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「演説会 告知 ポスター」に関する裁判例(14)平成25年 5月15日  東京地裁  平23(行ウ)697号 難民の認定をしない処分取消請求事件

「演説会 告知 ポスター」に関する裁判例(14)平成25年 5月15日  東京地裁  平23(行ウ)697号 難民の認定をしない処分取消請求事件

裁判年月日  平成25年 5月15日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  平23(行ウ)697号
事件名  難民の認定をしない処分取消請求事件
裁判結果  請求棄却  文献番号  2013WLJPCA05158004

事案の概要
◇ミャンマー連邦の国籍を有する外国人である原告が、①1988年(昭和63年)に、「青年図書館」と称する組織に属し、その当時にデモに参加したこと、②同年に、軍から離反した兵士11人をかくまったこと、③同年に、民主化運動についての情報収集活動等をするために軍から派遣された兵士に軍からの離反を説得して、かくまうなどしたこと、④1991年(平成3年)に、軍により身柄を拘束されて尋問を受けた後、刑務所に収容され、出所後も監視を受けるなどしていたことなどから、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるとして、出入国管理及び難民認定法2条3号の2並びに難民の地位に関する条約1条及び難民の地位に関する議定書1条にいう「難民」に該当すると主張し、原告に対してされた難民の認定をしない処分の取消しを求めた事案

裁判年月日  平成25年 5月15日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  平23(行ウ)697号
事件名  難民の認定をしない処分取消請求事件
裁判結果  請求棄却  文献番号  2013WLJPCA05158004

当事者の表示 別紙当事者目録記載のとおり

 

 

主文

1  原告の請求を棄却する。
2  訴訟費用は原告の負担とする。

 

事実及び理由

第1  請求
法務大臣が原告に対して平成21年7月7日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。
第2  事案の概要
本件は,ミャンマー連邦(以下,時期を区別することなく「ミャンマー」という。)の国籍を有する外国人である原告が,①1988年(昭和63年)に,「青年図書館」と称する組織に属し,その当時にデモに参加したこと,②同年に,軍から離反した兵士11人をかくまったこと,③同年に,民主化運動についての情報収集活動等をするために軍から派遣された兵士に軍からの離反を説得して,かくまうなどしたこと,④1991年(平成3年)に,軍により身柄を拘束されて尋問を受けた後,刑務所に収容され,出所後も監視を受けるなどしていたことなどから,政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるとして,出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)2条3号の2並びに難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条にいう「難民」に該当すると主張し,原告に対してされた難民の認定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)の取消しを求めた事案である。
1  前提となる事実(証拠等を掲記した事実を除いて,当事者間に争いがない。)
(1)  原告の身分事項
原告は,1967年(昭和42年)○月○日,ミャンマーにおいて出生したミャンマーの国籍を有する外国人の男性である。
(2)  原告の入国・在留の状況及び難民の認定の手続について
別紙「原告の入国・在留の状況及び難民の認定の手続について」のとおりである(同別紙で定める略称等は,以下においても用いることとする。)。
(3)  本件訴えの提起
原告は,平成23年11月30日,本件訴えを提起した(当裁判所に顕著な事実)。
2  争点及びこれについての当事者の主張
本件の争点は,原告が難民に該当するといえるか否かであり,この点に関する当事者の主張の要旨は,以下のとおりである。
(原告の主張の要旨)
(1) 難民の定義
ア 難民について
難民とは,「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」をいう(難民条約1条A,難民議定書1条1)。
難民とは,難民認定基準ハンドブック28項が指摘するように,「1951年の条約の定義に含まれている基準を満たすや否や同条約上の難民となる」のであり,「これはその難民の地位が公式に認定されることより必ず先行している。それ故,難民の地位の認定がその者を難民にするのではなく,認定は難民である旨を宣言するものである。認定の故に難民となるのではなく,難民であるが故に難民と認定されるのである。」すなわち,(難民認定行為は)「難民であることを有権的に確定する行為であ」り,「裁量行為ではな」く(法務省入国管理局研究会編「注解判例出入国管理外国人登録実務六法」日本加除出版〔昭和59年版〕),難民認定行為の性質が,事実のあてはめ行為・確認行為であることに争いはない。
そうすると,難民の定義を条約の文言の解釈により検討すべきこととなる。
イ 「十分に理由のある恐怖」について
この要件は,「恐怖」という主観的要素と,「十分に理由のある」という客観的要素を併せ含むものであり,当事者の内心,及び,これを合理的に裏付ける客観的事情とが考慮されなければならない。
そして,難民の認定行為がき束的な行為であることからすれば,客観的な要素を確定するための明確な指標として,①申請者の個別的状況,②出身国の人権状況,③過去の迫害,④同様の状況に置かれている者の事情,⑤一般的抑圧状況と個別的迫害,が有用である。このうち,⑤についてのみ,説明を加える。
すなわち,迫害は,ある個人に対してのみ発現するとは限らず,一般的な抑圧状況の下で,一般的に行われる可能性を有している。そして,申請者の属する集団が一般的に迫害に相当するような処遇を受けているという一般抑圧状況があれば,申請者が運や偶然によって迫害の対象となる見込みは十分にあるのであって,申請者が個別に迫害対象として選別される見込みがあることを根拠をもって説明する必要はないというべきである。
また,一般的抑圧の状況が,迫害に相当するような処遇とまでは一概にいえない場合でも,申請者の個別状況と相まって「十分に理由のある恐怖」を肯定する材料となることは十分に考えられる。申請者の属する集団が一般的に迫害に相当するような処遇を受けているとまではいえない場合に,そのことをもって申請者に対する迫害の恐れがないと判断するのは,大いなる誤りなのである。
ウ 「迫害」について
(ア) 難民条約にいう「迫害」とは,「生命,身体またはその他の重大な人権の侵害」を含む概念である。このことは,国際的に,国連難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。),学説,締約国の実務において一致しているのみならず,条約加入時の日本政府の解釈とも一致し,近時の裁判例においてもこれを支持するものが出始めている。また,条約は,文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い,誠実に解釈するものとすることが求められるところ(条約法に関するウィーン条約32条1項),「迫害」という言葉の国語的意味は,「圧迫して害を加えること。くるしめ,しいたげること」(新村出編『広辞苑第六版』岩波書店),「弱い立場にある者を厳しく押さえつけて苦しめること」(松村明『大辞林第二版』三省堂)とされており,かかる解釈が「迫害」という「用語の通常の意味」にも合致する。
(2) ミャンマーの全体情勢
ア 1988年(昭和63年)9月18日のクーデターまで
ミャンマーは1947年(昭和22年)に英国から独立した。
1962年(昭和37年),ネウィンが軍事クーデターによって全権を掌握し,その後,軍と情報組織を用いながら,独自の社会主義思想に基づいて国軍の指導の下にビルマ社会主義計画党によってミャンマーを一党支配した。しかし,ビルマ式社会主義は,極端な経済不振にあえぎ,1987年(昭和62年)12月には,ミャンマーは国際連合(以下「国連」という。)によって後発発展途上国(LLDC=最貧国)の指定を受けるまでに至ってしまった。
1988年(昭和63年)3月,ヤンゴン工科大学の一部の学生が,体制に対して抵抗を始めた。同年8月後半から同年9月前半にかけて最も高揚した民主化運動は,「複数政党制の実現」「人権の確立」「経済の自由化」を三本柱とする民主化闘争にその姿を変えていった。首都ヤンゴンでは連日のように数十万人の人々がデモや集会に参加し,後にミャンマーの民主化運動を象徴する女性となるアウンサンスーチーも表舞台に登場した。その動きは,地方都市及び農村部にまで及んだ。
しかし,同年9月18日,国軍の幹部20名から構成される国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)による軍事政権の成立が宣言された。
イ 1990年(平成2年)5月の総選挙と国民民主連盟(以下「NLD」という。)への弾圧
SLORCは,デモ隊に発砲を続ける一方で,民主化運動において人々が強く求めた複数政党制の導入と総選挙の実施を公約とした。
1990年(平成2年)5月27日,ミャンマーで30年ぶりとなる複数政党制に基づく総選挙(以下「1990年選挙」という。)が実施された。他方で,1989年(平成元年)7月からはアウンサンスーチーが国家保護法によって自宅軟禁扱いとされ,露骨にその選挙活動が妨害された。
しかし,それにもかかわらず,投票の結果,NLDが圧勝(総定数485議席のうち392議席を獲得)した。ところが,SLORCは,この選挙結果を認めず,人民会議を招集せず,政権移譲の無期限延期という態度をとった。
政権主導による制憲国民会議が,1993年(平成5年)1月に発足したが,何回もの長期休会を繰り返しながら,延々と憲法草案の審議を続けた。しかも,制憲国民会議の代議員は,当初701名のうち,1990年選挙で当選した議員は99名(その大半はNLD所属)しかいなかった。その後,制憲国民会議に対して,1995年(平成7年)11月に,NLD所属の代議員全86名が,同会議における議論の進め方が非民主的であるとして会議のボイコット戦術をとると,政権は,彼ら全員を同会議から除名した。政権は,アウンサンスーチーのような重要な党首脳陣らに対して,法に基づく政治的地位を認めることを拒否し,厳しい治安対策と脅威によって,それらの政治活動を抑圧している。政権は,NLD党員に対する物理的な規制によって1990年選挙の7周年記念を迎えるために開催される党大会を抑止した。さらに,1996年(平成8年)後半,アウンサンスーチーが自宅外へ出る自由及び訪問者を受け入れる自由に対し,次第に制限を加えた。政権は,NLDの党設立9周年を記念する大会の開催を許可することにより,同年9月にNLDの集会に対する規制を緩和したものの,一時的なもので,それ以降の集会は妨害された。
同年10月から12月初めにかけて学生デモが広がったが,最終的には,武装した暴動警察と兵士が群衆を襲撃し,何百人も逮捕されるということがあった。
1997年(平成9年)1月下旬,SLORCは,1996年(平成8年)末の大規模な抗議集会に関係した34人(そのうち11人はNLDの党員)に対し,最短で7年の禁錮刑の判決を宣告した。
1996年(平成8年)末から1997年(平成9年)にかけて,議会に選出された党員や支持者などのその他のNLD党員は,嫌がらせを受け,逮捕された。20人以上のNLDの議員が,辞職しなければその家族が逮捕や公共部門の職からの永久解雇などの報復に苦しむであろうとの脅迫を受け,辞職を強制された。
同年11月15日,SLORCは,突如,国家平和開発評議会(SPDC)に名称を変更したが,政権交代ではなく,単なる名称の変更とメンバーの入れ替えにすぎなかった。何度も申し入れてきた国会の開催に関しても政権が応じないことから,NLDは,1998年(平成10年)9月16日,独自に当選議員10人から構成される国会代表者委員会(以下「CRPP」という。)を発足させ,国会の「代行開催」に踏み切ったが,CRPPの発足は,政権のNLD抑圧を一層強めることとなり,常軌を逸した様々な方法での弾圧が行われた。また,アウンサンスーチーが首都ヤンゴンから出ることは一切認められず,彼女が他のNLD幹部と共に地方へ移動しようとすると,物理的に封じ込められ,強制的に自宅へ連れ戻された。同年8月,2000年(平成12年)8月及び同年9月の計3回,この強制連れ戻し事件は起きた。3回目の連れ戻しの後は,事実上の自宅軟禁措置が執られ続け,2002年(平成14年)5月6日に至ってようやく軟禁状態が解除されるというような状態であった。2001年(平成13年)末現在,政府は,20名の1990年選挙の選出議員と,800名以上のNLD党員を拘束し,1500名以上の政治犯を収監していた。
ウ その後の状況
(ア) ディペイン事件
2003年(平成15年)5月30日,ミャンマー北部のディペインで,連邦連帯開発協会(USDA)のメンバーが,遊説中のアウンサンスーチーらNLD党員・支持者を襲撃するという事件があり(ディペイン事件),多数の死傷者が出,アウンサンスーチーとNLD幹部を始め,多数のNLD党員が,軍施設等に拘束され,NLDの本部支部の閉鎖が命じられた。当局は,国際的な非難にもかかわらず,事件について調査をしないどころか,上記事件について公に意見を公表したNLD党員や市民ら10名を拘禁する等,一層NLDに対し弾圧を強めた。アウンサンスーチーは,その後刑務所からは釈放されたものの,最近に至るまで自宅軟禁が課されていた。これに対し,アメリカ合衆国等は,政権による人権侵害に抗議し厳しい経済制裁を続けている。同年12月1日,国連総会は,ディペイン事件とその後も継続する人権侵害に強い懸念を表明した。
(イ) キンニュン首相の失脚
2004年(平成16年)10月19日,政権の中では穏健派とされたキンニュン首相が失脚し,後任には上記ディペイン事件の計画者とされるソーウィン第一書記が就任した。これにより政権は強硬派で固められ,民主化活動家などの反政府活動家は従前以上の迫害にさらされるおそれが強まった。
(ウ) サフラン革命
2007年(平成19年)8月,政権は,天然ガスと石油の公定価格を大幅に引き上げた。この事態を受けて,同月17日,88世代学生グループと称するグループは,軍政に対し,国民が直面している経済社会的な苦境を打開するよう求める旨などの声明を出し,平和的に抗議行動を行ったが,政権は,同グループのメンバーを逮捕し,逮捕されていないメンバーに対しては捜索を続けた。
NLDもまた弾圧を受け,多くのNLD党員が身柄を拘束された。
さらに,弾圧の対象は,僧侶や一般市民まで広がり,同年9月末には,夜間外出禁止令が出され,これに違反するデモ隊への発砲が始まり,多くの僧侶市民が犠牲になった。ミャンマー国営放送によれば,今回の運動に関して2093人が拘束され,うち692人が「今後はデモに参加しない」という念書を取られて釈放されたとのことであった。しかし,BBCは,ミャンマー国内の消息筋の情報として,連日の逮捕者は計1万人に達し,その多くがデモを指揮した僧侶だとしていた。
(エ) 総選挙の実施(2010年11月)
2008年(平成20年)に「承認」された新憲法に基づき,2010年(平成22年)11月,20年ぶりとなる総選挙が行われたが,選挙の仕組み自体が軍政系政党に有利なものであり,アウンサンスーチー氏も排除された。NLDは同総選挙に抗議してボイコットを決め,選挙のための政党登録を行わなかったため,2010年5月に非合法宣言をされ,解党を命じられた。
同年11月7日,外国の選挙監視団や外国メディアの受入れが拒否され,選挙の自由・公正さが確保されない中,投票が行われたが,軍政系政党への投票の強制などの不正が各地から報告された。結果については,軍政の翼賛政党「連邦団結発展党(USDP)」を含む軍関係の政党が8割を超える議席を得て圧勝した。
アウンサンスーチーは,同月13日,自宅軟禁を解除された。
2011年(平成23年)2月4日,SPDC首相であったティンセイン(USPD党首)が大統領に就任した。
エ ミャンマーにおける基本的人権の抑圧の状況
(ア) 失踪
一般国民及び政治活動家が数時間から数週間に渡って行方不明になるといった事態が引き続き発生している(国防情報管理局理事会(DSSI)は,通常,個人の家族に連絡すること無しに,尋問のための逮捕を行っている。)。多くの場合は(全てではないにしても),逮捕された個人は程なくして釈放される。逮捕等の行為は,自由な政治思想の表明を妨害することあるいは集会を妨害することを目的としている。
(イ) 拷問
当局は,日常的に,脅迫及び分別の見当を喪失させることを目的とした尋問テクニックを用い,拘留者を荒々しく扱っている。最も一般的に行われる非人道的な扱いは,睡眠及び食事の禁止,それとともに24時間無休の尋問で,殴る蹴るの暴行を受けた拘留者もいる。刑務所の状況は非常に劣悪であるといわれる。
(ウ) 公正な公開裁判の拒否
司法機関は行政機関から独立していない。SLORCは最高裁判所の判事を指名し,また,最高裁判所はSLORCの承認を得た下級裁判所裁判官を任命する。政治的な裁判の場合,審理は刑務所の敷地内にある裁判室で行われるので公開されない。信頼可能な報告によると,これらの裁判手続において,評決はより高い地位にある当局に指図されているため,弁護団は道徳的観点による支援以外何の役目も果たしていないと見られている。
(エ) プライバシー,家族,住居あるいは通信への恣意的干渉
当局は,外部当局によるチェックを受けず,国家は引き続き恣意的かつ大々的に一般国民の生活に干渉している。当局は,広範囲に及ぶ情報網及び行政手続を通し,多くの国民の(とりわけ政治的に活動的な人物の)移動及び活動を綿密に監視している。当局は,時折,個人的な移動監視の一環として,住人の登録書類を確認するために,夜間訪れる。治安部隊関係者は,選択的に,私的な通信及び手紙を遮り,令状無しで私有地及びその他財産の捜索を行っている。時に,外国のラジオ放送の電波妨害が試みられており,国民は一般的に外国の出版物を直接購読することはできない。公務員は,一般的に,外国人と面会する際,事前に許可申請することを義務付けられている。
(オ) 反政府活動家に対する迫害を可能とする法律とその運用
ミャンマーにおいては,多くの政治囚を生み出すことを可能とする法律(緊急事態法,非合法組織法,印刷出版登録法及びその改正法,1985年ビデオ法など)が複数存在する。アムネスティ・インターナショナルによれば,ディペイン事件の逮捕者リストに名前が載っている者の大半は,緊急事態法を根拠に逮捕されているとのことである。例えば,緊急事態法5条は,「5条(ka)から(da)までの犯罪行為を犯した場合,当人に対し7年間の懲役又は罰金,もしくは両刑罰に処する。」とし,その場合の1つとして,「(nya)連邦国の安全もしくは治安回復に対して危害を与えることを意図した方法で多数国民や一部国民の倫理道徳,活動を犯す行動をした場合,又は以上のようになり得る行為をした場合。」を挙げている。非合法組織法によれば,政府が非合法組織とされる団体の構成員でなくても,ただ「何らかの方法でその団体の活動に協力」しただけでも,最高3年の刑に処せられることが可能であり,実際に多くの者が同法違反に問われている。さらに,緊急事態や国民の基本的人権の制限に関する法律である国家保護法により,ミャンマーにおける最も著名な学生活動家であり政治囚であるBを初め,多くの政治活動家が際限ない拘束を続けられている。
このほか,印刷出版登録法は,印刷出版会社に登録義務が課せられ,法律に従わない者は3年の禁錮刑を処せられ,ミャンマー連邦革命評議会のイデオロギーや見解に沿わない意見を書いた場合に登録許可証が取り消されるとされている。その後,印刷出版法が改正され禁錮刑は7年に延長されるとともに,SLORCに反対し,侮蔑や中傷又は軍を分裂させようと策謀し,国の平和・安定・秩序を乱すよう扇動する出版物は出版禁止とした。1985年ビデオ法では,NLDの集会等に関する報告のためのビデオを作製,複製,又は配布しただけで,3年の刑に処せられる。加えて,現在海外にいるミャンマー人の中には迫害を逃れるために陸路でタイ王国(以下「タイ」という。)やバングラデシュ人民共和国などへ密出国する者,偽造のパスポートを使って出国する者なども多いが,これらの者に対しては,2度と罪を犯さないよう厳しく処罰すべきとした最高裁判所通達が存する。
(カ) 強制労働の実態
ミャンマーでは,特に少数民族に対し,苛酷な強制労働が課されているとの信頼できる報告が多く存する。そして,かかる強制労働の実態は,特に少数民族に対しては今でも変わっていないことがILO,アムネスティ・インターナショナル,アメリカ合衆国の国務省レポートなどによって明らかにされている。
(3) 原告の経歴,本国での活動
ア 出生
原告は,1974年(昭和49年)○月○日,ヤンゴン市に生まれた。
イ 8888事件時のデモ参加
原告は,専門学校生だった1988年(昭和63年)当時,「青年図書館」(反政府活動を行うことを目的とした団体ではない。)というグループに所属し,いわゆる「8888事件」と呼ばれる民衆蜂起の際にはデモに参加した。
ウ 11人の離反兵士をかくまった事件
(ア) 原告は,ミャンマーにおける民主化運動のきっかけとなった1988年(昭和63年)8月8日の大規模な反政府民主化デモ等に参加するなどしていたところ,その約1週間後,当時原告が所属していた青年図書館のメンバーは,ランマドー郡〈以下省略〉にある公営施設である西部競技場の脇の広場で,政府の許可を得ずに演説会を開催した。8月8日以降,大規模な民主化デモが連日行われ,軍事政権打倒の空気が町中に高まっていたため,政治活動をその設立目的としていなかった青年図書館も,政治的な活動を積極的に行っていた。
この演説会場に,反政府運動に積極的に関わっており,青年図書館のメンバーではないがメンバーと深い交流があり,指導的な立場にあった,C(以下「C」という。)が,ヤンゴン管区モービー郡区の部隊に所属していた国軍兵士11名(以下「離反兵士ら」ということがある。)を説得して離脱させ,連れてきた。
原告らは,直前に,Cから「今から離反兵士を連れてくる」と告げられており,会場に到着した軍服姿のままの離反兵士らを人目に付かないように競技場の中に隠した。そして,ジャーナリストに取材をしてもらって軍の内部の実情を広く市民に知ってもらおうと考え,原告がDというジャーナリストを連れてきて,離反兵士らに対するインタビューを行ってもらった。
原告らは,離反兵士らを国軍の捜索からかくまう方法を相談し,Cが所有する家に住まわせることにした。原告らは離反兵士らを私服に着替えさせて,Cが所有する家まで送り届け,その後も,原告らが交代で食事や生活用品の差入れを行った。その後,青年図書館のメンバー7名で,離反兵士らが軍から離反した出来事についてガリ版刷りのビラを作成し,約200枚印刷して,配布した。
離反兵士らはクーデターが発生した同年9月18日までは原告らにかくまわれていたが,クーデターの勃発によって,原告は青年図書館の活動から離れた。その後,離反兵士らは国軍によって連行されたと聞いている。
(イ) 1988年(昭和63年)8月8日を中心とした反政府民主化デモの高揚期である8888事件の当時,国家権力を独占する軍部に対する国民の批判が高まり,ビルマ国軍からも離反者が相次ぎ,軍の威信及び軍に対する信頼が低下しつつあった。これを警戒した軍は,離反者に対して厳しい姿勢で臨むとともに,兵士の離反を扇動し,又は援助する者に対しては厳しい処罰を課すという噂があった。兵士の離反は軍内部の統率を揺るがすとともに,対外的な軍部の威信も損なう行為であるから,軍部がかかる行動に対し厳しく対応することは容易に推測できることであり,離反兵士自身とともにこれを扇動し,あるいは援助した外部の人間に厳罰を課そうとすることは当然の行動である。そのため,原告らは,兵士の軍からの離脱を援助したことで,軍に対し敵対行為を行ったとみなされ,追及と処罰の対象となるのではないかとおそれた。また,Cは,ネウィン将軍暗殺を計画し後に逮捕され処刑されたEという軍人の配下にあった人物であり,彼自身も軍に反対する活動を行っていた(11人の兵士を軍から離反させたこともその活動の一部である)ため,軍から目を付けられていた。したがって,彼が原告らの下に離反兵士らを連れてきて,原告らがその世話をしたことは,当然に軍当局に把握されているものと推測された。このような事情から,原告は離反兵士らをかくまったことに関して軍から迫害を受けるおそれがあると考えるに至ったものである。離反兵士らをかくまった当時,民主化運動の熱気の中で原告らが上記のような危険性を深刻に考えることがなかったとしても,それは不自然なことではない。と同時に,クーデターによって軍部が再度権力を掌握して,これに反対する者を次々に拘束していった過程では,原告らが自分たちの行為が弾圧の対象となるかもしれないとおそれることもまた当然の心理であり,十分に根拠のある反応である。
被告は,離反兵士らに対して原告が行った行為がさほど重大な行為ではないとして,政府が積極的な反政府活動家として関心を寄せていたとは考え難いと主張する。しかしながら,軍の規律を保持するために離反兵士及びその関与者を厳格に処罰しようとすることは,特に反政府活動が激しい時期には十分あり得ることであるし,著名な反政府活動家や顕著な反政府活動のみを処罰するよりも一般市民のささやかな反政府活動を弾圧する方が市民に対する威圧的効果は高いといえるから,被告の批判は的外れというべきである。原告らが,「8888」民主化運動の中で,軍部に抵抗する手段の1つとしてあえて離反兵士をかくまうという行動に出たこと,その行動の故にクーデター後に逮捕の危険を感じるに至ったことは,当然のことであり,これらの点に関する甲A1の陳述録取書及び本人尋問における原告の供述の内容は十分に合理性のあるものである。
エ F(以下「F」という。)をかくまった件
(ア) 1988年(昭和63年)8月8日から1週間ないし10日後,Fという兵士が,原告が住む地区にある実家に一時帰宅したが,その後間もなく,彼の告白によって,彼が民主化運動に関する情報収集及び妨害活動を目的として軍の命令によってその地区に派遣されたことが明らかになった。このことは,F本人がその任務を遂行することに抵抗を感じて青年図書館のメンバーであった叔父に告白し,さらに,原告や他の青年図書館のメンバーもFから直接話を聞くこととなった。
Fによれば,民主化運動に関する情報収集とは,兵士が実家に戻ることによって,兵士としてではなく,一般人としてその地区の様々な民主化運動に接触し,運動の内容や関与している者等に関する情報を軍に報告する,というものであった。また,妨害活動とは,デマを流したり,メンバー間のトラブルを誘発させるなどの工作を行ったり,さらには,食べ物や飲料水に毒を混入させて住民に健康被害をもたらし,その運動を阻害するといった実力行使も行ったりするというものであった。
さらに,Fによれば,これらの密命を帯びて一時帰宅した兵士らが,収集した情報や妨害活動の状況を報告する場所として,チミンダイン区の「モーマカ」というレストランを指定されているとのことであった。
(イ) 原告らは,この「モーマカ」というレストランを探し出すことを試みたが,これは成功しなかった。また,原告らは,軍が民主化運動を妨害するため行っている悪行を公にするために,Fの告白を基にビラを印刷し,100枚以上を配布した。
(ウ) 同時に,原告らはFに対して軍からの離反を説得し,Fが実家に戻ってから2,3日後,あるいはクーデターの1週間以上前の時期から,原告がFを自宅でかくまうようになった。
原告の自宅は鉄道公社の社宅として使われている共同住宅の2階の端の居室で,居室前の廊下は原告の居宅の前で行き止まりになっているため,原告とその家族はその通路に屋根と壁を設けて物置として使用していた。原告にかくまわれることになったFは,ここで寝泊まりすることになり,食事やその他日常の生活は,原告の本来の居室で行うようになった。
このように,原告はFをその自宅でかくまい,寝食を提供していたが,クーデター翌日の1988年(昭和63年)9月19日に,数人の軍の兵士が突然原告の家を訪れ,Fを隠した木箱を開け,中に隠れていたFを引きずり出して,連行してしまった。その行動からみて,兵士らがFの居場所をあらかじめ知っていたことはほぼ明らかだったが,どのようにしてその居場所を察知したのかは不明であった。
(エ) 原告がFをかくまった経緯に関する甲A1の陳述録取書及び本人尋問における原告の供述の内容は,乙A19の供述調書の供述内容と大きく食い違っている。
しかしながら,乙A19の供述調書について,原告は,読み聞かせを受けて多数の修正すべき箇所があることが判明し,担当官に対しそれらを指摘したが,実際に修正されたのはそのうちの一部にすぎず,担当官はそれ以外の箇所は「このくらい大丈夫だ」と言って原告に修正の必要がないかのように説明した。しかも,この日のインタビューは朝10時から夜9時までの長時間に及び,非常に疲労していた原告は,担当官の説明を受け入れて,修正されないままの調書の内容を了解した。また,乙A19の供述調書の内容を見ると,9頁ないし10頁には,Fは,クーデター当日に自宅を出て原告が住む共同住宅の原告の居宅前の廊下の隅に身を隠して一夜を過ごしたが,翌日兵士がやってきてFを連行したとの趣旨の記載がある。このうち,原告の居宅前の廊下に身を隠したとの点は,原告の居宅前の廊下に設けた物置にかくまった,兵士がやってきたときには,彼を居宅前の木箱に隠したとの甲A1及び本人尋問における原告の供述内容と位置関係は符合するものの,見通しのよい廊下に身を隠すとか,そのような戸外で一晩過ごす(翌日兵士が捜索に来なかったら,Fはその後ずっとその場所で過ごしていたことになる。)など,非常に不合理・不自然である。この点はむしろ,甲A1や本人尋問で供述したような供述内容が,通訳人の誤訳あるいは事情聴取を行った担当官の誤解によって,乙A19記載のような内容になってしまったものと解するのが合理的である。そして,このいかにも不合理な供述内容が原告によって修正されずに供述調書に残ってしまった経緯も,上記のような担当官の対応及び長時間のインタビューによる原告の疲労等の事情によるものと考えるのが合理的である。
したがって,原告がFをかくまった経緯については,その供述内容の合理性から見て,甲A1や本人尋問における原告の供述内容が事実であると判断される。
オ 軍による連行と尋問,刑務所への収監について
(ア) 原告は,1991年(平成3年)12月末の夜12時頃,自宅を訪れた軍の人間によって,軍第6情報部に連行された。原告を連行したトラックには青年図書館メンバーの1人Gが先に乗っており,原告はその後目隠しをされた。
原告は,到着した軍第6情報部で,約10日間にわたり,Cや青年図書館との関係,11人の離反兵士らをかくまった件,Fをかくまった件などについて尋問を受けた。その後もこれらの件について繰り返し尋問を受け,またその際に度々暴力を受けた。この間の朝の点呼の際に,「法律条項第5条のニャで調べられている者」と呼ばれたことから,原告は,自分が政治犯として取り調べられていることを知った。
その後,原告はインセイン刑務所に2週間投獄された。収監時に罪名を「第15条のカ」と言われ,後に賭博の罪と知ったが,なぜ賭博の罪とされたのかは不明である。2週間後,原告は「禁足」(他の州や管区への移動の制限)を条件に釈放された。原告は,インセイン刑務所を釈放された後も,毎週1回水曜日に第6情報部のH大尉宛てに電話で1週間の行動について報告をするよう命じられた。また,原告がヤンゴンから出るときには事前の許可を要した。さらに,出所後は日常的に監視を受けるようになり,呼出しを受けたこともあった。
(イ) 被告は,原告が,クーデター発生後,逮捕の危険におびえていたとしながら,逃走することもなく1年以上自宅で暮らしていたことが不自然であると主張する。
しかしながら,甲A1及び本人尋問における原告の供述によれば,原告は,逮捕の危険におびえる一方で,原告が鉄道公社の職を捨てて逃走することによって,鉄道公社の社宅に住み,原告の収入に大きく依存して生活していたその家族を路頭に迷わせてしまうことを心配し,そのために逃走できなかったとしており,その供述するところの行動は十分に合理性があると言える。
(ウ) 被告は,原告が逮捕されて尋問と拷問を受け,インセイン刑務所に収監されたとの供述について,①拘禁・収監された日数にそこがある,②原告をあえて賭博の罪で収監する理由がない,③拘禁・収監が長期に及んでいない,④原告が出所後監視されていたとはいい難いなどと主張する。
しかしながら,原告が逮捕・拘禁されたのは東京入管でインタビューを受ける10年以上前の出来事であり,しかも通常の日常生活の中で原告が進んで思い出したい出来事ではないから,その記憶が一部曖昧になったり思い違いが生じたりしても不思議ではなく,原告の供述する拘禁・収監された日数にそごがあったとしても,それが直ちに原告の供述の信ぴょう性を否定するものではない。
また,確かに,政治犯として逮捕・拘禁した原告を賭博の罪で収監する理由は合理的に説明することは困難であるが,逆に原告が意図的に逮捕の理由と収監の理由を食い違ったものとして説明する合理的な理由も見られない(もし仮に原告が賭博の罪によって逮捕・拘禁されたにもかかわらず,「政治犯として逮捕された」と虚偽の説明をしているのであれば,収監の理由について「賭博の罪」と供述する理由がない)。したがって,かかる一見不合理な事実関係をその不合理性を認識しながら供述していることは,むしろ原告の供述が事実に即したものであることをうかがわせるものである。
さらに,原告のような一般人を威迫しその政治活動を抑止するためには,長期間刑務所に拘束することだけでなく,いつでも逮捕し拘束することができることを示すことだけで十分に有効であることが少なくない。したがって,原告に対する拘禁・収監が長期に及んでいないとの点をもって,直ちに軍事政権が原告に関心を寄せていなかったことを示すものとはいい難い。
原告によれば,原告はインセイン刑務所を出所した後,無断欠勤を理由にそれまで勤務していた鉄道公社を解雇され,その住まいであった社宅から退去を余儀なくされたため,原告ら家族は転居するとともに,原告は,住まいとは別の場所で喫茶店の経営を始めた。原告が監視を受けていたのはこの喫茶店であり,多数の人々が客として出入りすることから,その客達と原告との接触を監視していたものと推測される。他方で,原告の自宅は監視の対象となっていなかった。原告がミャンマーから出国した際は,自宅から出かけてトラックに乗ってミャワディに向かったため,監視の目に触れずにヤンゴンを出ることができたのである。
(エ) また,被告は,原告が乙A16の難民認定申請書においてインセイン刑務所に5泊したと記載していること,乙A20の供述調書の2頁に「1992年になってから1週間後くらいに出所した」とされていること,乙A21の供述調書の7頁ではインセイン刑務所に2週間拘束されていた,と述べていることを指摘して,供述が不自然に変遷しており信用できないとする。
しかしながら,まず乙A16の難民認定申請書において「インセイン刑務所に5泊した」と記載されているとの点については,この「5泊」(乙A16の訳文3頁)とした日本語訳が誤っており,正確には「法律の5条に基づいてインセイン刑務所に拘束された」との趣旨であることは本人尋問における原告の供述のとおりである。「5泊」と記載された欄は身体拘束の理由を記載すべき箇所であり,他方で,そもそも身体拘束の期間を記載する欄は同所には存在しないのであるから,この誤訳は明らかであり,原告の供述は十分信用できる(むしろ,担当官がその記載内容を精査して,誤訳の可能性に気付くべきであった。)。
また,乙A20の記載内容は,1992年に入ってから約1週間後にインセイン刑務所から釈放された,としているだけで,インセイン刑務所での拘束期間を供述しているものではない。
したがって,インセイン刑務所における身体拘束の期間については供述内容の変遷自体が存在しないのであり,被告の主張は前提において失当である。
(オ) さらに,原告がわずか2週間でインセイン刑務所から釈放されたことについて,被告は,原告が釈放された経緯について原告本人に聴取することもなく,その事実のみから「原告は軍事政権が特に関心を寄せる人物ではなかった」と断定した。
しかしながら,原告によれば「Iという空軍のパイロットで青年図書館の理事長でもあった人物の働きかけによって短期間でインセイン刑務所から釈放された」とのことであり,これが事実であれば,「軍事政権が関心を寄せる人物でなかったから短期間で釈放された」という理解は必ずしも唯一の推論ではなくなる。したがって,短期間での釈放を原告の難民性を否定する一根拠とした被告の判断は合理的な理由がないことが明らかである。
エ 前記ウの事情のために,原告はいつまた政府によって身柄を拘束され,刑務所に送られるかも知れないとの恐怖を抱き,その恐怖から免れるため,1993年(平成5年)にミャンマーを出国し,タイでJ名義の旅券を得て,以後,シンガポール共和国(以下「シンガポール」という。),マレーシア及びタイで就労しながらその生活を維持してきたもので,2001年(平成13年)に韓国に移動し,同年8月28日に船員として日本に上陸したものである。
原告が11人の離反兵士らをかくまった事件やFをかくまった事件に関与したこと,その後軍に身柄を拘束されて事情聴取を受け,インセイン刑務所に収容されたこと等の事実によって,ミャンマー軍事政権に反政府活動に関わる者として把握され,迫害を受けるおそれがあるものと認識するに至ったことには,合理的な根拠があるものということができる。殊に,軍により逮捕・拘束され,その取調べの過程で上記各事件について尋問を受けた事実は,まさに軍事政権がこれらの事件に関心を有していたことを示すものである(なお,これらの事件について既に一度取調べを受け,短期間ながら刑務所に収監された処罰を受けたのであるから再び処罰されることはないという理屈は,日本では常識であるが,軍事政権が権力を掌握するミャンマーにおいて,日本と同様に認識されている保証はない。)。
よって,原告は,その政治的意見を理由として,本国に戻れば迫害を受けるおそれを有しており,難民に該当するというべきである。
(2) 被告の主張について
ア 原告が口頭審理請求を放棄した件について
原告は,平成17年12月13日に法違反で執行猶予付き有罪判決を受け,その日のうちに東京入管に収容された。原告は,同日及び翌14日に,担当官に呼び出されて複数の書類への署名指印を求められ,これを行った。口頭審理放棄書(乙A13)はその1つである。同書類への署名指印が同月13日又は14日のいずれになされたのか必ずしも明確ではないが,同書類の日付がいったん同月13日と記載され訂正されている点を見るならば,同日に作成された可能性も否定できない。そして,もし同日に作成されたとしたならば,明らかに退去強制の手続が行われる以前に口頭審理請求を放棄させていたものであり,違法な手続であることとなる。
そのことをおいても,原告は,甲A1の陳述録取書において,「担当官に「帰らないといけないのか」と尋ね,担当官が,「日本に残ることはできない。」と返答した」「帰国しても身の安全が守られるのであれば帰国したいとは思っていましたが,無条件で帰国する,と言ったことはありません」「「口頭審理請求を放棄する」ということも言った記憶はありません。」と述べており,本人尋問において,「乙A13号証によって口頭審理請求を放棄し強制送還に事実上同意したことを知ったのは,難民申請を希望してしばらく経った後」と供述しており,退去強制の手続について正確に理解しないままに乙A13に署名指印した可能性がある。それを同年12月13日に署名押印したものである場合には,原告は,同年10月20日以来2か月近くに及ぶ拘禁によって理解判断能力を欠く状態になり,指示されるままに署名指印したものであり,書面の内容について説明されたことはないし,その文面も読んでいない。
イ 難民申請が遅れたことを理由とする被告の主張について
被告は,原告がミャンマーを出国した後,外国滞在中に当該国に庇護を求めたことはなく,また日本に入国した後も平成17年に東京入管に拘束されるまで難民申請を行わなかったことをもって,原告は庇護を求める意思がそもそもなかったものであると主張する。
しかしながら,前述のとおり,原告は迫害を逃れるためにミャンマーから出国したのであるが,原告は自分たちが逮捕されたのはCが軍に対し自分たち青年図書館との関わりについて告白したためであると考え,Cに裏切られたと感じていた。そのため,政治あるいは行政手続を信用することができず,その滞在国政府に庇護を求めることができなかったものである。
また,原告は,平成14年の終わり頃に在日ミャンマー人から難民の申請の手続について聞き知ったが,その後も,自分のことを難民だとは思わず,難民認定申請を行っていない。しかしながら,ミャンマー語で難民を意味する「ドッカーデー」という言葉は,むしろアイデンティティを喪失し経済的に困窮する流民を意味する言葉であり,庇護救済の対象というよりは社会からの落伍者というイメージをもたらす言葉であって,原告は,自分はこのような「ドッカーデー」すなわち難民ではないし,そのようになりたくないと思っていた。さらに,原告は,ミャンマー出国後に,東南アジア各国に滞在している間に見た難民キャンプで暮らすミャンマー人や都市部でホームレスかそれに近い状態で暮らすミャンマー人を見て,「ドッカーデー」という言葉とこれらの生活状況が重なったことも,原告が自らを「ドッカーデー」すなわち難民と認めることに抵抗を感じた大きな事情である。このような事情(ミャンマー人であれば皆,自分を「ドッカーデー」であると認めることに多かれ少なかれ心理的な抵抗を有しており,そのような考えから難民申請をしなかったミャンマー人が多数存在している。)を考えるならば,ミャンマーへの強制送還の可能性が現実のこととなるまで難民の認定の申請をしたくないと考えるのはむしろ素直な感情というべきであり,長期間にわたって庇護を求め,あるいは難民申請をしなかったことが,原告の難民該当性を否定するものとならないことは当然である。
なお,本件難民申請につき,口頭審理放棄書(乙A13)の日付より約2週間後の平成17年12月28日付けで申請書が提出されているが,この点について原告は,「書類を渡されたまま,しばらく担当官が来なかった,全て書き終わったと何度か報告したが,その後書類を取りに来るまでに時間がかかった」と供述しており,実際には申請書の日付よりも相当前に難民申請の意思を表明していたことがうかがわれる。原告が難民認定申請用紙を受領したのは,東京入管に収容された3,4日後である。原告は,申請用紙を受領するとすぐにこれに記入し,3,4日後には申請書を完成させ,担当官がこれを取りに来るのを待っていたが,一向に取りに来なかったため,提出が遅れたものである。原告は,この後,強制送還が決まったことを知ったのである。
ウ ミャンマー出国後の原告の政治活動について
被告は,原告がミャンマーを出国した後,タイ,シンガポール,マレーシア,韓国等に滞在している間,また日本に入国した後においても,ミャンマー軍事政権に対する反政府民主化活動に積極的に関与した事実は認められないと主張する。
しかしながら,本件において,原告はミャンマー本国あるいは外国での積極的な反政府活動への関与を理由に迫害のおそれを主張しているのではなく,軍から離反した兵士をかくまったこと,そのことに起因して逮捕・拘束され,監視されるに至ったことを迫害のおそれを基礎付ける事実として主張しているものである。
したがって,原告がミャンマーを出国した後,外国で反政府活動に積極的に関与したか否かが,上記のような事件に関与し,その故に逮捕・拘禁されたという原告主張の事実の有無を推認させ,又は否定する間接事実とはなり得ないのであるから,被告が指摘するミャンマー出国後の顕著な反政府活動の不存在が,原告に対する迫害のおそれを否定する事情とはならない。
エ K教授(以下「K教授」という。)の陳述書(乙B3)について
被告は,K教授の陳述書を提出し,これが原告の難民該当性の否定に役立つと考えるようである。しかしながら,K教授の陳述書に述べられていることの中には,原告と無関係なものも多く,また,そもそもK教授は現時点ではおよそミャンマーの専門家とはいい難い。さらに,ごくわずかな海外活動家しか迫害のおそれがないかのようなK教授の陳述や被告の主張は,UNHCRの統計資料や事実と矛盾し,国外の裁判例や実態とも矛盾するし,日本の裁判例においても否定されている。
加えて,K教授は,難民認定を申請したミャンマー人が,退去強制を受けて帰国した後,ミャンマー政府から迫害を受けたという事例は聞いたことがなく,日本で難民の認定を申請したこと自体が特に迫害の危険をもたらすとは考え難いとするが(乙B3の10頁),原告の代理人を務める在日ビルマ人難民申請弁護団がこれまで受任してきた延べ427件(そのうち,難民認定された者も含め,在留資格を付与された者は263人に上る(いずれも平成19年3月1日現在)。)のうち,この中で,ミャンマー大使館に帰順して帰国を選択した者はごく一部存するが,同大使館に帰順せずに帰国した者はいないこと,さらには,帰国後の消息についても確認されていないことには留意されるべきである。また,K教授が帰国後迫害を受けた事例を聞いたことがないとしても,個別のケースの消息を追跡したものとは考えられず,したがって,個別のケースについて,厳密に「迫害がなかった」ことを確認したものではなかろう。にもかかわらず,日本で難民の認定の申請をしたミャンマー人にはすべからく迫害のおそれがないなどといえるはずもない。
(被告の主張の要旨)
(1) 難民の定義
法に定める「難民」とは,難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2),同規定によれば,難民とは「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であつて,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であつて,当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」をいう。そして,ここにいう「迫害」とは,「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し,また,「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには,当該人が,迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要である。
ところで,「難民」と認定されるための要件である「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」とは,単に迫害を受けるおそれがあるという抽象的な可能性が存するにすぎないといった事情では足りず,当該申請者について迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような個別かつ具体的な事情が存することが必要である。すなわち,上記のような客観的事情が存在しているといえるためには,ある国の政府によって民族浄化が図られていることが明らかであるような場合はともかく,そうでなければ,当該政府が特に当該人を迫害の対象としていることが明らかになるような個別的で具体的な事情があることを要するものと解される。
(2) 原告が難民であるとはいえないこと
ア ミャンマーでの政治活動は難民該当性を基礎付ける事情とはいえないこと
(ア) 離反した11名の兵士を青年図書館で受け入れたとの主張について
原告及び青年図書館のメンバー(以下「原告ら」ということがある。)が,11名の離反兵士らをかくまったとはいえないし,仮に,上記の事実を認めるとしても,原告の主張する兵士らのために行った活動内容は,Cの所有している建物に連れて行ったり,食料を準備してあげたり,新聞記者を呼んでインタビューの機会を作ったりしたにすぎないものであって,この程度の活動では,原告らがミャンマー政府から積極的な反政府活動家として関心を寄せられていたとは考え難い。
原告は,軍は,離反者に対して厳しい姿勢で臨み,兵士の離反を煽動し又は援助する者に対しては厳しい処罰を課すという噂があった旨,Cが軍から目を付けられていたため,同人が離反兵士らを連れてきて,原告らがその世話をしたことは,当然に軍当局に把握されているものと推測された旨主張するとともに,軍がとても上手に情報を集めることができ,原告がやったことはすぐに分かると思った旨,11名の離反兵士らに対して行った行為は,軍を壊滅させると思われる行為であり,Cが顕著な反政府活動の経歴を持つことから,軍や政府から重大な反政府活動とみなされた旨供述する。しかしながら,原告の主張又は供述は,いずれも伝聞ないしそれに基づく原告の推測の域を出ないものである上,客観的な証拠が一切提出されていないことから,信用するに値しない。
また,原告らが演説会を行っていたとする西部競技場は,ミャンマー政府が所有する公営の建物であるところ,原告の供述によっても,その演説会に警察や軍の監視がなかったというのであるから,原告らが当該政府から演説会を開催していると認知されたり,反政府活動を行っているとして関心を寄せられたりしていたとはいえない。
さらに,原告の供述によっても,原告らは,離反兵士に関するビラを作成したものの,そのビラに青年図書館のメンバーの名前を記載せず,ビラ配布後に政府からとがめられたこともなく,原告自身も,原告らが演説会を開催していた当時,ミャンマー政府が反政府活動を積極的に取り締まっていなかった旨供述しているのであって,これらのことからしても,原告らがミャンマー政府から反政府活動家として把握されていたとはいい難い。
(イ) 原告がFをかくまった旨の主張について
a 原告がFに対して行ったことは,同人をかくまっていたなどとはいえず,仮に原告の供述を前提としても,原告の難民該当性を基礎付ける事情とはなり得ないというべきである。
原告は,Fは物置に寝泊まりしていた旨,Fは寝起きを物置でする以外は,原告の住まいで,食事や洗面,トイレ,入浴など全て原告から提供されていた旨を主張し,これに反する乙A19の供述調書には,事実に反する内容が記載されている旨主張する。この点に関し,原告は,本人尋問において,上記調書が作成された際に,直してほしいと言ったが,担当者が,このくらい大丈夫と言っていた旨,その日は朝10時から夜9時くらいまでインタビューが行われ,とても疲れていたため署名に応じた旨を供述する。しかしながら,原告は,上記事実を,原告準備書面(1)において突如として主張し始めたのであって,にわかに信用できるものではない。さらに,上記調書を作成した難民調査官は,上記の調書の別の箇所や他の供述調書(乙A17及びA21)においては,原告からの訂正の申立てに応じており,同難民調査官が,上記調書の原告が指摘する部分に限って原告からの内容訂正申立てに応じず,不正確な内容を記載した調書を作成したというのは不自然な話というほかない。また,原告に特段の利害関係を有しない同難民調査官が,原告の意思に反してまで,虚偽の記載をする必要はない。それゆえ,原告の主張及び供述は到底信用することができない。
b 仮に,原告がFをかくまっていたとしても,原告は,軍からその事実を認識されていたとは認められない。
原告は,Fをかくまっていた場所は,原告の居宅前の共同廊下に原告が設置した物置の中であることやFが兵士に連行された際に隠れていた木箱は,まさに原告ら家族が使用していた上記物置の中にあったものであることから,原告がFをかくまっていたことを軍が把握していたことは明らかである旨主張し,これに沿う供述をする。
しかしながら,原告の居宅前の共同廊下に物置が設置されていたからといって,原告が同物置を設置したという事情を知らない者が同物置を原告家族のものであると認識していたとは必ずしもいえず,原告自身,原告の家族以外の者が同物置を原告家族のものであると知っていた事情を述べているわけでもない。それゆえ,軍が同物置を原告家族のものと把握していたとはいえない。
仮に,軍が上記で述べたような事実を把握していたとすれば,軍は,原告の家族がFをかくまっていたと考えるのが自然であるが,原告の供述によっても,原告の家族がFの件で,軍から尋問を受けた事実はない上,原告のみが尋問を受けた合理的な理由も見いだし難い。この点からも,原告が軍からFをかくまっていたと認識されていたという主張は信用できない。
(ウ) 原告が1991年(平成3年)に身柄を拘束され,その後も監視を受けていた旨の主張について
原告が,政治的意見を理由に,インセイン刑務所に収監され,出所後も常に監視されていた旨の供述は,当該事実を認めるに足りる客観的な証拠がなく,また,その供述内容も不自然で信用することができないというべきである。
原告は,本件訴えにおける本人尋問の以前には,2週間という拘束期間が短い理由について,C大尉が政府に政治的取引を行ったのだと思う旨供述し,原告への適用法条が収監の段階において賭博の罪の容疑に変更された理由について,見当がつかない旨などと供述していたにもかかわらず,本人尋問において,軍の幹部であるIという人物の働きかけにより短期間で出所することができ,適用法条も変更された旨供述しており,原告の逮捕・拘禁期間が短いことや適用法条の変更の理由についての供述が合理的な理由なく変遷しており,インセイン刑務所での逮捕・拘禁に関する原告の供述は信用性に欠けるといわざるを得ない。
また,原告は,インセイン刑務所を出所した後,住まいとは別の場所で経営していた喫茶店で監視を受けていたが,原告の自宅は監視の対象となっていなかった旨,喫茶店が監視を受けていたことが分かったのは,喫茶店の前に自動車が常に止まっており,いつも違う人が乗っていたからである旨供述する。しかしながら,原告が供述する事実から,原告が軍から監視されていたことが推認できるものではない。
また,原告は,「禁足」を条件にインセイン刑務所を釈放された後も,毎週1回第6情報部のH大尉宛てに電話で1週間の行動について報告をするよう命じられた旨,ヤンゴンから出るときには事前の許可を要した旨主張しながら,原告が,ミャンマーを出国した後,原告の家族が政府から原告の居場所を聞かれたことは一度もない旨供述しているのであって(原告本人),極めて不可解であり,インセイン刑務所を出所した後に軍の監視を常に受けていたという原告の供述は信用性に欠けるといわざるを得ない。
イ 原告の本邦における政治活動の状況について
(ア) 出版活動について
原告は,本邦で収容されてから,「○○」という雑誌の発刊準備を始めたものの,一緒に活動していた仲間と,金銭的な問題や気持ち的,性格的な問題で合わなくなり,辞めてしまった旨,収容後に当該雑誌を発刊しようとした理由については,逮捕される前は,自分自身の生活があり,借金もあったため働かないといけなかったため,できなかった旨供述する。
上記供述内容に鑑みると,原告は,自身の生活を維持するだけで手一杯で,政治活動まで行う余裕はなく,本邦において政治活動といえるほどの活動を行っていないことは明らかである。
(イ) その他の活動について
原告は,前記(ア)の出版活動以外では,反政府組織や団体に加入したことはなく,3回くらいデモに参加したり,反政府活動に関するブログに書き込みをしたりする活動を行っていたのみである旨供述する。また,原告は,本邦において反政府活動を積極的に行わなかった理由について,反政府運動をやるためには,自分の名前に歴史がないとできないということがよく分かったからである旨供述し,原告の活動が社会的耳目を集めるものではないことを自認している。
ウ 原告の難民該当性を否定する事情について
(ア) 原告の退去強制の手続及び難民の認定の申請手続に係る主張について
原告は,退去強制の手続において,口頭審理請求権を放棄し,さらに,退去強制令書の発付の処分を受けてから2週間後になってようやく本件難民申請をした。このような原告の対応は,原告がミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという恐怖を主観的にすら抱いていなかったことの証左である。
(イ) 原告はミャンマー出国後,本邦以外の国で難民認定申請を行っていなかったこと
原告は,本国を出国してから本邦で本件難民申請をするまでの14年間,原告が滞在していたいずれの国においても,庇護を求めたことがない。
難民の意義に係る原告の認識についての原告の主張,供述は,結局のところ,原告が,自らのアイデンティティー(ある人の一貫性が時間的・空間的に成り立ち,それが他者や共同体からも認められていること)を確保することを考える余裕があったことを示しており,むしろ,原告が「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を有してはいなかったことを裏付けるものである。
(ウ) 原告は,インセイン刑務所を釈放されてからミャンマーを出国するまで1年近く本国で生活していたこと
原告は,インセイン刑務所を釈放されてからミャンマーを出国するまで1年近く本国で生活していたことについて,原告名義で居住していた政府の団地からの退去を求められ,一番最初に住むところを探さなければいけなかったため時間がかかった旨供述する(原告本人)。
他方,原告は,インセイン刑務所で拷問を受け,厳しい条件を課されて釈放され,その後も監視され続けていたと主張するところ,上記の原告の供述内容は,そのような状態に置かれていた者の行動としては,かなり切迫感に欠けるといわざるを得ず,むしろ,上記の原告の供述内容は,かかる原告の主張に信用性がないこと,原告が軍から迫害を受けるおそれがあるという恐怖を主観的にすら抱いていなかったことを裏付けるといえる。
(エ) 原告が本国を出国し,国外で生活していたのは稼働目的だったといえること
原告は,韓国,タイ,マレーシア及びシンガポールで稼働していた旨,稼働により得た収入は家族に送金した旨,送金は,本国の家族の生活費のためにした旨供述する(原告本人)。同供述に照らせば,原告がミャンマーを出国した目的は,政府の迫害を逃れるためではなく,国外で稼働することで得た収入を経済的に困窮している本国の家族に送金し,その生活を支えることであったと考えられる。
エ ミャンマーにおける政治的意見を理由に迫害を受けるおそれについて
現在のミャンマーにおいて,政治的意見を理由に迫害を受けるという個別,具体的な事情が求められるためには,単にその者が何らかの反政府的活動を行っているというだけでは足りないのであって,積極的な反政府活動を行う団体をその中心的な構成員として組織している人物であれば格別,高い政治意識をもって積極的な反政府活動を行っているとは認められない者,例えば,日本でミャンマー人の民主化団体に所属するものの,その団体の基本的運営方針を決する上で重要な役割を担っているわけではなく,あるいは政府を批判する政治的デモに参加はするものの,大勢の参加者の一人として参加するにすぎないなど,いわば「その他大勢の活動家」にすぎない者については,ミャンマー政府から迫害の対象とされるという客観的,具体的な事情は認められないというべきである。このことは,国連人権委員会ミャンマー担当特別報告者としてミャンマーの人権状況の調査に従事した経験があり,ミャンマー情勢に詳しいK教授の供述(乙B3)からも明らかであるし,K教授の供述内容は,日本のミャンマー人民主化団体の幹部らの供述(乙B4ないしB6)によっても裏付けられている。オーストラリア及び英国の関係機関の裁判例も,諸外国におけるミャンマー人の難民認定について,K教授の上記見解と同旨の判断を示している(乙B7)。
上記に照らし,本件において,原告につき,本国政府から個別,具体的な迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような客観的事情があるとはいえないというべきである。
第3  争点に対する判断
1  争点(原告が難民に該当するといえるか否か)について
(1)  証拠(本文中に掲記する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
ア ミャンマーの一般情勢等
ミャンマーの一般情勢等に関しては,以下の事実が認められる(証拠等を掲記した事実を除いて,当事者間に争いがない。)。
(ア) ミャンマーは,1948年(昭和23年),英国から独立した。
1962年(昭和37年)3月に,ネウィン将軍が,軍事クーデターによって全権を掌握し,同年7月にビルマ社会主義計画党を結党し,以後一党支配を継続した。しかし,ミャンマーは,その後,経済状況が悪化し,1987年(昭和62年)12月,国連によって,後発発展途上国に認定された。
1988年(昭和63年)3月以降,ヤンゴン市内での学生らの反政府デモが日増しに拡大し,同年8月8日には,学生及び市民によるいわゆるゼネストが全国で展開されるなど,全国的な民主化運動が展開されるようになり,アウンサンスーチーがリーダーとして活動するようになった。
同年9月18日に軍事クーデターが起こり,SLORCが全権を掌握した。
SLORCは,1989年(平成元年)7月に,アウンサンスーチーを国家破壊分子取締法違反を理由に自宅軟禁扱いとし,選挙活動を禁止した。
1990年(平成2年)5月27日,約30年ぶりに複数政党が参加しての総選挙が行われ,アウンサンスーチーの率いるNLDが485議席中392議席を獲得し,約8割の議席を占めて圧勝したが,SLORC側は,民政移管のためには堅固な憲法が必要であるとして,政権委譲を拒否した。
1996年(平成8年)5月及び9月に,SLORCが,NLDの議員総会や党集会を前に,NLD党員を多数身柄拘束した上,アウンサンスーチーの自宅前道路を封鎖して集会を阻止した。
同年10月23日,ヤンゴンの学生約500人が警察官の学生への暴力に抗議してデモを行ったのを発端として,各地で相次いで学生デモが発生し,これは同年12月半ばまで続いたが,SLORCは,学生を強制排除し,1997年(平成9年)1月,NLD党員を含む活動家に禁錮の実刑判決が宣告された。
同年5月21日,SLORCが,NLDの1990年選挙圧勝7周年記念の議員総会を阻止するため,NLD党員ら多数を拘束し,最終的には300人が拘束された。また,同月27日,SLORCは,NLDがアウンサンスーチー宅で予定していた議員総会の開催を同宅前道路封鎖の強化により阻止した。
同年11月15日,SLORCは,国家平和開発評議会(SPDC)に改組した。
2003年(平成15年)5月30日,ミャンマー北部のディペインで,遊説中のアウンサンスーチーらNLD党員・支持者が襲撃され身柄を拘束されるというディペイン事件が起きた。アウンサンスーチーはその後釈放されたものの,以後自宅軟禁が続いていた。これに対し,アメリカ合衆国等は,軍事政権による人権侵害に抗議し,厳しい経済制裁を続け,同年12月,国連は,ディペイン事件とその後も継続する人権侵害に強い懸念を表明した。
2004年(平成16年)10月19日,キンニュン首相が首相を解任され,ソー・ウィン第一書記が後任に就任した。和平交渉を行なうためヤンゴン市に入っていた少数民族反政府組織カレン民族同盟(KNU)の代表団16人に対する外出禁止の措置が講じられた。
2007年(平成19年)夏,ミャンマー政府が燃料の公定価格を大幅に引き上げたことを受けて,ヤンゴンで抗議行動が行われ,同行動に僧侶らも参加し大規模なものに発展し,多数の政治犯が拘束された。
2008年(平成20年)に新憲法が承認され,2010年(平成22年)11月に20年ぶりとなる総選挙が実施され,国民代表院440議席のうち330議席,民族代表院224議席のうち168議席,地域・州議会888議席のうち665議席について行われたが,国民民主連盟(NLD)は同総選挙に抗議してボイコットした。総選挙の結果,連邦団結発展党(USDP)1154議席の中883議席を得た。
アウンサンスーチーは,同月13日,自宅軟禁を解除された。
2011年2月4日,SPDC首相であったティンセイン(USDP党首)が大統領に就任した。
2012年(平成24年)1月5日,ミャンマーの連邦選挙管理委員会はNLDが申請していた政党の登録を完了し(乙B1の1・2),同月9日,アウンサンスーチーはNLDの議長に就任し(乙B1の2),同月18日,同年4月1日に実施される連邦議会補欠選挙への立候補を届け出た(乙B1の3)。
同月13日,恩赦により,B等の民主化運動家,自宅軟禁状態にあったキン・ニュン元首相等が釈放され(乙B1の4・5),NLDの広報担当者が「拘束中の政治犯はいなくなった」旨発言し(乙B1の5),出版物についても,同月16日,NLDは初の党機関紙を発行しており,また,情報省が記事内容の検閲は受ける必要がない旨発言したとの報道もされている(乙B1の6)。
(イ) ミャンマーにおける基本的人権の抑圧の状況
アメリカ合衆国国務省レポート(2001年版)には,ミャンマーにおける一般国民及び政治活動家の失踪,拘留者に対する拷問,公正な公開裁判の拒否並びにプライバシー,家族,住居或いは通信への恣意的干渉の各実態が報告されている。
また,ミャンマーにおいては,反政府活動家に対する規制につながる緊急事態法,非合法組織法,国家保護法,印刷出版登録法及びその改正法,1985年ビデオ法などが定められている。
さらに,国際労働機関(ILO)は,ミャンマーにおける強制労働の実態とそれが深刻である旨を報告している。
イ 原告の個別事情
前記前提となる事実(第2の1)に加え,証拠(本文中に掲記する。)及び弁論の全趣旨によれば,原告の個別事情に係る以下の事実が認められる。
(ア) 原告は,1967年(昭和42年)○月○日,ミャンマーのヤンゴン市において出生したミャンマーの国籍を有する外国人である。
原告は,5人きょうだい(兄1人,妹2人及び弟1人)の二男である。家族のうち,父母及び兄は既に死亡している。
((ア)につき,甲A1,乙A16,乙A27)
(イ) 原告は,ミャンマーの高等学校を卒業した後,1986年(昭和61年)に国立の専門学校(定時制)に入学した。
原告は,1987年(昭和62年)頃に,鉄道公社に就職し,稼働しながら,同専門学校での就学を継続していたが,鉄道公社に就職して1か月から1か月半ほどして,母の営む米販売業が経営困難となり,生活が苦しくなったため,家計を助けるべく専門学校をやめ,鉄道公社での稼働を継続する傍ら,おじの運送業を一時手伝っていた。
((イ)につき,甲A1,乙A16ないしA18,乙A27,原告本人)
(ウ) 原告は,1992年(平成4年)1月頃,無断欠勤を主な理由として鉄道公社を解雇され,それに伴い,原告及びその家族は鉄道公社の宿舎からの退去も余儀なくされた。そこで,原告の母がヤンゴン市で営んでいた米の販売店を売り,その資金でヤンゴン市のランマドー市区に戸建ての住居を賃借し,原告は家族とともに住むことになった。
また,原告の実家は,ヤンゴン市内に喫茶店を開き家業としたが,2000年(平成12年)頃に,両親の年齢や病気のため,廃業した。
((ウ)につき,甲A1,乙A17,乙A18,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人)
(エ) 原告は,1993年(平成5年)1月頃に,タイとの国境のミヤワディに行き,旅券も査証も所持しない状態で,タイのメーソットに入国した。メーソットに1か月ほど滞在した後,バンコクにバスで移動したが,タイ政府の検問を通過するために,ミャンマー人のL名義の旅券を入手し,これを行使した。原告は,バンコクには2,3週間滞在し,同年3月から4月頃にかけて,シンガポールに向けて,L名義の旅券を行使して出国し,シンガポールに入国した後は,友人宅に身を寄せ,工場で稼働した。原告は,シンガポールで,ミャンマー人のJから,旅券をもらい受け,同旅券の証明写真を貼り替え,Jとして在留し,さらには,1997年(平成9年)末にマレーシアに入国し,工場で稼働していた。その後,原告は,2000年(平成12年)初頭にバンコクに戻り,同年9月18日に,以前にブローカーを介して本国で作ってもらっていたJの国民登録証と家族表を利用して,J名義の2冊目の旅券の発給を受け,バンコクにおいても稼働した。
原告は,上記の名義により,2001年(平成13年)6月27日に,バンコクから貨物船に乗船し,途中で韓国を経由し,韓国でも稼働し,その後,韓国籍の貨物船で同年8月27日に本邦の稚内港に到着した。原告は,同月28日頃に稼働の目的で本邦に不法に上陸した後,逃走し,東京都にいる妹の夫宅に向かった。原告は,本邦に上陸した後は,1年ほど稼働しなかったが,それ以後は,飲食店等で稼働を継続し,本国の父に合計100万円程度を送金した。
((エ)につき,甲A1,乙A1,乙A3ないし7,乙A10,乙A12,乙A16,乙A17,乙A21,乙A22,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人)
(オ) 原告は,平成17年10月20日,法違反(旅券不携帯)の罪の現行犯人として逮捕された。
(カ) 東京入管入国警備官は,平成17年12月9日,原告が法24条2号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして,Jの名義により,東京入管主任審査官から収容令書の発付を受けた。
(キ) 原告は,平成17年12月13日,東京地方裁判所において,Jの名義により,法違反の罪により懲役2年6月に処し,4年間その執行を猶予する旨の判決を宣告された。
東京入官入国警備官は,同日,上記(カ)の収容令書を執行し,原告を東京入管収容場に収容した。
東京入管入国警備官は,同日,Jの名義により,原告に係る違反調査をしたところ,原告は,入国又は上陸の目的を「稼働」とし,給料がもらえなかったので,船員として稼働することがいやになり,給料が高い日本に入港したら,船から逃げて日本で働こうと思っていた旨,逃亡後は東京都内の飲食店で働いていた旨,ミャンマーへの早期帰国の希望がある旨を供述した(乙A10)。
東京入管入国警備官は,同日,Jの名義により,原告を法24条2号該当容疑者として,東京入管入国審査官に引き渡した。
(ク) 東京入管入国審査官は,平成17年12月14日,Jの名義により,違反審査をしたところ,原告はミャンマーへ帰国したい旨を供述していた。そして,東京入管入国審査官は,原告が法24条2号に該当する旨認定し,原告にその旨を通知したところ,原告は,同日,口頭審理の請求を放棄した(乙A13)。
東京入管主任審査官は,同日,Jの名義により,退去強制令書を発付し,東京入管入国警備官は,同日,同退去強制令書を執行し,原告を引き続き東京入管収容場に収容した。
(ケ) 原告は,平成17年12月28日,政治的活動を理由に迫害を受けるおそれがあるとして,本件難民申請をしたが,同申請は「J」名義によるもので,同申請に係る申請書の「別名・通称名等」欄に原告の真正な名義が記載されていた(乙A16)。
(2)  ところで,法2条3号の2は,同法における「難民」の意義について,難民条約1条の規定又は難民議定書1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいうと規定している。したがって,法にいう難民とは,「人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって,当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」をいうと解するのが相当である。
そして,上記の「迫害」とは,通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するものと解するのが相当であり(難民条約33条1項参照),また,上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには,当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であると解される。
以上と異なる原告の主張は,採用することができない。
(3)  そこで,上記(1)で認定した事実や上記(2)で説示した難民の意義を踏まえ,本件不認定処分の適法性について検討する。
ア 1988年(昭和63年)当時にデモに参加したとの原告の主張について
原告は,1988年(昭和63年)当時,青年図書館というグループに所属し,8888事件の民衆蜂起の際にはデモに参加したことを主張し,これに沿う証拠も存する。
しかしながら,①青年図書館は,原告の自認するとおり,もともとは反政府活動を行うことを目的とした団体ではなく,原告を含む同じ地区に居住する15名程度の青年により1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて組織され,図書館の設置及び管理をし,本の貸し出しなどを行うことを主な業務とし,その他に,社会のため,壁貼り新聞を作ったり,冠婚葬祭の行事などを地区の者のために主催したり,これを手伝ったりする団体であったこと(甲A1,乙A18,乙A27),②上記デモは全国的な規模に及ぶもので(前記(1)ア(ア),乙A26の2,乙A34),一市民としての参加を超えて,当時21歳であった原告あるいは青年図書館ないしその構成員が上記デモにおいて主導的な役割を果たしたと認めるに足りる的確な証拠はないこと,さらには,③原告がデモの際に政府官憲によって拘束されたこともないこと(乙A21)に加え,上記デモは1988年(昭和63年)当時のものであることも考慮すると,それから約21年後である本件不認定処分がされた平成21年当時において,本国政府が,青年図書館や原告のデモ参加等の活動につき,反政府的なものとして個別に関心を寄せるほどのものであったと認めることには疑問があるといわざるを得ない。
イ 原告が11人の離反兵士らをかくまったとの主張について
原告は,1988年(昭和63年)8月8日の大規模な反政府民主化デモの約1週間後に,Cが,国軍から11名の兵士を離反させて,青年図書館が政府の許可を得ずに公営施設である競技場の脇の広場で開催していた演説会の会場に連れてきたことを受けて,人目に付かないように離反兵士らを競技場の中に隠し,ジャーナリストを連れてきて離反兵士らに対するインタビューを行わせ,その後,離反兵士らをかくまうために,原告らにおいて離反兵士らをCが所有する家に送り届け,その後も原告らが交代で食事や生活用品の差入れをするなどしたことを主張し,これに沿う証拠も存する。
しかしながら,①青年図書館が開催していた演説会は,政府が所有する競技場の脇で,政府の許可を受けることなく行われていたものであったが,当時警察や軍の監視はなかったこと(原告本人),②離反兵士らへの軍からの離脱の働きかけと演説会の会場への同行は,原告を含む青年図書館のメンバーが計画したものではなく,Cが独自の判断で行ったものであること(甲A1,乙A18,乙A19,乙A27),③原告が離反兵士らのために行ったとする活動内容は,(ア)離反兵士らを競技場の体育館内に招き入れたこと,(イ)離反兵士らに対するインタビューを実施するためにジャーナリストを呼んできて,インタビューの機会を設けたこと,(ウ)離反兵士らを私服に着替えさせ,Cの所有している建物に連れて行ったこと,(エ)離反兵士らのために食料等を調達したことにとどまること(③につき,甲A1,乙A18,原告本人),④上記③(イ)のインタビューの結果は結局新聞には掲載されず,その後,原告を含む青年図書館のメンバーが,インタビューを踏まえてビラを100枚以上作り,人目のつく場所で貼付したり配布したりしたというものの,ビラには青年図書館のメンバーの名前を記載しておらず,ビラ配布後に政府からビラの配布をとがめられたこともなかったこと(甲A1,乙A16,乙A18,乙A19,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人),⑤原告が上記に関係する事項に関して身柄を拘束され尋問を受けたのは,その主張を前提にしても,後記エのとおり1991年(平成3年)12月ということであって,その後に原告が本国を出国するまでの間に上記に関係する事項について重ねて尋問等を受けたことを認めるに足りる証拠はないこと(乙A26の2及び乙A34に記載されている1992年(平成4年)に入ってから受けたとする尋問は,本件訴えにおける原告の主張には現れておらず,いずれにせよ,その内容は不明である。),これらのことに加えて,上記事情は1988年(昭和63年)当時のものであることも考慮すると,それから約21年後である本件不認定処分がされた平成21年当時において,本国政府が,上記のような活動につき,反政府的なものとしてなお個別に関心を寄せていたものと認めることには疑問があるといわざるを得ない。
ウ Fをかくまったとの主張について
(ア) 原告は,1988年(昭和63年)8月8日から1週間ないし10日後に,原告の住む地区に実家のあるFが,民主化運動に関する情報収集及び妨害活動を目的として,軍の命令によって同地区に派遣されてきたとの情報を得たことを受けて,①原告を含む青年図書館のメンバーにおいて,兵士らが収集した情報や妨害活動の状況を報告する場所を探し出すことを試みたこと,②原告を含む青年図書館のメンバーにおいて,軍が民主化運動を妨害するために行っている悪行を公にするべく,Fの告白を基にビラを印刷し,100枚以上を配布したこと,③原告は,Fに対して軍からの離反を説得したこと,④原告は,Fが実家に戻ってから2,3日後,あるいは同年9月18日のクーデターの1週間以上前の時期から,原告がFをかくまうようになったこと,⑤原告は,Fを原告の自宅である共同住宅の前の廊下にある物置にかくまったが,食事やその他日常の生活は,原告宅の本来の居室で行わせていたことなどを主張し,これに沿う証拠も存する。
(イ) しかしながら,原告は,本件難民申請に係る申請書においては,Fをかくまったことについて記載をしていなかったものであり(乙A16),平成18年12月19日の難民調査官による事実の調査の際(乙A19)に,①原告は,Fに,師団に帰らない方がよいと説得したこと,②Fは,1988年(昭和63年)9月18日の軍によるクーデターが起こった後,身の危険を感じて自宅を出て,原告の自宅が入っている共同住宅の2階の共用部分である広い廊下の隅に身を隠し,一晩泊まっていたが,クーデターの翌日に軍が30名くらいでFを捕まえて連行したこと,③Fに対する援助としては,師団に戻らない方がよいと言ってあげたことや,原告の家の廊下に逃げてきた際にたばこをあげたことくらいだったこと,④自分自身のことも心配で,Fを自宅にかくまうことまでは気が回らなかったことなどを述べていたところ,平成21年11月20日に提出した異議申立てに係る申述書(乙A26の2,乙A34)においては,Fを初めて保護した日から上記の連行の日まで原告が責任をもって面倒を見るとともに,潜伏する場所を原告の家の周辺に与えていた旨記載していたが,平成23年11月30日に提起した本件訴えの訴状においては,Fをかくまったことについては具体的に主張することはせず,平成24年4月27日付けの原告準備書面(1)以降において,上記(ア)のように主張し,供述等をするに至った。
そして,このようにFに関する経緯についての主張等を変遷させたことにつき,原告は,本人尋問において,乙A19の供述調書が作成された際に,直してほしいところを告げたが,難民調査官が「このくらい大丈夫ですよと言っていました。」,「担当者の方はこのくらい問題ありませんと言っていましたので,私も何も言わなかった。」とし,その日は,「朝10時から,夜9時くらいまで」インタビューが行われ,「その時間はとても疲れて」いたためそのように言われて直さなくてもよいと思って署名した旨供述する。しかしながら,Fが連行された直後又はそれから間もない時期に原告がFをかくまった行為について軍から尋問等を受けたことについては,本件全証拠によってもこれを認め難く,このことも踏まえると,上記供述調書に記載された内容は,格別不自然ないし不合理なものとはいい難い。また,上記供述調書を作成した難民調査官は,他の供述調書(乙A17,乙A18及び乙A21)については,原告からの訂正の申立てに応じており(なお,乙A20及び乙A21の供述調書の作成については,同一の通訳人が関与している。),かつ,それに関係する事項はその機会に初めて原告が詳細に説明したものであるにもかかわらず,同難民調査官が,上記の乙A19の供述調書の原告の指摘する部分に限って原告からの内容の訂正の申立てに応じず,殊更不正確な記載をしたとはにわかには考え難い上,原告が上記(ア)のように主張ないし供述等を変遷させたことについて他の合理的な理由は格別うかがわれないことをも併せ考慮すると,その主張等に係る(ア)の事実があったということについては疑念を差し挟まざるを得ない。
(ウ) 上記(イ)の点をおき,仮に上記(ア)に係る事実の存在が認められるとしても,同事実を前提にするならば,原告は,Fをかくまっていたものとして,直ちに軍から事情を聞かれたり,身柄を拘束されたりしてもやむを得なかったともいい得るところ,上記の直後に原告が身柄を拘束され尋問を受けたとの事実は格別うかがわれず,原告がFのことで身柄を拘束され尋問を受けたのは,その主張を前提にしても,後記エのとおり,1991年(平成3年)12月ということであって,前記ウに述べたように,その後に原告が本国を出国するまでの間にFの件について重ねて尋問等を受けたことを認めるに足りる証拠はない。また,原告らが,兵士による情報収集活動を報告する場所を探す際に,格別妨害を受けたり危険な目にもあったりしていないというのであるし,原告らが,Fの告白を基にビラを印刷して100枚以上を配布したことについても,ビラには名前を入れていなかったし,その配布中に妨害を受けたり危険な目にあったりしたこともないというのである(乙A19)。上記に加えて,前記(ア)の事情は1988年(昭和63年)当時のものであることも考慮すると,それから約21年後である本件不認定処分がされた平成21年当時において,本国政府が,上記のような活動につき,反政府的なものとしてなお個別に関心を寄せていたものと認めることには疑問があるといわざるを得ない。
エ 原告が軍によって連行されて尋問を受け,その後刑務所に収監され,釈放後も監視を受けていたとの主張について
原告は,1991年(平成3年)12月末の夜12時頃,自宅を訪れた軍の人間によって,軍第6情報部に連行され,約10日間にわたり,Cや青年図書館との関係,11人の離反兵士らをかくまった件,Fをかくまった件などについて繰り返し尋問を受け,その際,度々暴力を受けたこと,その後,原告はインセイン刑務所に2週間収容され,禁足を条件に釈放され,釈放後には,毎週1回水曜日に第6情報部のH大尉宛てに電話で報告をするよう命じられるとともに,ヤンゴンから出るときには事前に許可を要した上に,日常的に監視を受けていたことなどを主張し,これに沿う証拠も存する。
しかしながら,①原告の刑務所への収容は,原告の主張するところを前提とすれば,実質的には反政府的な活動の疑いによるものと考えられるにもかかわらず,その期間は2週間と比較的短いといえること(原告は,2週間となったのは,空軍のパイロットであったIの働きかけによるものであると主張し,これに沿う証拠(原告本人)も存するところ,他方で,原告は,Cと政府との政治的取引によると思われる旨も供述しているのであって(乙A27),その主張等には変遷があり,にわかには採用し難い。),②インセイン刑務所に収容された際の原告の罪責は賭博罪であったこと(甲A1,乙A20,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人。なお,原告は,乙A20の供述調書においては,収容時に罪についての法律の規定の条項を告げられ,3,4日後にそれが賭博罪に当たると知った旨を供述していたところ,本人尋問においては,Iの働きかけの結果罪名が賭博罪に変わった旨を述べており,この点においても変遷が見られる。),③原告が釈放後に監視を受けていたとする根拠は,原告の家族が経営していた喫茶店の前に自動車が常に止まっており,いつも違う人が乗っていたというものであるが(原告本人),そのような事実から直ちに原告が常に監視を受けていたと断定することは困難であること,④原告は,禁足を条件にされ,更には週1回の大尉への報告を義務付けられ,ヤンゴンを出る際には事前の許可を要するとされていたと主張しながら,原告が,ミャンマーを出国した後に,原告の家族が政府から原告の居場所を聞かれたことは一度もない旨供述していること(原告本人)に加え,上記の事情は1991年(平成3年)当時のものであることも考慮すると,原告の主張するところによる前記アないしウの各行為の内容,態様等を前提としたとしても,それから約17年半後である本件不認定処分がされた平成21年当時において,上記の事情をもって,原告が反政府的な立場の者として,なお個別に関心を寄せられていたものと認めることには疑問があるといわざるを得ない。
オ(ア) 本件においては,前記(1)アに認定したミャンマーの一般的な国内情勢等が存するものの,上記アないしエに検討したところのほか,①原告が1988年(昭和63年)以降1991年(平成3年)まで鉄道公社での稼働を継続していたこと,②原告がミャンマーを出国したのは,インセイン刑務所から釈放されてから1年ほどの期間が経過した後の1993年(平成5年)1月であり,その間も軍による監視下にあったことを考慮すると,原告が主張するような原告の家庭における経済的事情を考慮したとしても,やはり相当の長期間に及んでいるといわざるを得ないこと,③本件において,原告の政治的活動を原因として,その親族が本国において平穏に生活できなくなっているといった事情を認めるに足りる的確な証拠はないこと(なお,原告の兄は,身柄を拘束され服役していたとのことであるが,それは,原告とは関わりのない兄自らの活動に基づくものであった(乙A21,乙A27)。),④原告は,退去強制の手続においては,本国に帰国したい旨を述べるとともに,口頭審理の請求を放棄していたこと,⑤原告は,ミャンマーを出国した後,タイ,シンガポール,マレーシア及び韓国に滞在していたが,それらの国において庇護を求めたことはなく,本邦に入国して約4年4か月を経過後であって退去強制手続を受けた後に初めて真正な名義を明らかにした上で本件難民認定申請をするに至っており,ミャンマー語における「難民」の語の印象等についての原告の主張を考慮しても,本国における迫害のおそれを感じて本国を逃れた者の行動としては不自然さを拭い切れないこと,⑥本邦のみならず,タイ,シンガポール,マレーシア及び韓国における原告の稼働の状況や本国への送金の状況などからすると,稼働の目的で本邦に入国したとの違反調査の際における原告の供述は格別不自然なものではなく,他にこれと異なる事実を認めるに足りる証拠はないこと,⑦原告は,本邦においては,反政府組織や団体に加入しておらず,原告の政治的活動としては,デモに3回ほど参加したことのほか(原告本人),本邦に在留する有名な活動家とレストランで後述する発刊が中止となった雑誌の件でコンタクトをとって意見交換をしたこと(乙A21,乙A27,原告本人)や個人でインターネットのブログに匿名による書き込みをしていること程度であり(乙A16,乙A21,乙A22,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人),原告が進めていたとする雑誌の発刊についても,東京入管に収容された後に準備を始めたというものであって,しかも,実際に発刊に至る前に断念されていること(乙A21,乙A22,乙A27,原告本人。なお,⑧原告は,本邦に入国する前に,タイ等においても政治的活動をしたとするが,その態様は,デモや会議への参加,ミャンマーから避難してきたミャンマー人に対する金銭等の提供などの支援や労働交渉,UNHCRへの案内,ジャーナル誌の配布といったことにすぎず,それらをもって本国政府から関心を寄せられている態様のものとは解し難い(乙A16,乙A21,乙A26の2,乙A27,乙A34,原告本人)。)等も考慮すると,原告について,本件全証拠をもってしても,本件不認定処分がされた当時において,法にいう難民に当たるとされる要件として上記(2)に述べたところを満たす事情が存したと認めるには足りないというべきである。
(イ) 上記の点に関し,原告は,①口頭審理の放棄については,違法な手続であり,そうでないとしても,原告が退去強制の手続について正確に理解しないまま,署名押印したものである旨,②難民の認定の申請が遅れたのは,難民という言葉が,ミャンマー語では「ドッカーデー」という経済的困窮による流浪者という意味を持つものであることから,自らを難民とは認識することができなかった旨などを主張する。
しかしながら,上記①に関し,そもそも,口頭審理の放棄の手続に違法があったか否かは,原告が難民に該当するか否かの認定を直ちに左右するものではなく,この点をひとまずおくとしても,原告は,本邦に上陸する前に数か国の間を移動しており,この間に,3回にわたり他人名義の旅券を用意するなどもしていて,各国において外国人の出入国の管理の制度が存在することは十分に認識していたものと推認され,本件に関しても,既に刑事被告事件において判決の宣告を受けていた原告につき新たに移動して開始される手続がそのような制度によるものであることは理解していたものと認めるのが相当である。そして,原告は,上記の移動の後にされた違反調査の際に早期帰国希望がある旨が記載された供述調書の読み聞かせを受けて,これに署名指印している(乙A10。この点について,原告は具体的に争っていない。)。そして,原告は,翌日にされた入国審査官による違反審査において,「在日歴が約4年になり日本語は分かりますので,日本語で話します。」との記載のほか,「ミャンマーに帰国したいです。」「認定に従えば,本国に帰らなければならないことは分かりました。私は認定に服し,口頭審理を放棄します。」との記載のある供述調書に署名指印していること(乙A12)に加え,入国審査官が,あえて,供述調書につき所定の読み聞かせ等の手続を経ることなく原告に署名指印をさせ,又は原告の意思に反してまで口頭審理の請求を放棄させるべきことを必要としたような事情の存在は本件全証拠によっても見いだし難いことからすると,上記①の主張は採用することができない。
上記②の主張もにわかには採用し難いことは,既に述べたとおりである。
2  小括
以上によれば,本件不認定処分がされた当時において,原告が前記1(2)に述べた意味における難民に該当していたと認めることはできず,本件不認定処分は適法と認められる。
第4  結論
よって,原告の請求は理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 八木一洋 裁判官 石村智 裁判官塚原洋一は,転補のため,署名押印できない。裁判長裁判官 八木一洋)

 

別紙
当事者目録
東京都江戸川区〈以下省略〉
原告 X
同訴訟代理人弁護士 梓澤和幸
同 板倉由実
同 伊藤敬史
同 井村華子
同 岩重佳治
同 打越さく良
同 枝川充志
同 大川秀史
同 小田川綾音
同 槐惟成
同 加藤桂子
同 川本祐一
同 久保田祐佳
同 笹川麻利恵
同 猿田佐世
同 島薗佐紀
同 白鳥玲子
同 鈴木眞
同 鈴木雅子
同 曽我裕介
同 髙橋太郎
同 高橋融
同 高橋ひろみ
同 田島浩
同 濱野泰嘉
同 原啓一郎
同 樋渡俊一
同 福地直樹
同 藤元達弥
同 本田麻奈弥
同 皆川涼子
同 水内麻起子
同 宮内博史
同 村上一也
同 毛受久
同 山口元一
同 山﨑健
同 渡邉彰悟
同 近藤博徳
東京都千代田区〈以下省略〉
被告 国
同代表者兼処分行政庁 法務大臣 A
被告指定代理人 高橋康夫
同 田中国博
同 白寄禎
同 壽茂
同 三浦志穂
同 潮崎由美
同 西本友里
同 中山祐子
同 堀籠和江
同 白根聖子
同 坂谷裕馬

〈以下省略〉


「演説会 告知 ポスター」に関する裁判例一覧
(1)平成31年 4月26日  大阪高裁  平30(行ケ)1号 裁決取消請求事件
(2)平成31年 2月19日  奈良地裁  平29(行ウ)10号 奈良県議会議員に係わる不当利得返還請求事件
(3)平成30年 8月 9日  札幌高裁  平29(行コ)8号 政務調査費返還履行請求控訴事件
(4)平成30年 7月25日  東京高裁  平30(行ケ)8号 裁決取消請求事件
(5)平成30年 2月15日  東京地裁  平28(ワ)6477号・平28(ワ)14082号 共有物分割等請求事件、遺産分割協議不存在確認等請求事件
(6)平成28年 5月17日  広島高裁  平28(行ケ)1号 裁決取消請求事件
(7)平成28年 4月28日  青森地裁八戸支部  平28(わ)12号 各公職選挙法違反被告事件
(8)平成28年 2月12日  東京地裁  平27(ワ)11886号 街宣活動等差止請求事件
(9)平成28年 1月28日  名古屋地裁  平23(行ウ)109号 難民不認定処分等取消請求事件
(10)平成27年10月27日  岡山地裁  平24(行ウ)15号 不当利得返還請求事件
(11)平成27年 6月 1日  大阪地裁  平27(ヨ)290号 投稿動画削除等仮処分命令申立事件
(12)平成25年11月18日  福岡地裁  平19(行ウ)70号 政務調査費返還請求事件
(13)平成25年10月16日  東京地裁  平23(行ウ)292号 報酬返還請求事件
(14)平成25年 5月15日  東京地裁  平23(行ウ)697号 難民の認定をしない処分取消請求事件
(15)平成25年 3月26日  東京高裁  平24(行ケ)26号・平24(行ケ)27号・平24(行ケ)28号・平24(行ケ)29号・平24(行ケ)30号・平24(行ケ)31号・平24(行ケ)32号 各選挙無効請求事件
(16)平成25年 2月28日  東京地裁  平22(ワ)47235号 業務委託料請求事件
(17)平成25年 1月18日  東京地裁  平23(行ウ)442号 難民の認定をしない処分取消請求事件
(18)平成24年 3月27日  和歌山地裁  平19(行ウ)8号 政務調査費返還代位請求事件
(19)平成24年 1月18日  横浜地裁  平19(行ウ)105号 政務調査費返還履行等代位請求事件
(20)平成23年 6月17日  東京地裁  平21(行ウ)494号 難民の認定をしない処分取消等請求事件
(21)昭和56年 3月 3日  東京高裁  昭54(う)2209号・昭54(う)2210号 地方自治法違反被告事件
(22)昭和55年 7月29日  東京高裁  昭53(う)1259号 公職選挙法違反被告事件
(23)昭和55年 6月24日  千葉地裁  昭54(わ)1292号・昭54(わ)1160号・昭54(わ)1216号 公職選挙法違反事件 〔宇野派選挙違反事件・第一審〕
(24)昭和55年 4月28日  広島高裁松江支部  昭54(う)11号 公職選挙法違反被告事件 〔戸別訪問禁止違憲事件・控訴審〕
(25)昭和55年 2月29日  最高裁第三小法廷  昭54(あ)809号 暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件 〔「殺人シール」事件・上告審決定〕
(26)昭和55年 2月 4日  福岡地裁小倉支部  昭51(ワ)32号 損害賠償請求事件
(27)昭和54年 9月 7日  福岡地裁柳川支部  昭49(わ)33号 公職選挙法違反被告事件
(28)昭和54年 3月20日  東京高裁  昭53(う)1253号 暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件
(29)昭和54年 1月30日  高松高裁  昭49(う)198号 国家公務員法違反被告事件 〔高松簡易保険局選挙応援演説事件・控訴審〕
(30)昭和54年 1月24日  松江地裁出雲支部  昭51(わ)43号・昭51(わ)42号 公職選挙法違反被告事件 〔戸別訪問禁止違憲事件〕
(31)昭和54年 1月18日  東京高裁  昭53(う)2007号 公職選挙法違反被告事件
(32)昭和53年12月11日  大阪地裁 昭50(ワ)479号
(33)昭和53年 9月 4日  最高裁第二小法廷  昭50(あ)787号 騒擾、暴力行為等処罰に関する法律違反、放火未遂、外国人登録法違反外国人登録令違反被告事件 〔大須事件・上告審決定〕
(34)昭和53年 6月13日  仙台高裁秋田支部  昭53(う)10号 公職選挙法違反被告事件
(35)昭和53年 6月 6日  東京高裁  昭49(ネ)1988号 解雇無効確認並びに給料請求控訴事件 〔国鉄甲府赤穂車掌区事件〕
(36)昭和53年 5月30日  東京高裁  昭51(う)701号 公職選挙法違反被告事件
(37)昭和53年 5月30日  東京高裁  昭50(う)2024号 公職選挙法違反・名誉毀損被告事件
(38)昭和53年 4月17日  東京地裁  昭52(刑わ)2736号 暴力行為等処罰に関する法律違反被告事件
(39)昭和53年 3月30日  松山地裁西条支部  昭48(わ)107号 公職選挙法違反被告事件
(40)昭和52年12月22日  神戸地裁柏原支部  昭48(わ)4号 公職選挙法違反被告事件
(41)昭和52年10月27日  大阪高裁  昭52(行ケ)2号
(42)昭和52年 6月28日  神戸家裁  昭51(少)1968号 殺人予備等保護事件
(43)昭和52年 6月14日  名古屋高裁  昭52(う)90号 公職選挙法違反被告事件
(44)昭和52年 3月18日  名古屋地裁  昭49(わ)1549号・昭49(わ)1544号 公職選挙法違反事件
(45)昭和51年12月24日  最高裁第二小法廷  昭51(あ)192号 公職選挙法違反被告事件
(46)昭和51年11月29日  千葉地裁  昭51(行ウ)10号 選挙公示差止請求事件
(47)昭和51年 3月19日  仙台高裁秋田支部  昭49(行ケ)1号 市長選挙における選挙の効力に関する裁決取消等請求事件
(48)昭和51年 3月 9日  東京高裁  昭47(う)3294号 埼玉県屋外広告物条例違反等被告事件
(49)昭和50年12月23日  広島高裁  昭47(ネ)86号 解雇無効確認等請求控訴事件 〔電電公社下関局事件〕
(50)昭和50年 6月30日  東京高裁  昭47(う)3293号 埼玉県屋外広告物条例違反・軽犯罪法違反被告事件
(51)昭和50年 4月30日  名古屋高裁  昭48(う)509号 公職選挙法違反・名誉毀損被告事件
(52)昭和50年 4月16日  大阪地裁  昭42(わ)2678号 公職選挙法違反被告事件
(53)昭和50年 3月27日  名古屋高裁  昭45(う)101号・昭45(う)100号・昭45(う)102号・昭45(う)99号 騒擾、放火、同未遂、爆発物取締罰則違反、外国人登録法違反各被告事件 〔大須事件・控訴審〕
(54)昭和50年 3月 3日  東京地裁  昭47(行ウ)160号 損害賠償請求事件
(55)昭和49年11月 6日  最高裁大法廷  昭47(あ)1168号 公職選挙法違反、国家公務員法違反各被告事件 〔総理府統計局事件・上告審〕
(56)昭和49年11月 6日  最高裁大法廷  昭46(あ)2147号 国家公務員法違反被告事件 〔徳島郵便局事件・上告審〕
(57)昭和49年11月 6日  最高裁大法廷  昭44(あ)1501号 国家公務員法違反被告事件 〔猿払事件・上告審〕
(58)昭和49年 6月28日  高松地裁  昭40(わ)250号 国家公務員法違反被告事件 〔高松簡易保険局員選挙応援演説事件・第一審〕
(59)昭和49年 5月21日  広島高裁岡山支部  昭48(う)124号 公職選挙法違反事件
(60)昭和49年 5月14日  仙台高裁  昭48(う)133号 公職選挙法違反被告事件 〔仙台市労連事件・控訴審〕
(61)昭和48年 9月26日  名古屋高裁  昭47(行ケ)4号 市議会議員当選の効力に関する訴願裁決取消請求事件
(62)昭和48年 9月13日  名古屋高裁  昭47(う)510号 公職選挙法違反被告事件
(63)昭和48年 3月29日  仙台地裁  昭42(わ)120号 公職選挙法違反被告事件
(64)昭和48年 3月 1日  大阪地裁  昭43(わ)2537号・昭43(わ)3309号 公職選挙法違反被告事件
(65)昭和47年12月22日  東京高裁  昭46(行ケ)100号・昭46(行タ)13号 裁決取消請求及び同参加事件
(66)昭和47年12月22日  札幌地裁  昭41(行ウ)1号・昭41(行ウ)4号 課税処分取消請求事件
(67)昭和47年 3月 3日  東京地裁  昭45(特わ)135号・昭45(特わ)136号・昭45(特わ)134号・昭45(特わ)137号・昭44(特わ)496号・昭44(特わ)445号・昭45(特わ)133号 公職選挙法違反被告事件
(68)昭和47年 2月28日  山口地裁  昭44(ワ)160号 解雇無効確認等請求事件 〔下関電報局職員免職事件〕
(69)昭和47年 1月19日  仙台高裁  昭44(行ケ)1号 町長選挙の効力に関する訴願裁決取消請求事件
(70)昭和46年10月 4日  東京高裁  昭44(う)32号 公職選挙法違反被告事件
(71)昭和46年 5月10日  高松高裁  昭44(う)178号 国家公務員法違反事件 〔徳島郵便局事件・控訴審〕
(72)昭和46年 3月15日  東京高裁  昭45(う)2675号 公職選挙法違反被告事件
(73)昭和46年 3月11日  仙台高裁  昭44(う)161号 公職選挙法違反被告事件
(74)昭和45年12月28日  横浜地裁川崎支部  昭42(ワ)271号 賃金請求等事件 〔日本鋼管賃金請求事件〕
(75)昭和45年11月14日  札幌地裁  昭38(わ)450号 公職選挙法違反・政治資金規正法違反被告事件
(76)昭和45年 9月25日  大阪高裁  昭43(う)1525号 公職選挙法違反被告事件
(77)昭和45年 7月16日  東京高裁  昭43(行ケ)99号 選挙の効力に関する訴訟事件
(78)昭和45年 3月31日  広島高裁  昭43(う)329号 公職選挙法違反各被告事件
(79)昭和45年 3月31日  広島高裁  昭43(う)328号 公職選挙法違反被告事件
(80)昭和44年11月11日  名古屋地裁  昭28(わ)2403号 騒擾,放火,同未遂,爆発物取締罰則違反,外国人登録法違反各被告事件 〔大須事件・第一審〕
(81)平成 9年 7月15日  最高裁第三小法廷  平9(行ツ)31号 当選無効及び立候補禁止請求事件 〔愛媛県議会議員選挙候補者連座訴訟・上告審〕
(82)平成 9年 4月23日  大阪地裁  平4(ワ)7577号 損害賠償請求事件
(83)平成 9年 3月18日  大阪高裁  平8(行コ)35号 供託金返還請求控訴事件
(84)平成 8年11月13日  高松高裁  平7(行ケ)3号 当選無効及び立候補禁止請求事件
(85)平成 8年 9月27日  大阪高裁  平8(行ケ)1号 立候補禁止請求事件
(86)平成 8年 8月 7日  神戸地裁  平7(行ウ)41号 選挙供託による供託金返還請求事件
(87)平成 8年 7月 8日  仙台高裁  平7(行ケ)3号 当選無効及び立候補禁止請求事件 〔青森県議会議員選挙候補者連座訴訟・第一審〕
(88)平成 8年 1月18日  東京高裁  平7(行ケ)236号 当選無効及び立候補禁止請求事件
(89)平成 7年12月11日  名古屋高裁金沢支部  平5(行ケ)1号・平5(行ケ)2号 珠洲市長選無効訴訟判決
(90)平成 7年10月 9日  仙台高裁  平7(行ケ)2号 当選無効及び立候補禁止請求事件 〔山形県議会議員選挙候補者連座訴訟〕
(91)平成 6年 5月23日  千葉地裁  昭51(ワ)698号 損害賠償等請求事件 〔千葉東電訴訟判決〕
(92)平成 6年 4月26日  名古屋高裁  平6(う)17号 公職選挙法違反被告事件 〔参議院議員経歴詐称事件・控訴審〕
(93)平成 6年 2月21日  福岡高裁  平元(ネ)608号 接見交通妨害損害賠償請求事件
(94)平成 5年12月24日  名古屋地裁  平5(わ)1207号 公職選挙法違反被告事件 〔参議院議員経歴詐称事件・第一審〕
(95)平成 5年10月12日  松山地裁  平2(わ)207号・平2(わ)118号・平2(わ)104号・平2(わ)112号・平2(わ)140号・平2(わ)134号・平2(わ)116号・平2(わ)125号・平2(わ)117号・平2(わ)131号・平2(わ)129号・平2(わ)105号・平2(わ)120号・平2(わ)108号・平2(わ)133号・平2(わ)107号・平2(わ)138号・平2(わ)128号・平2(わ)132号・平2(わ)102号・平2(わ)114号・平2(わ)126号・平2(わ)208号・平2(わ)137号・平2(わ)124号・平2(わ)141号・平2(わ)130号・平2(わ)209号・平2(わ)110号・平2(わ)109号・平2(わ)135号・平2(わ)136号・平2(わ)115号・平2(わ)127号・平2(わ)139号・平2(わ)111号・平2(わ)121号・平2(わ)73号・平2(わ)122号・平2(わ)119号・平2(わ)106号・平2(わ)123号 公職選挙法違反被告事件
(96)平成 5年 5月13日  大阪地裁  平4(ワ)619号 損害賠償請求事件
(97)平成 5年 2月18日  最高裁第一小法廷  平4(行ツ)175号 市議会議員の当選の効力に関する裁決取消請求事件
(98)平成 4年12月17日  名古屋高裁  平4(行ケ)1号 参議院議員選挙当選無効請求事件
(99)平成 4年11月19日  名古屋高裁  平2(う)261号 公職選挙法違反事件
(100)平成 4年 7月30日  名古屋高裁  平3(行ケ)6号 市議会議員の当選の効力に関する裁決取消請求事件


■選挙の種類一覧
選挙①【衆議院議員総選挙】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙②【参議院議員通常選挙】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙③【一般選挙(地方選挙)】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)
選挙④【特別選挙(国政選挙|地方選挙)】に向けた、政治活動ポスター貼り(掲示交渉代行)


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