一日以前の段階における官庁による学生との接触の自粛を申し入れようと考えておりました。これらは、いずれも就職協定を遵守させるために、まず、官庁から採用活動の早期化を自粛して貰おうという考えに基づくものでありました。」「このような官庁の採用活動に関する申入れは、政治家を通じて行うことにしました。その政治家として考えていたのは、乙山官房長官でありました。」
(三) R7の供述(元年五月一五日付け検面調書・甲書1五七八)
「リクルートでは、L1発言などから、就職協定の存続に危機感をいだき、その後の取締役会であったと思いますが、『総理大臣あるいは官房長官にお願いして、各省庁の人事担当者に青田買い自粛を指導してもらうよう頼んだらどうか。』とか、『公務員試験の実施日を繰り下げてもらおう。』などということが話し合われました。」
(四) R6の供述(元年五月一五日付け検面調書・甲書1一三三)
「その年〔五九年〕の三月一〇日前後ころにリクルートの中の就職協定関連のプロジェクトの会議の中だったと思いますが、青田買いを防止するための対策について話し合いが持たれたと記憶しています。〔中略〕この文書〔甲書1五一〇〕については、当時見たというはっきりした記憶がないので、見ているのか見ていないのかはっきりしません。ただし、この書面に書いてある内容は、当時確かT会議などでも報告されていたと思われ、当時からよく承知していることだったのです。私が記憶しているところでは、民間企業の青田買いを防止するためには、官公庁の青田買いをやめてもらうことと、官公庁の公務員試験の実施を繰り下げてもらってはどうかということが問題になりました。」「日経連は、人事院、大蔵、通産などと極秘に折衝し、各省庁が一〇月一日以前に学生と接触しないようにして欲しいというお願いをしており、人事院などからは、その代りとして、公務員試験の発表を逆に一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることの了解を求められていたのでした。〔中略〕公務員試験の発表を繰り上げることについては、リクルートでは、そのまま認めるわけにはいかないと考えていました。そこで、リクルートとしては、政治家のルートによって政府に試験日の日程の繰り下げを申し入れることにしたのです。このような申し入れをしたときに、一〇月一日以前の学生との接触をしないという政府側の条件がくずれてしまう虞れがあるので、公務員試験の実施の繰り下げと一〇月一日以前の学生との接触を自粛することの二つを、リクルートとしては、日経連とは別に政府側に働きかけてゆくことにしたのです。〔中略〕各省の人事担当者を束ねる役所は総理府だと考えており、その総理府の長にお願いすれば、各省庁の人事担当者に一〇月一日前の学生との接触を自粛する指示を出してもらえることになると思われたのでした。総理府の中でこのようなことができる立場にいるのが総理大臣若しくは官房長官だというのが私達の認識だったのです。総理大臣については、余りにもしきいが高過ぎるので、リクルートに御理解のある乙山官房長官に公務員試験の実施日をずらすことと合わせてお願いすることになったように思うのです。〔中略〕政治家に対するこのようなお願いは、甲野とその直轄下にある社長室が行っているものと思われるのです。」
(五) R5の供述(元年五月一七日付け検面調書・甲書1一四二)
「この書類〔甲書1五一〇〕をそのころ見たかどうかは判りませんが、そのころの取締役会で、この件についての説明報告があったように思います。担当者ということから言えばR7で、責任者という意味では甲野ですので、その両名のどちらかからであったと思うのです。その話の要旨は、『青田買い防止のために、公務員の試験日程を繰り下げてもらうことと、各省庁に学生との接触を自粛してもらうことの二つが必要で、学生との接触を自粛してもらうという件については、日経連の方で極秘に人事院や総理府などと交渉中でありますが、試験日をずらす件については、政府の方から発表日を繰り上げると言われているので、リクルートでは、青田買いの自粛と試験日の繰り下げを乙山官房長官に陳情していきたいと思います。』という意味の内容だったと思うのです。乙山官房長官へのお願いは、甲野が行うか、甲野がまず道筋を作って、その指示で社長室長等が担当するのだと思いました。」
(六) R8の供述(元年五月一九日付け検面調書・甲書1一三一)
「その年〔五九年〕の三月中旬ころには、人事異動などの件で何回か取締役会が開かれており、その中で、確か甲野あたりから、就職協定問題について、政治家のルートを使って、上級公務員試験の実施日を繰り下げることと、官公庁の青田買いをやめてもらうことの二点について、政府に働きかけをしたいという報告がありました。〔中略〕その取締役会での説明では、日経連が秘密裏に政府側と交渉したところ、政府側では公務員試験の合格者の発表日を一〇月一五日から一〇月一日に早める条件を出してきて、それと引き換えに各省庁が青田買いを自粛するということになりそうだということでした。しかし、このような条件は、私達の公務員試験の実施日を繰り下げるという考えに逆行するものでしたので、そのために、公務員試験の実施日の繰り下げと各官庁の青田買いをやめていただくことの両方を政治家を使って働きかけるということだったのです。各省庁に青田買いをやめるよう陳情するのは、その人数から言ってもリレーションを作る時間的なものから考えても無理なので、各省庁間の取りまとめをしたり、各省庁に指示を出されたりする立場の官房長官にそれをお願いするという話になりました。試験の実施日を繰り下げる件は、直接には人事院のマターと思われましたが、やはり、このような立場にいて、しかも総理大臣の女房役であります官房長官に陳情するということでした。当時の官房長官は乙山一郎さんでした。この乙山先生は、〔中略〕リクルートの事業や就職協定問題についての良き理解者だということもあって、乙山先生にお願いするということになったと思いました。〔中略〕お示しの書類〔甲書1五一〇〕〔中略〕の中に書かれていることは、甲野から取締役会で報告されたのとほぼ同じであります。」
4 リクルート関係者の公判段階における各供述
これに対し、公判段階においては、①R10は、甲書1五一〇は事業部内における会議の際にアイデアとして考えたことを記載したものであるが、その後の幹部の対応は何も分からず、検面調書は検察官の誘導によって作成されたものである旨供述し(〈証拠略〉)、②R22は、リクルートとして、当時、公務員試験の日程の繰下げと一〇月一日以前の官庁による学生との接触の自粛が就職協定を遵守させるために重要であると考えていたことについては、調書にその旨の記載がある以上、検察官の取調べに対しそういう供述をしたと思うし、その二点を人事院の人事官に政治家の誰かから申し入れてもらうということであったと思う旨供述しつつも、リクルートとしてその方針を決定したか否か、政治家というのが乙山であったか否かについては覚えておらず、検察官の取調べ当時も覚えていなかったと思う旨供述し(〈証拠略〉)、③R7は、取締役会で検面調書に記載されたような協議がなされた記憶はなく、検面調書は検察官の誘導に従って作成されたものにすぎない旨供述し(〈証拠略〉)、④R6は、公務員試験の合格発表日の繰上げに向けた人事院等の動きは承知していて、リクルートではむしろ合格発表日を繰り下げる方がよいと考えて、その方向で動きがあったと記憶しているが、甲書1五一〇に記載された事柄を議論したこと、取締役会における報告や議論、働きかけの対象として乙山の名前が出たことについては記憶がなく、捜査段階における供述は検察官の誘導による部分が多い旨供述し(〈証拠略〉)、⑤R5も、甲書1五一〇記載の件について取締役会で議論した記憶はなく、右3(五)の検面調書は、検察官からいろいろな可能性を聞かれて、知らなかったことではあるが、そうかもしれないということで、その作成に応じたにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
5 考察
リクルート関係者の捜査段階における右3の各供述は、目指す方針が公務員試験の日程の繰下げなのか、合格発表日のみの繰下げなのかについて、必ずしも一致せず、混乱があるものの、リクルートにおいて、公務員試験の合格発表日の繰上げを巡る人事院と日経連との折衝状況を踏まえて、官庁の一〇月一日前の学生との接触禁止を乙山に陳情することをリクルートの基本方針とした点については一致しており、甲書1五一〇の記載とも合致するのであるから、信用性が高い。
これに対し、リクルート関係者の公判段階における右4の各供述は、甲書1五一〇の記載に照らすと、不自然である上、大部分の者は右3の各検面調書が検察官の誘導によって作成されたというのであるが、各人の述べるところは、公務員試験の日程の繰下げと合格発表日の繰下げのいずれを目指すのかという点の相違に加え、乙山に対し、右繰下げと併せて官庁の青田買い防止の善処方を働きかけることになった経緯や理由についても相違があるなど、各調書は必ずしも同様の内容ではないから、検察官の誘導のみで右のような調書が作成されたとは考え難いし、五九年三月当時、R10は事業部の課長代理、R22は事業部長の地位にそれぞれあって、事業部における実務の中核的立場にいた者であり、R7は社長室長の地位にあって、取締役会にも陪席し、就職協定に関する事項の検討にも参加していた者であり、R6は就職協定に関する事項を取り扱う事業部担当の取締役であり、R5は専務取締役として社長室等の事務を担当し、取締役会で議事進行を行うなどの管理事務を担当していた者であるのに、これらの者のいずれもが、公判段階において述べるように、公務員試験の合格発表日の繰上げ案へのリクルートの対応に関してよく知らなかったというのは、不自然であることからして、信用することができない。
6 小括
右1、2の各事実及びリクルート関係者の右3の各供述に加え、前節第二の二で認定した就職協定に関するリクルートの考え方や対応の経緯を総合すると、被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、五九年三月一三日までに、人事院が公務員試験の合格発表日を従前の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることを企図して日経連と折衝しており、交渉に当たっていたG1人事院企画課長ら官庁側の担当者とL2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日以前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日の繰上げの動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官の乙山に働きかけることを決定したものと認められる。
三 公邸訪問時の乙山との会談の内容に関する被告人の供述
1 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) 被告人の元年四月三〇日付け検面調書(乙書1一四)
「時期ははっきり覚えていないのですが、昭和五九年の二〜三月頃ではなかったかと思います。或いはその一年後の六〇年の同時期頃であったかも知れませんが、多分昭和五九年の可能性が強いと思います。」「五九年の二〜三月頃に何かの機会、多分、パーティーか何かの会合であったと思いますが、乙山先生と顔を会わせた際に、私は、公務員の青田買いの問題を乙山先生に相談にのってもらってみようかなということが私の頭に浮かび、乙山先生に『先生にちょっと御相談にのっていただきたいことがあるんですが。』と言いましたところ、乙山先生は『いやあ、どうぞ結構ですよ。朝なら公邸に居ますから連絡をしていらっしゃい。』と言われたのです。当時、就職協定が守られないということが社会問題となっており、その原因の一つが公務員の青田買いにあると言われておりましたし、リクルートとしても、この問題には重大な関心を持って取り組んでおりましたので、官庁の役人の採用・任用の元締めで各省庁間の調整機能を持っている官房長官にこの問題についてお願いをし、相談をしてみようと考えたからでした。」
「私の記憶では多分、昭和五九年二月か三月頃のある日の朝、時間は午前九時前後頃に車で官房長官公邸に一人で行きました。当時リクルートで就職協定の問題に取り組んでいたR6、R8、R7などを連れて行った記憶はありませんので、間違いなく一人だったと思います。事前に、つまり前日かその前の日あたりに電話で先方とアポイントをとった上で、行きました。乙山先生には、公邸の応接室で会い、二人だけで話をいたしました。」「私は、この官房長官公邸には、後にも先にも、この時一回しか行ったことがなく、公邸の様子などはよく覚えておりませんが、総理官邸に隣接した古い建物でありました。」
「私は乙山先生に対し、『公務員の青田買いの問題が就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっています。これを何とかする方法はないでしょうか。官尊民卑ということもありますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについて何とかなりませんかね。』と言って、公務員の青田買いについての善処方をお願いしたのです。又、私はこの時、乙山先生に『公務員試験の合否の発表時期をもっと遅らせるというようなことについては可能なものでしょうか。どこにどのようにお願いしたらいいんでしょうか。』というような相談もいたしました。この公務員試験の発表時期の繰り下げということは、その時期が遅くなれば、公務員の青田買いの問題が改善され、民間の青田買いも少なくなり、全体として就職協定が守られるという方向に働くということで、私共が望んでいたことだったのです。」「これに対し、乙山先生は、就職協定等の問題については、余り予備知識がなかったようで、『公務員試験とか発表とかいう問題は、人事院ですかな。私は詳しいことは判らないが、官側だけが先に人を採るようなことは具合悪いですな。どうしたものか。一遍どこでどう決まっているのかというようなことを含めて、調べてみますかな。官庁の青田買いの問題については考えておきましょう。』などとおっしゃって、私の要望を受けとめてくれました。」
(二) 被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)
「私が官房長官公邸を訪問したのが昭和五九年三月であったというのは、私が確か乙山先生を囲む会であるa1会に入会して間もない頃だったという記憶があり、この時期に間違いないと思います。」「公邸で乙山先生とお会いしたのは、前回は、午前九時頃と申し上げましたが、時間はもっと早く、午前八時過ぎというのが正確だと思います。」
「公邸の洋風の応接間で、応接セットに向かい合う形で、乙山先生と二人だけで約一五分程度話をいたしました。」「私は新聞を読みながら乙山先生を五分位待っていたら、先生が来られたので、二人で会談をしたのです。そこで私は、乙山先生と『古い建物ですね。』とか『寒いですね。』などとしばし雑談をした後、私は、『ところで、今日お邪魔いたしたのは、大学生の就職に関して文部省の通達とか中央雇用対策協議会の取り決めなどの就職協定がありますが、官庁は、それとはお構いなしに、早い時期に採否を決めるなどしており、この公務員の青田買いの問題が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっていて、又、私共も非常に困っております。これを何とかする方法はないものでしょうか。官尊民卑という形になっておりますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについてこれを防止させる為に、何とかなりませんか。よろしくお願いします。』などと公務員の青田買いの防止について、官庁の元締めである乙山官房長官に何らかの方策をとっていただけないかについてお願い致しました。乙山先生は、これに対して、『考えてみましょう。』と言われました。」
「私は、この機会に、乙山先生に対し、公務員試験の発表時期の繰下げの問題についても相談をしておりますが、その事については前回お話ししたとおりです。」
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
「五九年三月中旬ころと思いますが、私は公務員の青田買いを何とか防止して欲しいという気持ちから、官庁側の元締である当時の乙山官房長官に会って、その善処方をお願いしました。確か、官房長官公邸を訪問して、私は乙山官房長官に対し、公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたのでした。私のお願いに対して、乙山官房長官は、『考えておきましょう。』などと言ってくれました。」
2 被告人の公判段階における供述
これに対し、被告人は、公判段階(〈証拠略〉)においては、次の趣旨の供述をしている。
① 五八年に人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げようとしたのに対し、日経連が民間企業より先に官庁が内定を出すことになり不公平であるとして反対したため、公務員試験の合格発表日の繰上げは実現しなかったが、乙山を訪問する五九年三月一五日の数日前、R7かR6から、日経連が人事院から前年同様公務員試験の合格発表日を繰り上げたいという申出が寄せられて困っているということを聞いた。
私は、一〇月一五日の公務員試験の合格発表日と就職協定による民間の採用選考開始日である一一月一日との間に一五日の差があることが民間の青田買いの原因になるので、公務員試験の合格発表日を一一月一日に繰り下げるべきであると考えており、また、発表日が繰り下がれば試験日も繰り下がると考えていた。
そこで、合格発表日の繰下げを中心とする公務員試験の日程の問題で人事院に陳情する道筋を尋ねようとして、乙山を訪問したのである。
② 公務員試験の日程について取締役会で協議したことはなく、日経連が官側と折衝していて公務員試験の合格発表日の繰上げが動かし難い状況にあるということは知らなかった。乙山を訪問することについて事前に日経連と相談することもなかった。
③ 五九年三月一五日朝は、R7とともに乙山を公邸に訪問しており、当時の公務員試験の日程の現状と、民間の就職協定と整合する理想的な姿と考えた公務員試験の日程とを記載したペーパーを持参した。
④ 乙山に対しては、ペーパーを見せるとともに、人事院が民間の意向に反して公務員試験の日程を繰り上げようとしていること、公務員試験の日程が早いことで民間の方に不満があること、民間の意向は公務員試験の日程を繰り下げて就職協定と同じような条件にしてもらいたいということである旨説明し、そういうことについて、人事院辺りに陳情するには、どのような形で、どのような所に訪ねたらよいか尋ねた。
⑤ 乙山は、予備知識も関心もないという感じで、「そうだとすれば問題ですかな。まあ調べてみますかな。いずれにしてもしかるべきところから人事院へのお話ということでしょう。」というような受け答えをした。
⑥ 公務員試験の日程が繰り下げられると公務員の青田買いが防止され、公務員の青田買いが防止されると就職協定が守られるという認識はあったが、乙山に対し公務員の青田買い防止を相談に行ったわけではなかった。
⑦ 検察官の取調べに対しては、乙山に公務員試験の日程に関して相談したのであり、公務員の青田買い防止についてお願いしたことはないと供述したが、検察官から、公務員試験の日程を繰り下げることは、理屈の上で公務員の青田買い防止になると言われ、押し切られて、公務員の青田買い防止の善処方をお願いした旨の検面調書が作成された。
3 被告人の捜査段階における供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、次の理由により、右1の被告人の捜査段階における供述には任意性がない旨主張し、被告人も、公判段階において、これに沿う供述をしている。
(一) 被告人の精神状態
被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)の取調べ当時、その件が終われば早期に保釈されるであろうと期待していた。ところが、同事件で起訴された後、新たに複数の政治家との関係等について追及を受け始めたことから、保釈の期待が崩れ、その精神的ショックに加え、いつまで捜査が継続し、身柄拘束を受けるのか分からない不安感と、自分の行く末はすべて検察官の手に握られているという絶望感から、自殺したい衝動にまで駆られる精神状態に陥った。さらに、元年四月二五日にはI1内閣が退陣を表明し、同月二六日にはI1の元秘書が自殺するという衝撃的な出来事が相次いだことで、被告人は、I1政権を崩壊させた上、元秘書を死に追い込んだのは自分であるという自責の念から、一層追い詰められた精神状態に陥った。
(二) 被告人の元年四月三〇日付け検面調書(乙書1一四)について
元年四月三〇日の検察官の取調べにおいては、被告人が、公邸訪問の目的は公務員試験の最終合格者の発表日の繰下げを陳情するためにはどのような方法があるかを相談することにあった旨供述したところ、P2検事が、乙山を受託収賄罪で立件するには被告人が乙山の職務に関連した請託をしたことにしなければならないと考え、「公務員の合格発表日を繰り下げることは、結局は、公務員の青田買いを防止することだ。だから、乙山を訪問した目的は、乙山に公務員の青田買い防止の善処方を陳情に行ったことだ」などと不当な理詰めの尋問を行って、被告人の訪問の目的や会話の内容に関する供述を歪曲した調書を作成した上、「早期決着、それが日本のためだ」などと言って、強引に被告人に署名させた。
被告人は、右(一)の精神状態にあり、自分の運命はP2検事の手に握られてしまっていると考えていたため、P2検事の強権に抵抗もできず、署名押印に応じた。
(三) 被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)について
P2検事は、元年五月一四日の取調べにおいて、請託の目的につき、「前の調書を読み直したけど、公共団体が頼みに行ったような内容だからあれじゃだめだ。乙山代議士に会った際、『私共も非常に困っております。』とあなたが言った文言を調書に入れなきゃだめだ。」「ここは最終着地だから、『私共も非常に困っております。』という文言を入れてもらいたい。そうでなければ、せっかく着地しようとしているのに着地できない。」「最終段階に来ているので、それぐらいは認めろ。これを認めてくれなければ着地できない。」などと責められ、リクルートという一企業の依頼という形の調書に署名させられた。
(四) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)について
この調書の内容は、すべて、それまでに主としてP2検事によって作成された調書を踏襲するもので、何ら新しい事実が付け加わったものではない。厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた被告人としては、捜査の最終段階に至った時点で、既に強い抵抗をすることもできず、P4検事の意図に沿うように調書の作成に応ぜざるを得なかった。
4 被告人の捜査段階における供述の信用性に関する弁護人の主張
弁護人は、右3の事情に加え、次の理由により、右1の被告人の捜査段階における供述には信用性がない旨主張する。
(一) 供述の抽象性
右1の各検面調書のうち、被告人が乙山に官庁の青田買い防止を要請したとする部分は、いずれも非常に抽象的であり、肝心の官庁の青田買い防止の具体的方策、例えば、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止とか、人事課長会議における申合せということについては、全く言及されておらず、唯一具体的なこととして言及されているのは、公務員試験の合格発表日の繰下げについてのみである。
被告人の捜査段階における供述が「公務員の青田買い防止の善処方」などという抽象的な表現にとどまっているのは、被告人が官庁の青田買いについて言及したとしても、それは、公務員試験の日程の繰下げの筋道を相談する前提として、官庁の青田買いが民間の就職協定に及ぼす悪影響等について説明したにすぎないからであり、請託を認める部分には信用性がない。
(二) 被告人の当時の関心との関係
五九年三月当時の被告人の関心は、専ら民間の就職協定が遵守できる環境をどのように作るかということにあり、「公務員の青田買い防止」などにはなかった。被告人は、申合せという観念的なものではなく、制度として国家公務員の採用について民間の就職協定に合わせるシステムを作らなくては、就職協定を遵守する抜本的方策にはならないと考えていたのである。したがって、被告人が、民間の就職協定を遵守する上で障害になっていた公務員試験の日程を巡る問題を話題にする以外に、一般的に「公務員の青田買い防止の善処方」という非常に不明確な内容の依頼をするはずはない。
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)作成時の原稿との関係
P4検事は、元年五月一九日の取調べに先立ち、従来作成されていた調書を参考にして原稿(甲物1一二四)を作成し、これを被告人に示して手を入れさせた。
公邸訪問の際の状況について、右原稿の原文には、「私は、乙山官房長官に対し、公務員の青田買いを防止するためになんとかして欲しいということや公務員試験の合格発表の繰り下げのことなどをお願いしました。」という記載があり、最終的な調書では、「公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたのでした。」という記載になっているが、その過程で、被告人は、原稿に手を加えて、「公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願い具体的には公務員試験の合格発表の繰り下げのことなどをお願いしました。」という文章にした。
被告人は、右過程でも、公邸訪問に際して話題になった具体的内容は公務員試験の合格発表の繰下げ問題であったことを強調しようとしたのである。「具体的には公務員試験の合格発表日の繰り下げのことなどを」という語句の抹消線の横には「イキ」の文字が付記され、その文字の上にも抹消線が引かれているが、このことは右の点について被告人とP4検事との間に攻防があったことの証左であり、P4検事は、右語句があると従来の調書と矛盾すると考えて強引に削除したのである。
右原稿は、被告人が捜査段階から公邸訪問の目的が公務員試験の日程の繰下げにあると述べていたことを示しており、右検面調書には信用性がない。
5 被告人の取調べ及び供述状況に関する検討
(一) 確かに、第一章第三の三1、3、4のとおり、被告人は、元年二月一三日に逮捕されてから右1の各検面調書が作成される時期まで、約二か月半ないし三か月間身柄を拘束されていたこと、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められ、また、同年四月二五日にI1内閣が予算案成立後に総辞職することを表明し、その翌日にコスモス株の譲受名義人の一人であったI1の元秘書が自殺したことについて、被告人が強い自責の念を抱いたということも、あながち不自然ではない。
(二) しかし、乙山に贈賄したことに関する被告人の取調べは、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後、起訴後の勾留中の任意捜査として行われたものであり、その当時、被告人は、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていた(第一章第三の三2)のであるから、右(一)の事情があったからといって、自己の刑事責任や応援する政治家である乙山の刑事責任に関わる重要な事柄につき、検察官の取調べに対し意に反する供述をし、あるいは事実と異なる供述の記載された調書に署名することを余儀なくされたという被告人の公判段階における右3の供述は、信用性に乏しい。
しかも、元年四月三〇日付け検面調書に関しては、被告人は、同月二七日の検察官の取調べまでは、自分自身が乙山を公邸に訪問したことを供述しておらず、同月二八日の検察官の取調べにおいて、P4検事から、被告人が乙山を公邸に訪問したことにつき初めて質問されたが、被告人が主任検事であるP2検事に話す旨述べたことから、それ以上の取調べはなく、同月三〇日のP2検事の取調べにおいて初めて実質的な取調べがあり、その当日に同調書が作成された経緯があるのであって(〈証拠略〉)、何日間にもわたって追及されたという事情はない。
(三) また、右4(三)の原稿(甲物1一二四)は、リクルートと就職協定との関係や乙山及び丙川二郎に対する働きかけの経緯を総括的に記載した調書である元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)の作成に先立ち、P4検事が従前の取調結果と同月一八日の取調時の被告人の供述状況を踏まえて原稿を作成し、これに被告人が加筆訂正をしたものであるところ(〈証拠略〉)、確かに、右原稿には、被告人の筆跡で弁護人の主張するような加削訂正がなされており、同月一九日付け検面調書は、その加削訂正後の内容で作成されている。
この点につき、被告人は、公判段階において、その際の具体的状況は覚えていないけれども、自分は公務員の青田買い防止の善処方をお願いするということは考えていなかったのに、P2検事から「公務員試験の日程のことでご相談に行くということは、すなわち公務員の青田買いである」ということを強く言われて、既に公務員の青田買い防止の善処方に触れた検面調書が作成されていたので、せめて「具体的には」という文字を加えることにより、公務員の青田買い防止という抽象的なことで乙山に相談に行ったわけではなく、具体的に公務員試験の日程のことで相談に行ったという趣旨を表現しようとしたが、P4検事がそれを許さず、公務員の青田買い防止という抽象的な内容の調書が作成されたと思う旨供述し(〈証拠略〉)、他方で、P4検事は、被告人の加削訂正の内容が前日の供述と違うとして再考を求め、被告人が再度訂正したことはあるが、意に反する内容の調書を作成してはいない旨証言するところ(〈証拠略〉)、①被告人の公判段階における右供述自体が具体的な記憶に基づかない推測によるものであること、②被告人は、右取調べ当時、拘置所の房内で、取調べの状況等についてノートに記録していた(〈証拠略〉)のであるから、被告人の供述する状況が実際にあったのであれば、その経緯をノートに記録し、それを証拠請求することで供述を裏付けることも可能であると思われるのに、その請求はなされていないこと、③右取調べ当時、弁護人は、ほぼ毎日、長時間にわたって、被告人と接見し、接見内容の報告書を作成した上、公証役場で確定日付を得ていたところ(〈証拠略〉)、右調書が作成された翌日の接見結果として作成された報告書(弁書1一〇一)には、P4検事が作成済みの調書を出してきて被告人に見せ、被告人は、事実に反すると強く主張して署名を拒んだが、「P2検事に対し認めているのになぜ認めないんだ。」と強く迫られて、やむを得ず署名せざるを得なかったという記載があるのみで、被告人が原稿に加削訂正したが、それが許されなかったなどという記載が一切ないことからすると、被告人の公判段階における右供述は、裏付けを欠き、信用性に乏しい。
(四)  結局、右1の各検面調書が作成された際の取調べ及び供述過程において、被告人の供述の任意性や信用性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
四 公邸訪問後の被告人、リクルート及び乙山の行動
1 被告人とL1日経連専務理事との面談
被告人は、五九年三月一五日午後、日経連事務所を訪れてL1日経連専務理事と面談し、就職協定が遵守されるためには公務員試験の二次試験の実施日を現行の八月三日ないし一九日から繰り下げて一〇月一日以降とすべきであると考えているが、乙山にそのことを陳情したところ、乙山はしかるべき所から陳情書が出されれば考えると答えたという話をした。
L1は、これを受けて、「甲野氏は乙山官房長官にあい、陳情したそうです。甲野氏としては、八月三日〜一九日を一〇月一日以降にしてもらえばうまくいくと考えておられ 乙山氏はしかるべき所から陳情書が出れば考えるという返事であった由。」などと記載した上、公務員試験の日程の関係で不明な点について教示を求めるL2日経連雇用課長宛の伝言用メモ(以下「L1メモ」という。)を作成した。
なお、L1メモには一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止に関する記載はなく、L1(〈証拠略〉)も、公務員試験の日程の繰下げの話しか出なかった旨証言している。
(〈証拠略〉)
2 乙山がG2人事院任用局長にかけた電話
乙山は、五九年三月一五日ころ、G2人事院任用局長に電話をかけ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせた。これに対し、G2が、各省庁から強い繰上げの要望があるほか、現状では学生に迷惑がかかるという繰上げの理由を説明した上、日経連とも前向きに話が進んでおり、官庁側も一〇―一一協定に合わせることで理解を得つつあるという説明をしたところ、乙山から特段の質問はなかった。(〈証拠略〉)
3 L2日経連雇用課長の対応等
L2日経連雇用課長は、人事院等の官庁関係者と公務員試験の合格発表日の繰上げ問題について協議を重ねていた五九年三月一五日午前、リクルート関係者が公務員試験の日程に関する書類を方々の企業の担当者に持ち歩いているという情報を得たことから、直ちにR6を含むリクルート事業部の者数名を喫茶店に呼び出して説明を求めたところ、R6らが公務員試験の合格発表日を一〇月一五日よりも遅い期日に繰り下げる内容の書面を示したので、そのような繰下げは現実的でなく、一企業がそのようなことを求めるべきではないなどと言って叱責した。
また、L2日経連雇用課長は、五九年三月一五日か翌一六日にL1メモを受領して、被告人が公務員試験の日程の件で乙山に陳情したことを知り、L1に対し、質問に返答するとともに、被告人の案が現実的でないことを伝えたが、同月一九日ころ、居酒屋でG1人事院企画課長らと会った際、リクルート関係者が公務員試験の合格発表日の繰下げ案を乙山官房長官に持ち込み、乙山から人事院の上層部に対しリクルート案でやってくれないかという申入れがあった旨聞かされ、人事院の上層部に申入れまでしたことに驚いて、これまでの案で大丈夫かと確かめると、G1らから、官庁側は一致しているので大丈夫であるという返答を得たので、L1日経連専務理事と面談して、右事情を説明した上、同月二一日に予定されていた公務員試験の合格発表日の繰上げ問題に関するL1とG2人事院任用局長との会談を実施するかどうか協議し、結局、予定どおり実施することに決めた。
なお、L2日経連雇用課長は、L1メモを受領した後、R6に電話をかけて、社長である被告人に現実的でない案を持ち歩かせたことを叱責し、R6は、そのころ、部下とともに同課長の自宅を訪れて謝罪した。
(〈証拠略〉)
4 乙山がI2内閣参事官にした質問等
乙山は、五九年三月一九日(月曜日)朝、国会内の内閣官房長官室において、I2内閣参事官に対し、公務員試験の日程の繰上げについてはどうなっているのかを質問をした。
I2は、前節第一の三5のとおり、五九年三月九日に日経連雇用課長等との意見交換に出席していた上、同月一六日には、G1人事院企画課長から電話を受け、日経連側との間で、就職協定に官庁側も協力するという条件で公務員試験の合格発表日を繰り上げる話が進んでおり、最終段階では人事課長会議で民間の就職協定に協力するという申合せをする必要がある旨連絡を受けていたことから、乙山に対し、人事課長会議では以前から要望してきたことであるが、本年は人事院の尽力により、実現の方向にあるという返答をしたところ、乙山は、「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、これに対し、I2は、近く人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをするつもりであるという説明をした。
五九年三月二一日ころ、I2は、G1から、公務員試験の合格発表日を一〇月一日に繰り上げることで民間側と話がついたが、交換条件として、官庁側が民間の就職協定に協力することになったので、次の人事課長会議でその旨の申合せをしてほしいという申入れを受け、その旨を乙山に報告し、その了承を得た上、同年三月二八日に五九年度人事課長会議申合せをした。
なお、I2は、五九年四月二七日に通産省の青田買いに関する新聞報道がなされた際、通産省に問い合わせて事実関係を確認した上、乙山に報告したところ、乙山は、「十分注意するように。」と言い、同年五月二七日に労働省の青田買いに関する新聞報道がなされた際、労働省から報告を受けたI2が乙山に報告したところ、乙山は、「困ったことだね。」と返答した。
(〈証拠略〉)
五 五九年三月二四日にR6らが乙山を訪問した状況及びその趣旨
1 R6らが乙山を訪問した事実
(一) 乙山は、五九年三月二四日は、午後二時四〇分から参議院予算委員会の集中審議に出席する予定であったが、その前の午後二時から一〇分間、内閣総理大臣官邸内においてリクルートの営業本部及び事業部担当の取締役であったR6ほか一名と面談する予定になっており、官房長官付き秘書専門官のA4(以下「A4」という。)が作成していた乙山の日程表である「乙山内閣官房長官日程」の同日分の頁にも、右時間帯に「R’6他一名(リクルート)」という面談スケジュールが記載されていた。この「R’6」はR6の誤記である。
(二) その日の参議院予算委員会は、実際には、午前一〇時一分に開会し、午前一一時四七分に休憩になり、午後零時五〇分に開会し、午後五時三分に散会になったところ、乙山は同委員会に国務大臣として出席し、午後の比較的早い時間帯に答弁に立っていた。
R6は、R22事業部長及びR1秘書課長とともに、五九年三月二四日午後零時三五分ころ、議員会館受付において乙山との面会手続をし、議員会館内の乙山の事務所を訪ねた後、A3秘書の案内で、議員会館から国会へ通じる地下トンネルを通って国会二階の官房長官室に移動し、午後の右委員会に出席する直前の乙山と面談した(以下「長官室訪問」という。)。
(〈証拠略〉)
2 長官室訪問の際の面談の内容
(一) 認定事実
R6らが乙山を訪問したのは、R6らが、被告人のした公務員試験の日程の繰下げと官庁の青田買い防止の善処方の請託について乙山の対応を確認するように被告人から指示を受けたためであり、実際にR6がその旨の確認をしたのに対し、乙山は、公務員試験の日程の繰下げについては実現困難であるが、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をした。
(〈証拠略〉)
(二) 右認定に反する弁護人の主張等
弁護人は、長官室訪問は、リクルートが社名変更に際し五九年三月二一日に開催した謝恩の集いに乙山が出席したことに対してお礼をしたものにすぎず、右(一)で認定したような請託についての乙山の対応を確認することなどはしなかった旨主張し、被告人も、捜査(乙書1五四)及び公判段階を通じ、R6らに対し右確認のため訪問を指示した事実を否定している。
そこで、以下、右(一)のとおり認定した理由を補足する。
3 R6の供述について
(一) R6の捜査段階における供述
R6は、元年五月一五日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(甲書1一三四)。
「検察官から、議員会館の乙山一郎代議士の面会証に私の名前と、ほか二名という記載のあるものが見つかり、その日付と時間は、昭和五九年三月二四日午後零時三五分となっていることを告げられました。私の名前を使うものはいないと思われることから、私がリクルートの者二人を連れて乙山先生にお会いしたと思うのです。その当時、乙山先生の秘書の方など乙山先生御本人以外にお目にかかる用事はありませんでした。また、乙山先生に、その当時お会いする理由といえば、先生のお力で各省庁が青田買いに出ないよう各省庁の担当者に指示を出していただくことと、公務員試験の実施日をずらすことのお願いをしておいた件について、その結果をお聞きしたり再度お願いすることしかなかったのです。乙山先生へのこの二つのお願いについては、甲野若しくはその直轄下にある社長室がお願いしていたと思っております。ですから、私が乙山先生にお会いするようになったのは、たぶん甲野から『青田買いの件と公務員試験の件のその後がどうなったかフォローして下さい。』というような指示を受けたためだったと思うのです。私ほか二名となっているとのことですので、その二名が誰であったかを思い出しているのですが、R7若しくはR8取締役、R9のうちの誰かが入っていると思うのです。この三人のうちの一人がいたと思われ、後一人は、この三人の中の誰かか、事業部の者だと思うのです。行った時間がお昼ということですので、アポイントなしで行く時間でも、また会える方でもありませんので、必ずアポイントを取っている筈です。執務をしておられる首相官邸ではなく、お昼に議員会館の方に来て欲しいと言われて、このような議員会館で、しかもお昼どきにお会いすることになったと思うのです。甲野に言われたとおり、青田買いの件と公務員試験の日程をずらす件について、乙山先生にお伺いしたところ、青田買いの点については、私どもが希望するとおりの御返事で、公務員試験の日程をずらす件については、難しそうだとの御返事であったと思うのです。この結果については、勿論、甲野に報告していると思います。」
(二) R6の公判段階における供述
R6は、公判段階(〈証拠略〉)においては、検察官の取調べに対して供述した当時、右訪問の記憶はなく、乙山と会ったことすら思い出すことができなかったのであって、右(一)の検面調書は、面会票の記載に基づく推測と検察官の誘導により作成されたものであり、記憶に基づくものではないが、面会票が出てきたことを検察官から告げられた際に検察官から随分怒られ、ほとんど混乱状態にあったために、一晩考えるということもなく署名した旨供述している。
(三) R6の供述の評価
長官室訪問のR6の同行者は、乙山事務所に保存されていた名刺(甲物1五五〜五七)等から、R22とR1であったことが明らかである上、乙山との面談場所も、A3の証言(〈証拠略〉)等により、議員会館内の乙山事務所ではなく国会内の官房長官室であったと認められるところ、R6の捜査段階における右(一)の供述は、同行者及び面談場所の点で客観的事実と合致せず、また、全体に曖昧であって、具体性に乏しく、随所で「思うのです」という言葉が使われるなど推測や想像を交えた表現が目立つものである。
弁護人は、右諸点を理由として、R6の捜査段階における右(一)の供述には信用性がなく、R6は、公判段階において供述するように、検察官からうそをついたと叱責されて、混乱状態に陥り、検察官の誘導と押し付けによって、調書に署名せざるを得ない状況に追い込まれた旨主張する。
しかし、R6は、本件当時リクルートの事業部担当の取締役として、その職務上の必要から、事前に面会の約束を得た上で乙山を訪問して面談したのであり、しかも、その際には、議員会館から国会内へ通じるトンネルを経て開会中の国会内の官房長官室に案内され、官房長官と面会するという特異な経験もしたのであるから、その面談の事実や趣旨については具体的な記憶があって当然であり、捜査段階において訪問の事実すら記憶になかったというのは、甚だ不自然であって、到底信用することができない。R6は、右事実がありながら、検察官の取調べに対し、国会内の官房長官室に案内されたことを全く供述せず、公判段階(〈証拠略〉)においても、長官室訪問に関しては一切記憶にないとして、漠然とした供述を繰り返しており、真実の供述を避ける姿勢が顕著であって、真摯な供述態度を欠いている。
しかも、R6は、五一年からリクルートの取締役の地位にあり、六三年一月以降はリクルートの社長の地位にあった者であり、かつ、逮捕はされず、在宅のまま検察官から取調べを受けていたのであって、右のような社会的経験を有しながら、取調べ中に検察官から「怒られた」からといって、被告人がした請託についての乙山の対応を確認するという重要な事柄について、やすやすと誘導されて、全く記憶にないことを供述し、混乱状態の中で調書に署名するというのは、信用し難いことである。
そうすると、R6の捜査段階における右(一)の供述に「思う」という言葉が多用されている理由も、R6が記憶にないことを推測や検察官の誘導によって述べたというよりは、供述の内容を殊更曖昧な表現にしようと意図したからとみるのが相当である。したがって、R6の捜査段階における右(一)の供述は、その一部に事実に反する点が含まれており、具体性が乏しいからといって、乙山との面談の内容やその点に関する被告人の指示という核心部分についてまで信用し得ないということはできず、他の証拠による裏付け次第では信用性を認める余地があるというべきである。
4 R22の供述について
(一) R22の捜査段階における供述
R22は、元年五月二〇日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(甲書1一〇九二)。
「乙山一郎代議士の事務所から私の名刺がみつかったということを検事から聞かされましたが、それは私がR6取締役、R1社長室課長と一緒に乙山先生の議員会館に伺い、乙山先生に公務員試験の繰り下げと官庁による公務員採用活動の自粛をお願いした時に乙山先生に私の名刺を渡しておりますので、私の名刺が乙山事務所からみつかったとしか考えられません。既に申し上げておりますように、リクルートとしては、就職協定が遵守されるようにするため、公務員試験の繰り下げと一〇月一日以前における官庁の公務員採用活動の自粛を乙山官房長官に働きかけることを決めておりました。政治家マターを担当する社長室あたりが既に乙山官房長官に働きかけているのだと思ってました。私がこの公務員試験日程の繰り下げと公務員採用活動の自粛を乙山先生にお願いに上がることになったのは、私の上司であるR6からこの件で乙山先生の所に行こうと言われたからだと記憶しております。このように言われたのは五九年三月下旬頃のことです。私とR6の他にR1も一緒に乙山先生の所に伺っておるのですが、政治家マターは社長室ですから、そういうことでR1も一緒に来ることになったと理解しておりました。当時の記憶では、リクルート側では公務員試験日程の繰り下げや一〇月一日以前の採用活動の自粛を乙山先生にお願いしておりましたので、私達がその件がその後どのようになったのか乙山先生にお話を伺うとともに、リクルート側の意向を乙山先生にお願いすることになりました。私達三人が乙山先生と議員会館で会ったのはお昼頃であったと思います。乙山先生にこの公務員試験日程の繰り下げと公務員採用活動の自粛の話を直接したのはR6でした。R6さんは、公務員試験の日程を民間並にずらす件についてはどのようになったでしょうかという趣旨の話をしたところ、乙山先生は、その件についてはむずかしそうだというような感じの話をされたように思います。また、R6は、乙山先生に、公務員の採用活動を一〇月一日以前に行わないように各省庁に守っていただけるようお願いしたいという趣旨のお願いをしておりました。この各省庁の青田買い自粛の件については、乙山先生は、『承知しました。』というような言葉で私達の頼みに理解を示し引き受けてくれておりました。検事の話ですと、この私の名刺の裏に五九年三月二四日の日付け記載があるということですし、議員会館の乙山先生の面会票に五九年三月二四日R6他二名が面会を申込んだ内容のものがあるということですので、私、R6、R1の三人が乙山先生に面会したのは五九年三月二四日に間違いないことです。」
(二) R22の公判段階における供述
R22は、公判段階(〈証拠略〉)においては、R6とともに乙山に面会した記憶はあるが、面会の目的は覚えておらず、面会時にはR6の二、三メートル以上後方で立っていて、R6と乙山とが会話する音は聞こえたものの、話の内容は聞き取れなかったのであり、検面調書の記載は、検察官からR6がその旨供述していると言われ、それなら正しいのであろうと考えて調書の作成に応じたものにすぎない旨供述している。
(三) R22の供述の評価
まず、R22の公判段階における右(二)の供述については、R22は単なるR6の秘書やかばん持ち等ではなく、事業部長の職にあった者であり、職務の一環として、取締役であったR6と内閣官房長官であった乙山との面談に同行したのであるから、その目的を知り、会話の内容も聞いていたのが当然であり、仮に面談時は後方に立っていて会話を十分に聞き取れなかったとしても、会談後にR6から内容を聞くはずであったから、R22の公判段階における右(二)の供述は、甚だしく不合理であって、到底信用することができない。
他方、R22の捜査段階における右(一)の供述は、その内容が具体的である上、①官房長官という要職にあった乙山が予算委員会の開会中という多忙の中で、当初の予定時刻を繰り上げ、昼休みのわずかな間を利用してまでR6らと面談したことからすると、R6らと乙山との面談は時期的に相当切迫していた用件で行われたものと考えるのが自然であること、②前節第二の二、三、本節第二の二で認定したとおり、リクルートの幹部は、五九年一月ないし三月当時、就職協定の存続及び遵守が事業上の重要な問題であると認識し、そのために官庁の青田買いを防止することが必要であると考えて、事業部を中心に情報収集等に当たっていたところ、新規学卒者向け就職情報誌事業を担当する営業本部及び事業部担当の取締役であったR6、事業部長であったR22、社長室秘書課長であったR1という顔ぶれで乙山を訪問したことに照らすと、合理的であって、特段不自然な点は見当たらず、R6の捜査段階における右3(一)の供述とも核心部分において合致していることからすると、十分に信用することができる。
5 弁護人主張の訪問目的について
(一) R1の公判段階における供述
R1は、公判段階(〈証拠略〉)において、長官室訪問は、五九年三月二一日に行われたリクルートの社名変更の披露パーティーに乙山が出席したことに対してお礼を述べるためであり、R5専務から、乙山が右パーティーに急遽出席していただいたが、十分な応対ができなかったのでご挨拶に行くべきであろうという指示を受けて行ったものであり、国会内で乙山と面談して短時間のうちにお礼を述べたが、その際、公務員の青田買いや公務員試験の日程に関する話が出たことはなかったなどとして、弁護人の主張に沿う供述をしている。
(二) リクルートが謝恩の集いを開催した事実
確かに、関係証拠(〈証拠略〉)によれば、リクルートが、五九年四月一日の商号変更を控えて、同年三月二一日午後五時三〇分から午後七時までの間、千代田区紀尾井町所在のホテルニューオータニ「鶴の間」において、約一七〇〇名を招待して謝恩の集い(以下「リクルート謝恩の集い」という。)を開催した事実が認められる。
(三) 考察
しかし、長官室訪問は乙山がパーティーに出席したことに対してお礼をするためであったというR1の公判段階における右(一)の供述は、次のとおり、信用することができない。
(1) まず、関係証拠(〈証拠略〉)によると、①乙山は毎夕秘書官と打合せをして翌日の日程を確定し、A4秘書専門官が「乙山官房長官日程」(以下「官房長官日程」という。)として浄書していたところ、五九年三月二一日分の官房長官日程によれば、同日は、午前一〇時から出席する参議院予算委員会の総括質問が少なくとも午後五時三〇分ころまで予定されていた上、午後六時三〇分から午後七時までは内閣総理大臣官邸大食堂で開催される「総理訪中結団式」に出席し、午後七時からは料亭でU1毎日新聞記者ほか一名と会合することが予定されており、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することはスケジュール的に困難であったこと、②官房長官日程の作成に当たっては、出席予定の会議、会合等の日程を記入するほか、日程上は出席が困難であるが、委員会等の終了時刻が早まるなどして時間的余裕ができれば出席したいという意向を持つ会合等がある場合に、それを括弧書きで記入する扱いをしていたところ、同日の官房長官日程では、リクルート謝恩の集いは、午後六時から午後八時三〇分まで予定されていた京王プラザホテルにおける「根っこ運動三〇周年の○○を励ます集い」とともに、括弧書きで午後五時三〇分から午後七時までの予定として記入されていたことが認められ、これらの事実によれば、乙山はリクルート謝恩の集いを出席困難なものとして扱っていたことが明らかである。
(2) そして、当日の実際の日程を見ても、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することは、以下のとおり、事実上不可能であったと認められる。
すなわち、関係証拠(〈証拠略〉)によると、五九年三月二一日の参議院予算委員会は、五九年度一般会計予算等を議題として総括質疑が行われ、午前一〇時二分に開会されて午前一一時五六分に休憩になり、午後一時一分に開会されて午後六時一三分に散会になっており、乙山は、国務大臣として同委員会に出席し、午後の早い時間には答弁にも立っていた。
同委員会の議事録には、乙山が終始出席していたのか途中で退席したのかは明記されておらず、官房長官日程には一六時から「記者会見・番懇」という記載があることからすると、乙山が午後四時ころ記者会見等のために一時退席したことが推測されるが、A4秘書専門官の証言(〈証拠略〉)によれば、予算委員会の総括質問は官房長官を含む全閣僚が開会から散会まで出席するのが通例であり、官房長官が定例記者会見やその後の記者との懇談をする場合には、議長の承認を得た上で議場を離れる扱いとされていたものと認められるから、官房長官の乙山が一民間企業のパーティーにすぎないリクルート謝恩の集いへの出席という私的な用務のために、一般会計予算案を議題とする総括質疑中の予算委員会を途中で退場したり、記者会見後に議場に戻らずにホテルへ向かうなどということは考え難いことである。
したがって、乙山は、午後六時一三分までは、同委員会に出席していたか、そうでなくても国会内で待機していたものと認められる。
その後の乙山の行動を見ても、関係証拠(〈証拠略〉)によると、乙山は、同委員会散会後は、午後六時三五分ころから内閣総理大臣官邸大食堂で行われた総理中国訪問結団式に出席し、留守番役の代表として歓送の辞を述べた後、さほど遅れることなく港区赤坂にある料亭「丑」に赴き、旧知の政治記者であったU1毎日新聞記者ほか一名と宴席を持ち、当時の政治問題等について話し合ったこと、また、乙山は、午後六時から午後八時三〇分までの日程で新宿区西新宿の京王プラザホテルで開催された「根っこ運動三〇周年の○○君を励ます集い」については、その発起人になっていたものの、出席しなかったことが認められる。
そうすると、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することは事実上不可能であったというべきである。
(3) 弁護人は、国会とホテルニューオータニとは自動車で数分の距離であるから、予算委員会が午後六時一三分に散会になった後、総理中国訪問結団式に少し食い込む時間帯に、乙山がリクルート謝恩の集いに短時間出席して首相官邸に戻ることは可能であった旨主張する。
しかし、同結団式は、冒頭で総理大臣が挨拶し、更に一名又は二名の挨拶を挟んで、乙山が歓送の辞を述べ、その後に乾杯が予定されていたのであり、しかも、この類の式典では官房長官は総理大臣よりも先に会場に入るのが通例であった(〈証拠略〉)から、いかに国会と会場のホテルが近いとしても、乙山が乾杯前に歓送の辞を述べる役回りでありながら、結団式に遅刻し、出席者の乾杯をお預けにする危険を冒してまで、もともと時間に余裕があれば出席しようと考えていた程度のリクルート謝恩の集いに出席するということは考え難い。さらに、A4秘書専門官の証言(〈証拠略〉)によれば、官房長官日程は乙山付きのSP(身辺警護担当の警察官)や運転手にも渡されており、予定を変更して出席する会合がある場合には、SPが事前に会場へ行って行動経路の安全を確認するのが通常の扱いであったと認められるから、その点からも、乙山のリクルート謝恩の集いへの出席は時間的に不可能であったというべきである。
(4) 弁護人は、乙山は、総理中国訪問結団式に出席した後、リクルート謝恩の集いに立ち寄ってから丑に赴いた可能性がある旨主張するが、留守番役の代表である官房長官が歓送の辞を述べた後、総理大臣や随員らと懇談せずに早々に退席するというのは考えにくいことである。しかも、歓送の辞を終えた時点では、リクルート謝恩の集いは既に午後七時の終了予定時刻間近になっており、移動時間を考えれば到着時には散会になっていることも懸念されたはずであるから、その段階で当初出席を予定していなかったものに出席しようと考えるというのも不合理である。仮に、乙山が丑における会合に遅刻してでも出席したいほどにリクルート謝恩の集いを重要視していたのであれば、当初からそのような日程を組んだはずであるし、さらに、無理を押してでもパーティーに出席するのであれば、単に招待されたにすぎないリクルート謝恩の集いよりも、発起人になっている○○関係の集いの方を優先しそうなものであるが、右(2)のとおり、乙山は○○関係の集いを欠席したのである。
(5) 加えて、リクルートの社内報である週刊リクルート第一〇六六号(五九年三月二二日号)には、リクルート謝恩の集いに関する記事が掲載され、その主要出席者として、文部大臣及び労働大臣並びに民間企業の社長又は会長の計一〇名の役職と氏名が記載されているが、官房長官という要職にある乙山の名前は記載されておらず(甲書1一〇八三)、乙山自身も右パーティーに出席した具体的な記憶はない旨供述している(〈証拠略〉)。
(6) 結局、R6らによる長官室訪問は乙山がリクルート謝恩の集いに出席したことに対してお礼をするためであったというR1の公判段階における右(一)の供述は、右に検討した事実関係に照らすと、信用することができない。
6 関連する弁護人の主張について
(一) 弁護人は、R6らが五九年三月二四日午後零時三五分ころに議員会館受付で面会手続をした後、乙山事務所で秘書と挨拶や名刺交換をし、トンネルを通るなどして国会内の官房長官室に移動する時間を考慮すると、乙山が午後零時五〇分開会の参議院予算委員会に出席する前にR6らと面会する時間は二、三分程度にすぎないし、国会内の官房長官室と内閣参事官室とは隣り合っており、その間のドアは通常は開放されていて、自由に出入りできる状態にあったから、そのような面談時間や面談場所の状況からして、R6らが請託の結果を確認するという用件で乙山と面談したとは考えられない旨主張する。
しかし、R6及びR22の捜査段階における各供述(右3(一)、4(一))は、新たに何かを依頼したというものではなく、被告人が数日前にした依頼についての乙山の対応を確認したというのであって、事情説明等に時間を要するものではなく、両名の供述する面談の内容もごく短時間で済む程度のものであったから、時間的にも場所的にも不相応ということはできない。
(二) 弁護人は、五九年三月二四日の段階では、同月二一日のG2人事院任用局長とL1日経連専務理事との会談も済み、公務員試験の日程の繰上げと引換えに人事課長会議で申合せをすることが既定方針とされていたのであるから、被告人がした請託のフォローアップをする必要はなく、かつ、同日以前に、L1が被告人に対し被告人の提案した公務員試験の日程の繰下げ案が考慮する価値のないものであることを伝え、R6らがL2日経連雇用課長から公務員試験の日程の繰上げ案を巡って叱責されたという出来事もあったのであるから、フォローアップの動きをすることはあり得ない旨主張する。
しかし、関係証拠によっても、五九年三月二四日の段階で、同月二一日のG2とL1との合意の内容が公表されていたとか、あるいは被告人やR6らが右合意の内容を把握していたと認めるべき事情は窺われないから、被告人やR6らが当時の状況からして被告人の請託についての乙山の対応を確認する必要がないと判断したという主張は、前提を欠くものである。
また、L1が被告人に対し連絡をしたか否かは証拠上明白でないものの、R6らがL2日経連雇用課長から叱責を受けた事実は、本節第二の四3のとおり認められるところ、右事情からは、R6らが再度公務員試験の日程の繰下げを求める請託をすることは不合理であるといい得るものの、被告人がした請託についての乙山の対応を確認することが不合理であるということはできない。
(三) 弁護人は、リクルートの社内文書には、請託の結果を確認するためにR6らが訪問したという報告がなされたことを示す記載が見当たらないことに照らし、R6及びR22の捜査段階における各供述(右3(一)、4(一))は信用することができない旨主張する。
しかし、乙山を訪問したのは事業部担当の取締役、事業部長及び社長室秘書課長であるから、そもそも事業部内で上司に対し文書で報告する必要はなかったし、被告人に対しては、担当取締役のR6又は秘書課長のR1から口頭で報告すれば足りることであったから、その報告を記載した文書が作成されなかったからといって不自然ではなく、また、仮に作成されたとしても、捜索までの間に処分することも容易であったから、そのような文書が存在しないことはR6及びR22の捜査段階における右各供述の信用性を左右する事情ではない。
7 小括
R6らによる長官室訪問はリクルート謝恩の集いに乙山が出席したことに対してお礼をするためであったとするR1の公判段階における右5(一)の供述は、右5(三)のとおり、証拠関係に照らすと、信用することができないのに対し、被告人のお願いの結果を確認するためであったとするR22の捜査段階における右4(一)の供述は、十分に信用することができ、また、R6の捜査段階における右3(一)の供述も、一部に客観的事実と反する部分や曖昧な部分があるとはいえ、R22の供述と大筋で合致していることからすると、被告人の指示を受けて請託の結果を確認したことを認める部分は、やはり信用することができる。
したがって、五九年三月二四日におけるR6らの長官室訪問の面談の内容については、R6及びR22の捜査段階における右各供述により、右2(一)のとおり認定することができる。
六 まとめ
1  公邸訪問時における乙山との会談の内容に関する被告人の供述の評価
被告人の各検面調書は、本節第二の三5で検討したとおり、その取調べ及び供述過程において任意性や信用性に疑いを抱かせるような事情があったとはいえない上、その供述については、
①  その際の会談の内容は、被告人と乙山しか知らない事項であり、乙山は、捜査段階において、公邸で被告人と会ったこと自体を否定しているのである(〈証拠略〉)から、被告人を取り調べた検察官が乙山との会話の内容を作出し、誘導するということは、そもそも困難であること、
②  被告人が供述する会談の内容は、前節第二の二1で認定したリクルートの事業と就職協定との関係、すなわち、被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料収入の減少や計画的な発行・配本業務に支障が生じて、同事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたことに照らすと、自然かつ合理的なものであること、
③  被告人の供述する会談の内容は、本節第二の二で認定した五九年三月当時の公務員試験の日程や官庁の青田買いを巡るリクルート内部の検討状況、すなわち、被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、同月一三日までに、人事院が公務員試験の最終合格者の発表日を従前の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることを企図して日経連と折衝しており、交渉に当たっていたG1人事院企画課長ら官庁側の担当者とL2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日以前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官であった乙山に働きかけることを決定したという状況を前提とすると、自然かつ合理的なものであること、
④  被告人の供述は、本節第二の五のとおり、R6らが被告人の指示を受けた上、五九年三月二四日に乙山と面談して被告人の請託の結果を確認した事実により裏付けられていること、
⑤  被告人の供述は、本節第二の四で認定した公邸訪問後における被告人や乙山らの実際の動き、すなわち、被告人がL1日経連専務理事と面談した内容、乙山がG2人事院任用局長に電話して公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由について問い合わせたこと、L2日経連雇用課長の所にリクルート関係者が公務員試験の日程に関する書類を方々の企業の担当者に持ち歩いているという情報が入り、同課長がR6らを叱責した状況、乙山がI2内閣参事官に対し公務員試験の合格発表日の繰上げについて質問し、I2が実現の方向にあるという返答をしたところ、乙山が「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、I2から人事課長会議における申合せの予定について説明を受けたこと、I2が乙山の了承を得た上で五九年度人事課長会議申合せをしたこと、乙山がI2から官庁の青田買いを巡る報道について報告を受けた際、I2に対し十分注意するように指示したことなどの各事実によっても、一部裏付けられていること
を指摘することができ、これらを総合すれば、公邸における乙山との会談の内容に関する被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)には十分な信用性が認められるのに対し、これと相反する公判段階における供述(本節第二の三2)は信用することができない。
2 乙山の供述について
(一) 乙山の供述
乙山は、捜査段階において、公邸で民間の人に会うことはなく、被告人と公邸で面談したことはない旨供述していたが、公判段階においては、被告人の供述を否定する積極的な記憶も理由もないので、五九年三月に公邸で被告人の訪問を受けたことはあったかなと思うが、何かものを頼まれたという関係では全くない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) 乙山の供述の評価
乙山は、五四年ころから、リクルート主催のシンポジウム、パーティーや、リクルートの取締役会に出席して講演するなどしたことから、被告人と面識を持ち、五九年三月には、被告人が乙山の後援会である「a1会」に入会し、同年四月には一緒にゴルフをするなどして関係を深めており(本節第一の二1)、また、五七年秋ころからは、リクルートから、パーティー券の購入や秘書の給与の負担等で多額の資金援助を受けていた(本節第一の二2)のであるから、そのような有力な後援者であった被告人が公邸に訪問してきて面談したという事実があれば、会話の詳細はともかく、会談の事実自体については具体的な記憶が残っていて然るべきであるのに、右(一)のとおり、捜査段階においては、被告人と公邸で面談したこと自体を否定し、公判段階においても、その点について曖昧な供述をするほか、リクルート関係者との接触や資金援助の全般についても、いろんなパーティーに出ており、経理に関することはすべてA1秘書に任せていたので具体的な記憶はないなどとして、曖昧な供述に終始している(〈証拠略〉)。このような乙山の供述態度からすると、乙山は、被告人を含むリクルート関係者との接触やリクルートからの資金援助について曖昧な供述をすることにより、陳情の内容や資金援助に関する弁解を求められることを避けようとしているものと推測せざるを得ず、その供述はおよそ信用することができない。
3 関連する弁護人の主張について
(一) L1メモについて
弁護人は、被告人が乙山と会談した際、公務員試験の日程の繰下げについて話題にしたのみであったことは、L1メモの内容からも裏付けられる旨主張する。
しかし、L1メモは、被告人の話のうちL1が直ちに理解できなかった事項をL2日経連雇用課長に問い合わせるために作成したものであり(〈証拠略〉)、L1が被告人から聞いた内容をすべて記載したとは限らない。また、そもそも、被告人が乙山との会談の全貌をL1に報告したとは限らず、被告人が日経連に行動を起こしてほしい点だけを話したということ、すなわち、公務員試験の日程を繰り下げる方向で日経連から政府に陳情してもらうべく、その問題に的を絞って、L1に話し、もともと民間企業側が要求していた官庁の青田買い防止の件には触れなかったということも十分に考えられるのである。
したがって、L1メモの記載は被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
(二) 公務員試験の日程の繰下げが実現した場合の青田買い防止策の必要性について
弁護人は、被告人が考えたように公務員試験の日程の繰下げが実現すれば、制度的に公務員の青田買いを防止できるのであり、観念的、精神的な努力目標にすぎない人事課長会議申合せのような青田買い防止の方策は必要としなくなるのであるから、被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)は信用し得ない旨主張する。
確かに、当時、公務員試験の受験者が、八月上、中旬に実施されていた第二次試験の実施後、合格発表前に省庁を訪問するという実態があったところ(〈証拠略〉)、仮に、被告人が意図したとおり第二次試験の実施日を一〇月一日以降に繰り下げた場合に、学生がその受験後に省庁を訪問するのであれば、就職協定による会社訪問が解禁された後のことであるから、民間の就職協定の遵守に影響を与えないことになる。
しかし、そのような繰下げが実現した場合であっても、第二次試験の実施前に、大学の夏休みを利用するなどして各省庁の人事担当者と卒業予定の学生とが接触し、その際に人事担当者が最終合格を条件として採用することを示唆する言動をすれば、やはり、民間の就職協定の遵守に悪影響を与えることが予想されるのであるから、公務員試験の日程が繰り下げられたとしても、人事課長会議申合せ等の公務員の青田買い防止策が不要になるものではない。
(三) 人事課長会議申合せが被告人の公邸訪問と無関係である旨の主張について
弁護人は、五九年度人事課長会議申合せは、人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げるための条件として、G1人事院企画課長らの独自の発想の下で日経連に示した上、人事院から人事課長会議に働きかけが行われ、成立に至ったものであって、リクルートや被告人の動きとは無関係であり、被告人が乙山を公邸に訪問した五九年三月一五日の時点では、G1やL2日経連雇用課長にとって、人事課長会議申合せと引換えに公務員試験の日程を繰り上げることは既定方針になっていた旨主張する。
確かに、L2日経連雇用課長自身は、五九年三月一三日ころの段階で、人事院からの申入れを受け入れる方向で心積もりをした上、同月一六日の中雇対協幹事会にG1を出席させることや、同月二一日にL1日経連専務理事がG2人事院任用局長と会談することを予定しており、本節第二の四3のとおり、同月一五日にR6らを叱責したのも、リクルートがL2日経連雇用課長の心積もりと矛盾する動きをしていたことに対する憤懣からであったと認められるが(〈証拠略〉)、他方で、日経連等の経済三団体の幹部がG1に対し、国の行政機関が就職協定の趣旨を尊重することを条件として公務員試験の合格発表日の繰上げについて基本的な了解を与えたのは同月一六日であり(前節第一の三5)、G1を補佐して日経連等との折衝を担当していたG3企画課員が同月一五日にL2日経連雇用課長と懇談した際には、L2日経連雇用課長は、なお公務員試験の合格発表日の繰上げについて民間企業側の賛同を得られずに苦労している状況であったのであるから(〈証拠略〉)、同日朝に被告人が乙山と会談した時点では、人事課長会議で就職協定を遵守する申合せがなされることが確実といえる段階には至っていなかったのである。
また、被告人の公邸訪問と五九年度人事課長会議申合せとの関係については、本節第二の四2、4のとおり、乙山が五九年三月一五日ころにG2人事院任用局長に電話をかけて公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせた際、官庁側も一〇―一一協定に合わせるということで理解を得つつあるという説明を受け、同月一九日にI2内閣参事官に質問した際、人事課長会議における申合せの予定について説明を受け、I2は、その後、乙山の了承を得た上、人事課長会議で申合せをしたのであるから、被告人の動きと右申合せが無関係であるということはできない。
確かに、公邸訪問以前の人事院側の担当者とL2日経連雇用課長との折衝状況等からすると、被告人が乙山に対し公務員の青田買い防止の善処方を働きかけなくても、人事課長会議で申合せがなされる可能性が高かったということができる。しかし、リクルートとしては、本節第二の二で認定したとおり、公務員試験の合格発表日の繰上げを実現しようとする人事院等の動きに抗して、政治家を通じた働きかけをすることで、公務員試験の日程を繰り下げることを企図していたのであり、仮に右企図が奏功して、合格発表日を繰り上げる動きが頓挫すれば、その繰上げについて民間企業側の了解を得るための方策として提示された官庁側の就職協定を遵守する申合せも実現が危うくなり、官庁の青田買い問題が未解決のまま残ることが予想される状況にあったのであるから、被告人が乙山に対し青田買い防止の善処方を請託することは、不合理ではない。
なお、弁護人は、L2日経連雇用課長がR6らを叱責したことからも、「被告人の行動が、結果的に日経連の意向に反するものであったこと、つまり、『申合せ』にみられる公務員の青田買い防止の施策に向けられていたものではなかったことは明らか」であると主張するところ、公務員試験の日程の繰下げを求める被告人の行動が官庁側の就職協定を遵守する申合せと引換えに公務員試験の合格発表日の繰上げを容認しようとするL2日経連雇用課長の意向に反するものであったことは確かであるが、そのことから、被告人の行動が公務員の青田買い防止の施策に向けられたものでなかったと主張するのは、論理の飛躍である。
(四) 公邸訪問時の同行者について
弁護人は、被告人が、公判段階において、五九年三月の公邸訪問にはR7が同行した旨供述するところ、右供述は、被告人を送迎した運転手のR25(以下「R25」という。)の供述や、被告人の出発を見送ったR1及びR26(以下「R26」という。)の供述とも合致するから十分に信用することができ、一人で乙山を訪問したという被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)は信用し得ない旨主張する。
しかし、R7が五九年三月の被告人の公邸訪問に同行しておらず、六〇年三月ころにR8とともに乙山を訪問したことは、後記本節第三で認定するとおりであり、同行者に関する被告人の公判段階における右供述も信用することができない。
(五) 乙山とG2人事院任用局長との電話について
弁護人は、乙山が五九年三月一五日ころにG2人事院任用局長へ電話した際、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせたのみであり、官庁側も一〇―一一協定に合わせるということで理解を得つつあるというG2の説明に対しても、具体的内容を問い質したりせず、特別の関心を示さなかったのであり、そのことは被告人と乙山との間で官庁の青田買い防止の請託がなかったことを示す旨主張する。
この点、乙山とG2との電話の内容は、本節第二の四2のとおりであり、確かに、乙山からG2に対し官庁の青田買い防止を働きかける発言はなされていないが、乙山としては、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせたのに対し、局長であったG2から一応の合理性のある理由を説明され、日経連とも前向きに話が進んでいる旨聞いたことから、その段階で合格発表日の繰上げの話を取りやめにして被告人から聞いた公務員試験の日程の繰下げ案の検討を求めることは不適当であると判断し、かつ、乙山が官庁の青田買い防止策の検討を求める前に、G2が官庁側も一〇―一一協定に合わせる旨話したことから、そうであれば、それ以上に人事院に対し官庁の青田買い防止策の検討を求める必要もないと判断して、特段の質問や要望をしなかったということは、十分に合理的なことである。
したがって、乙山とG2との電話の内容が右のとおりであったことは、乙山に対し官庁の青田買い防止策についても依頼したとする被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性を左右するものではない。
(六) 乙山とI2内閣参事官との会話について
弁護人は、乙山は、I2内閣参事官と公務員試験の日程を巡る話をした際、人事課長会議における申合せの具体的内容を確認する質問をしておらず、そのことは、乙山が人事課長会議申合せに無関心であったこと、ひいては被告人から乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託がなかったことを示す旨主張する。
この点、乙山とI2との会話の内容は、本節第二の四4のとおりであり、乙山からI2に対し官庁の青田買い防止を働きかける発言がなされたわけではないが、乙山は、I2に対し公務員試験の日程の繰上げについて質問し、I2から合格発表日の繰上げが実現する方向にあるという返答を得たのに対し、「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、I2から、近く人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをするつもりであるという説明を受けたのであるから、乙山としては、G2からの説明に加えて、内閣参事官で、人事課長会議の主宰者でもあったI2から右説明を受けたことで、被告人から聞いた事柄のうち、公務員試験の日程の繰下げについては実現の余地がないが、官庁の青田買い防止については、各省庁の人事担当課長が集まる人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをすることで十分な対策になると判断して、それ以上に特段の質問や要望をしなかったということは、十分に合理的なことである。
したがって、乙山とI2との会話の内容が右の程度であったことは、乙山に対し官庁の青田買い防止策についても依頼したとする被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性を左右するものではない。
(七) リクルートの社内文書の記載について
弁護人は、被告人が乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を請託したのであれば、その後の取締役会で人事課長会議申合せや被告人と乙山との面談の内容が話題になって当然であるのに、前節第一の三6のサンケイ新聞の報道がなされた五九年四月二七日当日に開催されたリクルートのじっくり取締役会議の議事録(甲書1五一一)には、「協定関連」の表題の下で、「マスコミタイアップ」、「国会質問」、「業界・企業への自粛要請」、「文部省アプローチ」等の記載がありながら、人事課長会議や被告人と乙山との面談のことは何ら記載されておらず、再度乙山を通じて人事課長会議に申合せの実効性確保の要請をするなどの方策が検討された形跡もない上、その後の就職協定関連のリクルートの社内文書(甲書1五一三、五一五)にも、人事課長会議申合せや被告人と乙山との面談の内容に関する記載がなく、このような申合せに対する無関心は、被告人から乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託がなかったことを示す旨主張する。
しかし、右議事録(甲書1五一一)や社内文書(甲書1五一三、五一五)は、その記載自体から、今後の方針として確認された事項を整理して記載したものであり、人事課長会議や被告人と乙山との面談に関する記載がないからといって、それらの事柄が話題にもならなかったといえないことは明らかである。むしろ、次節で認定するとおり、リクルートでは、通産省や労働省が青田買いをした旨の新聞報道がなされると、取締役会等でこれを検討し、五九年五月から八月にかけて、丙川二郎衆議院議員に働きかけて、国会で官庁の青田買いにつき追及して政府に人事課長会議申合せ遵守の徹底方を求めてほしい旨要請し、二度にわたって衆議院文教委員会で質問してもらい、うち一度は、リクルートにおいて被告人自身も関与して人事課長会議申合せにも触れた質問案を作成して同議員に渡した事実が認められるのであり、このことからすると、リクルートが官庁の青田買い問題に強い関心を持ち続け、かつ人事課長会議申合せを重視していたことが明らかであるから、弁護人の主張は理由がない。
4 結論
右のとおり信用性の認められる本節第二の三1の被告人の各検面調書によれば、被告人は、五九年三月一五日に公邸を訪問した際、乙山に対し、公務員試験の合格発表日の繰下げのみならず、民間企業において就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が公務員の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことに一因があるので、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をしたことが認められる。
なお、本件公訴事実には、被告人が、右請託に際し、就職協定が存続・遵守されないとリクルートの新規学卒者向け就職情報誌の発行・配本等の事業に多大の支障を来す旨の説明をしたという記載もあるところ、被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)には、「公務員の青田買いの問題が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっていて、又、私共も非常に困っております」と話したという記載があるが、右一文から、被告人が乙山に対する請託に際し、就職協定が存続・遵守されないとリクルートの新規学卒者向け就職情報誌の発行・配本等の事業に多大の支障を来すという説明をしたとまで認定することは困難であり、他に右説明をした事実を認めるに足りる証拠はない。
そこで、被告人は、五九年三月一五日の公邸訪問の際、判示第一の二①の請託(本節中において、以下「第一請託」という。)をしたものと認定した。
第三 六〇年三月ころの請託の存在について
一 問題の所在
被告人、R8及びR7の捜査段階における各供述を見ると、被告人は、六〇年三月ころ、R8とR7に対し乙山に公務員の青田買い防止等をお願いするように指示して乙山を訪問させた旨供述し、R8は、同月ころ、被告人から右趣旨の指示を受け、R7とともに乙山を議員会館か公邸に訪問して右趣旨の依頼をした旨供述し、R7は、同月初旬ころ、被告人の指示を受け、R8とともに乙山を公邸に訪問して右趣旨の依頼をした旨供述している。
これに対し、公判段階においては、被告人及びR8は、右指示や訪問を否定する供述をし、R7も、公邸に行った時期が五九年か六〇年かは明確でなく、同行者がR8ではなく被告人であった可能性もある旨の供述をしており、弁護人は、これらの供述に基づき、R7が公邸を訪問したのは五九年三月に被告人が公邸を訪問した際の同行者としてであって、六〇年三月ころに被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問した事実はない旨主張する。
そこで、以下、前節第一の四、第二の四で認定した右時期前後の就職協定を巡る状況やリクルートの動きも踏まえつつ、右訪問の事実及び請託の有無に関する関係者の各供述等を検討し、判示第一の二②の請託(本節中において、以下「第二請託」といい、第一請託と合わせて「本件各請託」ともいう。)を認定した根拠を説明する。
二 R8、R7及び被告人の捜査段階における各供述
1 R8の供述
(一) R8の元年五月一九日付け検面調書(甲書1一三一)
R8は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて、六〇年三月ころの乙山との面談につき詳述しているが、その内容は次のとおりである。
「昭和六〇年の三月ころに、甲野から私とR7が乙山先生への陳情を指示されたと思うのです。」「私とR7が甲野の執務している社長室に呼ばれました。〔中略〕応接セットに私とR7が座りますと、甲野は、『昨年は私がお願いしてきたのですが、今年も官庁の青田買いについては、乙山先生にお願いしたいと思いますので、行ってきてくれませんか。臨教審で青田買いを取り上げてもらうことができないかどうかもお願いしてきてくれませんか。』という意味のことを言ったのでした。甲野からこのような指示を受けて、乙山先生に各省庁の青田買いを自粛するようにお願いすることは昨年と同じでありますから、簡単にお話しできると思いましたが、臨教審で青田買いを取り上げていただくことについての話の持ち出し方については、乙山先生が文部省の政務次官を歴任されて文教族の一人と言われ、その方面の造詣も深いと思われたことから、大変だと思いました。」
「甲野がこのような乙山先生への陳情を私に指示したのは、一つには、私が事業部担当の役員をしていた当時にセミナーや取締役会に来ていただいてお話しをしていただいた際に、私がアテンドとして乙山先生と比較的顔見知りであること、二つ目は、このような難しい場面には、私が適任だと信用していたためだと思いました。甲野から指示されたことを果たさなければならず、臨教審の関係での説明方法をいろいろ考えて悩んだのを覚えています。」
「私とR7が甲野の指示のあと間もなくのころに、二人で乙山先生にお会いしました。お会いした場所については、議員会館でだったような気もしますが、あるいは、官房長官の公邸であったかも知れません。いずれにせよ、私とR7が昭和六〇年の三月ころに、甲野の指示で乙山先生にお会いしたことは間違いありません。」
「青田買いの関係については、『就職協定が守られず、就職秩序が混乱しています。産業界から官庁の青田買いが混乱の種と言われています。私どもが申し上げることではないかも知れませんが、昨年と同じようにお願いします。』という意味のことを言ったように思います。各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申し合わせをさせて欲しいということまでは申し上げるまでもなく、十分御承知いただけるものと思いましたし、乙山先生というりっぱな方にそんな生々しい話もできませんので、この程度の話にとどめたと思うのです。乙山先生は黙って聞いておられ、うなずいておられました。臨教審の関係については、それまでどのように話せばいいのか、いろいろ考えていたのでしたが、臨教審では教育の基本問題を検討すると理解していましたので、青田買い問題などをどのようにドッキングさせるのが良いのかということについての考えが今ひとつまとまりませんでしたし、いざ話そうとしたときには、緊張してしまい、考えていたことの一〇分の一も話せませんでした。私が話したことは、『臨教審では、学歴社会の是正についても御検討いただいているとうけたまわっております。先生に申し上げるのも憚れるのでございますが、企業が大学生を採用する際に有名大学に在学しているということだけで、採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を資料にしないで青田買いに出ることが、大学教育に影を落とし、国民の教育観をゆがめているように思うのです。このような観点から、青田買いの問題などを臨教審でお取り上げいただければと思います。』というものでした。〔中略〕乙山先生は、このような私の話をじっと聞いて下さり、うなずいておられたのでした。同席していたR7は、余り話さなかったように思います。なにか資料のようなものを持参したかどうかについては、よく覚えておりません。時間にしてせいぜい一〇分程度であったと思うのです。大役が終ってホッとしたのを覚えています。」
「リクルートに帰ってから、『行ってまいりました。』という程度の報告を甲野にしたと思います。」
「その年の四月初旬から中旬ころの間に、なにかのときに顔を合わせたR7から、『官公庁の青田買いの件は昨年同様になりました。』という意味のことを言われました。それは、R7が、そのことについて私が陳情したことから関心があるだろうということで、おしえてくれたものだと思うのです。私は、乙山先生にお願いしたことで、乙山先生が御尽力して下さったものだと思ったのでした。また、六月の初旬ころには、臨教審の答申の中に、学歴社会の是正として、指定校制や青田買いの問題が取り上げられたのを知りました。この答申を受けて、教育改革推進閣僚会議を設置することが閣議で決定されました。答申に盛り込んでいただいたことや、閣僚会議の設置などについても、乙山先生の御配慮があったためだと感謝した次第です。」
(二) 右の点に関するR8の供述経過
右(一)の供述に先立つR8の元年四月二四日付け検面調書(甲書1六三二)には、「私は現段階において具体的なやりとりを詳しく思い出せないので、断定的には申し上げられませんが、私が就職協定の件で乙山官房長官にお願いに上がったことはまず間違いないと思います。当時の状況からしてそのようなことがあったと思うのですが、五年前後も前のことでもあり明確な記憶がよみがえらないのです。」「乙山官房長官に会ったのは五九年春頃のことではないかという気がします。」「この〔公務員採用の〕問題について甲野ら私達役員は、会議で話し合いました。〔中略〕官の公務員採用は各省庁にまたがる問題でしたので、官房長官の職務に関係する事項と考え、乙山官房長官に、各省庁の人事担当者らに就職協定に悪影響を及ぼすような活動をさせないように働きかけてもらおうとリクルートでは決めたという記憶です。」「乙山官房長官にお願いすることを決めたのは、この人事担当者会議の前頃だったように思います。乙山官房長官と親しかったのは甲野ですが、その他の役員でつながりがあったのは、私、R7でしたので、私が乙山官房長官にお願いに上がったように思います。R7も一緒だったかもしれません。」という供述が記載されている。
その後の元年四月二七日付け検面調書(甲書1六三三)には、「これ〔甲書1五一〇〕は、当時の取締役会で話題になったことが記載されているものです。」「この取締役会では、政治的な結局をつけるという方向が打ち出されたのでした。一つは、各省庁が青田買いをしないように、それぞれの人事担当者に働きかけてもらうよう各省庁を束ねている内閣官房長官に陳情すること、もう一つは、試験日をずらすよう人事院の方に働きかけてもらうよう官房長官にお願いするということでありました。乙山代議士は、以前、労働大臣をされたことがあり、リクルートで就職協定問題などについてセミナーを持っていただいたことがありました。そのセミナーへの出席と、出席していただいたことのお礼の件で、当時広告事業本部の担当役員であった私と事業部長でありましたR7とが大手町にあった労働省で乙山労働大臣に二度お会いしたという経過がありました。〔中略〕私とR7が乙山官房長官とは、先程申し上げたようないきさつから、面識がありましたので、二人が陳情に行く担当となったのです。私の記憶では、昭和五九年の三月ころに議員会館の方に行ったように記憶しております。検察官から、総理大臣官邸の方に行ったのではないかとの質問を受けておりますが、その記憶はないのです。私とR7とで議員会館で乙山官房長官にお会いした記憶があり、私達二人が乙山官房長官に直接、『各省庁の人事担当者に青田買いをしないように手配していただけませんか。』ということと、『公務員試験の日程を繰り下げるということはできないでしょうか。』という二つのことをお願いしました。」という供述が記載されている。
また、R8の元年五月一三日付け検面調書(甲書1六三五)には、「昭和六〇年の二〜三月ころだったと思いますが、私とR7さんとで、乙山官房長官に陳情したと思うのです。私の発案で行ったというものではなかったと思いますので、甲野からの指示だった筈です。私とR7さんが乙山官房長官にお会いし、今年も前の年と同じように青田買いをしないことを各省の人事担当の方にお話ししていただきたいということと、青田買いと就職協定の問題は大学生の学業専念という立場からも重要なことなので、臨教審で取り上げていただきたいという意味のことをお話ししたように思います。」「私とR7が訪問したところは、乙山先生の議員会館ではなかったかという気がしますが、首相官邸だったかも知れません。」という供述が記載されている。
2 R7の供述
(一) R7の検面調書
R7は、元年五月一五日の検察官の取調べにおいて、「私とR8が官房長官公邸に行った具体的な日時はよく憶えていませんが、昭和六〇年三月初旬頃の〔中略〕I3・甲野会談があった前後頃だったと思いますが、私とR8は、甲野から呼ばれ、『この前の取締役会で決まったように、乙山先生に青田買いのことでお願いに行ってくれないか。』などと臨教審のことや官庁の青田買い問題のことで乙山さんにお願いに行ってくるようにと言われました。」「そこで、私とR8のどちらがアポイントをとったか憶えておりませんが、事前に乙山さん側に連絡をしたところ、官房長官公邸に来て欲しいということであったので、R8と二人で官房長官公邸を尋ねました。」「R8は、乙山さんに対し、『臨教審で青田買いのことを御審議いただいていますが、ありがとうございます。青田買いの現状はとてもひどいもので、昨年も通産省や労働省がフライングをしております。本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうか。また、臨教審の方でもよろしくお願い致します。』などと、要するに、乙山さんの力添えで、官庁が青田買いをしないようにたがをしめていただきたいとか、臨教審の答申の中で青田買いが学歴社会の弊害の一因になっていることを盛り込んでいただきたいとお願いしたのでした。」と供述し(甲書1五七八)、元年五月一七日(甲書1一二三)及び同月二一日(甲書1一二九)の検察官の取調べにおいても、同趣旨の供述をするほか、同月一九日の検察官の取調べにおいて、その経緯、状況につき、次のとおり詳述している(甲書1一二四)。
「確か昭和六〇年三月初旬頃であったと記憶していますが、私とR8は、甲野から社長室に呼ばれました。私とR8が社長室に行きますと、甲野は、私とR8に『どうぞ。』と言って、社長室の応接セットのソファに座るように命じました。甲野は、普段部下を呼びつけて何か指示をする場合、部下を立たせたまま指示をすることが多いのですが、この日は甲野が私とR8に応接セットのソファに座るように命じましたので、甲野が私達に何か大事な用があるのだと思いました。私とR8が応接セットのソファに座わりますと、甲野も、私達に向かい合うようにして応接セットのソファに座わり、私とR8に『昨年は私がお願いに行っているが、乙山先生に会って、乙山先生の力添えで、昨年同様、官庁の青田買いを防止していただけないかということで、お願いに行ってくれないか。』とか、『この前の取締役会で決まったように、臨教審の答申の中に青田買いのことを盛り込んでいただければありがたいとお願いしてくれないか。』などと言いました。」
「私とR8が甲野から右のような指示を受けた時期は、昭和六〇年三月初旬頃に間違いないと思います。まず、私とR8が甲野から先程のような指示を受けた年度が昭和六〇年であるということは、甲野が私達に指示をした時の『昨年は私がお願いに行っているが。』との言葉からお判りいただけると思いますし、後でお話しするように、私とR8は、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬頃出た通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の写しを乙山さんの所に資料として持って行っておりますので、私とR8が甲野から先程のような指示を受け、官房長官公邸にお伺いしたのは、昭和五九年ではなく昭和六〇年に間違いありません。次に、私とR8が甲野から先程のような指示を受けた時期は、昭和六〇年三月初旬頃であったと思います。というのは、後でお話しするように、昭和六〇年四月一〇日に各省庁人事担当課長会議が開かれ、前年の各省庁人事担当課長会議の申し合わせどおり本年も引き続いて協力するとの申し合わせがなされましたが、私の記憶では、私とR8が甲野から乙山さんの所にお願いに行くようにと言われたのは、昭和六〇年四月一〇日の会議の約一ヶ月位前であったという記憶があるからです。また、〔中略〕I3・甲野会談は昭和六〇年三月二日に行われており、私とR8が甲野から先程のような指示をされたのがその会談の前であったか後であったか判らないものの、その会談の前後頃であったという記憶があるのです。」
「甲野が私とR8とで乙山さんの所に先程のようなお願いをして来いと指示した理由ですが、R8が元事業部担当の取締役をしており、私が事業部長としてR8の下で働いていたことがあり、以前は、R8―R7ラインで動いていたことがあり、乙山さんが労働大臣時代、R8と私が労働問題に関する講演を乙山さんに依頼をしに行ったことがありますので、そのようなことを知っていた甲野は、乙山さんと面識のあるR8と私が乙山さんにお願いするには適任であろうと考えたのだと思います。R8は元事業部担当の取締役をしていた関係もあって、就職協定のことについては詳しい上、R8は、周りの人から、『リクルートの外務大臣』と呼ばれるなど政治的折衝力にたけている人であったので、甲野は、乙山さんの所に先程のようなお願いをしに行く人物として、私の他R8を選んだのだと思います。」
「私とR8は、甲野から以上のような指示を受けましたので、乙山さんの所にお願いに上がることにしたのですが、R8から『乙山先生にお願いをする時に使うので、簡単な資料を作ってくれないか。』などと言われましたので、先程申し上げたように、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の切り抜きをコピーしたものをそろえたり、公務員試験の日程や現在の就職協定の期日、すなわち会社訪問開始日が何月何日で、採用選考開始日が何月何日で、求人票等の学生への提示が何月何日以降であるなどという資料を書面にしたためました。〔中略〕私は甲野から先程のような指示を受けた後、確か議員会館の乙山さんの事務所であったと思いますが、電話をして、電話口に出た人に『リクルートの社長室長のR7と申しますが、乙山先生にお会いしてお願いしたいことがあるのですが。』などと言いました。〔中略〕先方から『○月○日に官房長官公邸に来てほしい。』と言われましたので、官房長官公邸に行くこととなったのです。」
「私とR8が官房長官公邸を尋ねた日は、甲野から指示を受けた日ではなく、その数日後であったと記憶しています。その具体的な日時はよく憶えていませんが、昭和六〇年三月初旬頃の寒い日でした。そして、確か午前中に官房長官公邸に伺ったと記憶しています。私とR8は、官房長官に会う訳ですから、背広を着てびしっとした身なりで官房長官公邸に伺いました。私とR8は、リクルート本社から車に乗って官房長官公邸に行きましたが、社用車で行ったか、あるいはタクシーで行ったか、この点はよく憶えておりません。私はこれまで官房長官公邸に行ったことはなく、官房長官公邸に行くのはこの日が初めてでした。確か官房長官公邸玄関を開けてもらうまで門番などのチェックを受けたと思います。私とR8が官房長官公邸を尋ねますと、秘書の方が中に入れてくれました。その秘書の方は、先程お話ししたように、私が事前にアポイントをとっておりましたので、私達のことを待っていてくれたのではないかと思います。私とR8は、玄関を入り、確か玄関の右側にある会議用の大きなテーブルが置いてあった部屋に通されました。そして、秘書の方から『しばらく待っててください。』などと言われましたので、私とR8は会議用の大きなテーブルの前の椅子に座って乙山さんがいらっしゃるのを待っていました。その時、私はその部屋の中を見回したのですが、とても古い感じのする部屋で、その日はとても寒かった上に部屋の暖房がよくきいておらず、座っていてもすごく寒く感じたことを今でもよく憶えています。先程お話しした資料については、官房長官公邸に来る前は私が手に持っていましたが、乙山さんが私達のいる部屋にいらっしゃる前にR8に渡しておきました。」
「しばらく待っておりますと、乙山さんが奥の方から私達のいる部屋にやって来られましたが、その時、乙山さんは、背広を着ておられ、スリッパを履いておられました。私は、乙山さんが私達のいる部屋に入って来られましたので、椅子から立ち上がり、乙山さんに『お邪魔します。』と挨拶をしました。R8も、椅子から立ち上って同じような挨拶をしていたと思います。乙山さんは、私達が右のような挨拶をしますと、私達に椅子に座わるようにと言ってくれ、乙山さんも、私達に向かい合うようにしてテーブルの前の椅子に座られました。先程申し上げたように、私とR8が官房長官公邸を尋ねた日は寒い日で、公邸内は暖房がきいていないような気がしました。だから、私達は寒そうな格好で椅子に座っていたのだと思いますが、乙山さんは、そんな私達を見て、『この建物は古いので暖房が十分行き届かないんです。』などと言っていらっしゃいました。その後、R8は、甲野に指示されたように、乙山さんに対し、官庁の青田買い防止のことや臨教審のことでお願いをしました。R8は、乙山さんに『御多忙のところ申し訳ありません。』などと言った上、先程説明した昭和五九年四月下旬及び五月下旬の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の写しをお見せしながら、官庁の青田買い防止のことについては、『青田買いの現状はとてもひどいもので、昨年も通産省や労働省がフライングをしています。就職秩序を守らせることが学生や産業界の為になることであり、産業界は官庁が青田買いをしていることが混乱の原因になっているといっておりますので、本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうか。』などと、先程申し上げたような権限を持っていらっしゃる乙山官房長官の力添えで、官庁が青田買いをしないようにたがをしめていただきたいとお願いしました。R8は、臨教審のことについては、『臨教審で青田買いのことを御審議いただいていますが、ありがとうございます。企業が学生を採用する際に有名校に在学しているということだけで採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を参考にしないで青田買いをすることが大学教育に影を落し、教育に対する価値感をゆがめている原因の一つになっているのではないかと思うのです。このような観点から、指定校制の問題と青田買いの問題を取り上げて答申に盛り込んでいただければありがたいのですが。』などと、先程申し上げたような権限を持っていらっしゃる乙山さんの力添えで、臨教審答申の中で青田買いが学歴社会の弊害の一因になっていることを盛り込んでいただきたいとお願いしました。このようにR8は、甲野の指示どおりに、乙山さんにお願いをした訳ですが、私は、R8が右のようなお願いをしている時、頭を振って相槌を打ちましたが、何も言いませんでした。もちろん、私はR8と一緒に乙山さんにお願いをしているという気持ちは持っていましたが、R8が乙山さんにいろいろお願いしておりましたし、R8にまかせておけば私がいちいち口をはさむ必要もないと考えたので、何も言わなかったのです。乙山さんは、R8の説明を『そうですか、そうですか。』などと言って熱心に聞いておられ、私共のお願いに対し、『考えてみましょう。』などとおっしゃってくれました。乙山さんがそのようなことをおっしゃってくれましたので、私とR8は、乙山さんに『よろしくお願い致します。』などと言って椅子から立ち上がり、公邸を去りました。確か、乙山さんは私達を玄関の所まで見送ってくださったと記憶しています。私とR8が官房長官公邸にどの位いたかはっきり憶えていませんが、だいたい一〇分位いたと思います。」
「私とR8が官房長官公邸に行って乙山さんに右のようなお願いをした状況については、会社に戻ってR8と一緒に甲野に報告致しました。すなわち、私とR8は、甲野の部屋に行き、R8が『乙山先生に官庁の青田買い防止のことや臨教審答申の中で青田買い防止を盛り込んでいただければありがたいと頼んだところ、乙山先生は考えてみましょうとおっしゃっていました。』などと報告しておりました。甲野は、私達に『御苦労様。』と言っておりました。」
(二) 右の点に関するR7の供述経過
右(一)の供述に先立つR7の元年四月一〇日付け検面調書(甲書1六七九)には、「具体的な時期はよく憶えていませんが、私はリクルートのR8取締役と一緒に官房長官の公邸に行って乙山一郎官房長官とお会いしたことがありました。」「その用件については、確か就職協定問題のことであったと思いますが、リクルートは就職協定が存続されかつ遵守されることを望んでいたものの、通産省や労働省といった官庁がいわゆる青田買いをして就職協定の趣旨を逸脱するような行為をしておりましたので、官房長官である乙山さんに各省庁が就職協定を遵守するような通達を出すことが出来ないかとか、会議を開いて各省庁に就職協定を遵守するよう指導していただけないかとか、就職協定問題に関し各省庁のたがを締めることが出来ませんかというお願いをR8さんと一緒にしたと思います。」という供述が記載され、同月一六日付け検面調書(甲書1六八三)には、「私が乙山官房長官の所に官庁の青田買いのことでお伺いした時期がいつであったか、はっきり憶えていませんが、とても寒い日であったことをよく憶えており、昭和六〇年の一〜二月頃でなかったかと思います。私はR8さんと官房長官公邸に乙山官房長官を尋ねました。」「私達は就職協定に関する資料を持参した訳ですが、R8さんが乙山官房長官に対し、就職協定の歴史や現状、それに労働省や通産省が青田買いをしているということを資料に基づいて説明し、『各省庁の人事担当責任者の方を集めて会合を開いていただき、官庁が青田買いをしないように徹底していただけませんか。』などとお願いいたしました。」という供述が記載され、元年四月一九日付け検面調書(甲書1六八八)にも、「私自身六〇年一〜二月頃であったと思いますが、〔中略〕R8と一緒に乙山さんに会って官庁の青田買いを自粛してほしいとお願いに行っております」という供述が記載されている。
さらに、R7の元年五月一六日付け検面調書(甲書1六九四)にも、六〇年三月初旬ころ、R8と一緒に公邸に行って右(一)と同趣旨の依頼をした旨の供述が記載され、元年五月二〇日付け検面調書(甲書1六九五)にも、R8以外の者と乙山に陳情に行ったということはなく、陳情の場所が公邸であることについても、自分が公邸に行ったのはR8と一緒に乙山に陳情に行った一度きりであり、陳情の場所を間違うはずがない旨の供述が記載されている。
3 被告人の供述
(一) 被告人は、元年四月二二日の検察官の取調べにおいて、「昭和六〇年初めころのT会議においても、就職協定遵守のための方策が話題になりました。T会議で決まった方策というのは、ひとつには、主要経済団体にアプローチして協定遵守を呼びかけたり、適宜就職セミナーを開いて協定遵守を周知させるといった対策が出ており、また、D6文部大臣に陳情するということも決まった記憶です。さらに、そのころのT会議だった記憶ですが、官庁の青田買い防止のために乙山官房長官に陳情するという方針も出ました。D6文部大臣に対してはR6がアプローチを担当することになり、乙山官房長官についてはR8及びR7が担当しました。」「乙山官房長官については、私がR8及びR7に対して、『官房長官のところへ行って官庁の青田買いを防止するために何とかして欲しいということをお願いしてきてくれ。』などと言って指示しております。D6文部大臣や乙山官房長官へのこれら陳情については、私はそれぞれの担当者から、陳情してきた旨の報告を、後日、受けております。」と供述し(乙書1一〇)、元年四月二七日の検察官の取調べにおいては、「具体的にいつ頃の取締役会で決定されたのか正確な事は覚えておりませんが、乙山官房長官に対しては、各省庁が学生の青田買いをやっているので秩序ある公務員の採用活動をしてもらうべく関係各省庁への善処方をお願いするということを決めて、その後時期ははっきりしませんが、私の部下のR8専務、R7取締役らが乙山官房長官を訪ねて只今申し上げたような趣旨で就職協定が守られるよう善処方を要請したと聞いております。」と供述し(乙書1一二)、同月三〇日(乙書1一四)、同年五月六日(甲書1一六)、同月一三日(乙書1二四)及び同月一四日(甲書1二五)の検察官の取調べにおいても、繰り返し、六〇年春ころ、R8及びR7が乙山に対し官庁の青田買い防止を陳情した旨の供述をしている。
(二) 被告人は、また、元年五月一一日の検察官の取調べにおいて、「乙山一郎先生に対し、リクルートの取締役であったR8専務、R7取締役の両名が、取締役会の決定で、昭和六〇年二〜三月頃、就職協定の問題、具体的に言えば、公務員の青田買い防止等について善処方を陳情したことがありました。」「私共としては、この時迄の取締役会などで、臨教審の答申に青田買いの防止と就職協定の遵守存続が盛り込まれることが望ましいということで論じ合ったこともありましたが、乙山先生に対し、明らさまにそういうことをお願いしたつもりはな〔い〕」という供述をするが(乙書1二二)、元年五月一七日の検察官の取調べにおいては、「私共リクルートでは、昭和六〇年三月初旬頃にも、私の指示で、R8専務、R7取締役の両名が乙山官房長官に対して公務員の青田買いの防止や臨教審でのこの問題の取上げ(もし可能ならば)などにつき善処方を陳情した事実がありました。」と供述している(乙書1二六)。
さらに、元年五月一八日の検察官の取調べにおいては、「昭和六〇年の三月頃であったと思いますが、初旬であったか中旬であったかはっきりしませんが、いずれにしてもその頃、私はリクルート本社の一〇階にある私が居る社長室の応接室にR8とR7を呼び、『前の取締役会で決ったように乙山先生に公務員の青田買いを防止するということでお願いに行ってくれないか。』と頼みました。」「更に二人に対し、『臨教審の答申でも、もしその問題に触れてもらえればありがたいということで、乙山先生に頼んできてくれないか。』ということも指示をいたしました。」という供述をし(乙書1二七)、元年五月一九日の検察官の取調べにおいても、「昭和六〇年二月か三月ころと思いますが、取締役会で公務員の青田買いのことが話し合われ、その結果、私は、R7及びR8に指示して、乙山官房長官に会いに行かせております。これは、乙山官房長官に再度、公務員の青田買い防止等につき、お願いに行かせたのです。その際、R7らに対し、併せて公務員の青田買い防止の問題と臨教審との関連についてもお願いするよう指示しております。」という供述をしている(乙書1三〇)。
4 被告人の捜査段階における供述の任意性
(一) 弁護人の主張
弁護人は、右3の被告人の各検面調書記載の供述について、次の理由で任意性がない旨主張する。
(1) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)について
被告人は、R8及びR7に対し乙山に陳情するように指示した記憶はなかったが、P4検事は「取締役会議事録がある。理屈ではこうなる。R8、R7、R10らの調書もある。四月末までには捜査を終わらせるので調書に早く署名してほしい。」などと言って、調書に署名することを執拗に迫った。
被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で勾留されていた当時、その件が終われば早期に釈放されるであろうと期待していたが、同事件で起訴された後、新たに複数の政治家との関係等について追及を受け始めたことから、保釈の期待が崩れ、その精神的ショックに加え、いつまで捜査が継続し、身柄拘束を受けるのか分からない不安感と、自分の行く末はすべて検察官の手に握られているという絶望感から、自殺をしたい衝動にまで駆られる精神状態に陥った。
右状況の中で、被告人は、P4検事の追及に対し、全く抵抗力をなくしてしまい、右検面調書に署名することを余儀なくされた。
(2) 被告人の元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)について
I1内閣の退陣表明やI1の元秘書の自殺に関して、被告人は、I1政権を崩壊させた上、元秘書を自殺に追い込んだのは自分だという自責の念から、一層追い詰められた精神状態に陥った。
元年四月二七日の取調べにおいて、P2検事は、被告人の心理状態に付け込み、「丙川次郎、Yの他にI3か乙山をやりたい。どちらかをやらないと収まらない。特捜がここまで調べて、乙山代議士について新聞も大きく報道しているので、乙山さんに何もなかったということでいまさら引っ込むわけにいかない。早期解決、早期決着を図りたい。もしも乙山代議士について認めなければ、特捜は徹底して、E3ら関連する政治家を全部やる。そうすると、全面的な対決になり、捜査は長期化する。そうすれば、本当にリクルートはつぶれてしまう。政局も混乱する。早期解決、早期決着が大局的見地から見て得策だ、という観点に立って欲しい。その方がリクルートにとっても、日本の国にとっても、あなたにとってもプラスだと思う。早期決着すればあなたも早く出れる。」などと追い打ちをかけたため、被告人は、リクルートの行く末にますます不安を持ち、右検面調書に署名させられた。
(二) 取調状況に関する被告人の供述等
被告人は、公判段階において、検察官の取調べの際にR8らに対し乙山に請託するように指示した旨供述した理由に関し、弁護人の右(一)の主張に沿う供述をし、弁護人作成の元年八月一四日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八三)には、同年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)について右と同趣旨の記載があり、弁護人作成の同月二八日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1八六)及び弁護人作成の同年七月一二日付け報告書(被告人との面会結果を報告したもの。弁書1八四)には、同年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)について右と同趣旨の記載があるほか、弁護人作成の同年八月一六日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八五)にも、同検面調書やその他の調書にR8及びR7が乙山に請託したことを聞いていたという記載があるのは、検事から「R8とR7が、そのように言っている。取締役会の議事録にも、その旨の記載がある。」と言われてやむなく迎合したからであるという記載がある。
(三) 任意性に関する検討
確かに、本節第二の三5(一)のとおり、元年四月下旬当時の被告人の精神状態については、同年二月一三日に逮捕されてから約二か月半身柄を拘束され、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められる。
しかし、本節第二の三5(二)のとおり、乙山に贈賄したことに関する被告人の取調べは、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後、起訴後の勾留中の任意捜査として行われたものであり、その当時、被告人は、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていたのであるから、右のような事情があったからといって、検察官の取調べに対し意に反する供述をし、あるいは事実と異なる供述の記載された調書に署名することを余儀なくされたという被告人の公判段階における右(二)の供述は、信用性に乏しい。また、被告人は、右3(一)のとおり、同月二二日の検察官の取調べにおいて、R8及びR7に対し乙山に請託するように指示したことを認めているが、これは、同月二五日にI1首相が予算案成立後の内閣総辞職を表明し、同首相の元秘書が自殺する前のことであるから、それら出来事と右指示を認める被告人の供述との間に関連性がないことは明らかである。
さらに、右取調べ当時、弁護人は、ほぼ毎日、長時間にわたって、被告人と接見をし、接見内容の報告書を作成した上、公証役場で確定日付を得ていたところ(〈証拠略〉)、R8及びR7に対し乙山に請託するように指示したことを最初に認めた調書である元年四月二二日付け検面調書が作成された直後の報告書は証拠として請求されておらず、その点に触れた報告書は同月二八日付けのものが最初である上、いつ保釈されるか分からないという不安や自殺衝動等で検事に抵抗する気力がなくなったから供述したという点は、同年八月一四日付け陳述録取書に初めて記載されていることからすると、被告人の公判段階における右(二)の供述は、裏付けを欠き、信用性に乏しいものである。
したがって、右3の各検面調書の作成過程において、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
三 弁護人の主張と被告人及び関係者の公判段階における各供述
1 弁護人の主張
弁護人は、R8は一度も乙山を公邸に訪問したことがなく、R7も、実際は、五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した機会に同行したのであって、R7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))は時期と同行者を取り違えて供述したものであり、六〇年三月ころに被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問した事実はない旨主張する。
2 R8、R7及び被告人の公判段階における各供述
R8、R7及び被告人は、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における各供述(本節第三の二1、2、3)と異なる趣旨の供述をしている。
(一) R8の供述(〈証拠略〉)
六〇年に乙山と会ってお願い事をしたことはなく、同年中に乙山と会ったことすらない。
(二) R7の供述(〈証拠略〉)
誰かと一緒に乙山を公邸に訪問したこと自体は間違いなく、公邸には一度しか行ったことがない。しかし、それが五九年であったか六〇年であったか明確な記憶はない。
また、捜査段階においてR8と同行した旨供述したのは単なる思い込みによるものであり、同行者が誰であったか明確な記憶はなく、可能性がある者として、被告人を含む六名の上司がおり、R8ではないように思うが、R8である可能性も否定しきれない。
(三) 被告人の供述(〈証拠略〉)
六〇年三月ころにR8とR7に対し乙山に請託するように指示したことはなく、そもそも公邸に訪問するように指示したこともない。
五九年三月一五日に乙山を公邸に訪問した際は、R7と二人で行った。捜査段階においては、随行者の有無ははっきりしないと供述していたが、R7と行ったかもしれないという漠然とした感覚は持っていた。しかし、検事から、R7はR8と一緒に行ったと供述していると言われ、自分でも、R7と行ったという記憶もなかったので、調書上は一人で行ったということになった。ところが、公判準備のため弁護士と打合せをした席上で、R1に対し、自分はR7と行ったという記憶である旨話したところ、R1から、R1がアポイントメントを取って、R7と被告人がリクルート本社一〇階で待ち合わせをし、被告人の自動車にR7が一緒に乗って公邸へ行った旨言われ、その時の情景が思い浮かんだ。
3 五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した際の同行者に関する供述
五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した際の同行者については、リクルート関係者の次の趣旨の公判段階における各供述もある。
(一) R1の供述(〈証拠略〉)
被告人が乙山を訪問する三、四日前、被告人の指示で、A1に連絡してアポイントメントを取り、A1から乙山を訪問する日時、場所について指示を受けた。その後、R7がエスコート役として同行することになったので、R7に対し、公邸の入り方、場所のレイアウト、その他A1から言われたことを伝えた。
当日早朝にリクルート本社で待っていると、被告人とR7が出社してきて、両名が地下の車止めから公邸に向かうのをR26とともに見送った。社用車は私が手配し、R25が運転していた。被告人とR7が乙山を訪問した用件は、聞いていないので、知らなかった。
元年秋、リクルートの会議室において、弁護人が同席して、裁判の準備のため打合せをしていた機会に、被告人から五九年三月に乙山を訪問した際の同行者について尋ねられ、R7が一緒であった旨答えた。
(二) R25の供述(〈証拠略〉)
五六年一〇月以降、被告人専属の運転手をしていたが、被告人を乗せて公邸に出かけたことが一度だけあり、それは乙山が官房長官であった当時である。通常は朝九時半ころに被告人の自宅へ迎えに行っていたが、被告人が公邸に訪問した当日は、いつもより朝早く自宅に迎えに行き、おそらくは公邸に行く前にリクルート本社に寄ったと思う。
当日の同行者について、公邸まで送る際のことは思い出せないものの、公邸からの帰途に、誰かは思い出せないが、被告人のほかに一人を同乗させ、その人から「寄るところがある」と言われて、地下鉄霞ヶ関駅の入口で降ろした記憶がある。公邸でその人が乗る時に違和感を覚えなかったので、その人はリクルートの人で、行きにも乗せていたと思う。
(三) R26の供述(〈証拠略〉)
五八年六月から五九年四月までの間、社長室において被告人の身近で秘書的な仕事をしていたが、その間、被告人が午前九時の始業前に出社したことが二回ある。そのうち一回は、R1、R7、被告人の順に出社して、その三名が地下に降りていったので、私も同行し、R1とともに、被告人とR7が被告人の専用車で出かけるのを見送った。
4 乙山の供述(〈証拠略〉)
乙山は、R7やR8が公邸に来たという記憶はない旨供述している。
四 考察
1 就職協定を巡る状況等とR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述との符合
前節第一の三、第二の四で認定した六〇年前半当時にリクルートが置かれた就職協定を巡る客観的状況やリクルートの動き、特に、被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者が同年一月二一日のL1日経連専務理事の発言を受けて、就職協定が今後は廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、同月二三日ころの取締役会において、六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審関係者に右方向で働きかけをする旨合意したこと、実際に、R6が、そのころ、文部大臣を訪ねて、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明して、臨教審における議論の対象として取り上げてほしい旨陳情し、被告人が、臨教審の部会において、就職協定の遵守の重要性に触れた意見を述べ、リクルートの主催で、就職協定が遵守されるようにするために就職協定セミナーを開催し、同年四月から六月ころにかけても、事業部を中心に就職協定を巡る状況について情報収集活動に励んでいたことからすると、リクルートが、就職協定が廃止の方向に向かうことに対する危機感から、官庁の青田買い問題を含む就職協定の存続に影響を与える問題に深い関心を有し、その存続に向けた各種活動をしていたことが明らかであり、乙山に請託したことを巡るR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)は、そのような状況とよく符合している。
2 R8の供述について
(一) R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))は、乙山を訪問して官庁の青田買い防止の措置に関し依頼したことがあるということ自体については、元年四月二四日の検察官の取調べ以降一貫して認める内容になっているものの、乙山と面談した場所が曖昧であるほか、面談の時期について、同月中の取調べにおいては五九年三月ころと供述していたのが、元年五月一三日の検察官の取調べにおいて六〇年二、三月ころと供述が変わり、乙山に対する依頼の内容についても、元年四月中の取調べにおいては各省庁の人事担当者に青田買いをしないように手配してもらうことと公務員試験の日程を繰り下げることの二点と供述していたのが、同年五月一三日の検察官の取調べにおいて各省庁の人事担当者に青田買いをしないように話してもらうことと就職協定問題を臨教審で取り上げてもらうことの二点であったという供述に変遷している。
(二) R8は、公判段階においては、元年四月二四日付け検面調書(甲書1六三二)の記載は、乙山の所へ行った覚えがないという供述を繰り返していたところ、同月一七日ころ以降の取調べ中に、検察官から、R8とともに乙山に陳情したことを認めるR7の調書があると言われたり、R7の調書を読み聞かせられたりし、R7が供述をしているのに認めないのであれば毎日検察庁に来てもらうなどと言われ、さらに、同月二四日の検察官の取調べにおいては、「逮捕することになるぞ」、「君が否定し続けるならR8事件になるぞ。」などと言われ、R7とR8に指示をした旨の被告人の調書も読み聞かせられて、逮捕を避けるために、検察官が作文した調書に署名したものにすぎず、訪問の時期を五九年としたのも、検察官がR7の調書に合わせて勝手に記載したのであり、元年四月二七日付け検面調書(甲書1六三三)も、検察官の全くの作文であるが、検察官から心理的に脅され、捜査に協力しなければ自分の立場が厳しくなるというおそれから署名したものであり、同年五月一三日付け検面調書(甲書1六三五)も、検察官の作文であり、いったんは署名を拒んだものの、検察官に押し切られて署名したものにすぎないし、同月一九日付け検面調書(甲書1一三一)も、自分は具体的な供述をしていないのに、自分がパーティーに出席している間に検察官が作文した調書に、自己保身のために署名したにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
R8が検察官の取調べを受けた後に作成した書面(弁書1三二〜三五)には、①元年四月一〇日から一三日までの取調べにおいて、検察官から、五九年春ころに乙山を公邸に訪問して就職協定に関するお願いをしただろうと追及され、元年四月二四日の検察官の取調べにおいては、R7や被告人の供述調書の一部まで読み上げて厳しく迫られ、自分には公邸に行った記憶はなかったので、訪問していない旨一貫して述べていたが、検察官が一方的に同日付け供述調書を作成したこと(弁書1三二)、②自分は、乙山を公邸に訪問した際の情景や印象として何も思い出せなかったので、その旨主張したところ、検察官が「R8事件にするぞ」と言って迫ったため、新聞に名前が出たり、逮捕されることを恐れ、また、被告人もR7もその旨供述しているのならば自分一人が抵抗しても仕方ないと思い、署名したこと(弁書1三二)、③同月二七日の別な検察官の取調べにおいて、乙山に何かを頼みに行った記憶はない旨主張したが、検察官は、強引に同日付け供述調書を作成し、自分や家族の資産と預貯金の額を尋ねられ、前回の取調べで逮捕される恐怖を感じていたことに加えて、今職を失ったら食べていけるのかなどと言われて心胆を寒からしめられ、抵抗できずに署名したこと(弁書1三三)、④同年五月一三日の検察官の取調べにおいても、検察官から、R7と被告人の二人が明確に供述しているのだから間違いないし、表現を工夫するから調書作りに協力してくれないかなどと迫られて、不本意ながら署名したこと(弁書1三四)、⑤同月一九日の検察官の取調べの際も、乙山に対する陳情に同行した記憶は全くない旨述べたが、検察官から、R7がはっきりとR8と同行した旨供述しており、同行者はR8しか考えられないし、この調書は一〇〇分の一のウェートもないなどと言われて、不本意ながら署名したこと(弁書1三五)の記載があり、各調書の作成日の数日ないし十数日後の公証日付が付されており、同年九月に弁護人が作成した陳述録取書(R8の陳述を録取したもの。弁書1三六)にも同趣旨の記載がある。
(三) しかし、R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))には、一部曖昧な部分があるものの、他方で、検察官が誘導できるような内容ではなく、R8が供述しない限りは判明しない事項が随所に見られる。また、R8は、乙山に対し、官庁の青田買い防止策の話についてはスムーズに話すことができたが、臨教審の答申に青田買い問題を盛り込むことに関しては、どのように話すべきか悩んだなどと、実際の体験でなければ述べることが難しい具体的な供述もしており、その供述の内容自体からして、信用性が高い。
(四) さらに、R7及び被告人の各供述経過とR8の供述経過とを対比すると、R7は、R8とともに乙山を訪問した場所については、元年四月一〇日の検察官の取調べ以降一貫して公邸である旨供述し、時期についても、同月一六日及び同月一九日の検察官の取調べの段階で、六〇年一、二月ころであったと思う旨供述しており、被告人も、元年四月二二日の検察官の取調べの段階で、六〇年にR8とR7が乙山に対する陳情を担当した旨供述していたのに対し、R8の検面調書を見ると、場所については、元年四月二七日付け検面調書には議員会館、同年五月一三日付け検面調書には議員会館か首相官邸という記載があるのみで、公邸で会った可能性には触れられておらず、R7の供述との間で齟齬があるし、時期についても、R8の同年四月二四日付け及び同月二七日付け各検面調書には、五九年春のこととして記載されていて、R7及び被告人の各供述と齟齬している。
右齟齬からすると、R7や被告人が供述しているから認めろと迫られて検察官の作文に署名した旨のR8の弁解は信用し難く、むしろ、元年四月の検察官の取調べの段階で右齟齬があったことは、R8が検察官からの強要や誘導によってではなく、自己の記憶として乙山に請託したことを認める供述をしていたことを示すものということができる。
(五) 加えて、R8の公判段階における供述(〈証拠略〉)によれば、R8は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて供述した当時(本節第三の二1(一))、被疑者として逮捕されておらず、取調べの前後には弁護士と相談するなどして、自己の立場を守るべく、慎重な姿勢で取調べに臨んでいたことも認められるから、R8が被告人の指示を受けてR7とともに乙山と面談したことが一度もないという断定的な記憶があったのならば、捜査段階においてもその旨の供述を維持することが可能であったはずである。
(六) 結局、R8の公判段階における供述(本節第三の三2(一)、右(二))や供述書(右(二))等の記載は、R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
3 R7の供述について
(一) R7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))の内容は、具体的、詳細であり、臨場感に富んでいて、実際の体験者でなければ語ることが困難なものであり、その供述の内容自体からして、信用性が高い。また、乙山に対する依頼の内容として臨教審の関係に触れているのは元年五月一五日付け供述調書が初めてであるが、官庁の青田買い防止の措置に関する依頼については、同年四月一〇日の検察官の取調べ以降一貫してこれを認める供述をしている。
(二) 公邸訪問の時期に関するR7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))は、「I3・甲野会談があった前後頃」という具体的な根拠を示して、六〇年であることは間違いないというものである上、R7が根拠として挙げること以外にも、右供述では、乙山に対する依頼事項として、臨教審の答申に青田買い問題を盛り込んでもらうことに触れており、その点はR8及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、3)とも一致しているところ、前節第一の五のとおり、臨教審は、五九年八月に発足し、六〇年六月に第一次答申を出したのであるから、仮に、R7が五九年三月の公邸訪問の際の状況を取り違えて六〇年三月ころのこととして供述したとすれば、臨教審の答申の関係に触れるのは時期的に見て矛盾することである。
また、R7が五九年三月に被告人とともに乙山を公邸に訪問したとすれば、その際の陳情には、本節第二のとおり、公務員試験の日程の繰下げが官庁の青田買い防止の善処方と並ぶ重要な事項として含まれていたのであるから、陳情の内容に関するR7の捜査段階における供述に公務員試験の日程の繰下げに触れた部分があるのが自然であるのに、それに触れた部分は一切ない。このことは、R7の公邸訪問の時期が五九年三月の被告人の公邸訪問とは別の機会であったことを示唆するものである。
なお、弁護人は、R7の元年五月一九日付け検面調書には、乙山を訪問した際、「公務員試験の日程や就職協定の期日」の資料を書面にして持参した旨の供述記載があり、「公務員試験の日程」の語句は挿入により記載されたものであるところ、R7が公務員試験の日程に関する資料を持参したということは、乙山に公務員試験の日程に関して相談に行ったことを示すものであり、それはまさしく、時期的には五九年三月のことであるから、同行者は被告人であったことになる旨主張する。
しかし、R7の右供述記載は、「公務員試験の日程や就職協定の期日」の資料を持参したというものであって、「試験日程に関して相談に行った」などという供述記載は全くないし、公務員試験の日程と就職協定による会社訪問解禁日や採用選考開始日との関係は、官庁の青田買い防止を図る上で前提となる情報であるから、R7が捜査段階において供述する六〇年三月ころの請託(第二請託)の内容(本節第三の二2(一))と整合するものであり、弁護人の指摘する供述記載はR7の訪問が五九年三月であることの根拠になるものではない。
(三) R7が公判段階において公邸訪問の際の同行者につき供述する内容も、本節第三の三2(二)のとおり、被告人とR8を含む六人の上司のいずれかである可能性があるが、誰かは特定できないという曖昧なものであり(〈証拠略〉)、乙山を公邸に訪問したのは多分被告人の指示によるものと思うし、乙山と話したことは後で被告人に報告していたのではないかと思う旨の供述(〈証拠略〉)は、被告人に同行したこととは相容れないものである。
そして、公邸は、民間企業の社長室長であったR7にとって日常的には訪れる機会のない特殊な場所であり、R7自身も、捜査及び公判段階を通じ、公邸を訪問したのは一度のみである旨供述している。R7がそのような体験をした場合において、年月の経過に伴い、訪問の時期の記憶が曖昧になり、会話の詳細に関する記憶も曖昧になるのは、あり得ることではあるが、官房長官という要職にあった乙山を公邸という特殊な場所に訪問し、同行者が乙山に陳情する状況を同席して見聞きしたという経験をしながら、その同行者が、自分が社長室長として日ごろから仕えていた社長の被告人であったか、専務のR8であったかについて記憶が混乱するのは考え難いことである。したがって、R7が、実際に、五九年三月に被告人に同行して乙山を公邸に訪問したのであれば、捜査段階から被告人に同行した旨供述し、公判段階においてもその旨を明確に供述し得るはずであり、R7の公判段階における供述(本節第三の三2(二))のうち、公邸訪問の同行者が被告人である可能性を述べる部分は、それ自体不自然で、信用することができない。
4 被告人の供述について
(一) 被告人の捜査段階における供述(本節第三の二3)に任意性を疑うべき事情がないことは、本節第三の二4で検討したとおりである上、その供述の内容は、被告人自身にとっても、被告人が応援していた政治家である乙山にとっても不利益な事実であり、そのこと自体、右供述の信用性を支える重要な事情ということができる。
(二) 被告人の公判段階における供述のうち、五九年三月に乙山を公邸に訪問した際にR7が同行したという部分(本節第三の三2(三))は、起訴から三年以上を経た第一〇四回公判期日に至って唐突に言い出したものである。また、公判段階において供述している程度の事情で五九年三月にR7が同行した情景を思い出したというのであれば、捜査段階において公邸訪問の際の状況について検察官から種々取調べを受ける過程でも、同行者について思い出す契機は多々存したはずであるから、右供述は信用することができない。
5 R7と被告人が供述する面談場所の状況の相違について
乙山の公判段階における供述(〈証拠略〉)によれば、乙山が居住していた当時の公邸で外来者との応対に使用する部屋は、玄関正面にある会議室風の部屋とその右側の応接間の二室があったところ、前者は大きな応接用のテーブルを備えた二〇人以上の応接が可能な大きめの部屋であり、後者は中央に応接セットを備え、随行者用の堅い椅子も置いてある十数名の応接が可能な小さめの部屋であったことが認められる。
ところで、被告人は、捜査段階において、五九年三月に公邸を訪問した際に乙山と面談した部屋の状況について図面を作成しているが、その際、ソファー様のもの二脚とそれに挟まれた位置にテーブル様のものを描いており(〈証拠略〉)、公判段階においても、訪問の際は、応接間に案内され、高さの低い応接テーブルと比較的柔らかいソファーの椅子があった旨の供述をしている(〈証拠略〉)。一方、R7は、捜査段階において、六〇年三月ころに公邸を訪問した際の部屋の状況として作成した図面に、長方形の図形を描いて、「会議用のような大きいテーブル」という記載をし(〈証拠略〉)、公判段階においても、乙山と面談した部屋には長方形のテーブルとその両側に八個ずつくらいの椅子が並べて配置されており、応接セットはなかった旨供述している(〈証拠略〉)。以上からすると、被告人が乙山と面談した部屋は乙山の供述する応接間であり、R7が乙山と面談した部屋は乙山の供述する会議室風の部屋であったと認められる。
したがって、このことからも、被告人とR7は別々の機会に乙山を訪問したことが明らかである。
6 R1、R25及びR26の各供述等について
R1の公判段階における供述(本節第三の三3(一))は、五九年三月一五日に被告人が乙山を訪問した件について、乙山側と面会の予約を取るなどした経過や当日被告人が出かける際の状況に関し、R7が同行した点を含めて具体的、詳細であるのに対し、被告人が乙山を訪問した目的は知らなかったとするものである。しかし、R1は、本節第二の五で認定したとおり、同月二四日、被告人の指示により、R6及びR22とともに乙山を訪問して、被告人の請託についての乙山の対応を確認したのであるから、仮に被告人が乙山を訪問した目的を事前には知らなかったとしても、同日までには当然に承知していたはずであり、それにもかかわらず、R1が、被告人が乙山を訪問した目的を知らなかった旨述べ、その九日後にR6らとともに乙山を訪問した目的についても、本節第二の五5(一)のとおり、パーティーに出席したことに対するお礼であったなどと事実に反する供述をしていることからすると、リクルートから乙山へ働きかけたことに関するR1の公判段階における供述は全般的に信用性に乏しく、したがって、五九年三月一五日の訪問にR7が同行した旨の供述(本節第三の三3(一))も信用することができない。
次に、R26の公判段階における供述(本節第三の三3(三))については、確かに、その供述及びタイムカード(弁書1一四一)によれば、R26が五九年三月一五日に通常より早めの午前七時四八分に出勤したことが認められるが、被告人とR7を見送った状況に関するR26の右供述は、時期に関する点が曖昧であり、被告人が公邸を訪問した際の状況を語っていると認め得るようなものではない。
また、R25の公判段階における供述(本節第三の三3(二))は、被告人に同行した者が誰であったかは記憶がないというものであるが、同行者がいた根拠として、同行者が公邸から帰る途中で下車したことが記憶に残っているとするのに対し、R7自身は、乙山を公邸に訪問した後の帰りも上司と一緒に帰ったのではないかと思う旨供述しており(〈証拠略〉)、被告人が五九年三月に乙山を公邸に訪問した際の同行者がR7であったとすれば、両者の供述の間で齟齬があることになる。しかも、R25は、記憶にある公邸訪問の時期は、被告人が税制調査会の委員をしていた期間中に被告人とR1を乗せて首相官邸へ行き、昼食にカレーライスをごちそうになった時期と近接しており、一月離れていなかったと思う旨供述する(〈証拠略〉)ところ、被告人が税制調査会の特別委員に任命されたのは六〇年九月であり(本節第一の二1)、被告人が公邸を訪問してから約一年半後のことであるから、被告人を送迎した際の同行者に関するR25の供述(本節第三の三3(二))は、五九年三月の被告人の公邸訪問の際の状況についてではなく、別の送迎の機会と記憶を混同している可能性が高い。
したがって、R1、R25及びR26の各供述(本節第三の三3(一)、(二)、(三))は、六〇年三月ころにR8とR7が乙山を訪問して面談したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
7 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、前節第二の四1の「1/23T会議決定事項」と題する書面(甲書1五二〇)には、六〇年度人事課長会議申合せについて乙山に請託することを決めた記載がなく、そのことは、被告人らが乙山に対しそのような請託をしようとは考えていなかったことを示す旨主張する。
確かに、右書面には人事課長会議申合せ等の官庁の青田買い防止策に関する記載はないが、この書面は、そもそも、R10がR6から取締役会の決定事項を聞かされて、その内容を記載したものであって、議事録のように取締役会の決定事項のすべてが記載されているものではないのであるから、六〇年一月二三日ころの取締役会で人事課長会議申合せ等の公務員の青田買い防止に向けた対策も検討した上、事業部の担当取締役であったR6が、事業部の現場レベルで対応すべき事柄や、R6自身で対応する事柄のみをR10に伝え、それ以外の取締役や社長室で対応し、現場に知らせることが適当でない事柄については伝えなかったということも十分にあり得るところであるし、また、被告人が、右取締役会の際には官庁の青田買い防止策を話題にしなかったが、その後に前年同様に乙山に働きかけることを思いついてR8らに指示を与えたということも十分にあり得るところであるから、右書面に人事課長会議申合せ等の官庁の青田買い防止策に関する記載がないからといって、乙山に請託したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)の信用性に疑問を生じさせるものではない。
(二) 弁護人は、また、右(一)の「1/23T会議決定事項」と題する書面には、「協定(決め手なし)」と記載されており、このことはリクルートが人事課長会議における官庁の青田買い防止に関する申合せに格別の意義を感じていなかったことを示し、さらに、同申合せはもともと実効性がなく、そのことは、五九年四月、五月の通産省や労働省のいわゆるフライング(前節第一の三6)によって一層明らかになっていたのであるから、被告人がこの時期に乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託が必要と考えることはあり得ない旨主張する。
しかし、リクルートでは、次節で認定するとおり、五九年及び六〇年に、繰り返し丙川二郎衆議院議員に働きかけて、衆議院の委員会で官庁の青田買い防止を求める質疑をしてもらっていたところ、五九年六月及び八月の質疑の際には、被告人も関与した上、同年三月の人事課長会議申合せを重視した質問案を作成して丙川二郎に交付し、六〇年六月の質疑の際にも同年四月の人事課長会議申合せを重視した質疑をしてもらったのである。そのことからすると、被告人を含むリクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業関係者が人事課長会議申合せを重要視していたことが明らかであり、リクルートが人事課長会議申合せに格別の意義を感じていなかったとか、人事課長会議申合せに実効性がないから被告人が官庁の青田買い防止の善処方を求める請託が必要と考えることがあり得ないなどとはいえず、弁護人の右主張には理由がない。
(三) 弁護人は、前年同様に官庁の青田買い防止を請託するのであれば、前年の人事課長会議申合せが有り難かったというのであるから、被告人からR8らに対する指示も、単に官庁の青田買い防止を請託してくるようにという抽象的な指示ではなく、より具体的に人事課長会議で昨年同様の申合せをすることをお願いするように指示するのが自然であるのに、被告人、R8及びR7の各検面調書(本節第三の二3、1(一)、2(一))中の被告人の指示に関する部分は具体性がなく、かつ、R8の検面調書中の乙山に対する陳情の内容も非常に抽象的なものにとどまっているから、第二請託の事実を認めるには不十分である旨主張する。
しかし、被告人は、本節第二で認定したとおり、前年度に乙山に対し官庁の青田買い防止策について請託し、乙山の了承の下で五九年度人事課長会議申合せがなされた経緯があるのであり、官庁の青田買い防止策を依頼すれば、人事課長会議による申合せが頭に浮かぶのは容易なことであり、具体的な依頼がなくても不自然ではない。また、R8は、右の点に関し、「各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申し合わせをさせて欲しいということまでは申し上げるまでもなく十分御承知いただけるものと思いましたし、乙山先生というりっぱな方にそんな生々しい話もできませんので、この程度の話にとどめたと思うのです。」(甲書1一三一)と、その理由を具体的に供述しており、特に不自然ということはできない。
8 結論
以上のとおり、R8とR7が六〇年三月ころに被告人の指示を受けて乙山を訪問したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)は、それぞれに信用性が認められる上、三名の供述は、重要な点でよく符合しており、信用性を補強し合っているところ、これら各供述について、その信用性を疑うべき事情は特に存しない。
したがって、六〇年三月ころに被告人の指示によりR8とR7が乙山を訪問して面談し、その際に官庁の青田買いの防止策と臨教審の答申に青田買い問題を盛り込んでもらうことの二点を依頼した旨の右三名の捜査段階における各供述は十分に信用し得るものであり、また、右訪問の場所に関するR8の供述は曖昧であるが、R7が語る訪問先の公邸の状況や面談時の状況については、具体的、詳細で、臨場感に富むものであることからすると、訪問場所が公邸であるとするR7の供述も十分に信用し得るものであるから、その場所は公邸であったと認めることができ、結局、第二請託の事実を認定することができる。
第四 乙山に対するコスモス株の譲渡
一 A1名義によるコスモス株の譲渡
1 外形的な事実関係
六一年九月三〇日付けで、譲渡人名義をm4社、譲受人名義をA1とし、一株三〇〇〇円として、コスモス株一万株の株式売買約定書が作成された。また、同日付けで、譲渡人名義をm5社、譲受人名義をA1とし、一株三〇〇〇円として、コスモス株二〇〇〇株の株式売買約定書も作成された。
(〈証拠略〉)
2 問題の所在
被告人は、捜査段階において、右1のコスモス株のうち、譲渡人名義をm4社とする一万株は、被告人が乙山に譲渡したものと認めている(乙書1一二、一八)が、公判段階においては、自分が乙山を念頭に置きつつ乙山又は乙山事務所を一万株の譲渡の相手方として選定した旨供述して(〈証拠略〉)、自らが選定したことは認めながらも、譲渡の主体と相手方についてやや曖昧な供述をしている。他方、乙山は、自分がコスモス株を譲り受けたことはなく、A1名義で譲り受けた事実も知らなかった旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、一万二〇〇〇株のすべてを自分が譲り受けた旨供述している(〈証拠略〉)。
本件一連のコスモス株の譲渡人が被告人であったと認められることは、第一章第二の二2で判断したとおりであり、右一万株の譲渡についても同様である。
そこで、以下、譲渡の相手方について検討を加える。
二 関係証拠上明白な事実
1 A1名義によるコスモス株の譲渡とその売却を巡る事実関係
(一) 六一年九月中、下旬ころ、被告人から指示を受けたR1がR18に依頼して必要書類を準備した上、A1と連絡を取って○○ビル六〇二号室の乙山事務所に行き、持参した株式売買約定書等のコスモス株の譲渡に関する書類二組にA1の署名、押印をもらい、本節第四の一1のとおり、コスモス株一万株と同二〇〇〇株の各株式売買約定書を作成した。
(二) 一万二〇〇〇株のうち一万株の譲渡代金三〇〇〇万円については、六一年九月三〇日、ファーストファイナンスが「一時仮払金」としてm4社に支払い、同日、乙山事務所からファーストファイナンスに対し同額が振込送金されたが、その送金は後記3(三)の東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座からなされた。他方、二〇〇〇株分の代金六〇〇万円については、A1が、右(一)の際、ファーストファイナンスから同株を担保に六〇〇万円を借り入れる手続をし、同日、同社が右貸付金をコスモス株の譲渡代金としてm5社に振込送金して支払った。
(三) R1は、コスモス株の店頭登録日であった六一年一〇月三〇日の数日前に、A1と連絡を取ってコスモス株を売却するかどうかについて意向を聞き、売却するというA1の返答を受けて、同月三一日に大和証券において一万二〇〇〇株全部を売却する手配をし、それらは同日一株五二七〇円で売却された。
(四) 六一年一一月五日、右売却代金から委託手数料等を差し引いた額である六二四四万四三六〇円がA1の指定により第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座に入金された。
A1は、六一年一一月一〇日、右入金の中から六〇四万七一七八円を右六〇〇万円の借入金の元利金としてファーストファイナンスの口座に振込送金して完済し、残金の内から五五〇〇万円をA1名義で一か月満期の市場金利連動型預金(MMC)として運用し、同預金は同年一二月一〇日に満期となって、元利合計五五一一万九八八五円が右普通預金口座に入金された。
(〈証拠略〉)
2 乙山の自宅購入代金の支払等
乙山は、六〇年二月ころから東京都杉並区和泉〈番地略〉所在の土地建物を○○会館株式会社(以下「○○会館」という。)から賃借し、自宅として使用していたが、六一年一二月二〇日、○○会館との間で、その土地建物を代金合計一億三二三一万九七七四円で買い受ける売買契約を締結し、手付金二六〇〇万円及び内金二六〇〇万円の合計五二〇〇万円を支払ったところ、その支払には、第一勧業銀行亀戸支店大島出張所振出しの金額五二〇〇万円の自己宛小切手が使用されたが、この小切手は、同月一九日に同銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座から払い戻した五二〇〇万円を同銀行亀戸支店大島出張所の別段預金(自己宛小切手口)に入金して発行を受けたものである。
なお、その後、後記3(四)の大和証券本店営業部のA1名義の保護預り口座から五〇〇〇万円及び後記3(三)の東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座から三〇三一万九七七四円が右自宅購入代金の残金支払に充てられた。
また、第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座の残額は、A1が個人的用途に費消した。
(〈証拠略〉)
3 乙山事務所における資金管理状況
五七年ないし六三年当時、乙山事務所における資金管理は、次のとおり行われていた。
(一) 資金管理は、統括的立場にいたA1秘書の指示を受けて、A2秘書が担当していた。
(二) 五七年九月三〇日、東京銀行日比谷支店にA2名義の普通預金口座を、また、同年一一月一〇日、同支店にA2名義の定期預金口座をそれぞれ開設し、これらを乙山事務所の資金管理口座として使用し、乙山事務所の資金は、事務所内に置かれていた金庫と右両口座で保管し、管理していた。
(三) ところが、A2が自己の個人的用途に使用するクレジットカードの支払口座としても右(二)の普通預金口座を使用していたので、事務所経費と個人的支出とが混同するおそれが生じ、六一年三月一四日、右普通預金口座を解約し、新たに東京銀行日比谷支店にA1名義の普通預金口座を開設して事務所資金を移し替え、この口座を事務所資金管理口座として使用するようになり、この口座は、六三年三月一日に同支店に架空人である「A’1」名義の普通預金口座を開設するまで使用した。
(四) また、乙山事務所では、五九年一二月から六三年八月まで、大和証券本店営業部のA1名義の保護預り口座を利用して、頻繁に転換社債や新株の取引をするなどして、事務所資金を運用していた。
(〈証拠略〉)
三 被告人から乙山に電話でコスモス株の譲渡を持ちかけたことについて
1 R1の供述
R1は、乙山側に本件コスモス株の譲渡を持ちかけた際の状況につき、捜査及び公判段階において、それぞれ次のとおり供述している。
(一) R1の捜査段階における供述
(1) R1の元年四月五日付け検面調書(甲書1一七二)
「この時はたしか甲野さんから『乙山事務所へ行って手続をしてほしい。先方に一万二〇〇〇株お譲りする話ができている。この内一万株分は乙山先生側にお譲りすることになったが、譲り受け名義については秘書のA1さんにおまかせしているのでA1さんに聞いて手続をとってほしい。あとの二〇〇〇株の分はA1秘書個人にお渡しする分なので一万株分と二〇〇〇株分は書類を分けて持っていくようにしてもらいたい。またファイナンスを付けるかどうかについてもA1さんにおまかせしているからA1さんに聞いてやってほしい。』旨言われ、乙山先生の秘書のA1さんと事務手続をとるように指示されました。それで、私は、その直後、さっそく○○ビルの乙山事務所に電話をし、A1さんと連絡をとり合ったのです。私が電話をしたところ、すでに甲野さんの方から先方に話が行っていて、甲野さんが話してきた内容で全て了解が得られているようでありました。私がA1さんに『リクルートのR1ですが、すでに甲野から連絡がいっていると思いますが、コスモス株の譲渡手続にお伺いしたいので、御時間をいただけますか。』と言ったところ、A1は『判っています』などと言って、アポの日時をすぐに指定してくれました。」
(2) R1の元年四月二四日付け検面調書(甲書1一七三)
「これ〔コスモス株一万二〇〇〇株〕については甲野さんからこの内一万株分が乙山先生側の分であり、二〇〇〇株分がA1秘書個人の側のものである旨言われて、予めR18さんの方からその先生側の分とA1秘書個人側の分に分けて株式売買約定書を二種類用意してもらって、先方のA1秘書のところに手続に行ったことは間違いないのです。このリクルートコスモス株をこういった内容で譲渡することについてはすでに甲野さんの方から直接乙山側に話の持ち込みがなされ、先生側もその内容で全て了承済みであり、あとは手続をするばかりであるという前提で私が先方に伺がったのであり、私がそもそもの話を先方に持ち込んだということは決してありません。甲野さんの方も私に手続に行くように指示する際、すでに甲野さんが先方の乙山先生側に連絡して話をつけている旨言っており、それで私が手続に伺がったのであって、このことは絶対に間違いないのです。」
(二) R1の公判段階における供述(〈証拠略〉)
コスモス株の譲渡の相手方を選定した後、被告人に乙山側に対する連絡をどうするか確認したところ、被告人から「君がA1さんに話してくれ」と指示されたので、自席に戻った後、A1に電話してアポイントメントを取り、○○ビルの乙山事務所を訪問した。コスモス株一万株を乙山にお持ちいただきたいという話をすると、A1から自分の名義でいいかと尋ねられ、A1個人にも譲渡しないとまずいのではないかと思ったこともあって、名義のことをペンディングにしたまま、いったん会社に帰り、被告人に相談した。その結果、譲受人名義をA1とすることで了解を得るとともに、A1個人にも別に二〇〇〇株を譲渡することになった。その場で、被告人から、A1に電話をつなぐように指示されたので、電話をかけ、A1が電話口に出たところで被告人に替わり、被告人がA1に対し、コスモス株の譲受名義人はA1でかまわないということと、A1にも二〇〇〇株をお持ちいただきたいということを話して、電話を切った。その後、また自分がA1に電話をしてアポイントメントを取り、再度手続のために乙山事務所を訪ねた。
2 被告人の供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、コスモス株の譲渡を持ちかけた状況につき、逮捕前の検察官の取調べにおいては、A1に電話をした旨供述し、逮捕後の元年四月七日の検察官の取調べにおいても、同様の供述をしていたが(〈証拠略〉)、その後、同月一五日の検察官の取調べにおいて、自分がA1か乙山に電話をしたと供述を変更し(乙書1七)、同月二七日の検察官の取調べにおいては、自分がA1に電話して乙山に一万株、A1に二〇〇〇株のコスモス株を持ってもらいたいと話した旨供述し(乙書1一二)、最終的には、元年五月七日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(乙書1一八)。
「乙山先生に対しては、前に申し上げたように、昭和六一年九月中旬頃、私が株譲渡を発意して、多分その頃、私から直接乙山先生に、乙山事務所か議員会館かに電話をして、『近々リクルートコスモス株が店頭公開されますので、先生に一〇、〇〇〇株お持ちいただきたい。詳しくは、R1を先生の秘書の所へ行かせますので、よろしくお願いします。』と話をいたしました。先生は、了解してくれました。」
「私は、前回、A1秘書に私から電話をしたように申し上げましたが、よく考えてみると、乙山先生本人であったという気がいたします。」
(二) 被告人の公判段階における供述
これに対し、被告人は、公判段階(〈証拠略〉)においては、次の趣旨の供述をしている。
① コスモス株を乙山側に持ってもらうことについて、私が乙山本人と話したことはない。私は、R1にA1との電話をつながせた上、私が、この度コスモス株を店頭公開するに当たって株式をお持ちいただきたく、詳しくはR1を差し向けますのでよろしくお願いしますという話をして、R1に電話を替わった。R1がアポイントメントを取った上お邪魔して話をしたと思っている。電話の相手をA1にしたのは、それまでの経緯から、A1が乙山事務所の会計責任者であり、金のことはすべてA1がやっていて、乙山はタッチしていないと分かっていたからである。
② 私がA1と話をしたことについては、捜査段階においても記憶があったが、右の経緯であったことは、打合せの際、弁護士から、R1が電話を取り次いで私が話をし、その後またR1が電話に出たというのが真実のようだと言われたことを契機に思い出した。
③ 捜査段階においては、検察官から、I3元首相に対し就職協定関係の請託をしなかったという点は私の言い分を受け入れて、同元首相に対するコスモス株の譲渡については立件しないから、その代わりに丙川二郎から礼を言われたことと乙山に直接電話したことを認めるようにというネゴシエーションを迫られ、それに応じて、元年五月七日付け供述調書が作成された。
(三) 弁護人作成の報告書
元年五月八日に被告人と接見した弁護人が作成した報告書(弁書1九一)には、被告人が弁護人に述べたこととして、被告人が、同月七日のP2検事の取調べの際、コスモス株の件で電話をした相手はA1であり、乙山に直接電話をした覚えはない旨主張したが、P2検事から、コスモス株に関し直接乙山に電話をしたこと、六〇年三月二日ころの首相官邸における被告人と当時のI3首相との会談で就職協定に関するお願いをしたこと及び丙川二郎から資金援助に関しお礼を言われたことの三点について調書を取りたい旨言われ、「このような覚えはない。」と言ったところ、P2検事から「甲野―I3会談の際、就職協定を問題にしてお願いしたという点はなかったことにしてあげる。その代わり、あとの二つを認めなさい。これは三点セットだ。」と強く言われ、右申入れを容れないと、I3氏の件で更に責めたてられ、事実に反する調書が作成されることになって、I3氏に大変な迷惑をかけることになると考え、やむを得ず、残りの二つについては事実に反するにもかかわらず、心ならずもこれを認める調書に署名したという記載があり、同報告書には、元年五月九日の公証日付が付されている。
3 乙山側の供述
乙山は、公判段階において、コスモス株を乙山に譲渡したいという話を聞いたことはなく、A1名義による譲渡の事実も六三年に一連のコスモス株の譲渡が社会問題化した段階で初めて知ったにすぎない旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、捜査(甲書1八一八、一〇三六)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、R1から電話連絡があったのであって、被告人とやりとりをしたことはない旨供述している。
4 考察
(一) R1の元年四月五日の検察官の取調べに対する供述(本節第四の三1(一)(1))は、被告人が乙山に贈賄したという事件に関する取調べの初期の段階でしたものであるにもかかわらず、その内容は、具体的、詳細なものであるし、同月二四日の検察官の取調べに対する供述(本節第四の三1(一)(2))も含めて、R1の捜査段階における供述は、乙山に直接電話連絡をしたことを多少曖昧ながらも認める被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))とも符合しており、R1の取調べに当たったP6検事の証言に照らしても、信用性が高い。
(二) R1は、公判段階においては、被告人の指示を受け、自分が自席でA1に電話をしてアポイントメントを取った旨供述する(本節第四の三1(二))が、この供述は、R1にA1との電話をつながせてコスモス株の件でR1を差し向かせるなどと自分で話したという被告人の公判段階における供述(本節第四の三2(二))と矛盾する上、A1自身にもコスモス株を持たせることにした経緯に関し、R1が公判段階において供述するように具体的な記憶を保持しているのであれば、捜査段階においてもその旨供述できたはずであるのに、そのような供述をした形跡がないことからすると、R1の公判段階における右供述は信用し難い。
(三) 被告人は、コスモス株の譲渡に関し、数人の政治家には自ら直接電話連絡をした旨供述する上(〈証拠略〉)、乙山とは、ゴルフやパーティー、囲む会等で年平均八回から一〇回位は顔を合わせていて、親しい間柄にあり、気軽に話ができる関係にあって、直接電話をかけようと思えばかけられる関係にあった旨供述しており(〈証拠略〉)、右供述に加え、被告人が乙山に対し、小切手を供与したり、秘書の給与を負担するなどの形で多額の資金援助を続けており、社会的な知名度も高い会社のオーナー経営者であったことからすると、創業した会社の株式を店頭登録するに先立ち、乙山事務所に電話して自分でその株の譲渡を持ちかける場合、秘書のA1と電話で話すよりも、乙山本人と話す方が行動として自然である。
(四) A1は、捜査及び公判段階を通じ、一貫して、コスモス株の譲受けについて自分が直接やりとりしたのはR1であり、被告人とやりとりしたことはない旨供述するところ(本節第四の三3)、仮に被告人が公判段階において供述するように被告人が電話でA1と話してコスモス株の取得を持ちかけたのであれば、A1は、コスモス株の取引は自分がやったことで、乙山は一切関与していなかったという供述をしていたのであるから、その言い分を支える事実として、被告人から電話で持ちかけられたことを進んで供述するのが自然であり、A1がそのように供述をしていないことは、被告人の公判段階における供述(本節第四の三2(二))の信用性を疑わせる事情ということができる。
このことに加え、右(三)の被告人と乙山との関係をも併せ考えると、A1の供述のうち、コスモス株の譲渡に関して被告人とやりとりしなかったという点は、十分に信用することができる。
(五) なお、被告人は、公判段階においては、それまでの経緯から、金のことはすべてA1がやっていて、乙山はタッチしていないと分かっていたからA1に電話した旨供述するところ、確かに、例年どおりの献金をするについてその振込先等を打ち合わせるような場合であれば、当初から乙山事務所の統括的立場にいた秘書のA1に話をするのが自然なことであるが、本件は、創業した会社の株式を公開するに先立って特定の者に取得させ、株主になってもらうという特別な場合であるから、乙山が金のことに関与しないのが通常であるといっても、このような場合にまで当初から秘書に話をするというのは、被告人と乙山との関係も考慮すると、不合理なことである。
(六) 以上の各事情からすると、コスモス株の譲渡に当たって乙山に電話で連絡をしたことを曖昧ながら認める被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))や、被告人が連絡したことを前提に乙山側に一万株、A1に二〇〇〇株を譲渡することについてA1と話をするように被告人から指示されたというR1の捜査段階における供述(本節第四の三1(一))は十分に信用することができる。
したがって、被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に対し、A1との間で乙山にコスモス株一万株を譲渡する手続をするように指示したものと認められる。
四 コスモス株の売却代金の使途について
1 乙山が六一年一二月二〇日に購入した自宅の手付金及び内金合計五二〇〇万円の支払に、コスモス株の売却代金が振り込まれた第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座の預金を原資として振り出された小切手が使用されたこと(本節第四の二2)について、A1は、捜査(甲書1八二〇)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、手付金及び内金として五二〇〇万円を支払うことにしたのは、自分が購入代金約一億三〇〇〇万円の二割の二六〇〇万円を手付金とし、更に二割の二六〇〇万円を内金として支払おうと考えたものであって、当時、乙山には長女の結婚式の祝儀金がその程度残っていたと思っており、その金額がコスモス株一万株分の売却代金とほぼ一致したのは偶然にすぎない旨供述している。
しかし、コスモス株一万二〇〇〇株の売却代金から委託手数料等を差し引いた額である六二四四万四三六〇円のうち一万株分に相当する金額は五二〇三万円余りとなって、乙山の自宅の手付金及び内金合計五二〇〇万円とほぼ一致し、単なる偶然というには一致の程度が高い上、○○会館の専務取締役であったJ1の供述(甲書1七三一)によれば、契約時に五二〇〇万円を支払うことは、乙山に代わって売主側との交渉に当たっていたA1の申出により決まったと認められること、A1は、代金の約四割にも当たる高額の手付金及び内金を支払うことになった理由について、合理的理由を述べていないことなどの事情に照らすと、A1の右供述は信用することができず、むしろ、五二〇〇万円という金額は、コスモス株一万株分の売却代金約五二〇〇万円を念頭に置いて、乙山又はA1が決めたと考えるのが自然である。
2 関係証拠(〈証拠略〉)によれば、A1は、六一年一一月ころ、○○会館の親法人である学校法人○○学園のJ2秘書室長やJ1に対し、それまでは具体的な話がなかった乙山の自宅購入の件を突然申し出たことが認められるところ、この時期に自宅購入を決めた事情について、乙山やA1は合理的な説明をしておらず、乙山やA1がコスモス株の売却益を念頭に置いて、その時期に乙山の自宅を購入することを決めたとみるのが合理的である。
3 第一勧業銀行伊勢支店の口座に入金されたコスモス株の売却代金六二四四万円余りのうち五五〇〇万円が一か月満期のMMCで運用されたが、このように短期の運用がなされたのは、満期後速やかにそれを使う予定があったためであると推認できる。
4 乙山は、自宅購入代金の手付金及び内金五二〇〇万円の原資につき、公判段階において、六〇年秋の長女の結婚に際し、来場しなかった人の分を含めて一億円以上の祝い金が集まり、それを現金のまま持っていたので、六一年一二月三日、その中の五二〇〇万円を自宅購入代金の一部として現金でA1に渡した旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、捜査(甲書1八二〇)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、それに沿う供述をしている。
しかし、そもそも、娘の結婚に際して多額の祝い金が集まったというのであれば、後にお礼を述べたり、披露宴に来場しなかった人にお返しの品を贈ったりすることに備えて、相手方の氏名や金額を記録するのが社会的な常識と思われるところ、乙山(同人を被告人とする受託収賄被告事件は一審段階で本件被告人と併合して審理されていた。)からは、多額の祝い金の受領を裏付ける証拠は提出されておらず、原資に関する乙山及びA1の右各供述は客観的な裏付けを欠くものである。
また、仮に、乙山が供述するように手持ち資金の中から五二〇〇万円を用意したのであれば、それで直接自宅購入代金の手付金等を支払えば足り、コスモス株の売却代金が振り込まれたA1名義の口座にある五二〇〇万円を原資とする小切手を使用する必要はないはずである。その事情について、A1は、現金よりも小切手を持参する方が安全で便利であると考えて、第一勧業銀行から小切手を振り出してもらった旨説明するが(〈証拠略〉)、仮に小切手が安全で便利であると考えたとしても、乙山から渡された現金を乙山の個人口座や乙山事務所で管理する口座のある銀行に持ち込んで自己宛小切手を振り出してもらえば済むはずであって、A1の右説明は合理的なものではない。
さらに、乙山がA1に渡したとする現金五二〇〇万円について、A1は、A2に頼んで乙山事務所の金庫に保管してもらった上、A2に対し、乙山の自宅購入代金は自分の口座に入っている金を小切手にして払うので、乙山から預かった金のうち、三〇〇〇万円を自分の事務所からの借金の返済として事務所へ戻し、二二〇〇万円を金庫に預かってくれるように話し、その後、六一年一二月二二日ころに自分の転換社債取引のために事務所から三〇〇〇万円を借りたため、A2から、金庫に保管されている右二二〇〇万円を事務所の会計に戻すように言われて、同月下旬にそのように処理した旨供述するが(甲書1八二〇)、右の流れを裏付ける客観的な資料は存しない。
したがって、乙山がコスモス株の売却代金を原資とする小切手とは別に、自ら五二〇〇万円を用意したという乙山及びA1の供述は、およそ信用することができない。
5 以上を総合すれば、乙山がコスモス株一万株の売却代金の大部分に当たる五二〇〇万円を自宅購入代金の手付金及び内金の支払に充てたことが認められる。
五 結論(コスモス株一万株を譲渡した相手方が乙山であること)
以上の事実、特に、①被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に対し、A1との間で乙山に一万株を譲渡する手続をするように指示したこと、②R1とA1は、一万株分と二〇〇〇株分という二組のコスモス株の譲渡の関係書類を作成し、その代金も、一万株分については乙山事務所の資金管理口座から支払われ、二〇〇〇株分についてはA1がファーストファイナンスから融資を受けて支払ったのであり、両者は明らかに区別した取扱いがなされていたこと、③コスモス株の売却代金はA1名義の銀行口座に入金されたが、乙山は、右入金を原資として銀行から発行を受けた五二〇〇万円の自己宛小切手により自宅購入代金の手付金及び内金を支払ったのであり、右五二〇〇万円はコスモス株一万株分の売却代金にほぼ相当することからすると、コスモス株一万株の譲渡の相手方は乙山であったとする被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))やR1の捜査及び公判段階における供述(本節第四の三1)は十分に信用することができ、他方、A1が一万二〇〇〇株全部の譲受人であったとするA1の供述(本節第四の一2)や、その譲受けに関与しておらず、A1名義でコスモス株を譲り受けたことも知らなかったという乙山の供述(本節第四の一2、三3)は信用することができない。
したがって、本節第四の一1のコスモス株一万株の譲渡の相手方は乙山であり、乙山はそのことを承知していたものと認められる。
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性
一 問題の所在
被告人は、捜査段階において、乙山に対するコスモス株の譲渡に本件各請託に係る報酬の趣旨が含まれていたことを認める供述をしているが、公判段階においては、本件各請託とは関係のない政治献金であった旨供述し、弁護人も、コスモス株は、従前の政治献金と同様に、純粋に乙山の政治活動に役立ててもらいたいという思いで譲渡されたものである旨主張する。
そこで、以下、乙山に対するコスモス株の譲渡が本件各請託に係る報酬としてなされたものと認められるかどうかについて検討する。
二 被告人の供述
1 被告人の捜査段階における供述
被告人は、元年四月二七日の検察官の取調べにおいて、「乙山元官房長官に対しては、リクルートが就職協定の問題について、色々お願いしたことや、私の政府税調特別委員への選任等につき官房長官として関与されたことなど、そういう関係もあって、コスモス株の譲渡を行なったものであります。」と供述し(乙書1一二)、同月三〇日の検察官の取調べにおいても、乙山に対し公務員の青田買いについて善処方を請託した経緯やその状況を供述した後、「本日申し上げたような乙山先生に対して就職協定等のお願いをしたような関係もあって、先生に対し前回申し上げたようにリクルートコスモス株一万株を譲渡したのです。」と供述している(乙書1一四)。
2 被告人の捜査段階における供述の任意性について
弁護人は、本節第三の二4(一)(2)、第二の三3(二)のとおり、元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)及び同月三〇日付け検面調書(乙書1一四)に記載された被告人の供述には任意性がない旨主張するが、これらの検面調書の作成過程において供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるといえないことは、本節第三の二4(三)、第二の三5(二)のとおりである。
3 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、乙山にコスモス株を持ってもらったのは、乙山が将来の日本を背負って立つ政治家の一人であり、乙山が自民党政権を支えていけば日本の政治が良くなると考え、そのために資金的な援助をすることが経済人としての社会的な使命であると考えたからである旨供述している(〈証拠略〉)。
三 乙山に対し小切手を供与した状況とその趣旨
1 検討の趣旨
検察官は、被告人が乙山に対し、五九年八月から六〇年一二月までの間、四回にわたり、本件各請託に係る報酬として小切手を交付した旨主張し、弁護人は、これらの小切手の供与も従前からの定期的な政治献金の一環であって、本件各請託との関連性はなく、乙山に対するコスモス株の譲渡もその流れの中で行われたものである旨主張する。
被告人は四回の小切手の供与について起訴されているものではないが、これらの小切手を供与した状況やその趣旨は、コスモス株の譲渡の趣旨を判断する上で間接的ながら意味を持つので、以下、検討を加える。
2 リクルート及び関連会社から乙山に対し小切手が供与された状況
被告人は、本節第一の二2のパーティー券を購入したことや秘書の給与を負担したことなどに加え、次のとおり、乙山に対し小切手を供与していた。そして、リクルートやリクルートの関連会社名義で乙山に対し小切手を供与していたことが被告人の意向に基づくものであったことは、被告人自身が認め、関係証拠上も明らかな事実である。
(一) 五九年三月の第一請託以前の時期
リクルートから乙山に対する小切手の供与は、検察官が請託に係る報酬と主張するものが初めてではなく、被告人は、五八年一一月二八日ころにも、被告人がリクルートの代表取締役として振り出した金額五〇〇万円の小切手を乙山に交付していた。この小切手は、同月二九日、三菱銀行麹町支店「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座に入金され、乙山事務所から同月二八日付けで、「a3会」、「a4会」、「a5会」、「a6会」及び「a7会」の五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(〈証拠略〉)
(二) 五九年三月の第一請託後六〇年末までの時期
(1) 五九年八月一〇日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額二〇〇万円の小切手と、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額三〇〇万円の小切手を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二三日、東京銀行日比谷支店のA2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から「a3会」、「a8会」、「a4会」、「a5会」及び「a9会」の五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(2) 五九年一二月一九日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手三通と、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手二通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二一日、右A2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(3) 六〇年六月二六日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手五通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二八日、右A2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(4) 六〇年一二月五日ころ、被告人は、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手五通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月六日、東京銀行日比谷支店のA2名義の普通預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(5) なお、当時の政治資金規正法によれば、同一の者から政治団体に対する寄附が年間一〇〇万円を超えると、寄附をした者の氏名等を記載した報告書を自治大臣に提出することが義務づけられていたため、乙山事務所では、その記載を免れるため、一〇〇万円を超える献金の大部分は、一〇〇万円以下に分割して乙山の複数の政治団体で受け入れる取扱いをし、政治献金があった際には、A2がその処理に当たって複数の政治団体名義の領収証を発行していた。右(1)ないし(4)の各小切手の供与に際して複数の政治団体名義で一〇〇万円ずつの領収証が発行されたのも、このような乙山事務所の事情によるものであった。
(〈証拠略〉)
(三) 六一年以降の時期
(1) 被告人は、六一年六月九日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手一〇通を、六二年七月一六日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手三通を、同年一二月三日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手五通を、同月二六日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手五通をそれぞれ乙山に交付し、これらの小切手は、各交付日ころ、東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座に入金された。
(2) 被告人は、六三年六月一七日ころ、被告人個人が振り出した金額一五〇〇万円の小切手一通を乙山に交付し、同月二二日ころ、リクルートコスモス振出しの金額三〇〇万円の小切手一通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二三日、東京銀行日比谷支店のA’1名義の普通預金口座に入金された。
(〈証拠略〉)
3 小切手の供与の趣旨に関する被告人の供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
(1) 被告人の元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)
被告人は、元年五月一三日の検察官の取調べにおいて、五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与につき、次のとおり、消極的ながらも賄賂性を認める供述をしている。
「乙山先生に対し、五〇〇万円というような多額のお金を盆、暮という形で私共から差し上げるようになったのは、昭和五九年の八月が最初であります。昭和五九年八月に乙山先生に五〇〇万円を差し上げる少し前頃に、どこでだったか場所は忘れましたが、私から乙山先生に対し、『今後、盆、暮合わせて一、〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。』と話しましたところ、乙山先生は、『どうもありがとうございます。』とお礼を言われました。以上の次第ですので、乙山先生御自身は、私共の方から以上申し上げたような五〇〇万円の金を四回差し上げていることは充分承知されていると思います。」「昭和五九年三月中旬頃、官房長官公邸に赴きまして、乙山先生に対し、就職協定に関する問題、具体的に言いますと、公務員の青田買いの問題につきまして、これが防止されるよう官房長官の立場から各省庁のとりまとめなどの善処方をお願いした事実があります。そして、その五ヶ月後である昭和五九年八月、私共から乙山先生に対し、五〇〇万円を差し上げ、更に、その年の一二月に同様に五〇〇万円を差し上げている訳でありますから、その謝礼というふうに認められるかも知れませんが、私としましては、盆、暮のいわゆる政治献金ということで出したものであります。先に申し上げた請託のお礼の要素が無かったのかと言われれば、これを否定することは出来ませんが、私の気持ちとしては、乙山先生は、将来総理大臣までもなられる方と思っておりましたので、その政治的大成を願って、財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。これらのお金に請託のお礼の要素が少しはあったことは認めます。次に、私共リクルートでは、昭和六〇年三月初旬頃にも、私の指示で、R8専務、R7取締役が乙山官房長官に対し、私が前に行なったのと同様に、公務員の青田買いの防止等就職協定の問題等について、再度官房長官としての善処方を陳情した事実があります。そして、その三ヶ月後の昭和六〇年六月下旬頃、私共から乙山先生に対し五〇〇万円を差し上げ、更に、その年の一二月に同様に五〇〇万円を差し上げている訳です。ですから、これらのお金は、その請託の謝礼そのものと見られるかも知れませんが、私としましては、盆、暮のいわゆる政治献金ということで出しているものであります。しかしながら、この請託のお礼の要素が全く無かったのかと言われれば、これを否定することは出来ず、そういう含みがあったことは事実です。」
(2) 被告人の元年五月一七日付け検面調書(乙書1二六)
被告人は、元年五月一七日の検察官の取調べにおいても、五九年及び六〇年に乙山に対し合計二〇〇〇万円の小切手を供与した理由は、「ひとつは、政治家乙山先生に対するいわゆる政治献金的な意味、もうひとつは、私共リクルートが官房長官である乙山先生に対し、公務員の青田買い等の問題について官房長官の立場から善処方をお願いしたことのお礼の意味などでありました。」「私共が乙山先生に対し、今申し上げたお願いごとをした謝礼の意味もこのお金に含まれていたことは間違いありません。」と請託に係る謝礼の趣旨が含まれていることを認めた上、「しかしながら、私の気持としましては、乙山先生は、将来総理大臣にまでもなられる立派な方と思っておりましたので、その政治的大成を願って財政的なバックアップをしようという気持が強かったのです。つまり、いわゆる政治献金という要素が強いお金であったということを申し上げたいのであります。」「私は、乙山先生を将来の日本を背負って立っていかれる政治家であると考え、尊敬をしておりましたので、こういう人にいわゆる政治献金を差し上げたいという気持があって出したものであることを充分御理解願いたいと思います。」と供述している。
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、乙山に対する資金援助につき、不確かな記憶ながら、五七年一一月の乙山の出版記念パーティーの席であったと思うが、乙山に対し、秘書の給与の負担の件とともに、盆暮れに政治献金をさせていただきたいという話をし、以後、政治献金の一環として小切手を供与してきたものであり、その供与に本件各請託に係る謝礼の趣旨は含まれていなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
4 被告人の捜査段階における供述の任意性について
(一) 弁護人の主張
(1) P2検事は、元年五月一三日の取調べに際し、①五九年及び六〇年の盆暮れの乙山に対する政治献金について請託したことのお礼と認めれば、その見返りに丙川二郎関係の有限会社b1に対する小切手の供与のうち九〇〇万円分は立件しないと話した上、「そうすれば現金分が大幅に減額され、求刑が二年半程度になる。現金九〇〇万円分が減るということは大きい。執行猶予の可能性が非常に高まる。それに乙山さんの二〇〇〇万円分も君は時効だから全く心配ない。」「全面的に認めるのではなく、基本的には政治献金だがお礼の趣旨もありましたというふうに一〇〇対三〇位にしておけば、乙山さんも執行猶予は確実だ。」「これは間違いない。主任検事である僕が求刑を決めるんだから。」などと言って「ネゴシエーション」を持ちかけ、②「もし、これを認めなければ、徹底的にやるから、更に捜査が長引く。そうなったら、リクルートやコスモスはつぶれてしまう。」などと言って被告人を脅した。
(2) 被告人は、当時、一連のリクルート事件により、リクルートの受注が激減し、その経営が思わしくないことや金融機関からリクルートコスモスに対する融資停止のニュースを耳にしていたため、これ以上捜査が長引いた場合には、リクルートの経営は一層悪化し、金融機関からの融資停止の話が他の銀行にも波及し、リクルート及びリクルートコスモスの倒産につながりかねないという危機感を一層持つようになっていたために、右(1)の脅迫を現実のものとして受け止め、捜査の早期終結や早期保釈を求めたい一心から、元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)に署名せざるを得ない状況に追い込まれた。
(3) P2検事は、元年五月一七日の取調べにおいては、被告人に対し、①「私にも上司がいてね。鬼のP5がいるんだよ。そこでだめを出されたんで取り直しをしなきゃいけないんだ。前回の分では、趣旨が弱すぎると言われたので、もう少し趣旨をはっきり出したい。」などと言って、P5東京地方検察庁検事正を引き合いに出しながら、署名を迫った上、「このような調書を作成しても乙山が実刑になることは絶対にない。僕が保証する。僕は贈収賄を専門にして本も書いているんだから。内部向けのものだけどね。乙山さんの執行猶予は保証する。」と言い、②「本日、丙川代議士と乙山代議士を正式に被疑者として取調べをしている。マスコミが大勢押しかけて、大変な騒ぎになっている。最終着地の段階で今さらそういう態度を取られても困る。悪いようにはしないから、ここは大乗的な見地に立って、きれいな着地をしたいと思っているので、是非協力してほしい。」などと言って、強引に調書に署名させてしまった。
(二) 考察
(1) 被告人は、公判段階において、右(一)(1)①、(一)(3)①と同趣旨の供述をするほか、元年五月一七日付け検面調書に署名した理由として右(一)(2)と同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(2) しかし、被告人は、本節第三の二4(三)のとおり、右3(一)の各検面調書が作成された当時は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見していたのであるから、仮に、取調検事が右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような露骨な利益誘導によって供述を迫れば、そのことが接見の際に弁護人に伝えられて、直ちに抗議を受けたり、マスコミに発表されたりして、以後の捜査に支障を来し、あるいは公判段階において供述の任意性や信用性を疑わせる重要な事情として利用されることが当然に予想されるはずであるから、検察官がいかに意に沿う調書に署名させたいと欲したとしても、そこまで露骨な利益誘導をするというのは考えにくいことである。
(3) 元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)の作成経過に関しては、弁護人作成の陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1九七)が提出されており、そこには右(一)(1)①、②、(一)(2)と同趣旨の記載がある。
しかし、右陳述録取書は、被告人が保釈されて二か月以上経過した元年八月一六日に録取した内容が記載されたものにすぎず、右検面調書作成日(土曜日)後の最初の接見日である同年五月一五日(月曜日)の接見結果を記載した報告書は提出されていないし、弁護人作成の同月一八日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1九八)には、同月一三日付け検面調書(乙書1二四)の作成経緯について若干の記載があるものの(なお、弁書1九八には、同月一四日の取調べ時のこととして記載されているが、その内容と検面調書とを対比すると、同月一三日の取調べ時のことを記載していると認められる。)、そこでは、「P2検事から、『最終決着に向かってどうしても政治献金を一〇〇%認める代わりに、趣旨も三〇%は認めてほしい。そうしなければ、この事件は着地できない。』と言われ、事件の長期化することでのリクルート・グループ、なかんずく、リクルートコスモスが経営危機にあるために、甲野氏は、やむなく趣旨の三〇%を同意したところであります。」という記載があるにとどまり、右(一)(1)①、②のような露骨な利益誘導があったことには言及されていない。
(4) また、元年五月一七日付け検面調書(乙書1二六)の作成経過に関しては、翌日である同月一八日に作成された右(3)の報告書(弁書1九八)に右(一)(3)②と同趣旨の記載があるほか、弁護人作成の同年七月一八日付け報告書(被告人との面会結果を報告したもの。弁書1九九)には右(一)(3)①と同趣旨の記載がある。
しかし、右のうち面会結果の報告書(弁書1九九)は、被告人が保釈されて一か月以上経過した後に弁護人と面会した際の被告人の供述が記載されたものにすぎず、検面調書が作成された翌日に接見した結果を記載した報告書(弁書1九八)には、右(一)(3)①のような露骨な利益誘導があったことには言及されていない。
(5) これらの事情に照らすと、右3(一)の各検面調書の作成に関して、右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような利益誘導があったという被告人の公判段階における右(1)の供述や右(3)の陳述録取書(弁書1九七)及び右(4)の報告書(弁書1九九)に記載された被告人の供述は信用することができない。
(6) なお、被告人がリクルートやリクルートコスモスの経営に関し右(一)(2)のような懸念をしたこと自体は自然なことであって不合理ではない。また、P2検事が被告人との間で、マスコミが騒いでいる旨や事件の早期決着が望ましい旨の話をしたこと自体は認める証言をしていることや(〈証拠略〉)、右(3)の元年五月一八日付け報告書(弁書1九八)の記載からすると、P2検事が被告人に対し、右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような露骨な利益誘導ではなく、右(一)(3)②の主張に類する説得、すなわち、早期決着のためにも、大乗的見地に立ってきれいな着地をするための供述をするようにという説得をした可能性は否定し難いところである。
しかし、そのような事情が存したとしても、右(2)のとおり、被告人が弁護人と連日長時間の接見をしながら取調べに臨んでいたことを勘案すれば、被告人の供述の任意性に疑いを差し挟むほどの事情ということはできず、結局、被告人の捜査段階における右3(一)の供述には任意性があるものと認められる。
5 被告人の捜査段階における供述の信用性に関連する当事者の主張
(一) 弁護人の主張
五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与が賄賂であったことを認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に関連して、弁護人は、次の趣旨の主張をする。
(1) 右3(一)(1)の検面調書には、被告人がどのような場所で、どのような経緯から、右申出をしたのかという記載が全くないばかりでなく、抽象的、概括的で、その記載自体からして、信用し得るものではない。
(2) 被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、五九年八月に乙山に対する定期的な政治献金を申し出たという内容になっているが、実際は、リクルートから乙山に対する資金的支援は、五七年一一月の出版記念パーティーのころに申し出た後、様々な形で行われており、定期的な政治献金も、遅くとも五八年一一月に既になされていたのであって、五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与は、従前からなされていた定期的な政治献金の一環にすぎず、請託との関連はない。
(3) 被告人は、取調べ当初より五九年八月の献金の前から乙山に継続的に献金していた旨供述していたところ、検察官は、五七年一一月にパーティー券を購入した事実や、五八年一一月に小切手を供与した事実を知りながら、あえてこれを秘し、被告人が五九年三月の第一請託を契機として、同年八月以降、政治献金の名目で賄賂を供与したという虚偽の筋書を作り上げ、被告人に対し、盆暮れの定期的献金は同月以降であったという誤った前提の下で、半期五〇〇万円という多額の献金があったのは同月以降であり、それ以前に定期的に献金されたという資料はないと言って、虚偽供述を強要した。検察官が取調べ時に五八年一一月になされた五〇〇万円の献金の事実を被告人に言わなかったのは、被告人の弁解が右事実によって裏付けられ、献金の申出が五九年八月であったとする検察官の筋書きに反する結果になることを回避しようとしたからに他ならない。
(二) 検察官の主張
検察官は、五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与に関し、同小切手が入金された預金口座は、専ら選挙運動資金の受入口座として利用されていたものであり、同小切手は同年一二月の衆議院議員総選挙に際しての資金援助として臨時的に供与されたものであって、五九年八月から六〇年一二月までの定期的な政治献金とは性質を異にする旨主張する。
6 関係者の供述及び検察官の取調状況等
(一) 定期的な献金開始時期に関する捜査段階における供述状況
リクルート側から乙山に対し定期的な政治献金がなされるに至った時期につき、R1は、捜査段階において、五九年夏ころから大体盆暮れに五〇〇万円くらいずつの金が渡されていた旨供述し(甲書1一七五)、A1及びA2も、捜査段階において、乙山事務所がリクルートから定期的に献金を受けるようになったのは、同年八月からであった旨供述しており(甲書1八七四、一〇〇八、一〇一〇)、これらの各供述は、被告人の捜査段階における右3(一)の供述と一致している。
(二) 検察官の取調状況
被告人を取り調べて右3(一)の各検面調書を作成し、リクルート事件の主任検察官として捜査全般の指揮もしていたP2検事は、五八年一一月に小切手を供与した事実については、元年五月一〇日を何日か過ぎたころには把握していたが、当該小切手は選挙のための資金であり、特殊な献金であったので、被告人に質問することはなかった旨証言し(〈証拠略〉)、R1の取調べを担当したP6検事は、上司から、五九年、六〇年及び六三年の小切手に関する伝票を受け取り、それらについてR1から事情を聴くように指示を受けただけであるから、それ以外のリクルート側からの献金については把握しておらず、R1に質問したこともない旨証言しており(〈証拠略〉)、五八年一一月の小切手の供与に関しては、単に調書が作成されていないというにとどまらず、被告人やR1に対し、供与の事実の確認やその趣旨に関する取調べがなされていないことが認められる。
また、A1の元年五月一七日付け検面調書(甲書1八七四)は、「乙山事務所とリクルート社との関係や政治献金等のことについて申し上げます。」という書き出しで始まり、各小切手の供与を含むリクルートから乙山へ資金援助を受けたことに関する供述が記載されており、その中には、五八年一一月と同様に総選挙直前の時期になされた六一年六月の小切手の供与に関する供述も含まれているのに、五八年一一月の小切手の供与については、その事実の確認すらされていない。
さらに、乙山事務所において資金管理をしていたA2は、元年五月一〇日の検察官の取調べにおいて、五九年以降、被告人やリクルートが乙山の後援会員になり、盆暮れにそれぞれ五〇〇万円の政治献金を受けるようになったが、後援会に入会してもらう以前は、選挙の時やパーティー券の購入でお世話になっていたことはあるものの、毎年の盆暮れにほぼ定期的な政治献金を受けていたことはない旨供述し(甲書1一〇〇八)、元年五月一一日の検察官の取調べにおいては、五五年ころから五八年ころまでの間は、リクルートも被告人も後援会のメンバーではなかったし、パーティー等の時に援助してもらったことがある程度で、盆や暮れの時期に支持者の皆さんからいただいているほぼ定期的な政治献金をちょうだいしたことはなかった旨供述する上、五八年以前のパーティー券の購入や秘書の給与の負担による資金援助について供述する一方、同年一二月には国政選挙が行われたが、この選挙の際にリクルートから献金をいただいたかどうかについてははっきり記憶がないと供述し、さらに、「リクルート社から貰った小切手を東京銀行日比谷支店以外の銀行口座に入金したことはあるか。」という問いに対し、「一つもないと思います。」と答えている(甲書1一〇一〇)。これらによれば、A2の取調べに当たった検察官が同年一一月に小切手が供与された事実を把握していなかったことが窺われる。
(三) 五八年一一月の献金に関するP2検事の認識について
P2検事は、五八年一一月の五〇〇万円の献金は、政治資金関係の捜査をしていた検事が元年四月に作成した資料に記載されていて、元年五月一〇日の時点では、既にその報告を受けて把握していたし、その時点では、乙山の所に流れ込む金がどういう口座に入るのかという点を乙山の秘書等から聞いて取り調べており、五八年一一月の五〇〇万円は、東京銀行日比谷支店の口座に入っておらず、選挙のための特殊な金が入る口座に流れ込んでいるのであろうということが分かっていたと思う旨証言しつつ(〈証拠略〉)、「五月一〇日を過ぎて、何日か忘れましたけれども、いろんな資料が出てきて、選挙資金要請文書なんかが出てきて、それで口座も調べていくと、三菱麹町という口座があって、そこにその五〇〇万円が流れ込んでいたと、しかも、その口座は選挙要請によって、振り込まれた金が集積されている口座である」という形で事実が判明してきたが、結論的にはどの時点で何が分かっていたかはっきりしない旨証言しており(〈証拠略〉)、結局のところ、乙山に対する小切手の供与について被告人、R1、A1及びA2を取り調べていた元年五月中旬のどの時点でどの程度詳細に把握していたのかについては明確ではないものの、五八年一一月に五〇〇万円の小切手が供与された事実を把握していたこと自体は断定的に証言し、右事実を把握しながら被告人らにその点の供述を求めなかった理由については、衆議院の解散日に支出されている金であって、その趣旨が明らかであったから、その性質を聞く必要はないと判断したのであり、取調べに際して洗いざらい何でも聞けばいいというものではない旨証言している(〈証拠略〉)。
しかし、五九年三月の第一請託の数か月前に五〇〇万円という多額の献金がなされていた事実は、請託の経緯(被告人と乙山との従前の関係)として意味を持つほか、同年八月以降の献金の賄賂性(乙山は、コスモス株の譲受けに加え、同年及び六〇年中の四回の小切手受領についても受託収賄として起訴された。)を判断する上で重要な事情であり、捜査上も重要な関心事項となったはずである。したがって、被告人が、取調べの中で、五九年八月ころに乙山に対し今後盆暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をする旨の申出をしたことや、そこに請託に係る謝礼の要素が含まれていたことを認めるという重要な供述をし、その一方で、検察官が五八年一一月にも五九年八月以降と同額の五〇〇万円の小切手が供与された事実を把握していたのであれば、被告人の右供述の信用性を確認するために、解散日との関係等から五九年八月以降のものとは性質の異なる選挙用の金であったことが明らかであるとして済ませるのではなく、被告人に対し当該献金の趣旨を直接質問し、同月以降のものとは趣旨が異なるという返答があれば調書に残し、逆に、右供述は勘違いであって、既に五八年当時から定期的に献金していたという返答があれば、乙山の秘書も取り調べるなどして、同年一一月の献金の趣旨と五九年八月以降の献金の趣旨との異同について更に捜査を進めるのが、むしろ当然のことであると思われる。
そうすると、被告人に説明を求めなかった理由についてP2検事が証言するところは、合理的なものとは評価し難く、捜査当時、検察官らが五八年一一月に小切手が供与された事実を把握していなかったという疑いが多分に残る。
(四) 考察
五九年八月に乙山に対し五〇〇万円の小切手を供与する少し前ころ、盆暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助を申し出た旨の被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述については、被告人が乙山に定期的な献金の話を持ちかけた場所や経緯に関し何ら触れていない上、供述の内容も抽象的、概括的であって、供述の信用性を判断するに当たって重要となる具体的事実の記載に乏しいものであり、しかも、検察官が五八年一一月の五〇〇万円の献金に関し説明を求めていないため、五九年八月の小切手の供与が最初の多額の献金であったという誤った前提の下で誤導された可能性も念頭に置いて、その信用性を慎重に判断することが必要となる。
もっとも、被告人の取調状況や弁護人との接見状況は、本節第二の三5(一)、(二)で認定したとおりであって、特にその供述の任意性に疑いを差し挟むべき事情は窺われない上、被告人は、元年五月一〇日、一一日及び一二日に弁護人と接見した際には、それぞれ前日の取調べにおいて、乙山に対する五九年八月以降の四回の政治献金には請託に係る謝礼の趣旨が含まれていたと認めるように求められたことにつき弁護人と相談していたのである(〈証拠略〉)から、五九年八月以降に乙山に対し定期的な献金をしていたことに関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は、被告人が弁護人と相談を重ね、かつ被告人自身も数日間にわたって熟考した上で取調べに臨み、自らが納得した内容で調書の作成に応じたものと判断できる。
したがって、被告人の捜査段階における右3(一)の供述も、不十分な点があるとはいえ、関係証拠により、五八年一一月に五〇〇万円の小切手を供与した事実との関係で矛盾がなく、かつ、供述の信用性を支える事実が認められる場合には、その証明力を認める余地が十分にあるというべきである。
7 五八年一一月に五〇〇万円の小切手を供与した趣旨について
(一) 事実関係
そこで、次に、五八年一一月に乙山に対し五〇〇万円の小切手を供与した趣旨について検討するに、関係証拠によれば、右供与に関連して、次の各事実が認められる。
(1) 五八年一一月に供与した小切手が入金された三菱銀行麹町支店の「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座は、五七年三月一九日に新規開設されたものであり、その入金状況を見ると、同年九月上旬まで民間企業や個人から二万円ないし一五万円の小口の振込入金が散発的になされ、しばらく入金がなかったが、五八年四月、五月、七月に各一件の振込入金があり、その後同年九月三〇日に「サングレイン」という振込先から一〇〇万円、同年一〇月三日に「ショウワカンコウカイハツ」という振込先から一〇〇万円の各入金があった。
同口座の預金残高は、五八年一一月初めには一万円を切っていたが、同月一八日以降五九年一月までの間、集中的に多数の個人や企業等から一〇万円ないし三〇〇万円の振込入金がなされた。また、五八年一一月、一二月には、振込以外に六件の証券類が入金され、そのうち一件がここで問題になっているリクルート振出しの小切手による同年一一月二九日の入金である。乙山事務所では、この間、同年一二月二日、七日、九日、一三日、一六日にまとまった金額を引き出していた。
同口座には、六一年五月下旬以降六月下旬までの間、再度多数の個人や企業等から一〇万円ないし一〇〇万円の振込入金が集中的になされていた。
(2) 五八年一二月一八日に第三七回総選挙の投票が、また、六一年七月六日に第三八回総選挙の投票がそれぞれなされたところ、右振込入金が集中していた時期は、右各総選挙の直前の時期に当たり、第三八回総選挙が近づいた六一年五月には、乙山の政治団体の一つであるa3会が乙山の支援者に対し、選挙に際しての臨時会費として一口一〇万円を同口座に振込送金するように依頼する文書を発出していた。
なお、五八年一二月の総選挙については、同年一一月二日にI3首相が年内に衆議院を解散することを決断した旨の報道がなされ、同月一九日には政府が同月二八日に解散することを決めた旨の報道がなされていた。
(3) 右(1)の口座に対する入金数は、五九年二月以降六一年五月中旬まで及び同年七月以降は非常に少ないが、その間も、右「サングレイン」からは、五九年から六三年までの毎年一〇月又は九月に各一〇〇万円、右「ショウワカンコウカイハツ」からも、五九年から六三年の毎年夏から秋にかけて六〇万円又は八〇万円の振込入金がそれぞれあり、また、「ソニー」という振込先からも、五九年から六三年まで毎年一一月前後に各五〇万円、「コウギンヒショシツ」という振込先からも、六一年から六三年まで毎年一二月に各一〇〇万円の振込入金がなされていた。
(4) リクルートやリクルート情報出版(当時の商号は株式会社就職情報センター)では、第三七回総選挙の直前の五八年一一月ころ、乙山に対してだけでなく、多数の政治家に対し集中的に献金をしており、具体的には、同月二八日ころ、E2に四〇〇万円、H1に一五〇万円、E1、F5、H2及びH3に各一〇〇万円を小切手で献金し、これらのうちE2を除く五名に供与した小切手と乙山に供与した小切手は、同一の振替伝票で処理されていたほか、同月二九日ころ、H4に五〇〇万円、D2に二〇〇万円を、同月三〇日ころI3に二五〇〇万円を、同年一二月一日ころH5に六〇〇万円を、同月二日ころ、H6に二〇〇万円、H7に一〇〇万円を、同月六日ころH8又は同人の後援会に四五〇万円を、同月八日ころH9に五〇〇万円をそれぞれ小切手により献金していた。
(〈証拠略〉)
(二) 関係者の公判段階における各供述
被告人、R1及びA1は、定期的な政治献金の開始時期について、捜査段階における各供述(右3(一)、6(一))とは異なり、次の趣旨の供述をしている。
(1) 被告人の供述(〈証拠略〉)
乙山に対する政治献金は、五五年か五六年辺りから始まり、一回一〇〇万円程度を盆暮れだと思うが、節目の時期に献金するという感じであったのが、やがて秘書の給料を負担するなど金額が増えたという感じである。年二回、盆と暮れの時期に五〇〇万円ずつ献金するようになったのは、五七年一一月の乙山の出版記念パーティー以降である。不確かではあるが、そのパーティーの席上で、乙山に直接資金援助の話をしたと思う。もっとも、同年の暮れに関しては、パーティー券のまとめ買いが暮れの献金という趣旨もあったので、実際は五八年から盆暮れに献金していたと思う。
捜査段階においても、五九年八月よりも早い時期から乙山に対する献金が始まったと供述していたが、P2検事から、押収したリクルートの帳票類を見ると、そこから始まっており、それ以前にはないと話されて、客観的なデータがないものについて私が頑張ることはできないと思ったので、右3(一)(1)の検面調書ができた。
五八年一一月の小切手の供与は、選挙のための資金援助というわけではなく、盆暮れの政治献金の一環であったと思う。
(2) R1の供述(〈証拠略〉)
乙山に対する定期的な政治献金は五八年の六、七月辺りから始まったと思う。その点について具体的な記憶はないが、乙山とは、同年には秘書の給料を負担するほどの関係になっていたのであるから、同年の夏にも間違いなく献金したと思う。三〇〇万円か四〇〇万円をリクルートか関連会社から献金したと思う。
五八年一一月の小切手の供与は、選挙資金として臨時的に出したというものではなく、暮れの政治献金を選挙に合わせて少し早目に出したものであり、他の政治家にも同様に前倒しで出した記憶がある。
乙山に対しては、五八年以降、リクルート事件が世間で騒がれるようになる直前ごろまで途切れることなく、盆暮れの献金が継続しており、五九年夏の献金の際に被告人から特別な指示を受けたという記憶はない。
(3) A1の供述(〈証拠略〉)
リクルートからは、乙山が労働大臣当時の五四、五年ころ、一〇万円か二〇万円の献金を盆暮れにもらっていたことがあり、その後、五七年一一月の出版記念パーティーの券を買ってもらった後、同年末ころには秘書の給与を負担する話もいただいていたが、献金についても当然同年暮れころから二〇〇万か三〇〇万円単位でもらうようになったと思う。そのころリクルートから受領した小切手を乙山事務所の資金管理口座に入金した形跡がないにしても、乙山事務所では各種研究会名義の口座も使っていたし、現金でもらった可能性もある。
五八年一一月の小切手の供与は、通常の盆暮れの政治献金であったと思う。乙山からは、選挙前であっても、献金をもらいに行けという指示はなかったので、リクルートにも依頼してはおらず、通常の盆暮れの献金しかいただけなかったものと理解している。
(三) 考察
(1) 五八年一一月の献金は、①小切手を供与する方式であった点、②その金額も五〇〇万円であった点、③乙山事務所からは、乙山の五つの政治団体名義で一〇〇万円ずつに分割した領収証が発行された点で、五九年及び六〇年中に四回にわたり小切手を供与した際と同じであり、このうち、②の点は弁護人の主張に沿う事実ということができる。しかし、①の点は、小切手は一般に広く用いられている支払手段であって、特徴的な方法ではないし、③の点も、右2(二)(5)のとおり、乙山事務所において、政治資金規正法により寄附者の氏名等を報告書に記載することを回避するための方便として、複数の政治団体に分割して献金を受け入れる処理をしていた事情によるものであるから、①及び③の共通点は、五八年一一月の小切手の供与が五九年八月以降の小切手の供与と同様に定期的な政治献金の一環である旨の弁護人の主張を基礎付ける事情ということはできない。
(2) 次に、右(一)の事実によれば、三菱銀行麹町支店の「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座は、検察官が指摘するとおり、主として選挙時期に支援者から選挙支援のために振込送金を受ける口座として利用されていたことが認められるが、他方で、選挙時期とは無関係に、五八年当時で二社、その後を含むと四社の企業から、毎年ほぼ定期的に概ね定額の金が振り込まれており、乙山に対する定期的な政治献金を振込送金の方法で受け入れる際の口座としても利用されていたことが認められるから、右口座が専ら選挙運動資金の受入口座として利用されていたということはできない。そもそも、リクルートは、右口座に振込送金したわけではなく、小切手を供与し、乙山事務所の者が当該小切手を右口座に入金したにすぎないから、右口座の性格によって、リクルートが供与した小切手の性格が一義的に定まるわけではない。
しかし、乙山事務所では、本節第四の二3のとおり、他に事務所資金を管理するための口座がありながら、五八年一一月にリクルートから受領した小切手を右資金管理口座ではなく、当時選挙支援資金を受け入れていた口座に入金し、直後に選挙支援のために振込入金を受けた金と一括して引き出しており、五九年及び六〇年中に四回にわたり供与された小切手については、これとは異なって、すべて事務所の資金管理口座である東京銀行日比谷支店のA2名義の定期預金口座や普通預金口座に入金したという相違があることは、検察官の主張に沿う一事情ということができる。
(3) また、五八年一一月の小切手の供与は、同年一二月一八日の三七回総選挙の直前になされたものであり、リクルートは、同じころ、多数の政治家に対し、一〇〇万円ないし二五〇〇万円の金額を乙山に対するのと同様に小切手により献金していたこと、同年一一月二八日ころは、「暮れ」の献金としては時期が早いこと(これに対し、五九年は一二月一九日ころ、六〇年は一二月五日ころ、六二年は一二月三日ころ及び二六日ころと、いずれも一二月に献金がなされた。)からしても、五八年一一月の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものとみるのが合理的である。
(4) 被告人及びR1は、公判段階において、五八年夏から定期的な献金が始まったと思う旨供述し(右(二)(1)、(2))、A1も、公判段階において、五七年の暮れころに定期的な献金が始まった旨供述する(右(二)(3))が、それらの供述等を裏付ける客観性のある証拠は存しない。
むしろ、リクルートから乙山に対する定期的な献金が五八年又はそれ以前から始まっていたとすれば、五九年夏の小切手の供与は既に定期化した献金の一環として例年と同時期になされるのが自然であるが、六〇年は六月二六日ころ、六一年は六月九日ころ、六二年は七月一六日ころ、六三年は六月一七日ころ及び同月二二日ころと、六月から七月半ばにかけて小切手が供与されていたのに対し、五九年は八月一〇日ころと他の年と比べて顕著に遅い時期に小切手が供与されたのである(右2(二)、(三))。右相違は、五九年の夏前までは定期的な献金がなされておらず、被告人が捜査段階において供述するとおり(右3(一)(1))、同年八月に小切手を供与する少し前ころに乙山に対し定期的な献金を申し出て、その一回目として同月一〇日ころに小切手を供与し、その後は定例化されたために夏期の出費に備えて六月から七月半ばまでに供与するようになったとみることで、合理的に理解できる。
(5) 以上を総合すれば、五八年一一月の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものであり、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものと認められる。
したがって、五八年一一月に小切手を供与した事実があることは、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、「今後、盆、暮合わせて一、〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」と話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
8 小括
(一) 五九年八月ころ乙山に献金を申し出た旨の被告人の供述の信用性
以上検討したところによれば、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をすることを話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、抽象的、概括的であって、具体的事実の記載に乏しく、五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与について触れていないという点で難点はあるが、他方で、
① 被告人は、乙山に贈賄したという事件については、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見しつつ、取調べに臨んでいたのであり、その取調状況を検討しても、任意性に疑いを差し挟むべき事情は窺われない上、五九年八月以降乙山に対し定期的な献金をしたことに関する被告人の供述は、弁護人と相談を重ね、かつ被告人自身も数日間にわたって熟考し、自らが納得した内容で調書の作成に応じたものと判断できること(第一章第三の三1、2、右4(二)、6(四))、
② 五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものであって、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものであるから、五八年一一月に小切手を供与した事実があることは、被告人の右供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできないこと(右7(三))、
③ 乙山事務所の統括的な立場の秘書であったA1及び資金管理を取り扱っていた秘書のA2は、いずれも、捜査段階において、リクルートから乙山に対する定期的な献金が始まったのは五九年からである旨供述していること(右6(一))、
④ 乙山事務所がリクルートから交付を受けた小切手を事務所の資金管理口座である東京銀行日比谷支店のA2の口座に入金するようになったのは、五九年八月に受領した小切手からであること(右2(一)、(二))、
⑤ 五九年夏の小切手の供与は、その後の夏の小切手の供与が六月から七月半ばにかけてなされていたのに対し、八月一〇日という遅い時期になされたのであり、このことは、それまでは献金が定例化しておらず、八月一〇日の前に定例化の契機があったことを示唆すること(右7(三)(4))
などの事情を併せ考えると、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をすることを話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、十分に信用することができる。
(二) 小切手の供与の賄賂性に関する被告人の供述の信用性
(1) 右3(一)のとおり、被告人は、捜査段階において、五九年八月以降六〇年一二月までに四回にわたり乙山に対し小切手を供与した趣旨につき、乙山を政治的に応援する献金としての意味とともに、本件各請託に係る謝礼としての意味を持つことを認める供述をしているが、これまでに認定した諸事実と次節で認定する事実、すなわち、
① 右(一)①の事実、
② 被告人らリクルートの幹部は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料収入の減少や計画的な発行・配本業務に支障が生じて、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたこと(前節第二の二1)、
③ 五九年当時、民間企業の採用担当者の間では、官庁の青田買いが民間の青田買いを助長しているという意見が強く出されていたこと(前節第一の三3)、
④ 被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、公務員試験の日程を巡る人事院と日経連との折衝に関する情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官であった乙山に働きかけることを決定し(本節第二の二6)、実際に、被告人が、五九年三月一五日、乙山に対し、国の行政機関において就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をしたこと(本節第二の六4)、
⑤ 乙山は、右請託を受けた後、G2人事院任用局長に電話をかけ、公務員試験の合格発表日等について質問をし、部下のI2内閣参事官に対し公務員試験の日程等について質問をし、さらに、I2の報告を受け、人事課長会議で申合せをすることを了承するという行動をし、被告人の指示を受けたR6らの訪問を受けた際には、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたこと(本節第二の四2、4、五2(一))、
⑥ 実際に、五九年三月二八日の人事課長会議において、「1 求人求職秩序の維持のため、いわゆる10―11協定に協力する。 2 このため、選考開始日は、11月1日であるとの認識の下に10月1日前の学生のOB訪問及び10月1日以降の官庁訪問に対しても協定の趣旨に沿った対応をするものとする。」という申合せがなされたこと(前節第一の三5)、
⑦ リクルートでは、五九年五月から七月にかけて、繰り返し丙川二郎衆議院議員に働きかけ、被告人も関与して右人事課長会議申合せを重視した質問案を作成し、同議員に渡すなどして、同年六月及び八月に衆議院の委員会で官庁の青田買い防止を求める質疑をしてもらったこと(次節第二)、
⑧ 乙山に対し後援会費の支払や私設秘書の給与の負担に加えて年間一〇〇〇万円の定期献金をするというのは、相当に多額の資金供与であることを照らし合わせて考えると、五九年八月に小切手を供与する少し前ころに乙山に対し定期的な資金援助を申し出た趣旨に関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は、被告人がその本心を供述するものであって、十分に信用することができる。
したがって、五九年八月に小切手を供与した献金には、第一請託に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
(2) 弁護人は、乙山に対し定期的な献金を申し出たことに関する被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、終期や合計額について何ら触れておらず、政治献金の申出であればともかく、請託に係る報酬として賄賂の供与を申し出るのに、いつまでに、合計で幾らの賄賂を申し出たのかも分からない文言を用いるということ自体、非常に不自然であり、また、リクルートは、当時、政治家に対し一回に二〇〇〇万円程度の政治献金を行うことが少なからずあったのであるから、仮に就職協定の存続及び遵守がリクルートの社運に関わる問題であり、時の内閣官房長官であった乙山にそのような重大な頼み事をし、これに係る報酬の支払をするというのであれば、賄賂を分割して支払うと申し出るということも不自然である旨主張するが、請託に係る謝礼の趣旨で金員を供与する方法として、合計額や終期を明示した上で分割して支払うことや、一括して支払うことが自然であるとする理由はない。むしろ、政治家に対する場合には、請託直後にまとまった金額を支払うというあからさまな方法を採るよりも、請託に係る謝礼の趣旨を込めて定期的な政治献金の形で供与する方が外部から疑念を持たれるのを避けることができ、贈収賄の当事者にとって合理的であるともいい得るのである。
弁護人は、さらに、被告人は、五七年秋ころに継続的な資金的支援を申し出て、少なくとも五八年一一月には五〇〇万円を献金していたのであるから、五九年三月の第一請託から五か月近くも後になって賄賂の提供を申し出たというのであれば、従来の金額を相当超える政治献金を申し出るとか、請託に係る謝礼であることを少しでも匂わせなければ、継続的な政治献金とは異なる特別の供与であると乙山に気付かせることができないはずであり、賄賂の趣旨で一回当たり五〇〇万円の献金を申し出たというのは不自然である旨主張するが、五八年一一月の献金が総選挙に伴う臨時的なものであり、被告人が五九年八月一〇日の少し前ころに定期的な献金を申し出たものであることは既述のとおりであるから、弁護人の主張は前提を欠いている。
(3) 次に、五九年一二月から六〇年一二月までの三回の小切手の供与についても、右(1)①ないし⑧の諸点に加え、
⑨ 被告人が申し出たのは盆と暮れの時期の定期的な献金であり、実際に、申し出たとおり、概ね盆と暮れの時期に各五〇〇万円の小切手の供与が定期的になされたこと、
⑩ 被告人らリクルートの幹部は、六〇年度についても、就職協定の存続及び遵守が事業上重要な課題であると認識し(前節第二の二1、四)、六〇年三月ころ、被告人がR8とR7に指示して、引き続き官房長官の地位にあった乙山に対し再び官庁の青田買い防止に関する請託をしたこと(本節第三の四8)、
⑪ 六〇年四月一〇日の人事課長会議において、官側としても産業界及び大学等と同様に、五九年度人事課長会議申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めることが了承されたこと(前節第一の四3)、
⑫ リクルートでは、六〇年六月にも、丙川二郎衆議院議員に働きかけ、衆議院の委員会において、六〇年度人事課長会議申合せを踏まえた質疑をしてもらい、D6文部大臣から、官庁が右申合せを厳に守るように切に希望する旨の答弁を引き出したほか(次節第三)、同年一〇月から一一月にかけても、同議員に働きかけて、衆議院の委員会で質疑をしてもらい、人事院総裁から、人事課長会議申合せに言及した答弁を引き出したこと(次節第四)
を考慮すれば、その趣旨に関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は信用することができ、いずれも、官庁の青田買い防止を求める請託(五九年一二月の供与については第一請託、六〇年六月及び一二月の供与については本件各請託)に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
9 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、乙山に対する小切手の供与は、リクルート及び関連会社が正規の会計処理をした上で支払い、受け取った乙山側でも政治献金として正規の処理をしていたところ、支払側も受取側も賄賂であることを認識していたとすれば、このような処理をするのは不自然である旨主張するが、政治献金として正規の処理をすることと当該献金が賄賂であることとは矛盾することではなく、贈賄者や収賄者としては、職務との関連性や請託の事実が外部に露見することさえなければ、政治献金として正規の処理をしても不都合が生じることはないのであるから、弁護人の主張は理由がない。
(二) 弁護人は、検察官が、乙山に対する献金のうち、五八年一一月の五〇〇万円と六一年六月の一〇〇〇万円が賄賂でないとしながら、五九年及び六〇年の四回の献金を賄賂であると主張するのは不合理であり、これらの献金は、リクルートが乙山に対し継続的に行っていた一連の通常の政治献金であると考えるのが自然である旨主張する。
しかし、五八年一一月の献金は、右7のとおり、総選挙に備えて臨時になされたものであり、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものと認められるから、五八年一一月に献金した事実があることは、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂の趣旨があることを認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
また、六一年六月の一〇〇〇万円の献金についても、五八年一一月と同様に総選挙直前の時期になされたものであり、被告人が賄賂性を認める献金の後にした献金が賄賂性を有しないとしても、そのことは、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情となるものではない。
(三) 弁護人は、五九年度人事課長会議申合せは、乙山が働きかけるまでもなく、人事院と日経連等の経済団体との折衝の結果として実現したのであり、六〇年度人事課長会議申合せも、乙山が働きかけるまでもなく、前年の申合せを踏襲したものにすぎないから、被告人が乙山の働きかけによって右各申合せがなされたことに感謝して小切手を供与したものではない旨主張する。
確かに、五九年度人事課長会議申合せがなされるについては、前節第一の三5の経緯があったことが認められるのであって、乙山の働きかけによって同申合せができたわけではないが、他方で、乙山も、右8(二)(1)⑤の行動をしたのであるから、乙山と無関係に右申合せがなされたという経緯ではないし、乙山は、被告人を公邸に迎えて第一請託を受けるとともに、その後に被告人の指示を受けたR6らが訪問した際には、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたのであるから、被告人が五九年八月と一二月に乙山に対し小切手を供与するに際し、純粋に政治活動を応援するという趣旨に加えて、第一請託に係る報酬としての趣旨を含めるということは、あり得ないことではなく、むしろ、自然なことである。
また、被告人は、六〇年三月ころにも、R8とR7に指示して、引き続き官房長官の地位にあった乙山に対し第二請託をし、翌月に六〇年度人事課長会議申合せがなされたのであるから、被告人が同年六月と一二月に乙山に対し小切手を供与するに際し、純粋に政治活動を応援するという趣旨に加えて、本件各請託に係る報酬としての趣旨を含めるということも、あり得ないことではなく、むしろ、自然なことである。
(四) 弁護人は、五五年七月二三日の人事課長会議でも、上級試験合格者に対する採用面接について、一〇月一日以前には志望者の応対を行わないことを申し合わせ、五六年度ないし五八年度については、五五年度申合せにより対応されていたが、これらには全く実効性がなく、五九年度人事課長会議申合せも五八年までのものと異なるところがなかったのであるから、被告人が乙山の尽力により五九年度人事課長会議申合せがなされたと考えるような状況にはなく、申合せがなされたことについて感謝するような状況にもなかった旨主張する。
確かに、関係証拠によれば、人事課長会議では、五一年度から五五年度にかけて、毎年七月下旬ないし八月中旬に「上級職合格者に対する採用面接についての申合せ」をしており、特に、五四年度及び五五年度の申合せには、「一〇月一日前においては、志望者の応対を行わないものとする。」という一文が含まれ、五六年度から五八年度までは、新たな申合せは行わないものの、五五年度申合せにより対応することになっていたこと(甲書1一〇三二)、人事院が公務員試験の第二次試験受験者に配布する案内書には、五三年度及び五四年度のものに「中央雇用対策協議会の申し合わせで、採用側と学生との接触は、官、民とも10月1日以降となっていますので、9月30日以前は各官庁の採用担当課を訪問しないでください。」という記載が、また、五五年度ないし六〇年度のものに「採用側と学生との接触は、各省庁の人事担当課長会議の申し合わせにより10月1日以降となっています。〔中略〕(ただし、9月30日以前の訪問は行わないこと。)」という記載があり、五八年度以前と五九年度以降とで、その記載に変化がないこと(弁書1一四八)が認められる。そして、被告人も、公判段階において、五九年度人事課長会議申合せは、その直後ころに報告を受けていたが、同様の申合せは従前からよく行われており、さほど実質的な効果もなかったし、五九年度についてもおそらく守られないと思っていたので、とりたてて良いこととも悪いこととも受け止めなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、関係証拠によれば、①文部省で就職協定に関する事務を所管していた大学局学生課では、五九年度人事課長会議申合せは、民間の一〇―一一協定に協力することを初めて明示した点で前年度までの申合せと異なっており、画期的なことであると評価していたこと(〈証拠略〉)、②人事院の担当者も、五九年度人事課長会議申合せは、就職協定に協力する旨の文言が入っている点で従前の申合せとは異なると理解していたこと(〈証拠略〉)、③人事課長会議を主宰したI2内閣参事官も、従前の人事課長会議における申合せは就職協定に言及していない点で五九年度人事課長会議申合せと内容が異なると理解していたこと(〈証拠略〉)、④日経連の側でも、L2日経連雇用課長は、官民が一体となって就職協定の遵守に取り組んだのは就職協定の歴史の中で初めてであると認識しており、五九年度人事課長会議申合せに至る過程で、同課長がG1人事院企画課長や主要官庁の人事担当課長と話し合い、G1が中雇対協幹事会でも官庁側が民間の就職協定を遵守すると約束したことなどの経緯から、実質的には官庁側も就職協定の当事者になったと認識して、画期的である旨評価し(〈証拠略〉)、五九年四月五日付け日経連タイムスでも、中雇対協の申合せを報ずるに当たって、「官庁側が就職協定の当事者であることを認め、協定順守の方針を打ち出したのは初めてのことである。」と報じていること(甲書1一〇九三)、⑤リクルートにおいても、月刊リクルート五九年七月号に「就職協定遵守への積極的な動き」と題してL2文部省学生課長の談話が掲載され、そこには、「本年度の協定遵守へ向けての動きの中で大きな特色が二つあります。」として、OB訪問等の自粛をその一つとして挙げた上、「もう一つ画期的なことは、国家公務員上級職の採用事務についての申合せです。」「人事院では、三月二八日に各省庁人事担当課長会議で『求人・求職秩序の維持について』という申合せを行いました。10―11協定に協力する、一〇月一日前の学生のOB訪問、一〇月一日以降の官庁訪問について協定の趣旨に沿った対応をするというものです。」「公務員採用について協定遵守の申合せが行われたのは、就職協定の長い歴史の中でも初めてのことであり、高く評価されてよいと思います。これによって、大学、企業、中央官庁の足並みが初めて揃ったわけで、本年度は全体として協定遵守の体制がいちだんと強固なものになりました。」などと記載されていること(〈証拠略〉)が認められるのであり、さらに、次節で認定するとおり、リクルートでは、通産省や労働省が青田買いをした旨の新聞報道がなされると、取締役会等でこれを検討し、五九年五月から八月にかけて、丙川二郎衆議院議員に働きかけ、国会で官庁の青田買いにつき追及して政府に人事課長会議申合せの遵守の徹底方を求めてほしい旨要請し、二度にわたって衆議院文教委員会で質問してもらい、うち一度は、被告人自身も関与した上、人事課長会議申合せにも触れた質問案を作成して丙川二郎議員に渡した事実があったのであり、これらの事実に照らせば、五九年度人事課長会議申合せの評価に関する被告人の公判段階における右供述は信用することができず、被告人が第一請託に係る報酬として小切手を供与することは何ら不合理ではない。
(五) 弁護人は、五九年三月一五日に被告人が乙山を公邸に訪問した後、乙山が請託についての対応に関し被告人らに説明した事実はなく、リクルート側から請託についての乙山の対応に関し謝礼を述べた事実もないのであるから、右公邸訪問と約五か月後の同年八月ころの献金の申入れとの間に関連性を認めることはできず、さらに、同月に小切手を供与した際も、被告人の指示を受けたR1がA1に小切手を交付するに際し、供与の理由を述べなかったのであるから、乙山が賄賂性を認識することは不可能であった旨主張する。
しかし、右8(二)⑤、⑥のとおり、被告人が五九年三月一五日に第一請託を行った後、同月二四日に被告人の指示を受けたR6らが乙山を訪問した際、乙山から官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答を受け、同月二八日に五九年度人事課長会議申合せがなされた経緯があるのであり、R6らの訪問や人事課長会議申合せと同年八月一〇日ころの小切手の供与に先立つ被告人の申出との間隔は約四か月程度であるところ、その程度の期間が賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述を不合理とするほどの事情であるということはできない。
また、乙山は、官房長官という多忙な職にありながら、五九年三月一五日、私企業の経営者である被告人のために時間を割いた上、公邸に迎えて請託を受け、その後、本節第二の四2、4の行動をし、さらに、同月二四日には、R6らと面会して、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたのであるから、同じ年の八月一〇日の少し前ころ、被告人から、「今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」などと言われて高額の定期的な献金の申出を受けた際や、その後に現実に小切手の供与を受けた際には、同年三月に被告人から受けた請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていると察知するのが自然であり、その間の月日の経過や、請託との関連を明示する言動がなかったことは、乙山にとって賄賂性を認識することを困難にする事情となるものではない。
(六) 弁護人は、リクルートグループの政治献金は、五八年ころから、金額の上でも政治家の人数の上でも増加していたが、これは、被告人が、日本の戦後の繁栄は自民党の単独長期政権の結果であり、日本の繁栄のために自民党を支援しなければならないと考えていたところ、A6から、乙山ほか数名の政治家に対する支援を要請されたこと、リクルートグループの飛躍的発展と経営基盤の安定によってゆとりができたことなどから、主として自民党の国会議員に対し経済的支援を行うようになり、五九年八月前後及び一二月前後も、十数名に対し各合計五〇〇〇万円前後の献金をし、その献金額は、政治家の地位や被告人の思い入れ等を配慮して決めていて、中には乙山に対するよりも多額の献金をした例もあったのであり、乙山に対する献金は、時期や方法、金額において、他の政治家に対する献金と何ら異なるところがなかったから、賄賂でないことが明らかである旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
確かに、五九年三月の第一請託の前における被告人と乙山との関係や資金提供の状況(本節第一の二、右2(一))に照らすと、被告人の乙山に対する資金援助について、親しい財界人からの要請、被告人の自民党支援の気持ちや乙山に対する思い入れが関係していたということ自体は、不合理な供述とはいえず、事実と認められるところである。
しかし、秘書の給与の負担や後援会費の支払に加え、年間一〇〇〇万円の高額の献金をすることについて、右のような、親しい財界人からの要請、自民党支援の気持ちや乙山に対する思い入れが影響していたとしても、そのことと請託を受けてもらったことに対する謝礼の気持ちとは、両立し、併存し得るものであるから、弁護人が指摘するリクルートグループの政治献金の実情は、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
四 まとめ
1 乙山に対するコスモス株の譲渡の賄賂性に関する被告人の供述の評価
被告人は、本節第五の二1のとおり、元年四月二七日の検察官の取調べにおいて、乙山に対しては、リクルートが就職協定の問題について色々お願いした関係もあって、コスモス株を譲渡した旨供述し、さらに、同月三〇日の検察官の取調べにおいても、乙山に対し公務員の青田買いについて請託をした経緯やその状況を供述した後、「本日申し上げたような乙山先生に対して就職協定等のお願いをしたような関係もあって、先生に対し前回申し上げたようにリクルートコスモス株一万株を譲渡したのです。」と供述するところ、右供述に加え、これまでに認定した諸事実と次節で認定する事実、すなわち、
①  被告人は、乙山に贈賄したことに関する取調べ当時、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見しつつ、取調べに臨んでいたのであり、元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)及び同月三〇日付け検面調書(乙書1一四)の作成過程においても供述の任意性に疑いを抱かせるような事情がないこと(第一章第三の三1、2、本節第二の三5(二)、第三の二4(三))、
②  小切手の供与の賄賂性に関する被告人の捜査段階における供述の信用性を検討した項目の諸事実(本節第五の三8(二)(1)②ないし⑧、(3)⑩ないし⑫)があること、
③  被告人は、第一請託の後、これに係る報酬の趣旨を含んで、乙山に対し、五九年八月及び一二月に各五〇〇万円分の小切手を供与し、さらに、第二請託の後、本件各請託に係る報酬の趣旨を含んで、乙山に対し、六〇年六月及び一二月に各五〇〇万円分の小切手を供与したこと(本節第五の三8)、
④  被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させようと考え、社外の者へ譲渡することを企図したものであり(第一章第二の三3(三)④)、六一年九月一六日の大和会議に参加した後は、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合に四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移するものと予想し、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当期間にわたり三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況であると認識していたこと(第一章第二の三3(三)結論部分)、
⑤  被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に手続を指示して、これを譲渡したこと(本節第四の五)を照らし合わせて考えると、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)は、被告人がその本心を供述するものであって、十分に信用することができる。
2 賄賂性に関する乙山の認識
乙山は、官房長官という多忙な職にありながら、五九年三月一五日、私企業の経営者である被告人のために時間を割き、公邸に迎えて第一請託を受け、その後、本節第二の四2、4の行動をし、さらに、同月二四日にはR6らと面会して、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をし、同年八月一〇日の少し前ころ、被告人から、「今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」などと言われて高額の定期的な献金の申出を受け、その後六〇年三月ころには、R8らから前年と同趣旨の第二請託を受け、実際に、五九年には第一請託に係る謝礼の趣旨を含む各五〇〇万円分の小切手を二回、さらに六〇年には本件各請託に係る謝礼の趣旨を含む各五〇〇万円分の小切手を二回、合計四回にわたって受領したのである。したがって、乙山が、六一年九月に公開時には譲渡価格を上回ることが確実と見込まれる未公開株であるコスモス株の譲渡を被告人から持ちかけられた際には、本件各請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていることを当然に察知することができたものと考えられる。
乙山は、コスモス株の譲受けと本件各請託との関連を否定するのみならず、自分がコスモス株を譲り受けた事実はなく、A1名義で譲り受けたことについても六三年一〇月にA1から聞くまで知らなかった旨弁解するが(〈証拠略〉)、乙山がコスモス株一万株を譲り受けたことは、本節第四で認定したとおりであり、乙山が右譲受けの事実すら否定する不合理な供述態度を貫いていることからすると、コスモス株に関する乙山の供述の信用性は全般的に低い。また、乙山がコスモス株の売却代金の大部分に当たる五二〇〇万円を自宅購入の手付金及び内金として費消したことも、乙山がコスモス株の譲受けによる利益を通常の政治献金とは異質なものと認識していたことの証左であるということができる。
以上の諸事情を総合すると、乙山がコスモス株一万株の譲渡に本件各請託に係る報酬の趣旨が含まれていることを認識していたものと推認することができる。
3 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、五九年八月から六〇年一二月までの四回にわたる小切手の供与が賄賂であったとしても、その後の六一年六月には通常の政治献金として一〇〇〇万円の小切手が供与され、しかも、コスモス株の譲渡は、五九年三月の第一請託からは二年半、六〇年三月ころの第二請託からも一年半が経過した後になされたのであるから、株式の譲渡を申し出る際に賄賂であることを明示しなければ、乙山側にその旨理解させることは到底できず、賄賂を贈った意味もないことになるのに、被告人もR1も乙山やA1に対しコスモス株の譲渡が右各請託に係る謝礼であることを窺わせる言動をしなかったのであるから、賄賂性を認める被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)には信用性がない旨主張する。
しかし、右2のとおり、乙山は、六一年九月に被告人からコスモス株の譲渡を持ちかけられた際には、本件各請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていると当然に察知することができたと考えられるところであり、その間の月日の経過、コスモス株の譲渡の前に被告人が賄賂の趣旨を認めていない献金があったことや、請託との関連を明示する言動がなかったことは、乙山にとって賄賂性を認識することを困難にする事情ではないというべきである。
また、被告人としても、あえて請託に係る謝礼の趣旨を明示しなくても、乙山にその趣旨を酌み取ってもらえば足りることであるし、あからさまに賄賂の趣旨を示す言動をすれば、政治家である相手方に対し、不用意な言動をする者であるという警戒感を抱かせることも考えられるのであるから、被告人が請託に係る謝礼の趣旨を示す言動をせずに、その趣旨を含んでコスモス株を譲渡するということは不合理ではない。
(二) 弁護人は、リクルートや関連会社から乙山に対しては、本節第五の三2(三)のとおり、コスモス株の譲渡の前である六一年六月に小切手が供与され、コスモス株の譲渡後の六二年七月、一二月及び六三年六月にも小切手が供与されたのであり、これらは、定期的な政治献金で、特に、六一年六月の小切手の供与は、乙山が自民党の国会対策委員長の地位にあることに配慮した政治献金であったから、これらの献金の流れの中でなされたコスモス株の譲渡には資金援助以外の特別な趣旨は含まれていなかった旨主張する。
しかし、被告人が、リクルートや関連会社から政治家に対する定期的又は選挙等の需要に応じた臨時の政治献金とは別に、株式の相対取引の形式で、株式値上がりの利益を政治家個人に供与することを企図した際、各請託に係る謝礼の趣旨を含んで譲渡の相手方の一人として乙山を選定するということは、不合理とはいえないから、乙山に対し本節第五の三2(三)の献金をしたことが、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)の信用性に疑いを入れる事情ということはできない。
(三) 弁護人は、五九年度人事課長会議申合せ及び六〇年度人事課長会議申合せは、客観的に見て被告人の請託や乙山の尽力の結果としてなされたものではなく、被告人やリクルートが乙山の尽力の結果右申合せに至ったと考える状況にはなかったから、乙山に対するコスモス株の譲渡を請託に係る報酬と評価することはできない旨主張するが、本節第五の三9(三)の事情からすれば、被告人が乙山に対しコスモス株を譲渡するに当たり、請託に係る報酬としての趣旨を含めるということは、不自然なことではない。
(四) 弁護人は、被告人は、コスモス株を当時の自民党総裁をはじめとして、「ニューリーダー」や「ネオニューリーダー」と称されていた政治家に譲渡しており、当時、総裁派閥に属し、「ネオニューリーダー」の一人と目されていた乙山に対しても、その一環としてコスモス株を譲渡したのであるから、賄賂性はない旨主張するが、被告人は、乙山に対し本件各請託を行ったのであるから、請託をしなかった政治家の場合と同列に論じることはできず、右事情は乙山に対するコスモス株の譲渡の賄賂性を左右するものでない。
4 結論
したがって、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)が十分に信用し得ることに疑いの余地はなく、乙山に対するコスモス株一万株の譲渡には、本件各請託に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
第六 補足(公務員の青田買い防止と官房長官の職務権限について)
国家公務員の採用権限は、内閣、各大臣、各外局の長等の任命権者にあり、その委任も各行政機関の部内で行われており(当時の国家公務員法三五条、五五条一項、二項)、国家公務員の採用活動は、各行政機関がそれぞれ所掌する事務であるところ、国家公務員の採用選考の時期及び方法を民間の就職協定との関係でどのように行うかは国の行政機関全体にわたる重要な事項であり、その点に関する行政各部の施策の統一保持上必要な総合調整事務は内閣官房の所掌する事務(本節第一の一2)に当たり、内閣官房長官の職務権限に属するということができる。
そして、国の行政機関において国家公務員の採用に関し就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の本件各請託の内容は、国家公務員の採用という国の行政機関全体にわたる事項について適切な措置を執ることを求めるものであるから、その当時内閣官房長官であった乙山が本件各請託に関する職務権限を有していたことは明らかである。
第三節 判示第二の事実(丙川二郎に対する贈賄事実)について
第一 前提又は背景となる事実関係
一 丙川二郎の経歴等
1 丙川二郎の経歴及び五九、六〇年当時の地位
丙川二郎は、五一年一二月の総選挙で公明党公認候補として東京都第三区から立候補して初当選した。その後、五四年一〇月の総選挙でも公明党公認候補として同選挙区から立候補して当選し、五五年六月の総選挙では落選したものの、五八年一二月及び六一年七月の各総選挙で公明党公認候補として同選挙区から立候補して当選し、元年六月二日の衆議院本会議において辞職を許可されるまで衆議院議員の地位にあった。
丙川二郎は、初当選以来、衆議院において、主として文教委員会や予算委員会の委員を務めるなどして活動し、これら政治活動に際しては「丙川次郎」という氏名を使用していた。
なお、丙川二郎は、四九年一一月に公明党に入党して党本部文化局次長になり、その後、書記局員を経て、五五年一二月から六一年一二月まで中央委員を務めたほか、六〇年一二月に中央委員会議長、六一年一二月に中央執行委員、副書記長、国対副委員長に就任し、東京都本部でも、五二年三月から文化局長を務め、六一年一二月には副本部長に就任し、六三年一一月四日に辞任するまでその地位にあった。
(〈証拠略〉)
2 丙川二郎の事務所、秘書及び後援会
五九、六〇年当時、丙川二郎は、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の衆議院第一議員会館(本節中に限り、以下「議員会館」という。)○○○号室の事務所(以下「議員会館の丙川事務所」という。)のほか、東京都目黒区青葉台○丁目のマンションの一室に「丙川次郎事務所」という名称の事務所(以下「目黒の丙川事務所」という。)を構えていた。
当時の秘書としては、五八年一二月に丙川二郎が衆議院議員に当選した後、いったんは丙川二郎の弟のB1が公設第一秘書になったが、五九年一月にB2(以下「B2秘書」又は「B2」という。)がこれに替わり、B3(以下「B3秘書」又は「B3」という。)が公設第二秘書、B4(以下「B4秘書」又は「B4」という。)が私設秘書を務めていた。丙川二郎が六一年七月の総選挙に当選した後は、B3が公設第一秘書、B4が公設第二秘書になった。
丙川二郎は、資金集めを兼ねて、五三年一一月ころから、一人一回三万円の会費で、官僚、経済人、公明党関係の政治家等を講師とする勉強会を主催しており、「b4会」と称していた。また、丙川二郎の後援会として、五五年一二月ころにできたb2会があり、これは、政治資金規正法上の政治団体で、目黒の丙川事務所を事務所とし、丙川二郎の政治活動費の一部もb2会で負担していた。
B1は、聖教新聞社の記者をしていたが、丙川二郎が五一年一二月に初当選して衆議院議員になった時から公設第二秘書を務め、途中で公設第一秘書になって、五五年六月の総選挙で丙川二郎が落選するまでその地位にあった。B1は、丙川二郎の落選中は、公明党の職員になるとともに、丙川二郎の私設秘書としての仕事もしていたが、丙川二郎が五八年一二月に衆議院議員に当選した後は、右のとおり、いったんは公設第一秘書になったものの、その後、私設秘書になり、主として目黒の丙川事務所で執務し、b4会、「b3会」等、丙川二郎の複数の後援会の運営を担当しており、六〇、六一年当時も同様であった。また、B1は、丙川二郎の選挙の際などに丙川二郎の後援者を訪問して献金を求め、これを受け取ることもしていた。
なお、b2会の事務や資金管理は、五九年七月ころから一二月ころまではB2が担当していたが、B2がその事務を滞らせたため、六〇年初めころから、B1がb2会のそれも担当し、女性事務員に指示を与えるようになった。
(〈証拠略〉)
二 丙川二郎の職務権限
1 衆議院文教委員としての職務権限
(一) 丙川二郎は、第一〇一回国会において、五八年一二月二八日に衆議院文教委員に選任され、五九年三月三日に辞任、同日に補欠選任、同年七月一〇日に辞任、同日に補欠選任、同年一一月二九日に辞任、同日に補欠選任され、第一〇五回国会会期中の六一年六月二日に衆議院が解散されるまで同委員を務め、第一〇六回国会において、同年七月二三日に再度同委員に選任され、第一〇七回国会会期中の同年一二月二四日に辞任するまで同委員を務めていた。
(〈証拠略〉)
(二) 五九、六〇年当時、衆議院文教委員会は、衆議院の常任委員会の一つとして置かれ、その委員の数は三〇人であり、文部省の所管に属する事項、教育委員会の所管に属する事項及び日本学術会議の所管に属する事項を所管し、その部門に属する議案(決議案を含む。)、請願等を審査するほか、議長の承認を得て、その所管に属する事項につき、国政に関する調査をすることができ、衆議院文教委員は、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わることができた(当時の国会法四〇条、四一条一項、二項六号、四七条、衆議院規則四五条一項、五〇条、九二条六号、九四条一項)。
(三) したがって、丙川二郎は、衆議院文教委員として、同委員会の議案、請願等の審査及び国政に関する調査に関与し、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わるなどの職務権限を有していた(なお、国会の委員会で議員が疑義を質す行為は、正しくは、右のとおり「質疑」というが、本件の証拠や訴訟当事者の意見では「質問」の語を用いていることが多いので、本判決でも「質問」ということがある。)。
2 衆議院予算委員としての職務権限
(一) 丙川二郎は、第一〇二回国会において、五九年一二月一八日に衆議院予算委員に選任され、六〇年三月七日に辞任、同日に補欠選任、同月八日に辞任、同日に補欠選任、同年四月一九日に辞任、同日に補欠選任、六一年三月六日に辞任、同日に補欠選任、同月七日に辞任、同日に補欠選任、同月二八日に辞任、同日に補欠選任、同年五月七日に辞任、同日に補欠選任、同月一六日に辞任、同日に補欠選任され、第一〇五回国会会期中の同年六月二日に衆議院が解散されるまで同委員を務めた。
(〈証拠略〉)
(二) 六〇年当時、衆議院予算委員会は、衆議院の常任委員会の一つとして置かれ、その委員の数は五〇人であり、予算を所管し、その部門に属する議案(決議案を含む。)、請願等を審査するほか、その所管に属する事項につき、国政に関する調査をすることができ、衆議院予算委員は、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わることができた(当時の国会法四〇条、四一条一項、二項一五号、四七条、衆議院規則四五条一項、五〇条、九二条一五号、九四条一項)。
(三) したがって、丙川二郎は、衆議院予算委員として、同委員会の議案、請願等の審査及び国政に関する調査に関与し、同委員会の議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わるなどの職務権限を有していた。
三 リクルートと丙川二郎との関係
丙川二郎は、五五年二月ころ、衆議院予算委員会における質疑の資料を収集するため、リクルートに対し大学生の就職問題に関する資料の提供を求め、当時リクルートの事業部担当取締役であったR8と面談したことがあり、そのころ、出版業界のパーティーで被告人及びR8と会って名刺を交換したこともあった。また、五九年一、二月ころ、丙川二郎から国会における質疑資料を収集するように指示を受けたB4秘書が、リクルート事業部次長であったR9らから大学生の就職問題に関する資料の提供を受け、後日、R9が議員会館の丙川事務所にその補充資料を持参したことを契機に、リクルートと丙川二郎との関係が深まり、その後、R9がB2秘書に誘われて丙川二郎の勉強会に出席したり、丙川二郎の依頼を受けて、創価学会の会館建設用地の関係でリクルートのビル事業部から入手した物件情報を届けるために議員会館の丙川事務所を訪ねるなどしていた。
(〈証拠略〉)
第二 五九年五月下旬から七月下旬までの間の数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、五九年五月下旬から七月下旬までの間、R9らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し五回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、同年五月下旬ころ、R7及びR9が、議員会館において、衆議院文教委員会で通産省等の官庁が人事課長会議申合せに違反して青田買いをしていることを取り上げ、同申合せ遵守の徹底方を求めるなどの質問をしていただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、同年六月中旬ころ、R7、R9及びR10が、議員会館において、通産省等の青田買いを国会で指摘し、人事課長会議申合せに従い、一〇月一日前に各省庁と学生とが接触しないことを指導するように質問していただきたい旨の要請をし、三回目の請託として、同年六月一九日ころ、R9らが、議員会館において、同様の要請をし、四回目の請託として、同年七月一八日ころ、R5、R6、R7らが、料亭「艮」において、今度の委員会では国会質問をよろしくお願いしたいとして同様の要請をし、五回目の請託として、同月二三日ころ、R9らが、クラブ「寅」及びバー「卯」において、同様の要請をした旨主張する。
弁護人は、弁論において、五九年五月下旬から七月下旬までの間、被告人の関与の下でリクルートの者が丙川二郎に対し衆議院文教委員会における質疑を求める数回の請託をしたことについて、特に争っていない。しかし、被告人は、公判段階において、右請託に関する記憶はない旨供述し、弁護人も、公判手続の更新に際しては、被告人とR9らとの間には、丙川二郎に対し国会質問を依頼することの共謀がなかった旨主張していた。また、右請託に関する具体的事実関係は、その後の請託の存否、丙川二郎に対する資金供与及びコスモス株の譲渡についての被告人の関与並びにこれらの賄賂性を検討する上で意味を有する。
そこで、以下、判示第二の二①の請託を巡る事実関係について検討を加える。
二 背景事情
1 被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、求人企業と新規大学等卒業予定者との間の媒体としての就職情報誌の利用価値が低下して、求人企業から入る広告料等の収入が減少する可能性がある上、多種類の就職情報誌の計画的な発行・配本の業務に重大な支障を来し、さらには、就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、就職情報誌に対する法規制や行政介入を招くおそれもあるなどと懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していた(本章第一節第二の二)。
ところが、五八年度の就職協定については、協定違反が随所に見られた上、五九年一月一三日には、L1日経連専務理事が就職協定をやめたい旨の発言をしたという新聞報道もあったことから、被告人らリクルートの幹部は、五九年度の就職協定の存続及び遵守について、強い危機感を抱くようになり、同月一八日のじっくり取締役会議で、就職協定の遵守に文部大臣の協力をいただくように働きかけることを基本路線とし、R7やR9を中心に文部省等の関係機関とのリレーションを担当する外交組織を設けることを決め、同月末ころの取締役会で、R6事業部担当取締役、R7社長室長(前事業部長)、R22事業部長、R9事業部次長らで職安法対策プロジェクトチームを結成し、同チームに、就職情報誌一般に対する法規制問題に当たらせるほか、R7やR9を中心にして就職協定に関連する情報収集や対応策の策定にも当らせることを決めた(本章第一節第二の三1)。
2 被告人らリクルートの幹部は、右1のプロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、五九年三月一三日までに、人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きをしており、L2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、そのころ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止するために、乙山官房長官に働きかけることを決定し(前節第二の二6)、被告人が、五九年三月一五日、公邸を訪ねて乙山と面談し、公務員の青田買い防止の善処方を依頼した(前節第二の一1、六4。なお、同面談時の乙山との会談内容に関する被告人の検面調書のうち、乙書1一四及び乙書1二五は判示第一の公訴事実の証拠として取り調べたにとどまるが、乙書1三〇は判示第二の各公訴事実の証拠としても取り調べており、前節第二中の認定に用いた証拠のうち、乙書1三〇等の判示第二の各罪の証拠としても取り調べた証拠のみによっても、右事実を十分に認めることができる。)。
3 その後、五九年三月二八日に五九年度人事課長会議申合せがなされたが、同年四月二七日付けサンケイ新聞で通産省の青田買いを巡る報道がなされ、同年五月二七日付けサンケイ新聞でも労働省の青田買いを巡る報道がなされた(本章第一節第一の三5、6)。
三 丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑及び意見
1 五九年六月二〇日の衆議院文教委員会における意見
第一〇一回国会会期中の五九年六月二〇日、日本育英会法案を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「五九年六月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣や政府委員に対し同法案に関連する質疑をした後、「この法案の問題とちょっとずれるかもしれませんけれども」と前置きをした上、次のとおり意見を述べた。
「就職の場というものは、十月あるいは十一月というふうに決められておりますけれども、もう一歩踏み込んで、かなり早い時期から青田刈りのような状態が出てきている。ある新聞などでは『通産省が“青田買い”東大へ官僚参上、「協定」踏みはずす』という見出しで報道しておりまして、ここにも写真が出ておりますが、先輩が来て後輩に対していろいろとガイダンスをするというふうな事態がございます。片方では、純粋な気持ちで学問を探究し大学で勉強をする学生、そして大変苦しい汗を流している学生、もう片方では、いろいろと手だてを尽くして役所までが、協定というのがあるのだそうですけれども、かなり早手回しのこういうようなことをやってくる。だんだん学生の間には、本当に純粋な気持ちで青春を過ごしてきた中で、卒業間近になってくるとずいぶん違った暮らしぶりに分かれてくる。私は、こういう状態というのは余りいい姿ではないのじゃないか。やはり就職なら就職という問題はある時期以降考えさせることとして、それまでは本当にしっかりと勉強をしてほしい。そのためにいろいろと育英奨学制度を我々はこうして審議して、国の施策としてやっている。やがてどこかに就職をされ、それがまた国家に貢献することになると思うのですけれども、私は、そういう意味で、こういう就職の問題なんかも含めてみまして、育英奨学という問題はかなり底の広い問題だ、就職の問題まで含めてトータルとしていろいろ考えていかなければならない。きょうはそういう問題提起だけにさしていただきたいと思うのですけれども、この育英奨学の問題を研究していきますと、これが結局、小さいころから受験、受験と言ってきたその一番の仕上げの部分の暮らし、そして、どこへどう場を得て勉強したことを社会に生かしていくかという部分につながってくるわけだと思うのですね。
そういう意味で、文部省としても、他の省庁等とも連携をとって、こういう就職の場での余り激しい競り合い、上級職の発表があった、それよりも先駆けて大体だれがどこへ行きそうか検討をつけて、なんかと、こう取り合いのような状態で、ちょっとルールが踏み外されているように私は受けとめているのですけれども、これなども、この育英奨学の問題と全然別のようにも思うのですが、いや、しかし深い関係はあるんだ、そんなふうに私思って、ちょっとオーバーしてしまいましたが、最後に指摘をさしていただいたわけであります。」
(〈証拠略〉)
2 五九年八月三日の衆議院文教委員会における質疑及び意見
第一〇一回国会会期中の五九年八月三日、文教行政の基本施策に関する件を案件として衆議院文教委員会の会議(以下「五九年八月の文教委員会」といい、五九年六月の文教委員会と合わせて「五九年六月及び八月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣に対し臨教審に関連する質疑をした後、次のとおり質疑をするとともに、意見を述べ、説明員として出席していたG4人事院事務総局任用局企画課長及び政府委員として出席していたD3文部省高等教育局長から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「問題は、私六月二十日にこの委員会で答弁をいただかないまま、指摘をするにとどめたテーマでございます。大学卒業生の就職と企業あるいは官庁というふうな問題でございます。随分古い話になるかもしれませんが、四月二十七日のサンケイ新聞に『通産省が“青田買い”』、こういう記事が出ております。この新聞の報道によりますと、『二十六日昼、東京・本郷の東京大学で、通産省のエリート官僚が、来春卒業する工学部学生を集め、早々と“就職説明会”を開いた。』こう報ぜられているわけです。また、五月二十七日のサンケイ新聞には、同じく『労働省率先垂“犯”?!青田買い京大でOBが説明会』という記事が出ている。三月の下旬には、各省庁の人事担当者が集まって、国家公務員試験の受験者についても民間の就職協定同様、十月一日以前には一切学生の各省庁訪問や官庁からの働きかけはしない、こう申し合わせたとあるわけなんです。この報道の真偽の問題についてはともかくとして、私は一応この報道を前提としてお伺いしたいわけなんですけれども、こういう申し合わせがあり、また現実に四月、五月に官庁と学生とのそうした接触がある、こういう問題、現実問題だろうと思いますけれども、これは人事院としてどのように見ていらっしゃるのか、お伺いしたいと思います。」
(人事院のG4説明員の答弁要旨)
大学卒業予定者の就職問題については、五九年三月二八日に各省庁の人事課長会議において、求人求職秩序の維持についてということで申合せをしていただいたが、その中では、いわゆる一〇―一一協定に協力し、協定の趣旨に沿った対応を各省庁でし、民間と歩調を合わせて求人求職秩序の維持に官庁も務めていこうという申合せをされた。私どもは、そういう方向に各省が努力していただくことを働きかけてきたところ、指摘を受けた点はよく判明しないところもあるようだが、私どもとしては、とにかくこの申合せの趣旨を徹底するようにしていきたい。いやしくも官庁の側でこの申合せあるいは民間の協定の趣旨に反すると疑われるようなことがあってはいけないのではないかという趣旨で対応してきており、五月九日にも、就職説明会への派遣の問題についても、各大学の要請に応じて各省庁が個別に対応することは適当でない面もあるので、人事院が対応するということで各省庁の了解を得ている。私どもとしては、そういう姿勢をもって申合せの趣旨が徹底されるように努めていきたいと考えている。
(丙川二郎の質疑及び意見)
「よくわかりました。くれぐれも、学生生活非常に貴重な四年間でありますので、さかのぼっていけば切りがないことでございます。いい人材を欲しい企業あるいは官庁が次々と早目早目とさかのぼっていったあげくには、もう入学した時点からそれなりの進路が決まる。決まる人はいいのですが、決まらない人は大変な苦しみと申しましょうか、いろいろ状況が出てくるわけで、そうした学生生活を、私ども関心を持つ者としては、ぜひとも今の御答弁のような形で再度各省庁との連絡をお願いしたいと思っているわけでございます。同じような問題がいわゆる私大にもあるいは一般企業との間にもあるわけでございまして、文部省におかれましても、いわゆる教育を取り扱っている官庁でありますので、卒業生を送り出した後については知らないということではなしに、やはりこの夏も暑い中を学生諸君はそれぞれ平生とは違ったようないでたちで各会社、先輩を歩いておられる。私は、そういうものも一つの大きな人生の勉強、修業だと思う反面、何とかもう少しそれぞれが学生生活をエンジョイした後にすきっといかないものか、そんなふうに思っておりまして、これは文部省としてどのような対応をなさるのか、どの部局がこれに対応しておられるのか。私自身もこの問題について文部省とやりとりするのは初めてなんですけれども、先般もたしか育英会の問題を審議した折にこの問題を取り上げた経緯がございますので、大学を所管される高等教育局長から、この問題についての現在の認識あるいは対策についておありでしたらお伺いできればと思います。」
(文部省のD3政府委員の答弁要旨)
五七年度に労働省が中雇対協の決議に加わらず、大学側と企業側の両当事者による自主的な協定となった後、就職協定全体が守られるように、大学側を十分指導し、ラジオや週刊誌の政府広報その他あらゆる機会を通じて、その周知徹底を図っている。いずれにしても、大学側、企業側双方が守っていただくことで対応していかなければならないし、指摘されたように一部官庁に大変遺憾な点があったことなどの点についても、今後十分、本年度さらに就職協定について新たな改善策で対応していることなどを各大学にも一層徹底して、就職の機会が各学生均等になるように、積極的な姿勢で対応したいと考えている。
(丙川二郎の意見)
「ありがとうございました。就職の問題、今非常に重要な時期でもございますし、くれぐれも学校での学生生活を乱さないようにしていきたいと思っております。」
(〈証拠略〉)
3 右質疑の準備資料の記載
丙川二郎が五九年八月の文教委員会において質疑をした際の準備資料である「議員発言資料59.8.3文教委」と題するファイル(甲物1七七)中の質問原稿には、通産省が青田買いをした旨の同年四月二七日付けサンケイ新聞の記事及び労働省が青田買いをした旨の同年五月二七日付けサンケイ新聞の記事に触れた上、次の二問が記載されている。
「問1 そこで『再度この時期に各省庁間で先の申し合わせを確認し徹底すべきであると考えますが、所管の人事院より、どのような措置をとられるかうかがいたい』」
「問2 さらに、『10月1日以前にOBを含めた各省庁側と学生が接触することのないよう重ねて厳重に御指導いただくことを、この場で明解にお約束いただき、今後はルール違反をさせないようにように〔原文のまま〕願いたいがいかがか』」
(〈証拠略〉)
四 右質疑前の時期にリクルート内で作成された文書
1 取締役会議事録等の記載
五九年四月二七、二八日の両日にホテルナゴヤキャッスルで開かれたリクルートのじっくりT会議議事録(甲書1五一一)には、「3 職安法改正及び就職協定関連」の項目中で、「協定関連」の表題の下、「①マスコミタイアップ ②国会質問 ③業界・企業への自粛要請 ④文部省アプローチ ⑤私学への“OB訪問”自粛要請 ⑥RBに“OB”自粛掲載」という記載がある。
五九年五月二四日付け「5/23じっくりT会議決定事項」と題するR10作成名義のリクルートの社内文書(甲書1五一三)には、「〔3〕協定関連」の表題の下で、「従来通り」という記載があり、欄外に「59・5・31」と記載のある「プロジェクトチームアクションプラン」と題するリクルートの社内文書(甲書1五一四、五五一)には、「就職協定関連」の表題の下で、「国会質問案再検討」という記載がある。
2 国会質問案の作成
リクルートでは、五九年五月から六月にかけて、R10の起案により、丙川二郎に対し国会における質疑の案として渡すため、「(通産省に対する質問)」で始まる書面(甲物1四二)を作成しており(〈証拠略〉)、この書面には、次の記載がある(原文は、横書きであり、傍線はアンダーライン〈編注 破線〉である。また、「5.」が欠落している。)。
(通産省に対する質問)
1.4/27のサンケイ新聞によると、「通産省が青田買い」との報道がされています。同新聞記事によれば、「26日昼(4/26)、東京本郷の東京大学で通産省エリート官僚が来春卒業する工学部生を集め、早々と就職説明会を開いた。」とあります。
これは、事実ですか。また、大臣官房秘書課の指示があったとありますが、本当ですか。
2.同新聞記事によると、「先月下旬(3月下旬)、各省庁の人事担当者が集まり、国家公務員試験受験者についても、民間の就職協定同様、10月1日以前には一切学生の各省庁訪問や官庁側からの働きかけはしないと申し合わせた」とありますが、
今回の説明会はルール違反ではないのですか。
(労働省に対する質問)
3.5/27のサンケイ新聞には、「労働省率先垂犯、青田買い、京大でOBが説明会」との記事が出ています。これは、労働省のフライングであると思いますが、事実ですか。
4.同新聞記事によると、「係長OBが『早いところでは8月20日すぎくらいに内定が出る。それまでには、交通費はかかるが、何回かは東京へ足を運ばないといけない。この時期になったら一度、内部を見学に来るといい。……』などと、説明した。」とありますが、
労働省は、先の申し合わせの趣旨に反して、青田買いをやっているのですか。
(人事院もしくは各省庁における採用活動を所轄する官庁に対する質問)
6.4/27のサンケイ新聞によると、「『民間企業は就職協定を守っているのに、国がこれに従わず、堂々と省庁説明会や官庁訪問を行っているのはおかしい』と、日経連がクレームをつけた」と出ておりますが、
10月1日以前に、今回の通産省や労働省のようにOBが説明会に参加することは許されているのですか。
また、日経連のフレーム〔原文のまま〕の通り、このような説明会は自粛すべきだと思いますが、
各省庁間で自粛や禁止の申し合わせをすべきではないのですか。
7.最終にお願いいたします。
10月1日以前に、OBを含めた各省庁側と学生が接触することのないようご指導いただくことを、この場でお約束いただきたい。
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①五九年五月一一日にR6、R7及びR9が、②同月三〇日午後二時ころにR7及びR9が、③同年六月六日にR9及びR10が、④同月一五日午前一一時一五分ころにR7、R9及びR10が、⑤同月一九日午前一一時五〇分ころにR9及びR10が、⑥同月二〇日にR9及びR10が、⑦同月二一日にR9及びR10が、⑧同年七月二日にR9及びR10が、⑨同年八月一日にR9ほか一名が、⑩同月七日にR9がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出て、議員会館の丙川事務所を訪問したことは、客観的な証拠からも明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第二の一)、右②が一回目の請託、右④が二回目の請託、右⑤が三回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 接待状況
①五九年七月一八日に、R6、R5、R3及びR7が、東京都港区赤坂〈番地略〉所在の料亭「艮」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、②同月二三日に、R6、R7及びR9が、リクルート本社地下の会員制クラブ「寅」において、丙川二郎及びB2を接待し、引き続き、R6及びR9が、東京都中央区銀座(以下「銀座」という。)のバー「卯」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、③同年八月一六日に、R9が、銀座のクラブ「辰」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、④同月二二日に、R6、R5、R7及びR9が、銀座の料亭「巽」において、丙川二郎及びB2を接待し、R9が、「辰」において、丙川二郎及びB2を接待したこともまた、客観的な証拠から明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第二の一)、右①が四回目の請託、右②が五回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
3 利益供与
五九年七月二八日から三〇日までの間、丙川二郎が家族二名と一緒に京都市内のホテル○○京都に宿泊したが、右ホテルは同月二四日にR9が手配し、その宿泊費及びホテル内の飲食費は、同年八月下旬にリクルートが支払った。
(〈証拠略〉)
4 金額一〇〇万円の小切手の供与
リクルートやその関連会社は、五九年七月まで丙川二郎に対する資金供与をしていなかったが、リクルートの関連会社は、R1から連絡を受けて、同月二六日にリクルート情報出版代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を振り出し、R7は、同年八月一日、R9とともに丙川二郎を議員会館に訪ね、丙川二郎にこの小切手を渡した。
(〈証拠略〉)
六 関係者及び被告人の各供述
1 R9の公判段階における供述
R9は、公判段階(〈証拠略〉)において、次の趣旨の供述をしている。
五九年四月二七日の新聞で通産省の青田買いを巡る報道がなされた後、自分の周辺では、また就職協定が乱れそうで大変だという危機感があり、右新聞報道の後、R6専務取締役かR7社長室長から、国会で官庁の青田買い問題を取り上げてもらうために丙川二郎とのアポイントメントを取るように依頼された。
五九年五月上旬の終わりか中旬、丙川二郎の関心の所在について感触を探るため、R6及びR7とともに議員会館の丙川事務所に行って丙川二郎と面談し、通産省のフライングに関する新聞記事等を話題にして考えを聞いたところ、理解を示してくれたので、丙川二郎に対し国会質問を依頼する陳情をしてよいという感触を得た。
五九年五月下旬ころ、R7とともに議員会館の丙川事務所を訪問して、R7が丙川二郎に対し、通産省のフライングの新聞記事を見せながら、学生にとって好ましくないことであり、文教委員会で取り上げていただきたいとお願いし、さらに、官庁の青田買いと就職協定との関係、就職協定とリクルートの事業との関係について説明したところ、丙川二郎は、大変高い理解を示し、国会質問を引き受けてくれる態度であると理解した。
その後、R7を中心に、R10が書記役になって、丙川二郎に渡す国会質問案を作成したが、その過程では、役員会か被告人から、ニュアンスを強め、具体的な答えが期待できる質問にするようにという指示があって、手直しをした経緯もある。
五九年六月に入ってから、R7及びR10とともに、議員会館の丙川事務所を訪問し、R7が中心になって、丙川二郎に対し、京都における労働省のフライングの件を話し、「案としてこのように考えてみました。」などと述べて、質問案を渡した。その際、アンダーラインの所を指して、「この辺りをお願いします。」という感じの話をし、さらに、R10が作成した資料に基づき就職協定の歴史等について説明した。その際、丙川二郎は国会で質問することを了承してくれた。
丙川二郎の質問が予定されていた五九年六月二〇日の前日にも、R7と一緒だったと思うが、議員会館に丙川二郎を訪ねた。その際は、再度よろしくお願いしますみたいな感じのご挨拶に行ったのではないかと思う。
国会質問翌日の六月二一日にも、上司の誰かとともに、丙川二郎を議員会館に訪ねたところ、丙川二郎は、時間がなく頭の方で終わってしまったと話していた。
五九年七月二三日の夕方に会社に戻ると、「寅」に呼ばれ、そこへ行くと、丙川二郎、B2とともにR6、R22、それにR7かR1がおり、すぐにR6とともに、丙川二郎とB2を銀座のバー「卯」に案内した。その場で、丙川二郎から、京都旅行をしたいのでホテルを取れないかと言われたため、ホテル○○京都を手配して予約し、宿泊費用はリクルートが負担した。
2 B2の公判段階における供述
B2は、公判段階(〈証拠略〉)において、次の趣旨の供述をしている。
五九年五月以降、R9と一緒にR7も議員会館の丙川事務所を訪ねてくるようになり、私も同席の場で、丙川二郎に対し、一流企業が早くから学生を確保しており、官庁も同じようにしていることや、青田買いが横行するとリクルートの就職情報誌の存在価値にも関わることを説明し、特に役所がルール違反をすることはけしからんという趣旨を力説し、官庁がフライングしないようにする方法はないかということを話していった。
その後しばらくして、R6も、R7及びR9とともに議員会館の丙川事務所を訪ねてきて、R6が丙川二郎に対し、右と同趣旨の話をした。
五九年六月の文教委員会で丙川二郎が質疑した後、R7が来て、次の国会における質問の日を聞いて、もう一押しお願いしますというようなことを言った。
また、R7とR9が丙川二郎を訪ねてきて、先般来の新聞記事のことでこのようなことを考えてみましたがご参考までにというようなことで、甲物1四二と同じ国会質問案を丙川二郎に渡したことがあった。丙川二郎は、その質問案を見て一生懸命考えていたようであり、心得たというような意思表示をしたと思う。
丙川二郎は五九年八月の文教委員会で青田買いについて取り上げたが、その前に、丙川二郎が右国会質問案を見ながら私に質問内容を口授し、私が質問原稿を作成し、それが甲物1七七中の質問原稿である。
五九年七月、料亭「艮」において、丙川二郎とともに、R5、R6、R3及びR7から接待を受けたが、その時は、挨拶をして、何分にもよろしくということで、それ以上の話はなかった。
そのほか、丙川二郎と一緒にリクルート本社地下のクラブ「寅」に行き、そこからR6、R9とともに銀座のクラブに行ったことがある。
また、「巽」という店名かもしれないが、丙川二郎と一緒に、R5、R6、R7及びR9から接待を受けたことがある。
3 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)
「昭和五九年春ころと思いますが、確かサンケイ新聞だったと思うのですが、通産省などの官庁が青田買いをしている事実が報道され、官庁が実質的な協定破りをしていることが指摘されました。就職協定そのものは民間企業に関係する申し合わせですが、官庁においても公務員採用に関して、就職協定の趣旨を尊重した申し合わせや通知がなされているはずであり、官庁が協定無視の行為を行なうと、当然それが民間にも波及して、協定を守ろうとする意欲が減退することは目に見えていました。そのころのリクルートのT会議であったと記憶していますが、官庁の青田買いのことが話題になりました。私であったか他の取締役であったか忘れましたが、『官庁が青田買いをするのはけしからん。』といった意見が出ており、官庁の問題も含めて就職協定遵守のための対策を協議しました。その結果、協定遵守のため、国会の委員会において質問してもらおうということになり、公明党の丙川次郎議員にその質問をお願いすることになったのです。事業部のR7やR10らが中心となって質問案を検討し、作成して、私も了承して、その質問案に基づいてその頃、丙川議員にお願いして、衆議院文教委員会で質問してもらったのです。」
(二) 被告人の元年五月四日付け検面調書(乙書1一五)
「丙川代議士は昭和五九年六月二〇日の衆議院文教委員会において、『通産省が青田買いをしているとの報道がなされている。』などと質問し、又、同年八月三日の同委員会において、通産省及び労働省の青田買いに関する報道を取り上げて、人事院及び文部省に対し、その対応について質問し、両省の担当者から就職協定の遵守について『積極的に対応したい。』旨の答弁を引き出しております。この丙川代議士の青田買い防止、就職協定遵守についての質問は、前にも申し上げたように私共の会社の事業部の者らがその質問案を作るなどして行なってもらったものであり、このことにつきましては、私も承知していたわけであります。」
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
「このような事情〔五九年三月に被告人が公邸に乙山を訪問して公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたこと〕から、私共としては、今後公務員の青田買いは自粛されるだろうと思っていたのですが、ところが、昭和五九年四月下旬ころのサンケイ新聞に、『各省庁の人事担当者会議で、一〇月一日以前には学生と接触しない旨の申し合わせがあったにもかかわらず、通産省が青田買いをしている。』といった趣旨の記事が報道されたのでした。続いて、五九年五月下旬ころには、労働省も青田買いをしている事実が報道されました。このようなことから、リクルートとしても公務員の青田買い防止のため更に対応を迫られたのでした。そのころのリクルートの取締役会議だったと思いますが、公務員の青田買いのことが話題になり、この問題を、政治家に頼んで、国会の委員会で取り上げてもらおうということが決まった記憶です。そして、プロジェクトチームが中心となってこの問題を依頼する国会議員の人選をしたのだと思いますが、その後の取締役会で公明党の丙川次郎代議士にお願いして、衆議院文教委員会で公務員の青田買いについて質問してもらい、公務員採用において青田買いをしないように、政府側の答弁を求めるようなことを話し合った記憶です。丙川代議士側との接触は、R7やR10らが中心となって担当していた記憶です。」「お示しの資料〔甲物1四二〕は、丙川代議士に国会での質問をお願いする際の質問案として、リクルートで作成したものということですが、私としては、お示しの資料であるかどうかは明確でないのですが、丙川代議士に公務員の青田買い防止に関して国会質問をお願いするための質問案をR7から見せてもらったような気がします。その際、私が質問案について、意見を述べたかどうかについては、述べたかもしれませんが、明確な記憶がありません。」
(四) 被告人の捜査段階における供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、次のとおり、被告人の捜査段階における右(一)ないし(三)の供述には任意性がない旨主張する。
(1) 被告人は、丙川二郎に贈賄したという事件の取調べ当時、三回の逮捕を繰り返されて、身柄拘束が二か月以上に及び、その間、判示第四や第五の各事件の捜査でP3検事の強圧的、脅迫的な取調べを受けていたため、肉体的、精神的に限界に達しつつあり、絶望感にも苛まれていた。
(2) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)記載の供述は、被告人には、取締役会等で国会質問を論議した記憶はなく、まして丙川二郎に対し国会質問を依頼することを了承した事実もないのに、既に国会質問案を了承していた旨の同月一六日付け検面調書(乙書1八)に署名させられていたことや、P4検事から「同じ内容のことが書いてある取締役会議事録があり、理屈ではこうなる、R7、R10らの調書もある。」などと強く迫られた結果、署名せざるを得なかったのであるから、任意性を欠いている。
(3) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)記載の供述は、それまでに作成された調書を踏襲するものであり、被告人は、それまでの厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた経緯から、強い抵抗をすることもできずにP4検事の意図に沿う調書作成に応じざるを得なかったのであって、任意性を欠いている。
4 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R7、R6及びR5は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一三日付け検面調書(甲書1一五三)
「五九年四月下旬ころにサンケイ新聞に通産省が青田買いをしたということが報道されました。〔中略〕そして、丁度そのころ、名古屋でじっくりT会議が開かれて、その場で甲野社長から、このサンケイ新聞の通産省の青田買いという記事が問題にされ、各省庁の人事担当課長会議の申し合わせに関して、このような青田買いをするとはけしからんので、国会質問で取り上げてもらって社会問題化させるべきであるとの指示があって、国会議員に頼んで委員会でこの官庁の青田買いを追及してもらうという方針が決定されたのでした。このことは、その後間もなく、R6取締役やR7社長室長からきかされて知ったのでした。」
「五月上旬ころまでには、R6取締役、R7社長室長、R9事業部次長らが議員会館に丙川次郎代議士を訪ねて就職協定の話しなどをして国会質問をしてもらえるかどうか打診に行くということがあったのです。丙川先生とはよくは知りませんでしたが、R9次長の方が何かのことで知り合っていたということで、そのR9次長の意見ですでに職安法改正問題の関係でロビーイングの対象としてリストアップされていたのですが、この就職協定のことでもお願いできるのではないかということで、早速このように丙川先生を訪ねたのでした。」
「五九年五月三一日付けのプロジェクトチームアクションプランと題する書面〔甲書1五一四〕は、私がその日行われたプロジェクトチームの会議で検討してまとめられたことを私が書いたもので、この字は私のものです。この中で就職協定関連として国会質問案再検討と書いてあるのが今述べた丙川先生に対する就職協定の国会質問案を検討し、そして、更に再検討を加えてこれを完成するということが話し合われたことを示すものです。この会議には、事業部関係のR6取締役、R22事業部長、R9次長、R11課長、それに私が出席しており、これにR5専務あたりも出席したように思います。〔中略〕就職協定担当になっていたR7社長室長は、もちろん出席していました。〔中略〕その後二週間位の間で、私がその国会質問案の原案を起案し、これをR11課長やR7社長室長、R9次長らに検討してもらい、R7社長室長からこれを甲野社長に上げてもらい、甲野社長からも、その質問案の表現などに関して具体的な指示がなされ、私の方でその指示に従って書き直したりしたのでした。」
「六月中旬ころに、私は、R7社長室長、R9次長に連れられて、国会議事堂近くの衆議院の議員会館の丙川次郎代議士の部屋に行って、丙川先生にこの質問案をお渡しし、国会質問をお願いし、私も就職協定の仕組みや実態の説明をしているのです。〔中略〕R7社長室長、R9次長そして私の三人が丙川先生の議員会館の部屋のソファーに座って、丙川先生御本人に就職協定に関して国会質問を依頼した時の状況ですが、〔中略〕まず、R7社長室長が丙川先生に『前回お願いしましたように、誠にせんえつですが、これがその質問の資料でございます。』などと言って、私達が甲野社長の指示で作成したワープロで二枚に打った質問案を先生に差し出したのでした。その際、この新聞記事二枚も丙川先生に渡したのでした。〔中略〕また、R7社長室長かR9次長かが『今年は官公庁も協定に協力するとの申し合わせが行われています。』などと説明し、〔中略〕R7社長室長は、『このように申し合わせがなされたのに、通産省や労働省が青田買いをしているわけです。先生からこの資料にありますように通産省などが申し合わせに反して青田買いをしていることを国会で質問していただき、今後は申し合わせに従って一〇月一日以前に官庁側がOBも含めて学生と接触することのないようにすることを質問していただきたいのです。官庁が青田買いを始めますと、民間企業も青田買いを始めてしまい、このままでは就職協定が廃止されてしまう恐れもあるのです。就職協定が守られていれば、その間、リクルートの就職情報誌が学生と企業双方にお役に立てるのですが、就職協定がきちんと守られないと、それだけ就職情報誌の利用価値もなくなってくるのです。就職協定が守られればリクルートの営業にとっても大変よいのですが。』などと先生に質問していただく内容などをいろいろ説明したのでした。これに対し、丙川先生は、『なるほど、このように青田買いが横行すれば、学生も落ちついて勉強ができなくなるし、困ったものです。通産省や労働省までが青田買いをするなんて、とんでもないですね。国が申し合わせを破れば、民間企業もこれにならって青田買いを始めるでしょう。』などと感想を述べられ、私達の説明をよく理解して下さったのでした。そして、R7社長室長は、『それでは、その質問資料にありますように、通産省や労働省に対して申し合わせ違反について委員会で質問していただき、また、人事院などに対してこの人事担当者課長会議における申し合わせを今後きちんと守ってくれるよう是非質問していただきたいのですが、よろしくお願いします。』などと言って、私達が作成して、その時お渡しした質問案の内容に沿った質問を是非文教委員会でしていただけるようお願いしたわけでした。これに対して、丙川先生は、『それでは、今度の文教委員会でこの資料にあるように、私から官庁の青田買い問題などを質問してあげましょう。』と言って、リクルートがお願いしたこの質問依頼を快く引き受けてくれたのでした。」
(2) R10の元年五月一八日付け検面調書(甲書1一五六)
R10は、さらに、元年五月一八日の検察官の取調べにおいて、右(1)の供述内容を再確認した上、五九年六月中旬ころに訪問した際には、リクルート発行のセールスレポート総集編中の就職協定関連の頁と「就職協定の推移」と題する書面の写しも渡したように思う旨補足している。
(二) R7の供述
(1) R7の元年五月一三日付け検面調書(甲書1一二一)
「昭和五九年四月二七日頃、新聞に『通産省が青田買い』『東大へ官僚参上』『協定踏みはずす』旨の官庁が青田買いをしたとの記事が掲載されました。〔中略〕この記事が出た頃、ホテルナゴヤキャッスルにおいて、じっくりT会議が開かれ、その席上で官庁の青田買い問題が協議されました。〔中略〕この議事録〔甲書1五一一〕は、昭和五九年四月二七日及び翌二八日に、ナゴヤキャッスルで開かれたじっくりT会議の内容をR1が作成したもので、私もこのT会議に出席していますが、この議事録の『職安法改正及び就職協定関連』の項目に『協定関連』『国会質問』と記載されているように、このT会議において、就職協定問題が協議され、通産省が青田買いをしたという先程の記事のことが話題になったのです。そして、確か甲野であったと思いますが、『官庁は課長会議で就職協定に協力すると申し合わせたのに、通産省はその申し合わせに違反するようなことをしている。官庁が青田買いをしていることを国会で取り上げて質問してもらおうじゃないか。』などと言いました。この言葉の意味は、先の各省庁人事担当課長会議において、官庁が就職協定に協力して一〇月一日以前には学生と接触しないという申し合わせがなされたにもかかわらず、通産省が右申し合わせに反することをしたので、国会議員に依頼して、官庁の青田買い問題を国会で取り上げて質問してもらおうということでした。そして、リクルートでは、就職協定が存続し遵守される為には、まず官庁の青田買いを改めさせなければならないと考えていましたので、課長会議の申し合わせに反するような行為を国会で取り上げて質問してもらうことは、取締役は皆賛成でした。このようにその日のT会議で官庁の青田買い問題を国会で取り上げて質問してもらうことが決まりましたので、議事録に『協定関連』『国会質問』と書かれているのです。」
「昭和五九年四月下旬頃か五月中旬頃、リクルートの専務取締役で広告事業本部長であったR6とR9と一緒に議員会館に丙川代議士を尋ね、就職協定のことや当時労働省で検討していた就職情報誌に対する法規制のことについてお話しをしました。そして、丙川代議士と就職協定のことについてあれこれお話ししたところ、丙川代議士が就職協定のことについて関心を持っていらっしゃることが判り、丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たのです。なお、丙川代議士に就職情報誌に対する法規制問題も相談しましたが、丙川代議士は、その法規制のことについてはあまり関心を示されず、先程お話ししたように、丙川代議士は、就職協定の方に関心を持っていらっしゃったのです。」
「丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たことについては、その後の取締役会で報告されました。先程、私は、昭和五九年四月二七日及び翌二八日のじっくりT会議の席上で官庁の青田買い問題について質問していただく代議士を丙川代議士とするということまで決まったかどうかよく憶えていないと申し上げましたが、私の記憶では、丙川代議士が就職協定問題について非常に関心を持っておられ、丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たことをその後の取締役会で報告した際、その取締役会で丙川代議士が就職協定問題に関しそれほど関心をもっていらっしゃるのなら、丙川代議士が文教委員会の委員であるので、丙川代議士に頼んで、官庁の青田買い問題に関し、文教委員会で取り上げて質問してもらおうと決定されたと記憶しています。そして、確か甲野であったと思いますが、『丙川先生に委員会で青田買い問題を質問してもらうとしても、その質問案はリクルートで作成し、それを丙川先生にお渡しした方がいいんじゃないか。』などとリクルートで質問事項を記載した質問案といったようなものを作成し、その質問案を丙川代議士にお渡しして、それに基づいて質問してもらおうと発言し、他の取締役もその発言に賛同致しました。」
「以上のような取締役会の決定に基づいて、私、R9、それに事業部長であったR11、R10が丙川代議士にお渡しする質問案を作成することになったのです。その質問案を検討している途中の昭和五九年五月下旬頃であったと記憶していますが、私は、R9と一緒に議員会館に行き、丙川代議士に対し、文教委員会で官庁の青田買い問題を取り上げて質問していただきたいとお願いいたしました。私は議員会館で丙川代議士に会い、〔中略〕就職協定の仕組みや実情、それに就職協定が遵守されなければ就職情報誌の価値が薄くなって、リクルート等就職情報誌業界が困るということを説明致しました。そして、私は、丙川代議士に対し、『実は甲野から言われて来たのですが、三月下旬頃、各省庁人事担当課長会議というものがあって、官庁も就職協定に協力するとの申し合わせがなされたのに、その申し合わせに反し、官庁が青田買いをしているのです。ぜひとも丙川先生に文教委員会で官庁の青田買いのことを取り上げて質問していただきたいのですが、お願い出来ないでしょうか。』などと言いました。そうしますと、丙川代議士は、『学歴社会の是正につながることでもあるし、前向きに検討しましょう。』などと私達の頼みを前向きに検討すると言ってくださいました。〔中略〕丙川代議士からそのようなお言葉をいただいたことは、会社に帰って甲野に報告致しました。」
「丙川代議士にお渡しする質問案は、私やR10らが中心となって検討をした訳ですが、丙川代議士にお渡しする質問案を検討中、私は、私達が検討していた質問案を甲野に見せ、甲野から『ここはこうした方がいい。』などと指摘されながら、何回か私達が検討した質問案を修正致しました。〔中略〕今見せていただいた書面〔甲物1四二〕が甲野からあれこれ指示を受けながら最終的に作成した国会質問案であり、この質問案を丙川代議士にお渡ししました。〔中略〕この最終質問案が出来上がる前の私やR10らが検討した質問案は質問事項が長々と書かれていたのですが、それを甲野に見せたところ甲野から『こんなにごちゃごちゃ書く必要はないよ。もっとストレートな表現で書いた方がいいんじゃないか』などと言われた上、不必要な所に鉛筆で線を引かれたりして書き直しを命じられました。また、私達が考えた質問案は、もっと柔かい表現でしたが、甲野から『もう少し強い語調の方がいいんじゃないか。』などと指摘され、〔中略〕甲野の指摘どおり表現を改めたのです。私の記憶では確か三〜四回位甲野の所へ私達が検討した質問案を持って行き甲野から書き直しを命じられたと思います。またこの書面の番号7〔中略〕という項目は、当初我々が考えた質問案にはなかったのですが、甲野から『こういう風に付け加えた方がいい』などと指摘されて付け加えたものであり、更には、この質問案の質問事項の下にアンダーラインが引かれていますが、これも甲野から『必ず質問していただきたい所は、アンダーラインを引いた方がいいよ。』などと言われて、アンダーラインを引いたのです。」
「昭和五九年六月中旬頃であったと思いますが、私とR9とR10は、出来上がった質問案を持って、議員会館に丙川代議士を尋ねました。私は、丙川代議士を尋ねる前、出来上がった質問案を甲野に見せ、『丙川先生にお渡しする質問案を丙川先生の所に持って行きますから。』などと言いました。そして、甲野から『それじゃあ頼むよ。』などと質問案を丙川代議士に渡して、この質問案に基づいて官庁の青田買い問題を質問してほしいと頼んで来てほしいと言われましたので、R9、R10と一緒に丙川代議士を議員会館に尋ねたのです。〔中略〕この時丙川代議士にお渡ししたものは、この質問案だけではなく、先程の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事をコピーしたものや就職協定に関する資料等もお渡ししたと記憶しています。私は、丙川代議士に質問案等を渡し、『リクルートで作った質問案ですが、僭越でございますが、お願い出来ないでしょうか。〔中略〕』などと言って、この質問案に基づいて委員会で官庁の青田買い問題を質問していただきたいと頼みました。丙川代議士は、渡された質問案や新聞記事のコピー等を手に取って見ていましたが、『通産省や労働省が協定違反をするなんてとんでもないですね。民間企業が就職協定を守っているのに、国がこれを守らないのはおかしいですね。』などと言い、『それじゃ、今度の文教委員会でこれに基づいて質問してあげましょう。』などと言って、文教委員会において、リクルート作成にかかる質問案に基づき、官庁の青田買い問題を質問してくださることを約束してくれました。〔中略〕会社に戻り、私は、甲野に『丙川先生に質問案をお渡ししてお願いしたところ、丙川先生は快く引き受けてくださいました。』などと報告致しました。」
「昭和五九年六月二〇日、丙川代議士は、衆議院文教委員会において、『通産省が青田買いをしている。』などと発言してくれましたが、質問時間が切れた為、意見を述べるだけに終ってしまいました。」
「その後、私は、昭和五九年七月一八日頃、R6、それにR5、R3と一緒に、丙川代議士と丙川代議士の秘書のB2さんを『艮』で接待しました。〔中略〕丙川代議士は、リクルートが丙川代議士の為に『艮』で一席設けた趣旨がよく判っていらっしゃったようで、私達が丙川代議士に『今度の委員会ではよろしくお願いします。』などと言いますと、私達に向って『今度の文教委員会では、いただいている質問案に基づいて質問致しますから。』などと、今度開かれる文教委員会ではリクルート作成にかかる国会質問案に基づいて質問することを約束してくださいました。」
「丙川代議士がリクルートの依頼に応じて文教委員会で官庁の青田買い問題を質問して、先程のような答弁〔五九年八月の衆議院文教委員会における丙川二郎の質疑に対する答弁〕を引き出してくれましたので、そのお礼の気持ちから、私、R5、R6、R9は、昭和五九年八月二二日頃、『巽』において、丙川代議士とB2さんを接待致しました。」
(2) R7の元年五月二一日付け検面調書(甲書1一二八)
「私共が『艮』で丙川代議士やB2さんを接待して何日か経った頃、丙川代議士とB2さんがリクルートに来られました。そして、これまではよく思い出せなかったのですが、よく考えてみますと、丙川代議士とB2さんがリクルートに来られた時、私とR6さんとR9とで丙川代議士とB2さんをリクルートの会員制クラブ寅で接待したことがあると思います。〔中略〕寅での席を設けた趣旨も先程『艮』で丙川代議士とB2さんを接待した時の趣旨と同様であり、この寅でも丙川代議士に『今度の委員会ではよろしくお願いします。』などと次回の文教委員会では官庁の青田買い問題について質問していただきたいとお願いしたと思います。」
(三) R6の供述
(1) R6の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一三三)
「資料五〔甲書1五一一〕が〔五九年〕四月二七日から二八日にかけて名古屋で行われたじっくりT会議の議事録であります。この議事録の三枚目の職安法改正及び就職協定関連の項の『協定関連』と書いてある二番目に『国会質問』と記載されてあります。〔中略〕この国会質問の話は、確か甲野からだったと思いますが、『通産省が青田買いをしたということが新聞で報道されている。三月には各省の人事担当官会議で青田買い自粛の申し合わせが出ているのに、これでは困る。この問題については、然るべき先生にお願いして国会で取り上げてもらうという方針で望みたいが、それで良いか。』という意味の話をしたように思います。」
「公明党の丙川次郎代議士は、昭和五九年の一月ころ就職情報誌の法規制に対応するための会議の中で、ロビイング、つまり陳情する国会議員の一人として名前が挙がっていました。リクルートは、〔中略〕丙川代議士とも特別の利害関係や友好関係はなく、R9君あたりがかろうじて面識があるということで、ロビイングの対象に挙げられたのでした。このような状況でしたから、四月二七日のじっくりT会議の席上では、青田買い問題を国会で質問してもらう代議士として、まだ丙川代議士の名前は具体的に話題になっていなかったと思うのです。」
(2) R6の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一三五)
「リクルート一一〇番が社会党の議員により二度国会で問題になった後の数日後に、私は議員会館の丙川次郎先生を訪ねて行きました。〔中略〕私が丙川代議士に議員会館でお会いした時期は、昭和五九年五月中旬ころのことだったと思うのです。〔中略〕丙川先生を訪ねた目的は、一つは、社会党がリクルートを攻撃していることから、公明党などの野党もそのような考えを持っているかどうか情報収集することと、仮にそのような動きがある場合には、なるたけ大きなことにならないよう御配慮願うためでした。そして、もう一つは、青田買い問題についてリクルートの頼みを引き受け、委員会などで質問してくれる先生はいないかという、いわゆる当たりをつける目的があったのです。私が議員会館に行ったときに同行者はたぶんR9で、ほかにR7が一緒に行っていたような気がします。丙川先生に問題になっているリクルート一一〇番関係のお話をしましたところ、そのことを余り深く御存知ないようで関心を示されなかったことを覚えています。五分位でその話を終った後、就職協定の問題について、私からその背景事情などを説明したところ、丙川先生は大学生の就職問題について興味を持っておられることは、その態度で判りました。」
「五月下旬ころから六月ころにかけて開かれた取締役会議で、甲野が『青田買いについての国会質問は丙川先生にお願いすることにしてはどうか。』という意味のことや、質問案を準備してはどうかということを言い、出席者がそれを了解したように思うのです。〔中略〕この書面〔甲書1五一三〕は、T会議の後、私がR10に書かせたものと思います。協定関連のところに従来どおりと記載されているのは、前にT会議で国会質問のことが議題になったことがあり、そのときの決定どおりに行う意味も含まれていると思うのです。」
「六月の初旬ないし下旬ころまでの間に開かれたT会議で、R7から『丙川先生に質問をお願いして、その了解をいただきました。』というような報告があったように思います。」
「七月の中旬ころだったと思いますが、私とR5専務、R3取締役、それにR7が丙川先生とその秘書を接待したことがありました。〔中略〕七月一八日に艮という料亭で丙川先生を接待しているものです。〔中略〕この席は、R7、R9らが丙川先生に国会質問をお願いしてきて、それを了解していただいたのですが、リクルートとしても、今度は役員が顔出しをし、リクルートとしても重要なこととして考えていることを丙川先生にわかっていただき、青田買いについての質問を国会の委員会で、より一生懸命やっていただこうという趣旨で持ったものだったのです。R3取締役がここに入っている理由は、リクルート一一〇番の情報もここで丙川先生からお伺いできたらという意味もありました。もっとも、この理由は、国会質問をお願いしているということと比べれば、そう大きなものではありませんでした。私は、この艮での席で、丙川次郎先生に『国会質問の件では、R7、R9がお願いに行き、お世話になっております。青田買いの問題は、私どもでも重要なことでありまして、就職協定がうまくいきませんと私達の仕事上も困るのです。ひとつ、質問の方を宜しくお願いします。』という意味のお話しをしたと思うのです。丙川先生は御機嫌な様子でうなずいておられました。その数日後に、丙川先生と秘書のB2さんがリクルートに来られました。〔中略〕私は、確かR9に呼ばれて、リクルートの地下にある寅という会員制の倶楽部で、R9と私と確かR7あたりだったと思うのですが、丙川先生とB2秘書のおもてなしをしたのでした。その後、お二人をもう一軒別の店に御案内した記憶があるのです。このときにも、私は、丙川先生に国会の委員会で青田買いについての質問をしていただくことのお礼の気持ちを込めておもてなしをしたのです。」
「その年の八月初めころに、丙川先生が衆議院の文教委員会で、青田買いについて人事院や担当省庁を追及し、政府側から就職協定を守るよう徹底させるというリクルートにとって大変有り難い回答を引き出してもらったということをR9かR7あたりからその数日後には聞いております。そのころに開かれたT会議の席上で、丙川先生がリクルートの期待していたとおりの質問をしていただいて、期待どおりの答弁を引き出して下さったことについては、簡単に報告したと思うのです。」
「八月の二〇日過ぎころに、私とR5とR7、R9が、丙川先生とB2秘書を『巽』という料亭で接待したことがあります。〔中略〕これ〔支払依頼書〕によると、八月二二日にR5、私、R7、R9の四人が丙川先生とその秘書を巽で接待していることが判ります。〔中略〕この巽で丙川先生とその秘書を御馳走したのは、先生には国会の委員会でリクルートがお願いしたとおりの質問をしていただき、リクルートの期待しているとおりの答弁を引き出していただいたことに対する感謝の気持ちからでした。この席では、丙川先生に『先般は、本当にありがとうございました。おかげ様で私達も助かりました。今後とも宜しくお願いします。』という意味のことを言って、お礼を言ったと思うのです。」
(四) R5の供述(元年五月一七日付け検面調書・甲書1一四二)
「〔五九年〕四月終りごろに開かれた取締役会で、今度はリクルート側が、申し合わせに反して青田買いをした通産省や、それを指導する立場にいる人事院などに対して、青田買いの事実を取り上げて国会質問をしてはどうかという話が出ました。〔中略〕〔甲書1五一一の〕三枚目の協定関連と書いてあるところの二番目に「国会質問」と書かれてあります。これが先程申し上げたような経過で議題になったことを記載したものです。議員にお願いして国会質問をしてもらうということは、甲野の発案によるものだったと思われます。〔中略〕質問をしていただく国会議員の人選や依頼のための接触は、社長室と事業部のメンバーで作られたプロジェクトの者が担当することになっておりました。その年の五月中旬以降のT会議で、甲野の方から、『公明党の丙川代議士にお願いする。』というような話があり、誰も反対する者はなく、すんなりそれが決まったのでした。この書類〔甲書1五一三〕は、事業部のR10が書いたことは、その字の特徴から判ります。〔中略〕協定関連のところに『従来どおり』と記載してあります。このことは、四月二七日のじっくりT会議の協定関連のところで決まった国会質問などを含めた事項について従来どおり行うということになって書かれたものと思うわけです。」
「七月中旬ころに、私以下のR6、R3の役員とR7が丙川議員とその秘書のB2さんを『艮』という料亭にお招きしたことがありました。〔中略〕その日が昭和五九年七月一八日でした。〔中略〕艮で丙川議員らを接待したのは、リクルートの幹部が顔を出すことで、リクルートでは丙川議員のことを大切なお方だと認識しておりますということを丙川議員におわかりいただいた上、次の国会質問にリクルートのために質問していただく感謝の気持ちを表わして、そのお礼をする意味があったのでした。〔中略〕この宴席では、私がリクルートの甲野社長に代ってリクルートを代表し、お酒をおつぎして、『リクルートでは、就職協定の問題についてはいろいろ困っておりますので、お願いしている国会質問のことについては宜しくお願いします。』という意味のお願いをしておきました。〔中略〕これに対して、丙川議員は、『この問題は重大な問題ですから、わかっております。』という意味のことを言われて、全部のみ込んだ上で、引き受けますとの意思表示をして下さいました。丙川議員は、この艮で終始上機嫌でした。」
「この書類〔支払依頼書〕を見ると、私とR6、R7、R9が八月二二日に丙川次郎議員とB2秘書を巽で接待していることが判ります。この席は、丙川議員に文教委員会で就職協定問題について質問していただき、二度と官庁が青田買いをしないよう徹底するというリクルートにとって非常に意義のある答弁を引き出していただいたことに対する感謝の気持ちから設けたもので、今後とも宜しくお願いしますということで、御馳走したものでした。この席でも、私は、〔中略〕『国会質問では、御苦労様でした。本当にありがとうございました。』というようなことを言って謝意を述べたと思うのです。」
5 被告人及びリクルート関係者(R9を除く。)の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、取締役会で官庁の青田買いについて対策を協議した記憶はなく、丙川二郎に国会質問を依頼したことは知らなかったし、国会質問案の作成に関与した記憶もなく、五九年六月及び八月の文教委員会の質疑に関する請託には関与しておらず、リクルートの者が料亭等で丙川二郎を接待したことも知らなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述
R10、R7、R6及びR5も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右4の供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
五九年四月二七日付けサンケイ新聞の通産省の青田買いに関する報道を受けた取締役会における協議内容をR6やR7から聞いたということは思い出せない。「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)は、自分がR6かR22から聞いて作成したものと思うが、「協定関連 従来通り」という記載は、そのように言われて記載したにすぎず、何を意味するかは分からないし、国会質問案の作成過程で被告人に見てもらったことがあるかどうかも分からない。
五九年四月以降の早い段階に議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎に就職協定を含む就職問題について説明したことが一度あり、その際はR7及びR9と一緒であった記憶である。事業部内で丙川二郎に対し国会質問を依頼する話があったので、右訪問時にも国会で就職協定問題を取り上げてもらうことができないかという気持ちを持っていたことは事実であるが、その際に国会質問案を渡したかどうか分からないし、丙川二郎とのやり取りも覚えていない。
記憶がない部分に関する検面調書の記載は、取調検事から「そういうことではないのか。」「R7がそういうふうに言っている。」などと言われて、記載されたにすぎない。
(2) R7の供述(〈証拠略〉)
五九年に丙川二郎に国会質問を依頼することが誰かからの指示であったか、何かの会合の席で決まったのかは思い出せない。
五九年四月にホテルナゴヤキャッスルで開催されたじっくりT会議で、国会質問に関連してどのような議論がなされたかは覚えておらず、被告人が検面調書(甲書1一二一)に記載されたような発言をした記憶もない。
五九年五月中旬ころ、R6やR9ととともに丙川二郎を議員会館に訪ねた記憶はない。捜査段階においても記憶がないと供述していたが、取調検事から、R9らがこういうふうに言っているから間違いないなどと言われて調書が出来上がり、自分としても早く済ませたいという気持ちもあって署名したにすぎない。
「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)中の「協定関連 従来通り」という記載の意味は分からない。
国会質問案を作って丙川二郎に渡すことを誰が決めたかは記憶になく、捜査段階において被告人がその旨の話をしたかのように供述したのは、推測にすぎない。国会質問案(甲物1四二)の作成過程では、被告人に一、二回見てもらい、被告人の意見を受けて書き直した上、丙川二郎に渡した。被告人からは、各項目の言い回しについて、平易な分かりやすい表現にするように言われ、具体的には覚えていないが、通産省に対する質問を少し強い語調にした方がよいと言われた気がするし、最後の質問を付加するように言われたかもしれず、質問のポイントの所に線を引いてはどうかと言われたかもしれない。
五九年五月三〇日にR9とともに議員会館に行った記憶はない。検面調書に同月下旬ころにR9とともに丙川二郎を議員会館に訪問した際の状況が記載されているのは、取調検事が、R9がそう言っているから間違いないなどとして、そのような文章になったにすぎない。
議員会館の丙川事務所で国会質問案を丙川二郎に渡した記憶はあるが、その時期ははっきりせず、同行者はR9かなという感じであるが、R10は記憶にない。質問案を丙川二郎に渡すことは既に決まっていたので、持参する前に被告人の了解を取ったということはないと思う。この訪問の際には、丙川二郎に対し、就職協定の推移、就職協定が破られて混乱した場合の問題点等を話し、「これは私どもの方でお作りいたしましたが、参考にしてください。」というようなことを言って、質問案を渡した。国会で就職協定問題を取り上げていただきたいということは申し上げたと思う。丙川二郎の反応は具体的には覚えていないが、拒絶的な態度ではなく、こちらの話を聞いていただいた。
五九年七月に料亭「艮」で丙川二郎らを接待した趣旨は全く分からないし、話の内容も覚えておらず、検面調書に記載されている会話は、捜査段階においても、記憶になかったと思う。「寅」で丙川二郎らと会ったことについては、全く記憶になく、捜査段階においても、取調検事から他の出席者がR7も出ていたと言っていると話されて、そうだったかもしれないと述べたにすぎない。
五九年八月二二日ころ、料亭「巽」で丙川二郎とB2を接待した記憶はなく、支払依頼書を見ても思い出せない。
(3) R6の供述(〈証拠略〉)
五九年四月のじっくりT会議議事録(甲書1五一一)に、「協定関連」の表題の下で「国会質問」という記載があるのは、就職協定に関し国会質問をしていただくことだと思う。自分自身が関与していないので、詳細は分からないが、官庁の青田買い問題について取り上げてもらうことであったと思う。それを提案したのが誰かは覚えておらず、自分の可能性もないとはいえず、被告人であったというはっきりした記憶はない。捜査段階においても、被告人からの話であった可能性はあるかもしれないと述べたかもしれないが、検面調書にあるような被告人の具体的な発言を自分の記憶で話したことはない。
リクルートでは国会質問をしてもらいたいという意向を持っていたが、丙川二郎の方も就職問題について関心が高かったので、リクルートからの依頼で国会質問をすることになったのか、丙川二郎の意向が強くて質問したのかは、報告を受けておらず、分からない。
五九年五月中旬ころ、議員会館を訪ねて丙川二郎と面談した。同行者としてR9がおり、R7もいたかもしれない。訪問の目的は、当時、社会党が「リクルート一一〇番」と称して取り上げていた就職情報誌の法規制問題について相談することであったと思う。その際、丙川二郎は就職問題について関心が高いという印象は受けたが、国会質問をしてもらう人として適任かという当たりを付ける目的はなかった。捜査段階においても、そのような目的があった記憶はなく、可能性は非常に低いと考えていたが、強引に調書を作成されて押し付けられ、不本意ながらも署名せざるを得ない心境に至って署名した。もっとも、丙川二郎との間では、大学生の就職問題も話題となり、青田買いの話も出たかもしれない。
「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)は、自分の説明を聞いてR10が作成したものと思うが、「協定関連 従来通り」という記載は、十分な議論がなされなかったために、このような記載になったのだと思う。この当時の取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼するという話が出たかどうかは定かではない。検面調書中の、五月下旬ころから六月ころにかけての取締役会で被告人からその旨の提案があって出席者が了解した旨の記載は、自分の記憶と異なっており、おそらくは検事に誘導され、可能性が全く零とも言い切れないということで、そういう調書になったと思う。
取締役会でR7から丙川二郎に質問をお願いして了解を得た旨の報告があった記憶はない。検面調書に右報告があった旨の記載があるのは、その可能性が全くなかったとして否定しなかったためであると思う。
料亭「艮」で丙川二郎を接待したのは、多目的な形で懇親する趣旨であり、この場で何かをお願いしたり、お礼をしたりした記憶はない。検面調書に就職協定の話題が出た旨の記載があるのは、その状況から見て話題になったであろうと述べたにすぎず、記憶に基づくものではない。
その後に「寅」で丙川二郎と会った記憶ははっきりしないが、お相手はしたと思う。その際の話題は記憶していないが、当時の状況から見て、仕事の話がなかったとは思っておらず、就職協定の話もしたかもしれない。しかし、当日、引き続き「卯」で接待した記憶はない。
五九年八月二二日に料亭「巽」で丙川二郎らを接待したことは、多分あると思う。その際に国会質問のことも話題に出たであろうとは思うが、懇親のための接待であり、国会質問のことで感謝の気持ちを示すということではなかったと思う。右の点に関する検面調書の記載は、自分の気持ちには反していたが、いろいろな事情からやむを得ず署名した。
(4) R5の供述(〈証拠略〉)
五九年四月のじっくりT会議議事録(甲書1五一一)に、「協定関連」の表題の下で「国会質問」という記載があるのは、五九年当時、就職協定問題が国会で取り上げられたことがあるからだと思う。その取締役会で、国会議員に青田買い防止に関連した質問を依頼しようという議論が出たことは覚えていない。検面調書に、五九年四月終わりころの取締役会で、被告人の発案により国会質問を依頼することを決めた旨の記載があるのは、取調べの過程でいろいろな可能性を聞かれて、そういうこともあったかもしれないということで、そうした調書になったと思う。
「プロジェクトチームアクションプラン」と題する書面(甲書1五一四)の「就職協定関連」の項目に「国会質問案再検討」という記載があるが、同書面が作成された当時、リクルートでは国会質問案を作成しており、自分も見たと思う。そのことを踏まえても、じっくりT会議議事録(甲書1五一一)中の「国会質問」という記載の意味については、記憶がなく、分からない。国会質問案が作られた経緯についても記憶はない。
五九年当時、リクルート内で就職協定に関する丙川二郎の国会質問に関連して動きがあった記憶はあるが、具体的なことは覚えておらず、取締役会で被告人の話を受けて丙川二郎に対する国会質問の依頼が決まった記憶はない。
丙川二郎とは、五九年七月一八日の料亭「艮」における接待の際が初対面であった。その際は、R7かR9から会食の席に出るように言われた記憶であり、接待の趣旨も聞いたとは思うが、明確に言う自信はない。自分が参加したのは、社長である被告人に代わってということではなく、自分が丙川二郎の選挙区の住民であったからであったと思う。その際、五九年六月及び八月の文教委員会の国会質問との関連で接待した記憶はないが、前後関係から考えて無関係ではなかったのかなという推測はできる。その席の会話の内容は記憶になく、検面調書に記載されたような国会質問に関連した会話があった可能性は非常に低いと思う。
五九年八月下旬に料亭「巽」で丙川二郎らを接待した記憶はなく、捜査段階においては、自分の名前が記載された支払依頼書を示されて、行ったのかもしれないということで検面調書ができたにすぎない。また、捜査段階において、右接待の際に国会質問の関係で謝意を述べたという供述もしていない。しかし、検面調書(甲書1一四二)作成当時、リクルートの経営が危機的な状況にあって、捜査や事件の収束に向かって最大限の努力をしたいと思っており、検察庁からも捜査に対する協力を要請されていたので、検察官の作成した調書に抵抗するという気力はなく、署名した。
6 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 自分は、苦学した体験もあって、衆議院議員に立候補した当時から、教育問題や学歴偏重社会の問題に関心を持っており、当選後は、就職協定や青田買いの問題にも具体的な関心を持つようになり、五二年二月以降、文教委員会や予算委員会で何度か教育問題に関連する質問をしたほか、五五年二月の予算委員会では、大学生の就職問題について質疑をし、五九年三月の予算委員会でも、教育改革の視点から臨教審の設置問題について質疑をした中で、大学における就職指導に触れた質問をし、六〇年六月一四日の文教委員会でも、臨教審の問題を取り上げる中で、学歴偏重や青田買いの問題について質疑をした。
② 五九年六月及び八月の文教委員会でも、右①のような自分の問題意識に基づき、新聞報道等で得た情報を基にして官庁の青田買い問題を取り上げた。
③ R9は、頻繁に議員会館の丙川事務所を訪ねてきて、B2と接触していた。自分がR9と差し向かいで話した記憶はほとんどないが、R9が上司二名を連れてきて、同事務所内の自室で話を聞いたことがあり、その内容は、リクルートの情報誌に掲載された求人情報の不正確性を新聞が取り上げて攻撃を加えることについて対処できないかという相談であった。その際、自分が臨教審の問題に取り組んでいたこともあって、青田買いや指定校制等の就職に関連する問題でいい資料があれば出していただきたいという話をし、リクルートの者から、チャンスがあったらいろいろと協力しましょうというニュアンスの返事があったが、就職協定問題について国会で取り上げるという話はなく、公務員の青田買いの話題が出たという覚えもない。
④ その後、自分がR9らリクルートの者から直接資料を受け取った記憶はない。B2がR9と一緒に外出先から帰ってきて、甲物1四二と同じ書面を渡されたことがあるが、その前に私からB2に学生の就職に関する問題について質問の形で用意するように指示していたので、B2が作って持ってきたと思った。その際にR9とやり取りをした記憶はなく、R7やR10が訪ねてきて右書面を渡されたということもない。文教委員会における慣行として、冒頭から通産省や労働省に聞くわけにはいかないので、B2に作り直しを指示した。B2は、その後、作り直した書面を持ってきたが、右の点が直っていなかった。甲物1四二のような書面を基に、五九年八月の文教委員会における質問事項をB2に口授して甲物1七七中の質問原稿を作成したということもない。
⑤ 五九年七月一八日の料亭「艮」における接待は、B2が話を持ってきて、出版業界出身者としてリクルートに関心があって出席した。その際は、自分の選挙区のことや出版業界から政界に出た動機等について話をしたが、就職協定、青田買い問題や国会質問に関連した話題が出た記憶はない。
⑥ 五九年当時「寅」に三、四回行った記憶があるが、一度R9と一緒であったほかは、リクルートの者は同席せず、R9の名前を使って自分の待ち合わせ等で自由に利用させてもらったにすぎない。料亭「巽」で接待を受けた記憶はなく、その店自体に心当たりがない。
⑦ 五九年の夏、R9とその上司が議員会館に訪ねてきて、小切手を受け取ったことはある。リクルートが出版業界出身の自分を後援する趣旨で、陣中見舞いとか暑中見舞いとして渡してくれたものと思った。
七 考察
1 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内における検討状況や丙川二郎に依頼する経緯に関するR9の公判段階における供述(本節第二の六1)及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第二の六4)は、本節第二の四のリクルート内で作成された諸文書(甲書1五一一、五一三、五一四、甲物1四二)の記載と合致する上、リクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼しようと考えた経過も、本節第二の二の就職協定や青田買いを巡る背景事情に照らすと、事態の推移として自然であり、それぞれ信用性が高い。
さらに、リクルート関係者の捜査段階における右各供述は、重要な点で符合して、互いに補強し合っているところ、他方では、リクルートにおいて丙川二郎に対し国会質問を依頼するようになった経緯や質問案を再検討する必要があった理由等については、それぞれの立場に応じて供述するところに相違があるなど、必ずしも同様の内容のものではないのであるから、検察官の誘導のみによって、このような調書が作成されたとは考え難い。
(二) 右経緯のうち、国会質問案(甲物1四二)の作成に当たって被告人から原案の手直しを指示された状況に関するR7の捜査段階における供述(本節第二の六4(二)(1))は、具体的で、迫真性がある上、R10の捜査段階における供述(本節第二の六4(一))による裏付けもあり、しかも、R7は、この点については、公判段階においても(本節第二の六5(二)(2))捜査段階とほぼ同様の供述をしているのであって、その信用性を疑うべき事情はない。したがって、被告人が同質問案の作成に関与したことは間違いのない事実であると認められる。
(三) 次に、丙川二郎に対する働きかけの状況に関するR9(本節第二の六1)及びB2(本節第二の六2)の公判段階における各供述並びにリクルート関係者四名の捜査段階における各供述(本節第二の六4)について見ると、R9は、五九年五月ないし八月当時、事業部の幹部職員として丙川と頻繁に接触していた者で、コスモス株の譲渡等の本件の一連の事件が捜査の対象になる前にリクルートを退職していた者であり、B2は、丙川二郎の公設秘書であった者であり、両名はそれぞれ立場が異なっていた上、リクルート関係者四名は右両名とも立場が異なっていたところ、丙川二郎に対する働きかけの状況に関し、これらの者の各供述が符合していることからすると、その信用性は高い。
また、リクルートで作成した国会質問案(甲物1四二)と丙川二郎の質疑の内容とを対比すると、その表現の仕方や答弁を求める相手に多少の差異はあるものの、丙川二郎が五九年六月の文教委員会における質疑で述べた意見は、甲物1四二にある「(通産省に対する質問)」の1に記載のある新聞記事と同じ記事を基にして意見を展開したものであり、五九年八月の文教委員会では、甲物1四二で取り上げられているのと同じ二件の新聞記事を題材として、甲物1四二の趣旨に沿う質疑をしたのである。のみならず、五九年八月の文教委員会における質疑の準備資料である甲物1七七中の質問原稿の問1は、甲物1四二の番号6の最後の傍線部と同趣旨であり、同原稿の問2は、甲物1四二の番号7の傍線部とほぼ同一の文章である。これらによれば、甲物1四二の国会質問案を渡して丙川二郎に質問を依頼した旨のR9の公判段階における右供述やR10及びR7の捜査段階における右各供述は客観的証拠に沿うものである。
さらに、R9らリクルート関係者は、公判段階又は捜査段階において、それぞれの立場から、丙川二郎に対し国会質問を依頼した後、五九年六月の文教委員会では十分な質問がなされなかったため、丙川二郎を接待して依頼の念押しをし、五九年八月の文教委員会でリクルートの期待どおりの質疑をしてもらい、その後更に接待をして謝意を表した経過につき供述するところ、丙川二郎は、五九年六月の文教委員会において、当日の付議案件は日本育英会法案であったのに、これとは直接関係のない通産省の青田買い問題について、言い訳がましく苦しい表現で関連性を述べてまで、最後に取り上げて意見を述べ、五九年八月の文教委員会では、「六月二〇日にこの委員会で答弁をいただかないまま、指摘をするにとどめたテーマでございます」と前置きした上、本節第二の三2(一)の質疑をしたのであり、R9らリクルート関係者の右各供述は、右質問の状況とも符合している。
(四) 本節第二の五4のとおり、リクルートから丙川二郎に対しては、従来は資金供与がなされていなかったところ、五九年八月の文教委員会を二日後に控えた同月一日、R7が丙川二郎に対し、リクルート情報出版代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を交付したのであり、この時期に初めて丙川二郎に小切手を供与し、かつ、本節第二の五3のとおり、そのころ丙川二郎の京都市内における宿泊を手配し、後にその費用も負担していたことは、同年五月下旬から七月にかけて丙川二郎に対し請託をしていたことを認めるR9の公判段階における供述(本節第二の六1)やリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第二の六4)の信用性を支える事情ということができる。
(五) リクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決めた点に関するR7の供述経過を見ると、元年四月一〇日の検察官の取調べにおいて、丙川二郎の五九年六月及び八月の文教委員会における質疑がリクルートの依頼によるものであったことを認める供述をした上(甲書1六七八)、元年四月一四日の検察官の取調べにおいて、丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決め、被告人から指摘も受けながら国会質問案を作成した経緯や、丙川二郎に対する依頼の状況等につき、同年五月一三日付け検面調書(甲書1一二一)とほぼ同様の供述をしており(甲書1六八二)、その内容は判示第一、第二の各事件の捜査の初期の段階からほぼ一貫したものである。
(六) これに対し、R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))は、捜査段階において供述した事実の多くにつき、これを曖昧ながら否定し、あるいは記憶がないというものであるが、五九年四月ないし八月当時、R10は事業部の課長代理として甲書1五一三、五一四の各書面を作成した者であり、R7はR9とともに就職協定に関連する情報収集や対応策の策定に当たっていた者であり、R6は事業部担当の取締役、R5は専務取締役として取締役会の議事進行を担当していた者であるのに(〈証拠略〉)、これらの者のいずれもが、公判段階において、取締役会の議事や就職協定を巡る検討結果に関して作成された書面である甲書1五一一、五一三、五一四につき的確な説明ができないというのは不自然である。また、R10、R7、R6及びR5の公判段階における右各供述のうち、丙川二郎を議員会館に訪問したり接待したりしたことと国会質問との関係を否定する部分は、関係する書面の記載に照らすと、不合理であって、信用することができない。
(七) 以上の諸点からすると、リクルート内部で、丙川二郎に対し国会で質問してほしいと依頼することを検討し、同人に働きかけた状況に関するR9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)は、大筋において十分に信用し得るのに対し、R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))のうち、これらの者の捜査段階における右各供述やR9及びB2の公判段階における右各供述と相反する部分は、信用することができない。
(八) また、取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼しようと決めたことや国会質問案の作成に関与したことを否定する被告人の公判段階における供述(本節第二の六5(一))は、右(七)のとおり信用し得るR9の公判段階における供述(本節第二の六1)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)と相反するのはもとより、国会質問案の作成に関与したことを否定する点については、R7の公判段階における供述(本節第二の六5(二)(2))とも相反しており、到底信用することができない。
(九) リクルートの者から質疑の依頼を受けたことを否定する丙川二郎の公判段階における供述(本節第二の六6)も、右(七)のとおり信用し得るR9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)と相反するのはもとより、丙川二郎に甲物1四二の内容の国会質問案を渡して国会で就職協定問題を取り上げることを依頼した旨のR7の公判段階における供述(本節第二の六5(二)(2))とも相反しており、信用することができない。
なお、丙川二郎は、五九年六月及び八月の文教委員会で官庁の青田買い問題を取り上げた理由について、本節第二の六6①、②のとおり供述するところ、確かに、丙川二郎の衆議院議員在職中の国会における質疑には、教育問題を取り上げたものが見られ、中には本件で問題とされている機会以外にも、青田買い問題を正面から取り上げたものではないものの、他の問題を取り上げる中で青田買いに言及した質疑が若干存し(弁書1二四二、甲書1二一九)、丙川二郎が従来から教育問題に関心を持ち、青田買い問題にも無関心でなかったことは認められる。しかし、そのことは、まさに、リクルートの者が青田買いに関する質問を依頼する国会議員として丙川二郎が適任であると考える根拠になったことであり、丙川二郎が右のような関心を有していたことが、同人に質疑を依頼した旨のR9及びR7の公判段階における右各供述やリクルート関係者の捜査段階における右各供述の信用性を疑わせる事情になるものではない。
2 丙川二郎に依頼した経緯と状況
(一) 認定事実
本節第二の二のリクルートの就職協定に対する関心、五九年当時の就職協定や官庁の青田買いを巡るリクルート内部の検討、対応策の決定や実行状況、乙山に対する請託、五九年度人事課長会議申合せ、官庁の青田買いを巡る新聞報道等の背景事情、本節第二の三1、2の丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑の内容、本節第二の三3、四の各書面の記載及び本節第二の五のリクルートの丙川二郎に対する接触状況に加え、R9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)並びにこれらの者の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、弁護人が任意性を欠く旨主張する被告人の捜査段階における供述を除いても、次の各事実を認定することができる。
(1)  被告人らリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたところ、五九年一月には就職協定の継続に消極的なL1日経連専務理事の発言も報じられたことから、取締役会で、R7及びR9を中心に就職協定に関連する情報収集や対応策の策定に当たらせるほか、民間の就職協定が遵守されない誘因となる官庁の青田買いを防止するために乙山官房長官に働きかけることを決め、同年三月、被告人が公邸を訪問して、乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を依頼するなどし、同月二八日には、五九年度人事課長会議申合せがなされた。
(2)  ところが、五九年四月二七日、通産省が人事課長会議申合せに反した時期に学生と接触しているという新聞報道がなされたため、同日から翌日まで開催されたリクルートのじっくり取締役会議で、通産省の青田買いは人事課長会議申合せに反するとして、国会議員に国会で取り上げて質疑してもらい、人事院や各省庁の政府委員から、二度とこのようなことはしないという答弁を得て、人事課長会議申合せを徹底させようということが話し合われた。甲書1五一一の「協定関連」の項目に「国会質問」と記載されているのは、このことを記載したものである。
(3)  R6、R7及びR9は、五九年五月一一日、当時社会党等が「リクルート一一〇番」と称して攻撃していた就職情報誌の誇大広告に関する問題や就職情報誌に関する法規制の問題について、公明党の方針を情報収集するとともに、官庁の青田買いについて国会で質疑してもらえるかどうかという感触を探るため、R9と面識のある衆議院議員であった丙川二郎を議員会館に訪ね、リクルート一一〇番の問題と就職協定について話したところ、丙川二郎がリクルート一一〇番の問題にはあまり関心がなく、むしろ就職協定に関心があることが分かり、官庁の青田買いについて国会で取り上げて質疑してもらえるのではないかという感触を得た。そこで、その後のリクルートの取締役会で、その旨報告され、被告人を中心に協議した結果、丙川二郎に対し官庁の青田買いについて国会で質問してもらうように依頼することが決定され、国会質問案を用意することになった。
(4)  R7及びR9は、五九年五月三〇日、議員会館の丙川事務所を訪ね、丙川二郎に対し、就職協定の現状や官庁の青田買いと就職協定との関係等を説明し、官庁が人事課長会議申合せに反して青田買いをしていることにつき、衆議院文教委員会で質疑してもらいたい旨依頼し、丙川二郎はこの依頼を了承した。
(5)  その後、リクルート内部では、R7を中心に、R10が書記的な立場で、新聞記事を参考にして国会質問案の原案を作成し、被告人が原案の表現を整理して直截な表現にするように指示したほか、甲物1四二の番号7の項目を付加し、必ず質問してほしい箇所にアンダーラインを引くように手直しを指示した。右作業の途中で、労働省の青田買いに関する新聞報道もあったため、リクルートでは、そのことも丙川二郎に取り上げてもらうこととし、質問案を補充して国会質問案を完成させた。甲書1五一四中の「就職協定関連」の項目に「国会質問案再検討」と記載されているのは、労働省の青田買いに関する報道を受けて質問を再検討することを記載したものであり、甲物1四二は、右経緯で作成された質問案を清書したものである。
(6)  R7、R9及びR10は、五九年六月一五日、丙川二郎を議員会館に訪ね、通産省及び労働省の青田買いを報ずるサンケイ新聞の記事や就職協定に関する資料とともに甲物1四二と同じ質問案を渡した上、就職協定の現状、官庁の青田買いと就職協定との関係等を説明し、通産省及び労働省の青田買いについて衆議院文教委員会で取り上げ、人事院に人事課長会議申合せの遵守を図るように求める質疑をしてほしい旨依頼したところ、丙川二郎が文教委員会で取り上げて質疑することを了承した。
(7)  五九年六月の文教委員会における丙川二郎の発言が意見を述べるだけにとどまったことから、R5、R6、R3及びR7は、同年七月一八日、料亭「艮」において、丙川二郎とB2を接待し、丙川二郎に対し、国会質問をよろしくお願いしたいと言って依頼の趣旨を念押ししたところ、丙川二郎がこれを了解した。また、同月二三日、丙川二郎とB2がリクルートを訪ねてきた際、R6、R7及びR9は、丙川二郎とB2をリクルートの会員制クラブ「寅」で接待し、今度の委員会ではよろしくお願いしますなどと言ってあらためて文教委員会において質問するように依頼した上、引き続いて、R6及びR9がバー「卯」で丙川二郎とB2を接待した。
(8)  B2は、五九年八月の国会質問の前に、丙川二郎が口授した質問内容を書き取って、甲物1七七中の質問原稿を作成したが、その際、丙川二郎は、R7らが持参した右(6)の質問案を参考にしながらB2に口授した。
(二)  補足
検察官は、R9らは、五九年六月一九日ころにも、議員会館において、丙川二郎に対し右(一)(4)、(6)と同様の依頼(本節第二の一の三回目の請託)をした旨主張する。
確かに、本節第二の五1のとおり、五九年六月一九日にR9及びR10が議員会館の丙川事務所を訪問した事実が認められ、しかも、その日は五九年六月の文教委員会の前日であったことからすると、R9らの訪問目的と丙川二郎の国会質問との間に何らかの関係があったという疑いが強い。しかし、右訪問の同行者は、関係証拠(〈証拠略〉)からR10であったことが明らかであるのに、R9は、その訪問時の同行者がR7であったと思う旨の誤った供述をするばかりでなく、五九年六月の文教委員会の前日に訪問した理由についても、「R7さんは、非常に緻密な仕事をされる、仕事熱心な方でしたから」という同行者を取り違えた認識を前提として、「何と言いますか、再度よろしくお願いします、みたいな感じのごあいさつに行ったんじゃないかと思っています。」という推測を供述するにとどまっており(〈証拠略〉)、その供述のみによっては、請託の事実を認めるに十分ではないところ、R9の同行者であるR10は、捜査段階において、右訪問の際の請託について一切言及しておらず(甲書1一五三)、公判段階における供述も、丙川二郎とはR9及びR7と一緒に三人で行った際に一度だけ会った記憶であり、同月一九日にR9と二人で行って丙川二郎と会ったことは思い出せないというものにすぎないのであるから、検察官の主張する本節第二の一の三回目の請託を認めるに足りる証拠はないというべきである。
3 被告人の捜査段階における供述の任意性等について
右2(一)のとおり、五九年六月及び八月の文教委員会における質疑に関する請託は、被告人の捜査段階における供述を除いても、十分に認定することができるから、その任意性の判断は不可欠ではないが、他の争点に関する被告人の捜査段階における供述の任意性の判断に関係する点もあるので、ここで検討を加える。
(一) まず、確かに、第一章第三の三1、3のとおり、被告人は、元年二月一三日に逮捕されてから丙川二郎に贈賄したという事件の取調べを受けるまでに、三度にわたり逮捕勾留され、本節第二の六3の各検面調書が作成された時期まで、二か月余ないし三か月余の間身柄を拘束されていたこと、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められ、また、同年四月二五日にI1内閣が予算案成立後に総辞職することを表明し、その翌日にコスモス株の譲受名義人の一人であるI1の元秘書が自殺するなどの出来事もあった。
(二) しかし、右(一)の事情やその間の取調状況が被告人にとって精神的、肉体的な負担になっていたとしても、被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受けていたのであり、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていた(第一章第三の三2)のであるから、自己の刑事責任に関わる重要な事柄について、絶望感から、検察官に対し意に反する供述をし、事実と異なる供述が記載された調書に署名することを余儀なくされるような状態にはなかったと認められる。
(三) 弁護人は、被告人が元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)に任意性なく署名した理由の一つとして、既に国会質問案を了承していた旨の同月一六日付け検面調書(乙書1八)に署名させられていたことを挙げるが、同調書に記載された供述は、「リクルートの方で、丙川代議士に質問をしてもらうための質問案を作るなどしておりますが、当時事業部員がそういうことをやっていて、私としても当時これを承知していたかも知れませんが、現在は良く覚えておりません。」というものにすぎず、質問案を了承したことを明示的に認める乙書1一〇の供述とは質的に異なるものであるから、右主張はその前提を欠いている。
また、弁護人作成の元年八月一四日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八三)には、同月二二日に署名した検面調書の内容のうち、五九年のホテルナゴヤキャッスルで開いた取締役会議で国会質問の依頼を決定したことや、R7やR10が作成した国会質問案の報告を受けたことなどは、事実に反し、全く記憶にないものであったが、検事から「同じ内容のことが書いてある取締役会議事録があり、理屈ではこうなる。R8、R7、R10らの調書もある。」などと何度も強く言われ、三回にわたる逮捕勾留のショックと、いつ保釈されるか分からないという不安で精神的に落ち込み、自殺したいという衝動に駆られることもあり、検事に対し抵抗する気力がなくなっていた状態であったために署名せざるを得なかった旨の記載がある。
しかし、右陳述録取書は、被告人が供述をした直後ではなく、保釈されて約二か月後に作成されたものである点で信用性に乏しい上、被告人を中心とするリクルートの取締役会において、国会で公務員の青田買いを取り上げて質疑してもらうことを決め、被告人が質問案の作成に関与したことは、右2のとおり、関係証拠によって十分に認められる事実であり、かつ、その関与の内容に加え、新規学卒者向け就職情報誌事業が創業以来のリクルートの基幹事業であったことや、被告人自身が同じ年の三月に乙山に対し公務員の青田買いについて善処を求める請託もしたことからすると、被告人が、捜査段階において、国会質問の依頼を決め、質問案の作成にも関与したことを全く記憶していないというのは不合理であるから、右陳述録取書に記載された被告人の陳述は信用することができない。
(四) 被告人は、公判段階において、元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)に署名した理由につき、P4検事から「表現は和らげる。」「保釈のための総括の調書をまとめて取りたい。」「あなたもやがて保釈されるだろう」と言われたり、「ここは折れ合って総括的な調書を取らなければならない。これくらいで折れ合いなさいよ。」などという言葉の裏で、代わりに早く保釈してあげるということを言われて、致し方なく国会質問案の作成についての関与の点で事実に反する調書に署名せざるを得なかった旨供述し(〈証拠略〉)、他方で、P4検事は、公判段階において、取調べの過程で保釈を取引材料として調書に署名を求めたことはない旨供述する(〈証拠略〉)ところ、被告人が国会質問案の作成に関与したことは右2のとおりであって、右検面調書の記載は事実に反するものでなく、かつ、その記憶がないというのが不合理であることも右(三)のとおりであるから、被告人の公判段階における右供述は、やはり信用することができない。
(五) 結局、本節第二の六3の各検面調書が作成された際の取調べ及び供述過程において、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
(六) また、リクルートの取締役会で丙川二郎に対する請託を決めたことを認め、国会質問案の作成についての関与をやや曖昧ながら認める被告人の供述は、右のとおり任意性があることに加えて、右2の認定事実とも符合するから、信用することができる。
4 結論
五九年五月三〇日の議員会館の丙川事務所におけるR7及びR9から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(4))、同年六月一五日の議員会館の丙川事務所におけるR7、R9及びR10から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(6))、同年七月一八日の料亭「艮」におけるR5、R6、R3及びR7から丙川二郎に対する依頼並びに同月二三日のクラブ「寅」におけるR6、R7及びR9から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(7))は、いずれも請託に当たる。
また、右2(一)で認定した請託に至る経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことであり、丙川二郎に渡された質問案も被告人の指示を受けつつ作成されたものであることからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第三 六〇年六月中旬ころの数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、六〇年六月中旬ころ、R7らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し二回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、R7及びR10が、同月上、中旬ころ、議員会館又はリクルートにおいて、国会で国の行政機関の青田買いが行われないように質問していただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、R7、R11及びR10が、同月中旬ころ、議員会館において、本年も通産省が人事課長会議申合せに違反して青田買いをしているので、衆議院文教委員会でこのことを指摘し、人事院等に人事課長会議申合せの遵守の徹底方を求めるなどの質問をしていただきたい旨重ねて要請をした旨主張する。
被告人は、捜査段階において、六〇年四月ころの取締役会で公務員の青田買い防止等につき丙川二郎に対し国会質問をお願いすることが決まり、R7がその依頼を担当した旨供述するが、公判段階においては、同年六月ころのR7らと丙川二郎とのやりとりは知らず、自分は何ら関与しなかった旨供述している。
そこで、判示第二の二②の請託を認定した根拠を説明する。
二 背景事情
1 五九年度の就職協定は、五九年八月下旬ころから企業側が採用活動に動くなど形骸化が進み、六〇年一月二一日の中雇対協では、六〇年度についても、五八年度中雇対協申合せを継続することを決定したものの、会合後の記者会見において、中雇対協座長であるL1日経連専務理事が就職協定について完全に熱意を失っており、六二年三月以降卒業の大学生の就職問題についてどうしたらよいかは、六〇年度の就職協定の実施状況を見てから、中雇対協のメンバーが中雇対協で就職協定問題を取り扱うのが適当か否かも含めてじっくり考えていただきたい旨発言し、翌日の新聞でその旨報道された(本章第一節第一の四1、2)。
2 被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、右発言を受けて、就職協定が廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、六〇年一月二三日ころの取締役会で、六〇年度の就職協定を遵守させる方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審関係者に右方向で働きかけをする旨合意した(本章第一節第二の四1)。
R6は、右方針を踏まえて、そのころ、文部省にD6文部大臣を訪ねた上、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明して、臨教審における議論の対象に取り上げてほしい旨陳情し、一方、被告人は、六〇年一月二一日の臨教審第四部会や同年二月二七日の臨教審第二部会において、就職協定と企業における大学卒業者の採用との関係に触れた意見を述べた(本章第一節第二の四2)。
3 六〇年三月ころ、被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問して面談し、判示第一の二②の請託をし(前節第三の四8)、同年四月一〇日の人事課長会議において、一〇―一一協定に協力するという五九年三月になされた申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めていただきたい旨の人事院任用局企画課長の依頼が了承されて、六〇年度人事課長会議申合せがなされた(本章第一節第一の四3)(なお、右面談に関する証拠の一部は判示第一の公訴事実の証拠として取り調べたにとどまるが、多くは判示第二の各公訴事実の証拠としても取り調べており、後者の証拠のみによっても、右事実を十分に認めることができる。)。
4 リクルートでは、六〇年四月から六月にかけて、事業部を中心に、学生や企業の就職活動と採用活動の状況、就職協定の遵守に向けた公式、非公式の各種会合の状況、臨教審で青田買い問題が取り上げられたこと、青田買いに関する新聞報道等について情報収集活動を続け、重要な情報は被告人にも報告されていた(本章第一節第二の四3)。
その間、臨教審は、各部会及び総会で審議を重ね、六〇年六月二六日の第一次答申で、「有名校の重視につながる就職協定違反の採用(青田買い)」を改めるべきである旨の指摘がなされたが(本章第一節第一の五3)、他方で、同月一五日付けサンケイ新聞で、「通産省が“青田買い”居酒屋に東大生46人」という見出しの下、同月一四日に東京大学出身の通産省の官僚が居酒屋で翌春卒業予定の東京大学法学部、経済学部の学生を対象に就職説明会を開いた旨の報道がなされた(本章第一節第一の四4)。
三 丙川二郎の六〇年六月一九日の衆議院文教委員会における質疑
第一〇二回国会会期中の六〇年六月一九日、日本体育・学校健康センター法案を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「六〇年六月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣等に対し同法案に関連する質疑をした後、「時間の関係で、この問題もう少しお話をしたいのですが、次の機会にしたいと思います。きょうは健康センターの問題を中心に審議してきたのですが、会期末でございまして、この機会に委員長のお許しを得まして、私前から関心を持っておりました大学生の就職の問題についてちょっと触れさせていただきたいと思います。」と述べ、説明員として出席していたG5人事院事務総局任用局企画課長及びV通商産業大臣官房参事官並びにD6文部大臣に対し、次のとおり質疑をし、答弁を得た。
(丙川二郎の質疑要旨)
就職は国民の非常な関心事だと思う。日本の場合は企業間格差もあり、いい所へ入るために受験競争が続き、教育混乱の一因になっている。そういう中で臨教審の答申が近く出されるが、学歴社会の弊害の是正、そのために指定校制や青田買いを是正していかなければならず、企業や官庁の採用時の人事慣行も改善しなければならないと指摘されている。人事院はこれにいろいろと対応されており、六〇年四月一〇日の人事課長会議等で何らかのルールを申し合わせているように承知しているが、その申合せや関係各方面にお願いした内容についてお聞かせいただきたい。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
六〇年度の大学等卒業予定者の求人求職秩序の維持については、本年四月一〇日の人事課長会議で申合せをした。会社訪問開始一〇月一日、採用選考開始一一月一日という民間の紳士協定に協力するという内容である。
(丙川二郎の質疑要旨)
先般新聞が「通産省が“青田買い”」という指摘をし、六〇年六月一四日に東大前の居酒屋に学生が集まって通産省から説明があったということである。いろいろな事情があろうと思うが、ルールはルールできっちりしなければならないし、特に中央官庁、人気があるといわれている大蔵省や通産省には今後十分に気をつけてやってもらわなければならない。新聞には、大臣官房長の話として、「初めて聞いた。組織的にやったものか個人的にやったものか、さっそく調べる。」と出ているが、この実情について通産省から伺いたい。
(通産省のV説明員の答弁要旨)
官房長からの指示もあって事情聴取をしたところ、当省の有志職員が出身大学の後輩の求めに応じて、先輩として個人的に役所の業務内容について一般的な情報提供を行ったものと聞いている。
(丙川二郎の質疑要旨)
同様のことは他の役所でもあるように聞いているが、人事院は情報をつかんでおられるか。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
いわゆる一〇―一一協定の趣旨に合わないような行動が行われているということは聞いていない。
(丙川二郎の質疑要旨)
先輩に呼ばれてあるいは先輩にお願いして後輩が集まって情報を集めることは決してあり得ないことではないと思う。これから夏休みに入り、ますます激しくなることが予想される。私はこの質問を五九年にも一遍しており、文教委員会でこういうことについて是非気をつけてほしいという指摘をするのは二回目である。人事院としては、言いっぱなしで後は知らないということではなく、今後も何らかの対応をなさってはいかがか、またすべきではないかという気持ちを持つが、いかがか。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
新規学卒者の青田刈りの防止問題というのは非常に重要な問題であり、教育界、産業界、公務部門の三部門が協力して対応することが必要である。そうした趣旨から、私どもも民間の一〇―一一協定に協力することにしているわけである。したがって、人事院としても、今後ともこの申合せの趣旨が徹底されるように努めてまいりたいと考えている。
(丙川二郎の質疑要旨)
今お聞きになったような就職に関する官庁の在り方についての文部省の考え方と文部行政の立場からの高等教育機関における就職の問題について大臣の意見を伺いたい。
(D6文部大臣の答弁要旨)
企業経営者が優秀な人材を自分の企業に迎え入れたいという気持ちを持つことは無理からぬことであろうと思う。しかし、企業が得手勝手にそういうことをやられると我が国の大学教育は成り立っていかない。官庁の場合も、人材を自分の役所に迎え入れたいという気持ちは分かるが、それをやられては大学の教育はめちゃくちゃにされてしまうわけであるから、そういう点は十分配慮してもらいたいと思う。
私の承知している限りでは、民間企業では概してこの申合せの趣旨を守っていると見ている。企業関係者に聞いてみても、申合せがあるのでまだということになっている。その矢先に、先般新聞に通産省の例が載ったわけであり、あるいは他の役所もやっているかもしれない。先輩が後輩の求めに応じてということであるが、果たしてそうだろうか。すぐの先輩が独自の判断でそれをするというのは考えられない。やはり内々の了承を得てのことではなかろうかと推測するわけだが、そういうことを中央官庁がやり始め、ルールを守らないということを中央官庁がやったとするならば、日本の行政は成り立たない。甚だ遺憾なことであったと思う。国家公務員上級職の一次試験、二次試験に向けて勉強している段階で、先輩、後輩といえども、たくさんの人を集めて自分の役所の宣伝をするなどということはよくない。他の役所もそうしたことを秘密裏にやっているとすれば甚だよくないことだと思う。文部省はルールはきちっと守るということをやってまいりたい。
学生が夏休みの期間に就職のことで暑いさなかを飛び回ったり、精神的に苦労するということは青年の健全な発達を図る上でも有害である。
したがって、私どもとしては、企業に対してもそうした点を十分配慮して申合せを守ってもらいたいし、特に役所の側は厳に守っていただきたいと切に希望する。
(〈証拠略〉)
四 右委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①六〇年六月の文教委員会の前日である同月一八日午後五時一五分ころにR10、R11及びR7が、②同月二六日にR7がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出たことは、客観的な証拠からも、明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第三の一)、右①が二回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 金額一〇〇万円の小切手の供与
リクルートでは、六〇年六月二四日、丙川二郎に対する寄付金として、リクルート代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を振り出し、この小切手は、B1が同月二六日に協和銀行中目黒支店のB1名義の普通預金口座に入金した。
(〈証拠略〉)
五 被告人及び関係者の各供述
1 被告人の捜査段階における供述
(一) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
被告人は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「昭和六〇年一月には、中央雇用対策協議会の就職協定関連の中心人物であるL1専務理事が『私は就職協定に熱意を失っている。』などと述べており、就職協定の存続は危ぶまれる状況にありました。リクルートにおいても、このころの取締役会において、就職協定の存続遵守のための方策を検討した記憶ですが、決定的な有効策といったものはなかなか出ませんでした。」「お示しの資料は、昭和六〇年一月二三日のリクルートの取締役会の議事録ということですが、確かにこのころの取締役会で、お示しの資料に記載されているような話し合いがありました。就職協定の問題について、有効な決め手となる方策がなく、当面の方策として経済団体に働きかけたり、就職協定セミナーの実施などが出ておりました。また、文部大臣に会って就職協定の意義を説明し理解を求めるということも話し合われました。就職協定の存続、遵守を臨教審で取り上げてもらい、その答申に盛り込まれることが望ましいといったことも論じられておりました。」「その後、昭和六〇年四月ころの取締役会だったと思いますが、昭和六〇年においても前年同様、公務員の青田買い防止等につき、丙川代議士に国会での質問をお願いしようということが決まった記憶です。丙川代議士に頼みに行く役割はR7らが担当しておりました。」
(二) 右(一)の供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、被告人はそれまでの厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた経緯から、強い抵抗をすることもできずにP4検事の意図に沿う調書作成に応じざるを得なかったのであって、右供述は任意性を欠く旨主張する。
2 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R11及びR7は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)
「六〇年の四月下旬ころになりますと、R7社長室長から『官公庁も含めた就職協定の申し合わせと今の青田買いの現状について資料をまとめてくれ。また丙川先生に質問をお願いするから。』と指示されたのです。」
「R7さんから、就職協定に関して再び丙川先生に質問してもらうからその資料を作るように言われたのは、〔中略〕甲野社長からその旨の指示が出され、確か当時の取締役会でもこのことは話題にされて決定されたと思いますが、そのようなことで、私にその資料のとりまとめの指示があったものと記憶しています。五月に入ったころに、R7社長室長から『質問資料の骨子は、臨教審において学歴社会の弊害の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが審議されているので、それとの関連で就職協定を守る必要性があること、それに、四月一〇日に各省庁の人事担当課長会議で申し合わせができたので、今回は機先を制し、企業の青田買いを牽制する必要からも、これを取り上げて質問できるようなものにするように。』というような意味の指示があったのでした。また、R7社長室長は、その時、『資料には関連する新聞記事などもできるだけつけるように。』とも言われました。〔中略〕私は、五九年の時のように典型的な質問案という形ではなく、その質問してもらいたい要点について、その関連する新聞記事なども添付した資料の作成を行ったのです。その資料については、作成途中にR11さんにも見てもらったと思います。そして、これをR7社長室長に上げ、その時は、それが甲野社長まで上げられたかどうかはよく覚えていませんが、その内容については、R7社長室長は甲野社長の承認を得たようでした。それは、そのころ、甲野社長もそれでオーケーだという意味の話をR7社長室長が私に言ってくれたので、それがわかったのでした。」
「この質問案資料は、六〇年の六月初めころには完成させ、ワープロにも打ったように思います。この質問案資料は、六月の上旬ころに、私は、R7社長室長と一緒に丙川先生にお会いして、今度の委員会で質問していただきたいと言ってお渡ししています。その場所については、議員会館だったと思いますが、あるいは当時丙川先生は時々リクルート本社にも見えておられたので、その際にお渡ししていることも考えられます。〔中略〕この質問案の資料を丙川先生にお渡しした時は、R7社長室長が『今年は臨教審でも学歴社会の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが検討されており、今年は四月一〇日に官庁でも人事担当課長会議で、昨年同様民間の就職協定に協力して一〇月一日前の学生のOB訪問や一〇月一日以降の官庁訪問についても民間の一〇―一一協定に沿って対応するとの申し合わせを行っており、青田買いがないようにとの質問をしていただければと思うのです。官庁が青田買いを始めますと、民間企業もこれにつられて青田買いを始め、学生が落ちついて勉強もできず、教育上も問題ですし、リクルートの就職情報誌も計画的に配本できず、困ってしまうのです。』などと説明し〔中略〕たかと思います。丙川先生は、すでに五九年の国会質問の際に私達が具体的に説明してお願いしているので、のみこみは早く、後でよく資料を読んでおいて、質問の近くになればまた来てもらうなりして、更に質問の要点を説明してもらえばよいというような意味のことを言って、この資料を受け取ってくれた記憶です。」
「ところが、丙川先生にこの質問案の資料をお渡ししてから間もなくして、新聞に、臨教審第一次答申原案の内容が報道され、情報どおり、学歴社会の是正策として青田買い防止が指定校制廃止とともに盛り込まれるという記事が載りました。そして、その後、通産省が青田買いをしたというサンケイ新聞の報道もありました。それで、質問日の直前ころの六月中旬ころ、R7社長室長の指示で、私がこれらのホットニュースの関連記事のコピーを集め、一緒に議員会館の丙川先生を訪ね、丙川先生にこの追加資料をお渡しして、詳しく質問内容を説明して、文教委員会で質問していただくようお願いしたのでした。その時は、R7社長室長と私と、それにR11も一緒に行った記憶です。〔中略〕その時、R7社長室長が丙川先生に対して、先にお渡ししていた質問案の資料を一部念のためにお渡しし、それから追加資料をお渡ししたと思います。そして、R7社長室長は、『今年もまた通産省が官庁の申し合わせに反して青田買いをこのようにしております。官庁の青田買いをやめさせなければ、学生がそわそわし始め、官庁の青田買いにつられて企業も青田買いを始めてしまいます。この新聞記事にありますように、臨教審の第一次答申の原案もまとまり、学歴社会の弊害の是正策として指定校制を廃止するとともに民間の就職協定違反の青田買いも防止することが盛り込まれることとなっています。今年は、この資料にありますように、四月一〇日に各省庁人事担当課長会議の申し合わせで、去年と同様に、民間の一〇―一一協定に協力することが決議されております。それなのに、今年も、その申し合わせに反して通産省が青田買いをしているのです。先生に文教委員会でこの事実を質問で指摘していただき、通産省にもなぜそのようなことをしたのか質問し、人事院などに対してもこの申し合わせ遵守の徹底方を求める質問をしていただきたいと思うのです。〔中略〕』などとお願いして、〔中略〕質問依頼をしたのでした。丙川先生は、『学歴社会の弊害を是正するためには、このような青田買いをやめさせ、学生に落ちついて勉強させる必要がある。この前のリクルートにお世話をかけた勉強会でも、就職協定はきちんと守られるべきだという話が出たところで、そういうことなのに、また官庁が青田買いを始めるとは実に困ったものです。この件については、文教委員会で、また質問してあげましょう。』などと答えて、リクルートのお願いどおりの内容で国会質問をしてくれることを丙川先生は快く引き受けてくれたのでした。」
「六〇年の六月の文教委員会の質問は、六月一九日に丙川先生が行われ、先生は、このようにリクルートがお願いしたとおり、質問をしたわけで、この時の委員会質問の模様は、翌日のサンケイ新聞に報道されたのでした。〔中略〕この詳しい質問内容については、その後、私が国会図書館に行って、その会議録をコピーしてきて、R7社長室長にも上げているので、甲野社長にも報告されていると思います。」
なお、R10は、右供述の際、丙川二郎に渡した質問資料として、「六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面及び「青田買いの現状」と題する書面を再現して作成しており、それらが調書に添付されているが、前者の書面には、六〇年度の就職協定の内容、六〇年度人事課長会議申合せ、臨教審の第一次答申に青田買い防止が盛り込まれる予定であることなどが記述してあり、後者の書面には、通産省の青田買いに関する新聞記事を含む六〇年五月下旬から六月中旬までの青田買いに関する新聞や週刊誌の記事の写しが添付されている。
(2) R10のその他の供述
R10は、元年五月一八日の検察官の取調べにおいても、右(1)と同趣旨の供述をし(甲書1一五六)、同月二二日の検察官の取調べにおいては、丙川二郎との面会状況一覧表を示されて、前に「六月中旬ころ」と供述した訪問は六〇年六月一八日のことと思う旨供述する上、「その前の六月上旬ころにも私は質問案の資料を丙川先生にお渡しした記憶があり、その日がこの表には見当たりませんが、そうなりますと、そのころも丙川先生がリクルート本社に来られたことがありますので、その時にお渡ししてお願いしているのだと思います。」と供述している(甲書1六一五)。
(二) R11の元年五月二一日付け検面調書(甲書1一五二)
「六〇年五月下旬ころになって、臨教審の総会で、第一答申に学歴社会の是正策を盛り込み、採用慣行の改革、指定校制、青田買い廃止を提しょうする方針が決められ、その旨の新聞報道がなされました。〔中略〕ところが一方で、一流企業がその年もまた青田買いを行い、そのことが新聞報道され、さらに六月ころには、前年フライングした通産省がフライングを行い、それがサンケイ新聞に報道されるという事態になっておりました。この間、プロジェクトチームにおいては、T会議の決定に基づいて、R7―R10のラインで、前年同様丙川先生に就職協定に関する国会質問をお願いすべく動くことになり、R10がR7の指示に基づいて質問資料を作成するなど、準備を始めておりました。〔中略〕私は、R10から国会質問のための資料を見せられた記憶があります。その時期は、五月下旬か六月上旬ころのことでありました。〔中略〕「これ〔「昭和六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面〕は、R10が当時作った資料を再現したものだそうですが、私が当時見せられた資料もこのような体裁のものだったと思います。特に、この中で中雇対協や、就問懇の開催状況や決定事項を羅列した部分あたりは記憶に残っております。〔中略〕その資料は、R7やR10がそのころ丙川先生にお渡しして、質問をお願いしていると思います。」
「六月中旬ころ、サンケイ新聞が、通産省が青田買いとの報道をしたのです。そして、私達は、その新聞報道がなされた直後ころ、追加の資料を持って、議員会館の丙川事務所に丙川先生を訪ね、国会質問をお願いしたのでした。この時は、すでに前の資料も丙川先生の方に行っておりましたので、その後の状況、つまり、通産省がフライングしたことなどを補充的に説明したのでした。その時議員会館に行ったメンバーは、R7、私、R10の三人でありました。〔中略〕R7社長室長は、丙川先生に対して、前に渡してある資料と新たに持ってきた追加資料に基づいてペーパーをめくりながら、現状を説明して国会質問をお願いしておりました。〔中略〕R7さんは、〔中略〕丙川先生に対して、『今年も通産省が官庁の申し合わせに反して青田買いをしているんです。官庁の青田買いをやめさせないと、学生が落ちつかないし、企業もつられて動き始めます。通産省の青田買いを委員会で指摘していただいて、官庁の申し合わせを守るよう指導を求める質問をしてください。』などと言って質問をお願いしたのです。〔中略〕丙川先生は、『分かりました。やりましょう。通産省はけしからんですね。』などと言っておりました。」
(三) R7の元年五月一七日付け検面調書(甲書1一二三)
「昭和六〇年四月一〇日の各省庁人事担当課長会議で先程のような申し合わせ〔六〇年度人事課長会議申合せ〕がなされた訳ですが、具体的な日時ははっきり憶えていないものの、その頃、右会議の内容が取締役会で報告されました。そして、この時の取締役会であったかどうかはよく憶えておりませんが、〔中略〕昨年のようにまた官庁が青田買いをするかもしれず、そうなると、それに連られて民間企業も青田買いをする恐れがあるので、本年度もまた丙川代議士に就職協定のことについて国会で質問していただこうということが決まりました。」
「そこで、私は、昭和六〇年四月下旬頃であったと思いますが、R10に対し、『また丙川先生に国会質問をお願いすることになったから、官公庁も含めた就職協定の申し合わせと今の青田買いの現状について資料をまとめておいてくれないか。』などと言っておきました。」
「その後も、私は、R10らと丙川代議士にお渡しする国会質問の為の資料のことについて話し合い、その資料は、臨教審で青田買い防止が審議されているので、その関係で就職協定を守る必要があることとか、先程申し上げた昭和六〇年四月一〇日の各省庁人事担当課長会議の申し合わせを指摘して、政府側にその徹底遵守を約束させることなどを柱にすることに致しました。そして、丙川代議士にお渡しする国会質問の為の資料は、R10が中心になって作成致しました。〔中略〕今見せていただいた書面〔「昭和六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面等写し〕は、丙川代議士にお渡しした国会質問の為の資料について、R10が当時のことを思い出しながら作ったものだそうですが、私も、だいぶ前のことなので、細かいところまではよく憶えていませんが、丙川代議士にお渡しした国会質問の為の資料はこのようなものであったと思います。」
「そのような資料が出来たことを甲野に報告し、その資料を丙川代議士にお渡しして、国会質問を依頼するとの甲野の了承を得た上、私とR10が丙川代議士に資料を渡して国会質問をお願いしたと記憶しています。昭和六〇年六月初旬頃であったと思いますが、私は、R10と一緒に丙川代議士に会って、R10が作成した資料を渡し、国会質問を依頼しました。私は、丙川代議士に『臨教審で学歴社会の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが審議されており、本年は四月一〇日の各省庁の人事担当課長会議で、昨年と同様就職協定に協力するとの申し合わせを行っていますが、本年も、昨年同様、学歴社会是正の為、青田買いのことを質問していただけないでしょうか。』などと、前年同様、国会で、各省庁人事担当課長会議のことを取り上げて、政府側の右申し合わせを遵守するとの答弁を引き出していただきたいと頼みました。丙川代議士は、私達の頼みに対し、『判りました。この資料をよく読んでおきますから。』などと言って、リクルートの頼みを聞いてくださるとおっしゃってくれました。昭和六〇年にも丙川代議士がリクルートの依頼に応じて国会質問をしてくださると約束してくださったことについては、その後甲野かあるいは取締役会で報告したと思います。なお丙川代議士に資料を渡してこのようなお願いをした場所は、はっきり憶えておらず、議員会館かあるいは丙川代議士がリクルートに来られた時であったと思います。」
「その後、新聞で臨教審の第一次答申案が掲載され、学歴社会の弊害の是正の為青田買い防止が盛り込まれるなどという記事が出たり、『通産省が青田買い』『居酒屋に東大生四六人』『三回目』『若手OBが説明役』などという記事が出たりしました。〔中略〕そこで、私、R10、それに事業部のR11も一緒であったと思いますが、丙川代議士が衆議院文教委員会で質問をされる直前頃の昭和六〇年六月中旬頃であったと思いますが、今申し上げた通産省が青田買いをしたとの新聞記事等の資料を持参して、議員会館に丙川代議士を尋ねました。〔中略〕今見せていただいた書類〔「青田買いの現状」と題する書面写し〕は、私達が国会質問直前頃、丙川代議士に追加してお渡しした国会質問の為の資料について、R10が当時の事を思い出しながら作ったものだそうですが、これも細かい所まではよく憶えていませんが、丙川代議士に追加してお渡しした資料はこのような資料であったと思います。私達は、丙川代議士に右のような追加資料をお渡しした上、私が丙川代議士に『ここにありますように、通産省は四月一〇日の各省庁の人事担当課長会議の申合せに反してまた青田買いを行いました。官庁の青田買いをやめさせないと、学生が勉強中であるのに、そわそわしたり、官庁の青田買いにつられて一部企業も動き出してしまうのです。文教委員会で通産省が青田買いしたことを指摘していただき、課長会議の申し合わせの遵守の徹底を求める質問をしていただけないでしょうか。臨教審でも第一次答申案がまとまり、学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止が盛り込まれることになっているんです。』などと、前年同様、通産省が各省庁人事担当課長会議の申し合わせに違反して青田買いをしていることを指摘して、右の申し合わせの徹底遵守を要求する質問をしていただきたいとお願い致しました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。やってあげましょう。』などと、私達の頼みを引き受けてくれると言ってくださり、『昨年に続いて通産省は青田買いをするなんてけしからんですね。おっしゃるように、学歴社会の弊害を是正する為には、青田買いをやめさせ、学生に落ち着いて勉強させる必要がありますね。』などとおっしゃっていました。リクルートがこのようなお願いをしましたので、丙川代議士は、昭和六〇年六月一九日に開かれた衆議院文教委員会において、通産省が青田買いをしたとの新聞記事をもとに質問をしてくださり、人事院等の官庁も就職協定に協力するとの答弁を引き出してくださいました。」
3 被告人及びリクルート関係者の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、六〇年四月ころのリクルートの取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼すると決めたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に対し国会質問を依頼したかどうかは知らなかったのであり、検面調書には、早期決着、早期収拾で混乱を避け、リクルートの将来のことも考えるべきであるという流れの中で不本意ながら署名したにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R11及びR7の公判段階における各供述
R10、R11及びR7も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右2の供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
六〇年六月の委員会における質問を丙川二郎に対し依頼した記憶も、R7の指示を受けて丙川二郎に渡す資料を作成した記憶もない。取調検事にも、自分がその当時どのようなものを作り、丙川二郎にお願いをしたかどうかは思い出せない旨話した。検面調書添付の資料は、取調検事から会議録を読ませられるとともに、その他の資料も見せられ、当時のものとして考えられる資料を作ってみるように言われて、持っていっているとすればという前提で一応作ったにすぎない。R7から資料の作成を指示されたという点も、取調検事から誘導されて、そのような記載になったにすぎず、R7が被告人の了承を得たという点についても同様である。
作成した資料を丙川二郎に渡した記憶もない。議員会館の丙川事務所は数回訪問したが、丙川二郎本人に会ったのは五九、六〇年を通じて一回だけという記憶である。六〇年六月一八日に訪問した際の用件は思い出せず、その際に就職に関する資料を持参したかもしれないが、丙川二郎に会った記憶はなく、検面調書の内容は、取調検事が他の者の調書を見てそのような話をしていたと思うが、自分で話した覚えはない。
(2) R11の供述(〈証拠略〉)
五九年四月から六一年一二月まで事業部で勤務していた当時、議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎と一度だけ会った記憶がある。その際、R7と同行した記憶であるが、他に一人いたかははっきりしない。右訪問の際には、新聞記事の切り抜きのような資料を持参した印象が残っている。しかし、その時期が六〇年六月であったかどうかははっきりせず、その際の用件も、R7に言われて付いていっただけなので、あまり理解しておらず、国会質問をお願いしたかどうかは分からない。捜査段階においても、時期や用件ははっきりしなかったが、取調検事からR7やR10の供述を教えられ、そうであればそうなのかなと考えて、検面調書の内容に同意したにすぎない。
(3) R7の供述(〈証拠略〉)
丙川二郎に対し六〇年六月の文教委員会における質問を依頼することが当時の取締役会で決まったということも、自分がR10に資料の作成を指示したということも、丙川二郎と面談して質問を依頼したということも全く覚えておらず、捜査段階においても、ほとんど覚えていないと供述していた。
六〇年六月一八日に自分が議員会館の丙川事務所を訪問した記憶はない。同月二六日の議員会館の面会申込書(甲物1七二)の氏名等の記載は自分の字なので、自分が議員会館の丙川事務所を訪問したことは間違いないと思うが、その記憶はなく、用件も会った相手も覚えていない。
検面調書(甲書1一二三)には、自分の記憶になく、供述していないことが記載されていたが、異議を言っても、書き直してくれるという可能性を感じなかったし、ともかく早く終わって拘置所から出たかったから、署名した。
取調検事からは、R10が供述していることや、議員会館の面会申込書等の証拠物件等を総合して、これで間違いないなどと言われた。
4 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 六〇年六月の文教委員会では、臨教審の第一次答申が同月二五日の国会閉会直後に出される予定であり、国会軽視と考えたため、先取りして、自分の考えている青田刈りの問題が同答申に入ってくるのかどうかということを念を押して聞いたものである。通産省の青田買いに関する新聞記事は、自分が資料室で収集したか、秘書が持ってきたと思うし、六〇年度人事課長会議申合せについては、人事院の担当者から事前の説明を受けたのかもしれない。
② 六〇年中に自分自身がリクルートや議員会館でリクルートの者と会って資料を受領したことはなく、同年六月二六日に議員会館でR7と会った記憶もない。
六 考察
1 被告人の捜査段階における供述の任意性について
被告人が丙川二郎に贈賄したという事件に関する取調べを受けていた当時の取調べや接見等の状況は、本節第二の七3(一)、(二)のとおりであり、自己の刑事責任に関わる重要な事柄について、検察官に対し意に反した供述をし、事実と異なる供述が記載された調書に署名を余儀なくされるような状態にはなかった。
被告人は、公判段階において、元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)に署名した理由につき、本節第二の七の3(四)のとおり供述し、他方で、P4検事は、取調べの過程で保釈を取引材料として調書に署名を求めたことはない旨供述している(〈証拠略〉)。この点、前節第二の三5(三)、本節第二の七3(四)のとおり、同検面調書の作成状況に関する被告人の供述のうち、乙山に対する五九年三月の第一請託に関する部分並びに丙川二郎に対する五九年六月及び八月の文教委員会における質疑に関する部分はいずれも信用し難いのであるから、六〇年六月の文教委員会における質疑に関する部分についても、他の部分と異なって信用性があることを窺わせる何らかの事情がない限りは、同様に信用し難いというべきであるが、そのような事情は何ら窺われない。
したがって、捜査段階においては任意性なく供述した旨の被告人の公判段階における供述は信用することができず、捜査段階における供述の任意性に疑いが生じるものではない。
2 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内で丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決めた経緯に関する被告人、R10、R11及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)は、本節第二で認定したとおり、リクルートが前年度に丙川二郎に対し国会質問を依頼したこと、本節第三の二の六〇年度の就職協定を巡る状況及びリクルートの動きに照らすと、事態の推移として自然である上、重要な点で符合し、補強し合っており、それぞれ信用性が高い。
(二) 丙川二郎に対する請託の状況に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五2(一)、(三))は、臨教審の第一次答申において青田買い防止が取り上げられること、人事課長会議において官庁が就職協定に協力する旨の申合せがなされたことの二点を柱に資料を作成して、丙川二郎に対し国会質問を依頼し、その後、通産省が青田買いをした旨の新聞報道がなされたため、この新聞報道を含む青田買いの実情に関する追加の資料を作成し、議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎に対し国会質問を依頼したことなどにつき符合する上、その際の丙川二郎に対する説明や同人の反応に関する供述も一致しており、これらの点に関するR11の捜査段階における供述(本節第三の五2(二))とも大筋で符合している。
また、R10及びR7の供述する丙川二郎に対する依頼の内容も、官庁の青田買いが新聞報道されていなかった時は、人事課長会議申合せのほか、その当時社会的な関心を集めていた臨教審の第一次答申を根拠にして、官庁の青田買い防止に関する国会質問を依頼し、その後、通産省の青田買いが新聞報道されると、そのことも併せて丙川二郎に説明したなど、当時の就職協定を巡る状況に照らすと、自然なものである。
(三) 弁護人は、右(二)のうち、R10とR7の捜査段階における各供述が符合していることについて、検察官がR10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)の内容をR7に押し付けてR7の同月一七日付け検面調書(甲書1一二三)を作成したために符合しているにすぎないから、同調書記載のR7の供述は信用し得ない旨主張し(五年三月一九日付け弁護人の意見書)、R7も、本節第三の五3(二)(3)のとおり、公判段階においては、検察官から、R10が供述しているなどと言われて、記憶にないことが記載された調書に署名した旨供述している。
しかし、R7の供述経過をみると、R7は、R10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)が作成される前の同年四月一二日の検察官の取調べにおいて、「R10に就職協定の現状といったものをレポートにまとめさせて、それを持って丙川次郎代議士にお会いし、『青田買いの件を取り上げていただけませんか』などとお願いして、昭和六〇年六月一九日に開かれた衆議院文教委員会で青田買いを追及する質問をしていただきました。」と供述し(甲書1六八〇)、同じく元年四月一六日の検察官の取調べにおいて、「昭和六〇年にも、昭和五九年の時と同様、丙川代議士にお願いして青田買い問題を質問してもらい、就職協定遵守に協力する旨の政府側の答弁を引き出してもらおうということは、具体的にいつの取締役会であったかよく憶えていませんが、確か取締役会において決議されたことであったと思います。当時、私は社長室長であり、社長である甲野の指示や取締役会の決定に基づかずに丙川代議士に委員会で青田買い問題について質問していただきたいとお願いすることは考えられず、確か取締役会において、昭和六〇年度も丙川代議士に質問をお願いしようと決議されたと記憶しています。そこで、私は、その年の青田買いの実情や問題点等を書いたレポートをR10に作成させ、それを丙川代議士にお渡しして質問をしていただこうと思い、R10に〔中略〕頼みました。そして、その後しばらくして、R10が私の所に青田買いの実情や問題点等を書いたレポートや就職協定に関する新聞記事の写しなどを持って来ましたので、それを持って確か議員会館であったと思いますが、R11と一緒に丙川代議士の所に行き、その資料を丙川代議士に渡しました。〔中略〕丙川代議士にお会いした具体的な日時はよく憶えていませんが、文教委員会の一週間位前であったと思いますので、昭和六〇年六月中旬頃であったと記憶しています。私は、R10に作成させた就職協定に関するレポート等を丙川代議士に渡し、『官庁の青田買いをやめさせないと、学生が勉学中であるのに、そわそわしたり、一部企業が動き出しますので、今回も青田買いのことを質問していただけないでしょうか。』などと、文教委員会で青田買い問題を質問して、政府側の答弁を引き出していただきたいと頼みました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。』などと言って〔中略〕リクルートの頼みを快く引き受けてくれました。」(甲書1六八四)と、R7の元年五月一七日の検察官の取調べに対する供述と対比して、請託の回数が一回少ないものの、その他の重要な点では同趣旨の供述をしているのであるから、R7の公判段階における右供述は信用することができず、弁護人の主張は理由がない。
(四) R6は、六〇年度の就職協定に対するリクルートの取組みにつき、捜査段階において、「確か、この臨教審で青田買いの問題を取り上げられることが判ったころの取締役会において、R7だったか甲野だったかははっきりしませんが、今年も青田買いの問題について丙川先生に質問をお願いしているというような話があったような気がします。」と供述し(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一三七)、公判段階においても、右のような話があったかどうかは定かではないとしながらも、六〇年度もリクルートが丙川二郎に国会質問を働きかけただろうと思う旨の供述をしており(〈証拠略〉)、これらの供述は、曖昧ではあるものの、リクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第三の五2)と一部符合している。
(五) 六〇年六月上旬の請託に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五2(一)、(三))は、丙川二郎と面談した場所が曖昧であるという難点があるが、同月一八日の面談については議員会館の面会申込書が存在して、検察官が面談の事実を把握し得た事実であるのに対し、同月上旬の面談については、他の証拠からは分からない事実である。また、R10は、同月上旬の面談時と同月一八日の議員会館訪問時の依頼内容やその際に作成した資料を区別して供述し、さらに、それらの資料を再現して作成しているなど、その内容は具体的である。
(六) 六〇年六月の文教委員会における丙川二郎の質疑(本節第三の三)は、その日の付議案件とは無関係のものであったし、締めくくりとして文部大臣に対し就職協定に関する所見を尋ねてはいるものの、通産省に対し青田買いと報道された件の実情を質し、人事院に対し他の官庁による同種行為の有無を質した上、人事課長会議申合せに沿って、官庁の青田買い防止のための具体的な対応を求めたものであり、リクルートが当時情報を収集し、対応を検討していた事柄について、リクルートの問題意識と合致する方向で質疑をし、意見を述べていたのであるから、丙川二郎が公判段階において供述する(本節第三の五4)ような臨教審の第一次答申等に関する独自の関心から質疑をしたのではなく、R10、R11及びR7が捜査段階において供述するとおり(本節第三の五2)、リクルートの依頼によって質疑をしたとみるのが自然である。
(七) R10は、公判段階において、丙川二郎本人に会ったのは五九、六〇年を通じて一回だけである旨供述するが(本節第三の五3(二)(1))、もし実際に一回しか丙川二郎本人に会っていなかったのであれば、その会った時期や目的等については明確な記憶が残っていてしかるべきであり、検察官の誘導により、記憶のない事柄について、本節第三の五2(一)のような具体的な供述をした旨の供述は到底信用することができない。
また、R11は、五九年四月から六一年一二月まで事業部に在籍していた当時、同部付課長や同部次長であった者であり、その者が業務の一環として社長室長のR7とともに議員会館を訪問して丙川二郎と面談しながら、その用件は分からなかったというのは、不自然かつ不合理であり、その旨をいうR11の公判段階における供述(本節第三の五3(二)(2))は信用することができない。
(八) 右(一)ないし(七)の各事情によれば、被告人及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)は十分に信用し得るのに対し、これに反する被告人、リクルート関係者及び丙川二郎の公判段階における各供述(本節第三の五3、4)は信用することができない。
3 弁護人の指摘する諸点について
(一) R10、R11及びR7は、捜査段階において、丙川二郎に対し通産省の青田買いを報じる新聞記事を含む資料を渡して国会の質疑を依頼した時期が六〇年六月中旬ころである旨供述しており(本節第三の五2)、検察官も、論告において、その時期が同月中旬ころであるとして、幅を持たせた主張をするが、検察官が証拠請求した議員会館の面会申込書の中で同月中旬に該当するものは本節第三の四1①の六〇年六月一八日午後五時一五分ころの面会の申出に係るもの(甲物1七一)のみであり、同日以外には同月中旬にリクルートの者が議員会館の丙川事務所を訪問した可能性を窺わせる証拠は存しない。
弁護人は、この点について、質疑前日の午後五時過ぎに訪問して請託をしたというのでは、質疑開始まで時間的余裕がなく、したがって、六〇年六月一八日の請託に関するR10、R11及びR7の捜査段階における右各供述は信用し得ない旨主張し、丙川二郎も、公判段階において、文教委員会に常時出席しない省庁の者に説明員として出席してもらう場合は、委員会の三日か四日前に答弁者の用意を依頼するのが通常であり、委員会の前日に申し入れるというのは、少し非常識であり、まずないと思う旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、R10及びR7の捜査段階における右各供述によれば、リクルートの者は、既に六〇年六月上旬、丙川二郎に対し資料を渡して人事課長会議申合せ等について説明した上、国会で右申合せを遵守する旨の答弁を求める質疑をするように依頼していたのであるから、質疑に立つ文教委員会の前日午後五時過ぎに丙川二郎との面会を申し込んだからといって、時間的余裕がないとはいえない。もっとも、六〇年六月の文教委員会には、人事院の他に通産省からも説明員が出席しており、これは、R10、R11及びR7の捜査段階における右各供述を前提とすると、委員会の前日午後五時過ぎのR7らの訪問の後に、通産省が青田買いをした旨の新聞記事に関連した質疑をするために、丙川二郎が通産省の出席を求めたことになるが、我が国の中央官庁では、国会開会中に「国会待機」と称して翌日の委員会における質疑に備えるため夜遅くまで待機する慣行があることは広く知られた事実であるから、委員会の前日午後五時台が委員会における質疑について請託をするのに遅すぎる時刻であるとはいうことはできない。
(二) 弁護人は、R7と被告人は、不正を疑われたリクルートの職員の処分を巡って意見が対立したこと(後記第三章第四の三3)から、六〇年三月ころ以降、ぎくしゃくして、疎遠になっており、同年六月当時、R7は社長室長として活動していない状況にあったから、R7が取締役会の決定と承認の下で丙川二郎に対する国会質問の依頼に全面的に関わるということは考えられない旨主張する。また、被告人は、公判段階において、その当時、R7との関係が悪くなってR7が被告人の部屋を訪ねてくることもなくなった旨供述し(〈証拠略〉)、R7も、右の対立以降、被告人が重要な事柄や秘密の事柄から自分を遠ざけているという意識を持っていた旨供述している。
しかし、R7は、六〇年六月当時、現に社長室長の立場にあったのであり、同年七月には事業部長に転じたものの、同年八月に取締役に就任していた(第一章第一の三7)のであるから、R7が被告人の信任を失っていたものでないことが明らかであるし、R7が、本節第三の四1②のとおり、同年六月二六日に議員会館で丙川二郎との面会を申し出たことは面会申込書の記載等から間違いのない事実であり、その後も、同月二九日に議員会館のE1議員の事務所を訪問したり、同年七月二日に議員会館のD6文部大臣の事務所を訪問するなど(甲物1七五、七六)、政治家との接触を続けていたのであるから、同年六月当時、R7が取締役会の決定や被告人の指示を受けて丙川二郎に対し国会における質疑を依頼することは、何ら不合理ではなく、弁護人の右主張は失当である。
4 丙川二郎に依頼した経緯と状況
本節第三の二の六〇年度の就職協定を巡る情勢、六〇年度の就職協定に関するリクルートの対応策の決定や実行状況、乙山に対する請託、六〇年度人事課長会議申合せ、青田買いに関する新聞報道等の背景事情、本節第三の三の丙川二郎の六〇年六月の文教委員会における質疑の内容、本節第三の四のリクルートと丙川二郎との接触状況に加え、被告人、R10、R11及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)並びに関係者の公判段階における各供述(本節第三の五3(二))のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一)  被告人らリクルートの幹部は、六〇年一月の中雇対協後の記者会見におけるL1日経連専務理事の発言から、就職協定の存続及び遵守に危機感を抱いていたところ、同年四月一〇日に人事課長会議で前年度の申合せの踏襲が了承されたことから、同月中、下旬の取締役会で、官庁の青田買いを防止するため、再び丙川二郎に対し官庁の青田買いについて国会で質疑してもらうように依頼することを決めた。
(二)  そこで、R7は、R10に指示し、丙川二郎に対し官庁の青田買いにつき国会で質疑してもらうことを依頼する際の資料として、人事課長会議において前年同様の申合せがなされたことと、臨教審の第一次答申において学歴社会の是正策の一つとして青田買い防止が取り上げられる予定であることを柱に要点をまとめ、関連する新聞記事等を添付した書面を作成させた。
(三)  R7は、R10とともに、六〇年六月上旬ころ、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、右資料を渡し、臨教審で学歴社会の是正策として青田買いの防止が審議され、六〇年度も人事課長会議で前年同様に民間の就職協定に協力する旨の申合せがなされたことなどを説明した上、衆議院文教委員会において、国の行政機関に対し右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(四)  その後、六〇年六月一五日にサンケイ新聞で通産省の青田買いに関する報道がなされたため、R7の指示を受けたR10がその新聞記事を添付するなどして青田買いの実情に関する資料を追加して作成した。
(五)  R10、R11及びR7は、六〇年六月一八日午後五時一五分ころ、議員会館の丙川事務所を訪ね、丙川二郎に対し、通産省の青田買いに関する報道や官庁の青田買いの弊害等について説明した上、衆議院文教委員会において、通産省の青田買い問題を取り上げるなどして、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
5 結論
右4(三)の六〇年六月上旬の議員会館の丙川事務所又はリクルート本社におけるR7らから丙川二郎に対する依頼及び右4(五)の同月一八日の議員会館の丙川事務所におけるR7らから丙川二郎に対する依頼は、いずれも請託に当たる。
また、右認定の請託の経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第四 六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間の数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間、R7らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し三回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、R7及びR10が、同年一〇月中旬ころ、議員会館又はリクルートにおいて、臨教審の第一次答申に学歴社会の弊害是正策として青田買い防止が盛り込まれたことなどを国会で取り上げ、実効性のある就職協定が早期に取り決められるように質問していただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、R7及びR10が、同月二六日ころ、同様の要請をし、三回目の請託として、R7及びR10が、同年一一月中旬ころ、議員会館において、衆議院文教委員会で青田買いのため内定取消しによる弊害が出ていることを指摘し、青田買い防止に関する政府の取組み方や就職協定の取決めの見通しなどを質問していただきたい旨要請をした旨主張する。
被告人は、捜査段階において、六〇年一〇月から一一月にかけて開催された取締役会で、丙川二郎に対し就職協定の存続に向けた国会質問を依頼することが決まり、R7とR10が担当することになった旨供述するが、公判段階においては、取締役会で右決定をしたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に国会質問を依頼したかどうかは知らない旨供述している。
そこで、判示第二の二③の請託を認定した根拠を説明する。
二 背景事情
1 臨教審の第一次答申に基づく政府の施策
文部省内部では、六〇年六月から七月にかけて、臨教審の第一次答申への対応を検討した結果、従来の就職協定は大学側と企業側とが別個の申合せを行っていて、特に企業側の遵守体制が整備されていない実情にあり、そのために就職協定を守らない企業により特定の有名大学の卒業予定者から採用する実質的な指定校制が行われているという指摘があり、有名大学へ向けた受験競争を一層激化させる原因にもなっているという認識から、学歴社会の弊害是正のため、就職協定の遵守、指定校制の撤廃等を検討する大学、企業両者の参加による「就職問題改善委員会(仮称)」を年度末までに設置することや、文部大臣が労働大臣及び経済四団体の代表等と懇談して就職協定の遵守体制の整備等を要請する対応案を策定した。
六〇年七月二日、政府は、臨教審の第一次答申を最大限に尊重し、速やかに所要の施策を実施に移すものとする閣議決定をし、同月五日、この答申に沿って教育改革を推進するため、内閣に全閣僚を構成員とする教育改革推進閣僚会議を設置し、文部省は、省内に教育改革推進本部を設置した。
さらに、同閣僚会議の下部機関として、各省庁の大臣官房長らを構成員とする教育改革推進閣僚会議幹事会が設置され、六〇年七月二九日の第一回幹事会において、早急に検討し、結論を得るべき事項として、国家公務員の採用及び人事管理に関し、答申の趣旨に即し、所要の措置について検討を進めること、また、企業の採用及び人事管理に関し、答申の趣旨を踏まえた見直しが行われるように、経済界に働きかけを行い、新規学校卒業者の採用に関しては、学歴社会の弊害の是正の観点から、大学、企業両者の連携により検討が行われるように推進することなどを合意した。
六〇年九月一二日、同幹事会の決定に基づいて、経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催され、この懇談会で、文部大臣が、新規大学卒業者の採用の在り方について大学、企業側双方が意見交換を行いながら検討を進めることなどを提案した。
(〈証拠略〉)
2 六〇年度の就職協定の遵守状況と六一年度の就職協定に関するL1の発言等
六〇年度の就職協定は、前年度よりも更に遵守されず、六〇年七月中に内定を出す企業が多数あった旨の報道が相次いだ。
このため、L1日経連専務理事は、六〇年九月一二日の経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会の席上、六〇年の青田買い現象はそれ以前に比してより激しくなっているといわれるところ、企業が採用内定取消しや自宅待機等の措置に出ないことさえ守られるならば、大学卒業予定者の採用内定をいつにしようと問題はないと思われ、五九年の日経連アンケート調査の結果からすると、就職協定を存続せよというのが大方の企業の声のようであるが、就職協定は破られるために存在するのが実情でもあるように思われ、中雇対協の座長としていろいろ考えてみて、六二年三月卒業予定の大学生に対する就職協定はこれを行わないことにしてはいかがかというのが現在の心境であり、もっとも、中雇対協の他のメンバーがその衝に当たり、また、政府において中雇対協とは別の機関を作るということに反対するものではない旨の発言をした。
(〈証拠略〉)
3 就職協定に関する新聞報道
六〇年一〇月二六日付け日本経済新聞において、「年内に新就職協定メドつける」、「C3労相意向」という見出しの下、C3労働大臣が記者会見で、就職問題で青田買いが盛んに行われていることについて、労働省、文部省、経営者団体と実務者会議を行っており、年内には何らかの新たな取り決めをしたいなどと語った旨報道された。
(〈証拠略〉)
三 丙川二郎の衆議院予算委員会及び文教委員会における質疑
1 六〇年一〇月三〇日の予算委員会における質疑
第一〇三回国会会期中の六〇年一〇月三〇日、予算の実施状況に関する件等を議題として衆議院予算委員会の会議(以下「六〇年一〇月の予算委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、I3内閣総理大臣に対し臨教審の第一次答申に関連する質疑をした後、次のとおり質疑をし、I3内閣総理大臣等から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「総理、学歴社会の問題、総論というふうに理解してらっしゃるので、具体的な問題をお伺いする糸口に学歴社会の是正の問題と非常に密接な関係がある青田刈りと言われるあるいは青田買いと言われる問題についてお伺いをしたいと思います。
この問題は、労働大臣もあるいは文部大臣もぜひ答弁をいただきたいテーマであります。特にことしは就職戦線が非常に早くから過熱をしたと伝えられておりまして、もう七月ごろから会社と学生の接触が始まり、早いところでは七月に内々定というものが具体的にあった、そして八月には既に山を越した、こんなふうに伝えられまして、就職担当者の間では、ことしは異常な現象が起きた。各企業とも優秀な人材をそれぞれ欲しいということはよくわかるわけでありますが、教育の現場から見ておりますと、もう既に大学の四年生が始まった途端から就職問題が具体化し、そして、いわゆる社会の躯け引きと申しましょうか、そうしたものが現実に学生にぶつかってきている。一方では、そういう会社からの声のかからなかった学生は、片一方で内々定をもらった学生とつき合う中で、大変むなしい思いをしながら同じキャンパスの中で過ごしている。私はこういう問題というのは、いわゆる公正というものを教え、社会の正義を教え、学問の場で学生たちが本当によりよき青春を友情を持って過ごしていくという観点から見るならば、許されることではないんじゃないか。激しい企業間の争いの中で、人材を獲得するという面も私はわからないわけではありませんが、教育改革という観点から見るならば、この就職の問題については私は、非常な熱意を持って改善に取り組んでいかなければならないのではないか。
また後から具体的に申し上げたいと思いますが、やはり教育改革の一つの糸口は大学だと思います。そして、大学に何としても入れたいという親の気持ち、そしてそれが高校、中学、小学校まで、あるいは塾に至るまで非常に激しい受験過密、そしてその中でついていける子といけない子が大きく分かれ、非行、暴行が起き、学校が荒れる。私はある面、この問題、大学生と就職という問題が教育改革の一番のポイントであろう。総理もいみじくも今答弁の中で、総論として学歴社会の問題が出てきた、こうおっしゃっておられましたが、その学歴社会の問題の一つの現象面は、この青田刈りあるいは青田買いと言われることであって、これを是正するために政治が何らかの手を打たなければならないんじゃないか、こう私は思っているわけですが、総理の御認識を伺いたいのです。」
(D6文部大臣等の答弁要旨)
I3内閣総理大臣がD6文部大臣及びC3労働大臣から答弁をさせたところ、D6文部大臣は、労働省とも協議しながら、民間企業の代表とも十分な協議をして、望ましい形で就職試験がなされ、企業の側でも守ってもらえるような就職協定を作り上げていくように努力したい旨の答弁をし、C3労働大臣は、労働省としても、文部省等の意見も十分踏まえて、経済団体等と話し合い、就職協定が守られる実効性は大変厳しいが、新たな協定を何とか模索したいということで努力している旨の答弁をした。
(丙川二郎の質疑)
「今の御答弁は、私ども前々から伺っていたと同じ話なんです。要するに、学業を妨げるから何とかしなければならない。あるいは労働省の方にしてみれば、企業のいわゆる自由だと言われる活動の中で、それを制約して、採用について何らかの制約をすることは実効性が薄い、難しい、こういうご指摘は今まで何度も聞いてきたわけであります。ですから、先ほど総理に認識を伺っているのです。総理は、担当の大臣から答弁させますというふうにお答えだったのですが、私はこれでは済まないのではないか。教育改革の根本というのはここにある。これは総理もさっき認めていらっしゃいましたけれども、非常に重要な根源的な問題である。〔中略〕教育改革を提案され、それを施策の柱に据えていらっしゃる総理が、この問題について担当大臣に任せられている。
この一番最初に出てまいりました臨教審の一次答申というのは、国民としては非常に関心を持っている。どこがどう動いていくんだろうか。特色ある大学、特色ある資格、そうした問題もこの答申の中に出ておりますが、この学歴社会の弊害を是正するという問題をよく分析していくと、教育改革がここをはっきり押さえるならばかなり前進するのではないか、私はそういう気持ちで今お伺いをしているわけでありまして、再度総理から、総理のいわゆる意思として、この問題についてさまざまな、財界あるいは労働界あるいは大学その他あらゆる教育機関がこれに関係をしてくるわけでありまして、公務員の採用の問題も後からまた人事院にお伺いをしたいと思いますが、もう一度重ねてこの問題についての総理の認識をお伺いしたいのでございます。」(I3内閣総理大臣の答弁要旨)
おっしゃるとおり非常に緊切な問題であり、今年は特にひどくなってきた。官民一体となってやらないとできないことであるので、関係大臣によく相談させて、今年の経験に鑑みて、できるだけ早期に手を打つように努力させたい。
(丙川二郎の質疑)
「労働大臣にお伺いしたいのですが、企業がなかなか守らないというのでしょうか、これは企業だけの問題じゃなくて、学生にも責任があると思うのです。やはりOBがその出身校へ参りまして、学生に声をかけ、そして学生を場合によっては飲食を、さらには缶詰にするというふうにして、一日に何本も映画を見せたり、昼はすき焼き、夜はおすし、本当に学生生活の中で今まで余り経験したことがないという話を聞いておりますが、莫大なそうした社会的なと申しましょうか接遇を受けて、そして学生に夏休み前からそういう行為が行われている。私は、これは自由な社会であるから何をしてもいい、こう許していいものだろうか。〔中略〕やはり大学は社会の模範たるべき人材を養成するのが本来の使命であって、やはり学生がそうした勧誘に乗っていくということも私は問題だと思う。
と同時に、そういう学生に声をかけ、それが会社の方針だと私はあえて申しませんが、しかしいろいろ聞いてみますと、かなり強力な会社の人事担当者への力が加わり、予算も許されて行われている。だんだんだんだん、これは協定があっても、逆に協定が悪用されて、地方からの学生には、協定があるんだから何とも言えませんという状態でそれをシャットアウトしながら、ねらった学生に対しては早々と手を打って、そしてそういう行為が行われている。今労働大臣から実効性が問題だという御答弁がありましたが、どんな点がその実効性の問題なのか、お伺いしたいのでございます。」
(C3労働大臣の答弁要旨)
中雇対協のL1座長からは、就職協定を今年限りでやめにしたいという厳しい実情認識の披瀝もあったが、各企業等に聞くと就職協定は是非必要だという認識を持っている会社が多い。労働行政としても、就職協定を守り得る新たな施策を経済四団体の関係者と協議するなど、真剣に今年の状況等を踏まえて取り組んでいる。
(丙川二郎の質疑)
「時間がないのですが、人事院から公務員の採用の問題について、私、文教委員会でも何度もこの問題を申し上げておりまして、通産省が、具体的に新聞報道されたこともございまして、改善する。公務員の採用も、いい人が欲しいことは私は重要な要素だろうと思いますが、率先してこうした時期の問題について是正をし、学生とその生活を守っていく、こういうお考えがないかどうか、御答弁をいただきたいと思います。」
(G6人事院総裁の答弁要旨)
人事課長会議において、青田刈りがないよう、官庁が率先して弊害を防止しようということを申し合わせているが、企業の方も真剣に検討しているようなので、我々もその趣旨に対応しながら措置を執っていきたい。公務員、公務所の場合は、ある意味では模範でなければならないと思うから、そういう問題が一歩でも二歩でも改善されるように努力をしたい。
(〈証拠略〉)
2 六〇年一一月一五日の文教委員会における質疑
第一〇三回国会会期中の六〇年一一月一五日、文教行政の基本施策に関する件等を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「六〇年一一月の文教委員会」といい、六〇年一〇月の予算委員会と合わせて。「六〇年一〇月及び一一月の委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、次のとおり質疑をし、説明員として出席していたC4労働省職安局業務指導課長及びD6文部大臣から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「予算委員会でも私取り上げました学歴社会の是正の問題に関連いたしまして、いわゆる青田刈りと言われる問題についてお伺いをしたいと思います。
予算委員会でも大臣から答弁をいただいておりますが、私は、今問題になっている教育改革の一番根本は、大学有名校偏重、それに向かっての幼稚園からと言われるような教育の過熱ぶり、こうしたものがいろいろなところで問題を起こしてきたという認識を持っているわけでございます。
労働省お見えになっておりますか。冒頭、労働省にお伺いしたいのですが、ことしは大変過熱をいたしまして、七月ごろから企業と学生の間に、内々定であるとか、あるいはそれの取り消しであるとかというふうなことがあったようでございます。時には、決定を見たということで本当に本人は安心をしておったところが、実はあの話はなかったことにしておいてくれ。企業の側からすれば、いい学生を確保したい余りでしょうが、予定の数よりも多目に約束をしていよいよになってそれを取り消すという非常に身勝手な、学生の側からすればショックなこういう事件、事件とあえて私は申し上げたいのですが、起きてきたわけでございますが、これは現行の労働法制、職業安定法制等いろいろあると思いますが、これに照らして問題はないのかどうか、最初にお尋ねをしたいと思います。」
(C4説明員の答弁要旨)
労働契約が成立している場合は、その取消しに対して労働基準法上措置できるので、文部省と協力しながら、学生、企業に対して、採用内定が口約束ではなく文書でされるように指導するなど努力していきたい。
(丙川二郎の質疑)
「いわゆる就職協定というものがまた問題になってきております。これは大臣にお伺いしたいのですが、労働大臣との間でいろいろ協議がなされている。総理からも、非常に重要な問題なのでできるだけ早期に手を打つように努力させたい、こういう答弁をいただいておりますが、この就職協定についてその後何らかの進展は見られているかどうか、お伺いしたいのでございます。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
協定は必要ではあるが、ほとんど守られない協定であれば、おかしなことであり、正直者がばかをみるという結果にもなりかねない。そこで、どういう中身であれば協定が守られるだろうかということの勉強をしている段階である。
(丙川二郎の質疑)
「十月二十六日付の日経新聞の報道でございますが、労働大臣が二十五日に高知市内の記者会見で、青田買い問題について、『労働省、文部省、経営者団体と実務者会議を行っており、年内には何らかの新たな取り決めをしたい』、こう語ったということですが、年内に何かめどをつけたいという意向を労働省は持っていらっしゃるのでしょうか。」
(C4説明員の答弁要旨)
大臣は、早い時点で何らかの格好でのそういった方法ができることが望ましいということを申し上げているのだと思うし、私どもも、やはりそういった時点で来年どうするかという点について一定の関係者の合意ができることが望ましいので、努力はしてみたい。
(丙川二郎の質疑)
「今早口でおっしゃったのでもう一遍確認をしたいのですが、労働省としては年内に何らかのめどをつけたい、こういう目標であるかどうか、そのことだけお伺いしたいのです。」
(C4説明員の答弁要旨)
少なくとも大臣はそういったお気持ちをお持ちになっているだろう。
(丙川二郎の質疑)
「〔略〕今の協定を年内にめどをつけたいという労働省の御意向は、文部省も同じ気持ちなのか。そして、つくる以上は、守られる、協定内容がどうこうということではなしに、どんな協定ができようと学生はそれを守るべきだという指導をきちんと文部省は大学に指導していくべきではないか。
二つほどお伺いしたいのです。年内についての時期の問題とその性格について文部省がどういう認識を持っておられるのか。社会の事件ですから仕方がない、成り行きだ、こういう考え方というのは、文部大臣の立場からおっしゃるのは私はどうかなというふうに思うのですが、いかがでしょうか。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
企業の採用試験の方法や時期というのは、企業と就職希望者との相対の関係なので、一つのルールを作って強制することが法的に可能という結論は出てこない。そういう意味で紳士協定みたいな形になっており、それを企業に強制するということは法的にいえば不可能な感じがする。何らかの協定があった方が望ましいが、協定がある以上、企業の側でも守れる協定にしなければならない。そこに内容面での難しさが実はある。そこで、どういうことであれば守れるかを勉強しているところである。
協定を作る以上は、年が明けてからではやや遅い。したがって、年末あたりに意見の交換をして、遅くとも一月早々くらいには翌年度の卒業者について何らかのルール作りができれば望ましいと思っており、そういう方向で勉強中である。
(丙川二郎の質疑)
「企業と学生の間、これはお互いに自由な契約だという御趣旨かもしれませんが、教育を今改革しようという時期です。しかも、学生は、特に大学教育に関しては、国は巨額の金を投じて足りないところを補い、学生の経費を負担して、国家の将来を担わせる人材を育成している。言うならば国家の財産だと私は思うのです、大卒の人材――大卒だけではございませんけれども。したがって、それを企業が企業の利益のために、ある意味では恣意的に教育にまで踏み込んだ時期にそうした交渉を行わせるというのはいかがなものか。むしろ、文部省は、教育行政をつかさどる上ではっきりこの時期までは困るのだ、交渉してはいけない、学生にも接触をしてはいけないと言うくらいの構えが必要だし、そのために前から私が主張しておりますのは、キャリアガイダンスと言うのでしょうか、就職に関する指導というものをかなり早い時期に大学のカリキュラムの中に組み込んで、そしてこれは必修で、学生たちが社会の現象、契約というのはこういう状況でなければそれを実らせられないのだ。あるいはまた、いろいろと私も資料を持っておりますが、中には、学生には、自分の力を十分知らないで有名な会社とか、いわゆる騒がれているところとか、力と現実との間に乖離があって、就職に随分と遠回りがあるというふうに就職担当者はいろいろと指摘をしているわけです。そうした点からも、私は、大学教育の中で適切なキャリアガイダンスをして、学生をむだなことをしないできちっといいところへ就職させていく、こういう活動が必要なのではないか、こういう考え方を持っているわけです。
したがって、文部大臣にお伺いしたいのは、文部省としてこの問題についてどういうおつもりでいらっしゃるのか。双方の間に立って考えることはいろいろできると思います。しかし、教育改革の一番の中心的ポストである文部大臣のお立場として、今の社会現象の中でこれをどう考えるか、キャリアガイダンスの問題も加えてお伺いをしたいわけです。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
就職についての学生に対する指導、助言あるいは勉強会は、各大学が自主的に判断してなされるべきことだと思う。
(〈証拠略〉)
四 六〇年後半当時の就職協定を巡るリクルートや被告人の動向
1 就職協定に関する情報収集と実効性のある就職協定作りに向けた取組み
リクルートでは、臨教審の第一次答申の後、事業部が中心になって、大学、文部省、労働省、日経連等の就職協定を巡る動向に関する情報収集に努めていたが、六〇年九月一二日に予定されていた経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会については、事前に、労働大臣挨拶の案や就職協定問題に関する労働省の基本的見解に対する想定問答等も含まれた資料を入手し、これを基にして、「経済四団体との懇談会における労働省のスタンス」と題する書面を作成し、かつ、実効性のある就職協定を作り、その具体的な運用を強力に推進する機関として、経済四団体、国立大学協会等の大学団体、労働省及び文部省で構成する「新規学卒者就職問題協議会(仮称)」を設置する構想を立て、「大学生就職協定問題協議機関設置に関して」と題する書面を作成し、同月一〇日、被告人が文部事務次官室を訪問してD3文部事務次官と面談し、「経済四団体との懇談会における労働省のスタンス」と題する書面及び「大学生就職協定問題協議機関設置に関して」と題する書面をD3文部事務次官に渡した。
その後も、事業部では、六〇年九月二五日に文部省が開催した就職問題懇談会や同年一〇月二三日の文部省及び労働省と産業界の事務レベルとの会合等についても、参加者から聴取するなどして、情報を収集した。
また、被告人自身も、六〇年一一月二六日ころ、D3文部事務次官と再度面談して、「大学生の就職秩序確立のための新たな協議機関設置の促進について」と題する書面を渡して、新しい協議機関を作るために経済界の者と非公式の会合を持つことを提言し、さらに、同月下旬ころ、R7を介して、同次官に「大学生の就職における新しい協議機関について」と題する書面を渡した上、同年一二月九日、リクルートの費用負担で、労働大臣、労働事務次官、文部事務次官、W臨教審会長代理(日本興業銀行特別顧問)及びL3経済同友会副代表と東京都内のホテルで会合を持ち、新しい協議機関について話し合うなど、実効性のある就職協定と就職協定推進のための新しい協議機関の設置に向けた活動を精力的に行った。
(〈証拠略〉)
2 外部の者に渡した書面の記載
右1の各書面のうち、被告人がD3文部事務次官に渡した「大学生の就職秩序確立のための新たな協議機関設置の促進について」と題する書面(甲物1三一)は、リクルート事業部で作成したものであり(〈証拠略〉)、「現在の就職協定は、会社訪問開始日が10月1日、採用選考開始日が11月1日と申合せがされています。しかし、実態は青田買いが行なわれて、年々内定の時期が早期化しており、就職秩序の改善が望まれております。また、臨時教育審議会の答申の中でも『学歴社会の弊害是正』が唱われており、企業・官公庁の採用の面において、青田買いを改める努力が必要であると提言されております。総理におかれましても、臨時国会にて、緊切な問題であるとの積極的なご発言がなされております。就職秩序確立のためには、新たな協議機関の設置が必要であり、それが年内に実現されることが必要と思われます」という記載に続いて、臨教審の第一次答申、教育改革推進閣僚会議の設置、文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会の経緯に触れ、青田買いの弊害に触れた上、「この問題につきましては、現在開かれております臨時国会でも取り上げられており、そのなかで総理は『非常に緊切な問題として関係大臣によく相談させまして、できるだけ早期に手を打つように努力させたい』とご答弁されております。青田買い是正に取り組まれている総理の真しな姿に感銘をおぼえるものであります。」として、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑に対するI3首相の答弁を引用し、「しかしながら、文部、労働、経済四団体の事務レベルの会合は、世の中の期待通りには進展されていないようであります。すでに大学側では来年度の就職指導がはじまりつつあり、学生に対する就職ガイダンスも12月からスケジューリングされております。このような現状をふまえつつ、青田買いを是正していくためには、遵守される就職協定が必要であります。実効性ある就職協定をつくり、その具体的な運用を強力に推進するための新しい協議機関が必要であり、その協議機関が年内に設置されることが必要と思われます。」という意見の記載がある。
次に、被告人がR7を介してD3文部事務次官に渡した「大学生の就職における新しい協議機関について」と題する書面(甲物1二八)は、R7、R10らが関与して作成されたものであるが(〈証拠略〉)、同書面には、青田買いの現状に続いて、「青田買いの防止に向けて」の項目の下、臨教審の第一次答申や教育推進閣僚会議幹事会の動向に触れた上、「9月12日には、労働大臣、文部大臣出席のもとに、『経済四団体との教育改革問題についての懇談会』が開催され、学歴社会の弊害を是正するために政府・産業界が、協力して取り組むことで意見の一致をみています。その中で、青田買い防止については、新たに大学と企業による協議の場を設け、実効性のある遵守される就職協定づくりを検討すべきであるとの考えが示されています。また、10月30日には、衆議院予算委員会で公明党丙川次郎代議士により『青田買い防止』についての質問がありそれに対してI3首相は、『青田買い問題は、緊切な問題として……官民一体となって……できるだけ早期に手を打つよう努力させたい。』と答弁しております。また、D6文部大臣は、『労働省とも協議しながら、民間企業の代表とも協議して、……企業の側で守ってもらえるようなそういう就職協定を作り上げていく……』と答弁しております。」という記載があり、さらに、新しい協定作りの現状、現行の就職協定の申合せ、その問題点について触れた上、「就職協定における新しい協議機関の必要性」の項目の下、「このような現行就職協定の問題点を考えれば、従来のやり方とは違う、新たな協議機関を設けることが必要であると思われます。すなわち、遵守される就職協定をつくり、その具体的な運用を強力に推進していくためには、文部省、労働省、大学団体、経済団体並びに主要業種を代表する企業で構成される、新しい協議機関の設置が必要であります。」という記載があり、「新しい協議機関の年内設置の必要」の項目の下、「企業側は、本年度の採用をほぼ終え、来年度の採用計画立案の準備に入ってきております。また、すでに大学側だは〔原文のまま〕、来年度の就職指導策定の時期に入ってきており、この12月には、就職ガイダンスをスタートさせるところも多くあります。従いまして、新たな就職協定に関する協議機関は、年内に設置されることが必要と思われます。」などという記載があり、産業界の団体、大学関係団体及び人事院任用局で構成され、文部省高等教育局及び労働省職業安定局が事務局となる大学生就職問題協議会で就職協定の決議等をすることを提案するものとなっている。
3 六〇年一一月ころにリクルート内部で作成された文書の記載
(一) 六〇年一一月六日付けで「取締役会御中」という記載がある事業部作成名義の「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)は、リクルート事業部が作成してR7が取締役会に提出したものであるところ(〈証拠略〉)、同書面には、「新たな協議機関が年内に設置され、就職協定がそこで決議されるよう以下の働きかけをする」という記載に続いて、「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」、「② 労働大臣、文部大臣へ再度陳情をする。……(甲野、R8、R15)」、「③ 労働省幹部(C5職安局長・C6審議官)への働きかけをする。……(R7)」、「⑨ W(臨教審会長代理)から、経済界トップへ働きかけてもらう。」などの一〇項目の記載があり、「現状」の表題の下で、「大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態である」という記載があり、「経緯」の表題の下で、「・10/18 臨教審教育改革推進閣僚会議にて ○○総務長官の『青田買い』の質問に対して、C3労働大臣は、『新しく協議の場を作るために事務レベルで話し合いをすすめている』と答弁する」、「・10/23 文部省、労働省、経済四団体事務レベルの会合文部省より、『学歴社会の弊害是正のための大学と企業の協議の場』を設置したらどうかとの提案がなされたが、経済四団体(日経連は、『協定は別のところ(中雇対協)でやるべき』との立場をとる〔原文のまま〕」、「・10/24 文部省主催就職問題懇談会 私学側より『協定に関して大学、企業、行政とによる三者機関』を設置するが提案される〔原文のまま〕」、「・10/25C3労働大臣 高知で記者会見 『青田買い防止に向けて、労働省、文部省、経済四団体と実務会議を行ない、年内には何らかの取り決めをしたい』とコメント」、「・10/30 公明党丙川次郎氏予算委員会で青田買い防止について質問 ・I3首相…官民一体となって早期に手を打ちたい。・C3労相…企業、大学ともに検討をしはじめている。協定を推進するためには罰則が必要 ・D6文相…協議の場で検討する必要がある。内閣人事院総裁…公務員が模範となるよう、青田買い防止に努める。」などという記載があり、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の様子を伝える公明新聞の記事等が添付されている。
(二) 六〇年一一月二〇日付けで「取締役会御中」という記載がある事業部R7作成名義の「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)も、リクルート事業部が作成してR7が取締役会に提出したものであるところ(〈証拠略〉)、同書面には、「その後の進展状況」の項目の下、「1.11/15 衆議院文教委員会で公明党丙川次郎代議士が協定問題について質問」、「・D6文部大臣〔中略〕どういう協定なら守れるかを勉強している。年明けではおそい。年末には各方面と意見交換し、遅くとも1月には決めたい。」「・労働省C4課長……協定は、例年12月か1月に決まる。早い時点で決まることが望ましいと思う来年7〜8月では困る。そういう方向で努力している。」「2.11/18(13:30〜)に予定されていた、労働省・文部省と経済四団体との第二回事務レベルの会合が日経連L2雇用課長の反発にあい、急拠中止となった。」などという記載があり、「今後の対策」の項目の下、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」「・質問の趣旨 (1)就職協定づくりを推進させる。(2)守れる就職協定を口実として、労働省が職安機構の中に大学生の職業紹介業務を取り組むことを阻止する。」などという記載がある。
また、同書面には、別添資料として六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の質疑とこれに対する答弁を記載した詳細な傍聴報告と六〇年一〇月の予算委員会の会議録(丙川二郎の質疑とこれに対する答弁部分)が添付されている。
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①六〇年一一月一四日午後五時五分ころR7及びR10が、②同月二〇日R7、R10ほか一名がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出たことは、客観的な証拠からも、明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第四の一)、右①が三回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 接待状況
六〇年一〇月三一日、R5、R2らが料亭「艮」で丙川二郎及びB1を接待し、引き続き、R5らが銀座の「巳」で丙川二郎及びB1を接待した。
(〈証拠略〉)
六 被告人及び関係者の各供述
1 被告人の元年五月二一日付け検面調書(乙書1三一)
被告人は、元年五月二一日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「昭和六〇年六月二六日、臨教審の第一次答申が出ました。その中で、学歴社会の弊害の是正策の一つとして、就職協定問題にも触れており、すなわち、有名校重視につながる就職協定違反の採用を改め、指定校制を撤廃するなど、就職の機会均等を確保するといったものでした。これは、青田買いの防止が、国家レベルの問題として取り上げられたものであり、青田買いを防止し、就職協定の存続・遵守を望んでいるリクルートにとっても、好ましいものでした。この答申により、政府としても青田買いの問題に本格的に取り組むことになり、六〇年七月には、内閣に教育改革推進閣僚会議が設置され、同会議幹事会において学歴社会の問題の、当面の検討課題として、学歴社会の弊害是正の観点から、公務員や企業における新規学卒者の採用の問題が取り上げられました。そして、近いうちに、企業の採用に関して、文部・労働の両大臣と経済四団体のトップとの懇談が予定されることになったのです。一方、リクルートでは、プロジェクトチームを中心に就職協定の存続・遵守のための効果的な方策を検討しており、その一つとして、就職協定の仕組みについて、これまでのような、大学側である就職問題懇談会と、産業界側である中央雇用対策協議会の双方でそれぞれ決議するといった方式ではなくて、大学側、産業界側、それに関係行政機関が一体となって決議する方式の構想を持っており、そのための新しい協議機関の設置が必要であるとの考えを持っていました。」「そこで、私らは、近々予定されている文部・労働両大臣、経済四団体の懇談の場で、できれば就職協定の存続・遵守のための具体策を打ち出して欲しいと望んでおり、そのための一つの試案的な意味あいで、新しい協議機関の設置の考えを事前に出席者に説明して理解を求めようと考えたのでした。そこで、私らは、そのころ、C3労働大臣やD3文部事務次官に会って、就職協定についての説明をし、理解を求めました。その際、リクルートで作成した資料を相手方にお渡ししていると思います。昭和六〇年九月一二日に、文部・労働両大臣、経済四団体の懇談会が開かれましたが、席上、日経連のL1専務理事が『六二年三月卒業予定者に対する就職協定を行わないというのが、私の心境です。』などと発言して、結局、就職協定存続・遵守のための方策についての具体的な意見は出なかったように思います。このようにL1専務理事が消極的姿勢を見せたことから、就職協定の問題は具体的進展がなく、リクルートとしても更に対策を講じることになったのです。昭和六〇年一〇月から一一月にかけての取締役会だったと思いますが、就職協定の存続・遵守のための方策について何度か話し合われた記憶です。その内容は、私らリクルートとしても、新しい協議機関設置の構想も含めて、就職協定が存続・遵守されるよう各方面に働きかけていくというものでした。文部省・労働省に働きかけて就職協定の存続の必要性を説明したり、産業界や大学側の主要な人物に働きかけるといったことが話し合われた記憶です。さらに、丙川次郎代議士にお願いして、国会の委員会で質問してもらい、就職協定存続のための政府側の答弁を求めるといったことも話し合われました。実際に丙川代議士のところへ国会での質問をお願いに行く役割は、R7やR10らが担当したと思います。」「お示しの資料〔六〇年一〇月及び一一月の委員会の会議録〕からも、丙川代議士が昭和六〇年一〇月三〇日及び同年一一月一五日にそれぞれの委員会で就職協定関連の質問をしていることが明らかであり、これらの質問は私らリクルートの依頼に応じて、丙川代議士が質問してくれたものと思います。」
2 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R7及びR6は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一六日付け検面調書(甲書1一五五)
「〔六〇年〕九月中旬には、文部大臣、労働大臣、経済四団体のトップとの懇談会が開催されたのです。ところが、日経連のL1専務理事がその席で就職協定不要論を唱えたのです。そして、そのことが新聞にも報道されたのです。〔中略〕この状況については、私が、当時すでに事業部長になり、また八月には取締役にも昇進していたR7さんにも報告し、これは、九月中旬ころの取締役会にも出されて検討されたということであります。それは、当時、R7さんからそのように聞かされていた記憶があります。〔中略〕その後、甲野社長から、従来の就職協定を決める中雇対協や就職問題懇談会などを結集した新しい協議機関の設置のために、事業部の私やR11さんが中心となって、その新協議機関の設置案の作成に入ることとなったのでした。」
「そのような状況の中で、六〇年も一〇月に入りますと、R7さんから、『六一年度就職協定の取り組み状況と六〇年度就職線戦の総括、それに六一年度協定の課題や問題点をまとめてくれ。これもまた丙川先生にお願いする国会質問用の資料だから。』などと、再び丙川先生に対する国会質問案の資料作りを指示されたのでした。〔中略〕R7さんの話では、国会質問案の資料作りの件は、甲野社長からの指示であるということでした。また、このことは、一〇月上旬ころの取締役会でも決定されているという話でした。当時の状況が再び就職協定問題を丙川先生に国会質問で取り上げてもらい、協定締結のメドや官民双方が青田買い防止のために徹底することを質問して、政府にその対応について答弁させ、就職協定が存続し遵守されるための環境整備が是非必要な状況にあり、これは誠に時宜を得た適切な指示だと私は納得したのでした。このため、私は、その質問案の資料作りに入り、六〇年度の就職戦線の総括としては、第一に、六〇年度は七月から一部大企業の青田買いが始まり、五九年度に比べても一か月以上も早期化した結果が出ていること、第二に、青田買いがますます早期化した結果、内定取消しの事態も発生し、これが社会問題化していることの二点を中心に、これを報道した新聞記事のコピーを集めて、その添付資料としました。次に、臨教審と就職協定との関連、つまり、六月二六日に臨教審が第一次答申を出しましたが、その中で、学歴社会の弊害の是正策として青田買いを防止する必要があることが盛り込まれ、これを受けて教育改革推進閣僚会議や文部、労働両大臣と経済四団体とのトップ会談が開かれ、青田買い防止策が検討されたこと、しかし、その中で、就職協定の当事者の一方である中雇対協の座長で日経連の専務理事という要職にあるL1さんが青田買い問題に対する切々とした心境を発表し、就職協定が危機状態にさらされていることなどについて、その関連する新聞記事のコピーや書面を添付資料としました。そして、六一年度就職協定の早期締結が必要であることを指摘し、これに関連する新聞の記事を添付資料としたのでした。今、リクルート社から押収されている就職協定文書ファイルなどの資料を見ながら、これについて、その質問案の再現資料を作りましたので提出します。〔中略〕私が質問案の資料として再現した『六〇年度就職戦線の総括と六一年度就職協定について』と題する書面については、六〇年の一〇月中旬ころには、丙川先生にお渡しし、その資料の説明と委員会での質問をしていただくその質問の要点をR7さんと私とで申し上げ、再び国会質問の依頼をしたのでした。この時、R7さんは、『六月に出た臨教審の第一次答申中に学歴社会の弊害の是正策として指定校制廃止とともに青田買いの防止が挙げられていますので、この点を指摘していただいて、官民双方の青田買いの現状とその防止策遵守方の徹底について、また政府側の答弁を求め、早期により実効性のある就職協定の取り決めについて質問をお願いしたいと思います。』などと言って、丙川先生に〔中略〕お願いしたのです。この時も、丙川先生には、この資料をお渡しし、よく読んでおいてもらって、質問日直前にもう一度お会いして、リクルート側がお願いする国会質問のポイントをご説明することでお別れしたと記憶しています。もちろん、丙川先生は、この時も快く、こちらがお願いするとおりに質問することをお約束してくれたのでした。このように質問をお願いした場所については、議員会館の丙川先生の部屋を訪ねた時と思いますが、あるいは先生がリクルート本社に何かの用件で来られた際にお願いしているかもわかりません。この資料もR11さんには見てもらい、R7さんに上げて、そのアドバイスも受けて、最終的にはR7さんが甲野社長に報告して、この資料でよいという承認を得ているものであることは間違いありません。当時、R7さんも甲野社長がその資料でよいと言っていたと話しておりましたから、そのように記憶しているのですが、ただ甲野社長から資料の文言について何か指摘を受けたというような記憶もあまりないので、R7さんは、甲野社長には、あるいは資料を見せることなく、事前の口頭報告だけで済ませているかもしれません。」
「この予算委員会の丙川先生が質問に立たれるという日程については、その一週間位前には判明し、丙川先生の秘書からだったと思いますが、その日程を聞き、その質問日の直前に、やはりR7さんと一緒に私は、丙川先生に、その時は確かC3労働大臣が高知市内のホテルで記者会見し、年内に新就職協定のメドをつけると述べたことが新聞報道をされていましたので、これなどは質問直前のホットニュースでありますので、その新聞記事なども持参してお渡しした記憶があるのです。この予算委員会において、丙川先生に質問していただく事項について、R7さんの口から丙川先生に最終的にお願いしたポイントは、要するに次のとおりでした。『青田買いの防止が臨教審の第一次答申に学歴社会の弊害の是正策として上げられている重要な問題であることをまず取り上げてもらい、その上で、就職戦線は青田買いがますます早期化して内定取消しなどの弊害も出てきて、社会問題化していること。そのように混乱状態なために、六一年度就職協定の内容についての検討もあまり順調に行っておらず、しかし、大学ではこの一二月から就職ガイダンスも始まる時期に差しかかっており、六一年度の新就職協定について、できるだけ早く、かつ、守れる内容の協定を作る必要があること。官公庁の青田買いが民間の就職協定違反を誘発する要因になっていることから、その青田買い自粛の徹底方を求めること。そして、これらの問題について国の機関に積極的かつ適切な対応を求めることなどについて、委員会で是非質問してもらいたい。』というのがそのリクルートが丙川先生に委員会で質問していただく内容の要点でありました。〔中略〕丙川先生は、すぐわかっていただき、『わかりました。この予算委員会で、この資料に基づいて、今説明してくれた事柄について質問しましょう。』などと答えて、快く引き受けてくれたのでした。この時は、R7さんから、更に就職戦線の細かい現状分析もあり、『七月から内々定が出て、八月には峠を越す異常事態となっており、ますます有名校偏重の指定校制が横行し、学校間格差が大きくなり、首都圏以外の地方大学の切り捨てにもつながっている。』というような説明もなされたように思います。〔中略〕この質問依頼をした場所については、やはり議員会館の先生の部屋でやったように思うのですが、あるいは、この時も丙川先生がリクルート本社に来られた機会にお願いしているかもわかりません。」
「この公明新聞の記事〔六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の様子を伝える記事〕は、当時、すぐ切り抜いてR7さん経由で甲野社長にきちんと報告した記憶です。また、この予算委員会の丙川先生の質問の全てについては、その後、国会図書館で会議録写しを入手し、R7さんに報告して甲野社長に上げているのです。」
「その年の一一月一五日にも文教委員会が開かれることになり、〔中略〕実は、私は、R7さんから甲野社長の指示があったからと言われて、丙川先生に再びその委員会で就職協定のことを質問してもらうためにその質問依頼に行ったことがありました。この時は、確か一〇月三〇日の予算委員会の前に丙川先生にお渡しした質問資料と同じものを念のために持って行ったと思います。この時は、一〇月二六日付けのC3労相の記者会見の記事も一緒に持参したと思うのです。この時は、文教委員会の前日のあたりにR7さんと一緒にこのように確か議員会館に行って丙川先生にお会いして、再び委員会での質問をお願いしたのでした。〔中略〕R7さんは、丙川先生に対し、『先日の予算委員会では質問をしていただき、ありがとうございました。つきましては、また文教委員会で就職協定のことを質問していただきたいのですが、よろしくお願い致します。やはり何と言っても、青田買いの防止は臨教審の答申の中で学歴社会の弊害の是正策として取り上げられた重要課題でありますから、この点について政府側の取り組み方を質問してもらうことや、青田買いによる内定取消しなどの弊害が出ていることも問題点として指摘していただき、また、一〇月二六日付けの新聞では、労働大臣が就職協定について年内には何らかの新たな取り決めをしたいとも言っておられるわけですので、守られるべき実効性のある就職協定を早期に取り決めるよう国の機関に積極的な対応を求める質問を是非今度もしていただきたいと思うのです。協定の早期締結の見通し時期や特に年内にそのメドが立てられるような方向で解決を図るよう是非政府側に質問していただいて、その答弁を引き出していただきたいのです。そうしないと、大学生にも混乱が生じますし、是非よろしくお願いします。』などと言って、そのように文教委員会で質問していただけるようお願いしたのでした。〔中略〕丙川先生は、『わかりました。なかなか熱心ですね。』というようなことを言われて、この質問依頼を快く引き受けてくれたのです。」
なお、調書に添付されている「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面には、「1.60年度就職戦線の総括」の表題の下で、六〇年度は七月より一部大企業の青田買いが始まり、前年よりも一か月以上早期化したことや、青田買いの結果、内定取消しの事態も発生して社会問題化していることが記載され、「2.臨教審と就職協定(青田買い是正問題)」の表題の下で、臨教審第一次答申で青田買い是正が提言されたことや、それを受けた政府の動向が記載され、「3.61年度就職協定の締結」の表題の下で、L1の発言が波紋を呼んでいることが記載され、「4.課題及び問題点」の表題の下で、「①61年度就職協定は、いつ、どのような期日で申し合わされるか。②官公庁を含む協定遵守の実効ある具体策は何か。③青田買いと内定取消しの問題。」と記載されている。
(2) R10のその他の供述
R10は、元年五月一八日の検察官の取調べにおいても、右(1)と同趣旨の供述をした上、六〇年一〇月の予算委員会の前に質疑を依頼した場所について、「この質問依頼に際しては、リクルートファーム牧場の製品を議員会館の他の先生に配ったころに、次いで、丙川先生の部屋にR7さんとお伺いして質問日の少し前ころに最終的なお願いをしたように記憶しているのです。ただ、丙川先生は、リクルート社にも気軽に来られることがありますので、こちらからお伺いするつもりでいたところ、先生が来られたために、その際に応接室のソファーに座って、その要点を念押しして質問依頼をしていることも考えられます。」と供述し(甲書1一五六)、元年五月二二日の検察官の取調べにおいては、丙川二郎との面会状況一覧表を示され、六〇年一〇月中に議員会館で面会した形跡がないことについて、「私は、一〇月中にも中旬と下旬にR7さんと一緒に丙川先生にお会いして国会質問を依頼しているのですが、面会の結果がないとすれば、丙川先生がリクルート本社に来られた際に応接室でお会いして質問依頼をしたものと思われます。ただ、議員会館には、最初に他の先生の部屋を訪ねた後に丙川先生の部屋を訪ねたということもあり、その場合は、丙川先生に対する面会申込書は書いていませんので、あるいはそのようなことで一〇月中には私達の面会申込書が出てこないということも考えられます。私は、R7さんと一緒にソファーに座って、丙川先生に対して、この六一年度就職協定についてと六〇年度の就職戦線の総括についての質問をお渡しして質問依頼した記憶が残っているのです。」と供述し、また、六〇年一一月の文教委員会の前に依頼したのは、同月一四日の「R7外一名」の面会の際(本章第四の五1①の機会)であると思う旨供述している(甲書1六一五)。
(二) R7の元年五月二〇日付け検面調書(甲書1一二五)
「日経連のL2さんは、中央雇用対策協議会の座長であるL1さんが就職協定に熱意を失っていると発言したこともあって、R10と会った時、『この二ヶ月内に雇対協としては、就職協定の申し合わせをしないというL1座長のコメントを出さざるを得ないだろう。』とか、『守るつもりもない就職協定を申し合わせるつもりもないし、本来就職は自由でいいじゃないか。早期に内定してなぜ悪いのか。』などと、昭和六一年度の協定に関し、非常に消極的な発言をされたのでした。そして、右のようなL2さんの発言は、当時私はR10から聞いて知っています。」「私は、〔中略〕労働省の就職協定に関する考え方といったようなものの感触を得ようと思い、労働省の業務指導課長をしていたC4さんに会ったのですが、C4さんは、『現段階で協定に参加するつもりはない。機が熟するまで待つ。』などと言って、就職協定存続遵守の協力方については、あまり熱心ではありませんでした。また、昭和六〇年八月二三日に、文部省は、今度は日経連のL2さんに対して臨教審第一次答申を具体化する為大学と産業界による協議機関を設けたいなどと要請したようでしたが、これも〔中略〕協力的でなかったようでした。昭和六〇年六月二六日の臨教審第一次答申後の文部省、労働省、産業界等の就職協定に関する動向については以上の通りであり、このような動きについては、当時リクルートの広告事業本部長であったR6や私が取締役会で報告しておりました。だから、就職協定に関する右のような動向は甲野以下取締役は全員知っていたのです。」
「甲野は、臨教審の第一次答申で、青田買いの是正が国家レベルの問題として取り上げられたことから、その答申をベースにして、文部省を中心とする就職協定の組み直しをしたらどうだろうかという観点から、新しい就職協定についての協議機関の設置の構想を抱き、確か昭和六〇年九月頃であったと思いますが、私に右構想案作りを命じ、私は、R10や事業部のR11に対し、右構想案作りについて手伝わせました。そして、甲野は、出来上がった構想案を持って、文部省の文部事務次官等に会い、就職協定の存続遵守の必要性とか甲野構想にかかる新しい協議機関設置についての説明をして、理解を求めておりました。」
「昭和六〇年九月一二日頃、文部大臣、労働大臣、経済四団体の長等が出席して、教育改革問題についての懇談会が開かれ、その席上で、L1さんがまた、『昭和六二年三月卒業予定者に対する就職協定を行わないというのが私の心境です。』などと発言されましたが、労働大臣が、『文部、労働並びに経済団体でもっと知恵を出し合って守れる協定を考えてみたらどうか』などととりなしてくれた為、翌年度も就職協定を存続させる方向で検討を続けることになりました。そこで、昭和六〇年一〇月初旬頃に開かれた取締役会で、確か甲野であったと思いますが、『臨教審の第一次答申が出て、青田買いの防止が指摘されているので、政府に答申にそった対応をしてもらうよう国会で質問してもらったらどうだろうか。丙川先生にまた国会質問をお願いして、総理大臣、文部大臣、労働大臣に協定に向けて努力するという答弁を引き出してもらおうじゃないか。』などと発言し、他の取締役の賛成を得られたのでした。そこで、私は、右のような取締役会の決定を受けて、R10に『取締役会で丙川先生に国会質問をお願いすることになったから、丙川先生にお渡しする国会質問用の資料を作ってくれないか。』などと指示をしました。〔中略〕今見せていただいた書面〔「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面写し〕は、私がR10に指示して作らせた国会質問の為の資料について、R10が当時のことを思い出しながら作ったものだそうですが、細かい所まではよく憶えていませんが、R10が作った資料は、今見せていただいたような資料であったと思います。この資料を甲野に見せたかどうかはよく憶えていませんが、少なくとも、甲野には『丙川先生にお渡しする資料を事業部の方で作っておきました。』などという報告はしていると思います。」
「昭和六〇年一〇月中旬頃、確か丙川代議士がリクルートにお見えになった時のことであったと思いますが、私とR10は、丙川代議士に会って先程の資料をお渡しした上、私が丙川代議士に『いつもお手数をかけています。臨教審の第一次答申が六月に出て、その中で学歴社会の弊害の是正策として指定校廃止と青田買いの防止が上げられましたが、国会でこの臨教審のことを取り上げていただき、実効性のある就職協定の早期の取り決めのことについて、質問をお願い出来ないでしょうか。』などと〔中略〕お願い致しました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。この資料をよく読んでおきましょう。』などと言って、私共のお願いを聞いてくださると約束してくださいました。」
「昭和六〇年一〇月二五日頃だったと思いますが、労働大臣が高知市内で記者会見し、就職協定について、『年内には何らかの新たな取り決めをしたい。』などと発言されました。〔中略〕これ〔六〇年一〇月二六日付け新聞記事〕はリクルートから押収された新聞記事ですが、労働大臣の記者会見の内容が掲載されています。〔中略〕丙川代議士が衆議院予算委員会で質問される前、議員会館であったかリクルートであったか憶えていませんが、私はR10と一緒に、右新聞記事の写しを丙川代議士にお渡しして、先程のように、臨教審の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止が上げられていることを取り上げて、就職協定の早期取り決めなどについて、政府が適切な対応策を講ずるように質問していただきたいとお願いしたと思います。」
「丙川代議士が予算委員会で〔中略〕質問をしてくださったことは、R10らが予算委員会の記事が掲載されている公明新聞を入手して、私に報告してくれたと思います。そして、丙川代議士が予算委員会で右のような質問をしてくださったことについては、昭和六〇年一一月初旬頃開かれた取締役会で私が報告しておりますので、甲野や他の取締役も〔中略〕十分知っているのです。」
「丙川代議士が昭和六〇年一一月一五日の衆議院文教委員会に立たれるということを知りましたので、丙川代議士が質問に立たれる直前頃、確かR10と一緒に議員会館に行って丙川代議士に文教委員会での質問を頼みました。〔中略〕私の記憶では、もう一度丙川代議士に委員会質問をお願いしようということは取締役会で決定されたと思います。私は、丙川代議士に対し、『予算委員会ではありがとうございました。予算委員会でも出ましたように、青田買いの防止は臨教審の答申の中で学歴社会の弊害の是正策として取り上げられた重要課題ですので、文教委員会ではこの点につき政府側の取り組み方を質問していただき、青田買いによる内定取り消しなどの弊害が出ていることを指摘していただければありがたいのですが。』などと頼みました。また、私は、労働大臣が高知市で、就職協定について年内には何らかの取り決めをしたいとの発言をしたことにも触れ、丙川代議士に『協定締結のめどがいつ頃になるのか心配しているのですが、労働大臣のおっしゃるように年内にはめどが立つのでしょうか。先生に協定締結の見通し時期などについて質問をお願いしたいのですが。』などと頼みました。〔中略〕そうしますと、丙川代議士は、『判りました。』などと言って、私共の頼みを引き受けてくださいました。」
(三) R6の元年五月一六日付け検面調書(甲書1一三七)
「昭和六〇年の六月下旬ころには、臨教審の第一次答申が出て、その中に、青田買いについて、企業が就職協定違反の採用をしており、これを是正する必要があるというようなことが指摘されました。この答申が出てからは、それを受けて、閣議に教育改革推進閣僚会議が設置され、その幹事会などが開かれて、確か一〇月一日までに青田買い防止のため大学と企業の協議機関を設けることなどが決まったように聞いております。また、その確か第二回目の幹事会だったと思いますが、D6文部大臣とC3労働大臣がこの問題などについて経済四団体とのトップ会談の場を設けるような話が決まったと記憶しています。そして、九月に入ってから、現実にこのトップ会談が開かれました。昭和六〇年の一月の時点では、就職協定の問題については、打つ手なしという程膠着状態にあったのに、それが臨教審の答申の中に青田買い、つまり就職協定の問題がもり込まれた後は、みるみるうちに政府の担当省庁が就職協定に向けて大きく動き始めたのでした。確かに、取締役会議などでは、中間的な報告はされておりましたが、これらの一連の動きを見て、私は、『神風が吹いた。』という印象を持ちました。就職協定は、前にお話ししましたように、産業側と大学側とがそれぞれ別のテーブルで決めるという仕組みになってこれまで運用されてきました。そのために、協定を破る企業があっても、適正な制裁措置がとられなかったもので、これが青田買いの横行を許す原因の一つになっていると思われたのでした。このような制度上の欠陥があることは、リクルートの内部では誰もが認識していたことだと思っておりました。そのために、企業側つまり産業側と大学側が同じテーブルに着いて就職協定の内容を永続的に決める組織が必要だということも、私達は前々から考えていたのでした。〔中略〕この機会に新しい組織作りを提案していこうという気運が私達の間に出てきたのでした。このことは、昭和六〇年の夏の終りから秋ころにかけての取締役会で議論され、甲野の指示の下に事業部が主体になって、その組織案作りに動いたのでした。九月に、文部大臣、労働大臣、経済四団体のトップ会談が行われ、日経連のL1専務が、その席上、就職協定を廃止してはどうかとの発言をしたことや、これに対してC3労働大臣が守れる協定内容にするように努力しようなどと仲介の労をとっていただいたことを耳にしております。〔中略〕臨教審の答申以来、急速に進んできたこの協定問題がL1専務理事の発言によって頓挫しかかったのです。そのために、臨教審の答申を踏まえて、昭和六一年度の協定成立に向けて、労働省や文部省に積極的に取り組んでもらう必要が出てきたのでした。」
「その年の一〇月ころの取締役会の席上だったと思いますが、このような就職協定の状況について、もう一度丙川代議士に、今度は総理大臣、D6文部大臣、C3労働大臣に対する質問をしてもらってはどうかという話が出たと思うのです。このような話をしたのは、甲野若しくは当時事業部長になっていたR7ではなかったかと思うのです。その話の内容は、『臨教審の第一次答申が出、指定校制の廃止とか青田買いの防止が指摘されているので、就職協定について政府に答申に沿った対応をしてもらうよう国会で質問してもらってはどうか。公明党の丙川先生にお願いし、総理大臣や文部大臣、労働大臣に、協定に向けて努力するという答弁をしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。』というような内容だったと思うのです。このような議題が出て、私達もそれに異論をとなえる者もなかったと思います。この丙川先生に対する質問依頼やどのような質問をしていただくかについての具体的な検討は、甲野、R7、R10ラインで行われたと思います。」
「一一月初めころの取締役会議では、就職協定を決めるための新たな組織というか協議機関を設置するため、どのような運動を展開するかということが議題になったと思います。〔中略〕この書面〔甲書1五二四〕は、協定プロジェクトの方で作成して取締役会に提出されて議論されたものだと思います。国会質問として、F5代議士の名前が挙がっております。このF5先生は、確か港区を選挙区にしていて、役員の誰かが面識があるということでした。この先生に、国会で、新たな協議機関の必要性や、六一年度の就職協定が、その新たな協議機関で決めてもらえるよう労働大臣や文部大臣に質問して、その旨の回答を引き出していただくということだったのです。ところが、どういうわけか、後でお話しするように、また公明党の丙川先生にこれをお願いすることになったのでした。」
「その年の一一月になってからだったと思いますが、取締役会で、協定問題がL1専務理事の例の労働大臣、文部大臣、経済四団体のトップ会談の発言以降、進展が遅れて、昭和六一年度の協定についての見とおしもたっていなかったことから、新たな協議機関設置と昭和六一年度の協定成立に向けて、文部省や労働省に積極的に動いてもらうために、もう一度丙川代議士に国会質問をお願いしようという話が出たように思うのです。この話は、たぶんR7からだったと思いますが、『協定問題についてはL1発言以来進展がおもわしくないので、もう一度丙川先生にお願いしてみてはどうか。』という意味の発言があったように思うのです。このことについて、出席者全員が異議を述べることなく、それを了承したのでした。この点についての丙川先生への質問依頼と質問事項についての検討などは、甲野の指示の下に、R7、R10のラインで進められたと思うのです。」
3 被告人及びリクルート関係者の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼するように決めたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に対し国会質問を依頼したかどうかは知らなかったのであり、検面調書は、P2検事かP4検事から、リクルートの人間が丙川二郎の所に行っているという客観的事実があり、「取締役会御中」と記載された書面もあるのだから、被告人が知らないと言っても通らないし、R7ら関係者の供述から被告人が知っているはずだと言われ、「そういう記憶はない。」と言うと、「じゃ思いますでどうだ。」というやり取りがあって作成されたにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R7及びR6の公判段階における各供述
R10、R7及びR6も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右2の各供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問について、リクルートの者が丙川二郎に対し質問を依頼したかどうかは分からず、自分が依頼のために資料を作成し、それを丙川二郎に届けた記憶もない。検面調書添付の資料は、議事録や新聞のスクラップを見て、その当時に事業部で作成した資料として考えられるものを一応作成しただけであり、取調検事には、それを丙川二郎の所へ持っていったかどうかは分からないと話した。R7から指示されて丙川二郎に渡す資料を作成し、それをR7に渡したことは、多分なかったと思うが、あったかどうかは思い出せないというのが正直なところである。
検面調書の記載のうち、資料を作成したという点は、取調検事の誘導によるものであり、R7がその資料について被告人に報告したという点も、記憶にはなかったが、検事から「そのようなことがあったようだ。」と言われて、そのような記載になったにすぎず、丙川二郎と会って国会質問を依頼した点についても、そのような供述はしていないのに、作成されたものである。
「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)は、取締役会に上げようとして起案したものであるが、R7が上げたかどうかは分からない。
六〇年一一月の文教委員会の直前に丙川二郎に会ったことも、思い出せない。同月一四日の面会申込書(甲物1七三)の議員名や面会者の「R7」等の記載は自分の字であるから、自分がR7と一緒に議員会館に行ったことは間違いないと思うが、丙川二郎に会った記憶はなく、秘書に会ったと思うが、具体的なことは思い出せない。丙川二郎との話の内容について検面調書記載のような供述はしなかったが、R7がそういうふうな話をしていると言われたことがあったのかもしれない。
「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)は、自分がR7やR11と協議して作成したものであるが、その中の「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載の意味は思い出せないものの、機会があれば丙川二郎に就職協定問題を取り上げてもらうということだと思う。「再度質問」ということが前に質問してもらったことを意味するかどうかは分からない。
六〇年一一月二〇日の面会申込書(甲物1七四)の「R7」等の記載は自分の字である。自分とR7以外の者として考えられるのはR11である。この際の用件や面会相手も思い出せないが、丙川二郎とは会っていないと思う。この面会日は甲書1五四四の作成日と同一であるが、両者の関係は分からない。
(2) R7の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問について、自分が依頼したことは全く覚えていない。同月初旬のリクルートの取締役会で質問を依頼すると決まったことも、よく覚えておらず、捜査段階においても、同様の供述をした。R10に質問依頼用の資料作成を指示し、作成した資料について被告人に報告したことも、同月中旬ころ丙川二郎に国会質問を依頼したことも、同月下旬ころに労働大臣の発言を報じる新聞記事の写しを丙川二郎に渡したことも、全く覚えていない。
六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の内容は、自分が取締役会で報告したかもしれないが、思い出せない。甲書1五二四は事業部で作成し、自分も目を通しており、取締役会に提出したことは間違いない思う。その中に「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」という記載があるのは、F5議員に国会質問を依頼するという意味だと思うが、具体的なことは覚えていない。
六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の国会質問に関し、丙川二郎と会って依頼をしたことは覚えていない。同月一四日の面会申込書の記載からは、自分が議員会館に丙川二郎を訪問したのであろうとは思うが、その用件は全く覚えていない。捜査段階においても、そのことは覚えておらず、検面調書の内容は取調検事が書いたにすぎない。
甲書1五四四も自分が目を通して取締役会に出したものであり、そこにある、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載をした趣旨は覚えていないが、六〇年一〇月及び一一月の委員会における質問についてリクルートが丙川二郎に質問を依頼したことを前提にして記載したと考えられると思う。したがって、記憶にはないが、自分が丙川二郎に国会質問をお願いしたことは十分考えられる。
六〇年一一月二〇日に議員会館に行ったことも記憶にない。
(3) R6の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問については、リクルートが五九年に丙川二郎に対し国会質問を働きかけたと思われることからすると、多分同じような方法がとられたのではないかと思うが、その詳細、経緯は知らない。丙川二郎に対する国会質問の依頼が取締役会で決まった記憶はない。その依頼に関する検面調書の記載は、検事から資料を見せてもらったり、こういうことがあったとか、こういう内容ではないかと言われて、記憶は喚起できなかったが、そうした可能性があるかもしれないということになって調書が作成されたにすぎない。
六〇年一一月の文教委員会における質問についても、従前リクルートが働きかけた延長線上であろうとは思うが、そのことが取締役会で決まったかどうかは記憶になく、捜査段階においては、取調検事から記憶を喚起して取締役会の内容を話すようにと言われて、検面調書のような供述になったものと思うが、自分がそのことを記憶していて話したという覚えはない。
4 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 六〇年一〇月の予算委員会における質問は、臨教審の第一次答申を踏まえて、総理大臣等に学歴社会の是正策を正面から聞いたものである。
② 六〇年一一月の文教委員会における質問は、臨教審の第一次答申で青田買いや指定校制の問題が取り上げられたので、学生の側から見た被害として、内定取消しの問題を取り上げたものである。
③ 六〇年にR7と会った記憶はなく、同年に料亭「艮」に行ったこともないと思う。
七 考察
1 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内で丙川二郎に対し六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑を依頼することに決めた経緯に関する被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は、本節第二、第三で認定したとおり、リクルートが五九年五月から七月にかけて及び六〇年六月にそれぞれ丙川二郎に対し衆議院文教委員会における質疑を依頼したこと、本節第四の二、四の当時の就職協定を巡る状況やリクルートの動き、すなわち、臨教審の第一次答申において青田買いを防止すべきことが指摘され、その答申を実現するために設置された教育改革推進閣僚会議の幹事会で、新規学卒者の採用について大学、企業両者の連携による検討が行われるように推進することなどが合意され、同年九月一二日には経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催されたなどという状況の中で、被告人らリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者も、就職協定の存続及び遵守を図るため、経済団体、大学団体、関連の行政機関等による新しい就職協定作りの協議機関を設置すべきであると考え、文部事務次官に働きかけるなどして、実効性のある就職協定と就職協定推進のための新しい協議機関の設置に向けた活動を精力的に行っていたところ、他方で、右懇談会の席上でL1日経連専務理事が次年度の就職協定に消極的な発言をするなど、実効性のある就職協定作りに向けた動きが順調に進んでいなかったことに照らすと、事態の推移として自然である。
また、右各供述は、リクルート事業部が作成して取締役会に提出した六〇年一一月六日付け「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)及び同月二〇日付け「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)の記載、すなわち、前者には、「新たな協議機関が年内に設置され、就職協定がそこで決議されるよう以下の働きかけをする」という記載に続いて、「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」、「② 労働大臣、文部大臣へ再度陳情をする。……(甲野、R8、R15)」、「③ 労働省幹部(C5職安局長・C6審議官)への働きかけをする。……(R7)」などという政官界に対する働きかけの予定が記載され、大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態であるという現状や、その経緯の一つとして、六〇年一〇月の予算委員会で丙川二郎の質疑やI3首相らの答弁要旨が記載され、その質疑の様子を伝える公明新聞の記事が添付されていること、さらに、後者にも、「その後の進展状況」の項目の下、六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の質疑と文部大臣等の答弁の要旨が記載され、同委員会の詳細な傍聴報告と六〇年一〇月の予算委員会の会議録(丙川二郎の質疑とこれに対する答弁部分)が添付されている上、「今後の対策」の項目の下、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」「・質問の趣旨(1)就職協定づくりを推進させる。(2)守れる就職協定を口実として、労働省が職安機構の中に大学生の職業紹介業務を取り組むことを阻止する。」などと記載されていることによっても裏付けられている。
(二) 加えて、右経緯に関する被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は、重要な点で符合し、互いに補強し合っている上、丙川二郎に対する質疑の依頼がリクルートの取締役会で決められたことについては、R5も、元年五月二二日の検察官の取調べにおいて、「その国会質問〔六〇年一〇月の予算委員会における質疑〕の前だったと思いますが、次も丙川代議士にお願いして国会質問をしていただくというようなことを耳にしました。それは、取締役会か何かの会議かで聞いたことだと思います。〔中略〕新たな協議機関を作るために丙川次郎代議士にお願いして、昭和六〇年では三度目の国会質問をしてもらったというような話もあったと思います。」(甲書1一四三)と、これを裏付ける供述をしている。
(三) 丙川二郎に対する依頼の状況に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第四の六2(一)、(二))も、面談の場所について記憶が明確でないという難点はあるが、六〇年一〇月中旬に資料を持参して六〇年一〇月の予算委員会における質問を依頼した上、委員会の直前の時期に、C3労働大臣の記者会見に関する新聞記事を持参して再度質問を依頼し、さらに六〇年一一月の文教委員会の直前に質問を依頼したことなどについて符合し、その際の丙川二郎に対する説明や同人の反応に関する供述も一致しているばかりでなく、両名が供述する依頼の内容は、当時の就職協定を巡る背景事情に照らすと、自然なものであり、特に、R10は、検察官の取調べの過程で、丙川二郎に渡した資料の再現として、「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面を作成するなど、その供述内容は具体的である。
(四) 本節第四の五2のとおり、六〇年一〇月の予算委員会の翌日である同月三一日、リクルート専務取締役のR5が社長室長で取締役でもあったR2とともに料亭で丙川二郎を接待したところ、この接待の趣旨につき、R2は、捜査段階において、「この接待は、その前日の一〇月三〇日が衆議院の予算委員会があったことで、その委員会において丙川先生に国会質問をお願いし、そのお礼ということで、もうけられたものでした。〔中略〕一〇月三〇日の予算委員会でも、甲野社長の指示で、〔中略〕R7さんあたりが中心になり、丙川先生に質問依頼をしていたという状況がありました。ですから、本来なら、このR7さんが質問をしていただいたことで丙川先生を接待すべきところでしたが、当時、R7さんが何かの都合で来られなかったからだったと思います。今の私の記憶でも、その時はピンチヒッターで接待したという印象が残っているのです。〔中略〕その席では、R5さんが『昨日の予算委員会での質問では、リクルートがいろいろお願いして、やっていただき、ありがとうございました。』というようなお礼のあいさつをしたのでした。丙川先生は、質問はちゃんとしたような話をされていたと思います。R5さんは、『一つ、リクルートのために、今後とも質問などでお世話になると思いますが、よろしくお願いします。』というような意味のことを話していたように思います。」(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一六〇)と供述し、公判段階においても、多分R7のピンチヒッターとして接待に出た記憶であり、接待の際に丙川二郎とR5との間で国会質問の話が出たという具体的な記憶はないが、前日に丙川二郎が国会質問をし、その直後にR5が出席して丙川二郎を接待したことからすると、丙川二郎が国会質問をしたことに関係する接待であったことが十分考えられるし、国会質問について、ありがとうございましたとか、ご苦労様でございましたとかいうような挨拶はあってもおかしくない旨供述している(〈証拠略〉)。また、R5も、捜査段階において、「この接待は、丙川代議士が、その直前ころに、国会で就職協定の関係の質問をして下さったお礼の意味があったと思っております。私は、リクルートの専務取締役として、丙川代議士に『国会での質問有り難うございました。今後とも宜しく御指導下さい。』という意味のことは言ったと思うのです。」と供述しており(元年五月二二日付け検面調書・甲書1一四三)、これらの供述は、右接待が予算委員会で丙川二郎が質疑をした翌日になされたという時期的関係や就職協定を巡る当時のリクルートの動向に照らすと、合理的であって、信用することができる。
したがって、右接待は、前日の予算委員会における質疑に対して謝礼し、以後のリクルートと丙川二郎との関係を引き続き良好に保つことを目的に行われたものと認められ、そのことは、丙川に対する質疑の依頼に関する被告人やリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)の信用性を支える重要な事情ということができる。
(五) 本節第四の三のとおり、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑は、就職戦線が過熱した実情にあること、教育改革のポイントが大学生と就職の問題にあることなどを指摘した上、文部大臣、労働大臣及び総理大臣に対し、青田買い是正に向けて取り組む姿勢を尋ね、さらに、人事院総裁に対し、官庁の青田買い是正に関する考えを尋ねて、就職協定の存続及び人事課長会議申合せの遵守に向けて努力することを求めるものであり、六〇年一一月の文教委員会における質疑も、労働省に対し、内定取消しの労働法制上の問題を尋ねた上、文部大臣、労働省に対し、C3労働大臣の記者会見における発言を指摘するなどし、従来の文部省に加えて労働省も関与した実効性のある就職協定を早期に取り決めることを求めるものであって、リクルートが当時対応を検討していた青田買い防止や実効性のある就職協定作りという課題につき、政府の対応を促すものであり、また、R10が検察官の取調べにおいて作成した「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面の「4.課題及び問題点」に記載されている事項と符合する。
右の点に加え、丙川二郎が五九年や六〇年六月にリクルートから請託を受けて文教委員会における質疑をしたことをも併せ考えると、六〇年一〇月及び一一月の委員会における右各質疑も、R10やR7が捜査段階において供述するとおり、リクルートから依頼を受けて行われたものとみるのが自然である。
(六) R10は、公判段階においては、甲書1五四四の「11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載の意味は思い出せず、検察官の取調べに対しても、資料を作成したり、丙川二郎に対し国会質問を依頼したりした記憶はなかった旨供述し(本節第四の六3(二)(1))、R7も、公判段階において、甲書1五四四中の右記載は、六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑についてリクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼したことを前提として記載したと考えられると供述しながらも(〈証拠略〉)、他方で、丙川二郎に対し国会質問を依頼することを取締役会で話し合い、R10とともに丙川二郎に依頼したことは覚えていない旨供述するが(本節第四の六3(二)(2))、R10は、当時、事業部事業課長として、就職協定を巡る動向の情報収集等の実務面で中心的な役割を果たしていて、甲書1五二四、五四四という取締役会宛の書面の作成に当たっていたほか、六〇年一一月一四日や二〇日には議員会館の丙川事務所を訪問しており、R7も、従来から就職協定問題の検討や対応に関与し、この当時は事業部担当の取締役として甲書1五二四や五四四を取締役会に提出するなどしていたのであるから、その両名が、捜査段階において、右の事柄について記憶がなく、取調検事の誘導のとおり供述し、あるいは供述してもいないのに検事が作文した調書に署名したにすぎないというのは不自然である。
(七) 右(一)ないし(六)の各事情によれば、被告人及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は十分に信用し得るのに対し、これに反する被告人、リクルート関係者及び丙川二郎の公判段階における各供述(本節第四の六3、4)は信用することができない。
2 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、六〇年九月一二日の文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会では、文部大臣から「新規大学卒業者の採用の在り方については、大学と企業が連携して検討を行うことが大切であり、このため、大学側、企業側双方による『協議の場』を設け、学歴社会の弊害の是正の視点から、相互に検討を進めることも、一つの方法ではないかと考えている」旨の発言がなされ、就職協定の存続が国の方針として明確にされたのであり、この事実は、L1の消極発言にもかかわらず、就職協定の存続は盤石であり、それが廃止されることなどあり得ないことを示すから、被告人がL1の発言によって就職協定の成否につき危機感を抱くことはあり得ない旨主張する。
しかし、就職協定の一方の当事者が民間企業である以上、文部大臣が右発言をしたからといって、L1の消極的な発言にかかわらず就職協定の存続は盤石であると考えるというのは不合理なことであり、実際にも、本節第四の四3の六〇年一一月六日付け「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)には、リクルート事業部の情報収集の結果として、「大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態である」と記載されているのであるから、被告人がL1の発言によって危機感を抱くということは、あり得ないことではなく、むしろ自然なことである。
(二) 弁護人は、六〇年一一月一四日午後五時五分に議員会館で面会を申し出て丙川二郎を訪ねた際に請託をしたのでは、翌日の文教委員会における質疑までに時間的余裕がなく、間に合わない旨主張するところ、確かに、同委員会には労働省の説明員も出席していたが、丙川二郎が六〇年一〇月の予算委員会における質疑の延長として文教委員会でも労働省に対する質疑を予定し、既に説明員の出席を求めていた段階で、R7らが資料を持参して質疑の依頼をしたということも考えられるし、そうではなく、質疑の前日の夕方に説明員の出席を求めるということであっても、本節第三の六3(一)の我が国の中央官庁の慣行を考慮すれば、委員会の前日午後五時台が委員会の質疑に関する請託をするのに遅すぎる時刻であるということはできない。
(三) 弁護人は、また、リクルートでは、被告人が臨教審会長代理であったWから就職協定に関する新しい協議機関の構想を描くように協力を求められたことを契機として、六〇年九月ころ以降は新協議機関の設置に向けて活発な活動を展開しており、同年一〇、一一月ころは、新協議機関の設置問題がリクルートの最大の関心事であったから、もしこの時期にリクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼するとすれば、この新協議機関の設置への政府の対応を具体的に質問してもらうことが主題であったはずであるのに、R7やR10らの検面調書記載の請託の内容は、抽象的なものであって、新協議機関の設置に関し具体的な質問の依頼を行ったという供述は記載されておらず、R10が再現したという資料にもその関係の記述は全くなく、丙川二郎の質疑でも新協議機関に関する具体的な質問は一切行われていないのであり、このことは、請託の存在自体に強い疑念を抱かせる事情である旨主張する。
しかし、リクルートにおいて、丙川二郎の六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑を新たな協議機関の設置との関連で意義のあるものと位置付けていたことは、本節第四の四3の「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)及び「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)の記載からして明らかであるし、R10及びR7の捜査段階における各供述(本節第四の六2(一)、(二))には、「実効性のある就職協定の取り決め」に向けた質問をお願いした旨の供述があり、丙川二郎の質疑も、文部省や労働省が関与して実効性のある就職協定を取り決めるように求めるものであって、「新しい協議機関」、「新協議機関」等の言葉は用いないまでも、当時のリクルートの関心と同じ方向の質疑を依頼し、また、実際にそういう質疑をしたのであるから、新協議機関について具体的に触れていないからといって、請託の存在が疑わしいということはできない。
3 丙川二郎に対する請託の経緯と状況
本節第四の二の六〇年後半当時の就職協定を巡る情勢、本節第四の四の就職協定を巡るリクルートや被告人の動き、本節第四の三の丙川二郎の六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑の内容、本節第四の五のリクルートと丙川二郎との接触状況に加え、被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)並びに同人らの公判段階における各供述(本節第四の六3)のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一)  被告人らリクルートの幹部は、六〇年六月の臨教審の第一次答申で、学歴社会の弊害の是正策の一つとして、就職協定違反の採用(青田買い)を改めるべきことが指摘され、この答申を受けて設置された教育改革推進閣僚会議の幹事会において、企業の採用及び人事管理につき、答申の趣旨を踏まえた見直しが行われるように経済界に対し働きかけを行い、新規学卒者の採用につき、学歴社会の弊害を是正する観点から、大学、企業両者の連携により検討が行われるように推進することが合意され、経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催されるなどした状況を踏まえて、実効性のある就職協定を作るために、経済団体、大学団体、関係行政機関で構成する新しい協議機関の設置が必要であると考え、その実現に向けて関係者に働きかけるなどの活動をしていたが、同年九月一二日の経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会において、L1が六一年度の就職協定について消極的な発言をするなど、六一年度に実効性のある就職協定を実現する見通しが立たない状況にあった。
(二)  そこで、リクルートでは、六一年度の就職協定の成立に向けて、関係政府機関に積極的に動いてもらうため、六〇年一〇月上旬ころの取締役会において、丙川二郎に対し、衆議院の委員会で、臨教審の第一次答申で青田買いを改めるべきことが指摘されていることを踏まえて、政府に同答申に沿った対応をし、就職協定成立に向けて努力することを求める質疑をしてもらうように依頼することを決めた。
(三)  R7は、右決定を受けて、R10に対し、丙川二郎に国会における質疑を依頼する際の資料を作成するように指示し、R10は、六〇年度の就職戦線の総括として、六〇年七月から大手企業の青田買いが始まり、前年度と比べても一か月以上早期化したことや、内定取消しの事態も発生して、社会問題化していることを中心に、新聞記事のコピーを添付し、臨教審の第一次答申で青田買い防止が盛り込まれたことを受けて、教育改革推進閣僚会議や文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会が開かれ、青田買い防止が検討されたが、L1の発言等で就職協定が危機にさらされていることについて、やはり新聞記事のコピーを添付するなどした資料を作成した。
(四)  R7及びR10は、六〇年一〇月中旬ころ、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、右資料を渡した上、衆議院の委員会で、臨教審の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止等が取り上げられたことを踏まえ、実効性のある就職協定の早期取決め等について、政府が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(五)  また、六〇年一〇月二六日、C3労働大臣が前日の記者会見で年内に就職協定について何らかの新たな取決めをしたいと発言した旨報道されたことから、R7及びR10は、同日ないし同月二九日、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、その新聞記事のコピーを丙川二郎に渡して、衆議院予算委員会で右(四)の趣旨の質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(六)  さらに、六〇年一一月上旬ころのリクルートの取締役会において、丙川二郎に対し、六〇年一一月の文教委員会でも、実効性のある就職協定の早期取決めに向けた適切な対応を政府に求める質疑をしてもらうように依頼することを決めた。
(七)  R7及びR10は、右決定を受けて、六〇年一一月一四日、議員会館の丙川事務所を訪ねて、丙川二郎と会い、実効性のある就職協定の早期取決め等について、政府が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
4 結論
右3(四)、(五)、(七)のR7及びR10から丙川二郎に対する各依頼は、いずれも請託に当たる。
また、右各請託の経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第五 コスモスライフから有限会社b1に対する三〇〇万円の送金とその賄賂性
一 問題の所在
六一年五月三一日、リクルートの関連会社であるコスモスライフは、東京都世田谷区玉川〈番地略〉所在の三菱銀行玉川支店の有限会社b1(代表取締役B5)名義の口座に三〇〇万円を振込送金した(甲書1二三九、七七二)。
検察官は、右送金は、被告人がR1と共謀の上、判示第二の二①ないし③の各請託に係る報酬として丙川二郎に供与したものである旨主張するのに対し、被告人は、公判段階において、右送金に関与していなかった旨供述し、弁護人も、被告人は右送金に関与しておらず、丙川二郎にも金を受領した認識がなかったので、賄賂を供与したことにはならない旨主張する。
そこで、以下、右送金を巡る事実関係とその趣旨について検討を加える。
二 関係証拠上明白な事実
1 有限会社b1を設立した経緯等
(一) 丙川二郎は、五八年ころ、大叔母であるB6(以下「B6」という。)から、渋谷区代々木にあるB6の自宅の隣地にビルが建つ旨の話を聞き、B6に自宅をビルに建て替えるように勧めたところ、B6は、ビルの一部を自分の住居とすることを条件としてこれを承諾し、ビルを建てる手配の一切を丙川二郎に任せた。
(二) 丙川二郎は、五八年初めころ、k1株式会社に右土地にビルを建築する件を相談し、同年七月二七日、同社との間で、請負代金を一億〇五〇〇万円とする工事請負契約を締結した。また、同社は株式会社k2に右ビルの設計を依頼した。
(三) 丙川二郎は、右ビルの建築資金の全額について融資を受け、B6の居宅以外の部分を賃貸し、その賃料収入で融資金を返済しようと考え、五八年七、八月ころ、三菱銀行玉川支店に融資を依頼し、同年九月七日には、同支店を訪ねて担当者と融資に関する話合いをするなどした結果、一億四〇〇〇万円の融資(うち一部は建物完成後に抵当証券会社から融資を受けるまでのつなぎ融資)につき承諾を得て、同日、手形貸付けの方法で四〇〇〇万円の融資を受けた。同銀行からの借入額は、その後、一億二〇〇〇万円に変更となり、それぞれ手形貸付けの方法で、同年一二月に四〇〇〇万円の、五九年二月に四〇〇〇万円の融資を受けた。
丙川二郎は、右三件の手形貸付けのうち、前二件については、五九年八月一〇日に抵当証券会社から八〇〇〇万円を借り入れるなどして同銀行に返済し、最後の一件は、同年一〇月二二日に同銀行からの同額の証書貸付けに借り換えた。
右手形貸付けの際の振出人の署名や抵当証券会社からの借入れ及び同銀行からの証書貸付けの際の債務者の署名は、いずれも、丙川二郎本人がし、各貸借にB1が関与したことはなかった。
(四) 右ビルは五九年四月ころ完成し、そのころ丙川二郎に引き渡されて、同年七月に丙川二郎を所有権者とする所有権保存登記がなされた。なお、同ビルは、鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階付四階建てのビル(事務所兼居宅)であり、「b1ビル」と名付けられた。また、請負代金は、途中で設計が変更され、それに伴う追加工事が行われたため、最終的に一億一二八四万一〇〇〇円となった。
(五) b1社は、丙川二郎が、b1ビルの建築過程で、弁護士の助言を受け、節税を目的として、b1ビルの管理会社とするために五九年二月に設立した有限会社であり、当初、不動産・ビルの賃貸借、売買、保守及び管理、コインランドリーの設置、経営、広告代理業並びにそれらに附帯する一切の業務を目的とし、六一年三月に出版に関する事業等を目的に追加した。
丙川二郎は、自らb1社の経営をするつもりでいたが、公明党所属の国会議員でありながら営利法人の代表者になることは差し障りがあると考え、名目上、妻のB5をb1社の代表取締役にした。なお、他の取締役は、丙川二郎、B1ほか一名であったが、五九年一二月に丙川二郎が辞任し、別の者が就任した。
b1ビルのうち、四階はB6が住居として使用し、その余の部分については、五九年四月一日付けで、賃貸人を丙川二郎とし、賃借人をb1社とする賃貸借契約が締結された。また、b1社は、b1ビル三階の一室を自社の事務所とし、その余の賃借部分をテナントに賃貸した。
(六) 丙川二郎は、b1社を設立したころ、国会における活動が多忙になって、b1社の事務を処理することが困難になったことから、B1にその業務を処理させることとし、五九年ないし六二年当時、日常の業務はB1が処理していた。B1は、b1社から役員報酬を得ており、その金額は変動があるが、月一七万円ないし五〇万円であった。
b1社は、その当時、三菱銀行玉川支店に有限会社b1(代表取締役B5)名義の普通預金口座(以下「b1社口座」という。)を有し、b1社口座の通帳や印鑑もB1が管理していた。
(〈証拠略〉)
2 コスモスライフについて
コスモスライフは、リクルートが一〇〇パーセントの株式を有する株式会社であって、五一年五月に設立され、ビル総合管理、建物営繕工事等を目的とし、主にリクルートコスモスが販売するマンションやリクルートが保有するビルの管理、営繕工事等を行っていた。
六〇年当時、R5がコスモスライフの代表取締役であったところ、同年一〇月にR7も代表取締役に就任し、R5は六一年四月に代表取締役を退任した。その後、六二年四月三〇日、R7が取締役を辞任して代表取締役を退任し、R3が代表取締役に就任した。
(〈証拠略〉)
3 コスモスライフからb1社に対する振込送金及び根拠とされた契約の実態
(一) b1社とコスモスライフとの間では、六〇年一二月から六二年一一月にかけて、以下のとおり、五度にわたり、b1社がコスモスライフに対し、技術指導員を派遣し、月二回を基本として、ビル機械監視設備の取扱い、メンテナンス、床の表面洗浄方法、カーペットクリーニング、シミ抜き方法、ビル管理従業員の人事管理等について技術指導相談を行い、コスモスライフがb1社に対し技術指導相談料を支払うこととする「ビル管理技術指導相談に関する契約」(以下「本件指導相談契約」という。)が締結されており、技術指導相談料として、コスモスライフからb1社口座に振込送金されていた(以下、②の送金を「本件送金」といい、①ないし⑤の送金を合わせて「コスモスライフからb1社に対する送金」という。)。
① 六〇年一二月一三日付けで契約し(契約期間同月一日からの半年間、技術指導相談料二〇〇万円)、同月一七日に二〇〇万円を振込送金。
② 六一年五月二八日付けで契約し(契約期間同年六月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同月三一日に三〇〇万円を振込送金。
③ 六一年一一月二八日付けで契約し(契約期間同年一二月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年一二月三一日に三〇〇万円を振込送金。
④ 六二年五月二八日付けで契約し(契約期間同年六月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年七月二三日に三〇〇万円を振込送金。
⑤ 六二年一一月三〇日付けで契約し(契約期間同年一二月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年一二月一六日に三〇〇万円を振込送金。
(〈証拠略〉)
(二) 本件指導相談契約は、コスモスライフの取締役のR27がR1から連絡を受けて締結することになったものであり、コスモスライフ側の必要があって締結したものではなく、その締結に当たってコスモスライフの者がb1社側の者と契約内容等に関し交渉したこともない。また、本件指導相談契約の各契約書は、リクルート社長室の職員がR1の指示を受けて作成し、リクルート関連会社室がコスモスライフから社長印捺印依頼書を得た上、関連会社室で管理していたコスモスライフの代表者印を押捺し、各振込送金の際も、R1がコスモスライフに依頼し、同社から支払依頼書を得た上、リクルート関連会社室で振込手続をした。
さらに、右期間を通じ、b1社において、本件指導相談契約を履行するための態勢を整えたことはなく、実際にコスモスライフに対しビル管理等に関する技術指導相談をした事実や、コスモスライフからb1社に対し技術指導相談の実施を求めた事実もない。
(〈証拠略〉)
三 コスモスライフからb1社に対する送金の趣旨及び被告人の関与
1 被告人及びR1の各供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(1) 被告人の元年四月二〇日付け検面調書(乙書1九)
「丙川代議士に対して、今申し上げたようなお金〔コスモスライフからb1社に対する送金〕を差し上げるようになった経緯について申し上げます。私の記憶では、日時は、はっきり覚えておりませんが、昭和六〇年一二月頃だったと思いますが、リクルートの社長室長のR2か、同社長室次長のR1のいずれかから、私にこの件の話がありました。多分、R1の方からではなかったかと思います。R1は私に対し、『実は、丙川次郎代議士の方から強い要請が来ているのですが、政治活動の資金援助をしてほしいと言って来ています。丙川代議士には就職協定の問題でリクルートが頼んで国会質問をしてもらっているなどお世話になっていることもあり、断り切れないと思いますので、先方の要請に応じたいと思いますが。』と言って来たのです。それで私も、前回申し上げたように丙川代議士には就職協定などの問題でリクルートが御世話になっていたこともあり、丙川代議士への資金援助についてこれを承認したように思います。その結果〔中略〕最初に二〇〇万円、その後、半年毎に三〇〇万円を四回にわたって丙川代議士に差し上げておる訳です。途中で金額が増えておりますが、なぜ増やすようになったのか、よく承知しておりません。相手方へのお金を差し上げる手続き、すなわちコスモスライフとb1社とのビル管理技術指導相談に関する名目上の契約手続き、お金の送金手続きなどについては、私は全くタッチしておらず、どのように行われたのか承知しておりません。」
(2) 被告人の元年五月二一日付け検面調書(乙書1三一)
「六〇年一二月ころに丙川代議士側からR1を通じて、盆、暮れに資金援助をして欲しい旨の申し出があり、R1からその話を聞いて、私は、丙川代議士にはこれまで国会質問などで御世話になっていることでもあり、その御礼の意味もあってこれを承諾したのでした。そして、六〇年一二月に二〇〇万円、六一年五月下旬ころ三〇〇万円を差し上げ、その後も盆、暮れに三〇〇万円ずつ差し上げております。六一年五月にそれまでの二〇〇万円から一〇〇万円増額して三〇〇万円にした理由ですが、そのころR1から『丙川先生の方から、選挙を控えていることもあって、出来れば支払を早くして欲しい、また、出来れば増額して欲しいとの要望があります。』などと聞かされ、これを承諾したものでした。」
(二) R1の捜査段階における供述
R1は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(1) R1の元年四月一一日付け検面調書(乙書1四〇)
「昭和六〇年頃でしたが、B1さんの方から丙川先生への資金援助の申し出があったのです。〔中略〕B1さんは、『公明党では自民党のような形で企業からお金をもらうというのは党の立場として受け入れにくいので、私共の方でやっているb1社へのコンサルタント料という格好でそれをいただく名目でお金をいただけないか。』などと言ってきたのです。〔中略〕丁度リクルートの方でも関連会社のコスモスライフがビルの運営管理の仕事をしておりましたので、その際このコスモスライフのことが話題にのぼったのです。B1さんの話ではb1社も彼の方で役員をしているビル管理会社であり、コスモスライフも同じ仕事をしていて丁度好都合でしたので、コスモスライフがb1社からビル管理についてのアドバイスを受けているということにしてコスモスライフからb1社へのコンサルタント料を支払っているということにすればよいという話になったのです。実際にはもちろんそのようなアドバイスをコスモスライフがb1社から受けたというようなことはなく、これはその名目で丙川先生側への資金援助をするということでありました。」
「こういった形で資金援助することについては、さっそく当時の社長室長であったR7さんと社長の甲野さんに報告し、甲野さんの意向を確認したのです。そうしたところ、甲野さんの方では、B1さんからの依頼をそのまま受けて、丙川先生へお金をお渡しするという承認をされたのです。その金額についてはじめからB1さんが盆暮に三〇〇万円ずつ出してほしいと言ってきたのかどうか、はっきり憶えておりませんが、最終的には甲野さんの決定で、甲野さんが盆暮に各三〇〇万円ずつ先方にお渡しするということが決まったのです。」
(2) R1の元年四月一二日付け検面調書(乙書1四一)
「前回お話ししたとおり、甲野さんの承認を得て、公明党代議士の丙川次郎先生側に対する資金援助を、コスモスライフから丙川先生側の「b1社」あてにコンサルタント料を支払うという名目で行っていたことは間違いありません。〔中略〕前回は社長室長のR7さんにも報告して相談をしたと申し上げましたが、よく考えてみますと、このコンサルタント料名目による資金援助を開始したのは昭和六〇年暮頃であり、その頃には社長室長はR2さんにかわっていたと思いますので、私がこの話を報告した社長室長というのはR2さんだったと思います。〔中略〕このコスモスライフとb1社とのコンサルタント契約については半年ごとに契約を更新する形で見直しをし、その都度甲野さんの方に従前通りのコンサルタント契約名目で丙川先生側への資金援助をしてよいかどうか、その金額に変動がないかどうかを確認し、契約書を新たに作り直していっておりました。」
「契約書を見せていただいて思い出したのですが、当初の昭和六〇年一二月一日から翌六一年五月三一日までの半年間のコンサルタント料は二〇〇万円でありました。〔中略〕これははじめ甲野さんの方でその金額でスタートするという決定を下してそうしたのだと思いますが、半年たった見直し時期において甲野さんの方でその金額を一〇〇万円上乗せし三〇〇万円にするという決定が出されて、以後私が憶えていたとおり半年間に三〇〇万円を支払い、支払時期は主として盆暮の時期となったものと思います。〔中略〕それぞれ半年間の期限が切れる前後頃に私の方では甲野さんの方にこの資金援助を続けるかどうか及びその金額について確認し、今まで通りでよいという趣旨の指示を受けたので、新たに契約書を作って更新しておりました。」
(3) R1の元年四月二〇日付け検面調書(乙書1四二)
「当初の昭和六〇年一二月一日から翌六一年五月三一日までのコンサルタント料が二〇〇万円だったのに、それ以降半年間に三〇〇万円が支払われるようになった経緯についてお話しいたします。〔中略〕これ〔b1社の普通預金明細表〕を見せていただいて判ったのですが、支払金額が二〇〇万円から三〇〇万円にアップされた二回目の支払が盆暮のサイクルと異なり昭和六一年五月三一日となっていて早まっていることが確認できました。〔中略〕丁度この年は七月七日に衆参同日選挙が行なわれ、丙川次郎先生もその選挙に出馬された時だったのです。〔中略〕これはたしかこの年の五月下旬頃、B1さんの方から私が『先生側としては今年の夏はいろいろお金がいり用なのでb1社への入金を早めにしてもらえないかと言うことと、その金額の増額を頼みたい』旨の提案を受けたと思うのです。それで私は丙川先生の方では選挙を控えてお金がいり用だということからb1社への支払を早めてほしいということと、また増額の方も頼んできているのだと考えられましたので、その旨さっそく甲野さんの方に伝えたのです。そうしたところ甲野さんはすぐにそれに応じ、これからは一〇〇万円増額して半年間に三〇〇万円とし、早めにこれをお渡しすることを決定し、了承してきたのです。〔中略〕甲野さんの方としても丙川先生を大切にしていらっしゃるようであり、特にこれを受け入れるにあたって難色を示したり、ごたごたがあったというようなことはいっさいありませんでした。〔中略〕この資金援助の増額については丙川先生側の要望が発端となって、甲野さんが決定したことであり、事務方の私の方が勝手にB1さんと相談して決めたということはいっさいなく、私自身にそのような権限もありませんでした〔中略〕。」
(4) R1の元年五月一二日付け検面調書(乙書1四四)
「この資金援助はb1社という会社あてに形式上行われていますが、その実質はあくまでも丙川先生の側への資金援助であり、私としてはb1社という会社については、そこに入金することが丙川先生の側の財布に入金することと考えておりました。〔中略〕昭和六〇年一二月初旬頃だったと思います。B1さんがリクルート本社のあるG8ビル一階の喫茶店に見えられたので応対したところ、B1さんは私に丙川先生側への資金援助を頼みたい旨話してきました。それでその申し出をお聞きしたところ、B1さんは私に対し、『今年の夏の時までは先生の方にお金を直接頂くというやり方でお願いしてきたが、先生の場合は、公明党では自民党のような形で企業から直接お金をもらうというのは党の立場として受け入れにくいというので、私共の方でやっているb1社という会社へ入金するという格好でお金を頂きたい』旨話してきたのでした。それで私は丙川先生の方としては、こちらから直接先生の方に小切手や現金を差し上げるという方法をとるかわりに、先方のやっているb1社という会社へ入金するという形式で実質的には先生側の資金援助してもらいたいのだなと思ったのです。それで私はB1さんに対し先方のb1社という会社がどんなことをしている会社なのか聞いてみたところ、B1さんの方で役員をしているビル管理会社であるということでした。〔中略〕丁度リクルートの方でも関連会社のコスモスライフ社がビルの運営管理の仕事をしていましたのでそのコスモスライフの話をしたのです。そうしたところB1さんが私に対し、『b1社への入金についてはコスモスライフがb1社からビル管理についてのアドバイスを受けているということにしてコスモスライフからb1社へのコンサルタント料を支払うという形でお金を頂きたい』旨提案してきたのです。〔中略〕これはあくまでも丙川先生の側への資金援助をする為の名目でありました。〔中略〕私がB1さんの方から伝えられた提案をR2及び甲野さんの方に上げたところ、甲野さんの方ではこれをそのまま受けてこのような形式でお金をお渡しするということですんなり承認したのでした。」
(三) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
コスモスライフからb1社に送金した事実は全く知らなかった。R1から丙川二郎側の要求を伝えられて自分が了解した事実はなく、R2とR1の両名の了解で実行されたものと思う。実体のないコンサルタント契約を結んで支払をするのは、税務当局の調べがあると、税法上の違法行為として問題にされることであり、自分が相談を受けていれば、拒否する事項である。また、コスモスライフは、リクルートの関連会社室で監査していたので、同室が問題にする可能性もある事項である。
(四) R1の公判段階における供述
R1は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
六一年一〇月か一一月ころ、B1から資金提供の要請を受けるとともに、公明党では政治団体として企業から寄附を受けることができないという話があり、以前丙川二郎に資金を供与した際に領収証の処理で面倒な思いをしたこともあって、コスモスライフとb1社との間で実体のないビル管理に関するコンサルタント契約を結んで金を支払うことをB1と相談した。そのようにして支払うことにしたのは、丙川二郎に資金提供をするためである。そのことについてR2の承諾は得たが、被告人には話しておらず、R2が被告人に話をしたかどうかは分からない。本件送金の際に金額を三〇〇万円に増額したのは、当時、丙川二郎も立候補した衆議院議員総選挙を控えており、B1から、選挙で入り用だという話があったためであるが、その際もR2には報告した。R2が被告人に話したかどうかは分からないが、R2には被告人の了解なく支払う権限があったと思う。
2 考察
(一) リクルートにおける政治献金の取扱いについて、リクルート関係者の公判段階における各供述を見ると、社長室長であったR2は、被告人の了解を得ていたことは間違いない旨供述し(〈証拠略〉)、専務取締役であったR5も、政治献金は被告人が直接担当する事項であり、一〇〇万円単位の政治家に対する資金援助に関し被告人の承諾なく実行することはなかったと思う旨供述し(〈証拠略〉)、R1も、毎年盆と暮れの時期の政治献金に関しては被告人の決裁を得ていた旨供述しており(〈証拠略〉)、これらの供述からすれば、リクルートでは、政治家に対する資金援助は被告人が取り仕切る事柄とされていたことが認められる。そうすると、コスモスライフからb1社に対する送金について被告人の承認を得た旨のR1の捜査段階における右1(二)の供述は自然かつ合理的なものである。
また、R2は、捜査段階において、丙川二郎が実質的に経営する会社に対しコンサルタント料支払の名目でコスモスライフから丙川二郎に資金援助をすることに関し、R1から相談を受けたことがあると思うが、いずれにしても被告人が判断する問題なので、被告人に相談するように言った旨供述し(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一六〇)、公判段階においても、コスモスライフからb1社に対する送金については、記憶にないが、社長室長としての自分の経験からすると、被告人の了解なしにはおそらくできなかったと思う旨供述するところ(〈証拠略〉)、右各供述は、右のリクルートにおける政治家に対する資金援助の一般的取扱いに照らすと、合理的である。
(二) これに対し、弁護人は、b1社に対する資金援助は、R1とB1とが同年輩かつ同窓で、個人的にも非常に親しく交際していたことを背景として、B1がR1に要求したことが発端で始まっており、R1がB1にb1ビルの屋上へリクルートの広告を設置することを安請け合いして結局それが不可能になり、B1に負い目を感じていたことなどから、その要求を断りにくい状況にあり、一方で、R1が被告人に報告して了解を求めた場合には、被告人から拒否される可能性があったことから、R1は、あえて被告人に話さずに、R2の承諾だけでb1社に対する資金供与の手続を執ったものと考えられる旨主張し、R1も、公判段階において、右1(四)のとおり、弁護人の主張に近い供述をしている。
しかし、コスモスライフからb1社に対する送金により丙川二郎に資金援助をすることについて、R2の了承は得たものの、R2が被告人に了承を得たかどうかは分からない旨のR1の公判段階における右供述は、右(一)のリクルートの政治家に対する資金援助の一般的な取扱いに反していて、そもそも信用性に乏しい上、本件送金を含むコスモスライフからb1社に対する送金は、リクルートや関連会社の利益の中から政治献金をする場合とは異なって、外見的には営業費用となり、コスモスライフの収益状態をそれだけ悪く見せることになるのであるから、リクルートグループ全体を総括する被告人の了承を得ずに、R1が右方法による資金援助を実行し、R2がその実行を承認するというのは不合理なことである。また、R1は、公判段階において、被告人に直接話さなかった理由を聞かれ、「広告塔の件もあり、私がうかつに外の方との約束を簡単にしてしまって、ある意味では失態に近いものでしたから、私としてはちょっと言いづらいなという思いはあった」、「言ってみれば公私混同の部分も何となく感じていたことも含めて、その広告塔の失態もこれありで、私の中ではR2に報告しておけばいいなというふうな詰まる思いがあった」(〈証拠略〉)などと供述するが、リクルートでは、本節第二、第三、第四のとおり、被告人も関与した上、丙川二郎に対し、繰り返し衆議院文教委員会等における質疑を依頼しており、R1は取締役会に陪席して当然にそのことを承知していたはずであり、しかも、b1社に対する送金の方法で資金援助が開始されたのは、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が本節第四の三の各質疑をした少し後の同年一二月のことであるから、R1がB1から申出を受けて丙川二郎に資金援助をするについて被告人に相談することを躊躇する理由はなかったはずであるし、R1があえて被告人に話さずに、コスモスライフに負担させて、実体のない契約を利用した資金援助をしたりすれば、かえって、そのことが被告人に知れた場合には、被告人の叱責を受け、信頼を失うことになるおそれがあると懸念したはずであるから、R1の公判段階における右供述は不合理である。
なお、R1は、公判段階において、取調検事に対しても、R2に報告しただけで、被告人のことは知らなった旨供述していたが、P6検事から「R2はいいんだ。単なる伝達機関にすぎないから、甲野とR1の話でいいんだ。」などと言われ、再逮捕のネタはいくらでもあるし、保釈は効かないなどと脅されて、検事に屈服した結果、記憶に反して被告人に報告したことを認める検面調書に署名した旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、R1は、丁谷三郎に贈賄したという事件で元年三月二八日に起訴された後は、拘置所の閉庁日を除くほぼ毎日、一時間半から二時間程度弁護人と接見し(弁書1一二一)、弁護人がR1から聴取した取調状況を記載した報告書を作成して、公証役場の日付印を得ていたところ(弁書1一三一〜一三五)、そのうち、弁護人作成の同年四月二八日付け報告書(同月二七日のR1の取調状況を報告したもの。弁書1一三五)には、B1からの話はR2に伝えた可能性が高い旨話したところ、「R2はもういいんだ。」などと言われた旨の記載があるものの、同月一一日、一二日、二〇日及び同年五月一二日の検察官の取調べに関しては、その旨の記載がある報告書は提出されていないのであるから、R1の公判段階における右供述は、裏付けを欠いている。しかも、R1の供述経過を見ると、右1(二)(1)のとおり、R1は、同年四月一一日の検察官の取調べにおいては、当時の社長室長がR7であったという誤った前提で、R7と被告人に報告し、被告人の意向を確認した旨の供述をし、検察官もその旨の調書を作成した上、同月一二日の検察官の取調べにおいて、当時の社長室長はR2であったとして、供述を訂正しているところ、もし、R1が公判段階において供述するように、捜査段階の当初は被告人に報告したことを否定して、R2に話しただけである旨供述していたのに、取調検事から「R2はいいんだ。単なる伝達機関にすぎない」などと言われて、被告人に報告したことを認める供述を押し付けられたという経緯があれば、被告人に報告したことを認める最初の調書から、R2を通じて被告人に報告したとか、直接被告人に報告したという内容になるはずであって、R7に報告した旨の記載がなされるはずはないから、R1の公判段階における右供述は、客観的な供述経過にも反している。
(三) したがって、被告人の関与についてのR1の公判段階における右1(四)の供述は信用し難いのに対し、R1の捜査段階における右1(二)の供述やR2の捜査及び公判段階における右(一)の供述の信用性は高い。
(四) 被告人は、公判段階においては、右1(一)の供述をした理由につき、検察官の取調べに対しても、①コスモスライフからb1社に対する送金に自分が関与した旨述べたことはなく、その関与を否定したが、②検事から「それでは誰か」と問われて、R1がR2と話せばできる話だと答えたところ、P2検事から「それならばR2を逮捕する。あなたでなくR2でもいい。R2を逮捕するとまた会社はおかしくなるんじゃないの。」ということを繰り返し言われ、「事件の早期決着、きれいな着地をしたい。」「これは要求型だから、要求型の場合には罪は軽い。」などとも言われた上、③自分がP2検事に対し、「いつも検事さんは無理な調書はこれで最後にするとおっしゃっているけれども、これを本当に最後にしていただく担保がいただきたい。」と述べたところ、P2検事が「分かった。もうこれで最後にする。」と答えたので、④R2の逮捕を避け、事件の早期決着を図るために調書に署名した旨供述し(〈証拠略〉)、弁護人作成の元年四月二一日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1八二)にも、被告人が弁護人に対し同趣旨(ただし、③の点を除く。)の供述をした旨の記載があり、弁護人は、被告人の右1(一)の供述は、P2検事の強要によるものであり任意性も信用性もない旨主張する。
しかし、被告人がコスモスライフからb1社に対する送金に関与していなかったという点は、本節第二、第三、第四のとおり、被告人も関与した上、リクルートから丙川二郎に対し、繰り返し衆議院文教委員会等における質疑を依頼した経緯があることや、右(三)のとおり信用性の認められるR1の捜査段階における右1(二)の供述並びにR2の捜査及び公判段階における右(一)の供述に照らすと、到底信用することができない。そして、被告人が右のとおり自己の関与について事実に反する供述をしていることに加え、被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていたこと(第一章第三の三2)を考慮すると、被告人の捜査段階における右1(一)の供述は、任意になされたものと認められる。
(五) 次に、被告人は、公判段階において、①コスモスライフは、利幅の薄い商売をしていて、収益力のない会社であるから、実体のない取引を付けると、同社の人がかわいそうであり、自分が関与するとすれば、政治家に資金援助をするのに同社を選ぶことはないし、②コスモスライフは、リクルートコスモスの下に位置し、リクルートから見れば孫会社に当たるので、コスモスライフから政治家に資金援助をするならば、リクルートコスモス経由かリクルートの関連会社室経由で話を通すべきであり、R1からR27に連絡するというのは、会社の通常の指揮命令系統から外れており、自分の発想では考えられない旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、①の点については、関係証拠(〈証拠略〉)によれば、コスモスライフは、被告人の指示又は了解の下、R1が担当者になって、政治家の秘書や妻を含む四名の者に対し、非常勤S職としての給与名目で資金供与をしていたことが認められるから、被告人の供述は、右事実と矛盾するものであって、信用することができない。なお、被告人は、第一一七回公判期日においては、コスモスライフは、既に一人か二人の政治家秘書を非常勤S職としていたので、さらに他の人の面倒を見るほどの余裕はないと考えたのであろうというのが第一一〇回公判期日で言おうとした趣旨である旨供述するが、コスモスライフでは、b1社に対する送金を始めた後の六一年二月、従来の三人に加えて四人目の非常勤S職に対する給与支給を始めていた(〈証拠略〉)のであるから、被告人の訂正後の供述も、自らの行動と矛盾するものである。
②の点については、右のとおり、リクルートでは、被告人の指示又は了解の下、社長室次長のR1が担当して、コスモスライフに非常勤S職の給与を負担させていた上、コスモスライフの取締役のR27も、リクルートの社長室及び関連会社室は関連会社を統括していたので、そこの指示かお願いがあれば、子会社として、問題のない限りお受けする旨証言しており(〈証拠略〉)、これらの点からすれば、被告人がリクルートコスモスやリクルートの関連会社経由ではなく、社長室次長のR1を介して、コスモスライフに丙川二郎に対する資金供与の話をさせるということは、不自然なことではない。
(六) さらに、関係証拠(〈証拠略〉)によると、被告人は、b1社に対する送金に関与したことを認める内容を含む元年五月二一日付け検面調書(乙書三一)の作成に先立ち、P4検事から調書の原稿を示されて確認を求められた際、丙川二郎側からR1を通じて資金援助の申出があったこと、この申出を承諾した理由、その後丙川二郎側から増額等の要望があったことなどの部分について、右調書の原稿に手を加えて、訂正をしているところ、これらは、表現を若干変更する程度のものにすぎず、右資金援助を承諾したこと自体について訂正しようとするものではなかったことが認められる。
(七) したがって、被告人の公判段階における右1(三)の供述は信用し難いのに対し、被告人の捜査段階における右1(一)の供述は大筋で信用することができる。
もっとも、丙川二郎に対する資金供与の方法として、コスモスライフとb1社との間で実体のない契約を締結した上、技術指導相談料の名目で送金することまでを被告人が承知していたかについては、これを否定する被告人の捜査段階における右1(一)(1)の供述とこれを肯定するR1の捜査段階における右1(二)の供述との間で齟齬があるが、右(二)のとおり、本件送金を含むコスモスライフからb1社に対する送金は、外見的には営業費用となり、コスモスライフの収益状態をそれだけ悪く見せることになるのであって、その点につきR1がリクルートグループ全体を総括する被告人の了承を得ないというのは不合理なことであるから、右の点については、被告人の供述よりもR1の供述の方が信用性が高いというべきである。
(八) なお、コスモスライフからb1社に対する送金がなされるに至った経緯に関し、B1は、公判段階において、R1の捜査段階における右1(二)の供述はもとより、公判段階における右1(四)の供述にも反して、
① コスモスライフからb1社に対する送金は、自分がb1社の資金繰りに困っていて、b1社ビルの屋上にリクルートの広告塔を出してもらうことをR1に相談し、それが実現しなかったことがあったところ、その後の六〇年一一月ころ、R1から、コスモスライフとb1社との間で実体を伴わない契約を結んで金を支払う話を持ちかけてきたので、R1が政治家を志している自分に対する先行投資としてそのような話を持ちかけてきたと考え、有り難く話に乗ったこと、
② R1が資金提供のために実体のない契約を結ぶ方法を採ることにした理由は知らないこと、
③ 送金額が三〇〇万円に増額された理由も覚えていないが、b1社のことと選挙のこととは切り離して考えていたので、選挙で金がかかるから増額してほしいという趣旨の話はしなかったと思うこと
を供述している(〈証拠略〉)。
しかし、B1の右供述は、R1がB1から何の働きかけもないのに、B1に資金提供を申し出たという点で、そもそも不合理であり、かつ、R1がB1から働きかけを受けずに、資金提供のためにコスモスライフとb1社との間で実体のない契約を結ぶ方法を採ることを発意したという点も、不自然なことである。
しかも、B1が政治家を志していたという点についても、R1自身が、B1が政治家として立候補したいという話は聞いたことがない旨供述する(〈証拠略〉)ほか、B1とともに丙川二郎の秘書として活動していたB3秘書、b4会の代表世話人であったB7らB1と頻繁に接触する機会のあった者が、捜査及び公判段階において、そのような話は聞いたことがない旨供述していること(〈証拠略〉)に照らすと、やはり信用することができない。
これに対し、R1は、右1(四)のとおり、公判段階において、本件指導相談契約を結んでコスモスライフからb1社に対する送金をしたのは、B1から、公明党では企業から寄附を受けることができないという話があったからであり、丙川二郎に資金提供する趣旨で送金した旨供述し、この点については捜査段階から一貫した供述をしているところ、右供述は、その内容自体が、B1の公判段階における右供述に比して、自然かつ合理的である上、公明党では、その当時、規約等の定めはないものの、企業から献金を受けることを禁止し、政治資金報告書を点検する取扱いをしていたこと(〈証拠略〉)にも合致しており、十分に信用することができる。
3 小括(コスモスライフからb1社に対する送金の経緯と被告人の関与)
右2の考察を踏まえ、本節第五の二の各事実に加え、被告人及びR1の捜査段階における右1(一)、(二)の各供述、R1の公判段階における右1(四)の供述のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分並びにR2の捜査及び公判段階における右2(一)の供述を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一)  六〇年一二月ころ、B1がリクルート本社を訪れた際、丙川二郎に対する資金援助をR1に要請するとともに、公明党では政治団体として企業から寄附を受けることができない旨の話をし、R1は、B1と相談して、コスモスライフとb1社との間で本件指導相談契約を締結し、その技術指導相談料の名目でコスモスライフからb1社に金を支払う方法により丙川二郎に資金を供与することを企図した。
(二)  そのころ、R1が右企図を被告人に提案したところ、被告人が右方法で丙川二郎に二〇〇万円を供与することを承認したので、R1が手配して、本件指導相談契約を締結し、六〇年一二月一七日、コスモスライフからb1社へ二〇〇万円を振込送金した。
(三)  その後、R1は、六一年五月下旬ころ、B1から、同年の夏は丙川二郎側でいろいろ金が入り用なので、b1社に対する送金額を増やしてほしい旨の要請を受け、被告人にその旨報告したところ、被告人が右要請を了承して、丙川二郎に三〇〇万円を供与することを決めた。そこで、R1が手配して、技術指導相談料を三〇〇万円とする本件指導相談契約を締結し、その技術指導相談料の名目で、同月三一日、コスモスライフが本件送金をした。
4 本件送金の賄賂性
(一)  以上認定した諸事実、特に、
①  被告人らリクルートの幹部は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の広告料収入が減少し、計画的な発行・配本業務に支障が生じて、同事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたこと(本章第一節第二の二1)、
②  リクルートでは、判示第二の二①、②、③のとおり、五九年五月から六〇年一一月にかけて、被告人を中心とする取締役会における決定に基づき、丙川二郎に対し、衆議院文教委員会や衆議院予算委員会で、国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨繰り返し請託し、丙川二郎がこれを了承して、数度にわたり、リクルートの請託の趣旨に沿った質疑をしたこと(本節第二、第三、第四)、
③  コスモスライフからb1社に対する送金を開始したのは六〇年一二月であって、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が質疑をした時期と近接しており、本件送金も当初の送金の約半年後のことであったこと
に加えて、
④  丙川二郎に対する資金供与は半年間で二〇〇万円又は三〇〇万円という多額なものであったところ、被告人は、東京大学教育学部の同期生であるH6(以下「H6」という。)に継続的な献金をするなどして政治的に応援しており、H6は、五四年以降の総選挙で丙川二郎と同じ東京都第三区から立候補し、六〇年当時も同区当選の衆議院議員(新自由クラブ所属)であって、丙川二郎とは競合関係にあったこと(〈証拠略〉)からすると、被告人が純粋に丙川二郎を政治的に応援するための献金としてコスモスライフからb1社に対する送金をするのは不合理と考えられること
を総合考慮すれば、六〇年一二月になされたコスモスライフからb1社に対する二〇〇万円の送金は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として供与されたものと認めることができ、その約半年後になされた本件送金についても同様であると認めることができる。
(二)  しかも、被告人は、本節第五の三1(一)のとおり、捜査段階において、丙川二郎には就職協定等の問題でリクルートがお世話になっていたことのお礼の意味もあって、六〇年一二月の丙川二郎に対する資金援助を承認し、六一年五月の本件送金もその流れの中で供与したものであると認める供述をしているところ、右供述は、右(一)の諸事情に照らすと、合理的である上、被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていたこと(第一章第三の三2)をも併せ考えると、被告人がその本心を語っているものであって、十分に信用し得るものである。
(三)  したがって、被告人は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として、丙川二郎に供与する趣旨で、本件送金をしたものと認められる。
四 コスモスライフからb1社に対する送金についての丙川二郎の関与と認識
1 弁護人の主張
弁護人は、丙川二郎は、b1社も含めた一切の資金管理をB1に任せていて、b1社の具体的な入金及び出金を全く認識しておらず、コスモスライフからb1社に対する本件送金の事実も認識していなかったから、被告人から丙川二郎に対し賄賂の供与やその申込みがなされたとはいえず、被告人に贈賄罪は成立しない旨主張する。
そこで、以下、丙川二郎の関与と認識に関連する諸事情について検討を加える。
2 丙川二郎のb1社の経営についての関与
(一) そもそも、b1社は、丙川二郎が自ら建築して所有するb1ビルの賃料収入について節税を図る目的で、b1ビルの管理会社として設立した会社であり、自らが代表取締役とならずに妻を代表取締役としたのも、公明党所属の国会議員としての立場を考えた上の名目的なことにすぎなかった(本節第五の二1(一)ないし(五))。
(二) b1社の実際の運営に関しては、b1社を設立したころから丙川二郎の国会における活動が多忙になったことから、B1が日常の業務を処理していたが(本節第五の二1(六))、丙川二郎も、次のとおり、b1社の運営や資金調達に関与していたことが認められる。
(1) b1社は、五九年三月、b1ビルのテナントとなる株式会社k3研究所(以下「k3研究所」という。)との間で賃貸借契約書を取り交わしたが、その際、b1社側からは丙川二郎も出席し、丙川二郎自身が不動産業者作成の契約書の条文を一項ずつ読み上げて、k3研究所側の出席者との間で確認を取った。
その後、b1社とk3研究所とは、六二年及び元年に、賃貸借契約を更新したところ、その具体的交渉には、b1社側ではB1が当たっていたが、B1は、六二年の契約更新の際に「契約更新(案)」と題する書面に「最後は社長(ボス)の判断です」と記していた上、これらの契約更新の交渉の際、契約の相手方であるK1の面前で丙川二郎に電話して意向を確認したり、問題点を持ち帰って丙川二郎の指示を受けるなどした。
なお、B1は、丙川二郎のことを「兄貴」と呼ぶほか、「ボス」とも呼んでいた。
(〈証拠略〉)
(2) 丙川二郎は、k3研究所と契約する前に、有限会社k4商事ほか二社にb1ビルの一室を共同事務所として賃貸する話を進めていたが、その後、k3研究所に一括して賃貸することにして、有限会社k4商事等に賃貸することを断った。
このため、五九年八月ころ、有限会社k4商事の営業部長であったk2が三社を代表して議員会館の丙川事務所を訪問し、b1ビルを所在地とするチラシ等の費用を賠償するように請求したところ、応対した秘書が丙川二郎と相談した上、三八万円を支払う旨の回答をし、丙川二郎自身もK2に謝罪した。
右賠償金は五九年九月から一二月までの間、三回に分けて、b1社が支払った。
(〈証拠略〉)
(3) k5ビルディング株式会社は、株式会社k2が他社から売買の仲介を依頼されていた土地を購入することとし、その売買契約が五九年一二月五日に成立したところ、k5ビルディング株式会社のK3がこの土地の存在を知ったのは、丙川二郎がb1社でこの土地を取得した上ビルを建築する計画を立ててK3に相談したことがきっかけで、その後、同人がこの土地に興味を抱き、売買契約の成立に至ったという事情があった。また、丙川二郎は、右売買契約の締結の際、立会人として同席し、契約書にも署名した。
株式会社k2の代表取締役のK4は、右経緯を考慮して、丙川二郎に仲介手数料の半額である一〇〇〇万円を支払う旨申し出たところ、丙川二郎がこれを了承し、その支払に関しては、丙川二郎の意向で、b1社が株式会社k2から相談料として五〇〇万円を受領する旨の覚書二通が作成され、五九年一二月に現金で丙川二郎に交付された五〇〇万円は同月二〇日に、また、六〇年三月ころに小切手で交付された五〇〇万円は同月一九日にいずれもb1社口座に入金され、領収証もb1社が発行した。
(〈証拠略〉)
(4) b1社は、三菱銀行から六〇年五月三〇日に二〇〇万円、六一年八月四日に三〇〇万円の融資をそれぞれ受けたところ、いずれの融資も、丙川二郎が銀行の担当者と交渉し、前者については丙川二郎が妻のB5とともに保証人になり、後者についてはB5が連帯保証人になった。
(〈証拠略〉)
3 b1社が丙川二郎の政治活動費用を支出していた状況等
(一) B1は、六〇、六一年当時、公明党の職員として勤務するほか、目黒の丙川事務所を中心に丙川二郎の私設秘書として活動し、b4会やb2会等の丙川二郎の後援会の運営を担当していたが(本節第一の一2)、これに加えて、b1社口座からも、次のとおり丙川二郎の政治活動のための費用を支出していた。
(1) b1社は、五九年四月から六一年二月までのほぼ毎月、丙川二郎の私設秘書で、運転手もしていたB4の給与を負担し、また、同年三月から九月まで、丙川二郎の公設秘書であるB3にアルバイト代名目で毎月五万円の活動費を支払っていた。
なお、B4及びB3は、その間、b1社の仕事は何もしていなかった。
(〈証拠略〉)
(2) B1は、六一年一二月一〇日にb1社に二〇〇万円を貸し付け、b1社は、その二〇〇万円で乗用自動車(トヨタクラウン)を購入したが、同車は、そのころから六三年春ころまでb2会に貸与され、B3秘書が丙川二郎の送迎等の秘書活動に使用した。B3は、その当初、丙川二郎から「買ったので自由に乗っていいから」と言われていた。b1社は、六一年一二月三一日にコスモスライフからビル管理技術指導料の名目で三〇〇万円が入金された当日、B1に二〇〇万円を返金しており、結局、b1社は、実質的には、コスモスライフからの送金を主な原資として乗用自動車を購入し、これを丙川二郎の政治活動のためにb2会に貸与したことになる。
また、目黒の丙川事務所でb2会が使用していたワープロは、六〇年四月一六日にb1社口座から出金された八〇万円で購入されたものである。
(〈証拠略〉)
(3) 丙川二郎は、六一年三月一五日と四月一七日の両日に宴会を催し、その予約等の手配はB3秘書がしたところ、その費用各四万五〇〇〇円は、b1社が接待費名目で支出した金で支払われた。
(〈証拠略〉)
(二) b1社は、五九年四月から一〇月まで、丙川二郎に支払うべき月額一一〇万円のb1ビルの賃貸料を支払わず、同年一一月、それまでの賃貸料の一部に当たる約二八六万円のみを支払う一方で、同年五月から九月にかけて、本来はb1ビルの所有者である丙川二郎個人の負担に属するb1ビルの竣工パーティー代約四六万円、設計変更料八〇万円、設計変更に伴う追加工事代金約八〇万円、工事残代金約三一万円、保存登記費用約四八万円や、丙川二郎の借入れのための不動産鑑定料約四〇万円をb1社口座から支出していて、丙川二郎の会計とb1社の会計との間で混同が見られた。
(〈証拠略〉)
4 丙川二郎の言動
(一) 丙川二郎が被告人と面談した際の挨拶
被告人は、捜査段階において、「昭和六〇年から六二年頃の間、リクルート本社において、丙川代議士と一、二度顔を合わせたことがありました。丙川氏は、私を訪ねて来たというのではなく、リクルート本社の十一階フロアなどで催し物が行なわれた時などに見えられて、その階には、応接間などもありますので、私もそこへ出入りしており、顔を合わせた際に、丙川先生の方から『いつもご協力いただいてありがとうございます。』というようなことを言われたことがあったと思います。丙川先生は、先に申し上げたように、私共が、小切手やb1社の件などで、多額のお金を差し上げているので、そのお礼を私に言ったものと思います。」と供述している(乙書1一九)。
しかし、被告人の右供述は、丙川二郎と会った時期や会った際の状況等が曖昧であって、具体性がない上、丙川二郎は、公判段階において、出版業界がリクルート本社ビルを会場として借りて非再販本の展示即売会を行った際にリクルート本社で被告人に会い、会場提供に対する挨拶をした記憶がある旨供述するところ(〈証拠略〉)、関係証拠(弁書1二四六)によって認められるとおり、五九年一一月にリクルート本社ビル一階で非再販本の展示即売会が行われたことからすると、被告人が供述する「いつもご協力いただいてありがとうございます。」という丙川二郎の言葉が会場貸与に対するお礼であった可能性も残るので、右言葉が、丙川二郎がコスモスライフからb1社に対する送金を認識していた根拠になるとはいい難い。
(二) 丙川二郎が六一年一一月二七日にR2と面談した際の言動
(1) 関係証拠上明白な事実
丙川二郎は、六一年一一月二六日の衆議院文教委員会で、高校生の就職問題等に関する質疑をしたところ、R2は、右質疑に先立ち、国会における質疑用の資料として、事業部に作成させた「高校生の就職に関する諸問題について」と題する書面をB1に渡し、また、右質疑の翌日である同月二七日、議員会館の丙川事務所を訪問して、丙川二郎と面談した。
(〈証拠略〉)
(2) R2の元年五月一六日付け検面調書(甲書1一六〇)
R2は、元年五月一六日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「その時〔右(1)の丙川事務所訪問の時〕は、〔中略〕丙川先生にお会いして、『先生、昨日は、いかがだったでしょうか』と言い、先生が質問について、『大体お宅の資料に基づいて質問しておきましたよ』というようなことをおっしゃり、これに対し、私は、『いつもなにかと質問をお願いし、ありがとうございました』などと、その質問のお礼を述べましたが、先生は、『いやいや、リクルートさんには、これまでうちの会社に応援してくれてありがとう』とおっしゃったのでした。これがR1君が話ししていた丙川先生の会社へのコンサルタント料名目での資金援助に対するお礼であるということは、すぐにピンとはきませんでしたが、よく考えてみればそのお礼であったように思います。もっとも、これは、かなり昔の話になるので、この会話状況が全く正確かと言われますと、多少の違いはあるかもしれませんが、大体そのような趣旨であったように思います。私も、自分の供述により丙川先生など関係者の行為について重大な影響を及ぼすことになることを重々わかっていますので、私としてもこのような供述は慎重にならざるを得ません。不確かなままで断定してもゆかず、精一杯記憶を喚起し、お話しできる範囲でこのようにお話ししているわけで〔す。〕」
「先程、丙川先生を訪ねた際、先生から『いやいやリクルートさんには、これまで、うちの会社に応援してくれて有り難う』と言われたと供述しましたが、その中で『うちの会社』という言葉は、そのままストレートにそう言ったか、それとも『うちの方に』とだけと言ったか、その点は言葉としては、あるいは正確ではないかもしれません。要するに、かえってリクルート社の方から資金援助を受けているのでありがとうという意味を言われたというのが正しいわけです。ただ、そのニュアンスとして、会社への送金という形の資金援助をしてもらってありがとうという言葉であったことは間違いありません。」
(3) R2の公判段階における供述
R2は、公判段階においては、右(1)の訪問の際、同事務所から、質問がおかげさまで終わりましたというような電話があって、訪問したと思うので、丙川二郎は、国会質問をこのような質問でしましたということと、資料をありがとうございましたということを言ったのではないかと思うが、具体的な内容は思い出せない旨の供述をしている。(〈証拠略〉)
(4) 考察
R2の捜査段階における右(2)の供述は、その内容からして、慎重に記憶を喚起して、間違いないと判断できた範囲で語っているものと認められる上、国会における質疑の翌日に面談して、自分がお礼を述べたところ、丙川二郎の方から逆に資金的な応援についてお礼を言われたというものであって、印象に残りやすい出来事に関するものであるから、信用性が高い。また、R2の公判段階における右(3)の供述も、四年三月に実施された証人尋問の時点で、右(1)の訪問の際の会話の具体的な内容を思い出せないというにとどまり、検察官の誘導や押し付け等によって、記憶にないことが記載された調書に署名したというものではないから、R2の捜査段階における右供述の信用性に疑いを抱かせる事情ではない。
したがって、R2の捜査段階における右(2)の供述は信用性が高い。
5 b1社の経理に関する丙川二郎の認識について
(一) 認定
以上の諸事実のうち、
① b1社は、丙川二郎が自ら建築して所有するb1ビルの賃料収入について節税を図る目的で、b1ビルの管理会社として設立した会社であり(本節第五の二1(一)ないし(五))、b1社の実際の運営は、丙川二郎がb1社を設立したころから国会における活動が多忙になったため、B1が日常の業務を処理していたが、丙川二郎も、テナントとの契約締結や更新、賃貸借交渉をした相手方との紛議の解決等、b1社の運営に実質的な関与をしていたこと(右2(二)(1)、(2))、
② 丙川二郎は、五九年一二月及び六〇年三月、自らの活動によって得た不動産取引に関する計一〇〇〇万円もの多額の謝礼をb1社口座に入金させ、かつ、同年五月及び六一年八月にb1社が銀行から融資を受ける際、銀行の担当者と交渉し、自ら妻とともに保証人になり、あるいは妻が連帯保証人になって、b1社の資金調達に深く関与していたこと(右2(二)(3)、(4))、
③ B1は、六〇、六一年当時、目黒の丙川事務所を中心に丙川二郎の私設秘書として活動し、b4会やb2会等の丙川二郎の後援会の運営を担当していた者であり(本節第一の一2)、b1社口座からも、丙川二郎の秘書の給与や活動費等、政治活動のための費用を支出し、b1社で購入した乗用自動車をb2会に貸与するなど、丙川二郎の政治活動のための資金を負担し(右3(一))、さらに、b1ビルの賃貸が始まった当初の約半年間は、b1社が丙川二郎に対する家賃の支払をしない一方で、丙川二郎が負担すべきb1ビルの建築、登記関係の費用や、丙川二郎の借入れのための不動産鑑定料をb1社口座から支出していて、両者の会計が混同していたこと(右3(二))
を総合すると、B1は、b1社口座をb1社の運営のみならず、丙川二郎の私設秘書としての活動の一環として同人の政治活動資金の一部を取り扱うためにも利用しており、丙川二郎は、そのことを了解していたと推認することができる。
(二) B1及び丙川二郎の公判段階における各供述並びに弁護人の指摘する点について
(1) B1は、公判段階において、丙川二郎に対し一般論としてb1社の資金繰りが大変だという話はしていたものの、B4秘書やB3秘書にb1社から給与等を支払うことは自分が勝手にしたことであって、b1社の帳簿を丙川二郎に見せていなかったので、知らなかったはずであり、「僕のほうでやっていますよ」とか「僕が面倒みていますよ」いうようなことは言ったと思うが、それは、b1社からという趣旨ではなく、金に関しては私が一切やっていたので、その私がやっていますということであるなどとして、丙川二郎がb1社の経理を関知していなかった旨の供述をし(〈証拠略〉)、丙川二郎も、公判段階において、B4の給与やB3に対するアルバイト代名目の金がb1社から支払われていたことは知らず、b2会から出していると思っていたし、トヨタクラウンもb2会が所有していると思っており、ワープロもどこかからリースを受けていると思っていたなどとして、b1社口座で自己の政治活動に関する費用を負担していたことに関する認識を否定している(〈証拠略〉)。
しかし、丙川二郎は、b1社の設立者であり、b1ビルの所有者としてb1社から賃貸料の支払を受け、そこからb1ビル建築の際の自己の借金を返済していたのであるから、b1社の経理状態に関心を持っていたはずであり、B1及び丙川二郎の右各供述は信用し難い。
また、b2会の金銭出納帳(弁書1四八)には、六〇年二月(その前の分については、記載が欠落していたり、概括的にすぎるため、客観的な資料になり得ないので、検討から除く。)以降六一年二月までB4秘書に対する給与の支払は記載されておらず、その支払が記載されているのは、同年三月から六月までの四か月分にすぎないし、乗用自動車の購入費用の記載もない。そして、b2会は、当時の政治資金規正法一九条によって、丙川二郎が自己の政治資金を取り扱うべき政治団体として指定した団体であり、六〇、六一年当時も、同法に基づき、東京都選挙管理委員会に収支報告書を提出していて、その提出に先立ち、丙川二郎も収支報告書に目を通していたのである(〈証拠略〉)から、B4の給与やB3に対するアルバイト代名目の金はb2会から出していると思っていたし、トヨタクラウンもb2会が所有していると思っていた旨の丙川二郎の供述は、この点からも信用することができない。
(2) 弁護人は、右2(二)(4)の銀行からの借入れに関し、丙川二郎がB1の流用、着服、浪費の実態を知っていれば、B1を叱責して健全な経理内容にさせるか、B1に経理を任せることを止めたはずであるから、丙川二郎が右借入れに関与していたことは、むしろ、同人がb1社の経理内容を把握していなかったことを示す旨主張し、丙川二郎及びB1も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
しかし、丙川二郎は、b1社とテナントとの間の契約に関与してb1社の収入を知り、かつ、b1社から自分に対する支払額も当然に知っていたのであるから、b1社の運営経費に充てる金として毎月どの程度の額が残るかを承知していたはずであり、加えて、五九年一二月及び六〇年三月には、自らの活動で得た各五〇〇万円をb1社口座に入金させており(右2(二)(3))、他方で、b1社の業務内容も理解していたのである(〈証拠略〉)から、日常業務を任せている弟のB1からb1社の資金繰りが苦しいと聞けば、当然、なぜ苦しいのかを問い質すはずであるし、借入金の返済をした上で自分に対する毎月の家賃が確実に支払われるのかを確認するためにも、その後の収入の見込みを尋ねるのが当然である。
したがって、B1及び丙川二郎の右各供述は信用することができない。
また、丙川二郎がB1を叱責して経理を改めさせたり、経理を任せることを止めたりすることなく、b1社の借入れに協力したのは、弁護人が主張するように、b1社の経理内容を知らなかったからではなく、むしろ、B1にb4会やb2会の運営等、私設秘書としての活動をさせていた関係で、B1がb1社における仕事に見合う以上の収入をb1社から得ることを許容していたからであるとみるのが合理的である。
(3) 弁護人は、B1が、コスモスライフからb1社に対する送金があった後に、b1社口座から出金した金をB1名義の預貯金口座に入金するなどして、b1社の資金を着服していた旨主張する。
この点、コスモスライフからの送金前後のb1社口座と関連する預貯金口座の動きを見ると、まず、六〇年一二月一七日の送金の翌日である同月一八日、b1社口座から五〇万二五六〇円が出金され、同日、協和銀行中目黒支店のB1名義の普通預金口座(以下「B1名義預金口座」という。)に五〇万円が入金され、b1社の出納帳には、同日、B1に対する返却分として五〇万円の預金を引き出した旨の記載がある(甲書1二四一、七七二、甲物1一一〇)。
また、本件送金の翌々日である六一年六月二日、b1社口座から二〇〇万円が出金され、同日、B1名義預金口座に一〇〇万円が入金され、B1名義の郵便貯金口座(以下「B1名義貯金口座」という。)にも一〇〇万円が入金され、b1社の出納帳には、同日、B5の給与未払分として七〇万円、B4秘書の給与未払分として五五万八六三〇円、B8及びB9の給与未払分として各七万円、B1からの借入返却分として六三万円、合計二〇二万八六三〇円を出金した旨の記載がある(甲書1七七二、八四〇、弁書1四一、甲物1一一〇)。
B1は、公判段階において、六〇年七月以降、b1社口座の残高が支払うべき税金の支払に不足した際等に自分からb1社に一一三万円(同月八日に七〇万円、同月二四日に一五万円、同年一〇月一九日に一〇万円、同年一一月二〇日に八万円、同月二七日に一〇万円)を貸し付けており、同年一二月一八日の五〇万円は右貸付金の一部の返済として受領して、B1名義預金口座に入金した旨供述し(〈証拠略〉)、六一年六月二日に借入返却分として受領した六三万円も、右貸付金の残金の返済として受領したほか、それ以外のB5らの給与未払分名目の出金は、実際には同人らに渡しておらず、自分が取得して、右返済金と合わせた二〇二万円余のうち、一〇〇万円ずつをB1名義預金口座とB1名義貯金口座に入金した旨供述している(〈証拠略〉)。
B1の右供述は、各預貯金口座の動きに符合していて、一応の裏付けがあるところ、右のうち、B5ら四名に対する給与未払分の名目で出金した約一四〇万円を自己名義の預貯金口座に入金した点は、確かに、B1がb1社口座に入金された金の一部を私的に流用していたと疑うべき事情ではあるが、その金額は、右二回のコスモスライフからb1社に対する送金(計五〇〇万円)の三割弱にとどまる。
本来、b1社は、六〇、六一年当時、k3研究所からの家賃等(賃料、共益費及び広告塔賃料)として毎月一七三万円余(ただし、六一年五月以降は一六〇万円余り)の収入があり、丙川二郎に対する毎月一一〇万円の賃料を差し引くと、毎月六三万円余り(六一年五月以降は五〇万円余り)の運営資金があったほか(〈証拠略〉)、右2(二)(3)、(4)のとおり、丙川二郎の関与による各入金もあったのであり、右3(一)の各事実も踏まえつつ、b1社の出納帳(甲物1一一〇、一一一)の記載を一覧すれば、b1社が右収入がありながら資金不足となり、納税時期等にB1からb1社に貸し付ける必要が生じた主な理由は、①b1社口座からの出金の中で、相手先事由欄の記載がなく、かつ現金用の出納帳(甲物1一一一)に対応する入金の記載がないものが相当額あることと、②右3(一)のとおり、秘書の給与等の丙川二郎の政治活動に要する費用をもb1社口座で負担していたことにあると認められる。そして、右のうち、①の点は、B1の私的な流用によるものか、丙川二郎の政治活動資金を負担したことによるものか証拠上明確ではないが、②の点は証拠上明白であり、結局、B1がコスモスライフからの初回の送金後に五〇万円、本件送金後に六三万円の計一一三万円をb1社に貸し付けた金の返済として受領したことは、b1社口座で丙川二郎の政治活動に要する費用を負担したことが重要な一理由になってB1から借り入れる必要が生じ、後に、この借入金をコスモスライフからb1社に対する送金で返済したという関係に立つことになる。
さらに、右のB5らの給与未払分名目の出金とB1に対する返済用の出金を除いても、なお、コスモスライフからの最初の送金のうち、一五〇万円及び本件送金のうち、約九三万円はb1社口座に残され、それらが、b1社口座で右3(一)のとおり、丙川二郎の政治活動費用を負担する原資となっていたのである。
したがって、コスモスライフからb1社に対する送金があった後に、B1がb1社口座から貸付金の返済を受けたり、給与未払分の名目で出金していた事実は、右(一)の認定を左右するものではない。
6 まとめ
(一)  以上の検討を踏まえて、丙川二郎の認識について判断するに、
①  丙川二郎は、判示第二の二①、②、③のとおり、五九年五月から六〇年一一月にかけて、リクルートの者から、国会の委員会で国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨繰り返し請託を受け、これを了承して、数度にわたり、衆議院文教委員会及び予算委員会で、リクルートの請託の趣旨に沿った質疑をしたこと(本節第二、第三、第四)、
②  コスモスライフからb1社に対する送金は、B1がR1に対し、丙川二郎に資金援助を要請するとともに、公明党では政治団体として企業から寄附を受けることができない旨の話をしたことから始まったものであること(本節第五の三3(一))、
③  B1は、丙川二郎の私設秘書としての活動の一環として、丙川二郎の政治活動資金の一部を取り扱うためにb1社口座を利用しており、丙川二郎はそのことを了解していたこと(右5(一))、
④  コスモスライフからb1社に対する送金を開始したのは六〇年一二月であって、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が質疑をした時期と近接しており、本件送金も当初の送金の約半年後のことであったこと、
⑤  コスモスライフからb1社に対する送金の経緯に関するB1の公判段階における供述(本節第五の三2(八))は、不合理であって、信用することができず、右①の事情以外に、b1社がリクルートの関連会社から半年間で二〇〇万円又は三〇〇万円の資金供与を受けるべき合理的な理由は見当たらないこと、
⑥  丙川二郎は、五九年六月及び八月の文教委員会の間である同年七月二六日、リクルートから金額一〇〇万円の小切手の供与を受けて、直接自分で受領した上、同年夏や六〇年秋に何回にもわたり、リクルートから接待やホテル代の支払という利益の供与を受けており(本節第二の五2ないし4、第四の五2)、丙川二郎には、国会における議員活動に関連して請託を受けた相手企業から金銭等の利益を供与されることにつき、心理的な抵抗がなかったものと認められること、
⑦  B1は、丙川二郎の私設秘書として活動しており(本節第一の一2)、本件指導相談契約を最初に締結した六〇年一二月中旬の約一月半前には、丙川二郎とともにR5及びR2から料亭で接待を受けていて(本節第四の五2)、丙川二郎がリクルートの幹部から接待を受ける関係にあることを知悉していたのであるから、そのB1が丙川二郎に秘匿して、丙川二郎に対する資金供与の趣旨でb1社に対する資金供与をするようにリクルートに求め、それを実行するということは、そのことが後になって丙川二郎に発覚した場合には自己の立場を危うくすることを考えれば、不合理な行動であること
を総合考慮すれば、B1は、丙川二郎の了承を得た上、六〇年一二月にコスモスライフからb1社口座に二〇〇万円の送金を受け、さらに、六一年五月三一日にも本件送金を受けたものと推認できるとともに、丙川二郎は、リクルートが判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬を丙川二郎に供与する趣旨で右各送金をしたことを認識していたと推認することができる。
(二)  しかも、R2は、右4(二)(2)のとおり、六一年一一月二七日に丙川二郎と面談した際、丙川二郎から会社に対する送金という形で資金援助を受けたことに感謝する趣旨の発言をした旨供述するところ、右供述は、右(一)の諸事情に照らすと、合理的であるから、十分に信用することができる。
(三)  したがって、丙川二郎は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として供与されるものであることを知りながら、b1社名義で本件送金を受領したものと認められる。
五 R1との共謀
1 丙川二郎に対する請託に関するR1の認識
(一) R1は、公判段階において、丙川二郎が国会の委員会で青田買い問題や就職協定に関する質疑をしたことは知らず、取締役会の議事録を作っても、その内容はいちいち覚えておらず、就職協定に関連する取締役会における議事内容は全く覚えていない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) しかし、R1は、五七年一一月にリクルートの社長室課長になり、五九年一月から社長室秘書課長兼文書課長、六〇年七月から六二年三月まで社長室次長の職にあって、被告人の秘書業務や文書管理業務に従事し、かつ、判示第二の二①、②、③の各請託の時期である五九、六〇年当時は、取締役会等の会議に関連する事務も担当しており(第一章第一の三1)、取締役会やじっくり取締役会議では、陪席した上、議事内容を記録して、議事録を作成し、その写しを各取締役に配付していた(第一章第一の四)。そして、五九年度の就職協定に向けた対策を議論し、就職協定問題を「文部省マター」として、就職協定の遵守に文部大臣の協力をいただくように働きかけることを基本路線とし、R7及びR9を中心に文部省等の関係機関とのリレーションを担当する外交組織を設けることなどを決めた五九年一月一八日のじっくり取締役会議(本章第一節第二の三1)や、就職協定の成立に向けた動きが報告された同年二月一日の取締役会にも陪席して議事録を作成し(〈証拠略〉)、また、通産省が人事課長会議申合せに反した時期に学生と接触しているという新聞報道がなされたことを受けて、通産省の青田買いは人事課長会議申合せに反するとして、国会議員に国会で取り上げて質疑をしてもらい、人事院や各省庁の政府委員から、二度とこのようなことはしないという答弁を得て、人事課長会議申合せを徹底させようということが話し合われた同年四月二七日から翌日にかけてのじっくり取締役会議(本節第二の七2(一)(2))にも陪席して議事録を作成した(〈証拠略〉)。
このように、R1が職務として取締役会に陪席し、議事録を作成していた以上、報告事項の要点、議論の内容及び決定事項を当然に理解していたはずであり、判示第二の二①、②、③の各請託は、いずれも取締役会で検討されて決定されたのであるから(本節第二の七2(一)(3)、第三の六4(一)、第四の七3(二)、(六))、R1は、当然に右各請託をすることを承知していたものと認められる。
(三) 判示第二の二①の請託に関し、R6は、捜査段階において、「このじっくりT会議〔五九年四月二七、二八日の取締役会〕に出た者は、国会質問のことが話題になったことや、これについての甲野の発言を聞いて知っており、議事録を書いたR1についても、それを判かっていたと思われます。」(甲書1一三三)、「このじっくりT会議〔五九年五月二三日の取締役会〕には、〔中略〕事務局としてR7とR1も出ておりましたので、リクルートが丙川次郎代議士に青田買いの問題について国会の委員会で質問してもらうように働きかけていることは承知していたと思うのです。」(甲書1一三五)と供述し、R5も、捜査段階において、「〔五九年〕四月二七日の取締役会にも、この五月二三日の取締役会にも、社長室のR1は〔中略〕事務方として会議に出席し、議事録を書いております。ですから、公明党の丙川次郎議員に国会で青田買い、つまり就職協定問題について質問していただくことをお願いすることは、承知していた筈であります。」(甲書1一四二)と供述し、判示第二の二③の請託に関し、R2は、捜査段階において、「この時の取締役会〔六〇年一一月ころの取締役会〕でもそうであったし、その前の丙川先生に一〇月三〇日の予算委員会で質問してもらうことを決めた取締役会でもそうでしたが、当時は、R1社長室次長も出席していて、その会議でまとまった事項を書いて議事録としていたのです。ですから、もちろん、R1君もこれらのことは十分承知していたのです。」(甲書1一六一)と供述するほか、被告人も、捜査段階において、特にどの請託とは特定せずに、「丙川代議士に国会質問をお願いすることについては、〔中略〕R1は、当時わかっていたはずです。R1は、〔中略〕取締役会に陪席として出席し、書記の役割をしておりましたので、取締役会で話し合われた内容、つまり丙川代議士に国会質問をお願いすることを承知していたと思います。」と供述するところ(乙書1三五)、これらの供述は、右(二)の諸事実に照らすと、合理的であり、信用することができる。
(四) したがって、R1は、判示第二の二①、②、③の各請託の具体的な担当者、場所、請託の文言はともかくとして、それぞれの時期ころ、リクルートの者が文教委員会等に所属する衆議院議員である丙川二郎に対し、衆議院の文教委員会等で、国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨請託したことは認識していたものと認められる。
また、右各請託から六〇年一二月のb1社に対する二〇〇万円の送金や六一年五月の本件送金までには、さほどの年月が経過していたわけではないから、当然に右各請託に関する記憶を保持していたものと認められる。
2 本件送金の趣旨に関するR1の認識及びR1と被告人との通謀
(一) R1は、公判段階において、本件送金を含むコスモスライフからb1社に対する送金は、丙川二郎の政治活動に資するために供与したものと考えていた旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) しかし、R1は、リクルートの者が丙川二郎に対し職務に関する請託をしていたことを認識し、記憶した上(右1(四))、六〇年一二月ころ、B1から要請を受けて、コスモスライフからb1社に対し技術指導相談料の名目で送金することにより、丙川二郎に資金を供与することを企図し(本節第五の三3(一))、その際、被告人に「丙川代議士には就職協定の問題でリクルートが頼んで国会質問をしてもらっているなどお世話になっていることもあり、断り切れないと思いますので、先方の要請に応じたいと思いますが。」などと言って了承を求め(乙書1九)、その承認を得た上、コスモスライフからb1社に対する二〇〇万円の送金をし(本節第五の三3(二))、その約半年後に同様の名目で本件送金をして、丙川二郎に三〇〇万円を供与したのである(本節第五の三3(三))から、R1が、本件送金が右各請託に係る報酬として丙川二郎に供与されるものであると認識していたことは明らかである。
3 結論
したがって、被告人は、R1と共謀の上、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として本件送金をし、丙川二郎に取得させて、賄賂を供与したものである。
第六 丙川二郎に対するコスモス株の譲渡とその賄賂性
一 B1名義によるコスモス株の譲渡の事実
1 外形的な事実関係
六一年九月三〇日付けで、譲渡人名義をm3社、譲受人名義をB1とし、単価三〇〇〇円として、コスモス株五〇〇〇株の株式売買約定書が作成され、これが譲渡された。
(〈証拠略〉)
2 問題の所在
被告人は、捜査段階において、自分が丙川二郎にコスモス株を譲渡することを決め、電話で同人の了承を得て譲渡した旨供述するが、公判段階においては、丙川二郎に対するコスモス株の譲渡は知らなかった旨供述している。
また、丙川二郎は、公判段階において、コスモス株を譲り受けた事実は知らなかった旨供述し、B1も、公判段階において、自分が譲り受けたのであって、丙川二郎は関知していなかった旨供述している。
そこで、以下、丙川二郎に対するコスモス株の譲渡の経緯(被告人及び丙川二郎の関与を含む。)を検討し、さらにその賄賂性について検討を加える。
二 関係証拠上明白な事実
1 B1名義によるコスモス株の譲渡とその売却を巡る事実関係
(一) R1は、六一年九月中旬、リクルート本社からB1に電話して、コスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲渡することについて話をし、その際、B1が購入資金の用意がない旨を話したところ、R1がファーストファイナンスから融資を受けることを勧め、B1がこれを了承した。
(二) そこで、R1は、R18に依頼して必要書類を準備し、六一年九月中旬、B1がリクルート本社のティーラウンジを訪れ、R1が用意したコスモス株五〇〇〇株の株式売買約定書、ファーストファイナンスからの借入れに関する金銭消費貸借契約書等の必要書類に署名、押印して、コスモス株の譲渡の関係書類を作成した。
(三) 六一年九月三〇日、ファーストファイナンスがコスモス株五〇〇〇株を担保にB1名義で貸し付けた一五〇〇万円をB1作成の振込指定書に基づいてm3社の当座預金口座に振込送金し、コスモス株五〇〇〇株の売買代金が支払われた。
(四) R1は、コスモス株の店頭登録日であった六一年一〇月三〇日の直前ころ、B1と連絡を取ってコスモス株を店頭登録直後に売却するかどうかについて意向を聞き、売却するというB1の返答を受け、同月三一日に大和証券において右コスモス株五〇〇〇株を売却する手配をし、同日、一株五二七〇円で売却された。
(五) 六一年一一月五日、右売却代金から委託手数料等を差し引いた額である二五九八万七四五〇円がB1の指定によりB1名義預金口座に入金された。そして、同月七日、右口座中の一五一〇万九三一五円がファーストファイナンスの口座に振込送金されて、右一五〇〇万円の借入金の元利金が完済された。右振込送金には八〇〇円の手数料がかかっており、結局、一〇八七万七三三五円がコスモス株の売却益としてB1名義預金口座に残った。
(〈証拠略〉)
2 リクルートと丙川二郎との接触状況
六一年九月一三日、リクルートが費用を負担して、リクルート社長室長のR2が丙川二郎、B1及びB11とともに、○○カントリークラブでゴルフをした。(〈証拠略〉)
三 B1名義によるコスモス株の譲渡についての被告人の関与
1 関係者及び被告人の各供述
(一) R2の捜査段階における供述
(1) R2は、一連のコスモス株の譲渡を巡る捜査の初期の段階である六三年一一月一八日及び同年一二月一四日の検察官の取調べにおいて、第一章第二の二1(二)の六一年九月に被告人がR2とR1を同席させてコスモス株の譲渡の相手方を選定した機会(以下「三者による選定の機会」という。なお、関係供述を引用する際には、コスモス株の譲渡の相手方を選定する行為を「リストアップ」ということもある。)に被告人が譲渡の相手方として丙川二郎関係の名前を挙げた旨の供述をし(甲書1二八三、二八八)、その後、元年二月二七日及び同年三月三日の検察官の取調べにおいても、同趣旨の供述をし(甲書1二四、二八五)、さらに同年四月一五日の検察官の取調べにおいては、三日間にわたった三者による選定の機会に被告人が政治家やその秘書の名前を譲渡の相手方として挙げた中に丙川二郎の名前が含まれていた旨の供述をしている(甲書1七一〇)。
(2) R2は、さらに、元年四月一七日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(甲書1七一一)。
「このように〔三者による選定の機会に〕三人で譲渡先をリストアップするに際して、その中に公明党の丙川次郎代議士も選ばれたことは間違いありません。私は、丙川先生とは、昭和六〇年七月に社長室長になって間もなくのころ、丙川先生の秘書のB1さんが何かの用事でリクルート社にやって来て、R1君からB1さんを紹介され、その後、丙川先生の勉強会に出席することになり、B1さんから丙川先生を紹介され、名刺交換して知り合ったもので、その後も数回丙川先生の勉強会に出席していたりしたのでした。しかし、その六一年九月上旬ころのコスモス株譲渡先のリストアップの協議の場の時点では、丙川先生と個人的に親しいというほどの関係は、まだ、それほどはありませんでした。このリストアップの場で丙川先生の名前を挙げたのは甲野社長からでありました。その時、甲野社長は『公明党の丙川次郎先生にも持っていただきましょう。』ということをおっしゃり、その時、株譲渡の手続きは秘書の方に持って行くということで、それに対し、私が、『丙川先生の秘書でしたら、B1さんはよく知っています。』というようなことを言ったと思います。いずれにしても、丙川先生の名前は私から挙げたのではなく、甲野社長の口から最初にあったことは間違いないという記憶です。B1秘書とは、私よりもR1君の方が古い付き合いになるのですが、その時は、R1君は口をはさまず、これをメモするだけでした。」
(二) R2の公判段階における供述
R2は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
三者による選定の機会は、六一年九月上旬ころ、二、三日にわたったが、その際にB1の名前が挙がっていたかどうか記憶にない。
捜査段階の当初から丙川二郎関係の名前を挙げたのは、政治家秘書の関係は右場面ですべてリストアップされたという予断があって、それに基づき、この時にリストアップしたはずとか、この時に名前が挙がったはずとか、何の疑問もなく話したのである。しかし、それが本当に記憶にあるのかと強く尋ねられると、自信を持っては言えない。最初の担当検事の取調べは概ねフェアーであったし、極端な誘導があったわけでもないので、当時の供述を全面的に否定するわけではないが、丙川二郎関係の名前が本当に右場面であったのかどうかということは、厳密に言えば分からない。
被告人は、三者による選定の機会に、政治家本人の名前は挙げておらず、「公明党の丙川二郎先生にも株を持っていただこう。」と言ったことはなかった。右場面では、政治家本人が契約名義人である場合は政治家本人の名前が出た可能性はあるが、秘書の名前が出るときは、何々先生の所の秘書の何々さんという言い方はされず、秘書の名前がずばり出たという記憶である。
(三) R1の捜査段階における供述
(1) R1は、一連のコスモス株の譲渡を巡る捜査の初期の段階である六三年一一月一七日の検察官の取調べにおいて、六一年九月の三者による選定の機会に、被告人が譲渡の相手方として他の政治家等とともに丙川二郎の名前も挙げた旨の供述をし(乙書1五六)、六三年一二月一七日の検察官の取調べにおいても、被告人から数回にわたって譲渡の相手方として指示された政治家の中に丙川二郎かその秘書の名前があった旨の供述をしている(乙書1五八)。
(2) 他方、六三年一二月二一日の公証人役場の日付印が押されたR1作成のメモ(弁書1一二五)には、同月七日の検察官の取調べの際に作成した一覧表を再現したという表が添付されているところ、同表には、B1名義で譲渡した件について、「RCのR3、R20、R21の誰かからの指示で秘書に手続きをと言われてした」という記載があるとともに、同メモの本文には、同月一七日作成の供述調書では、B1に関し、その株主としての選択者が被告人であるかのごとく受け止められてしまうおそれがあり、検事による意図的な調書の作成に不安を覚える旨の記載がある。さらに、R1は、元年三月二三日の検察官の取調べに際しては、被告人が名前を挙げた政治家を列挙する中で丙川二郎の名前を明示的には含めず(乙書1五九)、同年四月四日の検察官の取調べにおいては、次のとおり供述している(甲書1一〇〇二)。
「この丙川二郎代議士に対してコスモス株五〇〇〇株を譲渡する手続をするに際しては、たしかその年の九月中、下旬頃、リクルートコスモス社のR3社長だったか、R20取締役だったかR21取締役だったか、三人の役員のうちの誰かからだったと思うのですが、次郎先生のところに譲渡手続をとりに行くように指示されて行った記憶があるのです。すでに先方の次郎先生側との間にコスモス株五〇〇〇株を譲渡する話が持ち込まれ、それを先生側も了承していたようであり、今申し上げた三人のうちの誰かから私に『丙川先生に五〇〇〇株を持ってもらうことになったが、R1君は丙川先生の秘書と親しいようだから秘書のところに行って手続をとってほしい。』旨言われました。」「私の記憶では甲野さんのリストアップの中に丙川次郎代議士の名前はなかったと思いますし、直接私に手続をとるように指示してきたのは今申し上げたリクルートコスモス社の役員ではなかったかと思うのです。ただR3社長なりのコスモス社の役員の方から次郎先生の方にコスモス株五〇〇〇株を譲渡するということについて、あらかじめ甲野さんの方に話がされ、了承されていたかどうかの点についてはR3社長達に聞いてみて下さい。」
(3) R1は、その後、元年四月二三日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(乙書1四三)。
「この丙川先生側への株譲渡の手続をするにあたっては、私はこれまでリクルートコスモス社のR3社長かR20専務かR21取締役かの内の誰かに言われて手続をとったと繰り返し申し上げてきました。またこの丙川先生側へのコスモス株五〇〇〇株譲渡に関するリストアップについては甲野さんがリストアップしたのではない旨話をしてまいりました。しかし、これまでの甲野さん、R2さん、R3さん、R20さん、R21さんらについての検事さんのお調べの結果等をお聞かせいただき、もう一度私なりによく考えてみましたところ、やはり今回のリクルートコスモス株を多くの方々に譲渡するという発案は全て甲野さんのアイデアによるものであり、私の行った譲渡手続は甲野さんのリストアップとそれに基づく指示によってこれをとり行ったと考えられるのであって、そういうことを総合しますと、この丙川次郎先生側への五〇〇〇株の譲渡についても、やはり甲野さんがリストアップし、私がその指示を受けてその譲渡手続を行ったものだったなと考えられるようになりました。私としては、リクルートコスモス社側の役員から丙川先生側への株譲渡をしてほしい旨の指示を受けた記憶があるのですが、今考えてみますと、それは多分甲野さんがこの丙川先生側への五〇〇〇株の譲渡をリストアップする前の、何かの機会に私がその話を甲野さんの方にお伝えしたようなことがあって、その記憶が印象に残っていたのかもしれません。ですからこの丙川次郎先生側への五〇〇〇株の譲渡についても結局のところ甲野さんがこれをリストアップし、その指示に基づいて私が丙川先生の秘書のB1さんとの間に手続をとったものに間違いないと思うのです。この丙川先生側に五〇〇〇株を譲渡する旨の甲野さんのリストアップについては、〔中略〕R2さんと私とが社長室に呼ばれて甲野さんのリストアップするのを私がメモした際にそのメモのリストの中にやはり入っていたかもしれません。」「実際にB1さんの方と事務手続をとるにあたっては甲野さんの方から丙川先生側に五〇〇〇株を一株三〇〇〇円でお譲りする話がついているので、譲渡手続をとってほしい旨言われたように思うのです。〔中略〕私がB1さんに電話をかけると、甲野さんの方ですでに先方に話の持ち込みがなされていたことから、B1さんは丙川次郎先生側に五〇〇〇株譲渡する話についてすでに心得ておりました。それで私がB1さんに、『すでに判っていると思いますが、丙川先生の方に一株三〇〇〇円で五〇〇〇株リクルートコスモス株をお譲りすることになったので、その手続をとりたいんですが』などと言ったところ、『判りました』などと言ってすぐに了解してくれました〔。〕」
(四) R1の公判段階における供述
R1は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている。
六一年九月の三者による選定の機会にリストアップされた中には、丙川二郎の名前は出ていなかった。
自分がB1を譲受名義人とするコスモス株の譲渡に関与したのは、六一年九月下旬、リクルートコスモスのR21から電話で、コスモス株を丙川二郎先生側にお渡ししたいんだけれども、その事務手続を君の方で執ってくれと指示されたためである。R21からは、丙川二郎先生に株をお渡ししたいんだけれども、君は親しいようだから、手続を執ってちょうだいということを言われた。そのことについて被告人が了承していたかどうかは分からないし、自分から被告人の耳に入れなかった。それをするとしたらR21の仕事だと思う。
(五) 被告人の捜査段階における供述
(1) 供述経過
被告人は、逮捕される前である元年一月九日から二〇日にかけての検察官の取調べにおいては、丙川二郎に対するコスモス株の譲渡は、自分が譲渡の相手方を決めたものではなく、部下から報告を聞いた記憶もない旨供述していたが(〈証拠略〉)、同年四月一五日の検察官の取調べにおいて、社内の者からの推薦を受けて自分が丙川二郎に対するコスモス株の譲渡を決めた旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(2) 被告人の元年四月一六日付け検面調書(乙書1八)
被告人は、元年四月一六日の検察官の取調べにおいて、次の供述をしている。
「昭和六一年の九月中旬頃であったと思います。一連のコスモス株の譲渡を私がリクルートの社長室次長のR1などに指示してやらせていた頃でありますが、リクルートあるいはリクルートコスモスの役員の誰かからであったと思うのですが、それが誰であったか思い出せないのですが、とにかく役員の誰かから私に対し、会社で、『公明党の丙川次郎代議士にコスモス株を五、〇〇〇株譲渡してはいかがですか。』という話がありました。その役員は、たぶん譲渡株数も言ってきたと思います。丙川代議士については、最初の私のコスモス株の譲渡先の予定者の中には無かったのでありますが、この役員が、丙川氏を仕事上のつながりなどで知っており、お世話になっているということもあって丙川氏に株を持ってもらおうと考えて私に推薦をしてきましたので、私も後に申し上げるように、丙川代議士には、会社として色々な関わりあいがありましたので、この店頭登録公開前の値上りが確実に見込まれ、一般の人が、入手することが困難なコスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲渡し、喜んでいただこうと考え、その株譲渡を行なうことに決めたのです。それで、私はその頃、丙川次郎代議士の事務所であったか、宿舎であったかはっきりしませんが、代議士本人に電話をかけ、『この度リクルートコスモス株を店頭公開いたしますので、先生にもお持ちいだきたい。つきましては、使いの者をやりますので、詳しい話は使いの者からお聞き下さい。』と話しますと、同代議士はこれを了解してくれました。それで私は、R1に対し、いつものパターンで、『公明党の丙川代議士にコスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲渡するように手続きをしてくれ。』と指示いたしました。〔中略〕この丙川代議士の関係は、B1という丙川代議士の弟か秘書かの名義で引き受けてもらったと当時報告を聞いたと思います。私は、このB1という人は見たことも聞いたこともなく、私がこの人にコスモス株を譲渡するというような意図は全く無く、この人に譲渡したものではありません。」
(六) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
丙川二郎側にコスモス株が譲渡されたことは、その譲渡の当時は全く知らず、六三年八月ころの新聞報道で初めて知った。
そもそも、丙川二郎とは、会った記憶もなく、電話をかけて話をするような親しい関係にもなかった。右(五)(2)の供述は、検事の作文である。
リクルートの者が丙川二郎の国会質問に関与していたり、同人の後援会に入ったり、会食をしたことも知らなかった。しかも、自分は、東京大学教育学部の同期生である衆議院議員のH6に継続的な献金をするなどして政治的に応援しており、H6は、丙川二郎と同じ東京都第三区を選挙区とし、同区は激戦区であって、H6と丙川二郎とは競合関係にあったから、自分が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定することはあり得ないし、他の者から推薦があっても、認めなかったと思う。
2 考察
(一) R2の捜査段階における供述の信用性
(1) R2は、公判段階(〈証拠略〉)において、捜査段階の初期に取調べを受け、六三年一一月一八日付け検面調書(甲書1二八八)を作成したP7検事に対しては、これだけ世の中をお騒がせし、大きな問題になっていることについてはきちんと事実を話して、どのような形であれご理解いただき、真実を知っていただくことが大切だという考えで、素直に話し、誠心誠意、自分が本当と信じたことを話した旨供述しており、その供述姿勢について信用性を疑うべき事情は見受けられないところ、R2は、六三年一一月一八日のP7検事の取調べ以降、捜査の過程においては、任意捜査の時期を含め、一貫して、六一年九月上旬の三者による選定の機会に被告人が譲渡の相手方として丙川二郎関係の名前を挙げた旨供述している。のみならず、R2は、公判段階において、P8検事の取調べは大変不公平であったので、いい加減なことは言えないと思い、厳密にものを考えるようになった旨供述するところ(〈証拠略〉)、そのP8検事の取調べに対してすら、同趣旨の供述を続けていた(甲書1七一〇、七一一)ことをも併せ考えれば、R2の捜査段階における右1(一)の供述は信用性が高い。
(2) R2は、右1(二)のとおり、公判段階においては、政治家秘書の関係は三者による選定の機会に名前が挙がったという予断があったために、何の疑問もなく話したのであり、丙川二郎関係の名前が本当にあったかどうかは厳密に言えば分からない旨供述するが、実際には、R2は、六三年一一月一八日の検察官の取調べに際しては、その当時に新聞等でコスモス株の譲受人として報道されていた著名な政治家であっても、自己の記憶としてよみがえらなかった者については、三者による選定の機会に被告人が名前を挙げた者の中に含めなかったのである(〈証拠略〉)から、捜査段階において、単なる予断のみで記憶にないことを話していたとは考え難い上、R2は、六〇年七月にリクルートの社長室長に就任した直後ころから、B1と会食するなどして面識があり、丙川二郎とも、b4会に出席したり、接待に出席するなどして面識があったほか、六一年九月上旬の三者による選定の機会と近接する同月一八日には、丙川二郎及びB1とゴルフをしていたのである(〈証拠略〉、本節第六の二2)から、三者による選定の機会に丙川二郎やB1の名前が出たかどうかということは、特段の接触がない政治家の場合とは違って、記憶に残りやすい事柄であったと考えられる。
したがって、R2の公判段階における右供述は、三者による選定の機会に被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定したことに関するR2の捜査段階における右1(一)の供述の信用性に疑いを入れる事情ということはできない。
(二) 被告人の捜査段階における供述の任意性
(1) 弁護人は、被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述に関し、丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定したことを否認していた被告人が自白に転じたのは、P2検事が、元年四月一三日夜の取調べにおいて、二か月以上の身柄拘束や取調べにより肉体的、精神的な限界に達しつつあった被告人に対し、丙川二郎に対するコスモス株の譲渡を決定したのは誰かという問題につき、「決定したのが君でないと主張するのであれば、四回でも五回でも君を逮捕するか、一方、R1が『コスモスのR3から株譲渡の手続を依頼されたかもしれない』と言っているので、君が否認すればR3を逮捕する。検察庁としてはどちらでも良いが、R3を逮捕すればリクルートは潰れるかもしれないぞ。どちらかを選択しなさい。」と言い、リクルートが命にも代え難い存在であった被告人の心理を根底から動揺させるとともに恐怖を抱かせて、自白を強要し、かつ、調書の内容については、リストアップだけ認めれば、他の人が推薦し、それを了解したということに和らげる旨の懐柔もして、元年四月一五日に同日付け検面調書(弁護人には開示されているが、証拠として請求されなかったもの)に署名させ、同月一六日に同日付け検面調書(乙書1八)に署名させたのであるから、被告人の捜査段階における右供述は任意性を欠く旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をしている。
(2) そして、弁護人作成の元年四月一五日付け報告書二通(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1七八、七九)には、被告人が弁護人と接見した時に、P2検事から弁護人主張の趣旨の話(P2検事がR1の供述を引用した旨の部分を除く。)をされ、R3の逮捕は避けなければならないので、今後の取調べで被告人が丙川二郎に対するコスモス株の譲渡を決定したと供述せざるを得ないという話をした旨の記載があり、このことからは、被告人が右1(五)(2)の供述をするに先立って、弁護人に対し右報告書に記載された趣旨の話をしていたことが認められる。また、弁護人作成の同年八月九日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八〇)には、P2検事から「R1が、『コスモスのR3から株譲渡の手続を依頼されたかもしれない。』と言っているので、君が否認すれば、R3を逮捕する。」と言われた旨の記載があり、被告人がその当時弁護人に右趣旨の話をしたことが認められる。
(3) 弁護人は、右(2)の報告書や陳述録取書の記載に照らして、右1(五)(2)の供述をした経緯に関する被告人の公判段階における右(1)の供述は信用性が高い旨主張する。
しかし、以下の理由から弁護人の主張に与することはできない。
すなわち、まず、被告人が、逮捕される前の段階で、弁護士から、R1が丙川二郎を選定したのはR3だと言っている旨聞いていたこと(〈証拠略〉)や、逮捕された当初のころからR3が逮捕されてリクルートコスモスが経営危機に陥ることをおそれていたこと(〈証拠略〉)からすると、被告人自身が、丙川二郎の選定に自己が関与したことを否定し続けた場合に、R3が逮捕され、リクルートコスモスが倒産の危機に瀕し、リクルートの経営にも波及があることを心配したという限りでは、被告人の公判段階における右(1)の供述を信用することができるが、P2検事がR3の逮捕を種にして供述を強要したという点については、R1は、右1(三)(2)のとおり、元年四月四日の検察官の取調べにおいては、R3、R20及びR21のうちの誰かから指示を受けた旨供述していたのであるから、P2検事が、被告人の取調べの際、R20やR21が選定した可能性を尋ねることもなく、R3を名指しして逮捕する旨の話をするというのは唐突であって、合理性に乏しい。
むしろ、丙川二郎に贈賄したという事件を巡る被告人の供述全体を見ると、本節第二ないし第五のとおり、リクルートでは、被告人を中心に取締役会で検討し、被告人自身も国会質問案作成に関与するなどして、丙川二郎に対し、度々国会における質疑を依頼し、被告人の承認の下で、コスモスライフからb1社へ送金する方法により丙川二郎に金を供与した事実があるのに、被告人自身は、公判段階においては、それらの依頼や資金供与についての自己の関与をことごとく否定して、事実に反する供述を重ねているし、捜査段階においても、元年四月一六日の検察官の取調べにおいて右1(五)(2)の供述をする際には、事業部の者が丙川二郎に対する陳情のために国会質問案を作成していたことについて、「当時事業部員がそういうことをやっていて、私としても当時これを承知していたかも知れませんが、現在は良く覚えておりません。」(乙書1八)と曖昧な供述をし、後になってその関与を具体的に認めるに至っているのであり、被告人の右のような供述態度からすると、元年四月一五日の接見時の被告人の話も、被告人が同月一三日の検察官の取調べにおいて、丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定したことに関与したかどうかを問われ、否認を続けるとR3が共犯者として逮捕されてリクルートコスモスが倒産の危機に瀕することを懸念し、関与を認める供述をしようと考えた際、公判段階において争う余地を残すために、自己の懸念を検事からの話として述べたにすぎない可能性が高い。
また、被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述は、丙川二郎を選定した経緯に関し、捜査段階において一貫していたR2の供述やR1の捜査段階当初の供述と齟齬しているところ、P2検事としては、公判段階において右齟齬を理由に供述の信用性の問題が提起される可能性を当然に認識したはずであり、仮にP2検事がR3の逮捕を種にして、被告人に記憶に反する供述を強いるのであれば、弁護人が主張するような懐柔をしてまで、関係者の供述と齟齬する内容の調書を作成するというのは不合理なことである。
他方で、P2検事は、被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定したことを否定している段階で、それでは誰かと言うことを吟味することは考えたが、R3を逮捕すると言ったことはなく、被告人は、元年四月一五日の取調べにおいて、自分がイニシアティブを執って言い出したことではないが、他の者の推薦を承認して丙川二郎に対する譲渡を決定したと供述したところ、自分としては、R2やR1の供述から、証拠的には、被告人がR2やR1を同席させた際に丙川二郎の名前を挙げたと考えられると判断していたので、被告人の供述は流れとしては少しおかしいかなと感じたが、まあそういうケースもあるのではないかと思った旨証言しているところ(〈証拠略〉)、その証言は、右のとおり合理性に乏しい被告人の公判段階における右(1)の供述と対比すると、合理性があり、信用することができる。
(4) したがって、被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述について、任意性に疑いを抱かせる事情があるということはできない。
(三) 被告人の捜査段階における供述の信用性
(1) 被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定したことについて
被告人の右1(五)(2)の供述のうち、被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定したことを認める点は、自己に不利益な内容を認めるものであり、かつ、右(一)のとおり信用性の高いR2の供述と符合しているから、信用性が高い。
弁護人は、被告人の右供述に関し、検面調書(乙書1八)では、丙川二郎をリクルート又はリクルートコスモスの誰から推薦されたのか特定されていない上、選定した機会が三者による選定の機会なのか、別の機会なのかも明らかにされていないなど、具体性を欠くから、その供述は信用し得ない旨主張する。
確かに、丙川二郎を選定した経緯に関する被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述は、細部が曖昧であるという難点があるが、右(二)(3)の丙川二郎に贈賄したという事件を巡る被告人の供述態度からすると、被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定したことを認めることにしつつも、リクルート関係者が更に逮捕されることを避けるとともに、自分自身の関与についても公判段階において争う余地を残すために、あえて曖昧な供述をしたということが十分に考えられるから、右の点は、丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定したことを認める被告人の捜査段階における右供述の信用性を疑うべき事情ということはできない。
(2) 被告人がコスモス株の譲渡に関し丙川二郎と電話で話したことについて
被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述のうち、被告人がコスモス株の譲渡に関し丙川二郎と電話で話したことを認める点は、被告人が自分で選定した政治家については、ほとんどの場合に自分で本人か秘書に連絡していたこと(〈証拠略〉)に照らすと、合理的である。
また、被告人の右供述が記載された検面調書(乙書1八)を全体的に見ると、後には関与を認める供述をするに至った丙川二郎に依頼するための国会質問案の作成について、「当時これを承知していたかも知れませんが、現在は良く覚えておりません。」と曖昧な供述をするなど、消極的ながら認めるという供述が見られるところ、被告人は、そのような供述をしながらも、電話で丙川二郎とコスモス株の譲渡の話をしたことについては、明確にこれを認める供述をしているのであり、その点からも、信用性は高いと考えられる。なお、被告人は、同検面調書が作成された翌日である元年四月一七日に弁護人と接見したところ(第一章第三の三2)、当日の弁護人作成の被告人との接見結果の報告書は証拠請求されておらず、その後の接見結果の報告書や被告人からの陳述録取書にも、コスモス株の譲渡に関し丙川二郎と電話で話したことについて、検事の強要等により事実に反する供述をしたなどという記載もなく、右供述の信用性を疑うべき事情は見受けられない。
弁護人は、被告人が電話で丙川二郎と話したという点については、検面調書(乙書1八)では、①丙川二郎に電話をかけた際の状況や話の内容について具体的な記載がない上、②電話をかけた先について、丙川二郎が東京都選出の国会議員であるため議員宿舎はないのに、「宿舎であったかはっきりしませんが」などと客観的事実と齟齬する記載になっていることや、③そもそも被告人と丙川二郎とは直接電話をかけ合うほどに親密ではなかったことからして、信用し得ない旨主張する。
しかし、まず、①、②の各点については、右(1)と同様の事情を指摘し得るほか、P2検事は、右の点に関する被告人の供述経緯や状況について、被告人は、元年四月一五日の取調べにおいて、自分がリストアップした政治家に対しては、自分が直接本人か秘書に電話しており、丙川二郎との関係では、B1は見たことも聞いたこともないので、丙川二郎本人に電話したはずである旨供述した後、同月一六日の取調べにおいては、政治家に電話をかける際に自分が直接ダイヤルを回してかけるということはせず、自分の秘書に相手の所在を確認して電話をかけてもらい、相手が電話に出かかるころに自分が出るという形を採るので、相手の所在は分からないのであり、丙川二郎の場合も電話をかけて話をしたことは間違いないが、どこへかけたかは分からないという供述をした旨証言しており(〈証拠略〉)、その証言の内容は合理的であって、十分に信用し得るところ、P2の右証言を踏まえれば、①、②の各点は、丙川二郎と電話で話してコスモス株の譲渡を持ちかけたことを認める被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述の信用性を疑うべき事情ということはできない。
加えて、R1は、丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方として選定したのはリクルートコスモスの幹部三名のうちの誰かで、被告人ではなかった旨の供述をしている元年四月四日の検察官の取調べにおいても、「私がB1さんに電話をかけると、彼はすでに次郎先生に五〇〇〇株譲渡する話について心得ていたようであり、私が、『すでに判っていると思いますが、丙川先生の方に一株三〇〇〇円で五〇〇〇株のリクルート株をお譲りすることになったのでその手続をとりたいんですが』などと言ったところ『判りました』などと言ってすぐに了解してくれました」(4丁)と供述しており(乙書1六〇〔甲書1一〇〇二と同じ調書の別の部分〕)、指示を受けてB1に電話をした際、同人がコスモス株の譲受けの件に関し既に了解していた様子であったことについては、供述に変遷がある選定者に関する供述と異なり、捜査段階において一貫した供述をしており、このことも、丙川二郎との電話に関する被告人の供述の信用性を補強する事情ということができる。
(四) リクルートコスモス側が丙川二郎を選定した可能性について
(1) 被告人は、リクルートコスモスの代表取締役社長のR3、同専務取締役のR20及び常務取締役のR21の三名にコスモス株の譲渡の相手方を選定するよう指示した事実があるところ(第一章第二の二1(二))、弁護人は、丙川二郎は、マンション建築を巡る紛争が多発する東京都選出の国会議員であるから、リクルートコスモスが将来的に近隣問題で世話になりたいと考える政治家の一人であり、かつ、社長のR3は、リクルート情報出版の専務取締役であった当時、五九年七月一八日の料亭「艮」における接待に同席し(本節第二の五2(一))、b4会やb2会の会員になっていて、丙川二郎と交際があり、R28社長室長もB1と食事をするなどしていたから、リクルートコスモスが丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定する合理的な理由があり、R3、R20及びR21のうちの誰かが丙川二郎を選定した可能性がある旨主張する。
(2) しかし、R3は、被告人から指示を受けて新聞社の副社長と広告会社の代表取締役の計二名をコスモス株の譲渡の相手方として被告人に推薦したのみである旨証言しており(〈証拠略〉)、R3が丙川二郎の選定に関与したことを窺わせる証拠はなく、R20が右選定に関与したことを窺わせる証拠もない(R21については後述する。)。
弁護人が主張するR3と丙川二郎との関わりは、リクルートが丙川二郎に対する本節第二、第三、第四の各請託を反復する過程で両者の関係が深まる中、R3がリクルートの取締役や関連会社であるリクルート情報出版の専務取締役としての立場で関わりを持ったにすぎないものと考えられ、リクルートコスモスの事業に関連した関わりではなかったから、同社の幹部が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定する動機にはならない些末な事柄である。また、リクルートコスモスがその事業に関連して丙川二郎に何らかの依頼をしたなどという具体的な関わり合いは、特に見受けられないし(〈証拠略〉)、マンションの建設を巡る紛争が生じる可能性のある大都市地域から選出された国会議員は数多くいるのであるから、丙川二郎が東京都選出の国会議員であるという事情は、数多い議員の中から丙川二郎を選定する合理的な理由にはならない。
(3) 右の点に関し、R1は、右1(三)(2)のとおり、捜査段階の一時期に、R3かR20かR21の誰かから丙川二郎側に対するコスモス株の譲渡手続を指示された旨供述し、右1(四)のとおり、公判段階においては、R21から右指示を受けた旨供述するが、①R1は、B1とは度々一緒に食事をするなど親しい関係にあり(〈証拠略〉)、コスモス株の譲渡手続もB1との間で執ったのであるから、三者による選定の機会とは別に、B1名義による譲渡を被告人以外の者の指示を受けて実行したというのであれば、そのことは印象深く、記憶に残りやすい事柄であるから、指示を受けた相手がR21であることを公判段階においてようやく思い出したというのは、不自然であること、②右(一)のとおり信用性が高いR2の捜査段階における供述に反すること、③右(2)で検討したとおり、リクルートコスモスの幹部が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定するということ自体に合理性がないことからすると、R1の公判段階における右1(四)の供述は信用することができない。
なお、B1は、公判段階において、六二年にR1と会った際、R1から、B1名義で譲渡したコスモス株は「R3さん」が紹介なり推薦なりしたという趣旨の話をされた旨供述し(〈証拠略〉)、R1も、公判段階において、R21からの話はリクルートコスモスの社長であるR3からの話であろうと直感的に思ったので、譲渡手続の際、B1にその旨話しており、「R3さん」という表現をした可能性もある旨供述するが(〈証拠略〉)、右②、③の事情に加えて、④両者の供述は、その話が出た時期が相違すること、⑤B1は、R3とほとんど面識がなく、「R3さん」と言われても見当がつかない関係であったのである(〈証拠略〉)から、R1がB1に「R3さん」という表現でR3のことを話すというのも不自然であること、⑥R1がR21から指示を受けてR3からの話であろうと直感的に思うということ自体、合理性に乏しく、ましてや、その直感の真偽を確かめることなく譲渡手続の相手方に話すというのも合理性に乏しいから、この点に関するB1及びR1の公判段階における右各供述も信用することができない。
(4) 右の点に関連し、R21は、公判段階において、次のとおり、R1の公判段階における右1(四)の供述を裏付けるかのような供述をしている(〈証拠略〉)。
① R18かR29かR20の中の誰かから、コスモス株の譲渡の相手方を一人当たり五〇〇〇株として一〇名選定するように指示があり、八名選定した後、五〇〇〇株について、多分リクルートコスモスの社長室の誰かから「一名追加してくれないか。」と枠をくれないかというニュアンスで言われたと思う。そこで、言われた一名を追加し、選定済みの一人に五〇〇〇株を追加して選定作業を終えた記憶である。誰が追加されたかは覚えていないが、丙川二郎でないとは断言できない。
② 株の件で被告人と直接やり取りしたという記憶はない。
③ R1に丙川二郎側との譲渡手続を執るように連絡した記憶はないが、R1が連絡を受けたと述べているのなら、そうかもしれない。
(5) しかし、R21の右(4)の供述は、被告人からR21に対しコスモス株の譲渡の相手方を選定するように直接指示した旨の被告人の公判段階における供述(〈証拠略〉)に反する上、リクルートコスモスの社長室の者がR21から譲渡するコスモス株の枠を譲ってもらって丙川二郎を選定したのであれば、同社長室の者が自ら手続を執るか、R1に手続を依頼するのが自然であって、R21からR1に手続を依頼するというのは不自然である。しかも、R21は、捜査段階においては、自己が選定に関与した相手方は八名であり、丙川二郎は含まれていなかった旨明言しており(元年四月七日付け検面調書・甲書1九八〇)、公判段階においても、右のとおり追加した一名が誰かは覚えていない旨供述するが、他の者に選定の枠を譲ったというにとどまらず、丙川二郎の追加を依頼された上、B1とR1との関係を知っているなどの事情があって、R1に譲渡手続を依頼したという事実が本当にあったのであれば、そのような事実はR21の記憶に残りやすい事柄のはずであり、R21が、捜査及び公判段階を通じて、他の八名の譲渡の相手方のことは思い出しながら、丙川二郎関係だけは思い出せないというのは不合理である。
したがって、R21の右(4)の供述はR1の公判段階における右1(四)の供述を裏付けるものとはいえず、右R1の供述は、やはり信用することができない。
(五) 被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定する合理性について
(1) 弁護人は、①被告人は、丙川二郎とは顔を合わせて挨拶したことがある程度で、その関係が希薄であったから、丙川二郎がコスモス株の譲渡の相手方として被告人の念頭に浮かぶはずがないこと、②被告人によるコスモス株の譲渡の相手方の選定基準は、「親しく付き合いがあり、社会的に活躍されていて、それなりの地位にある人」であり、政治家については、「現に日本の政治を支え、将来日本の政治を支えていく方」という観点で、自民党の派閥の長や、次又はその次の世代の派閥の長と目されていた政治家や野党の委員長を選定したのであり、丙川二郎は被告人との親しさの点からも、政治家としての立場という点からも、被告人の選定基準に該当しないこと、③被告人と衆議院議員のH6とは東京大学で同期生であり、R8とH6とも高校の同級生で親友の関係にあって、被告人は、H6の後援会の中核的なメンバーとして、選挙の応援や政治献金をするなどの支援をしていたのであるから、H6と同じ東京都第三区選出の衆議院議員で、H6と当落を争う競争関係にあった丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定するはずがないことからして、被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定するというのは不合理であり、その点に関するR2、R1及び被告人の捜査段階における右1(一)、(三)、(五)の各供述は信用し得ない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
(2) しかし、これまでに認定した諸事実、特に、
① 被告人らリクルートの幹部は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の広告料収入が減少し、計画的な発行・配本業務に支障が生じて、同事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたこと(本章第一節第二の二1)、
② リクルートでは、判示第二の二①、②、③のとおり、五九年五月から六〇年一一月にかけて、被告人を中心とする取締役会における決定に基づき、丙川二郎に対し、衆議院文教委員会や同院予算委員会で国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨繰り返し請託し、丙川二郎がこれを了承して、数度にわたり、リクルートの請託の趣旨に沿った質疑をしたこと(本節第二、第三、第四)、
③ 被告人は、丙川二郎に対し、右各請託に係る報酬の趣旨で、コスモスライフからb1社へ送金する方法で、六〇年一二月に二〇〇万円、六一年五月に三〇〇万円という多額の金を供与したこと(本節第五)
からすれば、コスモス株の譲渡の相手方を選定するに際して丙川二郎が被告人の念頭に浮かぶことは何ら不自然ではなく、丙川二郎が被告人の選定した他の政治家ほど大物ではないにしても、丙川二郎に感謝の気持ちを示し、後に同様の依頼をする必要が生じる場合に備えるために、譲渡の相手方に選定するということは、合理的な行動である。
また、H6との関係についても、右①ないし③の事情に加えて、当時の東京都第三区は定数四の中選挙区であったこと(甲書1二二〇)をも考慮すれば、被告人が親しい政治家であるH6を応援する一方で、リクルートにとって利益となる丙川二郎にコスモス株の値上がり益を得させるということは、特段不合理ではない。
3 小括(コスモス株の譲渡の経緯及び被告人の関与)
(一) 以上の考察を総合すると、R2の捜査段階における右1(一)(1)、(2)の供述のほか、R1の捜査段階における供述のうち、R2の右供述と符合する右1(三)(1)の供述は信用することができ、右1(三)(3)の供述も、回りくどく、曖昧な供述であるという難点はあるが、三者による選定の機会に被告人が丙川二郎を選定した可能性を認め、被告人の指示を受けて譲渡手続を執り、B1に電話した際に同人が丙川二郎側にコスモス株五〇〇〇株を譲渡する話について既に心得ていた旨供述する範囲では、十分に信用することができる。また、被告人の捜査段階における右1(五)(2)の供述のうち、他の者からの推薦を受けたとか、三者による選定の機会とは別の機会に選定したと述べる部分は信用し難いのに対し、被告人が丙川二郎をコスモス株の譲渡の相手方に選定し、電話で丙川二郎にコスモス株の譲渡を持ちかけたことを認める部分は信用することができる。
(二) したがって、被告人は、六一年九月上旬の三者による選定の機会にコスモス株の譲渡の相手方の一人として丙川二郎を選定し、同月中旬ころ、リクルート本社から丙川二郎本人に対する電話で、店頭登録前のコスモス株の譲渡を持ちかけて、その了承を得た上、R1に対し、丙川二郎にコスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲渡する手続を執るように指示したこと、その指示を受けたR1が、本節第六の一1、二1(一)、(二)のとおり、B1との間で、コスモス株の譲渡手続を執ったこと、また、その際、被告人及びR1は真の譲受人を丙川二郎とする意思であったことが認められる。
4 コスモス株の譲渡の賄賂性
(一)  以上認定した諸事実、特に、
①  本件送金の賄賂性を検討した項目(本節第五の三4(一))の①及び②の各点、
②  被告人は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として、丙川二郎に対し、コスモスライフからb1社に対する送金の方法により、六〇年一二月に二〇〇万円、六一年五月に三〇〇万円をそれぞれ供与したこと(本節第五)、
③  コスモス株の譲渡は、六一年五月の本件送金の約四か月後で、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が質疑をした時期からでも、一年を経過していない時期になされたこと、
④  被告人が社外の者に対するコスモス株の譲渡を企図した動機とコスモス株の価格について被告人が認識した内容(前節第五の四1④)、
⑤  被告人とH6との関係(本節第五の三4(一)④)から、被告人が純粋に丙川二郎を政治的に応援するためにコスモス株を譲渡するというのは不合理と考えられること
を総合考慮すれば、B1名義でなされた丙川二郎に対するコスモス株の譲渡は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬という賄賂の趣旨でなされたものと推認することができる。
(二)  しかも、被告人は、本節第六の三1(五)(2)のとおり、捜査段階において、「役員の誰か〔中略〕が、丙川氏を仕事上のつながりなどで知っており、お世話になっているということもあって丙川氏に株を持ってもらおうと考えて私に推薦をしてきましたので、私も後に申し上げるように、丙川代議士には、会社として色々な関わりあいがありましたので、〔中略〕コスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲渡し、喜んでいただこうと考え、その株譲渡を行なうことに決めたのです。」などと述べて、曖昧ながらも、リクルートが丙川二郎に対し国会における質疑を陳情したこととコスモス株の譲渡との間に関わりがあった事実を認める供述をしているところ(乙書1八)、右供述は任意性に疑いがない上(本節第六の三2(二))、その内容も、他の役員からの推薦が契機であったとする部分は別として、国会における質疑を依頼したこととコスモス株の譲渡との間に関わりがあった事実を認める点は、右(一)の諸事情に照らすと、合理的であるから、十分に信用することができる。
(三)  したがって、被告人は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として丙川二郎に譲渡する趣旨で、コスモス株を譲渡したものと認められる。
四 コスモス株の譲受けについての丙川二郎の関与と認識
1 六一年九月一三日のゴルフの際のR2と丙川二郎との会話
(一) R2及び丙川二郎の各供述
(1) R2は、捜査段階(甲書1七一一)において、「このゴルフ〔本節第六の二2のゴルフ〕接待は、丙川先生側からR1君の方に、その数日前に急にゴルフをやるので来ないかと連絡が入ったものでした。そのゴルフのプレー中ではなかったかと思いますが、ちょうど、コスモス株の譲渡先に丙川先生がリストアップされた直後のことでもありましたので、私は丙川次郎先生にこのコスモス株の譲渡の話しをしたように思います。その時は、何しろゴルフの時ですから詳しい話などした記憶はありません。先生には、『リクルートコスモス株の件で先生にお願いすることになると思いますので、近々、R1がお伺いすると思いますから、よろしくお願いします。』という程度の簡単な話しをしたにとどめたと思います。〔中略〕先生がどのような返事をしたかは、よくは思い出されませんが、『ああわかりました。』という程度の簡単なものだったと思います。」と供述している。
(2) これに対し、丙川二郎は、公判段階において、右ゴルフの際にR2からコスモス株の譲渡に関する話を聞かなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) 考察
(1) 本節第六の三3で認定したとおり、被告人が六一年九月上旬にR2とR1を同席させた上、コスモス株の譲渡の相手方の一人として丙川二郎を選定し、本節第六の二2のとおり、三者による選定の機会からさほど日数が経過していない同月一三日、右選定に関与した社長室長のR2がリクルートの費用負担で丙川二郎らと一緒にゴルフをしたことからすれば、コースを回っている途中や懇談時の話題の一つとして、R2から丙川二郎に対し、コスモス株を譲り受けていただきたいのでよろしくお願いしたい旨の話がなされることは、自然である。
(2) R2は、公判段階においては、捜査段階における右(一)(1)の供述は、具体的な記憶に基づくものではなく、六一年九月上旬の三者による選定の機会に被告人が丙川二郎関係の名前を出したことを前提として、そうだとすると、その直後にゴルフをした際、丙川二郎に対しコスモス株の譲渡の話をしたことは否定できないので、その可能性を認める供述をしたものであり、証言の段階でも、具体的な記憶はなく、右趣旨の話をしたと断定はできないが、そのような話をしなかったということではなく、話した可能性はあるし、その場合には、捜査段階において供述した内容になると思う旨供述するところ(〈証拠略〉)、右供述は、捜査段階における右(一)(1)の供述内容を否定するものではなく、むしろ、三者による選定の機会に被告人が丙川二郎関係の名前を挙げていれば、捜査段階において供述した内容の話をする可能性が高いことを再確認するものであると評価できるところ、三者による選定の機会に、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の一人として丙川二郎を選定したことは、本節第六の三3で認定したとおり、事実と認められるから、R2の公判段階における右供述は、捜査段階における右(一)(1)の供述の信用性に疑いを入れるものではない。
(3) そこで、右(1)の点に、R2の捜査段階における右(一)(1)の供述を総合すると、R2は、右ゴルフの機会に、丙川二郎に対し、コスモス株を譲り受けていただきたいのでよろしくお願いしたい旨の話をしたものと認められ、これに反する丙川二郎の公判段階における右(一)(2)の供述は信用することができない。
(三) 補足
R1は、公判段階において、三者による選定の機会は、六一年九月一三日から一五日にかけて関連会社の株式会社リクルートフロムエーが主催したウインドサーフィン大会に自分が参加した後のことであったから、同月一六、一七日ころであり、同月一三日のゴルフの機会にR2が丙川二郎に対しコスモス株に関連した話をすることはあり得ない旨供述するところ(〈証拠略〉)、R1が右大会に参加したこと自体は事実と認められる(〈証拠略〉)。
しかし、
① R1は、公判段階において、三日間大会に参加して脳天気に過ごした後に会社に来てみると、降って湧いたような仕事を与えられ、あと二週間しかないと思った記憶もあり、それからすごく忙しい思いをしたのをよく覚えている旨供述する(〈証拠略〉)ところ、R1は、捜査の初期の段階である六三年一一月一七日の検察官の取調べにおいて、六一年九月上旬ないし中旬に被告人に呼ばれ、コスモス株の譲渡の相手方として選定した者をメモし、被告人から、R2と二人で手分けしながら相手方を回って九月中に手続を執るように指示され、これは大変だと思った旨供述し(乙書1五五)、六三年一二月一七日の検察官の取調べにおいても、同趣旨の供述をしている(乙書1五八)のであり、そのように大変だと思った理由が指示を受けた日から九月末までの日数が少なかったことにあり、その記憶と右大会から帰った直後に指示を受けたこととが関連していたのであれば、捜査段階においてもそのことを思い出して、三者による選定の機会を九月中旬と特定して供述できたはずであること、
② 三者による選定の機会が六一年九月上旬であったことは、R2が捜査及び公判段階において一貫して供述するほか、被告人も、公判段階において、コスモス株の譲渡の相手方として社外の人を最初に選んだのは同年八月の末か九月の極めて早い時期であると供述し(〈証拠略〉)、また、一連のコスモス株の譲渡の関係書類を準備したR18も、公判段階において、R1から自分にコスモス株の譲渡の関係で連絡があったのは、同年八月末か九月初めが最初であった旨供述していること(〈証拠略〉)
に照らすと、R1の公判段階における右供述は信用することができず、このような供述が存在するからといって右(二)の認定を妨げるものでない。
2 コスモス株の売却益の使途
(一) コスモス株の売却代金が入金された後の関連預貯金口座間の金の移動等
(1) 本節第六の二1(五)のとおり、コスモス株五〇〇〇株の売却代金は、B1名義預金口座に入金され、その後、同口座からファーストファイナンスへ返済金が支払われた結果、一〇八七万七三三五円の売却益が同口座に残った。
(2) 六一年一一月七日、B1名義預金口座から協和銀行中目黒支店のB10名義の普通預金口座(以下「B10名義預金口座」という。)へ七〇〇万円が振替送金された(〈証拠略〉)。
(二) B10名義預金口座に関する丙川二郎の認識
(1) 丙川二郎は、公判段階において、B10名義預金口座については、その存在すら知らなかった旨供述している(甲書1一〇六一)。
(2) しかし、B10名義預金口座は、B1がb2会の事務員のB’10に指示して、五五年一二月、名義に同女の姓を用い、当時の同女の自宅住所と電話番号を使って、仮名で開設した口座であるところ、これは、丙川二郎が同年六月の衆議院議員総選挙で落選した後、株式会社ダイエー(以下「ダイエー」という。)の役員が丙川二郎自身に対し事務所を構えることを勧めるとともに、事務所費用を負担する旨申し出たことから、その資金供与を受けることとした丙川二郎がB1に対し同資金供与の受入れに関する手続をするように指示したことを受けて開設されたものであり、丙川二郎は、実際に、ダイエーから供与される金を家賃に充てることにして賃貸事務所を探し、同年一一月か一二月に目黒の丙川事務所を構え、これを自己の後援会であるb2会の事務所としていた(〈証拠略〉)。
(3) そして、B10名義預金口座には、「K5」名義で、五五年一二月中に二〇〇万円、五六年三月に二〇万円がそれぞれ振込入金されていたところ、これは、ダイエーから丙川二郎の後援会事務所の開設、運営資金として供与されたものであり、その後も、ダイエーからは、同月から元年二月まで、ほぼ毎月一回、各二〇万円が振込入金され、さらに、五八年三月及び六一年六月には、丙川二郎の後援者が経営する企業から、丙川二郎を政治的に応援するための資金としてB1に交付された小切手各一〇〇万円が入金されたほか、b4会の会費収入が入金されたことや、一部のb2会の会員から会費の振込入金を受けたこともあった(〈証拠略〉)。
(4) 右(2)、(3)の各事情からすると、B10名義預金口座は、株式会社ダイエーから事務所運営資金として受ける援助金を含め、丙川二郎の政治活動資金を取り扱うための口座として開設され、利用されていたことが明らかであり、その経緯に照らすと、丙川二郎は同口座の存在と用途を認識していたものと推認できる。
丙川二郎は、ダイエーから供与されていた月々二〇万円はb2会に入金されていると思っていた旨供述するが(〈証拠略〉)、b2会が五九年、六〇年及び六一年に政治資金規正法に基づいて東京都選挙管理委員会に提出した収支報告書中の寄附を記載すべき欄にはダイエーから供与された金の記載がなく、丙川二郎は、公明党に写しを提出する関係もあって、事前に同報告書に目を通していたのである(〈証拠略〉)から、ダイエーからの供与金が同報告書に記載されていないことを当然に認識していたはずであり、丙川二郎の右供述は到底信用することができない。なお、丙川二郎は、右収支報告書に目を通してはいたが、ダイエーからの供与金が記載されていたかどうかは「分からない。」と述べているところ(〈証拠略〉)、公明党では、その当時、企業から献金を受けることを禁止しており、丙川二郎自身、ダイエーからの金銭供与がその禁止に触れることを自覚していたのである(〈証拠略〉)から、当然にダイエーからの供与金の取扱いに留意するはずであり、「分からない。」という供述は、虚言というほかない。
また、丙川二郎は、五八年三月や六一年六月に企業から各一〇〇万円の資金供与を受けたことも知らず、B1から報告を受けた覚えもない旨供述する(甲書1一〇六一)が、右供与をした二社の代表者は、いずれも、b4会に出席し、b2会に加入するなどしていた丙川二郎の後援者であるところ(〈証拠略〉)、もし、B1が後援会の会費等の恒常的な供与とは別にまとまった金額の資金供与を受けながら、そのことを丙川二郎に告げないでいれば、丙川二郎が後援者と会った際に礼を失し、後援者との関係を害するおそれも生じかねないから、そのような事態を避けるために、B1から丙川二郎に対し資金供与について報告されるのが当然であり、丙川二郎の右供述も信用し難い。
(5) したがって、丙川二郎は、B10名義預金口座が存在し、同口座が丙川二郎の政治活動資金を取り扱うために利用されていることを認識していたものと認められる。
(三) B10名義預金口座に入金された七〇〇万円の使途
(1) B10名義預金口座は、B1名義預金口座から七〇〇万円が振替により入金された結果、残高が七一四万円余りになり、その中から、六一年一一月一〇日、株式会社k6印刷(以下「k6印刷」という。)に二九三万円(振込手数料六〇〇円を含む。)、株式会社k7に五一万五〇〇〇円(振込手数料六〇〇円を含む。)の合計三四四万五〇〇〇円が振込送金された(甲書1七六五、七八一)。
(2) 右のうち、k6印刷に対する送金は、六一年七月の総選挙の前に丙川二郎の選挙運動のために発行された同人著の「△△」(文庫版)及び「××」と題する書籍並びに「b1」と題する雑誌の印刷・製本代の支払としてなされたものであり、株式会社k7に対する支払は、右各書籍のカバーデザイン料の支払としてなされたものである。
また、それらを発行することや各内容は、丙川二郎自身が決め、k6印刷との交渉も丙川二郎が直接担当しており、その支払に関しても、k6印刷に支払うべき印刷・製本代の請求は、六一年五月二〇日付けと六月二〇日付けの各請求書をもって、b2会出版部宛に出されたところ、その合計四九三万円のうち、右二九三万円を除く二〇〇万円は、丙川二郎自身が同年一〇月二日に三菱銀行玉川支店の自己名義の普通預金口座から振り替えた二〇〇万円を引当てとして発行を受けた同銀行の自己宛小切手により支払っていた。
(〈証拠略〉)
(3) 右(2)の事情からすると、丙川二郎は、右小切手による二〇〇万円の支払をした六一年一〇月二日当時には、k6印刷からの請求額の全額を知っていたものと推認される。丙川二郎自身、公判段階において、正確な請求金額を知っていたことは否定するものの、自分の経験からして六〇〇万円くらいかかるだろうと見積りを立てていたので、その三分の一くらいということで二〇〇万円を支払った旨供述し(〈証拠略〉)、右二〇〇万円が代金の一部支払にすぎず、残代金債務の存在を認識していたこと自体は認めている。
(4) 丙川二郎は、右二〇〇万円の支払をした当時は、b2会では六一年の総選挙の際に多額の支出をしたことから、同年中にb2会で残額を支払うことは難しいと考えていた(〈証拠略〉)。
(四) 丙川二郎の認識
右(一)ないし(三)の各事実を総合すると、丙川二郎は、B1名義によるコスモス株の取引によって多額の利益が出たことを知り、B1と協議した上、その一部をk6印刷に対する印刷・製本代の残金や株式会社k7に対するカバーデザイン料の支払に充てることとし、B1がそのように実行したものと推認される。
丙川二郎は、公判段階において、右両社に対する支払には関与していなかった旨供述し(〈証拠略〉)、B1も、公判段階において、右支払については丙川二郎と事前に相談しておらず、事後に払った旨は話したが、細かいことは説明しなかった旨の供述をするが(〈証拠略〉)、右(三)(2)ないし(4)の各事情に照らすと、いずれも不合理であり、信用することができない。
(五) 弁護人の指摘する点について
(1) 弁護人は、B1は、後にb2会から右書籍類の印刷・製本代金等の返済を受け、その分を含めてコスモス株五〇〇〇株の売却益のすべてを個人的に費消したのであり、そのことは、B1が丙川二郎にコスモス株の取引を知らせていなかったことを示す旨主張する。
(2) そこで、関係する預貯金口座の入出金の状況を見ると、まず、コスモス株の売却代金が払い込まれたB1名義預金口座中からは、六一年一一月一〇日に三四〇万円と四万円が、同年一二月一七日に五〇万円がそれぞれ出金された(甲書1八四〇)。
次に、B10名義預金口座からは、右(三)(1)のほかにも、六一年一一月八日に五〇万円ずつ四口合計二〇〇万円が、同月一〇日に五〇万円が、同月一二日に五〇万円及び一二万円が、同月一四日に一〇万円が、同月二二日に一三万円が、同月二七日に一〇万円が、同年一二月五日に三〇万円がそれぞれ出金され(甲書1七六五)、また、右各書籍の印刷代金等の支払に充てられた三四四万五〇〇〇円についても、b2会の金銭出納帳の記載上は、B1からの借入金として計上され、その後、同会からB1に対し、同月九日に二〇〇万円、同月一五日に九四万五〇〇〇円、六二年三月三〇日に五〇万円が各返済された旨の記載がある(弁書1四八、四九)。
(3) 他方で、B1は、大和銀行衆議院支店のB1名義の預金口座に、六一年一一月一〇日に四〇万円、同月一二日に五万円をそれぞれ入金し(弁書1三九)、B1名義貯金口座にも、同日に四五万円、同月一三日に三五万円、同年一二月六日に八万円をそれぞれ入金し(弁書1四一)、六二年三月三〇日には、B1名義預金口座に五〇万円を入金した(〈証拠略〉)。
また、B1は、六一年一二月二九日、主として自己の住宅ローンの返済用に使用している自己名義の富士銀行の普通預金口座に五〇〇万円を預金し、それを主な原資として、六二年一月二六日、住宅ローンのうち、五〇九万円余を繰上返済しており(〈証拠略〉)、同年五月には、自己名義で八〇万円、長男の名義で二二〇万円の中期国債ファンドを購入した(〈証拠略〉)。
(4) 右各入出金に関し、B1は、公判段階において、①六一年一一月一〇日にB1名義預金口座から出金した三四〇万円は、うち三〇〇万円で長女名義の定額貯金をし、残り四〇万円は大和銀行衆議院支店のB1名義の預金口座に入金しており、右三〇〇万円分の中期国債ファンドは、この定額貯金を解約して得た金で購入したものである旨、②同年一二月一七日にB1名義預金口座から出金した五〇万円は、同日にB1名義貯金口座から出金した五〇万円と合わせて一〇〇万円の定額貯金としたと思う旨、③同年一一月八日にB10名義預金口座から出金した二〇〇万円は、後に住宅ローンの繰上返済に充てた旨、④同月一〇日に同口座から出金した五〇万円はもうけさせてもらった謝礼として海外旅行のせんべつ名目でR1に交付した旨、⑤同月一二日に同口座から出金した五〇万円は、うち五万円を大和銀行衆議院支店のB1名義の預金口座に入金し、残りの四五万円をB1名義貯金口座に入金した旨、⑥b2会からは、金銭出納帳にあるとおりに全額返済を受けており、うち同年一二月九日に返済を受けた二〇〇万円と同月一五日に返済を受けた九四万五〇〇〇円は、右③と合わせた上、数万円を加えて五〇〇万円を富士銀行の普通預金口座に入金して住宅ローンの繰上返済に充てた旨、⑦b2会から六二年三月三〇日に返済を受けた五〇万円は、B1名義預金口座に入金し、後に定額貯金にしたと思う旨、⑧その他の小口の出金もすべて自分が若い人達との飲食に個人的に使って、結局、コスモス株の売却益のすべてを自己の用途に費消するか、資産形成に充てた旨供述している(〈証拠略〉)。
(5) しかし、そもそも、B1が丙川二郎に話さずにコスモス株の取引をし、その売却益を自己の用途に使用するのであれば、わざわざB1名義預金口座から丙川二郎の政治活動資金を取り扱う口座であるB10名義預金口座に、書籍の印刷・製本代金等の支払に必要な額を大幅に上回る金額をいったん振り替えた上、右③ないし⑤の各出金をする必要はなく、B1名義預金口座から直接払い戻した上で自己名義の他の預貯金口座に入金するなり、定額貯金とするなり、住宅ローンの返済に充てるなりすれば足りたはずである。書籍の印刷・製本代金等についても、b2会にB1個人の金を貸し付け、後に返済を受けるのであれば、B1名義預金口座から直接出金して貸し付ければ足りたはずである。そうすると、右(4)のB1の供述のうち、B10名義預金口座に関する部分は合理性に乏しい。
また、B1の右供述には、各預貯金口座の動きに符合する部分も一部あるものの、①の三〇〇万円、②の一〇〇万円や⑦の五〇万円を定額貯金としたという点、④のR1に対する謝礼金の話及び⑧の個人的な飲食に使用した話は裏付けを欠いており、③や⑥の金を住宅ローンの返済に充てたという点も、特に③の出金と富士銀行の普通預金口座への五〇〇万円の入金との間隔が開いていることからすると、その供述の信用性は疑わしい。
加えて、B1には、公明党の職員としての給与収入に加えてb1社の取締役としての収入があり、さらに、頼まれ事を処理した際の礼金収入も多々あった(〈証拠略〉)のであるから、それらが右の住宅ローン返済金、自己名義の預貯金口座への入金や中期国債ファンド購入代の全部又は一部の原資になっている可能性も高く、他方で、B1は、丙川二郎の私設秘書として活動していたのであるから、B1名義預金口座やB10名義預金口座から出金された金の一部が右秘書活動の費用に充てられた可能性も高い。
以上からすれば、コスモス株の売却益のすべてを自己の用途に費消するか、資産形成に充てた旨のB1の供述は、到底信用することができない。
なお、B1がコスモス株の売却益の一部を自己の用途に費消するか、資産形成に充てた事実があるとしても、丙川二郎は、右(二)のとおり、B10名義預金口座の存在と同口座が丙川二郎の政治活動資金を取り扱うために利用されていることを認識していたのであるから、B1が同口座に振り替えた七〇〇万円を丙川二郎に秘して費消し得るとは考えられず、そのことは、むしろ、丙川二郎がB1に対し、自己の私設秘書として活動させ、公明党に知られると不都合な企業からの政治資金も取り扱わせていたことから、それらの報酬として、コスモス株の売却益中の相当額をB1のものとすることを許したことを窺わせる。
したがって、B1がコスモス株の売却益中の一部を自己の用途に費消するか、資産形成に充てた事実があるとしても、そのことは、右(四)の認定を左右するものではない。
3 まとめ
(一)  以上の検討を踏まえて、丙川二郎の認識について判断するに、
①  丙川二郎は、判示第二の二①、②、③のとおり、五九年五月から六〇年一一月にかけて、リクルートの者から、国会の委員会で国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨繰り返し請託を受け、これを了承して、数度にわたり、衆議院文教委員会及び衆議院予算委員会で、リクルートの請託の趣旨に沿った質疑をしたこと(本節第二、第三、第四)、
②  丙川二郎は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として供与されるものであることを知りながら、六〇年一二月にコスモスライフからb1社に対する送金を受ける方法でリクルートから二〇〇万円の供与を受け、さらに、六一年五月にも同様の方法で三〇〇万円の供与を受けたこと(本節第五)、
③  コスモス株の譲渡は、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が質疑をした時期から一年も経過していない時期になされたこと、
④  丙川二郎は、六一年九月中旬ころ、被告人から電話で、店頭登録前のコスモス株の譲渡を持ちかけられたこと(本節第六の三3)、
⑤  丙川二郎は、六一年九月一三日にR2と一緒にゴルフをした際にも、R2から、コスモス株を譲り受けていただきたいのでよろしくお願いしたい旨の話をされたこと(本節第六の四1(二))、
⑥  丙川二郎は、B1名義によるコスモス株の取引による利益の一部を自身の選挙運動用の書籍等の印刷・製本代の残金やカバーデザイン料の支払に充てたこと(本節第六の四2(四))、
⑦  丙川二郎は、五九年七月二六日、リクルートから金額一〇〇万円の小切手の供与を受け、五九年夏や六〇年秋には、何回もリクルートから接待やホテル代の支払という利益の供与を受けたほか(本節第二の五2ないし4、第四の五2)、右②のとおり、多額の金銭供与を受け、六一年九月当時もリクルートの費用負担でゴルフをした(本節第六の二2)のであり、丙川二郎には、国会における議員活動に関連して請託を受けた相手企業から金銭等の利益を供与されることにつき、心理的な抵抗がなかったものと認められること、
⑧  B1は、丙川二郎の私設秘書として活動していた者であって(本節第一の一2)、B1個人として、店頭登録時の価格が購入価格を上回ることが確実と見込まれ、かつ入手が困難な株式であるコスモス株五〇〇〇株の譲渡を被告人から受けるべき合理的な理由は見当たらず、丙川二郎としても、右①の事情以外に、被告人からコスモス株の譲渡を受けるべき合理的な理由は見当たらないこと
を総合考慮すれば、B1は、丙川二郎の了承を得た上、六〇年一〇月中旬ころ、R1との間で、コスモス株の譲渡手続をして、B1名義で丙川二郎がコスモス株を譲り受ける契約をしたものであって、丙川二郎がその譲受人であると認められるとともに、丙川二郎は、その譲渡に判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬を供与する趣旨が含まれていたと認識していたものと推認することができる。
五 R1との共謀
1 丙川二郎に対する請託に関するR1の認識
R1が、判示第二の二①、②、③の各請託の時期ころ、リクルートの者が文教委員会等に所属する衆議院議員である丙川二郎に対し、衆議院の文教委員会等で国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨請託したと認識していたことは本節第五の五1(四)のとおりである。
また、右各請託から六一年九月のB1名義によるコスモス株の譲渡までには、さほどの年月が経過していたわけではなく、しかも、右各請託に係る報酬として同年五月の本件送金をしてからコスモス株を譲渡するまでには、わずか約四か月しか経過していなかったのであるから、コスモス株の譲渡の時期においても、当然に右各請託に関する記憶を保持していたものと認められる。
2 コスモス株の譲渡の趣旨に関するR1の認識とR1と被告人との通謀
(一) R1は、公判段階において、丙川二郎に対するコスモス株の譲渡は、R21からの指示によるものであったことから、その譲渡の趣旨はリクルートコスモスが近隣対策に関することで丙川二郎に相談する場合に備えることにあると思った旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) しかし、R1は、六〇年一二月、被告人の了解を得た上、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として、丙川二郎に供与する趣旨で、コスモスライフからb1社に対する二〇〇万円の送金を実行し、六一年五月にも、被告人と共謀の上、同様の趣旨で、本件送金をし(本節第五の五2)、同年九月当時も、リクルートの者が丙川二郎に対し職務に関する請託をしたことを記憶した上(右1)、被告人の指示を受けて、真の譲受人を丙川二郎とする意思で、B1を譲受名義人とするコスモス株五〇〇〇株の譲渡手続を執ったのである(本節第六の三3(二))から、R1が右コスモス株が右各請託に係る報酬として丙川二郎に譲渡されるものであると認識していたことは明らかである。
3 結論
したがって、被告人は、R1と共謀の上、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として、コスモス株五〇〇〇株をB1を譲受名義人として丙川二郎に譲渡し、同人に取得させて、賄賂を供与したものである。
第三章  判示第三の事実(丁谷三郎に対する贈賄事実)について
第一 問題の所在
一 丁谷三郎に対するコスモス株の譲渡の事実等
1 六一年九月下旬ないし一〇月下旬の間に(時期については後に更に検討する。)、R1が東京都千代田区霞が関〈番地略〉所在の労働省庁舎内の労働事務次官室で当時労働事務次官であった丁谷三郎(本章中に限り、以下「丁谷」という。)と面談し、R1と丁谷は、丁谷に対し一株三〇〇〇円でコスモス株三〇〇〇株を同年九月三〇日付けで売買する旨の株式売買約定書二組(譲渡人名義をm3社とする二〇〇〇株分の約定書と譲渡人名義をm2社とする一〇〇〇株分の約定書)及び丁谷がファーストファイナンスからコスモス株三〇〇〇株を担保に九〇〇万円を年利七パーセントで借り入れる内容の金銭消費貸借契約書等の関係書類を作成した。
ファーストファイナンスは、六一年九月三〇日、m3社の当座預金口座に右二〇〇〇株分の六〇〇万円を含む一億八〇〇〇万円、m2社の普通預金口座に右一〇〇〇株分の三〇〇万円を含む二億四〇〇〇万円をそれぞれ振込送金した(R1と丁谷が関係書類を作成した時期がこれらの振込送金の前であれば、これらの振込送金は、ファーストファイナンスが丁谷の振込指定に基づき送金したものであって、丁谷は六一年九月三〇日にコスモス株三〇〇〇株の代金を支払ったことになり、右関係書類作成時期が振込送金の後であれば、丁谷は、右関係書類の作成により、ファーストファイナンスがコスモス株代金として同日に支払済みであった代金額を契約日付を遡及させて借り入れることに合意し、その合意によって、コスモス株三〇〇〇株の代金支払の効果を生じたことになる。)。
(〈証拠略〉)
2 本件一連のコスモス株の譲渡人(譲渡の主体)が被告人であると認められることは、第一章第二の二2で判断したとおりであり、右1の丁谷に対するコスモス株の譲渡についても同様である。
3 丁谷は、六一年一一月初旬ころ、新聞の株価欄によりコスモス株の株価が五四二〇円になっていることを知ってコスモス株三〇〇〇株を売却することとし、丁谷の依頼を受けた労働事務次官付のC7が証券会社に売却手続を委託し、これらは同月五日に一株五四二〇円で売却された。
C7は、六一年一一月五日ころ、担保として預けていた株券をファーストファイナンスから受領した上、同月一〇日に右売却に伴う株券の受渡しを終えた。同日、丁谷の預金口座に売却代金から委託手数料等を差し引いた額である一六〇二万八二六〇円が証券会社から入金され、丁谷は、ファーストファイナンスに九〇七万〇七六七円を送金して右コスモス株を購入した際の借入金九〇〇万円の元利金を完済し、差し引き約七〇〇万円の売却益を得た。
(〈証拠略〉)
二 争点
検察官は、被告人は、R1及びR7と共謀の上、リクルート等が労働省職安局長であった丁谷から就職情報誌の発行等に対する職安法による法規制の問題及び行政指導等に関し、種々好意的な取り計らいを受けたことの謝礼並びに労働事務次官である丁谷から就職情報誌の発行等に対する法規制の問題等に関し、今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨の下に、丁谷にコスモス株を譲渡した旨主張する。
これに対し、弁護人は、
① 丁谷が職安局長であった当時の労働省では、就職情報誌に対する法規制は施策として俎上に載せられておらず、丁谷の尽力によってその法規制が見送られたとか、丁谷が右問題についてリクルートに対し好意的な取り計らいをしたという事実はないし、リクルートや関連会社が丁谷から行政指導をしてもらった事実もないこと、
② 丁谷にコスモス株を譲渡した当時、労働省や労働事務次官である丁谷は就職情報誌を法的に規制することなど全く考えていなかったから、リクルート側が将来にわたってこれらの問題につき好意ある取り計らいを期待するような客観的状況になかったこと、
③ 被告人は丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定しておらず、その譲渡に関与していなかったこと、
④ 丁谷に対するコスモス株の譲渡は、右法規制問題や将来の期待とは無関係に、官民の一般的、儀礼的な付き合いの一環としてなされたものであること
からして、被告人は丁谷に対する贈賄の事実について無罪である旨主張する。
そこで、以下において、順次検討を加える。
第二 前提となる事実関係
一 リクルート及び関連会社の就職情報誌事業
1 リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業
リクルートは、五八年ないし六一年当時、新規学卒者向け就職情報誌事業(第二章第一節第二の一1)を営んでおり、その発行・配本する新規学卒者向け就職情報誌は、業界で圧倒的に高い市場占有率を有して、多額の収益を上げており、リクルートの基幹事業の地位を占めていた。
(〈証拠略〉)
2 リクルート情報出版とその事業
リクルート情報出版は、五二年一二月に設立された株式会社であり(当初の商号は株式会社就職情報センターであったが、五九年四月に商号が変更された。)、広告代理事業、出版事業等を目的とし、転職希望者向けの求人広告等を情報として掲載する「週刊就職情報」(一般向け)、「ベルーフ」(技術者向け)、「とらばーゆ」(女性向け)等の発行・販売等を行っていた。なお、同社は、六一年一〇月にリクルートに吸収合併され、その事業は、リクルートが承継した。
リクルート情報出版は、リクルートの関連会社であり、その代表取締役社長は設立以来右合併まで被告人であり、R3(本章中に限り、以下「R3」という。)が専務取締役であった。
(〈証拠略〉)
3 リクルートフロムエーとその事業
リクルートフロムエーは、五七年一〇月に設立された株式会社であり、広告代理事業、出版事業等を目的とし、アルバイトやパートタイム労働希望者向けの求人広告等を情報として掲載する「フロム・エー」の発行・販売等を行っていた。
リクルートフロムエーは、リクルートの関連会社であり、その設立以来、被告人が同社の代表取締役会長であり、R3が代表取締役社長であったが、六二年四月R5が代表取締役社長に就任し、被告人は、元年一月に取締役を辞任し、代表取締役会長を退任した。
(〈証拠略〉)
4 用語
以下において、転職希望者向けや、アルバイト・パートタイム労働希望者向けの求人広告等を情報として掲載する雑誌を「中途採用者等向け就職情報誌」といい、これと新規学卒者向け就職情報誌を併せて「就職情報誌」という。それらの発行・配本・販売等の事業を「就職情報誌事業」という。なお、同様の情報を掲載する雑誌以外の紙媒体を「就職情報紙」という。
二 丁谷の職務権限等
1 丁谷の経歴
丁谷は、二九年四月に労働省に入省して労働事務官になり、その後、労働省職安局業務指導課長、大臣官房会計課長、職安局失業対策部長、大臣官房長等を経て、五八年七月八日から六〇年六月二五日までの間、職安局長の職にあり、その後、労働省労政局長を経て、六一年六月一六日から六二年九月二九日に辞職するまでの間、労働事務次官の職にあった。
(〈証拠略〉)
2 丁谷の職安局長としての職務権限
丁谷は、職安局長の職にある当時、部下職員を指揮するなどして、職安局がつかさどる①職業の紹介及び指導その他労務需給の調整に関すること、②労働者供給事業の禁止及び労働者の募集に関すること、③職安法等の法律の施行に関することなど(職安局雇用政策課がつかさどる職安局の所掌に係る雇用に関する政策の企画に関すること並びに業務指導課がつかさどる職業紹介、労働者供給事業及び労働者の募集に関することを含む。)の事務を統括する権限を有していた。
(五九年六月三〇日までは、当時の国家行政組織法七条一項、二〇条一項、労働省設置法五条一項、一〇条、労働省組織令二八条一項、三〇条、三二条。同年七月一日以降は、当時の国家行政組織法七条一項、一九条一項、労働省組織令一条一項、八条、四四条一項、四六条、四八条)
3 丁谷の労働事務次官としての職務権限
丁谷は、労働事務次官の職にある当時、労働大臣を助け、省務を整理し、各部局の事務を監督する権限を有していたことから、①職業の紹介及び指導その他労務需給の調整に関すること、②労働者供給事業の禁止及び労働者の募集に関すること、③労働者派遣事業についての許可その他その監督に関すること(ただし、六一年七月一日以降)、④労働基準監督官の権限の行使その他工場事業場等における労働条件及び労働者の保護に関する監督に関すること、⑤女子労働者の福祉対策基本方針を定めることその他雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律の施行に関することなどの労働省の所掌事務全体を統括掌理していた。
(当時の国家行政組織法三条二項、一七条の二第二項、労働省設置法二条一項、四条、労働省組織令一条一項)
第三 コスモス株の譲渡前のリクルートと労働省との関係(丁谷との関係を含む。)
一 五八年ころまでの就職情報誌事業と労働省との関係
1 労働省の就職情報誌業界へ向けた対応
五〇年代において、五三年の労働省の雇用動向調査で、広告(就職情報誌のほか、新聞等の求人広告を含む。)による入職者数が公共職業安定所(以下「職安」という。)を通じた入職者数を上回るなど、労働市場において就職情報誌が果たす労働者募集の媒体としての役割は急速に増大していた。
労働省は、職業の紹介等の労務需給の調整に関することや労働者の募集に関することなどを所掌していたことから、職安局の幹部は、就職情報誌が誇大広告を排するなどの改善をして正確な求人条件の提示をし、その機能をより適切に発揮できるようにすることが必要であると認識していたものの、就職情報誌業界の実態把握は十分にしておらず、就職情報誌に対する法規制や大がかりな行政指導をすることはなかった。
五五年四月に職安局長の諮問機関である労働力需給システム研究会から提出された「今後の労働力需給システムのあり方についての提言」の中で、労働者派遣事業の制度化の提言とともに、「職業安定機関は、〔中略〕職業安定機関以外の労働力需給システムとの連携を密にし、〔中略〕求人広告、求人情報誌等によるものも含め、適正な条件の下に労働者の能力に見合った需給の結合を促進する必要がある。」という指摘がなされたことを受けて、その後、職安局内において、就職情報誌に関し、職安に対する届出義務を課す必要があるか否かや業界団体の設立による自主規制を促すことなどが検討課題とされたことがあったが、具体的な動きにはならなかった。
(〈証拠略〉)
2 労働省からリクルート等に対する行政指導
もっとも、労働省においても、職業の紹介等の労務需給の調整に関することや労働者の募集に関することなどを所掌する立場から、就職協定に関する環境整備の一環として、リクルート等の新規学卒者向け就職情報誌を発行する企業に対し配本時期を指導することなどはしており、リクルートに対しても、四七年ころ、職安局業務指導課(当時の課長は丁谷)から、リクルートブックの早期配本が就職協定の遵守を乱すという理由で配本時期に関する行政指導をしたり、フィードバック葉書の記載内容を指導するなどしたことがあり、リクルートでは、四八年ころ、労働省との対応窓口を事業部と定め、以後、事業部を中心に労働省からの情報収集等に当たった。
(〈証拠略〉)
二 労働省における就職情報誌の発行等に対する規制を巡る動き
1 五八年七月から一一月ころまでの検討状況
丁谷が五八年七月に職安局長に就任したのと同時期に、労働事務次官にC8(以下「C8次官」という。)が就任し、職安局長を補佐して局務の重要事項を整理、統括する立場である労働大臣官房審議官にC9(以下「C9審議官」又は「C9」という。)が就任した。また、その当時の職安局業務指導課長はC1(以下「C1業務指導課長」、「C1課長」又は「C1」という。)であった。
丁谷は、職安局長就任直後にC8次官と相談した際、職安局の最大の課題として、財政状態が悪化していた雇用保険制度の改正問題と長年の懸案である労働者派遣事業制度の創設の二点があり、かつ、労働者派遣事業制度の創設のためには職安法四四条の労働者供給事業の禁止規定の見直しが不可欠となるので、この際、社会、経済の変化を踏まえて、職安法全体の見直しに取り組むべきであるということで意見が一致し、そのころ、丁谷は、C9審議官ら職安局の幹部職員に対し、その作業を進めるように指示した。このうち、労働者派遣事業制度について定める法律(制定時の法律名は「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」であるが、制定の前後を問わず、以下「派遣業法」という。)の制定は雇用政策課が担当し、職安法の見直しについては業務指導課が担当したところ、丁谷、C9審議官、C1業務指導課長らは、本章第三の一1の経緯もあって、職安法の見直しの中には就職情報誌の取扱いの問題も含まれると認識していた。
業務指導課では、職安法改正に関する議論の中で、就職情報誌の法的な位置付けについて、倫理規定や罰則規定の創設、広告内容の事前審査、事業所への立入検査等を含めて検討した。また、職安局では、五八年夏から一一月ころにかけて、丁谷局長、C9審議官、雇用政策課の派遣業法担当者及び業務指導課の職安法改正問題担当者が局長室に集まって議論を重ねており、その中では、職安法改正に関する議論の一環として、就職情報誌の取扱いの問題も取り上げられた。その間の同年一〇月中旬ころには、リクルート情報出版発行の「とらばーゆ」に掲載されたツアーコンパニオン募集の求人広告が実際はいわゆる「愛人バンク」の募集広告であったという週刊誌の報道があり、それを見た丁谷がC1課長に対し、就職情報誌の発行に対する法規制の必要も考えられるので、課内で検討するようにと指示したこともあった。
そして、右検討作業の途中の五八年一〇月三一日の職安局内の関係課長及び課長補佐の会議で、労働者派遣事業制度化の基本的構想について職安局内の意思統一が図られたが、その中では、労働力需給システムの整備改善の一環として、「通勤圏外で行う募集については現行の規制を見直すこととし、文書募集についての媒体機関の在り方を検討する外、ニューメディアによる募集の在り方等を含め労働者募集に対する規制の在り方を見直す」ことが含まれていた。
(〈証拠略〉)
2 C1からリクルートに対する情報提供
C1課長は、五七年七月に業務指導課長に就任して以降、労働省退職者の就職先を増やす意図もあって、労働省の有する雇用情報を民間に提供する雇用情報センターを財団法人として設立する作業に関与し、その基本財産の出捐や職員の派遣をリクルートに求めた関係などから、リクルートのR5専務取締役、R7社長室長、R22事業部長らと親しくなっていたところ、五八年一二月一三日ころ、労働省で就職情報誌の発行に対する法規制を検討している旨の情報をリクルートに提供して右法規制検討に対する反応を探ろうと考え、R5、R7及びR22に対し、労働者派遣事業制度に関する法案を次期国会に提出するのを機会に、職安法改正案も提出したいという意向を持っていること、その内容は許可制か届出制かはともかく、労働省と就職情報誌を発行する会社との関係を強めるものであることなどを伝えた。
(〈証拠略〉)
3 職安法の一部を改正する法律案大綱の作成
業務指導課では、五九年一月一〇日ころ、職安法改正の検討を進めるためのたたき台として「職業安定法の一部を改正する法律案大綱」(以下「大綱」という。)をまとめた。大綱では、労働者の募集に関する従来の規制を緩和した上、募集関係者に関する新たな諸規定を創設することとし、その具体的内容として、「イ 労働者募集のための広告等の発行等を行う者は、適正な内容の広告等を提供するよう努めなければならないものとすること。」(以下「倫理規定」という。)、「ロ もっぱら労働者募集のための広告等の発行等を行おうとする者は、事前に届出なければならないものとすること」(以下「届出制」という。)、「ハ ロの者に対し、その行う労働者募集のための広告等に関し、報告等を求め、又はその事業所への立入り検査等を行うことができるものとすること」、「ニ ロの者が、適正な内容の広告等を提供することが著しく困難であると認められる場合には、その広告等の提供を停止することができるものとすること」が盛り込まれ、かつ、「労働者募集のための広告等の発行等を行う者が、募集内容が法令等に反することを知りながら広告等の提供等を行った場合には、罰則を科するものとすること」も含まれていた。
丁谷も、職安局内の議論に参加したり、C1から説明を受けたりして、業務指導課において右内容で職安法改正の検討を進めていることを承知し、丁谷自身も、就職情報誌の求人広告と実態との乖離が是正されないのであれば、職安法に倫理規定や立入調査権限を盛り込むなどの法規制も十分検討に値すると考えていたことから、右検討を進めることについて了承した。
(〈証拠略〉)
4 日本就職情報出版懇話会におけるC1の発言
C1課長は、五九年一月二六日、雇用情報センター設立について新規学卒者向け就職情報誌業界の企業から広く協力を求めるために、同業界の団体である日本就職情報出版懇話会(以下「出版懇話会」という。)の会合に出席したが、その際、労働省では派遣業法制定と合わせて民間の労働力需給システム全般を見直すことが必要であると考えており、就職情報誌等の民間の新しい事業も組み込んだ総合的な需給システムを整備することとし、具体的には、職安法を改正して、就職情報誌につき届出制を導入し、情報の質を高める努力義務を課すとともに、業界の自主的な審査機構作りを指導することなどを検討している旨を明らかにした。
(〈証拠略〉)
5 右認定に関連する弁護人の主張等について
(一) 弁護人は、右当時、業務指導課内で派遣業法制定に伴う職安法見直し作業が行われる中で就職情報誌の位置付けについて模索的な議論がなされたにすぎず、職安局レベルでは就職情報誌に対する法規制等は全く考えていなかった旨主張し、丁谷も、公判段階において、虚偽・誇大広告の問題は広告を出す雑誌社が自ら律し、それで不十分な場合には業界の自主的な審査機構で対応すべきであると考えており、大綱の内容は当時の感覚とまるで違うもので、規制緩和の流れに逆行するものであり、業務指導課内で届出制を検討していたことは、本件が刑事事件になった後に資料を見せられて初めて知った旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) しかし、五八年七月に丁谷が職安局長に就任した当時の労働省内において、C8次官、丁谷及びC9審議官を含む幹部が、重要課題である派遣業法制定に伴って職安法改正が必要になることから、併せて職安法全体の見直し作業をする意向を有していたことや、丁谷、C9及びC1ら職安局の幹部が、職安法見直し問題の中に、従前の経緯との関係等から当然に就職情報誌の取扱いの問題も含まれると認識していたことは、関係証拠上明らかな事実である(〈証拠略〉)。
そして、職安法改正作業の過程では、業務指導課内のみで議論をしていたというわけではなく、大綱を作成する以前に、丁谷局長、C9審議官を含めて、雇用政策課の派遣業法担当者及び業務指導課の職安法改正問題担当者が局長室に集まり、それぞれの課題を出し合って、議論を重ねていたのである(〈証拠略〉)から、業務指導課が、いかにたたき台とはいえ、局長である丁谷の意向と全く食い違う内容で大綱をまとめるということは、考え難いことである。
また、丁谷は、公判段階においても、後記本章第三の六5の職安局業務指導課で作成した「職業安定法等の一部改正についての考え方」と題する書面(甲書2四七二)については、五九年七月ころにC1や担当の課長補佐から見せられて説明を受けたことを認めており(〈証拠略〉)、同書面には、労働者募集のための広告等の発行等を行う者に対する事前届出制、報告義務、立入検査権限及び業務停止について「検討中」と記載されていたのであるから、業務指導課内で届出制を検討していたことは本件が刑事事件になった後に初めて知った旨の丁谷の供述(〈証拠略〉)は、自己の供述とも矛盾し、事実に反するものである。
したがって、大綱の内容は、C9や丁谷を含む場で議論の対象として取り上げたことである旨のC1の公判段階における供述(〈証拠略〉)、一部同趣旨のC9の公判段階における供述(〈証拠略〉)や、五九年一月ころには、就職情報誌の規制に対する倫理規定の創設や届出制等を検討していることなどの概略はC1から報告を受けていた旨の丁谷の捜査段階における供述(甲書2一六一)は信用することができるのに対し、丁谷の公判段階における右(一)の供述は信用することができず、その供述は、労働省内の動きに関する右1、3の認定を左右するものでない。
三 労働省における法規制の動きへのリクルートの対応
1 取締役会議事録及びじっくり取締役会議議事録の記載
リクルートでは、五八年一二月ないし五九年当時も、取締役全員が集まって経営上の重要課題について協議する取締役会や、それを長時間かけて行うじっくり取締役会議(じっくりT会議)を頻繁に開催しており、主にR1がその議事録を作成していたところ(〈証拠略〉)、五八年一二月ないし五九年二月にR1が作成した議事録には次の各記載がある。
(一) 五八年一二月二一日の取締役会議事録(甲書2六五〇)には、「1、職安法改訂対応」の表題の下で、「職安法改訂は法案原案として、かなりにつまっていることが考えられる。至急の対応が必要である。〈対応策〉①原案収集 ②○○(労働部会長)、甲野コンタクト ③マスコミ―(日経・U2、毎日・U3)両氏へのR6コンタクト ④社労族へのアタック ⑤理論武装(ひきのばし策として)」という記載
(二) 五八年一二月二三日の「じっくりT会議」の議事録(甲書2六五一)には、「17、職安法改訂対応」の表題の下で、「職安法改訂にともなう対応として ①法案原案を入手のこと ②△△氏との接触…R8T担当 ③○○、甲野コンタクト ④日経・U2、毎日・U3氏とのR6コンタクト必要(但し新聞がNRCに利するのか、職安に利するのかは要検討のこと) ⑤理論武装(与・野党双方への武装)」という記載
(三) 五九年一月一八日の「じっくりT会議」の議事録(甲書2六五三)には、「7、職安法改正対応」の表題の下で、「現況からして、法案自体の、訂正は困難とみるべきである。従って、①E1(社労委委員長)対R3により、社労へのリレーションづくりを行なう。②法案審議の順番をくりさげ、次国会での審議を避ける。」「同業による『就職情報懇話会』にて意を集め、『職安法改正』の内容を聴く。」という記載
(四) 五九年一月二七日の取締役会議議事録(甲書2六五五)には、「3 職安法改正」の表題の下で、「・職安法改正の動きは人材派遣法のPRの影で見えず。 ・審議順番を繰り下げるための手段を早急にうつ必要あり。 ・C9氏、丁谷氏、C1氏→ひん頻に接触をもつ必要あり。 ・議論より、以下の点について合意した。①役所②中途採用情報誌事業の団体結成 ③(社)『求人広告審査機構』のような組織をつくり、広告内容チェックの自前化をめざす。なお、××氏に対するコンタクトを実施するが担当はR13Tとする。△△氏への接触は情報収集後に判断する。」という記載
(五) 五九年二月一日の取締役会議事録(甲書2六五六)には、「4、職安法改正」の表題の下で、「E1氏VSR3T―E1氏職安法改正の動き知らず」「E2氏―労働部会に対し、『自由主義経済推進機構』を通し圧力をかける、とのこと。」「E3氏―NRCにとって不都合な点を教えて欲しい。」という記載
2 リクルートの対応
(一) C1課長から情報提供を受けた直後の対応策の検討状況
リクルートでは、R22がC1課長からもたらされた本章第三の二2の情報を報告書(甲書2四六一)にまとめ、さらに、その後に入手した情報も含めて事業部担当取締役のR6との連名の報告書(甲書2六四九)も作成して、五八年一二月二一日の取締役会や同月二三日のじっくり取締役会議で対応策を検討し、これらの会議では、法規制が実現すると、従来の自由な営業活動が制約され、事務手続や役所との折衝も増えるなど、リクルート及び関連会社の就職情報誌事業に悪影響を来すと懸念して、職安法改正原案を入手すること、国会議員や就職情報誌を発行している新聞社の者と接触すること、引き延ばしのための理論武装をすることという対応策を決めた。
(〈証拠略〉)
(二) 五九年一月の対応策の検討状況
リクルートでは、五九年一月一八日のじっくり取締役会議においても、就職情報誌に対する法規制問題への対応を協議し、R3が衆議院社会労働委員会(以下「社労委」という。)委員長のE1(以下「E1」という。)と接触することなどを決め、同月中に大綱の内容を記載した書面を入手したほか、同月二六日には、R6やR22が出版懇話会に出席してC1の発言を聞き、翌二七日、R6の名義で職安法改正問題への対策を列記した取締役会宛の書面(甲書2六五四)を作成し、右出版懇話会におけるC1の発言内容をまとめた資料(甲書2四六二)を添付して取締役会に提出し、同日の取締役会で対応策を協議した。
五九年一月二七日の取締役会で検討した結果、就職情報誌に対する法規制阻止のために、①右法規制検討作業を担当する労働省の幹部である丁谷職安局長、C9審議官及びC1課長に対し、酒食の供応やゴルフ等の接待を含む種々の方法で頻繁に接触を持ち、法規制に関する情報収集及び法規制反対の働きかけをすること、②職安法改正案を審議する国会議員らに対し、「ロビーイング」や「コンタクト」と称して接触し、情報収集や法規制反対の陳情をすること、③中途採用者等向け就職情報誌事業を営む会社による業界団体を結成し、業界団体による自主的な広告審査機構を設置して、官庁によらない自主的な規制を目指すこと、④それらの対策を進めるために、リクルート事業部を中心とする職安法対策プロジェクトチームを結成し、事業部担当取締役のR6、前事業部長で当時社長室長のR7、事業部長のR22、事業部次長のR9がメンバーになり、事業部のR24が事務局となるほか、リクルート情報出版からも専務取締役のR3らが加わることなどを決めた。
(〈証拠略〉)
(三) 五九年一月下旬ころからの実際の対応状況
リクルートやリクルート情報出版では、実際に、五九年一月下旬ころ、R3らが衆議院社労委委員長のE1、同委員のE2(以下「E2」という。)及びいわゆる社労族の有力者の一人である労働省出身のE3参議院議員と面会し、労働省が検討中の就職情報誌に対する法規制の動きを知っているかどうかを尋ねるとともに、就職情報誌に対する法規制が行われないように協力を求める陳情をした。
右陳情の結果、五九年一月末か二月初めころ、E1議員から丁谷に「労働省はリクルートをふん縛るなんてことを考えているんじゃないだろうな。リクルートの言い分もよく聞いてやってくれ」などと要請があり、C1も、同年一月三〇日ころ、E1議員から同様の要請を受け、同年二月初めころ、E2議員からも就職情報誌に対し新たな法規制を設けることに消極的な意見を述べられ、そのことを丁谷に伝えた。
また、五九年二月一〇日、E2議員らが自由主義経済推進機構の活動としてC1と会談した際にも、C1が適正な広告掲載を義務付ける倫理規定が必要である旨説明したのに対し、同議員らは、就職情報誌については業界内部の自主規制が行われるように指導していくことが順当である旨の意見を述べた。なお、同議員は、同年四月中旬ころ、丁谷に対し、一度リクルートの話も聞くようにという要請をした。
(〈証拠略〉)
(四) C1課長に対する接待等
リクルートでは、五九年二月二日、R5、R6、R22、R9及びR24が都内の料亭「午」でC1を接待した。
C1は、E1やE2から話があったことから、リクルートが職安法の改正案も煮詰まらない段階で政治家に法規制反対の働きかけをしたものと考え、職安法改正について言いたいことがあるのであれば、政治家を通じていろいろ言うよりも、直接言ってほしかった旨話して不快感を表明し、この際のC1との会談内容は、その後、R24が報告書にまとめて関係者に伝えた。
(〈証拠略〉)
四 五九年二月から四月初めまでの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等
1 労働者派遣事業問題調査会報告書の提出
労働省職安局長は、五五年五月、労働者派遣事業の制度化を図る場合の問題点等に関する調査・検討を労働者派遣事業問題調査会に委嘱していたが、同調査会は、五六年六月以降活動を中断していたところ、五八年一二月に検討を再開した上、五九年二月一五日、丁谷職安局長に対し報告書を提出した。
その概要は、反対意見も付記されたものであるが、大勢的な意見としては、労働者保護の観点から必要な規制措置を講じて労働者派遣事業を認めていくべきであるとした上、労働者派遣事業に対する規制措置の在り方等を記載するほか、経済社会情勢に対応した労働力需給調整システムの総合的整備について行政として適切に対応することが必要である旨指摘し、その一つとして「国が行う労働力需給調整機能の整備を図ることはもとより、民間が行う労働力需給調整機能について、必要な見直しを行うとともに、国との密接な連携を確保し、相互間の関係を明確化すること等総合的な整備を図ることにより、労働力需給のミスマッチの解消に努める必要がある。」ことが盛り込まれていた。なお、右報告書の原案は、丁谷も関与した上、職安局雇用政策課が中心になって作成した。
(〈証拠略〉)
2 労働組合が就職情報誌を問題化する動き
五九年三月一三日ころ、日本労働組合総評議会(以下「総評」という。)傘下の全国一般労働組合が労働大臣宛に、中小企業労働者の生活制度に関する要求を書面で提出したが、その中には、「就職情報誌がふえているが、基準法遵守、雇用主体の明示、社会保険加入を指導し、虚偽の情報記載については取締ること。」という要求も含まれていた。また、同月一五日ころには、総評から労働大臣に対し、職業安定行政に関する申入れが書面でなされたが、その中では、「就職情報紙・誌の氾濫は、公共職業安定機関の機能低下の反映ともいえるが、求職者に情報を提供するという目的を超えて新たな問題を起しつつある。」として、「就職情報紙・誌は求職者に活用されている反面、誇大広告などによる就職後の被害も増大傾向にあり、何らかの対策が必要になっている。発行の実態を明らかにするとともに、労働者保護の立場から必要な保護を講ずること。」という申入れも含まれていた。
(〈証拠略〉)
3 雇用情報センターの発足
C1が中心になって労働省が設立を企図していた雇用情報センターは、五九年三月一九日、R3が発起人の一人となり、リクルート、リクルート情報出版及びリクルートフロムエーを含む就職情報誌や就職情報紙の発行企業から基本財産の寄附を受けて、財団法人として発足した。同財団では、労働省を退職した者が理事長、専務理事、事務局長等の職に就き、リクルートからも、R3やR5も理事として加わり、職員も一名出向させた。なお、同財団には、「アルバイトニュース」等を発行する株式会社学生援護会(以下「学生援護会」という。)も基本財産の一部を寄附し、同社取締役のT1(以下「T1」という。)も理事になった。
(〈証拠略〉)
4 リクルートや業界団体の対応
(一) 情報収集及び対応の検討状況
リクルートでは、R22が頻繁に労働省を訪れてC1と面談するなどし、事業部を中心に、職安法改正問題に関する情報収集に努め、出版懇話会における職安法改正反対のためのプロジェクトチームの結成や中途採用者等向け就職情報誌業界の団体結成に向けて、同業他社に働きかけるなどの対策を講じた。
また、右情報収集の結果や対応策の進行状況は、五九年二月一四日付け、同月二四日付け、同年三月六日付け及び同月一九日付けの各報告書にまとめられて取締役会宛に報告され、取締役会やじっくり取締役会議で、その後の対応について協議を重ねた。
(〈証拠略〉)
(二) 全国求人誌出版協議会の結成と活動開始
(1) リクルート及びリクルート情報出版では、職安法改正による就職情報誌事業に対する規制を阻止する手段の一つとして、中途採用者等向け就職情報誌業界で統一団体を結成し、業界の自主的な審査機構を設置することを企画し、業界各社と連絡を取り合っていたところ、五九年二月二七日、リクルート情報出版、リクルート東北支社、同中国支社及びフロムエーのほか、株式会社関西広済堂、株式会社求人案内社等の同業各社が参加して、全国求人誌出版協議会(以下「出版協議会」という。)が設立され、R3が事務局担当になった。
出版協議会では、五九年三月一三日の会合で、職安法改正問題について意見を交換した上、当面は情勢の推移を見守ることとした。
なお、中途採用者等向け就職情報誌業界では、学生援護会がリクルートグループと双壁をなす大手であったところ、同社は、R3らから直接・間接の勧誘を受けたにもかかわらず、出版協議会に参加せず、R3は、同社を出版協議会に参加させることが重要な課題であると認識し、その旨を五九年三月二一日ころのRMBに記載して、被告人を含むリクルートの幹部に知らせた。
(〈証拠略〉)
(2) 弁護人は、中途採用者等向け就職情報誌業界では、従来から掲載基準を制定する必要性を認識して、独自にその作業を進め、五九年二月には、出版倫理の向上を目指して出版協議会を設立するなど、動きが活発化していたのであって、その動きは、労働省による就職情報誌に対する法規制の動きを阻止するためのものではない旨主張し、R3も、公判段階において、業界団体の設立は五八年秋か冬ころから準備を始めており、当初の設立目的には法規制に対する反対運動は含まれていなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、本章第三の三1(四)のとおり、五九年一月二七日のリクルートの取締役会議議事録には、「3 職安法改正」の表題の下で、「・議論より、以下の点について合意した。①役所 ②中途採用情報誌事業の団体結成 ③(社)『求人広告審査機構』のような組織をつくり、広告内容チェックの自前化をめざす。」などという記載があり、右議事録を含む関係証拠によれば、仮に業界団体設立に向けた動きが以前からあったということが事実であるとしても、右取締役会のころ以降、リクルートにおいて、就職情報誌に対する法規制問題への対策の一つと位置付けた上、出版協議会の結成等の業界による自主規制に向けて尽力をしていたことが明らかであり、弁護人の主張は理由がない。
(三) 労働省の幹部からの情報収集等
リクルートでは、五九年三月四日、R5、R6、R7、R22及びR24が、○○ゴルフクラブにおいて、丁谷職安局長、C9審議官及びC1課長を接待し、その際、R6らが丁谷らに対し、就職情報誌の扱いがどうなるかを質問したのに対し、丁谷やC9は、検討中であって、今すぐどうこうするというものではない旨回答した。
また、五九年四月四日には、R3、R6及びR22がC9、C1らを都内の料亭「艮」で接待して、職安法改正問題に関する職安局の意向を聴取し、その際、職安局側は、①就職情報誌発行事業を届出制としたいが、就職情報誌発行会社を規制するつもりはないこと、②雇用情報センターの場を用いて、就職情報誌の在り方につき研究したいこと、③職安法改正案を提出する場合は派遣業法と一括して提出することになり、同年の通常国会に提出するのは無理と思われることなどを述べた。
(〈証拠略〉)
(四) 出版懇話会における法規制反対の要望書の作成と口頭による要望
出版懇話会では、五九年三月上旬ころから、労働省に対し職安法改正に反対する要望をすることを検討し、「就職情報出版事業の届出制は行政介入の途を開きかねないこと」、「一般の出版事業や広告代理店事業が届出制でないのに、就職情報出版事業を届出制とすることは、法の下の平等に反すること」、「規制内容によっては、情報誌の規制は言論・出版の自由に反し、読者の知る権利を侵害する可能性も極めて強いこと」、「就職情報出版各社は、既にそれぞれ自主的に人事募集広告に関する掲載倫理規定を制定しており、出版懇話会においても人事募集広告倫理綱領(仮称)を近く制定する運びであること」、「事業の事前届出制、事業活動に関する報告義務、事業所への立入検査、事業の停止処分等は営業の自由を侵害し、立入検査は検閲にも通じかねないこと」などを理由として、就職情報誌事業に対する法規制に反対する旨の丁谷職安局長宛の要望書を作成し、同月三一日、R6を含む世話人らが労働省に赴き、右要望書の内容を口頭でC1に伝えた。R6らは、この際、要望書自体は提出しなかったが、これとは別に、出版懇話会関係者からC1に対し右要望書が事実上渡されていた。また、丁谷も、このころ、C1から報告を受けて、法規制に対する業界の反対が強いことを認識した。
(〈証拠略〉)
(五) 事業部の態勢強化
リクルートの事業部では、五九年四月、出版懇話会の事務を処理するとともに、職安法改正問題への対処を含めて、労働省や文部省等の行政との関係の事務処理を強化するために、新たに事業部付課長代理のポストを設置し、これにR10を充て、以後、事業部においては、R9事業部次長、R11事業部付課長及びR10の三名が職安法改正問題や就職協定に関する問題への対応、労働省及び文部省担当者との折衝や情報収集等の実務面を担当することとなった。
(〈証拠略〉)
五 五九年四月中旬から五月下旬までの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等
1 衆議院社労委における丁谷職安局長の答弁等
(一) 五九年四月一七日に開催された衆議院社労委において、E4委員が愛人バンクの例(本章第三の二1)を引いて就職情報誌の誇大広告問題を取り上げ、政府委員として出席した丁谷職安局長に対し、的確な行政指導を求める質疑をしたところ、丁谷は、「私どもも注意して見ておりますが、やはり実際の勤務条件あるいは仕事の内容といろいろ違っておるというような問題もございます。あるいはまた、労働者の募集の名をかりて、今そういう例もありましたが、不動産会社がその営業職員を求む、こういうことで募集いたしまして、営業職員をやるにはまず自分で土地を買ってみなければだめだから、まず買えという極端な例まであるそうでございます。そういう意味では大変いろいろ問題もある、こう考えております。」として、問題意識を持っていることを明らかにした上、「そういう意味で、今、こういう情報誌に対しまして広告掲載基準というものをしっかり自主的につくって、そしてそれを自分自身で守っていただくような指導をしておるわけでございますが、うっかりしますと言論統制的な形の問題にもなりかねませんので、なかなか慎重を要します。要するに、読者を惑わし誤解を与えるようなことのないように、やはりとにかく、そういう発行者が良識を持って自主的にそういうようなことをやっていただくよういろいろ働きかけを今いたしておりますが、一般の問題と違いまして、行政権力でどうこうするという形のものでないので、対応については今後またいろいろ検討さしていただきたいと思っておるわけでございます。」と言って、法規制には触れずに、自主規制に向けた指導に重点を置く答弁をした。
(〈証拠略〉)
(二) また、五九年五月八日に開催された衆議院社労委において、E5委員が就職情報誌がのさばって利益を上げる状況というのは労働省にとって恥であり、労働省の能力の無さを暴露するものであるとして問題視し、職安機能の強化を求める質疑をしたのに対し、政府委員として出席した丁谷職安局長は、「私どもも、こういう情報誌がはんらんしておるということについて十分問題意識は持っておるわけでございます。」「現在のこういう就職情報誌の提供しております情報というものが、率直に申しまして一部問題がないわけではないわけでございます。いろいろ新聞等でもにぎわしておりますが、実際に掲示をされておる求人内容と働いてみたらえらい違うというような形の問題もいろいろ起こってきておるようでございます。」として、問題意識を持っていることを明らかにした上、「この就職情報誌そのものについても、言論出版の自由とかいろいろそういうような関係もあって国が画一的にこういったものについてどうこうするというのはなかなか難しゅうございますが、こういう就職情報誌関係において自主的に何かそういういわば倫理綱領、こういうような形で、いろいろそういう情報掲載についてのモラルといいますか、あるいはまた事前チェックをやるとか、何かそういう面での対応といったものはお願いできないだろうか、こういうようなことは私どももいろいろ折に触れて今申し上げておる、こういうような段階でございます。」と言って、再度、業界の自主規制に向けた指導に重点を置く答弁をした。
(〈証拠略〉)
(三) C1課長は、右(一)、(二)の各答弁で、丁谷が職安法改正の中に就職情報誌に関する規定を盛り込む作業を進めていることに言及しなかったのは、国会の場で公に約束するような段階になかったからにすぎず、その作業を否定する趣旨ではないと理解し、派遣業法制定の過程で五九年三月一五日ころの総評からの労働大臣に対する申入れについて対応を求められる可能性も高いと認識していたことから、職安法改正の中に届出制等の就職情報誌に関する規定を盛り込む作業を進める必要があると考えた。そこで、C1は、同年五月中旬ころ、丁谷に、就職情報誌業界に対し広告掲載基準の作成を指導するとともに届出制を導入するなどの作業も進めたい旨話し、丁谷も了承した。
(〈証拠略〉)
2 リクルートトラブル一一〇番運動の展開
全国一般労働組合の東京都における組織である東京一般労働組合連合(以下「全国一般東京労連」という。)は、五九年春から、就職情報誌の虚偽・誇大広告が労働者の利益を害しているとして、「リクルートトラブル一一〇番」と名付け、リクルートを含む就職情報誌発行企業を糾弾する運動を始め、同年五月初旬ころ、その運動を活発に展開するようになり、そのころの大手全国紙やNHKでも同運動が取り上げられた。
(〈証拠略〉)
3 衆議院社労委における附帯決議
五九年五月一五日の衆議院社労委において、雇用保険法等の一部を改正する法律案が可決された際、全会一致で、「政府は、雇用保険制度の維持及び適正な運用を図るため、次の事項について努力をすべきである。」とし、一三項目の一つとして、「公共職業安定所における職業紹介機能及び体制の充実強化を図るとともに、就職情報誌紙等の増加に伴う諸問題に対応するため必要な指導を強めること。」を求める附帯決議を採択し、C10労働大臣が同決議の趣旨を十分尊重して努力する旨の発言をした。
(〈証拠略〉)
4 リクルートや業界団体の対応
(一) 五九年四月中、下旬のリクルートの取締役会における対応策の検討
リクルートでは、五九年四月一八日の取締役会で、右1(一)の質疑及び答弁の報告を受け、右答弁は自主規制に重点をおいたものであるものの、右のような質疑がなされたこと自体が就職情報誌の規制を意図した労働省のさしがねによるものではないかと懸念して警戒を続け、同月二七、二八日のじっくり取締役会議で職安法改正問題への対応を協議し、就職情報誌事業に対する法規制に反対するために、①出版懇話会による対外的アピールをすること、②雇用情報センターの場を使って情報を収集すること、③同業種の競合企業である学生援護会と連携を図ること、④社労族の国会議員数名と接触してロビーイングをすることなどの対策を執ることを確認した。
(〈証拠略〉)
(二) リクルートトラブル一一〇番運動への対応
リクルートでは、右2のリクルートトラブル一一〇番運動の報道に接して、リクルートの名前が冠されていることで企業イメージが害されることや、労働省内部の就職情報誌に対する法規制の検討に影響を与えることを懸念し、五九年五月七日ころの取締役会で対策を検討し、右運動を鎮静化させるために、全国一般東京労連の役員や労働組合と関係の深い野党の国会議員へ働きかけをした。
(〈証拠略〉)
(三) 五九年五月当時のリクルートの状況認識
リクルートの幹部は、右1の各質疑に対する丁谷の答弁について事業部から報告を受け、幹部の中には、丁谷の答弁は基本的には自主規制の趣旨であると理解し、自主規制を的確に進めれば労働省は就職情報誌に対する法規制に向けた動きをしないのではないかという安堵の念を抱く者もいた。
しかし、事業部では、なお警戒を要すると考えて情報収集を続け、衆議院社労委で右3の附帯決議がなされた翌日である五九年五月一六日には、五九年の延長国会に職安法改正案が提出される懸念があり、労働組合から労働省に対する要求や申入れに就職情報誌の問題が含まれ、リクルート一一〇番運動が展開されていることや国会の質疑で就職情報誌の問題が取り上げられていることも職安法改正に向けた労働省の戦略であろうという趣旨を記載した書面を取締役会に提出し、リクルートの幹部の多くも、右附帯決議を受けて、就職情報誌に対する法規制問題の行方に不安感を抱いた。
また、五九年五月二三日ころのRMBでも、リクルートトラブル一一〇番問題に関連して、「求人情報の掲載内容に関する問題は、社会党、公明党などでも関心を持たれており、国会で批判が出れば、情報誌が労働省の管轄下におかれる可能性もある。」というR6の発言(同月一七日の広告事業首都圏マネージャー会議におけるもの)を掲載した。
(〈証拠略〉)
(四) リクルートの幹部と丁谷との面談
五九年五月一八日、リクルート社長室が費用を負担して、都内の○○ホテルに宴会の場を設け、R5、R6及びR7が丁谷と面談し、附帯決議を受けたことについて労働省の対応を尋ねたところ、丁谷から、国会であれだけ問題が出ると附帯決議を付けるなと言っても無理であり、法律により就職情報誌を取り締まるということは考えていないものの、就職情報誌の広告内容と実際の労働条件とが違う事例もあり、就職に関する情報は人生を左右する情報であり、職安の現場職員の不満も強いことから、就職情報誌業界の自主的な規制を期待しており、チェック機能を強化するとか自主規制をするとかを業界の団体でまとめることが大切である旨の助言を得た。
(〈証拠略〉)
(五) 丁谷との面談後のリクルート内部における検討
リクルートでは、五九年五月二一日、被告人も参加して職安法改正問題のプロジェクトチーム会議を開催したが、その席では、同月一八日の丁谷職安局長との会談の結果が報告され、以後の対応策を協議し、右会談の際の丁谷の話だけではなお安心できないという判断から、①E1社労委委員長に同席してもらった上で丁谷職安局長と再度会談し、附帯決議にあるような就職情報誌の規制をするつもりはないという言質を取ること、②その際、丁谷に対し、広告審査の自主規制強化の話をし、指導を仰ぐこと、③被告人がC8次官や丁谷と会談することを考えることなどの対応策を決定した。
また、五九年五月二三日のじっくり取締役会議には、プロジェクトチームから、職安法改正問題やリクルートトラブル一一〇番問題に関し、右(四)の丁谷との面談内容を含む現状報告と対応策の提案がなされ、検討の結果、職安法改正問題への対策として、①雇用情報センターを積極的に活用し、労働省から提案を受けた情報誌勉強会を積極的に進めること、②国会議員との接触を続けること、③丁谷職安局長、C9審議官及びC1課長と週一回定例的にコンタクトを持つこと、④出版協議会から丁谷局長に対し情報誌の規制に反対する要望文を提出することなどの対応策を決定した。
(〈証拠略〉)
(六) 出版協議会から労働省に対する法規制反対の要望書の提出
出版協議会は、五九年五月二二日、リクルート本社ビルで第一回総会を開催し、統一的な広告掲載基準を作ることと職安法の一部改正に関する要望書を労働省に提出することを決定し、事務局であるR3を中心に作業を進めた上、同月二五日、R3らが労働省を訪れ、「就職情報出版産業のみを規制するとすれば、一般出版産業、及び求人広告を扱っている新聞発行産業との差別を生じ、憲法第14条の『法の下の平等』に反する恐れがある。また、憲法第22条等で保障されている『営業の自由』を侵すことにもなりかねないこと」、「労働省が、かねて要望されている業界の自主的な広告掲載基準について、就職情報出版各社はすでに、それぞれ『倫理綱領』および『掲載基準』をもって運用しており、いまここで行政が法的規制を加えることは、『出版物の内容』にまで立ち入ることになり、憲法第21条の『言論・出版・表現の自由』に反する恐れがあること」、「出版協議会は、現在『人事募集広告に関する統一的な自主規定』づくりを急いでおり、行政が民間の自由なる競争に深く関わることは、わが国産業社会の基盤である“自由企業体制”をゆさぶる結果にも、なりかねないこと」などを理由として、届出制を含む就職情報出版産業に対する規制に反対する旨の丁谷職安局長宛の「職業安定法の一部改正に関する要望書」をC1課長に提出した。
C1は、右要望書を受け取った際、R3らに対し、届出制は、悪質な就職情報誌を排除し、就職情報誌を行政や民間の職業紹介事業とともに労働力の需給調整機能の枠内に位置付けて連携を図ることができるという意義を有するなどと述べて、職安法改正の中で就職情報誌に関する規定を盛り込む考えに変わりがないことを話した。
なお、R3は、この当時、出版協議会の活動について五九年五月三〇日のRMBに記載してリクルートグループの幹部職員に周知させているが、そこでは、出版協議会で右要望書提出を決めた理由について、「労働省の就職情報誌規制の動きに呼応するかのように、国会・マスコミ・労働団体など周囲の環境はきびしさを増している。ことに衆院社労委で雇用保険法案可決の付帯決議として『就職情報誌への指導強化』がうたわれたことは、手痛い。このまま放置しておけば、職安法改正案で、届け出制や倫理規定の義務づけなど、何らかの形で規制が成文化される恐れがある。『営業の自由』『言論・出版・表現の自由』の観点から、就職情報出版産業界の考え方を行政に伝えておく必要がある―ということで決定」したと、危機感を表す記載をし、出版協議会として広告掲載基準を早急に作ることを決めた理由につき、「労働省は、かねてから新聞協会や雑誌協会のように就職情報出版業界についても、横のつながりができることを求めてきた。たまたま職安法の改正問題もからんで、新卒関係で日本就職情報出版懇話会、中途採用関係で全国求人誌出版協議会の結成となったが、協議会としては、職安法改正に機先を制する意味合いからも、自浄作用をもつ自主的な広告掲載基準を持とうということになった。職安局長の国会答弁からもうかがえるように行政も『業界の自主的な基準』を期待しており、法規制につながらないための予防措置となる―ということで決定」したという記載をしている。
(〈証拠略〉)
六 五九年五月下旬ころから八月までの労働省の動きとリクルートの対応等
1 求人情報誌を巡る紛議に関する実態調査の実施
五九年五月下旬ころ、C1が出版協議会から職安法改正に反対する要望書が提出されたことを丁谷に報告したところ、丁谷は、C1に対し、就職情報誌事業において公益に反することがあれば法的な措置を執っても憲法違反とならないはずであるから、業界の反対に備えて理論武装しておくようにという指示をし、C1はこれを受けて、就職情報誌に関する紛議の実態を把握するため、東京労働基準局等に対し、就職情報誌に掲載された求人広告について、誇大広告や虚偽広告等による被害申告件数を調査するように依頼した。
(〈証拠略〉)
2 雇用情報センターを利用した自主規制に向けての行政指導
C9やC1は、かねてから中途採用者等向け就職情報誌業界の団体で広告掲載基準を作成して広告内容の適正化に努めさせることが必要であると考えていたところ、業界大手のリクルートグループと学生援護会とが激しいライバル意識を有しており、出版協議会にも学生援護会が参加しなかったのを承知していたことから、リクルートグループと学生援護会の双方から理事が出ている雇用情報センターを使って広告掲載基準を作成するように業界を指導するアイデアを抱いており、本章第三の四4(三)のとおり、五九年四月四日の「艮」におけるリクルートからの接待の際、同センターで研究会を実施することを提案したが、同年五月ころから、C1が担当の課長補佐等に指示してその実現に向けた下準備をさせた。
そして、五九年六月一五日、労働省において、雇用情報センターが労働省から委託を受けて実施する研究会の会合を開催した際、C1が同研究会の委員候補として出席していたリクルート情報出版のR3及び学生援護会のT1に対し、雇用情報センターが事務局となって就職情報誌発行企業が自主的な研究会を設置し、広告掲載基準の在り方等を研究することを提案し、両名がこれに合意した。
なお、C1は、当初は、同センターを事務局として、中途採用者等向け就職情報誌関係の研究会と新規学卒者向け就職情報誌関係の研究会を実施することをリクルート等に持ちかけたが、リクルートや出版懇話会は、同センターでは中途採用者等向け就職情報誌関係の研究会のみを実施し、新規学卒者向け就職情報誌関係については出版懇話会が独自に広告審査機構を作るべきであるという方針で対応し、その後、C1もこれを受け入れて、中央労働委員会委員一名、中途採用者等向け就職情報誌発行会社の役員五名(R3及びT1を含む。)、C1及びT3雇用情報センター専務理事が委員になり、同センターを事務局とする求人広告研究会が発足し、五九年七月三〇日に第一回委員会が開催された。
また、C1は、そのころまでに、丁谷に対し、求人広告研究会で自主規制の検討を進めることになったという報告をした。
(〈証拠略〉)
3 労働組合及び社会党から労働省に対する申入書の提出
五九年七月九日、全国一般東京労連は、労働大臣宛の申入書を労働省に提出したが、これは、就職情報誌の広告の内容と現実の雇用状況との間に多くの食い違いがあるため、苦情・相談・紛争が多発しており、正しい解決がなされないまま、弱い立場の就職希望者が泣き寝入りしていることがリクルートトラブル一一〇番の活動によって明確に指摘できる旨を記した上、虚偽広告に関する就職情報誌の責任や対応策等について、労働省の見解を明らかにするように求める内容であった。
また、五九年八月三日、日本社会党政策審議会及び同党社会労働部会が労働大臣に対し、六〇年度労働省予算の概算要求に関する申入れをしたが、この中には、概算要求の上で考慮を求める事項の一つとして、「トラブルの多い民間就職情報誌・紙についてトラブル解消のため行政指導を強めるとともに、立法措置を検討すること」が含まれていた。
(〈証拠略〉)
4 リクルートや業界団体の対応
(一) 五九年五月下旬から六月までのリクルートの対応状況
リクルートでは、五九年五月下旬から六月下旬にかけても、R5、R6、R3、R7らが参加し、時に被告人も参加して、職安法改正問題に関するプロジェクトチームの会議を重ね、職安法改正問題とリクルートトラブル一一〇番問題に関する現状を確認するとともに、対応策を検討した上、実際にも、①政治家や労働省の幹部に対する働きかけを続け、②自社の審査機能を高めるために、同月一日、リクルートに審査室及び読者相談室を、リクルート情報出版に読者相談プラザをそれぞれ設置し、③業界による広告審査機構設立に向けて業界他社に働きかけるなどの対策を重ねた。
また、リクルートでは、職安法改正問題への対策の一環として、五九年六月中にC8次官をリクルートの関連会社が経営する岩手県内のゴルフ場(○○レック)に招待すべく働きかけ、同月二七日には、R5、R6及びR7がC10労働大臣を料亭「艮」で接待した。
(〈証拠略〉)
(二) 業界による自主規制に向けたリクルート等の動き
リクルートでは、職安法改正問題への対応策の一つとして、五九年二月ころ以降、中途採用者等向け就職情報誌業界による審査機構を作ることを目指していたところ、同年四月及び五月の衆議院社労委における丁谷の答弁が業界による自主的な広告掲載基準や倫理綱領の作成を求めるものであり、同月一八日の○○ホテルにおける面談の際にも、丁谷から、就職情報誌業界の自主的な規制を期待しており、チェック機能を強化するとか自主規制をするとかを業界の団体でまとめることが大切である旨の助言を得たことから、同月下旬ころから六月上旬にかけて、新規学卒者向け就職情報誌業界と中途採用者等向け就職情報誌業界との合同の審査機関として、「求人広告審査協会」等の名称の広告審査機構を設立することを考え、業界一体の自主規制に向けて、出版協議会に参加していない学生援護会の協力を取り付けるために、同社のT2社長(以下「T2社長」という。)と被告人との会談を設定することを検討していたが、同月一二日ころ、右両名の会談が実現した。
右会談の際、被告人が、学生援護会が出版協議会に加盟することと中途採用者等向け就職情報誌業界による自主的な広告掲載基準作りに協力することを求めたところ、T2社長は、前者については、しばらく待ちたい旨述べて断ったものの、後者についてはこれに合意し、このため、右2のとおり、五九年六月一五日にC1からT1とR3に対し雇用情報センターを事務局とした研究会の設置を持ちかけられた際には、速やかに合意が成立した。
また、C1から提案を受けた雇用情報センターを事務局とする研究会に関しては、五九年六月二二日の被告人も参加したプロジェクトチーム会議において、同センターを事務局とする研究会は中途採用者等向け就職情報誌に関するものに限定し、新規学卒者向け就職情報誌事業に関しては、同センターと無関係に、出版懇話会で独自に広告審査機構を設立する方針を決めた。
(〈証拠略〉)
(三) C8次官や丁谷局長らに対する接待による情報収集
リクルートでは、五九年七月八日にも、職安局を中心とする労働省の幹部と親しい人間関係を作り、事業上有益な情報を得るために、R5、R6、R8及びR22がC8次官、丁谷局長、C9審議官らに対し、○○カントリー倶楽部でゴルフの接待をし、同日、R7らがC1課長らを別のゴルフ場で接待した。この際、リクルート側の出席者が職安法改正問題の状況を打診したところ、労働省側の出席者から、職安法改正についてはまだ検討中である旨の話がされた。
(〈証拠略〉)
(四) 五九年七月から八月上旬にかけてのリクルートの対応状況
リクルートでは、五九年七月中も、全国一般東京労連から労働省に申入書が提出されたことや、その関係のマスコミ報道に関する情報を収集し、同月一一日の取締役会でその対策を協議したが、その際は、同労連が申入書提出をマスコミに発表したことについては労働省が関与していると判断し、被告人が同労連書記長と会談すること、同申入書に対する労働省の回答に影響を与えていくこと、雇用情報センターによる審査機構作りの件に乗ることなどの対策を取り決めた。また、同年八月三日の日本社会党政策審議会等から労働省に対する申入書の提出を受けて、同月七日ころの取締役会で対策を検討し、法規制を回避するため、国会議員、労働大臣及び労働省の幹部へ働きかけ、出版懇話会から労働省に対し法規正反対の要望書を提出することなどを決めた。
(〈証拠略〉)
(五) 出版懇話会における対応策の検討状況
出版懇話会は、五九年六月一二日及び二七日の世話人会で、労働省の動きやリクルート一一〇番運動等の就職情報誌事業を巡る動きを踏まえて、対応策を協議し、新規学卒者向け就職情報誌に関しては、雇用情報センターを事務局とする研究会の設置に応じず、独自に審査機構を設立することなどを決定した。
また、出版懇話会では、五九年七月一〇日に総会を開催したが、その際、被告人は、代表世話人として挨拶に立った際、事務方が用意した儀礼的な原稿を使わず、同月九日ころにC8次官がリクルートとの非公式の場で派遣業法とセットで職安法改正を行う旨の話をしたことを報告し、業界でまとまって法規制に反対していこうなどと述べた。
(〈証拠略〉)
(六) 出版懇話会から労働省に対する要望書の提出
出版懇話会では、五九年八月八日ころ、①一般の出版事業も広告代理店事業も届出制等の法規制がなされていないのに、就職情報出版事業のみを規制することは、法の下の平等に反するおそれがあること、②職安局から要望されている業界の自主規制については、就職情報出版各社は、既にそれぞれの立場で倫理綱領や掲載基準を作成して運用しており、さらに出版懇話会としても広告倫理綱領を制定し、審査機構作りにも着手していること、③出版物の内容や広告の内容に対し法規制がなされるとすれば、言論・出版・表現の自由に反するおそれがあること、④事業の事前届出制、事業活動に関する報告義務、事業所への立入検査、事業の停止処分等は営業の自由を侵害することになりかねないことなどを理由として、就職情報出版活動の規制につながるおそれのある内容を含んだ法改正が決して行われないように要望する旨の丁谷職安局長宛の「職業安定法の一部改正に関する要望書」をC1課長に提出した。なお、その際、出版懇話会は、同会が組織した学者らからなる職業安定法研究会作成の報告書もC1に交付したが、これも、職安法改正によって就職情報誌を規制することに反対する内容のものであった。
丁谷やC9は、C1課長からその旨の報告を受け、就職情報誌業界が法規制に強く反対していることを改めて認識した。
なお、出版懇話会の要望書の提出に際して同行したR11は、五九年八月九日ころ、リクルートの取締役会に報告書を提出したが、その中では、C1の対応に関し、「肝心の職安法改正についてはまだ考えていないという返事であったが、『届出制』にしたら何故業績がダウンするのかという質問の中に届出制を軸とした職安法改正の意図が感じられた」として、なお、法規制に対する懸念を示す記載をした。
(〈証拠略〉)
5 労働省における職安法改正に関する検討状況
職安局業務指導課では、五九年六月下旬ころまでに、職安法改正に関する課内の検討の結果を取りまとめて、「職業安定法等の一部改正についての考え方」と題する書面を作成した。その内容は、大綱に記載した労働者募集のための広告等の発行等を行う者に対する法規制のうち、適正な内容の広告を提供するように努めなければならないとする倫理規定を定めることと、募集内容が法令等に反することを知りながら広告等の提供等を行った場合に罰則を科することについては職安法改正に盛り込むこととしたが、届出制、報告義務、立入検査及び業務停止については、当時の政府の規制緩和を目指す方針との整合性や業界団体の反対理由の中で述べられていた憲法問題を克服できるかどうか更に検討を要することから、「検討中」と記載したものであった。
そして、C1や担当の課長補佐は、五九年六月下旬ころから七月中旬ころまでの間、丁谷及びC9に対し、右書面を見せた上、就職情報誌のトラブルの実態について十分な把握ができていないので、届出制等については、トラブルの実態を把握し、業界の自主規制の動きを見て職安法改正案の中に盛り込むかどうかを再検討したいと考えており、倫理規定や罰則については職安法改正案に盛り込みたい旨説明し、さらに、そのころ、C8次官にも同趣旨の説明をしたところ、C8次官から職安法改正案に罰則を盛り込むことについて難色を示された。そのため、業務指導課では、その後は倫理規定の創設を中心に検討することとし、丁谷もこれを了承した。
(〈証拠略〉)
6 求人広告研究会における作業の進展状況と丁谷からの指導等
(一) 求人広告研究会における作業の進展状況
求人広告研究会は、五九年七月三〇日に第一回委員会を開催し、中途採用者等向け就職情報誌業界各社の広告掲載基準の実態を把握した上、広告掲載基準や自主規制の在り方を検討することを合意し、同年八月一三日の第二回委員会では、求人広告に関する倫理綱領及び掲載基準の素案作りを行うこととし、そのための小委員会を設置することなどを合意し、同月二〇日に素案作成小委員会を開催し、同月二八日の第三回委員会で、小委員会作成の素案について討議したが、その過程では、リクルート情報出版の広告掲載基準と学生援護会のそれとの間に相当の差異があったことなどから、R3とT1との間で業界共通の広告掲載基準の内容等を巡って意見が対立して激しい議論があり、取りまとめが難航した。
(〈証拠略〉)
(二) 丁谷からの指導等
右状況の中で、C1は、五九年八月七日までに、求人広告研究会における議論をまとめるためにリクルートグループと学生援護会との仲を取り持とうと考え、リクルートと学生援護会に対し、被告人と学生援護会のT2社長とが丁谷の同席で会談することを申し入れ、丁谷に対しても、そのころ、業界が一つにまとまって自主規制に努力するように、リクルートの社長である被告人と学生援護会のT2社長との仲を取り持ってほしい旨進言し、その結果、同月三〇日、都内の料亭「未」において、労働省の費用負担で、丁谷、被告人及びT2社長の三者による会談(以下「三者会談」という。)が行われた。その際、丁谷は、被告人とT2社長に対し、就職情報誌の虚偽広告が国会でも問題とされているこの時期に、業界が一体となって広告掲載基準をまとめ、それをチェックする自主的機構を作らないと、また国会で問題にされて就職情報誌事業に対し法規制を加える動きになりかねないから、この際、業界が協力して自主規制をする必要があるので、両社は協力関係を築くようにという話をし、業界全体による自主規制を進めるように指導した。これを受けて、被告人とT2社長との間で、中途採用者等向け就職情報誌業界に共通の広告掲載基準及び広告審査機構を作ることについて基本的な合意が成立し、そのことは被告人からR3や事業部関係者に伝えられた。
被告人は、三者会談後、丁谷をリクルート本社ビル地下の「寅」で接待した。
(〈証拠略〉)
(三) 右認定に関連する弁護人の主張等について
(1) 弁護人の主張等
弁護人は、業界による掲載基準の制定に関しては、五九年六月一二日に被告人と学生援護会のT2社長との会談で基本的合意に達し、同月一五日には、R3とT1が掲載基準を自主的に作る場として雇用情報センターが事務局となる旨合意したことから、求人広告研究会における掲載基準の制定作業は順調に進み、同年八月二八日の第三回会合でほぼ骨子がまとまっていたのであって、同月三〇日の三者会談当時、前途多難な状況にはなく、丁谷が三者会談を設定する必要性などなかったのであり、そこでは、被告人は、リクルートと学生援護会とで仲良くやってもらいたいという丁谷の話を聞いただけで、何の意味もなかった旨主張し、被告人も、公判段階において、一部同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(2) 検討
しかし、まず、求人広告研究会における作業の過程で、R3とT1との間で業界共通の広告掲載基準の内容等を巡って意見が対立し、三者会談前の段階では取りまとめが難航する状態にあったことは、当事者であるR3の捜査段階(甲書2六九)及び他事件の公判における供述(甲書2一〇五一)、同研究会に労働省から参加していたC1の公判段階における供述(〈証拠略〉)、広告研究会の議事録(甲書2四八〇、四八一)等の関係証拠から明らかなことである。
また、三者会談設定の趣旨やその際の丁谷からの話の内容についても、C1が、公判段階において、「〔右対立には〕リクルート、学生援護会という二つの大きな柱になる、まあ、ライバル同士、このライバル意識というものが、やっぱり、どうしても背景にあるのではないかと、それをなくしてこの土俵の上に上がってもらわないと困るんだと、こういう考えをもったわけです。それで具体的には私のほうから当時の丁谷局長に、〔中略〕トップの甲野社長なり、それから学生援護会のT2社長ですか、直接お会いいただいて、局長が仲に入って、まあ、仲良くというんでしょうか、業界の発展のために、両方の大きな会社が仲良くやると、そういうことにしてもらえないかというお願いをした」、「求人広告研究会というものをやってはみたけれども、リクルートと援護会との対立というのか、意見が合わなくて非常に難渋しているというのか、困っていると、やっぱり、リクルート、援護会、昔からのライバル同士だから、それを仲良くなるような、そういうトップ同士の話合いを局長がやってくれませんか、というようなそんな意味のことを申し上げたんじゃないかと思います。」と供述し(〈証拠略〉)、丁谷も、公判段階において、「自主規制や審査基準を作って、自主的にお互い規制するという方向で、両者ぜひ協力してほしいと、そういう方向に進まないならば、野党あたりからは、また国会で法規制をやったらどうかという動きも出てくるかもしれないという話をしたのではないかと思います。」と供述している(〈証拠略〉)。また、R10が職安法改正問題に関連して直接又は間接的に得た情報を時系列的にまとめたリクルートの内部文書には、三者会談の内容について、「①雇用情報センター求人広告研究会の場でR3氏とT1氏が火花を散らしているようだが、これでは掲載基準もまとまらない、仲よくやってほしい。②リクルートANが歩調を合わせなければ、法案を作らなければならなくなる」という記載があり(〈証拠略〉)、プロジェクトチーム作成に係る五九年九月五日付け「職安法改正関連」と題するリクルートの取締役会宛ての書面にも、三者会談の内容として、「両雄仲よくやってほしい。このまま歩調が合わないと掲載基準もまとまらない」という記載があって(〈証拠略〉)、いずれの記載内容もC1や丁谷の右各供述とほぼ合致しているところ、リクルート側から三者会談に出席したのは被告人のみであるから、これらの記載は被告人からの報告に基づくものと認められる。さらに、被告人自身も、三者会談の際、丁谷から「両者がけんかしていると、野党が〔中略〕国会で、労働省は何をやっていると、法規制をしろなんていう話になっても、うちも困ると、したがって、両者仲良くやって自主規制をしてほしいと」いう趣旨の話や「T1氏とR3氏がけんかしている」という話があったことは認める供述をしている(一八九回)。
これらの証拠関係からすれば、三者会談の内容が右(二)のとおりであったことは明らかであって、弁護人の主張は理由がない。
七 五九年九月以降の労働省の動きとリクルートの対応等
1 リクルートから丁谷に対するせんべつ名目による現金供与
丁谷は、五九年九月八日から二四日まで、各国の労働事情視察等の目的で欧米数か国に出張したところ、同月七日ころ、R7が被告人の指示を受け、労働省内において、丁谷に対し、外国出張のせんべつ名目で現金約一〇〇万円を供与した。
(〈証拠略〉)
2 求人広告研究会における意見の統一
求人広告研究会では、五九年九月一一日の第四回委員会で、同月三日の素案作成小委員会で作成された素案を基に協議し、求人広告倫理綱領制定の趣旨及び求人広告倫理綱領の内容についてほぼ合意が成立し、求人広告掲載基準項目については、なお問題が残ったことから、事務局である雇用情報センターから委員として出席しているT3同センター専務理事が労働省の担当者によって内容の見直しを受けるなどの検討、調整を図ることとなり、同年一〇月一日の第五回委員会を経て、同月二三日の第六回委員会で、素案に対する業界各社及び労働省の要望・意見を踏まえた上、求人広告倫理綱領制定の趣旨、求人広告倫理綱領及び求人広告掲載基準項目について意見統一が完了した。また、第六回委員会では、実際に広告掲載基準を作成し、その運用をするための組織作りについても協議されたが、業界の自主的な判断に任せるべきである旨のC1の提案が了承されて、T1を中心にその作業を進めることが合意された。
(〈証拠略〉)
3 労働省における就職情報誌に対する法規制の見送り
労働省職安局では、五九年一〇月四日、派遣業法制定及びそれに伴う職安法改正に関する職安局の方針を固めるために、丁谷局長及びC9審議官に加え、雇用政策課及び業務指導課の各課長、担当課長補佐及び担当係長が参加して会議を開催し、①職安法改正に就職情報誌に対する規制を盛り込むことについては、業界の反対が強く、職安法改正について論議を呼ぶことで、当時の職安局の最大の課題である派遣業法の国会審議が影響を受けることは好ましくないこと、②求人広告研究会における掲載基準作りなど、業界による自主規制の実現に向けた動きが具体化していること、③右②の事情からすれば、国会における派遣業法の審議に際して野党から就職情報誌に関連する質疑があっても乗り切れると判断されることなどから、就職情報誌業界に対する法規制を全て見送り、当面は業界の自主規制に任せる方針を決定した。また、右方針は、同月一二日ころ、丁谷がC8次官に報告し、その了承を得て、労働省としての方針になった。
(〈証拠略〉)
4 右3の認定に関連する弁護人の主張等について
(一) 弁護人は、労働省では、終始一貫、就職情報誌に対する法規制など考えておらず、自主規制で対応すべき問題であると考えていたのであり、法規制を見送ったわけではない旨主張する。
(二) しかし、そもそも、労働省職安局において、五八年秋から五九年一月にかけて、丁谷局長やC9審議官も了承した上、業務指導課を中心に、就職情報誌に対する法規制を検討していたことは、本章第三の二1、3、5のとおりであり、その後も、同年五月下旬ころ、C1が、出版協議会から職安法改正に反対する要望書が提出されたことを丁谷に報告した際には、丁谷がC1に対し、就職情報誌事業において公益に反することがあれば法的な措置を執っても憲法違反とならないはずであるから、業界の反対に備えて理論武装しておくようにという指示をし(本章第三の六1)、業務指導課では、同年六月下旬ころまでに、職安法改正に関する課内の検討の結果を取りまとめて、「職業安定法等の一部改正についての考え方」と題する書面を作成し、同月下旬ころから七月中旬ころまでの間、丁谷及びC9に対し、右書面に基づいて、就職情報誌に対する法規制に関する検討状況や業務指導課の意向を説明し、その後の検討の方向について丁谷の了承を得る(本章第三の六5)などしていたのである。また、同年一〇月四日の職安局内の会議で派遣業法制定に伴う職安法改正に就職情報誌に対する規制を盛り込むことについて検討が加えられ、その見送りが決まったことも、関係証拠(右3末尾記載のもの)によって明らかな事実である。
弁護人の主張は、客観的な事実関係を離れたものであり、理由がない。
5 リクルートの情報収集、丁谷らに対する接待と労働省側の応答等
(一) リクルートでは、五九年九月から一一月にかけても、R3、R22、R11、R10らが丁谷、C9、C1と面談するなどして就職情報誌の規制に関する労働省の動きにつき、情報収集やプロジェクトチームによる対応策の検討を続け、同年一〇月五日ころ及び一一月七日ころ、プロジェクトチームから取締役会宛の報告書を提出して被告人らリクルートの幹部にその状況を報告した。
(〈証拠略〉)
(二) リクルートでは、その間も、五九年一〇月一二、一三日、R7らが丁谷に対し、神奈川県三浦郡葉山町で船釣りの接待をし、同年一一月九、一〇日にも、R7らが丁谷に対し、千葉県銚子市で船釣りの接待をした。
また、リクルートでは、五九年一〇月二〇、二一日、丁谷、C9及びC1を労働省OBの国会議員一名ととともに○○レックに招待し、R5、R7らが宿泊や夜の宴会を伴うゴルフの接待をした。その宴席で、リクルート側から、法規制に関する労働省の方針を問われたのに対し、丁谷は、「業界団体できちんとした組織固めをして下されば、いいんじゃないでしょうか」などと答えた。
(〈証拠略〉)
(三) 五九年一一月中旬ころ、週刊ダイヤモンドに「就職情報誌潰し?労働省の理不尽」、「総評・大新聞と組んでの陰謀説も」という表題で、労働省が就職情報誌をつぶすための法規制を検討している旨の記事が掲載された。
労働省内でC8次官が右記事を問題視するなどの騒ぎとなり、丁谷も、右記事が丁谷ら職安局の当時の方針と全く異なるひどい内容であると感じるとともに、被告人がその掲載に関与していると推測したことから、五九年一一月一四日ころ、R7を呼んで、労働省では就職情報誌に対する法規制をする考えはないので、その旨を被告人に伝えるようにと話し、その際、同年九月にせんべつ名目でR7から受領していた現金約一〇〇万円を返した。
R7は、丁谷の右話を被告人に伝えるとともに、返された現金を被告人に戻した。
(〈証拠略〉)
6 業界による自主規制の進展とC1による労働省の方針の言明
(一) 新規学卒者向け就職情報誌業界では、出版懇話会において、五九年一一月二〇日ころ広告掲載基準を作成し、同月二七日の全体会においてこれを承認した。
また、五九年一一月二七日の出版懇話会全体会において、C1が、労働省では就職情報誌の取扱いを職安法改正の対象外としたことを明らかにし、就職情報誌の虚偽・誇大広告問題については、業界が広告掲載基準の実行を担保する体制を作って自主規制を進め、問題解決に当たることを期待している旨述べた。
(〈証拠略〉)
(二) 中途採用者等向け就職情報誌業界では、五九年一二月二七日に社団法人全国求人情報誌協会の設立許可を申請し、六〇年二月二七日にその設立が許可され、同協会において、求人広告倫理綱領及び広告掲載基準が作成され、それに基づいて自主規制が実施されることになった。
(〈証拠略〉)
7 職安法の一部改正を含む法律案の提出・成立等
六〇年三月、派遣業法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案が政府から国会に提出された。同法律案には、職安法の一部改正が含まれていたが(同法律案中の職安法に関する部分を、以下「職安法改正案」という。)、就職情報誌の法規制は盛り込まれておらず、同年六月七日に可決成立し、同年七月に施行された。
(〈証拠略〉)
8 労働省の方針言明後のリクルートから丁谷ら労働省の幹部に対する接待等
(一) 丁谷の職安局長在任中の接待等
リクルートでは、C1が五九年一一月二七日の出版懇話会全体会において、就職情報誌の取扱いを職安法改正の対象外としたことを明らかにした後も、同年一二月二〇日、R6、R7、R3らが忘年会の名目で丁谷、C9及びC1を銀座の料亭「巽」で接待した。また、六〇年三月二九日にも、被告人、R5、R6及びR8がC8次官、C11労政局長及び丁谷を銀座の料亭「坤」で接待し、同年四月二一日には、R6、R22らが丁谷、C9、C1らを神奈川県内の○○クラブ相模コースでゴルフの接待をした。
さらに、丁谷が労政局長に就任するなどの労働省の人事異動を控えた六〇年六月一四日には、丁谷を含む労働省の幹部七人に大鯛の盛合せを贈り、丁谷については、被告人の名刺を添えて丁谷の官舎に届けた。
(〈証拠略〉)
(二) その後の接待等
リクルートでは、丁谷が職安局長から労政局長に配置換となった後も丁谷に対する接待を継続し、六〇年八月五日、被告人、R5、R7らがC11労働事務次官、丁谷らを料亭「坤」で接待し、六一年五月一七、一八日に、R7及びR11が丁谷に対し、千葉県安房郡千倉町で船釣りの接待した。
また、リクルートでは、六一年六月一六日に丁谷が労働事務次官に昇任する直前には、丁谷を含む労働省の幹部九人に対し、昇進祝いとして大鯛の盛合せを贈り、丁谷に対しては、このほかに、柿右衛門窯製の陶器(価格九万円)を被告人の名刺を添えて丁谷の官舎に持参し、贈与した。さらに、同年七月一六日には、被告人らがC11前労働事務次官、丁谷ほか数名の労働省の幹部を銀座の料亭「申」で接待し、同年九月一〇日にも、R5らが東京都内の飲食店で丁谷を含む数名を接待し、同年一〇月二四、二五日には、R2、R7、R11らが、丁谷、C7ほか数名に対し、千葉県夷隅郡大原町で船釣りの接待をした。
なお、丁谷は、リクルート以外の就職情報誌発行会社の関係では、学生援護会から類似の接待を受けたことがあったが、リクルートの接待と比較すると、格の落ちるものであった。
(〈証拠略〉)
八 就職情報誌に対する法規制問題に関する被告人の認識について
1 弁護人の主張等
(一) 弁護人は、被告人は、就職情報誌に対する法規制は、当時の規制緩和の流れに反し、憲法上も重大な問題を含む上、求人広告を主要な収入源とする新聞業界等マスコミの反発も必至であるから、現実にはあり得ないことと考えていたため、就職情報誌に対する法規制について危機意識を抱いたことなど全くなく、被告人自身は、プロジェクトチームに指示や提案をしたり、関係者に働きかけたりという法規制阻止に向けた活動をしたことはなかった旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(二) 被告人は、捜査段階においては、元年三月一七日の検察官の取調べに対し、「私が法規制の動きがあることを知ったのは、五八年暮ころのことでした。確か、役員会の席上、R6か、当時事業部長をしていたR22のどちらかだったと思いますが、『労働省が派遣法の制定に絡み、職安法の一部手直しをすることになり、それに伴って就職情報誌に対しても法規制しようとしている。』旨の報告がありました。〔中略〕今回は、派遣法との絡みで、かなり本気で考えているようであり、その後の報告等で、担当課長であるC1さん以下のレベルで相当熱心であるといったことも分かってきました。〔中略〕情報取りに伴い、C1課長レベルで、改正法の案作りが行われているばかりか、直近に開かれる国会に上程したい意向を持っており、かなり本気であることが分かってきました。また、そのころ、その法案の原案らしきコピーも入手され、規制の内容として、事前の届出制、報告義務・立入検査・業務停止、罰則等を折り込もうとしていることも分かってきました。単純な法規制であれば、優良業者と不良業者の振り分けになり、必ずしもマイナスであるとばかりは言えないのですが、介入が強過ぎ、営業妨害になりかねないものであれば、それを容認することはできません。正に、労働省側が今度の法規制で狙っていたのは、営業妨害になりかねない内容を折り込もうとしていたので、当社としても危機感が増し、プロジェクトチームを創ることにしたものであります。〔中略〕勿論、このチームがどの様な対策をとることにし、また、実際に活動した結果等につきましては、節目、節目で取締役会やじっくりT会議で報告され、更には、報告書にまとめて、私を始めとする役員等に報告されていました。」(乙書2二)と供述したが、弁護人は、右供述は、被告人が、就職情報誌に対する法規制が行われることなどあり得ないと考えており、その危機感など全く有していなかったことを強調していたところ、P3検事が、丁谷に対するコスモス株の譲渡についての関与の点はともかく、この点だけは認めろ、他の関係者も認めているなどと執拗に追及したために、被告人がこれに屈してやむなく調書に署名・押印したものであるから、任意性がなく、かつ、その内容も、P3検事が取締役会議事録や事業部作成の資料等を被告人に読ませ、P3検事自身が資料の記載から推測した事実を被告人の供述として記載したものにすぎないから信用性もない旨主張し、被告人も、公判段階において、P3検事から、①関係者を逮捕すると言われたこと、②リクルートの者は、法規制を恐れて、法規制をされないようにいろいろ活動した旨供述しており、社長がそれに関係ないと言っても、それは通らない旨言われたこと、③コスモス株の譲渡の相手方として丁谷を選定したのが被告人でないことは調書の最後に入れるから、それと引換えに、リクルートが法規制問題でいろんな活動をしていたことについては認めるように言われたこと、④壁に向かって何回も立たせられるなどして脅されたことでP3検事が怖かったことから、検面調書に署名した旨供述している(〈証拠略〉)。
2 考察
(一) しかし、まず、労働省内において、派遣業法制定に伴う職安法の改正を検討する際、就職情報誌に対する規制も盛り込むことを検討していたことは、前記のとおり事実である(本章第三の二ないし七)。
(二) そして、労働省の右動きに関するリクルートの幹部の供述をみると、専務取締役として、リクルートで被告人に次ぐ地位にあったR5は、捜査の初期段階である元年一月一九日の検察官の取調べにおいて、五九年一月下旬ころの取締役会で、R6が同月二六日の出版懇話会におけるC1課長の発言について報告した上、法規制阻止のためにプロジェクトチームを結成するなどの対策を提案した際のことについて、「R6の説明に対し、みんなは労働省が本気でそんなことを考えているのだろうかという思いを多少持ちつつも、もし本当であるならば確かにこちらもプロジェクトチームを結成するなどして、情報収集や改正反対の陳情をしなければならないのではないかという空気になりました。そのためR6がみんなに『こういう状況ですから皆さんの協力をぜひお願いいたします』と協力要請をしたのに対し、みんなはそれぞれうなずいたり『わかりました』と答えたりして、いずれ事業部の方から具体的に何を手伝ってほしいというようなことがあれば、なんでも協力するという意思を表明したのでした。」(甲書2一〇六四)と供述し、元年二月二五日の検察官の取調べにおいても、「昭和五九年一月下旬ころ、〔職安法の〕改正阻止を目的に職安法対策プロジェクトチームを結成し、これに我々役員一同が協力して会社一丸となって職安法改正に反対していくことになりました。」「その後プロジェクトチームや取締役会でいろいろな対応策を話し合う一方、事業部の人間が精力的に情報収集活動をし、我々甲野以下の役員も事業部の連中と一緒になって政治家や丁谷さんらに改正反対の陳情活動を展開していったのでした。」(甲書2五六)と供述し、公判段階においても、「もし法規制という動きが本当にあったら、事業にとってはこういう影響は考えられるというような、そういう担当部署の危機感に基づいていろんな動きがあった」(〈証拠略〉)、「〔法規制が見送られたことがリクルートの営業にとってよかったかという点については、〕法規制がなされないほうがいいとは思っておりましたから、それはそのとおり、そういう面があるということは確かでございます。」(〈証拠略〉)と供述している。
また、事業部担当の取締役であったR6も、捜査段階において、元年二月二四日の検察官の取調べに対し、「甲野は、この職安法改正の動きを察知した際には、『これは問題だね』と言いました。甲野が問題だと言った意味は、甲野自身がそのころ役員会の席で『うちの会社は、国の機関の隙間で創業以来商売をしてきているんだ。それが法規制されて労働省の傘の中に組み込まれてしまったのでは意味がないんだよ。うちの仕事は労働省の行政指導の綱渡り的な要素があるんだからね』と話していました。〔中略〕労働省は職安の果す機能が低下して自分達の存在を問われかねない状態にありましたから、職安法の改正を行って何とか情報誌を規制していこうとしていたので、甲野としては、そのような労働省の巻き返し作戦に負けたくないという気持ちを持っていたものと思います。一方、私個人の考えを言えば、〔中略〕何らかの規制を行われる場合に、事務的な仕事が増えてきてしまうことを心配し、反対する気持ちを持っていました。〔中略〕当時のリクルート社の役員会においては、〔中略〕このまま職安法の改正作業を進めさせて就職情報誌の規制が行われるようになれば、当社の活動範囲が狭められ、労働省の巻き返しを許すことになってしまうという危機意識から幅広く反対運動を行っていくことになったのです。」(甲書2五一)と供述し、リクルートの取締役であるとともに、リクルート情報出版の専務取締役として、同社で被告人に次ぐ地位にあったR3も、元年二月七日の検察官の取調べにおいて、「〔五九年一月下旬ころのリクルートの取締役会の席上〕R6さんの報告については、そのとおり、リクルートとしてのプロジェクトチームをつくり、対応を講じ、法規制に反対していくことで甲野をはじめとする取締役間で合意がなされ了承されました。私としても、求人誌はリクルート及びその関連会社である就職情報センターの収益の屋台骨であり、これに対して法律上届出制等の規制がもしなされるのであれば、そういった行政権力からの規制をなるべく避けるようにして、自由な発想で求人誌作りに取り組んだからこそ飛躍してこれた我社の営業にも多大な影響をおよぼしかねないと思い、警戒心を強めていたのでした。」(甲書2六七)と供述するなど、一様に、当時の労働省の就職情報誌に対する法規制に向けた動きを事業上の重要な問題として受け止め、その阻止に向けて種々対応していた旨の供述をしており、これらリクルートの幹部の各供述は、リクルートの取締役会又はじっくり取締役会議の議事録(本章第三の三1)及びプロジェクトチーム会議録等のリクルートの内部文書の記載並びにリクルートの幹部及び就職情報誌事業担当者の実際の行動に照らすと、合理的なものであり、十分な信用性が認められる。
(三) したがって、リクルートの幹部や就職情報誌事業担当者は、丁谷が職安局長であった当時に、C1から労働省における就職情報誌の法規制に関する情報がもたらされた後、その見送りを明言されるまでの間、労働省における右法規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えるものと懸念して、その回避に向けた努力をしていたものと認められる。
(四) そして、リクルートの幹部が労働省における法規制検討の問題に関し右のような危機感を抱いていたのに、被告人が公判段階において供述するような楽観的な認識でいたというのは、不自然かつ不合理である。
また、被告人が、公判段階において供述するように、法規制の実現があり得ないことと考え、何らの危機感も抱かなかったのであれば、当時の取締役会又はじっくり取締役会議の議題として取り上げられた際、特段の行動を起こさずに静観する方向で意見を述べたはずであるし、その被告人の考えが当時のリクルートにとって合理的なものであれば、取締役会でも同様の結論となったはずである。
しかるに、現実には、本章第三の三ないし七のとおり、リクルートでは、C1から労働省における就職情報誌の法規制に関する情報がもたらされた後、取締役会やじっくり取締役会議において種々の対応を協議し、実際にも、法規制に関する情報を収集し、対策の中心としてプロジェクトチームを発足させ、そのメンバーや被告人を含む取締役らが国会議員と接触したほか、労働省の幹部を接待し、さらに、同業者団体を活用するなどして、就職情報誌に対する法規制の動きに関する情報を収集したり、その動きを阻止するために働きかけるなど、様々な活動を行ったのであり、被告人自身も、時にプロジェクトチームの会議に参加し、取締役会やじっくり取締役会議でも、リクルートの創業者兼代表取締役として、中心的な立場で、その協議及び決定に関与していたのである。
右経緯からすれば、被告人についても、その捜査段階における供述を待つまでもなく、他のリクルートの幹部と同様に、労働省における右法規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念していたことが明らかである。
第四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与
一 問題の所在
丁谷との間でコスモス株の譲渡に関する書類を作成する手続をしたのはR1であるが(本章第一の一1)、R1は、捜査及び公判段階を通じ、自分がコスモス株を丁谷に譲渡することを決めたわけではなく、他の者が決定し、他の者が丁谷の了承も得た後、指示を受けて譲渡手続をした旨供述するところ、その供述は、リクルートにおけるR1の地位や一連のコスモス株の譲渡におけるR1の役割(第一章第二の二1(三))に照らすと、合理的であるほか、被告人(〈証拠略〉)や関係者の各供述とも符合し、信用することができる。
もっとも、右「他の者」が誰であるかについては、R1の供述は変遷し、被告人や関係者の各供述も輻輳しているので、以下において検討を加え、被告人の関与を認定した理由を説明する。
二 関係者及び被告人の各供述
1 丁谷の公判段階における供述
丁谷は、公判段階において、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(一) R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられたことについて
コスモス株三〇〇〇株は、かねてから釣り等で懇意にしていたR7から、六一年九月末前後に頼まれて、引き受けたものである。
場所については明確な記憶がなく、労働省の事務次官室だったかなと思ったりもするが、その場面を思い出すと、R7と自分の二人が肘掛け椅子に座り、机を挟んで、自分の左斜め前にR7が座っていたという記憶であり、その椅子の配置が労働省の事務次官室の配置と違うので、労働省の事務次官室でなかったのかなとも思う。
R7との会話は、自分が「いやあ、しばらくぶりだね」、「ところで今どうしている」と言ったのに対し、R7がリクルートの子会社の方に移って何か企画的なことだとか管理的なことの仕事をしていると言った上、実は、リクルートの子会社で、丁谷さんもご存じのR3さんが社長をしているリクルートコスモスという会社があって、これはマンションの建設などをやっている会社ですが、ここが上場だか公開だか登録だかするので、今、各界の知名の方々や信頼できる方々にお願いに回っており、ついては丁谷さんにも是非一つ引き受けていただきたい旨言った。そこで、「幾らなの」と聞いたら一株三〇〇〇円というような話なので、「ええっ、高いな、おれも大して金を持っているわけじゃないから一〇〇〇株程度にしてくれよ」と言うと、R7から、「まあそうおっしゃらんで、せめて三〇〇〇株お願いします。融資の道もありますから」と言われ、それを承諾した。
(二) 被告人からの指示に関するR7やR1の言動について
R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた際、「甲野さんから言われて来た」という話は特になく、リクルート関係者が手分けして、各人の人脈をたどって知名な方々と言われる人の所に当たっているという感じだった。
R1がコスモス株の譲渡関係書類の作成のために労働事務次官室に来た際、R1は、「甲野さんの秘書」という言い方はしなかった。「リクルート社長室次長のR1」あるいは「リクルートのR1」と名乗り、社長室次長の名刺も渡されたので、社長直属のブレーンとして機能する社長室の次長であるとは認識したが、被告人の意向を受けてきたという感覚はなく、各界の知名人にコスモス株をお願いする手続を社長室でまとめてやっているのかという程度の感覚だった。
2 丁谷の捜査段階における供述
丁谷は、右1(二)の点に関し、検察官の取調べにおいては、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた際のR7の話につき、「R7さんは引き続き私に改まった態度で、『ところで、丁谷さん。甲野から言われてきたのですが、実は丁谷さんもよくご存知のあのR3さんが社長をしているリクルートコスモスという会社の株が近々店頭公開されるのですよ。それで、今、各界の知名な方々にお願いしているのですが、丁谷さんもその株を引き受けてもらいたいのです。』などと言って、コスモス株の購入を勧めてきたのです。それを聞いて私は、リクルートの社長である甲野さんが、R7と相談の上、R7という従来からの部下を使って私にコスモス株の取得を勧めてきたのかなと思いました。」と供述し、R1との間で手続をした際のR1の話についても、「六一年の九月中下旬頃、後で名前がリクルート社の秘書室次長をしているR1ということが分かった男が、労働省の事務次官室にコスモス株の譲渡手続きにやってきました。たしか、来る前に事務次官室の私の所にR1から電話が入り、『リクルートの甲野の秘書をしているR1と申しますが、甲野の使いでこれから前にR7から話をしておりますコスモス株の譲渡手続きをしたいので、これから次官室にお伺いしてよろしいですか。』等と言ってきました〔中略〕。〔R1が労働事務次官室に来た際、〕R1は最初にリクルートの社長室次長か課長の肩書のついた名刺を私に差し出しながら、『リクルートの甲野の秘書のR1ですが、お忙しいところ恐縮です。コスモス株の書類の手続きに伺いました。』等と言ってきたので、私はR7の話通り、リクルートの甲野さんが儲け話として私に勧めてくれたコスモス株三、〇〇〇株譲渡の件で甲野がR1と相談の上R1が株譲渡の事務手続きにきたのかなと思いました。」(元年三月二四日付け検面調書・甲書2一六九)と供述している。
3 R7の捜査段階における供述
R7は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) 元年三月二四日付け検面調書(甲書2一〇二七)
「私は昭和六一年九月中旬ないし下旬頃、当時労働省事務次官であった丁谷三郎さんにリクルートコスモス株三、〇〇〇株を一株三、〇〇〇円で買ってほしいとおすすめしたことは間違いなく、現在までその前後の状況についてさらに真剣に考えてまいりました。それでこの譲渡話を丁谷さんに持ちかけるにあたっては、リクルート社において、社長の甲野太郎さんからそのコスモス株を三、〇〇〇株ほど丁谷さんに譲渡したいから先方に話をしてみてもらいたいと頼まれ、それでおすすめる際に、『三、〇〇〇株ほどどうですか』と株数まで示しておさそいしたのだと思うのです。丁谷さんがこれを内諾したので、それを甲野さんに話したところ、その後社長室次長のR1が丁谷さんのところに株譲渡の手続をとりに行ったと思います。」
(二) 元年三月二四日付け検面調書(甲書2一〇二八)
「その〔コスモス株の譲渡を持ちかけた〕場所は、労働省の事務次官室か或いは政治家等の励ます会等が催された東京都内のホテルのいずれかであったと思います。丁谷さんにリクルートコスモス株購入を勧めた際、私は丁谷さんと会うのは久し振りでしたので、丁谷さんに『久し振りですねえ』などと挨拶をし、私が昭和六一年七月三一日付でリクルート取締役を退任し、リクルートの子会社である株式会社コスモスライフで仕事をしていることや、コスモスライフの業務の内容等を話しました。そして、私は丁谷さんとそんな話をした後、丁谷さんに『丁谷さん、丁谷さんも御存知のR3さんが社長をしているリクルートコスモスという会社の株が近々店頭公開されるのですが、その株を引き受けてもらえませんか』などと言いました。なお、このとき丁谷さんに対し、『甲野から言われて来たのですが』などと言ってリクルートコスモス株を勧めたかもしれません。丁谷さんが『一株いくらなんだい』などと、株の値段を訊きましたので『一株三、〇〇〇円です、三、〇〇〇株程どうですか。ファーストファイナンスからの融資の途もありますから』などと言いました。私がこんな話を致しますと、丁谷さんはこの株の話に興味を持たれたらしく、私に『儲かるのかい』と尋ねました。私は、『儲かりますよ』と答えたのです。そうしたところ、丁谷さんはリクルートコスモス株を購入する気になったらしく『それじゃあ引き受けるかな』などとおっしゃっていました。先程私は、丁谷さんがリクルートコスモス株の購入を内諾されたので、それを甲野に話したところ、R1が丁谷さんのところに株譲渡の手続きをとりに行ったのだと思いますなどと申し上げましたが、R1が、『R7さんから丁谷さんのところにコスモス株譲渡の話がしてあるので手続きに行ってほしいと言われた』と言っているのなら、或いはそうであったかもしれません。」
(三) 元年三月二五日付け検面調書(甲書2一〇二九)
「具体的な日時はよく覚えていませんが、昭和六一年九月中下旬ころ、リクルートの社長室の女の子からだったと思いますが、コスモスライフにいた私に『甲野さんがお呼びですので、来てください。』との電話がありましたので、コスモスライフから歩いてリクルートに行き、甲野のいる社長室に入りました。そうしますと、甲野が私に『R7君、今各界の著名な方々にリクルートコスモス株を勧めているんだが、君は労働省の丁谷事務次官と親しいので、丁谷事務次官に一株三、〇〇〇円で三、〇〇〇株勧めてくれないか。丁谷事務次官が金がないとおっしゃったらファーストファイナンスからの融資の途もあると言ってくれ』などと言いました。〔中略〕甲野は丁谷さんと私が釣りに行くなどして親しかったことなどから、丁谷さんに対しリクルートコスモス株三、〇〇〇株を一株三、〇〇〇円で勧めてきてほしいと私に頼んでいるのだと思いました。丁谷さんには、丁谷さんが職業安定局長時代、就職情報誌に対する法規制問題のことで非常にお世話になっていましたし、労働行政全般を統括する労働事務次官に栄転された丁谷さんに、今後ともリクルートの立場に立った指導等を行っていただきたいなどという気持ちから甲野が丁谷さんに儲けていただきたいとの気持ちでリクルートコスモス株購入を勧めようとしているのだなと思いました。私は、〔中略〕すみやかに丁谷さんと会って、丁谷さんにリクルートコスモス株購入を勧めました。その日がいつであったかはっきり覚えていませんが、甲野から指示を受けた当日かその直後ころであったと思います。〔中略〕丁谷さんに会った私は、丁谷さんに対し、まず『甲野から言われて来たのですが』などと甲野の遣いで来たことを伝えた上、『丁谷さんも御存知のR3さんが社長をしているリクルートコスモスという会社の株が近々店頭公開され、それで各界の著名な方々にその株を持ってもらうようお願いしているんですが、丁谷さんにもその株を引き受けてもらいたいんです』などと言いました。そうしますと、丁谷さんが『一株いくらなんだい』と言いましたので、私は甲野から一株三、〇〇〇円で勧めてほしいと言われていましたので、丁谷さんに『一株三、〇〇〇円です』と答えました。ところが、丁谷さんは私の話に魅力を感じたものの、金がなかったらしく、『一株三、〇〇〇円か、高いなあ。俺そんな金ないよ。一〇〇〇株でいいよ』などと言いました。丁谷さんからこのようなことを言われましたが、私は甲野から丁谷さんには三、〇〇〇株を勧めてほしいと言われていましたので、丁谷さんに『ファーストファイナンスからの融資の途もありますから、せめて三、〇〇〇株お願いしますよ。』と言いました。丁谷さんは、私が融資の途もあるということを話しますと、リクルートコスモス株を購入する気になったらしく、私に『儲かるのかい』と尋ねました。〔中略〕私は丁谷さんに『儲かりますよ』と答えました。私がそんなことを言いますと、丁谷さんはリクルートコスモス株を購入する気になったらしく『わかった、それじゃあ引き受けるかな』などと言って、リクルートコスモス株購入を承知されました。私は、丁谷さんとそんな話をした後、丁谷さんとは昭和六一年五月中旬ころ、千葉県の千倉に釣りに行ったきり、一緒に釣りに行っていなかったので、丁谷さんに『ところで丁谷さん、最近これやっていますか』などと言いながら、手で釣りに行っていますかというような仕草を致しました。そうしますと、丁谷さんが『最近は行っていないよ』などと言いながら釣りに行きたそうな顔をされていましたので、これまでのときと同様、リクルートの費用で丁谷さんを釣りにお誘いしようと思い、丁谷さんに『それじゃあ、こちらで用意致しますので鯛でも釣りに行きましょうよ』と言っておきました。〔中略〕その後私はリクルートに行き、甲野に『丁谷さんにお勧めしたところ、丁谷さんは承知されました』などと、丁谷さんがリクルートコスモス株三、〇〇〇株の購入を承知されたことを報告しました。なお、そのとき甲野から『手続きの方はR1君にやらせるから、R1君に丁谷さんのことを言っておいてくれないか』などと言われ、甲野に報告した後R1に丁谷さんがリクルートコスモス株三、〇〇〇株を購入することを承知したことを伝えたかもしれません。」
(四) 元年三月二六日付け検面調書(甲書2一五七)
若干の付加と表現の変更があるほか、前日の供述とほぼ同一。
(五) 元年三月二七日付け検面調書(甲書2一〇三二)
「私が、昭和六一年九月中、下旬ころ、甲野太郎から丁谷三郎さんに対し、リクルートコスモス株三、〇〇〇株の購入を勧めてきてほしいと言われ、丁谷さんと会ってリクルートコスモス株の購入を勧め、丁谷さんの内諾を得たことを甲野に伝えたことは間違いありません。このように、私は甲野の指示に従って丁谷さんへの株譲渡の話を持ちかけたのであって、私の方から甲野に丁谷さんに対し、リクルートコスモス株を譲渡されたらどうでしょうかなどと話したものではありません。また、甲野以外の者、例えばR5、R2、R1、それにリクルートコスモスの社長であったR3等から指示を受けて丁谷さんへの株譲渡の話を持ちかけたものでもありません。〔中略〕また、甲野が政官界の人達にリクルートコスモス株を譲渡しようとしているのを誰かから聞くなりして、私が勝手に丁谷さんへの株譲渡の話を持ちかけたものでもありません。」
4 R7の公判段階における供述
R7は、公判段階においては、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように被告人から指示されたことはなく、丁谷にその譲渡を持ちかけたこともない旨供述している(〈証拠略〉)。
5 R1の捜査段階における供述
(一) 捜査段階初期における供述
R1は、一連のコスモス株の譲渡を巡る事件の捜査の初期段階である六三年一一月一七日の検察官の取調べにおいて、六一年九月の三者による選定の機会に、被告人が譲渡の相手方として他の二〇名余の者とともに丁谷の名前も挙げた旨の供述をした上(乙書2三二)、同じ六三年一一月一七日の検察官の取調べにおいて、被告人の指示で丁谷に対するコスモス株の譲渡手続をしたことにつき、次のとおり供述した(乙書2三三)。
「昭和六一年九月上旬ないし中旬ころ、甲野さんから政治家や財界人、役人などにリクルートコスモスの株を譲渡するについての事務手続をするように命じられ、私とR2さんとで分担して、その仕事をしたのでしたが、私が担当した人の一人として丁谷さんがおりました。丁谷さんの名前は、甲野さんがその最初の指示の時に出したのであり、丁谷さんをなぜ選んだかについては詳しいことはわかりません。〔中略〕昭和六一年九月中旬ないし下旬ころ、丁谷さんについてコスモス株の譲渡の事務手続をすることになり、まず、甲野さんかR2さんに『丁谷次官に言っておいてもらったでしょうか』と確認をとりました。それで、実際に丁谷さんに話を持っていったのが誰であるかはわかりませんでしたが、既に丁谷さんにはコスモス株の譲渡についての話はしてあるとのことでした。それで、私は労働省に電話をかけ、丁谷さんに『リクルートの甲野の秘書のR1と申します。ご用向きは既にお聞きだと思いますが、次官にお時間を入れていただきたいのですが』と言い、これに対して丁谷さんは当日であったか翌日以降であったか忘れましたが、時間をとってくれました。」
R1は、その後、六三年一二月一七日の検察官の取調べにおいても、六一年九月に被告人から数回にわたってコスモス株の譲渡の相手方を指示された中に丁谷の名前もあった旨の供述をした(乙書2三五)。
(二) その後の供述経過
その後、R1については、元年一月三〇日の検察官の取調べにおいて、「昭和六一年九月ころ甲野太郎さんからリクルートコスモス株の譲渡手続をするよう指示されましたが、その際指示された譲渡先の中に丁谷三郎さんの名前は入っていなかったかもしれません。」という記載(乙書2三六)や「正確な記憶ではありませんが、R7さんから『丁谷さんへの譲渡手続に行ってくれ』と言われて丁谷さんのところへ譲渡手続に行ったのであったかもしれません。〔中略〕また、甲野から私に『丁谷さんへの譲渡手続に行ってくれ』と指示があり、それに基づいて丁谷さんのところへ譲渡手続に行ったのであった可能性もあります。R2やR5そしてR3から『丁谷さんのところへ株譲渡の手続に行ってくれ』と指示された可能性も同様にあります。」という記載(乙書2三七)のある検面調書が作成され、元年二月四日の検察官の取調べにおいては、「私は、丁谷さんに対する株譲渡手続きをするにあたって、誰れに云われてその手続きをしに行ったのか記憶が定かではありませんでした。〔中略〕只今検事さんから『丁谷さん、R7さんら関係者の方々から事情聴取されたところ、丁谷さんに右株式の譲渡の話を前もってされていたのはR7さんである』と聞かされました。又、R7さんが丁谷さん以外の方々に対する右株式の譲渡に関係しておられることはないと聞かされました。〔中略〕丁谷さんに対する株譲渡の手続きに行くにあたって、私としては確実な記憶ではないのですが、R7さんから譲渡手続きに行ってくるように云われたか、或いは、丁谷さんに対する譲渡の話をしてある旨云われたか、とにかくそういう可能性、記憶のひっかかりのようなものがあったことは事実でした。ただし、それは決して確信をもって云える程の記憶ではなかったのでした。それで、只今検事さんからお聞かせいただいたことを更に前提にすれば、私が丁谷三郎さんの所に右株式の譲渡手続きに行くにあたっては、R7さんから、譲渡手続きに行ってきてくれと云われたか、或いは、丁谷さんに対する譲渡の話はしてあるからとのことを云われて、私が丁谷さんの所に右株式の譲渡手続きに行ったことが考えられ、その可能性があるのです。ただ、現在の私の記憶では確信まではありません。」という記載がある検面調書(乙書2三八)が作成された。
なお、R1は、元年二月一八日、証券取引法違反の被疑事実で逮捕され、引き続き勾留された後、同年三月一〇日に丁谷に贈賄したという事件で逮捕され、引き続き勾留された(〈証拠略〉)。
(三) 捜査段階後期における供述
さらに、R1は、検察官の取調べにおいて、以下のとおり供述している。
(1) 元年三月一五日付け検面調書(乙書2四一)
「コスモス株を譲渡するということについては、全て甲野さんの発案に基づくものであって、私としてはその甲野さんの発案のもと、甲野さんの意向にそってどれも譲渡に関する事務手続をしたのに間違いありません。〔中略〕丁谷三郎さんに対する株の譲渡手続は私自身が行っており、この事務手続もほかの甲野さんの発案に基づく譲渡手続と同様の手続をしたものであることは間違いなく、それはこれまでに検事さんにお話ししたとおりです。〔中略〕こういったコスモス株譲渡の事務手続に行くにあたっては、この〔六一年九月の三者による選定の機会における〕リストアップとは別にその後私は甲野さんら役員が、すでに先方に譲渡話を持ち込み、その了解を得ていることを確認するか、甲野さんらから手続に行くように指示されて、それに従って行くようにしていました。この丁谷三郎さんのもとに手続に行くにあたっては、〔中略〕R7さんがリクルート社に来訪し、甲野さんだったかR2さんだったか、あるいは専務取締役のR5さんだったかと何か相談している場面を憶えており、その時だったかどうか確かではありませんが、R7さんから直接か、あるいはR7さんの話を聞いていた甲野さんだったかR2さんだったかR5さんだったかから、『丁谷さんのところにコスモス株譲渡の話がしてあるので手続に行ってほしい』などと言われて丁谷三郎さんのところにコスモス株譲渡の事務手続に行った記憶があるのです。」
(2) 元年三月一九日付け検面調書(乙書2二二)
「六一年九月当時、店頭登録間近のリクルートコスモス株を譲渡するというアイデアは全て甲野さんの発案と意向によるものであり、私は甲野さんがリストアップした方々のうち二〇名弱の方々に対しコスモス株譲渡の手続をしたことは間違いありません。当時労働事務次官であった丁谷三郎さんへのコスモス株三、〇〇〇株の譲渡も今申し上げた二〇名弱の方々の一人として私が実際に株譲渡の事務手続をしたものであるのは間違いないことなのです。私は〔中略〕コスモス株譲渡の手続をするように言われた人々についても実際にその譲渡手続を行なうにあたっては甲野さんら役員に対し譲渡先への株譲渡の話が持ち込まれ了解を得ているかどうか確認するか、あるいはそういった譲渡話が済んでいるので手続に行くように言われたあとで譲渡の手続を行うようにしておりましたが、丁谷さんへの事務手続におもむくにあたって、直接には、私に対し譲渡手続に行くように言ってきたのがR7さんだったか甲野さんだったかR2さんだったかR5さんだったか確信できるまでの記憶がないのです。」「この〔丁谷に対するコスモス株の譲渡の〕事務手続をとったのは、その年〔六一年〕の九月中であって一〇月にずれこむことはなかった記憶です。」
(3) 元年三月二二日付け検面調書(乙書2四二)
「丁谷三郎さんにコスモス株三、〇〇〇株を譲渡するというリストアップをした人について私の記憶としては甲野太郎さんがリストアップしたということのほか、R5さんあるいはR2さんがリストアップした可能性もあるという記憶でいるのです。
問 R5さんやR2さんは丁谷さんにこの株を譲渡するというリストアップをした記憶は全くないと言っており、この株譲渡の話をR7さんから持ちかけられたR5さん自身が『甲野さんから言われて来た旨R7さんが言っており、R5さんやR2さんからは一切株譲渡についての打診を受けたことはない』と供述しているがどうか。
答 私の記憶としてはR5さんあるいはR2さんの可能性もあるという記憶ですが、検事さんがそうおっしゃるのであれば私の記憶の内、この丁谷さんへの株譲渡のリストアップをしたのは甲野さんであるという記憶が正しいと判断してよいと思います。」
(4) 元年三月二三日付け検面調書(乙書2二三)
「昭和六一年九月中、下旬頃、当時労働事務次官であった丁谷三郎さんに対し、リクルートコスモス株三、〇〇〇株を譲渡するにあたり、このことを発案し丁谷さんにこの三、〇〇〇株をお譲りするというリストアップをしてきたのは、これまで申し上げたとおり、甲野太郎さん自身と記憶しており、それに基づいて私がその譲渡手続をしたことは間違いありません。〔中略〕当時のリクルート社社長室では、社長室長であったR2さんと私とが甲野さんからコスモス株譲渡の事務手続をするように言われ、手わけしてこれを行なったのです。〔中略〕甲野さんがリクルートコスモス株の譲渡先をリストアップしたのは、一回の機会に全てリストアップしたのではなく、リストの名前は全部で二〜三〇名におよんだと思いますが、一週間位の内に数回リストアップする機会があって、それで全体で二〜三〇名になったと記憶しております。R2さんは最初のリストアップの機会に同席していたことは間違いありませんが、その後の全ての機会に同席したかどうか憶えておりません。〔中略〕コスモス株譲渡の事務手続におもむくにあたっては、甲野さんがリストアップで指示してきたのとは別に、私はその後甲野さんら役員がすでに先方に譲渡話を持ち込み、その内諾を得ていることを確認するか、甲野さんら役員から今から譲渡手続をとってほしいと指示され、それにしたがって行くかしておりました。この丁谷三郎さんのところへのコスモス株譲渡については、甲野さんがリストアップした内の第一回目の機会ではなく、その後数回ある終りの方の機会に、甲野さんから追加されて言われた記憶があるのです。私は甲野さんから、丁谷さんにも三、〇〇〇株お譲りするからたのむ旨言われております。この丁谷さんの名前を言われた際にR2さんも同席していたか憶えていませんが、結局丁谷さんのもとへは、私が行って事務手続をとるようになったのです。このように丁谷さんのところにコスモス株三〇〇〇株をお譲りする話が出た直後頃、九月中、下旬頃と思いますが、前回もお話ししたとおりR7さんから直接だったかあるいは甲野さんらに言われたかしたのですが、『丁谷さんのところにコスモス株譲渡の話がしてあるので手続に行ってほしい』などと言われ、それで私がその事務手続をとることになったのです。」
6 R1の公判段階における供述
R1は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
六一年九月の三者による選定の機会にリストアップされた中には、丁谷の名前は出ておらず、被告人から丁谷に対するコスモス株の譲渡を指示されたこともない。丁谷に対するコスモス株の譲渡手続は、同年一〇月下旬ころ、R2から指示を受けて行ったものであるが、誰が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定したのかは分からない。
7 被告人の捜査段階における供述
(一) 供述経過
被告人は、六三年一二月や元年一月の検察官の取調べにおいては、丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与したことを否定しており、同月九日にはその趣旨の検面調書が作成され、同年二月に逮捕された後も、同様の供述を続けていたところ(〈証拠略〉)、同年三月二四日の検察官の取調べにおいて、次の内容の検面調書が作成された(〈証拠略〉)。
「問 丁谷三郎さんに対する三、〇〇〇株の株譲渡は誰が人選し、その株数を決め丁谷さんに話を持ちかけたものか。
答 私は、人選も株数の決定にも関与しておりませんし、部下達の誰にも交渉するように指示しておりません。
問 君でないとすれば、誰が人選や株数の決定をしたと思うか。
答 R2やR3の可能性があります。
問 その両名は、君に相談し、あるいは了解を求めることをせず、勝手にやり得るのか。
答 可能性としてあります。〔中略〕
問 丁谷三郎さんの件で、R2、R3が関与した可能性があるという君の主張は実際に動いたR7及びR1との関係ではどうなるのか。
答 R2やR3が二人に指示した可能性がないとは言えません。
問 R1は終始一貫、君が丁谷さんを人選し、株数を決めた旨供述しているが。
答 私は、人選した覚えはなく、濡れ衣です。
問 R7は、君から指示されたと供述しているが。
答 R7に指示した覚えはありません。
問 丁谷三郎は、R7から『被告人から言われて来ました』〔という話を聞いた〕旨供述しているが。
答 どうしてそう言われているのか分かりません。」
(二) 元年三月二五日付け検面調書(乙書2三)
被告人は、元年三月二五日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「私は、丁谷三郎さんに対するコスモス株三、〇〇〇株の譲渡について、これ迄一切関係がないと供述してきました。しかし、私が自から丁谷さんを人選して、その株数を三、〇〇〇株と決めたことは認めます。」「正直なところ、この丁谷さんの問題は記憶が極めて曖昧でした。〔中略〕国会証言の後、マスコミがフィーバーし、その報道の中で中心になっていったのが丁谷さんに対する株譲渡の件であり、地検特捜部も労働省ルートに重点を置いており、真っ先にその線で強制捜査に入るといった論調を書き出しました。〔中略〕『何でこれほどまでに私やリクルートが袋叩きにされなければならないのか。負けるわけにはいかない。』といった気持ちが強くなっていきました。〔中略〕そうした防衛本能が高まれば高まるほど、記憶が不正確であった丁谷さんの件につきましても、『俺は関係ないんだ。俺は関与していない筈だ』といった感情移入が生じ、検事から『記憶を整理して、キチンと話しをしたらどうか。』等と説得されましても、頑として聞こうとしなかったのであります。人の意識とは不思議なもので、頭の一部に、『自分で丁谷さんの件もリストアップしたんだよなあ』という記憶があっても、『しかし、どうやって丁谷さんに伝えたのかなあ。自分で直接声をかけた記憶はないし、誰にやらせたかよく分からないなあ』という思いがあったところに、捜査に対する防衛本能が働き、『認める訳にはいかない、裁判は勝つか負けるかだ、そうすることが迷惑をかけた人達に対するせめてもの償いである。』といった気持ちから、『俺はリストアップもしていないし、指示もしていない』という気持ちに凝り固まってゆき、しかもそれが現時点における記憶のようにまで高まっていったのです。検事から、時間の若い時に記憶が曖昧でありながら、時間が古くなった時に『丁谷さんには一切関与していない』旨の記憶が明確になるのは不自然はないのか、と指摘されましたが、それは正に今述べたことを的確にとらえられたものであります。」「いずれにしましても、私が丁谷さんに対する三、〇〇〇株のリストアップをしたことは事実であり、今まで検事に対し、『もしそうしたことを認める証拠があれば、それはデッチ上げであり、濡れ衣である』旨失礼な言い方をしてきましたが、この場においてお詫び申し上げると共に撤回させていただきたいと思います。」「何故、この件についてキチンと話しをすることにしたかと言いますと、検事から『大所高所に立って話しをする気持ちになったらどうか』等と説得され続けました。実際、私の胸の内には『譲渡の流れに関する具体的な状況がどうであれ、この七〇万株は私が管理支配するものであり、そのバラ撒きも私が発案し、私が主体となってやったことなので、元に戻れば総て私に責任がある』という気持ちは持っていました。そして、本日、○○先生らの接見を受けた際、検事とほぼ同趣旨の話しをされるに及び、私の頑なな防衛本能も緩み、また、キチンと話しをすることの方が、かえってプラスになるのではないかと考えるに至ったのです。」「確か、六一年九月の中〜下旬と思っています。要するに、私が四〇人程をリスティングした九月上〜中旬とかけ離れ、丁谷さんの件は終わりごろだったと思っています。確かR18君に『どれ位残っているか』と聞くと『三、〇〇〇株程度』の答がかえってき、それと共に丁谷さんのことを思い出してこの株を丁谷さんにお譲りしようと考えたように思っています。ただ、残株数の問い合わせ先がR18君であったかどうかは今一つ自信がありません。私は、自分で丁谷さんをリスティングしたことは、今述べました様に思い出せるのですが、その後について正直なところハッキリとした記憶がないのです。〔中略〕私が直接声をかけた記憶はないので、誰かに頼んだことは間違いないと思います。当時のリクルートでは、丁谷さんに一番親しかったのがR7であったことは事実です。〔中略〕今一つはっきり記憶がありませんが、もしかしたら社長室に顔を出したR7に『丁谷さんに三、〇〇〇株持っていただこうと思うので話してきてくれんか』と声をかけているかもしれません。」
(三) 元年三月二六日付け検面調書(乙書2四)
被告人は、元年三月二六日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「丁谷さんに対する三、〇〇〇株の株式譲渡の経緯について、今一度御説明しますと、自分でリスティングした後R1を呼び『丁谷さんに三、〇〇〇株お譲りすることにしたから』等と話していると思います。と言いますのも、R1に対しては丁谷さんの件に限らず、私が人選した者については、その多くをR1に伝えるようにしていたからであります。」「私が会社の誰かに指示して丁谷さんのところに話を持っていかせたのは事実なのですが、それが誰であったのか定かな記憶がありません。本来であれば、私が電話すれば足りることでしたが、直接電話していないのは間違いないところです。しかし、今の時点に立って考えてみますと、R7君に頼んだのが一番本当かと思います。彼が丁谷さんと一番親しく、また釣りに行くとか行ったとかいう話も記憶に残っているからです。ただ、そうであったとしても軽い思いつき程度のことであり、R7君でなければならなかったというようなものではなかったと思います。R7から『丁谷さんが引き受けて下さることになりました』旨の報告を受けていないかとのお尋ねですが、正直なところ覚えておらず、あったかも知れませんし、なかったかも知れません。」
8 被告人の公判段階における供述(概要)
被告人は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている〈証拠略〉)。
R7に対し丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示したり、R1に対しその譲渡手続をさせたりしたということはなく、そもそも丁谷にコスモス株が譲渡されたことは、一連のコスモス株の譲渡の当時は全く知らず、六三年一〇月のマスコミ報道によって初めて知った。自分がコスモス株の譲渡の相手方の選定を任せた者の中で、丁谷と往来があったのはR3とR2だけなので、両名のどちらかが丁谷を選定したと思う。
三 丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR7であること
1 丁谷の供述の信用性
(一) 丁谷は、本章第四の二1(一)のとおり、公判段階において、コスモス株の譲渡についてはR7から持ちかけられた旨供述するが、この供述は、コスモス株の譲渡が社会的な問題になって以降、一貫したものである。
(1) すなわち、まず、丁谷は、六三年一〇月一〇日、コスモス株を譲り受けたことに関し初めて新聞記者等から取材を受けた際、釣り仲間の人からコスモス株取得を頼まれた旨答えたが、その「釣り仲間」の氏名は述べていないものの、それはR7のことであった。また、丁谷は、その直後に、電話でC1と話した際、自分もコスモス株の譲渡を受けており、新聞記者等の取材を受けて大変だった旨の話をするとともに、「R7君が余計なことをしてくれなければな」、「R7君から勧められた」などと話した。
(〈証拠略〉)
(2) 丁谷は、その後、次に記載の衆議院特別委員会における証言に先立ち、労働省の秘書課長から事情を聴かれた際も、R7から話があってコスモス株三〇〇〇株を譲り受けた旨話した。
(〈証拠略〉)
(3) 丁谷は、六三年一一月二一日、衆議院リクルート問題に関する調査特別委員会において、証人として宣誓した上、コスモス株を譲り受けた経緯について、「昭和六十一年の九月の中下旬ころでございましたか、魚釣りの釣り仲間の元リクルート社員R7氏が、何かの会合で顔を合わせまして、そこで、私に、実は今度、丁谷さんもよく御存じのR3さんが社長をしておるリクルートコスモスという会社、これはリクルートの子会社なんだけれども、これの株を公開することになって、今各界の知名の方々、信頼を置ける方々にお願いしております、ついては丁谷さんもぜひひとつお願いしますと、こういうようなお話がございました。」「話を持ってきたR7さんが十年来の釣り友達と、釣り仲間というような関係でございまして、その人が頼むから、それじゃ引き受けるかということでございまし〔中略〕た。」と証言した。
(〈証拠略〉)
(4) その後、丁谷は、元年一月一五日以降、収賄の被疑者として検察官の取調べを受けるようになったが、その際にも、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた旨供述し、自身を被告人とする公判やR7を被告人とする公判においても、同様の供述をした。
(〈証拠略〉)
(二) 弁護人は、丁谷の供述は一貫しているように見えても、重要な点で不合理に変遷を重ねており、公判段階における供述は、譲渡を持ちかけられた時期もはっきりせず、場所も全く思い出せないなど、極めて曖昧な内容であるから、信用し得ない旨主張する。
確かに、丁谷は、譲渡を持ちかけられた場所については、衆議院の右特別委員会においては、「何かの会合で顔を合わせまして」と証言していたのが、捜査段階においては、「場所は労働省の事務次官室ではなかったかと思います。」(甲書2一六九)と供述し、公判段階においては、「実は、その場所については記憶がはっきりいたしませんで、じゃあ事務次官室だったのかなというふうにも思ったり、あるいは、しかしそのときの机やいすの、何かそんな場面を思い出しますと、事務次官室じゃなかったのかな、じゃあどこだったのかなというようなことで、どうもはっきりいたしません」(〈証拠略〉)などと供述していて、変遷しているとはいい難いものの、終始曖昧なままとなっている。
また、丁谷は、譲渡を持ちかけられた時期について、衆議院の右特別委員会においては、「六十一年の九月の中下旬ころ」と証言し、捜査段階においても、「六一年九月中旬ないし下旬頃」(甲書2一六九)と供述していたのが、公判段階においては、はっきりした記憶はないが、六一年九月一九日から二一日の間に出身地で事務次官就任を祝うパーティーを開催してもらった後という感覚があり、同時に、コスモス株を売却した一一月五日の一週間や二週間前ということではなく、一か月程度前という感覚があるので、結局九月下旬から一〇月上旬程度という感覚である旨供述していて(〈証拠略〉)、公判段階における供述は、衆議院の特別委員会における証言や捜査段階における供述と多少相違している。
しかし、コスモス株の譲渡を持ちかけることは、譲渡書類の作成とは異なり、具体的な行為を伴わず、口頭でのやり取りにとどまるものであるから、その場所が普段利用しない特別な場所であるとか、場所と会話を結びつける印象深い出来事があったというような事情がない場合に、譲渡を持ちかけられた記憶とその場所についての記憶が深く結合せず、誰から持ちかけられたかは記憶しているが、その場所は思い出せないということは、多分にあり得ることであって、何ら不自然なことではない。また、丁谷は、時期に関し、衆議院の特別委員会において右のように答えた理由は、当時のマスコミ報道で、他の者に対するコスモス株の譲渡時期が九月中旬か下旬であり、譲渡の日付が一〇月一日であったことが盛んに報じられていたので、自分についても九月中旬か下旬であろうと推測して述べたのであり、実際には、九月下旬から一〇月上旬程度という感覚である旨供述するのであって(〈証拠略〉)、供述が相違している理由について合理的な説明をしている。したがって、丁谷の公判段階における供述態度は、むしろ、記憶にある限り正確に答え、明確でないところはその旨述べるという点で誠実なものということができる。
(三) 弁護人は、さらに、①丁谷は、コスモス株の店頭登録前に政治家のパーティーか何かの接待の席でR7と顔を合わせ、料亭の控えの間のような場所で二人だけになった際、何かいい話はないかと問いかけ、R7から、「コスモス株が店頭登録の準備をしているので、甲野に頼んでこれを譲ってもらったらどうか。」と勧められたことがあり、②六二年秋にR7が労働省顧問室に丁谷を表敬訪問した際にも、丁谷が退職金の運用方法を尋ねたのに対し、R7がファーストファイナンス株とコスモス株の購入を勧めたことがあるため、丁谷の記憶が混乱している可能性もある旨主張する。
しかし、まず、①の出来事があった証拠として弁護人が引用するR7の公判段階における供述(〈証拠略〉)は、R7が取調検事から丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのではないかと追及される状況の中で、具体的な記憶は全くないが、コスモス株店頭登録前に料亭の控えの間みたいな所で丁谷と会ったかもしれず、ひょっとしたら、コスモス株の店頭登録の話をして、甲野さんに分けてもらったらどうですかというようなことを言ったかもしれないと思って、取調検事に対しその旨の供述をしたという程度のものにすぎず、到底そのような事実があったと認めるに足りる証拠ではない。
次に、②に関しては、関係証拠(〈証拠略〉)によれば、確かに、その時期にR7が労働省の顧問室に丁谷を訪問したことがあり、その際にファーストファイナンスの株式購入を巡る話が出たことは認められるが、丁谷は、本件と六二年の場面とを混同しているつもりはない旨述べている(〈証拠略〉)上、店頭登録が間近に迫ったコスモス株を会社関係者から譲り受ける行為と、店頭登録されたコスモス株を市場で購入する行為とが、購入手続や値上がり見込みの点で著しく相違することは自明のことであり、両者を混同するということは考え難いことである。
弁護人は、②の訪問の当時、R7は、丁谷と約一年ぶりに会い、リクルートを離れ、「東京○○」という新しい印刷・企画関係の会社の設立準備を始めており、その状況と、丁谷がR7と会った際の会話として証言するところの「いやあ、しばらくぶりだね、ところで今どうしてる」という丁谷の言葉や、「今、リクルートを辞めて、企画的な仕事を今度何か始めている」というR7の返答とが合致する旨主張するのであるが、弁護人が引用する丁谷の供述(〈証拠略〉)は、実際には、弁護人が引用するとおりではなく、「〔R7は、〕今リクルートを辞めて、何か企画的な仕事をやってるとか、何か管理的な仕事だとか、何かそんなような感じの印象が残ってます。」「リクルートと別のという感じの話じゃなくて、リクルートの何か子会社みたいなところで、何か企画的な仕事か、そこの管理をしておるとか、何かそんな感じが残っております。」「企画的な仕事を今度何か始めて、そこを自分は取り仕切ってるんだ、そんな感じの話として聞いたということです。」というものであって、R7がコスモス株の譲渡の少し前の時期である六一年八月にリクルートの取締役を辞任し、コスモスライフの代表取締役の専任になっていたことや、コスモスライフの業務内容がリクルートコスモスが分譲したマンションの管理を中心としつつも、同年当時には、新たに、リフォーム事業、中古住宅仲介事業、賃貸斡旋事業、損害保険代理店業に取り組み始めていたこと(甲書2八九一)と符合するものであるから、弁護人の主張とは裏腹に会話の時期が同年秋であることと合致するものである。また、R7と丁谷が同年五月の釣りの接待以降に会ったことを窺わせる証拠はないから、その後、四、五か月ぶりに会った際、丁谷が「いやあ、しばらくぶりだね、ところで今どうしてる」と話したとしても、何ら不自然ではない。
他方、R7が弁護人主張の「東京○○」の設立準備を始めたのは六三年春ころのことであり、実際に、R7が代表取締役になって、株式会社東京○○の商号で会社を設立したのは同年九月一日のことである(〈証拠略〉)から、R7が六二年秋に丁谷を訪問した際に東京○○の仕事の話をするというのは、時期的に見て、不合理である。
したがって、丁谷の記憶がR7から株の購入を勧められた他の機会との間で混乱している可能性がある旨の弁護人の主張は理由がない。
(四) 弁護人は、丁谷は、当時リクルートを辞めていたR7であれば自分に好都合であると考えて、R7との個人的な親交を誇張・強調し、自己の保身のためにR7から譲渡を持ちかけられた旨の虚偽の供述をしている可能性がある旨主張し、その根拠として、丁谷は、R7とは、五九年以後に四回一緒に釣りをしたにすぎないのに、衆議院特別委員会では「十年来の釣り仲間」と誇張して述べ、三〇〇〇株を譲り受けているのに、当初の新聞取材に対し一〇〇〇株と偽るなど、責任を回避、縮小する態度に終始していたと指摘する。
この点、確かに、丁谷が新聞記者等からコスモス株の譲受けについて取材を受けた際に株数について右のような説明をし、また、右取材の際や衆議院特別委員会における証言の際にR7との関係について右のような説明をしたことは事実であるが、他方で、株数については、衆議院特別委員会で証言する前になされた労働省秘書課長からの事情聴取において、実際には三〇〇〇株を譲り受けた旨を説明していた(右1(一)(2))。また、R7と一緒に釣りをしたのは五九年以降のことであり、しかも、いずれもリクルートからの接待を受けて釣りをしていたのであるから、「十年来の釣り友達」、「釣り仲間」という表現は、確かに誇張であり、被告人又はリクルートとの業務上の関係でコスモス株の譲渡を受けたという印象を避けようとしている様子が窺われるが、そのように株数を少な目に認めるとか私的な親密さを誇張する行為とコスモス株の譲渡を持ちかけた者自体を偽る行為とは、およそ次元の異なるものであるから、弁護人指摘の事情は、R7から譲渡を持ちかけられた旨の供述が虚偽であるという疑いを生じさせる事情ということはできない。
すなわち、新聞記者からの取材に際して譲受株数を少なく答えるなどということは、特に法的な問題を生じるわけではなく、その当時マスコミ報道が過熱していた問題について、突然その当事者として取材を受けた際、とっさに少なく答えてしまうということは、人間の行動としてありがちなことである。また、右問題が更に社会的に重大視され、国会に特別委員会まで設置されて証人として喚問された際、防衛心から、「知名の方々にお願いしている」として頼まれたからであると述べ、その関係で譲渡を持ちかけた者との私的な親密さを誇張するということも、その誇張によって、相手に特段の迷惑をかけることもないのであるから、供述者の心情として理解し得ることである。これに対し、実際にはR7からコスモス株の譲渡を持ちかけられていない場合に、あえて偽ってR7から譲渡を持ちかけられたと証言した場合には、R7に対し、刑事訴追のおそれを含めて多大な迷惑をかけることが容易に予測されるはずであるし、その虚言が露見した場合には、自分自身が偽証罪に問われるのはもとより、より一層の社会的非難を浴び、コスモス株の譲渡と職務上の行為との関連性に関する疑惑が更に深まる事態に立ち至ることも、容易に予測されるはずである。したがって、名指しする相手であるR7との間で、十分な口裏合せをした上であればともかく(なお、本件においてそのような口裏合せがなされたことを窺わせる証拠はない。)、そのような準備も経ずに、国会の委員会で、事実に反してR7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた旨の証言をするということは考え難いことである。
(五) また、丁谷は、国会の特別委員会における証言のみならず、R7を被告人とする公判においても、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた旨供述するが、丁谷が殊更に虚偽の供述をしてR7に無実の罪を着せる動機は見当たらない。
丁谷は、自身が収賄の罪に問われた公判では、賄賂性の認識を争うなどして無罪を主張したが、四年三月に有罪判決を受け、同判決は、控訴期間満了により確定した(〈証拠略〉)。もし万が一、丁谷が、弁護人が主張するように、保身のために、国会の特別委員会や自身が被告人とされた公判において、事実に反してR7から譲渡を持ちかけられた旨述べたというのであれば、右確定後にR7を被告人とする公判や本件公判で証人として供述する際には、そのような動機はもはや存しないはずであるが、本章第四の二1(一)のとおり、コスモス株の譲渡を持ちかけた者がR7であるという丁谷の供述は、自身に対する事件の判決が確定した後も一貫している。
(六) 以上の検討によれば、丁谷の公判段階における本章第四の二1(一)の供述には、信用性を疑うべき事情はなく、その信用性は高い。
2 丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR2である可能性について弁護人は、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのはR2である可能性があり、丁谷の記憶も譲渡を持ちかけた者がR7であるかR2であるかについて明確でない旨主張する。
しかし、R7から譲渡を持ちかけられたことに関する丁谷の供述は右1(一)のとおり一貫しており、弁護人が記憶の曖昧さを露呈している旨主張する公判段階における供述(〈証拠略〉)も、捜査段階において、検事から、R2から持ちかけられたのではないかと何度も尋ねられ、改めて考えてみたがやはりR7であるという記憶に変わりはないのでその旨供述したというものであって、丁谷の記憶の曖昧さを示すようなものでは全くない。
また、R2も、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたことはない旨供述するところ(〈証拠略〉)、一連のコスモス株の譲渡に際して多数の相手方との間で株式売買約定書等の譲渡関係書類を作成する作業は、R1のみではなく、R2も担当していたのであるから(第一章第二の二1(三)、〈証拠略〉)、仮にR2が丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのであれば、譲渡関係書類の作成手続もR2が担当するのが自然であり、右手続をR1が担当した事実は、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけた者がR2ではない旨の丁谷及びR2の各供述の信用性を支える事情ということができる。
したがって、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけた者がR2である可能性があるということはできない。
3 被告人とR7との関係について
(一) 弁護人の主張
弁護人は、R7は一連のコスモス株の譲渡に一切関与しておらず、そもそも、六一年九、一〇月当時、被告人とR7との間には、不正を疑われた職員の処分を巡る意見の相違、リクルートブックの早期配本問題に対する責任追求、R7が保有するリクルートの株式の放出を巡る問題等によって、根深い確執があり、激しい緊張・対立関係の中で、口も利かない間柄になっていたから、被告人がR7に対し、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるという重要事項を指示し、R7がこれに応じて行動するなどという関係にはなかったのであり、したがって、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた旨の丁谷の供述は信用し得ない旨主張する。
(二) 被告人とR7との確執
右(一)の主張に関しては、公判段階において、R5(〈証拠略〉)、R7(〈証拠略〉)、R18(〈証拠略〉)、R27(〈証拠略〉)、R1(〈証拠略〉)及び被告人(〈証拠略〉)が一部それに沿う供述をしており、これらの供述や他の関係証拠(〈証拠略〉)を総合すれば、確かに、被告人とR7との間では、以下の経緯で確執が生じていたことが認められる。
(1) 不正を疑われた職員に対する処分問題等
五九年秋、リクルート社内で当時の総務部次長であるR30(以下「R30」という。)が出入りの旅行業者から不正にリベートを得ているという疑惑が生じ、R5の指示で、R7がその調査に当たった。その結果、R7は、R30の金銭的な不正行為を確認したため、R30には会社を辞めさせるべきであるという意見を被告人らに具申したが、被告人は、R7の調査が度を越えていると感じたほか、R30の勤務成績が極めて良好で、周囲の人望も厚かったことから、R7に対し反対の意向を示し、取締役会でも特段の処分はしないこととされ、結局、R30をリクルートコスモスに異動させることで問題を落着させた。
R7は、被告人が従前からR30を可愛がっていたことから、自分の好き嫌いを優先させて右のような甘い判断をしたという不満を抱いた。
他方、被告人は、もともとはR7を将来的に管理部門担当の役員とすることも考えていたが、右のようなR30の処分を巡る問題(以下「R30問題」という。)への対応を含むR7の仕事ぶりから、R7は管理部門にはあまり適任でなく、むしろ、以前に部長を務めていた事業部の担当が適任であると考えて、六〇年七月、R7を事業部長に異動させた。
なお、R7は、六〇年八月には、被告人やR5の意向で、R2ら四名とともにリクルートの取締役に選任され、事業部及びビル事業部担当になり、同年一〇月には、被告人やR5らの意向で、リクルートの取締役と兼任でコスモスライフの代表取締役にも就任した。
(2) 新規学卒者向け就職情報誌の早期配本を巡る問題
六一年三月、リクルートが出版懇話会の配本時期に関する申合せに違反してリクルートブックの一種である「日本のビッグビジネス」を早期に学生に配本したため、同業他社や出版懇話会の代表者から強硬な抗議がなされた。被告人は、リクルートブックの配本を担当する事業部の部長兼担当取締役であるR7から早期配本をした経緯について説明を受けた上、R7を叱責し、また、リクルートでは、同月一九日の取締役会で右抗議への対応を協議し、被告人が出版懇話会宛にお詫び文を提出することを決めたが、その場においても、被告人がR7を叱責した(以下「フライング問題」という。)。
(3) その後のR7の対応
R7は、右早期配本は、R15取締役が担当する広告事業本部の部次長会の決定により実行したことであるのに、同取締役の責任は問われず、自分のみに帰責されたことに対し憤懣やるかたなく、R5に辞意を表明したが、被告人と相談したR5に慰留されて、前年から代表取締役を務めていたコスモスライフの仕事を中心に続けることとなり、結局、リクルートは、六一年四月一日付けで、R7の事業部長及び審査室長の任を解く人事を発令し、R7は、コスモスライフの代表取締役の職務を主たる業務とするほか、リクルートの取締役とビル事業部長の職務が残ることとなった。
もっとも、R7は、六一年四月以降、リクルートの取締役会には出席せず、リクルート本社に出社することもまれになって、主としてコスモスライフにおいて執務し、同年七月一日にはビル事業部長の任を解く人事も発令され、同年八月六日のリクルートの臨時株主総会(R7は委任状を提出して欠席した。)において取締役を辞任した以後は、コスモスライフの代表取締役の専任になった。
(4) R7が保有するリクルートの株式を巡る問題
六一年当時、R7は、リクルートの株式を社員持株会を通して約五万一〇〇〇株(以下「持株会株」という。)保有し、個人でも六万株(以下「個人株」という。)保有していた。なお、個人株は、経営幹部に株式を持たせたいという被告人の意向により、五九年一二月と六〇年一二月、被告人の妻からR7に対し、リクルートが定めていた社内流通価格で譲渡されたものである。
被告人は、六一年八月の臨時株主総会の際にR7がリクルートの取締役を辞任し、他方で数名の取締役を新たに選任する予定であったことから、同年六月ころ、R7をリクルートの社長室に呼んで、新しく取締役に就任する予定の者にR7が保有する個人株を譲渡してほしい旨求めたが、R7は、これを拒否し、R7がリクルートの取締役を辞任した同年八月ころ、再度、被告人がR7をリクルートの社長室に呼んで交渉したところ、R7は、個人株の譲渡は拒否したものの、持株会株を処分可能な形に転換した上で譲渡することを承諾した。
そこで、被告人がその手続を社員持株会理事長のR31(以下「R31」という。)に指示したが、その指示が適切に伝わらず、R31がR7に電話した際に個人株放出の手続の話をしたことから、R7は被告人と合意したのは持株会株の放出であるから被告人に確認するようになどと話して電話を切った。
被告人は、R31から、R7の対応について、「そんな話は甲野さんから聞いていないと言って、ものすごく怒って一方的に電話を切られた」などと報告を受けたが、再度の交渉をするとR7を刺激し、R7が敵対的な株主になりかねないとおそれて、しばらくその問題を放置し、その後、六一年一二月まで、特段の進展なく経過した(以上のリクルートの株式放出を巡る問題を、以下「株問題」という。)。
(5) R7のリクルートグループからの離脱と株問題の決着
六一年一二月末ころ、被告人は、改めてR7をリクルートの社長室に呼んで、R7が保有するリクルートの株式の放出を求めたのに対し、R7がこれを拒絶したところ、興奮した被告人が「リクルートグループから離れたらいいではないか」などと述べたため、R7は、六二年初めころ、コスモスライフを辞める決意を固めて、R5にその意向を告げ、同年三月末で同社を事実上辞め、同年四月末で正式に代表取締役を退任して、リクルートグループから離れるに至った。
また、R7は、弁護士を介して、六二年四月二〇日付けリクルート社員持株会理事長宛の内容証明郵便で、持株会株の引渡しを求め、結局、R7が持株会株を社内流通価格で放出し、その代わりに、被告人が理事長を務める財団法人甲野育英会が時期をずらして、ほぼ同株数のリクルートの株式をR7に譲渡し、R7の在職中の功労に報いる趣旨で、リクルートからR7に対し、毎月一〇〇万円ずつ二年間にわたり、非常勤顧問として給与を支払うことなどを内容とする和解が成立して、株問題が決着した。
(三) R30問題からフライング問題までの被告人とR7との関係について
(1) 弁護人は、被告人は、R30問題への対応を契機にR7に対する評価を下げて、R7を重要事項や機密事項から遠ざけるようになって、六〇年七月に社長室長から事業部長に戻すという降格人事を行ったのであり、同年八月にR7を取締役に就任させたのは、R7の部下であった者やR7の後輩を取締役に就任させることとの人事上のバランスに配慮してなされたものにすぎない旨主張する。
(2) しかし、R7は、R30問題の後である六〇年七月、社長室長からかつての職であった事業部長(ビル事業部長及び審査室長兼任)に異動したとはいえ、その直後である同年八月二一日の株主総会で、リクルートの取締役(事業部担当)に選任されており、この選任が被告人の意向によるものであることは、リクルートにおける被告人の立場から明らかである上、被告人自身も認めるところである(〈証拠略〉)。そうすると、右事業部長への異動は、R7が前に事業部長であった当時に事業部担当の役員が別にいたのとは異なり、R7を事業部長に加えて事業部担当の役員にもすることが前提であったものであるから、これが降格人事であるとか、評価を下げたことによるとはいえないことが明らかである。そのことは、R7が同年一〇月一日に兼任でコスモスライフの代表取締役に就任していることからも、更に明らかである。
(四) フライング問題以降コスモス株の譲渡当時の被告人とR7との関係について
(1) 弁護人は、一連のコスモス株の譲渡当時の被告人とR7との関係について、株問題は、フライング問題等によって険悪になっていた被告人とR7との関係に火に油を注ぐ結果となり、R7は、被告人に対する不信感と怒りを募らせ、他方、被告人も、R7を危険人物と認識してその接触を避け、両者の関係は険悪なまま、修復されることもなく推移し、顔を合わせることもなかった旨主張する。
(2) 右の点に関し、R5は、捜査段階においては、「コスモスライフ〔中略〕はリクルートコスモスのマンションを管理する会社であって、リクルートグループであり、甲野の指示にしたがって動くことはごく当たり前のことでした。R7はコスモスライフに昭和六一年春ないし夏ころ移りましたが、移った後も時々リクルート本社に来て甲野と会ってもおりました。〔中略〕R7もR1も上司特に甲野に対しては非常に忠実な男であり、二人とも甲野から信頼されておりました」(甲書2五七)と供述していたところ、公判段階において、R7は、フライング問題の後、自分一人が責任を問われたことに大きな不満を持ち、六一年三月か四月ころから、リクルートの役員会に出席しなくなり、リクルートに出社することもほとんどなくなり、その後、株問題も加わって、両名は、非常に険悪な関係となっていたのであり、R7が被告人の指示に従って動くことがごく当たり前のことであった旨の捜査段階における供述は、実際と大分違っており、正確でない旨供述している(〈証拠略〉)。
この点、確かに、一連のコスモス株の譲渡は、六一年三月のフライング問題によって被告人とR7との間に確執が生じ、R7がリクルート本社には出社しなくなって、同年八月にはリクルートの取締役も辞任し、更に株問題も加わった後になされたのであり、株問題へのR7の対応からしても、R7があらゆる面で被告人の指示に従って動くことがごく当たり前の関係にあったということはできない。しかし、そのことから、あらゆることについて被告人の指示に従わない関係であったといえないことは自明であり、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるという指示を受けてそれに従う関係にあったか否かは、弁護人主張のような感情的な確執のみではなく、その当時のリクルートグループにおけるR7の立場、丁谷に対するコスモス株の譲渡がリクルートグループにとって持つ意味、R7と丁谷との関係等も踏まえて考える必要がある。
(五) フライング問題以降のR7と被告人やリクルートとの関係について
そこで、フライング問題以降のR7と被告人やリクルートとの関係について更に見ると、次の諸事実を指摘し得る。
(1) R7は、フライング問題後も、その直後である六一年三月二八日にリクルートの取締役に重任されて、同年四月一日以降六月末までは、ビル事業部長を兼任し、同年八月六日にリクルートの取締役を辞任してリクルート本体を離れた後も、コスモスライフの代表取締役については六二年四月三〇日まで職にとどまっていた。なお、R7は、リクルートの取締役とコスモスライフの代表取締役を兼任していた間は、毎月、リクルートから九〇万円とコスモスライフから一〇万円の計一〇〇万円の基本給を得ていたが、六一年八月にリクルートの取締役を辞任した後も、コスモスライフから毎月一〇〇万円の基本給を得ており、リクルートの取締役辞任に伴う収入の減少はなかった。
また、六一年八月には、R7のリクルートの取締役辞任に伴う退職金が支給されたが、その金額は、リクルートの規程によれば二二〇万円であるところ、被告人の意向で一〇〇〇万円に増額して支給された。
(〈証拠略〉)
(2) コスモスライフは、ビル総合管理業等を目的とする株式会社であり、リクルートが株式の一〇〇パーセントを有するリクルートの子会社であって(なお、六二年三月に全株式をリクルートコスモスに譲渡した。)、被告人が統括するリクルートグループの一員であったのであり、しかも、コスモスライフは、六一年当時、リクルートコスモスが供給したマンションの保守管理等を主業務としており、同社のマンション販売戸数の急伸に伴って、管理を受託するマンション戸数が急増していたことに加え、リフォーム事業、中古住宅仲介事業、賃貸斡旋事業、損害保険代理店業等の新規事業の積極的な展開を企画するなど、業務の増大を見込んでいたことから、リクルートからの転籍等による人員の充実・拡大及び本店移転等の整備が行われるなど、発展が期待される状況にあった。また、R7自身も、同年八月二七日のRMBに掲載したリクルートの取締役退任に当たっての挨拶文で、「今後はコスモスライフに専念し、仲間と大いに社を盛りあげ、いい会社にしたいと思っております。リクルートコスモスの急速発展に伴いコスモスライフの業容も急速に拡大しております。マンション管理はリスクマネジメントの連続であり非常に奥行の深いものです。また、生活情報産業そのものであり、この面からの新しい事業展開の可能性も大きいものがあります。ビル管理事業との2本柱で、これまでの10年間の黒字決算を踏まえて本業完遂はもとより組織力の強化、新規事業の展開を課題にして第11期を推進しております。リクルートの大発展を祈念して退社のご挨拶にさせていただきます」などと、今後のコスモスライフの業務拡大に向けた決意を記載するなど、リクルートグループの一員であるコスモスライフの代表取締役として引き続き執務する意欲を有していた。
(〈証拠略〉)
(3) 実際にも、R7は、フライング問題以降、コスモスライフの代表取締役として、同社の業務に従事していたのはもとより、リクルートとの関係でも、六一年四月から八月にリクルートの取締役を辞任するまでは、同年五月一七、一八日、R11事業部次長とともに丁谷に対して釣りの接待をしたことを含め(本章第三の七8(二))、頻繁に、単独で又は事業部やビル事業部の職員とともに、事業部やビル事業部の業務に関係する労働省の幹部、政治家秘書、大学等の就職担当者、建設会社関係者ら多数の者に対し、リクルートの費用で接待したり、挨拶に出向くなどして、リクルートの事業遂行に関与しており、取締役辞任後も、一連のコスモス株の譲渡時期を含めて、同年一二月ころまでは、事業部(一〇月以降は事業推進部)の者から、R7と人脈がある相手先との打合せや接待に同席を求められれば、これに応じるなど、側面からリクルートの事業遂行に資する活動をしていたのである。
(〈証拠略〉)
(六) 考察
(1) そもそもR7は、三八年にリクルートの前身である株式会社大学広告に採用されて以来、長期間にわたって事業部長を務めるなどした後、社長室長等を経て、六〇年八月には取締役にまで登用された者であり、リクルートの創業初期から勤務し、零細企業であった時代から被告人の身近で働いてきた古参のメンバーの一人であり、結婚に際しては被告人に仲人をしてもらうなど、被告人と親交の厚い人物であった(〈証拠略〉)。
(2) 弁護人は、R7が六一年四月以降、「反甲野」、「反リクルート」の対応を貫いていた旨主張するが、そのようにいえないことは、右(五)の諸事情に照らすと、明らかである。
確かに、右(二)の事情からすれば、R7は、六一年一二月末ころ、被告人からリクルート株の放出を求められ、これを断った際、興奮した被告人から、「リクルートグループから離れたらいいではないか」などと言われたことで、六二年初めころにコスモスライフを辞める決意を固めており、そのころには、R7が被告人に対し強い反感を抱いていたことが窺われるが、右(五)の諸事情も踏まえると、R7がフライング問題を契機としてリクルート本体を離れたことは、リクルートやその総帥である被告人との決別を意味するものでなく、六一年九、一〇月当時、弁護人の主張するように被告人がR7に対し丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示をし、R7がその指示を受けることが不合理であるような決定的な対立関係にはなかったものと認められる。
なお、弁護人は、六一年八月ころの株問題に関するR31の電話により、被告人とR7との間の険悪な関係が更に悪化したと主張するが、右電話を受けてR7が憤慨したのは、被告人と合意した内容と異なる話を持ち込んできたR31に対してであって(〈証拠略〉)、その際は、R7が被告人に確認するようになどと話して電話を切り、その後、同年一二月まで株問題に関する交渉がないまま推移したのであるから、右出来事によって弁護人が主張するほどに両者の関係が悪化したということはできない。
また、株問題へのR7の対応をみると、R7がリクルート本体を離れた後も、リクルートの株式を持ち続けることに強いこだわりを持っていたことが明らかであり、右(五)のR7の活動ぶりやR7のリクルートにおける経歴をも併せ考えれば、R7は、弁護人が主張するような「反リクルート」の気持ちなど抱いておらず、依然として、リクルートに愛着を抱き、その発展に期待していたものと認めることができる。
(3) 次に、弁護人は、丁谷にコスモス株を譲渡した当時、被告人とR7との間の信頼関係は完全に破綻していたと主張するところ、そのように評価できないことは既述のところから明らかであるが、R30問題等の一連の問題が生じる以前と比べれば、両者の間の信頼関係が弱まり、損なわれていたことは事実であると思われる。
しかし、そもそも、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示し、あるいはそれを引き受けるについて、被告人とR7との間で個人的な信頼関係が必要であるわけではない。被告人にとっては、丁谷に譲渡を持ちかけるのに適任者であることが重要であり、R7としても、「反リクルート」の感情など何ら抱いていなかったのであるから、リクルート在籍当時の職務を通じて関わりを持った相手であり、古巣の事業部の業務に関わりを持つ労働事務次官である丁谷に利益を与える行為を頼まれれば、リクルートグループの一員として、それを引き受けるのは当然のことというべきであり、被告人との間の個人的な信頼関係が損なわれていたことが、それを断る理由になるということはできない。
(4) そして、R7は、リクルートで長年にわたり、労働省との折衝窓口である事業部の部長及び担当取締役を務め(〈証拠略〉)、しかも、本章第三のとおり、リクルートの社長室長在任当時に就職情報誌に対する法規制問題が生じた後には、法規制阻止に向けて丁谷と度々接触し、丁谷の海外出張に際しては、被告人の指示を受けて丁谷にせんべつ名目で現金約一〇〇万円を交付したこともあるほか、丁谷が趣味とする釣りの接待には必ず参加していて、丁谷と親密な関係を築いていたのであり、丁谷も、リクルート又はその関連会社の社員で最も親しいのはR7であったと認識しているのである(〈証拠略〉)から、リクルート関係者の中で、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかける者として最も適任なのはR7であったと認められる。
(5) したがって、丁谷に対するコスモス株の譲渡に際し、R7がこれを持ちかけるのを任されるということは、何ら不合理ではなく、むしろ、合理性が高く、自然なことである。
4 小括
右1ないし3の検討を総合すれば、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられて応諾した旨の丁谷の供述には、高度の信用性が認められ、これを否定するR7の公判段階における供述は信用することができない。
したがって、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのはR7であると認められる。
四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与
1 被告人の関与を示す証拠
被告人が丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与したことを示す証拠としては、①六一年九月中、下旬ころ、被告人から、丁谷にコスモス株三〇〇〇株の譲渡を持ちかけるように指示された旨のR7の捜査段階における供述(本章第四の二3)、②同月上旬ないし中旬ころ、被告人がコスモス株の譲渡の相手方として丁谷の名前を出し、同月中旬ないし下旬ころに被告人かR2に丁谷の承諾が得られていることを確認した上、丁谷との間で譲渡手続をした旨のR1の捜査段階初期における供述(本章第四の二5(一))、③同月中、下旬ころ、被告人が数回コスモス株の譲渡の相手方を選定したうちの終わりの方の機会に丁谷を追加して選定し、その後、R7、被告人、R2又はR5から丁谷に話してあるので手続に行くようにと言われて、丁谷との間で譲渡手続をした旨のR1の捜査段階後期における供述(本章第四の二5(三))があり、これらを支える証拠として、R7が譲渡を持ちかけた際、「甲野から言われてきたのですが」と言っており、R1が電話で連絡をしてきた際、「甲野の使いで〔中略〕コスモス株の譲渡手続きをしたい」と言っていた旨の丁谷の捜査段階における供述(本章第四の二2)がある。
なお、被告人も、本章第四の二7(二)、(三)のとおり、捜査段階において、自分が丁谷にコスモス株三〇〇〇株を譲渡することを決めた旨認め、丁谷に譲渡を持ちかけたことは、記憶にはないが、R7に頼んだのが一番本当かと思う旨の供述をするが、弁護人は、右供述は、①P3検事から、壁に向かって至近距離で目を開けたまま立つことを強要され、耳元で怒声を浴びせられるという暴力を受けたこと、②同検事から、丁谷に対する譲渡について関与を認めなければR6やR3を逮捕するなどと言って脅されたこと、③元年三月二四日付け検面調書が作成された後、同検事から、「この否認調書ができた以上、ここから裁判所に通ってもらうことになる。二、三年は出られないだろう。」「出てきたときは浦島太郎になるぞ。」「今署名したことでそういう状況になるんだよ。」などと言って、脅され、翌日の弁護人との接見の際に自分の言うことが本当かどうか確かめるように求められ、同月二五日の接見で、主任検事であるP2検事と面会した弁護人から、同検事が「丁谷さんのことを選んだと認めれば、早期に保釈する。認めなければ、保釈はできない。」と言っている旨告げられ、「認めなければ早期保釈はない」という助言を受けたことから、自分の長期勾留によってリクルートグループの資金調達がうまくいかなくなって破綻し、自分自身も浦島太郎になることを懸念し、P3検事が創作した検面調書に署名したのであって、任意性も信用性もない旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をしている。
2 被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定する合理性について
(一) 弁護人は、被告人がコスモス株の譲渡の相手方を選定した基準は、「被告人が個人的に親しくしていて、末永くお付き合いをしていきたいと思っている方で、有力者の方、有識者の方」というものであり、被告人と丁谷とは個人的に親しい関係にないから、右基準に当たらない上、被告人にはそもそも役人を譲渡の相手方に選定しようという発想はなかったから、被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定することはあり得ない旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をしている。
(二) しかし、これまでに認定した諸事実、特に、
① そもそも、社外の者にコスモス株を譲渡して値上がり益を取得させることを発案し、放出先に働きかけて譲渡に必要なコスモス株を確保したのは被告人であり、譲渡の相手方の選定も被告人が主になって行ったこと(第一章第二の二1(一)、(二))、
② 被告人は、丁谷が労働省職安局長であった当時の就職情報誌に対する法規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念していたこと(本章第三の八2)、
③ 結果として、労働省職安局は就職情報誌に対する規制を職安法改正案に盛り込むことをせず、法規制が行われなかったこと(本章第三の七3、6、7)、
④ 右法規制問題が決着を見るまでの過程では、職安局において、職安法改正の検討や立案を担当していたC1業務指導課長がリクルート関係者や就職情報誌業界関係者に対し、就職情報誌に対する法規制について積極的な発言を繰り返していた(本章第三の二ないし六の随所)のに対し、
(ア) 丁谷は、衆議院社労委で就職情報誌紙等の増加に伴う諸問題に対応するため必要な指導を強めることを求める附帯決議が採択された直後である五九年五月一八日、リクルートからの求めに応じて、R5、R6及びR7と面談し、R5らが附帯決議を受けたことについて労働省の対応を尋ねたところ、丁谷が法律により就職情報誌を取り締まることは考えていない旨の職安局長としての考えを述べた上、就職情報誌の広告内容と実際の労働条件とが違う事例もあり、就職に関する情報は人生を左右する情報であり、職安の現場職員の不満も強いことから、就職情報誌業界の自主的な規制を期待しており、チェック機能を強化するとか自主規制をするとかを業界の団体でまとめることが大切である旨の助言を与え、リクルートでは、これを受けて、被告人も参加した職安法改正問題のプロジェクトチーム会議で対応策を協議・策定した上、じっくり取締役会議において、対応策を検討し、雇用情報センターを積極的に活用し、労働省から提案を受けた情報誌勉強会を積極的に進めることを含む対応策を決定し、求人広告研究会の発足につながったこと(本章第三の五4(四)、(五)、六2)、
(イ) 求人広告研究会における作業過程で、リクルート情報出版のR3と学生援護会のT1との間で業界共通の広告掲載基準の内容等を巡り意見が対立して激しい議論があり、取りまとめが難航する状況の中で、丁谷が、五九年八月三〇日、被告人と学生援護会のT2社長を招いて三者会談の場を設け、その際、丁谷は、被告人とT2社長に対し、就職情報誌の虚偽広告が国会でも問題にされているこの時期に、業界が一体となって広告掲載基準をまとめ、それをチェックする自主的機構を作らないと、また国会で問題にされて就職情報誌事業に対し法規制を加える動きになりかねないと考え、両社が協力して業界全体による自主規制を進めるように指導し、これを受けて、被告人とT2社長との間で、業界共通の広告掲載基準及び広告審査機構を作ることについて基本的な合意が成立し、その後、広告研究会における作業が進展し、業界による社団法人全国求人情報誌協会を設立する動きにもつながったこと(本章第三の六6(二)、七2、6(二))、
(ウ) 五九年一一月に週刊誌に労働省が就職情報誌をつぶすための法規制を検討している旨の記事が掲載された際、丁谷がR7を呼んで、労働省では就職情報誌に対する法規制をする考えはないので、その旨を被告人に伝えるようにと話したこと(本章第三の七5(三))、
⑤ 三者会談の直後である五九年九月七日ころ、被告人がR7に指示して、丁谷に対し、海外出張のせんべつ名目で約一〇〇万円の現金を供与したこと(本章第三の七1)、
⑥ リクルートでは、法規制問題が決着した後も、丁谷を含む職安局の幹部に対する料亭やゴルフ場での接待、丁谷を含む労働省の幹部に対する料亭での接待及び人事異動の際の贈答並びに丁谷に対する釣りの接待を継続しており、これらのうち、六〇年三月及び八月の料亭での接待には被告人も参加していたほか、六一年六月の丁谷の労働事務次官昇任のころ以降だけでも、昇任の直前に、丁谷に対する昇進祝いとして大鯛の盛合せや陶器を贈り、同年七月一六日には、被告人らがC11前労働事務次官、丁谷ほか数名の労働省の幹部を料亭で接待しており(本章第三の七8)、丁谷に対するコスモス株の譲渡は、右次官昇任後の接待から、二、三か月しか経過していない時期になされたものであること
に加えて、
⑦ 被告人自身、リクルートの就職情報誌事業の展開は、労働省の職業安定行政や国の考え方にひだを合わせて仕事をしていかなければならないという認識を抱いて、労働行政に関する情報を収集し、労働省から要請を受ければ、政治家に対する献金やパーティー券の購入をするなどしており(〈証拠略〉)、就職情報誌の虚偽・誇大広告については、一〇年に三、四回程度の割合で繰り返し社会問題化し、国会でも取り上げられていると認識していたこと(〈証拠略〉)
からすれば、被告人がコスモス株の譲渡の相手方を選定するに際し、法規制問題が生じていた当時の丁谷の対応に感謝の気持ちを示し、丁谷の事務次官在任中に就職情報誌に対する法規制問題が再燃するなど、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になる場合に備えて、丁谷を譲渡の相手方の一人に選定するということは、合理的な行動である。
(三) また、弁護人の主張のうち、被告人にはそもそも役人をコスモス株の譲渡の相手方に選定しようという発想はなかったという点については、被告人自身が文部事務次官であった辛村をコスモス株の譲渡の相手方に選定した(〈証拠略〉)のであるから、全く理由がない。
3 他の者が丁谷を選定した可能性について
(一) 弁護人の主張
弁護人は、一連のコスモス株の譲渡に関し、自ら譲渡の相手方を選定したほか、リクルートコスモスの幹部三名(代表取締役のR3、専務取締役のR20、常務取締役のR21)及びリクルート社長室長のR2の計四名にその選定を委ねており、被告人が譲渡の事実を知らなかった譲渡の相手方もいるのであって、丁谷についても、右四名のうちの誰か、特に、R7の後任の社長室長として丁谷と頻繁に往来があり、丁谷との交際が深まっていたR2が選定した可能性が高い旨主張する。
(二) 他の者が被告人の了解なく譲渡の相手方を選定した一般的可能性
被告人は、公判段階において、R2に選定を任せた譲渡の相手方とリクルートコスモスの幹部に選定を委ねた譲渡の相手方については、一部を除いて報告を受けておらず、譲渡の相手方のうちの二〇件一九人(丁谷を含む。)は、一連のコスモス株の譲渡がマスコミ等で疑惑として取り上げられるまで譲渡の事実を知らなかったとし、報告を求めなかった理由は、株を持ってもらうことがさほど重要なこととは思っておらず、そのプレミアム分がどこに帰属するかということはさほどの関心事項ではなく、誰に行こうとどうせ市中に出る株であるから、優先的に行くのが誰であるかについては関心を持たなかったからである旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、そもそも、一連のコスモス株の譲渡を発案し、R3らに依頼して譲渡する株を確保したのは被告人である上、被告人自身が、公判段階において、「親しくて、かつ社会的にそれなりに活躍しておられる方」を譲渡の相手方に選定し、政治家については、コスモス株の値上がりによりプレミアム部分が政治活動に資するものであれば嬉しいことであると考えて、ニューリーダーやネオニューリーダーと言われる日本の将来を背負って立つ方々を中心にコスモス株を持ってもらったなどと供述していること(〈証拠略〉)からも、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の選定を重要な問題と考えていたことは明らかであり、そのことからすると、被告人が譲渡の相手方が誰であるかについて関心を抱いていなかったというのは不自然である。また、被告人が譲渡の事実を知らなかったとする相手方のうち、リクルートコスモスの幹部が同社の業務上の関係で選定した者については、報告を受けないことに多少の合理性はあり得るものの、丁谷は、リクルートの基幹事業である就職情報誌事業に重大な関わりを持つ労働省の事務次官であり、被告人も他のリクルートの幹部とともに、折りに触れて丁谷ら労働省の幹部を料亭で接待していたのであるから(本章第三の七8)、仮に、六一年九、一〇月当時に、一連のコスモス株の譲渡に関与したリクルートグループの幹部のうちの誰かが丁谷に譲渡することを思いついたとしても、被告人に推薦し、あるいは了解を求めるのが合理的な行動であり、誰かが被告人に何も知らせないまま、R7やR1に指示して丁谷に対する譲渡を実行するなどということは考え難いことである。
(三) リクルートコスモスの幹部が選定した可能性
リクルートグループと丁谷との関係は、リクルートや関連会社の就職情報誌事業と労働省との関わり合いの中から生じたものであり(本章第三)、不動産の所有、管理、売買、賃貸等を目的とし、主としてマンションの企画販売事業を展開していたリクルートコスモスと丁谷との接点は窺われないから、リクルートコスモスの幹部が同社との関わりで丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定するということは考え難い。また、同社の幹部三名のうち、R20とR21に関しては、同人らが同社の業務上の関わり以外の事情で丁谷と交流があって丁谷を譲渡の相手方に選定したという可能性は、何ら窺われない。同社の幹部三名のうち、R3については、リクルート情報出版の専務取締役当時に就職情報誌に対する法規制問題に関わりを持ったという事情があるものの、同人は、丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定してはおらず、そもそも自分と丁谷とは譲渡の相手方として選定するような関係になく、丁谷に譲渡されたことも知らなかった旨供述しており(〈証拠略〉)、その供述の信用性を疑うべき事情は見当たらない。
(四) R2が選定した可能性
(1) 次に、R2が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定したという主張に沿う証拠としては、R1の公判段階における供述があり、R1は、選定者については分からないとしつつ、丁谷に対するコスモス株の譲渡手続を執るようにR1に指示した者はR2であるとし、その際の状況について、R2から指示された言葉、指示を受けた場所、R18から電話で売買約定書が二口に分かれてもかまわないかを尋ねられ、R2に確認した上、かまわない旨返答したことなどを詳細に供述している(〈証拠略〉)。
(2) そこで、R2と丁谷との関係を見ると、確かに、R2は、六〇年七月にリクルートの社長室長に就任して以降、政治家のパーティー券を引き受ける件でR7と一緒に労働省労政局長室に丁谷を訪問し、その後、六一年五月ころにも同室に丁谷を訪問し、自宅購入を検討していた丁谷からリクルートが有する住宅情報の提供を依頼されて、後日その提供をしたことがあるほか、リクルートの丁谷に対する接待に同席するなど、一定の接触があったことは認められる(〈証拠略〉)が、それらは、弁護人が主張するように「交際が深まっていた」というにはほど遠いものである。
また、R2と丁谷との関係は、被告人と無関係にR2が独自に接触を持っていたというものではなく、本章第三で詳述したとおり、就職情報誌に対する法規制問題が生じた際、被告人を頂点とするリクルートの幹部と丁谷を頂点とする職安局の幹部との関わりが深まったことから、その延長として、R7の後任で社長室長になったR2が一定の接触を持ったものであることが明らかであり(〈証拠略〉)、しかも、被告人自身も、従前から、丁谷を料亭で接待し、丁谷が事務次官に就任した後の六一年七月にも丁谷を料亭で接待していたところ(本章第三の七8)、同月の接待の際には、R2も出席し、経理に対する支払依頼書も社長室で作成していた(甲書2七六八)のである。
そうすると、R2は、被告人と無関係に丁谷と関わりを持っていたというわけではなく、被告人の秘書役である社長室長の立場で丁谷と関わりを持ったという面が強いのであるから、仮に、一連のコスモス株を譲渡した当時、R2が右接触のあった丁谷に対する譲渡を思いついたとしても、右(二)で記載したとおり、被告人に対し、丁谷に譲渡することを推薦し、あるいは了解を求めるのが合理的な行動であり、R2が被告人に何の断りもなく、独自に丁谷を譲渡の相手方に選定するなどということは考え難いことである。
加えて、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR7であることは先に認定したとおりであり、また、丁谷との間で譲渡書類を作成する手続をしたのがR1であることも証拠上明らかな事実であるところ、一連のコスモス株の譲渡に際し多数の相手方との間で株式売買約定書等の書類を作成する作業は、R1だけではなく、R2も担当していたのであり(第一章第二の二1(三)、二〇四回・R2)、しかも、右のとおり、R2は丁谷と一定の接触があったのであるから、仮に、R2が丁谷を選定したのであれば、R7やR1に対し丁谷に持ちかけることを任せたり、譲渡書類作成手続を任せたりせずに、自分で丁谷を訪問するのが自然である。
(3) R2は、自分は丁谷をコスモス株の譲渡の相手方として選定することに関与しておらず、R1に丁谷に対する譲渡手続を指示したこともない旨、明確かつ一貫して供述するところ(〈証拠略〉)、右(2)の諸点に照らすと、その供述の信用性は高い。
(4) これに対し、R1は、捜査段階においては、指示を受けた可能性がある者の一人として、R7、被告人及びR5と並べてR2の名前を挙げていたにすぎず、三年一〇月ころのR7を被告人とする公判において、初めてR2から指示を受けた旨の断定的な供述をするに至ったのであるが(〈証拠略〉)、R1は、右事実は、元年秋ころ、自分が参加した六一年九月一三日から一五日にかけて行われたウィンドサーフィン大会に関する雑誌の記事を契機として、一連のコスモス株を譲渡した当時の自分の行動に関する記憶を順次喚起する過程で、同年一〇月二九日、本件一連のコスモス株の譲渡とは別に、M8(以下「M8」という。)保有のコスモス株をM9(以下「M9」という。)に譲渡する手続に関与したこととの関係で、丁谷に対する譲渡手続を終えてこれが最後だと思ってほっとしていたところにM8とM9との間の譲渡手続の指示を受けたことを思い出し、その際、丁谷に対する譲渡手続がR2からの指示であったことも思い出した旨供述している(〈証拠略〉)。
この点、確かに、六一年一〇月二九日、被告人の指示を受けたR1が手続に関与して、M8保有のコスモス株一万株を代金三〇〇〇万円でM9に譲渡する契約がなされ、同月二九日にファーストファイナンスが右代金を仮払し、同月三〇日にM9が代金相当額をファーストファイナンスに入金した事実は認められる(〈証拠略〉)。しかし、R1は、逮捕される前の六三年一二月中ごろの取調べの際、取調検事からM8とM9との間のコスモス株の譲渡の約定書を示され、その譲渡手続への関与について質問されていたのであるから(〈証拠略〉)、R1が公判段階において供述するように、丁谷に対する譲渡手続をR2から指示された状況について具体的な記憶があり、しかも、その譲渡手続がM8とM9との間の譲渡手続と関連付けて記憶されていたのであれば、捜査段階において、丁谷に対する譲渡手続を誰から指示されたかを繰り返し追及された際、R7、被告人、R2及びR5のうちの誰かから指示を受けた(本章第四の二5(二)、(三)(1)、(2))とか、「R7さんから直接だったかあるいは甲野さんらに言われたかしたのですが」(本章第四の二5(三)(4))という曖昧な供述をするのではなく、R2からであることを思い出すことができたはずではないかという強い疑問を抱かざるを得ず、R2から指示を受けた旨のR1の公判段階における供述は信用性に乏しい。
(五) 譲渡株数との関係
弁護人は、丁谷に対する譲渡の株数は三〇〇〇株であり、被告人自身が選定した乙山や辛村に対しては一万株を譲渡したこととバランスを欠くから、他の者が丁谷を選定した可能性がある旨主張する。
しかし、被告人が公判段階においてコスモス株の譲渡の相手方として選定したことを認める者のうち、M10(国会議員秘書)、M11(国会議員秘書)及びA1(乙山秘書)に対する譲渡株数は各二〇〇〇株であり、M12(会社役員)、M13(被告人の高校時代の同級生)、M14(会社社長)、M15(総理大臣秘書)、M16(総理大臣秘書)、M17(新聞社編集局長)、M18(会社社長)及びM19(会社社長)に対する譲渡株数は各三〇〇〇株であった(〈証拠略〉)から、丁谷に対する譲渡の株数が三〇〇〇株であったことは、被告人以外の者が丁谷を選定した根拠となるものではない。
(六) 被告人自身で譲渡を持ちかけていなかったこととの関係
弁護人は、被告人は、自分が選定した者については、礼儀上自ら直接連絡をして承諾を得るべきと考え、被告人自身が本人又はその秘書に連絡してコスモス株の譲渡を持ちかけ、承諾を得てから、R1らに対し手続を指示していたのであり、譲渡を持ちかけることを人任せにしたことはなく、被告人自身で丁谷に譲渡を持ちかけなかったことは、被告人以外の者が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定したことを窺わせる旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をしている。
しかし、被告人自身が個人的にはさほど親しくないが、リクルートの業務と関わりのある者にコスモス株を譲渡することとした場合に、被告人が自ら連絡せずに、相手方と親しいリクルート関係者に対し譲渡の相手方に持ちかけるように指示するということは、自然なことであるから、弁護人の右主張も理由がない。
4 被告人から丁谷に譲渡を持ちかけるように指示された旨のR7の供述の信用性
(一) 問題の所在
R7は、捜査段階において、六一年九月中、下旬ころ、被告人から、丁谷にコスモス株三〇〇〇株の譲渡を持ちかけるように指示されて丁谷に持ちかけた旨の供述をしていたが(本章第四の二3)、公判段階においては、被告人から、丁谷に譲渡を持ちかけるように指示されたことも、丁谷に譲渡を持ちかけたこともない旨供述し、弁護人は、R7の検面調書が作成された経緯等に照らして、その供述には信用性がない旨主張している。
右のうち、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR7であることは、本章第四の三4のとおり、事実と認められるから、R7の捜査段階における供述のうち、譲渡を持ちかけたことを認める部分は、客観的事実に合致するものであって、信用することができ、これに反する公判段階における供述は信用することができない。
そこで、次に、被告人から譲渡を持ちかけるように指示されたことに関するR7の捜査段階における供述の信用性を検討する。
(二) R7の捜査段階における供述経過
R7の捜査段階における供述経過や検面調書作成の経緯は次のとおりである。
(1) R7は、捜査段階において、六三年一一月二〇日に入院中の病院で取調べを受けて以降、数回にわたり、自宅で丁谷に対するコスモス株の譲渡について検察官の取調べを受けたが、その間は、丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与したことを否定していた(〈証拠略〉)。
(2) 元年一月以降、R7は、検察庁で取調べを受けるようになり、同月一九日の検察官の取調べにおいて、「何かの宴会の席で、場所は料亭であったと思います。確か、私はその宴会が始まる前、丁谷さんに『ちょっと』と言って、丁谷さんを料理などが並べてある部屋のとなりの部屋に誘ったと思います。そして、その部屋で丁谷さんに、『リクルートコスモスの株を甲野さんにお願いして譲ってもらったらどうですか』と言いました。」などと記載された検面調書が作成され(甲書2九九四)、同月二六日の検察官の取調べにおいては、「前回お話したとおり、私はリクルートコスモス株をその店頭公開前に丁谷に対し、買ってもらうおさそいのお話をもっていったことは間違いありません。その日時と場所については、まだはっきり思い出せないのですが、よく考えてみますとこういったコスモス株譲渡の話を丁谷さんに持ち込んだのは二回程あると思うのです。一回目はよくよく考えてみますとはっきり断定はできませんが、E1代議士をはげます会が目白の椿山荘でおこなわれた時ではないかと思うのです。〔中略〕雑談中に丁谷さんから家を新築しなければいけなくて、お金が入り用なので何か儲かるような話はないかと言われた際、リクルート社の関連会社の株が近く店頭公開されるという予定を話して、その株を持たれたらどうですか、などと簡単にすすめた程度で終わった記憶なのです。〔中略〕二回目はこの一回目の時から四、五ヶ月した頃と思うのですが、〔中略〕何かの会合で料亭のような場所で丁谷さんにお会いした際、会合の開かれる部屋の隣室に丁谷さんをお呼びし、丁谷さんと一対一になった時にお話しした記憶があるのです。その部屋で丁谷さんに『リクルートコスモスの株を甲野さんにお願いしてゆずってもらったらいかがですか』ともちかけました。〔中略〕その際丁谷さんから『いくらだい』といったような話がでたので、『一株三、〇〇〇円で三、〇〇〇株程どうです。』といったような話をしました。〔中略〕多分私が丁谷さんにおすすめした為、丁谷さんの方から甲野の方に連絡がいき、三、〇〇〇株のやりとりが決まってR1が手続きをしたのだと思います。」と記載された検面調書が作成された(〈証拠略〉)。
(3) その後、元年三月二日の検察官の取調べにおいては、「私がリクルートコスモス株の登録前、丁谷三郎労働事務次官に対し、リクルートコスモス株購入を勧めたことはこれまでお話ししているように間違いありません。そして、これは絶対に間違いありません。」と記載された検面調書が作成された(甲書2一〇〇九)。
R7は、元年三月八日に逮捕されたが、その際は、「私が〔中略〕丁谷三郎さんに対し、公開前のリクルートコスモス株の購入を勧めたことは間違いなく、〔中略〕丁谷さんに儲けていただきたいとの気持ちからリクルートコスモス株購入を勧めました。でも、これは自分の考えで行ったものであり、他の者と相談の上行ったものではありません。」と記載された弁解録取書が作成され(〈証拠略〉)、勾留中の同月一三日の検察官の取調べにおいて、「私が〔中略〕丁谷さんに対し、〔中略〕リクルートコスモス株購入を勧めたことは間違いありません。私が丁谷さんにコスモス株購入を勧めた時期は昭和六一年九月中、下旬ころでした。というのは、リクルートでは昭和六一年一〇月二四日及び翌二五日に丁谷さんを千葉県の大原で釣りの接待をしていますが、その釣りに丁谷さんを誘ったのは私であり、丁谷さんにコスモス株購入を勧めたとき、丁谷さんに、『鯛を釣りに行きませんか』などと釣りもお誘いしているからです。」と記載された検面調書が作成された(〈証拠略〉)。
(4) さらに、元年三月一八日の検察官の取調べにおいて、「私が丁谷三郎さんにお勧めしたリクルートコスモス株は、リクルートの社長であった甲野太郎が処分権限を持っている株であり、私が勝手に処分できない株であることは認めます。」と記載された検面調書が作成され(甲書2一〇二〇)、同月一九日の検察官の取調べにおいて、「昭和六一年九月に丁谷三郎さんに対し、リクルートコスモス株の譲渡話を持ちかけたことは事実であり、〔中略〕私が丁谷さんに勧めたリクルートコスモス株の処分権限は私にはなく、その株の処分権限は甲野が持っておりました。だから、誰にいくらの株を譲渡するかは甲野が決めることであり、甲野の指示乃至了解がなければ誰にいくらの株を譲渡するか決めることができない株であったのです。右の点は丁谷さんにリクルートコスモス株をお勧めする場合にも例外ではなく、私が丁谷さんにリクルートコスモス株三、〇〇〇株購入をお勧めしたのが間違いないということであれば、私の一存で丁谷さんに三、〇〇〇株お譲りすることを決められる筈がないので、甲野の指示があったということになります。」と記載された検面調書が作成され(甲書2一〇二一)、元年三月二〇日の検察官の取調べにおいては、「丁谷三郎さんに対し、リクルートコスモス株の譲渡話を持ちかけるにあたってのことを自分なりに色々考えてみますと、甲野太郎さんからそのコスモス株譲渡について指示をうけて丁谷さんに話を持ちかけたということも考えられない訳ではありませんので、その点についてこれからもう一度よく考えてお話しするようにしますのでよろしくお願いします。なお、今年一月二六日、検事さんのお取り調べの際、丁谷三郎さんにコスモス株譲渡の話を持ちかけるにあたって、コスモス株の金額が一株三、〇〇〇円であることのほか、その丁谷さんに持っていただく株数について三、〇〇〇株持っていただきたいと言ったかもしれない旨話したのは間違いありません。こういう株数まで言うということについては、これまでお話ししたとおり、もちろん甲野の指示ないし了解がなければ決められるはずのないことであり、そういった点から考えても甲野の指示があったことが考えられますので、そういったものがあって私自身が丁谷さんに話を持ちかけたかについて、更に真剣に考えてお話しいたしますのでよろしくお願いいたします。」と記載された検面調書が作成され(甲書2一〇二二)、同年三月二一日の検察官の取調べにおいては、「この〔丁谷に対するコスモス株の〕譲渡話をするにあたってはリクルート社において社長の甲野太郎さんから、コスモス株を三、〇〇〇株程丁谷さんに譲渡したいから、先方に話をしてみてほしいとたのまれ、それで前に検事さんにもお話ししたとおり、丁谷さんに対して、『三、〇〇〇株ほどどうですか』と株数まで示しておさそいしたのだと思うのです。丁谷さんがこれを内諾したので、それを甲野さんに話したところ、その後社長室長のR1が丁谷さんのところに株譲渡の手続をとりに行ったと思うのです。」と記載された検面調書が作成され(甲書2一〇二三)、同月二三日の検察官の取調べにおいては、「丁谷さんは労働事務次官までされた方であり、私も丁谷さんを信頼しておりますので、丁谷さんがそうおっしゃっているのなら、私が丁谷さんにリクルートコスモス株購入を勧めた際、『甲野から言われて来たのですが』などと言ったのだと思います。私は、昭和六一年九月中、下旬ころ、リクルートの関連会社であるコスモスライフに勤務し、自分で言うのも変ですが、忠実なサラリーマンであり、甲野の指示があれば、『これは甲野からの指示ですが』とか『甲野から言われて来たのですが』などと言うと思います。右のようなことなどから、丁谷さんへの株譲渡は、昭和六一年九月中、下旬ころ、リクルート社において、甲野から、リクルートコスモス株三、〇〇〇株を丁谷さんに譲渡したいので話をしてほしいなどと頼まれたのだと思います。そこで、丁谷さんに対し、リクルートコスモス株三、〇〇〇株を一株三、〇〇〇円でお勧めし、丁谷さんがその購入を承知されたので、それを甲野か或いはR1に話したところ、R1が丁谷さんのところに株譲渡の手続きをとりに行ったのだと思います。」と記載された検面調書(甲書2一〇二四)、「私が丁谷さんにリクルートコスモス株をお勧めした時期が昭和六一年九月中・下旬ころという根拠は、私が丁谷さんにリクルートコスモス株購入を勧めた際、丁谷さんとは昭和六一年五月中旬ころ、千葉県の千倉に釣りに行ったきり、一緒に釣りに行っていなかったので、丁谷さんをリクルートの費用で釣りにお誘いしようと思い、『鯛でも釣りに行きましょうよ』と言ったところ、丁谷さんが釣りをOKされましたので、その後R11に会った際、〔中略〕切符等の手配方を頼んでおり、その切符を購入した日が昭和六一年九月二七日ということですので、私が丁谷さんにリクルートコスモス株購入を勧めた時期が昭和六一年九月中・下旬ころと言えるのです。次に、私が丁谷さんにコスモス株購入を勧めた場所ですが、一所懸命思い出そうとしているものの、よく思い出せず、私としては、誰かの励ます会等が催された都内のホテルだったと思いますが、或いは労働事務次官室であったかもしれません。」などと記載された検面調書(甲書2一〇二五)及び「私が丁谷三郎さんにリクルートコスモス株三、〇〇〇株の購入をお勧めした時期は別の調書でも申し上げたように昭和六一年九月中・下旬ころに間違いありません。」などと記載された検面調書(甲書2一〇二六)が作成された。
(三) 考察
(1) 右(二)の各検面調書の記載内容の変遷を見ると、R7の検面調書は、①捜査段階初期において、丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与したことを完全に否定するもの(右(二)(1))から、②元年一月の取調べにおいて、時期は不特定であるが、料亭等で丁谷と会った際、被告人にお願いしてコスモス株を譲ってもらってはどうかという趣旨の話をしたことを認めるものとなり(右(二)(2))、③元年三月初めから中ごろにかけての取調べにおいて、時期を六一年九月中、下旬ころと特定して、自分が丁谷にコスモス株購入を勧めたことは間違いないが、それは自分の考えで行ったのであり、他の者と相談して行ったのではないというものになり(右(二)(3))、④元年三月一八日から二三日にかけての取調べにおいては、コスモス株の処分権限は被告人が持っていることの確認から始まって(同月一八日付け検面調書)、そのことを前提に、丁谷に譲渡を持ちかけたことに関しても理屈として被告人の指示があったということになる旨の内容(同月一九日付け検面調書)、被告人から指示を受けて丁谷に話を持ちかけたということも考えられないわけではないという内容(同月二〇日付け検面調書)、被告人から頼まれて丁谷に譲渡を持ちかけたと思うとともに、丁谷が内諾したことを被告人に話したと思うという内容(同月二一日付け検面調書)、丁谷が言うのであれば、「甲野から言われて来たのですが」と言ったと思うという内容(同月二三日付け検面調書)となって、徐々に被告人の関与を認める度合いを深めるものとなっている(右(二)(4))。
そして、R7は、右経過を経た上、元年三月二四日から二七日にかけての検察官の取調べにおいて、本章第四の二3の供述をするに至ったのであるが、それらの供述も、同月二四日の検察官の取調べにおいては、丁谷に譲渡を持ちかけた際のやり取りを具体的に述べつつ、被告人の関与については、なお「思うのです」、「思います」と表現されていたのが、同月二五日の検察官の取調べにおいては、被告人から指示を受けた状況や丁谷の内諾を被告人に伝えたことついて具体的な供述をし、同月二六日の検察官の取調べにおいても、それに若干の付加をした上、前日とほぼ同じ供述をしている。
(2) 弁護人は、R7が右のような経過で自供するに至ったのは、取調検事が丁谷の供述を根拠にして、一方的にR7を責め、長時間にわたり理詰めの追及を行い、R7の供述のうち、検察側の描いた構図に反するものは受け付けず、逮捕をほのめかすなどしながら、調書の記載内容をすり替えるなどしたためであり、さらに、逮捕後は、連日にわたる長時間の取調べでR7の思考力を失わせ、机をたたき、狂ったようにR7の耳元で絶叫し、R7を何時間も壁に向かって立たせるなどして肉体的苦痛を与え、早期釈放を望むR7の心理状態に乗じて、再逮捕や実刑をほのめかすなどして、検察側の構図に沿う内容の検面調書に署名することを強要しており、特に、元年三月二五日に詳細な自白をした検面調書が作成されたのは、取調検事がR7に想像による架空の話をさせた上、長期の身柄拘束や、東京地方検察庁特別捜査部がR7やその家族に危害を及ぼすことを窺わせるような言動でR7を脅し、署名を強要したものであるから、R7の捜査段階における供述には信用性がない旨主張する。
また、R7も、公判段階(〈証拠略〉)において、弁護人の右主張と同趣旨の供述をしている。
(3) この点、取調検事の言動に関するR7の公判段階における供述は、裏付けを欠く上、関係証拠から事実と認められる丁谷に譲渡を持ちかけた点についてまで否定する供述をしていることからすると、その大部分については信用し難い。
もっとも、R7が、元年三月二五日付け検面調書や同月二六日付け検面調書において、丁谷に譲渡を持ちかけたことにつき被告人から指示を受けたり、被告人に報告した状況を具体的に説明する点については、数日前まで、理屈として被告人の指示があったということになるとか、考えられないわけではないという供述であり、同月二四日の取調べの時点でも「思う」程度にとどまっていたものが、何故に翌二五日の取調べになって、被告人から指示を受け、被告人に報告をした状況について具体的な供述をなし得るに至ったのか判然とせず、そのことからすると、右指示や報告の細部に関しては、R7が公判段階(〈証拠略〉)において供述するように、取調検事から「甲野社長が君を呼ぶ場合には、どのような手続で君のところへ連絡が入ると思うか」などと仮定的、一般的な質問をされ、R7が当日の記憶としてではなく、経験に基づく推測として答えた内容によって肉付けされたものである可能性を否定し難い。
したがって、R7の捜査段階における供述のうち、被告人から指示を受け、被告人に報告した際の具体的言動に関する供述ついては、十分な信用性を認め難い。
(4) しかし、
① R7の捜査段階における供述のうち、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたことを認める部分は、客観的事実に合致するものであって、信用性があること(右(一))、
② R7が、公判段階において、事実に反して丁谷に譲渡を持ちかけたこと自体を否定する供述をしていることからすると、被告人から指示を受けたことを否定する供述についても信用性が疑わしいこと、
③ 六一年九、一〇月当時にリクルート本体を離れていたR7が丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかける役割を担うについては、リクルート関係者の誰かから指示又は依頼があったはずであり、その具体的状況について記憶が曖昧になることはあり得るにしても、誰から指示又は依頼を受けたかについてまで記憶が欠落するというのは不合理であること、
④ 一連のコスモス株の譲渡に際して被告人が丁谷を譲渡の相手方に選定することは合理的なことであること(右2(二))、
⑤ 被告人とR7との関係を見ても、丁谷に対するコスモス株の譲渡に際してR7が譲渡を持ちかけることを任されるということは、合理性が高く、自然なことであること(本章第四の三3)、
⑥ 被告人から指示を受けたことを認めるR7の供述は、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられた際、「甲野から言われてきたのですが」と言ってコスモス株の購入を勧めてきた旨の丁谷の捜査段階における供述(本章第四の二2)と符合すること
からすると、R7の捜査段階における供述のうち、被告人から丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示されたことを認める部分については、その細部の具体的状況は別として、被告人からその指示を受けたことを認める点については、十分に信用することができる。
5 被告人が丁谷を譲渡の相手方に選定した旨のR1の供述の信用性
(一) 捜査段階初期における供述について
(1) R1は、一連のコスモス株の譲渡を巡る事件の捜査の初期段階である六三年一一月一七日の検察官の取調べにおいて、六一年九月の三者による選定の機会に、被告人がコスモス株の譲渡の相手方として、他の者とともに丁谷の名前も挙げており、被告人の指示を受けて、丁谷に対する譲渡手続をした旨の供述をし、六三年一二月一七日の検察官の取調べにおいても、六一年九月に被告人から数回にわたって指示された譲渡の相手方の中に丁谷の名前もあった旨の供述をしているところ(本章第四の二5(一))、
① 丁谷に対するコスモス株の譲渡は、既に六三年一〇月一一日の新聞各紙で大きく取り上げられており(〈証拠略〉)、同年一一月一七日の検察官の取調べの際は、右報道から一か月余りが経過し、しかも、衆議院リクルート問題に関する調査特別委員会における被告人及び丁谷の証言を四日後に控えていて、丁谷に対するコスモス株の譲渡が社会的に重大な問題として取りざたされていたほか、同月六日ころからはコスモス株の譲渡に関する取調べも始まっていた(〈証拠略〉)のであるから、社長室次長として被告人の側近の立場にあり、かつ、丁谷に対するコスモス株の譲渡手続も担当していたR1が、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の名前を挙げた中に丁谷が含まれていたか否かという重要な事項について、単なる思い込みや誘導等によってたやすく事実に反する供述をするとは考え難いこと、
② R1は、六三年一〇月二四日ころから検察官の取調べを受けるようになったが、同年一一月に入ったころから元年二月一八日に逮捕されるまでの間、リクルートが手配した弁護士と相談し、その間の取調状況、内容についても弁護士に報告し、自筆のメモを記し、六三年一二月八日以降は、そのメモに公証人役場の日付印を得るなどしており(〈証拠略〉)、被告人がコスモス株の譲渡の相手方として丁谷の名前を挙げた旨の供述は、R1が右のような対応を執っていながら、約一か月の間隔を置いて、同趣旨のまま維持されていたこと、
③ R1は、元年二月一四日以降、P6検事の取調べを受けるようになったが、検面調書の作成に関しては、丁寧に調書を閲読して表現の細部についてまで注意し、度々訂正を求めた上、署名に応じており(〈証拠略〉)、そのような供述態度は捜査段階初期においても同様であったと推認できること
からすると、その信用性は高い。
(2) 弁護人は、六三年一一月一七日付け検面調書二通(乙書2三二、三三)について、R1は、その段階では、コスモス株の譲渡の相手方を選定した者が誰であったかについて問題意識を持っていなかったため、自分が譲渡手続をした者やマスコミで名前を知った者を列挙したにすぎない旨主張し、R1も、公判段階において、コスモス株の譲渡手続に関与した者について尋ねられてその名前を答えていたところ、取調検事が、その全てが被告人のリストアップであるという調書を巧妙に作成した旨供述し(〈証拠略〉)、さらに、取調検事はR1が手続に行った相手はリストアップのときに名前が出ていたのだろうという頭で調書を作っており、自分もそういう頭でいたし、譲渡手続を中心に質問され、そのことに関心が高かった上、選定者が誰かという観点からの質問も受けなかったので、記憶の喚起もされないまま、「手続がリストアップとイコールだということで、〔被告人が丁谷を選定していないことを〕思い出さないで、結局〔調書を〕取られた」と供述している(〈証拠略〉)。
しかし、六三年一一月一七日付け検面調書(乙書2三二)の記載内容は、「一」として、被告人が名前を挙げた譲渡の相手方を二〇人余り記載した上、「二 このうち私が事務手続をしたのは一六人おり、」として、R1が手続に関与した譲渡の相手方を記載しているのであって、両者が明確に区別されているのであるから、R1の公判段階における右供述は、調書の実際の記載内容と齟齬している。しかも、同日付けの別の検面調書(乙書2三三)は、丁谷に対する譲渡に記載内容を絞ったものであり、そこでは、本章第四の二5(一)のとおり、被告人が丁谷の名前を出して同人に対する譲渡手続を指示したことを具体的に述べているのであるから、R1が、右供述当時、単に自分が譲渡手続をした相手方として丁谷の名前を出したわけではなく、被告人が名前を挙げた譲渡の相手方として丁谷のことを供述したものであることが明らかである。
したがって、六三年一一月一七日付け検面調書の作成経緯に関するR1の公判段階における供述は信用することができない。
(3) 弁護人は、また、六三年一二月一七日付け検面調書(乙書2三五)について、R1は、同月七日までには六一年九月の三者による選定の機会に丁谷の名前が挙がっていなかったことを思い出し、誰の指示を受けて丁谷に対するコスモス株の譲渡手続を執ったのか記憶が定かでない旨の供述をしていたのに、取調検事が逮捕や処罰をほのめかすなどして署名を強いたものであって、信用性がない旨主張し、R1も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
この点、確かに、六三年一二月二一日の公証人役場の日付印が押されたR1作成のメモ(弁書1一二五)には、同月七日の検察官の取調べに際して作成した一覧表を再現したという表が添付されているところ、同表中では、丁谷に対するコスモス株の譲渡について、「甲野あるいはR2、R7あるいはR5ないしRCのR3、R20、R21かからの指示でいった」という記載があるとともに、同メモの本文には、同月一七日作成の検面調書では、丁谷に関し、その株主としての選択者が被告人であるかのごとく受け止められてしまうおそれがあり、検事による意図的な調書の作成に不安を覚える旨の記載があり、R1も、公判段階において、同年一一月二六日ころの取調べにおいて、取調検事から、譲渡の相手ごとに、譲渡の相手方との交際状況、アポイントメントを取った状況、譲渡の相手方の所へ行って約定書を作成した状況、売付けの経過等を記載する用紙を渡され、約二週間にわたって同用紙を埋める作業をする過程で、六一年九月の三者による選定の機会に被告人は丁谷を選定していなかったことを思い出したが、取調検事から、ロッキード事件の際に自殺した運転手の妻の話をされて、「この奥さんかわいそうだよな。君も女房のことを考えろよ。君がもし自殺するような気になったら僕に先に一言言えよな。」と言われたほか、「おまえはこのままだと処罰される。逮捕されることになる」と言われて脅され、「被疑者として取り調べる」とも言われて恐怖心で一杯になり、怖かったから調書に署名した旨供述している(〈証拠略〉)。
右のうち、六一年九月の三者による選定の機会に被告人が丁谷を選定していなかったことを思い出したという点については、後に検討するとおり(後記本章第四の四6)、虚偽として排斥することはできない。
しかし、R1は、捜査段階において丁谷に対するコスモス株の譲渡時期や譲渡手続の指示を受けた時期に関し誤った供述をした理由について、公判段階において(〈証拠略〉)、一連のコスモス株の譲渡の最初の段階で、被告人から九月末までに手続を済ますようにという指示を受けていたために、実際に全て九月中、下旬に譲渡手続をしたと思い込んでおり、検事からも、時期が異なるのではないかという質問をされなかったために、右思い込みのままでおり、譲渡の相手方の選定時期も、その前であるから九月上旬から中旬と思って述べていた旨供述するところ、その供述は、捜査段階において時期を誤って供述した理由としては合理的であるが、譲渡の相手方を選定した者や譲渡手続を指示した者が誰であるかについて誤った供述をする理由とはならないから、R1の捜査段階における供述が、時期の点で疑問があるからといって、丁谷を選定し、R1に譲渡手続を指示した者が被告人であるという点についてまで、直ちに信用性に疑問を生じさせるものということはできない。
むしろ、被告人が丁谷を譲渡の相手方に選定し、R1に譲渡手続を指示したということは、R1自身や、R1が社長室次長として仕える社長であった被告人の刑事責任に直結する重要な事柄であるから、右(一)(1)①、②のとおり、弁護士の助言も得ながら、慎重な姿勢で取調べに臨んでいたR1が、逮捕を示唆され、被疑者として取り調べるなどと言われて恐怖心で一杯になったなどという理由により、記憶に反して、自分自身や被告人に不利益な供述をするというのは、合理性に乏しい。
(二) 元年三月二三日付け検面調書について
(1) R1は、捜査段階の中途においては、被告人が丁谷を選定したかどうかについて曖昧な供述をするようになり、元年三月中旬には、選定者については明確に触れずに、譲渡手続の指示者について、被告人、R7、R2及びR5のうちの誰かであるが、そのうちの誰であったかは確信がない旨の供述をしていたところ、同月二二日の取調べにおいて、取調検事から、R5及びR2が丁谷を選定しなかったと供述しており、丁谷もR7が「甲野さんから言われて来た」と言っていたと供述しているとして、関係者の供述内容を示して問われた際、「私の記憶としてはR5さんあるいはR2さんの可能性もあるという記憶ですが、検事さんがそうおっしゃるのであれば私の記憶の内、この丁谷さんへの株譲渡のリストアップをしたのは甲野さんであるという記憶が正しいと判断してよいと思います。」と述べて、他者の供述を前提とすれば被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定した旨の供述をした上、同月二三日の検察官の取調べにおいては、その前提条件も外して、「丁谷さんにこの〔コスモス株〕三、〇〇〇株をお譲りするというリストアップをしてきたのは、これまで申し上げたとおり、甲野太郎さん自身と記憶しており、それに基づいて私がその譲渡手続をしたことは間違いありません。」という断定的な供述をするに至っているところ(本章第四の二5(二)、(三)、〈証拠略〉)、丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定したのが被告人であることを認める右供述は、右(一)で検討したとおり信用性が高いR1の捜査段階初期における供述と符合するものであるから、その信用性は高い。
(2) 弁護人は、元年三月二三日付け検面調書(乙書2二三)は、前日の取調べの際、R1が、取調検事から、長期勾留、再逮捕の脅しを受けて、「R2、R5の記憶を消せ」と迫られて、本章第四の二5(三)(3)の検面調書に署名を強要されたことから、同月二三日の取調べの際には、何を言ってもだめだと思い、もはや抵抗する気力を失って取調検事が作文した内容に署名したにすぎないから、信用性がない旨主張し、R1も、公判段階において、同月二二日付け検面調書は、自分には誰が選定したかについて確信できる記憶はないと再三再四言っていたのに、検事から、「甲野、R7でいいんだ。R2とR5の記憶があるかもしれないけれどもその記憶は消せ。消さないとおまえの保釈はきかないぞ」などと言われて署名したものであり、その調書の作られ方に対し、「こんなふうにして調書が作られるのかというふうに、情けないというのはおかしいと思いますけれども、腹が立つのと同時に、こういうことを検事はやるのかというので信じられない思いで一杯でした。したがいまして二三日の調書は、〔中略〕これが日本の検察かと思うような腹立たしいといいますか、こんないいかげんな作り方をするのかというので、まあ半分どうでもいいよというのが私の気持ちの中にあった」、「こんないい加減な作り方をするんだと、極端なことをいえば、どれにサインしたって同じだろうというような思いが、まあ何を言っても駄目だというのが、私の気持ちにありました」から、同月二三日付け検面調書は、検事の作文であったが、前日からの流れの中で署名した旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、R1の元年三月二二日の検察官の取調べにおける供述は、R5、R2及び丁谷の各供述内容を示した問いに対し、自分としてはR5やR2が丁谷を選定した可能性もあるという記憶であるが、取調検事が言う他者の供述を前提とすれば、被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方として選定したことになるという理屈を述べたものにすぎず、R1自身の記憶としては従前の供述を維持する内容であるのに対し、同月二三日の検察官の取調べにおける供述は、他者の供述を前提とせず、自分の記憶として、被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定し、その選定に基づいて自分が譲渡手続をしたことを述べるものであり、その供述内容は、前日の供述内容と大きく異なっているから、前日の調書に署名した結果、「まあ半分どうでもいいよ」とか「どれにサインしたって同じだろう」という気持ちになって、同月二三日付け検面調書にも署名したというR1の公判段階における供述は信用し難い。
しかも、R1は、元年三月二八日の取調べに際しては、取調検事が丁谷に対するコスモス株の譲渡の趣旨につき調書を作成してR1に署名を求めたのに対し、「私はサインできません。検事さんの作文じゃないですか。」「あなたが作られたものですからあなたがサインなさったらどうですか。」などと言って署名を拒否している(〈証拠略〉)のであり、そのことからも、同月二三日付け検面調書に署名した理由に関するR1の公判段階における供述は信用し難い。
(三) 小括
以上に加えて、
① 一連のコスモス株の譲渡に際し、被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方として選定することは合理的なことであること(右2(二))、
② R7の捜査段階における供述のうち、被告人から丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示されたことを認める点は、十分に信用することができ(右4(三))、そのことを前提とすれば、右譲渡を決定し、R1に手続を指示したのも被告人であると考えるのが合理的であること、
③ 丁谷に対するコスモス株の譲渡手続を執ることをR2から指示された旨のR1の公判段階における供述には信用性がないこと(右3(四)(4))、
④ 被告人が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定し、その指示を受けて譲渡手続をしたことを認めるR1の供述は、R1が譲渡関係書類の作成に来る前の電話で、「甲野の使いで〔中略〕コスモス株の譲渡手続きをしたい」等と言い、実際に来た際にも、「リクルートの甲野の秘書のR1ですが」等と言っていた旨の丁谷の捜査段階における供述(本章第四の二2)と符合すること
からすると、R1の捜査段階における供述(本章第四の二5(一)、(三)(4))は、その選定の時期の点は別として、被告人から、丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定する旨を話され、その指示を受けて譲渡手続をしたことを認める部分については、十分に信用することができる。
6 丁谷に対するコスモス株の譲渡手続の時期との関係
(一) 検討の趣旨
丁谷に対するコスモス株の譲渡手続がなされた時期について、検察官は、六一年九月下旬ころと主張するのに対し、弁護人は、一連のコスモス株の譲渡の最終段階である同年一〇月下旬ころであると主張した上、被告人がコスモス株の譲渡の相手方を選定したのは、同年九月初旬ころに単独で親しい人物数名を選定し、同月中の三者による選定の機会に選定した後は、同月下旬ころにL3を追加して選定したのみであるから、被告人は、同年一〇月下旬ころに手続がなされた丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与していなかった旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をするので、その譲渡時期等について検討を加える。
(二) 譲渡時期に関する考察
(1) まず、
① そもそも、一連のコスモス株の譲渡については、被告人からR2、R1、R18、R4らに対し、六一年九月末までに譲渡手続を終えるようにという指示がなされていたこと(第一章第二の二1(三))、
② 実際の譲渡手続一般に関しても、R2は、公判段階において、時期に関する被告人の指示は、店頭登録の直前に譲渡すると証券取引法との関係で問題が生じることを危惧したためであって、強い指示であったので、自分が担当した手続はほとんど九月中に終え、一〇月にずれ込んでいるとしても一日程度である旨供述していること(〈証拠略〉)、
③ 捜査段階において、丁谷は、六一年九月中旬ないし下旬ころ、R7からコスモス株の譲渡を持ちかけられ、その数日後である同月中、下旬ころ、R1との間で譲渡関係書類を作成する手続をした旨供述し(甲書2一六九)、R7も、右譲渡を持ちかけた具体的な日は覚えていないが、同月中、下旬ころと思う旨供述し(本章第四の二3)、R1も、丁谷に対する譲渡手続をした時期は同月中、下旬ころであった旨供述していたこと(本章第四の二5(一)、(三))、
④ R7は、捜査段階において、コスモス株の譲渡を持ちかけた際に丁谷を鯛釣りに誘った旨の供述をし(本章第四の二3(三)、(四))、丁谷も、その際、R7から鯛釣りの誘いを受けて、これを承諾し、六一年一〇月二四、二五日の日程を決めた旨供述しており(甲書2一六九)、実際にも、リクルートでは、R7やR2らが右日程で丁谷に対し釣りの接待をした(本章第三の七8(二))ところ、リクルートの同年九月三〇日付け現金支払伝票では、同月二七日に右釣り接待の交通費として一一人分の国鉄の特急券を購入した旨の記載があること(甲書2一〇七二)
からすると、R7が丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけた時期は、伝票が作成された六一年九月二七日以前(伝票記載の参加者のうち、丁谷以外の一〇名近い者を誘い、宿や船の手配をする手間を考えれば、少なくとも数日前)であり、R1と丁谷との間の譲渡手続は同月下旬ころになされたと認め得るかのようである。
(2) しかし、六一年一〇月一三日に購入した乗車券分の現金支払伝票(甲書2一〇七三)にはR7の名前が記載されているものの、右(1)④の特急券分の伝票にはR7の名前が記載されておらず、また、丁谷は、公判段階においては、釣りに誘われたのとコスモス株の譲渡を持ちかけられたのが同じ機会であったという記憶はないとして、R7から譲渡を持ちかけられた時期は、同年九月下旬から一〇月上旬程度という感覚であると供述し、捜査段階と供述が相違する理由について、具体的で合理的な説明もしており(本章第四の三1(二))、その上、R1との間で譲渡関係書類を作成する手続をしたのは、R7から譲渡を持ちかけられた数日後であった旨供述している(〈証拠略〉)。
(3) さらに、丁谷に譲渡されたコスモス株三〇〇〇株は、譲渡人名義をm3社とする二〇〇〇株と譲渡人名義をm2社とする一〇〇〇株に分かれているところ(本章第一の一1)、一連のコスモス株の譲渡に際し、その関係書類を用意したR18は、右二口に分かれた事情について、社外の者に対するコスモス株の譲渡手続は、まずm2社の八万株、次にm3社の六万株、その後ほぼ同時期にm6社の一六万株とm5社の追加分の一〇万株の順で指示を受け、メモで譲渡の相手方の名と譲渡株数の連絡を受けて譲渡する株の当てはめをしていたが、最初に受領したメモに相当多数の譲渡の相手方が記載されており、それだけでm2社とm3社の放出分が端数を残して終わったので、残りはm6社が放出した株を当てはめ、その後、m6社についても端数を残してm5社の放出分を当てはめていたところ、R1から丁谷に対する三〇〇〇株分の譲渡書類の用意を依頼された際、m3社の放出株が二〇〇〇株、m2社の放出株が一〇〇〇株残っており、R4に事務手続を引き継ぐ前にm3社とm2社の放出株を終わらせたかったので、R1に二社に分かれても構わないかを確認した上で分けた記憶である旨供述するところ(〈証拠略〉)、右供述は、丁谷に譲渡されたコスモス株が二口に分かれていることの説明として合理的であり、R18が丁谷に対するコスモス株の譲渡の関係書類を用意したのは、R18が最初に受領したメモに基づいてm2社とm3社の放出分への当てはめを端数を残して終えた後のことであると認められる。
(4) したがって、六一年九月二七日の数日前までに丁谷に対してコスモス株の譲渡が持ちかけられ、同月下旬までに譲渡手続がなされたとは断定し難く、持ちかけたことや譲渡手続が同月末ころや一〇月上旬ころになされた可能性も相当に高いというべきである。
(三) 譲渡時期が一〇月下旬ころである可能性について
(1) 弁護人は、R18の右(二)(3)の供述に関連して、R18がR1から連絡を受けて丁谷に対する譲渡の書類を用意した時点で三〇〇〇株をまとめて取れる放出先があれば、二つに分ける必要はないから、その時点で既にm6社やm5社の放出株もまとめて三〇〇〇株を取ることができずに、最後の残余株を当てはめたということは、丁谷に対する譲渡時期が六一年一〇月下旬であることの根拠になる旨主張する。
しかし、R18は、確かに、公判段階において、いったんは弁護人の右主張に沿う供述をしたものの(〈証拠略〉)、反対尋問で、検察官から、R7を被告人とする公判における供述と矛盾するのではないかと問われるや、m6社やm5社の放出株からまとめて三〇〇〇株を取ることができないという状況ではなく、m3社とm2社の放出株の処理を終わらせたかったからである旨供述を訂正している(〈証拠略〉)のであるから、弁護人の右主張は根拠を欠いている。
(2) 次に、R18は、自分が管理していたコスモス株の売買約定書をファーストファイナンスのR4に引き継ぐ際、部下職員に指示して、m2社とm3社の二社の放出分、m6社の放出分及びm5社の放出分に分けて、譲渡の相手方の氏名、株数、譲渡金額を記入し、空欄の「売買約定書」欄を設けた三枚のメモ(甲物1二六、以下「R18メモ」という。)を作成し、その写しをR4に交付したところ(〈証拠略〉)、R18メモには、丁谷に対する譲渡について記載がなく、他方、R18メモのうちm6社関係のメモ中に記載があるM20(以下「M20」という。)については、同人に対する株式売買約定書(弁書2三五)の作成日付欄に六一年一〇月二二日と記載されており、同人の六一年度の手帳(弁書2三八)の同日の欄にも「R20」の記載がある。
弁護人は、右事実からすれば、M20との間の株式売買約定書がR18の下に回収されたのは六一年一〇月二二日以降であり、R18メモは、株式売買約定書に基づいて作成されたものであるから、その作成日は同日以降ということになり、R18メモに丁谷の氏名等が記載されてないことは丁谷に対するコスモス株の譲渡が同日より後になされた根拠となる旨主張する。また、R18も、公判段階において、R18メモには株式売買約定書が回収済みのもののみを記載していたから、その作成時点でM20に対する売買約定書も手元にあったと思う旨供述するとともに(〈証拠略〉)、R18メモの作成時期は同月中旬だったという記憶であるが、M20関係の書類作成日が同月二二日であることを前提とすれば、論理的にはその日以降にR18メモを作成したことになる旨供述している(〈証拠略〉)。
(3) しかし、R18メモには「売買約定書」という欄が設けられており、同欄は空欄になっているところ、R4に事務を引き継ぐに際して売買約定書が回収された譲渡の相手方のみをR18メモに記載したのであれば、売買約定書が揃っていることは当然のことであるから、わざわざ売買約定書欄を設ける必要はないはずであり、同欄が設けられていることは、R18メモに記載がある譲渡の相手方の中には、売買約定書が回収されたものと回収未了のものが含まれていたことを示すものということができる。R18自身も、右売買約定書欄の意味について、「これに丸印を付けて渡したんだと思いますよ、ファーストファイナンスさんに」(〈証拠略〉)と述べているところ、丸印を付ける意味は、R4へ引き継ぐに際して売買約定書が回収済みのものと回収未了のものとを区別すること以外に考え難い。
したがって、R18メモは、R18が譲渡の相手方及び譲渡株数が確定した旨の連絡を受けていたものについて、売買約定書の回収が未了のものを含めて記載していたと認めるのが合理的であり、R18メモ中に記載されたM20関係の株式売買約定書の作成日が六一年一〇月二二日であることは、R18メモの作成日が同日以降である根拠となるものではない。
(4) 加えて、R18メモのうちm6社関係のメモの中で、M20に対する譲渡関係の記載の次に、R18の筆跡で「M21」に対する譲渡についての記載がある(〈証拠略〉)。R18は、その記載の経緯について、R18メモを部下に整理させた後に、「M21」に対し譲渡する旨の電話連絡がきたので、売買約定書は戻っていなかったが、整理の都合上、自分で「M21」とのみ記載したと思う旨供述するところ(〈証拠略〉)、右「M21」に該当するM21に対する株の譲渡は、R3が六一年九月中旬から下旬ころ被告人に推薦し(〈証拠略〉)、その譲渡代金については、ファーストファイナンスが同月三〇日に仮払金としてm6社に支払った後、同年一〇月三日にM21からファーストファイナンスに現金で入金されたので、仮払金の戻し処理が行われている(〈証拠略〉)から、同人との間の書類作成手続は同日までになされていることが明らかであり、したがって、R18がR18メモに「M21」と記載した時期も、遅くとも同日であると認められる。
なお、弁護人は、M21との間の株式売買約定書は、日付が六一年一〇月三日と記載されていたために同年九月三〇日に訂正する必要があり、そのために回収が遅れていた旨主張するが、R18は、右「M21」の記載は、電話連絡に基づいて、売買約定書が戻る前に書き込んだというのであるから、弁護人が主張する事情は、R18が右記載をした時期が同年一〇月三日より後であることの根拠とはならない。
(5) R18は、R18メモの作成時期について、公判段階の当初においては、おそらく六一年九月末から一〇月初めだったと思う旨供述し(〈証拠略〉)、R18メモを受け取ったR4も、捜査段階において、その受領時期は同年九月末から一〇月初めころであったと記憶している旨供述する(甲書1二二)ところ、右に検討した諸点を踏まえれば、右各供述は合理的であって信用することができ、R18メモの作成時期は同年九月末から一〇月初めころと認められる。
したがって、R18メモに丁谷に対するコスモス株の譲渡についての記載がないことは、その譲渡時期が六一年一〇月下旬であることの根拠となるものではない。
(四) R1の供述について
R1は、公判段階において、丁谷に対する譲渡手続が一番最後と思っており、それが終わってほっとしていたところで、もうひとつ別の手続(本章第四の四3(四)(4)記載の六一年一〇月二九日のM8とM9との間の譲渡手続)が出てきて、これでもう最後だろうなと思った記憶があるので、その時期は六一年一〇月下旬の早い時期であると確信をもって言うことができ、そのことは、本章第四の四3(四)(4)記載の記憶喚起作業をして思い出した旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、右供述は、丁谷に対するコスモス株の譲渡をR2から指示されたことを思い出した旨の供述(本章第四の四3(四)(4)のとおり、信用し難いものである。)と一体となったものである点で、信用性に乏しい上、丁谷に対する譲渡手続が一連のコスモス株の譲渡のうちR1が担当した分の最後であり、かつ、M8とM9との間の譲渡手続の直前であったというのが事実であり、しかも、R1がそのことをM8とM9との間の譲渡手続と関連付けて記憶していたのであれば、捜査段階において、取調検事からM8とM9との間のコスモス株の譲渡の約定書を示され、その譲渡手続への関与について質問されながら、何故に丁谷に対するコスモス株の譲渡時期が六一年九月中、下旬ころであった旨の供述を続けていたのか疑問であり、丁谷に対するコスモス株の譲渡時期が同年一〇月下旬である旨のR1の公判段階における供述は信用することができない。
(五) 譲渡時期の認定
以上の検討を総合すれば、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけ、その譲渡手続をした時期は、六一年九月下旬ころから一〇月上旬ころであったと認められる。
(六) 丁谷に対する譲渡時期と被告人の関与との関係
(1) 弁護人は、被告人が六一年九月の三者による選定の機会以降にコスモス株の譲渡の相手方を選定したのは、L3を追加した一回のみであり、終盤の残余株の処理には関係していなかった旨主張するところ、右検討の結果によれば、丁谷に対するコスモス株の譲渡は、弁護人主張のように同年一〇月下旬とはいえないものの、同年九月上旬の(第一章第二の二1(二))三者による選定の機会とは別に、その後に決定された可能性が相当程度あると考えられるが、そのことは、以下のとおり、丁谷に対するコスモス株の譲渡に被告人が関与したという認定を妨げる事情にはならない。
(2) すなわち、まず、弁護人は、被告人が三者による選定の機会以降に譲渡の相手方を選定したのはL3のみであることをその主張の前提としているが、この点については、被告人が、公判段階において、その旨の供述をするが(〈証拠略〉)、それを裏付ける客観的な資料はない。
むしろ、
① M20に対するコスモス株の譲渡関係の株式売買約定書の作成日付は、本章第四の四6(三)(2)のとおり、六一年一〇月二二日であるところ、M20の手帳の一〇月二一日の欄に「甲野」という記載があること(弁書2三八)、
② 一連のコスモス株の譲渡とは別に、六一年一〇月二九日になされたM8保有のコスモス株一万株をM9に譲渡する契約も、被告人がM9にもコスモス株を取得させたいと考え、M8に働きかけて実現させたものであること(〈証拠略〉)
からすれば、被告人が三者による選定の機会の後にL3を譲渡の相手方に追加した後もなおコスモス株の譲渡に関心を持ち続けていたことが明らかであるから、被告人の右供述は信用することができない。
したがって、丁谷に対するコスモス株の譲渡が六一年九月の三者による選定の機会とは別に、その後に決定された可能性が相当程度あることは、丁谷に対するコスモス株の譲渡に被告人が関与したという認定を妨げる事情にはならない。
7 まとめ
(一) 丁谷に対するコスモス株の譲渡に被告人が関与したこと
以上の考察を総合すると、被告人がコスモス株の譲渡の相手方を選定するに際し、法規制問題が生じていた当時の丁谷の対応に感謝の気持ちを示すとともに、丁谷の事務次官在任中に就職情報誌に対する法規制問題が再燃するなど、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になる場合に備えて、丁谷を譲渡の相手方の一人として選定するということは合理的な行動であるのに対し(右2(二))、被告人以外の者が丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定した可能性は窺われない上(右3)、R7の捜査段階における供述のうち、被告人から丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示されたことを認める点については、十分に信用することができ(右4(三)(4))、R1の捜査段階における供述のうち、被告人から丁谷をコスモス株の譲渡の相手方に選定する旨を話され、その指示を受けて譲渡手続をしたことを認める部分についても、十分に信用することができる(右5(三))。また、丁谷に対するコスモス株の譲渡時期を巡る事情を検討しても、丁谷に対するコスモス株の譲渡に被告人が関与したという認定を妨げるような事情は見受けられない(右6)。
したがって、被告人の捜査段階における供述を含めずに判断しても、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の一人として丁谷を選定し、R7に指示して、丁谷にコスモス株三〇〇〇株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1にその譲渡手続を執らせたことが認められる。
(二) 被告人の公判段階における供述の信用性について
(1) 被告人は、公判段階において、丁谷に対するコスモス株の譲渡についての関与を否定する供述をしているが、その供述は、以上で検討したところに照らすと、信用することができない。
(2) しかも、被告人は、六三年一一月二一日に開催された衆議院のリクルート問題に関する調査特別委員会に証人として出席した際、委員長の「あなたは、株式公開前のリクルートコスモス株式の売却先に、例えば辛村七郎前文部事務次官、丁谷三郎前労働事務次官をどのような目的と基準でお決めになったのですか」という質問に対し、「辛村前文部次官並びに丁谷前労働次官とも十年、およそ十年この方親しくしていただいておりまして、そんな関係で、個人的にもお子様の結婚式に出させていただくとかそういう親交がございまして、そういう個人的な親交の中で株式を取得していただいた、こういうことでございますが、お立場を考えればそういうことはすべきではなかったと深く反省しているところでございます。」と証言して(〈証拠略〉)、被告人の意志で丁谷にコスモス株を取得してもらったことを認めていたのである。
弁護人は、右証言は、委員長の総括的な質問に答えてなされたものである上、被告人は、質問の趣旨が専らコスモス株を譲渡した理由にあると取り違えたため、自らが選定した辛村に対する譲渡を念頭において答えてしまった結果であり、丁谷に対する譲渡に関与していたことを認める趣旨ではない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の弁解をするところ(〈証拠略〉)、確かに、被告人が子供の結婚式に出席したというのは、辛村との関係でのみ事実であり、丁谷との関係ではそのような事実は存しない。
しかし、委員長の右質問は、明確かつ一義的であって、誤解を招くようなものではないのであるから、被告人が丁谷に対するコスモス株の譲渡に関与していなかったのであれば、その旨述べれば足りたはずであるのに、被告人は、そのようには述べずに、「辛村前文部次官並びに丁谷前労働次官とも」と、はっきりと両名に言及した上、その両名に対し個人的な親交から譲渡した旨述べているのであるから、これが質問を誤解して辛村に対する譲渡のみを念頭において答えたものであるなどと評価する余地はない。辛村との関係でのみ事実である子供の結婚式への出席に言及していることも、個人的な親交からコスモス株を譲渡したと強調するのに都合のよい事情であることから、特にそのことに言及したものとみられるのであって、右言及が辛村のみを念頭において証言したことの根拠になるものではない。
したがって、被告人の右弁解は信用することができず、結局、丁谷に対するコスモス株の譲渡について関与を否定する被告人の公判段階における供述は、逮捕される前に国会の特別委員会でした自己の証言と矛盾することからも、信用することができない。
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性等
一 被告人らが就職情報誌に対する法規制問題への丁谷の対応に謝意を抱いていたこと
1 認定
本章第三中で認定した諸事実、特に、
①  被告人らリクルートの幹部は、丁谷が労働省職安局長であった当時の職安局における就職情報誌の発行等に対する法規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念していたこと(本章第三の八2)、
②  リクルートでは、右法規制問題に関し、取締役会等で対応策を協議・検討した上、役員や事業部職員等が法規制の阻止に向けた種々の活動をしており(本章第三の二ないし七の随所)、その過程では、事業上有益な情報を得るほか、職安法改正反対等の働きかけをしやすい親しい人間関係を作るために、職安局を中心とする労働省の幹部に対する接待を重ねていたところ、丁谷も、五九年三月及び七月にゴルフ場での接待に応じ、同年一〇月及び一一月、いずれも宿泊を伴う釣りの接待に応じ、同年一〇月には宿泊を伴うゴルフの接待にも応じたこと(本章第三の四4(三)、六4(三)、七5(二))、
③  右法規制問題が決着を見るまでの過程では、職安局においては、職安法改正の検討や立案を担当していたC1業務指導課長がリクルート関係者や就職情報誌業界関係者に対し、就職情報誌に対する法規制について積極的な発言を繰り返していたのに対し、丁谷は、右法規制問題に関し、業界による自主規制に向けた行政指導をし、職安局内部の検討状況についてリクルートに情報を提供するなどしたこと(本章第四の四2(二)④)、
④  結果として、労働省職安局は就職情報誌に対する規制を職安法改正案に盛り込むことをせず、法規制が行われなかったこと(本章第三の七3、6、7)、
⑤  三者会談の直後である五九年九月七日ころ、被告人がR7に指示して、丁谷に対し、海外出張のせんべつ名目で約一〇〇万円の現金を供与し、C1が同年一一月の出版懇話会全体会において、就職情報誌の取扱いを職安法改正の対象外としたことを表明した後の同年一二月、R6、R7、R3らが忘年会の名目で丁谷ら職安局の幹部を料亭で接待したこと(本章第三の七1、8(一))
に加えて、
⑥  被告人自身が、就職情報誌事業を含むリクルートグループの事業について、できるだけ行政から介入を受けずに、自由な事業展開をしたいという意向を持っていたこと(〈証拠略〉)
からすれば、被告人を含むリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者が、丁谷が就職情報誌の発行等につき職安法を改正して法規制をする問題に関し、リクルートや学生援護会に対し業界による自主規制に向けた行政指導をし、リクルートに対し職安局内部の検討状況について情報を提供するなどし、結果的にも右法規制を見送ることにしたことに感謝の念を抱いていたことは明らかである。
2 右認定に関連する弁護人の主張等について
(一) 弁護人の主張等
弁護人は、労働省の対応は、就職情報誌に対する法規制など考えておらず、自主規制で対応すべき問題であるということで終始一貫しており、規制緩和という時代の流れからも、就職情報誌の虚偽・誇大広告という問題は業界の自主規制によって解決されるべきが筋であるから、派遣業法改正に伴う職安法改正に就職情報誌に対する規制が盛り込まれなかったのは当然の帰結であり、したがって、被告人らリクルート側がそのことについて丁谷に感謝の念を抱くような事情など全くなかった旨主張し、被告人も、公判段階(〈証拠略〉)において、同趣旨の供述をしている。
(二) 検討
しかし、既に認定したとおり、労働省内、特に職安局内において、派遣業法制定に伴う職安法の改正を検討する際、就職情報誌に対する規制も盛り込むことを検討していたことは、事実であり(本章第三の二ないし七)、被告人らリクルートの幹部が、右規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念して、リクルートにおいて、法規制阻止に向けた種々の活動をしていたことも事実である(本章第三の八2)。
そして、被告人が、就職情報誌の虚偽・誇大広告の問題は、業界の自主規制によって解決されるべきが筋であり、職安法改正に就職情報誌に対する規制が盛り込まれなかったのは当然の帰結であるという見解を有していたとしても、実際に、労働者の募集に関することを所管し、就職情報誌に対する法規制を検討、立案する権限を有する労働省職安局内にその法規制に向けた動きがあり、リクルートにおいて、その実現を懸念し、その回避に向けた種々の動きをしていたことからすれば、職安法改正案に就職情報誌に対する法規制が盛り込まれないこととなった際、職安局の責任者であり、かつ、法規制問題が決着するまでの過程で、右1のとおりリクルートに対し種々好意的な取り計らいをした丁谷に感謝の念を抱くのは当然のことであり、それが筋にかなった結論であり、当然の帰結であるからといって何の感謝もしないなどということは、不合理なことである。
したがって、被告人の公判段階における供述は信用することができず、弁護人の主張は理由がない。
二 被告人らが丁谷による将来の好意的な取り計らいに対する期待を抱いていたこと
1 認定
本章第五の一1記載の諸事情に加えて、
①  労働省とリクルートとの間には、五八、五九年当時、就職情報誌の発行等に対し法的な規制をする問題が生じたこと(本章第三の二ないし七)に加えて、その前から、労働省が、新規学卒者向け就職情報誌であるリクルートブックの配本時期やフィードバック葉書の記載内容というリクルートの事業遂行に影響を与える行政指導をしてきた経緯があり、リクルートでも、事業部を中心に労働省からの情報収集等に当たってきたこと(本章第三の一2)、
②  被告人は、就職情報誌の虚偽・誇大広告については、一〇年に三、四回程度の割合で繰り返し社会問題化し、国会でも取り上げられていると認識しており(〈証拠略〉)、また、就職情報誌事業を含むリクルートグループの事業について、できるだけ行政から介入を受けずに、自由な事業展開をしたいという意向を持っていたこと(〈証拠略〉)、
③  被告人は、リクルートの就職情報誌事業の展開は、労働省の職業安定行政や国の考え方にひだを合わせて仕事をしていかなければならないという認識を抱いた上、労働行政に関する情報を収集し、労働省から要請を受ければ、政治家に対する献金やパーティー券の購入をするなどしていたこと(〈証拠略〉)、
④  リクルートでは、法規制問題が決着した後も、丁谷を含む職安局の幹部に対する料亭やゴルフ場での接待、丁谷を含む労働省の幹部に対する料亭での接待及び人事異動の際の贈答並びに丁谷に対する釣りの接待を継続しており、これらのうち、六〇年三月及び八月の料亭での接待には被告人も参加していたほか、六一年六月の丁谷の労働事務次官昇任のころ以降だけでも、昇任の直前に、丁谷に対する昇進祝いとして大鯛の盛合せや陶器を贈り、同年七月一六日には、被告人らがC11前労働事務次官、丁谷ほか数名の労働省の幹部を料亭で接待したこと(本章第三の七8)、
⑤  右接待を継続した趣旨について、リクルートの幹部は、捜査段階において、R5が「就職情報誌に対する法規制は、今回は見送られたというだけのことであって、将来的にも絶対になされることがなくなったということではありませんでしたから、これですっかり安心できるというものではありませんでした。そういう意味において、リクルートでは、事業部を中心として、その後も情報収集を行なうとともに、法規制の名目を与えるようなことがないように注意していかなければなりませんでしたから、そんな目的のもとに労働省とのより良い関係を常に心掛けていなければなりませんでした。」(甲書2五六)、「その後〔法規制が見送られた後〕も丁谷さんを接待しておりますが、それは法規制をせず、自主規制に任せていただいたことに対する感謝の気持ちと、将来的にも法規制をしないでいただきたいということや就職協定問題等で今後ともよろしくお願いしますというような気持でのことでした。法的規制をしなくなったとはいえ、それはあくまでも今回はということであり、今後も、状況の変化によっては再び法規制をするということになる恐れはありました。」「リクルートとしては、〔中略〕就職協定問題、雇均法問題などいろいろな問題を抱えておりましたから、今後労働省にはできるだけリクルートのために便宜を図っていただきたいという気持を持っておりましたから、今後それらもろもろの問題について何卒よろしくお願いしますという気持から次官である丁谷さんに対し接待を続けました。」(甲書2五七)と供述し、R6も「法改正の危機が一応去ったと感じた後にもそのような接待を行ったのは、当社の要望を聞き入れていただいて法改正を見送り、自主規制に任せていただいたことに対する感謝の気持ちと、今後、職安法改正だけにとどまらず、どのような問題が起きてくるかも知れず、今後とも当社を理解していただきたいという気持ちから接待を続けていたものです。」(甲書2五一)、「当社としては、就職情報誌への法規制が今回は見送られたということで、一安心したものの、またいつどのような形で就職情報誌に対しての規制が論議されたり、計画されたりするか分からないという不安感も残っておりました。」(甲書2五三)と供述し、R22が「リクルートでは、リクルートブックの配本時期やリクルートから学生に送る各企業宛のイメージアンケート葉書の内容について労働省から行政指導や協力要請を受ける立場にあり、それ以外にも昭和五九年から問題になり始めた男女雇用機会均等法がらみの広告掲載内容の問題、同和問題にからんだ広告掲載内容等について、適宜、労働省の指導や助言を仰がなくてはならなかったこと〔中略〕といった問題を抱え、労働省に対しては将来に亘って引き続き行政指導や労働条件の監督を受ける立場にありました。更には情報誌が職業紹介の分野にある以上、今回の職安法改正問題のような営業の基本に関わるような労働省絡みの問題がいつまた起きてくるかも知れませんでした。そういった問題が起きたり、各種行政指導を受けたりする場合に労働省のトップに立ち労働省の職務全般を指導し決定できる事務次官と親密になっていれば、リクルートとしては大いに助かる訳で、将来何か起きたときに色々お願いできるようにするためにも丁谷さんに対する接待を続ける意味があったのです。」と供述するところ、これらの者の各供述は、ここまでに認定した従前のリクルートと労働省との関係や右①ないし④の各事情に照らすと、合理的なものであって、信用性があること
からすれば、被告人を含むリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者は、就職情報誌に対する法規制問題が決着した後も、就職情報誌の虚偽・誇大広告が社会的、政治的な問題になり、就職情報誌に対する法規制や厳しい行政指導が求められるなどして、労働省の対応がリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に影響を及ぼす事態となることを懸念し、その場合に好意ある取り計らいを受けられるように、丁谷を含む労働省の幹部と親しい関係を維持すべく、接待を継続していたものと認められる。
2 右認定に関連する弁護人の主張等について
(一) 弁護人の主張等
弁護人は、労働省内には、もともと派遣業法の制定と離れて職安法の改正をする考えなどなく、派遣業法制定後は就職情報誌に対する法規制を考えていなかったし、就職情報誌事業は、許認可事業ではなく、労働省を監督官庁とするものでもないから、労働省から行政指導を受ける関係にはなく、したがって、被告人らリクルート側が丁谷に対し法規制問題や行政指導等に関し将来にわたる好意ある取り計らいを期待するという事情はなかった旨主張し、被告人も、「〔リクルートは、労働省から〕行政指導を受ける立場にはない」(一八九回)、「そもそも労働省は、情報誌会社に物を言う権限がある役所ではございませんので、〔中略〕規制をする法的根拠は何もない」(〈証拠略〉)などと供述している。
(二) 検討
(1) しかし、まず、労働省内には派遣業法制定後は就職情報誌に対する法規制をする考えがなかったから、被告人らが丁谷に対し将来にわたる好意ある取り計らいを期待するという事情はなかったという主張については、
① 労働省内の派遣業法制定の当時の考え方がどうであれ、その後の社会的、政治的な状況の変化や、就職情報誌業界における自主規制の実効性の程度等によっては、将来的に就職情報誌に対する法規制や強力な行政指導の検討が求められる事態となることは、当然にあり得ることであって、その可能性がないと考えるべき根拠はないこと、
② 丁谷が、公判段階において、就職情報誌に対する法規制の可能性につき、「自主規制のための、例えば、審査基準がうまく動かないというようなことがあれば、また、リクルート一一〇番的な動きが出てくるということは、これはどんな行政の場合だってあり得ることでありますので、〔中略〕自主規制と称して全然規制が行われてなければ、これは問題になることはあり得るということは、一般論としては思うことはありました」(〈証拠略〉)と供述し、C1も、公判段階において、就職情報誌に対する法規制の問題は、検討課題として先送りした旨供述していること(〈証拠略〉)、
③ 被告人自身が、就職情報誌の虚偽・誇大広告については、一〇年に三、四回程度の割合で繰り返し社会問題化し、国会でも取り上げられていると認識しており(〈証拠略〉)、他のリクルートの幹部も、捜査段階において、右1⑤の供述をしていること
からして、弁護人の右主張は理由がない。
(2) 次に、就職情報誌事業は、許認可事業ではなく、労働省を監督官庁とするものでもないから、労働省から行政指導を受ける関係にはなく、したがって、被告人らが丁谷に対し将来にわたる好意ある取り計らいを期待する事情はないという主張については、被告人が丁谷にコスモス株を譲渡した当時、就職情報誌事業を許認可事業とするなどして直接の規制を加える法律が存在しなかったのは事実である。しかし、労働省職安局の所掌事務の中には、「労働者の募集に関すること」が含まれているのであるから、その一環として、就職情報誌の発行に対する届出制等の法規制を検討し、立案することがあり得るのは当然のことであるし、また、行政機関は、その任務や所掌事務の範囲内において、一定の行政目的を実現するため、特定の者に一定の作為又は不作為を求める指導、勧告、助言等をすることができ、このような行政指導も公務員の職務権限に基づく職務行為であるところ、就職情報誌業界による自主規制の在り方を指導、助言する行為は、「労働者の募集に関すること」に含まれ、新規学卒者向け就職情報誌の配本時期やフィードバック葉書の記載内容の在り方を指導、助言する行為は、「労働者の募集に関すること」に含まれるとともに、職安局の所掌事務の中にある「労務需給の調整に関すること」にも含まれるのであり、このことは、被告人らが所掌事務を定める法令に精通していなくとも、社会的な常識や従来からの就職情報誌事業と労働省との関わりにより、当然に理解できることである。
したがって、被告人らが、労働事務次官として、労働大臣を助け、労働省の省務を整理し、各部局の事務を監督する権限を有する丁谷に対し将来にわたる好意ある取り計らいを期待する事情があることは明らかであり、弁護人の主張は理由がない。
三 コスモス株の譲渡の賄賂性
以上で認定した諸事実、特に、
①  被告人は、丁谷が労働省職安局長であった当時の就職情報誌に対する法規制に向けた動きについて実現の可能性があるものと受け止め、それがリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念していたところ、丁谷がリクルートや学生援護会に対し業界による自主規制に向けた行政指導をし、リクルートに対し職安局内部の検討状況の情報提供をした上、結果的に右法規制を見送ることにしたことに感謝の念を抱いたこと(本章第五の一1)、
②  三者会談の直後である五九年九月七日ころ、被告人がR7に指示して、丁谷に対し、海外出張のせんべつ名目で約一〇〇万円の現金を供与したこと(本章第三の七1)、
③  被告人は、就職情報誌事業を含むリクルートグループの事業について、できるだけ行政から介入を受けずに、自由な事業展開をしたいという意向を持っており(本章第五の一1⑥)、就職情報誌に対する法規制問題が決着した後も、就職情報誌の虚偽・誇大広告が社会的、政治的な問題になり、就職情報誌に対する法規制や厳しい行政指導が求められるなどして、労働省の対応がリクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に影響を及ぼす事態になることを懸念し、その場合に好意ある取り計らいを受けられるように、丁谷を含む労働省の幹部と親しい関係を維持すべく、接待を継続していたこと(本章第五の二1)、
④  丁谷に対するコスモス株の譲渡は、右趣旨による接待のうち、丁谷が労働事務次官に昇任した直後の六一年七月一六日、被告人らがC11前労働事務次官、丁谷ほか数名の労働省の幹部に対してした料亭での接待(本章第三の七8(二))から、二、三か月しか経過していない時期になされたものであること、
⑤  被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させることを意図して、社外の者へ譲渡することを企図したものであり(第一章第二の三3(三)④)、その店頭登録後の価格について、第一章第二の三3(三)の結論部分のとおり認識しており、丁谷に対するコスモス株の譲渡は、被告人がR7を介して丁谷に持ちかけ、その了承を得た上、R1に手続をさせたものであること(本章第四)に加えて、
⑥  被告人と丁谷との間には、右利益の供与を説明できるような個人的な交際関係は全くなかったこと(〈証拠略〉)
を総合考慮すれば、被告人が丁谷にコスモス株を譲渡した趣旨は、法規制問題が生じていた当時の労働省職安局長であった丁谷が、リクルートや学生援護会に対し業界による自主規制に向けた行政指導をし、リクルートに対し職安局内部の検討状況について情報を提供するなどし、結果的にも右法規制を見送ることにしたことに感謝の気持ちを示すとともに、丁谷の労働事務次官在任中に就職情報誌に対する法規制問題が再燃するなど、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になった場合に好意的な取り計らいを受けたいということにあったと推認することができる。
弁護人は、リクルートの丁谷に対する一連の接待は、官民の一般的、儀礼的な付き合いであり、丁谷に対するコスモス株の譲渡も、その一環としてなされたものにすぎない旨主張するが、以上の検討結果に照らすと、理由のないことが明らかである。
四 賄賂性に関する丁谷の認識
1 コスモス株の値上がり確実性及び入手困難性に関する認識
丁谷は、本章第一の一1の手続によりコスモス株三〇〇〇株を譲り受けるに際して、六一年一〇月末ころに予定されていた同株式の公開後にはその一株の価格が譲渡価格である三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれており、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては極めて困難であることを認識していた。(第一章第二の三3(二)記載の状況、〈証拠略〉)
2 職務との関連性についての認識
(一) 認定
丁谷は、コスモス株三〇〇〇株を譲り受けるに際して、その譲渡には、就職情報誌の発行等につき職安法を改正して法規制をする問題に関し、労働省職安局長であった丁谷が、リクルートや学生援護会に対し業界による自主規制に向けた行政指導をし、リクルートに対し職安局内部の検討状況について情報を提供するなどし、結果的にも右法規制を見送ることにしたことに感謝し、労働事務次官在任中に就職情報誌に対する法規制問題が再燃するなど、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になった場合に好意的な取り計らいを受けたいという趣旨があること、すなわち、職務に関する賄賂であることを認識していた。
(〈証拠略〉)
(二) 右認定の補足
(1) 丁谷は、公判段階において、コスモス株の譲渡と職務との関連性について、コスモス株は、R7から、「各界の知名な方々や信頼できる方々にお願いに回っております。ついては丁谷さんにも是非一つ引き受けていただきたい。」と言われて、株式公開に際しての箔付けとして、労働事務次官である自分にも「知名な方々」の一人として株主になってもらいたいという依頼があったものと理解して譲り受けたものであり、自分の職務と結び付けては考えなかった旨供述して、右(一)の認識を否認している(〈証拠略〉)。
(2) しかし、「知名な方々」の一人としてリクルートコスモスの「箔付け」のために株主になるということであれば、株式の店頭登録後に売り抜けたりせずに、株式の保有を続けるのが筋であろうが、丁谷は、コスモス株購入代金の全額について年利七パーセントで融資を受けていて、年間に六三万円もの利息を負担することになるところ、そもそも、公務員である丁谷が、そのような金利を負担してリクルートコスモスの箔付けに協力するということ自体が不合理なことである上、丁谷は、実際には、本章第一の一3のとおり、コスモス株が店頭登録された数日後に全て売却して、約七〇〇万円の売却益を得ているのであるから、右供述は信用することができない。
(3) これに対し、丁谷は、捜査段階においては、R7からコスモス株の購入を持ちかけられた際の心境について、「この様なコスモス株の購入に伴う儲け話を、リクルートの甲野さんが〔中略〕私に持ち込んでくれたのは、私が職安局長時代に就職情報誌の発行に関する法規制を職安局内部で検討した際に色々と法規制の検討状況についてリクルート側に私の考え方を教えてあげたことや、学生援護会のT2社長とリクルートの甲野社長との間をとりもって、就職情報誌業界全体の自主規制の基盤作りをして、自主規制が順調に進むように私が行政指導をして尽力したことに対する謝礼の趣旨や、結果として就職情報誌の発行に関する法規制を見送り、法規制案を職安法改正の中に盛り込まず、自主規制方針をとったことに対する謝礼の気持ちや、更に今後も就職情報誌に対する法規制の問題が起こった時や、過去においてリクルートが度々問題を起こした労働基準法違反の問題や雇用機会均等法の問題、あるいは就職協定の問題等の関係で色々と問題が発生した際には、労働省の事務次官として各局を束ねる地位にある私にリクルートのために色々と便宜な取り計らいを受けたいという趣旨でコスモス株の譲渡話を持ち込んでくれたものと思っておりました。」(甲書2一六九)と述べて、右(一)の認定に沿う供述をしているところ、右供述は、①就職情報誌の発行等に対する法規制問題が生じていた当時の職安局長としての丁谷の行動(本章第四の四2(二)④(ア)、(イ)、(ウ))、丁谷がリクルートから繰り返し料亭での飲食、ゴルフ、釣りなどの接待や物品の贈与を受け、後に返金したとはいえ、せんべつ名目で多額の現金の供与を受けていたこと(本章第三の四4(三)、六4(三)、七1、5(二)、8)や、丁谷と被告人との間には、右利益の供与を説明できるような個人的な交際関係は全くなかったこと(本章第五の三⑥)に照らして合理的かつ自然である上、②丁谷が自己の認識に反する供述調書に署名せざるを得なくなるような取調べがあったことを窺わせる証拠はないことからすると、信用性が高い。
(4) したがって、丁谷が、コスモス株の譲渡の趣旨について、右(一)の認識を有していたことは明らかである。
五 R1及びR7との共謀
1 コスモス株の譲渡の趣旨に関するR1の認識
(一) R1は、公判段階において、丁谷にコスモス株三〇〇〇株を譲渡する手続を執るに際して、その譲渡と職安法改正問題とを結びつけて考えてはおらず、右手続は自分にとっては何の考えも生まない事務作業であった旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) しかし、R1は、就職情報誌の発行等に対し職安法を改正して法規制をする問題が生じた当時、リクルートの社長室課長(五九年一月からは社長室秘書課長兼文書課長)として、社長である被告人の秘書業務等に従事していた上(第一章第一の三1)、累次にわたる取締役会において、右法規制問題の状況について報告を受け、対応策を検討した際にも(本章第三の随所)、これに陪席するとともに、議事録の作成もしていたのである(本章第三の三1)から、被告人らリクルートの幹部が、労働省における右法規制に向けた動きに関して、それが実現の可能性があるものと受け止め、リクルートやリクルートグループの就職情報誌事業の遂行に不利益な影響を与えることを懸念した際に、R1が、その認識と懸念を共有し、その問題が決着を見るまでの過程における丁谷の対応、リクルートによる丁谷に対する接待や、職安法改正案に就職情報誌に対する法規制が盛り込まれなかったことなどについても、その大筋を承知していたものと認められる。
また、新規学卒者向け就職情報誌事業がリクルートの基幹事業であり、中途採用者等向け就職情報誌事業もリクルートグループの重要な事業であって、そうであるからこそ、リクルートでは、本章第三記載のとおり、右法規制問題を事業遂行上の重大な問題と捉えて、累次の取締役会等で対応策を検討し、種々の対策を実行したものと認められるのであり、そのことからすれば、R1は、右法規制問題が決着した一年数か月後に被告人の指示を受けて丁谷にコスモス株を譲渡する手続を執るに際しても、前段落記載の出来事について、少なくとも概要を記憶していたものと推認できる。
さらに、労働省が、法規制の検討・立案や行政指導等を通じて、民間企業の就職情報誌事業の遂行に影響を与え得る立場にあること(本章第五の二2(二)(2))は、所掌事務を定める法令に精通していなくとも、社会的な常識として理解できることであるし、R1自身も、右法規制問題の際に実感したはずのことであるから、R1は、丁谷にコスモス株を譲渡する手続を執る当時、当然に、そのことを理解していたものと認められる。
加えて、被告人が社外の数十名の者にコスモス株を譲渡することを企図したのは、相手方に譲渡価格と株式公開後の株価との差額を利益として取得させようと考えてのことであるが(第一章第二の三3(三)④)、R1は、六一年九月の三者による選定の機会に書記役として同席し、被告人が譲渡の相手方として選定した国会議員や財界人等の氏名や立場を知るとともに(第一章第二の二1(二))、R2らと手分けして相手方との間での譲渡手続も担当したのである(第一章第二の二1(三))から、国会議員や親しい財界人等にコスモス株を譲渡することにより公開後の株価との差益を取得させようという被告人の意図も当然に認識したはずである。
そして、丁谷と被告人との間には個人的な親交がない上に(そのことは、社長室次長兼秘書課長の立場にあるR1は、当然に承知していたと考えられる。)、丁谷は、政治家や財界人でもなく、就職情報誌事業の遂行に影響を与え得る立場にある労働省の事務次官であり、法規制問題が生じた当時は労働省職安局長であったのであるから、R1は、被告人から丁谷に対するコスモス株の譲渡手続を執るように指示された際に、被告人が丁谷に対してコスモス株を譲渡し、公開後の株価との差益を取得させようとする趣旨が、就職情報誌の発行等に対する法規制問題が生じていた際の労働省職安局長としての丁谷の対応に感謝の気持ちを示すとともに、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になった場合に労働事務次官としての丁谷から好意的な取り計らいを受けたいというものであることを了解していたと推認するのが合理的である。
2 コスモス株の譲渡の趣旨に関するR7の認識
(一) R7は、公判段階において、丁谷に対するコスモス株三〇〇〇株の譲渡に関与したことを否定する供述をしている(本章第四の二4)が、その供述に信用性がないことは、既述のとおりである(本章第四の三)。
(二) そして、①R7は、長年にわたりリクルートの事業部長を務めており(第一章第一の三7)、リクルートの就職情報誌事業と労働省(特に職安局)との関わりを知悉していたことが明らかであること、②就職情報誌の発行等に対する法規制問題が生じた当時、R7は、社長室長として取締役会に陪席するほか(第一章第一の三7、四)、職安法対策プロジェクトチームの一員となって(本章第三の三2(二))、丁谷ら職安局の幹部に対するゴルフや船釣りの接待を通じて懇親を図るとともに、情報収集に努めており(本章第三の四ないし七の随所)、○○ホテルにおける丁谷との面談にも参加したこと(本章第三の五4(四))、③三者会談の直後である五九年九月七日ころには、R7が、被告人の指示を受けて、丁谷に対し、海外出張のせんべつ名目で約一〇〇万円の現金を供与したこと(本章第三の七1)、④C1が同年一一月の出版懇話会全体会において、就職情報誌の取扱いを職安法改正の対象外としたことを表明し、法規制問題が一応の決着を見た後も、R7は、同年一二月の忘年会名目による丁谷ら職安局の幹部に対する料亭での接待や六〇年八月の丁谷ら労働省の幹部に対する料亭での接待に参加し、六一年五月には、丁谷に対して船釣りの接待もしたこと(本章第三の七8)、⑤R7は、丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけるに際して、同年一〇月末ころに予定された株式公開の際には値上がりする旨の話をしたこと(〈証拠略〉)からすれば、R7は、被告人から丁谷に対してコスモス株の譲渡を持ちかけるように指示された際、その譲渡の趣旨が、就職情報誌の発行等に対する法規制問題が生じていた時期の労働省職安局長としての丁谷の対応に感謝の気持ちを示すとともに、就職情報誌事業に対する法規制や行政指導が問題になった場合に労働事務次官としての丁谷から好意的な取り計らいを受けたいというものであることを了解していたと推認するのが合理的である。
3 結論
以上によれば、R7とR1は、いずれも、被告人が丁谷にコスモス株を譲渡する趣旨を認識した上、被告人の指示を受け、R7が丁谷に譲渡を持ちかけて了承を得る役割を、また、R1が丁谷との間で譲渡関係書類を取り交わす役割をそれぞれ担当したのであるから、被告人は、R1及びR7と共謀の上、判示のとおり、丁谷に対し賄賂を供与したものである。
第四章  判示第四(日本電信電話株式会社法違反の各事実)について
第一 問題の所在
一 戊田、己畑五郎及び庚町に対するコスモス株の譲渡の事実等
1 戊田に対する譲渡等
(一) 六一年九月上、中旬ころ、被告人が、リクルート本社ビルから、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT本社にいた戊田の秘書であるN1(以下「N1」という。)に電話をかけて、戊田にコスモス株一万株を一株三〇〇〇円で譲り受けてもらいたい旨持ちかけた上、そのころ、被告人の指示を受けたファーストファイナンス社長のR4が、NTT本社において、N1と面談し、その譲渡関係書類を交付した。N1は、そのころ、戊田に右の旨を報告し、その了承を得た上、譲受人名義をN1として、コスモス株一万株を右価格で同月三〇日付けで売買する旨の株式売買約定書に署名押印し、併せて、N1名義でファーストファイナンスからコスモス株一万株を担保に三〇〇〇万円を年利七パーセントで借り入れる内容の金銭消費貸借契約書等の関係書類にも署名押印して、それらの書類をR4に交付した。被告人、戊田及びN1は、右コスモス株の譲受名義人をN1とするのは形式にすぎず、真の譲受人は戊田であると認識していた。
そのころ、R18は、m6社名義のコスモス株を戊田に割り当てることとし、ファーストファイナンスは、六一年九月三〇日、N1の振込指定に基づいて、戊田に融資したコスモス株一万株分の代金三〇〇〇万円をm6社の当座預金口座に振込送金し、戊田は、同日、N1名義でコスモス株一万株を取得した。
(〈証拠略〉)
(二) 六一年一〇月三〇日ころ、R4がN1に対し、コスモス株に五二七〇円の初値が付いたことを伝えて、コスモス株を売却する意思の有無を確認したところ、N1は、戊田の指示を受けて、R4にコスモス株一万株の売却手続を依頼した。そこで、R4は、大和証券にコスモス株の売却手続を委託し、これらは、同月三一日に一株五二七〇円で売却された。同年一一月五日、売却代金から委託手数料等を差し引いた額である五二〇二万〇三〇〇円がN1名義の普通預金口座に入金され、N1は、同月六日、同口座から同金額を払い戻し、そのうちから、三〇二一万二八七六円をファーストファイナンスに送金して右(一)のコスモス株購入の際の借入金三〇〇〇万円の元利金を完済し、戊田は、差し引き約二一八〇万円の売却益を得た。
(〈証拠略〉)
2 己畑五郎に対する譲渡等
(一) 六一年九月上、中旬ころ、被告人は、リクルート本社ビルにおいて、己畑五郎(本章中に限り、以下「己畑」という。)と面談して、コスモス株を譲り受けてもらいたい旨持ちかけた上、そのころ、被告人の指示を受けたR4が、東京都内所在の第一七森ビルにあるNTTデータ通信事業本部において、己畑と面談し、コスモス株一万株を一株三〇〇〇円で同月三〇日付けで売買する旨の株式売買約定書及びファーストファイナンスからコスモス株一万株を担保に三〇〇〇万円を年利七パーセントで借り入れる内容の金銭消費貸借契約書等の関係書類を交付し、そのころ、己畑が右関係書類に署名押印し、同所において、R4に交付した。
そのころ、R18は、m2社名義のコスモス株を己畑に割り当てることとし、ファーストファイナンスは、六一年九月三〇日、己畑の振込指定に基づいて、己畑に融資したコスモス株一万株分の代金三〇〇〇万円をm2社の普通預金口座に振込送金し、己畑は、同日、コスモス株一万株を取得した。
(〈証拠略〉)
(二) 六一年一〇月三〇日ころ、R4が己畑に対し、コスモス株に五二七〇円の初値が付いたことを伝えて、コスモス株を売却する意思の有無を確認したところ、己畑は、R4にコスモス株六〇〇〇株の売却手続を依頼した。そこで、R4は、大和証券にコスモス株の売却手続を委託し、これらは、同月三一日に一株五二七〇円で売却された。同年一一月五日、売却代金から委託手数料等を差し引いた額である三一一九万〇五六〇円が己畑の普通預金口座に入金され、己畑は、そのころ、三〇二一万二八七六円をファーストファイナンスに送金して右(一)のコスモス株購入の際の借入金三〇〇〇万円の元利金を完済した。また、己畑は、その後間もなく、R4から担保に供していたコスモス株四〇〇〇株分の株券の返還を受け、同年一一月一九日、証券会社に委託して、三〇〇〇株を一株五四〇〇円で、一〇〇〇株を一株五三六〇円でそれぞれ売却し、同月二五日、それらの売却代金から委託手数料等を差し引いた額である二一二五万九七二〇円を受領し、合計で約二二二〇万円の売却益を得た。
(〈証拠略〉)
3 庚町に対する譲渡等
(一) 六一年九月上、中旬ころ、被告人は、リクルート本社から、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT企業通信システム事業部にいた庚町に電話をかけて、近く公開予定のコスモス株を持ってもらいたい旨持ちかけた上、そのころ、被告人の指示を受けたR4が、NTT企業通信システム事業部において、庚町と面談して、コスモス株五〇〇〇株を一株三〇〇〇円で譲り受けてもらいたい旨持ちかけ、庚町がこれを承諾し、その場で、コスモス株五〇〇〇株を右価格で同月三〇日付けで売買する旨の株式売買約定書及びファーストファイナンスからコスモス株五〇〇〇株を担保に一五〇〇万円を年利七パーセントで借り入れる内容の金銭消費貸借契約書等の関係書類に署名押印した。
そのころ、R18は、m2社名義のコスモス株を庚町に割り当てることとし、ファーストファイナンスは、六一年九月三〇日、庚町の振込指定に基づいて、庚町に融資した右コスモス株五〇〇〇株分の代金一五〇〇万円をm2社の普通預金口座に振込送金し、庚町は、同日、コスモス株五〇〇〇株を取得した。
(〈証拠略〉)
(二) 六一年一〇月三〇日ころ、R4が庚町に対し、コスモス株に五二七〇円の初値が付いたことを伝えて、コスモス株を売却する意思の有無を確認したところ、庚町はまだ売らない旨返答した。
庚町は、その後、六三年九月三〇日に七一九万八八九六円をファーストファイナンスに送金して右(一)のコスモス株購入の際の借入金一五〇〇万円の元利金を完済し、同社から、担保に供していたコスモス株五〇〇〇株分の株券の返還を受けた上、元年一月一三日、証券会社に委託して、これらを一株二八〇〇円で売却し、その売却代金から委託手数料等を差し引いた額である一三八一万一五〇〇円を取得した。
(〈証拠略〉)
4 譲渡の主体
本件一連のコスモス株の譲渡人(譲渡の主体)が被告人であったと認められることは、第一章第二の二2で判断したとおりであり、右1ないし3の各譲渡についても同様である。
二 争点
被告人が戊田、己畑及び庚町(この三名を総称するときは、以下「戊田ら」という。)に対してコスモス株を譲渡した趣旨が、戊田らの職務に関する賄賂としてなされたものか否かが中心的な争点であり、これに関連して、リクルートの事業とNTTとの関係やリクルートの事業に関して戊田らがどのような職務行為をしたかが問題とされている。
そこで、以下において、順次検討を加える。
第二 前提となる事実関係
一 電気通信事業の自由化とNTTの発足
1 電気通信事業の自由化
電気通信事業は、従来、日本電信電話公社(以下「電電公社」という。)により独占的かつ一元的運営がなされていたが、五九年一二月二五日、電気通信事業法、日本電信電話株式会社法(以下「NTT法」という。)等のいわゆる電気通信改革三法が成立して、六〇年四月一日から電電公社の民営化と電気通信事業の自由化とが実現し、以後、電気通信事業者は、電気通信回線設備を設置して電気通信役務を提供する第一種電気通信事業者と、それ以外の電気通信事業をする第二種電気通信事業者とに区分されることになった。(電気通信事業法、NTT法等)
2 NTTの発足
NTTは、NTT法に基づいて、六〇年四月一日に設立された国内電気通信事業を経営することを目的とする株式会社であり、電電公社の一切の権利及び義務を承継して右事業を営むほか、これに付帯する業務及び郵政大臣の認可を受けてNTTの目的を達成するために必要なその他の業務を営んでおり、第一種電気通信事業者である。(NTT法一条、NTT定款二条、甲物3一)
二 戊田、己畑及び庚町の職務権限等
1 戊田の職務権限等
(一) 戊田の経歴
戊田は、石川島播磨重工業株式会社代表取締役社長等を経て、五六年一月に電電公社総裁に任命され、電電公社の民営化に伴い、六〇年四月一日にNTTの初代代表取締役社長に就任し、六三年六月二八日までその職にあり、同月二九日にNTTの代表取締役会長になったが、同年一二月一四日、その職を辞した。
(二) 戊田の職務権限
戊田は、NTTの代表取締役社長の職にある当時、NTTを代表し、取締役会の決議に基づき、NTTの業務を総理する職務に従事していた(商法二六一条、定款一九条)。
(〈証拠略〉)
2 己畑の職務権限等
(一) 己畑の経歴
己畑は、三一年六月に電電公社社員に採用され、東京電気通信局長等を経て、六〇年四月一日にNTTの取締役に就任し、兼ねて、同日から六一年六月二五日までNTTの東京総支社長の職にあり、同月二六日から六二年三月五日までの間、NTTのデータ通信事業本部長の職にあったが、同月六日に同事業本部長の職を解かれ、同年五月二五日に取締役も退任した。なお、己畑は、その後、六三年七月一日にリクルート顧問に就任した。
(二) 己畑のNTTの東京総支社長としての職務権限
己畑がNTTの東京総支社長の職にあった期間中、同総支社の所掌業務は、六〇年一一月二八日までは、管轄区域(東京都の全域並びに神奈川県、埼玉県及び山梨県の各一部地域)内の電話の加入等、データ通信、電気通信施設の建設についての設備計画、同施設の工事の計画、電気通信設備の工事の設計、同設備の建設及び保全、不動産の建設及び貸借等、職員の人事等に関する事務などであり(六〇年四月一日付け社長達一六号「本社通達件名一覧」によって承継された二七年一〇月二八日付け電電公社公示「日本電信電話公社職制」二七条)、六〇年一一月二九日から六一年三月二日までは、右業務から電話サービス以外のサービスに関する事務が除かれたもの(ただし、他の事業本部に電気通信設備を貸与し、他の事業本部から、同設備の工事、設計及び保守を受託することも含まれる。)であり(第一〇回取締役会決議「重要な組織の改廃について」、六〇年九月六日付け常務会資料「総支社等地方段階の組織編成について」)、六一年三月三日以降は、地域の電話サービス(通信端末機器及び地域電話帳を含む。)に係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関すること(他の事業本部に電気通信設備を貸与し、他の事業本部から、同設備の工事、設計及び保守を受託することも含まれる。)であり(同日付け社長達一三〇号「組織規程」四条二項、別表一―二)、己畑は、同総支社長として、所属の社員を指揮監督して同総支社が所掌する事務を執行し(六一年三月三日前)、あるいは事業を運営する(同日以降)権限を有しており(同日前は、右「日本電信電話公社職制」六七条、同日以降は、右「組織規程」二一条、別表四)、同総支社の所掌業務の範囲内で代表取締役社長を代理して契約を締結できる権限も有していた(六〇年四月一日付け社長達二二号「契約規程」二条、同年七月二四日付け「専決権限の考え方について(依命通知)」)。
(三) 己畑のNTTのデータ通信事業本部長としての職務権限
己畑がNTTのデータ通信事業本部長の職にあった当時、同事業本部(以下「デ本」という。)の所掌業務は、データ通信サービスに係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関することであり(前記「組織規程」四条二項、別表一―二)、己畑は、デ本の事業本部長として、所属の社員を指揮監督して同事業を運営する権限(右「組織規程」二一条、別表四)及びデ本の所掌業務の範囲内で代表取締役社長を代理して契約を締結できる権限(前記「契約規程」二条、前記「専決権限の考え方について(依命通知)」、六一年九月一八日付け社長達四七号「権限規程」)を有していた。
(〈証拠略〉)
3 庚町の職務権限等
(一) 庚町の経歴
庚町は、三二年六月に電電公社社員に採用され、企業通信システムサービス本部長等を経て、六〇年四月一日から六二年一月一九日までNTTの企業通信システム事業部長の職にあり、その後、NTTの企業通信システム事業本部副事業本部長、取締役を歴任し、六三年一二月一五日に取締役を退任した。
(二) 庚町の職務権限
庚町がNTTの企業通信システム事業部長の職にあった当時、同事業部(以下「企通」という。)の所掌業務は、六一年三月二日までは、金融関連、流通関連等の企業通信システムのコンサルティング、設計、建設などであり(六〇年三月七日付け依命通知「昭和60年4月の機構改革等について」)、六一年三月三日以降は、大規模な複合通信システムのコンサルティング、設計、建設、販売等の事業経営に関することであり(前記「組織規程」四条二項、別表一―二)、庚町は、企通の事業部長として、所属の社員を指揮監督してその事務を執行し(六一年三月三日前)、あるいは事業を運営する(同日以降)権限を有しており(同日前は、前記「本社通達件名一覧」によって承継された前記「日本電信電話公社職制」六七条及び前記「昭和60年4月の機構改革について」、同日以降は右「組織規程」二一条、別表四)、企通の所掌業務の範囲内で代表取締役社長を代理して契約を締結できる権限も有していた(前記「契約規程」二条、前記「専決権限の考え方について(依命通知)」、前記「権限規程」)。
(〈証拠略〉)
第三 リクルートとNTTとの関係(戊田、己畑及び庚町との関係を含む。)
一 リクルートの回線リセール事業とNTTの業務との関係等
1 リクルートの回線リセール事業への進出とNTTとの関係
(一) リクルートが回線リセール事業に進出した経緯
リクルートでは、五九年ころから、情報システム部が中心になって、本社と支社間の通信経費を削減するために電電公社の「高速ディジタル伝送サービス」(電電公社が設置する高速デジタル回線を専用的に使用した電気通信サービス)を利用することを計画し、六〇年三月までに正式にその利用を決めて、同月二五日、電電公社に対し、開通希望日を同年六月一〇日として、東京・大阪間で毎秒七六八キロビット、東京・名古屋間で毎秒三八四キロビットの高速ディジタル伝送サービスを申し込んだ。
他方で、リクルートでは、五九年一〇月にR6を新規事業担当の取締役に充てるなどして、新規事業への進出を模索していたところ、右高速ディジタル伝送サービスで提供される専用回線(高速デジタル回線)のうち東京・大阪間の回線について自社使用の余剰分があることから、六〇年三月ころまでに、その余剰分を小分けして第三者に使用権限を再販売する事業を実施することを企図した。
そこで、リクルートは、六〇年四月にR6を情報システム部担当に充てるとともに、同部内に事業化の調査等を担当する課を設けて、回線リセール事業の需要調査等の準備を進め、同月一八日には、電気通信事業法二二条一項による一般第二種電気通信事業の届出もした。
なお、この事業計画が、六〇年四月二三日ころ、「リクルート、回線又貸し」、「料金30〜50%安く」という見出しで新聞報道されたため、被告人は、リクルートがNTTよりも大幅に安い価格で回線リセール事業を行うことがNTTの通信回線販売部門を刺激し、NTTとの関係が悪化することを懸念して、R6と情報システム部長のR32(以下「R32」という。)に指示し、従前からリクルート社内の情報システム構築に関連して取引があったNTTの企通事業部長である庚町の下へ謝罪に赴かせたところ、庚町は、回線リセール事業は何ら違法でなく、NTTとして協力が可能である旨説明し、R6は、被告人にその旨の報告をした。
その後、リクルートは、回線リセール事業の需要調査及び営業を開始したが、購入を希望する企業が多かったことから、六〇年七月までに、その事業化が有望であると認識し、本格的な新規事業と位置付けて、自社用回線の余剰分の再販売だけではなく、当初から再販売目的でNTTから大容量の高速デジタル回線の提供を受け、これを小容量に分けて再販売する事業を全国的な規模で展開することを決め、同月一日付けで、従来の情報システム部を、社内システムを担当するシステム推進部と社外的な事業展開を担当する情報システム部に分割して、事業展開の体制を整備した。そして、東京・大阪間の高速デジタル回線(毎秒七六八キロビット)は、同月二九日ころ開通し、リクルートは、そのころ、日本出版販売株式会社を第一号の顧客として、回線リセール事業を開始した。
(〈証拠略〉)
(二) 回線リセール事業の仕組み
リクルートの回線リセール事業の基本的な仕組みは、国内各地を結ぶ大容量の高速デジタル回線を各地の拠点(アクセスポイント)に設置した時分割多重化装置(高速回線を低速回線に分割し、低速回線を併せて高速回線とする機能を持つ装置。以下「TDM」という。)を使用して小分けしたリセール回線を、アクセスポイントと顧客の事業所との間を結ぶ専用回線(NTTでは「アクセス回線」と呼んでいた。以下「アクセス回線」という。)とともに顧客に提供するものであり、アクセス回線がアナログ回線である場合には、デジタル信号とアナログ信号の相互変換に変復調装置(以下「モデム」という。)を使用している。
このうち、高速デジタル回線及びアクセス回線は、リクルートの自前ではなく、NTTから借用して利用するものであり、また、回線リセール事業が事業として成立する基盤は、NTTの専用回線の料金体系が小容量のものと大容量のものとを比較して、大容量のものほど単位容量当たりの利用料金が割安となっているために、NTTから大容量の回線を仕入れた上小分けして販売すれば、顧客が同容量の専用回線の通信サービスをNTTから購入するよりも割安な料金を設定できるという点にあった。
(〈証拠略〉)
(三) リクルートにおける回線リセール事業の本格的展開に向けた動き
被告人らリクルートの幹部は、回線リセール事業が、第二種電気通信事業者の届出をし、NTTから高速デジタル回線及びアクセス回線の提供を受け、TDMやモデム等の設備機器さえ設置すれば、参入が可能な事業であったため、競業他社が出現することが予測されたほか、六一年秋ころからは「新電電」や「NCC」などと呼ばれる新たな第一種電気通信事業者が参入し、大都市間でNTTよりも割安な料金で回線を提供することも予測されたことなどから、回線リセール事業を成功させるには競業他社に先駆けた迅速な事業展開によって早急に圧倒的なシェアを獲得する必要があると考え、六〇年七月三日ころ、東京・札幌間、東京・大阪間(三回線)、東京・名古屋間及び東京・福岡間の高速デジタル回線(毎秒六メガビット)の開通(東京・大阪間の一回線と東京・名古屋間は先に申し込んだ回線の容量を増大しての更改)を申し込み、同月八日ころには、更に五回線の追加を申し込むとともに、同月八日、情報システム部を情報通信システム部に拡大改組した。
また、営業面でも、六〇年七月一〇日ころのRMBで、R32らが他の事業部門の営業担当者に回線リセール事業への協力を呼びかけ、同月一三日のリクルートの全社部課長会で、被告人が全社を挙げて回線リセール事業の顧客を開拓することにより同月中に五〇回線の販売を達成するように指示したほか、同月一七日の取締役会において、同年九月末までに東京・札幌間及び大阪・福岡間の新規開通と、東京・名古屋間及び東京・大阪間の追加開通をすることとして営業を展開し、その再販売価格はNTTの専用回線サービスと比較して二五パーセント割安に設定することを取り決めた。
さらに、被告人らリクルートの幹部は、六〇年七月下旬には右販売目標を達成したことから、そのころ、同年八月のリセール回線の販売目標を五〇〇回線とするとともに、同年七月二九日に情報通信システム部をINS事業部に拡大改組し、人員を増強して、販売態勢の強化を図り、NTTに対しては、同年八月一四日までに、東京を起点として二五都市(四一回線)、大阪を起点として一四都市(一四回線)、拠点都市(福岡、札幌、仙台、名古屋、広島)と地方の一二都市(一二回線)を結ぶ合計六七回線の高速デジタル回線を申し込んだ。
なお、リクルートでは、当初は、リクルート本社ビル(銀座八丁目に所在することから「G8ビル」と称される。)に東京都におけるアクセスポイントを設置することとして事業を開始したが、事業を拡張する上で同ビルのみでは不十分であったことから、六〇年七月上旬ころ、その少し前に新たに取得したビル(銀座七丁目に所在することから「G7ビル」と称される。)にもアクセスポイントを設置することとした。
(〈証拠略〉)
(四) 回線リセール事業におけるNTTの協力の重要性
六〇年当時は、NTTが唯一の第一種電気通信事業者であり、したがって、リクルートにとっては、NTTから高速デジタル回線及びアクセス回線の提供を受けることが回線リセール事業を展開する上で不可欠の前提であった。
また、競業企業や新電電各社に先駆けて圧倒的なシェアを獲得するためには、高速デジタル回線とアクセス回線を速やかに確保することが必要であった。しかし、六〇年当時、NTTでは高速ディジタル伝送サービスを開始して間がなかったために、既設の回線が十分ではなかった上、新規の回線敷設は需要予測に基づく設備計画に従って工事を実施していたところ、実際には予測を大幅に上回る高速デジタル回線の開通申込みがあり、しかも、NTTの設備工事部門は、電電公社時代の体質が残っていて、策定済みの設備計画を変更して設備の工事をしたり、計画外の器材を仕入れたりすることが柔軟にできない状態にあったため、高速デジタル回線の申込みを受けてから、必要な設備の設計や器材の発注をして回線敷設等の工事をし、実際に回線を開通させるまでに相当の期間(長い場合で一年程度)を要する状態にあり、このため、リクルートとしては、NTTに、できるだけ速やかに回線の敷設をしてもらう必要があった。
さらに、回線の早期開通を受けるためには、アクセスポイントの確保や同所へのケーブル敷設用管路の確保等にできるだけ時間を割かずに済むようにすることが望ましかったが、全国のアクセスポイントをリクルートの自社ビルや貸しビルに設置する場合には、床面補強工事、電源、空調の各設置工事等が必要となる上、NTTが通信局舎(以下「局舎」という。)から右アクセスポイントへのケーブル敷設用管路を確保し、敷設工事等を施工することも必要となるのに対し、NTTの局舎をアクセスポイントとして借り受けることができれば、右工事が不要となって、回線開通までの期間を短縮できるため、リクルートとしては、できるだけ多くのNTTの局舎をアクセスポイントとして借り受けることが望ましかった。
加えて、リクルートでは、電気通信事業について十分な人材、技術及びノウハウがなかったため、顧客に提供するリセール回線の安定性を維持するためにはTDMやモデム等の通信機器の建設・保守及びネットワーク全体の故障の監視、故障箇所の特定、保守等を他業者に委託する必要があったが、リクルートがTDM等を購入していた日本ダイレックス株式会社は、東京、大阪等の大都市部における対応は可能であったものの、地方都市への人員配置はなされていないため、同社に対する委託によっては全国展開に対応できない状況にあり、その他の通信機器メーカーもネットワーク全体の保守能力を有していなかった。このため、リクルートとしては、回線の安定性を維持し、顧客からの信用を確保するために、通信機器やネットワークの保守等をNTTに受託してもらうことが望ましかった。
(〈証拠略〉)
2 NTTにおけるプロジェクトチームの発足等
(一) リクルートからNTTに対する協力の要請とプロジェクトチームの発足
リクルートでは、回線リセール事業を全国的に展開するに際して、六〇年七月上旬ころ、その旨を庚町に伝えたほか、R6及びR32が、同月三日ころ、リクルートを担当していた企通流通サービスシステム部長のN2(以下「N2」という。)及びNTT東京総支社でリクルートを担当していた同総支社未来通信営業部調査役のN3(以下「N3」という。)と面談して、同年九月末までに東京・札幌間、東京・大阪間、東京・名古屋間及び東京・福岡間に各六メガビット毎秒の高速デジタル回線を開通してもらいたいこと、今後回線リセール事業を展開するに当たりNTTとリクルートとの打合せ会を定期的に開催してもらいたいことなどを申し入れて、協力を要請し、そのころ、R32は、NTTの東京総支社長である己畑にも挨拶をして、右事業に対する協力を依頼した。
企通では、リクルートの右要請に対処するため、庚町の指示により、六〇年七月中旬ころ、N2を責任者とし、企通に所属する者のほかリクルートの回線リセール事業の拠点となる東京地区を管轄する東京総支社からN3らをメンバーに加えて、リクルートネットワークプロジェクトチーム(NTTでは「R―NWプロジェクト」と略称していた。以下「R―NWプロジェクト」という。)を発足させ、そのころから、R―NWプロジェクトのメンバーが、ほぼ週一回の頻度でリクルートの回線リセール事業担当者と会合し、リクルートの要望を聴取する一方、NTT内の連絡・調整に努めた上、リクルート側にNTTの対応を伝えるなどの活動をした。
リクルートは、六〇年七月から八月にかけて、R―NWプロジェクトとの会合等を通じ、高速デジタル回線等の専用回線の早期開通を要望した。また、NTTが前年度に会計検査院から局舎の空きスペースの有効利用を求める指摘を受けていたことから、N2がリクルートに対してアクセスポイント用に局舎を貸与できる可能性がある旨説明したところ、リクルート側としても、右1(四)掲記の理由から、その貸与を積極的に要請し、同年八月には、被告人とR6の名義で、東京都と地方の大都市とを結ぶ回線の早期開通を要望する書面やNTT電話局等の中継機器設置スペース借用の可能性を検討するように依頼する書面を提出するなどした。加えて、リクルートは、アクセスポイントに設置するTDMやモデム等の各種機器の保守をNTTに依頼する意向を示し、回線リセール事業に必要な技術者が不足していることから、NTTの電気通信技術者の派遣ができないか打診したりもしていた。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人らによる庚町に対する接待等
庚町は、六〇年七、八月当時、一〇回近く被告人と面談して、リクルートが回線リセール事業を含む電気通信事業を展開する上でのNTTに対する要望を聞き、意見を述べるなどしていたところ、同年七月三〇日には、被告人とR6が都内の料亭「酉」で庚町を接待し、回線リセール事業の展開に備えて、庚町との関係強化を図った。
(〈証拠略〉)
3 リクルートの回線リセール事業への対応を巡るNTT内の状況等
(一) 企通及び庚町の対応
庚町は、リクルートの回線リセール事業が企通の売上げに結びつく上、NTTとしても、間接的ながら専用線の新規顧客を獲得し、職域を拡大することになるなどと考えて、N2に対し、リクルートの要望に積極的に対応するように指示し、これを受けてR―NWプロジェクトは、顧客が設置したNTTの商品ではない通信機器(NTTでは「自営機器」と呼ぶ。)の保守を受託することの可否について、通信機器の保守受託業務を所管する部署である電話企画本部(準備室)に問い合わせたり、東京総支社にリクルートの回線リセール事業に対する積極的な協力を求めるなどした。
また、NTTでは、通常は、高速デジタル回線の申込みは、アクセスポイントの場所が確定したものにつき書面で受け付ける扱いにしていたところ、企通では、六〇年七月及び八月、リクルートの高速デジタル回線の全国的ネットワークの早期構築に資するため、R―NWプロジェクトのメンバーであるN3を介して、受付窓口である東京総支社営業部回線課に要請し、リクルートについては、一部の都市について、アクセスポイントが未確定のまま申込みを受理し、早期開通のため便宜な措置を講じた。
(〈証拠略〉)
(二) リクルートに対する協力に消極的な部署や役職員の存在
ところが、NTTでは、交換業務の自動化等に伴って局舎内に空きスペースが多くなってはいたものの、施設部等では、将来的に業務で使用する必要が生じる場合に備えて確保しておきたいという意向が強く、しかも、電電公社時代から原則として局舎を部外者に貸与していなかったことや、部外者の出入りによる保安上の問題も生じることなどから、局舎を部外者に貸与するについては、相当に強い抵抗があった。また、通信機器等の保守の受託についても、従来は、直営機器(NTTが仕様化して設置、販売していた機器)の保守等しか行っておらず、自営機器の保守等を受託する前例がなかったことなどから、やはり、保守を担当する部局や職員の抵抗が強かった。
加えて、NTT内では、リクルートの回線リセール事業の顧客の多くがNTTの従量制料金の回線を利用していた顧客であり、それらの顧客がリクルートのリセール回線に変更すればNTTの回線使用料収入が減少すると危惧したり、リクルートのリセール回線がNTTが直接販売する専用回線のうちの小束の回線と競合し、NTTの売上げが阻害されると危惧するなどして、局舎の貸与や自営機器の保守等によって競争相手であるリクルートの回線リセール事業に協力することに対する抵抗感が強く、幹部を含めて、リクルートに対する協力に消極的な意見を持つ役職員や部署が多かった。
そして、NTTでは、東京総支社が、リクルートの回線リセール事業の全国ネットワークの中心拠点となる東京地域の回線設備計画を立て、実際の設備増設工事を担うことになっていたが、同総支社では、六〇年八月ころの段階では、設備投資計画の策定や工事を担当する施設部を中心として、リクルートの東京地区のアクセスポイントが暫定拠点となっていた上、リクルートの希望する高速デジタル回線及びアクセス回線の規模がいずれも大きく、真にそれだけの需要が見込めるのか疑問に感じ、ケーブルの増設等の設備増設工事を早期かつ大規模に実施しても設備投資が無駄になる危険もあると懸念して、過剰な工事は避けたいという考えが強かった。また、総支社長である己畑も、企通が実際に作業を行う総支社に十分な根回しをすることなく、顧客企業側との話を進めることに不満を抱いており、当初の段階では、リクルートの回線リセール事業に積極的に対応する姿勢を示さなかった。
このようなNTT内の消極的姿勢については、R―NWプロジェクトとリクルート側との打合せ会でリクルート側に伝えられ、被告人もR6、R32らから報告を受けて認識していた。
(〈証拠略〉)
(三) 戊田の基本的な考え方
戊田は、電電公社総裁であった当時から、電気通信事業の分野においても、他の産業分野と同様に、独占を排除し、多くの企業の参入を容易にさせ、自由競争を実現することによって発展が遂げられていくものであり、これを阻害することは、長期的に見て技術的な発展を妨げ、産業の衰退につながるという考えを持ち、ことに、六〇年四月に電気通信事業が自由化され、電電公社が民営化によってNTTとなった以降は、競争相手を育て、実質的な自由競争を実現する方向にNTTを誘導すべきであり、NTTの回線を使って種々の事業をする第二種電気通信事業者を育てていくことが、第一種電気通信事業者であるNTTの責務の一つであると考えるとともに、新たな第一種電気通信事業者が営業を開始すれば、NTTとの間で第二種電気通信事業者との取引を奪い合う競争関係が生じる事態が予想されたことから、その競争に勝つためには、NTTが第二種電気通信事業者の要望に応えていくことが重要であるし、併せて、NTTとしても、民営化された以上は、他の民間企業と同様に、従来は行っていなかった機器の保守の受託等の業務にも積極的に取り組むべきであると考えていた。
(〈証拠略〉)
(四) 庚町の戊田に対する報告と戊田の対応
庚町は、六〇年八月九日ころ、戊田に対し、「(株)リクルートの回線再販売について」と題する資料に基づいて、リクルートが回線リセール事業を全国展開しようとしていること、そのため、NTTに対し人材派遣や機器の保守等を求めており、企通では、ネットワークの全体計画及び保守体制等についてコンサルティング契約を締結する方向で積極的に対応していることなどを報告し、戊田は、もともと右(三)のような考えを有していたこともあって、リクルートの要望に積極的に応じようとする庚町の方針を了承した。
庚町は、戊田の了承を得て、消極的対応をしているNTT内の関係部署に対し、リクルートが新規ユーザーも開拓していること、NTT回線を使用していた顧客がリクルートのリセール回線に変更した場合でもNTTの上位サービスに移行する可能性があること、保守の受託等でNTTの職域を拡大する利点もあることなどを説いて、リクルートの回線リセール事業についての積極的対応を要請した。
このような庚町の社内交渉の状況は、R―NWプロジェクトとの打合せ会などでリクルート側に報告され、被告人も庚町がリクルートの回線リセール事業のため尽力していることを認識した。
また、戊田は、リクルート等の回線リセール業者の事業がNTTによる専用線の販売と競合することを理由とする回線リセール業者に対する回線提供に消極的なNTT内の意見は、電電公社時代の官僚主義的・独占主義的な古い考えであって、改めるべきであると考えたことから、NTTの常務会等において、NTTの役員らに対し、第二種電気通信事業者はNTTの顧客であり、近く出現するNTT以外の第一種電気通信事業者との競争の観点からも、回線リセール業者の要望に応じて積極的に販売していくべきである旨説諭して、NTTの役員らの意識改革に努めた。
(〈証拠略〉)
(五) 被告人と戊田との会食
庚町は、六〇年八月下旬ころ、都内の料亭で被告人と戊田との会食を設定し、この際、被告人が、戊田に対し、リクルートがNTTの協力を受けて回線リセール事業を展開したい旨の話をしたところ、戊田は、NTTには長い間独占で事業をしてきたことによる弊害があり、リクルートがNTTの提供する高速デジタル回線をリセールすれば、NTT内部に対する刺激になるし、高速デジタル網の市場も広がるので、大いに頑張ってほしい旨の話をして、リクルートの回線リセール事業に支援・協力する姿勢を表明した。
(〈証拠略〉)
(六) コンサルティング契約の締結等
企通は、六〇年九月一日には、庚町の企通事業部長としての専決権限に基づいて、リクルートとの間で、高速デジタル回線ネットワークのシステム構築に関する技術的な指導及び助言並びに完成後における保守体制の指導及び助言の業務を受託するコンサルティング契約を締結した。
また、企通では、六〇年九月三日付けで、東京総支社未来通信営業部との連名で、NTT内の関係部署に、リクルートの回線リセール事業に関し、その概要、NTTとリクルートとがコンサルティング契約を締結し、R―NWプロジェクトで打合せを行っていること、リセール用回線の早期提供を予定していることなどを記載した文書を配付し、同月一九日には、NTT各総支社の企業通信システム担当者等を招集して企通主催の打合せ会を開催し、各総支社に対し、リクルートの回線リセール事業の現状、リクルートとNTTが右コンサルティング契約を締結したこと、リクルートから顧客情報を受けてNTT商品を販売していく計画であることなどを説明するとともに、リクルートの回線設備計画を各総支社の設備計画の参考とし、局舎の貸与、TDM等の保守の受託等を積極的に検討するように要請した。
(〈証拠略〉)
(七) 被告人による庚町に対する接待等
この間、被告人は、六〇年八月三〇日、リクルートの取締役勉強会に庚町を招いて、謝礼及び車代として二一万円余りを支払ったほか、同日、料亭「申」で庚町を接待し、同年九月三〇日にも、都内の料理店「戌」で庚町を接待した。
(〈証拠略〉)
4 リクルートの営業におけるNTTとの関係の活用等
(一) リクルートの営業におけるNTTとの関係の活用
リクルートは、六〇年七月以降、回線リセール事業についてNTTの協力を受けていることを積極的に営業に活用し、セールス・トークとして、「NTTさんには、いろいろな面で技術協力をいただいておりまして、今回のサービスに関しても、特別にプロジェクトを作っていただき、技術者も派遣していただいています。」と述べたり、営業の際に相手方に渡す書面に「NTTの技術者が常駐するなど、トラブル予防及び対応には充分な体制を整えております。」と記載するなどして、通信事業の実績がないリクルートのリセール回線の信頼性に疑問を抱く顧客を説得して受注に結び付け、回線リセール事業を推進した。
なお、六〇年八月一〇日の日経産業新聞には、「NTTリクルートと提携」、「回線リセール支援」、「保守管理・技術指導も」という表題の下、NTTがリクルートとの間で高速デジタル回線のリセールを定着させるため広範な業務提携を結んだこと、我が国で初めて回線リセールの事業化に乗り出したリクルートをNTTが全面的にバックアップし、必要となる回線の卸売りをはじめとして、関連装置の保守管理、効率的な回線の設定、リクルート及びその顧客に対する技術指導等に当たること、リクルートはこれを受けて全国に高速デジタル網を構築していくことなどを報じる記事が掲載された。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人の対応及び販売体制の強化
リクルートでは、被告人が、六〇年九月二一日のリクルート全社部課長会において、管理職らに対し、「回線リセール事業は、リクルートは回線を売るだけでよく、技術的なことはNTTがやってくれるというリクルートにぴったりの商売である。」などと述べ、他の事業部門も含め、回線リセール事業の展開に協力するように強く求めるなどして、社員の士気を鼓舞し、さらに、同年一〇月一日ころ、INS事業部を情報ネットワーク事業部門に拡大改組して、販売体制の強化を図った。なお、リクルートでは、回線リセール事業とその関連事業を併せて「INS事業」と称し、これとRCS事業とを併せて「情報ネットワーク事業」や「I&N事業」と総称していた。
また、リクルートでは、事業部門ごとに経営会議を開催し、当該事業の担当役員及び部長等の幹部並びに関連する役員が出席して、当該事業部門の経営上の重要問題につき協議し、決定していたが、六〇年七月から六一年当時、INS事業部では、事業を急速に拡大していた関係上、毎月一回以上の頻度で経営会議やそれに類する会議を開催しており、被告人も、それらの会議にほとんど出席していた。
(〈証拠略〉)
5 NTT東京総支社及び己畑の対応等
(一) NTT東京総支社及び己畑のリクルートの回線リセール事業への対応
NTT東京総支社では、電電公社当時の五九年以降、未来通信営業部が大口の顧客を担当していたが、その中でも、リクルートは特に大口の顧客の一つであり、通常の電話サービス以外の種々のサービスも利用していたことから、同部では、数名の職員をリクルート担当として専従させて対応しており、同部の部長であるN4(以下「N4」という。)らは、その活動状況を己畑に報告していた。
己畑は、リクルートの回線リセール事業に関しても、六〇年八月終わりころから九月下旬ころにかけて、N4及びN3から、リクルートの要望内容などについて報告を受け、リクルートからNTTに対し、回線の早期開通、TDM等の保守等の受託、局舎の貸与等を要望されていることを了知した。N4は、右報告の際、己畑に対し、リクルートの回線リセール事業を支援することについてはNTTのトップも了解しているというN2の話も伝え、己畑は、N4に対し、「庚町部隊のしりぬぐいはかなわない。」などと漏らしつつも、トップの指示があるのであれば、施設部門において設備計画を変更するなどしてリクルートの要望に答えられるように全力を挙げて取り組まなければならないが、その前提として、設備投資が無駄にならないようにリクルートのニーズの確実性を十分に見極めるようにという指示をした。
NTT東京総支社未来通信営業部は、六〇年九月三〇日ころ、リクルートの回線リセール事業に関する現状と問題点を列記し、東京総支社として、本社及び各総支社と連携し、これに関する設備計画等を確定する必要がある旨を記載した「(株)リクルートの高速ディジタル回線ネットワークについて」と題する書面を作成し、己畑の了解を得た上、同総支社施設部等の関係部署に配付した。
また、己畑は、東京総支社の施設部長であるN5(以下「N5」という。)から、リクルートの要望する回線数が大量でそのまま工事するにはリスクがある旨の報告を受けた際には、N5に対し、リクルートは東京総支社の大口ユーザーであり、重要であるから、需要に根拠があるか企通と打ち合わせて設備工事の対応をするように指示した。そこで、N5は、施設部(六〇年一一月には施設企画部に改組された。)において、リクルートの回線リセール事業への設備対応について具体案を取りまとめた上、リクルートが六一年一月をめどに大都市間の主要回線の早期開通を要望していたことを受け、リクルートのリセール回線及びアクセス回線の中継地点である霞ヶ関局とアクセスポイントを設置したリクルートのビル(リクルート本社ビル及びG7ビル)を管轄する銀座局との間の中継線に、従来は局間中継線に使用していなかった加入者線用の光ファイバーケーブルを用いたケーブル直接収容方式を用いることとし、これにより、NTTの投資額を抑制するとともに、工事期間を短縮することができ、回線の早期開通が可能になった。
さらに、己畑は、局舎貸与の問題に関しても、六〇年秋に、N5に対し、リクルートの希望に見合う空きスペースを有する局舎が存在するか調査するように指示するとともに、同年一〇月ころ、NTT本社で開催された総支社長会議の際、本社役員や施設部長らに対し、競争相手からの局舎使用の申入れについてどのように対応すべきか本社としての方針を示してほしい旨の意見を具申した。
そして、東京総支社では、六〇年一〇月ころ、リクルートのG7ビルを東京おけるアクセスポイントとして使用するための回線敷設工事を開始し、被告人は、そのころ、そのことを認識した。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人らによる己畑ら東京総支社の幹部に対する接待
被告人は、六〇年九月七日のリクルート全社部次長会でNTTの東京総支社長である己畑にデータ通信に関する講演をしてもらい、講演料及び車代として二一万円余りを支払ったほか、被告人が己畑を料亭「申」で接待し、続いて同月一一日にも己畑を都内の料亭「乾」で接待した。
また、被告人は、回線リセール事業を展開する上で、事業の拠点である東京地区において回線敷設等を実施する東京総支社の幹部との懇親を深め、円滑に仕事を進めるようにすることが重要であると判断していたことから、G7ビルの工事が開始されたころである六〇年一〇月四日、R8、R6、R2、R32らとともに、料亭「坤」で、己畑に加えて、N5施設部長、N4未来通信営業部長、N6土木工事部長ら同事業に関係する同総支社の幹部を接待し、六一年一月九日にも、料亭「乾」で、R8、R6、R2、R32らとともに、己畑、N5及びN4に加え、同総支社の電話企画本部副本部長や設備建設本部長を接待した。
(〈証拠略〉)
6 回線リセール事業のための局舎貸与及び保守へのNTTの対応
(一) リクルートからNTTに対する働きかけ
右3(二)のとおり、NTT内部では、リクルートの回線リセール事業に対する協力に消極的な部署も多かったため、リクルートでは、六〇年九月から一〇月ころにかけて、NTT各総支社の理解を得て右事業用回線の早期開通に協力してもらえるように主要な総支社の総支社長等に対する挨拶回りを実施することとし、被告人及びリクルートの取締役らが庚町の協力を得て、N2、N3らの案内により実施したが、その反応は芳しくなかった。
また、リクルートは、六〇年一〇月一二日、被告人名義で、NTTに「高速デジタル回線中継器設置スペース借用のお願い」を提出して、全国五二都市のNTT局舎スペースを回線リセール事業用の中継機器の設置及びオフィススペースとして借用したい旨の申出をした。
(〈証拠略〉)
(二) 局舎貸与及び保守に関するNTT常務会の決定等
庚町は、リクルートから通信機器の保守を受託する問題については、保守自体がNTTにとってビジネスになるほか、リクルートが導入する予定のTDMやモデム等の機器が米国製であることから、これをNTTがいったん購入した上でリクルートに販売すれば、NTT内で企通の売上げとして計上される上、この当時日米貿易摩擦の関係でNTTの懸案事項となっていた国際調達額の拡大にも資するし、NTTからリクルートに機器を販売する前提として各機器をNTT仕様化すれば保守の受託が可能になると考え、六〇年一〇月一四日、国際調達問題担当のNTT常務取締役N7(以下「N7常務」又は「N7」という。)が委員長を務めるNTTの技術委員会に、リクルートが購入する予定のTDM、モデム及びネットワーク監視診断装置の仕様書作成を諮り、同月一七日の同委員会でそれらのNTT仕様化が決定され、その後、同年一二月に仕様書が制定された。
六〇年一〇月一七日の右の技術委員会では、リクルートの通信機器保守等の受託及び局舎スペース貸与の要望が報告され、NTT電話企画本部(準備室)が中心になって問題点を整理することとなり、以後、通信機器の保守等を受託する基準を策定するためのプロジェクトチームと局舎貸与の基準を策定するためのプロジェクトチームにおいて、検討が進められた。
N7常務は、他の通信事業者の機器の保守等を受託し、局舎を貸与するということは、NTTにとって重大な方針転換となることから、右各問題を常務会に付議することとし、六〇年一二月二七日の常務会に、右各検討結果に基づく案を提出した。このうち、局舎の貸付けに関する案は、一定の条件を満足し、貸し付けることが事業経営上有利であると判断した場合には、積極的かつ公平に貸し付けることとし、貸付相手には、NTT出資企業等のほか、リクルート等のNTT回線を使用する第二種電気通信事業者及び情報処理業者も含むものとし、局舎貸付権限を社長から総支社長を含む事業本部長の専決事項に下ろす旨のものであったが、戊田を含む全員の賛成で原案どおり了承された。また、保守等の受託に関する案は、「リクルート社関連」と明示された「再販専用線に関する設計、工事、保守等の受託について(案)」と題するものであり、NTT専用線の再販業者からの広汎な業務受託に当たっては、再販業者の経営基盤やNTTとの関係を考慮することを前提として、TDM等の端末設備の設計及び工事(コンサルティングを含む。)、売り切り端末の受託修理に加え、専用線網全体の故障診断業務(回線リセール業者の顧客が使用する両端末の通信機器、アクセスポイントにある通信機器、それらを結ぶ高速デジタル回線やアクセス回線の良否を判定して、どの通信機器又は回線に故障があるかを特定する「故障切分け」と呼ばれる業務)を行うことなどを内容としており、同案も戊田を含む全員の賛成で了承された。なお、右常務会の席上、戊田は、新しい形態の保守受託業務にも積極的に取り組む必要があるという観点から、保守の対象をNTT仕様の機器に限定しない方向で再検討するように指示した。
右3(二)のとおり、NTT社内にはリクルートの回線リセール事業に対する支援や協力の効果を有する業務受託について消極論が強くあったが、常務会の右決定により、その受託に関しNTTとしての意思統一ができた。
(〈証拠略〉)
(三) リクルートの対応等
右経過はR―NWプロジェクトとの打合せの際等にリクルート側に報告され、リクルートも、NTTに保守を委託することを前提として、TDM等の機器をNTT経由で購入することを了承した。
また、リクルートでは、六〇年一一月二日に全社緊急部次長会を開催し、被告人が代表スピーチを行って、回線リセール事業の成功に向けてリクルートの社員の士気を鼓舞した。
さらに、リクルートは、NTT常務会の右決定を受け、六一年一月一六日、改めてNTTに対し局舎スペースの借用を願い出る書面を提出して、全国一二都市(東京は三か所)における局舎の貸与を希望した。なお、貸与を希望する都市数を六〇年一〇月当時よりも減らしたのは、庚町からの助言を受けたからであった。また、企通では、NTT内の関係部局にリクルートに対する局舎の貸与について協力を依頼したほか、六一年二月、庚町の決裁により、関係する総支社宛に局舎貸付けの可能性等を照会する書面を発出した。
(〈証拠略〉)
7 回線リセール事業の主要都市への展開とNTTの対応
(一) 回線リセール事業の主要都市への展開
リクルートがNTTに申し込んでいた高速デジタル回線のうち、主要都市を結ぶ幹線については、リクルートが希望した時期よりは遅れたものの、六〇年一二月までに、東京・札幌間、東京・大阪間(二回線)、東京・名古屋間で各六メガビット毎秒、東京・仙台間で1.5メガビット毎秒の高速デジタル回線が開通し、更に六一年三月までに、東京・仙台間、東京・福岡間、東京・大阪間(三回線目)及び東京・京都間で各六メガビット毎秒の高速デジタル回線が開通し、これにより、リクルートは、全国規模の通信ネットワークのうち、大都市を結ぶ幹線部分を構築し、競業他社に先立って回線リセール事業を展開させることができた。
その間、NTTは、R―NWプロジェクトが中心になってリクルートと対応し、東京・仙台間などについて、六メガビット毎秒の高速デジタル回線をリクルートの希望する時期に開通することが機器の用意や工事日程の関係で無理であったことから、容量を少なくした上で暫定的に開通させることを提案し、これを実施するなど、早期開通のためリクルートに便宜な措置を講じた。
また、R―NWプロジェクトは、リクルートとの打合せ会において、電気通信事業について知識が不十分であったリクルートの社員に必要な知識を教示したり、営業の状況を反映して度々変更されるリクルートの開通希望回線の区間や容量を整理したり、各都市ごとの回線の開通見通し時期を伝えたり、アクセスポイントの仕様書作成やアクセスポイント候補ビルの適合性について助言したりするなど、リクルートにとって便宜となる措置を講じた。
(〈証拠略〉)
(二) 通信機器の保守契約等の締結等
庚町は、六〇年一二月の常務会の決定を受けて、自己の専決権限に基づき、六一年三月一八日、NTT代表取締役戊田とリクルート代表取締役被告人との間で、TDM、モデム、遠隔監視装置(CMS及びMMS)等に関する売買基本契約並びに右各機器の保守契約(故障時における対象物件及び回線の良否判定作業並びに対象物件の故障の修理を内容とする。)を締結し、NTTは、その後、同契約に基づく保守業務を行った。
なお、リクルートは、六〇年度営業報告書中に、回線リセール事業についてNTTの技術協力を得ていることを記載していたところ、六一年度営業報告書では、右契約締結を受けて、「61年3月にはNTTとの間に保守契約を締結し、回線のみならずアクセスポイント内の主要な通信機器(時分割多重化装置、モデムなど)についても、NTTが建設・保守をおこなう体制を整えました。」と記載した。
(〈証拠略〉)
(三) 東京総支社による設備工事及び保守等の実施
NTT東京総支社では、六〇年一一月の機構改革により、未来通信営業部の後継組織としてシステム販売本部が設けられたが、同本部では、その後も、数名の専任担当者を置いてリクルートに対応した。また、同総支社は、六一年にも、リクルートの回線リセール事業に関し、東京都内等の管轄区域内において、高速デジタル回線用の光ファイバーケーブルの敷設をはじめとする設備工事をし、かつ、同回線等の設備の保守を実施したほか、NTTがリクルートとの間で右(二)の保守契約を締結した後は、同契約に基づく保守業務も行った。
右過程において、己畑は、六〇年秋から六一年三月ころまでに開催された東京総支社管内の支社長会議や機関長会議の際、通信の自由化の時代になったのだから、新しく事業を開始する第一種電気通信事業者との競争を念頭に、回線リセール等を行う第二種電気通信事業者とは協力して豊かなサービスを提供するように努力すべきである旨述べて、回線リセール事業が加入電話の通話料金収入に悪影響を与える旨の不満を持つ電話局長らの説得に当たるなどした。
さらに、NTT内では、六一年三月ころ、リクルートの回線リセール事業の関係で各総支社が実施する工事、設備運用、保守等について、東京総支社を幹事総支社として、全国の総支社の取りまとめに当たらせることが提案されたが、己畑は、そのころ、企通のN2からリクルートの回線リセール事業へのNTTの対応の現状について説明を受けた上、東京総支社が幹事総支社となることを了承した。
(〈証拠略〉)
(四) 己畑が関与したN3のリクルートへの再就職等
NTTでは、六〇年一一月二九日以降、事業本部の支店長及び部長相当以上の職位にある社員を除いて、社員の任命に関する権限(辞職承認を含む。)は、総支社長等の事業本部長にあり、己畑は、これに関連して、退職者の再就職先を斡旋する任にも当たっていたところ、同年秋ころにR32と総括的な話をしたほか、六一年一月ころ、N4システム販売本部長を介するなどしてR32と交渉を持ち、未来通信営業部等でリクルートを担当し、R―NWプロジェクトのメンバーでもあったN3のリクルートへの再就職を打診した。リクルートでは、これを受け入れることとし、己畑は、同年二月二〇日ころ、N3の辞職承認に関する決裁をし、N3は、同年三月二日付けでNTTを退職するとともに、翌日、リクルートに再就職し、回線リセール事業に関して稼働した。
なお、NTTからは、他にも数名の退職者がリクルートに再就職して、トラブル発生時の顧客との対応、NTTとの連絡や通信回線の収容管理業務等を担当したほか、数名の技術者がNTT関連の人材派遣会社に出向した上、リクルートに派遣され、回線リセール事業に関して稼働し、リクルートの同事業担当者に技術的知識を教示するなどした。
(〈証拠略〉)
8 回線リセール事業の全国展開とNTTの対応等
(一) 六一年における回線リセール事業の展開
リクルートは、六一年に入ってからも、回線リセール事業に積極的に取り組み、社内広報誌である「かもめ」の同年一月号掲載の取締役による新春座談会の記事でも、I&N事業への進出がリクルートの社運をかけたものであり、リスクも大きいが、何が何でも成功させなければならない旨のR5の発言を掲載したほか、被告人も、同年一月八日ころのRMBに掲載した第二六期を迎えるに当たっての挨拶文に、「今年は4月に第二電電グループが料金を決定し、秋から本格的に営業活動をスタートする予定です。それまでの三カ月間でどこまでわが社が業績をあげられるかが勝敗の分かれ目と言えます。」などと記載して、回線リセール事業の推進に向けてリクルートの管理職らを鼓舞した。
また、リクルートでは、六一年四、五月ころのRMBに、リクルートが回線リセール事業に使用するTDMやモデム等についてNTTと保守・管理契約を締結したことを報ずる新聞記事、回線リセール事業への競業会社参入や新電電各社の営業開始の動きを伝える新聞記事を掲載するなどして、管理職に対する情報提供に努め、同年四月末ころから九月まで被告人を含むリクルート全社の管理職による回線リセール事業に対する応援営業を展開し、同年六月にはINS事業部内で大手企業を対象として営業を展開する「大手プロジェクト」を発足させるなど、会社ぐるみで、回線リセール事業の営業に取り組み、その結果、同年八月下旬に一〇〇〇社との契約を締結し、同年九月には回線接続数も一〇〇〇回線を突破した。
(〈証拠略〉)
(二) 局舎の貸与
局舎の貸与に関しては、六一年一月中に、リクルートが求めている一一都市一四か所について、企通が貸与の可否を回答する予定であったが、同月末ころ、企通から、回答のめどが立たない旨の連絡があり、R32が己畑や庚町と面談して状況を聞いた結果、NTT内では、同年に入っても、労働組合内で「リクルートは敵か味方か」という議論があり、リクルートの回線リセール事業へのNTTの対応に関して公正取引委員会から問い合わせを受けているなどの説明を聞き、このため、リクルートでは、結局、大部分の拠点について、自社でアクセスポイントを設置するビルを手配した。
もっとも、NTTは、リクルートが希望するうちの一部については、局舎を貸与する方向で作業を進め、六一年七月二一日、NTT東海総支社長とリクルート代表取締役被告人との間で、NTT静岡電電ビル内の機械室について建物賃貸借契約を締結したのをはじめとして、六二年一月一九日ころまでに、東京総支社が管理する代々木電話局を含む四か所の局舎のスペースをリクルートに賃貸する契約を締結した。
このうち、代々木電話局については、六一年四月三〇日、リクルートから東京総支社長の己畑宛に建物貸付申込書が提出され、同総支社は、同年五月二〇日、リクルートに対し、代々木電話局二階機械室の一部を貸し付ける旨の回答をし、同年一〇月の利用開始を目指して準備を進めたが、リクルートが希望した保守のための業者の出入りを巡りNTT内の調整に手間取ったことから、貸与の開始は六二年二月となった。
(〈証拠略〉)
(三) 高速デジタル回線の開通状況と企通による全国打合せ会の開催
六一年四月当時、リクルートは、NTTに対し、右7(一)の同年三月までに開通した区間に加えて、同年七月から一二月まで、東京・大阪間で毎月一回線ずつ六メガビット毎秒の高速デジタル回線を開通させるほか、同年四月に東京・広島間、同年七月には、東京を起点に本州各地の一六都市(東京・名古屋間の追加分を含む。)、大阪を起点に本州、四国及び九州の四都市を結ぶ高速デジタル回線を開通し、引き続き、東京や福岡等の地方拠点都市と地方都市とを結ぶ高速デジタル回線を開通するように希望しており、庚町は、その作業の円滑化を図るために、同年五月九日、企通の主催で、各総支社担当課長を集めて、「リクルートの高速ディジタル回線ネットワークの構築に関する打合せ会」を開催し、各総支社に対し、リクルートの回線リセール事業用の高速デジタル回線ネットワーク構築計画の概要を説明するとともに、前記売買基本契約や保守契約の締結とそれらの内容を周知させた。
(〈証拠略〉)
(四) R―VAN推進室の設置及び同行営業等
庚町は、六一年七月下旬ころ、リクルートの回線リセール事業のアクセスポイントの拡大及び付加価値を付けた事業(いわゆるVAN〔付加価値通信網〕事業)への進出予定に備え、リクルートとの窓口となって社内の関係部署との調整をしたり、リクルートの要望に即応した機動的・弾力的な対応をしたりする体制を整備し、併せてリクルートの顧客に対する端末機器等の販売体制も整備することを目的とし、企通内に「R―VAN推進室」を設置して、リクルート担当者を増員し、リクルートでも、営業担当者らが、同室の設置をリクルートの回線リセール事業に対するNTTからのバックアップの一内容である旨話すなどして、営業活動に利用した。
また、庚町は、リクルートが大手企業に対する営業活動を強化している時期に、新電電各社との営業競合への対抗策として、東京・大阪間等の情報伝達量の多い幹線にはNTTの高速デジタル回線(専用線)を使うとともに、情報伝達量の少ない都市間ではリクルートのリセール回線を使うことで、全体としての通信費を新電電各社を利用する場合よりも割安にするという販売戦略を考えて、そのような回線の販売や端末機器の販売のために、企通所属のNTTの社員をリクルートの営業に同行させ、リクルートでも、そのような同行営業は顧客にリセール回線に対する信頼感を与えることになるため、これを利用して営業活動をし、また、NTTの社員らを講師に招いた顧客向けのセミナーも多数開催した。
さらに、庚町は、自らも被告人やR6らとともに大手の企業を回る同行営業を行い、その際、相手からリセール回線の品質を懸念する質問があれば、NTTが回線を供給し、保守についても契約を締結してNTTが受託しているので安心して使っていただける旨説明するなどしたほか、リクルートの顧客向けセミナーにおいて頻繁に講演し、同様の質問があった際には同趣旨の説明をするなどして、リクルートの回線リセール事業に対する積極的な支援と協力をした。
なお、六一年一二月号の「かもめ」には、「営業マン 甲野太郎 なぜトップセールスの座を守れるのか」という表題の下、被告人が回線リセール事業で高い営業実績を上げた理由を分析する記事を掲載しているところ、同記事中では、「NTTとリクルートの信頼関係を相手にナットクさせるやり方も、いかにも甲野さんらしく具体的だ。つまり言葉で説明するのではなく、直接、NTTの局長や部長と一緒に同行営業をして“仲の良さ”を見せるのである。そうすれば黙っていてもNTTの人が“証人”になってくれる。」という記載がされている。
(〈証拠略〉)
(五) 瞬断問題への戊田の対応
NTTでは、高速デジタル回線の早期開通等のために、一部区間で無線方式を用いていたところ、同区間では、強い降雨等の影響を受けて一時的に電気信号が途絶える瞬断事故が多発していた。被告人は、六一年六月ころ、そのことを知り、この問題が回線リセール事業に与える影響を懸念したことから、同月下旬ころNTT主催のパーティー会場で戊田と話した際に苦情を述べたところ、戊田は、NTTネットワーク事業本部長のN8に対し、改善のための措置を執るように指示した。
これを受けて、同事業本部及び高度通信サービス事業本部は、NTT高速デジタル回線の中継系無線区間の有線伝送路への収容等の対策を打ち出すとともに、高度通信サービス事業本部専用回線事業部長N9は、六一年七月四日付けの文書に、装置の改良、無線区間の降雨による中断を減少させるための対策、伝送路の信頼性向上のための自動切替装置の設置運用の拡大、回線品質の常時監視という対策を明記してリクルートに交付し、NTTは、それらの対策を順次実行した。
(〈証拠略〉)
(六) 広域内線電話サービス事業
リクルートでは、六一年二月ころ、回線リセール事業に付随する新規事業として、同年七月ころの実施を目指して「WATTS」と称する広域内線電話サービス(従量型電話交換サービス)を事業化することを決めたが、同事業がNTTの電話通話料収入に直接影響を与えるため、R32が企通の幹部に同事業開始に関するNTT側の考えを打診し、その助言を参考にするなどして事業の準備を進めた。また、同年半ばころ、庚町が、企通の副本部長を介してリクルートの右事業計画を戊田に報告したところ、戊田は、企通に対し、NTTとしても利益を上げられるようにリクルートの右計画に関与することを指示した。
リクルートは右事業に当たって、その通信機器として日本電気株式会社製の機器を選定したが、NTTが企通を中心に営業活動をした結果、六一年一二月ころ、そのシステムの設計・建設はNTTが受注し、機器の保守についても、日本電気株式会社製の機器をNTT経由でリクルートが購入することとし、かつ、庚町が他社仕様の端末機器の保守についてもNTTで受託できるように必要な措置を執った上、同機器の保守も受託した。
(〈証拠略〉)
(七) 回線リセール事業の全国展開
リクルートでは、六一年九月ころ以降も、同月七日のリクルート全社部次長会や同年一一月三〇日の緊急マネージャー会議において、被告人がI&N事業の重要性を力説し、その成功に向けて幹部職員を鼓舞するなどし、会社全体を挙げて回線リセール事業の営業を積極的に展開し、NTTも、リクルートの回線リセール事業に用いる高速デジタル回線を順次開通した。
その結果、六一年末までには、二六都市二七か所を結ぶ全国的な回線の開通が確定して、リクルートの顧客数は七四六社、開通回線数も一六一〇回線に増加した。
(〈証拠略〉)
(八) 被告人による庚町に対する接待
被告人は、六一年三月二〇日及び六月二〇日にも、都内の料理店「亥」で庚町を接待した。
(〈証拠略〉)
二 リクルートのRCS事業とNTTの業務との関係等
1 リクルートによるRCS事業の開始
リクルートでは、五九年末ころ、電算処理量の増大により社内で使用していた汎用コンピューターのみでは処理に不足を生じた際に、そのコンピューターと株式会社神戸製鋼所(以下「神戸製鋼」という。)等の汎用コンピューターを電話回線で接続して利用したことがあり、コンピューターの運用に当たっていた情報システム部では、その経験から、他社にも同様の需要があるのではないかと考えて、コンピューターの時間貸しの事業性に着目し、被告人らリクルートの幹部も、その有望性を認めて、六〇年三月ころ、新規事業としてコンピューターの時間貸し事業を開始することを決めた。
そこで、リクルートでは、六〇年四月ころから、情報システム部において、コンピューターの時間貸し事業の市場調査を実施し、その結果、同事業の需要が見込まれたことから、本格的に新規事業としてこれに取り組むこととし、本章第三の一1(一)、(三)のとおり、同年七月、情報システム部をシステム推進部と情報システム部に分割し、さらに、分割後の情報システム部を情報通信システム部、INS事業部に順次拡大改組して、回線リセール事業とともにコンピューターの時間貸し事業の営業を積極的に開始した。
リクルートでは、当初、右コンピューターの時間貸し事業を「シェアード・プロセッシング・サービス事業」(略称「SPS事業」)と称し、六〇年九月一日にINS事業部内にシェアードプロセッシング課を設置するとともに、神戸製鋼所から技術支援も受けて、同月中に、G7ビル地下に三台の大型汎用コンピューターを設置して、同年一〇月ころから同事業のサービス提供を開始した(なお、同年一二月には更に一台の大型汎用コンピューターを設置することも決定していた。)。また、同課は、同年一〇月一日付けで、シェアードプロセッシングサービス事業部(SPS事業部)に格上げされ、その後、同事業における顧客の利用形態が、主に、離れた場所にある端末機器から電話回線を経由してリクルートが保有するコンピューターを利用するものであることから、事業名を「RCS事業」(「リモート・コンピューティング・サービス事業」の略語)と称するようになり、事業部の名称も六一年二月一日付けでRCS事業部と変更した(右名称変更の前後を問わず、事業名は「RCS事業」という。)。
(〈証拠略〉)
2 RCS事業へのスーパーコンピューターの導入
リクルートでは、RCS事業を立ち上げる準備を進める過程で、営業担当者らから、汎用コンピューターは多くの会社に普及しているため、時間貸しの需要が自社のコンピューターを使えない場合等に限定され、収益を上げにくいのに対し、高速演算処理機能を有するスーパーコンピューター(以下「スパコン」という。)を導入すれば、多くの会社で研究開発等のために一時的にスパコンを利用する需要があり、時間貸しに適している旨の意見が出され、被告人やR6らも、汎用コンピューターに加えてスパコンも導入すれば、右のような需要が見込めて、収益を上げ得ると判断し、かつ、スパコン自体が当時の我が国では導入数が少なかったことから、RCS事業のシンボルとなり、当時リクルートで積極的な採用を進めていた理工系社員の採用に効果を発揮する利点もあるなどと考え、六〇年八月ころの経営会議において、RCS事業にスパコンを導入することを決めた。
導入するスパコンの選定作業は、INS事業部システム技術課長のR33(本章中に限り、以下「R33」という。)が中心になって進め、R33は、四社から資料を取り寄せた上、多くの出荷実績がある米国のクレイ・リサーチ社(以下「クレイ社」という。)製と富士通株式会社(以下「富士通」という。)製のスパコンの両者に候補を絞った。
R33は、そのころ、リクルートでは、回線リセール事業を立ち上げる作業を進めつつ、数台の汎用コンピューターをRCS事業に導入するための準備に取りかかっており、神戸製鋼所から人的・技術的な支援を受けてはいたものの、コンピューターに関する技術的知識を持った社員は多忙を極めている状況であった上、リクルートでは過去にスパコンを取り扱った経験がなかったため、スパコンをRCS事業に導入するに際しては、候補としたスパコンの能力に限らず、スタッフがスパコンの運用等に関する知識を習得する手間や導入までに要する作業量の多寡等を考慮する必要があると考え、富士通製スパコンであれば、既にリクルートで導入して使用している富士通製汎用コンピューターと設計構造や体系が類似しており、親近感や扱い易さがあることから、RCS事業に導入する場合の知識習得が短時間で済むと判断される一方、クレイ社製スパコンは、リクルートで取り扱った経験のある汎用コンピューターと設計構造や体系が異なっており、事業に導入するためには一から知識を習得しなければならず、そのような人的、時間的余裕がないことから、クレイ社製スパコンの導入は困難であると判断し、富士通製スパコンVP400型(以下「VP400」という。)を導入することが相当であるという結論に達し、被告人、R6、R32らに対し、その旨報告した。
被告人やR6は、R33からの右報告に加えて、富士通の社長から、富士通製パソコンは演算速度が世界一であって、性能に比して価格が安い上、VP400は一号機であるので価格を大幅に割り引くこと、RCS事業の顧客を紹介すること、導入に際しては全面的な技術支援をすることなどを約束しての売込みを受けており、富士通がリクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の大口の顧客であることも考慮して、VP400を購入することに決定し、リクルートは、六〇年九月九日付けで、付属装置を含む一式の価格一〇億円、納期を六一年六月として、VP400の発注書を富士通に提出した。
もっとも、被告人やR6らは、スパコンの選定を検討する中で、クレイ社製スパコンには豊富なアプリケーションソフトがあり、世界的な評価や知名度も高く、顧客の吸引力が高いと思われたことなどから、将来的にはクレイ社製スパコンを導入したい意向を有していた。
(〈証拠略〉)
3 リクルートがNTT経由でクレイ社製スパコンを導入するに至った経緯
(一) NTTとクレイ社との関係等
我が国と米国との間では、五五年一二月に電電公社の資材調達に関する日米調達協定が結ばれており、電電公社では、資材局国際調達室で米国からの資材調達額拡大のための業務を行っていたところ、民営化後も、NTT技術企画本部国際調達室が同業務に当たっており、六〇年当時、同室の室長はN10(以下「N10」という。)であり、担当役員はN7常務であった。
NTTでは、電電公社当時の五八年ころ、クレイ社製スパコンを購入して武蔵野電気通信研究所に設置し、運用していたが、N10は、当時の資材局国際調達室長として購入手続に当たって以降、クレイ社の日本法人である日本クレイ株式会社(以下「日本クレイ社」という。)のO1社長等と懇意にしていた。
(〈証拠略〉)
(二) クレイ社製スパコンの導入決定過程におけるリクルートとNTTとの関係等
日本クレイ社においてリクルートに対する営業を担当していたO2(以下「O2」という。)は、六〇年九月上旬にR33からクレイ社製スパコンの導入の可能性は低い旨の見通しを伝えられたことから、回線リセール事業でリクルートと関係があるNTTの支援を受け、リクルート上層部に働きかけて巻き返しを図ろうと考え、同月一〇日ころ、O1社長とともにN10と面談して、リクルートに対するスパコン売り込みを支援してほしい旨依頼した。そこで、N10は、N7常務の了解を得た上、企通の庚町に対し、リクルートにクレイ社製スパコンを購入するように働きかけることを依頼し、N7も、直接、庚町に対し、同趣旨の指示をした。
庚町が、六〇年九月一一日ころ、電話で、被告人に対し、リクルートがNTT経由でクレイ社製スパコンを購入することができないか打診したところ、被告人がスパコンの導入にNTTが関与した場合のリクルートのメリットを尋ねてきたので、庚町は、既にNTT武蔵野電気通信研究所がクレイ社製スパコンを導入して使用しているので、NTTを経由してクレイ社製スパコンを導入すれば、設計、建設、保守等についてNTTの技術やノウハウを提供できる旨答えた。
そこで、被告人は、この当時、米国政府が日米間の交渉においてNTTの米国企業からの資材調達実績の拡大を強く求めていることを承知していたため、リクルートがNTTを経由してクレイ社製スパコンを購入すれば、日米間の貿易摩擦を緩和する一助となり、調達問題で苦慮しているNTTに対してビジネス上の貸しを作ることはリクルートの事業にNTTからの協力を得る上で有益であると考えたほか、NTTを経由してクレイ社製スパコンを調達することで、導入等についてNTTの技術支援を受けられるならば、導入に伴う困難が減り、もともと、クレイ社製スパコンはその世界的な評価の高さから顧客吸引力が高いと考えていたことから、その導入は事業上も有意義なことであると判断して、クレイ社製スパコンをNTT経由で導入する方向で検討することとし、庚町に対し、R6に右申出を伝える旨の返答をし、そのころ、R6に対し、その考えを伝えた。また、六〇年九月一二日ころには、被告人が恩義を感じる経済人の紹介で、日本クレイ社のO3会長がリクルート本社を訪れてR6やR32と面談してクレイ社製スパコンの導入を求めたことがあり、被告人は、R6からその報告を受けた。
被告人とR6は、六〇年九月一二日ころ、NTT本社を訪ねて、N7常務及びN10と面談し、導入に当たってNTTの技術支援を受けられるのであれば、NTT経由でクレイ社製スパコンを購入したい旨申し入れ、N7は、これを承諾した。さらに、被告人が、同日ころ、NTT本社において戊田とも面談して、リクルートで行うコンピューターの時間貸し事業用にNTT経由でクレイ社製スパコンを導入したい旨の話をしたところ、戊田は、リクルートがNTT経由でクレイ社製スパコンを購入することは、米国政府から米国製資材の調達額を増やすように強い政治的な圧力を受けていたNTTにとっても利益となるから、NTTにとっても有り難いことであると考えて、右スパコンの導入につきリクルートに協力することを約束した。
(〈証拠略〉)
(三) クレイ社製スパコンの導入に向けた準備
NTTでは、当初、国際調達室と企通がクレイ社製スパコンの導入についてR6らと打合せをしたが、その後、業務内容に鑑み、デ本が対応することとなり、デ本の産業システム事業部長であるN11(以下「N11」という。)らがR32らリクルートのRCS事業関係者と適宜打合せ会議を開催するようになった。
リクルートは、右2のとおり、VP400の導入を決定し、その準備に取りかかっていたが、当時、その設置場所が未定で、R33らがそれを探している状況にあったため、R6らは、N11や上司であるデ本のN12副事業本部長らに対し、新たに導入予定のクレイ社製スパコンの設置場所としてNTT局舎の貸与及びクレイ社製スパコンの設置のための設計、建設を要請するとともに、クレイ社製スパコンと前置きコンピューターであるフロント・エンド・プロセッサー(以下「FEP」という。)を高速デジタル回線で接続するオンライン・システムの設計や、設置後のスパコンの運行管理もNTTで担当してもらえるように併せて要望した。
なお、リクルートでは、当初は、RCS事業に導入するクレイ社製スパコンとしてX―MP12型を予定していたが、六一年一月ころ、東芝がRCS事業の顧客となってクレイ社製スパコンを利用する意向を示した上、予定する事務量からみてX―MP12型では能力が不足であることから、導入機種をその上位機種であるX―MP216型とすれば、六二年四月からの二年間にわたり、合計で九億円分の利用をしたい旨の申出をし、その設置場所についてもNTT局舎を希望するということがあり、リクルートも、六一年二月一九日ころの取締役会で審議した上、これに応じることとし、そのころ、デ本に対し、調達する機種をクレイ社製スパコンX―MP216型(以下「X―MP216」という。)に変更し、かつデ本から貸与が可能である旨伝えられていたNTT局舎二か所の中で東芝のFEPの設置場所に近い横浜西局舎を借り受けたい旨の要請をした。
デ本は、これらのリクルートからの要望に応じて、オンライン・システム設計のための適正回線容量、電源条件及び検収項目の設定等の検討をするとともに、六一年三月ころまでに、X―MP216を横浜西局舎に設置することとした。
NTTでは、六一年四月九日の常務会において、国際調達室が、リクルートに販売するX―MP216一式の購入契約について承認を求め、その際、N10らがリクルートからオンラインシステムの設計や局舎の貸与等を要望され、デ本においてその要望に応じる方向で対応していることなどについて報告したところ、常務会は、戊田を含む全員の賛成で右購入契約の締結を承認した。N10は、右承認を受けて、同年五月下旬に、NTTがクレイ社との間でX―MP216一式と関連機器を購入する売買契約を締結した。
被告人は、NTT経由で導入するクレイ社製スパコンの機種がX―MP216に変更となり、同スパコンが横浜西局舎に設置され、その設置工事を含むシステム設計全般をデ本が担当していることについて、取締役会や経営会議等でR6らから報告を受けて認識していた。
(〈証拠略〉)
4 クレイ社製スパコンの設置等
(一) スパコンの導入に関する己畑の認識とNTT局舎へのスパコンの設置等
デ本では、N11産業システム事業部長を中心に、X―MP216を導入する準備を進めたが、その間の六一年六月二六日、己畑がデ本事業本部長に就任した。己畑は、そのころ、N12副事業本部長らから、デ本が抱える重要案件の説明を受けたが、N12は、その一つとして、リクルートがNTTを通じて導入することとなったスパコンの設置等をデ本で担当していて、N11を中心に技術的な検討をするなどの作業を進めていることや、リクルートの要望に応じて横浜西局舎(NTT横浜西ビル)に設置する予定であることなどを報告し、己畑は、そのことを了知し、作業を進めることを認めた。
デ本は、既にクレイ社製スパコンを導入しているNTT武蔵野電気通信研究所から、設置に際しての床荷重や冷却系設備等に関連したノウハウの提供を受け、クレイ社やリクルートの担当者と相談しつつ、所要のシステム設計をした上、六一年八月一九日、NTTの関係部局、日本クレイ社及び外部業者の担当者を集め、X―MP216を設置するための横浜西ビル模様替工事の総合打合せを実施するなどして、そのころ、同工事に着手し、機械室内の床の補強、冷却系設備の設置等をした上、X―MP216を同ビル内に設置し、同機とFEPとの間の高速デジタル回線の設置等の工事及び設置後のX―MP216の検収試験等を行い、同年一二月九日ころ、NTTがクレイ社からX―MP216の引渡しを受けて、これをリクルートに引き渡した。
なお、右引渡前の六一年一二月三日ころ、リクルート代表取締役としての被告人と、デ本事業本部長として戊田を代理した己畑との間で、X―MP216に関するハードウェア設計建設委託契約書が取り交わされたが、その委託業務の範囲は、X―MP216の調達、その設置工事、調整試験及び検収試験、基本ソフトウェアのインストール、オンライン・システム構築に関する技術支援であり、委託金額は、X―MP216の調達分が約一二五七万米ドル相当額、その他の業務分が一億〇一〇〇万円であった。また、同月下旬には、リクルート代表取締役の被告人とデ本事業本部長の己畑との間で、NTT横浜西ビル内の約二九八平方メートルのスペースの賃貸借契約、ハードウェア用電源設備設計建設委託契約及びハードウェア用電源設備等保守契約も締結された。
(〈証拠略〉)
(二) リクルートの幹部による己畑らに対する接待
右作業が進められている間の六一年八月一二日、R8、R6、R32らは、己畑、N12、N11らX―MP216の設置に関与しているデ本の幹部及び担当者数名を都内の料亭「春」で接待し、引き続き、R8とR32が赤坂のクラブで己畑を接待した。
(〈証拠略〉)
三 関連する弁護人の主張等について
1 被告人の検面調書の任意性について
(一) 弁護人の主張等
弁護人は、本章第三の一、二、後記本章第四の三1の認定に供した証拠のうち、被告人の検面調書(乙書3一四ないし一八)について、①元年二月二〇日付け検面調書(乙書3一四)及び同月二六日付け検面調書(乙書3一五)は、同月一三日に逮捕された後、同月二六日までの間、P3検事やP2検事が、被告人が検察に協力しなければR3やR6を逮捕する旨述べ、また、P3検事が被告人に対し取調中に壁に向かって至近距離で目を開けたまま立つことを強要することにより肉体的苦痛を与え、「おまえは嘘を付いている。いつまでも捜査を長引かせるな。」「リクルートを叩きつぶすぞ。特捜を敵に回すとリクルートはつぶれるぞ。」などと威嚇して、署名を強要したものであり、②同月二六日付け検面調書(乙書3一五)は、コスモス株の譲渡と己畑の職務との関係につき、P3検事が「己畑も認めた」などと虚偽を述べて、被告人に署名を強要したものであり、③同月二八日付け検面調書(乙書3一六)及び同年三月一日付け検面調書(乙書3一七)は、P3検事が右のような調書の作成により同検事に完全に屈服させられたという精神状況に陥った被告人に対し、押収した資料等を基に検察側が描いた構図を調書化して、署名を求めたのに対し、被告人は抗することができずに署名を余儀なくされたものであり、④同月二日付け検面調書(乙書3一八)も右流れの中で作成されたものであって、いずれも任意性がない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
(二) 判断
右(一)の各検面調書(乙書3一四ないし一八)は、被告人が逮捕された後、一週間ないし一七日間というさほど長期とはいえない期間中に作成されたものである。また、被告人は、リクルートの創業者として、幾多の社会的経験も積んでいたのであり、しかも、被告人は、逮捕される前から弁護士と相談し、逮捕された後も、短時間とはいえ、週に二、三回の頻度で弁護人と接見していたのである。
そのような被告人に対し、意に沿う調書に署名させることを目的として、右主張のような肉体的苦痛を与えたり、取引を持ちかけ、威嚇をしたりしても、やすやすとその目的を遂げ得るとは思われないから、取調検事が説得を超えて右主張のような行為をしようという発想を持つということ自体、不合理であって、考えにくいことである。
また、もし、取調検事が、意に沿う調書に署名させたいと強く欲して、右のような行為を考えたとしても、右主張のように、他のリクルートの幹部の逮捕を示唆して取引を迫り、肉体的苦痛を与えたり、「リクルートを叩きつぶす」などと言ってあからさまな威嚇をしたりすれば、そのことが接見の際に弁護人に伝えられて、直ちに抗議を受けるのみならず、法的措置を執られたり、報道機関に発表されたりして、以後の捜査に支障を来し、あるいは公判段階において供述の任意性や信用性を疑わせる重要な事情として主張されることが当然に予測されるはずであるから、その実行は思い止まるのが自然である。
したがって、取調検事が実際に被告人に対して右主張のような行為をしたということは考えにくいことであり、被告人の公判段階における供述は、これを否定するP3検事及びP2検事の公判段階における各供述と対比して、信用性に乏しい。
なお、右のうち、被告人が、R6やR3が逮捕されてリクルートやリクルートコスモス等のリクルートグループの経営に重大な悪影響が生じることを懸念していたこと自体は事実と認められるし(〈証拠略〉)、また、被告人が検察側が関係証拠から事実であろうと考えている事柄を否定した際、取調検事がそのことを認めるように種々説得したことは窺われるが、そうした事情は、右(一)の各検面調書が被告人が逮捕されてからさほど長期間を経過しない時期に作成されたものであり、被告人が弁護人の助言を得ていたことや、被告人の社会的経験等も勘案すると、被告人の供述の任意性に疑いを差し挟むほどの事情ということはできず、結局、右各検面調書に記載の被告人の供述には任意性があると認められる。
2 回線リセール事業に関連する事実関係について
(一) 弁護人の主張
弁護人は、回線リセール事業に関し、概ね次の主張をして、NTTのリクルートに対する好意的な取り計らいは存在しなかった旨主張する。
① R―NWプロジェクトはNTT側が部署間の連携を図るなどの目的で設置したものであって、その打合せ内容はおよそリクルートのためになるものではなかった。
② 高速デジタル回線の開通に関しては、NTTが当初の段階でリクルートに示した予定日よりも開通時期が遅れたのであり、NTTは、リクルートに対し、他の顧客と異なる特別な取扱いをしていなかった。
③ 局舎の貸与については、リクルートでは、独自にアクセスポイントを設置する条件を満たしたビルの確保を進めていたのであるから、事業展開上、NTTの局舎を借り受ける必要があったわけではなく、結果的にも、わずか四局舎について、しかも希望時期よりも非常に遅くなって実現したにすぎないから、リクルートは特別な措置を受けたわけではない。
④ ネットワークの保守については、リクルートは、他の業者に保守を委託し、あるいは自社で保守を実施することも可能であったのであり、NTTに保守を委託しなければならないという必要性は存在せず、また、実際に締結された保守契約は、回線や機器の保守という当然の内容にすぎず、TDMやモデムの常態監視や二四時間態勢の取替修理というリクルートの要望はほとんど何も実現されなかったから、リクルートにとって特別有利な措置であったと評価することはできない。
⑤ 技術者の派遣についても、リクルートは、独自に必要な技術者の確保をしており、NTTから技術者の派遣を受ける必要性はなかったし、実際にも、NTTから保守要員の派遣はなされず、むしろ、退職間際の電話局長経験者数名をリクルートで受け入れて、NTT退職者の再雇用先の確保に協力したにすぎず、N3がリクルートに再就職したことも、同人はリクルートにおいてさほど役に立たなかったから、NTTによる特別な措置ということはできない。
⑥ 六一年五月の企通主催の全国打合せ会の意味は、リクルートとの契約等について情報を共有し、各総支社の意識統一を図って事後の作業を円滑化させることにあり、企通の者が右会議の場でリクルートに対して積極的な協力を呼びかけたことはないから、リクルートに対する特別な措置にはならなかった。
⑦ 企通所属のNTTの社員がリクルートの営業に同行したのは、交換機等NTTの製品を販売したり、NTTの回線を勧めたりするためであって、リクルートの回線リセールの営業を積極的に支援するためではなかった。また、庚町が被告人の営業に同行したのは、面識を得る機会の少ない大企業トップとの人脈作りのためであり、リクルートの営業を支援するためではなかった。それゆえ、これらは、リクルートにとって特別な計らいということはできない。
⑧ 庚町がリクルートの顧客向けセミナーで講演したことも、その内容は、INSの利用等に関する一般的なものであり、INSの利用等が企通のビジネスにつながるという認識から行ったものであり、回線リセールを含むVANビジネスを行っている他の企業の顧客向けにも同様の講演を実施しているから、リクルートのみに対する特別な取り計らいではない。
⑨ R―VAN推進室の設置は、窓口人員の増員を図るとともに、リクルートに対する新しい営業を展開するためのものであり、リクルートがその設置を営業トークとして使用したのは、リクルートが勝手にしたことにすぎず、NTTがリクルートの営業のための特別な取り計らいをしたというものではない。
⑩ 瞬断問題に関する対策書面の交付や実際の対策の実施は、他の顧客の回線についても同様に実施したものであり、リクルートの回線について優先的に実施したものではないから、リクルートに対する特別な取り計らいではない。また、NTTの採った改善策は、結果的に回線品質の向上に結びついていないから、改善策の提示及び実施はリクルートにとって有利な取り計らいではない。
⑪ 広域内線電話サービス事業に関しても、リクルートとしては、日本電気株式会社にシステムの設計・建設を委託し、機器も同社から直接購入した上で保守も委託すれば足りたのであり、NTTとの契約は、リクルートとして必要性がなかったが、企通の売り込みに応じて契約したにすぎない。
(二) 判断
まず、リクルートが回線リセール事業を展開する際のNTTとの関係が本章第三の一のとおりであることは、各認定事実末尾の括弧内に記載した証拠を中心とする関係証拠により、明らかである。
そして、これらの事実を通じて見ると、NTTは、通信の自由化の動きの中で、社長である戊田が電電公社時代からの官僚的な業務運営を改め、民間の経営手法を導入して積極的な事業展開を図るべきであると考えるとともに、第二種電気通信事業者を育成することもNTTの責務の一つであると考えていたこともあり、率先して回線リセール事業を全国的に展開しようとしたリクルートに対し、前例のない取扱いをしたり、特別な態勢を組んだりして、種々の支援と協力をしたものと評価することができる。
弁護人の右(一)の主張の根幹は、NTTはリクルートの回線リセール事業に関し、リクルートに対し他の顧客と異なる特別に有利な取り計らいはしていなかったというものであるところ、確かに、NTTがリクルートに対し前例のない取扱いをしたのは、リクルートがNTTの回線を用いて全国的に回線リセール事業を展開しようとした最初の業者であったからであるし、リクルートの右事業展開のためにR―NWプロジェクトを組織したり、R―VAN推進室を設置するなど特別な態勢を組んだことも、リクルートがNTTにとって大口の顧客であったことによると認められるのであり(本章第三の一で認定した経緯のほか、甲書3四三八、四三九)、NTTが、同時期に同様の事業展開を図った他の業者を差別して、リクルートに対し特別に有利な取扱いをしたというわけではない。しかも、リクルートがNTTの支援と協力を得て回線リセール事業を展開する過程では、NTTが巨大な組織であり、電電公社時代の体質も一朝一夕には改まらないことによる意思決定や対応の遅滞、さらには営業窓口となった企通と現業部門との認識の相違等が影響して、企通がリクルートに示した見通しのとおりには組織としてのNTTが動かず、リクルートにとっては期待外れとなったことも少なくなかったと認められる。
また、その間の戊田、己畑及び庚町の行為を見ても、同時期に同様の事業展開を図った他の業者を差別し、リクルートのみに肩入れして特別に有利な取り計らいをしたとか、NTTの公益性や企業としての合理性に反してまでリクルートに有利な取り計らいをしたなどという不当な行為があったとは認められず、本章第三の一で認定した同人らの具体的行為も、検察官が主張する「好意ある取り計らい」という表現になじむものかは疑問の余地がある。
しかし、そのような事情を考慮しても、NTT(戊田、己畑及び庚町を含む。)からリクルートに対し、回線リセール事業の展開に当たって、本章第三の一のとおり、種々の支援と協力がなされたこと自体は疑いなく認められる事実であり、弁護人の主張がそのことも否定する趣旨であるとすれば、失当である。
なお、弁護人の主張のうち「特別な措置」や「特別な取り計らい」があったことを否定する点は、後記本章第四の一2に記載したNTT法上の贈収賄に関する規定についての弁護人の解釈論が背景にあるものと考えられるが、その解釈論を採用できないことは後記のとおりである。
3 RCS事業に関連する事実関係について
(一) 弁護人の主張
弁護人は、回線リセール事業に関し、概ね次の主張をして、NTTのリクルートに対する好意的な取り計らいは存在しなかった旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
① リクルートでは、そもそも一台目のスパコンの導入も、RCS事業遂行上の具体的な必要に基づくものではなく、思い付きに近いものであり、ましてや、クレイ社製スパコンの導入は不要であった。リクルートがRCS事業の関係でクレイ社製スパコンの導入を決めた理由は、当時、NTTが米国政府から米国製資材の調達を拡大するようにという強い圧力を受けて苦境に陥っていたことから、NTTの対米調達実績の拡大に協力し、日米貿易摩擦の解消に貢献しようとしたことに尽きる。被告人は、六〇年九月一一日ころ、庚町からの電話で、「何とかNTT経由でクレイを購入してくれませんか。」「国際調達の問題で、戊田が近々アメリカに行くことになっているのですが、空のカバンで行くわけにもいかないということをNTT社内で言っているんです。そこで、リクルートにNTT経由でクレイを買ってもらいたいのです。そうしてもらえば、NTTにとってはあり難いです。」と要請され、また、同月一二日には、日本クレイ社会長がR6らに対し、リクルートがクレイを購入することが日米貿易摩擦の解消に役立つ旨示唆したことを聞いたことから、NTTの国際調達に協力するという観点から、クレイ社製スパコンの導入を決めたのである。
② RCS事業に必要な作業のうち、スパコン本体の設置及び立上げはメーカーが責任を持って担当する分野であり、周辺機器の設置作業も特別な技術を要するものではないし、オペレイティングシステムのインストール、RCS事業向けのセットアップやカスタマイズ、ユーザーが使用するアプリケーションソフトウェアのインストール、電話回線に接続後のリクルート側コンピューターと顧客の端末機器とのセッティング作業は、いずれも、リクルート社内に蓄積されたノウハウでなし得たことであるから、リクルートがRCS事業を遂行する上でNTTの技術的支援は全く必要でなかった。また、人手不足を補うためであれば、当時良好な関係にあった神戸製鋼から人的応援を受けることが可能だったのであり、その点でも、NTTの技術協力を得る必要はなかった。
③ 実際にも、X―MP216の導入に際してNTTが行ったことは、横浜西局舎への据付け工事、局舎の貸与及び電力・冷水・空調設備の提供に限られていた。また、X―MP216を横浜西局舎に設置したことも、同機の購入を国際調達実績にカウントする必要上、NTT側からの要望によって決まったことであり、リクルートとしては、その必要性はなかった。
(二) X―MP216の導入の経緯及び導入の必要性について
(1) リクルートがクレイ社製スパコンをNTT経由で購入することになった経緯では、確かに、本章第三の二3(二)のとおり、NTT側から被告人に対し、NTT経由による購入を打診したのであり、被告人がNTTを経由してクレイ社製スパコンを購入することにした理由の一つとして、そのことが日米間で問題となっていたNTTの米国企業からの資材調達額拡大に資するという事情があったと認められる。
(2) なお、NTT側から被告人に対し右打診をしたことについては、被告人が捜査及び公判段階を通じてその趣旨の供述をするのに対し、NTTの国際調達室長であったN10及び国際調達担当の常務取締役であったN7は、公判段階において、これを否定する供述をし(〈証拠略〉)、N10やN7から依頼を受けて被告人と電話で話した庚町も、公判段階において(ただし、庚町は、本件公判においてNTT法違反事件の審理をした当時、死亡しており、本判決中で引用する公判段階における供述は、R4及び己畑を被告人とする事件の公判における証人としての供述である。)、クレイ社のリクルートに対する売り込みを後押ししてほしいという依頼は受けておらず、単に、リクルートがクレイ社製スパコンを購入する脈があるのかどうか様子を聞いてほしいと頼まれて、被告人と電話で話し、「スーパーコンピューターの件ですがどうなんですか。」と言ったところ、被告人が、「もしNTTが関与するとどういう形で関与できるんだろうか。」「関与することによってどういうメリットがあるだろうか。」「NTTさんはどういうふうに力を貸してもらえるんですか。」と尋ねてきたので、NTTではクレイ社製スパコンを研究所に入れて使用しているので、ノウハウがあり、NTTから購入すればそのノウハウが出せるだろうから、設計建設や保守の仕事を受託することができ、スパコンの経験のないリクルートにとってもプラスになるのではないかという話をすると、被告人が、「分かりました。じゃあ決めました。買いましょう。」と即断した旨供述している(甲書3五七八、五八一)。
しかし、庚町が、電話で「スーパーコンピューターの件ですがどうなんですか。」と質問したのに対し、被告人が、NTTがスパコン購入に関与した場合のメリットを問い返し、これに対して庚町が、何ら依頼を受けていなかったNTT経由による購入を前提としたメリットをとっさに説明し、これを聞いた被告人がNTT経由によるクレイ社製スパコンの購入を即断するというのは、二重、三重に飛躍があり、合理性に乏しい。
また、戊田は、公判段階において(ただし、戊田は、本件公判においてNTT法違反事件の審理をした当時、記憶の多くを喪失しており、本判決中で引用する公判段階における供述は、R4及び己畑を被告人とする事件の公判における証人としての供述である。)、N7からは、NTT側からリクルートに頼んでNTT経由でクレイ社製スパコンを購入してもらうことになった旨の報告を受け、「そんな無理を甲野君に頼んだのかい。」と言った旨の供述をしているところ(甲書3六五八)、この供述は、当時のNTTの国際調達問題を巡る事情に照らすと、合理的であり、N7や庚町の各供述は、戊田の供述と対比して信用性に乏しい。
したがって、リクルートにNTT経由によるクレイ社製スパコンの購入を打診するという発想が、O2からN10に対する依頼、N10とN7との相談、N10やN7から庚町に対する依頼、庚町から被告人に対する働きかけという一連の流れの中のどの段階で生じたことであるかは不明であるが、いずれにせよ、庚町は、リクルートがNTT経由でクレイ社製スパコンを購入すれば、NTTの懸案事項となっていた米国からの資材調達額の拡大に資すると考えて、本章第三の二3(二)のとおり、その方法によるクレイ社製スパコンの導入を被告人に打診し、被告人も、そのことを一つの要素としてクレイ社製スパコンの購入を決めたものと認められる。
(3)  他方において、リクルートではクレイ社製スパコンを購入する必要は全くなく、NTTの対米調達実績拡大に協力し、日米貿易摩擦の解消に貢献するという理由のみで、NTT経由によるクレイ社製スパコンの導入を決めた旨の弁護人の主張や同趣旨の被告人の公判段階における供述も、不合理である。
すなわち、六〇年当時、クレイ社製スパコンは、リクルートが当初導入を予定した下位機種でも一米ドル二〇〇円として一五億円を超える高価なものであったのであり(甲物1一〇九)、回線リセール事業に多額の投資をしつつあることに加えて、RCS事業についても既に三台の大型汎用コンピューターを導入し、更に一台の大型汎用コンピューターや富士通製スパコンを導入することも決めていたリクルートにとって、これらに追加してクレイ社製スパコンを購入することが大きな負担であることは明らかであって、事業遂行上何らの必要もないのに、NTTの対米調達実績拡大に協力し、日米貿易摩擦の解消に貢献するという理由のみで、右のような高額な物件を購入するということは、企業経営者の行動として、不合理である。
また、被告人自身も、六三年一一月の衆議院リクルート問題に関する調査特別委員会において、NTT経由でクレイ社製スパコンを購入した理由を問われた際、クレイ社製スパコンが外国の製品であり、技術的に困難なものであったことから、トラブルへの対応を含むメンテナンスに不安があったところ、NTTが貿易商社的な仕事や保守管理等のアフターサービスもできるという話があったことから、NTT経由で購入することにした旨の証言をし(〈証拠略〉)、公判段階においても、右証言のうち、クレイ社製スパコンが技術的に高度なものであったことがNTT経由で購入した理由になっているということは正しい旨の供述をするほか(〈証拠略〉)、クレイ社がスパコンメーカーとして出荷台数が世界一多い会社であり、クレイ社製スパコンが世界最高速の科学技術専用の計算機である上、信頼性も高いから、クレイ社製スパコンを導入した方がリクルートの知名度が上がって学生の採用に資するし、アプリケーションソフトも充実していることから、導入するならクレイ社製スパコンの方が無難であろうという印象を持っていたことを認める供述や(〈証拠略〉)、VP400が軌道に乗ればクレイ社製スパコンもリクルートで導入したいと思っており、クレイ社製スパコンは人気があり、客が付きそうだったから優先順位は高かったとして、クレイ社製スパコンを導入したい意向であったことを認める趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、さらに、クレイ社製スパコンの導入は客がうまく付けばリクルートにとってもいい話であると考えた旨の供述や(〈証拠略〉)、クレイ社製スパコンが外国製品であり、かつ技術の高度なものであったことが、NTT経由で購入した理由になっているということは正しい旨の供述をしているのであり(〈証拠略〉)、リクルートではクレイ社製スパコンを購入する必要は全くなく、NTTの対米調達実績拡大に協力し、日米貿易摩擦の解消に貢献するという理由のみで、NTT経由によるクレイ社製スパコンの導入を決めた旨の被告人の公判段階における供述は、右のような被告人自身の衆議院の特別委員会における証言や公判段階における供述と実質的に矛盾しており、信用することができない。
これに対し、庚町は、右(2)のとおり、公判段階において、被告人に対し、NTTではクレイ社製スパコンを研究所に入れて使用しているので、ノウハウがあり、NTT経由でクレイ社製スパコンを購入すればそのノウハウが出せるだろうから、設計建設や保守の仕事を受託することができ、スパコンの経験のないリクルートにとってもプラスになるのではないかという話をした旨供述するところ、庚町の供述は、NTT経由によるクレイ社製スパコンの購入を打診したことを否定する点では信用し難いものの、NTT経由でクレイ社製スパコンを購入すればNTTからの技術支援が可能である旨の話をし、それを受けて、被告人が前向きの返答をした旨述べる範囲では、十分に信用することができ、これに、被告人の捜査段階における供述を含む関係証拠(認定事実末尾の括弧内に記載したもの)を総合すれば、リクルートにおいてクレイ社製スパコンをNTT経由で購入することにした経緯は前記第三の二3のとおりであると認められる。
(4) 被告人は、公判段階において、六〇年九月一二日ころの戊田との面談は、NTT経由によるクレイ社製スパコンを購入することを決めてN7常務に話した際、同人から戊田にも挨拶させると言われて戊田に会い、儀礼的な挨拶を交わしたにすぎない旨供述するが(〈証拠略〉)、戊田が、捜査段階において、「渡米の直前か直後であったかはっきりしませんが、私は、甲野の訪問を受け、NTT社長室において、〔中略〕『リクルートでコンピュータの時間貸し業をすることになり、クレイのスパコンを導入したいのです。NTTのお世話を頂けるなら、NTT経由で調達したいのです。』といった申し出を受けたのです。〔中略〕私は、甲野のこの様な申し出は、NTTにとっても有難いことであり、日米貿易摩擦の解消に役立つことでありましたので、協力を約束したのでした。」(甲書3四四〇)と供述し、公判段階においても、概ね同趣旨の供述をしていること(甲書3六五八)に加え、被告人自身も、公判段階において、六〇年九月一二日ころに戊田と面談した際、被告人が「クレイを購入させていただくことになりました。」と述べたところ、戊田が「いや、どうもありがとう、こちらも精一杯やらせていただきます。」あるいは「こちらも協力させていただきます。」と述べた旨供述すること(〈証拠略〉)からすれば、右面談は、単なる儀礼的な挨拶にとどまるものではなく、この際に、戊田から被告人に対し、リクルートがNTT経由でクレイ社製スパコンを導入することに協力する旨の約束がなされたものと認められる。
(三) RCS事業に対するNTTの支援・協力の内容について
X―MP216をRCS事業に供するに際して、NTTがオペレイティングシステムのインストール、RCS事業向けのセットアップやカスタマイズ、ユーザーが使用するアプリケーションソフトウェアのインストール、電話回線に接続後のリクルート側コンピューターと顧客の端末機器とのセッティング作業等に関して、特段の支援をしたと認められないことは弁護人主張のとおりである。
しかし、NTTが、本章第三の二のとおり、RCS事業でリクルートが使用するX―MP216をクレイ社から購入して、横浜西局舎に設置した上、リクルートに引き渡し、その過程では、クレイ社との契約、リクルート担当者との打合せ、局舎の貸与の決定、システムの設計、局舎内の床の補強や冷却系設備の設置工事等の種々の対応をしていることは、各認定事実末尾の括弧内に記載した証拠を中心とする関係証拠により、明らかであり、NTT(戊田及び己畑を含む。)は、リクルートがRCS事業にX―MP216を導入して使用するにつき、種々の支援と協力をしたと評価することができる。
なお、右(一)③の局舎貸与の必要性に関する弁護人の主張については、
① 被告人自身、公判段階においても、VP400の導入を決めた当初は汎用コンピューターと同じくリクルートのG7ビルに設置したかったが、床荷重とスペースの問題で設置できなかったので、晴海にインテリジェントビルを借りて設置したという経過がある旨の供述をしていること(〈証拠略〉)、
② R6が、公判段階において、クレイ社製スパコンを導入するについて、晴海のビルではVP400に加えてクレイ社製スパコンを設置することが面積的に無理である可能性があったため、リクルート側からデ本に対してNTT局舎の貸与を要請したことを認める供述をしていること(〈証拠略〉)、
③ 六一年一月二九日にR6が確認した上でSPS事業部から取締役会宛に提出された「CRAY機種変更について」と題する書面には、東芝がクレイ社製スパコンをXMP216とすることを条件に月間五〇〇〇万円分を二年間使用する商談が進行中であることから導入するクレイ社製スパコンの機種を変更したい旨の記載がなされているところ、同書面には、設置スペースについて、「※但し、T社からはNTT局舎の希望」という記載もなされていること(〈証拠略〉)、
④ 六〇年一一月号の「かもめ」には、被告人とR6らによるRCS事業に関する座談会の記事が掲載されているところ(甲物3一三九)、そこでは、「コンピュータというのは、普通のオフィスにポンと置くわけにはいかない。床を補強するとか、エアコンをピシッとするとか、大容量の電源がいるとか、付帯的な費用の方がむしろ大きい。」などとして、リクルートが川崎市内に建設を予定しているリクルート川崎コンピュータビル(仮称)が完成するまでのコンピューターの設置場所の問題を重要視する被告人の発言が掲載されていること、
⑤ 被告人が、公判段階において、川崎市内にビルを建築した理由について、「シェアラ〔IBM製の汎用コンピューター〕という機械は水冷式で非常に重たいですから、構造的にかなり重たいものに耐える、床荷重が重たくてもいいようなものにして、水で冷やしますから、パイプを特殊なタイプにするとか、二重床にするとか、あるいは停電があっても大丈夫なようにバッテリーを据え付けるとか、非常用発電設備を置くとか、停電装置を置くというような、特殊な装置を持ったビルを造っ〔た〕」と述べて、大型コンピューターを設置する建物の構造等の重要性を認識していたことを認める供述をしていること(〈証拠略〉)
などからすれば、被告人やRCS事業担当者が、クレイ社製スパコンを導入するに際して、その設置場所が重要な課題であると認識しており、かつNTTから横浜西局舎を借り受けることでその課題が解決したと理解していたことが明らかであって、弁護人の主張は失当である。
第四 コスモス株の譲渡の賄賂性
一 NTT法上の贈収賄に関する規定の意義について
1 NTT法上の贈収賄に関する規定
NTT法(本件当時のもの。以下同じ。)には、NTTの取締役等がその職務に関して賄賂を収受するなどの行為を処罰し、その賄賂を供与する行為も処罰する規定があり(一八条一項、二〇条一項)、本件では、被告人が戊田、己畑及び庚町に対してコスモス株を譲渡したことが、NTT法上の賄賂の供与に当たるかが問題とされている。
2 弁護人の主張
弁護人は、NTT法上の贈収賄に関する規定の解釈について、次の趣旨の主張をする。
① NTTの役職員がNTTが締結した有償双務契約上の債務の履行としてする行為は、一般の公務員がする行政行為や立法行為とは異なり、契約上当然になすべき行為であるから、これを贈収賄における尽力とか好意的な取り計らいと評価すべきでない。したがって、NTT法上の贈収賄に関する規定については、有償双務契約上の債務の本旨に従った履行及びこれに付随する関連役務の提供以外の行為で、有償双務契約関係を越える特別の取り計らいやこれから逸脱した特別の行為、あるいは異例の行為で不当又は不相当な目的を有する行為(以下「特別な行為」という。)についてのみ、職務行為と供与された財物との対価性(賄賂性)を認めるべきである。本件でも、回線リセール事業やRCS事業に関しては、NTTとリクルートとの間に有償双務契約があり、NTTには契約上の債務を履行すべき義務があったのであるから、戊田、己畑及び庚町の職務上の行為は、それが特別な行為に当たらない限り、コスモス株の譲渡との間で対価関係を持たず、賄賂に当たらない。
② NTTの業務が公務でないにも関わらずNTT法によって贈収賄の処罰規定が設けられたのは、通信業務の公益性に基づくものであるが、右公益性は独占性と表裏一体のものであるところ、通信事業の自由化によってNTTの独占性はなくなっている。このように、公務でなく、また公益性の減少した業務については、一般の公務と比較して刑罰によって保護する必要性が格段に少ないから、NTTの職員の関係で贈収賄に関する規定を解釈適用する際には、一般の公務員に対する場合と対比して職務行為の対価性(賄賂性)の認定をより厳格かつ慎重にすべきである。したがって、本件のような通常の有償双務契約の履行の場合に対価関係を認める余地はない。
しかも、NTT法二条では、電話の役務については、あまねく日本全国における安定的な供給の確保に寄与することを責務とされているが、それ以外の業務については、そのような責務は定められていない。本件で問題とされている行為は、公益性の比較的高い電話に関するものではなく、通信自由化を背景として私企業が設置する専用線に関する職務行為や個別商品であるスパコンの売買とその設置工事に関する職務行為であるから、立法趣旨からして贈収賄罪によって規制する必要のないものである。特に、デ本の業務に関しては、本件後の六三年七月にデ本がNTTから分離・独立して完全な民間企業となり、NTT法の適用外の組織になったことからも、デ本の業務にもともと公益性がないことが明らかであり、その職務行為に贈収賄罪が適用される余地はない。
3 判断
(一) 弁護人の主張①の点について
NTT法一八条一項にいう「職務」を双務契約上の債務の履行行為とそこから逸脱した特別な行為とに峻別して解釈することは、文言の解釈として無理がある。NTT法の制定に際しては、NTTが他の企業等との間で契約を締結し、その契約に基づく債務を履行することは当然の前提とされていたのであるから、立法者が弁護人主張のような見解を有していれば、その趣旨を明らかにした規定とすることが可能であったはずであり、そのようにせずに、刑法におけるのと同じく、「その職務に関して」賄賂を収受することを構成要件としているのであるから、その意味についても、刑法上の贈収賄に関する規定と同様に解するのが相当であるし、NTT法一八条一項後段で、職務に関し賄賂を収受するなどして、不正の行為をし、又は相当の行為をしなかったときは加重して処罰するとされていることに照らしても、一八条一項前段に関し弁護人主張の特別な行為についてのみ賄賂との対価関係を認めるということは不合理である。また、実質的にみても、NTTが双務契約を締結し、その債務を履行するという場合であっても、そもそもいかなる内容で契約を締結するか、また、その履行をどのようにするかについては、好意的な取り計らいの余地はあり得るところであるし、特に好意的ということもなく、契約上の債務の通常の履行行為といえる場合であっても、なお贈賄者がこれに対する対価行為として契約上の対価をNTTに支払うことと別にNTTの役職員に賄賂を供与することはあり得ることであり、そのような場合であっても、賄賂の供与や収受を許容することは、当該役職員の職務行為の適法・違法や当・不当に関わりなく、NTT役職員の職務の公正さに対する社会的信頼を損なうことになる。
したがって、NTTの役職員の職務行為が双務契約上の債務の履行行為である場合であっても、その職務行為に関して、契約上の対価の支払を受ける以外に、金員その他の利益を収受すれば、その職務に関して賄賂を収受したものとして、NTT法一八条一項前段の収賄罪が成立し、その供与については、NTT法二〇条一項の贈賄罪が成立する。
(二)  弁護人の主張②の点について
NTT法が、NTTの役職員の職務行為に関し、特に業務分野を限ることなく、賄賂を収受するなどすることを処罰対象としているのは、その文言上明らかである。また、NTT法が定款の変更、事業計画の策定及び変更、役員の任免等につき郵政大臣の認可を受けなければならないなどと規定していることや、NTTが通信事業の自由化によりその業務に関し独占することはなくなったにしても、公社の時代に形成された設備、職員や顧客等を継承し、なお通信事業に関して巨大な規模を有する実態等に鑑みると、NTT法は、電話の役務に限らず、NTTの役職員の職務行為全般(デ本の業務の分離前は、その業務関係の職務行為も含む。)にわたり公益性が強いと認めて贈収賄罪の対象としているものと考えられ、そのことは何ら不合理ではない。
したがって、通信事業の自由化に伴うNTTの業務の公益性の減少を理由として、贈収賄に関する規定を制限的に解釈し、あるいは、電話の役務以外の業務、特にデ本の業務の公益性の欠如を理由として、贈収賄に関する規定が適用されないとする弁護人の主張も、採用できない。
二 戊田らの支援と協力に対する被告人らの謝意と今後の期待
1 リクルートにおける回線リセール事業及びRCS事業の重要性
(一) 回線リセール事業及びRCS事業の収益等
リクルートでは、本章第三の一、二で認定したとおり、六〇年から六一年にかけて、回線リセール事業及びRCS事業を新規事業として積極的に展開し、これらの事業を担当する部門を増強し、積極的な設備投資や営業活動をしていた。この結果、リクルートの営業報告書によれば、期中に事業を開始した第二五期(六〇年一月ないし一二月)は両事業を合わせた情報ネットワーク事業全体で売上高が約九億八〇〇〇万円であったところ(甲書3四八三)、第二六期(六一年一月ないし一二月)には、回線リセール事業の売上高が約二五億一〇〇〇万円に伸長したものの、約四四億三九〇〇万円の売上原価(うち、高速デジタル回線使用料が一六億円余り、TDM、モデム等の通信機器の償却費が八億円余り、NTT市内回線使用料等が八億円余り)を計上し、RCS事業についても、約四億三八〇〇万円の売上高があったものの、約三五億八六〇〇万円の売上原価を計上し、両事業とも多額の赤字となっていた(甲書3四八四)。
したがって、六一年当時、リクルートにとって、回線リセール事業及びRCS事業を順調に展開して顧客を増やし、多額の設備投資の回収を図ることが、重要な経営課題であったことが明らかである。
なお、リクルートでは、第二七期(六二年一月ないし一二月)にも、情報ネットワーク事業を積極的に展開し、回線リセール事業を主とするINS事業については、売上高は約一〇四億七三〇〇万円に増加したが、積極的な先行投資を実施した伝送交換設備等の減価償却負担が増加したほか、多額の販売費を投入するなどしたため、約一三九億三一〇〇万円の赤字を計上し、RCS事業については、売上高は約三六億八一〇〇万円に増加したものの、なお、約二四億七〇〇〇万円の赤字を計上した(甲書3四八五)。
(二) 被告人らが回線リセール事業及びRCS事業を重要視していたこと
右(一)の状況に加え、
① リクルートでは、六一年当時、被告人ら幹部が、RMBの記事等により、回線リセール事業の推進に向けて管理職を鼓舞し、同年四月末ころから九月まで、全社の管理職による応援営業を展開していたこと(本章第三の一8(一))、
② リクルートが六一年九月七日に開催した全社部次長会(本章第三の一8(七))における被告人のスピーチの模様は、同月一〇日ころのRMBに掲載されているところ、その内容は、「甲野さんの“叫び”浸透」という表題の下、「参加者に最も強いインパクトを与えたのは、『代表スピーチ』。『情報誌事業が利益の8〜9割を占める現在のリクルートでは、今後高い成長は望めない。すでに多大な設備投資を行っているI&N事業の成否には、まさにリクルートの社運すべてがかかっている。しかし、そのことに対するマネージャーの意識は、驚くほど低い。』―甲野さんの迫力ある言葉に、多くのマネージャーが『身の引きしまる思いがした』『なんとしても成功させねば』と意欲を新たにした。」などというものであること(甲物3七九)、
③ リクルートが六一年一一月三〇日に開催した緊急マネージャー会議(本章第三の一8(七))における被告人のスピーチの抜粋が、同年一二月三日ころのRMBに掲載されているところ、その内容は、「現状に対する危機感が足りない」と題され、「皆さんには、ひとつ真剣に考えてもらいたいことですが、今やめれば、今年は120億の赤字、もろもろ含めて200億かもう少しはかかるでしょうが、それでも財務利益を全部はたいて、まだ倒産はしないんです。しかし、この10年間営々として築いてきたものを全部はき出すことになるんです。そして夢がなくなる。人もあまる。これから先4〜5年をかけて、別のもうひとつの仕事に向けて進んでいかなければならない。そしてそういう仕事があるかと言えば相当に苦しい思いをしなければならないんです。」「なぜI&Nを選んで始めたのかというと、〔中略〕ひとつの産業はいつまでも長続きしないということを言いたいんです。ということは、『RB』にしろ『JJ』や『就職情報』にしろ、いかに繁栄を極めた商品といえども、いずれ端末操作による情報検索システムが普及すれば、それらに取ってかわられる日が必ずやって来る。〔中略〕だから、リクルートにとってI&Nは、どうしても行かなきゃならない道なんです。しかも最も安全で無難な道でもあるんです。」「リクルートはいま、社運を賭してのたいへんな戦いに突入したわけです。すでに多大な設備投資をしていますから、成功しなければ、これは大変なことになります。さらによそが値下げをしてくる、という問題もある。それもこれも考え合わせれば、一刻も早く1本も多く線をつないでしまいたいんです。」「このポイントだけは忘れないでほしいのですが、ひとつは、『どこか違う道を行かなければ、リクルートはダメになってしまう』ということ。もうひとつは、『いま行こうとしている道は、そんなに悪い道ではない』ということです。成功すれば2000億円、すばらしい市場が開けるであろうし、失敗すれば大ケガを負うことになるんです。にもかかわらず、いまリクルートがたいへんな闘いをしているということに対して、マネージャーの理解がいまひとつなのは、いったいどうしたことでしょうか。」などと危機感を訴えるものであること(〈証拠略〉)
からすれば、被告人が戊田らにコスモス株を譲渡した時期である六一年九月当時、被告人らリクルートの幹部が、I&N事業、すなわち、回線リセール事業及びRCS事業がリクルートの将来を左右する事業であると位置付けて、その成功を図ることを重要視していたことが明らかである。
2 NTTによる支援と協力の重要性
以上で認定した諸事実、特に、
①  リクルートが回線リセール事業を展開するに際しては、NTTから高速デジタル回線及びアクセス回線の提供を受けることが不可欠の前提であった上、競業企業や新電電各社に先駆けて圧倒的なシェアを獲得するためにNTTに高速デジタル回線とアクセス回線を速やかに敷設してもらう必要があり、かつ、NTTの局舎をアクセスポイントとして借り受けることが望ましかったほか、自社の通信技術力の不足を補てんし、回線の安定性に対する顧客の信用を確保するためには、通信機器やネットワークの保守等をNTTに受託してもらうことが必要であったところ、NTTは、巨大な組織であり、電電公社時代の体質も一朝一夕には改まらないことによる意思決定や対応の遅滞、営業窓口となった企通と現業部門との認識の相違等が影響して、企通がリクルートに対して示した見通しのとおりには組織としてのNTTが動かず、リクルートにとっては期待外れとなったという面があったとはいえ、NTTは、戊田の指導の下で、営業窓口となった企通や事業の拠点である東京地区を管轄する東京総支社を中心として、リクルートの回線リセール事業に対して種々の支援や協力をし、リクルートの側も、その営業に際して、NTTから協力を受けていることを積極的に活用し、六一年度営業報告書中でも、NTTとの間の保守契約の締結を強調する記載をしていたこと(本章第三の一、三2)、
②  リクルートが回線リセール事業についてNTTから支援と協力を受ける必要性は、六一年九月当時においても、同様に存していたこと(本章第三の一8)、
③  RCS事業に関しても、NTTを経由してクレイ社製スパコンを導入することは、NTTの国際調達問題の緩和に資するという面は存したものの、リクルートの事業遂行上も意義があることであったのであり、かつ、六一年九月当時、NTTは、クレイ社製スパコンX―MP216の設置場所としてリクルートに局舎を貸与することになっており、デ本を中心として、その設置に向けたオンライン・システムの設計や局舎の工事が進められていたこと(本章第三の二、三3)、
④  リクルートでは、回線リセール事業やRCS事業を展開する過程で、被告人やR6らの幹部が庚町や己畑ら右各事業に関係するNTTの幹部を繰り返し料亭等で接待していたこと(本章第三の一、二中の随所)、
⑤  被告人らリクルートの幹部は、六一年九月当時、既に積極的な設備投資をしていた回線リセール事業及びRCS事業をリクルートの将来を左右する事業であると位置付けており、その成功を図ることを重要視していたこと(右1)
を総合すれば、被告人らリクルートの幹部は、回線リセール事業及びRCS事業を順調に展開する上でNTTからの支援と協力が重要であると認識しており、そのことは六一年九月当時も同様であったと認められる。
3 戊田の支援と協力に対する謝意と今後の対応についての期待
(一) 戊田の具体的な行為
右2のとおり、被告人らが回線リセール事業及びRCS事業を順調に展開する上でNTTからの支援と協力が重要であると認識していた状況下において、戊田は、次の各行為をした。
① 庚町から、リクルートが回線リセール事業に進出するに当たりNTTに対し人材派遣や機器の保守等を求めており、また、企通ではネットワークの全体計画及び保守体制等についてコンサルティング契約を締結する方向で積極的に対応している旨の報告を受けた際、その方針を了承し、被告人と面談した際にも、NTTがリクルートの回線リセール事業に対し支援・協力する姿勢を表明した上、常務会の席上等で、回線リセール業者に対する協力に消極的な考えを排して、業者からの要望に応じて積極的に回線を販売すべき旨の発言をした(本章第三の一3(四)、(五))。
② 六〇年一二月二七日のNTTの常務会において、局舎の貸与問題につき、一定の条件を満足し、貸し付けることが事業経営上有利であると判断した場合には、積極的かつ公平に貸し付けることとし、貸付相手にはリクルート等のNTT回線を使用する第二種電気通信事業者及び情報処理業者を含むことなどを内容とする案に賛成し、リクルートからの要望を前提とした回線リセール業者からの保守等の受託問題についても、TDM等の端末設備の設計及び工事(コンサルティングを含む。)、売り切り端末の受託修理に加えて、専用線網全体の故障診断業務を行うことなどを内容とする案に賛成するとともに、保守の対象をNTT仕様の機器に限定しない方向で再検討することを指示した(本章第三の一6(二))。
③ 六一年六月下旬ころ、被告人から高速デジタル回線の瞬断事故に関する苦情を述べられた際、NTTネットワーク事業本部長に対し、改善のための措置を執るように指示した(本章第三の一8(五))。
④ 六一年半ばころ、庚町から、リクルートが回線リセール事業に付随して広域内線電話サービス事業を開始する計画である旨を告げられた際、企通に対し、NTTとしても同計画に関与するように指示した(本章第三の一8(六))。
⑤ リクルートがRCS事業にクレイ社製スパコンを導入することに関しても、六〇年九月一二日ころ、被告人に対し、NTTとして協力することを約束し(本章第三の二3(二))、同年一二月の常務会において、局舎の貸付けを可能とする案に賛成した(右②)上、六一年四月九日の常務会において、NTTがリクルートに販売するクレイ社製スパコンX―MP216一式の購入契約を締結することを承認した(本章第三の二3(三))。
(二)  戊田の行為の評価
右(一)の各行為が戊田の職務権限に属する行為あるいは職務と密接に関連する行為であることは、明らかである。
そして、このうち、(一)①ないし④の各行為は、本章第三の一3(三)で認定した民営企業としてのNTTの業務の在り方に関する経営者としての戊田の基本的な考え方に基づくものであり、また、NTTが戊田の統率の下でリクルートに対し前例のない取扱いをしたのは、リクルートがNTTの回線を用いて全国的に回線リセール事業を展開しようとした最初の第二種電気通信事業者であったからであり、リクルートに対し種々の協力をしたことは、リクルートがNTTにとって大口の顧客であったことによるものと認められ、戊田が同時期に同様の事業展開を図った他の業者を差別してリクルートのみに対し特別に有利な取り計らいをしたとか、NTTの公益性や企業としての合理性に反してまでリクルートに有利な取り計らいをしたなどという不当な行為があったとは認められないが、それらの行為は、リクルートが競業企業に先立って早期に全国的な規模で展開しようとしていた回線リセール事業に対し、事業展開に有利な方向で作用するものであって、支援と協力に当たると評価することができる。
また、右(一)⑤の行為も、戊田としては、当時懸案となっていたNTTの米国からの資材調達額拡大に資するという観点から、前向きに取り組んだものであり、不当とすべき点は見当たらないが、その行為は、リクルートがRCS事業にクレイ社製スパコンを導入するについて便宜な行為であるから、支援と協力に当たると評価することができる。
(三)  被告人の戊田に対する謝意と期待
右2、3(一)、(二)の諸点に加え、被告人は、戊田と直接面談し、庚町ら企通の者から聞くなどして、NTT内部に、公社時代の体質から抜け切れず、NTTの事業と競合することになる回線リセール業者に対する支援・協力に消極的な意見も根強くある中で、社長である戊田が社内の意識改革に努め、リクルートの回線リセール事業にも理解を示して、その事業に対する支援と協力を可能とする方向にNTTを動かそうとしていることを承知しており(本章第三の一3(二)〜(五)、6(二)、(三)、8(五))、かつ、クレイ社製スパコンのNTT経由による導入に関しても、戊田と直接面談して協力の約束を取り付けたこと(本章第三の二3(二))も考慮すれば、被告人は、六一年九月当時、回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、戊田から種々の支援と協力を受けたことに感謝の念を抱き、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたものと推認することができる。
(四) 弁護人の主張等について
弁護人は、被告人には、戊田とリクルートの事業とが関連するという発想自体がなく、回線リセール事業の展開やクレイ社製スパコンの導入に関して、戊田に感謝し、支援や協力を期待することはあり得ない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
しかし、被告人の右供述は、以上で認定したリクルートにおける回線リセール事業及びRCS事業の重要性、両事業とNTTとの関係、戊田の立場と右各事業に関連する行動、被告人と戊田との数回の面談の事実とその際のやり取り等に照らすと、明らかに不合理であり、信用することができない。
また、被告人自身、元年二月二八日の検察官の取調べにおいて、回線リセール事業に関し、「NTT側としましても、〔中略〕単純に私共に回線等を売れば足りるという商売ではなく、新たに光ファイバーケーブル等を敷設するといった設備投資も必要となりますので、〔中略〕私共で多数の客を捕まえることを絶対的な条件としながらも、『NTTが腰を上げてくれなければどうにもならない』という位置関係にありました。」「六〇年九月一日〔中略〕の前後ころではなかったかと思っていますが、〔中略〕庚町さんの案内で戊田社長にお会いしたところ、戊田社長が私に、『NTTは、これ迄長いこと独占でやってき、その弊害がある。あなた達が回線を売ってくれれば、内部の刺激にもなるし、高速デジタル網の市場が拡がる。これからの仕事だからどんどんやって下さい。』等と私共の事業化について賛意を表わして下さいました。」(乙書3一六)と供述し、公判段階においても、戊田が電気通信事業の自由化を推進し、新規に参入する第一種、第二種の電気通信事業者の育成に積極的であることを知悉していたことを認める供述(〈証拠略〉)や、六〇年八月ころの戊田との会食の際、戊田からは、「あなたたちに頑張ってもらえりゃあ、NTTの社内も活性化するから大いに頑張ってください」という話があり、同会談における戊田の話により、回線リセール事業がスムーズに行くなということが確認できた旨の供述(〈証拠略〉)、さらに、局舎の貸与については、戊田の発案で常務会か取締役会で機関決定されたので、これからは借りられるようになったと庚町から聞いた旨の供述(〈証拠略〉)をしており、しかも、被告人がR32から説明を受けて目を通していた六一年二月五日付けの「NTT情報局舎借り報告」と題する取締役会宛の書面に添付された資料には、「NTT内にリクルートは敵か味方かの論議が根強くあり、しかもギリギリのバランスである。社長の方針によって総論として『味方』になっているが、細部で煮詰まっていないことが多い。」という記載があるのであって(〈証拠略〉)、これらの点からしても、被告人が、右(三)のとおり、戊田の支援と協力に感謝し、今後の支援と協力を受けたいという期待を有していたことに疑いの余地はない。
4 己畑の支援と協力に対する謝意と今後の対応についての期待
(一) 己畑の具体的な行為
右2のとおり、被告人らが回線リセール事業及びRCS事業を順調に展開する上でNTTからの支援と協力が重要であると認識していた状況下において、己畑は、次の各行為をした。
① 己畑は、東京総支社長として、N4未来通信営業部長らから報告を受けるなどして、リクルートの要望内容につき了知した上、同部長やN5施設部長らに対し、東京総支社としての対応を指示し、その結果、施設部では、リクルートの要望の全てを満たすものではなかったものの、リクルートが申し込んだ回線を開通させるために、回線リセール事業の拠点であるG7ビルへの回線敷設工事を含む所要の工事を進め、その過程で局間中継線の敷設に従来と異なる方式を採用するなどし、これにより回線の早期開通が可能となり、また、東京総支社では、管轄区域内において、敷設した回線等の設備の保守に加え、NTT仕様化したTDM等の通信機器の保守や故障時における回線及び通信機器の良否判定作業を行った(本章第三の一5(一)、7(二)、(三))。
② 己畑は、東京総支社未来通信営業部等でリクルートを担当し、R―NWプロジェクトのメンバーでもあったN3が退職するに先立ち、N4未来通信営業部長を介するなどして、リクルートにN3の再就職受入れを交渉した上、N3の辞職承認に関する決裁をし、N3は、実際にリクルートに再就職して、回線リセール事業に関して稼働した(本章第三の一7(四))。
③ 己畑は、六一年六月二六日付けでデ本の事業本部長に就任した後、N12副事業本部長からデ本が抱える重要案件の説明を受け、リクルートがNTTを通じて導入することとなったスパコンの設置等をデ本で担当し、N11を中心に技術的な検討をするなどの作業を進めていることや、リクルートの要望に応じて横浜西局舎(NTT横浜西ビル)に設置する予定であることを了知し、その作業を進めさせていたところ、デ本は、所要のシステム設計をした上、同年八月ころ、X―MP216を設置するためにNTT横浜西ビルの模様替工事に着手し、機械室内の床の補強、冷却系設備の設置等をした上、X―MP216を同ビル内に設置し、同機とFEPとの間の高速デジタル回線の設置等の工事やX―MP216の検収試験等を行い、同年一二月九日ころ、クレイ社から同機の引渡しを受けた上、これをリクルートに引き渡した。また、己畑は、同月、リクルート代表取締役の被告人との間で、デ本事業本部長として戊田を代理し、X―MP216に関するハードウェア設計建設委託契約を締結した上、デ本事業本部長として、同ビル内の約二九八平方メートルのスペースの賃貸借契約、ハードウェア用電源設備の設計建設委託契約及び同設備等の保守契約を締結した(本章第三の二4(一))。
(二)  己畑の行為の評価
右(一)の各行為が己畑の職務権限に属する行為あるいは職務と密接に関連する行為であることは、明らかである。
そして、己畑がNTTの東京総支社長やデ本本部長として、同時期に同様の事業展開を図った他の業者を差別してリクルートのみに対し特別に有利な取り計らいをしたとか、NTTの公益性や企業としての合理性に反してまでリクルートに有利な取り計らいをしたなどという不当な行為があったとは認められないが、右(一)①、②の各行為は、リクルートが競業企業に先立って早期に全国的な規模で展開しようとしていた回線リセール事業に対し、事業展開に有利な方向で作用するものであって、支援と協力に当たると評価することができ、右(一)③の行為も、リクルートがRCS事業にクレイ社製スパコンを導入するについて便宜な行為であるから、支援と協力に当たると評価することができる。
(三)  被告人の己畑に対する謝意と期待
右2、4(一)、(二)の諸点に加え、
①  己畑が総支社長を務めていた東京総支社は、リクルートの回線リセール事業の拠点である東京都内を管轄しており、東京における回線の敷設や通信機器の保守等を実際に担当するのは同総支社であったこと(本章第三の一3(二)、5(一)、7(三))、
②  リクルートでは、六〇年九月、被告人が二度にわたり己畑を料亭で接待したほか、G7ビルにおける回線敷設工事が開始されたころである同年一〇月及び六一年一月、被告人らリクルートの幹部が己畑をN5施設部長やN4未来通信営業部長という回線リセール事業に関係する東京総支社の幹部と一緒に料亭で接待したこと(本章第三の一5(二))、
③  リクルートがRCS事業用のクレイ社製スパコンを導入するに際して、その調達を担当したのはNTTの国際調達室であるが、局舎の貸与や設置工事等を実際に担当していたのはデ本であったこと(本章第三の二3(三)、4(一))、
④  己畑がデ本の事業本部長に転じた後も、リクルートでは、六一年八月一二日、R8、R6、R32らが己畑をN12デ本副事業本部長、N11産業システム事業部長というX―MP216の設置に関与しているデ本の幹部や担当者と一緒に料亭で接待したこと(本章第三の二4(二))
を併せ考慮すれば、被告人は、六一年九月当時、回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、己畑から種々の支援と協力を受けたことに感謝の念を抱き、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたものと推認することができる。
(四) 弁護人の主張等について
弁護人は、被告人は、東京総支社長当時の己畑がリクルートの回線リセール事業に関わる設備計画や工事等に関与するとは思っておらず、クレイ社製スパコンの導入に関しては、そもそもデ本が関与していることを認識していなかったから、己畑の支援や協力に感謝し、以後の支援や協力を期待するということはあり得ない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
しかし、被告人の右供述は、以上で認定したリクルートにおける回線リセール事業及びRCS事業の重要性、両事業とNTTとの関係、己畑の立場と右各事業に関連する行動等に照らすと、明らかに不合理であり、信用することができない。
また、被告人は、右(三)②のとおり、G7ビルの回線敷設工事が開始されたころである六〇年一〇月やその後の六一年一月、リクルートの幹部とともに、己畑をN5施設部長、N4未来通信営業部長という回線リセール事業に関係する東京総支社の幹部と一緒に料亭で接待したが、被告人が、総支社長である己畑がリクルートの回線リセール事業に関わる設備計画や工事等に関わりを持たない超然とした存在と思っていたのであれば、右のような参加者による接待をする理由はないはずである。
N3のリクルートへの再就職に関しても、その採用に先立って、NTT側からその打診を受けたR32が、六一年一月二二日付けの「NTT東京 N3氏迎え入れ」と題する書面を取締役会に提出して、その検討を求めたが、同書面には、「NTT東京総支社己畑総支社長より、同社システム販売本部N3氏の受け入れ(リクルートS職)について打診があった。」「INS通信技術部納品進行チームS職として受け入れたいが、ご検討いただきたい。」「同氏は長年のリクルート担当営業窓口で、総務部の電話がらみの諸問題の相談役としても機能(いままでも、今後も。)」などと記載されているのであるから(〈証拠略〉)、被告人が、N3がNTTを退職した上でリクルートに就職することについて己畑の関与があったと承知していたことも明らかである。
クレイ社製スパコンの導入とデ本事業本部長である己畑との関係についても、被告人は、六一年九月当時、己畑がデ本の事業本部長であったことは知っていたが、デ本は、主として公的機関からの計算受託業務をしている部門であると認識しており、X―MP216の導入を担当していることは知らなかった旨供述するが(〈証拠略〉)、①右1のとおり、被告人が、RCS事業を重要視していたこと、②リクルートは、東芝から、導入機種をX―MP216とすれば、六二年四月から二年間にわたり合計九億円の利用をする旨の申出を受けて、当初の予定よりも上位の機種を導入することになったものである(本章第三の二3(三))から、これを速やかに導入して同月までに稼働させることができるかどうかは、赤字がかさんでいたRCS事業において重要な課題であったはずであること、③右機種変更に関連してRCS事業部から取締役会宛に提出された六一年二月一九日付けの「T会議御中 CRAY(X―MP216)の導入について」と題する書面には、導入場所について、「NTTのデータ通信事業本部より回答があり、別紙のとおり、横浜西ビルに導入したい。」という記載があり、資料として添付されたデ本作成名義のリクルート宛文書には、X―MP216の導入見込み時期、局舎貸与依頼に対する回答とともに、工事の実施形態について、「CRAYの設置に関わる工事につきましては、建設受託契約にて実施させていただきます。」という記載があること(甲物3一五四)からすれば、被告人は、X―MP216の導入に際しての局舎の貸与や設置のための工事等をデ本が担当していたことを承知していたと認められ、これに反する被告人の供述は信用することができない。
5 庚町の支援と協力に対する謝意と今後の対応についての期待
(一) 庚町の具体的な行為
右2のとおり、被告人らが、回線リセール事業を順調に展開する上でNTTからの支援と協力が重要であると認識していた状況下において、庚町は、次の各行為をした。
① 庚町は、企通の事業部長として、六〇年七月、R―NWプロジェクトを設置し、以後、リクルートの回線の早期開通、局舎貸与及び各種機器の保守等の要望に対して前向きに検討させ、同年九月には、リクルートとの間で、高速デジタル回線ネットワークのシステム構築に関する技術的な指導及び助言並びに完成後における保守体制の指導及び助言の業務を受託するコンサルティング契約を締結した上、企通主催でNTT各総支社の企業通信システム担当者等による打合せ会を開催して、各総支社に対し、リクルートの回線リセール事業の現状、右コンサルティング契約を締結したこと等を説明するとともに、リクルートの回線設備計画を各総支社の設備計画の参考とし、局舎の貸与、TDM等の保守の受託等を積極的に検討するように要請した(本章第三の一2(一)、3(一)、(四)、(六))。
② リクルートが要望していた通信機器の保守に関しても、庚町は、六〇年一〇月、NTTの技術委員会に、リクルートが購入する予定のTDM、モデム及びネットワーク監視診断装置の仕様書の作成を諮り、これを受けて、同委員会でそれらのNTT仕様化が決定され、その後、仕様書が制定された(本章第三の一6(二))。また、庚町は、回線リセール業者のTDM等の端末設備の設計及び工事(コンサルティングを含む。)、売り切り端末の受託修理や、専用線網全体の故障診断業務を受託することを認めたNTT常務会の決定を受けて、六一年三月、リクルートとの間で、TDM、モデム、遠隔監視装置(CMS及びMMS)等に関する売買基本契約並びに右各機器の保守契約(故障時における対象物件及び回線の良否判定作業並びに対象物件の故障の修理を内容とする。)を締結した(本章第三の一7(二))。
③ その後も、庚町は、企通内にR―VAN推進室を設置し、リクルート担当者を増員して、NTT社内の関係部署と調整をしたり、リクルートのニーズに即応した機動的・弾力的な対応をしたりする体制を整備し、企通所属の社員をリクルートの営業に同行させ、自身も被告人らの営業に同行するなどして、リクルートの回線リセール事業の営業に協力した(本章第三の一8(四))。
(二)  庚町の行為の評価
右(一)の各行為が庚町の職務権限に属する行為であることは、明らかである。
そして、庚町がリクルートの回線リセール事業に前向きに対応して右(一)の各行為をしたことは、NTTの社長である戊田の方針に沿い、かつNTTの売上げにもつながるものであるし、庚町がリクルートに一般の顧客と異なる特別な対応をしたことも、リクルートが回線リセール事業の全国展開を図った最初の事業者であり、NTTの専用回線を大量に使用する大口の顧客であったことに起因するのであって、同時期に同様の事業展開を図った他の業者を差別してリクルートのみに対し特別に有利な取り計らいをしたとか、NTTの公益性や企業としての合理性に反してまでリクルートに有利な取り計らいをしたなどという不当な行為があったとは認められないが、右(一)の各行為は、リクルートが競業企業に先立って早期に全国的な規模で展開しようとしていた回線リセール事業に対し、事業展開に有利な方向で作用するものであって、支援と協力に当たると評価することができる。
(三)  被告人の庚町に対する謝意と期待
右2、5(一)、(二)の諸点に加え、
①  被告人は、組織としてのNTTに対しては、官僚的体質があって、庚町が言うとおりにはなかなか現場部隊が動かないという不満を持っていたものの、庚町については、電気通信事業の自由化推進論者として第二種電気通信事業者への協力に積極的であったことから、右協力に対する抵抗も根強かったNTT内においてリクルートの味方の立場におり、リクルートの要望時期より回線の開通が遅滞する状況の中で、脂汗をかきながら努力していた旨の認識を抱いていたこと(〈証拠略〉)、
②  被告人は、リクルートが回線リセール事業を展開する過程で、六〇年七月、R6とともに庚町を料亭で接待し、同年八月と九月にも、庚町を料亭や料理店で接待し、六一年三月と六月にも、庚町を料理店で接待したこと(本章第三の一2(二)、3(七)、8(八))
も考慮すれば、被告人は、六一年九月当時、回線リセール事業の展開に当たって庚町から種々の支援と協力を受けたことに感謝の念を抱き、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたものと推認することができる。
(四) 弁護人の主張等について
弁護人は、被告人は、リクルートが庚町を通じてNTTに何かを働きかけたことはなく、何かを求めたとしても、庚町にはこれに応じるだけの職務権限も力量もないと認識していたから、庚町の支援や協力に感謝し、以後の支援や協力を期待するということはあり得ない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
しかし、被告人の右供述は、以上で認定したリクルートにおける回線リセール事業の重要性、同事業とNTTとの関係、庚町の立場と同事業に関連する行動、その間の被告人と庚町との接触状況等に照らすと、明らかに不合理であり、信用することができない。
三 被告人が戊田らにコスモス株を譲渡した趣旨
1 認定
(一)  以上で認定した諸事実、特に、
①  リクルートでは、六〇年に回線リセール事業及びRCS事業を新規事業として開始し、六一年には、担当する部門を増強し、積極的な設備投資や営業活動をするなどしており、売上高が伸長していたが、なお多額の赤字を計上する状態であり、被告人が戊田らに対してコスモス株を譲渡した同年九月当時、リクルートにとっては、右両事業を順調に展開して顧客を増やし、多額の設備投資の回収を図ることが重要な経営課題となっており、被告人らリクルートの幹部は、右両事業をリクルートの将来を左右する事業であると位置付けて、その成功を図ることを重要視していたこと(本章第三の一、二、第四の二1)、
②  被告人らリクルートの幹部は、回線リセール事業及びRCS事業を順調に展開する上でNTTからの支援と協力が重要であると認識しており、そのことは六一年九月当時も同様であったこと(本章第四の二2)、
③  戊田は、リクルートが回線リセール事業を展開し、またRCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、NTTの代表取締役社長として、種々の支援と協力をしており、被告人は、そのことに感謝の念を抱くとともに、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたこと(本章第四の二3)、
④  己畑は、リクルートが回線リセール事業を展開し、またRCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、NTTの東京総支社長やデ本事業本部長として、種々の支援と協力をしており、被告人は、そのことに感謝の念を抱くとともに、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたこと(本章第四の二4)、
⑤  庚町は、リクルートが回線リセール事業を展開するに当たって、NTTの企通事業部長として、種々の支援と協力をしており、被告人は、そのことに感謝の念を抱くとともに、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたこと(本章第四の二5)、
⑥  コスモス株は、六一年九月ころの時点では、同年一〇月三〇日に予定されていた店頭登録後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれており、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては、極めて困難であったものであるところ(第一章第二の五)被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させることを意図して、社外の者に対する譲渡を企図し(第一章第二の三3(三)③)、戊田、己畑及び庚町に対するコスモス株の譲渡も、被告人が自ら直接又は秘書を介して戊田らに持ちかけ、その了承を得た上でR4に手続をさせたものであること(本章第一の一)
を総合考慮すれば、戊田及び己畑に対するコスモス株の譲渡には、リクルートが回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨があり、庚町に対するコスモス株の譲渡には、リクルートが回線リセール事業を展開するに当たって種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨があったと推認することができる。
(二)  右趣旨があったことは、被告人の捜査段階における供述を除いても十分に推認し得るところではあるが、これに加え、被告人は、逮捕された一週間後の元年二月二〇日の検察官の取調べにおいて、己畑及び庚町にコスモス株を譲渡した趣旨につき、「己畑さんや庚町さんの職務に関し、色々お世話になった謝礼の趣旨でコスモス株をお譲りしたということは絶対に認める訳にはいきません。」と述べつつも、「それでは何故己畑さんや庚町さんに対し、〔中略〕コスモス株をお譲りすることにしたのか、その理由について述べますと、おふた方が、リクルートが手掛けた回線リセール業務の仕事に係わり合いを持たれたことを始めとしまして、信頼できる人であったことや、更には、その人格、識見、能力等に優れておられ、人物に惚れたといったこと等が色々絡みあったことに基づいていました。」と供述し(乙書3一四)、同月二六日の検察官の取調べにおいては、「己畑さんに対し、一万株を持ちかけたのは、リセール回線の早期立ち上がりに関し、現場における責任者として係わり合いがあったことの外に、己畑さんとの間で、前回説明した様な『サロンとしてお付き合いした中で注目した人』といった意味あいや、更には今説明しました様に、女性問題の絡みで、NTTを辞めざるを得ないことになるかも知れないことを配慮し、その場合の支度金と言えば語弊がありますが、それに類する気持ちも加わっていました。〔中略〕庚町さんには、回線リセールを通じて仕事上係わり合いがかなりありました。一方、庚町さんは、大手ユーザーの営業窓口の責任者として、リクルートに対しても、回線を買って貰う、それに付属する端末機器類を買って貰うといった売り込みをする立場にもおられました。平たく言えば、ギブアンドテイクの間柄だったのです。そんなことで私は、〔中略〕RC株をお譲りすることで、喜んでいただきたいと思いました」と供述して(乙書3一五)、他の理由と並べてではあるが、同人らの職務に関してコスモス株を譲渡したことを認めているところ、このうち、己畑及び庚町の職務との関係を認める点は、右(一)の諸事実に照らすと、自然かつ合理的な内容であり、十分に信用することができる。
2 弁護人の主張等について
(一) 弁護人の主張等
弁護人は、被告人が戊田にコスモス株を譲渡した趣旨につき、被告人が財界の集まり等における交流を通じて戊田に対する親しみを深め、交流を持つ人物の中で、人物・識見・能力・功績等において群を抜いて尊敬できる人物であると認識しており、そのように尊敬し、敬愛してやまない人物である戊田に自分が経営する会社の株主になってもらうことは、うれしいことであり、リクルートコスモスの社格も上がると考えたからであって、もともと戊田がNTTとリクルートとの取引に関わりを持つとは考えていなかったので、コスモス株の譲渡に際しては、NTTとリクルートとの取引関係は全く念頭になかったとして、賄賂性を否定する主張をし、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
また、己畑に対する譲渡についても、弁護人は、被告人は、四〇年ころから己畑と個人的な付き合いがあり、特に五七年以降は私的なサロンで同席したこともあって交際の密度が高まり、リクルートグループが開発した岩手県の安比高原で妻同伴で一緒にパーティーを楽しむなど、仕事を離れた個人的な関係を深め、互いの私的な問題を話し合うなどの関係にあり、コスモス株を譲渡するに際しては、己畑がリクルートの事業に関わっているとは認識しておらず、右個人的な交際があったことに加えて、己畑が女性問題でNTTを辞めることになる場合には、古くからの親しい友人として信頼し、非常に優秀な逸材である己畑をリクルートグループの幹部として迎えたいという意味を込めてコスモス株を勧めたものであるなどとして、賄賂性を否定する主張をし、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
さらに、庚町に対する譲渡については、弁護人は、被告人が庚町に対し、非常に知識の守備範囲が広く魅力のあるアイデアマンである上、人懐っこい人柄と受け止めて、親近感を感じており、かつ、役所的体質が濃いNTTには珍しくフットワークがよくて話のテンポも速く、柔軟であると感じて評価しており、それゆえに、六〇年一二月に社外の一〇〇人以上にリクルートの株式を取得してもらった際、庚町にも、有識者の一人としてコスモス株を取得してもらっており、他方で、リクルートとNTTとの取引に関しては、リセール回線の開通、局舎貸与の問題などについて、庚町の当初の話のようにはいかないことが多々あり、「庚町ラッパ」が吹いても後方部隊がついて行かないなどと認識して庚町に対して強い不満を持っており、庚町からリクルートの事業に関して何らかの好意ある取り計らいをしてもらったという認識はなく、また将来においてもそのような取り計らいを期待しておらず、庚町にコスモス株を譲渡したのは、リクルートの株式の場合と同様に、有識者が株主でいることで会社の評価も上がると考え、その一人として庚町にもコスモス株を勧めたにすぎないなどとして、賄賂性を否定する主張をし、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(二) 検討
(1) まず、被告人がコスモス株を譲渡した当時、戊田や己畑がリクルートの回線リセール事業やRCS事業と関わりを有していると認識していなかったという点は、被告人が、六一年九月当時、戊田及び己畑の右両事業についての関わりを認識し、回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、右両名から種々の支援と協力を受けたことに感謝の念を抱き、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたと認められること(本章第四の二3、4)に反するものであり、庚町についてリクルートの業務との関係では積極的な評価や期待をしていなかったという点も、被告人が、六一年九月当時、回線リセール事業の展開に当たって庚町から種々の支援と協力を受けたことに感謝の念を抱き、今後も同様の支援と協力を受けたいという期待を有していたと認められること(本章第四の二5)に反するものであるから、被告人の右(一)の供述は信用することができず、弁護人の主張は理由がない。
(2) 弁護人の主張や被告人の公判段階における供述によれば、被告人が社外の者数十名にコスモス株を譲渡するに際し、リクルートの業務とは関わりなく人選したところ、たまたま、その時期に被告人がリクルートの将来を左右する事業であると位置付けて、成功を図ることを重要視していた回線リセール事業やRCS事業に関係するNTTの社長や幹部を、しかも三人も選定してしまったということになるが、まことに不自然であって、到底信用することができない。
(3) 右三名のうち、被告人と庚町との間には、リクルートの経営者である被告人と企通の事業部長である庚町との業務上の関わり以外に、コスモス株の譲渡による多額の利益供与を説明できるような個人的な交際関係があったことは、本件全証拠によっても窺えず、庚町に対するコスモス株の譲渡が、個人的な関係からではなく、リクルートが回線リセール事業を展開するに当たって種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨でなされたものであることは明らかである。
(4) これに対し、被告人と戊田との間では、確かに、被告人が財界の会合等で戊田の人物・識見等に触れて戊田を尊敬し、少数の若手財界人が戊田を囲んでいた会合にも何回か参加して、当面の業務とは関わりのない政局や経済情勢に関する話を戊田から聞くなどの関係があったことが認められ(〈証拠略〉)、また、己畑との間でも、被告人が役員に加わっていた会員制サロンに己畑が出席したことなどを通じて交際を持ち、己畑が夫婦で岩手県内の安比高原へ遊びに出かけた際、被告人が食事等を共にするなどの交際があったことが認められる(〈証拠略〉)。
しかし、それらの関係が、その当時被告人がリクルートの事業の中でも重要視して取り組んでいた事業を通じた戊田や己畑との関係を凌駕し、被告人にリクルートの事業との関わりを忘れさせるほどに重大なものでなかったことは、事柄の軽重に照らすと、明らかであり、コスモス株の譲渡と回線リセール事業やRCS事業との関わりを完全に否定しようとする弁護人の主張や被告人の供述には無理がある。
結局、戊田及び己畑に対するコスモス株の譲渡については、被告人が右両名を譲渡の相手方に選定する際、両名との間で右のようなリクルートやNTTの直接の業務を離れた関係のあったことが一つの要因となっていたこと自体は、不合理とはいい難く、十分にあり得ることではあるものの、そのことは、リクルートが回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨、すなわち職務に関する賄賂の趣旨と併存するものであって、同趣旨があったことを否定する事情にはならない。
四 コスモス株の譲渡の賄賂性に関する戊田らの認識
1 戊田の認識
(一) コスモス株の値上がり確実性及び入手困難性に関する認識
戊田は、本章第一の一1(一)の経緯で被告人からコスモス株一万株を譲り受けるに際して、それまでに自身が未公開の株式を譲り受けた際の経験等から、近い時期に予定されていたコスモス株の公開後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれており、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては極めて困難であることを認識していた。
(第一章第二の三3(二)記載の状況、〈証拠略〉)
(二) 職務との関連性についての認識
戊田は、被告人からコスモス株一万株を譲り受ける際、その譲渡には、リクルートが回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、NTTの代表取締役としての戊田から種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨があること、すなわち、職務に関する賄賂であることを認識していた。
(〈証拠略〉)
(三) 右(二)の認定の補足
(1) 戊田は、公判段階において、右(二)の職務との関連性につき、被告人が自分にコスモス株を譲渡しようとする意図に関して不自然さは一つも感じず、個人的な付き合いの深い間で株の取得を持ちかけてくるということは昔からの商慣習なので、被告人がどういう気持で自分に声を掛けてきたかは考えなかった旨供述して、その認識を否認している(甲書3六五八)。
(2) しかし、戊田は、被告人との関係について、捜査段階において、「甲野はこの席〔若手財界人による戊田を囲む懇談会〕でも相変わらず無口で目立たない男であり、この会合で顔を会わせる機会を持ったとは言え、特別に親しさを増す様なことはありませんでした。〔中略〕端的に言うと、私と甲野はリクルートが企通の大口ユーザーであったという仕事上の関係以外にとり立てたものは全くないと言って良いのです。〔中略〕甲野から仕事以外のことで相談を持ちかけられる様な仲でもありませんでした。」(甲書3四三九)と供述し、公判段階においても、被告人との交際関係は、調書に書いてある以外のことは何もなく、個人的な付き合いはゼロである旨供述している(甲書3六五八)のであり、公判段階における右(1)の供述のうち、個人的な付き合いの深い間で株の取得を持ちかけてくるということは昔からの商慣習なので、被告人がどういう気持で自分に声を掛けてきたかは考えなかった旨の供述は、被告人との関係についての戊田自身の捜査及び公判段階における供述と矛盾するものであるから、信用することができない。
(3) これに対し、戊田は、捜査段階においては、N1から、被告人の使者が戊田にコスモス株一万株の引受けを依頼するとともに、代金は融資するという申出をしている旨の報告を受けた際の心境について、「私はこの報告を受けて、これはまともな話ではないと判りました。株式公開にあたって、株主として長く付き合ってくれと言うのであれば、ファイナンス付きで引受けてくれなどという話を持って来る筈がないからです。これは株式が公開されると株価はハネますから、そこで売ってもらい、要するに利益だけ残して買い戻すやり口であり、はっきり言えば現金同様のものをくれたと同じであり、まともなものではないと判りました。また、私宛に株の引受けを求めておきながら、名義はN1にするというのですから、甲野も通常の株取引としてこの話を持ち込んで来たものではないことがはっきりしており、その底意が知れておりました。甲野にしてみればリクルートが二種業者として新たな通信事業に乗り出し、NTTの高速デジタル回線を借りて回線リセール業を大々的に行っており、また、NTT経由でクレイのスパコンを導入してRCS事業を企画しており、今後ともNTTのお世話になるところから、社長たる私にお礼したいという気持ちで、まともな株取引の話の様に装って、ひと儲けさせ様という底意であることが判りました。私は、これは用心しないといかんぞ、表の金には出来ないぞと思い、N1に、『危ないぞ、裏金だぞ。』と指示したのです。」(甲書3四三七)、「甲野が私に何んでこんな儲け話を持ち込んで来たのかと言えば、既にお話している通り甲野の底意は知れておりました。リクルートはNTTの高速デジタル回線の提供を受けて回線リセール業に乗り出し、全国規模で大々的に展開していた訳ですが、NTTの協力なしには通信の素人であるリクルートがこの様な展開は出来なかったことは確かなことであり、クレイのスパコンもNTTの調達、建設、メンテナンスなどの協力なしに、この様な最高級品を使用してのRCS事業の展開も困難であったことから、これまで御世話になったお礼と今後ともNTTの協力をお願いしたいという気持ちで、持ち込んで来たものであろうと推察されたのです。」(甲書3四四一)と述べて、右(二)の認定に沿う供述をしているのであり、右供述は、①詳細かつ生々しく心境が表現されていること、②リクルートの回線リセール事業及びRCS事業へのNTTの代表取締役社長としての戊田の関わり(本章第四の二3(一))に照らすと、自然かつ合理的な内容であること、③戊田が自己の認識に反する供述調書に署名せざるを得なくなるような取調べがあったことを窺わせる証拠はなく、むしろ、戊田自身、公判段階において、捜査段階における検事の取調態度に抗議すべき点はない旨供述していること(甲書3六五八)からして、信用性が高い。
加えて、戊田は、公判段階においても、「リクルートコスモスの株がINS事業やコンピュータ事業に対する謝礼であると、こういう点についても調書の内容は正しくないわけですね。」と問われたのに対して、「謝礼であるというふうに受け取られてもいたしかたのない点はもちろんございますけれども、謝礼を受ける筋合いの話の筋ではなかったということだけははっきり申し上げておきます。」と供述して(甲書3六五八)、留保付きながらも、コスモス株の譲渡に、リクルートが回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、NTTの代表取締役としての戊田から種々の支援と協力を受けたことに感謝する趣旨があると認識すべき状況にあったことを認めている。
(4) したがって、戊田がコスモス株の譲渡の趣旨について、右(二)の認識を有していたことは明らかである。
2 己畑の認識
(一) コスモス株の値上がり確実性及び入手困難性に関する認識
己畑は、本章第一の一2(一)の経緯で被告人からコスモス株一万株を譲り受けるに際して、近い時期に予定されていたコスモス株の公開後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれており、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては極めて困難であることを認識していた。
(第一章第二の三3(二)記載の状況、〈証拠略〉)
(二) 職務との関連性についての認識
己畑は、被告人からコスモス株一万株を譲り受ける際、その譲渡には、リクルートが回線リセール事業を展開し、RCS事業にクレイ社製スパコンを導入するに当たって、NTTの東京総支社長やデ本事業本部長としての己畑から種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨があること、すなわち、職務に関する賄賂であることを認識していた。
(〈証拠略〉)
(三) 右(二)の認定の補足
(1) 己畑は、公判段階において、右(二)の職務との関連性につき、①東京総支社長時代のリクルートの回線リセール事業に関連する仕事に関し、リクルートとの窓口は企通であって、自分が窓口となって被告人から依頼を受けたことはなく、具体的な認識を有していなかったし、デ本事業本部長時代のリクルートのスパコンの導入に関する仕事については、六一年一〇月にスパコンの値下げを巡る報告を受けるまで、その導入をデ本が担当していることすら知らなかったのであって、自分の仕事に関連して被告人からの感謝の気持ちを感じることはなかった旨供述し、②コスモス株は、六〇年一二月に被告人の勧めでリクルートの株式一万株を取得した際と同様に、被告人が自分が友人であることに加えて、NTTの取締役という社会的地位にあることを評価し、リクルートコスモスのステータスを上げるために株主になってほしいという意味で取得を勧めてくれたと思っており、仕事の絡みで勧めてくれたと思ったことはない旨供述して、その認識を否認している(〈証拠略〉)。
(2) しかし、まず、右(1)①の供述は、リクルートが回線リセール事業を展開するに際して、己畑が右事業の拠点である東京都内における回線の敷設や機器の保守等を担当するNTT東京総支社の総支社長として種々の行為をし、RCS事業のためのスパコンの導入に関しても、己畑が六一年六月にデ本の事業本部長に着任した際、N12副事業本部長から説明を受け、リクルートがNTTを通じて導入することとなったスパコンの設置等をデ本で担当していて、N11を中心に技術的な検討をするなどの作業を進めていることや、リクルートの要望に応じて横浜西局舎に設置する予定であることを了知した上、システム設計や模様替工事等を進めさせたこと(本章第四の二4(一))に反するものである。加えて、己畑は、東京総支社長当時に、被告人らリクルートの幹部から、リクルートの回線リセール事業に関係する同総支社の幹部と一緒に料亭における接待を受け、デ本事業本部長当時には、RCS事業に関係するリクルートの幹部から、X―MP216の設置に関与しているデ本の幹部と一緒に料亭における接待を受けたのであり(本章第三の一5(二)、二4(二))、これらの接待が、NTTの東京総支社やデ本における業務がリクルートの右各事業遂行上の希望にできるだけ沿った形で順調に進むように期待してなされたものであることは、その費用の負担や参加者の立場からして明らかであるところ、己畑自身も、公判段階において、そのような接待が、仕事が円滑に運ぶことを期待してなされるものであることを認める供述をしているのであるから(〈証拠略〉)、己畑が、被告人らリクルートの幹部からの回線リセール事業の展開やスパコンの導入に関連する部署の長としての己畑に対する謝意と期待(本章第四の二4(三))を認識していたことは明らかであり、右(1)①の供述は信用することができない。
(3) また、右(1)②の供述は、右(2)で指摘した点に照らすと、既に信用性に乏しい上、リクルートコスモスのステータスを上げるために株主になるということであれば、株式の店頭登録後に売り抜けたりせずに、株式の保有を続けるということになるはずであるが、己畑がリクルートの株式一万株を取得した際の代金額は四〇〇万円であったのに対し、コスモス株一万株の売買代金は三〇〇〇万円と多額であり、己畑は、その全額について年利七パーセントで融資を受けていて、年間に二一〇万円もの利息を負担することになるところ、そもそも、己畑がそのように多額の金利を負担してリクルートコスモスのステータス向上に協力するということ自体が不合理なことである上、己畑は、実際には、本章第一の一2(二)のとおり、コスモス株が店頭登録された翌日に六〇〇〇株、その翌月に四〇〇〇株を売却して、二〇〇〇万円を超える売却益を得ているのであるから、右供述は信用することができない。
(4) これに対し、己畑は、捜査段階においては、六一年八月にリクルートの幹部らから受けた料亭における接待について、「リクルート社側が接待してくれたのは、折から進行中のXMP―216の件について、設計や建設などについて宜しく御願いしますよという趣旨であろうと感じました」(甲書3四四四)と述べ、被告人の己畑に対する意識について、「リクルート社の代表者である甲野さんとしても、東京総支社ないしはその長である私に対して、リクルート社の事業遂行上世話になっているという意識を持っているのではないかと感じておりました。」(甲書3四四五)と述べるほか、R4からコスモス株の譲渡の関係書類を預かって自宅で考えた際の心境について、「私は『もし甲野さんがリクルートコスモス社の株式を上場でもして儲けさそうとするのだとすると、これは単にステータスということだけではなく、私が東京総支社長の地位にあったことや現にデータ通信事業本部の本部長であることと関係があるかもしれないぞ。』といったことを考えたのです。〔中略〕私としては私の地位と関連があるかもしれないと思った時、『もしそうであっても、甲野さんという人は、従前から交際のある人であり、私が株主になることがステータスになるとの考えを持っていて、そのことに相当の比重を置いて私に株式譲り受けを勧めているはずだから、譲り受けてしまおうか。現金を貰うわけではなく、あくまでも株式の譲り受けなのだから。』との考えから、株式の譲り受け方を決意したのです。」「甲野さんが私に株式を譲渡してくれる趣旨について〔中略〕、私は〔中略〕私自身の東京総支社長やデータ通信事業本部長としての、リクルート社の業務に関連を有するNTT側の業務の処理にあたっての私の対応振りを『評価』してくれていると感じたものです。〔中略〕株式譲渡の話が出た当時に、甲野さんが、データ通信事業本部とリクルート社がグッドリレーションの関係にあるという観点から私を評価した上、今後ともリクルート社を宜しくという気持をも持っているのではないかと私が認識するところがあった」(甲書3四四五)と述べて、右(二)の認定に沿う供述をしているところ、右供述は、①詳細かつ生々しく心境が表現されていること、②リクルートの回線リセール事業及びRCS事業へのNTTの東京総支社長やデ本事業本部長としての己畑の関わり(本章第四の二4(一))に照らすと、自然かつ合理的な内容であること、③己畑が自己の認識に反する供述調書に署名せざるを得なくなるような取調べがあったことを窺わせる証拠はないこと、④己畑は、公判段階においても、検察官から、己畑を被告人とする公判においては、コスモス株の譲渡がNTTとリクルートとの間における仕事絡みではないかと考えたことは間違いないが、ステータスということで打ち消した旨供述したという指摘をされて、そうした供述をした記録があるのであれば、その供述は正しい旨述べて(〈証拠略〉)、コスモス株の譲渡の申出が自己の職務に関してなされたものであると考えたことを認めていることからしても、信用性が高い。
(5) したがって、己畑が、コスモス株の譲渡の趣旨について、右(二)の認識を有していたことは明らかである。
3 庚町の認識
(一) コスモス株の値上がり確実性及び入手困難性に関する認識
庚町は、本章第一の一3(一)の経緯で被告人からコスモス株五〇〇〇株を譲り受けるに際して、近い時期に予定されていたコスモス株の公開後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれており、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては極めて困難であることを認識していた。(第一章第二の三3(二)記載の状況、〈証拠略〉)
(二) 職務との関連性についての認識
庚町は、被告人からコスモス株五〇〇〇株を譲り受ける際、その譲渡には、リクルートが回線リセール事業を展開するに当たって、NTTの企通事業部長としての庚町から種々の支援と協力を受けたことに感謝し、今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨があること、すなわち、職務に関する賄賂であることを認識していた。
(〈証拠略〉)
(三) 右(二)の認定の補足
(1) 庚町は、公判段階において、右(二)の職務との関連性につき、コスモス株は、企通の重要な顧客であるリクルートの代表者である被告人とのビジネス上の信頼関係を維持するために、六〇年一二月に被告人の勧めを受けて取得したリクルートの株式一万株についてと同様に、安定株主となる意図で購入したものであり、種々好意ある取り計らいを受けたことの謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたい趣旨であることの認識はなかった旨供述して、その認識を否認している(甲書3五七九〜五八一)。
(2) 右の点については、確かに、関係証拠によれば、庚町は、六〇年一二月に被告人の勧めを受けてリクルートの株式一万株を取得して保有しており、コスモス株五〇〇〇株についても、戊田や己畑と異なり、店頭登録後も保有し続け、本章第一の一3(二)のとおり、一連のコスモス株の譲渡が社会問題化した後である元年一月になって、譲り受けた際の価額を下回る価額で売却したことが認められる。
しかし、庚町が、大口の顧客の代表者である被告人との信頼関係を維持するために、安定株主となる意図で株式を取得した旨供述する点については、リクルートの株式に関しては、リクルートが企通の大口の取引先であったことに照らすと、一応の合理性が認められるものの、コスモス株に関しては、リクルートコスモスは、企通が担当する顧客であったわけではないし、庚町がリクルートの株式一万株を取得した際の代金額は四〇〇万円であったのに対し、コスモス株五〇〇〇株の売買代金は一五〇〇万円と多額であり、庚町は、その全額について年利七パーセントで融資を受けていて、年間に一〇五万円もの利息を負担することになるところ、庚町が被告人とのビジネス上の信頼関係維持のために、右のように多額の金利を負担してリクルートコスモスの安定株主になるということは合理性に乏しいことである。しかも、被告人が庚町にコスモス株を譲渡する際に、安定株主となるように要請したなどということは全くない上(〈証拠略〉)、庚町自身も、実際には、店頭登録後のコスモス株の株価の推移を、新聞の株価欄を読むなどして、関心を持って見守っており、六三年四月には一株五一〇〇円の指し値で一〇〇〇株を売却しようとしたこともあったのであり(〈証拠略〉)、それらの事実に照らせば、庚町が元年一月に売却するまでコスモス株を保有し続けていた理由は、安定株主になるという理由によるものではなく、単に株価の更なる値上がりを期待して売却する時機を窺っているうちに、思惑に反してその機会を逸したことによるものであった可能性が高いし、仮に、庚町がコスモス株五〇〇〇株を譲り受ける際に、リクルートとの業務上の関係を考慮して、しばらく保有し続ける意図を有していたのだとしても、その意図と右コスモス株が庚町の職務に関して譲渡されたことの認識とは併存し得るものであるから、右意図は、右(二)の認識を妨げる事情ということはできない。
(3) これに対し、庚町は、捜査段階においては、コスモス株の譲渡を持ちかけられた際の心境について、「甲野社長がリクルートコスモス株の譲渡先として私を選んでくれたのは、甲野社長は私を知っていた上に、企業通信システム事業部とリクルート社との間に仕事上の関係があり、私が事業部長として、その仕事に関与していたからだと私は思いました。つまり、一般的な言葉で言うと、甲野社長は、これまで仕事上でお世話になりました、これからも宜しくという気持ちから私をリクルートコスモス株の譲渡先として選んでくれたと私は思ったのです。過去の仕事として甲野社長が企業通信システム事業部、あるいは私に感謝していたのは、社内電話網の構築と回線リセールのネットワーク構築等だと私は思いました。〔中略〕回線リセールのネットワーク構築については、私共はコンサルティング契約を結んで、ノウハウを提供しましたし、機器等の保守についてのルールづくりをして保守受託をするなどしたのです。回線リセールのネットワーク構築にあたって、私共の右〔の〕ような支援がなければ、リクルート社の全国展開は困難だった筈です。甲野社長は、回線リセールがらみでは右のような点に感謝しているものと私は思っていました。更に昭和六一年九月当時、リクルート社の回線リセールのネットワーク構築は既に走り出しておりましたが、まだネットワーク構築が完成したわけでなく、これから具体化していく上でいろいろ問題が出てくる可能性がありますので、その折には解決方を宜しくお願いしたいという考えが甲野社長にはあるだろうと私は思いました。」(〈証拠略〉)と述べて、右(二)の認定に沿う供述をしているところ、右供述は、①リクルートの回線リセール事業への企通事業部長としての庚町の関わり(本章第四の二5(一))に照らすと、自然かつ合理的な内容であること、②庚町が自己の認識に反する供述調書に署名せざるを得なくなるような取調べがあったことを窺わせる証拠はないことからして、信用性が高い。
(4) したがって、庚町がコスモス株の譲渡の趣旨について、右(二)の認識を有していたことは明らかである。
第五章  判示第五の事実(辛村七郎に対する贈賄事実)について
第一 前提となる事実関係
一 リクルートの進学・就職情報誌事業の実態
1 進学・就職情報誌事業及び教育機関広報部の新設
リクルートは、新規学卒者向け就職情報誌事業のほかに、高校の卒業予定者向けにも、民間企業等から掲載料を得て、就職情報誌(「高校就職ブック」。五七年度から「ベストウェイ」)を発行し、高校卒業予定者に無料で配布する事業を行ってきたが、四五年九月、進学を希望する高校生向けに、私立の大学及び短期大学、専修学校(専修学校については五一年以降)、各種学校並びにその他の教育施設(その他の教育施設とは、学校教育法による専修学校又は各種学校の設置の認可を受けずに教育を行う施設であり、以下「無認可校」という。また、専修学校と各種学校を併せて「認可校」ということがあり、専修学校、各種学校及び無認可校を総称する際は「専修学校等」という。)から掲載料(広告料)を得て、生徒募集広告等を掲載する進学情報誌「リクルート進学ブック」(以下「RSB」ともいう。また、進学情報誌と就職情報誌を総称する際は「進学・就職情報誌」という。)を発行し、進学を希望する高校生に無料で配布する事業を開始し、四五年一二月、右事業の担当部署として、教育機関広報部(以下「KKK」ともいう。同部の扱う事業を「教育機関広報事業」、「KKK事業」ともいう。)を新設し、進学情報誌事業に本格的に乗り出した。
リクルートは、また、五〇年に改正された学校教育法が五一年一月に施行されたことにより、専修学校が法的に制度化され、各種学校からの移行等により専修学校が設置され始めたことを受けて、同年から、専修学校等を広告主とし、専修学校等へ進学を希望する者だけを対象とする進学情報誌の発行を開始した。その後、一八歳人口の増加や高校卒業者の進学希望率の高まりを背景として、受け皿としての専修学校等が増加し、質的に充実した学校も増えて社会的評価が高まり、専修学校等への進学者数が飛躍的に増加してきたこともあって、広告主となる専修学校等の数が増加し、生徒募集の広告予算も増大したことから、リクルートは、専修学校等に対する営業に力を入れ、教育機関広報事業内において専修学校等を広告主とする進学情報誌事業の比重が大きくなっていった。
(〈証拠略〉)
2 進学・就職情報誌の配布方法
リクルートでは、従来、進学・就職情報誌の配布方法として、進路指導担当教諭らの協力を得つつ高校教諭を通じるなどして学校で生徒に配本するいわゆる「学配方式」(以下「学配」ともいう。)を採っていたところ、生徒に対する配布に当たり高校教諭の手が煩わされること、その厚さや重さから生徒が自宅に持ち帰らないことがあって、その処置に困るという教諭らの苦情や、生徒に対する到達率が悪いことから広告効果が上がらないという広告主側からの不満等が寄せられたりするなど、進学情報誌の確実で時機を得た配本やその有効利用という観点から非効率的な面があった。
そこで、リクルートでは、五四年ころから、配本方法の見直しを検討し、進学情報誌を高校生に効率よく配布し、その利用度を高め、広告効果を上げる方法として、各高校の進路指導担当教諭らの協力を得て、高校二年生を対象に、氏名、住所、希望進路(大学、短期大学、専修・各種学校、就職等の別)、進学希望の分野や地域等を記入させる進路希望アンケートを実施し、回収した回答紙(「高校生リスト」又は「リスト」と称していた。)に基づき、当該生徒の希望に沿って、進学を希望する生徒には進学情報誌を、就職を希望する生徒には就職情報誌を自宅に直接配達する「宅配方式」(以下「宅配」ともいう。)による配布を一部開始した。宅配方式は、高校生及び父兄側から見ると、進路希望に応じた情報誌が発行後速やかに自宅に送付されるので、持ち帰りの負担が軽減されるだけなく、その認識度及び利用度も高まり、広告主である専修学校等側から見ても、専修学校等への進学希望者に確実に到達することにより広告効果が高まるという大きな利点があり、また、リクルートにとっても、余分な情報誌を発送しないで済むので、コストが抑えられ、高校教諭の配本の負担を軽減させることにもなり、さらに、宅配方式を採用していない競業他社との差別化を図るという意味でも、うまみのある方法であった。
(〈証拠略〉)
3 進学情報誌事業の伸張
(一) 認定事実
リクルートでは、当初、リクルート進学ブックの発行は広告事業部が担当し、その配本は事業部事業課が担当していたが、四五年一二月に教育機関広報部が新設されて(右1)その発行を担当し、五六年一一月には事業部内に高校課を設置してその配本を担当することになった。
教育機関広報事業部門の売上高では、専修学校等の占める割合が高かったが、五七年には、同事業部門経営会議において、高校生の専修学校への進学率の伸びが鈍ってきているなどとして、「KKK高成長サイクル」という理論、すなわち資本投下により配本を強化すれば、これが競業他社との差別化をもたらすほか、専修学校の生徒募集市場の拡大、専修学校の入学者増(第二次専修学校ブーム)を呼んで、KKK市場の強化、拡大等につながり、ひいては売上げを増大させるという理論に基づき、業容の拡大、高成長へ向けた事業拡大の基本方針を打ち出し、これが社内誌のRMBに掲載された。そして、配本部門の役割の重要性が増大したことから、同年一一月、高校生向け進学情報誌の配本を担当する部署として、事業部高校課を格上げして進路情報部を新設し、大量のリストを収集して、宅配を全国的に展開した。
リクルートは、宅配方式の採用と拡大を大きなセールスポイントとして、五八年春に広告掲載料金を四七パーセント値上げするなど、同料金を毎年値上げしつつ、私立大学及び短期大学並びに専修学校等(以下「大学、専修学校等」という。)に対し積極的な営業を展開した。その結果、大学、専修学校等からの広告受注高は順調な伸びを見せ、教育機関広報事業部門の売上げ(その中心は専修学校等への進学情報誌事業によるもの)は、五五年度が約六九億円(前年比約33.5パーセント増)、五六年度が約八三億円、五七年度が約九五億円(うち六一億円余りがリクルート進学ブックの売上げであった。なお、宅配は約八五万部で、約34.9パーセントであり、学配は約65.1パーセントであった。)、五八年度が約一二一億円(うち七七億円余りがリクルート進学ブックの売上げであった。また、宅配は約一五二万部で、約58.7パーセントであり、学配は約41.3パーセントであった。)、五九年度が約一三二億円(うち八六億円余りがリクルート進学ブックの売上げであった。また、宅配は約一六七万部で、約64.5パーセントであり、学配は約35.5パーセントであった。)と年々増大した。
そして、六〇年度には、高校卒業予定者約一六七万人の約七三パーセントに当たる約一二二万人分のリストを収集して約一八六万部を宅配し(宅配は約63.6パーセント、学配は約36.4パーセントであった。)、同年度の教育機関広報事業部門の売上高は約一四八億円(リクルート全体の売上高約一三〇七億円の約11.3パーセント)に達したところ、このうち、リクルート進学ブックの売上高が約一〇〇億六〇〇〇万円(教育機関広報事業部門の売上げの約六八パーセント、リクルート全体の売上げの約7.7パーセント)を占め、進学情報誌事業は、リクルートにとって重要な事業の一つたる地位を占めていた。また、高校生向け進学情報誌業界におけるシェアも、他社の追随を許さない圧倒的なものとなって、業界第二位の株式会社中央企画センターを大きく引き離し、全国的規模で展開する独占に近い事業になっていった。
その後も、教育機関広報部門の売上高は、営業報告書やアニュアルレポート等により報告されているとおり、六一年度が約一五〇億円(うち約一一一億円がリクルート進学ブックの売上げであった。また、宅配は約一七八万部で、約59.4パーセントであり、学配は約39.6パーセントであった。)、六二年度が約一六二億円(宅配は約一五〇万部で、約58.6パーセントであり、学配は約41.5パーセントであった。)、六三年度が約一八六億円と年々伸び続けた。
(〈証拠略〉)
(二) 右(一)の認定に反する弁護人の主張に関する検討
弁護人は、教育機関広報事業部門の売上げの増加は、宅配のみが原因ではなく、むしろ、専修学校の飛躍的な成長や、リクルートの営業力の強さを原因とする部分が大きく、他社との差別化も、業界最古参で市場占有率が高いという信頼性や、掲載校が多く内容が充実していることなどの媒体力によるものであったとして、売上げの増加の原因としてリスト収集及び宅配の重要性を強調すべきではない旨主張する。
確かに、リクルートの営業力が競業他社と比して強いことが、進学情報誌業界において高い市場占有率を獲得する要因となっていたことや、掲載校が多いことなどにより、進学情報誌としての利用価値が競合誌よりも高いと高校教諭らから評価されていたという事情は認められ、そうした事情が売上げの増加の一因となっていたことは否定し難い。しかし、右(一)のとおり、例えば、六一年にあっては、RSBの約一七八万部、約59.4パーセントを宅配により配本していたのであって、宅配方式が配本方法の重要な柱であったということができる上、同年九月二九日の教育機関広報事業本部会において、宅配の比率を五〇パーセント以上にするという決議がなされ、同年一〇月四日の進路情報部のリスト収集戦略会議においても、当時教育機関広報事業部門担当取締役であったR34(以下「R34」という。)から「来期、効果の高い配本を行うためには、リストの精度を高めていかなければならない。」などという方針が示されるとともに、リスト委員長から「リストはRSB配本の根幹→進学希望者のみ集める。」などという説明もなされていたのであって(〈証拠略〉)、教育機関広報部や進路情報部が宅配及び高校生リスト収集に力を入れ、宅配を売上げの増加の重要な手段としてみていたことは明らかである。
4 高校生向け就職情報誌事業の状況
高校生向け就職情報誌の発行は、新規学卒者向け就職情報誌を発行する広告事業部が担当しており、その売上高は、五五年度から五九年度まで若干の増減はあるものの一〇億円台で推移し、五八年度約一〇億一六六四万円、五九年度約一〇億七九三〇万円、六〇年度約一三億四〇〇〇万円、六一年度約一〇億二五〇〇万円であった。
配本は、リクルート進学ブックと同様に、当初は事業部事業課が、五六年一一月からは事業部高校課が、五七年一一月の進路情報部の創設後は同部が担当しており、配本方法も、リクルート進学ブックと同様、高校生リストを使用した宅配方式による配布が進められ、リクルートでは、宅配率を高めることが売上高を上昇させる方策の一つと捉えていた。
(〈証拠略〉)
二 辛村の職務権限等
1 辛村の略歴
辛村は、二九年四月に文部省に入省した後、四九年六月一八日に管理局振興課長、五一年五月一〇日に大臣官房総務課付、同年六月一日に大臣官房総務課長、五二年六月一〇日に初等中等教育局(以下「初中局」という。)審議官、五四年六月一六日に管理局審議官、五五年六月六日に社会教育局長、五六年七月一日に体育局長、五七年七月九日に官房長をそれぞれ命じられ、五八年七月五日には初中局長に就任し(在任期間同日から六一年六月一六日まで)、六一年六月一七日には事務次官に就任し(在任期間同日から六三年六月一〇日まで)、六三年六月一〇日に文部省を退官した。
(〈証拠略〉)
2 文部省の権限
文部省は、国家行政組織法三条二項、文部省設置法三条一項により設置され、辛村が文部事務次官に在任していた当時、文部省には、大臣官房並びに初中局、教育助成局、高等教育局、学術国際局、社会教育局及び体育局の六局が設置されており(国家行政組織法七条一項、六三年六月一七日改正前の文部省組織令一条)、同省は、文部省設置法五条に基づき、初中局の後記所掌事務のほか、専修学校教育の振興及び基準の設定に関すること(文部省設置法五条六三号、六四号、六三年六月一七日改正前の文部省組織令四六条三号、四号)、同省が所管する大学審議会(文部省組織令四一条六号)をはじめ、各種の審議会等に関することなどの事務を所掌していた。
初中局は、初等教育(小学校及び幼稚園における教育。文部省設置法二条二号)及び中等教育(中学校及び高校における教育。同条三号)に関し、学校管理、教育課程、学習指導法、生徒指導その他初等中等教育のあらゆる面について、教育職員その他の関係者に対し、専門的、技術的な指導と助言を与えること(文部省組織令八条三号)、初等中等教育における進路指導に関し、援助と助言を与えること(同条七号)、教育課程審議会に関すること(同令一四条一項五号、二九条六号、七〇条)などの事務を所掌していた。そして、国立大学付属高校については、国立大学学長に対し直接右の指導、援助等を行い、また、公立及び私立の高校については、教育行政の運営等に関する指導、助言又は援助、教育に関する事務の管理、執行の是正、改善のための措置の要求及び必要な調査をし、資料等提出の要求をするなどの権限(文部省設置法六条一〇号、一一号、二四号、地方自治法二四五条四項、地方教育行政の組織及び運営に関する法律四八条一項、五二条一項、五三条一項、五四条二項。なお、文部省組織令一四条一項一号)に基づき、都道府県及び市町村の教育委員会や都道府県知事に対する指導、助言又は援助を通じて、あるいは「進路指導の手引」等の指導書等を作成頒布し、全国の進路指導担当教諭らを対象とした「進路指導講座(中央講座)」と称する研修会(以下「中央講座」という。)や、都道府県教育委員会の進路指導担当指導主事を対象とする研究協議会等を主催し、都道府県の教育委員会との共同で各都道府県の高校等の進路指導主事や学級担任の教員を対象とした「進路指導講座(都道府県講座)」と称する研修会を主催し、高校教諭による自主的な会が開催する大会等に講師や助言者等を派遣する(同令八条三号)など各種の方法で、高校の進路指導担当教諭らに対し、進路指導の在り方に関する文部省の指針等を周知徹底させ、必要に応じて、随時、都道府県教育委員会等に対し、通知、通達等を発出して、実態調査の実施等を要請したり、不適正な点の是正を求めるなどの指導、援助等を行っていた。進路指導に関する指導、助言等の中には、高校の進路指導教育における進学・就職情報誌等の情報資料の収集、取扱い等に関する指導、援助等も含まれており、高校現場における進路情報資料の内容及びその取扱いの実情、企業の営利活動に対する進路指導担当教諭らの協力の実情等について、電話照会、聞き取り調査、レポート提出等の方法により実態調査を行い、情報資料の取扱いの在り方や企業の営利活動に対する協力の是非等につき文部省の指針を策定して、高校教諭、教育委員会関係者等を参加者とする会議、研修会等の場における指導助言、進路指導の手引書の作成頒布等各種の方法により周知させ、あるいは必要に応じて都道府県教育委員会等に対し通知、通達を発出するなどして指導、援助を行う権限を有していた。これら進路指導に関する事務は、初中局職業教育課が分掌していた。(右権限に関する文部省組織令の条文は、五九年政令第二二七号〔文部省組織令。同年七月一日施行〕による改正後のものを記載したが、その改正前の該当条文〔五条ないし一三条〕も右引用の各条文とほぼ同趣旨である。)
専修学校教育については、文部省組織令の右改正前は管理局が所掌していたが、改正による組織再編後は高等教育局私学部私学行政課が、専修学校教育の振興に関し、企画し、援助と助言を与えること、専修学校教育の基準の設定に関することなどの事務をつかさどっていた(文部省組織令四六条三号、四号、五九年六月二八日改正前の三九条)。
(〈証拠略〉)
3 辛村の職務権限
辛村は、初中局長在任中は、初中局の右2の所掌事務につき、原議書の決裁等の方法により、部下職員を指揮するなどして、これら事務を統括する権限を有し、事務次官在任中は、機関の長たる文部大臣を助け、省務を整理し、各部局及び機関の事務を監督する権限を有し(国家行政組織法一七条の二第二項)、文部省各部局の所掌事務全体を統括掌理していた。
第二 リクルートの進学・就職情報誌事業と文部省との関係等
一 進学・就職情報誌事業における高校教諭らの協力の重要性等
1 高校教諭らの協力を得ることの重要性
リクルートの進学情報誌事業においては、進学情報誌を配布する面では、広告効果を上げ、競業他社との差別化を図るという命題の下で、宅配率を高めるためにリストを大量に収集することが営業上重要視されており、これを達成するには高校教諭の協力を得ることが不可欠であった上、なお学配の場合に教諭らが配本に協力することも必要であった。また、進学情報誌の利用を促す面では、生徒の利用率を高めて広告に対する反応を増加させるために、高校教諭らに対して、学校の進路指導の場等で副読本的な扱いをするように依頼するなど、生徒に対する進学情報誌を利用する指導を働きかけていた。就職情報誌事業についても、リストを利用して就職情報誌を生徒に宅配するなどの関係上、同様に高校教諭の協力が必要であって、いずれにせよ、各高校の進路指導担当教諭をはじめとする高校教諭のリクルートの事業に対する理解と継続的な協力を得ることが不可欠であった。
2 高校教諭等に対する働きかけ(「高校リレーション」、「全高進リレーション」)
右1の理由から、リクルートは、各高校の進路指導担当教諭らとの間で親密な関係を築いて、事業遂行に必要な支援や協力を求めるとともに、有益な情報を入手することに努め、「高校リレーション」と称して、進路情報部所属の社員が各高校を頻繁に訪問し、進路指導担当教諭らにリクルート発行の進路指導担当教諭向け情報誌「キャリアガイダンス」、「大学・短大学費一覧」、「専各総覧」等の資料や各種調査結果、文房具類の物品を無料で提供したり、生徒、教諭、父兄を対象とした進路指導等に関する講演を引き受けるなどの活動を行う一方、リストの収集や進学情報誌の利用促進等について協力を依頼するなどしていた。
また、全国の高校の進路指導担当教諭らで組織する任意団体である全国高等学校進路指導協議会(以下「全高進」という。)、その傘下のブロック組織である関東地区高等学校進路指導協議会(以下「関高進」という。)、高校の進路指導担当教諭(主事)らで組織される各都道府県の高等学校教育研究会進路指導部会(以下「主事会」という。)等は、各種研究会、研修会等の開催を通じて問題提起やその改善要求をするなどの組織力を有し、現場の進路指導担当教諭に対する影響力を持っていた。このため、リクルートでは、「全高進リレーション」と称して、その有力幹部であるQ1全高進事務局長(以下「Q1事務局長」という。)、Q2関高進常任理事(以下「Q2」という。)らに対し、「ベチョベチョ作戦」と称する飲食接待や、中元、歳暮等の贈答を行い、全高進、関高進等が催す大会や会議等において、賛助金の拠出、会議場等の無償提供、案内状の発送、大会や会議後の懇親会の設営等を行うなどして全高進の幹部らとの間で親密な関係を作り上げ、他方で、全高進、その地方組織、主事会が開催する各種レベルの協議大会、総会、理事会等の会合に進路情報部所属の社員がオブザーバー等として出席させてもらうことなどにより、進路指導担当教諭らと接触を深めるとともに、その討議事項や決定内容等、教育現場における各種動向等のリクルートの進学・就職情報誌事業上有用な情報を収集・把握するなどしていた。
(〈証拠略〉)
二 リクルートの進学・就職情報誌事業に対する各方面からの指摘、批判等
1 高校教諭らの批判
(一) 高校教諭らの批判の発生
リクルートの進学情報誌事業に対しては、宅配開始以前から、一部の高校教諭らにより、リクルートの進学情報誌に華美な広告や、虚偽又は誇大な広告が掲載されていることの問題性(以下「誇大広告掲載問題」という。)が指摘されていたほか、生徒が教諭の考えに反して、その実体が広告にすぎない進学情報誌の「情報」で進路を決定してしまい、教諭の適切な進路指導教育の妨げになることなどの問題点が指摘され、リクルートの学配の協力依頼に応じない高校も一部に存在していた。
さらに、リクルートが宅配を開始した五四年ころからは、高校教諭が、リクルートが効率的な配本を実施するために利用する高校生リストの収集に協力することの問題性(以下「高校生リスト収集問題」という。)、リクルートの進学情報誌が高校生の自宅に直接宅配されることにより、進学情報誌の内容を高校教諭が把握できず、生徒に対する適切な進路指導教育が阻害されることの問題性(以下「宅配問題」という。)、リクルート等の進学情報誌に無認可校が認可校と誤解されるような広告が掲載されていることの問題性(以下「無認可校掲載問題」という。)等が指摘されるようになった。
なお、これらの問題点の指摘は、主として進学情報誌に向けられていたが、リクルートでは、高校生リストを進学情報誌のみならず、就職情報誌の効率的配本のためにも利用していたし、適切な進路指導教育が阻害されるという宅配の問題性は、就職希望者への進路指導の場合であっても同様に生じ得るから、高校生リスト収集問題及び宅配問題は、リクルートの高校生向け就職情報誌事業に対しても影響を与える問題であった。
五六年三月ころ、京都府主事会において、リクルートのリスト収集活動に対する協力の見直しがなされ、五八年二月の埼玉県高等学校進路指導研究協議大会においては、狭山ヶ丘高校のQ3教諭(以下「Q3教諭」という。)がリクルートを名指しして、その進学情報誌を巡る問題点を厳しく指摘するなどの活動が見られた。
五八年七月、全高進が毎年夏に開催する全国高等学校進路指導研究協議大会(以下「全高進大会」という。)の五八年大会が開催されたところ、専修学校進学問題をテーマとする第三分科会において、高校生リスト収集問題、誇大広告掲載問題、無認可校掲載問題等を取り上げて、リクルートの進学情報誌を批判する意見が述べられた上、助言者として出席していたリクルートの進路情報部長のR35(以下「R35」という。)に詰め寄るような形で、リクルートの進学情報誌事業の営業方法、すなわち掲載料が高額であること、高校教諭から提供を受けた生徒のリストを基に進学情報誌を宅配し、その宅配率の高さを営業の手段にしていることのほか、業者であるリクルートが全高進大会に助言者として出席していることについても批判的な意見が出された。
(〈証拠略〉)
(二) 千葉県主事会の動き
全高進及び関高進傘下の団体である千葉県主事会は、五九年三月ころ、その前年及び前々年に県内の高校を卒業して専修学校等に進学した者を対象に、進学先を決定する際に参考とした資料及び進学後の学習状況等の実態について、アンケートを実施した。その結果、専修学校等に進学した者の約七割が、進学情報誌等の広告により進学先を知って入学したこと、無認可校へ入学した者の約七割が、入学した学校が専修学校又は各種学校であると誤解していることなどの実態が判明し、高校における専修学校等への進路指導教育上の問題点が明らかになった。そこで、千葉県主事会は、後記(三)の同年七月の全高進大会において、右アンケートの調査結果を報告するとともに、同年一一月ころ、調査結果をとりまとめて公表した。
六〇年五月の千葉県主事会の理事会において、千葉県立京葉高校のQ4教諭(以下「Q4教諭」という。)が右アンケートの結果を踏まえ、進学情報誌の取扱いについて「『カタログ集』はすべて学校経由で生徒に配布する。」「在校生・卒業生名簿は、利潤追求を目的とするいかなる組織にも提供しない。」などと主張して、リスト収集には一切応じない旨の申合せをすべきであると提案し、これを受けて、同年六月一二日の定例総会において、「専修・各種学校進学者用ガイドブック等は、各高校が内容を十分検討の上配布することとし、また生徒に直送される場合も、事前に各高校が内容を十分検討できるよう発行者に要請する。」「学校が依頼を受ける生徒を対象とした進路に関する諸調査で、生徒の氏名・住所等を書かせるものについては、各高校が内容を十分検討の上、必要と認めるもの以外原則としてこれに応じないものとする。」などという条項が盛り込まれた「専修・各種学校進学指導についての申し合わせ」が採択された。
この千葉県主事会の申合せは、マスコミ等で報道された上、千葉県主事会では、その動きを拡大し、趣旨の徹底を図るため、千葉県教育委員会、千葉県学事課及び千葉県専修学校各種学校協会並びに全国の専修学校及び各種学校が組織する全国専修学校各種学校総連合会(以下「全専各総連」という。)にその内容等について通知するなどしたほか、関高進の常任理事会等で申合せの内容等を紹介し、他の都道府県主事会でも同様の申合せをするように呼びかけた。その結果、千葉県内では、リスト収集を拒否した高校が四八校(前年はリスト収集に応じていた高校二八校を含む。)に及ぶなど、例年との比較及び他地域との比較においても数の多いものとなった。
(〈証拠略〉)
(三) 全高進大会における動き
五九年七月の全高進五九年大会の第三分科会において、千葉県主事会のQ4教諭が「千葉県での専修学校・各種学校等の入学者に対するアンケート調査実施について」と題する資料に基づき、千葉県主事会が実施した右(二)のアンケートの結果について説明した。
その後、六〇年七月三〇、三一日に開催された全高進大会の第三分科会においては、日体桜華女子高校のQ5教諭(以下「Q5教諭」という。)が進学情報誌は「多額の掲載料を出した学校の広告が掲載されているカタログ集にすぎず、進学情報として利用できるものがほとんどない」、「大手媒体業者を中心に情報誌を生徒個人に直接宅送することがおこなわれているが、それを可能にしている生徒名簿の業者への提供はやめるべきである。」などという記載のある「専門学校進学指導の現状と課題」と題する資料に基づいて研究報告を行い、また、同大会に参加したQ4教諭が、第三分科会及び全体会において、右(二)の千葉県主事会の申合せを紹介し、全高進においても同様の申合せをするように提案した。
また、六一年八月に開催された全高進大会においても、第三分科会で研究発表を行ったQ6教諭が専門学校に関する正確な情報がなく、誇大広告等の問題のある進学情報誌に苦慮しているという指摘をした。
(〈証拠略〉)
2 マスコミの批判等
リクルートの進学情報誌事業に対しては、五六年ころからマスコミ等により批判されるようになったが、その主なものは、以下のとおりである。
(一) 業界紙
(1) 「専門学校新聞」は、五六年ころから、継続的に、進学情報誌に関する問題点を取り上げ、記事として掲載した。
すなわち、無認可校掲載問題や高校生リスト収集問題等の進学情報誌に関する問題点について、その問題の存在を指摘し、その改善を期待して対策を検討するなど独自の提言をする記事を掲載したほか、各全高進大会や各種研究会等における討議の場で、出席した高校教諭らがリクルートを名指しして批判する討議状況の報告記事、千葉県主事会におけるアンケート調査結果や申合せの内容等に関する記事をはじめ、各県主事会の取組み等に関する記事、進学情報誌を巡る問題点について関心を有する高校教諭らによる座談会等の記事等を掲載したが、それらは総じて、各問題点を指摘し検討するに際し、進学情報誌業者に対し批判的な立場の論調により、問題点の改善を希望するものであって、その中には、リクルートの進学情報誌事業を名指しで批判する記事も含まれていた。
(〈証拠略〉)
(2) 「日本教育新聞」は、五九年九月、専修学校の広告について基本的な広告倫理綱領を作成する必要があるとする全国工業専門学校協会のQ7事務局長の論説記事や、専門学校や業者の責任を問うQ3教諭の論説記事を掲載し、六〇年三月一八日付け紙面に、専修学校の誇大広告に関し衆議院予算委員会で議論されたこと(後記3(二))に関する記事を、同年六月二四日付け紙面に、千葉県主事会の申合せに関する記事をそれぞれ掲載するなどして、専修学校を取り巻く問題点について報道した。
(〈証拠略〉)
(3) 「専修学校教育新聞」は、五八年九月一日付け紙面に、ガイドブック等の問題点を指摘するQ5教諭の「専門学校に関する情報収集とその活用」と題する投稿を掲載した。
(〈証拠略〉)
(二) 一般紙
(1) 読売新聞は、六〇年二月二六日から三月七日まで、「見直される専修学校」という表題で、専修学校制度を取り巻く問題点を取り上げる記事を連載し、その中で、千葉県主事会のアンケート調査結果を取り上げ、「専修学校のカタログ集は、マユにつばをつけて見なければならないことは、Q4教諭を含めた心ある教師のこの数年の取り組みを待つまでもなく、自明の事実である。」「これまで文部省は、専修学校については自由競争に任せてきた。その結果が“問題校”の存在、よく言えば百花繚乱(りょうらん)、悪く言えば悪貨と良貨のせめぎ合いになって現れている。」とする記事を掲載したほか、同月三一日に、千葉県主事会のアンケート調査結果を紹介して、進路指導教諭に一層の研究を期待したいという社説を掲載し、同年六月三〇日付け紙面には、千葉県主事会の申合せの内容と解説記事を掲載した。
(〈証拠略〉)
(2) 朝日新聞は、五六年一二月一日付け紙面に、無認可校である武蔵野ビジネス学院が過大な広告費の負担から倒産した旨の記事を掲載し、六〇年八月から九月にかけて、数県の地方版で千葉県主事会の申合せを記事として掲載した。その後、六二年四月には、無認可校で派手な広告を掲載していた青山レコーディングスクールが生徒から入学金等を集めながら入学式直後に閉鎖されたことを報じて、誇大広告掲載問題や無認可校掲載問題に触れる記事を掲載した。
(〈証拠略〉)
(三) 単行本
(1) 五七年九月玄同社発行の本多二朗(朝日新聞)、矢倉久泰(毎日新聞)、永井順国(読売新聞)、平松茂(時事通信)共著「『選ぶ』までのチェックポイント 徹底取材専修学校」は、高校における専修学校等への進路指導の実態や進学情報誌が宅配されている実態を批判的に紹介した。
なお、弁護人は、同単行本は、リクルートの進学情報誌を批判する少数のグループに属する者らの主張を記載したものにすぎない旨主張するが、右のとおり著者が大手の全国紙や通信社の記者らであることに加えて、全高進のQ1事務局長が推薦のことばを寄せていることに照らすと、弁護人の右主張は当を得ないものであることが明らかである。
(〈証拠略〉)
(2) 五九年一月二五日エール出版社発行の土谷厚著「ダメな専門学校採点」は、リクルートが進学情報誌を高校生の自宅に宅配するため、高校側から生徒名簿登録カードを入手しているが、「なぜ一民間企業であるリクルートの“営業活動”に高校教師が手を貸さなければならないのか、疑問である。」などとリクルートの進学情報誌事業を名指しで批判して、誇大広告に関するリクルートの責任にも言及した。
(〈証拠略〉)
(3) 六〇年七月二〇日オーエス出版株式会社発行の西島芳男著「専門学校・良い校悪い校普通の校」は、リクルート進学ブックには誇大広告、無認可校が掲載されていること、高校側から入手した高校生リストによって宅配を行っており、その影響力を背景に広告掲載料金が高額になっていることなどの問題点を批判し、高校教師の進路指導団体が会議のためにリクルートの施設を利用するなど不明朗な関係がある状況を指摘した上、進学情報誌に対する高校教諭らの批判や千葉県主事会の申合せについても紹介した。
(〈証拠略〉)
(四) 週刊誌
(1) 五八年三月三一日号の「週刊文春」は、「警告!落ちこぼれ受験生を待ち受ける『専門学校』の甘い罠」という見出しで、リクルート進学ブックについて誇大広告掲載問題があることや、宅配のための高校生リストの収集、宅配問題、宅配を理由とする高い広告掲載料等の問題点を指摘して、リクルートの進学情報誌事業を批判する記事を掲載した。
(〈証拠略〉)
(2) 六〇年一〇月二九日号の「週刊ポスト」は、千葉県主事会の申合せを紹介して、リクルート式の名簿取得商法がいつまで可能か予断を許さない状況になりつつあるという記事を掲載した。
(〈証拠略〉)
3 国会における質疑
国会においても、専修学校等の問題点を踏まえて、進学情報誌を巡る問題点にも話題が及び、以下の質疑応答がなされた。
(一) 五九年四月六日の参議院文教委員会及び同月二〇日の衆議院文教委員会
五九年四月六日の参議院文教委員会において、F1議員から、専修学校の募集広告と実際との間に大きな違いがあることを指摘する質疑が行われ、また、同月二〇日の衆議院文教委員会において、F2議員から、実態がずさんな専修学校が存在しているが、文部省は実態をどのように把握し、どのような措置を執っているかという質疑が行われ、これらの質疑は、直接的には専修学校の実態について批判するものであるが、なお進学情報誌の誇大広告掲載問題とも関係するものであったところ、政府委員のD7文部省管理局長が、文部省は主管課長会議等の場において専修学校の監督官庁である各都道府県を指導することを通じて各専修学校を指導すると同時に、専修学校の団体等に対してもいろいろと注文をつけている旨の答弁や、東京都内の専門学校と高校教諭らによる進路指導に関する相互連絡、研究協議の場である専門学校進学指導研究会及び後記本章第二の三3(一)の専門学校進学情報委員会に言及して、最近専修学校側と全国の高校進路指導協議会との間で協議も始まっている旨の答弁をした。
(〈証拠略〉)
(二) 六〇年三月七日の衆議院予算委員会
六〇年三月七日の衆議院予算委員会第三分科会において、F3議員から、専修学校制度につき質疑が行われた際、後記4の行政管理庁からの専修学校の運営に関する指摘を受けた文部省の対応について質疑応答が行われ、政府委員のD8文部省高等教育局私学部長(以下「D8私学部長」という。)が、各都道府県知事に通知するなどして内容の徹底、指導に努めているという答弁をした。また、F3議員は、千葉県主事会のアンケート調査結果を引用した上で高校教諭が適切な進路指導を行うことが困難である状況を指摘して、信頼できる第三者機関を設置して正確な進学情報を提供する必要があるのではないかなどと提案し、専修学校の入学案内や進学情報誌には無認可校を認可校と誤解させるような広告や、施設設備、指導教育陣、就職先の成果等の点で誇大な広告が掲載されているとして、誇大広告掲載問題及び無認可校掲載問題につき指摘するなどの質疑をした。これに対し、D8私学部長は、第三者機関の設置については難色を示し、専門学校進学指導研究会の存在や、後記本章第二の三3(一)の専門学校進学情報委員会を設置する動きを紹介した上、進学情報誌の誇大広告掲載問題等については承知している旨答弁し、専修学校の教育条件の整備、質的向上、生徒募集の適正化の観点から、六〇年度の予算案に八〇〇万円程度の調査研究費を計上しており、行政サイド、各県の担当者、高校の進路指導担当者を集めて調査研究をし、専修学校の質的向上と進路指導のための情報提供等について検討していただくことになっている旨答弁した。
(〈証拠略〉)
(三) 六〇年四月二日の参議院文教委員会及び同月一七日の衆議院文教委員会
六〇年四月二日の参議院文教委員会において、F1議員から、専修学校等の条件整備と誇大広告掲載問題につき文部省としていかに指導しているのかという質疑が行われ、また、同月一七日の衆議院文教委員会において、F2議員から、右2(二)(1)の読売新聞の連載記事に触れ、専修学校設置基準や誇大広告が見られることにも触れた上で専修学校の質的問題に関する文部省の認識等につき質疑が行われ、D8私学部長が、専修学校等の質的充実の問題や誇大広告掲載問題について、主管課長会議等の場で都道府県に積極的な指導を加えてきていること、六〇年度の予算で専修学校に関する調査研究費として約八〇〇万円を計上していることを答弁した。
(〈証拠略〉)
(四) 辛村の出席状況
辛村は、右(一)ないし(三)の各委員会のすべてに初中局長の立場で政府委員として出席し、その場で繰り広げられる質疑応答を聞いていた。
特に、F3議員による右(二)の質疑は、辛村自身が答弁に立つ可能性もあったため、国会質疑に先立ち、文部大臣官房総務課国会班が同議員から入手した質疑項目について職業教育課が起案した答弁案を手渡されており、また、D9(以下「D9」という。)職業教育課長から事前に説明を受けていた。
(〈証拠略〉)
4 行政管理庁の監察
行政管理庁行政監察局は、五二年、専修学校等の設置、運営状況等に関する地方監察を実施し、その結果に基づいて、五三年四月一九日付け行政監察局長名義の「専修学校及び各種学校の設置、運営に関する地方監察の結果(参考通知)」と題する書面により、文部大臣官房長宛に、「問題点並びに要改善事項等の概要」という表題の中で、「専修学校の入学案内又は募集広告の中には、〔中略〕入学者に対し誤解を与えるおそれのあるものがみられた。」「関係府県は、入学案内等の適切化について専修学校を指導する必要がある。」などと誇大広告について指摘した通知をし、また、五五年度の定期調査を行った結果に基づき、五六年三月、行政管理庁行政監察局作成名義の「昭和五五年度新規行政施策の定期調査結果(I)」と題する書面により、文部省に対し、今後の検討課題の一つとして、「専修学校の中には、基準を遵守しておらず、必ずしも制度の趣旨が生かされていない実態もみられるので、入学者が不利益を被ることにならないよう専修学校の運営の実態はあくに努めるとともに、必要に応じて適切な指導を行うこと。」と専修学校の実態について指摘した通知をした。
その後、中国四国管区行政監察局も、五九年に広島県を対象に専修学校の運営に関する地方監察(調査)を実施し、同年一一月一三日付け同管区行政監察局長名義の書面により、同県知事宛に、専修学校の入学案内、募集要項について改善を要する点を通知し、文部省に対しこれを参考通知した。
(〈証拠略〉)
5 総務庁の行政監察
総務庁行政監察局は、各行政機関の業務の実施状況を監察し、必要な勧告を行うことを任務とし、文部省に対しては、所管事項に関する今日的な問題点について、概ね年に一回、行政監察を行って勧告を実施していた。六〇年度に文部省に対して行う監察のテーマについては、テーマの選定当時、専修学校の運営の問題や生徒募集広告の誇大広告の問題がマスコミで報道され、地方の監察事務所からも指摘されていたこと、右4のとおり、五六年当時に行政管理庁が文部省に通知した「専修学校の中には、基準を遵守しておらず、必ずしも制度の趣旨が生かされていない実態もみられる」という事項について、その後十分な改善がなされておらず、改善効果を知るには専修学校の運営実態を把握することが必要であったこと、また、専修学校制度が発足して一〇年の区切りの年になることなどの理由から、六〇年三月ころまでに、「専修学校の管理運営に関する行政監察」とすることを決定した。
そこで、六〇年一〇月から一一月にかけて事前調査を、同年一一月から一二月にかけて計画策定をそれぞれ行い、同年中に、文部省高等教育局私学部に対しその内容を連絡した上で必要な資料を取り寄せ、六一年一月から三月にかけて、北海道、宮城、埼玉、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡の九都道府県の合計一三一校の専修学校を対象に実地調査(右各都道府県に対する専修学校の教育条件等に関する地方監察を兼ねる。)を行った。その結果、専修学校の生徒募集広告には虚偽広告や誇大広告等適切を欠くものが多くあることが判明し、至急改善措置を講ずる必要があるものと判断され、その旨の勧告を行うことが決定された。
総務庁行政監察局は、六一年一〇月三一日、文部省に対し、「①入学案内・募集広告に学科ごとの授業内容、取得可能な資格、卒業生の進路等の情報が的確に記載されるよう指針を作成すること。②都道府県に対し、 同指針に則り、広告の自主規制の強化を含め専修学校における入学案内・募集広告の内容の適正化を図ること〔中略〕につき指導すること。」などの改善措置を講ずる必要があるとする「専修学校の管理運営等に関する行政監察結果報告書(案)」と題する勧告案の原案を提示して意見を求めた。
その後、文部省高等教育局私学部私学行政課を窓口として三回の事実確認(正式な勧告前に、勧告案を相手方省庁に提示して意見を求める手続)を行ったところ、文部省側が総務庁側の見解を受け入れなかったが、総務庁は、その見解を変更せず、六二年一月一二日付けで総務庁長官名で文部大臣に対し、「専修学校の管理運営等に関する行政監察結果に基づく勧告」と題する書面により、文部省が指導指針を作成すべきである旨の勧告を行った。
(〈証拠略〉)
6 その他
五八年九月ころ、日本広告審査機構(JARO)は、リクルートに対し、RSBの無認可校掲載問題及び誇大広告掲載問題について指摘し、特に専修学校の認可、無認可の表示を明確にするように求めた。
(〈証拠略〉)
7 批判の動向に関する弁護人の主張について
弁護人は、進学情報誌に対する批判に関し、①無認可校掲載問題については、認可校と無認可校との差異は制度上も実態上も大きなものではなく、無認可校の競合校である専修学校や各種学校側の一種の宣伝行為として問題にしていたにすぎず、リクルートの対応は、同業他社や新聞社と比較して特に非難されるべきものではなかったなどとし、②誇大広告掲載問題については、問題の本質は広告主である専修学校等の姿勢に起因しており、最終的な批判の対象は専修学校等であったとし、③高校生リスト収集問題については、高校側が提出していたのは名簿や一覧表ではなくアンケートの回答紙であり、これをもとにリクルートがリストを作成していたにすぎず、リクルートでは、生徒のプライバシー保護に関する対策を執っており、また、特定企業に対する便宜供与という批判は、一部の高校教師や高校生リストを使用しない媒体業者が問題にしていたにすぎず、軽微な問題であったなどとし、④宅配問題については、リクルートの進学情報誌は、添付の葉書を利用して専修学校等から学校案内等を取り寄せるために利用されるものであり、進学情報誌が直接自宅に届けられるか学校を通じて配布されるかにより高校における進路指導の方法に大きな変化が生じるものではなかったし、批判の主体も、専門学校新聞や一部の高校教師のみであったなどとして、これらの問題によりリクルートの配本業務が困難になるような客観的状況はなかった旨主張し、加えて、国会質疑や行政監察が直接的に批判の対象としていたのは専修学校の誇大広告であり、進学情報誌ではなかったとして、これらの問題点をリクルートに対する批判と評価するのは、専修学校の誇大広告問題が社会問題化していたことを、リクルートの進学情報誌について右四つの問題が社会問題化していたかのようにすり替えるものであるなどと主張する。
この点、確かに、誇大広告掲載問題については、その批判は主として専修学校等の実態に向けられたもので、進学情報誌に対する批判は副次的なものであり、無認可校掲載問題についても、無認可校の虚偽・誇大広告や経営実態への批判が中心であって、必ずしも進学情報誌をねらい撃ちにしたものではなかったといえるが、非難に値する実態を持つ専修学校等の虚偽・誇大広告や無認可校の広告を掲載した進学情報誌を発行していたのは、リクルート等の業者であり、そのような広告情報の氾濫が、適切な進路指導を阻害し、進学希望者の判断を誤らせるなどとして、進学情報誌事業に対する批判が生じていたことは、事実である。また、リクルート以外にも、無認可校を掲載した進学情報誌を発行する企業があったほか、新聞広告にも無認可校が掲載されており、その中には、リクルートの進学情報誌以上に無認可校と認可校との区別がなされていないものがあったことは、弁護人が主張するとおりであるが、最も大規模に事業を展開していたリクルートを名指しした進学情報誌批判が高まっていたことも事実である。
次に、高校生リスト収集問題や宅配問題に関して他の問題(特に誇大広告掲載問題)ほどには社会的な批判が広がっていなかったにしても、右に認定した範囲でリクルートの進学情報誌事業に対して高校生リスト収集問題や宅配問題を指摘する批判があったことは事実であり、リクルートの側でもこれを憂慮、警戒して対応しようとする状況があったのである(後記本章第二の四)から、誇大広告掲載問題や無認可校掲載問題はもとよりのこと、高校生リスト収集問題や宅配問題も、リクルートの進学情報誌事業の遂行に影響を与え得る問題であったことは明らかである。
なお、高校側から見た場合に、リクルートの進学情報誌が多数の専修学校等の情報を集約し、かつ、無償で提供されるという意味で、高校生の進路選択や高校における進学指導の上で有用な側面を有していたことは事実と認められるが、そのことは、進学情報誌に対する批判が存在していたことや、その状況をリクルートが憂慮し、警戒していたことと矛盾するものではない。
三 進学情報誌を巡る問題点に対する文部省の動向
1 進路指導教育に係る文部行政とリクルートの進学・就職情報誌事業との関係
リクルートの進学情報誌事業は、もとより文部省の許認可を要する事業ではなかった。
しかし、リクルートの進学情報誌を巡る問題点のうち、無認可校掲載問題や誇大広告掲載問題は、高校における進路指導に利用される情報資料の内容の正確性や必要性の問題であるとともに、進路指導において高校教諭が進学情報誌に依存し、情報資料として安易に利用してよいのか、いかなる利用方法が適切なのかという情報資料の取扱いの在り方に関する問題でもあり、高校生リスト収集問題は、特定の私企業に対する便宜提供となり、業者との癒着により高校教諭の進路指導教育における中立性を損なうばかりでなく、高校生のプライバシーの侵害にならないかという問題であり、また、宅配問題は、高校教諭による適切な進路指導教育の実施に関する問題であるといえるから、いずれも文部省による実態調査や是正指導等の対象となる事項に当たることが明らかである。
したがって、文部省が進路指導教育に関する指導、助言又は援助の一環として、その権限に基づき、高校教諭が進学情報誌を進路指導における情報資料として利用することは教育上好ましくないとして、あるいは高校教諭が業者に高校生リストを提出し、配本を受け入れるなどの協力をするのは、特定私企業の営利行為に加担するもので教育上不適切であるとして、自粛を求めるなどの指導を行うことが可能であったし、進路指導担当教諭をはじめとする高校教諭らにその趣旨が徹底されれば、リクルートは高校生リスト収集や進学・就職情報誌の配本等に関し、高校教諭から協力を得ることが困難になり、進学・就職情報誌事業の円滑な遂行に深刻な打撃を受けることが考えられた。
なお、文部省は、五一年に、中学校の進路指導に関し業者テストに対する依存や業者との癒着の実態等が問題視された際、都道府県教育委員会等宛に、実態調査を依頼し、初中局長通達や事務次官通知を発出することにより是正を指導するなどして、学校に関係する業者の事業活動に対し間接的に影響力を及ぼしたことがあり、五八年一二月にも、あらためて、都道府県教育委員会等宛に、業者テストに依存しないで適正な進路指導をするように求める事務次官通知を発出した。
(〈証拠略〉)
2 進学情報誌を巡る問題点に関する文部省の認識
文部省は、五三年四月一九日付け行政監察局長名義の参考通知書面により、誇大広告について指摘した通知を受け(本章第二の二4)、同年六月二七日付け管理局長名義で都道府県知事等宛に、「専修学校及び各種学校の設置、運営等について(通知)」と題する書面により、専修学校の募集広告等が入学者に誤解を与えることのないように適切な指導を行うことを求める通知を発出して、指導の徹底を促し、また、五六年三月に行政管理庁行政監察局作成名義の書面により、専修学校の実態について指摘した通知を受け(本章第二の二4)、管理局長名義で都道府県知事宛に通知を発出し、会議で言及するなどしてその内容の徹底を図った。そのほか、本章第二の二4のとおり、五九年一一月一三日付けで中国四国管区行政監察局長から広島県知事宛に、専修学校の入学案内等広報関係資料の内容の適切化を指導する必要がある旨の通知がなされ、文部省にもそれが参考通知されていたこと、本章第二の二3のとおり、同年ころ以降、専修学校等の生徒募集広告を巡る問題点が数度にわたり国会で取り上げられ、高等教育局長や初中局長等が政府委員としてこれに出席した上答弁していたこと、さらには、文部省管理局企画調整課(五九年七月以降は同省高等教育局私学部私学行政課)の専修学校企画官が監修した財団法人専修学校教育振興会発行の「全国専修学校総覧」には、五七年以降進学情報誌に無認可校掲載問題や誇大広告掲載問題があるという指摘がなされていたことなどの各事情から、リクルートを含めた業者が発行する進学情報誌にこれらの問題点が存在していることを把握していた。
加えて、文部省の職員らも、専修学校企画官が専修学校教育の振興に関する重要事項についての企画及び立案の事務を担当する立場から、専修学校の広告の在り方の問題の一環として進学情報誌を巡る問題にも注意を払っていたほか、毎年開催される全高進大会には、文部省から職業教育課の課長、課長補佐、係長、進路指導担当教科調査官や、専修学校企画官らが全体会及び分科会の助言者として出席しており、五八年夏の全高進大会以降、リクルートの進学情報誌事業を巡る問題点を指摘する高校教諭の発言を直接見聞きし、また、事務次官室や局長室では、一般紙は朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞、東京新聞の六紙、業界紙誌は日本教育新聞、文教ニュース、内外教育等が閲覧に供されていた上、初中局の連絡課である高等学校教育課から、毎日、文教関係の新聞記事の切り抜きが届けられて閲覧に供されていたことなどに照らすと、マスコミの批判等についても十分に認識し得る状況にあったのであり、D9課長(五九年九月に職業教育課長に就任する以前は専修学校企画官)や初中局職業教育課所属の進路指導担当の教科調査官であるD10(以下「D10」という。)も、リクルート等の発行する進学情報誌に無認可校掲載問題、誇大広告掲載問題、宅配問題、高校生リスト問題等があることを指摘した業界紙誌あるいはマスコミの記事や単行本等の文献を読むなどして、リクルートの進学情報誌を巡るこれらの問題点がマスコミに取り上げられ、高校教諭らによって厳しく批判されている現状を認識していた。
(〈証拠略〉)
3 進学情報誌を巡る問題点への文部省の対応
(一) 専門学校進学情報委員会の設立及び運営についての関与
文部省は、右2のとおり、進学情報誌を巡る問題点に対するマスコミや高校教諭等による問題の指摘や批判の存在を把握していたが、これらの問題の指摘や批判等を受け、全国的な実態調査を行うなどの直接的な対応措置を執ることはなかった。
文部省は、全専各総連の事務局長で、これと表裏一体をなす文部省認可の財団法人専修学校教育振興会(以下「専修学校教育振興会」という。)の事務局長でもあったQ8から、全高進側より「信頼できる専修学校等の情報誌を作ろう」という話が来ていることを聞き及び、当時管理局企画調整課の専修学校企画官であったD9に、その調整役として検討のための組織作りに関与させ、五九年四月に専修学校教育振興会内に専門学校進学情報委員会が設置された。同委員会には、専修学校教育振興会及び全高進双方から各五名の委員が選出され、文部省側からは、D9企画官及びD10調査官が助言指導者として派遣された。
しかし、同委員会では、専門課程のある専修学校の授業時間や学費等の情報を一校につき一枚にまとめた「専門学校概要」の統一様式等の検討がなされたにとどまり、当初の目的であった公的に信頼できる進学情報誌を発刊するには至らなかった上、情報の正確性を確保するためにリクルート等の媒体業者に対し規制措置を執るなどの意見が出されることもなかった。文部省においても、専門学校進学情報委員会の設立及びその後の動向に呼応して、進学情報誌の問題点を指摘するなどの積極的な措置を講じることはなかった。
なお、文部省は、本章第二の二3(一)、(二)のとおり、国会審議において、全専各総連や全高進の右動向を取り上げて答弁をした。
(〈証拠略〉)
(二) 専修学校教育の改善に関する調査研究協力者会議
文部省は、五九年四月六日の参議院文教委員会におけるF1議員の質疑及び同月二〇日の衆議院文教委員会におけるF2議員の質疑(本章第二の二3(一))がそれぞれ行われた後、六〇年度の予算要求において、専修学校の生徒募集方法の改善や、高校の専修学校への進学指導の充実等、専修学校等を巡る問題点の検討を行うために「専修学校教育の改善に関する調査研究協力者会議」(以下「専修学校改善協力者会議」という。)を設置する予算を要求し、八〇〇万円の予算額が認められた。
その後、新年度開始から遅れること約一〇か月後、六一年一月二三日付け「専修学校教育の改善に関する調査研究の実施について」と題する高等教育局長裁定に基づき、同局に専修学校改善協力者会議を設置した。同会議の調査研究事項は、①社会的要請に応え得る専修学校の教育内容・方法等の在り方について、②適正な生徒募集の在り方について、③中学校及び高校における進路指導の充実についてなどと定められた。同会議の主管は、高等教育局私学部私学行政課であったが、調査研究事項に初中局所管の中学校及び高校における進路指導の在り方も含まれていたことなどから、D10調査官も準備段階で委員選任等に関与した。選任された委員一五名には、現場の高校教諭も、Q5教諭ら数名が含まれていたが、座長には、D10調査官の推薦で、リクルートから度々接待を受け、親リクルート派と目されていた○○大学教授のQ9(以下「Q9」という。)が就任した。文部省からは、事務局として高等教育局私学部長、私学行政課長、専修学校企画官ら私学行政課の職員が出席し、D10調査官もオブザーバーとして列席し、その都度、会議の内容を職業教育課に報告した。
専修学校改善協力者会議は、六二年六月までの間、九回の協議を重ねた。
六一年三月一七日の第二回会議では、リクルート進学ブック等が資料として回覧されるとともに、「広告情報誌の例」としてリクルート発行の進学情報誌が挙げられ、同誌や他の広告情報誌及び有料案内書の一部が無認可校も掲載していることが記載された私学行政課作成の資料も配付されたほか、委員のQ5教諭が自ら作成した「専門学校に関する情報の現状と問題点」と題する資料を配付し、リクルートを名指しして、無認可校の記載が抽象的で、誇大広告があり、広告掲載料が高いなどと批判するとともに、高校生リスト収集問題及び宅配問題についても検討すべきであるという意見を述べた。
第四回ないし第六回会議では、Q10委員が、全専各総連傘下の南関東ブロック専修学校等広告倫理綱領委員会において、専修・各種学校の広告表示に関し自主規約(「専修・各種学校の表示に関する自主規約」)を策定中であると説明し、会議における議論の流れは、専修学校等広告主側の自主規制の問題を議論するにとどまり、進学情報誌の発行元である進学情報誌業者側の問題については議論が発展しなかった。
六二年一月二六日の第七回会議では、事務局から、本章第二の二5の「専修学校の管理運営等に関する行政監察結果に基づく勧告」について説明された上、広告表示の適正化を図る方策としては、専修学校が自らの問題として、一定の基準を策定し、自主規制を行っていくことが最も適切である旨の記載を含む「専修学校教育の改善について」と題する報告案骨子が配付され、説明がなされた。
六二年三月二四日の第八回会議では、事務局から、右報告案骨子とほぼ同一の中間報告案が配付され、意見交換がなされた後、Q9座長から、中間報告を全専各総連や各都道府県等に送付して意見照会をした上で報告書をまとめることとしたいという提案があり、了承された。
会議後、Q5教諭は、事務局から提示された中間報告案には、高校生リスト収集問題及び宅配問題が取り上げられていなかったので、同案がそのまま最終報告になることを危惧し、六二年六月五日付けで、「中学校・高等学校における専修学校への進路指導のあり方」の章に、「業者による生徒名簿の提出の依頼に対しては、生徒を保護する立場から、応じないようにすることが望ましい」という趣旨の文言を入れられればと思うなどと記載した「『専修学校教育の充実向上について』(中間報告)に対する意見書」と題する書面を提出した。しかし、後記第九回会議の二、三日前に、D11専修学校企画官から、電話で、意見書は受け取ったが、既に中間報告書を基にして最終報告を印刷中であり、Q5教諭の意見を報告書に盛り込むことはできず、第九回会議で意見を発表していただいて、議事録に留めることで了承してほしいなどと言われた。
六二年六月一八日の第九回会議では、事務局から最終報告案が示され、Q5教諭から、右意見書に基づいて「中・高校の教員は、業者による生徒名簿の提出依頼に対しては、応じないようにすることが望ましい。」などという意見が述べられ、意見交換が行われた後、Q9座長から、D12高等教育局私学部長に対し、右中間報告案と同一内容の「専修学校の入学案内、進学情報誌等における生徒募集等の記載内容については、一部に誇大又は不正確なものがあり、誤解を与えるおそれがあるとの指摘がなされている。そのため、広告表示の適正化を早急に図る必要があるが、その方策としては、専修学校が自らの問題として、一定の基準を策定し、自主規制を行っていくことが最も適切である。」などとする「専修学校教育の充実向上について(報告)」と題する報告書が提出され、D12高等教育局私学部長は、Q5教諭の御意見も十分踏まえた上、今後文部省として専修学校の施策の指導に当たっていきたいという挨拶をした。
結局、専修学校改善協力者会議においては、Q5教諭から高校生リスト収集問題及び宅配問題を取り上げることを強く求める意見が出たものの、他の委員からこれらの問題点に関連して目立った意見が出ず、また、文部省側からも、調査官や企画官らから特段の助言や提言もなく、高校生リスト収集問題及び宅配問題については、明示的に取り上げられていない報告書が提出されるに至ったのであり、結果として、リクルートの進学情報誌事業の遂行に支障を及ぼすような行政措置が執られることはなかった。
(〈証拠略〉)
(三) 中央講座のカリキュラムの新設及び進路指導の手引の記載
国会における本章第二の二3の質疑の後、初中局職業教育課は、進路指導教育の適正化を図る観点から、次の各行政措置を執った。
(1) 中央講座のカリキュラムの新設
文部省は、都道府県教育委員会の進路指導担当指導主事及び中学校・高校の進路指導主事らに対し、進路指導に必要な専門的知識と技術を習得させ、各都道府県及び学校における進路指導の中核になる者としての資質の向上を図り、もって中学校及び高校における進路指導の充実に資するという目的で、中央講座を毎年六月に約一週間程度開催していたところ、まず、六〇年六月の中央講座のカリキュラムの中に、専修学校への進路指導に当たり、信頼できる専修学校情報が少ないという指摘に対処し、専修学校情報を提供して専修学校に対する正確で基本的な理解を促し、その実態を教えることをも目的とする講座として、「大学・専修学校情報」と題する講座を新設した。
しかし、進学情報誌の誇大広告掲載問題等も問題点として指摘した本章第二の二3(二)のF3議員の質疑の趣旨に反し、その講師には、D10調査官の推薦により、指摘の対象ともなっている進学情報誌業者であるリクルートから、五九年三月まで教育機関広報部の企画課長を務めており、当時はリクルートの関連会社である日本リクルートセンター調査部次長であったR36(以下「R36」という。)及び進路情報部次長のR37(以下「R37」という。)が選任された。もっとも、六二年度の中央講座では、本章第二の二5の六二年一月の総務庁による行政監察勧告の影響を受け、専修学校情報については専修学校企画官が担当したり、時間を減らすなどの縮小がなされた。
(〈証拠略〉)
(2) 進路指導の手引の記載
文部省は、進路指導の手引作成のための協力者会議を設置して、進路指導の手引を編集・刊行していたところ、六〇年一〇月、「中学校・高等学校進路指導の手引 第16集 主体的な進路選択力を育てる進路指導―進学指導編―」を発行し、その中で、進路指導教育における進学情報誌の取扱上の問題点や留意点を指摘し、高校生向け進学情報誌の取扱いについて注意を喚起した。
しかし、この記載は、「進路情報の収集・整備や活用に関する問題点」として、「情報企業の提供による資料に依存しすぎている実態がある。」「自校の進路指導の基本となる独自の『進路指導の手引』を作成するなど創意・工夫が望まれる。」などと、また、高校における専修学校等への進学指導上の問題点として、「多数の媒体業者により提供される情報資料の量は多いが、高等学校側にとって進路指導上必要な情報の内容に関するものが少ない。また、それらに対して高等学校側の対応も遅れている。」などと、いずれも内容が抽象的であって、誇大広告掲載問題、無認可校掲載問題、高校生リスト収集問題及び宅配問題については直接触れるところがなく、進学情報誌の利用の自粛や生徒への配本の自粛を促すものではなかった。
(〈証拠略〉)
(四) 総務庁の行政監察への対応
文部省は、六一年一〇月三一日に総務庁行政監察局から、改善措置を講ずる必要があるとする「専修学校の管理運営等に関する行政監察結果報告書(案)」と題する勧告案の原案を提示されて意見を求められ、三回にわたり「事実確認」を受けたところ(本章第二の二5)、文部省側は、総務庁が実地調査した虚偽・誇大広告等が存在する専修学校の実状については指摘どおり認めたものの、文部省が指導指針を作成するのではなく、専修学校団体が自主規制の動きを見せているので、自主規制を側面から援助する方が良いという考えを示して、文部省が指導指針を作成すべきであるという総務庁側の見解を受け入れず、辛村が事務次官として最終決裁した同年一二月二日付け高等教育局私学部私学行政課作成名義の「専修学校の管理運営等に関する行政監察結果に基づく勧告(案)について」と題する文書により、総務庁に対し、「専修学校制度創設の趣旨にかんがみ、所轄庁に対し、文部省が専修学校運営の細部にわたる指針を定めて指導することは適切でない。貴庁におかれては、行政上必要と思われる改善事項の摘示に止められ、勧告を受け具体的な行政措置をどう講ずるかについては、当省に委ねられるのが適当であると考える。」という強硬な意見を提示した。これに対し、総務庁長官は、六二年一月一二日付けで、「専修学校の管理運営等に関する行政監察の結果に基づく勧告」と題する書面により、文部省が指導指針を作成すべきであるとする勧告を行った(本章第二の二5)。
その後、文部省においては、指摘された指導指針の作成を拒否し、六二年一月三〇日付け文部省高等教育局長及び初中局長の連名による「専修学校の管理運営等に関する行政監察の結果に基づく勧告について(通知)」と題する書面により、各都道府県知事及び各都道府県教育委員会に対し、「専修学校における入学案内及び募集広告の内容については、〔中略〕情報が正確に記載され、かつ、入学希望者に誤解を与えることのない適正なものとするよう必要な指導を行うこと。また、このことは、専修学校の自主規制により行われることが最も有効かつ適正な措置であると考えられるので、積極的に奨励援助するよう努めること。」「専修学校の実態を的確に把握するとともに、生徒の適性、進路希望等を十分考慮した適切な進路指導を行うよう指導すること。」などと通知するにとどまった。
(〈証拠略〉)
(五) その他の指導等
文部省では、このほかにも、六〇年九月の進路指導担当指導主事研究協議会において、専修学校への進路指導につき問題にするなどして指導を行った。
(〈証拠略〉)
4 小括
以上のとおり、進学情報誌を巡る問題点に対する文部省の行政措置は、高校の現場における進路情報資料の内容及びその取扱いの実情、企業の営利活動に対する進路指導担当教諭らの協力の実情等について実態調査を行ったり、情報資料の取扱いの在り方や企業の営利活動に対する協力の是非等について文部省の指針を作成するなどというものではなく、あくまでも消極的なものにとどまっていた。換言すれば、現に生じ、又は生じつつあった問題点を積極的に探求し、抜本的な解決を図ろうとする行政措置、すなわち、高校生向け進学・就職情報誌事業の遂行に支障を及ぼすような行政措置が執られることはなかった。したがって、文部省がその権限上なし得る範囲で積極的な行政措置が執られた場合と比較すると、リクルートの進学・就職情報誌事業にとっては好ましい結果となったのである。
なお、弁護人は、文部省の措置について、個別に必要性・妥当性を検討し、必要十分な適切な対応であった旨主張する。弁護人の主張は、文部行政の謙抑性を強調するものであって、その前提においても疑問が残る上、個々の事項に関する必要性及び妥当性に関する弁護人の判断はリクルートに好意的にすぎるものであって、納得し難いものがあるが、仮にそれぞれの事項について、弁護人の指摘するような消極的な対応を取ったことに合理的な面があったとしても、なお全体として観察した場合には、文部省の対応には一貫して明らかに消極的な姿勢が認められ、文部省によりその権限上なし得る範囲で積極的な行政措置が執られた場合と比較して、リクルートの進学・就職情報誌事業にとって好ましい結果となった事実が否定されるものではない。
5 右2及び3の文部省の対応についての辛村の関与
(一) 認定事実
辛村は、五〇年に改正されて五一年に施行された学校教育法により専修学校が制度化された当時、専修学校の問題等を所管する文部省管理局振興課の課長として右法改正に関与し、設置基準や規制が厳格でないことから生じ得る専修学校等の実態や陥りやすい問題点等を十分認識していた。また、辛村は、本章第一の二1のとおり、五八年七月五日以降は初中局長、六一年六月一七日以降は文部事務次官の地位にあり、高校の進路指導教育における進学情報誌等の情報資料の収集や取扱い等に関する指導、助言等の一環として、高校の現場における進路情報資料の内容及びその取扱いの実情、企業の営利活動に対する進路指導担当教諭らの協力の実情等について実態調査を行い、情報資料の取扱いの在り方や企業の営利活動に対する協力の是非等について文部省の指針を策定して周知させ、指導、助言を行う権限を有していた。
辛村は、初中局長在任中から、その立場上、リクルートの進学・就職情報誌を巡る無認可校掲載問題、誇大広告掲載問題、高校生リスト収集問題及び宅配問題について認識していた。
しかし、辛村は、これらの進学・就職情報誌を巡る各問題点に関し、右権限に基づき、高校現場における進路情報資料の内容及びその取扱いの実情、企業の営利活動に対する進路指導担当教諭の協力の実情等について実態調査を行い、あるいは情報資料の取扱いの在り方や企業の営利活動に対する協力の是非等について文部省の指針を作成するなどの積極的な措置を講ずることはなく、文部省によって、リクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に支障を及ぼすような行政措置が執られることはなかった。
(二) 右(一)の認定に関する弁護人の主張及び辛村の供述
(1) 弁護人の主張
弁護人は、辛村は進学情報誌を巡る問題状況について認識していなかった旨主張する。
(2) 辛村の捜査段階における供述
辛村は、元年二月二一日に参考人として検察官に供述した際には、「私としては、R8、R12、R37、R34のいずれに対してもそれぞれの担当している仕事の内容を尋ねたり、彼等からその説明を受けたりしたことはないと思っております。要するに彼等がどんな仕事をしていたのか全く知らなかったのです。〔中略〕私がリクルートの事業について知っているのはこの程度のことで、リクルートが高校生の大学、短大、専門学校への進学に関する事業をしていることなど全く知りませんでした。高校生の進学とリクルートの事業には全く関係がないと思っていたのです。」(甲書4一〇三八)として、リクルートの進学情報誌事業を知らなかったという供述をしていたが、同年四月一日、同月八日、同月一一日、同月一三日及び同月一六日の検察官の取調べにおいては、次のとおり供述している。
① 「私は、折に触れて、R8、R34、R37らからリクルートの事業内容を聞いており、リクルートが大学生や高校生のための就職情報誌、更には会社案内を発行したり、専修学校の生徒募集等のPRのパンフレットをまとめたようなものを高校に配ったり、住宅情報誌を発行したり、農場、牧場、スキー場、ホテル、ゴルフ場を経営したりしているということは知っておりました。この内、高校生、大学生の就職に関する事業及び高校生の進学に関する事業は、その大学や高校、専修学校が直接的ないしは間接的に文部省の管轄下にあることから、それらのリクルートの事業は、文部省と間接的な関係のある事業でした。文部省の所管で言うと、大学、専修学校は高等教育局、高校は初中局の管轄でした。」(元年四月八日付け検面調書・甲書4三二七)
「R37からは、R37が高校生の進学情報誌を高校や高校生に届ける仕事をしていて、高校を回っていることや大学生への会社案内の種類や部数を聞いたように思います。〔中略〕リクルートは、これまでの話の中に出てきた、リクルートブック、高校生向きの進学情報誌の発行、住宅情報誌の発行〔中略〕をしていることも承知しておりましたが、それらは、大体、R8、R37から聞いたことです。」(元年四月一一日付け検面調書・甲書4三三〇)
② 「私は、これまで何回かリクルートの主催する講習会やパーティーなどに参加したことがあります。最初は、私が総務課付だった時ですから、昭和五一年だと思いますが、リクルートの主催する専門学校の経営者らを対象とする講習会に招ばれて、講師として講演をしました。〔中略〕次が、同じく昭和五五年に行われた教育機関広報の一〇周年記念パーティ〔後記本章第二の五2(二)の教育機関広報事業一〇周年謝恩の集い〕だったと思います。〔中略〕その時の私の挨拶の内容については、〔中略〕今となっては、どんな挨拶をしたのかは具体的に記憶がはっきりしません。多分『専修学校制度ができて、高校生の専修学校への進学も段々増えてきた。その中でリクルートの高校生に専修学校を紹介する諸事業が役立っている。これからも頑張ってもらいたい。』という様な挨拶をしたのではないかと思います。リクルートが、高校生の進学殊に専修学校への進学に関する仕事、例えば専修学校のPRをするパンフレット集の様なものを発行して、高校や生徒に配布しているというような具体的なことを知ったのは、多分、この時が最初だったのではないかと思います。この、挨拶をした時は、私は、社会教育局長でした。多分、R8辺りから依頼を受けてこのパーティに来賓として出席したように思います。この出席に際しては、事前にR8らからそのパーティの趣旨や出席者等の説明を受けると共にリクルートの教育機関広報事業部の仕事についても概括的な説明を受けました。あるいは、はっきりした記憶はありませんが、R8辺りから挨拶の要旨を書いてもらったこともあったかもしれません。」(甲書4三三〇)
③ 「専門学校の生徒募集の仕方に誇大広告の問題があり、その誇大広告を載せた媒体誌等を参考にして、専門学校に進学した生徒が被害にあう、それと裏腹の問題として、高校の教育現場には、専門学校に関する適切な進路指導資料が不足しているという実態があるということは、時々、マスコミで取り上げられていましたので、私も承知していました。そして、その誇大広告を載せている媒体誌の中には、リクルートのものもあるだろうと思っておりました。リクルートが、その媒体誌の業界でどの程度のシェアを持っているのかは、意識したことは、ありませんでしたが、専修学校の業界に対し、熱心に商売をしていたことは、感じておりました。」(甲書4三二七)
「ただ、私は〔国会における〕その様な質問、答弁を聞かなくても専修学校の中には広告経費が二割にも達しているものがあることや、専修学校がリクルート、その他の媒体誌に載せる広告には、誇大広告があり、それらを参考にして専修学校に進学した生徒の中に誇大広告による被害を受けるものがあること、高校の教師が進路指導に使える的確な資料が少いこと等、その質問や答弁で触れられている問題の概要は、それ以前からマスコミ、その他を通じて承知しておりました。」(元年四月一三日付け検面調書・甲書4三三一)
④ 「その様な意味で私としては、前にも申し上げたようにリクルートは教材会社の様なものだと理解しておりました。リクルートの教育関連事業部門や教材会社とは、言わば、文部行政の周辺で事業を行っているもので、文部省からリクルートや教材会社に対し、直接、行政指導をすることはできませんが、文部省が大学、専修学校、高校に、ある行政指導をすれば、その行政指導が文部行政の周辺部分で活動をしている教材会社やリクルート等に対し、反射的に色々な影響を与え、それらの事業環境を変え、そのことによって、それらの事業がやり易くなったり、やりにくくなったりします。私共は、一企業の利害得失を考えて行政指導をするようなことはありませんし、私自身、その様なことをした覚えもありません。〔中略〕その行政指導によって、リクルートの教育関連部門、教材会社、テスト業者等の教育関連事業者が損をしたり、得をしたりすることは理解しておりました。」(甲書4三二七)
「文部省とリクルートとは、間接的に関係があるということは言えます。いわば、リクルートと文部省の関係は、教材会社と文部省との関係のようなものです。」(元年四月一日付け検面調書・甲書4一〇四〇)
「文部省とリクルートの教育関連事業部門とは、以上、申し上げたような関係ですから、甲野を始めとするリクルートの幹部やその教育関連事業部門を担当しているR8、R34、R37らが私を含む文部省幹部との関係を良好に保ち、不利益な行政指導を回避し、自分達の教育関連事業部門の仕事を円滑に進めるために私やその他文部省幹部を宴席やゴルフに接待してくれるものと理解していたのであります。人間関係が良好になっていれば何かあった時に角を立てずに済ませてもらうことができますし、何かしてもらいたいと思う時でもスムーズにしてもらうことができる場合もあるので、自分の仕事と関連のある役所の人間に接近し、人間関係をよくしようとするのはリクルートに限らず、どこの企業でもやっていることだと思いますし、そういう形で情報を収集することも、どこの企業でもやっていることだと理解しています。」(甲書4三二七)
「すでに申し上げているようにリクルートは大学や高校を利用して大学生や高校生の就職情報誌や高校生の進学情報誌を発行するという教育関連事業をしており、文部省としては、テスト業者、教材会社等、他の教育関連事業をしている会社と同様、文部省の高校大学等に対する行政指導によって利益を受けたり、打撃を受けたりする関係にあったので、初中局長、更には次官という地位にあった私や、その他文部省の幹部に近づきになり、人間関係を良好にして不利な行政指導を回避したり、情報を収集したりするために接待してくれるものと理解しておりました。」(元年四月一六日付け・甲書4三三三)
(3) 辛村の公判段階における供述
辛村は、公判段階(〈証拠略〉)において、リクルートが高校生向け進学情報誌事業を行っていたことや、その配本方法については知らず(各専修学校ごとの生徒募集のパンフレット作成業務の認識はあったが、一冊にまとまったものとしての認識はなかった。)、教育機関広報事業部門の事業内容については、漠とした内容のみの認識で具体的な内容については知らなかったし、文部省の行政指導いかんにより、リクルートがその事業に影響を受け得るという関係にあったという認識もなく、進学情報誌を巡る問題点についても特に認識していなかった旨の供述をしている。
(三) 検討
辛村の公判段階における右(二)(3)の供述を見ると、全体として、リクルートの教育機関広報事業に関する認識がなかったことを強調し、そのような方向では雄弁である一方、検察官から、被告人や教育機関広報事業部門関係者との関係、接待状況、進学情報誌を巡る問題点に関する認識について尋問を受けると、口ごもり、話を逸らすなど供述を避ける態度を執っていることが明らかである。そして、進学情報誌を巡る問題点に関し批判的な報道をしていた日本教育新聞等が局長室に回覧されて閲覧していたか否か(〈証拠略〉)や、国会答弁の際の説明資料に専門学校新聞の写しが含まれていたか否か(〈証拠略〉)については、裁判長からその供述態度を注意されるほど、自己の責任を軽減する方向で供述しようという姿勢が顕著に認められるのである。
供述の具体的な内容を見ても、辛村は、公判段階において、R37をはじめ教育機関広報事業に関わる多数の役職員と面識を持ち、R37から事前の予約がなくても頻繁に局長室等へ訪問を受けていたこと、R37と知り合ったのはR37が教育機関広報事業に関わり始めてからであり、後任としてR37自身からR34を紹介されたこと(〈証拠略〉)など、リクルート側が組織的に辛村と関係を保とうとしていることを認識するに十分な事情について認めている上、リクルートやその関連会社の営む他の事業については、就職情報誌、海外旅行雑誌、住宅情報誌等の発刊事業、ゴルフ場、スキー場、ホテル、牧場等の経営事業、企業に対する研修事業、回線リセール事業等に関し、進学・就職情報誌事業関係者であったR8、R37、教育機関広報事業担当取締役であったR12(以下「R12」という。)らから説明を受け(〈証拠略〉)、特に、職務上関係のないゴルフ場、牧場等の経営事業や情報誌の発刊以外の事業に関してもその内容を知っていたばかりでなく、R37から、教育機関広報事業と無関係の光ファイバーを利用する事業に関わり、仙台に行ったなどと説明を受けたり、しょっちゅう出張して地方に出ていることや、仕事で高校を回っているということを聞いていたこと(〈証拠略〉)などを認めている。にもかかわらず、辛村にとって最も職務上の関係が深く、R37が局長室に出入りしていた当時に関わっていた進学情報誌事業だけについては、具体的な事業内容を承知していなかったし、R37が具体的にどんな仕事で何のために高校を回っているかを聞かなかったし、興味もなかったなどと供述し(〈証拠略〉)、進学情報誌の刊行についてもその配本方式である宅配についても説明を受けたことがなく、具体的には承知していなかったなどと供述するのであり、辛村の公判段階における右(二)(3)の供述はそれ自体不可解であって、信用することができない。
他方、辛村の捜査段階における右(二)(2)の供述について検討すると、辛村が教育機関広報事業一〇周年謝恩の集いに招待されて祝辞を述べるなどした際、教育機関広報事業部の仕事について概括的な説明を受けたという点(右(二)(2)②)については、R35が証拠(甲物4一九四)を示されながら、教育機関広報事業と関係のある辛村をパーティーに招待し、その二、三か月前ころに祝辞の依頼に行った旨証言するとともに、通常依頼するときにはリクルートの事業内容と当該事業部門の事業内容を箇条書きにした資料を届けており、辛村の場合も届けたはずである旨具体的根拠を挙げて証言するところ(〈証拠略〉)によって支えられている。また、辛村がマスコミ等により進学情報誌を巡る問題点を認識していたという点(右(二)(2)③)については、読売新聞が連載するなどして一般紙が進学情報誌の問題点を指摘する記事を掲載していたこと(本章第二の二2)や、千葉県主事会の申合せが報道された読売新聞、朝日新聞、日本教育新聞等(本章第二の二2(一)、(二))が当時辛村の初中局長室及び事務次官室で閲覧に供されていた上(右2)、日本教育新聞は辛村の自宅にも無償送付されるなどして、辛村が目を通すことが可能であったこと(〈証拠略〉)と符合する。さらに、初中局長室を頻繁に訪問していたR37らから、リクルートの進学情報誌事業の具体的業務内容について説明を受けていたという点(右(二)(2)①)については、右のとおり、辛村が公判段階においてR37が初中局長室を頻繁に訪れていたことを認めているところ、辛村の職務に関連する教育機関広報事業に従事していたR37が頻繁に初中局長室を訪れたのであれば、その際の会話の内容として、教育機関広報事業の具体的業務内容に言及する方がむしろ自然であって、この部分についても辛村の捜査段階における供述の信用性を認めることができる。
関係証拠によれば、①辛村は、五一年五月にリクルートが開催した専修学校等の経営者らを対象とする「リクルート各種学校セミナー」で講演をしたこと(後記本章第二の五2(一))、②辛村は、中学校の進路指導に関し業者テストに対する依存や業者との癒着の実態等が問題視された際、文部省が都道府県教育委員会等宛に通達等を発出して是正指導を行った経過(右1)を知っており、文部省の行政指導が学校に関係する業者の事業活動に及ぼす影響力を熟知していたこと、③辛村は、五八年八月、専門学校進学指導研究会の夏季宿泊研究協議会で専修学校への進学に触れて挨拶し、後日、その協議内容が収録された冊子「研究集録」の送付を受け、これを閲読したと認められるところ、その中には、かねてから進学情報誌を批判していた本多二朗朝日新聞記者の基調発表が記載されており、進学情報誌の誇大広告掲載問題、宅配問題等、専修学校への進路指導上の問題点を指摘する記事が掲載されていたことがそれぞれ認められ、辛村の捜査段階における右(二)(2)の供述は、これらの事実と符合するものである。
そのほか、辛村が、本章第二の二3記載の国会審議のすべてに初中局長の立場で政府委員として出席し、その場で繰り広げられる質疑応答を聞いており、特に、F3議員による本章第二の二3(二)の質疑は、辛村自身が答弁に立つ可能性もあったため、国会質疑に先立ち、D9課長から職業教育課で作成した答弁案について事前に説明を受けていたことなどの事実が認められるところ、辛村の捜査段階における右(二)(2)の供述は、これらの事実とも符合するものである。
加えて、右2、3のとおり、文部省において、進学情報誌を巡る問題点につき各種の取組みがなされていた状況もあり、文部省がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に関わりのある行政機関であるということは、その事業内容や文部省の権限等からして当然に認識し得るところであって、初中局長や文部事務次官であった辛村が、文部行政の動向がリクルートの進学・就職情報誌事業に影響を与えると認識していたこともまた自然かつ合理的である。
そうすると、辛村の捜査段階における右(二)(2)の供述は、十分に信用することができる。
なお、辛村は、公判段階において、右(二)(2)の各検面調書は、検察官の作文であり、やむを得ず署名した旨供述し、供述の任意性を争っている。しかし、辛村は、公判段階において、勾留期間中、頻繁に弁護人と接見し、取調べに当たって記憶にないことはないと言った方がいいなどと注意点等につき助言を受けていながら、当時、弁護人に対し認識にそぐわない検面調書を作成されたなどという相談はしていなかったこと、検察官から保釈を引き合いに署名を求められたというのではなく、「いつまでも時間が掛かりますよ。」と言われたのを釈放しないで留置する意味と理解したにすぎないことを認めている(〈証拠略〉)。検面調書の内容も、辛村の要望に沿って訂正が加えられており、辛村が当初から否認している千葉県主事会の申合せに関する認識や、コスモス株を譲り受ける際に被告人から事前の連絡があったかどうかなどの点については検面調書が作成されていないなど(〈証拠略〉)、辛村の言い分を取り入れた内容になっている上、検察官からその内容を読み聞かせられ、これを確認した上で署名指印しているのである。これらの点に、辛村の経歴や社会的な経験も勘案すれば、その捜査段階における供述は、任意になされたものと認められる。
以上からすると、辛村は、リクルートの進学・就職情報誌事業の内容や同事業と文部省との関係について十分認識していた上、リクルートの進学情報誌を巡る無認可校掲載問題、誇大広告掲載問題、高校生リスト収集問題及び宅配問題についても認識していたものと認められる。
(〈証拠略〉)
四 各方面からの問題指摘、批判等へのリクルートの対応
リクルートは、本章第二の二のとおり、自社の進学・就職情報誌事業において重要視していた高校生リスト収集、宅配方式等について、各方面から問題の指摘、批判等が続出したため、業務の遂行に著しい支障を来すおそれがあると危機感を抱き、高校生リスト収集と宅配方式を存続・維持させる方向で、それぞれの対応を講じた。
1 リクルートの警戒状況
(一) 全社的な警戒状況
リクルートは、各方面からの進学情報誌事業を巡る批判の動向を「対外摩擦」等と称して深刻に受け止め、RMBに、「高校教員の『RSB』など学校案内集に対する評価が、年々厳しくなっている。〔中略〕一部では高校生リストの収集に支障を来たしはじめている。」(五九年一月四日号)、「〔社外からRSBに対する批難の焦点の〕ひとつは、無認可校を掲載しているということ、もうひとつは認可校であっても中身の伴わない“誇大広告”“虚偽広告”が見られるということです。」(五九年七月二五日号)、「KKKは学生募集広告業界のトップリーダーとして対外的に注目の的である。進み方を誤ると格好のマスコミの標的になりかねない。」(六〇年一月三〇日号)、「KKK事業は、そういった人達〔高校生、その家族や、高校教諭〕の、当社に対する“信用”をベースに成立している。企業イメージが媒体効果に大きく影響する事業である。今後、同種のマイナス情報が継続した場合、媒体力の低下を招く恐れがある。また、高校サイドでの配本拒否、名簿提供拒否といった事態も予想される。」(六〇年一〇月三〇日号)などという記事を掲載するなどして、社内に注意を喚起していた。
全社部次長会や経営会議等においては、「全方位対外摩擦の解消」などと銘打ってその解消策をしばしば議題に取り上げて検討し、その方策の一つとして行政リレーションの強化を打ち出した。また、取締役会、取締役座談会等においても、「リスクマネジメント」、「クライシスマネジメント」等に関する協議が度々行われ、「全社クレーム総点検」が提唱されるなどしており、これらは社内誌等に掲載されて社内に周知された。
代表取締役であった被告人も、リクルートの事業に対する外部からの批判の動向等に関し、「会社に問題点は多くあると思う。会社にとってまずい、自分にとってまずいと思ったら、すぐに連絡してほしい。〔中略〕初期対応が遅れるために、問題が大きくなってから対応しなければならないケースが増えている。」(六〇年三月九日の全社決算マネジャー会議抄録「25期の方針」)、「リクルートはもっと徹底的に叩かれることを予想して、リスク・マネジメントをやっていかなければいけない。」「悪い情報が経営上層部に上がってこないようなところも問題だと思う。取締役会事項だと思うようなことを、現場で軽く片づけちゃっているというのがけっこうある。」「悪い情報ほど、早期に対応しなければいけない。全社をあげて敏感になる、ということがだいじだ。」(六〇年六月ころの座談会発言)、「われわれはリクルートに対する批判的な声についてもっと過敏でなければならない。」(六〇年一二月ころの座談会発言)、「今年は昨年以上に対外的な批判に対してより一層の覚悟が必要になります。〔中略〕会社としては、マスコミから批判されないようにしなければならないのですが、マネジャー諸君にはそういった世間の、活字になる前の批判の声には常に敏感でいて欲しいのです。“たいしたことはない”で決して済ませないでほしいと思います。〔中略〕いつも“感性”を持って、パーソナルな接触を拡げていくことをお願いしたい。」(RMB六一年一月八日号巻頭言「26期を迎えるにあたって“勉強元年”」)などと取締役座談会、全社決算マネジャー会議等の場で訴えた上で社内誌等に掲載したり、社内誌の巻頭言として寄せるなどして社内に周知させ、経営上層部が各事業部門の抱える問題点を早期に把握して対応するように呼びかけた。
(〈証拠略〉)
(二) 教育機関広報事業関係者及びリクルートの幹部の認識及び警戒状況
教育機関広報事業部門では、全社的な警戒状況を受け、教育機関広報事業本部会等で進学情報誌事業に対する各方面からの社会的批判の動向、指摘される問題点、対応策等を検討し、取締役会、同部門経営会議等でその内容を被告人を含むリクルートの幹部らに報告していた。主なものだけでも以下のとおりであり、これにより、被告人及び進学情報誌事業に関わるリクルートの幹部は、進学情報誌事業に対する社会的批判の動向及びその対応策について、相当程度具体的な認識を得ていた。
(1) 進路情報部長のR35は、本章第二の二1(一)の埼玉県高等学校進路指導研究協議大会や全高進大会における高校教諭からの厳しい批判及びその経過について、教育機関広報事業部門経営会議で報告した。
(〈証拠略〉)
(2) 五八年九月ころ、本章第二の二6のとおり、日本広告審査機構から、無認可校の掲載表示の改善について指摘を受けたが、この対応については、教育機関広報事業部門マネジャー会議で検討した後、教育機関広報事業部門経営会議で報告された。
(〈証拠略〉)
(3) 六〇年六月二五日の教育機関広報事業部門経営会議において、R35が千葉県主事会の申合せの内容及びその対応策について報告した。
(〈証拠略〉)
(4) 六〇年七月一〇日の取締役会において、教育機関広報事業部門担当取締役であったR12と次長のR37との連名の同月九日付け「進学ブック配本をめぐる社会環境の変化について」と題する書面(以下「六〇年七月報告書面」という。)が被告人を含む各役員に配付され、R12が同書面に基づく報告をした。この書面には、千葉県主事会の申合せやマスコミによる批判報道、国会におけるF3議員の質疑等進学情報誌事業を巡る各方面からの一連の社会的批判の動向、指摘された問題点、これらへの対策等が記載されていた。
(〈証拠略〉)
(5) 六一年二月一九日の取締役会において、クライシスマネジメントが議題になり、各事業部門が抱える社会的批判の対象となり得る問題点の現状や今後の対応策等に関する報告がなされた際、進路情報部として、進学情報誌の配本業務遂行上の問題を取り上げ、千葉県主事会の申合せを念頭に置いて、「千葉県では、リクルート進学ブックは、役に立たないし、有害でさえあるとの意見でリスト・配本の両面からリクルートへの協力を拒否する動きがある。今のところ全国組織のトップ層は親リクルート的なので全国に波及するおそれは少ないが、今後とも要注意である。」という現状認識と、「〔高校の〕先生方にセミナーの開催等イベントを実施して、理解を深めていきたい」などという対応策が報告された。
(〈証拠略〉)
(6) 進学情報誌に対する批判が強まっていた五九年以降、教育機関広報事業本部会や同事業部門経営会議等において、無認可校の広告掲載の是非、認可校の広告との区分表示方法等について協議が重ねられていたが、六一年三月一〇日の経営会議において、「無認可校に関して、〔中略〕高等学校、文部省、学校会の意見、方針に鑑みると、〔中略〕特別の扱いをせざるを得ない。社会の趨勢によっては、無認可校の不掲載もありえる。」などという案を基にして協議し、無認可校を認可校と区別して扱うことや無認可校の掲載ページ数を検討することなどを決めた。
(〈証拠略〉)
(7) 教育機関広報事業部内における討議も度々なされていたが、六一年三月一日の教育機関広報事業本部会においては、クライシスマネジメントについて話し合いがなされ、教育機関広報事業に関連して社会的非難の対象となる可能性のある事項として、進学情報誌に無認可校の掲載があり、高校教諭から商業主義的な広告集という批判があること、高校生リスト収集とプライバシー問題等が指摘され、対策が検討された。
(〈証拠略〉)
(三) 右(二)(4)の認定の補足
(1) R12の捜査段階における供述
R12は、捜査段階においては、元年二月二二日及び同年三月二七日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述して、右(二)(4)の取締役会で六〇年七月報告書面(甲書4三四九)を配付して被告人を含む各役員に報告したことを認めている(甲書4二五七、二五九)。
「これ〔六〇年七月報告書面〕は、リクルート進学ブックの配本活動に関して、埼玉県や千葉県の高校の先生方において、生徒リストの提供拒否の動きがあったことや、六〇年三月に衆議院予算委員会で公明党のF3委員から、専修学校の広告等について質問があったことなどの問題点を、私が取締役会に報告するために、R37が作成したもので、私は、昭和六〇年七月九日、若しくはその日に取締役会が開かれてないとすれば、それからあまり日がたたない時期に開かれた取締役会において、お示しの資料を役員に配布して、報告しております。報告した問題点として、千葉県の高校の先生方の主事会で、リスト提供拒否の申し合わせがあったことなどを説明し、これについては、今後、各関係とのリレーションを強化するとともに、千葉県における個々の先生方において、リストの提供についてどのような対応をするか調べてみる方針である旨、説明したところ、甲野代表取締役は『わかりました。それじゃ、しっかりやって下さい。』などといったような内容のことを言ったように思います。」(元年二月二二日付け検面調書・甲書4二五七)
「お示しの資料〔六〇年七月報告書面〕には見覚えがあります。昭和六〇年七月ころに、私がKKK事業部門が直面している課題と対策について取締役会に報告した際に各役員に配布した資料です。お示しの資料を作成したのは、進路情報部のR37です。お示しの資料でも明らかなように、昭和六〇年六月の千葉県の申し合わせに至るまでの宅配批判やリスト収集拒否の動きを、KKK事業部門の問題として取り上げており、私は、千葉県における申し合わせや先程説明しましたような対策をお示しの資料に基づいて、取締役会で報告しました。私が報告しますと、甲野議長は、『わかりました。しっかりやって下さい。』などと言ったように思います。」(元年三月二七日付け検面調書・甲書4二五九)
(2) R12の公判段階における供述
R12は、公判段階においては、六〇年七月報告書面につき、「だれが作ったかは分かりません。R37が作ったのか、R37がだれかに作らせたのか。課長辺りが作って二人の名前をかぶせたのか、分かりません。」「〔部下が事前の了承なしに取締役の名前を付けて取締役会宛の文書を作成するということは〕常識ではあり得ないんですが、リクルートにはたまにあるんです。」「〔自分が当該取締役会で報告を〕しているとも、していないとも……記憶からいけば、してないと思うんですが、はっきりしませんね。していたら記憶に残っているだろうと思うんですが。」「記憶からいくと、こういう個別のややこしいことを、私は説明する能力と言いますか、知識がありませんので、できないと思います。それは断言できます。」などと、捜査段階とは異なる供述をするとともに、検面調書の記載は間違いであり、検察官に証拠資料を示されて説明された際、内容について知らないと答えるのが恥ずかしかったし、夜遅くなり朗読を聞いていると疲れてきて、署名してしまったなどと供述している。
(3) R12の供述の評価
R12の捜査段階における右(1)の供述は、内容が具体的である上、①客観的にも、六〇年七月報告書面には、宛名欄に「取締役会御中」、発信者欄に「進路情報部 R12、R37」という記載があり、その内容は、リクルートの進学情報誌事業に対する批判の現状、問題点及び対策がまとめられているものであること(甲書4三四九)、②R37が、捜査段階において、右書面の作成経緯等につき具体的、詳細に供述しており、その中で、R12の指示により、R12が取締役会で報告する資料としてR37自身が作成した旨供述しており(〈証拠略〉)、R12の捜査段階における右(1)の供述と符合していること、③同月一〇日の取締役会にR12が出席していたと認められること(〈証拠略〉)などによって裏付けられている。また、右(一)のとおり、当時、リクルートにおいては、各方面からの進学情報誌事業に対する批判を深刻に受け止めて警戒し、各種の経営幹部の会議等で、「対外摩擦」の解消策や、「リスクマネジメント」、「クライシスマネジメント」等に関する協議が度々行われ、「全社クレーム総点検」が提唱されるなどしていた上、教育機関広報事業部内においても、右取締役会の直前である六〇年六月に行われた千葉県主事会の申合せに対し、後記6のとおり、危機感を抱き、各種の対応策を検討して、実行に移していた時期であったことをも併せ考えると、同事業部門担当取締役の立場にあったR12が六〇年七月報告書面を取締役会に提出し、これに基づき進学情報誌事業に対する当時の各方面からの批判やその対応策等について被告人ら出席役員に報告したことは、自然かつ合理的な流れとしてとらえることができる。
一方、R12の公判段階における右(2)の供述は、甚だ曖昧である上、当時、教育機関広報事業部門担当取締役という地位にあったR12の立場やリクルートの組織、機構に照らすと、あまりにも不自然、非常識なものであり、また、自分の認識と異なる記載がなされているとする検面調書に署名した理由についても納得できる説明をしていない。
この点、R37は、捜査段階において、R12の捜査段階における右(1)の供述と符合する供述をしていたものの、公判段階に至り、R12と同様に、六〇年七月報告書面は自分が作成したものではなく、取締役会にも出されていなかったと思う旨供述して、供述を変遷させているが、変遷の理由として供述するところは、「余り記憶がないから」などという説得力を欠くものであるから、R37の公判段階における右供述は信用することができない。むしろ、このように平仄を揃えた不合理な供述の変遷は、上司であった被告人を庇うためか、それぞれの自己保身のために、口裏を合わせた疑いすら抱かせるものである。
このように、R12の公判段階における右(2)の供述と比較すると、R12の捜査段階における右(1)の供述は明らかに合理的であって、信用性が高いということができる。
したがって、R12は、右(二)(4)の取締役会において、被告人を含む各役員に対し、六〇年七月報告書面に基づいた報告をしたものと認められる。
2 被告人の認識について
(一) 認定
右1で認定した事実からすると、リクルートにおいて、教育機関広報事業部門に属する者らはもとよりのこと、代表取締役である被告人も、本章第二の二の批判の動向について、その大筋を把握し、これがリクルートの進学・就職情報誌事業の円滑な遂行に支障を来す問題であると憂慮していたことが明らかである。
(二) 弁護人の主張及び被告人の公判段階における供述
(1) 弁護人の主張
弁護人は、教育機関広報事業が景気の動向に左右されにくく、有力な競合会社もなかったため、安定部門とみなされ、上層部や他部門から関心を集めにくい位置づけになっており、特に進路情報部は営業活動を行わないので、更に目立たない部門であったなどとして、被告人には、進学情報誌事業を巡る宅配問題等の問題点に関し、教育機関広報事業が社会問題を引き起こしているという認識がなかった旨主張する。
(2) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階において、代表取締役当時、教育機関広報事業部門経営会議には、通期目標額を設定する議題以外の時にはその場におらず、報告資料等も見ていなかったし、作成された議事録も見ていなかった旨供述するとともに、決算マネジャー会議の際は、各事業部門のアニュアルレポートが提出されるが、自分はリクルート全体の営業報告書を見ながら最後に一時間スピーチをする原稿を考えていたので、各事業部門の資料は見ていなかったし、報告の内容も分からなかった旨供述し、また、RMBも読まず、教育機関広報事業本部会には出席していなかったことなども挙げて、進学情報誌事業に対する各方面からの批判やその対策等について報告を受けておらず、知らなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
(三) 検討
被告人は、公判段階において、リクルートでは、社内の各事業部がそれぞれ独立した経営権を持ち、事業部長を長とした経営会議で戦略等を決め、独立して事業を行う「カンパニー制」を取り入れながらも、代表取締役として、会社の業務遂行に関わる情報を一応頭に入れておきたいという考えを持っており、役員会で会社の経営情報に関する各担当役員の報告を聞くことにより、被告人がこれを掌握する仕組みになっていたことを認めている上、「延べ時間にしまして、仮に、一〇〇時間あるうちの九〇時間は……八五時間とか九〇時間は、出ていたと思います。」などと取締役会のほとんどの時間在席していた旨供述し、議事録を見なかった理由として、見なくても、取締役会に出席しており、協議された内容が大体頭に入っていたからであると認めている(〈証拠略〉)。また、関係証拠によって認められるとおり、無認可校掲載の是非の問題は、教育機関広報事業の通期売上目標額の設定に影響を及ぼす経営上の重要事項であったため、経営会議の通期売上目標額を決定する際に併せて協議されるべき問題であったこと(〈証拠略〉)、進学情報誌事業に対するマスコミ等をはじめとする各方面からの批判の動向がリクルート全体の社会的信用に影響を及ぼし、ひいては全社的な営業実績にも支障を来しかねない事柄であったことなどをも併せ考えれば、被告人が進学情報誌事業に対する各方面からの批判の動向やその対策等に興味を持ち、注意を払っていたのは当然のことであり、取締役会において報告を受けていなかったというのは不自然である。
加えて、被告人は、公判段階において、教育機関広報事業部門経営会議で、宅配の導入後、ロス配布がなくなり、フィードバック葉書の返戻率が倍増した経過に関する事情や、リスト収集数や宅配率の増加に関する事情等について報告を受けていたこと、高校生リストの収集目標数を決定する経営会議に参加していたこと、無認可校掲載の是非がかねてから問題になっており、その是非は通期売上目標の決定に絡む問題であったため、被告人自らがその協議に参加していた可能性が高いことなどを認めている上(〈証拠略〉)、取締役会や経営会議等において報告を受ける以外にも、クリッピングサービスにより、リクルートの会社名が出ている報道記事が被告人の下に報告される態勢がとられるなどして(〈証拠略〉)、情報を収集する機会が確保されていたこと、さらには、右1(一)のとおり、自ら各事業部の問題点の早期把握を常日ごろから積極的に呼びかけていたところ、進学情報誌事業に対する各方面からの批判は正に事業遂行に悪影響を及ぼす種類の「悪い情報」に当たることを認めている(〈証拠略〉)のであるから、被告人が進学情報誌事業に対する各方面からの批判の動向やその対策等を知らなかったというのは、不自然、不合理であるといわざるを得ない。
したがって、被告人の公判段階における右(二)(2)の供述は信用することができず、その供述に基づく弁護人の主張は理由がない。
3 誇大広告掲載問題及び無認可校掲載問題に関する改善措置
リクルートでは、五九年ころから、誇大広告掲載問題、無認可校掲載問題への対応を具体化し始めた。しかし、誇大広告掲載問題については、リクルート独自の広告掲載基準を設定し、審査に当たる部署として審査機構を設置するなどした上、その調査、規制に当たってはいたものの、広告業であるが故に、掲載内容については依頼主の意向を優先せざるを得ず、誇大広告掲載問題が各方面から指摘される状況はなおも続いていた。また、無認可校掲載問題に関しても、教育機関広報事業部門の広告受注高全体に占める無認可校の割合が高かったことから、無認可校の広告不掲載に踏み切ることは売上げや利益を追求する上で困難であったばかりでなく、認可校である専修学校及び各種学校との区分表示を明確にすることも、広告主である無認可校の経営者から強い抵抗があって、困難であった。
そのため、リクルートでは、五七年度版(発行はその前年である五六年であり、以下の「年度版」の表記についても同様である。)のRSBで初めて「その他の教育機関」の名称を使用し始めたものの、ページを別にして項目を独立させたのは五八年度版からであり、六一年度版で「認可外教育機関」と名称変更したが、六二年度版では「専修学校・各種学校以外の教育機関」と若干後退した表現になった。そして、六二年四月、リクルートの大口顧客で、派手な広告を掲載してきた無認可校の青山レコーディングスクール(同校は、五九年から六一年までの間、教育機関広報事業部門内の売上高で第一位を占めていた。)が倒産して大きな社会問題になった後に初めて、進学情報誌に無認可校の広告を掲載しないことに踏み切った。
(〈証拠略〉)
4 高校教諭らの批判への対応
本章第二の二1(一)のとおり、リクルートの進学情報誌事業に対しては、京都府主事会、埼玉県の進路指導研究協議大会や、全高進大会等で批判されていたところ、リクルートでは、高校リレーション、全高進リレーションの一環として、進路情報部所属の社員を各協議大会、主事会等にオブザーバーとして出席させて情報収集を図り、また、マスコミの報道等を通じるなどして批判の動向を把握していた。
リクルートでは、その対応策として、右3の措置を執ったほか、高校生リスト収集問題や宅配問題に対しては、個別的に、リストを他の用途で使用しないという誓約書を高校に差し入れるなどの措置も執っていた。協議会等で批判的な意見を述べた教諭に対しては、進路情報部長のR35らが直接訪問して協議し、理解と協力を得られるように説得したり、また、批判的意見を持つ教諭らに中元、歳暮等の贈答をするなどの対策を取って、良好な関係の構築を図り、批判の拡大を抑えるように努めた。
(〈証拠略〉)
5 専門学校進学情報委員会への対応
リクルートは、五九年四月、専修学校教育振興会及び全高進双方から各五名の委員が選出されて、本章第二の三3(一)のとおり、信頼できる専修学校等の情報誌の発刊を目的とする専門学校進学情報委員会が設置されるや、同委員会が存続した六〇年三月ころまでの間、同委員会の委員であった全高進側有力者のQ1事務局長及び文部省から助言指導者として派遣されていたD10調査官に対し、かなりの回数にわたって飲食接待をした(リクルートの接待伝票によると、右期間中、D10調査官に対しては少なくとも二〇回以上、委員のQ1事務局長に対しては少なくとも一〇回以上の飲食接待が行われ、右のうち、右両名同席の接待も、少なくとも一回はあったことが認められる。)。
(〈証拠略〉)
6 千葉県主事会の申合せへの対応
(一) 進路情報部における個別の対応状況
リクルートは、Q4教諭が六〇年五月の千葉県主事会の理事会でリスト収集には一切応じないという申合せをすべきである旨の提案をした(本章第二の二1(二))という情報をその当時から入手していたことから、そのような申合せがなされ、千葉県下の高校におけるリスト収集が一切不可能となるという足並みの揃った統一的な批判行動になることを憂慮し、これを阻止するため、千葉県担当の前任者であった大阪支社の進路情報課員の応援も得るなどして、部内で担当課長以下対策チームを構成し、進路情報部が組織を上げて対応することとした。
対策チームでは、Q4教諭に接触を図って、説得に当たったほか、千葉県主事会の副会長や元副会長等の有力者らにも接触を図り、その意向を調査して説得を試みるなどの働きかけを行った。また、千葉県主事会の事務局長でもあったQ2を高校課長のR39(以下「R39」という。)らが訪問して面談し、宅配ができなくなるのはリクルートにとって大きな打撃となることを説明した上、全面禁止ではなく、各高校の判断によりリストの提供を受ける余地が残る形の申合せにしてもらいたい旨の要請をして働きかけ、Q2事務局長から、同人が作成した申合せの中間案のコピーを受け取るなどした。六〇年六月五日ころにも、R37とR39がQ2事務局長を寿司店で接待して申合せの最終案のコピーの交付を受けたが、この際も、右と同様の要請をし、申合せ案の文言についても、リクルートの思惑に沿った文案へ改訂するように依頼するなどした。
Q2事務局長らに対する働きかけ等が功を奏し、本章第二の二1(二)のとおり、千葉県主事会は、六〇年六月一二日の総会において、Q4教諭の提案よりも後退して、原則として協力しないが、個々の高校において十分検討した上で必要と認めるものについては協力する余地を残すという内容で申合せを採択するに至り、リクルートとしては各高校に個別的に対応する余地が残ることとなった。
しかし、リクルートは、右申合せが教諭個人レベルの批判ではなく、全高進傘下の千葉県主事会という公的色彩を有する組織において正式に採択されたものであり、全国初の都道府県レベルにおける組織的な批判であること、右申合せが専門学校新聞等の業界紙はもとより、朝日新聞や読売新聞等の一般紙によっても広く報道されたこと(本章第二の二2(一)、(二))などから、この動きが全国的に波及して、文部行政にも影響を及ぼすことになれば、リクルートの進学情報誌事業に深刻な影響を及ぼしかねないという危機感を抱いた。そこで、進路情報部内で右申合せによる影響やその対応策を検討し、千葉県内対策、全高進対策、各県主事会対策、文部省対策、専門学校新聞対策等の項目を挙げて個別に対応策とその担当者を決定した上、これを実行に移した。すなわち、進路情報部所属の社員らが千葉県内の各高校の進路指導担当教諭や主事会の幹部を訪問してその意見を聴取したり、全高進の幹部に働きかけるなどして右申合せの反響を探るなどし、また、その後幾つかの地域で千葉県主事会の動きに連動した批判の動向が見られたこともあり、各都道府県主事会を訪問してその動向を調査し、リクルートへの協力を求める活動をしたり、全国の支社の責任者に右申合せを報道する記事の写しを送付するなどして、各都道府県の批判の動向に対しても注意を喚起していた。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人を含むリクルートの役職員に対する報告等
進路情報部長のR35は、六〇年六月二五日の教育機関広報事業部門経営会議において、千葉県主事会が右申合せをするに至った経緯、進路情報部で取り決めた対策等について報告した。
また、右1(二)(4)のとおり、六〇年七月一〇日の取締役会において、R12及びR37作成名義の六〇年七月報告書面が提出されて、右申合せの内容が報告された。この書面により、高校への対応策として「情報提供サービスの充実等で親リクルート校を増やす。」「各県主事会、職業安定所単位等の地区会、工業・商業・普通等の校種別会等、複合的なリレーションを作る。」などという提案がなされた。
(〈証拠略〉)
7 六〇年全高進大会への対応
リクルートでは、右6のとおり、千葉県主事会の申合せに対応して各方面への対応策を検討し、実行していたが、全高進対策の中心に置かれていたのは、直後に開催が予定されていた六〇年度の全高進大会に向けた対策であった。
すなわち、リクルートは、六〇年七月三〇、三一日の全高進大会において、千葉県主事会の申合せに関連する問題が議論され、反リクルート的な意見が採り上げられることを懸念していたところ、Q4教諭が専修学校進学について検討する第三分科会に出席するという情報を事前に得たことから、Q4教諭が第三分科会及び全体会で右申合せに関連した提案や発言をすることを予測して、その動きを封じ込めることを画策した。そして、後記全高進理事会の前に、R37次長がQ1事務局長に対し、「今度の全国大会には千葉のQ4先生が出席するそうですので、千葉の申し合わせに関連して意見が出るかと思いますが、なるべく全高進としては取りあげない方向で御配慮願います。」などと言って働きかけ、Q4教諭が参加する予定の分科会の議長についても問題が大きくならないような人選を願い出ていたところ、これに応じたQ1事務局長は、大会前の同月五日の常任理事会において、Q4教諭が参加する予定の第三分科会に、リクルートに理解を示す東海ブロックのQ11事務局長を慣例により副議長的に参加させるため、同ブロックのQ12会長を司会者に指名した。
全高進大会の当日、第三分科会において、本章第二の二1(三)のとおり、Q5教諭が研究報告を行い、その中で、生徒名簿の業者に対する提供をやめるべきであるという意見を述べ、Q4教諭も、リクルートの予想どおり、千葉県主事会の申合せについて意見を述べた。また、大会二日目の全体会において、Q4教諭が千葉県主事会が申合せの形で取り上げた高校生リスト提供問題や宅配問題について全高進でも取り上げてほしい旨提案したが、リクルートから右働きかけを受けていたQ1事務局長が「千葉県で取り上げている問題ならば、まず関東ブロックを通して正式な手続を踏んでから上げて貰いたい。」などと応じて、結局、Q4教諭の提案は議論されずに終わった。
なお、リクルートは、全高進リレーションの一環として、全高進大会に例年一〇万円程度の賛助金を拠出していたが、六〇年は、Q1事務局長の要請を受けて、賛助金二〇〇万円を拠出した。これは、千葉県主事会の申合せの影響が他県に広がるのを阻止するためには、全高進との関係を一層配慮する必要があるという判断によったものとみることができる。
(〈証拠略〉)
五 文部行政の動向へのリクルートの対応
1 文部行政に対する警戒状況及び文部省の幹部に対する働きかけ
リクルートでは、かねてより、リクルートの事業内容について関係する行政当局の理解を得るとともに、行政の動向に関する有益な情報を入手するなどして事業遂行に資する目的で、各事業部門の職員がその業務の一環として、当該事業に関係する行政機関の幹部職員を接待するなどして接触し、当該行政機関と良好な関係維持を図りながら、事業遂行に必要な支援、協力や有益な情報を得るなどの活動を、「行政リレーション」と称して積極的に展開しており、その実行は全社的な方針となっていた。
教育機関広報事業部門においても、右方針の下、五七年ころから、「文部省リレーション」と称して、その活動を積極的に展開し、文部省の初中局や管理局等の幹部職員らに対し、飲食等の接待を行って、親密な関係を築き、進学・就職情報誌事業の円滑な遂行に影響を及ぼすような文部行政の動向に関する情報等を収集するとともに、リクルートに対する理解と協力を求めやすい人間関係作りに努めていた。また、教育機関広報事業部門においては、文部省と親密な友好関係を保つことにより、リクルート発行の雑誌に文部省の職員から寄稿を受けたり、リクルート開催の講演会やシンポジウム等で文部大臣等文部省の高官に講演をしてもらったり、各地の主事会等から依頼を受けて文部省の職員を講師として派遣する際の仲介をすることなどは、顧客となる専修学校等の経営者や、進学・就職情報誌の配本に当たり密接な関係を有する高校教諭らのリクルートという企業に対する社会的信用とイメージを高めることに役立ち、ひいては業績の拡大につながるという積極的な効果も有していた。
しかし、進学情報誌事業に対する各方面からの批判の動きが強まる中、リクルートでは文部行政の動向に警戒感を一層強め、敏感に情報収集をするように努めた。五八年三月一二日の第二二期決算マネジャー会議において、文部省リレーションの強化が基本方針として提案され、五九年六月八日ないし一〇日及び九月一日の各全社部次長会において、対外摩擦の解消策として行政リレーションの確立の必要性等を討議した。また、六一年一月の第二六期第一クオーターの全社部次長会に際して、教育機関広報事業部門からは、R37ほか三名の連名で、「トップリレーション、官庁・マスコミリレーションの強化」を計画達成のための方策の一つとして掲げた「KKK部門の3カ年計画」と題する事前レポートが提出され、同年三月一日の教育機関広報事業本部会において、進路情報部からR37名義で、「3カ年計画達成のための具体的戦略、方針等」の一つとして、初中局、高等教育局等文部省とのリレーションの強化を図る必要があるとする「私の考えるKKK事業の3カ年計画」という表題のレポートが提出され、同年二月一九日の取締役会において、官公庁リレーションを強化する方針を承認して、官公庁リレーションを必要とする各事業部門内に専任の官公庁担当者を配置することを承認するなどして、文部省リレーションの強化を目指してきた。
このような方針の下、進路情報部では、文部行政の動向を注視し、進学・就職情報誌事業の円滑な遂行に影響を及ぼすような文部行政の動向に関する情報等を早期に収集し、それに素早く対処するため、また、進学・就職情報誌事業に対する理解と協力を得るため、R37ら進路情報部の幹部職員が中心になり、高校における進路指導教育を所管する初中局職業教育課を中心とする文部省の幹部職員及び進路指導教育の実務的な担当者である教科調査官に対し、頻繁に飲食やゴルフ等の接待をするとともに、中元、歳暮等の贈答をするほか、同課や初中局長室等を頻繁に訪問し、右教科調査官らとの親密な関係作りや文部行政の動向等に関する情報収集に努め、また、教育機関広報事業部門担当役員が交替するたびに初中局長及び職業教育課に挨拶回りをするなどして、文部省との良好な関係維持に努めた。
(〈証拠略〉)
2 文部省リレーションの一環としての辛村に対する働きかけ
リクルートは、文部大臣官房長、初中局長、文部事務次官を歴任した辛村に対しても、高級料亭、ゴルフ場等における接待をはじめ、中元、歳暮、年賀等の贈答を行い、辛村の昇任、子息の結婚等に祝儀を贈るなどするとともに、五九年一〇月ころからは、進路情報部次長のR37が文部省の初中局長室に月に一、二回予約なしに出入りし、キャリアガイダンス等を届け、その内容を説明するなどして接触し、親密な関係を築いていたが、その主たる内容(文部省リレーションを開始する前の辛村との関係を含む。)は次のとおりである。
(一) リクルートは、五一年五月に専修学校等の経営者らを対象とする「リクルート各種学校セミナー」を開催したが、五〇年に改正された学校教育法が五一年に施行されたことにより専修学校が制度化されたことから、右法改正当時に専修学校等の問題を所管する文部省管理局振興課の課長として法改正に関与した辛村を招待して講演をしてもらった。そして、新宿所在のスナック「夏」において、辛村がリクルートの専務取締役であったR8と知り合い、以後、同店等で同人と交際するようになったことなどもあって、リクルートは辛村と接触を持つようになった。
(二) リクルートは、五五年六月五日のリクルート創業二〇周年記念謝恩の集いに管理局審議官をしていた辛村を招待し、また、同年一二月九日の教育機関広報事業一〇周年謝恩の集いに、社会教育局長をしていた辛村を招待した上、会に先立って、辛村に祝辞の資料としてリクルートの会社概要や進学情報誌事業の概要等に関する資料を交付し、同事業に対する理解を求めた上、来賓として祝辞をもらった。辛村は、この祝辞の中で、「リクルート進学ブックは、専門学校等の振興に大きく貢献している」、「専修学校制度ができて、高校生の専修学校への進学もだんだん増えてきた。その中でリクルートの高校生に専修学校を紹介する諸事業が役立っている。これからも頑張ってもらいたい。」などと述べた。なお、このころ、R8を介して、被告人と辛村が面識を持つようになった。
また、リクルートは、五五年六月に辛村が社会教育局長に就任して以降、中元、歳暮を贈り、五六年七月に辛村が体育局長に就任したころからは、これに加え、年賀として自宅に伊勢海老等を届け、五七年七月に辛村が文部大臣官房長に就任した後は、昇任のたびに昇任祝いを贈呈するようになった。
(三) 辛村が五八年七月に初中局長に就任して以降、文部事務次官を経て六三年六月に退官するまでの間は、以下のような接待や働きかけをした。
(1) リクルートでは、五九年三月のリクルートの社名披露謝恩の集いや、同年八月のリクルートとらばーゆカッププロアマトーナメント、六〇年四月五日のリクルート二五周年謝恩の集い等のリクルート主催のパーティーやゴルフ大会といった行事に辛村を招待した。
(2) R37は、五九年一〇月ころ以降、毎月一回から二回程度の頻度で、初中局長室を予約なしに訪問し、辛村にキャリアガイダンスやその他リクルート発行の情報誌等を無償で提供したり、折に触れてリクルート進路情報部の業務内容やリクルート進学ブックのことなど進学情報誌事業の概要を説明するなどして、同事業に対する理解と協力が得られるように努めた。
(3) R12、R37らは、六〇年九月七、八日、辛村及びD9職業教育課長を岩手県内の○○レックに招待して一泊二日のゴルフの接待をしたほか、同年一一月二九日、R12の主催で、辛村を主賓とし、ほかにD8私学部長、D13初中局高校課長ら文部省高等教育局及び初中局の幹部職員数名を招いて囲碁大会を開催した上、飲食の接待をした。
(4) R12の後任として六一年八月に教育機関広報事業部門担当取締役に就任したR34、R37の後任の進路情報部のR40らは、六一年八月一五日ないし一七日、辛村をその秘書役の文部省職員とともに岩手県内の△△カントリー倶楽部及び△△レック等に招待して二泊三日のゴルフの接待をした。
(5) 被告人は、五九年三月一四日ころ、R12らとともに、辛村ら文部省の幹部職員を文部省OBの政治家とともに割烹「子」に招待して接待したほか、同年一〇月六、七日、R12、R37らとともに、辛村のほか、D2文部大臣、D3高等教育局長、D8私学部長、D13初中局高校課長ら文部省の幹部職員を○○レックに招待してゴルフや飲食等の接待をした。また、被告人は、六一年一月、辛村の長男の結婚式に招待され、結婚祝いとして二二万八〇〇〇円相当のワイングラスを贈り、同年六月、辛村の文部事務次官就任祝いとして、同人に株式会社柿右衛門窯製の陶器等を贈るとともに、同年八月六日ころ、辛村の文部事務次官就任祝いとD3前事務次官退任の慰労会の名目で、R12、R34らと、料亭「申」において辛村ら文部省の幹部職員に飲食の接待をした。なお、被告人と辛村は、リクルートの接待の席や文部省等の審議会以外で会うことはほとんどなく、政治家のパーティ等で顔を合わせても、会釈や簡単な挨拶を交わす程度の間柄であり、被告人から辛村への年賀状や暑中見舞いも、社長としてのものであって個人的な親しさを示すものではなく、辛村の側から被告人に対して年賀状等や中元、歳暮等を贈ったことはなかった。
(6) 六一年四月ころ、R37が辛村から、辛村の友人が理事長を務める社団法人○○協会の無人島生活体験事業へ寄付してほしいと依頼され、それまでリクルートは同協会からの協賛依頼に応じたことがなかったにもかかわらず、同年五月三一日、被告人の決裁で、同協会に協賛金として一〇〇万円を寄付した。
(〈証拠略〉)
3 右1及び2に関する被告人の認識について
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、元年三月三一日、同年四月四日及び同月一八日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「リクルートの業務と文部省との関係については、これまで検事に詳しく説明してきたように、KKK事業等で関係がありました。リクルートの業務と行政との関係については、就職情報誌の関係で労働省と、高校生向け進学情報誌等との関係で文部省とそれぞれ接点があり、行政庁の行政指導等により、直接もしくは間接的にリクルートの業務に影響が生じる関係にありました。そのようなことからリクルートとしても円滑に事業を進めていく上で、文部省と良好な関係を維持しておく必要がありました。」(元年四月一八日付け検面調書・乙書4一二)
「KKK事業が直接文部省から許認可を受けてやっている事業というわけではないのですが、文部省の考え方なり方針は知っておく必要がありました。といいますのは、文部省は、KKKのスポンサーである大学、短大等の監督官庁であり、専修学校等に関しても、都道府県の所管部局とともにこれを指導する立場にありました。また、全国の各高校や高校教師に対して、都道府県教育委員会を通じて、指導する立場にありました。通知、通達等による文部省の指導は、当然、現場の先生方の教育方針、教育方法に影響を与えるものでした。〔中略〕このように、文部省は、KKKの業務において、大学、短大等のスポンサー側、及び高校側の双方を指導する立場にありました。しかし、KKK事業にとっては、特に文部省との関係で重要なのは、高校現場に対する指導内容であり、これを担当していたのは文部省の初等中等教育局であり、その中の進路指導を担当しているセクションでした。そのような意味で、リクルートとしても、文部省の関係部局の人に、リクルートに対する理解を示してもらう必要がありました。文部省の考え方や方針をいち早く聞いておく必要がありました。このようなことから、KKK事業において、文部省とのリレーション活動をしていたのです。」(元年三月三一日付け検面調書・乙書4六)
「私は、辛村さんを含めて文部省の幹部をリクルートの会社の費用で飲食、ゴルフ等の接待をしたことがありますので、それらについて説明します。〔中略〕五九年ころに浅草の『子』という料理屋で〔中略〕接待をした理由ですが、私としては辛村さんや文部省OBでもあるZ議員と個人的にも親睦を深めようという意味と、併せてリクルートがKKK事業等の関連で文部省と関わり合っておりますので、文部省の幹部である辛村さんらと良好な人間関係をつくり、リクルートに対する理解を深めてもらい、それがリクルートの業務運営にも役立つだろうという意味の両方の意味をもって接待したものでした。」(元年四月四日付け検面調書・乙書4九)
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階(〈証拠略〉)において、リクルートのKKK事業と文部省との間に具体的な関わりがあるという認識はなく、KKK事業が文部行政の動向によって左右されたり、影響を受けたりするという認識はなかったし、KKK事業が行っていた高校生のリスト収集や宅配等について文部省が規制や行政指導をしてくると考えたこともなく、専修学校等は文部省の管轄ではないと思っており、進路情報誌の内容についても文部省とは関係のない事柄だと思っていたので、文部省と良好な関係を作ればKKK事業にプラスになることがあるとは思っていなかったし、文部省リレーションという言葉は聞いたことがなかった旨供述している。
(三) 検討
被告人の公判段階における右(二)の供述は、その内容自体が不合理なものであるばかりでなく、
① 被告人が、リクルートの進学情報誌の配本業務が高校の進路指導担当教諭らの理解と協力を必要不可欠とするものであると認識していたこと(〈証拠略〉)、
② 被告人が、代表取締役在任中から、初中局が高校に関する事務を所掌し、通知、通達等により、都道府県教育委員会を通じるなどして高校における進路指導教育に関し指導等を行う権限を有する部局であることを知っており、六〇年九月に職業教育課が担当して初中局が主催する「進路指導担当指導主事研究協議会」の特別講師として招かれて進路指導に関するテーマで講演した経験等を通じ、同課が高校の進路指導教育を所管しているという認識を有していたこと(〈証拠略〉)、
③ 被告人が、かつて、中学校の進路指導に関し業者テストへの依存や業者との癒着の実態等が問題視された際、文部省が都道府県教育委員会等宛に通達等を発出して是正指導を行った経過(本章第二の三1)を知っており、このような文部省の行政指導が学校に関係する業者の事業活動に何らかの影響を及ぼすことを認識していたこと(〈証拠略〉)、
④ 被告人が、代表取締役当時から、リクルートの各事業部門において「行政リレーション」活動が行われているのを認識していたこと(〈証拠略〉)
という被告人自身も同じ公判段階において認めている諸事実に照らすと、不自然かつ不合理である。
また、被告人の公判段階における右(二)の供述は、被告人が、それ以前の被告人質問(〈証拠略〉)の際、大学や高校における進路指導も教育の一環である旨供述した上で、「大学生、高校生の進路指導の問題について文部省と意見の交流と申しましょうか、文部行政の襞に合わせて仕事をしていくというのがリクルートのスタンスでございましたから。」などと供述していることと明らかに矛盾するものである。
したがって、被告人の公判段階における右(二)の供述は信用することができない。
他方、被告人の捜査段階における右(一)の供述は、リクルートにおいて行政リレーションが全社的方針となっており、教育機関広報事業部門では文部省リレーションの強化拡大が事業遂行上の課題とされていたこと、これらの方針は、被告人も出席していた取締役会等で度々確認された上、議決事項がRMBに掲載されたり、進路情報部のアニュアルレポートに方針が明記されるなどしていたこと、実際にも、進学情報誌事業に対するマスコミや高校教諭らの批判が強まる中、被告人のほか教育機関広報事業部門に関係する役職員が辛村をはじめとする文部省の幹部職員らに対する接待等を重ねて、同人らとの良好な関係の維持強化を図っていたことなどの当時の客観的状況に照らしても、自然かつ合理的であって、信用性が高い。
なお、被告人は、辛村ら文部省の幹部職員を接待したことに関する検面調書の記載について、「その調書に署名しなければ、長期勾留するということを言われたり、大声でどなられたり、ひょっとすると判決まで、おまえ、ここにいることになるぞと、ここから裁判所へ通ってもいいのかというふうなことを激しく言われて、やむなく、それに署名したということです。」(〈証拠略〉)などと任意性を争うような供述をするが、後に、被告人自らが関与した接待等について、「株譲渡の趣旨については争いましたけど、接待だけについては、そんなに、長期勾留するぞというふうなことは言われなかったんじゃないかと思いますが。」(〈証拠略〉)などと供述を変遷させ、さらに、部下が行っていた接待等について、検面調書(乙書4九)の記載が「それぞれの担当者に任せておりましたので、詳しいことはそれぞれの担当者から聞いて下さい。」などという記載、すなわち、被告人は部下の接待について知らなかった旨の被告人の主張を取り入れた記載になっていることを検察官から指摘されるや、「接待のことで、私はそんなに脅かされたという、長期勾留すると言われたことは……。」(〈証拠略〉)などと口ごもり、「〔前回は〕あんまり根拠がなくて覚えてないけども、言っちゃったということですか。」という検察官の問いに対し、「……そうですかね。」などと、記憶がないまま根拠なく供述したことを認めているのであって(〈証拠略〉)、任意性については何ら問題がない。
そして、本章第二の四2のとおり、被告人がリクルートの進学情報誌事業に対する批判の動向を把握しており、これが同事業の円滑な遂行に支障を来す事業環境上の問題であると憂慮していたことをも併せ考慮すれば、リクルートの代表取締役の立場にあった被告人が、高校の進路指導教育の現場における進学情報誌の取扱い等に関する文部省の行政措置の動向がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に多大な影響を及ぼし得ることを承知し、かつ、文部省が都道府県教育委員会を通じるなどして高校の進路指導担当教諭らに対し、リクルートの進学・就職情報誌の配本やその使用、高校生リスト収集に対する協力等の自粛等を促すような措置に及ぶことを懸念し、その動向を警戒していたことは疑いようがない。また、被告人において、被告人自身が教育機関広報事業部門の役職員とともに実行していた文部省リレーションの目的が、初中局長あるいは文部事務次官であった辛村をはじめとする文部省の幹部らとの人的信頼関係を深め、リクルートの同事業に対する理解を求め、同事業の遂行に関連する情報を早期に収集するなどのほか、リクルートの同事業の配本業務の遂行に影響を与えるような措置を回避することにもあるという認識を有していたこともまた明らかである。
4 千葉県主事会の申合せ採択後の文部省の動向への対応
当時、リクルートにおいて、文部省リレーションの中心的担当者であったR37は、六〇年度の全高進大会が終了して一週間後ころ、助言者として同大会に出席していたD10調査官を訪問し、千葉県主事会の申合せを話題にするなどして、同人から文部省の反応を探ったが、同人が申合せのことについて特に詳しく聞いてくることはなく、むしろ同人から「千葉県一県の問題じゃないか。」「ほかの県の動きは聞いていない。」などと言われた上、初中局職業教育課の課長や局長からは考えを特に聞かされておらず、「〔課長や局長は〕何も考えてないと思う。」と告げられ、文部省としてはそれほど問題にはしていないであろうという感触を得た。
また、R37は、R12らとともに、六〇年九月七、八日に辛村とD9課長をゴルフに接待し(右2(三)(3))、その際に反応を探ったが、辛村やD9課長から右申合せに関する具体的な話が出なかったことから、文部省には各高校に対しリスト収集に協力しないように指導するなどの動きはないという感触を得て、これらの結果を、随時、上司のR12に報告するなどしていた。
(〈証拠略〉)
5 専修学校改善協力者会議への対応
本章第二の三3(二)のとおり、六一年一月二三日、文部省高等教育局私学部私学行政課に専修学校改善協力者会議が設置されたが、R37は、この会議の設置前に、D10調査官から、会議の主な調査研究事項が専修学校に関する「適正な生徒募集のあり方について」、「高等学校における進路指導の充実について」などとされ、同会議の座長にはQ9が選任される予定であり、進路指導もテーマになることからD10調査官もオブザーバーとして同会議に列席することになっているという情報を得た上、同会議の趣旨、調査研究事項等が記載された同月二三日付け高等教育局長裁定の実施要領及び協力者委員の名簿を入手した。そして、同会議の調査研究事項等の内容に加えて、委員一五名中にリクルートに批判的な立場を取る者もいると見たことなどから、進学情報誌を巡る問題点が直接の議題にはなっていないものの、同会議の議論が進学情報誌の誇大広告掲載問題、宅配問題等に及ぶ可能性があり、リクルートの進学・就職情報誌事業に悪影響を与えかねないと危惧し、同月二四日の教育機関広報事業本部会において、右会議の調査研究事項につき説明した上、「今後の動向を慎重に見守っていく必要がある。」などと報告し、同年三月一〇日の被告人も出席した教育機関広報事業部門経営会議においては、資料として調査研究事項等が記載された高等教育局長裁定の実施要領と親リクルート、反リクルートの程度に合わせて◎、○、▲等の記号を付した委員の名簿を提出するなどし、「今後の動きに注意を払う必要がある。」などと報告した。
R37は、Q9座長をかねてから度々接待していたところ、六一年三月一二日、 Q9座長に面談し、「リクルートにおいては誇大広告については、広告掲載基準を設けるなどの対応をしている」などと説明し、その後引き続き、R12らにも同席してもらい、Q9座長をD10調査官、千葉県主事会の有力幹部らと一緒に、「秋」及び「クラブ冬」で飲食の接待をした。
六一年三月一七日の第二回専修学校改善協力者会議において、Q5教諭がリクルートを名指しして批判するとともに、高校生リスト収集問題及び宅配問題についても検討すべきである旨の発言をしたことから(本章第二の三3(二))、R37は、右会議終了後、会議内容等の情報を得るとともに、リクルートに対する理解を得るためにD10調査官と面談し、D9課長、D10調査官らを飲食店「花」で接待し、さらにD10調査官を飲食店「鳥」で接待し、同月一九日にも、Q9座長、D10調査官らを「鳥」で接待した。また、R37が同年七月に大阪支社に転勤した後も、その後任のR40がD10調査官やQ9座長からその後の右会議における審議内容等の情報収集に努めた(なお、リクルートの接待伝票によると、同会議が継続した六一年一月から六二年六月までの間にリクルート側がD10調査官に行った飲食等の接待は、少なくとも四〇回以上であり、これらのうち、Q9座長と同席の接待が少なくとも六回に上っていたことが認められる。)。
(〈証拠略〉)
六 リクルートの役職員の文部省所管の各種審議会等の委員等への就任
1 リクルートの役職員の文部省所管の各種審議会等の委員等への就任状況
(一) 文部省は、法律又は政令に基づいて、その所掌事務を処理するに当たり、特定の事項について学識経験者等に調査審議等を行わせるため、大学審議会、教育課程審議会等の審議会等を設置しているほか、文部省の各部局においても、その所管事務遂行の一環として、その事務を効率的かつ的確に処理する目的で、学識経験者等を委員に委嘱し、特定の事項について検討させるため各種協力者会議を設置している。
(〈証拠略〉)
(二) 文部省がリクルートの役職員をその所管する各種審議会や会議の委員、講座の講師(以下「審議会の委員等」という。)に選任した状況は、以下のとおりである。
(1) 被告人を①五四年六月二二日から五五年三月三一日まで「専修学校生徒に対する修学援助に関する調査研究会」(大学局学生課所管)、②五九年四月一三日から六一年三月三一日まで「大学入学者選抜方法の改善に関する調査研究協力者会議」(高等教育局大学課所管)、③五九年一〇月二二日から六一年九月九日まで学校法人運営調査委員(高等教育局学校法人調査課所管)、④六〇年九月一〇日から六三年七月一一日まで教育課程審議会(初中局小学校課所管)、⑤六二年七月から六三年七月まで第二国立劇場設立準備協議会(文化庁所管)、⑥六二年九月一八日から六三年七月一一日まで大学審議会(高等教育局企画課所管)の各委員に選任した。
(〈証拠略〉)
(2) R36を①五四年から五九年七月まで「中学校・高等学校進路指導の手引作成協力者会議」(初中局職業教育課所管、以下「手引作成協力者会議」という。)、②六〇年春から一年間「教育資格認定制度等に関する調査研究協力者会議」(教育助成局教職員課所管)、③六三年「進路指導の総合的な実態に関する調査研究協力者会議」の各委員に選任し、④六〇年ないし六二年度の中央講座(大学・専修学校情報等)の講師に選任した。
(〈証拠略〉)
(3) R37を①五九年八月二二日から六一年九月一六日まで(R36の後任として)手引作成協力者会議、②六〇年九月五日から六二年三月三一日まで(後記(4)のR35の後任として)「産業教育の改善に関する調査研究協力者会議」(初中局職業教育課所管、以下「産業教育改善協力者会議」という。)の各委員に選任し、③六〇年ないし六三年度の中央講座の講師に選任した。
(〈証拠略〉)
(4) R35を六〇年五月二七日から九月四日まで産業教育改善協力者会議の委員に選任した。
(〈証拠略〉)
(5) R8を六一年九月二四日から六三年まで(被告人の後任として)学校法人運営調査委員に選任した。
(〈証拠略〉)
(6) リクルート進路情報部次長のR41を六三年度の中央講座(職業・大学情報)の講師に選任した。
(〈証拠略〉)
2 リクルートにおける文部省の審議会の委員等への就任の位置づけ
リクルートでは、本章第二の四1(一)のとおり、教育機関広報事業は企業イメージが媒体効果に大きく影響する事業であり、事業を円滑に遂行するに当たっては、高校生とその家族、高校教諭及びクライアントである専修学校等の自社に対する社会的信用が重要であると認識しており、実際にも、本章第二の五1のとおり、文部省リレーションの一環として、リクルートの発行する雑誌に文部省の職員から寄稿を受けたり、リクルートの開催する講演会やシンポジウム等で文部大臣ら文部省の高官に講演をしてもらったり、各地の主事会等から依頼を受けて文部省の職員を講師として派遣する仲介を行うなどしていたところ、さらに、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることは、審議会や会議等の場で、文部省の幹部らと親交を深め、また、進学・就職情報誌事業に関連する文部行政の動向等の情報を収集できる上、専修学校等経営者や高校教諭らにリクルートが文部省から信頼されているという良好な社会的イメージを与えることになるなど、積極的な効果が期待できるものと評価していた。
リクルートは、五九年一月一八日のじっくり取締役会議において、当時、労働省については就職情報誌事業との関係で、建設省については住宅情報誌事業との関係で、文部省については進学情報誌事業との関係でいずれも右各省庁から情報を得るとともに、各省庁と緊密な関係を作り上げる必要があることから、「業界団体・行政への応分参画」として、労働省、建設省、文部省の三領域で、委員会組織へ積極的に参画する旨の方針を決定し、右議事経過は、社長室課長のR1が議事録を作成した上、右決定の内容は、RMBに掲載されるなどして社内に通知された。
リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に就任した状況は、右取締役会の決定前は、被告人が「専修学校生徒に対する修学援助に関する調査研究会」の委員に、当時教育機関広報部の大学課長又は企画課長のR36が手引作成協力者会議の委員に就任していた程度であったところ、右決定後は、右1のとおり、各役職員が審議会の委員等にそれぞれ就任し、その就任数が大幅に増加した。
リクルートは、六〇年九月四日のRMBに、「このたび、甲野さんが関係各方面の要請を受けて、文部省・教育課程審議会の総括委員および政府税制調査会の特別委員にそれぞれ就任することとなりました。」などと任期や他の委員候補者の氏名とともに掲載して社内に周知させ、また、新卒者採用のためのリクルートの会社案内にも、被告人の肩書として「文部省教育課程審議会委員。政府税制調査会特別委員。」という記載をした。
また、リクルートは、六一年一月二二日の取締役会において、文部省等の各省庁及び経済団体等の委員就任に関する情報の統括を取締役であるR2の担当とし、社長室文書課で取り扱うこととして、早急にリスト化を進めることを決定し、以後、委員就任状況を同課で取りまとめ、その結果を被告人をはじめ各取締役に報告していた。そのため、被告人は、リクルートの役職員が各種審議会の委員等に就任していることを把握していた。
(〈証拠略〉)
3 右1及び2に関する被告人の認識について
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、元年三月三一日及び同年四月二日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「お示しの書面〔甲書4三四四〕は、リクルートの社長室のR1が作成したもので、昭和五九年一月一八日開催のリクルートのじっくりT会議、つまり取締役会の議事内容を記載したものに間違いありません。お示しの議事録の5の項目の部分に『労働、建設、文部の三領域で委員会組織へ参画していく旨、一致をみた』とありますが、たしかにこの時のじっくりT会議において、取締役全員の意見一致でこのような決定がありました。この決定内容の意味ですが、リクルートにおいては、今後、リクルートの役員、社員が、関係する省庁である労働省、建設省、文部省の各省の委員会等の組織へ積極的に委員等になって参画していく方針を出したというものでした。労働省については、リクルートは、就職情報誌を出している関係で関連があり、建設省については、住宅情報誌等を出している関係で関連があり、文部省については、教育機関広報事業等の関係で関連がありました。教育機関広報事業というのは、『リクルート進学ブック』と呼んでいる高校生向けの進学情報誌や『キャリアガイダンス』と呼んでいる高校の先生向けの進路指導等に関する情報誌などを出している事業です。リクルートとしては、ずっと以前は、各省庁等への委員の参加はあまり積極的ではなかったのですが、昭和五九年ころからは、積極的に参加する方針を出したのでした。積極的に委員等を引き受けるようになった理由ですが、まず第一には、情報収集という面があります。関係する省庁の会議等に参加して、各省庁の行政上の方針、考えというものを知ることができますし、当該会議に参加している人達と意見交換し、勉強させてもらうという意味がありました。各業務を進めていく上で、関係省庁の考え方や方針を知っておくということは必要なことであり、その意味でも情報収集の意義がありました。二番目の理由として、関係する省庁の委員会に参加して、良好な人間関係を維持しておきますと、リクルートの業務運営においても、対行政との関係で円滑に業務の遂行が出来るだろうということがありました。特に情報誌などを出しておりますと、様々な形で関係省庁の関係者と接して、人間関係を良好にしておくことが円滑に業務を進めるためには必要でした。さらにもう一つの理由として、敢えて付け加えますと、リクルートの役員、社員が各省庁の委員会等各種会議の委員に選任されることは、本人にとっても会社にとっても名誉なことでありました。各省庁の委員に選任されて公的な肩書きが付くことは、それなりに社会的評価が高まることになります。以上のような理由から、リクルートとしても関係省庁の委員会等へ積極的に参加する方針を出したのでした。私が選任されていた個々の委員会、審議会等の各会議の委員については、選任された時期、選任された経緯等についてよく思い出して、後日お話しいたします。」(元年四月二日付け検面調書・乙書4八)
「例えば、文部省の進路指導の担当者に『キャリアガイダンス』に寄稿してもらったり、文部省の担当者に接して文部省の考え方や方針を聞いたり、リクルートの業務を説明して理解を示してもらったりしました。また、KKK事業関係者のR37やR35などが文部省の進路指導関係の協力者会議の委員に選ばれて、会議に参加して、文部省の考え方を知ったり、勉強させてもらったりしました。私は、当時の社長室のR1やR38からの報告で、R37らがこれら会議の委員に選任されることに関して、文部省初中局から私に対し、承諾依頼書が来たのを知っており、私は、R37らが委員になることを承諾する旨の回答をすることを了承しております。」(元年三月三一日付け検面調書・乙書4六)
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階において、取締役会で役所を限定して文部省等の所管する委員会組織に積極的に参画していく方針を決めた記憶はなく、リクルートの社員が文部省所管の審議会の委員等に就任していたことも知らず、文書課で委員就任状況をリスト化したとしても、全部集めて報告したということはなかったと思うし、自分が就任したもの及び自分の後任としてR8が就任したものを除けば、R36、R37、R35らの文部省所管の協力者会議の委員就任については全く認識しておらず、自分が教育課程審議会の委員に就任したのは、辛村から熱心な就任要請を受けて断りきれなかったためであり、同委員への就任がリクルートの信用を上げることにつながると考えたことはなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
(三) 検討
被告人の捜査段階における右(一)の供述は、これに合致する「業界団体・行政への応分参画」について検討した五九年一月一八日のじっくり取締役会議の議事録(甲書4三四四)及びその会議の内容を報じるRMBの記事(甲書4五一〇)、官庁等の委員就任に関する情報の統括社長室文書課で取り扱い、早急にリスト化を進める決定をした六一年一月二二日の取締役会の議事録(甲書4六六八、甲物4四一三)等の客観的な証拠の存在によって裏付けられているほか、この取締役会の決定に従い、社長室文書課で各役職員の委員就任状況を取りまとめて報告書を作成し、被告人名義の委員就任の同意書を作成するに当たっては、被告人に報告して了承を得た上で行っていた旨の社長室文書課のR38の供述(〈証拠略〉)等によっても裏付けられている。また、現にQ2事務局長は、被告人が教育課程審議会の委員に就任し、R36やR37が進路指導の手引の作成員等に就任していたことが一種の安心感を持たせる一つの原因になっていた旨供述し(〈証拠略〉)、Q5教諭も、被告人が教育課程審議会の委員になっていたことにより先生方にリクルートの会社自体に対する信頼感を与えた部分がかなりあると推測する旨の供述をする(〈証拠略〉)のであって、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に就任していることにより、高校教諭や全高進関係者から、リクルートに対する信頼感や安心感を獲得していたことが認められる上、進路情報部高校課長として高校教諭らと日常的に接触していたR39や、教育機関広報事業部の企画課長を務めていたR36、さらには、進路指導担当の教科調査官であったD10も、それぞれ右信頼感や安心感をもたらす効果があったことを認める供述をしている(〈証拠略〉)。
さらに、関係証拠(〈証拠略〉)によって認められるとおり、リクルートとしては、文部省所管の手引作成協力者会議や産業教育改善協力者会議のほか、中央講座の講師についても、これらに就任していたリクルートの役職員の任期満了や他部署への異動等に伴う後任者の選任に当たり、リクルートの役職員を推薦するなどして、積極的な対応をしており、被告人自らも、学校法人運営調査委員につき自己の後任者としてR8を推薦し、教育課程審議会の委員については辞退することなく再任を承諾していた上、六二年九月には大学審議会の委員にも選任されたこと、被告人が教育課程審議会や大学審議会の委員に就任したことが当時の新聞で全国報道されたところ、リクルートではRMBにその紹介記事を掲載して社内に周知させるとともに、リクルートの会社案内に被告人の肩書として教育課程審議会の委員等を明記するなどして、対外的な資料にも掲載していたことなどの当時の客観的な事実をも併せ考えれば、被告人の捜査段階における右(一)の供述は自然かつ合理的であって、信用性が認められる。
これに対し、取締役会で文部省等所管の委員会組織に積極的に参画する方針を決めた記憶はなく、審議会の委員等への就任がリクルートの信用を上げることにつながるとは考えていなかった旨の被告人の公判段階における右(二)の供述は、これらの事実に反し、内容自体不合理というべきである。
したがって、右2のとおり、リクルートでは、被告人を含む役職員が文部省所管の各種審議会、会議等に積極的に参画していくことがリクルートの業務遂行上の利益に資するものであると評価し、被告人をはじめとする取締役会における決定に基づく全社的方針の下、積極的に審議会の委員等に就任していたのであり、被告人がその就任状況を認識していたことは、明らかである。
4 右1ないし3に関連する弁護人の主張について
(一) 弁護人は、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に就任した経緯からすると、文部省による就任要請に対しリクルート側が協力したのであって、リクルート側から積極的に就任を要請したという事実はないこと、多忙な役職員にとって委員等に就任することは負担であったことなどを指摘して、辛村による好意的な取り計らいには当たらない旨主張する。
確かに、弁護人の指摘するとおり、委員会等への出席が負担ともなり得ることは事実であり、リクルート側が積極的、明示的に審議会の委員等の就任を要請し、働きかけた事実は認められず、また、文部省がリクルートの有する調査統計資料の蓄積を評価しており、その情報力や被告人の名声を利用したいなどという文部省側の思惑から、リクルートの役職員を審議会の委員等に選出したという事情も窺われる。
しかし、リクルートでは、右2の方針の下、文部省リレーションと称して、積極的に文部省関係者と接触を図っていたのであり、文部省所管の審議会の委員等に就任することが文部省の幹部や一緒に委員となる教育関係者等との人間関係を円滑にし、事業上有益な情報収集にも役立ち得るという側面があることを考慮すれば、審議会の委員等への就任は、文部省リレーションの成果であるとともに、文部省リレーションの一環であるともいうことができる。だからこそ、被告人をはじめとするリクルートの役職員は、辞退の意思を表明することもありながらも、結果的には就任し、また、後任としてリクルートの社員を推薦するなどしていたのである。
そうすると、リクルート側が審議会の委員等への就任について積極的、明示的に要請したわけではなく、文部省としては省側の必要性もあってリクルートの役職員を委員等に選任したという弁護人指摘の事情が存在するにしても、右のとおり審議会の委員等への就任が文部省リレーションの一環であり、後記(二)ないし(四)のとおり進学・就職情報誌事業の業務遂行の利益ともなっていると認められる以上、審議会の委員等への選任が好意的な取り計らいとなることが否定されるものではない。
(二) 弁護人は、リクルートの役職員が委員等に就任していた各種審議会等がリクルートの進学情報誌事業と直接の関係がなく、進学情報誌事業に関連する文部行政の動向等の情報を的確に収集できるものではなかったなどとして、審議会の委員等に就任することがリクルートの利益にはならない旨主張する。
しかし、各審議会等で取り扱うテーマが直接には進学・就職情報誌事業に関わらないとしても、その審議等の過程で、文部省の担当者や他の委員から同事業の遂行に有益な情報を得るということは十分に期待できることであるし、しかも、リクルートが得ようとしていた情報は、進学情報誌事業に直接関係する情報に限らず、広くリクルートの事業一般に関係する情報も含むとみられるところであるから、弁護人の主張は失当である。
(三) 弁護人は、委員会はそのメンバー同士の話し合いの場であり、行政省庁の幹部職員が出席するのは初回と最終回の挨拶程度であって、職員との人間関係が深まる場とはほど遠く、また、委員の数は膨大であり、わずか数名のリクルートの社員が審議会の委員等に就任したからといって、不利益な行政措置を回避する環境が形成されるとは到底認められないなどと主張する。
しかし、リクルートは、文部省リレーションと称して文部省との様々な接触の機会を持ち、親密な人間関係を構築し、情報収集に当たろうとしていたのであるから、その一環として審議会の委員等への就任があったとも位置づけられる以上、その就任により文部省の幹部職員との直接的な接触のみを求めていたとはそもそも考え難い。むしろ、リクルートの役職員が審議会の委員等に就任することにより、文部省リレーションが多様化し、充実することは明らかであり、これにより、リクルートと文部省との関係が深まり、その結果、リクルートの業務に不利益な行政措置を早期に察知し、あるいは回避し得る可能性が高まることは容易に想定し得るところであるから、弁護人の主張は、合理的なものではない。
(四) 弁護人は、被告人及びリクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることは、リクルートの事業遂行上利益になる点は皆無であり、リクルートの社員が業務遂行上利益になるという意識を持ったり、文部省に対し感謝の気持ちを持ったりすることはあり得ない旨主張する。
しかし、右2のとおり、リクルートは、五九年一月一八日のじっくり取締役会議において、文部省については、進学・就職情報誌事業との関係で、情報を得るとともに、緊密な関係を作り上げるために、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることが望ましく、これによりリクルートに対する社会的評価が高まることなどを理由として、委員会組織へ積極的に参画するという方針を決定したこと、被告人の委員就任を報告する記事をRMBに掲載した上、新卒者採用のためのリクルートの事業案内にも被告人の肩書を掲載させたこと、実際にも、高校教諭らにリクルートに対する信頼感を与えていたことなどに照らすと、リクルートの役職員が審議会の委員等に選任されることは、リクルートの事業遂行上、利益とみられるものであったことが明らかであり、これについて被告人らリクルートの幹部や進学・就職情報誌事業担当者が文部省に感謝の気持ちを抱くことも合理的かつ自然である。
5 選任行為についての辛村の関与と認識等
(一) 原議書への決裁等
辛村は、五八年七月五日から六一年六月一六日までの初中局長在任期間中、次の(1)ないし(3)の各選任行為に関与し、同月一七日から六三年六月一〇日までの文部事務次官在任期間中、次の(4)ないし(6)の各選任行為に関与した。
(1) 五八年七月一五日ころ、R36を職業教育課所管の手引作成協力者会議の委員に委嘱する際の原議書を決裁し、R36を同委員に就任させた(右1(二)(2)①)。五九年八月二二日ころ、R36の後任として、R37を手引作成協力者会議の委員に委嘱する際の原議書を決裁し、R37を同委員に就任させるとともに、その後の六〇年九月一七日ころ、R37を同委員に再委嘱するに際しても委嘱の原議書を決裁した(右1(二)(3)①)。
(〈証拠略〉)
(2) 六〇年五月二七日にR35を職業教育課所管の産業教育改善協力者会議の委員に委嘱する際の原議書を最終決裁し、これによりR35を同委員に就任させた(右1(二)(4))。同年九月五日に同人の後任としてR37を同委員に委嘱する際の原議書を最終決裁し、これにより同人を同委員に就任させるとともに、その後の六一年四月四日にR37を同委員に再委嘱する際の委嘱の原議書を最終決裁した(右1(二)(3)②)。
(〈証拠略〉)
(3) 初中局所管の審議会等で最上位に位置づけられる教育課程審議会の委員の選任に関し、六〇年七月三一日、同審議会の所管課である初中局小学校課長から、被告人を同審議会の委員の候補とする原案を示されてこれを了承し、自ら同原案を任命権者である文部大臣に報告して了承を得た上、同年八月二三日ころ、委嘱の原議書を決裁した。その後、自ら被告人に電話して被告人の内諾を得た上で、同月三〇日、同委員任命に関する文部大臣宛の上申書を最終決裁し、その結果、同年九月一〇日、被告人が文部大臣により同委員に任命された(右1(二)(1)④)。
(〈証拠略〉)
(4) 六一年九月二日及びその任期満了後の六二年九月三日、教育課程審議会の委員の任期満了に際し被告人を同委員として再任する原議書を最終決裁し、これにより文部大臣によって被告人が同委員に再任された(右1(二)(1)④)。
(〈証拠略〉)
(5) 六一年九月上旬ころ、高等教育局私学部学校法人調査課長から、同課所管の学校法人運営調査委員につき、被告人が都合により任期途中で同委員を辞任させていただきたく、その後任としてリクルートの役員を推薦すると申し出ており、また、調査課長としてもその方向で選任したいという報告を受け、被告人の推薦する人物が未定であったにもかかわらず、同申出を了承し、同月一〇日、被告人の後任としてリクルートのR8を同委員に選任する原議書を最終決裁し、さらに、同月三〇日、残任期の満了に際して同人を再任する原議書を最終決裁し、その結果、R8が同委員に任命及び再任命された(右1(二)(5))。
(〈証拠略〉)
(6) 高等教育局所管の審議会等の中で最上位に位置づけられる大学審議会について、六二年九月一一日、同審議会の委員として被告人を選任する原議書を決裁し、その結果、被告人が同委員に任命された(右1(二)(1)⑥)。
(〈証拠略〉)
(二) 辛村の行為がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に利益となること
本章第二の三1のとおり、文部省がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行と関係する行政機関であり、その行政措置の内容いかんがリクルートの右事業の遂行に大きな影響を与える関係にあった上、本章第二の二、五のとおり、リクルートの進学情報誌事業に対し各方面から批判が集まっていた状況の中で、リクルートが、その批判等に対応するために、文部省と緊密な関係を保って、文部省の行政の動向等の情報を入手し、その対策を講ずる必要があり、その観点から、リクルートの役職員を文部省所管の各種審議会等の組織へ積極的に参画させる方針を採るに至っていたのであるから、リクルートの役職員について文部省所管の審議会の委員等に選任する原議書を決裁した辛村の右(一)の職務行為がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に利益となる面を有することは、明白である。
(三) 右(一)及び(二)に関する弁護人の主張及び辛村の供述
(1) 弁護人の主張
弁護人は、審議会の委員等の選任に関する辛村の決裁行為は、所管課から上げられた意見をそのまま承認し、所管課が行う具体的な検討内容について特に異議を唱えないなど、合理的な行政慣行に従った通常の処理の範囲内の行為であって、辛村自身が主体的、積極的にリクルートの社員を委員等に選任したという事情はないから、リクルートや被告人に対する特別な配慮が存在する余地はなく、また、原議書等による決裁の実情は、部下を信頼した形式的な決裁であったり、預けていた三文判により代理決裁されたものもあるなど、辛村が詳細な内容を把握していないことの方が自然であり、辛村において好意的な取り計らいをしたという認識が生じることはなかったなどと主張する。
(2) 辛村の捜査段階における供述
辛村は、元年四月四日、同月八日及び同月一五日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「教育課程審議会というものは、日本の初等中等教育の根幹を定めるもので教育に関係する者にとっては、社会的地位にもなり、いわゆる箔が付くことになるものでもあるのです。ですから、教育関係者は、教育課程審議会の委員就任の話を持って行けば、ホイホイといった感じでその話に乗ってくるのです。ですから、教育関係者については、形の上では、こちらからお願いすることになるのですが、私達の気持ちの中では、委員として使ってやるという思いがあるのです。ただ、経済人や文化人になるとそんなにホイホイといった感じでは話に乗ってこず、一応忙しいということを口実に辞退する人もいますが、必ずしも毎回、出席する必要はないと言えば、大底〔原文のまま〕の人はその話に乗ってきます。財界人、文化人の中にも教育課程審議会の委員になることを社会的ステータスと考え、喜ぶ人もいます。」(元年四月四日付け検面調書・甲書4三二四)
「通常は、教育関連事業をしている人達は、文部省の協力者会議の委員になれば、行政側やその周辺の情報を入手する場合に便利なので、就任を喜ぶ場合が多いと思います。ただ、その人がその企業で忙しい立場にいると有難迷惑という気持ちもあるかもしれません。要するに、こちらは喜ぶだろうと思っていても、本人は、そう思わない場合があるのです。」(元年四月八日付け検面調書・甲書4三二七)
「大学審議会の委員や協力者会議の委員になれば、リクルートの様に大学や高校を利用して事業している、いわゆる教育関連の会社の人間にとっては、箔も付きますし、情報収集という面でも役に立つと理解しておりました。」(元年四月一五日付け検面調書・甲書4三三二)
(3) 辛村の公判段階における供述
辛村は、公判段階において、文部省所管の審議会の委員等の選任に際し、決裁をすることにより自分が行政上の責任を負うが、誰が委員かなど具体的内容については承知しておらず、また、リクルートの役職員を選任することがリクルートの事業上便宜を与えることになるという認識はなかったし、リクルート関係者が選任を喜んでいたかどうかも分からなかったと供述している(〈証拠略〉)。
(四) 辛村の認識に関する検討
(1) 文部省所管が所管する審議会の委員等の選任についての辛村の認識に関連して、当時、文部省所管の各種委員の選任に関わった文部省関係者は、検察官の取調べにおいて、次の趣旨の供述をしている。
ア D9の供述(甲書4二一二)
D9は、職業教育課長をしていた当時(五九年九月一日から六三年六月九日まで)、各種委員の選任に関わっており、六〇年五月上旬ころ、産業教育改善協力者会議の委員選任に関与したが、D10調査官がR35を委員候補のリストに挙げてきた際、既に手引作成協力者会議の委員を委嘱していて面識があり、接待を受けていたR37の上司でもあったことから、D10調査官の推薦を了承し、その選任について初中局長であった辛村から原議書による決裁を受けるに当たり、それに先立って、D9が産業教育改善協力者会議の趣旨や研究事項等を記載した書面のほか、委員選任予定者の氏名及び所属・役職を記載した「産業教育の改善に関する調査研究協力者(案)」と題する書面を用意した上、自ら直接辛村に示しつつ、説明をして、了承を得たことを供述している。
D9は、委員選任の手続や経緯、その時々の状況について具体的に供述する上、自己がリクルートから数々の接待を受け、それに少なからず影響されてリクルートの役職員を委員等に選任してしまったことにつき反省の言葉を述べるなど、真摯な供述態度も認められるのであって、その供述は信用することができる。
イ D14の供述(甲書4二二一)
初中局小学校課長として各種委員の選任に関わっていたD14(以下「D14」という。)は、六〇年九月一〇日付けで発足した教育課程審議会の委員の人選に当たり、同年四月ころ初中局長の辛村から、教育課程審議会を動かす準備をするように指示されるとともに、その人選に当たっては、①臨教審のメンバーに負けない人物であること、②広い分野から選任すること、③同年九月に間に合うことなどの指示を受けたため、その指示に従い、課内や関係各課と協議した結果を取りまとめて、同年七月三一日、D16審議官及びD5専門員と一緒に局長室の辛村を訪ね、被告人を含む委員の名簿案等の資料を示して、概括的な説明をしたところ、辛村から女性委員の割合や委員長の能力等について言及があった上で了承され、さらに辛村が文部大臣の了承も取り付けたことを供述している。
D14の供述は、委員選任の手続や経過について、具体的、詳細に述べるものであり、その内容も、D14の指示を受けて人選に関わったD5の詳細な供述とも合致している上、D14が委員選任の経過等について殊更に虚偽の供述をする理由を見い出せないから、その供述は信用することができる。
(2) 右(1)のD9、D14、D5の捜査段階における各供述等によれば、辛村が右の各委員の選任に関し、担当職員から資料に基づき直接説明を受けるなどして、相当程度具体的に認識し、了解していたことは明らかである上、これ以外の各種委員についても相応の方法によりその具体的内容の報告を受けていたことが推認され、この推認を覆すに足りる特段の事情も見当たらないのであるから、これに反する辛村の公判段階における右(三)(3)の供述は信用することができない。
(3) 次に、リクルートの役職員の委員等への選任がリクルートの事業上便宜を与えることになるという認識があったかどうかの点については、これを肯定する辛村の捜査段階における右(三)(2)の供述が存在するところ、辛村が、本章第二の三5のとおり、リクルートの進学・就職情報誌事業の内容を認識し、同事業が文部行政と関係を有し、その動向により影響を受ける事業であることを十分に認識していた上、文部省において、教育行政に長年携わり、大臣官房や初中局等の要職を歴任して文部事務次官にまでなったという経歴を有することからすれば、辛村が、文部行政の動向がリクルートの進学・就職情報誌事業に影響を与えると認識し、かつ、リクルート等の教育に関連する企業の役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることがその会社の信用を高める名誉な事柄であるとともに、情報収集の面でも業務遂行上の便宜をもたらす事柄であり、企業にとって喜ばしいことであると認識し、自負していたことはむしろ当然のこととして理解することができるのであって、その内容には信用性が認められる。
したがって、辛村自身にも、自らが初中局長や文部事務次官として関与し、リクルートの役職員を文部省所管の審議会の委員等に選任したことが、リクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に利益となる面を有すること(右(二))を十分に認識していたことは明らかである。
そして、辛村は、右認識を有した上で、初中局長又は文部事務次官として原議書を決裁したのであるから、辛村の関与が主体的、積極的であったか否か、委員等の選任状況の詳細を認識していたか否かにかかわらず、その選任がリクルートに対する好意的な取り計らいであったことの認識があったものと認められる。
七 辛村に対するコスモス株の譲渡後の進学・就職情報誌事業を巡る状況
1 リクルートに対する批判の動向
リクルートの進学情報誌事業に対する批判は、被告人から辛村に対するコスモス株の譲渡(後記本章第三の一)後も沈静化せず、六一年一一月には、教育専門誌「内外教育」が「制度発足後十年を経た専修学校の『虚像と実像』」という特集を組み、無認可校掲載問題や誇大広告掲載問題に加えて、進学情報誌の広告掲載料が高額であることや、業者と高校教諭との癒着の問題等、進学情報誌事業を巡る問題点を更に指摘した。また、同月二一日の参議院決算委員会において、F6議員が、専修学校に関する問題を取り上げ、専修学校が教育体系の中で良い役割を果たすについては、募集に関するガイドの問題が足かせになっていくのではないかという懸念を述べた上で、リクルートの進学情報誌を名指しして取り上げ、リクルートという一つの業者に高額の広告掲載料を支払って宣伝しなければ生徒の募集が困難であることや、高校での学校説明会も、専修学校が経費を負担し、業者が手配して行われているなど、多額の募集経費を要していることを指摘し、教師や進学指導をする教師に対して専修学校に関する正確な情報が提供されるように文部省に指導の徹底を求める旨の質疑が行われるなどした。さらに、本章第二の二5のとおり、総務庁が六二年一月一二日付けで、行政監察の結果に基づく勧告をし、リクルートの進学情報誌等に掲載された生徒募集の虚偽・誇大広告等の問題点を具体的に指摘するなどした。
このように各方面からの批判が続く中、本章第二の四3のとおり、六二年四月には、リクルートの大口顧客で、派手な広告を掲載してきた無認可校の青山レコーディングスクールが倒産し、在学生が入学金を取られて放置されるという事態が発生し、マスコミによって広く報道されることとなり、リクルート等の進学情報誌が無認可校の広告を掲載してきたことが改めて厳しく批判された。
(〈証拠略〉)
2 リレーション活動の継続
これらの批判を受けて、リクルートでは、その当時いまだ審議が継続中であった専修学校改善協力者会議の最終報告書の内容でリクルートの進学情報誌事業に支障を及ぼすような指摘がなされることを警戒し、進路情報部所属の社員らがD10調査官に接触して最終報告書の内容に関する情報収集に当たった。
また、リクルートでは、文部省に対する総務庁の勧告後の六二年二月一二日、R34、R8らが飲食しながら囲碁のできる「風」で辛村ら文部省の幹部を接待し、専修学校改善協力者会議の最終報告書が採択される直前の同年六月一五日、被告人、R8、R34らが料亭「坤」で辛村ら文部省の幹部を接待し、同年八月二三日、R34らが辛村ら文部省の幹部を神奈川県内の××カントリー倶楽部でゴルフに接待し、六三年一月、辛村の長女の結婚祝いとして一〇万二六〇〇円のロイヤルコペンハーゲンの陶器を贈り、また、辛村の退官直後の六三年六月、被告人、R34らが、辛村を後任のD7文部事務次官ら文部省の幹部とともにリクルートの施設である「月クラブ」に招いて、辛村の送別パーティーを開催するなどして、辛村を中心とする文部省に対するリレーション活動を継続した。
(〈証拠略〉)
3 初中局長通知の発出とその影響
第一章第三の一のとおり、六三年夏に一連のコスモス株の譲渡が社会問題化して以降、リクルートに対する批判的な報道が相次いだが、進学情報誌事業に関しても、週刊誌「アエラ」が六三年一〇月一八日号で、リクルートの高校生リスト収集やこれに対する高校教諭らの協力等を批判する記事を掲載し、同月一九日の衆議院文教委員会において、F4議員がリクルートという特定企業の進学・就職情報誌だけが学校を通じて配本されていることは問題であるという指摘をするなどして、リクルートの進学・就職情報誌の配本に高校教諭が協力していることに対しても批判がなされたほか、同月一四日の衆議院税制問題等に関する調査特別委員会、同月二一日の衆議院文教委員会、同年一一月八日の参議院文教委員会等においても、リクルートの進学・就職情報誌事業に関し、進路指導教育の現場の教師や全高進等の組織がリクルートの配本等の業務遂行に協力し、他方でリクルートから会議の会場の提供等の便宜を受けるなどして親密な関係を持つことや、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に就任することなどが特定企業との癒着や利益供与になるのではないかなどという側面からの批判が展開され、同様の趣旨の報道もなされるなど、厳しいものになっていった。
文部省は、一連のコスモス株の譲渡を中心としてリクルートと行政や政治家との関係がマスコミや国会等で重大な疑惑として取り上げられる状況の中で、リクルートと文部省との関係や、リクルートの進学情報誌事業への高校教諭の対応も批判されたことなどに伴い、国会やマスコミに向けた対策とともに、事件報道に絡む教育現場の動揺や不安を抑えるため、元年二月一三日付けで各都道府県教育委員会教育長、各都道府県知事等宛に、「最近、いわゆるリクルート問題に関連した種々の報道がなされており、生徒に対する指導や保護者との連絡を進める上で、進路指導の在り方について見直しを行うなどの必要が生じております。」とした上、「企業の行う進路希望調査については、生徒の名簿等を利用することにより営利を得ることを目的としているものには協力しないようにすること。」や「企業等から送付される情報資料等については、学校において、その資料の趣旨、内容等を検討し、その取扱いについて慎重を期するとともに、内容の誤り等を発見した場合にはその旨を徹底すること。その際、特定企業を利することのないよう留意すること。」などに留意して管下の高校を指導するよう求めるD15初中局長名義の「高等学校における進路指導の充実について(通知)」と題する通知を発出した。
そして、六三年一〇月から開始されていた高校生リスト収集は、リクルートを批判する一連の報道の影響もあり、リスト収集に協力する高校が前年度の半分以下に激減して、リストの収集数も激減することとなった。
(〈証拠略〉)
第三 辛村に対するコスモス株の譲渡及びその趣旨
一 辛村に対するコスモス株の譲渡
被告人は、六一年九月上旬ころ、リクルート社長室から文部省の事務次官室に電話をかけ、辛村に対し、リクルートの関連会社であるリクルートコスモスの株式を近々店頭公開するので、その際、一株三〇〇〇円で一万株程持っていただきたいが、詳しくは関連会社のR4に説明させるし、資金については用立てできると言って説明し、辛村はこれに応じた。その後、被告人は、R4をリクルート本社に呼び、辛村にコスモス株一万株をファーストファイナンスの融資付きで譲渡する手続をするように指示した。
そこで、R4は、直ちに文部省の事務次官室の辛村に電話をかけて訪問の約束を取り付けた上、その翌日ころ、株式売買約定書、ファーストファイナンスからの融資に関する金銭消費貸借契約書、借入金を指定の口座に振り込む旨の振込指定書兼領収書を準備して、文部省の事務次官室に赴いて辛村と面談し、右関係書類を交付するとともに、購入資金について、自己が金融会社の社長をしていることを告げて、ファーストファイナンスから融資を受けられることを説明した。
辛村は、かねてからコスモス株に関心を持っていて、株式公開前は一般人の入手が困難であること、リクルートコスモスの業績が伸びていることなどから、株式が公開されればその価格が譲渡価格を上回ることが確実であると見込まれることを承知しており、R4の申出を承諾して、右必要書類を受け取った。ただし、辛村は、妻と相談する時間的余裕がほしいとも思い、後日連絡する旨を述べて、その場はR4を帰らせ、帰宅後に、妻にその旨を告げ、自宅で右必要書類の所定欄に署名押印をした上で、翌日又は翌々日の六一年九月中旬ころ、R4を文部省の事務次官室に呼んで、右必要書類を手渡した。
被告人らは、m6社から譲渡する権限を取得したコスモス株のうちの一万株を辛村に譲渡することとし、六一年九月三〇日、ファーストファイナンスがコスモス株を担保として辛村に貸し付けた三〇〇〇万円をm6社の当座預金口座に振込送金し、これにより、辛村は、コスモス株一万株の代金の支払を完了して、これを取得した(なお、一連のコスモス株の譲渡の主体が、契約上の名義にかかわらず、被告人であると認められることは、第一章第二の二2で判断したとおりであり、右の辛村に対する譲渡についても同様である。)。
R4は、コスモス株が店頭登録された六一年一〇月三〇日ころ、辛村に電話をかけて、一株五二七〇円の初値がついたことを告げてコスモス株を売却する意思の有無を確認したところ、辛村は、まだ値上がりするという期待もあり、株の変動の見通しを証券会社勤務の知人に聞いた上で方針を決めようと思ったことから、しばらくそのままにしておくようになどと答えたものの、その後、その知人から、店頭登録株式の登録後の値動きには不安定な要素があるので、一部を処分して借入金は返済しておいた方が良いという助言を受けたこともあって、同年一一月中旬ころ、R4に電話をかけて、六〇〇〇株の売却を依頼した。R4は、そのころ、同株の売買手続を手配し、大和証券において、同月一二日を約定日として、一株五四四〇円で六〇〇〇株が売却され、同月一七日ころ、売却代金から手数料等を差し引いた三二一九万八三二〇円が辛村の銀行預金口座に入金された。辛村は、同月一八日ころ、右売却代金から、右借入金の元利合計三〇二八万一九一七円をファーストファイナンスの当座預金口座に振込送金して弁済し、そのころ、同社から、右借入金の担保としていた残りの四〇〇〇株の株券を受け取ったが、名義変更手続を執ることなくそのまま保有していた。
(〈証拠略〉)
二 コスモス株の譲渡の賄賂性
1  認定事実
被告人が辛村に対してコスモス株を譲渡したことには、辛村の初中局長及び文部事務次官としての職務に関し、辛村から、リクルートの行う進学・就職情報誌の配本につき、高校教諭が高校生の名簿等を収集提供するなどして便宜を供与する問題に対し実態調査をしたり是正を求めるなどの措置を執られなかったこと(本章第二の三3、4のうち辛村に対してコスモス株を譲渡する以前のもの)や、リクルートの事業遂行上有利になる文部省所管の審議会の委員等の選任につき、リクルートの役職員を就任させてもらったこと(本章第二の六1、5のうち辛村に対してコスモス株を譲渡する以前のもの)により、種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨があった。
2 右1の認定に関連する弁護人の主張及び被告人の公判段階における供述
(一) 弁護人の主張
弁護人は、①被告人には、リクルートの進学情報誌事業の配本業務の遂行に影響を与えるような措置が執られなかったことについて、リクルートにとって有利なものであるとして辛村に感謝するという思いはなく、②被告人はリクルートの役職員の個別の委員等への就任について認識していなかったし、被告人自身の委員等への就任についても、被告人自身が辛村から直接委員就任の要請を受けたもの以外は選任手続に辛村が関与していたことを知り得なかったから、リクルートの役職員の委員就任につき、辛村に感謝の気持ちを抱くことはあり得ない旨の主張を前提とした上、③辛村に対するコスモス株の譲渡は、右1のような趣旨によるものではなく、被告人と個人的に親しかった辛村が将来国政選挙に立候補する予定であると被告人が聞き及んでいたことから、これに対する資金援助の意図で行った旨主張する。
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階において、辛村に対するコスモス株の譲渡の趣旨に関し、「まあ、あえて挙げれば二つございまして、まあ、親しい辛村さん、その辛村さんが衆議院議員の選挙に出られることが内定していて、○○派から出られると。で、応援を頼むということを、当時のD2文部大臣から言われていたと。この二つですね。」(〈証拠略〉)と供述するなど、①辛村と個人的に親しかったこと、②辛村が将来国政選挙に立候補する予定であることを聞き及んでいたことからその資金援助の目的があったことを理由として挙げ、文部省との良好な関係を維持することは目的ではなかった旨供述する。
3 被告人の捜査段階における供述とその任意性
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、辛村に対するコスモス株の譲渡の趣旨について、元年四月九日、同月一六日及び同月一八日のP4検事の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(1) 「君は辛村さんにリクルートコスモス株を譲渡する際、文部事務次官であるという相手の立場がわかっており、リクルートの対文部省との関係で良好な関係を維持するという気持ちもあったのではないか。」という問いに対し、「当時の私の心の中にそのような気持ちが潜在的にあったことは認めます。」と供述している(元年四月九日付け検面調書・乙書4一三)。
(2) 「君が辛村さんにリクルートコスモス株を譲渡した理由として、文部省の事務次官という相手の立場が分っており、リクルートの対文部省との関係で、今後とも良好な関係を維持しようという考えがあったのではないか。」という問いに対し、「そのような考えは、当時の私の頭の隅にはありました。」と供述している(元年四月一六日付け検面調書・乙書4一四)。
(3) リクルートは進学情報誌等との関係で文部省と接点があり、文部省の行政指導等により、直接又は間接的にリクルートの業務に影響が生じる関係にあったから、円滑に事業を進めていくのに文部省と良好な関係を維持しておく必要があった旨供述した上、コスモス株を譲渡した理由について、「辛村さんが政治家になる希望をもっていたので、それに対する期待の面と、辛村さんと親睦を深めたいという面がありました。併せて、文部行政の中心的な立場にある辛村さんに有利なコスモス株を譲渡して喜んでもらい、リクルートの業務を進める上で、これまで同様今後とも、文部省と良好な関係を維持しようという考えもありました。」と供述している(元年四月一八日付け検面調書・乙書4一二)。
(4) なお、被告人は、元年四月中旬、P4検事の求めを受けて、辛村に対してコスモス株を譲渡した趣旨を検面調書に記載する際の原案として、自筆のメモ(以下「供述メモ」という。)を作成したところ、被告人は、この供述メモに、「辛村氏がいづれ衆議員議員に立候補されるときいておりましたのでそれを応援する気持で株式を譲渡したものであります」と一旦記載した後、「立候補される」の「される」を削除して「立候補」の次に「し文教族の議員として活躍される」と書き加えた上でこれを削除し、これに代えて「立候補」の次に「し文教族の議員として活躍されると伺っておりましたので、何とかこれを応援したいという気持から」と加えた後に、その加入部分のうち「伺っておりました」以降を削除し、さらに、末尾に、「文部省との関係を円滑にしたいという気持はなかったかと聞かれれば、そういう気持も一部にありました。」という記載を加えた(〈証拠略〉)。
(二) 右(一)の供述経緯に関する被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階において、右(一)の捜査段階における供述の経緯について、次の趣旨の供述をして(〈証拠略〉)、任意性及び信用性を争っている。
(1) 元年四月九日付け検面調書の作成に当たり、P4検事との間で、署名に応じれば早期保釈になるが、応じなければ長期勾留になるし、P2検事が起訴時の求刑を悪い求刑にはしないと言っているからこの辺で折り合えやなどというやり取りがあった。
(2) 右検面調書については、P4検事は、その作成の際、「これでいいだろう。」と言っていたが、翌日ころ、P2検事に趣旨が不明確であり、取り直すようにとしかられたと言っていた。
(3) 供述メモは、おそらく元年四月一六日に書かされたものであり、最初、「辛村氏がいづれ衆議員議員に立候補ときいておりましたのでそれを応援する気持で株式を譲渡したものであります」とだけ記載したところ、P4検事から、趣旨が足りないから、それでは保釈もできないなどと言われ、まず「文教族の議員として活躍されると」と付け加え、さらに、「文部省との関係を円滑にしたいという気持はなかったかと聞かれれば、そういう気持も一部にありました。」とP4検事が言うとおりに書いた。「そういう気持も一部にありました」と表現することには抵抗を感じた。
(4) 元年四月一六日付け検面調書については、「そういう気持も一部にありました。」という供述メモに書いた表現と違うと言って抵抗したが、もう同じような意味じゃないかと押し切られた。作成後の時点で、P4検事は「趣旨はこれでいいだろう。」と言っていた。
(5) 元年四月一八日付け検面調書については、調書が不十分で公判が維持できないという理由により取り直すことになり、P4検事から、P2検事が作ったという原稿を見せられた上、署名に応じなければ長期勾留になるが、応じれば早期保釈になるし、P2検事が起訴時の求刑は軽くすると言っているので、一〇分間の猶予を与えるから、どっちが得かよく考えろなどと言われた。本当に保釈されるか心配に思い、P4検事に依頼してP2検事に対し必ず保釈するかどうか確認してもらったところ、政治家の件はあるものの、早期保釈は約束するし、本人に伝えてもらって結構だという話であると言われたので、署名指印した。
(三) 取調状況に関するP4検事の供述
P4検事は、期日外尋問(一三年九月二八日公判準備)において、次の趣旨の供述をしている。
(1) 元年四月九日付け検面調書を作成する前日か当日ころ、辛村にコスモス株を譲渡した趣旨について尋ねると、被告人は、譲渡の理由は三つあり、①辛村が将来国会議員になることへの期待、②辛村との親睦を深めたいこと、③「文部省とリクルートとの業務のかかわり合いという接点がいろいろあるので、リクルートの業務を理解してもらって、円滑な業務運営ができるように良好な関係を維持したいという気持ち」であると言った。しかし、文部省との関係の部分については、いろいろな人に迷惑がかかるなどという理由から、勾留の満期近くになったらきちんと話すが、今は調書にしてほしくないと言い、「今の段階で調書にするのであれば、何か聞かれたら、検事から聞かれたので、そうすれば、私の心の中に潜在的にそのような気持ちがあったことは認めますとか、あるいは、聞かれたらお答えに窮しますとか、こういった表現の調書にしてください。」というふうに言ったので、やむを得ず、同検面調書を作成した。
(2) 元年四月一六日付け検面調書については、勾留の満期日が近くなったため、被告人に対し、譲渡の理由について三つのことを調書にすると言ったが、被告人が、再び、満期日にはきちんと調書にしてもらうが、今日調書にすることは待ってほしいと言い、「今日の段階で調書にするのであれば、検事から聞かれたら、そのような気持ちが頭の隅にありました、あるいは、多少なりともありましたと、そういった形で調書にしてください。」などと言ったため、やむを得ず同検面調書を作成した。同検面調書の作成に先駆けて、同月九日付け検面調書につきP2検事から叱責を受けたことはない。同検面調書の「潜在的」と同月一六日付け検面調書の「頭の隅」という表現は、ほとんど変わらないと理解している。調書に署名を求める際、署名をしなければ長期勾留になるなどという話はしなかった。
(3) 勾留満期日の元年四月一八日、被告人に対して、三つの趣旨を調書にすると言ったところ、「調書にするにしても、どういう表現、どういう言い回しがいいか、私なりに考えるところもありますので。」などと言ったため、紙と鉛筆を渡し、P4検事が取調室から出た状態で原稿を作成させたところ、「文部省との関係を円滑にしたいという気持はなかったかと聞かれれば、そういう気持も一部にありました。」などと記載したメモ(甲物1一二七)を作成した。加除訂正についても、すべて被告人が自ら記載したものである。同検面調書は、P4検事自身が調書の原稿を作成し、被告人に見せて納得を得た上で、ほぼ同じ内容の調書を作成したものであり、被告人は、納得した上で署名した。同検面調書を作成するに当たり、被告人に対し、P2検事もその調書の内容で了解しているなどと言ったことはなく、被告人から、P2検事に対し調書に署名すれば早期保釈になるか確認してほしいと頼まれてP2検事にその旨確認したこともない。
(4) 被告人に署名を求める際、早期保釈を取引材料にして署名を迫ったことはないし、取調べ期間中に求刑に関する話が出た記憶はなく、求刑の決定に関与する立場にもなかった。
(四) 捜査段階における供述経緯に関する考察
P4検事は、記憶にあるところとないところを区別しながら具体的に供述するばかりでなく、存在する被告人の検面調書に即した供述をしており、弁護人及び被告人から詳細な反対尋問を受けても、その供述は崩れていない。
辛村に対するコスモス株の譲渡の趣旨について言及する三通の検面調書の内容を見ると、元年四月九日付け及び同月一六日付け各検面調書の内容は、結局のところ、株の譲渡に関しリクルートと文部省との間に良好な関係を維持しようという趣旨があったかどうかについてやや不十分なものにとどまる上、多少の表現上の違いはあるものの、その意味するところにほとんど違いはないものと認められる。
弁護人は、「潜在的にあったことは認めます」という表現が意識の構造からしてあり得ず、論理的に不自然であるし、また、「頭の隅にはありました。」という表現や、「一部にありました」などというメモの記載は、当該行為を事後的にある特定の目的をもって評価するときの表現であり、被告人の内心を表す表現としては不自然であるとして、被告人の意思に反して検面調書やメモが作成されたことを端的に示すものである旨主張するが、検察官が、その意図したとおりの内容を押しつけるのであれば、むしろ賄賂の趣旨があることが一層明確になる表現を用いるのが自然と考えられるのに、弁護人が言うように論理的に不自然かどうかはともかく、そのように限定的な認識を認めるにとどまる表現が使われているのは、被告人の言い分を取り入れた結果であると解するのが合理的である。
また、被告人は、元年四月一六日付け検面調書の作成経緯について、P4検事がP2検事に叱責されたことから慌てて作成し直した旨供述するが、この調書の内容を見ると、勾留期間を七日間も費やした後のものでありながら、重要な争点の一つであるコスモス株の譲渡の趣旨について特段の進展が見られず、ほぼ同じ内容であって、P2検事からの叱責が実際にあったとすれば、その叱責をしたP2検事の感情を鎮めるには不十分なものであり、P4検事がこのような内容の調書を強引に作成したとは考え難く、被告人の供述は納得し得る説明にはなっていない。
さらに、被告人は、右(二)(3)、(4)のとおり、抵抗感を感じつつも、P4検事に言われるまま、供述メモに「そういう気持も一部にありました。」と記載したと供述しながら、元年四月一六日付け検面調書の「私の頭の隅にはありました。」という記載については、「そういう気持も一部にありました。」という供述メモの表現と違うと言って抵抗したが押し切られたと供述するところ(〈証拠略〉)、一方で、「そういう気持も一部にありました。」という記載は言われるがままに書いたとしながら、他方で、その表現に固執して抵抗するのは不可解である上、内容的にも、「私の頭の隅にはありました。」という表現よりも「そういう気持も一部にありました。」という表現の方がより明確にその趣旨が存在することを認めるものであって、むしろ被告人にとって不利益な内容であることをも考慮すると、被告人の公判段階における右(二)(3)、(4)の供述は不自然である。
加えて、被告人の供述は、求刑に関するP4検事の発言(右(二)(5))については、被告人が判示第五以外の各事件の審理における被告人質問で取調状況を詳細に供述した機会にも、辛村に対する収賄被告事件で証人として取調状況を証言した機会にも、一度も言及していないのである(〈証拠略〉)から、そのような供述をし始めたこと自体に不自然な点が見受けられる上、検察官から尋問を受けると、正確な言い方としては「恐らく軽い求刑に上の方はするだろう。」というP4検事の予測を聞いたのであって、P2検事が求刑を軽くすると言っている旨言われたことはないと述べて(〈証拠略〉)、供述を変遷させており、変遷の理由について合理的な説明をしていない。
のみならず、本章第二の五3(三)のとおり、被告人は、自身の捜査段階における供述の任意性に関する事項について、記憶のないまま根拠なく、早期保釈を条件に調書への署名を迫られた旨の供述もしているのであるから、被告人の供述をそのまま信用することはできない。
むしろ、株の譲渡の三つ目の趣旨に関する検面調書の記載は、元年四月九日付け及び同月一六日付け各検面調書では限定的であったものが、勾留の満期日である同月一八日付け検面調書にはその趣旨について明確に記載されていること、既に同月四日に、辛村ら文部省の幹部職員に対する接待の趣旨につき、KKK事業等の関係でリクルートと関わりのある文部省の幹部との間で良好な人間関係を作り、リクルートに対する理解を深めてもらうことがリクルートの業務運営にも役立つ旨供述していること(その供述の任意性に問題がなく、信用性も認められることは本章第二の五3(三)のとおりである。)などをも併せ考えれば、P4検事が供述する内容は、自然かつ合理的であって、納得できるものである。
したがって、P4検事の供述は信用することができ、その供述から認定できる右(三)のとおりの検面調書の作成経過に加え、被告人は、辛村に贈賄したという事件で元年三月二八日に逮捕されてから同年四月一八日に起訴されるまでの間、弁護人と八回接見しており(第一章第三の三2)、被告人自身が、公判段階において、①右接見の際に取調べの様子についても相談していたこと、②検面調書については被告人が閲読し、内容を認識した上で署名したこと、③不利益な内容の検面調書に署名すれば、将来裁判で不利益な証拠として使われると分かっていたことなどを認める供述をしている点をも併せ考慮すれば、被告人の右各検面調書の任意性には問題がないと認められる。
4 コスモス株の譲渡の賄賂性に関する検討
(一) 進学・就職情報誌事業を巡る文部省や辛村の対応についての謝意と期待
以上で認定した諸事実、特に、
①  リクルートの進学・就職情報誌事業に対しては、五〇年代半ばころから被告人が辛村に対してコスモス株の譲渡を働きかけた六一年九月ころまでの間に、進学情報誌事業を中心として各方面から様々な批判が寄せられていたこと(本章第二の二)、
②  被告人が右批判の動向を把握しており、これが同事業の円滑な遂行に支障を来す事業環境上の問題であると憂慮していたこと(本章第二の四2)、
③  被告人が、高校の進路指導教育の現場における進学情報誌の取扱い等に関する文部省の行政措置の動向がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に多大な影響を及ぼし得ることを承知し、文部省が都道府県教育委員会を通じるなどして高校の進路指導担当教諭らに対し、リクルートの進学・就職情報誌の配本やその使用、高校生リスト収集に対する協力等の自粛等を促すような措置に及ぶことを懸念し、その動向を警戒していたこと(本章第二の五3)、
④  六一年九月当時までの時期における進学情報誌を巡る問題点に対する文部省の行政措置は、高校の現場における進路情報資料の内容及びその取扱いの実情、企業の営利活動に対する進路指導担当教諭らの協力の実情等について実態調査を行ったり、情報資料の取扱いの在り方や企業の営利活動に対する協力の是非等について文部省の指針を作成するなどというものではなく、消極的なものにとどまっており、高校生向け進学・就職情報誌事業の遂行に支障を及ぼすような行政措置が執られることはなく、それらの措置が執られた場合と比較すると、リクルートの進学・就職情報誌事業にとって好ましい結果となったこと(本章第二の三4)
を総合すれば、被告人が、文部省がリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行を阻害する結果をもたらす行政措置を執らなかったことについて、好ましいことと受け止め、局長として初中局の事務を統括し、あるいは事務次官として文部省各部局の所掌事務全体を統括掌理していた辛村に対して謝意を抱き、今後も同様の取り計らいを受けたいという期待を有していたことが明らかである。
したがって、これと反する弁護人の主張(右2(一)①)は、理由がない。
(二) 文部省所管の審議会の委員等への就任についての辛村に対する謝意と期待
以上で認定した諸事実、特に、
①  リクルートでは、役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることは、審議会や会議等の場で、文部省の幹部らと親交を深め、また、進学・就職情報誌事業に関連する文部行政の動向等の情報を収集できる上、専修学校等経営者や高校教諭らにリクルートが文部省から信頼されているという良好な社会的イメージを与えることになるなど、積極的な効果が期待できるものと評価しており、五九年一月一八日のじっくり取締役会議において、文部省を含む事業上関連する省庁に関係する委員会組織へ積極的に参画する旨の方針を決定するなどして、文部省所管の審議会の委員等に就任することについて積極的な方針を有していたこと(本章第二の六2)、
②  被告人は、リクルートの役職員が文部省所管の審議会の委員等に就任していたことを認識していたこと(本章第二の六3)
を総合すれば、被告人が、辛村にコスモス株の譲渡を働きかけた六一年九月当時、それまでの審議会の委員等への就任について、進学・就職情報誌事業の遂行の上でも好ましいことと受け止め、局長として初中局の事務を統括し、あるいは事務次官として文部省各部局の所掌事務全体を統括掌理していた辛村に対して謝意を抱き、今後も同様の取り計らいを受けたいという期待を有していたことが明らかである。
なお、被告人が、自分自身や他のリクルートの役職員が審議会の委員等に就任に当たり、辛村が原議書を決裁することによってその選任行為に関与していたという具体的状況まで認識していたと認定することはできないが、被告人が初中局長又は事務次官という辛村の役職を当時から認識していたことは明らかであり、そのような役職にある者がその所管下にある審議会の委員等の選任に当たり何らかの権限及び影響力を有していることは当然に思い至ることであるから、リクルートの役職員の初中局や文部省所管の審議会の委員等への就任につき、被告人が辛村に感謝の気持ちを抱くことは合理的かつ自然な事柄であるというべきである。
したがって、これと反する弁護人の主張(右2(一)②)は、理由がない。
(三) 被告人と辛村との関係等について
弁護人は、被告人と辛村との間には、リクルートの業務を巡る関係はなく、仕事を離れた個人的な交際のみがあった旨主張するが、弁護人の指摘する各事実を検討しても、関係証拠上、なお被告人と辛村の間に本件ほどの多額の利益供与を合理的に説明できる程度の親密な個人的関係がなかったことが明らかである。
また、被告人が、公判段階において、辛村にコスモス株を譲渡した趣旨が辛村の政界進出のための資金援助にあったと供述する点については、確かに、辛村は、かねてから政治家への転身を考えており、実際に文部省を退官した直後の六三年七月ころに次期衆議院総選挙への出馬を表明し、以後、後援会を結成するなど立候補に向けた準備を進めた事実が認められる(〈証拠略〉)。しかし、コスモス株を譲渡する働きかけは、辛村が文部事務次官に就任した三か月後に行われており、同人の政界進出を間近に控えた時期でなかったことはもとより、被告人と辛村との間で、コスモス株の譲渡の前後を通じ、辛村の政界進出の話題が具体的に出たこともなければ、被告人からコスモス株を譲渡する趣旨が辛村の政界進出に備えた資金援助である旨告げたこともなかったのである(〈証拠略〉)。
なお、弁護人は、右の点に関連して、政界に進出するには事前の準備が必要であるし、政界進出という微妙な問題について当事者が事務次官在任中に表立って話をすることはあり得ない旨主張するが、いかに事前の準備が必要であるにしても、事務次官在任中から政界進出に備えて多額の費用を支出して活動するということは、公務員たる立場に照らして考え難いことであるから、六一年九月の時点で、被告人において辛村が政界進出のための資金を必要としていると考えるというのは不合理であるし、また、政界進出のための資金援助としてコスモス株を譲渡するのであれば、当事者間でその趣旨を全く話題にしないというのは、やはり不自然である。
(四) 被告人が辛村にコスモス株を譲渡した趣旨
右(一)ないし(三)の検討を総合すれば、被告人が辛村に対してコスモス株を譲渡した趣旨には、右(一)及び(二)の各謝意と期待が含まれていたと推認するのが合理的であり、他方で、その趣旨が辛村との個人的な親睦や、将来辛村が国政選挙に立候補することに対する資金援助という意味合いのみにあったというのは不合理であり、それらの趣旨があったとしても、その程度は相当低いものといわざるを得ない。
したがって、これと反する弁護人の主張(右2(一)③)は、理由がない。
(五) 被告人の捜査段階における供述の信用性
右(一)ないし(四)の点に加えて、被告人は、文部省リレーションの目的が、文部省の幹部職員らとの人的信頼関係を深め、リクルートの進学・就職情報誌事業の業務遂行に役立てることにあることを認識した上、被告人自身もリクルートの役職員とともに飲食、ゴルフ等の接待の場に参加していたことや、辛村に対するコスモス株の譲渡が継続的かつ頻繁に行われてきた一連の文部省リレーションとしての接待や各種贈答等の最中に行われたものであることなどの状況(本章第二の五1ないし3)にも鑑みれば、辛村に対するコスモス株の譲渡にリクルートの業務遂行のために文部省との良好な関係を維持しようという趣旨が存在していた旨の被告人の捜査段階における右3(一)(3)の供述には、特段不自然、不合理な点は見当たらず、信用性が高いということができる。
弁護人は、被告人の検面調書の内容がR12の検面調書の言い回しと似ていることや、R36の検面調書と同趣旨であることを指摘して、P4検事が被告人の取調べに先立って作成されていた各人の検面調書を用いて被告人の検面調書を作成したものである旨主張する。
しかし、仮に各検面調書に弁護人の指摘するような類似点があるとしても、その内容が検面調書作成当時の被告人の記憶や認識と合致し、正しいということでその調書に署名しているのであれば、信用性に問題がないことは勿論である。むしろ、同じ事柄に関する供述であれば、各人の供述が似通ってくることは自然なことともいうことができる。右3(四)のとおり、被告人の検面調書には任意性の問題が認められないことも併せ考えると、弁護人の主張は容れることができない。
5 関連する弁護人の主張について
(一) 弁護人は、辛村に対するコスモス株の譲渡が謝礼の意思であったのであれば、①譲渡の相手方は、歴代の職業教育課長又は譲渡当時の同課の課長であるべきであったこと、②謝礼すべき時期は、配本問題で最も深刻な事態になっていた六〇年六月ころや被告人が教育課程審議会の委員に初めて就任した同年九月ころであるべきであったこと、③辛村がごく近い時期に文部省を離れることは容易に理解されたはずであったことなどを挙げて、これまでのリクルートの事業遂行に有利な種々の好意的な取り計らいに対する謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたい趣旨で辛村に株を譲渡をすることは不自然である旨主張する。
しかし、本章第二の五2で認定したとおり、辛村とリクルートとの間には、コスモス株の譲渡の時までに度重なる接待等の文部省リレーションによって構築された人間関係が存在していたことに加え、辛村は、リクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に重大な影響を及ぼし得る立場である初中局の局長を経て文部事務次官の地位にあり、被告人は、一連のコスモス株の譲渡に当たって、「親しくて、かつ社会的にそれなりに活躍しておられる方」を譲渡の相手方を選定する際の重要な事情としていた(〈証拠略〉)のであるから、被告人が、ある程度親しい関係を構築しており、リクルートの事業と関わりがある文部省の事務方の最高の地位にある辛村との間で、更なる親密な関係を構築し、事業遂行に資することを意図して、コスモス株の譲渡の相手方として辛村を選定することは何ら不合理なことではない。
弁護人が謝礼の時期についていう点は、既に一連の文部省リレーションの中で謝礼の意味も含まれ得る接待等をしていたのであり、被告人が、社外の者らに対する一連のコスモス株の譲渡を企図した際に、辛村に対しても、従前の接待等に付加してコスモス株の譲渡による謝礼をするということに何ら不合理な点はなく、弁護人の主張は当たらない。また、被告人が辛村に対してコスモス株を譲渡することを持ちかけた時期は、辛村の文部事務次官就任から約三か月しか経過していなかったのであるから、辛村はなお相当期間(文部事務次官の通常の任期が一年又は二年であることからすると、約九か月又は約一年九か月)その職に在任することが予測されたはずであるし、辛村が退官後に政界に進出するなどした場合にも文部省の有力OBとして文部行政に何らかの影響力を及ぼし得ることは容易に推測できたことでもあるから、被告人が、従前の好意ある取り計らいに対する謝礼に加えて、文部事務次官在任中はもとより、その後も含めて好意ある取り計らいを受けることを期待して辛村にコスモス株を譲渡するということは、何ら不合理でない。
(二) 弁護人は、被告人が譲渡の相手方として辛村を選定するに当たり、教育機関広報事業部門の役職員を関与させずに自らの判断で人選したのであるから、コスモス株の譲渡は教育機関広報事業と無関係である旨主張する。
しかし、本章第二の五3のとおり、被告人がリクルートの進学・就職情報誌事業と文部省との関係、ひいては辛村との関係を認識していたことは明らかであり、この認識に加え、被告人が辛村と既に面識を有し、接待や贈答をしていたのであるから、教育機関広報事業部門の役職員に相談することなく辛村を選定したとしても、不自然ではない。
(三) 弁護人は、コスモス株の譲渡の手続を指示したR4が教育機関広報事業部門の役職員を伴わずに辛村の下を訪れたことや、被告人がR4に対しコスモス株の譲渡の趣旨を説明した様子がなく、手続に当たっても、仮名にしたり、職場外で手続したりするなどの配慮をしなかったことを指摘して、被告人には賄賂を供与する趣旨はなかった旨主張する。
しかし、被告人としては、わざわざ教育機関広報事業部門の役職員を同行させるなどして、辛村に対して従前の好意的な取り計らいに対する謝礼や今後の期待の趣旨をあからさまに述べたりしなくとも、その趣旨を酌み取ってもらえば足りることであるし(後記三のとおり、辛村は現にその趣旨を認識していた。)、第二章ないし第四章のとおり賄賂性が認められる他の譲受人に対するコスモス株の譲渡においても、ほぼ同様の取り扱いがなされていたのであり、辛村のみを別異に取り扱う必要性も認められないのであるから、この主張も容れることができない。
6 小括
以上によれば、被告人の辛村に対するコスモス株の譲渡に、右1のとおり、辛村の初中局長及び文部事務次官としての職務に関し、辛村からリクルートの進学・就職情報誌事業の遂行に関連して、種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨があったことは明らかであって、その譲渡は賄賂の供与に当たる。
なお、辛村に対するコスモス株の譲渡に、辛村に対する親睦の趣旨や、将来国政選挙に立候補することの資金援助の趣旨が併存していたとしても、その賄賂性を否定することにはならない。
三 賄賂性に関する辛村の認識
1 認定事実
辛村は、被告人からコスモス株を譲り受けるに際して、その譲渡に、自己の初中局長及び文部事務次官としての職務に関し、本章第三の二1認定の趣旨があることを認識していた。
2 右1の認定の補足
(一) 辛村の捜査段階における供述
辛村は、検察官の取調べにおいて、リクルートから受けた接待の趣旨に関し、本章第二の三5(二)(2)④のとおり供述するほか、元年四月九日の取調べにおいて、コスモス株を譲り受けた際の認識に関し、次のとおり供述している。
「甲野がこの様に〔コスモス株を譲渡するという〕私に好意ある便宜を計ってくれた理由としては、三つあると理解しておりました。一つは、私と甲野との個人的な感情です。すでにお話したように、私はそれまで、文部省幹部としての立場を離れて甲野と接触したことは一度もありませんでした。しかし、私の息子の後輩である○○や私の娘をリクルートに就職させてくれと頼んだり、甲野を息子の結婚式に呼んだりしたようなことからも、分かって頂けるように私としては甲野に個人的な感情を持っていたので甲野も私に対し、個人的な感情をもち、そのために、その様な好意ある便宜を計ってくれるものと理解しておりました。二つは、私が将来、政界に出るということです。私は、直接、はっきり甲野に将来は政界に出ると明言したことはありませんが、私が将来、政界に出るのではないかと観測をする人達が結構いたので、その人達から私の政界進出の意思が甲野に伝わっているだろうとは思っていました。ですから、甲野は、私の政治家としての将来に期待して、その様な好意ある便宜を計ってくれると理解していたのです。三つは、文部省とリクルートの関係です。文部省とリクルートとは、文部省の行政指導により、高校生、大学生の就職情報、高校生の進学情報に関する仕事などの教育関連事業が打撃を受けたり、利益を受けたりする関係にあった訳ですが、従来、初中局長を経て次官になった私と甲野及びリクルートとは、接待等を通じて良好な関係にあり、リクルートの教育関連事業も円滑に行われていて、甲野を教育課程審議会の委員に選定したり、R37らを協力者会議の委員に任命したりしていたので、今後とも次官である私と甲野及びリクルートとの間に良好な関係を維持し、文部行政の周辺に位置しているリクルートの教育関連事業が従来通り円滑に遂行できるようにしたいとの配慮があるだろうと理解しておりました。もし、私が文部省の幹部ではなく、一介の市井人だったとすれば、例えR8から甲野を紹介されたとしても、息子の結婚式に招待するような関係にはならなかったでしょうし、甲野からその様な好意ある便宜を提供されることもなかったと理解しておりました。」(甲書4三二八)
(二) 辛村の公判段階における供述
辛村は、公判段階においては、リクルートの進学情報誌事業について知識がなく、文部省の行政指導いかんが、リクルートの同事業に影響を与える関係にあるという認識もなかったこと(本章第二の三5(二)(3))、コスモス株の売買は個人的に親しくしていた被告人の好意により行われたものであるが、株は値が上下するものであり、好意ある取扱いではなく、通常の個人的な商取引として行ったものであるから、お礼を言う筋合いのものでもなく、将来自分が国会議員に立候補することに備えた先行投資という意味もあったと思うこと、さらに、検面調書は検察官の作文の部分があることを供述している(〈証拠略〉)。
(三) 検討
辛村の公判段階における右(二)の供述を見ると、本章第二の三5(三)のとおり、全体として、自己の責任を軽減する方向で供述することに終始し、検察官から、被告人や教育機関広報事業関係者との関係や接待状況等について尋問を受けると、裁判長から供述態度を注意されるほど、供述を避ける姿勢が顕著に認められる。
また、供述の内容は、値上がり益を得ることが確実と見込まれるコスモス株の譲受けについて、これが通常の商取引であると思ったとか、好意ある取扱いではなく、お礼を申し上げる筋合いのものでないという気持ちであったとなどと弁解する(〈証拠略〉)ものであり、不自然かつ非常識である。
さらに、被告人と辛村との間には、右のような多額の利益供与を説明できるほどの個人的な関係があったことを窺わせる事情が存在せず、辛村がかねてから政治家志向を有し、被告人がそれを聞いていた可能性はあるものの、コスモス株の譲渡は、辛村が事務次官に就任した三か月後であって、辛村の政界進出を間近に控えた時期ではなかったばかりでなく、辛村と被告人との間には、コスモス株の譲渡の前後を通じ、辛村の政界進出の話が出たことはなく(本章第三の二4(三))、辛村自身、コスモス株の譲渡に政界進出の先行投資の趣旨があるのかもしれないなどと考えたのは、コスモス株の譲渡の時ではなく、自分が逮捕勾留された後に自ら推測したにすぎないと認めていること(〈証拠略〉)などを併せ考えれば、辛村の公判段階における右(二)の供述は信用することができない。
他方、辛村の捜査段階における右(一)の供述は、辛村が中学校の進路指導に関し業者テストへの依存や業者との癒着の実態等が問題視された際、文部省が都道府県教育委員会等宛に通達等を発出して是正指導を行った経過を知っており、文部省の行政指導が学校に関係する業者の事業活動に及ぼす影響力を熟知していたこと、辛村には、進学情報誌を巡る問題点を指摘し批判する記事が掲載されている一般紙や日本教育新聞等の業界紙誌を閲読する機会があったことなどの事実(本章第二の三5(三))にも符合する。またその供述は、本章第二の三5のとおり、辛村が、リクルートの進学・就職情報誌事業の内容を認識し、同事業が文部行政と関係を有し、その動向がリクルートの進学・就職情報誌事業に影響を与えると認識していたことや、本章第二の六5のとおり、リクルート等の教育に関連する企業の役職員が文部省所管の審議会の委員等に選任されることがその会社の信用を高める名誉な事柄であるとともに、情報収集の面でも業務遂行上の便宜をもたらす事柄であり、企業にとって喜ばしいことであると認識し、自負していたことに照らすと、合理的な内容である。さらに、辛村がコスモス株の譲渡の前後を通じてリクルートから中元、歳暮等の各種贈答品を受け取り、辛村を含む文部省の幹部職員が被告人及び進学・就職情報誌事業に関わるリクルートの役職員らから度重なるゴルフ、飲食等の接待を受けていたことなどについて、文部省の高官である辛村との間に良好な関係を維持し、円滑な業務遂行を行いたいというリクルート側の配慮によるものであると理解していたこともまた自然かつ合理的である。
したがって、辛村の捜査段階における右(一)の供述は、十分に信用することができる。
なお、辛村の捜査段階における供述が任意になされたものと認められることは本章第二の三5(三)のとおりである。
以上によれば、辛村には、被告人から、一般には入手が困難であり、店頭登録後の価格が譲渡価格を上回ることが確実と見込まれるコスモス株の譲渡という利益の供与を受けることに、辛村の初中局長及び文部事務次官としての職務に関し、本章第三の二1認定の謝礼等の趣旨があることの認識、すなわち、コスモス株の譲渡が賄賂の供与であることの認識があったものと認めることができる。
四 その他の弁護人の主張について
弁護人は、不作為について職務関連性を認めるためには、何らかの行政措置を執るべき作為義務が存在する場合でなければならない旨主張するが、そのように解すべき根拠のないことは最高裁の決定が示すところである(最高裁一四年一〇月二二日決定)。
そのほか、弁護人が被告人を含め本件関係者の各検面調書の任意性、信用性を争って縷々主張するところを仔細に検討してみても、証拠の評価に関する独自の見解であって、これを採用することはできない。
五 結論
以上のとおりであって、被告人から辛村に対するコスモス株の譲渡は辛村の職務に関する賄賂の供与に当たり、辛村も、これを譲り受けるに際して、その趣旨を認識していたものと認めることができる。
【法令の適用】
被告人の判示第一の二、判示第二の二1、2、判示第三の二、判示第五の二の各所為は、いずれも、行為時においては、平成三年法律第三一号による改正前の刑法一九八条(第一の二、第二の二1、2の各所為についていずれも平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法一九七条一項後段、第三の二、第五の二の各所為についていずれも同法一九七条一項前段、第二の二1、2、第三の二の各所為についてはいずれも更に同法六〇条)、平成三年法律第三一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては、平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法一九八条(第一の二、第二の二1、2の各所為についていずれも同法一九七条一項後段、第三の二、第五の二の各所為についていずれも同法一九七条一項前段、第二の二1、2、第三の二の各所為についてはいずれも更に同法六〇条)に該当し、判示第四の二1、2、3の各所為は、いずれも、行為時においては、平成四年法律第六一号による改正前の日本電信電話株式会社法二〇条一項(同法一八条一項前段)に、裁判時においては、平成九年法律第九八号による改正後の日本電信電話株式会社等に関する法律二一条一項(同法一九条一項前段)に該当するが、これらはいずれも犯罪後の法令により刑の変更があったときに当たるから、平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法六条、一〇条によりいずれも軽い行為時法の刑によることとし、各所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第一の二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用のうち別紙(一)(訴訟費用負担目録)に記載した分は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとする。
【量刑の理由】
一 本件は、リクルートの代表取締役社長であった被告人が、関連会社の一つであるリクルートコスモスの株式の店頭登録に際し、自ら又は部下と共謀の上、内閣官房長官をはじめとする七名の国家公務員等に対し、いずれもその職務に関連し、請託に係る謝礼として(判示第一、第二)、あるいはリクルート及びその関連会社の業務の遂行に当たり好意的な取り計らい(判示第三、第五)や支援と協力(判示第四の1、2、3)を受けたことに対する謝礼並びに今後も同様の取り計らいや支援と協力を受けたいという趣旨で、店頭登録後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれ、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人がその価格で入手することの極めて困難なコスモス株を譲渡する旨持ちかけ、これを取得させて賄賂を供与したという贈賄四件(判示第一ないし第三、第五。判示第二については更に振込送金による賄賂の供与)、日本電信電話株式会社法上の贈賄三件(判示第四の1、2、3)の事案である。
二 犯行の動機について見ると、被告人は、リクルートグループの総帥として、リクルート及びその関連会社の業務を統括していたところ、その業務の円滑な遂行や障害の防止等のために、各事業部門の業務運営に影響を及ぼし得る政界、官界及び公的企業の各所に取り入ることで、リクルート及びその関連会社の利益に適った国政、行政等の運営を実現しようとしたものであって、自分の率いる会社の業績拡大と利益追求に目を奪われて及んだ犯行であり、是認し得る動機ではない。
三 コスモス株の譲渡に当たっては、購入資金の全額を関連会社から融資する途を用意し、店頭登録後の株式売却の手続もリクルート側で代行するなどして、譲渡の相手方に特段の手間や面倒をかけさせずに譲渡差益を取得させる手段を用いたのであり、分売価格の形成に不確定な要因があったにせよ、多額の経済的利益を得させる方法であったことは明らかである。
被告人が贈賄の相手方として選定した人物の範囲は、内閣官房の最高責任者である内閣官房長官をはじめ、衆議院文教委員会及び予算委員会の各委員を務める衆議院議員、労働行政や文部行政の事務方の最高の地位にある労働事務次官及び文部事務次官、公共的使命も負うNTTの代表取締役社長ほか二名の幹部職員と広範にわたり、譲渡の相手方の人数の多さのみならず、その地位の高さ、職務権限の大きさ、要求される廉潔性の高さからしても、本件の重大性を物語っている上、譲渡したコスモス株は合計五万三〇〇〇株に上り、最も株数の多い一万株を受け取った者の取得可能な利益は、店頭登録日の時点で二二七〇万円に及ぶのであって、その点からも、大がかりな疑獄事件である。
被告人は、収賄側から謝礼等を要求されたわけでもないのに、未公開株であるコスモス株を譲渡する方法の贈賄を発案し、自ら譲渡の相手方を選定するとともに、譲渡する株数を決定し、被告人側から譲渡の相手方に対し、一方的かつ積極的に、株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、部下に指示して譲渡手続やその後の売却等の手続をさせたのであり、自らが首謀者として、最も重要な役割を担いつつ、リクルートグループを挙げて組織的に本件各贈賄行為を完遂したものである。
四 個々の犯行について見ると、まず、判示第一及び第二の各犯行については、被告人は、リクルートの基幹産業である新規学卒者向け就職情報誌事業の遂行に当たり、就職協定が存続、遵守されないことが大きな障害になると考え、内閣官房長官の乙山に対し、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたいという請託をし、また、衆議院予算委員会及び文教委員会の委員を務めていた衆議院議員の丙川二郎に対し、国会における委員会の場で、国の行政機関に就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたいという請託をし、各請託に係る報酬として賄賂を供与したのであり、いずれも国政の中枢に直接働きかけて、リクルートの利益を図ろうとしたのであって、公正かつ清廉であるべき国政に対する国民の信頼を損ねる結果を招来させた行為である。特に丙川二郎に対する贈賄のうち、現金の供与については、リクルートの関連会社と丙川二郎の妻が代表取締役を務める会社との間で架空の契約を結んだ上、相談料の名目で振込送金をしたのであって、巧妙さが見られる。
判示第三及び第五の各犯行については、贈賄の相手方は、労働事務次官の丁谷、文部事務次官の辛村であり、被告人は、リクルートやその関連会社の利益を図ろうとして、飲食、ゴルフ等の各種の接待を重ねてきた中で、コスモス株を譲渡したのであり、国家公務員の職務の公正、廉潔性の保持に対する信頼を裏切る結果を招いた行為である。各犯行は、公務員と民間企業との癒着を想起させ、労働行政及び文部行政、ひいては国の行政一般に対する信頼を損ねたのであって、その社会的影響は大きい。
判示第四の各犯行については、NTTは、民営化された後も、電気通信事業の公共性に鑑み、公務員と同様に職務の廉潔性が求められていたのであるから、代表取締役社長の戊田、幹部職員の己畑五郎及び庚町に対する各贈賄行為は、社会一般のNTTの職務の公正に対する信頼を揺るがす結果を生じさせたのであって、その社会的影響も軽視できない。
五 本件各犯行により、収賄側は、いずれも、自らにも非があるとはいえ、被告人の立場に立たされた上、有罪判決を受け、国政選挙で落選したり、役職の辞任を余儀なくされるなどの憂き目にあうとともに、社会から厳しい指弾を受け、また、被告人の部下数名も被告人の共犯者として贈賄の犯行に巻き込まれたのであり、その意味でも、被告人の責任は大きい。さらに、被告人は、リクルートやリクルートコスモス等関連会社の企業としての信用を失墜させ、混乱に陥れたのであり、企業経営者として軽率のそしりも免れないところである。
六 被告人は、捜査段階においては、事実関係の概要を認め、反省の態度を示していたにもかかわらず、公判段階に至り、本件各犯行の影響や結果については、反省の弁を述べるものの、起訴された事実については、検察官の取調べ方法を糾弾し、関係者の供述に合わせて自らも不自然、不合理な弁解を述べており、犯行後の事情も芳しくない。
七 賄賂罪は、公務の公正及び公務員に対する国民の信頼に背き、ひいては民主主義の根幹を揺るがすおそれの強い犯罪である。本件を契機に、政界、官界と企業との癒着に対して国民が抱くに至った不信感は拭い難く、本件が国民の政治不信、行政不信を助長させたことも看過し得ない点である。加えて、本件後も、国家公務員の職務の公正及びこれに対する国民の信頼を裏切る事件が続発し、綱紀粛正が引き続き重要な課題とされている現状をも併せ考えれば、被告人の行為は強い非難に値する。
以上によれば、被告人の刑事責任は重い。
八 他方、被告人に有利に斟酌し得る事情として、以下の点を指摘することができる。
1 本件各行為は、未公開株の譲渡という方法による賄賂の供与であったため、譲渡の時点では、店頭登録後の価格が譲渡価格をどの程度上回るか不確定な部分があり、その意味では、結果的な値上がり額相当の現金を供与する贈賄に比べれば犯情が軽い。
2 各犯行とも、違法不当な行為によってリクルートの利益を図ってもらったことの謝礼、あるいは違法不当な行為によってリクルートの利益を図ってもらいたいという趣旨でコスモス株を譲渡したわけではなかったし、本件各贈賄行為により、収賄側が違法不当な職務行為に及んだという事情もなく、職務の公正が現実に害されたり、政治、行政等がゆがめられたりはしなかった。
3 本件の背景には、被告人が業務の円滑な遂行に当たって政界や関連する行政機関等と親密な人間関係を築くことが必要であると考え、全社的な方針として、「リレーション」と称する活動をすることとし、各事業部門の社員が当該事業に関係する政治家や行政機関等の幹部職員に対し接待や贈答をするなどして接触を図り、リクルートの事業内容について理解を得るとともに、行政機関等の動向に関する有益な情報を入手し、当該機関と良好な関係維持を図りながら、事業遂行に必要な支援や協力を得るための活動を積極的に展開していたという事情が存在する。そして、このような接待や贈答は、少なくとも当時は、社会規範を著しく逸脱する行為とは考えられていなかったところ、これらの活動の一環として、本件各犯行に及んだという面があり、収賄側の職務関連行為と利益供与との間の対価性が明確な事案とは性質を異にする。
4 個々の贈賄行為について見ると、①判示第一及び第二の各犯行については、各請託の内容は就職協定の存続及び遵守に向けたものであるところ、就職協定の存続及び遵守は社会の強い要請であり、公益に合致するものであったから、リクルートの事業の順調な展開を目的とし、結果的にはリクルートの利益になる行為ではあったにしても、それ自体としては違法不当な施策を行わせるものでも、行政の公正等を害するようなものでもなく、むしろ、国の正当な政策に適ったものであったこと、また、被告人は、請託の時点で報酬の支払の約束やその示唆をすることはしなかったのであって、報酬の支払を約束した事案に比べると、犯情の点で考慮すべき点があること、さらに、丙川二郎に対する振込送金は、丙川側から要請されたものであったこと、②判示第三及び第五の各犯行については、労働事務次官も文部事務次官も、コスモス株の譲渡を受ける以前から、何回にもわたり、リクルートから酒食、ゴルフ等の接待等を受けていたという事情があり、コスモス株の譲渡はそのような利益供与の一環としてなされたものであって、接待等の利益供与を当然のことであるかのように受け入れていた収賄側にも問題があったこと、③判示第四の各犯行については、リクルートがクレイ・リサーチ社製スーパーコンピューターをNTT経由で購入したことには、NTTの国際調達問題や日米貿易摩擦問題の解消というNTT側の都合も少なからず存在し、NTTとしてもリクルートをNTTの利益になる大口顧客として見ていた面もあったことが挙げられる。
5 さらに、①被告人は、リクルートの基幹事業である就職情報誌事業をはじめとして情報誌産業の分野を開拓し、まさにゼロから創業した会社を日本の情報産業分野における有数の企業に発展させるなどして、その経営手腕を発揮し、事業経営において実績を上げていたのであり、数々の業界団体の役員や審議会の委員を務め、社会福祉法人の理事等をして社会的活動も積極的に行っていたなど、業界内外にわたり多大な貢献をしてきたばかりでなく、現在でも、財団法人甲野育英会を通じて社会の各種分野で若手の育成にも努めていること、②本件発覚後、被告人は、公職のほとんどを辞め、昭和六三年七月にリクルートの代表取締役会長を辞任してその経営から退き、平成四年五月にはリクルート株の大部分を譲渡して経済活動から身を引いたこと、③本件を契機に、犯行に関わる事項のほか、本件とは無関係な私的な事柄についても、マスコミにより大々的かつ批判的に取り上げられ、社会的にも厳しい非難にさらされ、そのこともあって、家族関係にひびが入り、辛酸をなめることとなったのであり、既に相応の社会的制裁を受けていること、④本件により、平成元年二月一三日に逮捕されて同年六月六日に保釈されるまでの約四か月間、身柄を拘束され、また、同年三月四日に判示第四の二2、3の各事件により初めて起訴されて以来、一四年の長きにわたって三二一回の公判期日が重ねられてきた間、被告人の座にあり、疲労の影が色濃く窺われるところ、審理に長期間を要したのは、被告人側の事情だけによるものではないこと、⑤被告人は、本件各犯罪事実についてはこれを否定するものの、関係者に対して迷惑をかけたという意味での悔悟の念は、同年一二月一五日の第一回公判期日から平成一四年九月一九日の結審に至るまで一貫しており、最終陳述において、自己の不明を恥じ、責任の重みを強く感じており、社会の役に立つことで償いをしていきたい旨述べて、それなりに反省の態度を示していること、⑥様々な分野の多くの人々が被告人の人格や識見、その業績を高く評価し、被告人に対する寛大な処分を望む旨の証言をし、あるいは同趣旨の上申書を提出しているところ、法廷で直接見る被告人の風姿と重ね合わせると、悪人の烙印を押された被告人像以外に、もう一つの人間像も浮かび上がること、⑦被告人には前科前歴がないことなどの事情も認められる。
6 加えて、一連のリクルート事件で訴追を受けた者は、収賄側も含め全員が執行猶予付きの有罪判決を受けて確定していること、これまで贈賄罪により実刑判決を受けた事例は、贈賄金額が非常に多額である場合や違法不当な職務行為との対価関係が認められるなど、犯情が特に悪質な場合に限られているという事情もある。
九 以上の諸事情を併せ考えると、本件は必ずしも実刑に処すべき事案とはいい難く、被告人に対しては主文の刑を科し、その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。
(裁判長裁判官・山室惠、裁判官・辻川靖夫 裁判官・大内めぐみは転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官・山室惠)

別紙
(一) 訴訟費用負担目録〈省略〉
(二) 取調経過等一覧表〈省略〉
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政治と選挙Q&A「政治資金規正法 ポスター貼り(掲示交渉)代行」に関する裁判例一覧
(1)平成30年10月11日 東京高裁 平30(う)441号 政治資金規正法違反被告事件
(2)平成30年 6月27日 東京地裁 平27(特わ)2148号 各政治資金規正法違反被告事件
(3)平成30年 4月18日 東京高裁 平29(行コ)302号 埼玉県議会政務調査費返還請求控訴事件
(4)平成30年 3月30日 東京地裁 平27(ワ)37147号 損害賠償請求事件
(5)平成30年 3月20日 大阪高裁 平29(行コ)60号 補助金不交付処分取消等請求控訴事件
(6)平成30年 1月22日 東京地裁 平27(特わ)2148号 政治資金規正法違反被告事件
(7)平成29年12月14日 札幌高裁 平29(ネ)259号 損害賠償等請求控訴事件
(8)平成29年12月 8日 札幌地裁 平24(行ウ)3号 政務調査費返還履行請求事件
(9)平成29年 7月18日 奈良地裁 平29(わ)82号 虚偽有印公文書作成・同行使、詐欺、有印私文書偽造・同行使、政治資金規正法違反被告事件
(10)平成29年 3月28日 東京地裁 平25(ワ)28292号 謝罪広告等請求事件
(11)平成29年 3月28日 仙台地裁 平28(ワ)254号 損害賠償請求事件
(12)平成29年 3月15日 東京地裁 平27(行ウ)403号 地位確認等請求事件
(13)平成29年 1月26日 大阪地裁 平24(行ウ)197号・平26(行ウ)163号 補助金不交付処分取消等請求事件
(14)平成28年12月27日 奈良地裁 平27(行ウ)15号 奈良県議会会派並びに同議会議員に係る不当利得返還請求事件
(15)平成28年10月12日 大阪高裁 平28(ネ)1060号 損害賠償等請求控訴事件
(16)平成28年10月12日 東京地裁 平25(刑わ)2945号 業務上横領被告事件
(17)平成28年10月 6日 大阪高裁 平27(行コ)162号 不開示決定処分取消等請求控訴事件
(18)平成28年 9月13日 札幌高裁 平28(う)91号 事前収賄被告事件
(19)平成28年 8月31日 東京地裁 平25(ワ)13065号 損害賠償請求事件
(20)平成28年 7月26日 東京地裁 平27(ワ)22544号 損害賠償請求事件
(21)平成28年 7月19日 東京高裁 平27(ネ)3610号 株主代表訴訟控訴事件
(22)平成28年 7月 4日 東京地裁 平27(レ)413号 損害賠償請求控訴事件
(23)平成28年 4月26日 東京地裁 平27(ワ)11311号 精神的慰謝料及び損害賠償請求事件
(24)平成28年 2月24日 大阪高裁 平25(行コ)2号 行政文書不開示決定処分取消請求控訴事件
(25)平成28年 2月24日 大阪高裁 平24(行コ)77号 不開示決定処分取消請求控訴事件
(26)平成27年10月27日 岡山地裁 平24(行ウ)15号 不当利得返還請求事件
(27)平成27年10月22日 大阪地裁 平26(行ウ)186号 不開示決定処分取消等請求事件
(28)平成27年10月 9日 東京地裁 平27(特わ)853号 政治資金規正法違反被告事件
(29)平成27年 6月17日 大阪地裁 平26(行ウ)117号 公金支出金返還請求事件
(30)平成27年 5月28日 東京地裁 平23(ワ)21209号 株主代表訴訟事件
(31)平成27年 3月24日 東京地裁 平26(ワ)9407号 損害賠償等請求事件
(32)平成27年 2月26日 東京地裁 平26(行ウ)209号 政務調査費返還請求事件
(33)平成27年 2月 3日 東京地裁 平25(ワ)15071号 損害賠償等請求事件
(34)平成26年12月24日 横浜地裁 平26(行ウ)15号 損害賠償請求事件(住民訴訟)
(35)平成26年 9月25日 東京地裁 平21(ワ)46404号・平22(ワ)16316号 損害賠償(株主代表訴訟)請求事件(第2事件)、損害賠償(株主代表訴訟)請求事件(第3事件)
(36)平成26年 9月17日 知財高裁 平26(行ケ)10090号 審決取消請求事件
(37)平成26年 9月11日 知財高裁 平26(行ケ)10092号 審決取消請求事件
(38)平成26年 9月 3日 東京地裁 平25(行ウ)184号 政務調査費返還請求事件
(39)平成26年 4月 9日 東京地裁 平24(ワ)33978号 損害賠償請求事件
(40)平成26年 2月21日 宮崎地裁 平25(ワ)276号 謝罪放送等請求事件
(41)平成25年 7月19日 東京地裁 平22(ワ)37754号 謝罪広告等請求事件
(42)平成25年 6月19日 横浜地裁 平20(行ウ)19号 政務調査費返還履行等代位請求事件
(43)平成25年 3月28日 京都地裁 平20(行ウ)10号 不当利得返還等請求行為請求事件
(44)平成25年 2月28日 東京地裁 平22(ワ)47235号 業務委託料請求事件
(45)平成25年 1月23日 東京地裁 平23(ワ)39861号 損害賠償請求事件
(46)平成24年12月26日 東京地裁 平23(ワ)24047号 謝罪広告等請求事件
(47)平成24年11月12日 東京高裁 平24(う)988号 政治資金規正法違反被告事件
(48)平成24年 8月29日 東京地裁 平22(ワ)38734号 損害賠償請求事件
(49)平成24年 6月26日 仙台地裁 平21(行ウ)16号 公金支出差止請求事件
(50)平成24年 4月26日 東京地裁 平23(特わ)111号 政治資金規正法違反被告事件 〔陸山会事件・控訴審〕
(51)平成24年 2月29日 東京地裁 平21(行ウ)585号 公金支出差止請求事件
(52)平成24年 2月14日 東京地裁 平22(行ウ)323号 難民の認定をしない処分取消請求事件
(53)平成24年 2月13日 東京地裁 平23(ワ)23522号 街頭宣伝行為等禁止請求事件
(54)平成24年 1月18日 横浜地裁 平19(行ウ)105号 政務調査費返還履行等代位請求事件
(55)平成23年11月16日 東京地裁 平21(ワ)38850号 損害賠償等請求事件
(56)平成23年 9月29日 東京地裁 平20(行ウ)745号 退会命令無効確認等請求事件
(57)平成23年 7月25日 大阪地裁 平19(ワ)286号・平19(ワ)2853号 損害賠償請求事件
(58)平成23年 4月26日 東京地裁 平22(行ウ)162号・平22(行ウ)448号・平22(行ウ)453号 在外日本人国民審査権確認等請求事件(甲事件)、在外日本人国民審査権確認等請求事件(乙事件)、在外日本人国民審査権確認等請求事件(丙事件)
(59)平成23年 4月14日 東京地裁 平22(ワ)20007号 損害賠償等請求事件
(60)平成23年 1月31日 東京高裁 平22(行コ)91号 損害賠償請求住民訴訟控訴事件
(61)平成23年 1月21日 福岡地裁 平21(行ウ)28号 政務調査費返還請求事件
(62)平成22年11月 9日 東京地裁 平21(行ウ)542号 政務調査費返還(住民訴訟)請求事件
(63)平成22年10月18日 東京地裁 平22(行ク)276号
(64)平成22年 9月30日 東京地裁 平21(行ウ)231号 報酬支出差止請求事件
(65)平成22年 9月 7日 最高裁第一小法廷 決定 平20(あ)738号 あっせん収賄、受託収賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反、政治資金規正法違反被告事件 〔鈴木宗男事件・上告審〕
(66)平成22年 4月13日 東京地裁 平20(ワ)34451号 貸金等請求事件
(67)平成22年 3月31日 東京地裁 平21(行ウ)259号 損害賠償(住民訴訟)請求事件
(68)平成22年 3月15日 東京地裁 平20(ワ)38604号 損害賠償請求事件
(69)平成22年 1月28日 名古屋地裁 平20(ワ)3188号 応援妨害予防等請求事件
(70)平成21年 6月17日 大阪高裁 平20(行コ)159号 政務調査費返還請求行為請求控訴事件
(71)平成21年 5月26日 東京地裁 平21(む)1220号 政治資金規正法被告事件
(72)平成21年 5月13日 東京地裁 平19(ワ)20791号 業務委託料請求事件
(73)平成21年 4月28日 大阪地裁 平19(わ)3456号 談合、収賄被告事件
(74)平成21年 2月25日 東京地裁 平19(行ウ)325号 損害賠償(住民訴訟)請求事件
(75)平成21年 1月28日 東京地裁 平17(ワ)9248号 損害賠償等請求事件
(76)平成20年12月 9日 東京地裁 平19(ワ)24563号 謝罪広告等請求事件
(77)平成20年11月12日 大阪高裁 平20(ネ)1189号・平20(ネ)1764号 債務不存在確認等請求控訴、会費請求反訴事件
(78)平成20年 9月 9日 東京地裁 平18(ワ)18306号 損害賠償等請求事件
(79)平成20年 8月 8日 東京地裁 平18(刑わ)3785号・平18(刑わ)4225号 収賄、競売入札妨害被告事件〔福島県談合汚職事件〕
(80)平成20年 7月14日 最高裁第一小法廷 平19(あ)1112号 政治資金規正法違反被告事件
(81)平成20年 3月27日 最高裁第三小法廷 平18(あ)348号 受託収賄被告事件 〔KSD事件〕
(82)平成20年 3月14日 和歌山地裁田辺支部 平18(ワ)167号 債務不存在確認等請求事件
(83)平成20年 2月26日 東京高裁 平16(う)3226号
(84)平成20年 1月18日 東京地裁 平18(ワ)28649号 損害賠償請求事件
(85)平成19年 8月30日 東京地裁 平17(ワ)21062号 地位確認等請求事件
(86)平成19年 8月30日 大阪地裁 平19(行ウ)83号 行政文書不開示決定処分取消等請求事件
(87)平成19年 8月10日 東京地裁 平18(ワ)19755号 謝罪広告等請求事件
(88)平成19年 8月10日 大阪地裁 平19(行ク)47号 仮の義務付け申立て事件
(89)平成19年 7月17日 神戸地裁尼崎支部 平17(ワ)1227号 総会決議一部無効確認等請求事件
(90)平成19年 5月10日 東京高裁 平18(う)2029号 政治資金規正法違反被告事件 〔いわゆる1億円ヤミ献金事件・控訴審〕
(91)平成19年 4月 3日 大阪地裁 平19(行ク)27号 執行停止申立て事件
(92)平成19年 3月28日 大阪地裁 平19(行ク)24号 仮の差止め申立て事件
(93)平成19年 2月20日 大阪地裁 平19(行ク)7号 執行停止申立て事件
(94)平成19年 2月 7日 新潟地裁長岡支部 平16(ワ)143号・平18(ワ)109号 損害賠償請求事件
(95)平成19年 2月 5日 東京地裁 平16(ワ)26484号 不当利得返還請求事件
(96)平成19年 1月31日 大阪地裁 平15(ワ)12141号・平15(ワ)13033号 権利停止処分等無効確認請求事件、除名処分無効確認請求事件 〔全日本建設運輸連帯労組近畿地本(支部役員統制処分等)事件〕
(97)平成18年11月14日 最高裁第三小法廷 平18(オ)597号・平18(受)726号 〔熊谷組株主代表訴訟事件・上告審〕
(98)平成18年 9月29日 大阪高裁 平18(ネ)1204号 地位不存在確認請求控訴事件
(99)平成18年 9月11日 東京地裁 平15(刑わ)4146号 各詐欺被告事件 〔偽有栖川詐欺事件〕
(100)平成18年 8月10日 大阪地裁 平18(行ウ)75号 行政文書不開示決定処分取消請求事件
(101)平成18年 3月30日 東京地裁 平16(特わ)5359号 政治資金規正法違反被告事件〔いわゆる1億円ヤミ献金事件・第一審〕
(102)平成18年 3月30日 京都地裁 平17(ワ)1776号・平17(ワ)3127号 地位不存在確認請求事件
(103)平成18年 1月11日 名古屋高裁金沢支部 平15(ネ)63号 熊谷組株主代表訴訟控訴事件 〔熊谷組政治献金事件・控訴審〕
(104)平成17年11月30日 大阪高裁 平17(ネ)1286号 損害賠償請求控訴事件
(105)平成17年 8月25日 大阪地裁 平17(行ウ)91号 行政文書不開示決定処分取消請求事件
(106)平成17年 5月31日 東京地裁 平16(刑わ)1835号・平16(刑わ)2219号・平16(刑わ)3329号・平16(特わ)5239号 贈賄、業務上横領、政治資金規正法違反被告事件 〔日本歯科医師会事件〕
(107)平成17年 4月27日 仙台高裁 平17(行ケ)1号 当選無効及び立候補禁止請求事件
(108)平成16年12月24日 東京地裁 平15(特わ)1313号・平15(刑わ)1202号・平15(特わ)1422号 政治資金規正法違反、詐欺被告事件 〔衆議院議員秘書給与詐取事件〕
(109)平成16年12月22日 東京地裁 平15(ワ)26644号 損害賠償等請求事件
(110)平成16年11月 5日 東京地裁 平14(刑わ)2384号・平14(特わ)4259号・平14(刑わ)2931号 あっせん収賄、受託収賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反、政治資金規正法違反被告事件 〔鈴木宗男事件・第一審〕
(111)平成16年 5月28日 東京地裁 平5(刑わ)2335号・平5(刑わ)2271号 贈賄被告事件 〔ゼネコン汚職事件〕
(112)平成16年 2月27日 東京地裁 平7(合わ)141号・平8(合わ)31号・平7(合わ)282号・平8(合わ)75号・平7(合わ)380号・平7(合わ)187号・平7(合わ)417号・平7(合わ)443号・平7(合わ)329号・平7(合わ)254号 殺人、殺人未遂、死体損壊、逮捕監禁致死、武器等製造法違反、殺人予備被告事件 〔オウム真理教代表者に対する地下鉄サリン事件等判決〕
(113)平成16年 2月26日 津地裁 平11(行ウ)1号 損害賠償請求住民訴訟事件
(114)平成16年 2月25日 東京地裁 平14(ワ)6504号 損害賠償請求事件
(115)平成15年12月 8日 福岡地裁小倉支部 平15(わ)427号・平15(わ)542号・平15(わ)725号 被告人Aに対する政治資金規正法違反、公職選挙法違反被告事件、被告人B及び同Cに対する政治資金規正法違反被告事件
(116)平成15年10月16日 大津地裁 平13(ワ)570号 会員地位不存在確認等請求事件
(117)平成15年10月 1日 さいたま地裁 平14(行ウ)50号 損害賠償代位請求事件
(118)平成15年 5月20日 東京地裁 平13(刑わ)710号 各受託収賄被告事件 〔KSD関連元労働大臣収賄事件判決〕
(119)平成15年 3月19日 横浜地裁 平12(行ウ)16号 損害賠償等請求事件
(120)平成15年 3月 4日 東京地裁 平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
(121)平成15年 2月12日 福井地裁 平13(ワ)144号・平13(ワ)262号 各熊谷組株主代表訴訟事件 〔熊谷組政治献金事件・第一審〕
(122)平成15年 1月20日 釧路地裁帯広支部 平13(わ)15号 収賄被告事件
(123)平成15年 1月16日 東京地裁 平13(行ウ)84号 損害賠償請求事件 〔区長交際費支出損害賠償請求住民訴訟事件〕
(124)平成14年 4月22日 東京地裁 平12(ワ)21560号 損害賠償等請求事件
(125)平成14年 4月11日 大阪高裁 平13(ネ)2757号 社員代表訴訟等控訴事件 〔住友生命政治献金事件・控訴審〕
(126)平成14年 2月25日 東京地裁 平9(刑わ)270号 詐欺被告事件
(127)平成13年12月17日 東京地裁 平13(行ウ)85号 住民票不受理処分取消等請求事件
(128)平成13年10月25日 東京地裁 平12(ワ)448号 損害賠償請求事件
(129)平成13年10月11日 横浜地裁 平12(ワ)2369号 謝罪広告等請求事件 〔鎌倉市長名誉毀損垂れ幕訴訟判決〕
(130)平成13年 9月26日 東京高裁 平13(行コ)90号 公文書非公開処分取消請求控訴事件
(131)平成13年 7月18日 大阪地裁 平12(ワ)4693号 社員代表訴訟等事件 〔住友生命政治献金事件・第一審〕
(132)平成13年 7月18日 大阪地裁 平12(ワ)4692号・平12(ワ)13927号 社員代表訴訟等、共同訴訟参加事件 〔日本生命政治献金社員代表訴訟事件〕
(133)平成13年 5月29日 東京地裁 平9(ワ)7838号・平9(ワ)12555号 損害賠償請求事件
(134)平成13年 4月25日 東京高裁 平10(う)360号 斡旋贈収賄被告事件 〔ゼネコン汚職政界ルート事件・控訴審〕
(135)平成13年 3月28日 東京地裁 平9(ワ)27738号 損害賠償請求事件
(136)平成13年 3月 7日 横浜地裁 平11(行ウ)45号 公文書非公開処分取消請求事件
(137)平成13年 2月28日 東京地裁 平12(刑わ)3020号 詐欺、政治資金規正法違反被告事件
(138)平成13年 2月16日 東京地裁 平12(行ク)112号 住民票消除処分執行停止申立事件
(139)平成12年11月27日 最高裁第三小法廷 平9(あ)821号 政治資金規正法違反被告事件
(140)平成12年 9月28日 東京高裁 平11(う)1703号 公職選挙法違反、政党助成法違反、政治資金規正法違反、受託収賄、詐欺被告事件 〔元代議士受託収賄等・控訴審〕
(141)平成11年 7月14日 東京地裁 平10(特わ)3935号・平10(刑わ)3503号・平10(特わ)4230号 公職選挙法違反、政党助成法違反、政治資金規正法違反、受託収賄、詐欺被告事件 〔元代議士受託収賄等・第一審〕
(142)平成10年 6月26日 東京地裁 平8(行ウ)109号 課税処分取消請求事件 〔野呂栄太郎記念塩沢学習館事件〕
(143)平成10年 5月25日 大阪高裁 平9(行ケ)4号 当選無効及び立候補禁止請求事件 〔衆議院議員選挙候補者連座訴訟・第一審〕
(144)平成10年 4月27日 東京地裁 平10(ワ)1858号 損害賠償請求事件
(145)平成 9年10月 1日 東京地裁 平6(刑わ)571号・平6(刑わ)509号 斡旋贈収賄被告事件 〔ゼネコン汚職政界ルート事件・第一審〕
(146)平成 9年 7月 3日 最高裁第二小法廷 平6(あ)403号 所得税法違反被告事件
(147)平成 9年 5月21日 大阪高裁 平8(う)944号 政治資金規正法違反被告事件
(148)平成 9年 4月28日 東京地裁 平6(ワ)21652号 損害賠償等請求事件
(149)平成 9年 2月20日 大阪地裁 平7(行ウ)60号・平7(行ウ)70号 政党助成法に基づく政党交付金交付差止等請求事件
(150)平成 8年 9月 4日 大阪地裁 平7(わ)534号 政治資金規正法違反被告事件
(151)平成 8年 3月29日 東京地裁 平5(特わ)546号・平5(特わ)682号 所得税法違反被告事件
(152)平成 8年 3月27日 大阪高裁 平6(ネ)3497号 損害賠償請求控訴事件
(153)平成 8年 3月25日 東京高裁 平6(う)1237号 受託収賄被告事件 〔共和汚職事件・控訴審〕
(154)平成 8年 3月19日 最高裁第三小法廷 平4(オ)1796号 選挙権被選挙権停止処分無効確認等請求事件 〔南九州税理士会政治献金徴収拒否訴訟・上告審〕
(155)平成 8年 2月20日 名古屋高裁 平7(う)200号 政治資金規正法違反、所得税違反被告事件
(156)平成 7年11月30日 名古屋高裁 平7(う)111号 政治資金規正法違反、所得税法違反被告事件
(157)平成 7年10月25日 東京地裁 平5(ワ)9489号・平5(ワ)16740号・平6(ワ)565号 債務不存在確認請求(本訴)事件、謝罪広告請求(反訴)事件、不作為命令請求(本訴と併合)事件
(158)平成 7年 8月 8日 名古屋高裁 平7(う)35号 政治資金規正法違反、所得税法違反被告事件
(159)平成 7年 4月26日 名古屋地裁 平6(わ)116号 政治資金規正法違反、所得税法違反被告事件
(160)平成 7年 3月30日 名古屋地裁 平6(わ)1706号 政治資金規正法違反、所得税法違反被告事件
(161)平成 7年 3月20日 宮崎地裁 平6(ワ)169号 損害賠償請求事件
(162)平成 7年 2月24日 最高裁第二小法廷 平5(行ツ)56号 公文書非公開決定処分取消請求事件 〔政治資金収支報告書コピー拒否事件〕
(163)平成 7年 2月13日 大阪地裁 平6(わ)3556号 政治資金規正法違反被告事件 〔大阪府知事後援会ヤミ献金事件〕
(164)平成 7年 2月 1日 名古屋地裁 平6(わ)116号 所得税法違反被告事件
(165)平成 7年 1月26日 東京地裁 平5(行ウ)353号 損害賠償請求事件
(166)平成 6年12月22日 東京地裁 平5(ワ)18447号 損害賠償請求事件 〔ハザマ株主代表訴訟〕
(167)平成 6年12月 9日 大阪地裁 平5(ワ)1384号 損害賠償請求事件
(168)平成 6年11月21日 名古屋地裁 平5(わ)1697号・平6(わ)117号 政治資金規正法違反、所得税法違反被告事件
(169)平成 6年10月25日 新潟地裁 平4(わ)223号 政治資金規正法違反被告事件 〔佐川急便新潟県知事事件〕
(170)平成 6年 7月27日 東京地裁 平5(ワ)398号 謝罪広告等請求事件
(171)平成 6年 4月19日 横浜地裁 平5(わ)1946号 政治資金規正法違反・所得税法違反事件
(172)平成 6年 3月 4日 東京高裁 平4(う)166号 所得税法違反被告事件 〔元環境庁長官脱税事件・控訴審〕
(173)平成 6年 2月 1日 横浜地裁 平2(ワ)775号 損害賠償請求事件
(174)平成 5年12月17日 横浜地裁 平5(わ)1842号 所得税法違反等被告事件
(175)平成 5年11月29日 横浜地裁 平5(わ)1687号 所得税法違反等被告事件
(176)平成 5年 9月21日 横浜地裁 平5(わ)291号・平5(わ)182号・平5(わ)286号 政治資金規正法違反、所得税法違反、有印私文書偽造・同行使、税理士法違反被告事件
(177)平成 5年 7月15日 福岡高裁那覇支部 平4(行ケ)1号 当選無効等請求事件
(178)平成 5年 5月28日 徳島地裁 昭63(行ウ)12号 徳島県議会県政調査研究費交付金返還等請求事件
(179)平成 5年 5月27日 最高裁第一小法廷 平元(オ)1605号 会費一部返還請求事件 〔大阪合同税理士会会費返還請求事件・上告審〕
(180)平成 4年12月18日 大阪高裁 平3(行コ)49号 公文書非公開決定処分取消請求控訴事件 〔大阪府公文書公開等条例事件・控訴審〕
(181)平成 4年10月26日 東京地裁 平4(む)615号 準抗告申立事件 〔自民党前副総裁刑事確定訴訟記録閲覧請求事件〕
(182)平成 4年 4月24日 福岡高裁 昭62(ネ)551号・昭61(ネ)106号 選挙権被選挙権停止処分無効確認等請求控訴、附帯控訴事件 〔南九州税理士会政治献金徴収拒否訴訟・控訴審〕
(183)平成 4年 2月25日 大阪地裁 昭62(わ)4573号・昭62(わ)4183号・昭63(わ)238号 砂利船汚職事件判決
(184)平成 3年12月25日 大阪地裁 平2(行ウ)6号 公文書非公開決定処分取消請求事件 〔府公文書公開条例事件〕
(185)平成 3年11月29日 東京地裁 平2(特わ)2104号 所得税法違反被告事件 〔元環境庁長官脱税事件・第一審〕
(186)平成 2年11月20日 東京高裁 昭63(ネ)665号 損害賠償等請求控訴事件
(187)平成元年 8月30日 大阪高裁 昭61(ネ)1802号 会費一部返還請求控訴事件 〔大阪合同税理士会会費返還請求訴訟・控訴審〕
(188)昭和63年 4月11日 最高裁第三小法廷 昭58(あ)770号 贈賄被告事件 〔大阪タクシー汚職事件・上告審〕
(189)昭和62年 7月29日 東京高裁 昭59(う)263号 受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反被告事件 〔ロッキード事件丸紅ルート・控訴審〕
(190)昭和61年 8月21日 大阪地裁 昭55(ワ)869号 会費一部返還請求事件 〔大阪合同税理士会会費返還請求事件・第一審〕
(191)昭和61年 5月16日 東京高裁 昭57(う)1978号 ロツキード事件・全日空ルート〈橋本関係〉受託収賄被告事件 〔ロッキード事件(全日空ルート)・控訴審〕
(192)昭和61年 5月14日 東京高裁 昭57(う)1978号 受託収賄被告事件 〔ロッキード事件(全日空ルート)・控訴審〕
(193)昭和61年 2月13日 熊本地裁 昭55(ワ)55号 選挙権被選挙権停止処分無効確認等請求事件 〔南九州税理士会政治献金徴収拒否訴訟・第一審〕
(194)昭和59年 7月 3日 神戸地裁 昭59(わ)59号 所得税法違反被告事件
(195)昭和59年 3月 7日 神戸地裁 昭57(行ウ)24号 市議会各会派に対する市会調査研究費等支出差止住民訴訟事件
(196)昭和57年 7月 6日 大阪簡裁 昭56(ハ)5528号 売掛金代金請求事件
(197)昭和57年 6月 8日 東京地裁 昭51(刑わ)4312号・昭51(刑わ)4311号 受託収賄事件 〔ロッキード事件(全日空ルート)(橋本・佐藤関係)〕
(198)昭和57年 5月28日 岡山地裁 昭54(わ)566号 公職選挙法違反被告事件
(199)昭和56年 3月 3日 東京高裁 昭54(う)2209号・昭54(う)2210号 地方自治法違反被告事件
(200)昭和55年 3月10日 東京地裁 昭53(特わ)1013号・昭53(特わ)920号 法人税法違反被告事件
(201)昭和54年 9月20日 大阪地裁 昭43(わ)121号 贈賄、収賄事件 〔大阪タクシー汚職事件・第一審〕
(202)昭和54年 5月29日 水戸地裁 昭46(わ)198号 地方自治法違反被告事件
(203)昭和53年11月20日 名古屋地裁 決定 昭52(ヨ)1908号・昭52(ヨ)1658号・昭52(ヨ)1657号 仮処分申請事件 〔日本共産党員除名処分事件〕
(204)昭和53年 8月29日 最高裁第三小法廷 昭51(行ツ)76号 損害賠償請求事件
(205)昭和51年 4月28日 名古屋高裁 昭45(行コ)14号 損害賠償請求控訴事件
(206)昭和50年10月21日 那覇地裁 昭49(ワ)111号 損害賠償請求事件
(207)昭和48年 2月24日 東京地裁 昭40(ワ)7597号 謝罪広告請求事件
(208)昭和47年 3月 7日 最高裁第三小法廷 昭45(あ)2464号 政治資金規制法違反
(209)昭和46年 9月20日 東京地裁 昭43(刑わ)2238号・昭43(刑わ)3482号・昭43(刑わ)3031号・昭43(刑わ)3027号・昭43(刑わ)2002号・昭43(刑わ)3022号 業務上横領、斡旋贈賄、贈賄、斡旋収賄、受託収賄各被告事件 〔いわゆる日通事件・第一審〕
(210)昭和45年11月14日 札幌地裁 昭38(わ)450号 公職選挙法違反・政治資金規正法違反被告事件
(211)昭和45年11月13日 高松高裁 昭44(う)119号 政治資金規正法違反被告事件
(212)昭和45年 7月11日 名古屋地裁 昭42(行ウ)28号 損害賠償請求事件
(213)昭和45年 3月 2日 長野地裁 昭40(行ウ)14号 入場税等賦課決定取消請求事件
(214)昭和43年11月12日 福井地裁 昭41(わ)291号 収賄・贈賄被告事件
(215)昭和42年 7月11日 東京地裁 昭42(行ク)28号 行政処分執行停止申立事件
(216)昭和42年 7月10日 東京地裁 昭42(行ク)28号 行政処分執行停止申立事件
(217)昭和41年10月24日 東京高裁 昭38(ナ)6号・昭38(ナ)7号・昭38(ナ)5号・昭38(ナ)11号・昭38(ナ)10号 裁決取消、選挙無効確認併合事件 〔東京都知事選ニセ証紙事件・第二審〕
(218)昭和41年 1月31日 東京高裁 昭38(ネ)791号 取締役の責任追及請求事件 〔八幡製鉄政治献金事件・控訴審〕
(219)昭和40年11月26日 東京高裁 昭39(う)642号 公職選挙法違反被告事件
(220)昭和39年12月15日 東京地裁 昭38(刑わ)2385号 公職選挙法違反、公記号偽造、公記号偽造行使等事件
(221)昭和39年 3月11日 東京高裁 昭38(う)2547号 公職選挙法違反被告事件
(222)昭和38年 4月 5日 東京地裁 昭36(ワ)2825号 取締役の責任追求事件 〔八幡製鉄政治献金事件・第一審〕
(223)昭和37年12月25日 東京地裁 昭30(ワ)1306号 損害賠償請求事件
(224)昭和37年 8月22日 東京高裁 昭36(う)1737号
(225)昭和37年 8月16日 名古屋高裁金沢支部 昭36(う)169号 公職選挙法違反事件
(226)昭和37年 4月18日 東京高裁 昭35(ナ)15号 選挙無効確認請求事件
(227)昭和35年 9月19日 東京高裁 昭34(ナ)2号 選挙無効確認請求事件
(228)昭和35年 3月 2日 札幌地裁 昭32(わ)412号 受託収賄事件
(229)昭和34年 8月 5日 東京地裁 昭34(行)27号 政党名削除制限抹消の越権不法指示通牒取消確認請求事件
(230)昭和32年10月 9日 最高裁大法廷 昭29(あ)499号 国家公務員法違反被告事件
(231)昭和29年 5月20日 仙台高裁 昭29(う)2号 公職選挙法違反事件
(232)昭和29年 4月17日 札幌高裁 昭28(う)684号・昭28(う)681号・昭28(う)685号・昭28(う)682号・昭28(う)683号 政治資金規正法違反被告事件
(233)昭和29年 2月 4日 名古屋高裁金沢支部 昭28(う)442号 公職選挙法違反被告事件
(234)昭和27年 8月12日 福島地裁若松支部 事件番号不詳 地方税法違反被告事件
(235)昭和26年10月24日 広島高裁松江支部 昭26(う)54号 収賄被告事件
(236)昭和26年 9月27日 最高裁第一小法廷 昭26(あ)1189号 衆議院議員選挙法違反・政治資金規正法違反
(237)昭和26年 5月31日 最高裁第一小法廷 昭25(あ)1747号 衆議院議員選挙法違反・政治資金規正法違反等
(238)昭和25年 7月12日 札幌高裁 昭25(う)277号・昭25(う)280号
(239)昭和25年 7月10日 札幌高裁 昭25(う)277号・昭25(う)278号・昭25(う)279号・昭25(う)280号 衆議院議員選挙法違反被告事件
(240)昭和25年 7月10日 札幌高裁 昭25(う)275号 衆議院議員選挙法違反被告事件
(241)昭和24年10月13日 名古屋高裁 事件番号不詳
(242)昭和24年 6月13日 最高裁大法廷 昭23(れ)1862号 昭和二二年勅令第一号違反被告事件
(243)昭和24年 6月 3日 東京高裁 昭24(ナ)9号 衆議院議員選挙無効請求事件

■【政治と選挙の裁判例一覧】「政治資金規正法 選挙ポスター」に関する裁判例カテゴリー
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政治家/選挙立候補予定者広報支援 祝!当選!選挙広報支援プロ集団 世のため人のため「SENKYO.WIN」
アポイントメント獲得代行/後援会イベントセミナー集客代行/組織構築支援/党員募集獲得代行(所属党本部要請案件)/演説コンサルティング/候補者ブランディング/敵対陣営/ネガティブキャンペーン(対策/対応)

(6)握手代行/戸別訪問/ご挨拶回り 御用聞きによる戸別訪問型ご挨拶回り代行をいたします!
ポスター掲示交渉×戸別訪問ご挨拶 100%のリーチ率で攻める御用聞き 1軒でも行くご挨拶訪問交渉支援
ご指定の地域(ターゲットエリア)の個人宅(有権者)を1軒1軒ご訪問し、ビラ・チラシの配布およびアンケート解答用紙の配布収集等の戸別訪問型ポスター新規掲示依頼プランです。

(7)地域密着型ポスターPR広告貼り 地域密着型ポスターPR広告(街頭外壁掲示許可交渉代行)
街頭外壁掲示許可交渉代行/全業種 期間限定!貴社(貴店)ポスター貼り サイズ/枚数/全国エリア対応可能!
【対応可能な業種リスト|名称一覧】地域密着型ポスターPR広告(街頭外壁掲示許可交渉代行)貼り「ガンガン注目される訴求型PRポスターを貼りたい!」街頭外壁掲示ポスター新規掲示プランです。

(8)貼る専門!ポスター新規掲示! ☆貼!勝つ!広報活動・事前街頭(単独/二連)選挙ポスター!
政治活動/選挙運動ポスター貼り 勝つ!選挙広報支援事前ポスター 1枚から貼る事前選挙ポスター!
「政治活動・選挙運動ポスターを貼りたい!」という選挙立候補(予定)者のための、選挙広報支援プロ集団「選挙.WIN!」の事前街頭ポスター新規掲示プランです。

(9)選挙立札看板設置/証票申請代行 絶対ここに設置したい!選挙立札看板(選挙事務所/後援会連絡所)
選挙事務所/後援会連絡所届出代行 公職選挙法の上限/立て札看板設置 1台から可能な選挙立札看板設置
最強の立札看板設置代行/広報(公報)支援/選挙立候補者後援会立札看板/選挙立候補者連絡所立札看板/政治活動用事務所に掲示する立て札・看板/証票申請代行/ガンガン独占設置!


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