
「選挙 コンサルタント」に関する裁判例(63)平成15年 3月 4日 東京地裁 平元(刑わ)1047号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
「選挙 コンサルタント」に関する裁判例(63)平成15年 3月 4日 東京地裁 平元(刑わ)1047号 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
裁判年月日 平成15年 3月 4日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号
事件名 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
裁判結果 有罪 上訴等 確定 文献番号 2003WLJPCA03040001
要旨
◆未公開株式の賄賂性について、店頭登録を控えた未公開の株式を店頭登録後に見込まれる価格を下回る価格で取得する利益は贈収賄罪の客体になるとした事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、内閣官房長官に対し、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をし、請託に対する報酬として店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、衆議院議員に対し、衆議院の委員会で国の行政機関に就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨等の請託をし、請託に対する報酬として同社の関連会社から衆議院議員の関連会社へ技術指導相談料名目で送金し、かつ店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆新規学卒者向け就職情報誌事業を営む会社や中途採用者等向け就職情報誌事業を営む会社の代表者が、労働省職業安定局長を経て労働事務次官の地位にある者に対し、各社の就職情報誌の発行等に対し職業安定法を改正して法規制をする問題につき、好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼等の趣旨の下に店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆回線リセール事業及びRCS事業を新規事業として展開する会社の代表者が、NTTの代表取締役社長を含む幹部三名に対し、右事業展開に種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼等の趣旨で店頭登録を控えた非公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、NTT法所定の贈賄罪の成立を認めた事例
◆高卒予定者向けの進学・就職情報誌事業を営む会社の代表者が、文部省初中局長を経て文部事務次官の地位にある者に対し、同社の進学・就職情報誌の配本につき高校教諭が便宜を供与する問題に対し実態調査をしたり是正を求めるなどの措置を執られなかったことなど種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼等の趣旨で店頭登録を控えた未公開の株式を譲渡して賄賂を供与したと認定し、贈賄罪の成立を認めた事例
◆単独又は部下と共謀の上、四件の贈賄及び三件のNTT法上の贈賄を敢行した被告人について執行猶予付きの有罪判決が言い渡された事例
出典
判タ 1128号92頁
評釈
甲斐淑浩・ジュリ増刊(実務に効く企業犯罪とコンプライアンス判例精選) 102頁
参照条文
刑法197条1項
刑法198条
電電会社法18条1項(平4法61改正前)
電電会社法20条1項(平4法61改正前)
裁判年月日 平成15年 3月 4日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平元(刑わ)1047号・平元(刑わ)632号・平元(刑わ)1048号・平元(特わ)361号・平元(特わ)259号・平元(刑わ)753号
事件名 日本電信電話株式会社法違反、贈賄被告事件 〔リクルート事件(政界・労働省ルート)社長室次長関係判決〕
裁判結果 有罪 上訴等 確定 文献番号 2003WLJPCA03040001
《目次》
前文〈省略〉
主文/100
理由/100
【罪となるべき事実】/100
第一 乙山一郎に対する贈賄/100
第二 丙川二郎に対する贈賄/101
第三 丁谷三郎に対する贈賄/102
第四 戊田四郎、己畑五郎及び庚町六郎に対する贈賄/102
第五 辛村七郎に対する贈賄/103
【証拠の標目】〈省略〉
【事実認定の補足説明】/104
〔説明〕/104
第一章 総論/104
第一 本件各事件の前提又は背景となる事実/104
一 被告人の経歴/104
二 リクルート及び関連会社の概要等/104
三 主なリクルート関係者の経歴、職務等/105
四 リクルートの取締役会/105
第二 コスモス株の譲渡(判示第二の二1を除く全事実に共通)/106
一 前提事実/106
二 コスモス株の譲渡状況/111
三 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み及び被告人の認識/114
四 入手困難性及びその認識/119
五 小括(コスモス株の譲渡の賄賂性)/119
第三 被告人の検面調書の任意性及び信用性の判断に関する前提事実/119
一 リクルート事件の社会問題化と被告人の健康状態等/119
二 逮捕前の被告人の取調状況等/119
三 逮捕勾留中の被告人の取調べ、接見及び調書の作成状況等/120
第二章 判示第一及び第二の各贈賄について/120
第一節 判示第一及び第二の各事実に共通の前提又は背景となる事実関係/120
第一 就職協定及びこれに関連する政府の動向等/120
一 就職協定及び公務員試験の日程に関する従前の経緯/120
二 各省庁人事担当課長会議/123
三 五八、五九年当時の就職協定及び公務員試験の日程を巡る状況/123
四 六〇年前半当時の就職協定を巡る状況/125
五 臨時教育審議会における審議等/126
第二 リクルートと就職協定/126
一 リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業/126
二 リクルートの事業と就職協定との関係/128
三 五九年当時の就職協定を巡るリクルートの取組み/130
四 六〇年度の就職協定を巡るリクルートの取組み/131
第二節 判示第一の事実(乙山に対する贈賄事実)について/131
第一 前提又は背景となる事実関係/131
一 乙山の経歴、職務権限等/131
二 被告人又はリクルートと乙山との関係/132
第二 五九年三月の請託の存在について/133
一 五九年三月一五日の被告人と乙山との会談/133
二 公邸訪問前にリクルート内部で公務員試験の日程等を巡って検討した状況等/133
三 公邸訪問時の乙山との会談の内容に関する被告人の供述/136
四 公邸訪問後の被告人、リクルート及び乙山の行動/140
五 五九年三月二四日にR6らが乙山を訪問した状況及びその趣旨/141
六 まとめ/145
第三 六〇年三月ころの請託の存在について/149
一 問題の所在/149
二 R8、R7及び被告人の捜査段階における各供述/149
三 弁護人の主張と被告人及び関係者の公判段階における各供述/155
四 考察/155
第四 乙山に対するコスモス株の譲渡/160
一 A1名義によるコスモス株の譲渡/160
二 関係証拠上明白な事実/160
三 被告人から乙山に電話でコスモス株の譲渡を持ちかけたことについて/161
四 コスモス株の売却代金の使途について/163
五 結論(コスモス株一万株を譲渡した相手方が乙山であること)/164
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性/164
一 問題の所在/164
二 被告人の供述/164
三 乙山に対し小切手を供与した状況とその趣旨/165
四 まとめ/176
第六 補足(公務員の青田買い防止と官房長官の職務権限について)/177
第三節 判示第二の事実(丙川二郎に対する贈賄事実)について/178
第一 前提又は背景となる事実関係/178
一 丙川二郎の経歴等/178
二 丙川二郎の職務権限/178
三 リクルートと丙川二郎との関係/179
第二 五九年五月下旬から七月下旬までの間の数回にわたる請託の存在について/179
一 検討の趣旨/179
二 背景事情/179
三 丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑及び意見/180
四 右質疑前の時期にリクルート内で作成された文書/182
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等/182
六 関係者及び被告人の各供述/183
七 考察/192
第三 六〇年六月中旬ころの数回にわたる請託の存在について/196
一 検討の趣旨/196
二 背景事情/196
三 丙川二郎の六〇年六月一九日の衆議院文教委員会における質疑/197
四 右委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等/198
五 被告人及び関係者の各供述/198
六 考察/202
第四 六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間の数回にわたる請託の存在について/205
一 検討の趣旨/205
二 背景事情/205
三 丙川二郎の衆議院予算委員会及び文教委員会における質疑/206
四 六〇年後半当時の就職協定を巡るリクルートや被告人の動向/209
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況/211
六 被告人及び関係者の各供述/211
七 考察/217
第五 コスモスライフから有限会社b1に対する三〇〇万円の送金とその賄賂性/221
一 問題の所在/221
二 関係証拠上明白な事実/221
三 コスモスライフからb1社に対する送金の趣旨及び被告人の関与/222
四 コスモスライフからb1社に対する送金についての丙川二郎の関与と認識/228
五 R1との共謀/233
第六 丙川二郎に対するコスモス株の譲渡とその賄賂性/234
一 B1名義によるコスモス株の譲渡の事実/234
二 関係証拠上明白な事実/234
三 B1名義によるコスモス株の譲渡についての被告人の関与/235
四 コスモス株の譲受けについての丙川二郎の関与と認識/242
五 R1との共謀/246
第三章 判示第三の事実(丁谷三郎に対する贈賄事実)について/247
第一 問題の所在/247
一 丁谷三郎に対するコスモス株の譲渡の事実等/247
二 争点/247
第二 前提となる事実関係/247
一 リクルート及び関連会社の就職情報誌事業/247
二 丁谷の職務権限等/248
第三 コスモス株の譲渡前のリクルートと労働省との関係(丁谷との関係を含む。)/248
一 五八年ころまでの就職情報誌事業と労働省との関係/248
二 労働省における就職情報誌の発行等に対する規制を巡る動き/249
三 労働省における法規制の動きへのリクルートの対応/250
四 五九年二月から四月初めまでの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等/252
五 五九年四月中旬から五月下旬までの職安法改正を巡る情勢とリクルートの対応等/253
六 五九年五月下旬ころから八月までの労働省の動きとリクルートの対応等/256
七 五九年九月以降の労働省の動きとリクルートの対応等/259
八 就職情報誌に対する法規制問題に関する被告人の認識について/261
第四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与/263
一 問題の所在/263
二 関係者及び被告人の各供述/263
三 丁谷にコスモス株の譲渡を持ちかけたのがR7であること/269
四 丁谷に対するコスモス株の譲渡についての被告人の関与/275
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性等/288
一 被告人らが就職情報誌に対する法規制問題への丁谷の対応に謝意を抱いていたこと/288
二 被告人らが丁谷による将来の好意的な取り計らいに対する期待を抱いていたこと/289
三 コスモス株の譲渡の賄賂性/291
四 賄賂性に関する丁谷の認識/291
五 R1及びR7との共謀/292
第四章 判示第四(日本電信電話株式会社法違反の各事実)について/293
第一 問題の所在/293
一 戊田、己畑五郎及び庚町に対するコスモス株の譲渡の事実等/293
二 争点/295
第二 前提となる事実関係/295
一 電気通信事業の自由化とNTTの発足/295
二 戊田、己畑及び庚町の職務権限等/295
第三 リクルートとNTTとの関係(戊田、己畑及び庚町との関係を含む。)/296
一 リクルートの回線リセール事業とNTTの業務との関係等/296
二 リクルートのRCS事業とNTTの業務との関係等/305
三 関連する弁護人の主張等について/308
第四 コスモス株の譲渡の賄賂性/313
一 NTT法上の贈収賄に関する規定の意義について/313
二 戊田らの支援と協力に対する被告人らの謝意と今後の期待/314
三 被告人が戊田らにコスモス株を譲渡した趣旨/320
四 コスモス株の譲渡の賄賂性に関する戊田らの認識/322
第五章 判示第五の事実(辛村七郎に対する贈賄事実)について/325
第一 前提となる事実関係/325
一 リクルートの進学・就職情報誌事業の実態/325
二 辛村の職務権限等/327
第二 リクルートの進学・就職情報誌事業と文部省との関係等/328
一 進学・就職情報誌事業における高校教諭らの協力の重要性等/328
二 リクルートの進学・就職情報誌事業に対する各方面からの指摘、批判等/329
三 進学情報誌を巡る問題点に対する文部省の動向/334
四 各方面からの問題指摘、批判等へのリクルートの対応/341
五 文部行政の動向へのリクルートの対応/346
六 リクルートの役職員の文部省所管の各種審議会等の委員等への就任/350
七 辛村に対するコスモス株の譲渡後の進学・就職情報誌事業を巡る状況/355
第三 辛村に対するコスモス株の譲渡及びその趣旨/357
一 辛村に対するコスモス株の譲渡/357
二 コスモス株の譲渡の賄賂性/357
三 賄賂性に関する辛村の認識/363
四 その他の弁護人の主張について/364
五 結論/364
【法令の適用】/364
【量刑の理由】/364
後文/367
別紙(一) 訴訟費用負担目録〈省略〉
別紙(二) 取調経過等一覧表〈省略〉
主文
被告人を懲役三年に処する。
この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用のうち、別紙(一)(訴訟費用負担目録)に記載した分は被告人の負担とする。
理由
【罪となるべき事実】
第一 乙山一郎に対する贈賄
一 前提事実
1 被告人の立場
被告人は、株式会社リクルート(以下「リクルート」という。)の代表取締役社長をしていた者である。
2 乙山一郎の職務等
乙山一郎(以下「乙山」という。)は、昭和五八年一二月二七日から昭和六〇年一二月二八日までの間、国務大臣である内閣官房長官として、閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整等に関する事務を掌る内閣官房の事務を統轄するなどの職務に従事していた。
3 就職協定を巡る状況
昭和五八年ないし昭和六〇年当時、国立大学協会等の国公私立の大学、短期大学及び高等専門学校(以下「大学等」という。)の団体は、例年、文部省が実施する就職問題懇談会において、最終学年の学生が勉学に専念できる期間を確保するため、大学等卒業予定者による求職のための企業との接触開始日を卒業前年の一〇月一日とし、企業による採用選考開始日をその年の一一月一日として就職事務を行う旨の申合せをし、産業界においても、これと歩調を合わせ、大学等卒業予定者の早期採用選考を防止して求人求職秩序の確立を図るため、日本経営者団体連盟等の雇用者団体が、労働省の設置する中央雇用対策協議会において、民間企業の行う求人活動等につき、大学等卒業予定者の会社訪問開始日を卒業前年の一〇月一日とし、採用選考開始日をその年の一一月一日とする旨の申合せをしていたが(双方の申合せを一括して、以下「就職協定」という。)、就職協定が遵守されず、申合せに係る活動時期に先立つ採用選考活動(以下「青田買い」という。)が広く行われる状況にあった。
4 リクルートの事業等
リクルートは、民間企業等から掲載料を得て、大学等卒業予定者向けの求人広告を情報として掲載する就職情報誌を発行し、大学等卒業予定者に無料で配本する事業(以下「新規学卒者向け就職情報誌事業」という。)等を営んでいたところ、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、国の行政機関が国家公務員採用上級甲種試験(昭和六〇年度は国家公務員採用Ⅰ種試験)の合格者の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことが民間企業の就職協定違反の一因になっており、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの右事業を遂行していく上で大きな障害になると考えていた。
二 犯罪事実
被告人は、乙山に対し、
① 昭和五九年三月一五日、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の内閣官房長官公邸において、民間企業で就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が国家公務員の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことに一因があるので、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をし、
② 昭和六〇年三月ころ、右①所在の内閣官房長官公邸において、リクルート専務取締役のR8及びリクルート社長室長のR7(以下「R7」という。)を介して、右①と同趣旨の請託をし、右各請託に係る報酬として、昭和六一年九月中、下旬ころ、同区永田町〈番地略〉所在の○○ビル六〇二号室の乙山事務所等において、同年一〇月三〇日に社団法人日本証券業協会に店頭売買銘柄として登録されることが予定されており、右登録後にはその価格が一株当たり三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれ、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人がその価格で入手することの極めて困難な株式会社リクルートコスモスの株式(以下「コスモス株」という。)一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同年九月三〇日付けでA1名義により譲渡する手続をして、同日、これを乙山に取得させ、もって、乙山の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第二 丙川二郎に対する贈賄
一 前提事実
1 被告人及び共犯者の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者であり、R1(以下「R1」という。)は、リクルートの社長室秘書課長兼文書課長、社長室次長等をしていた者である。
2 丙川二郎の職務等
丙川二郎は、昭和五八年一二月二八日及び昭和六一年七月六日の各総選挙に当選し、衆議院議員であった者であるが、昭和五八年一二月二八日から昭和六一年六月二日までの間及び同年七月二三日から同年一二月二四日までの間、衆議院文教委員会の委員として(ただし、右期間中に数回同委員を辞任したが、辞任当日中に他の委員の辞任に伴う補欠選任により同委員に復した。)、文部省の所管に属する事項等に関する議案、請願等を審査するほか、国政に関する調査に関与する職務権限を有しており、昭和五九年一二月一八日から昭和六一年六月二日までの間、衆議院予算委員会の委員として(ただし、右期間中に数回同委員を辞任したが、辞任当日中に他の委員の辞任に伴う補欠選任により同委員に復した。)、予算に関する議案、請願等を審査するほか、国政に関する調査に関与する職務権限を有していた。
3 就職協定を巡る状況
就職協定を巡る状況は前記第一の一3のとおりであり、昭和五九、六〇年当時、国の行政機関も、各省庁人事担当課長会議において、その職員の選考に関し、就職協定に協力し、選考開始日は一一月一日であるという認識の下に一〇月一日前の学生のOB訪問及び一〇月一日以降の官庁訪問に対しても就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せをしていた。
4 リクルートの事業等
リクルートは、前記第一の一4のとおり、新規学卒者向け就職情報誌事業等を営んでいたところ、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、国の行政機関が国家公務員採用上級甲種試験(昭和六〇年度は国家公務員採用Ⅰ種試験)の合格者の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことが民間企業の就職協定違反の一因になっており、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの右事業を遂行していく上で大きな障害となることから、右3の申合せが遵守されることが事業遂行上重要であると考えていた。
二 犯罪事実
被告人は、R1と共謀の上、丙川二郎に対し、
① 昭和五九年五月三〇日、同年六月一五日、同年七月一八日及び同月二三日の四回にわたり、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の衆議院第一議員会館等において、リクルート社長室長のR7、リクルート事業部次長のR9らを介して、就職協定が存続し、遵守されないと、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の遂行に多大な支障を来すこと、同年三月に各省庁人事担当課長会議において国の行政機関の職員の選考に関し就職協定の趣旨に沿った対応をする旨の申合せがなされたのに、これに反して通産省及び労働省が青田買いをしていることなどを説明した上、衆議院文教委員会で、通産省及び労働省が右申合せに違反していることを指摘して、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
② 昭和六〇年六月上旬ころ、右①所在の衆議院第一議員会館又は東京都中央区銀座〈番地略〉所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、R7及びリクルート事業部事業課長のR10(以下「R10」という。)を介して、同年も各省庁人事担当課長会議において前年同様の申合せがなされたことなどを説明した上、衆議院文教委員会で、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、さらに、同月一八日、右①所在の衆議院第一議員会館において、R7、R10及びリクルート事業部付課長のR11を介して、通産省が右申合せに反して青田買いをしていることなどを説明した上、衆議院文教委員会で、通産省の青田買いの問題を取り上げるなどして、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
③ 昭和六〇年一〇月中旬ころ及び同月二六日から同月二九日までのある日、右①所在の衆議院第一議員会館又は右②所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、リクルート事業部担当取締役のR7及びR10を介して、衆議院予算委員会で、臨時教育審議会の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止等が取り上げられていることを指摘し、実効性のある就職協定の早期取決め等について国の行政機関が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨の請託をし、さらに、同年一一月一四日、右①所在の衆議院第一議員会館において、R7及びR10を介して、衆議院文教委員会で、実効性のある就職協定の早期取決め等について国の行政機関が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨の請託をし、
右各請託に係る報酬として、
1 R1が、昭和六一年五月三一日、リクルートの関連会社である株式会社コスモスライフと有限会社b1との間で同月二八日付けで締結した架空のビル管理技術指導相談に関する契約に基づく相談料の名目で、東京都世田谷区玉川〈番地略〉所在の三菱銀行玉川支店の有限会社b1(代表取締役B5)名義の口座に三〇〇万円を振込送金して丙川二郎に取得させ、
2 R1が、昭和六一年九月中旬ころ、右②所在のリクルート銀座八丁目ビルにおいて、前記第一の二と同様のコスモス株五〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けでB1名義により譲渡する手続をして、同日、これを丙川二郎に取得させ、
もって、それぞれ丙川二郎の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第三 丁谷三郎に対する贈賄
一 前提事実
1 被告人及び共犯者の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者であり、R1は、リクルートの社長室次長をしていた者であり、R7は、リクルートの関連会社である株式会社コスモスライフの代表取締役等をしていた者である。
2 丁谷三郎の職務等
丁谷三郎は、昭和五八年七月八日から昭和六〇年六月二五日までの間、労働省職業安定局長として、職業の紹介及び指導その他労務需給の調整、労働者の募集、職業安定法等の法律の施行、雇用に係る政策の企画等に関する同局の事務全般を統括する職務に従事し、その後、昭和六一年六月一六日から昭和六二年九月二九日までの間、労働事務次官として、労働大臣を助け、省務を整理し、労働省各部局等の事務を監督するなどの職務に従事していた。
3 リクルートの事業
リクルートは、前記第一の一4のとおり、新規学卒者向け就職情報誌事業を営み、リクルートの関連会社である株式会社リクルート情報出版は、転職希望者向けの求人広告等を情報として掲載する就職情報誌を発行・販売する事業等を営み、同じくリクルートの関連会社である株式会社リクルートフロムエーは、アルバイトやパートタイム労働希望者向けの求人広告等を情報として掲載する就職情報誌を発行・販売する事業等を営んでいた。
二 犯罪事実
被告人は、R1及びR7と共謀の上、丁谷三郎に対し、職業安定局長であった丁谷三郎から、リクルート、株式会社リクルート情報出版及び株式会社リクルートフロムエーの営む就職情報誌の発行等に対し職業安定法を改正して法規制をする問題につき、就職情報誌業界による自主規制に向けた行政指導をしてもらい、同局内部の検討状況に関する情報の提供を受け、結果的にも右法規制が見送られるなどの好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び労働事務次官である丁谷三郎から就職情報誌の発行等に対する法規制の問題等につき、今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨の下に、R7が、昭和六一年九月末ころ、前記第一の二と同様のコスモス株三〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、R1が、その数日後、東京都千代田区霞が関〈番地略〉所在の労働省の労働事務次官室において、同月三〇日付けで譲渡する手続をし、そのころ、これを丁谷三郎に取得させ、もって、丁谷三郎の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
第四 戊田四郎、己畑五郎及び庚町六郎に対する贈賄
一 前提事実
1 被告人の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者である。
2 戊田四郎の職務等
戊田四郎(以下「戊田」という。)は、昭和六〇年四月一日から昭和六三年六月二八日までの間、国内電気通信事業等を営む日本電信電話株式会社(以下「NTT」という。)の代表取締役社長として、同社を代表し、取締役会の決議に基づいて同社の業務を総理する職務に従事していた。
3 己畑五郎の職務等
己畑五郎は、①昭和六〇年四月一日から昭和六一年六月二五日までの間、NTTの東京総支社長の職にあり、このうち同年三月二日までは、同総支社の管轄区域(東京都の全域を含む。)内の電話の加入等、データ通信、電気通信施設の建設についての設備計画、同施設の工事の計画、電気通信設備の工事の設計、同設備の建設及び保全、不動産の建設、貸借等、職員の人事等に関することなどの事務(ただし、昭和六〇年一一月二九日以降は、電話サービス以外のサービスに関する事務を除く。)について、所属の社員を指揮監督して事務を執行する職務に従事し、昭和六一年三月三日以降は、同総支社の管轄区域内の地域の電話サービスに係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事し、②同年六月二六日から昭和六二年三月五日までの間、NTTのデータ通信事業本部長として、データ通信サービスに係る企画・開発、設計、建設、販売、メンテナンス等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事していた。
4 庚町六郎の職務等
庚町六郎(以下「庚町」という。)は、昭和六〇年四月一日から昭和六二年一月一九日までの間、NTTの企業通信システム事業部長の職にあり、このうち昭和六一年三月二日までは、金融関連、流通関連等の企業通信システムのコンサルティング、設計、建設等の事務について、所属の社員を指揮監督して事務を執行する職務に従事し、同月三日以降は、大規模な複合通信システムのコンサルティング、設計、建設、販売等の事業経営に関する業務について、所属の社員を指揮監督して右事業を運営する職務に従事していた。
5 リクルートの事業
リクルートは、昭和六〇年に、新規事業として、NTTから有料で提供を受けた高速デジタル回線を小分けして、その利用権限を第三者に再販売する事業(以下「回線リセール事業」という。)及び「リモート・コンピューティング・サービス事業」と称して、汎用コンピューターやスーパーコンピューターを他社に時間貸しするなどの事業(以下「RCS事業」という。)を開始し、昭和六一年九、一〇月当時も右両事業を営んでいた。
二 犯罪事実
1 戊田関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT本社において、右一2の職務に従事していた戊田に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークの設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたこと及びリクルートが営むRCS事業に使用するクレイ・リサーチ社製スーパーコンピューターの調達やこれを組み込んだシステム構築の設計、建設等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼並びに今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けでN1名義により譲渡する手続をして、同日、これを戊田に取得させ、もって、戊田の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
2 己畑五郎関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、前記第二の二②所在のリクルート銀座八丁目ビル等において、右一3①の職務に従事し、引き続き同②の職務に従事していた己畑五郎に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークの設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたこと及びリクルートが営むRCS事業に使用するクレイ・リサーチ社製スーパーコンピューターの調達やこれを組み込んだシステム構築の設計、建設等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼並びに今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを己畑五郎に取得させ、もって、己畑五郎の右一3の職務に関し賄賂を供与した。
3 庚町関係
被告人は、昭和六一年九月上、中旬ころ、東京都千代田区内幸町〈番地略〉所在のNTT企業通信システム事業部において、右一4の職務に従事していた庚町に対し、リクルートが全国規模で回線リセール事業を展開するに当たり、NTTから提供を受けた高速デジタル回線等で構築する通信ネットワークのコンサルティング、設計、建設、保守等について種々の支援と協力を受けたことに対する謝礼及び今後も同様の支援と協力を受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株五〇〇〇株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを庚町に取得させ、もって、庚町の右一4の職務に関し賄賂を供与した。
第五 辛村七郎に対する贈賄
一 前提事実
1 被告人の立場
被告人は、前記第一の一1のとおり、リクルートの代表取締役社長をしていた者である。
2 辛村七郎の職務等
辛村七郎(以下「辛村」という。)は、昭和五八年七月五日から昭和六一年六月一六日までの間、文部省初等中等教育局長として、教育課程、学習指導法等初等中等教育のあらゆる面について、教育職員その他の関係者に対し専門的、技術的な指導と助言を与えること、初等中等教育における進路指導に関し援助と助言を与えること、文部大臣の諮問機関である教育課程審議会に関することなどの同局の事務全般を統括する職務に従事し、その後、同月一七日から昭和六三年六月一〇日までの間、文部事務次官として、文部大臣を助け、省務を整理し、文部省各部局等の事務を監督するなどの職務に従事していた。
3 リクルートの事業等
リクルートは、高等学校生徒向け進学・就職情報誌を発行してこれを高等学校生徒に配本するなどの事業を営んでいたところ、昭和五八年ころないし六一年当時、リクルートの発行する進学情報誌に対し、配本方法や掲載内容について高等学校の教諭からやマスコミ報道による批判が高まっており、被告人らリクルートの幹部や同事業担当者は、文部省がこれらの批判の動きに対応してリクルートの右事業の遂行に支障を来すような行政措置を執ることを憂慮し、他方、リクルートの役職員が文部省所管の各種審議会等の委員等に選任されることはリクルートの右事業の遂行に有利に働く行政措置であるとして、文部行政の動向がリクルートの右事業を遂行していく上で大きな影響を及ぼすものと考えていた。
二 犯罪事実
被告人は、辛村に対し、昭和六一年九月上旬ころ、東京都千代田区霞が関〈番地略〉所在の文部省の文部事務次官室等において、辛村から、リクルートの行う進学・就職情報誌の配本につき、高等学校教諭が高等学校生徒の名簿等を収集提供するなどして便宜を供与する問題に対し実態調査をしたり是正を求めるなどの措置を執られなかったことや、リクルートの事業遂行上有利になる文部省所管の各種審議会等の委員等の選任につき、リクルートの役職員を就任させてもらうことにより、種々の好意的な取り計らいを受けたことに対する謝礼及び今後も同様の取り計らいを受けたいという趣旨の下に、前記第一の二と同様のコスモス株一万株を一株当たり三〇〇〇円で譲渡したい旨持ちかけ、その了承を得た上、同年九月三〇日付けで譲渡する手続をして、同日、これを辛村に取得させ、もって、辛村の右一2の職務に関し賄賂を供与した。
【証拠の標目】〈省略〉
【事実認定の補足説明】
〔説明〕
この項目中の記載は、次の例による。
1 昭和二八年以降の「昭和」及び平成元年以降の「平成」の各年号の記載を省略する。
2 論述中又は認定事実末尾の括弧内に、引用証拠や当該事実の認定に供した主要な証拠について、公判期日の回数、供述者(他との区別の必要がある場合を除き、氏のみとする。また、前後の記述から明らかな場合は省略する。)、証拠番号(番号が連続する場合には「〜」を用いる。)等により適宜略記する。
3 公判手続更新の前後を問わず、公判廷及び公判期日外における被告人又は証人の供述は「公判段階における供述」と呼称する。ただし、証人の公判段階における供述は「証言」と呼称することもある。
4 検察官に対する供述調書は「検面調書」と略記する。
5 証拠書類の記載(検面調書に記載された供述を含む。)を引用する場合において、誤字や脱字があっても、原則として、特に断りなく、そのまま引用する。なお、引用文中の〔 〕内の記載は、趣旨を明確にするために裁判所が補足したものである。
第一章 総論
第一 本件各事件の前提又は背景となる事実
一 被告人の経歴
被告人は、三五年三月に東京大学教育学部を卒業後、在学中に東大新聞会で企業からの求人広告募集を担当した経験を生かして、大学新聞広告社の名称で、大学新聞に掲載する広告の取次業を個人で開始し、同年一〇月に株式会社大学広告を設立して代表取締役社長に就任した。同社は、三六年に多数の企業からの求人広告をまとめた「企業への招待」と題する冊子の発行・配本事業を開始して次第に業績を伸張したが、被告人は、三八年五月ころに株式会社日本リクルートメントセンターを設立し、さらに、同年八月二六日にリクルート(当初の商号は株式会社日本リクルートセンターであり、五九年四月一日に現在の商号に変更された。以下、商号変更前の同社についても「リクルート」という。)を設立して代表取締役社長になり、右事業の業績を拡大させた。被告人は、また、主として被告人個人やリクルートの出資により、後記の各社を含む多数の関連会社を設立して情報産業や不動産業等に広く進出し、それらの代表取締役社長等として業務を統括し、各社の業績を拡大させた。
なお、被告人は、六三年一月にリクルートの社長を辞任して代表取締役会長になり、さらに、同年七月には代表取締役会長を辞任した上、同年一二月には取締役も辞任した。
(〈証拠略〉)
二 リクルート及び関連会社の概要等
1 リクルート
リクルートは、本章第一の一のとおり、三八年八月二六日に被告人が設立した株式会社であり、当初は、被告人個人が創業した事業を株式会社大学広告等を経て承継し、「企業への招待」(四四年に「リクルートブック」と改題)の発行等の業務を行っていたが、その後、次第に業務を拡大し、五九年四月一日に現在の商号に変更された。
五九年ないし六一年当時、リクルートは、東京都中央区銀座〈番地略〉所在のリクルート銀座八丁目ビル(以下「リクルート本社ビル」という。)に本社を置き、広告事業、出版事業等を目的とし、主要な事業は、新規学卒者向け就職情報誌事業(商品名「リクルートブック」等)を中心とする広告事業、不動産広告や関連情報等を掲載する「週刊住宅情報」の発行・販売を中心とする住宅情報事業、私立大学・短期大学・専修学校等の学生・生徒募集広告や関連情報を掲載する「リクルート進学ブック」の発行・配本を中心とする教育機関広報事業であり、そのほかにも各種情報誌の発行・販売等を行っていた上、六〇年四月から電気通信回線の転貸事業(回線リセール事業)やコンピューターの時間貸し事業(RCS事業)を開始するなど、新規事業にも積極的に進出していた。
リクルートは株式未公開の株式会社であり、設立当初は被告人が九割以上の株式を保有しており、五九年ないし六一年当時でも、被告人が三割以上(家族名義を含めると約四割)の株式を保有し、社員持株会(三割以上を保有)以外には大株主といえる存在はなく、被告人は、オーナー経営者として、リクルートの経営に関し大きな権能を有していた。
リクルートの代表取締役社長は、設立以来被告人であり、被告人のみが代表権を有していたが、六三年一月に被告人が社長を辞任して代表取締役会長になった際にR6(以下「R6」という。)が代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
2 リクルートの関連会社
五九年ないし六一年当時、リクルートには、株式会社リクルートコスモス(六〇年三月の変更前の商号は環境開発株式会社であるが、商号変更の前後を問わず、以下「リクルートコスモス」という。)、ファーストファイナンス株式会社(以下「ファーストファイナンス」という。)、株式会社リクルート情報出版(五九年四月の変更前の商号は株式会社就職情報センターであるが、商号変更の前後を問わず、以下「リクルート情報出版」という。)、株式会社リクルートフロムエー(以下「リクルートフロムエー」という。)及び株式会社コスモスライフ(六〇年一〇月の変更前の商号は株式会社日環サービスであるが、商号変更の前後を問わず、以下「コスモスライフ」という。)を含んで約二〇の関連会社があり、その主要な会社については被告人が代表取締役社長又は同会長を務め、それ以外の会社も、リクルートの取締役が代表取締役社長を兼任し、あるいはリクルートの出身者が代表取締役社長に就くなどして、グループ企業として密接な連携を保っていた(以下、リクルートと関連会社を併せて「リクルートグループ」という。)。
(〈証拠略〉)
三 主なリクルート関係者の経歴、職務等
1 R1(全事実の関係)
R1は、四九年にリクルートに入社し、五七年一一月に社長室課長(五八年三月までは広報室課長兼任)になり、その後、五九年一月から社長室秘書課長兼文書課長、六〇年七月から六二年三月までは社長室次長(六〇年一〇月から一二月まで文書課長、六一年一月から秘書課長を兼任)として、社長である被告人の秘書業務や文書管理業務等に従事し、その間、五八年一〇、一一月ころ以降は、秘書業務の一部として、政治家に対する資金援助の手続を担当し、また、六一年一月に社長室に経営会議統括課長が置かれるまでは、経営会議等の管理統括業務等にも従事し、その一環として、取締役会等の会議開催日時の設定及び通知、議題の収集整理、議事録の作成及び配付等の事務もしていた。
(〈証拠略〉)
2 R2(全事実の関係)
R2(以下「R2」という。)は、リクルートにおいて、事業部、住宅情報事業部等を経て、六〇年七月に広報室長兼社長室長になり、同年八月には取締役にも就任し、六二年四月に住宅情報事業本部本部長兼販売担当に異動した。その間、広報室長兼社長室長の時期には、社長である被告人の秘書業務の一環として、政治家やその秘書との連絡等も担当していた。
(〈証拠略〉)
3 R3(判示第二の二1を除く全事実の関係)
R3は、三八年に株式会社大学広告に入社し、株式会社日本リクルートメントセンターを経てリクルートで勤務し、四五年六月から取締役、その後監査役、五二年一二月からリクルート情報出版の取締役(六一年四月辞任)、五七年一〇月リクルートフロムエーの代表取締役(六二年三月辞任)、五八年三月から再度リクルートの取締役(六〇年八月辞任)等を歴任して、六〇年四月にリクルートコスモスの取締役に就任し、同年七月三〇日に被告人に替わって同社の代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
4 R4(判示第二の二1を除く全事実の関係)
R4(以下「R4」という。)は、三九年五月にリクルートに入社し、五二年一一月ころに経理部次長兼財務課長になり、五八年七月にリクルートコスモスの経理部長として出向した後、六〇年一月に財務部長になり、同年四月に転籍になってリクルートを退職し、同年七月にはリクルートコスモスも退職して、ファーストファイナンスの代表取締役社長に就任した。
(〈証拠略〉)
5 R5(判示第一ないし第三関係)
R5(以下「R5」という。)は、被告人の大学時代の後輩であり、四〇年一月にリクルートに入社し、四二年九月に取締役に就任した上、五〇年ころに取締役総務部長になって管理部門を担当し、五四年四月に常務取締役、五七年一一月に専務取締役(管理部門担当は六二年末まで)に昇格し、二年一月に取締役顧問に退いた。
(〈証拠略〉)
6 R6(判示第一ないし第四関係)
R6は、四四年七月にリクルートに入社し、五一年一二月に取締役に就任し、五九年四月に専務取締役に昇格し、六三年一月に被告人に替わって代表取締役社長に就任した。その間、R6は、五一年一二月に広告事業を行う営業本部(後に広告事業本部と改称)担当になり、五六年一二月から五九年一〇月までは事業部も担当した。
(〈証拠略〉)
7 R7(判示第一ないし第三関係)
R7は、三八年に株式会社大学広告に入社し、株式会社日本リクルートメントセンターを経てリクルートで勤務し、四七年一二月から事業部長を務めた後、五六年から広報室長の肩書で社長である被告人の秘書的業務を行うようになり、五七年四月、社長室の設置に伴って社長室長になった。R7は、六〇年七月に再び事業部長(ビル事業部長及び審査室長兼任)になった後、同年八月に取締役(事業部担当)に就任し、同年一〇月にコスモスライフの代表取締役にも就任し、六一年三月にはリクルートの取締役を重任したが、同年八月にこれを辞任し、六二年四月にはコスモスライフの取締役を辞任して代表取締役を退任し、リクルートグループを離れた。
(〈証拠略〉)
四 リクルートの取締役会
五八年三月当時、被告人以外の取締役は、R12、R5、R8(以下「R8」という。)、R6及びR13の五人であったが、同月三〇日にR3が取締役に就任し、五九年四月にR14及びR15も取締役に就任した。その後、六〇年中にR13及びR3が取締役を辞任し、同年八月にR7、R12ほか三名が取締役に就任した。
五九、六〇年当時、リクルートでは、取締役及び監査役を招集する商法上の取締役会とは別に、取締役全員が出席して、定例の取締役会議(「T会議」と略称されていた。)と「じっくり取締役会議」と呼ばれる会議(「じっくりT会議」と略称されていた。)を開催しており、定例の取締役会議は、時期により毎週又は隔週一回開かれ、じっくり取締役会議は、各四半期に一回程度、都内のホテル等で長時間にわたり自由に議論を深める目的で行われるものであった。
取締役会議及びじっくり取締役会議に際しては、各取締役が担当する事業部門に関する経営上の重要な問題を議題として提出し、被告人を中心に実質的な議論をした上、意思決定を行っていた。また、これらの会議には、社長室のR7やR1らが事務方として陪席し、R1が議事内容を記録して、「取締役会議事録」、「じっくりT会議議事録」等と題する議事録を作成し、その写しを各取締役に配付していた。
(〈証拠略〉)
第二 コスモス株の譲渡(判示第二の二1を除く全事実に共通)
一 前提事実
1 株式の店頭登録について
(一) 六一年当時の店頭登録手続の概要
株式の店頭登録とは、株式公開の一方法であって、社団法人日本証券業協会(以下「日本証券業協会」という。)に店頭売買銘柄として登録することを意味する。店頭登録制度は、五八年一一月、株式店頭市場が中堅中小企業の資本調達の場として十分に機能し得るようにし、かつ投資家にとっての魅力を高める観点等から大幅に改定されたが、右改定のあった同月ないし六一年一〇月当時、店頭登録手続は、日本証券業協会の協会員である証券会社二社以上が、登録しようとする株式の発行会社(以下「発行会社」という。)の内容について審査し、日本証券業協会の公正慣習規則等で定められた登録基準等に照らして適当であると判断した場合に、連名で、日本証券業協会に対し登録申請書及び所定の添付書類を提出して店頭登録を申請し、日本証券業協会が、当該株式が登録基準に適合し、登録申請書及び添付書類に適正な記載がなされていると認めたときに、当該株式の銘柄、数量等を日本証券業協会に備える登録原簿に登録することにより行われた。そして、右登録申請を行う証券会社(以下「申請証券会社」という。)は、幹事証券会社とも呼ばれ、その中でも主として手続をする一社が主幹事証券会社と呼ばれる。
株式が店頭登録されると、日本証券業協会加盟の各証券会社が日本証券業協会の規則に従って店頭における株式の売買取引を行うことになり(もっとも、証券会社がその店頭で投資家と直接取引をすることはまれであり、通常は、証券会社が投資家の注文を日本店頭証券株式会社に発注し、同社において取引が成立する。)、当該株式は一般投資家の取引対象になって、市場性を有することになる。
(〈証拠略〉)
(二) 分売の方法及び分売価格の決定方式等
店頭登録銘柄は登録前にはほとんど流通していないため、日本証券業協会の公正慣習規則により、その流通を図るため、店頭登録時に発行済み株式数に応じた一定数以上の株式を公開することとされており、六一年一〇月当時、株式の公開方法としては、①既発行株式の売出し、②売出しと公募増資の併用、③分売という三つの方法が認められていた。このうち、右③の分売の方法とは、発行会社の創業者等が分売人になって、申請証券会社に対し、所有する既発行株式のうち所定の公開株式数以上の分売を依頼し、株式が店頭登録されて売買が開始される当日に、申請証券会社が日本店頭証券株式会社に最低分売値段(日本証券業協会規則等における公的な呼称は「最低分売値段」であるが、「最低分売価格」といわれることが多いので、以下「最低分売価格」という。)及びその一三〇パーセント相当額である最高分売値段(以下「最高分売価格」という。)を付して売委託をし、他方で、同社が日本証券業協会加盟の証券会社から投資家の買注文を受注し、右売委託と買注文の結果により、一種の入札の形で決定された売買価格(初値)である分売値段(以下「分売価格」という。)で分譲して株式を公開する方法をいう。最高分売価格を付すこととされているのは、初値が高くなりすぎて登録後の株式の流通の円滑が害されることを防ぐためであり、初値である分売価格は、最低分売価格と最高分売価格の範囲内で決定される。そして、分売の方法による場合、分売する株以外の株の取引は売買開始日の翌取引日から行われる。
右の最低分売価格及び最高分売価格は、店頭登録に先立って日本証券業協会に提出する株式分売申告書に記載されるが、その提出期限の目安は店頭登録日の約二週間前とされている。最低分売価格は、日本証券業協会の指導により、類似会社比準方式で算定することとされており、具体的には、店頭登録申請直前の決算期(リクルートコスモスの場合は四月三〇日)における発行会社の一株当たりの配当金、純利益及び純資産と類似会社(業種・業態、業績等が発行会社と類似する会社)のそれとを比較し、三要素の比率(発行会社の数値を類似会社の数値で除して得られたもの)を加算した上で三分し、これに日本証券業協会に対する株式分売申告書の提出直前一か月間の類似会社の平均株価を乗じて求めることとされており、類似会社として複数の会社を選択する場合には、類似会社ごとに右計算をした上で平均を取ることになる。したがって、類似会社としてどの会社を選択するかを決めると、発行会社及び類似会社の決算が確定していれば、類似会社の平均株価以外の算定要素は確定するので、類似会社の株価の変動が少ないと見込まれる状況であれば、最低分売価格及び最高分売価格が概ねどの程度になるかを推測することができる。
類似会社をどの会社にするかについては、日本証券業協会では、申請証券会社の判断により決めるように要請していたが、実務的には、主幹事証券会社が類似会社の候補を提案するなどして発行会社や分売人と協議し、その意向を踏まえて日本証券業協会の担当者と折衝し、内諾を得た上で決定されていた。
(〈証拠略〉)
(三) 従前の新規店頭登録株式の価格の形成・推移等
店頭登録制度が大幅に改定された五八年一一月以降六一年九月までに新規に店頭登録された株式は三七銘柄あるが、いずれも投資家の人気を集めていた。
そのうち分売の方法により公開されたものは六銘柄であるが、五九年及び六〇年に登録された五銘柄を見ると、いずれも、最高分売価格に当たる買注文株数が売委託株数を超えたことから、初値は最高分売価格で決定され、その翌日以降の一般取引開始後の株価も三か月以上右初値以上で推移し、一年後においても、いわゆる新株落のあった一銘柄を除いて、右初値を上回っていた。また、六一年に登録されたものは同年八月二二日登録の一銘柄のみであるが、その初値も最高分売価格で決定され、登録後六日間の売買価格は右初値を大幅に上回って推移し、約一か月後の属する一週間でも同様であった。
右(二)①の既発行株式の売出し又は右(二)②の売出しと公募増資の併用方式により公開された三一銘柄について見ても、六一年二月までに登録された二二銘柄は、初値が類似会社比準方式で算定された公開値段(以下「公開価格」という。)を約一一パーセントないし二二三パーセント上回り、その後も一銘柄が一週間以内に公開価格を下回った以外は公開価格を上回って推移し、三か月後においても、右一銘柄と新株落のあった一銘柄を除いて、公開価格を上回っていた。また、同年八月及び九月に店頭登録された九銘柄についても、初値が公開価格を約二四パーセントないし一四〇パーセント上回り、登録後六日間の売買価格や約一か月後の属する一週間の売買価格は、すべて公開価格を大幅に上回っていた。
このように、新規登録株式が一般的に人気を呼び、店頭登録後の株価が高い水準で始まって、その後も相当の期間にわたり分売価格や公開価格を上回って推移することは、六一年当時、株取引に関心のある者の間で広く知られていた。
(〈証拠略〉)
2 コスモス株の店頭登録の経緯
(一) リクルートコスモス
リクルートコスモスは、被告人が中心となって四四年六月に映画等の企画、製作等を目的として株式会社日本リクルート映画社の商号で設立した株式会社であるが、その後に休眠状態になっていたところ、被告人が不動産業に進出することを企図して他の出資者から株式を買い取り、四九年二月、商号を環境開発株式会社に、目的を不動産の所有、管理、売買、賃貸等にそれぞれ変更して再出発させたものである。同社は、主としてマンションの企画、販売事業を展開し、六〇年三月に商号を株式会社リクルートコスモスに変更した。
リクルートコスモスの代表取締役社長は設立以来被告人であったが、六〇年七月三〇日、R3が代表取締役社長に就任し、被告人は代表取締役会長になった。
なお、被告人は、六三年七月にリクルートコスモスの代表取締役会長を辞任し、同年一二月には取締役も辞任した。
(〈証拠略〉)
(二) 公開準備段階
五九年当時、リクルートコスモスは定款で株式の譲渡制限を定める株式未公開の会社であって、被告人が49.5パーセント、リクルートが約38.3パーセントの株式を所有しており、被告人は、代表取締役社長であったことに加えて、株式所有の面でも、直接及びリクルートを介して、支配的な大株主であった。
被告人は、五九年夏ころ、不動産業が多額の資金を必要とすることから、リクルートコスモスの株式を公開して、資本市場から低コストの資金を調達し、同時に企業イメージの向上を図ろうと考え、東京証券取引所第二部への上場等による株式の公開を企図し、同年九月ころ、経理部次長(六〇年一月から経理部長)のR16(以下「R16」という。)を中心に、大和證券株式会社(以下「大和証券」という。)からR17を出向者として受け入れて、株式公開の準備を開始した。以後、リクルートコスモスは、東京証券取引所や日本証券業協会の審査に備えて、大和証券の協力と指導を受けながら、株式分割、単位株制度の採用、会計制度の是正、リクルート所有のコスモス株を社員、政治家、財界人等に譲渡することによる株主数の増加、第三者割当増資をすることによる自己資本の充実と株主数の増加、社員持株会保有株式を社員に分譲することによる株主数の増加、リクルートの関連会社で資産価値のある建物を所有していた日環建物株式会社と合併することによる資産基盤の強化、監査室設置等の内部管理体制の整備、リクルートとの役員兼任を一部解消することなどによる自立性の強化等に取り組んだ。
右のうち、第三者割当増資は、五九年一一月に社員持株会を割当先とし、六〇年二月に金融機関等二六社を割当先とし、同年四月にも取引先、関連会社等三七法人一個人を割当先として実施したが、同年二月及び四月の増資に際しては、五九年一〇月に大和証券引受部が作成した株価算定に関する参考資料において、リクルートコスモスの株式公開目標時期の直前決算期である第一七期(六一年四月三〇日終期)の予想業績を基にし、大京観光株式会社(以下「大京観光」という。)と日榮建設工業株式会社(以下「日栄建設」という。)の二社を類似会社として五九年四月から九月までの平均株価を用いて類似会社比準方式で計算した数値から約五パーセント差し引くと一株二万五〇〇〇円(分割後の五〇円額面換算で二五〇〇円)となる旨の試算結果を基準として、一株当たりの発行価格を二五〇〇円として実施した。
これらの増資や合併に伴う株式発行の結果、六〇年四月末現在のリクルートコスモスの株主数は二四三名となり、その所有割合は、リクルートが約34.1パーセント、被告人が約13.6パーセントになった。
その間、六〇年七月には、三和銀行でリクルートグループを担当していたR18(以下「R18」という。)がリクルートコスモスに財務部長として入社し、取締役にも就任して、同社の財務システムの改善に取り組んだ。
ところが、リクルートコスモスは、六〇年夏ころまで、社内の管理体制の整備が進まず、同年一〇月の中間決算期の業績予想も振るわなかったことなどから、東京証券取引所第二部への上場を断念し、店頭登録による株式公開を目指すこととして、準備作業を続けた。
(〈証拠略〉)
(三) 六〇年四月の第三者割当増資の実情
右(二)の第三者割当増資うち、六〇年四月の増資に際しては、被告人が親交の深い経済人であるM1(以下「M1」という。)、M2(以下「M2」という。)、M3(以下「M3」という。)及びM4(以下「M4」という。)に新株の引受けを依頼し、M1が経営するm1株式会社(以下「m1社」という。)に八万株、M2が経営する株式会社m2(以下「m2社」という。)に八万株、同人が経営するm3株式会社(以下「m3社」という。)に一二万株、M3が実質上経営するm4株式会社(以下「m4社」という。)に二〇万株、M4が経営する株式会社m5(以下「m5社」という。)に二〇万株を割り当てて、新株を発行した。
これらの者のうち、M2は、被告人の大学時代からの親しい友人で、リクルートコスモスの監査役でもあった者であり、被告人は、m2社とm3社の両社がリクルートコスモスに支払う新株の申込証拠金の全額をリクルートから貸し付け、発行されたコスモス株も、右貸付金の担保としてリクルートで管理した。
(〈証拠略〉)
(四) 店頭登録に向けた手続の進行
リクルートコスモスでは、リクルートと同様に(本章第一の四)、定例の取締役会とは別に、取締役が重要な経営課題につき討議を深めるために行う長時間の取締役会を「じっくり取締役会」と称して開催していたところ、六一年二月二〇日にじっくり取締役会が開催された当時には、期末に集中するマンションの販売と引渡しを見込んだ上での第一七期(六〇年五月一日から六一年四月三〇日まで)の決算見通しが改善して、同年一〇月に店頭登録を実現できる見通しが立ち、同年二月二四日の取締役会で、同年九月一日に日本証券業協会へ登録申請し、店頭登録予定日を同年一〇月下旬にすることなどを内容とする店頭公開スケジュールや幹事証券会社を大和証券とすることを決定した。
その後、リクルートコスモスは、関連会社との役員兼任を更に整理するなどして、社内体制の整備を進め、また、営業努力の結果、期末に竣工や引渡しを予定していた物件の建築、販売、引渡しも概ね順調に進んだ。なお、期末に竣工や引渡しを予定していたマンションのうち約一四〇戸(販売価格合計約四〇億円)については、六一年四月末までの顧客に対する販売が間に合わなかったが、これらの物件はファーストファイナンスが賃貸用に購入し、リクルートコスモスは、第一七期の売上目標を実現した。
なお、ファーストファイナンスは、五九年三月に設立され、不動産及び不動産に関する権利又は有価証券を担保とする金銭貸付等を目的とする株式会社であり、リクルートコスモスが販売するマンションの購入者に対する不動産担保融資が業務の中心であった。ファーストファイナンスの代表取締役社長は、設立以来六〇年六月まで被告人であったが、同年七月、R4が代表取締役社長に、被告人が代表取締役会長にそれぞれ就任し、その後、六一年四月、被告人が同会長を辞任し、併せて取締役を辞任した。
ところで、第一七期の売上目標を実現したリクルートコスモスは、マンション供給戸数で業界二位の業績を上げ、第一七期の決算は、営業収益一〇八二億円余り(前年比約70.5パーセント増)、経常利益七二億円余り(前年比約九八パーセント増)、当期利益(純利益)三二億円余り(前年比約六五八パーセント増)、純資産四五九億円余り(前年比約7.5パーセント増)となり、一株につき一〇円(前年の二倍)の配当を実施した。
リクルートコスモスは、株式公開に向けた態勢の整備を更に進めた上、六一年五月一九日の取締役会で、主幹事証券会社を大和証券、副幹事証券会社を野村證券株式会社(以下「野村証券」という。)ほか二社とするとともに、各証券会社の分売時の取扱いシェアを決定した。
六一年七月二八日のリクルートコスモスの取締役会では、同年九月一日に幹事証券会社が日本証券業協会に対し店頭登録申請を行う要領により株式公開することを正式に決定し、同年七月二九日の株主総会の決議により定款の株式譲渡制限規定を削除し、同日の取締役会で株式取扱規則を改訂した上、同年八月初旬ころ、大和証券に対し店頭登録申請資料を提出した。
六一年八月一九日のリクルートコスモスの取締役会では、同年一〇月下旬に予定する店頭登録に伴う株式公開の方法を被告人所有の株式を分売する方法によること、分売株式数を二八〇万株とすること、最低分売価格は同月上旬に決定することなどを正式決定し、これを受けて、大和証券等の四幹事証券会社は、同年九月三日、連名で日本証券業協会宛に店頭売買登録銘柄登録申請書を提出した。
(〈証拠略〉)
(五) コスモス株の最低分売価格等を決定した経緯等
六一年二月二〇日のリクルートコスモスのじっくり取締役会(被告人も出席)では、議長が、第一七期の業績見通しとして、売上高一一〇〇億円前後、税引き前利益約六一億円、税引き後利益約二一億円が見込まれ、店頭登録時の価格が第三者割当増資の際の価格である一株二五〇〇円を上回ることはほぼ確実である旨の報告をした。
六一年二月二四日のリクルートコスモスの取締役会(被告人は欠席)でも、R17が作成した資料に基づき、第一七期の業績予想を基礎として、一株当たりの配当金を一〇円とし、大京観光と日栄建設の二社を類似会社として、同月二一日の両社の株価を基にした類似会社比準方式による株価を二五九六円と算定した上、分売価格が二三三〇円ないし三〇二〇円となる旨の予想が報告され、また、その場で、ほとんどの場合は最高値が初値となる旨の説明もなされた。
その後、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会(被告人は出席)では、社員持株会加入の従業員が退職する際の社内の株式売買価格である社内流通価格の変更が議題とされ、その資料として、同年七月二九日付け株式課作成の「当社流通株価について」と題する書面(甲書1三二三添付のもの)が提出された。同資料には、リクルートコスモスの第一七期の決算を基礎とし、大京観光と日栄建設の二社を類似会社として、同日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となり、非公開かつ非上場会社であることを根拠に社内流通価格を右数値の約四〇パーセント減の二一〇〇円と算定する旨の記載があった(同資料記載の大京観光の当期利益、純資産及び発行済株式総数を基にして計算すると、一株当たりの利益は80.11円となり、一株当たりの純資産は718.79円となるはずであるのに、同資料には、前者が79.58円、後者が825.11円と記載されており、同資料は計算違いを含むが、その点を是正して試算し直すと、右方法によるコスモス株の当時の試算価格は三六〇〇円を上回る。)。同年八月四日の右取締役会では、右資料に基づいて審議した上、同月一日から店頭登録までのコスモス株の社内流通価格を右資料の記載どおり二一〇〇円とすることを決定した。
大和証券では、公開引受部課長代理のS1が中心になって最低分売価格の試算等をしていたが、同人は、六一年九月中旬ころ、リクルートコスモスを担当していた第二事業法人本部事業法人第二部次長のS2(以下「S2」という。)及び専務取締役のS3(以下「S3」という。)が被告人をはじめとするリクルート及びリクルートコスモスの幹部と類似会社の選定について打合せを行うための参考資料(甲書1二七七添付の「株式会社リクルートコスモス価格算定に関する参考資料」と題するもの)を作成した。右資料には、同月九日までの一か月間の平均株価を基にして、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となる旨の試算結果が記載されるとともに、類似会社の候補として、右二社のほかに株式会社長谷川工務店、三井不動産株式会社(以下「三井不動産」という。)等六社が挙げられ、大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定する場合の最低分売価格を試算した表が添付されて類似会社の検討を求める内容になっており、このうち、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合の最低分売価格の試算価格は、4162.29円と記載されていた。また、右資料には、五九年一月から六一年九月一〇日までに新規店頭登録された株式三六銘柄(うち分売の方法によるものは六銘柄)の店頭登録当日の価格形成状況が記載された表や、六〇年四月から六一年八月までに新規店頭登録された株式二一銘柄(うち分売の方法によるものは二銘柄)の新規登録後一か月間の毎日の終値及び売買高、登録の一か月後、二か月後、三か月後、六か月後及び六一年九月八日現在の終値等が記載された表も添付されていた。
大和証券のS2次長及びS3専務は、六一年九月一六日、リクルート本社において、被告人、R3、R18らと会合し(以下この会合を「大和会議」という。)、被告人らに右参考資料を交付した上、五九年三月から六一年八月までに分売方式により店頭登録された事例ではすべて最高分売価格が分売価格となった旨説明し、第三者割当増資の際と同様に大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となるが、資料に記載された類似会社の組合せ候補の中から選定してほしい旨説明したところ、マンション売上戸数で業界第一位の大京観光を類似会社に選定することは異存なく決まった。さらに、被告人とR3が、日栄建設ではなく、総合不動産業の業界第一位で、従来からリクルートコスモスが目標としている三井不動産を類似会社としたいという意向を示して、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とするリクルートコスモス側の方針が定まり、S3専務は、引受け担当者と相談して日本証券業協会と掛け合う旨答えた。
被告人は、大和会議の際のS3専務らの説明と交付された参考資料により、平均株価の変動が少なければ、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には、最低分売価格が三二九〇円程度、最高分売価格が四二七〇円程度となり、被告人らリクルートコスモス側の意向どおりに大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には、最低分売価格が四一六二円程度となり、その三〇パーセント増しの価格である最高分売価格が五四一〇円程度となることを認識した。
大和証券公開引受部のS1は、リクルートコスモスの右意向を受け、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする株価算定資料を作成して、日本証券業協会の担当者と面談し、類似会社を第三者割当増資の際と異なる会社にする理由として業績の伸長があったことなどを説明し、その指導を受け、大京観光と三井不動産の二社に藤和不動産株式会社を加えた三社を類似会社とする場合の株価算定資料を作成するなどして相談を重ねた結果、六一年一〇月初めころ、日本証券業協会の担当者から大京観光と三井不動産の二社を類似会社とすることについて了解を得られ、その旨をリクルートコスモス側に伝えた。被告人も、そのころ、R18から報告を受けて、その旨を承知した。
大和証券は、リクルートコスモスの意向どおり、大京観光と三井不動産の二社を類似会社に選定し、両社の六一年九月一〇日から一〇月九日までの一か月間の平均株価(大京観光は2827.72円、三井不動産は1957.73円)を用いた類似会社比準方式で算定して、コスモス株の最低分売価格は四〇六〇円が妥当である旨の株価算定書を作成し、同年一〇月一三日までにリクルートコスモスに交付した。そして、リクルートコスモスでは、同月一三日の取締役会で、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする類似会社比準方式により、コスモス株の最低分売価格を四〇六〇円とする旨決定し、大和証券等の四幹事証券会社は、右決定を受けて、同月一四日、日本証券業協会に対し、分売株式総数を二八〇万株、最低分売価格を四〇六〇円、最高分売価格を五二七〇円とし、分売予定日を同月三〇日とすることなどを内容とする株式分売申告書を連名で提出した。
その後、日本証券業協会は、六一年一〇月三〇日をもってコスモス株を店頭売買銘柄として登録する旨決議した。
(〈証拠略〉)
3 特別利害関係者の株集め等の規制と被告人の認識
(一) 特別利害関係者の株集め等の規制
日本証券業協会における審査は業務委員会で行われるところ、同委員会の内規では、株式店頭市場の健全な運営を図るため、店頭登録申請前に第三者割当増資等を行っている発行会社の登録申請については、「発行会社の特別利害関係者等が、登録申請日の直前決算期日の一年前の日以降に、当該会社の株集め又はこれに類する行為を行ったと認められるときは、登録申請を受理しないこととする。」「特別利害関係者等とは、①当該会社の役員、その配偶者及び二親等内の血族並びに主要株主、②関係会社及びその役員、③申請協会員及びその役員をいう。」と定められており、日本証券業協会の事務局では、発行会社の役員等の特別利害関係者が第三者割当増資先から発行会社の株式を買い受ける行為が株集めに該当することは当然として、特別利害関係者が自らの所有する発行会社の株式を譲渡する行為も株集めに類する行為に該当すると解釈しており、この解釈は日本証券業協会の協会員である証券会社の実務担当者に周知されていた。
(〈証拠略〉)
(二) 被告人の認識等
被告人は、六一年四月までに大和証券のS3専務から説明を受けて、大株主である被告人が所有するコスモス株を公開直前の決算期の一年前以降に他に譲渡することは、日本証券業協会の内規により、原則として店頭登録申請不受理の理由になることを承知しており、同月に自己所有のコスモス株の一部を社員持株会へ譲渡した際には、事前に大和証券を介して日本証券業協会に照会し、大株主から社員持株会に対する株式移動は株集め等の規制の例外として許容され、店頭登録手続の支障にならないことを確認した上、実行した。
(〈証拠略〉)
4 コスモス株の店頭登録当時の株式市場の情勢
コスモス株の店頭登録の準備を進めていた当時、我が国の株式市場は活況を呈していて、五八年初頭ころ以降、株価の大幅な上昇傾向が続いており、六一年に入ってからも、一時的に下がる局面はあったものの上昇基調にあって、年初に約一万三〇〇〇円であった日経平均株価が同年八月二〇日に一万八九三六円まで上昇した。同株価は、その後同年一〇月にかけて値下がり傾向になったが、同年一一、一二月は再び上昇基調になり、右最高値近くまで回復した。
なお、類似会社とされた三井不動産の株価は、六一年七月から九月にかけて二〇〇〇円前後で上下しながら推移し、同年九月三〇日に二二一〇円の終値を付けたが、以後大幅な下落傾向になって、同年一〇月二五日に一三七〇円の安値を付け、以後上昇傾向に転じたが、コスモス株の店頭登録日である同月三〇日の終値は一七二〇円であって、コスモス株の分売価格算定の基礎とされた時期の平均株価を下回った。一方、大京観光は、同年六月から八月にかけて三〇〇〇円前後、同年九月中は二九〇〇円前後で推移した後、同年一〇月中は下落傾向になって同月二一日に二五〇〇円の安値を付けたが、その後上昇傾向に転じ、同月三〇日の終値は二九一〇円となって、コスモス株の分売価格算定の基礎とされた時期の平均株価を上回った。
(〈証拠略〉)
5 コスモス株の店頭登録の状況及び実際の公開価格
コスモス株は、六一年一〇月三〇日に店頭登録されて分売が実施されたところ、分売株式数二八〇万株に対し、その約6.7倍の買注文があり、最高分売価格による買注文のみでも約一四〇〇万株の注文があって、分売株式の全部につき一株五二七〇円の初値で売買約定が成立した。また、翌三一日から分売株以外のコスモス株の店頭取引が開始されたところ、同日の高値は五四二〇円、安値は五二七〇円であり、その株価は、六二年九月八日に安値が五二五〇円となるまで、高値、安値ともに右初値を超えて推移し、その間の最高値は、同年四月二日の七二五〇円であった。
(〈証拠略〉)
6 関連する弁護人の主張について
以上の認定のうち、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会(右2(五))における議事に関し、弁護人は、同日付け取締役会議事録(甲書1三二三)は添付資料も含め、事後に日付をさかのぼらせて作成されたものであって、同月当時は存在せず、実際には、R17は、同年七月下旬、第一七期の決算を踏まえて大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年六月の一か月間の平均株価を用いて試算した数値から一〇パーセントを減じ、コスモス株の類似会社比準方式による価格を三〇〇〇円と試算し、その結果をR18に報告しており、そこから更に三〇パーセントを減じて二一〇〇円の社内流通価格を定めたものである旨主張し、R18は、右主張に沿う証言をしている。
しかし、右取締役会議事録や添付資料が事後に作成されたというR18の証言は、全くの推測を述べるものにすぎない上、社内流通価格を算定した際に実際に利用した資料と異なる内容の資料を事後に作成した理由として推測を述べる点も、その必要があったことを具体的に指摘するものでなく、他の取締役や事務担当者の証言等の裏付けもないから、信用することができない。
したがって、R18の右証言は右2(五)の認定を妨げるものではない。
二 コスモス株の譲渡状況
1 認定事実
(一) 第三者割当増資先にコスモス株の放出を働きかけた状況等
被告人は、六一年六月ころ、役員や幹部職員の勤労意欲を高めるために自社の株式を所有させることが経営上望ましいという発想から、社員持株会とは別に、リクルートコスモスの役員及び部次長以上の職員に店頭登録に先立ってコスモス株を取得させることを企図したが、本章第二の一3の店頭登録手続上の規制により、被告人自身の所有株式を譲渡することはできない旨の説明を受けていたことから、被告人の主導でコスモス株を所有するリクルートの幹部に働きかけて、これらの幹部からリクルートコスモスの役職員にコスモス株を一株一三〇〇円で譲渡させた。同年八月上、中旬ころ、被告人は、更にリクルートコスモスの役職員に自社の株式を所有させるために、六〇年四月に実施した第三者割当増資(本章第二の一2(二))の引受先のうち被告人と親しい者が経営する会社からコスモス株を放出してもらうことを企図し、R18に譲渡価格を幾らにすべきか相談した。その際、被告人は、R18に対し、二五〇〇円に金利分を上乗せすれば足りるのではないかと述べたが、R18は、安すぎると譲渡する法人の側に税務上の問題が生じる旨進言した上、一株三〇〇〇円の価格であれば大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする類似会社比準方式により説明がつき、税務上の低廉譲渡等の問題が生じないという回答をした。
そこで、被告人は、一株三〇〇〇円であれば、増資時の価格を五〇〇円上回るので、放出先の理解も得られ、低廉譲渡等の税務上の問題も生じず、かつ、譲受人も店頭登録時に値上がりによる利得を得られると判断して、六一年八月中旬ころ、親しい関係にあったM3に対し、m4社所有のコスモス株二〇万株を一株三〇〇〇円で買い戻したい旨申し入れて、その承諾を得た。
被告人は、さらに、六一年八月下旬ころ、リクルートコスモスの役職員に限らず、同会社外の特定の者(以下「社外の者」という。)に対しても店頭登録前にコスモス株を取得させて、その値上がり益を取得させることを思い立ち、そのために必要なコスモス株を確保すべく、同年九月上旬ころまでに、M3に対するのと同様にして、M4、M2(当時、リクルートコスモスの監査役は辞めていたが、ファーストファイナンスの取締役であった。)及びM1と交渉して、m5社所有の二〇万株、m2社所有の八万株、m3社所有の六万株並びにm1社の関連会社で同社及び株式会社ヤクルトからコスモス株を譲り受けていた株式会社m6社(以下「m6社」という。また、m4社、m5社、m2社、m3社及びm6社の五社を合わせて、「m4社等五社」ともいう。)所有の一六万株をそれぞれ一株三〇〇〇円で譲渡することについて了承を得た。
右各社所有のコスモス株を譲渡してもらう具体的な手続は、被告人の指示で、R18が中心になり、m4社についてはR18が自ら行い、m5社についてはリクルート大阪支社のR19が、m2社、m3社及びm6社についてはR4がそれぞれR18の依頼を受けて行った。
(〈証拠略〉)
(二) コスモス株の譲渡の相手方を選定した状況
被告人は、R18の意見も聴きながら、リクルートコスモスの役職員一六名に取得させるコスモス株の株数(計三〇万株)を定め、社外の者についても、六一年八月末ころから九月上旬にかけて、コスモス株を取得させる相手方を選定し、その後、同月上旬、当時のリクルート社長室長のR2及び同室次長のR1を同席させた上、R2の意見も聴きながら、R1を書記役として、国会議員、議員秘書、財界人、財界雑誌、マスコミ関係者等を選定するとともに、各人に取得させる株数を定めたほか、それとは別の機会に自ら思いついたり、リクルートグループの幹部から推薦を受けるなどして譲渡の相手方を選定し、取得させる株数を決めて、同年九月末か一〇月初めころまでに、R2やR1に伝えるなどして、合計四十数名の譲渡の相手方を選定した。
また、被告人は、R2やリクルートコスモス代表取締役のR3、同専務取締役のR20(以下「R20」という。)及び同常務取締役のR21(以下「R21」という。)に対しても、確保したコスモス株の一部について譲渡の相手方を選定した上、R18と相談して手続をするように指示した。
なお、被告人は、ファーストファイナンスの代表取締役社長であるR4に対し、社外の譲受人が希望すれば、ファーストファイナンスから、譲受けに係るコスモス株を担保に、株式譲受価格全額を融資するように指示し、貸付期間は一年とし、金利を七パーセントとしたい旨のR4の意見を了承した。
(〈証拠略〉)
(三) 譲渡の相手方に対する働きかけと株式売買約定書の作成状況等
被告人は、コスモス株の譲渡の相手方に選定した者の大部分について自らが本人や秘書に電話をするか面談をし、一部についてはR2やR1らを介して、近く株式公開予定のコスモス株を一株三〇〇〇円で譲り受けてもらいたい旨持ちかけて、その買受けを勧誘し、その承諾を得た上、R2、R1、R18及びR4に対し、承諾を得た者に関するコスモス株の譲渡手続を六一年九月末日までに終えるように指示して、具体的な手続をさせた。
R2、R1、R18及びR4は、m4社等五社とコスモス株の譲渡の相手方との間で株式売買約定書を取り交わす手続を進めたところ、m4社所有のコスモス株のうちリクルートコスモスの役職員が譲り受ける分と、社外の者が譲り受けるm2社所有のコスモス株の一部については、譲受人の署名押印を得た上でm4社等に持参して譲渡人欄の記名押印を得たが、その他については、六一年九月中旬ころに譲受人欄空白のまま多数の株式売買約定書の譲渡人欄に記名押印を得た上、順次譲受人側の署名押印を得る手順で株式売買約定書を作成した。
右約定書の作成は、実際には一部が六一年一〇月中にずれ込んだが、約定書の記載上は、リクルートコスモスの役員三名が譲り受けるm5社所有の一〇万株を除きすべて同年九月三〇日付けとして、いずれも一株三〇〇〇円で、①譲渡人名義をm4社とし、リクルートコスモスの役職員一二名及び社外の者二名を譲受人とする合計二〇万株(譲受人名義をA1とする一万株を含む。)、②譲渡人名義をm3社とし、政治家等一三名を譲受人とする合計六万株(丁谷三郎に対する二〇〇〇株及び譲受人名義をB1とする五〇〇〇株を含む。)、③譲渡人名義をm2社とし、政治家等九名を譲受人とする合計八万株(丁谷三郎に対する一〇〇〇株、庚町に対する五〇〇〇株及び己畑五郎に対する一万株を含む。)、④譲渡人名義をm5社とし、リクルートコスモス役員三名を譲受人とする計一〇万株及び政治家、財界人等二一名を譲受人とする計一〇万株、⑤譲渡人名義をm6社とし、政治家、財界人等二二名(法人を含む。)を譲受人とする合計一六万株(辛村に対する一万株及び譲受人名義をN1とする一万株を含む。)の株式売買約定書が作成された。
なお、売買代金の支払は、リクルートコスモスの役員三名が譲り受けたm5社所有のコスモス株一〇万株分については、ファーストファイナンスが六一年九月二五日に各譲受人名義でm5社に送金し、その余の六〇万株のうち、m5社所有のコスモス株五〇〇〇株については、譲受人が自分で代金を送金したものの、残りの五九万五〇〇〇株分については、ファーストファイナンスが同月三〇日にm4社等五社に対し、譲受人がファーストファイナンスの融資を利用するか否かにかかわらず、また、そもそも譲受人が未確定の分も含め、一括してコスモス株の売買代金を振込送金し、その後、コスモス株の譲受人のうち、融資を利用する者については貸付金として、それ以外の者については仮払金として経理上の処理をした。
R18やR4らは、そのころ、譲渡に係るコスモス株の株券を譲渡人から受領し、ファーストファイナンスの融資を利用した者の分については、その担保としてファーストファイナンスで預かり、そのほかは譲受人に交付した。
(〈証拠略〉)
2 譲渡人が被告人であることについて
(一) 弁護人の主張及び被告人の供述
弁護人は、コスモス株の譲渡は被告人がその主体となったものではなく、被告人はm4社等五社と各譲受人との間の売買を斡旋したにすぎない旨主張する。また、被告人は、公判段階において、同旨の供述をするが(〈証拠略〉)、他方で、被告人の元年五月二〇日付け検面調書(乙書1六)には、コスモス株は被告人がm4社等五社から買い戻した上で譲渡したものであって、自らが当事者となった売買であり、捜査段階の初期において売買の仲介斡旋をしたにすぎない旨述べたのは、証券取引法四条違反の罪に問われることを懸念したからであって、真実ではない旨の記載がある。
(二) 判断
確かに、右1(三)のとおり、コスモス株売買約定書の譲渡人欄には、判示各事実に係る譲渡を含めて、いずれも被告人ではなく、m4社等五社の会社名が記載されている。
しかし、他方で、
① コスモス株の店頭登録に先立って社外の者数十名にコスモス株を取得させることを発案したのは被告人であり、譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めたのも被告人であること(右1(一))、
② 被告人は、増資の際の第三者割当先のうちで個人的親交に基づいて割り当てたM3らに対し、コスモス株の放出を依頼して、その承諾を得たのであり、M3らの側から売却の斡旋を依頼されたわけではないこと(右1(一)、〈証拠略〉)、
③ 被告人は、コスモス株の放出を依頼した相手に対し買受人が誰かを告げたことはなく、コスモス株の放出を依頼された者のうち、(ア)M3は、被告人がいろいろな人からコスモス株の譲受けを依頼され、足りなくて困っているので、コスモス株を買い戻したいという申出をしてきたことから、譲渡の相手方は被告人又はその主宰する会社であるという認識の下に、被告人が取得させたいとする相手方が誰であるかを問うこともなく、被告人が言ったとおりの価格で譲渡することを承諾し、(イ)M2も、被告人が、コスモス株を分けたい人がいるが、自分が所有する株を分けることはできないので、m3社とm2社所有のコスモス株を譲ってほしい旨求めてきたことから、被告人が分けたいとする相手方が具体的に誰であるかを問うこともなく、売却先を誰とするかは被告人の自由に任せる意思で、その申出を承諾した後、R4の使いの者が持参した譲受人欄空白の株式売買約定書多数に記名押印し、ファーストファイナンスから一括して譲渡代金が支払われた後にR4から株式売買約定書を届けられて初めて、コスモス株を売却する相手方が誰であるかを知ったのであり、(ウ)M4も、被告人が、コスモス株を回してやりたい人がいるなどと、コスモス株の放出を求めてきたことから、被告人が回したいとする相手方が具体的に誰であるかを知らないまま、その申出を承諾し、部下に具体的な手続を執るように指示したのであって、いずれも譲渡の相手方の選定には全く関与していなかったのであり、また、M3らの側には、店頭登録が近づいた時点で、後記のとおり高値の予想されたコスモス株を一株三〇〇〇円という価格で譲受人に譲渡して、予想される利益を移転すべき事情はなかったこと(〈証拠略〉)、
④ 被告人は、主として自分自身で、一部は他のリクルートグループの幹部に指示して、コスモス株の譲渡の相手方を選定し、取得を持ちかける株数を決定した上、譲渡の相手方に対し、自ら又はリクルートグループの幹部を介してその取得を持ちかけ、承諾を得ていたこと(右1(二)、(三))、
⑤ 被告人による譲渡の相手方の選定に同席し、その命を受けて一部の譲渡の相手方との交渉や手続に当たったR2も、被告人やR3を代表とするリクルートコスモスの経営陣が名義人と何らかの了解に至ったがために自由にできる株式を譲渡するという理解の上で譲渡手続に当たっていたこと(〈証拠略〉)、
⑥ 被告人は、コスモス株の取得を持ちかけた相手方に対し、契約書上の譲渡人となる従来のコスモス株の所有者が誰であるかを説明しておらず、被告人から持ちかけられてコスモス株を購入した者のうち、(ア)被告人と親しい経済人のM5は、被告人と面談した際、コスモス株をお持ち願いたい旨勧誘され、被告人が関係する株を被告人の指示で譲り渡してもらえるものと認識して承諾し、(イ)当時リクルートの顧問税理士であったM6は、被告人から電話で、近々店頭公開するコスモス株をお世話になった方々に持っていただいているなどと、その購入を勧誘されて、これを承諾し、株式売買約定書の作成時に譲渡人としてm2社の名を見た際には、「甲野さん側」又はリクルートグループが買い取った株を中間省略的にm2社名義で譲渡したのではないかという感想を持ち、(ウ)信託銀行の役員であったM7は、被告人の訪問を受けてコスモス株の取得を勧誘され、被告人本人からの譲渡であると認識して、息子名義で譲り受けることを承諾し、(エ)「被告人と親しい財界人であったM8も、被告人から電話でその取得を持ちかけられた際、被告人又はその関係者所有の株を譲り受けるものと認識して了解し、後に株式売買約定書の譲渡人としてm6社の名を見た際には意外感を抱いたこと(〈証拠略〉)、
⑦ コスモス株の譲渡に必要な手続は、被告人の指示を受けたR2、R1、R4らリクルートグループの幹部が譲渡の相手方やその秘書等と面談するなどしてこれを行い、m4社等五社と譲渡の相手方との間には全く交渉がなかったこと(右1(三))、
⑧ 六一年九月ころは、日本証券業協会の規制により、リクルートコスモスの役員かつ主要株主で、しかも親会社のリクルートの役員でもあった被告人自身が所有するコスモス株を譲渡することはできず、あるいはいったんm4社等五社から被告人に対する譲受手続をした上で他に対する譲渡手続をすることもできなかったこと(本章第二の一3(一))、
⑨ 被告人自身、分売の方法で株式を公開する場合には、「親引け」(公募増資の際に、発行会社の希望する割当先に優先的に新株を取得させること)をして、あらかじめ親しい者に株式を取得させ、初値との差額をプレミアムとして得させることができず、また、被告人所有のコスモス株を売却して同趣旨のことをするのも日本証券業協会により禁じられていると聞いたために、代わりの「親引け的な行為」として、m4社等五社の有するコスモス株を放出してもらって社外の者に取得させることを考えた旨供述していること(〈証拠略〉)、
⑩ R4は、六一年九月三〇日、m4社等五社に対し、ファーストファイナンスの融資を利用するか否かにかかわらず、また、譲受人が未確定の分も含め、ファーストファイナンスから一括してコスモス株の売買代金を振込送金し、その後に、融資を利用する譲受人については貸付金として、それ以外の者については仮払金として経理上の処理をしたこと(右1(三))、
以上の各事実が認められるのであり、これらの諸事実からすると、被告人の捜査段階における供述を除いて判断しても、被告人は、本章第二の一3(一)の規制があるために、これに違反することを免れようとして、形式的に書類上の譲渡人をm4社等五社としたにすぎず、実質的にみれば、一連のコスモス株の譲渡は、被告人がm4社等五社からコスモス株を一株三〇〇〇円で譲渡することの承諾を得て、自己の自由に処分し得る権限を取得した上、これらを譲受人に譲渡したものということができる。
なお、被告人は、公判段階において、R2に選定を任せた譲渡の相手方と、リクルートコスモスの幹部に選定を委ねた譲渡の相手方については、一部を除いて報告を受けておらず、譲渡の相手方のうちの二〇件一九人(丁谷三郎及びB1を含む。)は、一連のコスモス株の譲渡がマスコミ等で疑惑として取り上げられるまで譲渡の事実を知らなかったとし、報告を求めなかった理由は、株を持ってもらうことがさほど重要なこととは思っておらず、そのプレミアム分がどこに帰属するかということはさほどの関心事項ではなく、誰に行こうとどうせ市中に出る株であるから、優先的に行くのが誰であるかについては関心を持たなかったからである旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、そもそも、一連のコスモス株の譲渡を発案し、M3らに依頼して譲渡する株を確保したのは被告人自身である上、被告人自身が公判段階において、「親しくて、かつ社会的にそれなりに活躍しておられる方」を譲渡の相手方に選定し、政治家については、コスモス株の値上がりによりプレミアム部分が政治活動に資するものとなれば嬉しいことであると考えて、ニューリーダーやネオニューリーダーと言われる日本の将来を背負って立つ方々を中心にコスモス株を持ってもらったなどと供述していること(〈証拠略〉)からも、被告人がコスモス株の譲渡の相手方の選定を重要な問題と考えていたことは明らかである。そうすると、被告人が譲渡の相手方が誰であるかについて関心を抱いていなかったというのは疑問であるが、仮に被告人が、他のリクルートグループの幹部が譲渡の相手方として誰を選定したか知らなかったとしても、m4社等五社から承諾を得て自己の自由に処分し得る権限を取得したコスモス株の譲渡の相手方の選定と譲渡の手続を他の者に委ねたというにすぎないから、譲渡の主体が被告人であることに変わりはない。
三 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み及び被告人の認識
1 検討の趣旨
被告人は、捜査及び公判段階を通じ、本章第二の二1(一)のとおり、一連のコスモス株の譲渡に際して譲受人に値上がり益を取得させる目的があったことを認め、店頭登録に際して値上がりすると見込んでいた旨供述するが、捜査段階における供述と公判段階における供述とでは、値上がり見込みの確実性の程度に若干のニュアンスの差がある。弁護人は、本件各コスモス株を譲渡した当時、コスモス株が値上がりすることは客観的には必ずしも確実ではなかった旨主張し、他方、検察官は、被告人には店頭登録後のコスモス株は少なくとも一株五〇〇〇円以上になるという認識があった旨主張する。
そこで、六一年九月ころ当時において、コスモス株の店頭登録後の価格として確実と見込まれた価格の程度及びその点に関する被告人の認識について検討を加える。
2 被告人の供述及び弁護人の主張
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、捜査段階において、コスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた事情及びその値上がり確実性の認識につき、次のとおり供述している(乙書1四)。
「〔六一年〕八月上旬ころ、〔中略〕R18を呼び、『株価の方はどうなりそうか。』と質問しました。R18君は、『七月末の理論値で三、〇〇〇円位です。』と答えました。理論値というのは、最低分売値を算出する上で、類似会社何とか方式という方法で計算した株価です。〔中略〕私は、R18君からこの数値を聞き、公開直後には、株式相場の基調の強さ、不動産業界の好景気、未公開株に対する人気といった一般的な材料に加え、RC〔リクルートコスモス〕の業績の伸びといった具体的要因が手伝い、プレミアがつき、三、五〇〇円〜四、〇〇〇円位にはなるだろうと思いました。」「私が値決めで一番重視したことは、合理的な範囲内で最大限度喜んでいただくということでした。合理的な範囲内というのは、税務上低廉譲渡といった問題が生じないということでした。そのためには、どうしても、その時点の理論値を据えざるを得ませんでした。」「R18との話し合いの席で、彼が『お金のない人にはファーストファイナンスのファイナンスを付けたら良いでしょう。』旨進言してきましたので、私もそれを了解しております。〔中略〕そうした取り扱いをした一因として、私を始めR4達関係者間の者が、値上がりが確実に見込まれる株を担保にすることから貸金の保全回収の不安が少ないと思っていたことがあることは認めます。」
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、値上がり確実性の認識について、概ね次のとおり供述している(〈証拠略〉)。
① 六一年八月にR18に対し類似会社比準方式で幾らになるか尋ねたところ、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年七月末の株価を基準として算定すると、三〇二〇円か三〇一〇円の株価となり、三〇〇〇円であれば低廉譲渡に当たらない旨の説明を受けた。低廉譲渡としてm4社に課税されることがないようにするということは意識したが、税務的に許容される範囲内で最も安い価格として三〇〇〇円に決めたのではなく、類似会社の株価変動がないと仮定した場合の株式公開時の売出価格と同じ価格が三〇〇〇円であると考えていた。
② 六一年八、九月当時は、新規公開株にプレミアムが付くのは常識であるという認識であり、かつ、七月末の大京観光と日栄建設の株価を基にした類似会社比準方式による算定価格が三〇〇〇円であると聞いていたことから、店頭登録時には五〇〇円から一〇〇〇円程度のプレミアムが付いて、普通に順調に推移すれば三五〇〇円程度になり、よほど人気が出れば四〇〇〇円程度になるであろうという漠然とした認識があった。株のことであるから一〇〇パーセント確実とは言い切れず、予測不能な国際的な経済情勢の大変動や戦争等が起きて株価が大幅に下落すれば大変なことだという心配は持ちながらも、順調に行くであろうと思っていた。コスモス株を取得させる相手方に政治家を含めたのは、コスモス株の値上がりによるプレミアム部分が政治活動に資するものであれば嬉しいことであると考えたからである。
③ 新規公開の場合の株価算定方式として類似会社比準方式が用いられるということは六一年に入る前後から知っていたが、同年九月一六日の大和会議までは、分売当日は右方式で計算した一定の価格で取引をし、買注文が多数の場合には抽選によって売買が成立し、右一定価格で株式を取得した株主が翌日以降の取引でプレミアムを得るものと思っていた。大和会議の際に初めて、類似会社比準方式で算出する最低分売価格とその三割増しの最高分売価格の範囲内で分売価格が定まるということを知った。
④ 大和会議の際も、S3専務からは、従来は概ね最高分売価格で初値が付いた事例が多いが、コスモス株は量的に非常に多く、店頭市場始まって以来の規模なので、最低分売価格と最高分売価格との間のどこで価格が決まるか分からず、日栄建設に替えて三井不動産を類似会社とする場合には四〇〇〇円から五〇〇〇円の間で決まるが、価格が高くなると買い手が減る心配があるので、最低分売価格の四〇〇〇円で埋まることも覚悟しておいてもらいたい旨言われた。自分自身でも、投資家の側から見れば四〇〇〇円というのは高く、あまり買い手が付かない心配があると感じた。
⑤ その際、S3専務からは、三井不動産を類似会社とすることについて日本証券業協会に働きかけるが、了承を得られない場合には、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とすることになる旨言われた。
(三) 弁護人の主張
被告人が、コスモス株の譲渡を持ちかけた時点において、新規公開株人気により、店頭登録に伴って、譲渡価格である三〇〇〇円に対し一定のプレミアムが付くこと(値上がりすること)を認識していたことは認める。しかし、①新規公開株の人気は絶対確実なものではあり得ず、殊に、コスモス株が二八〇万株という店頭市場ではかつてない大規模な株式の分売であったことから、公開株数が数十万ないし一四三万株であった従前の分売の場合と同様に買人気を呼ぶとは限らず、初値が最高分売価格で決定されることが確実とはいえなかったこと、②リクルートコスモスの第一七期の決算において純利益が多額となったのは、コスモス株の分売価格を高く算定するために、期末における大量の押し込み販売(本来翌期以降に計上すべき売上げを期末に前倒しして計上する扱い)、期末におけるファーストファイナンスに対するマンションの在庫の販売及び有価証券売却益等の多額の営業外利益の計上という無理を重ねた結果であり、当時のリクルートコスモスの実力を反映した数字とはいえなかったこと、③類似会社の株価は当然に変動が予想されるものであるから、被告人が譲渡価格を一株三〇〇〇円と決めた当時や大和会議の時期と株式分売申告書提出の直前の時期との間で、類似会社の株価が大幅に変動する危険があり、実際にも六一年一〇月には大幅に下落していたことから、本件各コスモス株を譲渡した当時、コスモス株が三〇〇〇円から値上がりすることは、客観的には必ずしも確実といえなかった。したがって、本件各事件においては、賄賂の目的となる利益が認められない。
3 判断
(一) 被告人がコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた事情
この点につき、R18は、公判段階において、六一年七月に社内流通価格を決めるために、R17に同年六月の類似会社の株価を基にしてコスモス株の価格を算定してもらったことがあり、その際は、類似会社比準方式による算出価格から一〇パーセント差し引く方式で一株三〇〇〇円に若干の端数が付く金額となっており、同年八月中旬ころ被告人からコスモス株を幾らで従業員に売ったらよいのかと聞かれた際は、同年七月の類似会社の株価を使って右と同様の方法で再計算し、その結果が三〇〇〇円に数十円の端数が付く金額であったので、三〇〇〇円と回答したとして、被告人の公判段階における右2(二)①の供述に沿う供述をしている(〈証拠略〉)。
しかし、本章第二の一2(五)(本章第二の一6で補足)のとおり、六一年八月四日のリクルートコスモスの取締役会では、同社の第一七期の決算を基礎として、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同年七月二九日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となり、非公開かつ非上場会社であることを根拠に社内流通価格を右数値の約四〇パーセント減の二一〇〇円と算定する旨の記載がある資料に基づいて審議した上、コスモス株の社内流通価格を一株二一〇〇円と決定しており、被告人は代表取締役会長として、R18も取締役として、この議事に参加していたのである(同日の取締役会議事録〔甲書1三二三〕により明らかである。)から、R18が、同年八月上、中旬ころ、被告人に対し七月末の類似会社比準方式で算出した最低分売価格が三〇〇〇円くらいである旨話すとか、被告人がR18の右説明によって類似会社の株価変動がないと仮定した場合の株式公開時の売出価格が三〇〇〇円であると考えるなどということは、右取締役会の際の資料や議事内容に照らすと、不合理であって、信用することができない。むしろ、右取締役会における審議の経緯に加え、被告人の捜査及び公判段階における供述(右2(一)、(二)①)を総合すれば、被告人は、その当時の類似会社比準方式で試算したコスモス株の価格(店頭登録時の最低分売価格に相当する価格)が三五四二円余りであると認識した上、いまだ公開前の段階であることから、一株三〇〇〇円であれば一応合理的な価格として説明が付き、税務上の低廉譲渡の問題は生じないと判断して、その価格を定めたものと認められる。
(二) 六一年九月ころ当時のコスモス株の値上がり確実性の見込み
(1) 以上で認定したとおり、
① 店頭登録制度が大幅に改定された五八年一一月以降六一年九月までに新規に店頭登録された株式の価格の形成や推移を見ると、そのすべてが投資家の人気を集め、そのうち分売の方法により公開された六銘柄については、いずれも最高分売価格に当たる買注文株数が売委託株数を超えたことから、初値は最高分売価格で決定され、その翌日以降の一般取引開始後の株価も長期間右初値以上で推移し、既発行株式の売出し又は売出しと公募増資の併用方式により公開された三一銘柄についても、すべて初値が類似会社比準方式で算定された公開価格を大幅に上回り、その後も大部分の銘柄が相当の期間公開価格を上回って推移したのであり、このように、新規登録株式が一般的に人気を呼び、店頭登録後の株価が高い水準で始まって、その後も相当の期間にわたり分売価格や公開価格を上回って推移することは、株取引に関心のある者の間で広く知られていたこと(本章第二の一1(三))、
② 六一年当時のリクルートコスモスの業績は良好で、マンション供給戸数で業界二位の業績を上げ、店頭登録直前の第一七期(六〇年五月一日から六一年四月三〇日まで)の決算では、営業収益一〇八二億円余り(前年比約70.5パーセント増)、経常利益七二億円余り(前年比約九八パーセント増)、当期利益(純利益)三二億円余り(前年比約六五八パーセント増)、純資産四五九億円余り(前年比約7.5パーセント増)となり、一株につき前年の二倍に当たる一〇円の配当を実施したこと(本章第二の一2(四))、
③ 右決算の結果、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、六一年七月二九日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式で計算したコスモス株の価格(店頭登録の際の最低分売価格に当たる価格)が三五〇〇円を上回る価格となっていたこと(本章第二の一2(五))、
④ 六一年当時、我が国の株式市場は活況を呈していて、一時的に下落する局面はあったものの、基調としては、五八年初頭ころ以降、株価の上昇傾向が続いており、六一年九月中旬ころにおいても、同月九日までの一か月間の平均株価を基にしたコスモス株の分売価格が、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円と試算され、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には最低分売価格四一六二円、最高分売価格五四一〇円と試算される状況であったこと(本章第二の一2(五)、4)
を総合すると、コスモス株の分売株数が従前の分売の方法による新規店頭登録株の分売株数と比べて相当に多量であったという事情を考慮に入れても、六一年九月ころ当時、証券取引市場に参加する者の間では、コスモス株の店頭登録時の初値が最高分売価格又はそれに近い価格で形成され、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移することは確実であると見込まれていたと認められる。
また、六一年九月ころ当時に見込まれたコスモス株一株当たりの価格が具体的に幾らであったかについては、類似会社を大京観光及び日栄建設とするか、それとも大京観光及び三井不動産とするかが確定していなかったこと、分売価格決定までに類似会社の株価が相当の幅で変動する可能性があったこと、店頭登録当日までに経済情勢の変動等の株価市況全般に影響を与える事情が生じる可能性もあったことを考慮すると、確定した数値を認定することはできないが、右①ないし④の諸事情や店頭登録までの期間が短かったことからすれば、類似会社の株価や株価市況一般の急激な下落がなく、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には一株四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には一株五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移することが予想され、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、コスモス株の店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる客観的状況にあったと認められる。
(2) これに関連して、かつて野村証券で証券審査部課長などとして株式の店頭登録や上場の審査等に携わった経歴を有するS4は、コスモス株の店頭登録の過程で大和証券から野村証券に送付される資料を検討したこともあるところ、同人は、株価には、経済情勢、政治情勢、自然現象、事故、テロ、特定業界や個々の会社の問題等の種々のリスク要因があり、いくら上昇基調の時でも、リスク要因の実現により突然下がることが常にあり得るから、その予測は困難である旨証言するところ(〈証拠略〉)、確かに、株価に関する一般論としては右指摘には正しいものがあり、実際にも、本章第二の一4のとおり、類似会社とされた三井不動産の株価は六一年一〇月一日から二五日にかけて相当大幅に下落し、大京観光の株価も同年九月ころから一〇月二一日にかけて下落していたのであり、コスモス株についても、譲渡後分売価格確定までに大規模な災害や国際的な政治経済情勢の影響等により類似会社の株価が暴落して最低・最高分売価格が低額となったり、分売価格確定後店頭登録当日までに右のような事情が生じて投資家の人気が減退し、最低分売価格による買注文も集まらないというようなリスクが客観的に皆無であったとまではいえず、本件各譲渡当時、客観的に一〇〇パーセントの割合で店頭登録後の価格が三〇〇〇円を上回ることが確実であったとまでは断定し難い。
しかし、新規公開に先立つ株式の譲渡に際して、いかなるリスクが発現しても必ず譲渡価格を上回るという意味で確実性がなくても、一般的な投資家が認識・予測し得る事情を前提とすれば譲渡価格を上回ることが確実と見込まれる状況にあれば、そのような株式の譲渡を受けることは十分に利益性を有するから、贈収賄罪の客体となり得るというべきである。
コスモス株については、右の趣旨で店頭登録後に一株三〇〇〇円を上回ることが確実と見込まれていたと認めることができるのであり、S4が指摘するような一般的に予測不可能なリスクの存在は右認定を妨げる事情とはいい難い。
(3) 次に、S4は、リクルートコスモスは、当期利益が前年度に比して急激に増えており、その中身も、決算期直前に出た利益が多いことから、本来は翌期の売上げとなるべきものを前倒しにした「押し込み売り」が窺われ、営業外利益が多いなどの問題があり、自分自身や野村証券の審査担当者は、大変危うい公開であると考えていた旨証言している(〈証拠略〉)。
しかし、野村証券は、主幹事証券会社にならなかったとはいえ、幹事証券会社の一つとしてコスモス株の公開を推進していたのであるから、S4らが、六一年当時に大変危うい公開であると考えていたという右証言は信用し難い。
むしろ、他の関係者の認識を見ると、①大和証券の前次長は、従来の新規店頭登録株の価格形成の実情を踏まえて、新規店頭登録株の初値は最高分売価格で寄り付くのが常識であると理解していたのであり(〈証拠略〉)、②コスモス株を放出した者の側でも、(ア)m4社の実質上の経営者であるM3は、六一年八月中旬の段階で、リクルートコスモスのような業績の会社であれば、巨大地震でもない限り三〇〇〇円よりも高くなることは間違いないと考えていたし、(イ)m2社及びm3社の経営者であるM2も、三〇〇〇円という譲渡価格は予想される価格に比べて低いという不満を持ちながらも、やむを得ず譲渡を了承したのであり(〈証拠略〉)、③コスモス株の譲受人の側でも、(ア)リクルートグループの顧問税理士であったM6は、新聞記事等から新規店頭登録株は一般的に店頭登録後に値上がりすると認識していたし、(イ)被告人と親しい会社経営者であるM5も、被告人からコスモス株を持ってもらいたい旨持ちかけられた際、従前の株取引の経験も踏まえて、店頭登録時には倍くらいの価格になるものと予測していたほか、(ウ)被告人と親しい信託銀行役員のM7も、株式市場全体が順調であり、リクルートコスモスの業績も好調であったので、公開後値上がりすることは確実に近いと認識して譲受けを承諾したのであり(〈証拠略〉)、これらは、右(1)の認定を裏付けるものということができる。
さらに、六一年一〇月三〇日の店頭登録に際しては、類似会社とされた二社、特に三井不動産の株価が低迷する状況の中でも、コスモス株に対する最高分売価格による買注文が分売株数の約五倍に当たる約一四〇〇万株もあったのであり(本章第二の一5)、このことも、株式市場に参加する投資家の多くがS4の証言するような危惧感を抱かなかったことを示すものであり、右(1)の認定を裏付ける事情ということができる。
(三) コスモス株の値上がり確実性に関する被告人の認識
右(二)で認定した諸事実に加え、
① 被告人は、リクルートコスモスの代表取締役社長としてコスモス株の公開を企図し、大和証券から出向者を受け入れるなどして公開の準備を進め、六一年七月に社長をR3に譲って会長になった後も、依然、代表取締役としてリクルートコスモスの営業や店頭登録手続に関与していたのであり、同社の取締役会においても、店頭登録に向けて各種の審議や議決もなされていたところ、同年八月四日の取締役会でコスモス株の社内流通価格の変更が議題とされた際、リクルートコスモスの第一七期の決算を基礎として、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とし、同日までの一か月間の平均株価を用いて類似会社比準方式でコスモス株の価格を計算したところ、三五四二円余りの数値となる旨の資料に基づいて審議していたこと(本章第二の一2(一)〜(五))、
② 被告人が、六一年八月にコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた際には、その当時の類似会社比準方式で試算したコスモス株の価格(店頭登録時の最低分売価格に相当する価格)が三五〇〇円以上になることを認識した上、未だ公開前の段階であったことから、一株三〇〇〇円であれば一応合理的な価格として説明が付き、税務上の低廉譲渡の問題は生じないと判断して、その価格を定めたこと(右(一))、
③ 被告人は、捜査段階において、「公開直後には、株式相場の基調の強さ、不動産業界の好景気、未公開株に対する人気といった一般的な材料に加え、RC〔リクルートコスモス〕の業績の伸びといった具体的要因が手伝い、プレミアがつき、三、五〇〇円〜四、〇〇〇円位にはなるだろうと思いました。」と供述していること(右2(一))、
④ そもそも、被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させることを考え、社外の者に対する譲渡を企図したこと(〈証拠略〉)、
⑤ 被告人は、六一年九月一六日、大和会議に参加し、その際に示された資料には、同月九日までの一か月間の平均株価を基にして、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合は最低分売価格三二九〇円、最高分売価格四二七〇円となる旨の試算の記載があったばかりでなく、類似会社の候補として、右二社のほかに三井不動産等六社を挙げ、大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定した場合の最低分売価格を試算した表や、五九年一月から六一年九月一〇日までに新規店頭登録された株式三六銘柄(うち分売の方法によるものは六銘柄)の店頭登録当日の価格形成状況のほか、六〇年四月から六一年八月までに新規店頭登録された株式二一銘柄(うち分売の方法によるものは二銘柄)の新規登録後一か月間の毎日の終値及び売買高、登録の一か月後、二か月後、三か月後、六か月後及び同年九月八日現在の終値等が記載された表も添付されていたし、また、右期間内に分売方式により店頭登録された事例ではすべて最高分売価格が分売価格となった旨の説明を受けた上、類似会社を検討し、その際、R3とともに、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする意向を示し、それが実現した場合に両社の株価が右資料の基礎とした時期と同程度で推移すれば、コスモス株の最低分売価格が四一六二円程度となり、最高分売価格が五四一〇円程度となることを認識したこと(本章第二の一2(五))
を併せ考慮すれば、被告人がコスモス株の譲渡価格を一株三〇〇〇円と定めた六一年八月以降同年九月一六日の大和会議に参加するまでの間は、公判段階において自認するように、普通に順調に推移すれば店頭登録時のコスモス株の株価が一株三五〇〇円程度になり、よほど人気が出れば一株四〇〇〇円程度になるであろうという漠然とした認識があったというにとどまらず、店頭登録当日の初値として通常に推移すれば一株三五〇〇円以上は確保でき、順調に行けば一株四〇〇〇円程度となる可能性も高く、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況にあることを認識していたと認められる。そして、大和会議に参加した後は、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合には一株四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には一株五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当の期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移するものと予想し、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当の期間にわたり一株三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況であることを認識していたと認められる。
4 検察官主張の値上がり確実性の認識について
検察官は、被告人は、かねてから、リクルートコスモスの役職員に対し、「三井不動産を目指せ」という檄を飛ばしており、リクルートコスモスの役職員が、六一年六月ころから、被告人の右意向を踏まえて大京観光と三井不動産の二社を類似会社としてコスモス株の分売価格を試算したところ、最低分売価格が約四二〇〇円、最高分売価格が約五四〇〇円と算出され、被告人は、R16経理部長からその旨の報告を受けるなどして店頭登録後のコスモス株の株価は五〇〇〇円以上になるものと認識した旨主張するところ、確かに、R16の検面調書(甲書1三六、三七)中には、六一年六月ころには、大京観光と三井不動産の二社は間違いなく類似会社として選定されると認識しており、そのころに行った第一七期の決算結果を踏まえた試算では、最低分売価格が四二〇〇円くらい、最高分売価格が五四〇〇円くらいという結果が出て、同月ころ、R18及びR20専務とともに被告人へ報告に行って、「五、四〇〇円位を目標に頑張っております。この状況なら旨くいくと思います。」などと話し、その後の部次長会議でも、R3社長やR20専務らから「順調にいけば公開時の高値が五四〇〇円位に付けられそうだから、頑張ってくれ。」などと指示があった旨の記載がある。
しかし、R16の検面調書の記載も、「いつの時点のどの試算値によったものか今ではよく思い出せませんが、低値四、二〇〇円位、高値五、四〇〇円位といった線で落ち着くのではないかという予測が立てられていたのです。」(甲書1三七)という曖昧なものであり、調書作成に際して示された株価チャート表によれば、六一年五月から七月にかけて、大京観光、三井不動産の両社とも株価に相当の値動きがあり、仮に右両社を類似会社としても、どの時期の株価を基にするかによって、コスモス株の分売価格試算結果は相当の幅で変動するはずであるのに、何故に「低値四、二〇〇円位、高値五、四〇〇円位といった線で落ち着くのではないかという予測が立てられ」たのかという肝心な点について、具体的な供述が記載されていない。
なお、右調書を録取したP1検事は、R16が、取調時に、六一年六月ころに試算した結果で五四〇〇円くらいでいけるということが幹部クラスの間のコンセンサスとなっており、同月ころ、被告人に対し五四〇〇円でいけるでしょうと報告し、部次長会議の席においてもR3社長やR20専務が理論値の高値五四〇〇円くらいの値を付けたいという話をしていた旨の供述をしたので、いつの時点の試算でその金額が出たのか明確にするために、用意した株価チャートに基づいて一緒に計算したところ、六一年六月ころで高値五四〇〇円という数字が出たので納得した旨証言するところ(〈証拠略〉)、R16の検面調書(甲書1三七)には、大京観光一社を類似会社として六一年五月七日の株価を基に試算すればコスモス株の最低分売価格四一五一円、最高分売価格五三九六円となるとして、五四〇〇円に近い金額の記載があるが、当該株価は大京観光株が前後数か月間で最高値を付けた際の株価であって、その一時点の数値のみをコスモス株の分売価格の推測の根拠とすることに何らの合理性もないことは自明であるし、そのほかの同調書記載の試算を見ても、コスモス株の最高分売価格を五四〇〇円と算出した根拠になり得る試算は何ら記載されていない。
また、六一年九月一六日の大和会議以前に大京観光と三井不動産の二社を類似会社とすることを前提に検討した資料は本件全証拠中に見当たらず、本章第二の一2(五)のとおり、大和証券が、大和会議に際して、類似会社の選定に関する被告人及びリクルートコスモスの意向を確認するために用意した資料では、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合の最低分売価格と最高分売価格の試算を示した上、類似会社の候補として、右二社のほかに長谷川工務店、三井不動産等六社を挙げているが、これも大京観光を軸に他社を組み合わせて類似会社を選定する場合の最低分売価格の試算を提示する内容になっていることからすると、大和会議の時点までは、公開準備の実務に当たっていた者は大京観光と日栄建設の二社を類似会社とすることを一応予定していたとみるのが自然である。
結局、R16の右各検面調書の記載は、具体的な根拠を欠き、他の関係証拠により認められる経緯とも符合しないものであって、信用することができず、他に被告人が店頭登録後の株価が五〇〇〇円以上になると認識していたと認めるに足りる証拠もないから、検察官の主張は失当である。
四 入手困難性及びその認識
本章第二の一2(二)、(四)のとおり、コスモス株は、六一年九月ころの時点では、未公開株であり、同年七月二九日に株式譲渡制限の規定が撤廃されて間がなく、株主数も少なかったのであるから、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人が入手することが困難であったのであり、しかも、同年一〇月三〇日に予定されていた店頭登録時には一株三〇〇〇円を上回る価格で初値が付き、その後も相当の期間右価格を上回る価格で推移することが確実であると見込まれており、実際にも、コスモス株の店頭登録時には、最高分売価格である五二七〇円による買注文だけでも分売株式数を大幅に上回ったことからすると、一般人が一株三〇〇〇円の価格でコスモス株を入手することが極めて困難であったことは明らかである。
被告人が右入手困難性を認識していたことは、右の客観的状況と被告人の立場からして明らかであるし、被告人自身、公判段階においても認めるところである(〈証拠略〉)。
五 小括(コスモス株の譲渡の賄賂性)
以上のとおり、コスモス株は、六一年九月ころの時点では、同年一〇月三〇日に予定されていた店頭登録後にはその価格が譲渡価格である一株三〇〇〇円を上回ることが確実であると見込まれていたものであり、これを一株三〇〇〇円で取得することは、被告人やその側近の者と特別の関係にない一般人にとっては、極めて困難であったものである。
したがって、コスモス株を店頭登録後に見込まれる価格を下回る一株三〇〇〇円で取得する利益は贈収賄罪の客体になる。
第三 被告人の検面調書の任意性及び信用性の判断に関する前提事実
弁護人は、被告人の検面調書の多くについて、任意性を欠き、かつ、取調べの違法性の故に違法収集証拠として証拠能力を欠く旨主張し、その信用性も争っている。これらに関しては、各争点について判示するに当たり必要に応じて判断を加えるが、各検面調書は一連の事件の取調べの過程で録取されたものであり、その任意性等は相互に関連するので、ここで、判断の前提となる取調べや調書作成経過等の概略を整理して記述する。
一 リクルート事件の社会問題化と被告人の健康状態等
被告人は、六三年六月一八日に川崎市助役に対するコスモス株の譲渡問題が新聞で報道されて以後、一連のコスモス株の譲渡が社会問題化し、コスモス株を譲り受けたことを理由に役職を辞任する者も出たことから、同年七月六日にリクルートの代表取締役会長を辞任したが、それ以後も、政治家にコスモス株を譲渡したことが報道されて、被告人に対する取材活動が激しくなったことなどから、憔悴するようになって、不眠、食欲不振、全身倦怠感など強い抑うつ気分が続き、精神の刺激性衰弱、集中力減退、血圧の不安定な動揺を伴う全身衰弱に陥ったため、同月二六日に心因反応の病名で半蔵門病院に入院し、その後、同年八月下旬に約一〇日間の転地療養をしたが、同年九月五日に再度半蔵門病院に入院し、元年二月に逮捕されるまで入院を継続した。被告人の症状は、右入院中もさほど好転せず、半蔵門病院の医師により、元年一月二〇日付けで、心因反応による不眠、食欲不振、全身倦怠感、集中力減退などの抑うつ状態(いわゆる刺激性衰弱)が見られるという診断書が作成された。
その間、六三年八月一一日には、被告人の自宅に散弾銃が撃ち込まれて、「赤報隊」と名乗る団体から犯行声明が出され、以後も、リクルートや被告人宛に多数の脅迫状が送付されたほか、コスモス株の譲渡問題を中心に、被告人や家族のプライバシーに属する事柄を含めて、マスコミによる取材や批判的な報道が相次ぎ、多くのコスモス株の譲受人が疑惑の対象として報道され、その役職を辞任する事態が続いた。
また、被告人は、入院中に、右状況を苦慮し、自殺をすれば楽になるのではないかと考えて遺書を書いたこともあった。
(〈証拠略〉)
二 逮捕前の被告人の取調状況等
被告人は、六三年一〇月一二日、半蔵門病院において、衆議院税務特別委員会の臨床質問を受けた後、同年一一月七日ころ、同病院において、リクルートコスモスの社長室長を被疑者とする贈賄被疑事件に関し検察官の取調べを受け、同月二一日に衆議院のリクルート問題に関する調査特別委員会に証人として喚問されて証言し、同年一二月六日には、参議院の税務特別委員会でも証人として喚問されて証言した。
その後、六三年一二月下旬から元年一月にかけて、当時東京地方検察庁特別捜査部副部長で一連のコスモス株の譲渡を巡る事件の主任検事であったP2(以下「P2検事」という。)から、証券取引法違反及び日本電信電話株式会社法違反被疑事件の被疑者として、一連のコスモス株の譲渡についての被告人の関与を中心に、東京都内にあるリクルートグループのホテルで五、六回取調べを受けた。
さらに、元年一月下旬からは、P3検事(以下「P3検事」という。)が、豊島区検察庁において、被告人を数回取り調べたが、被告人は、P3検事の取調時の発言に対する不満等を理由として、途中から黙秘するようになり、P3検事が作成した数通の調書について署名押印を拒否した。
なお、被告人は、これらの取調べの際は、入院中の病院から取調場所に出向いて取調べに応じており、その前後には、必要に応じて弁護士と相談するほか、弁護士から他の弁護士が出版した「刑事裁判の光と影」と題する書籍を渡されて閲読するなどした。
(〈証拠略〉)
三 逮捕勾留中の被告人の取調べ、接見及び調書の作成状況等
1 取調べ等の概要
被告人は、元年二月一三日、己畑五郎及び庚町に贈賄したという日本電信電話株式会社法違反被疑事件(判示第四の二2、3)で逮捕されて、東京拘置所に留置され、同月一四日に同事件で勾留された上、同年三月四日、同事件で起訴され、同月六日、戊田に贈賄したという同法違反被疑事件(判示第四の二1)で逮捕され、同月八日に同事件で勾留された上、同月二七日、同事件で起訴され、同月二八日には丁谷三郎に贈賄したという事件(判示第三)でも起訴されるとともに、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で逮捕されて、同月三〇日に同事件で勾留された上、同年四月一八日、同事件で起訴された。
右の間、被告人は、ほぼ毎日、東京拘置所内において、主としてこれらの事件について検察官の取調べを受け、元年四月一八日に起訴された後の勾留中も、乙山及び丙川二郎に贈賄したという事件(判示第一及び第二)を中心に検察官の取調べを受けて、同年五月二二日に右両事件で起訴され、同年六月六日に保釈された。
取調担当検事は、最初の逮捕から元年三月二七日までは、P2検事が一度取り調べた以外、すべてP3検事であり、同月二八日から同年四月一〇日までは、P4検事(以下「P4検事」という。)であり、同月一一日以降は、P4検事とP2検事の両名又はいずれか一名であった。
この間における取調べのための被告人の舎房出入時刻、取調担当検事、検面調書の作成状況、弁護人との接見時間等は、別紙(二)取調経過等一覧表記載のとおりである(関係証拠によれば、別紙(二)に記載した以外にも、検察官が本件各事件の証拠として請求せず、弁護人に開示していない調書が相当数あることが窺われるが、明確に認定するに足りる資料が存しないため、これらを掲げていない。)。
(〈証拠略〉)
2 弁護人との接見の状況
被告人は、別紙(二)記載のとおり、判示第五の事件で起訴されるまでの間は、三日に一回程度の割合で弁護人と接見し、一回当たりの接見時間は、概ね二〇分ないし三〇分程度であったが、右起訴後は、拘置所の閉庁日である日曜祝祭日と第二・第四土曜日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見し、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供等を受けていた。そして、検察官の取調べは弁護人の接見時には中断された。
(〈証拠略〉)
3 被告人の健康状態
被告人が逮捕された直後である元年二月一四日、半蔵門病院医師から検察官に対し、被告人の病状に関する捜査関係事項回答書が出されたところ、この回答書には、心因反応の病名で、安定剤、食欲増進剤、栄養剤、睡眠剤を投薬しており、不眠、食欲不振、全身倦怠感、集中力減退などの抑うつ状態(いわゆる刺激性衰弱)にあって、血圧もやや高めに動揺しがちな状態にあり、今後、病因であるストレスにより一進一退の状態が続くと思われる旨の記載があるほか、参考事項として、本人より抗うつ剤ルヂオミールが有効と聞いたことがあり、本人の希望があればご高配いただきたい旨記載されている。
被告人は、東京拘置所における勾留中に医務室で二回診察を受けて、睡眠障害及び胃腸症と診断され、睡眠導入剤、精神安定剤や胃腸薬等、数種類の薬剤の投与を受けた。ただ、抗うつ剤については、被告人が処方を希望したものの、処方を受けることができなかった。
(〈証拠略〉)
4 被告人の検面調書の作成状況
被告人は、逮捕当初は、逮捕当日の弁解録取を除いて、元年二月一六日までP3検事の取調べに対し黙秘していたが、同月一七日に黙秘を解いて供述するようになり、以後、別紙(二)記載の各検面調書が作成された。
なお、被告人が取調べを受けている途中の元年四月二五日、当時のI1(以下「I1」という。)内閣総理大臣が予算案成立後に内閣総辞職する旨の表明をし、同月二六日、I1内閣総理大臣の元秘書でコスモス株の譲受名義人の一人であった者が自殺するという出来事があり、被告人も、それらの事実を取調検事や弁護人から聞いて知った。
(〈証拠略〉)
第二章 判示第一及び第二の各贈賄について
第一節 判示第一及び第二の各事実に共通の前提又は背景となる事実関係
第一 就職協定及びこれに関連する政府の動向等
一 就職協定及び公務員試験の日程に関する従前の経緯
1 四七年ころまでの経緯
大学(短期大学を含む。以下同じ。)は、職業安定法三三条の二により、その学生について無料の職業紹介事業を行うことができるため、各大学では、従来から卒業予定者について就職のあっせん業務を行っていたが、文部省は、就職難の状況の中で学生の企業に対する働きかけが強まることにより教育面に与える影響を懸念して、二八年六月、国立大学協会、日本私立大学連盟等の大学関係団体七団体、経済産業界の団体二八団体のほか、労働省及び人事院も参加する大学卒業者就職問題懇談会を開催し、同懇談会において、大学関係団体が大学卒業予定者を企業に推薦する時期を一〇月一日以降とする申合せを行い、経済産業団体はこれに協力することを約束し、以後、推薦開始時期について若干の変動があったものの、三六年まで毎年同趣旨の申合せが行われた。
右大学関係団体の申合せやそれに協力する旨の経済産業団体の約束は、一般に「就職協定」と称されるようになり、関係者の間では、その果たす役割として、大学卒業予定者の早期選考防止、選考時期等の明確化による大学卒業予定者の就職の機会均等の確保、卒業年次における大学教育の適正な実施、企業の人事採用計画の円滑な実施(過当採用競争の沈静化)、採用内定から就職までの期間の適正化による企業の業績悪化を理由とする採用内定取消しの防止等が挙げられていた。
しかし、日本経済の高度成長に伴って、求人難になり、学生の採用選考前の会社訪問が慣行化したことなどから、採用活動は早期化し、三七年から四四年までは、経済産業団体が申合せに参加せず、文部省が実施する大学関係団体のみの懇談会において、同趣旨の申合せをした。その後、四五年には、文部省が実施する懇談会に経済産業団体も参加し、同懇談会が大学関係団体の申合せに協力することを確認して、実現を期することを表明する形で、経済産業団体を含む就職協定が成立したが、四六、四七年については、再び大学側の申合せのみとなった。
ところが、四六、四七年には、採用選考が一層早期化し、四八年三月大学卒業予定者については、大学三年次の四六年一二月ころから学生の会社訪問が始まり、業界によっては四七年二月ころに内定が出される状態であり、他方で、同年三月大学卒業予定者について、四六年八月のニクソンショック(米ドルの金兌換停止等の発表)等の影響で日本経済の先行き不安が高まり、一部企業が卒業直前になって採用内定を取り消す事態も生じた。
(〈証拠略〉)
2 四七年から五七年にかけての動向
(一) 就職協定で申し合わされた時期に先立つ採用選考活動は、「青田買い」や「青田刈り」と呼ばれて、次第に社会問題化し、四七年五月の衆議院内閣委員会で労働省に対し大学卒業予定者の青田買いによる弊害に関する質疑が行われたこともあって、四八年度の就職協定(四九年三月大学卒業予定者についての四八年における就職活動に関するものをいう。以下、他の年度についても同じ。)には、文部省及び労働省が積極的に関与した。
すなわち、大学関係団体は、四七年一〇月二五日に文部省が実施した就職問題懇談会において、四八年度の就職協定に関し、就職事務は七月一日より前には行わず、求人側に対する卒業予定者の推薦は一〇月一日以降の実施をめどとして行うことを申し合わせ、同時に、文部省、労働省及び経済諸団体においても各企業が右申合せを遵守するように緊急に特段の措置を講ずることを要望した。
文部大臣及び労働大臣は、四七年一〇月二五日、日本経営者団体連盟(以下「日経連」という。)等のいわゆる経済四団体の代表と青田買い防止について懇談し、①経済四団体は早期選考防止を申し合わせるとともに、業種別の団体に対し強力に働きかけ、業種別団体は自主的に申合せを行うこと、②違反した企業に対しては、経済四団体及び各業種別団体が警告等の必要な措置を講ずること、③文部省及び労働省は、業種別の団体等に対し協力の要請を行うとともに、申合せの実効性が確保されるように関係各省とも協力して必要な行政指導を行うこと、④大学に対しても、指導を一層強化することなどを申し合せた。さらに、同月二七日の閣議において、文部大臣及び労働大臣が、文部省及び労働省としては、右申合せの趣旨に従い、今後積極的に対策を進めるので、関係各省にもこの趣旨の了解と協力をお願いするとともに、政府関係機関の職員についても、右懇談会で早期選考が行われているという指摘があったので、このようなことのないように十分な配慮をお願いしたい旨の発言をし、これに対し他の大臣から異論は出なかった。
右動きを受けて、産業界側でも、全国銀行協会連合会が求人事務開始日や選考開始日について申合せをするなど、求人秩序を形成する動きが高まり、労働省職業安定局長(以下「職安局長」という。)や文部省大学局長等が業界別団体の代表らと懇談し、早期選考防止対策を求めるなどの経緯を経て、四七年一一月二〇日、労働省が中央雇用対策協議会(以下「中雇対協」という。)を開催した。中雇対協は、日経連、日本商工会議所、全国中小企業団体中央会及び労働省が世話団体になり、日本鉱業協会等の多数の業界別団体が構成団体になっている雇用問題に関する協議会であるが、同日の中雇対協には、通常は非構成団体である経済団体連合会及び経済同友会並びに全国銀行協会連合会、生命保険協会等の業界別団体も特に招集されて出席した上、大学卒業予定者の採用に関し、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)は卒業前年の七月一日以降とし、学生の企業訪問の受付、就職説明会、就職案内の送付等の求人のためにする一切の行為は五月一日以降とする決議をし、大学関係団体の申合せとは内容面の食い違いがあったものの、いわゆるブリッジ方式の就職協定が成立した。
そして、文部省は、各国公私立大学等の長に対し、大学学術局長通知を発して、就職協定の周知を図るとともに学生に対する指導の徹底を求め、また、主要事業主、主要経済関係団体の代表、各省庁や都道府県知事等に対し、依頼文書を発して、協力を求めた。労働省も、職安局長名義の依頼文書を発して、各都道府県知事や主要な業種別の全国的団体に対し、就職協定の周知徹底や実効性確保のための措置を執るように配慮を求め、業界を監督する国の機関に対し、就職協定の実効性確保のための指導を求め、任用を担当する国の機関及び特殊法人に対し、就職協定の遵守を求め、新規学卒者向け企業紹介誌を発行していたリクルート及び株式会社ダイヤモンドビッグ社に対し、企業紹介誌の発送を四月一五日以降とするように協力を要請するなどした。
さらに、四八年三月には、リクルートが同年五月に就職のための会社説明会として企画した「リクルートガイダンス」を巡り、労働省職安局長が、就職協定の趣旨に違反し、一般企業に対する指導にも支障を来すことになると考えられるので、学生に対する案内等の送付を五月一日以降とするように強く要請する文書をリクルートの代表取締役の被告人宛に発し、リクルートが右要請に応じて企画内容を変更するという出来事もあった。
(〈証拠略〉)
(二) 四九年度の就職協定は、四八年度と同様の内容で成立し、また、五〇年度は、文部省及び大学関係団体が就職問題懇談会において前年度と同様の申合せをし、中雇対協も、いったんは、決議の対象に高等専門学校卒業予定者を加え、求人のためにする行為の開始時期を六月一日としたほかは、前年度と同様の決議をしたが、オイルショック後の経済情勢の悪化に伴って、五〇年三月卒業予定者に対する採用内定取消しや自宅待機等の事態が生じたため、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)は卒業前年の一一月一日以降とし、求人のためにする一切の行為は九月一日以降とする決議に改めた。なお、五〇年度の中雇対協の決議では、就職情報資料出版社の出版する企業案内書に採用予定人員、採用予定者に係る初任給その他の労働条件、採用方法(選考期日、選考場所、選考方法、応募書類等)や採用担当部課名を掲載することを求人のための行為とみなすものとした。
文部省及び労働省は、四八年度と同様に、通知や依頼文書を発出して、就職協定の周知徹底や遵守を求める指導をした。
(〈証拠略〉)
(三) 人事院は、国家公務員の幹部候補職員を採用するために実施する国家公務員採用上級甲種試験(以下「公務員試験」という。なお、六〇年度以降は、名称が「国家公務員採用Ⅰ種試験」と変更された。)について、四五年度から四九年度までは、その最終合格者発表日(以下「合格発表日」という。)を八月中旬ないし九月上旬としていたが、五〇年度の中雇対協の決議で、企業の採用選考開始日がそれまでの七月一日から一一月一日に繰り下げられたことに伴い、五〇年度の公務員試験の合格発表日もこれに合わせて一一月一日に繰り下げた。
その後、公務員試験の合格発表日については、五一年度は一〇月二六日、五二年度及び五三年度は一〇月二五日、五四年度から五八年度までは一〇月一五日とされた。
(〈証拠略〉)
(四) 五一年度については、企業側が、中雇対協において、求人のためにする一切の行為を卒業前年の一〇月一日以降とし、選考(採用の内定にわたる行為を含む。)をその年の一一月一日以降とする決議をし、大学関係団体も、就職問題懇談会において、企業と大学等卒業予定者との接触開始日を卒業前年の一〇月一日とし、企業の採用選考開始日をその年の一一月一日とする申合せをし、この結果、企業側と大学側がいわゆる「一〇―一一協定」で一致した。
一〇―一一協定は、以後、五六年度まで継続して実施され(ただし、中雇対協の決議は、五二年度以降、一〇月一日を始期とする行為を「求人(求職)のための企業と学生との接触(電話等による連絡を含む。)」と改め、求人票や就職案内書等の大学に対する送付は別に運用することを明確にした。)、その間、五四年度には、大学側の申合せに高等専門学校の団体が加わり、大学等関係一一団体は、五四年一月、最終学年の学生が勉学に専念できる期間を確保するために、当分の間、五四年度以降の大学等卒業予定者については、卒業前年の一〇月一日を求人(求職)のための企業と学生との接触開始、一一月一日を選考開始とすることとして就職事務を行うことを申し合わせた(以下「五四年度大学側申合せ」という。)。
文部省及び労働省も、右の間、通知や依頼文書を発出して、就職協定の周知徹底や遵守を求める指導を継続したほか、労働省は、就職協定に関する中雇対協の決議の実効性を確保するために、五四年度の就職協定から、中雇対協に決議遵守委員会(労働省、日経連等で構成)を設置して、就職協定に違反した企業に対し注意、勧告及び公表の制裁措置を講ずるなどの遵守活動を行うこととし、実際に、五六年度まで、違反した企業に対し注意及び勧告の措置を執り、五六年度においては、さらに、労働省の幹部が大手企業を訪問して就職協定の遵守を要請したり、大学の就職担当教授や部課長に対し就職協定の周知を図るなど、例年以上に遵守活動を展開した。また、五六年度には、中雇対協決議遵守委員会がリクルートを含む就職情報誌出版企業に対し、企業・就職案内書の作成に当たり中雇対協の決議の趣旨を理解し、アンケートや資料請求用葉書に一〇月一日前の企業と学生との接触を助長しかねない記載事項を設けないことなどを求める文書を送付した。
(〈証拠略〉)
(五) しかし、五六年度においても、就職協定に違反する企業が後を絶たず、大学OBや縁故を通じた事実上の選考活動が横行した。
右状況を受けて、労働省は、五六年一一月の中雇対協で見解を発表し、五七年度の就職協定に関する中雇対協の決議には参加しない方針を明らかにした。
結局、五七年度の就職協定に関しては、大学等関係団体は前年度までと同様の申合せをしたが、産業界側では、従前のような決議の形を取らず、決議遵守委員会も設けず、五七年一月、中雇対協(労働省を除く。)において、「一〇―一一協定」を継続する申合せをして、就職協定を成立させた。労働省は、申合せ自体には参加しなかったものの、就職情報誌出版企業に対し、企業案内書の送付時期や資料請求はがきの記載項目等に関する要請をするなど、就職協定を遵守する環境整備のための行政指導は継続して実施した。
五七年度の就職協定は、労働省が撤退した危機感も加わって概ね遵守されたと関係者から評価される状態で推移した。
(〈証拠略〉)
二 各省庁人事担当課長会議
五六年ないし六〇年当時、内閣官房に属する内閣参事官のうち人事担当の内閣参事官が主宰して、各府省及び国務大臣がその長である庁の人事担当課長等で構成する各省庁人事担当課長会議(以下「人事課長会議」という。)が原則として毎月二回の頻度で開催されており、内閣参事官が議題を選定して、閣議決定、閣議了解等の人事に関する内閣の方針を周知徹底させ、遵守を図るほか、内閣官房長官及び副長官から人事に関する指示の伝達等がなされていた。また、人事担当の内閣参事官は、総理府の人事担当課長である内閣総理大臣官房人事課長を兼務しており、主宰者たる内閣参事官としての立場のほか、総理府の人事担当課長の立場でも人事課長会議に出席していた。
なお、人事課長会議においては、例年二、三月ころ、各省庁の人事上の要望を取りまとめた上、「人事行政に関する関心事項」と題する書面を作成して人事院に提出し、人事院主宰の人事管理官会議幹事会において、内閣総理大臣官房人事課長が代表して右関心事項を表明していた。
(〈証拠略〉)
三 五八、五九年当時の就職協定及び公務員試験の日程を巡る状況
1 五八年度の就職協定と公務員試験の合格発表日の繰上げ問題
五七年一二月、中雇対協(労働省を除く。)は、五九年三月以降の大学等卒業予定者については、卒業前年の一〇月一日を会社訪問開始、同じ年の一一月一日を採用選考開始とする申合せ(以下「五八年度中雇対協申合せ」という。)をし、大学等関係団体も五四年度大学側申合せを継続することを決定した。
一方、五七年度までの公務員試験は、七月上旬に第一次試験、八月上旬から二〇日ころまで第二次試験、一〇月一五日に合格発表日という日程で、合格者の中から各省庁が必要な職員を採用するというものであったため、公務員を志望する受験者は、就職協定による企業との接触開始日(会社訪問の解禁日)である一〇月一日を経過しても公務員試験の合否が判明しない状態にあった。
そこで、各省庁の人事担当者の間で、公務員試験の受験者がその合否に不安を抱き、先に民間企業の採用内定を受け入れる傾向があるとして、そのような事態を回避して優秀な人材を確保するために、公務員試験の合格発表日を繰り上げるべきであるという意見が強まり、五六年ころ以降、人事課長会議で取りまとめた上で人事院主宰の人事管理官会議幹事会で表明される「人事行政に関する関心事項」の中にも、公務員試験の最終合格者の発表及び合格者名簿の配布を民間企業の会社訪問解禁日の前日までに行うことが盛り込まれるようになり、五七年春の同幹事会でも同趣旨の関心事項が表明された。
右状況の中で、人事院の幹部も、就職協定による会社訪問解禁日には公務員試験の合格者が各省庁を訪問することができるようにするため、公務員試験の合格発表日を遅くとも一〇月一日に繰り上げる必要があると考えるようになり、五八年に入ってから、人事院の担当者が文部省及び労働省の就職協定担当者や日経連の担当者と接触して感触を探ったほか、同年二月、中雇対協幹事会において、五八年度の公務員試験の合格発表日を一〇日ないし一五日程度早めるように準備中である旨表明し、通商産業省(以下「通産省」という。)及び大蔵省の人事担当課長である秘書課長も、L1日経連専務理事(以下「L1日経連専務理事」又は「L1」という。)に対し、同様の意見を述べた。
しかし、産業界側では、前年度にうまくいき、五八年度も既に合意済みの就職協定の遵守に悪影響を与えるとして、反対が強く、中雇対協座長名で、労働大臣に対し、公務員試験の合格発表日の繰上げに反対する人事院総裁宛の申入書を添えて、善処方を求める文書を提出し、文部省や労働省職業安定局(以下「職安局」という。)も五八年度の就職協定が決定済みの段階で公務員試験の合格発表日を繰り上げることは避けるべきであるという意見を述べ、就職問題懇談会就職協定遵守委員会でも大学側の反対意見を集約して人事院に提示するなどしたため、人事院も五八年度はこれを断念し、従前どおり、一〇月一五日を合格発表日として公務員試験を実施した。
(〈証拠略〉)
2 五八年度の採用選考活動の実情等
五八年度の就職協定では、またも、新規大学等卒業予定者の夏期休暇期間中の就職活動が目立ったほか、OB訪問と称する事実上の面接選考が横行し、協定に違反する行動が数多く指摘される状態であり、五九年一月一二日、中雇対協の座長でもあるL1日経連専務理事が、記者会見で、私見と断りつつも、就職協定は守られていないので、やめたいと思っており、その方向で関係各界と話し合いたい旨の発言をし、その発言は翌日の朝日新聞等で大きく報道された。
(〈証拠略〉)
3 公務員の採用選考が民間の青田買いに与える影響に関する関係者の認識
五八、五九年当時、民間企業の採用担当者や日経連の担当者の間では、青田買いが横行する大きな原因の一つとして、国の行政機関が就職協定の対象外であったため、公務員試験の第二次試験終了後、民間の会社訪問解禁前から、各省庁の採用担当者と学生とが接触して事実上の採用選考が行われている実情(以下これを「官庁の青田買い」という。)があり、このために、官庁と採用の対象が共通する大手金融機関等が優秀な人材の確保を目指して青田買いに走り、その動きが他の民間企業にも波及する事態が生ずるという意見が強く主張されており、大学生の就職問題と関係を有する文部省、労働省及び人事院の担当者も、民間企業側の右主張を認識していた。
リクルートは、企業の採用担当者向けに「リクルート採用セミナー」を開催していたが、五九年三月六日の同セミナーでは、D1文部省大学局学生課長(以下「D1文部省学生課長」という。)、L2日経連労務管理部雇用課長(以下「L2日経連雇用課長」という。)らによるパネルディスカッションでも、①コーディネーターである評論家が、中央官庁がかなり早期に内定をし、その動きが日銀をはじめ政府関係の金融機関や都市銀行にまで波及したと思う旨の発言をし、②D1文部省学生課長が、コーディネーターから、公務員試験の二次試験後の内定の早期化が他の大手企業の動きにも影響しているという問題について対応策を問われたのに対し、各省庁に聞いてみたところ、一〇月一五日以前の内定はあり得ないということであったが、問題になっているのは事実であるから、労働省にもお願いして文部省とともに各省庁へ協力を要請していこうと思うし、D2文部大臣(以下「D2文部大臣」又は「D2」という。)が就職問題について非常に関心を持っているので、協定遵守のための環境作りをしていきたい旨の発言をし、③L2日経連雇用課長が、官庁側が二次試験に受かれば来てもらうという約束をし、これで実際に採用されるケースが多く出ると、実質的な内定であり、しかも民間に比べてかなり早期の内定であるということが問題であり、自主協定を維持していくためには、何としてもこのような公務員の八月からの動きをやめてもらわなくてはならないし、役所は別であるという考え方は是非とも改めていただく必要がある旨の発言をし、これらの発言は、同セミナーの内容をまとめたリクルート企画室作成の書面(甲物1三四)にも記載されていた。
(〈証拠略〉)
4 五九年度の就職協定(大学側)と文部省の対応
大学等関係団体は、五九年一月三〇日の就職問題懇談会において、五九年度も五四年度大学側申合せにより就職事務を行うことを決定した上、学生がOB訪問等の名目で一〇月一日以前に企業を訪問することは、企業の人事担当者やその意向を受けたOB等との接触により事実上の面接選考に結びつきやすい面があるため、就職秩序を混乱させるおそれがあるとともに、大学、企業の地域的な配置やOBの有無により就職の機会均等と公平性が損なわれるという問題もあるなどとして、「一〇月一日以前の企業研究については大学等が収集した資料によって行うこととし、大学側としては、学生に対して、大学のOB等企業関係者の人媒体を通じた企業研究を奨励することは自粛することとする。また、企業側にも、このことの理解と協力を求めることとする。」と決定した。
文部省は、五九年三月一日、大学局長通知を発して、各大学等に対し、学生に就職協定に沿った行動を指導するように求めるとともに、大学等関係団体に対しても、加盟大学等へ周知徹底を図るように求め、さらに、主要経済団体、約一万三六〇〇名の事業主、任用を担当する国の機関、特殊法人、都道府県、特殊法人の監督機関、主要就職情報出版企業及び労働省職安局長に対し、大学局長名義の依頼文書を発して、就職協定に関する協力や周知徹底を依頼し、同月六日及び八日のリクルート採用セミナーにD1文部省学生課長が出席するなど、就職協定の遵守確保のための措置を執った。
(〈証拠略〉)
5 公務員試験の合格発表日の繰上げ、人事課長会議申合せ及び就職協定(企業側)
五九年度においても、各省庁の人事担当者の間では公務員試験の合格発表日を繰り上げる要望が強く、人事院の担当者が、五九年二月末ころ、L2日経連雇用課長に対し五九年度の公務員試験の合格発表日を一〇月一日に繰り上げることについて検討を申し入れたところ、同課長からは、官庁側が就職協定の趣旨を尊重することを求められた。
そこで、この問題を担当していたG1人事院事務総局任用局企画課長(以下「G1人事院企画課長」又は「G1」という。)は、公務員試験の合格発表日の繰上げにつき民間企業側の了解を得るための方策として、官庁側が人事課長会議で就職協定の趣旨を尊重する申合せをすることを企図し、五九年三月九日、人事課長会議を主宰するI2内閣参事官兼内閣総理大臣官房人事課長(以下「I2内閣参事官」又は「I2」という。)及び優秀な学生の採用について産業界と競合する傾向の強い大蔵省と通産省の秘書課長とともに、L2日経連雇用課長と公務員試験の合格発表日の繰上げについて意見交換を行い、さらに、同月一六日には、日経連、日本商工会議所及び全国中小企業団体中央会の幹部による中雇対協幹事会にG1が出席して会談した結果、国の行政機関が就職協定の趣旨を尊重する申合せをすることを条件として、公務員試験の合格発表日を繰り上げることにつき基本的な了解が得られ、同月二一日、G2人事院事務総局任用局長(以下「G2人事院任用局長」又は「G2」という。)がL1日経連専務理事と会談し、経済団体側が公務員試験の合格発表日を繰り上げることを了承し、国の行政機関は就職協定の趣旨を尊重しこれに協力する旨の合意が成立した。
そして、五九年三月二八日の中雇対協にG1が出席し、公務員試験の合格発表日を繰り上げる必要性や官庁側の申合せの予定を説明して理解を求め、中雇対協(労働省を除く。)は、右繰上げを了承するとともに、五九年度も五八年度中雇対協申合せを継続することを決めた。
また、I2内閣参事官は、五九年三月二八日の人事課長会議において、「1求人求職秩序の維持のため、いわゆる10―11協定に協力する。 2 このため、選考開始日は、11月1日であるとの認識の下に10月1日前の学生のOB訪問及び10月1日以降の官庁訪問に対しても協定の趣旨に沿った対応をするものとする。」という申合せをすることを提案し、同会議は、その旨の申合せをすることを了解した(以下「五九年度人事課長会議申合せ」ともいう。)。(〈証拠略〉)
6 官庁の青田買いに関する新聞報道
五九年四月二七日付けサンケイ新聞において、「通産省が“青田買い”」「東大へ官僚参上、『協定』踏みはずす」という見出しの下、同年三月二八日に人事課長会議申合せがなされたばかりであったにもかかわらず、同年四月二六日、東京大学において、通産省の官僚が国家公務員試験説明会の名目で翌春卒業予定の工学部学生を対象とする就職説明会を開いた旨報道された。
右報道を受けて、人事院では、通産省秘書課長から事情を聴取した上、五九年五月九日の人事課長会議において、人事院任用局企画課長が、各大学から就職説明会へ職員の派遣要請を受けた場合に、役所として要請を公的に受け止め、職員を派遣し、職員の出席を仲介することは適当でないと考える旨の発言をし、文部省大学局学生課が、同月一〇日、就職問題懇談会就職協定遵守委員会名で、各大学就職事務担当部局長に対し、五九年度人事課長会議申合せに従った就職事務を行うように求める依頼文書を発出した。
ところが、五九年五月二七日には、サンケイ新聞において、「労働省 率先垂『犯』?!青田買い」、「京大でOBが説明会」という見出しの下、同月二六日、京都大学において、同大学OBの労働省官僚二人が翌春卒業予定の学生の主催した「労働省京卒OBとの集い」名目の就職説明会に現れ、三時間にわたって話をし、就職協定の遵守を指導していた労働省が自らフライングをした旨報道された。
(〈証拠略〉)
四 六〇年前半当時の就職協定を巡る状況
1 五九年度の就職協定の遵守状況
五九年度の就職協定は、経済全般の好況も一因となって、五九年八月下旬ころから企業側が採用活動に動くなど形骸化が進み、日経連が日経連の役員や会員企業を対象として行った調査では、就職協定が守られなかったという回答が九割近くありながら、就職協定を続けた方がよいとする回答が九割近いという結果が出た。また、同年一二月一〇日の就職問題懇談会においては、OBによる大学訪問が活発に行われたことや金融機関による学生の拘束が問題として指摘されたほか、日本銀行、大蔵省等が早く動いたことが口火になり、他の企業もそれに引きずられて内定が早期化したという実態があるので、人事院をはじめ、関係省庁、政府関係機関に協定遵守の協力要請を行ってはどうかという意見や、就職情報誌の学生に対する送付時期を四月下旬以降とするように労働省を通じて就職情報企業に要請してはどうかなどという意見も出された。
(〈証拠略〉)
2 六〇年度の就職協定とそれを巡るL1の発言
六〇年一月二一日の中雇対協においては、六〇年度についても、五八年度中雇対協申合せを継続することを決定し、大学等関係団体も、六〇年一月二八日及び二月一二日の就職問題懇談会において、五四年度大学側申合せを継続して実施することを決定し、文部省は、前年度と同様に、就職協定の遵守確保のための措置を執り、労働省も、各都道府県知事、任用を担当する国の機関の長、主要就職情報出版企業等に対し協力を求める依頼文書を発した。
しかし、中雇対協の会合後に行われた記者会見において、中雇対協座長であるL1日経連専務理事は、「私は本件について完全に熱意を失っております。一〇―一一月協定が守られなかったと思われる方が全体の九割、しかも、昭和六一年三月卒業の諸君についても一〇―一一月協定を続けろとおっしゃる方が全体の九割。このように矛盾した結論の出てきた最大の理由は、一〇―一一月協定をやめたら、より一層混乱するからというにあるようです。『より一層混乱する』というのはどういう情況をさしていられるのかわかりませんが、おそらく学生の就職活動、企業の採用内定ないし内々定が昭和五九年の場合よりもっと早くなることをさしていられるのではないかと思われます。一〇―一一月の紳士協定をしておきながらそれを守らず二ヶ月、三ヶ月前に就職内定のことがいわれるのは普通の『混乱』であり、それが四ヶ月、五ヶ月前に行われるのは『より一層の混乱』であるという認識には私は同調いたしかねます。しかし、日経連も商工会議所も中小企業団体中央会も、傘下企業にサービスすることを目的としています。傘下企業の九割が一〇―一一月協定を作れといわれれば、サービス団体として『ノウ』とはいえません。その意味において、昭和六一年三月卒業の学生諸君の会社訪問開始日は昭和六〇年一〇月一日、就職試験開始日は同年一一月一日ということを中央雇用対策協議会の決定ということにして頂きました。全体の九割の方が希望していられる通りに決定をみたわけですから、各企業人事担当者はその良心の一かけらでもこの決定の上にそそがれることを望みます。昭和六二年三月以降卒業の大学生の就職問題についてどうしたらよいかは、この決定の実施状況をみてから、中央雇用対策協議会のメンバーにおいてじっくり考えて頂きたい―本問題を中央雇用対策協議会においてとり扱うのが適当であるのか否かも含めて―ということを、とくに座長の私から皆さまに要望しておいたことをつけ加えます。」と発言し、翌日の新聞各紙でその旨報道された。
さらに、六〇年三月一四日にリクルートが開催した「今年度の就職協定と採用」と題するセミナーでは、①L2日経連雇用課長が、五九年度には、従来と異なり、大学側に一〇月一日前の学生のOB訪問自粛を強く要請し、官庁側に就職協定の遵守へ向けた協力を決めてもらうなどの取組みをしたが、日経連の調査結果では就職協定は守られていないという回答が九割近くあり、来年度以降は今年度の状況を見た上、本当に就職協定が必要なのか、中雇対協で決めることが適当なのかを考えてもらうことになっており、就職協定の存続はひとえに今年の就職協定の遵守にかかっているといってもよいと思う旨の発言をし、②X日本大学就職部課長が、五九年度にはいわゆる官公庁問題を含めて条件整備をしたが、結果的には惨敗であり、早期化に火を付けたのは、中央官庁が夏以前に国家公務員上級職の選考に動き出したことである旨の発言をし、③L2日経連雇用課長が、官庁に対する指導こそが最も必要な環境整備の仕事であると思われるので、五九年度同様に人事管理官会議で申合せが行われ、就職協定の遵守の徹底が図られるように、文部省及び労働省の努力をお願いしたい旨の発言をした。(〈証拠略〉)
3 人事課長会議申合せ
六〇年四月一〇日の人事課長会議においては、人事院任用局企画課長から、連絡事項として、六〇年度における中雇対協及び大学等関係団体の就職協定の内容が紹介され、官側としても産業界及び大学等と同様、五九年三月二八日の人事課長会議における申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めていただきたいと考えているので、よろしく協力をお願いしたい旨の発言があり、これが了承された(以下「六〇年度人事課長会議申合せ」という。)。(〈証拠略〉)
4 官庁の青田買いに関する新聞報道
六〇年六月一五日付けサンケイ新聞において、「通産省が“青田買い”居酒屋に東大生46人」という見出しの下、東京大学出身の通産省の官僚が同月一四日に東京大学付近の居酒屋で東京大学法学部と経済学部の翌春卒業予定の学生を対象とした就職説明会を開いた旨報道された。
(〈証拠略〉)
五 臨時教育審議会における審議等
1 臨時教育審議会の設置
内閣は、五九年の第一〇一回国会に臨時教育審議会設置法案を提出し、I3(以下「I3」という。)総理大臣は、同年八月の参議院内閣委員会における同法案審議の際の質疑において、臨時教育審議会(以下「臨教審」という。)を総理大臣が直接管理する機関として設置する理由につき、総合的な広い視野に立ち、内閣総がかりで行おうという気迫と念願に立って行おうとしているのであり、例えば、大学教育の改革の中では卒業生を受け入れる社会の問題が大事であり、就職の際の青田刈りや学歴偏重から来る大学教育のひずみなどを改革するためには内閣全体の力がなければできにくいから、強い意志を持って徹底した改革を行うために、各省や各国務大臣の全面的な協力体制を作っていこうという考えに立って総理の直属とするものである旨答弁した。
同法案はその後成立し、五九年八月二一日、教育制度の改革について調査し、審議するための機関として臨教審が総理府に設置され、同年九月五日の第一回総会において、I3首相から、我が国における社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現を期して各般にわたる施策に関し必要な改革を図るための基本的方策について諮問された。
(〈証拠略〉)
2 臨教審における審議
臨教審においては、五九年一〇月の総会で四つの部会を設け、そのうち第二部会において社会の教育諸機能の活性化を審議事項とし、「学歴偏重の是正(雇用慣行、資格制度など)」をその検討課題例とすることを決め、また、六〇年一月の総会で同年五月ないし六月をめどに第一次答申を取りまとめることなどを決めた。
第二部会は、六〇年一月以降、学歴社会の問題を取り上げて審議を進めたが、同年三月ころには、我が国は、社会の変化に伴い、実態としては諸外国に比して一概に学歴社会とはいい難くなっているが、社会には学歴社会意識が根強くあり、就職等の場合に有名校重視の傾向が残されていることも事実であるという現状認識の下に、官公庁、企業等の採用方法等の検討が学歴社会を是正する方策の一つとして必要であると確認された。なお、第二部会の審議の過程では、文部省高等教育局が学生課長に対するヒアリングの際の発言や書面の提出等により、就職協定の概要、経緯、遵守状況や文部省の施策等を説明し、青田買いの問題点や大学側、企業側双方の参加による就職協定の内容改善等のための委員会を設置する必要性を指摘するなどした。
(〈証拠略〉)
3 臨教審の第一次答申における青田買い問題への言及
臨教審は、部会及び総会における審議を重ねた上、六〇年六月二六日、教育改革に関する第一次答申をI3首相に提出したが、同答申では、「学歴社会の弊害の是正のために」の項目において、「企業・官公庁においては、採用、評価などの人事管理において多様な能力が評価されるよう、次の諸点にわたり、一層積極的に努力していくことが望まれる。」とし、その第一点として、「特色ある教育を行っている学校を適切に評価し、また、有名校の重視につながる就職協定違反の採用(青田買い)を改め、指定校制を撤廃するなど就職の機会均等を確保するとともに、特定の学校に過度に偏らない、多様な学校からの採用」が挙げられた。
(〈証拠略〉)
第二 リクルートと就職協定
一 リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業
1 新規学卒者向け就職情報誌事業の概要
リクルートの行う新規学卒者向け就職情報誌事業は、民間企業等から掲載料を得て、大学等卒業予定者向けの企業案内や求人案内という広告類を情報として掲載した就職情報誌を発行し、これらを大学等卒業予定者に無料で配布することを主な内容とする広告事業である。
同事業は、第一章第一の一、二1のとおり、創業期に創刊した「企業への招待」(四四年に「リクルートブック」と改題)を母体とするもので、就職を希望する大学等卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体として広く知られるようになって、リクルートの基幹事業になり、五八年ないし六〇年当時も、「日本のビッグビジネス」、「日本の実力派企業」、「成長企業の研究」、「産業研究編」、「就職情報編」、「会社おもしろカプセル」、「リクルート速報」、「とらばーゆ短大生特集」、「とらばーゆ女子大生特集」、「とらばーゆ速報」や、地域ごとの「ローカル産業研究編」、「ローカル就職情報編」等、多種類の媒体(リクルートでは、これらを総称して、「リクルートブック」又は「RB」と呼んでいた。)を発行し、業界で圧倒的に高い市場占有率を有して、多額の収益を上げており、依然としてリクルートの基幹事業の地位を占めていた。
各媒体は、時期に応じて内容や対象者を異にするものが発行されており、例えば、五八年度のリクルートブックは、三月に大学三年生を対象とする「日本のビッグビジネス」を、五月に「産業研究編」及び「魅力の実力派企業」を、五月、六月に「成長企業の研究」を、六月に技術系向けの、九月に事務系向けの各「就職情報編」を、九月に「とらばーゆ女子大生特集号」及び「とらばーゆ短大生特集号」の配本を予定し、概ねそのとおり発行・配本したほか、さらに、追加募集用の媒体として、九月から一一月ころにかけて「リクルート速報」(首都圏では旬刊)等を発行・配本した。また、六〇年度も、大学三年生を対象にして、一月に「会社おもしろカプセル」を、三月に「日本のビッグビジネス・就職情報編」を、大学四年生になると、四月に「産業研究編」を、五月、六月、七月に「成長企業の研究」を、四月、五月、六月、七月、八月に「テクノビジネスの研究」及び「会社研究速報最新企業情報」を、六月に理科系向けの、九月に事務系向けの各「就職情報編」をそれぞれ予定配本時期とし、九月上旬から一一月上旬まで週刊の「リクルート速報(関東版)」等の発行を予定していた。
なお、例年、文部省大学局長から就職情報出版企業宛に、採用予定人員、初任給その他の労働条件及び採用方法を掲載した企業案内書の学生に対する送付は一定の日(五九年の場合で九月一〇日)以降とするように求める依頼文書が送付されていたことから、リクルートでも、これに従って、右期日前に配本する就職情報誌にはこれらの項目を掲載せず、企業イメージの広告を主な内容としていた。
五八年ないし六〇年当時、同事業の業務のうち、民間企業等からの求人広告の受注や新規学卒者向け就職情報誌の製作は広告事業本部(五六年一一月に従来の営業本部から改称したもの)が担当し、大学生等に対する配本業務は事業部が担当していた。ただし、六〇年一〇月以降、事業部は広告事業本部内の一部門になった。
営業本部や広告事業本部長は取締役が充てられ、五一年一二月から五九年一〇月まではR6、その後はR15が担当取締役であった。
事業部にも担当取締役がおり、四七年一二月から五七年一一月までR8、五六年一二月から五九年一〇月末までR6、その後はR15が担当取締役であり、六〇年八月からはR7も担当取締役になった。ただし、R6は、五九年一〇月末に事業部担当を外れた後も、後記本節第二の三1の職安法改正問題対策プロジェクトチームの活動が継続していた関係から、六〇年三月ころまでは事業部の仕事に関与していた。
(〈証拠略〉)
2 弁護人の主張について
弁護人は、五八年ないし六〇年当時、新規学卒者向け就職情報誌事業の売上げと利益がリクルート全体の事業の中で持つ営業上の意味は大きくなかった旨主張し、その根拠として、リクルートにおける第二三期(五八年)の売上げは約一〇一一億円、広告事業本部の売上げは約三九四億円であったのに対し、大学生向けリクルートブックの売上げは約一一三億円であって、広告事業本部の売上げの約二九パーセント、リクルート全体の売上げの約一一パーセントにとどまり、第二四期(五九年)でも、リクルート全体の売上げは約一一八六億円、広告事業本部の売上げは約四七四億円であったのに対し、大学生向けリクルートブックの売上げは約一六九億円であって、広告事業本部の売上げの三六パーセント弱、リクルート全体の売上げの約一四パーセントを占めるにとどまり、利益の点でも、広告事業本部全体の利益は、第二三期が五二億円余り(会社全体の利益の39.4パーセント)、第二四期が七九億円弱(同54.1パーセント)であったところ、大学生向けリクルートブックによる利益は、売上高に対応して広告事業本部の利益の三分の一程度とみられ、リクルート全体の利益の二〇パーセント以下とわずかであった旨指摘する。
確かに、リクルート企画室作成の第二三期及び第二四期の広告事業アニュアルレポート(弁書1二七、二八)によれば、売上高については弁護人指摘のとおりと認められるが、三分の一程度という数値は、「わずか」などというものではなく、むしろ多大なものというべきである。
また、利益に関しては、各アニュアルレポート中で実原価率の計算もなされているところ、その原価率は、第二三期では、大学生向けリクルートブックは28.6パーセント、高校生向けリクルートブック(売上高は大学生向けリクルートブックの一六パーセント程度である。)は36.0パーセント、企画商品(リクルートブックと並ぶ広告事業本部の主要商品であり、売上高ではリクルートブックを上回る。)は61.8パーセントと分析され(弁書1二七の一二、一三頁)、第二四期でも、大学生向けリクルートブックは27.0パーセント、高校生向けリクルートブックは36.0パーセント、企画商品は71.3パーセントと分析されている(弁書1二八の一二、一三頁。なお、甲書2八〇八〔リクルートの第二四期営業報告書〕でもほぼ同様である。)。このことからすると、大学生向けリクルートブックによる利益が売上高に対応して広告事業本部の利益の三分の一程度とみられる旨の弁護人の主張は誤っており、むしろ、大学生向けリクルートブックの原価率の低さ(収益率の高さ)が広告事業の高利益を支える重要な要素になっていたことが明らかである。さらに、広告事業の利益がリクルート全体の利益中に占める割合が、第二三期で約39.4パーセント、第二四期で約54.1パーセントと非常に高く、他の事業部門を圧倒していたこと(弁書1二七、二八。甲書2八〇八でもほぼ同様である。)からすれば、大学生向けリクルートブック、すなわち新規学卒者向け就職情報誌事業の高利益がリクルート全体の高利益を支える重要な要素になっていたということができる。
したがって、新規学卒者向け就職情報誌事業がリクルートの行う諸事業の中で、売上げ及び利益の両面、とりわけ利益の点で、基幹事業の地位を占めていたと評価することができるのであり、その営業上の意味が大きくなかったなどということはできない。
3 リクルート事業部の概要
(一) 主な事業部関係者
事業部の部長は、五六年四月から六〇年六月までR22(本章及び次章中に限り、以下「R22」という。)であり、同年七月からは、R22の前任者であったR7が同部長に復帰した。
R9(以下「R9」という。)は、五六年四月から、出版部業務課長との兼任で事業部事業課長を務めた後、五七年八月から六〇年二月まで事業部次長(五八年九月までは事業課長兼任)の地位にあった。
また、R11(本章において、以下「R11」という。)は、五九年四月から六〇年六月まで同部付課長、同年七月から六一年一二月まで同部次長を勤めており、R10は、五五年八月からの同部事業課勤務を経て、五八年一〇月から同課課長代理、五九年四月から同部付課長代理、六〇年一月から六一年三月まで同部事業課長であった。
(〈証拠略〉)
(二) 事業部の課題
事業部では、五八、五九年当時、①リクルートブック等のリクルート発行の媒体を的確に学生の元に届けること、②学生及び学校側のニーズや動向を的確にとらえて、営業部門に情報提供し、企画に反映すること、③リクルートの事業環境を整えるために、「対学校・行政リレーションをとる」ことが事業部の役割であると認識しており、五八年度は、「攻めのリレーション作り」の一環として労働省及び文部省に対する影響力を強化することを年度の課題の一つとし、五九年度は、就職協定を遵守するための働きかけを課題の一つとし、六〇年度も、就職協定の遵守及びグッドウイルを獲得するための大学・行政・経済団体とのリレーション強化を年度の方針の一つとしていた。
(〈証拠略〉)
二 リクルートの事業と就職協定との関係
1 認定事実
(一) 新規大学等卒業予定者が就職協定による求人企業との接触開始日前に求人企業に関する情報を得ようとするには、企業から直接情報を入手することが困難であるため、リクルートブック等の新規学卒者向け就職情報誌が活用されることになり、したがって、就職協定が存在し、遵守される場合には、就職希望の新規大学等卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体としての就職情報誌の価値が高まる。一方、就職協定が廃止され、あるいは遵守されない場合には、求人企業と新規大学等卒業予定者とが早い時期から接触して採用活動や就職活動をするようになり、その結果、両者間の媒体としての就職情報誌の価値は低下し、就職協定が遵守される場合と比較して、求人企業から入る広告料等の収入が減少する可能性が高い。
(二) また、リクルートでは、例年、本節第二の一1のとおり、時期に応じて多種類の異なる内容の就職情報誌を発行・配本していたが、これらは、就職協定による接触開始時期や採用選考時期を踏まえて、製作スケジュール等の事業計画を策定し、事業を遂行していた。したがって、就職協定が廃止され、あるいは遵守されない場合には、多種類のリクルートブックの計画的な発行・配本の業務に重大な支障を来すことが懸念される状況にあった。
(三) さらに、五九年一月、R6らが労働省職安局業務指導課長であったC1から、①新規学卒者向け就職情報誌が就職活動の早期化の要因になっていると指摘する者がおり、②九月一〇日以前に発行されているガイドブックも募集文書とみなさざるを得ず、③新聞関係者からガイドブックが事前に配布されているのを規制すべきであるという申入れがある旨の話をされたこともあった。
(四) このため、被告人を含むリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、同事業に右(一)、(二)のような悪影響を来し、さらには、大学等卒業予定者に対する就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、この種就職情報誌に対する法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していた。
(〈証拠略〉)
2 右認定の補足
(一) 弁護人は、右1(一)に関し、①就職協定が乱れるのは、好景気で企業の採用意欲が高まる時期であるから、リクルートブックの売上げは、減少するどころか、むしろ増大する関係にあり、②就職協定が乱れる六月ころには既にほとんどのリクルートブックの営業が終了しているから、その乱れは売上げの大勢に影響を及ぼさないし、③そもそも、リクルートブックの利用価値は、情報の発信者と受け手とを結ぶ就職情報専門誌としての経済性と効率性にあり、就職協定とは無関係である旨主張し、被告人も、公判段階において、就職協定の存続及び遵守とリクルートブックの売上げとの間に相関関係はなく、むしろ、好景気の時期には、就職協定が乱れるとともに、大学生の就職に関する情報サービスの需要が増えて、売上げが増える旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、関係証拠によれば、被告人らは、五九年一月一八日のリクルートのじっくり取締役会議において、五九年度の就職協定につき、就職協定が乱れることはリクルートの事業にとって大変不利であり、少なくとも前年並みの遵守を関係者に働きかける必要があることなどを話し合い、しかも、その要旨を経営情報を記載した「RMB」と題する幹部職員向け社内誌(以下「RMB」という。)に掲載して幹部職員に対する周知を図っていたほか(〈証拠略〉)、被告人が六〇年六月一四、一五日のリクルートの全社部次長会で幹部職員を対象にスピーチした際、広告事業に関し、民間企業の採用意欲は非常に旺盛であるという新聞記事や通産省が青田買いという新聞記事があって、就職活動の早期化が進むのではないかという懸念があるが、就職活動の早期化が進むと、商機が短くなり、事務系の採用活動時期が九月まで延びる場合と延びない場合とではおそらく一〇億円程度売上げが違う旨話していたこと(〈証拠略〉)が認められるのであり、これらの各事実からすると、被告人らが、就職協定が遵守されない場合には、それが遵守される場合と比較して新規学卒者向け就職情報誌の売上げが減ると認識していたことは明らかであり、これに反する被告人の公判段階における右供述は信用することができない。
確かに、弁護人が主張し(右①)、被告人が供述するとおり、好景気で企業の採用意欲が高まる時期には、リクルートブック等の新規学卒者向け就職情報誌に対する需要が高まるとともに、就職協定に反する早期の採用活動が行われやすいという面はあると考えられるが、その場合でも、「就職協定が乱れることでリクルートブックの売上げが増加する」という関係にあるわけではない。むしろ、被告人が六〇年六月にスピーチしたとおり、企業の採用意欲が旺盛な時期でも、就職協定が遵守されれば、遵守されない場合と比較して、新規学卒者向け就職情報誌事業の商機が長くなり、より一層の売上げ増が見込めるのは、至極当然のことであり、弁護人の右①の主張や、それに沿う被告人の右供述は、右1(一)の認定を左右するものではない。
なお、R6も、被告人の公判段階における右供述に沿う証言、すなわち、就職協定が乱れる場合には前倒しで一月や二月から受注活動することで対処するので、年間を通じた売上げは減少しない旨の証言をするところ(〈証拠略〉)、一月や二月の段階で、翌年の卒業予定者に関する就職協定が乱れるかどうかを予測することは容易ではないし、他方で、就職協定が遵守されずに就職・採用活動が事実上活発化した段階で計画よりも前倒しして受注しようとしても、その状態になれば、もはや多くの企業にとって十分な広告効果が期待できず、就職協定が遵守された場合と比して売上げが減少することは当然に予想されることであるから、R6の右証言も不合理というべきである。
(二) 本節第二の一1のとおり、例年、文部省大学局長から就職情報出版企業宛に、採用予定人員、初任給その他の労働条件及び採用方法を掲載した企業案内書の学生に対する送付は一定の日(五九年の場合で九月一〇日)以降とするように求める依頼文書が送付されていたところ、弁護人は、採用予定人員等の募集要項を掲載したものはごく一部であり、リクルートブックの八割程度はこれらの項目を掲載しないものであるから、就職協定の制約を受けずに自由に発行・配本をすることができた上、その企画立案も配本時期を含めて就職協定と無関係に決定されていたから、就職協定が事業に及ぼす影響は小さかった旨主張する。
確かに、関係証拠によれば、リクルートブックのうち、「会社おもしろカプセル」、「日本のビッグビジネス」、「リクルートブック産業研究編」、「成長企業の研究」等、募集要項を掲載せずに企業イメージの広告を中心とする就職情報誌が大きな割合を占めており、それらが九月一〇日より前に多種類発行されていたことは認められるが、それらの各種リクルートブックが企業と学生とを結ぶ媒体として高い価値を有していた理由は、まさに、就職協定によって求人する企業と求職する学生との接触が一定の時期まで禁止されていたからである。したがって、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の中で募集要項を掲載しない就職情報誌の占める割合が大きかったことは、リクルートにとって就職協定の存続及び遵守が重要でなかったとする理由にはならない。
(三) 弁護人は、さらに、右1(三)に関連して、就職情報誌に関する法規制は言論出版の自由との関係で実現不可能なものであるから、その懸念を表すリクルート関係者の供述に現実味はない旨主張する。
しかし、R6が、右1(三)のとおり、五九年一月、労働省の担当課長から、新規学卒者向け就職情報誌に対する法規制の可能性を示唆する話をされて、取締役会にもその旨報告していたことは関係証拠(〈証拠略〉)から明らかであり、弁護人の右主張には理由がない。
(四) 他方、①文部省大学局長、高等教育局長や文部事務次官であったD3(以下「D3」という。〈証拠略〉)、L2日経連雇用課長(〈証拠略〉)、文部省高等教育局学生課課長補佐であったD4(〈証拠略〉)、労働省職安局業務指導課職員であったC2(〈証拠略〉)は、いずれも就職協定の実務に深く関与した立場から、新規学卒者向け就職情報誌は就職協定による接触禁止期間中の大学卒業予定者と求人企業とを結ぶ媒体として利用価値がある旨証言し、②リクルートの者も、捜査段階において、広告事業本部長であったR6(〈証拠略〉)、事業部長であったR7(〈証拠略〉)、事業部事業課長代理、同課長等を歴任したR10(〈証拠略〉)、古くからの役員であったR5(〈証拠略〉)がそれぞれ右1の認定に沿う供述をし、公判段階においても、事業部次長であったR9(〈証拠略〉)が右1の認定に沿う供述をするほか、R6(〈証拠略〉)が、就職協定が就職情報誌の発行・配本等の事業計画の前提となり、就職協定が遵守されずに採用が早く決まってしまうと、後半時期におけるリクルートブックの売上げ(企業からの広告料収入)が減少する事態はあり得た旨の供述をし、R5(〈証拠略〉)及びR7(〈証拠略〉)も、少なくとも就職協定と就職情報誌の発行・配本計画との関係及び就職情報誌が青田買いを助長しているという批判に対する懸念については、右1の認定に沿う供述をするところ、これらの者の各供述は、新規学卒者向け就職情報誌事業の内容に照らすと、合理的であり、信用することができる。
(五) したがって、被告人をはじめとするリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者が、右1で認定したとおり、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料等の収入が減少し、計画的な発行・配本業務に支障を来し、さらには、大学等卒業予定者に対する就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のために就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたことは、明らかというべきである。
(六) ところで、弁護人は、就職協定は学生の勉学環境を確保し、就職における学校間格差(学歴社会の弊害)を是正し、学生に機会均等を保証し、ひいては、企業の計画的で秩序ある採用活動に資することを目的とする社会的意義の大きいものであって、その存続及び遵守は社会の強い要請であり、国の方針でもあったことから、リクルートにおいても、学生の就職問題に直接かつ密接に関連するリクルートブックの配本という事業を営む企業の社会的責任として、公益的な見地から、就職セミナーや講演会を開催し、発行する雑誌に記事を掲載するなど、協定の啓蒙と遵守を呼びかける活動を行っていたのであり、営業上の利害得失からではない旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
しかし、仮に、リクルートにおいて、社会的要請に応じ、公益的な見地から就職協定の存続及び遵守に向けた活動をしていたという側面があったとしても、そのことと自社の事業の順調な展開を目的として就職協定の存続及び遵守に向けた活動をすることとは両立するものであり、公益的見地の存在は、右1の認定を左右するものではない。
三 五九年当時の就職協定を巡るリクルートの取組み
1 五九年前半の取組み
リクルートは、五八年度の就職協定に関し、じっくり取締役会議において、R8、R9及び社長室が担当して政治的アプローチを行うことを決めるなどし、その遵守に向けた対策に取り組んだが、五八年度の就職協定については、本節第一の三2のとおり、協定違反が随所に見受けられた上、五九年一月一三日には、L1日経連専務理事が就職協定をやめたい旨の発言をしたという新聞報道もあったことから、被告人らリクルートの経営陣は、五九年度の就職協定の存続及び遵守について強い危機感を抱くようになり、同月一八日のじっくり取締役会議において、五九年度の就職協定が乱れることはリクルートの事業にとって大変不利であること、少なくとも前年並みの遵守を関係者に働きかける必要があること、そのためにも政治的折衝力が大切であることなどが話し合われ、議論の結果、就職協定問題を「文部省マター」として、就職協定の遵守に文部大臣の協力をいただくように働きかけることを基本路線とし、R7及びR9を中心に文部省等の関係機関とのリレーションを担当する外交組織を設けることを決めた。
また、被告人は、実際に、五九年一月中にD2文部大臣に面会し、①文部大臣が就職協定の存続と秩序維持が必要であると考えており、文部省として協定遵守に向けて従前以上に積極的に取り組んでいきたい旨の発言をすること、②協定の実効を期すために、就職問題懇談会の下部機構である協定遵守委員会に日経連や人事院等の参加を呼びかけて、同委員会の拡大強化を図ること、③文部大臣が就職協定正常化に深い関心と熱意を持っていることを担当局長と課長に表明することなどを求める書面を交付して、その旨の陳情をした。
その後、五九年一月末ころの取締役会において、事業部担当取締役のR6、前事業部長で当時社長室長のR7、事業部長のR22、事業部次長のR9らで職安法対策プロジェクトチームを結成し、当時の職業安定法(以下「職安法」という。)改正論議の中で持ち上がっていた就職情報誌一般に対する法規制問題に当たらせるほか、R7やR9を中心にして、右プロジェクトチームのメンバーに就職協定に関連する情報収集や対応策の策定にも当たらせることを決めた。
以後、これらの者がL2日経連雇用課長らから就職協定に関する情報を収集し、その情報は、適宜、取締役会に報告され、議論の対象とされた。また、リクルートの幹部自身も、五九年二月六日、被告人がR6、R22及びR9とともに、都内の割烹「子」でD3文部省大学局長、D1文部省学生課長らを接待し、同年三月一四日にも、被告人がR8、R12及びR6とともに、同店で同局長、同課長らを接待し、同月二五日には、R6、R22らが同局長、同課長らをゴルフに接待して、就職協定を巡る問題等につき情報収集や意見交換をした。
(〈証拠略〉)
2 その後の取組み
リクルートでは、その後も、就職協定に関する情報収集を続け、五九年八月二三日には、R6、R9及びR11がD1文部省学生課長やL2日経連雇用課長らと就職協定に関して懇談し、その際、大蔵省が同月一三日から動き出したことに起因して都市銀行の一本釣りが始まる気配であること、日銀が同年七月ころにほとんど絞り込みを終了しており、一番の問題企業であることなどが話し合われた。
また、R10は、五九年一二月一〇日に文部省が就職問題懇談会を開催した当日かその翌日、D1文部省学生課長から六〇年度の就職協定に向けた大学側の検討状況や就職協定の遵守に関する問題点等を聴取して、リクルート内の関係者に報告した。
(〈証拠略〉)
四 六〇年度の就職協定を巡るリクルートの取組み
1 六〇年一月二三日ころの取締役会における決定
被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、六〇年一月二一日になされたL1日経連専務理事の発言(本節第一の四2)を受けて、就職協定が廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、同月二三日ころの取締役会において、六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審の関係者に右方向で働きかけをする旨合意した。
なお、「1/23T会議決定事項」と題する書面(甲書1五二〇)は、R6がR10に指示して右取締役会における決定事項を書き取らせたものであるが、同書面には、「協定(決め手なし)」の表題の下で、「① 経済三団体中心にテコ入レ 特に、日商、中央会とのリレーションを強め、会合の場においての発言力を高めてもらい、L2課長を鼓舞させる。」「② 文部大臣とのトップリレーションを深め(甲野、R6T)、協定への関心を深めてもらう。(大学での成績が就職先と深く関係させ、大学で勉強させるようにする 臨教審と協定との関係)」、「③ 就職協定セミナーはタイミングをみて実施する。(東京、大阪) 今年の採用戦線と協定とのような形にすることも考える」と記載されている。
(〈証拠略〉)
2 六〇年三月ころまでの取組み
R6は、右方針を踏まえて、そのころ、文部省にD6文部大臣(以下「D6文部大臣」という。)を訪ねて、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明し、臨教審で議論の対象として取り上げてほしい旨陳情した。
また、被告人は、六〇年一月二一日、臨教審第四部会において、「学歴と雇用について」と題して意見を述べ、学歴社会は世に言われるほどはっきりとした形では存在せず、激しくはないこと、むしろ、社会への入口の段階で「学校歴」の問題が激しいこと、民間企業が大学卒業予定者を採用する過程では、一〇月一五日以降でないと学業成績が出されないため、面接重視にならざるを得ないこと、採用試験が早期化しているのは事実であり、就職協定を遵守する方向を採るか、就職試験の時期を後にずらすことによって、大学における学業成績が就職の際に重視される度合いが現在よりも高まり、大学生は従来よりも勉学に励むようになるはずであることなどの見解を示し、同年二月二七日、臨教審第二部会のヒアリングにおいて、「学歴社会について」と題して意見を述べ、我が国の産業界では、大学の大衆化に伴って有名大学卒を重視する風潮は少なくなり、高卒者と大卒者の生涯賃金の差は小さく、昇進面でも実力主義の人事管理をしようとする企業の姿勢があるなど、学歴社会の問題は少なくなっているが、企業の採用の段階では、大学における成績を参考にせず、有名校を重視した採用をしており、その理由の一つとして、就職協定により大学は一〇月一日以降でなければ企業に紹介状を出さないのに、事実上は一〇月一日までに多くの採用を決めており、そのため企業が成績を見ることなく採用を決める実情にあることなどを指摘した。
さらに、リクルートでは、就職協定が遵守されるようにするための一方策として、六〇年三月、東京及び大阪で就職協定セミナーを開催した。
(〈証拠略〉)
3 その後の取組み
リクルートでは、六〇年四月から六月にかけても、事業部を中心に、学生や企業の就職・採用活動の状況、就職協定の遵守に向けた公式、非公式の各種会合の状況、臨教審で青田買い問題が取り上げられたこと、青田買いに関する新聞報道等について情報収集活動を続け、重要な情報は被告人にも報告された。
(〈証拠略〉)
第二節 判示第一の事実(乙山に対する贈賄事実)について
第一 前提又は背景となる事実関係
一 乙山の経歴、職務権限等
1 乙山の経歴と五九、六〇年当時の地位
乙山は、早稲田大学第一商学部を卒業後、三重県議会議員等を経て、四二年一月の衆議院議員総選挙で当選し、以後連続して当選を重ね、五九年ないし六一年当時も衆議院議員の地位にあった。
乙山は、自由民主党(以下「自民党」という。)に所属し、衆議院議員当選後、科学技術政務次官、文部政務次官、自民党文教部会長、政策集団新生クラブ座長、自民党政務調査会副会長、労働大臣、自民党副幹事長等を歴任し、五七年一一月に内閣官房副長官に就任した後、五八年一二月二七日、I3を総理大臣とする内閣において、国務大臣に任命されるとともに内閣官房長官を命じられ、六〇年一二月二八日までその職にあった。
(〈証拠略〉)
2 乙山の内閣官房長官としての職務権限
乙山が内閣官房長官の職にあった当時、内閣官房は、内閣に置かれ、「閣議事項の整理その他内閣の庶務、閣議に係る重要事項に関する総合調整その他行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整及び内閣の重要政策に関する情報の収集調査に関する事務を掌る」ものとされていた(当時の内閣法一二条一、二項)。また、内閣官房長官は、内閣官房に一人置かれ、国務大臣をもって充てられる官職であって、「内閣官房の事務を統轄し、所部の職員の服務につき、これを統督する」ものとされている(内閣法一三条一ないし三項)。
3 乙山の事務所及び秘書
五八年一二月に乙山が内閣官房長官に任命された際、古くからの乙山の秘書で、それまで公設第一秘書であったA1(以下「A1秘書」又は「A1」という。)が官房長官秘書官(政務)になり、A1は、乙山が六〇年一二月に内閣官房長官を離任した際、乙山の公設第一秘書に復帰し、六一年九、一〇月当時もその職にあった。
乙山は、五九年ないし六一年当時、地元及び衆議院第二議員会館(本節中に限り、以下「議員会館」という。)内の事務所のほか、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の○○永田町○○ビル(以下「○○ビル」という。)八〇七号室(ただし、六〇年八月一日以降は六〇二号室に変更した。)に東京事務所を構え、同事務所では、事務所の責任者であったA1のほか、私設秘書であったA2(以下「A2秘書」又は「A2」という。A2は、A1の官房長官秘書官在任中は公設第一秘書であった。)、A3(以下「A3秘書」又は「A3」という。)らが執務していた。
(〈証拠略〉)
二 被告人又はリクルートと乙山との関係
1 会合への出席等
リクルートは、乙山が五四年一一月に労働大臣に就任した後、五五年一月に開催した新春シンポジウムに出席を依頼して、「八〇年代の雇用問題を考える」と題する講演をしてもらい、その際、被告人が一緒に食事をして以降、乙山との関係を深め、五五年六月に開催した「創業二〇周年記念謝恩の集い」にも出席を得て、教育界と産業界とを結ぶリクルートの存在意義等に言及した祝辞を受けたほか、乙山が労働大臣を退任した後も、取締役会に招いて講演してもらい、六〇年四月に開催した「創業二五周年謝恩の集い」にも主賓として招待して出席を得るなどした。
また、被告人は、五七年ころ、日本青年会議所会頭を務めたA6から要請されたことなどを契機に、被告人個人名義、リクルートや関連会社名義で、乙山に資金提供をするようになり、五九年三月には、A6が中心になって日本青年会議所OBの若手経済人らで構成する乙山支援の会「a1会」に入会し、その会合に出席するなどして親交を深め、同年四月には、A6らも交えて乙山とゴルフをした。
さらに、R7らも、五九年六月一二日及び八月二日、議員会館の乙山事務所を訪問するなどして乙山との接触を継続していた。
なお、乙山は、六〇年八月、官房長官秘書官事務取扱を務めていた内閣事務官を介して、大蔵省主税局に対し、被告人を内閣総理大臣の諮問機関である税制調査会の特別委員の候補者とするように指示し、同年九月、同局は、右指示どおり、被告人を同委員に任命する手続をし、同月一二日に被告人が同委員に任命された。
(〈証拠略〉)
2 リクルート等から乙山に対する資金提供の状況
(一) パーティー券の購入、秘書の給与の負担
リクルートは、五五年五月ころ、乙山の俳句集出版記念の集まりのパーティー券数枚を購入し、五七年一〇月には、同年一一月二日に開かれる乙山の著書「○○」出版記念の集まりのパーティー券二〇〇枚(代金合計四〇〇万円)を購入した。
さらに、被告人は、五五年一一月ころ、乙山に対し、その秘書一人分の給与をリクルートで負担することを申し出て、その了承を得た上、五八年一月以降、三重県伊勢市の乙山一郎事務所で秘書をしていたA5を経理上リクルートの従業員として扱い、月額約一七万円(六月と一二月には別に賞与として二十数万円)をA5名義の銀行預金口座に送金するようになった。右送金は六一年四月まで継続され、翌五月以降も、同人をリクルートの関連会社である株式会社大西企画(同年一一月株式会社オー・エヌ・ケーに商号変更)の取締役扱いとして、月々約二〇万円ないし約二三万円(六月と一二月に別に賞与として二十数万円)を右口座へ送金し、六三年一二月に同人がリクルート関連会社の役員になっている旨の新聞報道がなされたことを契機に辞退を申し出たため、元年一月分の送金を最後として終わった。この間、同人がリクルートや関連会社で従業員や役員として仕事をした事実はない。
なお、リクルートは、同様の方法による資金援助を他の政治家に対しても行っており、このような架空職員を「非常勤S職」と称していた。
(〈証拠略〉)
(二) 後援会費等の支払
被告人は、五九年三月以降、右1の「a1会」の会費として年間四八万円を支払っていたほか、同年五月には、リクルートを乙山の政治資金規正法による届出団体である「a2会」に加入させ、以後年会費一〇〇万円を支払っていた。
(〈証拠略〉)
第二 五九年三月の請託の存在について
一 五九年三月一五日の被告人と乙山との会談
1 会談の事実
被告人は、五九年三月一五日朝、判示第一の二①のとおり、内閣官房長官公邸(以下「公邸」という。)を訪ねて、乙山と会談した。
(〈証拠略〉)
2 問題の所在
被告人は、捜査段階において、右1の訪問の際に乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方につき請託した旨供述している。
弁護人は、右訪問について、被告人は、八月上、中旬に実施される公務員試験の面接試験(第二次試験)で実質的な公務員の選考が始まり、一〇月一五日の合格発表直後から具体的な採用選考が行われる結果、就職協定による採用選考開始日が一一月一日である民間に比較して公務員の採用が優先されるという「官尊民卑」の状態になっていると考えるとともに、このような状況が民間企業や学生を浮足立たせ、企業に就職協定に違反する口実を与える原因にもなっていたことから、公務員試験の面接試験を民間の会社訪問解禁日の一〇月一日以降にするか、合格発表日を民間の選考開始日に合わせて一一月一日に繰り下げるべきであり、これと反対に合格発表日を一〇月一日に繰り上げることは、ますます公務員の採用が優先することとなり、就職協定の秩序に一層の混乱を与えることになると考え、かつ、日経連等も公務員試験の合格発表日の繰上げに異を唱えているものと考え、このような経済界の考えをどのような形で陳情すればよいかを官房長官として官庁組織に精通している乙山に相談するために訪問したものであり、実際にも、右訪問の際は、公務員試験の日程の繰下げを巡る問題を話題にしたにすぎず、官庁の青田買い防止の善処方について請託したことはない旨主張し、被告人も、公判段階においては、弁護人の主張に沿う供述をしている。
そこで、以下、右訪問の際の請託の有無に関する被告人の供述のほか、その前後の被告人、リクルート及び乙山の行動や、検察官が被告人による請託のフォローアップのためと主張する五九年三月二四日のR6らによる乙山訪問の状況等について検討し、判示第一の二①の請託を認定した根拠を説明する。
二 公邸訪問前にリクルート内部で公務員試験の日程等を巡って検討した状況等
1 リクルートの情報収集状況
リクルートでは、五九年三月中旬までに、事業部の幹部が中心になって、L2日経連雇用課長らから就職協定を巡る動向について情報収集をしたほか、以前に政治家の秘書をしていた関係でI2内閣参事官と面識のあったリクルート社長室の女性職員がI2内閣参事官に電話して、公務員の採用スケジュールに関する情報を収集するなどした。
また、R6は、五九年三月八日、リクルートが大阪で開催したリクルート採用セミナーの際、パネラーとして出席していたL2日経連雇用課長から、同人が公務員のことで翌日の法曹会館における会合に呼ばれているという話を聞いた。
(〈証拠略〉)
2 関連するリクルートの社内文書の記載
リクルート事業部で勤務していた女性が上司の指示を受けて清書した五九年三月一三日付け文書(甲書1五一〇)には、「本年度の公務員採用スケジュール、決定プロセス」の表題の下で、「3/14 各省、人事担当会議(実質的に決まる)」、「3/中旬〜下旬 産業界(中雇対)に根まわし」、「3/下旬 人事院、人事官会議にて試験、発表日等決定」等の日程に加えて、「注1 試験日程については既に決めており、会場及び二次試験の採点スケジュールとの関係から実質的に動かし難い」、「注2 日経連が人事院、大蔵、通産、総理府と極秘裏に折衝中(内容は二次試験発表を10/15から10/1に早める。そのかわり10/1以前の学生との接触を自粛する)」という記載がある上、「今後の対応」の表題の下で、「人事官に政治家ルートにより申し入れる」、「試験日程の繰り下げ(一次試験が無理なら二次試験だけでも)」、「10/1以前の学生との接触をやめる(OB派遣、官庁訪問学生のシャットアウト等)」と記載されている。
なお、右文書中で、「(実質的に決まる)」の「る」に抹消線が引かれて、「らなかった」と加筆され、「根まわし」の次に「3/21 L1―任用局長(G2)」と加筆されているが、これらは、R9が記載したものである。
(〈証拠略〉)
3 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R22、R7、R6、R5及びR8は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述(元年五月一三日付け検面調書・甲書1一五三)
「〔五九年〕一月中頃のL1発言もあって、当時、事業部内では、本当に就職協定がなくなるのではないかという心配が起き、危機意識を持っていた〔中略〕。」「事業部では、R7社長室長も加わって、五九年度の国家公務員上級試験の採用スケジュールを検討する中で、これも民間の就職協定に足並みを揃えてもらうようにして、官庁側を就職協定の中に実際上取り込む形にして、この民間の就職協定の危機を乗り切ることを検討したのでした。この考え方は、甲野社長の指示によるものであったのでした。この会議については、R6取締役、R22事業部長、R9事業部次長、R24事業部課長、R7社長室長、それに私も加わって何回か開かれて協議したもので、R22、R24あたりが日経連のL2雇用課長や人事院の担当者などから公務員試験のスケジュールや日経連の情報を収集してきたのでした。この中で、日経連では、人事院など主な省庁と根回しして、国家公務員上級試験の二次試験発表を従来の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げるとの官庁側の要望をのむことにし、その代り、一〇月一日以前の学生との接触を官庁側にも自粛させるとの方向でまとめる動きをしていることがわかりました。」「しかし、R6取締役やR7社長室長の話しでは、甲野社長は、逆に、この際、官庁側に二次試験の発表日を繰り下げて民間の就職協定に足並みを揃えさせるという徹底した改革をする必要があるという抜本的解決策を考えて、むしろ、その方向で内閣総理大臣ないし内閣官房長官に働きかけて、各省庁の人事担当者に青田買いをやめるように指示してもらい、同時に、国家公務員上級試験の二次試験発表日を就職協定に合わせて繰り下げるように申し合わせなどしてもらうということでした。この甲野社長の指示は、二、三月ころの取締役会で行われたということで、そのことは、R6取締役あたりから聞かされていたのです。」「この官庁側の日程のうち、一次試験の日程は変えられないとしても、二次試験についてはその発表日を就職協定の一一月一日に繰り下げようというのが甲野社長の指示であったのです。」「今見せてもらったの〔甲書1五一〇〕が昭和五九年三月一三日付けの書面ですが、これが今説明した事業部の就職協定に関する会議で検討されて、その決定された内容を私がまとめて起案し、これを当時庶務係をしていたR23さんに清書してもらったものでした。」「『今後の対応…』と記載のあるのが、先程述べた甲野社長の指示で、当時の取締役会で決定された基本方針をこのように確認したものです。ここで政治家ルートというのは首相官邸筋ということで、特に、各官庁を束ねる総元締めの当時の乙山官房長官を指し、人事官というのは人事院を考えていたものでした。R7社長室長も、『甲野社長はI3、乙山ラインにすでに親しくなっているので、そこに頼むのが一番いい。』ということを説明したのでした。甲野社長なり他の取締役などにおいて、乙山内閣官房長官に、各省庁人事担当課長会議において、国家公務員上級試験の二次試験の発表日を一〇月一日に繰り上げるのではなく、繰り下げることと、一〇月一日以前の学生との接触を禁止することの内容で申し合わせを行うように人事院などに働きかけてもらうというものでした。」「この文書には、宛名など入れてありませんが、これは時期的に急を要する事柄であることから、取締役会にかけずとも、一気にR7社長室長から甲野社長に上げられるようにしたものと記憶していますが、あるいは、そのころの取締役会議でこれが再確認されているかもわかりません。」
(二) R22の供述(元年四月二六日付け検面調書・甲書1一〇九一)
「見せて貰った書面〔甲書1五一〇〕は、プロジェクトチームの庶務であるR23の筆跡によるものです。当時のプロジェクトチームで話し合った内容を取締役会かあるいはR6担当取締役に宛て報告した文書ではないかと思います。このころのプロジェクトチームの会議に出席していたのは、私の他、R7、R9、R11、R10、R24らでありました。R6担当取締役も、時折出席しておりました。」「リクルートとしては、当時、公務員試験の日程の繰り下げと、民間の会社訪問解禁日である一〇月一日以前の段階における官庁による学生との接触の自粛を申し入れようと考えておりました。これらは、いずれも就職協定を遵守させるために、まず、官庁から採用活動の早期化を自粛して貰おうという考えに基づくものでありました。」「このような官庁の採用活動に関する申入れは、政治家を通じて行うことにしました。その政治家として考えていたのは、乙山官房長官でありました。」
(三) R7の供述(元年五月一五日付け検面調書・甲書1五七八)
「リクルートでは、L1発言などから、就職協定の存続に危機感をいだき、その後の取締役会であったと思いますが、『総理大臣あるいは官房長官にお願いして、各省庁の人事担当者に青田買い自粛を指導してもらうよう頼んだらどうか。』とか、『公務員試験の実施日を繰り下げてもらおう。』などということが話し合われました。」
(四) R6の供述(元年五月一五日付け検面調書・甲書1一三三)
「その年〔五九年〕の三月一〇日前後ころにリクルートの中の就職協定関連のプロジェクトの会議の中だったと思いますが、青田買いを防止するための対策について話し合いが持たれたと記憶しています。〔中略〕この文書〔甲書1五一〇〕については、当時見たというはっきりした記憶がないので、見ているのか見ていないのかはっきりしません。ただし、この書面に書いてある内容は、当時確かT会議などでも報告されていたと思われ、当時からよく承知していることだったのです。私が記憶しているところでは、民間企業の青田買いを防止するためには、官公庁の青田買いをやめてもらうことと、官公庁の公務員試験の実施を繰り下げてもらってはどうかということが問題になりました。」「日経連は、人事院、大蔵、通産などと極秘に折衝し、各省庁が一〇月一日以前に学生と接触しないようにして欲しいというお願いをしており、人事院などからは、その代りとして、公務員試験の発表を逆に一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることの了解を求められていたのでした。〔中略〕公務員試験の発表を繰り上げることについては、リクルートでは、そのまま認めるわけにはいかないと考えていました。そこで、リクルートとしては、政治家のルートによって政府に試験日の日程の繰り下げを申し入れることにしたのです。このような申し入れをしたときに、一〇月一日以前の学生との接触をしないという政府側の条件がくずれてしまう虞れがあるので、公務員試験の実施の繰り下げと一〇月一日以前の学生との接触を自粛することの二つを、リクルートとしては、日経連とは別に政府側に働きかけてゆくことにしたのです。〔中略〕各省の人事担当者を束ねる役所は総理府だと考えており、その総理府の長にお願いすれば、各省庁の人事担当者に一〇月一日前の学生との接触を自粛する指示を出してもらえることになると思われたのでした。総理府の中でこのようなことができる立場にいるのが総理大臣若しくは官房長官だというのが私達の認識だったのです。総理大臣については、余りにもしきいが高過ぎるので、リクルートに御理解のある乙山官房長官に公務員試験の実施日をずらすことと合わせてお願いすることになったように思うのです。〔中略〕政治家に対するこのようなお願いは、甲野とその直轄下にある社長室が行っているものと思われるのです。」
(五) R5の供述(元年五月一七日付け検面調書・甲書1一四二)
「この書類〔甲書1五一〇〕をそのころ見たかどうかは判りませんが、そのころの取締役会で、この件についての説明報告があったように思います。担当者ということから言えばR7で、責任者という意味では甲野ですので、その両名のどちらかからであったと思うのです。その話の要旨は、『青田買い防止のために、公務員の試験日程を繰り下げてもらうことと、各省庁に学生との接触を自粛してもらうことの二つが必要で、学生との接触を自粛してもらうという件については、日経連の方で極秘に人事院や総理府などと交渉中でありますが、試験日をずらす件については、政府の方から発表日を繰り上げると言われているので、リクルートでは、青田買いの自粛と試験日の繰り下げを乙山官房長官に陳情していきたいと思います。』という意味の内容だったと思うのです。乙山官房長官へのお願いは、甲野が行うか、甲野がまず道筋を作って、その指示で社長室長等が担当するのだと思いました。」
(六) R8の供述(元年五月一九日付け検面調書・甲書1一三一)
「その年〔五九年〕の三月中旬ころには、人事異動などの件で何回か取締役会が開かれており、その中で、確か甲野あたりから、就職協定問題について、政治家のルートを使って、上級公務員試験の実施日を繰り下げることと、官公庁の青田買いをやめてもらうことの二点について、政府に働きかけをしたいという報告がありました。〔中略〕その取締役会での説明では、日経連が秘密裏に政府側と交渉したところ、政府側では公務員試験の合格者の発表日を一〇月一五日から一〇月一日に早める条件を出してきて、それと引き換えに各省庁が青田買いを自粛するということになりそうだということでした。しかし、このような条件は、私達の公務員試験の実施日を繰り下げるという考えに逆行するものでしたので、そのために、公務員試験の実施日の繰り下げと各官庁の青田買いをやめていただくことの両方を政治家を使って働きかけるということだったのです。各省庁に青田買いをやめるよう陳情するのは、その人数から言ってもリレーションを作る時間的なものから考えても無理なので、各省庁間の取りまとめをしたり、各省庁に指示を出されたりする立場の官房長官にそれをお願いするという話になりました。試験の実施日を繰り下げる件は、直接には人事院のマターと思われましたが、やはり、このような立場にいて、しかも総理大臣の女房役であります官房長官に陳情するということでした。当時の官房長官は乙山一郎さんでした。この乙山先生は、〔中略〕リクルートの事業や就職協定問題についての良き理解者だということもあって、乙山先生にお願いするということになったと思いました。〔中略〕お示しの書類〔甲書1五一〇〕〔中略〕の中に書かれていることは、甲野から取締役会で報告されたのとほぼ同じであります。」
4 リクルート関係者の公判段階における各供述
これに対し、公判段階においては、①R10は、甲書1五一〇は事業部内における会議の際にアイデアとして考えたことを記載したものであるが、その後の幹部の対応は何も分からず、検面調書は検察官の誘導によって作成されたものである旨供述し(〈証拠略〉)、②R22は、リクルートとして、当時、公務員試験の日程の繰下げと一〇月一日以前の官庁による学生との接触の自粛が就職協定を遵守させるために重要であると考えていたことについては、調書にその旨の記載がある以上、検察官の取調べに対しそういう供述をしたと思うし、その二点を人事院の人事官に政治家の誰かから申し入れてもらうということであったと思う旨供述しつつも、リクルートとしてその方針を決定したか否か、政治家というのが乙山であったか否かについては覚えておらず、検察官の取調べ当時も覚えていなかったと思う旨供述し(〈証拠略〉)、③R7は、取締役会で検面調書に記載されたような協議がなされた記憶はなく、検面調書は検察官の誘導に従って作成されたものにすぎない旨供述し(〈証拠略〉)、④R6は、公務員試験の合格発表日の繰上げに向けた人事院等の動きは承知していて、リクルートではむしろ合格発表日を繰り下げる方がよいと考えて、その方向で動きがあったと記憶しているが、甲書1五一〇に記載された事柄を議論したこと、取締役会における報告や議論、働きかけの対象として乙山の名前が出たことについては記憶がなく、捜査段階における供述は検察官の誘導による部分が多い旨供述し(〈証拠略〉)、⑤R5も、甲書1五一〇記載の件について取締役会で議論した記憶はなく、右3(五)の検面調書は、検察官からいろいろな可能性を聞かれて、知らなかったことではあるが、そうかもしれないということで、その作成に応じたにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
5 考察
リクルート関係者の捜査段階における右3の各供述は、目指す方針が公務員試験の日程の繰下げなのか、合格発表日のみの繰下げなのかについて、必ずしも一致せず、混乱があるものの、リクルートにおいて、公務員試験の合格発表日の繰上げを巡る人事院と日経連との折衝状況を踏まえて、官庁の一〇月一日前の学生との接触禁止を乙山に陳情することをリクルートの基本方針とした点については一致しており、甲書1五一〇の記載とも合致するのであるから、信用性が高い。
これに対し、リクルート関係者の公判段階における右4の各供述は、甲書1五一〇の記載に照らすと、不自然である上、大部分の者は右3の各検面調書が検察官の誘導によって作成されたというのであるが、各人の述べるところは、公務員試験の日程の繰下げと合格発表日の繰下げのいずれを目指すのかという点の相違に加え、乙山に対し、右繰下げと併せて官庁の青田買い防止の善処方を働きかけることになった経緯や理由についても相違があるなど、各調書は必ずしも同様の内容ではないから、検察官の誘導のみで右のような調書が作成されたとは考え難いし、五九年三月当時、R10は事業部の課長代理、R22は事業部長の地位にそれぞれあって、事業部における実務の中核的立場にいた者であり、R7は社長室長の地位にあって、取締役会にも陪席し、就職協定に関する事項の検討にも参加していた者であり、R6は就職協定に関する事項を取り扱う事業部担当の取締役であり、R5は専務取締役として社長室等の事務を担当し、取締役会で議事進行を行うなどの管理事務を担当していた者であるのに、これらの者のいずれもが、公判段階において述べるように、公務員試験の合格発表日の繰上げ案へのリクルートの対応に関してよく知らなかったというのは、不自然であることからして、信用することができない。
6 小括
右1、2の各事実及びリクルート関係者の右3の各供述に加え、前節第二の二で認定した就職協定に関するリクルートの考え方や対応の経緯を総合すると、被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、五九年三月一三日までに、人事院が公務員試験の合格発表日を従前の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることを企図して日経連と折衝しており、交渉に当たっていたG1人事院企画課長ら官庁側の担当者とL2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日以前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日の繰上げの動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官の乙山に働きかけることを決定したものと認められる。
三 公邸訪問時の乙山との会談の内容に関する被告人の供述
1 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) 被告人の元年四月三〇日付け検面調書(乙書1一四)
「時期ははっきり覚えていないのですが、昭和五九年の二〜三月頃ではなかったかと思います。或いはその一年後の六〇年の同時期頃であったかも知れませんが、多分昭和五九年の可能性が強いと思います。」「五九年の二〜三月頃に何かの機会、多分、パーティーか何かの会合であったと思いますが、乙山先生と顔を会わせた際に、私は、公務員の青田買いの問題を乙山先生に相談にのってもらってみようかなということが私の頭に浮かび、乙山先生に『先生にちょっと御相談にのっていただきたいことがあるんですが。』と言いましたところ、乙山先生は『いやあ、どうぞ結構ですよ。朝なら公邸に居ますから連絡をしていらっしゃい。』と言われたのです。当時、就職協定が守られないということが社会問題となっており、その原因の一つが公務員の青田買いにあると言われておりましたし、リクルートとしても、この問題には重大な関心を持って取り組んでおりましたので、官庁の役人の採用・任用の元締めで各省庁間の調整機能を持っている官房長官にこの問題についてお願いをし、相談をしてみようと考えたからでした。」
「私の記憶では多分、昭和五九年二月か三月頃のある日の朝、時間は午前九時前後頃に車で官房長官公邸に一人で行きました。当時リクルートで就職協定の問題に取り組んでいたR6、R8、R7などを連れて行った記憶はありませんので、間違いなく一人だったと思います。事前に、つまり前日かその前の日あたりに電話で先方とアポイントをとった上で、行きました。乙山先生には、公邸の応接室で会い、二人だけで話をいたしました。」「私は、この官房長官公邸には、後にも先にも、この時一回しか行ったことがなく、公邸の様子などはよく覚えておりませんが、総理官邸に隣接した古い建物でありました。」
「私は乙山先生に対し、『公務員の青田買いの問題が就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっています。これを何とかする方法はないでしょうか。官尊民卑ということもありますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについて何とかなりませんかね。』と言って、公務員の青田買いについての善処方をお願いしたのです。又、私はこの時、乙山先生に『公務員試験の合否の発表時期をもっと遅らせるというようなことについては可能なものでしょうか。どこにどのようにお願いしたらいいんでしょうか。』というような相談もいたしました。この公務員試験の発表時期の繰り下げということは、その時期が遅くなれば、公務員の青田買いの問題が改善され、民間の青田買いも少なくなり、全体として就職協定が守られるという方向に働くということで、私共が望んでいたことだったのです。」「これに対し、乙山先生は、就職協定等の問題については、余り予備知識がなかったようで、『公務員試験とか発表とかいう問題は、人事院ですかな。私は詳しいことは判らないが、官側だけが先に人を採るようなことは具合悪いですな。どうしたものか。一遍どこでどう決まっているのかというようなことを含めて、調べてみますかな。官庁の青田買いの問題については考えておきましょう。』などとおっしゃって、私の要望を受けとめてくれました。」
(二) 被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)
「私が官房長官公邸を訪問したのが昭和五九年三月であったというのは、私が確か乙山先生を囲む会であるa1会に入会して間もない頃だったという記憶があり、この時期に間違いないと思います。」「公邸で乙山先生とお会いしたのは、前回は、午前九時頃と申し上げましたが、時間はもっと早く、午前八時過ぎというのが正確だと思います。」
「公邸の洋風の応接間で、応接セットに向かい合う形で、乙山先生と二人だけで約一五分程度話をいたしました。」「私は新聞を読みながら乙山先生を五分位待っていたら、先生が来られたので、二人で会談をしたのです。そこで私は、乙山先生と『古い建物ですね。』とか『寒いですね。』などとしばし雑談をした後、私は、『ところで、今日お邪魔いたしたのは、大学生の就職に関して文部省の通達とか中央雇用対策協議会の取り決めなどの就職協定がありますが、官庁は、それとはお構いなしに、早い時期に採否を決めるなどしており、この公務員の青田買いの問題が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっていて、又、私共も非常に困っております。これを何とかする方法はないものでしょうか。官尊民卑という形になっておりますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについてこれを防止させる為に、何とかなりませんか。よろしくお願いします。』などと公務員の青田買いの防止について、官庁の元締めである乙山官房長官に何らかの方策をとっていただけないかについてお願い致しました。乙山先生は、これに対して、『考えてみましょう。』と言われました。」
「私は、この機会に、乙山先生に対し、公務員試験の発表時期の繰下げの問題についても相談をしておりますが、その事については前回お話ししたとおりです。」
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
「五九年三月中旬ころと思いますが、私は公務員の青田買いを何とか防止して欲しいという気持ちから、官庁側の元締である当時の乙山官房長官に会って、その善処方をお願いしました。確か、官房長官公邸を訪問して、私は乙山官房長官に対し、公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたのでした。私のお願いに対して、乙山官房長官は、『考えておきましょう。』などと言ってくれました。」
2 被告人の公判段階における供述
これに対し、被告人は、公判段階(〈証拠略〉)においては、次の趣旨の供述をしている。
① 五八年に人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げようとしたのに対し、日経連が民間企業より先に官庁が内定を出すことになり不公平であるとして反対したため、公務員試験の合格発表日の繰上げは実現しなかったが、乙山を訪問する五九年三月一五日の数日前、R7かR6から、日経連が人事院から前年同様公務員試験の合格発表日を繰り上げたいという申出が寄せられて困っているということを聞いた。
私は、一〇月一五日の公務員試験の合格発表日と就職協定による民間の採用選考開始日である一一月一日との間に一五日の差があることが民間の青田買いの原因になるので、公務員試験の合格発表日を一一月一日に繰り下げるべきであると考えており、また、発表日が繰り下がれば試験日も繰り下がると考えていた。
そこで、合格発表日の繰下げを中心とする公務員試験の日程の問題で人事院に陳情する道筋を尋ねようとして、乙山を訪問したのである。
② 公務員試験の日程について取締役会で協議したことはなく、日経連が官側と折衝していて公務員試験の合格発表日の繰上げが動かし難い状況にあるということは知らなかった。乙山を訪問することについて事前に日経連と相談することもなかった。
③ 五九年三月一五日朝は、R7とともに乙山を公邸に訪問しており、当時の公務員試験の日程の現状と、民間の就職協定と整合する理想的な姿と考えた公務員試験の日程とを記載したペーパーを持参した。
④ 乙山に対しては、ペーパーを見せるとともに、人事院が民間の意向に反して公務員試験の日程を繰り上げようとしていること、公務員試験の日程が早いことで民間の方に不満があること、民間の意向は公務員試験の日程を繰り下げて就職協定と同じような条件にしてもらいたいということである旨説明し、そういうことについて、人事院辺りに陳情するには、どのような形で、どのような所に訪ねたらよいか尋ねた。
⑤ 乙山は、予備知識も関心もないという感じで、「そうだとすれば問題ですかな。まあ調べてみますかな。いずれにしてもしかるべきところから人事院へのお話ということでしょう。」というような受け答えをした。
⑥ 公務員試験の日程が繰り下げられると公務員の青田買いが防止され、公務員の青田買いが防止されると就職協定が守られるという認識はあったが、乙山に対し公務員の青田買い防止を相談に行ったわけではなかった。
⑦ 検察官の取調べに対しては、乙山に公務員試験の日程に関して相談したのであり、公務員の青田買い防止についてお願いしたことはないと供述したが、検察官から、公務員試験の日程を繰り下げることは、理屈の上で公務員の青田買い防止になると言われ、押し切られて、公務員の青田買い防止の善処方をお願いした旨の検面調書が作成された。
3 被告人の捜査段階における供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、次の理由により、右1の被告人の捜査段階における供述には任意性がない旨主張し、被告人も、公判段階において、これに沿う供述をしている。
(一) 被告人の精神状態
被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)の取調べ当時、その件が終われば早期に保釈されるであろうと期待していた。ところが、同事件で起訴された後、新たに複数の政治家との関係等について追及を受け始めたことから、保釈の期待が崩れ、その精神的ショックに加え、いつまで捜査が継続し、身柄拘束を受けるのか分からない不安感と、自分の行く末はすべて検察官の手に握られているという絶望感から、自殺したい衝動にまで駆られる精神状態に陥った。さらに、元年四月二五日にはI1内閣が退陣を表明し、同月二六日にはI1の元秘書が自殺するという衝撃的な出来事が相次いだことで、被告人は、I1政権を崩壊させた上、元秘書を死に追い込んだのは自分であるという自責の念から、一層追い詰められた精神状態に陥った。
(二) 被告人の元年四月三〇日付け検面調書(乙書1一四)について
元年四月三〇日の検察官の取調べにおいては、被告人が、公邸訪問の目的は公務員試験の最終合格者の発表日の繰下げを陳情するためにはどのような方法があるかを相談することにあった旨供述したところ、P2検事が、乙山を受託収賄罪で立件するには被告人が乙山の職務に関連した請託をしたことにしなければならないと考え、「公務員の合格発表日を繰り下げることは、結局は、公務員の青田買いを防止することだ。だから、乙山を訪問した目的は、乙山に公務員の青田買い防止の善処方を陳情に行ったことだ」などと不当な理詰めの尋問を行って、被告人の訪問の目的や会話の内容に関する供述を歪曲した調書を作成した上、「早期決着、それが日本のためだ」などと言って、強引に被告人に署名させた。
被告人は、右(一)の精神状態にあり、自分の運命はP2検事の手に握られてしまっていると考えていたため、P2検事の強権に抵抗もできず、署名押印に応じた。
(三) 被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)について
P2検事は、元年五月一四日の取調べにおいて、請託の目的につき、「前の調書を読み直したけど、公共団体が頼みに行ったような内容だからあれじゃだめだ。乙山代議士に会った際、『私共も非常に困っております。』とあなたが言った文言を調書に入れなきゃだめだ。」「ここは最終着地だから、『私共も非常に困っております。』という文言を入れてもらいたい。そうでなければ、せっかく着地しようとしているのに着地できない。」「最終段階に来ているので、それぐらいは認めろ。これを認めてくれなければ着地できない。」などと責められ、リクルートという一企業の依頼という形の調書に署名させられた。
(四) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)について
この調書の内容は、すべて、それまでに主としてP2検事によって作成された調書を踏襲するもので、何ら新しい事実が付け加わったものではない。厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた被告人としては、捜査の最終段階に至った時点で、既に強い抵抗をすることもできず、P4検事の意図に沿うように調書の作成に応ぜざるを得なかった。
4 被告人の捜査段階における供述の信用性に関する弁護人の主張
弁護人は、右3の事情に加え、次の理由により、右1の被告人の捜査段階における供述には信用性がない旨主張する。
(一) 供述の抽象性
右1の各検面調書のうち、被告人が乙山に官庁の青田買い防止を要請したとする部分は、いずれも非常に抽象的であり、肝心の官庁の青田買い防止の具体的方策、例えば、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止とか、人事課長会議における申合せということについては、全く言及されておらず、唯一具体的なこととして言及されているのは、公務員試験の合格発表日の繰下げについてのみである。
被告人の捜査段階における供述が「公務員の青田買い防止の善処方」などという抽象的な表現にとどまっているのは、被告人が官庁の青田買いについて言及したとしても、それは、公務員試験の日程の繰下げの筋道を相談する前提として、官庁の青田買いが民間の就職協定に及ぼす悪影響等について説明したにすぎないからであり、請託を認める部分には信用性がない。
(二) 被告人の当時の関心との関係
五九年三月当時の被告人の関心は、専ら民間の就職協定が遵守できる環境をどのように作るかということにあり、「公務員の青田買い防止」などにはなかった。被告人は、申合せという観念的なものではなく、制度として国家公務員の採用について民間の就職協定に合わせるシステムを作らなくては、就職協定を遵守する抜本的方策にはならないと考えていたのである。したがって、被告人が、民間の就職協定を遵守する上で障害になっていた公務員試験の日程を巡る問題を話題にする以外に、一般的に「公務員の青田買い防止の善処方」という非常に不明確な内容の依頼をするはずはない。
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)作成時の原稿との関係
P4検事は、元年五月一九日の取調べに先立ち、従来作成されていた調書を参考にして原稿(甲物1一二四)を作成し、これを被告人に示して手を入れさせた。
公邸訪問の際の状況について、右原稿の原文には、「私は、乙山官房長官に対し、公務員の青田買いを防止するためになんとかして欲しいということや公務員試験の合格発表の繰り下げのことなどをお願いしました。」という記載があり、最終的な調書では、「公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたのでした。」という記載になっているが、その過程で、被告人は、原稿に手を加えて、「公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願い具体的には公務員試験の合格発表の繰り下げのことなどをお願いしました。」という文章にした。
被告人は、右過程でも、公邸訪問に際して話題になった具体的内容は公務員試験の合格発表の繰下げ問題であったことを強調しようとしたのである。「具体的には公務員試験の合格発表日の繰り下げのことなどを」という語句の抹消線の横には「イキ」の文字が付記され、その文字の上にも抹消線が引かれているが、このことは右の点について被告人とP4検事との間に攻防があったことの証左であり、P4検事は、右語句があると従来の調書と矛盾すると考えて強引に削除したのである。
右原稿は、被告人が捜査段階から公邸訪問の目的が公務員試験の日程の繰下げにあると述べていたことを示しており、右検面調書には信用性がない。
5 被告人の取調べ及び供述状況に関する検討
(一) 確かに、第一章第三の三1、3、4のとおり、被告人は、元年二月一三日に逮捕されてから右1の各検面調書が作成される時期まで、約二か月半ないし三か月間身柄を拘束されていたこと、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められ、また、同年四月二五日にI1内閣が予算案成立後に総辞職することを表明し、その翌日にコスモス株の譲受名義人の一人であったI1の元秘書が自殺したことについて、被告人が強い自責の念を抱いたということも、あながち不自然ではない。
(二) しかし、乙山に贈賄したことに関する被告人の取調べは、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後、起訴後の勾留中の任意捜査として行われたものであり、その当時、被告人は、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていた(第一章第三の三2)のであるから、右(一)の事情があったからといって、自己の刑事責任や応援する政治家である乙山の刑事責任に関わる重要な事柄につき、検察官の取調べに対し意に反する供述をし、あるいは事実と異なる供述の記載された調書に署名することを余儀なくされたという被告人の公判段階における右3の供述は、信用性に乏しい。
しかも、元年四月三〇日付け検面調書に関しては、被告人は、同月二七日の検察官の取調べまでは、自分自身が乙山を公邸に訪問したことを供述しておらず、同月二八日の検察官の取調べにおいて、P4検事から、被告人が乙山を公邸に訪問したことにつき初めて質問されたが、被告人が主任検事であるP2検事に話す旨述べたことから、それ以上の取調べはなく、同月三〇日のP2検事の取調べにおいて初めて実質的な取調べがあり、その当日に同調書が作成された経緯があるのであって(〈証拠略〉)、何日間にもわたって追及されたという事情はない。
(三) また、右4(三)の原稿(甲物1一二四)は、リクルートと就職協定との関係や乙山及び丙川二郎に対する働きかけの経緯を総括的に記載した調書である元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)の作成に先立ち、P4検事が従前の取調結果と同月一八日の取調時の被告人の供述状況を踏まえて原稿を作成し、これに被告人が加筆訂正をしたものであるところ(〈証拠略〉)、確かに、右原稿には、被告人の筆跡で弁護人の主張するような加削訂正がなされており、同月一九日付け検面調書は、その加削訂正後の内容で作成されている。
この点につき、被告人は、公判段階において、その際の具体的状況は覚えていないけれども、自分は公務員の青田買い防止の善処方をお願いするということは考えていなかったのに、P2検事から「公務員試験の日程のことでご相談に行くということは、すなわち公務員の青田買いである」ということを強く言われて、既に公務員の青田買い防止の善処方に触れた検面調書が作成されていたので、せめて「具体的には」という文字を加えることにより、公務員の青田買い防止という抽象的なことで乙山に相談に行ったわけではなく、具体的に公務員試験の日程のことで相談に行ったという趣旨を表現しようとしたが、P4検事がそれを許さず、公務員の青田買い防止という抽象的な内容の調書が作成されたと思う旨供述し(〈証拠略〉)、他方で、P4検事は、被告人の加削訂正の内容が前日の供述と違うとして再考を求め、被告人が再度訂正したことはあるが、意に反する内容の調書を作成してはいない旨証言するところ(〈証拠略〉)、①被告人の公判段階における右供述自体が具体的な記憶に基づかない推測によるものであること、②被告人は、右取調べ当時、拘置所の房内で、取調べの状況等についてノートに記録していた(〈証拠略〉)のであるから、被告人の供述する状況が実際にあったのであれば、その経緯をノートに記録し、それを証拠請求することで供述を裏付けることも可能であると思われるのに、その請求はなされていないこと、③右取調べ当時、弁護人は、ほぼ毎日、長時間にわたって、被告人と接見し、接見内容の報告書を作成した上、公証役場で確定日付を得ていたところ(〈証拠略〉)、右調書が作成された翌日の接見結果として作成された報告書(弁書1一〇一)には、P4検事が作成済みの調書を出してきて被告人に見せ、被告人は、事実に反すると強く主張して署名を拒んだが、「P2検事に対し認めているのになぜ認めないんだ。」と強く迫られて、やむを得ず署名せざるを得なかったという記載があるのみで、被告人が原稿に加削訂正したが、それが許されなかったなどという記載が一切ないことからすると、被告人の公判段階における右供述は、裏付けを欠き、信用性に乏しい。
(四) 結局、右1の各検面調書が作成された際の取調べ及び供述過程において、被告人の供述の任意性や信用性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
四 公邸訪問後の被告人、リクルート及び乙山の行動
1 被告人とL1日経連専務理事との面談
被告人は、五九年三月一五日午後、日経連事務所を訪れてL1日経連専務理事と面談し、就職協定が遵守されるためには公務員試験の二次試験の実施日を現行の八月三日ないし一九日から繰り下げて一〇月一日以降とすべきであると考えているが、乙山にそのことを陳情したところ、乙山はしかるべき所から陳情書が出されれば考えると答えたという話をした。
L1は、これを受けて、「甲野氏は乙山官房長官にあい、陳情したそうです。甲野氏としては、八月三日〜一九日を一〇月一日以降にしてもらえばうまくいくと考えておられ 乙山氏はしかるべき所から陳情書が出れば考えるという返事であった由。」などと記載した上、公務員試験の日程の関係で不明な点について教示を求めるL2日経連雇用課長宛の伝言用メモ(以下「L1メモ」という。)を作成した。
なお、L1メモには一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止に関する記載はなく、L1(〈証拠略〉)も、公務員試験の日程の繰下げの話しか出なかった旨証言している。
(〈証拠略〉)
2 乙山がG2人事院任用局長にかけた電話
乙山は、五九年三月一五日ころ、G2人事院任用局長に電話をかけ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせた。これに対し、G2が、各省庁から強い繰上げの要望があるほか、現状では学生に迷惑がかかるという繰上げの理由を説明した上、日経連とも前向きに話が進んでおり、官庁側も一〇―一一協定に合わせることで理解を得つつあるという説明をしたところ、乙山から特段の質問はなかった。(〈証拠略〉)
3 L2日経連雇用課長の対応等
L2日経連雇用課長は、人事院等の官庁関係者と公務員試験の合格発表日の繰上げ問題について協議を重ねていた五九年三月一五日午前、リクルート関係者が公務員試験の日程に関する書類を方々の企業の担当者に持ち歩いているという情報を得たことから、直ちにR6を含むリクルート事業部の者数名を喫茶店に呼び出して説明を求めたところ、R6らが公務員試験の合格発表日を一〇月一五日よりも遅い期日に繰り下げる内容の書面を示したので、そのような繰下げは現実的でなく、一企業がそのようなことを求めるべきではないなどと言って叱責した。
また、L2日経連雇用課長は、五九年三月一五日か翌一六日にL1メモを受領して、被告人が公務員試験の日程の件で乙山に陳情したことを知り、L1に対し、質問に返答するとともに、被告人の案が現実的でないことを伝えたが、同月一九日ころ、居酒屋でG1人事院企画課長らと会った際、リクルート関係者が公務員試験の合格発表日の繰下げ案を乙山官房長官に持ち込み、乙山から人事院の上層部に対しリクルート案でやってくれないかという申入れがあった旨聞かされ、人事院の上層部に申入れまでしたことに驚いて、これまでの案で大丈夫かと確かめると、G1らから、官庁側は一致しているので大丈夫であるという返答を得たので、L1日経連専務理事と面談して、右事情を説明した上、同月二一日に予定されていた公務員試験の合格発表日の繰上げ問題に関するL1とG2人事院任用局長との会談を実施するかどうか協議し、結局、予定どおり実施することに決めた。
なお、L2日経連雇用課長は、L1メモを受領した後、R6に電話をかけて、社長である被告人に現実的でない案を持ち歩かせたことを叱責し、R6は、そのころ、部下とともに同課長の自宅を訪れて謝罪した。
(〈証拠略〉)
4 乙山がI2内閣参事官にした質問等
乙山は、五九年三月一九日(月曜日)朝、国会内の内閣官房長官室において、I2内閣参事官に対し、公務員試験の日程の繰上げについてはどうなっているのかを質問をした。
I2は、前節第一の三5のとおり、五九年三月九日に日経連雇用課長等との意見交換に出席していた上、同月一六日には、G1人事院企画課長から電話を受け、日経連側との間で、就職協定に官庁側も協力するという条件で公務員試験の合格発表日を繰り上げる話が進んでおり、最終段階では人事課長会議で民間の就職協定に協力するという申合せをする必要がある旨連絡を受けていたことから、乙山に対し、人事課長会議では以前から要望してきたことであるが、本年は人事院の尽力により、実現の方向にあるという返答をしたところ、乙山は、「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、これに対し、I2は、近く人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをするつもりであるという説明をした。
五九年三月二一日ころ、I2は、G1から、公務員試験の合格発表日を一〇月一日に繰り上げることで民間側と話がついたが、交換条件として、官庁側が民間の就職協定に協力することになったので、次の人事課長会議でその旨の申合せをしてほしいという申入れを受け、その旨を乙山に報告し、その了承を得た上、同年三月二八日に五九年度人事課長会議申合せをした。
なお、I2は、五九年四月二七日に通産省の青田買いに関する新聞報道がなされた際、通産省に問い合わせて事実関係を確認した上、乙山に報告したところ、乙山は、「十分注意するように。」と言い、同年五月二七日に労働省の青田買いに関する新聞報道がなされた際、労働省から報告を受けたI2が乙山に報告したところ、乙山は、「困ったことだね。」と返答した。
(〈証拠略〉)
五 五九年三月二四日にR6らが乙山を訪問した状況及びその趣旨
1 R6らが乙山を訪問した事実
(一) 乙山は、五九年三月二四日は、午後二時四〇分から参議院予算委員会の集中審議に出席する予定であったが、その前の午後二時から一〇分間、内閣総理大臣官邸内においてリクルートの営業本部及び事業部担当の取締役であったR6ほか一名と面談する予定になっており、官房長官付き秘書専門官のA4(以下「A4」という。)が作成していた乙山の日程表である「乙山内閣官房長官日程」の同日分の頁にも、右時間帯に「R’6他一名(リクルート)」という面談スケジュールが記載されていた。この「R’6」はR6の誤記である。
(二) その日の参議院予算委員会は、実際には、午前一〇時一分に開会し、午前一一時四七分に休憩になり、午後零時五〇分に開会し、午後五時三分に散会になったところ、乙山は同委員会に国務大臣として出席し、午後の比較的早い時間帯に答弁に立っていた。
R6は、R22事業部長及びR1秘書課長とともに、五九年三月二四日午後零時三五分ころ、議員会館受付において乙山との面会手続をし、議員会館内の乙山の事務所を訪ねた後、A3秘書の案内で、議員会館から国会へ通じる地下トンネルを通って国会二階の官房長官室に移動し、午後の右委員会に出席する直前の乙山と面談した(以下「長官室訪問」という。)。
(〈証拠略〉)
2 長官室訪問の際の面談の内容
(一) 認定事実
R6らが乙山を訪問したのは、R6らが、被告人のした公務員試験の日程の繰下げと官庁の青田買い防止の善処方の請託について乙山の対応を確認するように被告人から指示を受けたためであり、実際にR6がその旨の確認をしたのに対し、乙山は、公務員試験の日程の繰下げについては実現困難であるが、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をした。
(〈証拠略〉)
(二) 右認定に反する弁護人の主張等
弁護人は、長官室訪問は、リクルートが社名変更に際し五九年三月二一日に開催した謝恩の集いに乙山が出席したことに対してお礼をしたものにすぎず、右(一)で認定したような請託についての乙山の対応を確認することなどはしなかった旨主張し、被告人も、捜査(乙書1五四)及び公判段階を通じ、R6らに対し右確認のため訪問を指示した事実を否定している。
そこで、以下、右(一)のとおり認定した理由を補足する。
3 R6の供述について
(一) R6の捜査段階における供述
R6は、元年五月一五日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(甲書1一三四)。
「検察官から、議員会館の乙山一郎代議士の面会証に私の名前と、ほか二名という記載のあるものが見つかり、その日付と時間は、昭和五九年三月二四日午後零時三五分となっていることを告げられました。私の名前を使うものはいないと思われることから、私がリクルートの者二人を連れて乙山先生にお会いしたと思うのです。その当時、乙山先生の秘書の方など乙山先生御本人以外にお目にかかる用事はありませんでした。また、乙山先生に、その当時お会いする理由といえば、先生のお力で各省庁が青田買いに出ないよう各省庁の担当者に指示を出していただくことと、公務員試験の実施日をずらすことのお願いをしておいた件について、その結果をお聞きしたり再度お願いすることしかなかったのです。乙山先生へのこの二つのお願いについては、甲野若しくはその直轄下にある社長室がお願いしていたと思っております。ですから、私が乙山先生にお会いするようになったのは、たぶん甲野から『青田買いの件と公務員試験の件のその後がどうなったかフォローして下さい。』というような指示を受けたためだったと思うのです。私ほか二名となっているとのことですので、その二名が誰であったかを思い出しているのですが、R7若しくはR8取締役、R9のうちの誰かが入っていると思うのです。この三人のうちの一人がいたと思われ、後一人は、この三人の中の誰かか、事業部の者だと思うのです。行った時間がお昼ということですので、アポイントなしで行く時間でも、また会える方でもありませんので、必ずアポイントを取っている筈です。執務をしておられる首相官邸ではなく、お昼に議員会館の方に来て欲しいと言われて、このような議員会館で、しかもお昼どきにお会いすることになったと思うのです。甲野に言われたとおり、青田買いの件と公務員試験の日程をずらす件について、乙山先生にお伺いしたところ、青田買いの点については、私どもが希望するとおりの御返事で、公務員試験の日程をずらす件については、難しそうだとの御返事であったと思うのです。この結果については、勿論、甲野に報告していると思います。」
(二) R6の公判段階における供述
R6は、公判段階(〈証拠略〉)においては、検察官の取調べに対して供述した当時、右訪問の記憶はなく、乙山と会ったことすら思い出すことができなかったのであって、右(一)の検面調書は、面会票の記載に基づく推測と検察官の誘導により作成されたものであり、記憶に基づくものではないが、面会票が出てきたことを検察官から告げられた際に検察官から随分怒られ、ほとんど混乱状態にあったために、一晩考えるということもなく署名した旨供述している。
(三) R6の供述の評価
長官室訪問のR6の同行者は、乙山事務所に保存されていた名刺(甲物1五五〜五七)等から、R22とR1であったことが明らかである上、乙山との面談場所も、A3の証言(〈証拠略〉)等により、議員会館内の乙山事務所ではなく国会内の官房長官室であったと認められるところ、R6の捜査段階における右(一)の供述は、同行者及び面談場所の点で客観的事実と合致せず、また、全体に曖昧であって、具体性に乏しく、随所で「思うのです」という言葉が使われるなど推測や想像を交えた表現が目立つものである。
弁護人は、右諸点を理由として、R6の捜査段階における右(一)の供述には信用性がなく、R6は、公判段階において供述するように、検察官からうそをついたと叱責されて、混乱状態に陥り、検察官の誘導と押し付けによって、調書に署名せざるを得ない状況に追い込まれた旨主張する。
しかし、R6は、本件当時リクルートの事業部担当の取締役として、その職務上の必要から、事前に面会の約束を得た上で乙山を訪問して面談したのであり、しかも、その際には、議員会館から国会内へ通じるトンネルを経て開会中の国会内の官房長官室に案内され、官房長官と面会するという特異な経験もしたのであるから、その面談の事実や趣旨については具体的な記憶があって当然であり、捜査段階において訪問の事実すら記憶になかったというのは、甚だ不自然であって、到底信用することができない。R6は、右事実がありながら、検察官の取調べに対し、国会内の官房長官室に案内されたことを全く供述せず、公判段階(〈証拠略〉)においても、長官室訪問に関しては一切記憶にないとして、漠然とした供述を繰り返しており、真実の供述を避ける姿勢が顕著であって、真摯な供述態度を欠いている。
しかも、R6は、五一年からリクルートの取締役の地位にあり、六三年一月以降はリクルートの社長の地位にあった者であり、かつ、逮捕はされず、在宅のまま検察官から取調べを受けていたのであって、右のような社会的経験を有しながら、取調べ中に検察官から「怒られた」からといって、被告人がした請託についての乙山の対応を確認するという重要な事柄について、やすやすと誘導されて、全く記憶にないことを供述し、混乱状態の中で調書に署名するというのは、信用し難いことである。
そうすると、R6の捜査段階における右(一)の供述に「思う」という言葉が多用されている理由も、R6が記憶にないことを推測や検察官の誘導によって述べたというよりは、供述の内容を殊更曖昧な表現にしようと意図したからとみるのが相当である。したがって、R6の捜査段階における右(一)の供述は、その一部に事実に反する点が含まれており、具体性が乏しいからといって、乙山との面談の内容やその点に関する被告人の指示という核心部分についてまで信用し得ないということはできず、他の証拠による裏付け次第では信用性を認める余地があるというべきである。
4 R22の供述について
(一) R22の捜査段階における供述
R22は、元年五月二〇日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(甲書1一〇九二)。
「乙山一郎代議士の事務所から私の名刺がみつかったということを検事から聞かされましたが、それは私がR6取締役、R1社長室課長と一緒に乙山先生の議員会館に伺い、乙山先生に公務員試験の繰り下げと官庁による公務員採用活動の自粛をお願いした時に乙山先生に私の名刺を渡しておりますので、私の名刺が乙山事務所からみつかったとしか考えられません。既に申し上げておりますように、リクルートとしては、就職協定が遵守されるようにするため、公務員試験の繰り下げと一〇月一日以前における官庁の公務員採用活動の自粛を乙山官房長官に働きかけることを決めておりました。政治家マターを担当する社長室あたりが既に乙山官房長官に働きかけているのだと思ってました。私がこの公務員試験日程の繰り下げと公務員採用活動の自粛を乙山先生にお願いに上がることになったのは、私の上司であるR6からこの件で乙山先生の所に行こうと言われたからだと記憶しております。このように言われたのは五九年三月下旬頃のことです。私とR6の他にR1も一緒に乙山先生の所に伺っておるのですが、政治家マターは社長室ですから、そういうことでR1も一緒に来ることになったと理解しておりました。当時の記憶では、リクルート側では公務員試験日程の繰り下げや一〇月一日以前の採用活動の自粛を乙山先生にお願いしておりましたので、私達がその件がその後どのようになったのか乙山先生にお話を伺うとともに、リクルート側の意向を乙山先生にお願いすることになりました。私達三人が乙山先生と議員会館で会ったのはお昼頃であったと思います。乙山先生にこの公務員試験日程の繰り下げと公務員採用活動の自粛の話を直接したのはR6でした。R6さんは、公務員試験の日程を民間並にずらす件についてはどのようになったでしょうかという趣旨の話をしたところ、乙山先生は、その件についてはむずかしそうだというような感じの話をされたように思います。また、R6は、乙山先生に、公務員の採用活動を一〇月一日以前に行わないように各省庁に守っていただけるようお願いしたいという趣旨のお願いをしておりました。この各省庁の青田買い自粛の件については、乙山先生は、『承知しました。』というような言葉で私達の頼みに理解を示し引き受けてくれておりました。検事の話ですと、この私の名刺の裏に五九年三月二四日の日付け記載があるということですし、議員会館の乙山先生の面会票に五九年三月二四日R6他二名が面会を申込んだ内容のものがあるということですので、私、R6、R1の三人が乙山先生に面会したのは五九年三月二四日に間違いないことです。」
(二) R22の公判段階における供述
R22は、公判段階(〈証拠略〉)においては、R6とともに乙山に面会した記憶はあるが、面会の目的は覚えておらず、面会時にはR6の二、三メートル以上後方で立っていて、R6と乙山とが会話する音は聞こえたものの、話の内容は聞き取れなかったのであり、検面調書の記載は、検察官からR6がその旨供述していると言われ、それなら正しいのであろうと考えて調書の作成に応じたものにすぎない旨供述している。
(三) R22の供述の評価
まず、R22の公判段階における右(二)の供述については、R22は単なるR6の秘書やかばん持ち等ではなく、事業部長の職にあった者であり、職務の一環として、取締役であったR6と内閣官房長官であった乙山との面談に同行したのであるから、その目的を知り、会話の内容も聞いていたのが当然であり、仮に面談時は後方に立っていて会話を十分に聞き取れなかったとしても、会談後にR6から内容を聞くはずであったから、R22の公判段階における右(二)の供述は、甚だしく不合理であって、到底信用することができない。
他方、R22の捜査段階における右(一)の供述は、その内容が具体的である上、①官房長官という要職にあった乙山が予算委員会の開会中という多忙の中で、当初の予定時刻を繰り上げ、昼休みのわずかな間を利用してまでR6らと面談したことからすると、R6らと乙山との面談は時期的に相当切迫していた用件で行われたものと考えるのが自然であること、②前節第二の二、三、本節第二の二で認定したとおり、リクルートの幹部は、五九年一月ないし三月当時、就職協定の存続及び遵守が事業上の重要な問題であると認識し、そのために官庁の青田買いを防止することが必要であると考えて、事業部を中心に情報収集等に当たっていたところ、新規学卒者向け就職情報誌事業を担当する営業本部及び事業部担当の取締役であったR6、事業部長であったR22、社長室秘書課長であったR1という顔ぶれで乙山を訪問したことに照らすと、合理的であって、特段不自然な点は見当たらず、R6の捜査段階における右3(一)の供述とも核心部分において合致していることからすると、十分に信用することができる。
5 弁護人主張の訪問目的について
(一) R1の公判段階における供述
R1は、公判段階(〈証拠略〉)において、長官室訪問は、五九年三月二一日に行われたリクルートの社名変更の披露パーティーに乙山が出席したことに対してお礼を述べるためであり、R5専務から、乙山が右パーティーに急遽出席していただいたが、十分な応対ができなかったのでご挨拶に行くべきであろうという指示を受けて行ったものであり、国会内で乙山と面談して短時間のうちにお礼を述べたが、その際、公務員の青田買いや公務員試験の日程に関する話が出たことはなかったなどとして、弁護人の主張に沿う供述をしている。
(二) リクルートが謝恩の集いを開催した事実
確かに、関係証拠(〈証拠略〉)によれば、リクルートが、五九年四月一日の商号変更を控えて、同年三月二一日午後五時三〇分から午後七時までの間、千代田区紀尾井町所在のホテルニューオータニ「鶴の間」において、約一七〇〇名を招待して謝恩の集い(以下「リクルート謝恩の集い」という。)を開催した事実が認められる。
(三) 考察
しかし、長官室訪問は乙山がパーティーに出席したことに対してお礼をするためであったというR1の公判段階における右(一)の供述は、次のとおり、信用することができない。
(1) まず、関係証拠(〈証拠略〉)によると、①乙山は毎夕秘書官と打合せをして翌日の日程を確定し、A4秘書専門官が「乙山官房長官日程」(以下「官房長官日程」という。)として浄書していたところ、五九年三月二一日分の官房長官日程によれば、同日は、午前一〇時から出席する参議院予算委員会の総括質問が少なくとも午後五時三〇分ころまで予定されていた上、午後六時三〇分から午後七時までは内閣総理大臣官邸大食堂で開催される「総理訪中結団式」に出席し、午後七時からは料亭でU1毎日新聞記者ほか一名と会合することが予定されており、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することはスケジュール的に困難であったこと、②官房長官日程の作成に当たっては、出席予定の会議、会合等の日程を記入するほか、日程上は出席が困難であるが、委員会等の終了時刻が早まるなどして時間的余裕ができれば出席したいという意向を持つ会合等がある場合に、それを括弧書きで記入する扱いをしていたところ、同日の官房長官日程では、リクルート謝恩の集いは、午後六時から午後八時三〇分まで予定されていた京王プラザホテルにおける「根っこ運動三〇周年の○○を励ます集い」とともに、括弧書きで午後五時三〇分から午後七時までの予定として記入されていたことが認められ、これらの事実によれば、乙山はリクルート謝恩の集いを出席困難なものとして扱っていたことが明らかである。
(2) そして、当日の実際の日程を見ても、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することは、以下のとおり、事実上不可能であったと認められる。
すなわち、関係証拠(〈証拠略〉)によると、五九年三月二一日の参議院予算委員会は、五九年度一般会計予算等を議題として総括質疑が行われ、午前一〇時二分に開会されて午前一一時五六分に休憩になり、午後一時一分に開会されて午後六時一三分に散会になっており、乙山は、国務大臣として同委員会に出席し、午後の早い時間には答弁にも立っていた。
同委員会の議事録には、乙山が終始出席していたのか途中で退席したのかは明記されておらず、官房長官日程には一六時から「記者会見・番懇」という記載があることからすると、乙山が午後四時ころ記者会見等のために一時退席したことが推測されるが、A4秘書専門官の証言(〈証拠略〉)によれば、予算委員会の総括質問は官房長官を含む全閣僚が開会から散会まで出席するのが通例であり、官房長官が定例記者会見やその後の記者との懇談をする場合には、議長の承認を得た上で議場を離れる扱いとされていたものと認められるから、官房長官の乙山が一民間企業のパーティーにすぎないリクルート謝恩の集いへの出席という私的な用務のために、一般会計予算案を議題とする総括質疑中の予算委員会を途中で退場したり、記者会見後に議場に戻らずにホテルへ向かうなどということは考え難いことである。
したがって、乙山は、午後六時一三分までは、同委員会に出席していたか、そうでなくても国会内で待機していたものと認められる。
その後の乙山の行動を見ても、関係証拠(〈証拠略〉)によると、乙山は、同委員会散会後は、午後六時三五分ころから内閣総理大臣官邸大食堂で行われた総理中国訪問結団式に出席し、留守番役の代表として歓送の辞を述べた後、さほど遅れることなく港区赤坂にある料亭「丑」に赴き、旧知の政治記者であったU1毎日新聞記者ほか一名と宴席を持ち、当時の政治問題等について話し合ったこと、また、乙山は、午後六時から午後八時三〇分までの日程で新宿区西新宿の京王プラザホテルで開催された「根っこ運動三〇周年の○○君を励ます集い」については、その発起人になっていたものの、出席しなかったことが認められる。
そうすると、乙山がリクルート謝恩の集いに出席することは事実上不可能であったというべきである。
(3) 弁護人は、国会とホテルニューオータニとは自動車で数分の距離であるから、予算委員会が午後六時一三分に散会になった後、総理中国訪問結団式に少し食い込む時間帯に、乙山がリクルート謝恩の集いに短時間出席して首相官邸に戻ることは可能であった旨主張する。
しかし、同結団式は、冒頭で総理大臣が挨拶し、更に一名又は二名の挨拶を挟んで、乙山が歓送の辞を述べ、その後に乾杯が予定されていたのであり、しかも、この類の式典では官房長官は総理大臣よりも先に会場に入るのが通例であった(〈証拠略〉)から、いかに国会と会場のホテルが近いとしても、乙山が乾杯前に歓送の辞を述べる役回りでありながら、結団式に遅刻し、出席者の乾杯をお預けにする危険を冒してまで、もともと時間に余裕があれば出席しようと考えていた程度のリクルート謝恩の集いに出席するということは考え難い。さらに、A4秘書専門官の証言(〈証拠略〉)によれば、官房長官日程は乙山付きのSP(身辺警護担当の警察官)や運転手にも渡されており、予定を変更して出席する会合がある場合には、SPが事前に会場へ行って行動経路の安全を確認するのが通常の扱いであったと認められるから、その点からも、乙山のリクルート謝恩の集いへの出席は時間的に不可能であったというべきである。
(4) 弁護人は、乙山は、総理中国訪問結団式に出席した後、リクルート謝恩の集いに立ち寄ってから丑に赴いた可能性がある旨主張するが、留守番役の代表である官房長官が歓送の辞を述べた後、総理大臣や随員らと懇談せずに早々に退席するというのは考えにくいことである。しかも、歓送の辞を終えた時点では、リクルート謝恩の集いは既に午後七時の終了予定時刻間近になっており、移動時間を考えれば到着時には散会になっていることも懸念されたはずであるから、その段階で当初出席を予定していなかったものに出席しようと考えるというのも不合理である。仮に、乙山が丑における会合に遅刻してでも出席したいほどにリクルート謝恩の集いを重要視していたのであれば、当初からそのような日程を組んだはずであるし、さらに、無理を押してでもパーティーに出席するのであれば、単に招待されたにすぎないリクルート謝恩の集いよりも、発起人になっている○○関係の集いの方を優先しそうなものであるが、右(2)のとおり、乙山は○○関係の集いを欠席したのである。
(5) 加えて、リクルートの社内報である週刊リクルート第一〇六六号(五九年三月二二日号)には、リクルート謝恩の集いに関する記事が掲載され、その主要出席者として、文部大臣及び労働大臣並びに民間企業の社長又は会長の計一〇名の役職と氏名が記載されているが、官房長官という要職にある乙山の名前は記載されておらず(甲書1一〇八三)、乙山自身も右パーティーに出席した具体的な記憶はない旨供述している(〈証拠略〉)。
(6) 結局、R6らによる長官室訪問は乙山がリクルート謝恩の集いに出席したことに対してお礼をするためであったというR1の公判段階における右(一)の供述は、右に検討した事実関係に照らすと、信用することができない。
6 関連する弁護人の主張について
(一) 弁護人は、R6らが五九年三月二四日午後零時三五分ころに議員会館受付で面会手続をした後、乙山事務所で秘書と挨拶や名刺交換をし、トンネルを通るなどして国会内の官房長官室に移動する時間を考慮すると、乙山が午後零時五〇分開会の参議院予算委員会に出席する前にR6らと面会する時間は二、三分程度にすぎないし、国会内の官房長官室と内閣参事官室とは隣り合っており、その間のドアは通常は開放されていて、自由に出入りできる状態にあったから、そのような面談時間や面談場所の状況からして、R6らが請託の結果を確認するという用件で乙山と面談したとは考えられない旨主張する。
しかし、R6及びR22の捜査段階における各供述(右3(一)、4(一))は、新たに何かを依頼したというものではなく、被告人が数日前にした依頼についての乙山の対応を確認したというのであって、事情説明等に時間を要するものではなく、両名の供述する面談の内容もごく短時間で済む程度のものであったから、時間的にも場所的にも不相応ということはできない。
(二) 弁護人は、五九年三月二四日の段階では、同月二一日のG2人事院任用局長とL1日経連専務理事との会談も済み、公務員試験の日程の繰上げと引換えに人事課長会議で申合せをすることが既定方針とされていたのであるから、被告人がした請託のフォローアップをする必要はなく、かつ、同日以前に、L1が被告人に対し被告人の提案した公務員試験の日程の繰下げ案が考慮する価値のないものであることを伝え、R6らがL2日経連雇用課長から公務員試験の日程の繰上げ案を巡って叱責されたという出来事もあったのであるから、フォローアップの動きをすることはあり得ない旨主張する。
しかし、関係証拠によっても、五九年三月二四日の段階で、同月二一日のG2とL1との合意の内容が公表されていたとか、あるいは被告人やR6らが右合意の内容を把握していたと認めるべき事情は窺われないから、被告人やR6らが当時の状況からして被告人の請託についての乙山の対応を確認する必要がないと判断したという主張は、前提を欠くものである。
また、L1が被告人に対し連絡をしたか否かは証拠上明白でないものの、R6らがL2日経連雇用課長から叱責を受けた事実は、本節第二の四3のとおり認められるところ、右事情からは、R6らが再度公務員試験の日程の繰下げを求める請託をすることは不合理であるといい得るものの、被告人がした請託についての乙山の対応を確認することが不合理であるということはできない。
(三) 弁護人は、リクルートの社内文書には、請託の結果を確認するためにR6らが訪問したという報告がなされたことを示す記載が見当たらないことに照らし、R6及びR22の捜査段階における各供述(右3(一)、4(一))は信用することができない旨主張する。
しかし、乙山を訪問したのは事業部担当の取締役、事業部長及び社長室秘書課長であるから、そもそも事業部内で上司に対し文書で報告する必要はなかったし、被告人に対しては、担当取締役のR6又は秘書課長のR1から口頭で報告すれば足りることであったから、その報告を記載した文書が作成されなかったからといって不自然ではなく、また、仮に作成されたとしても、捜索までの間に処分することも容易であったから、そのような文書が存在しないことはR6及びR22の捜査段階における右各供述の信用性を左右する事情ではない。
7 小括
R6らによる長官室訪問はリクルート謝恩の集いに乙山が出席したことに対してお礼をするためであったとするR1の公判段階における右5(一)の供述は、右5(三)のとおり、証拠関係に照らすと、信用することができないのに対し、被告人のお願いの結果を確認するためであったとするR22の捜査段階における右4(一)の供述は、十分に信用することができ、また、R6の捜査段階における右3(一)の供述も、一部に客観的事実と反する部分や曖昧な部分があるとはいえ、R22の供述と大筋で合致していることからすると、被告人の指示を受けて請託の結果を確認したことを認める部分は、やはり信用することができる。
したがって、五九年三月二四日におけるR6らの長官室訪問の面談の内容については、R6及びR22の捜査段階における右各供述により、右2(一)のとおり認定することができる。
六 まとめ
1 公邸訪問時における乙山との会談の内容に関する被告人の供述の評価
被告人の各検面調書は、本節第二の三5で検討したとおり、その取調べ及び供述過程において任意性や信用性に疑いを抱かせるような事情があったとはいえない上、その供述については、
① その際の会談の内容は、被告人と乙山しか知らない事項であり、乙山は、捜査段階において、公邸で被告人と会ったこと自体を否定しているのである(〈証拠略〉)から、被告人を取り調べた検察官が乙山との会話の内容を作出し、誘導するということは、そもそも困難であること、
② 被告人が供述する会談の内容は、前節第二の二1で認定したリクルートの事業と就職協定との関係、すなわち、被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料収入の減少や計画的な発行・配本業務に支障が生じて、同事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたことに照らすと、自然かつ合理的なものであること、
③ 被告人の供述する会談の内容は、本節第二の二で認定した五九年三月当時の公務員試験の日程や官庁の青田買いを巡るリクルート内部の検討状況、すなわち、被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、同月一三日までに、人事院が公務員試験の最終合格者の発表日を従前の一〇月一五日から一〇月一日に繰り上げることを企図して日経連と折衝しており、交渉に当たっていたG1人事院企画課長ら官庁側の担当者とL2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日以前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官であった乙山に働きかけることを決定したという状況を前提とすると、自然かつ合理的なものであること、
④ 被告人の供述は、本節第二の五のとおり、R6らが被告人の指示を受けた上、五九年三月二四日に乙山と面談して被告人の請託の結果を確認した事実により裏付けられていること、
⑤ 被告人の供述は、本節第二の四で認定した公邸訪問後における被告人や乙山らの実際の動き、すなわち、被告人がL1日経連専務理事と面談した内容、乙山がG2人事院任用局長に電話して公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由について問い合わせたこと、L2日経連雇用課長の所にリクルート関係者が公務員試験の日程に関する書類を方々の企業の担当者に持ち歩いているという情報が入り、同課長がR6らを叱責した状況、乙山がI2内閣参事官に対し公務員試験の合格発表日の繰上げについて質問し、I2が実現の方向にあるという返答をしたところ、乙山が「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、I2から人事課長会議における申合せの予定について説明を受けたこと、I2が乙山の了承を得た上で五九年度人事課長会議申合せをしたこと、乙山がI2から官庁の青田買いを巡る報道について報告を受けた際、I2に対し十分注意するように指示したことなどの各事実によっても、一部裏付けられていること
を指摘することができ、これらを総合すれば、公邸における乙山との会談の内容に関する被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)には十分な信用性が認められるのに対し、これと相反する公判段階における供述(本節第二の三2)は信用することができない。
2 乙山の供述について
(一) 乙山の供述
乙山は、捜査段階において、公邸で民間の人に会うことはなく、被告人と公邸で面談したことはない旨供述していたが、公判段階においては、被告人の供述を否定する積極的な記憶も理由もないので、五九年三月に公邸で被告人の訪問を受けたことはあったかなと思うが、何かものを頼まれたという関係では全くない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) 乙山の供述の評価
乙山は、五四年ころから、リクルート主催のシンポジウム、パーティーや、リクルートの取締役会に出席して講演するなどしたことから、被告人と面識を持ち、五九年三月には、被告人が乙山の後援会である「a1会」に入会し、同年四月には一緒にゴルフをするなどして関係を深めており(本節第一の二1)、また、五七年秋ころからは、リクルートから、パーティー券の購入や秘書の給与の負担等で多額の資金援助を受けていた(本節第一の二2)のであるから、そのような有力な後援者であった被告人が公邸に訪問してきて面談したという事実があれば、会話の詳細はともかく、会談の事実自体については具体的な記憶が残っていて然るべきであるのに、右(一)のとおり、捜査段階においては、被告人と公邸で面談したこと自体を否定し、公判段階においても、その点について曖昧な供述をするほか、リクルート関係者との接触や資金援助の全般についても、いろんなパーティーに出ており、経理に関することはすべてA1秘書に任せていたので具体的な記憶はないなどとして、曖昧な供述に終始している(〈証拠略〉)。このような乙山の供述態度からすると、乙山は、被告人を含むリクルート関係者との接触やリクルートからの資金援助について曖昧な供述をすることにより、陳情の内容や資金援助に関する弁解を求められることを避けようとしているものと推測せざるを得ず、その供述はおよそ信用することができない。
3 関連する弁護人の主張について
(一) L1メモについて
弁護人は、被告人が乙山と会談した際、公務員試験の日程の繰下げについて話題にしたのみであったことは、L1メモの内容からも裏付けられる旨主張する。
しかし、L1メモは、被告人の話のうちL1が直ちに理解できなかった事項をL2日経連雇用課長に問い合わせるために作成したものであり(〈証拠略〉)、L1が被告人から聞いた内容をすべて記載したとは限らない。また、そもそも、被告人が乙山との会談の全貌をL1に報告したとは限らず、被告人が日経連に行動を起こしてほしい点だけを話したということ、すなわち、公務員試験の日程を繰り下げる方向で日経連から政府に陳情してもらうべく、その問題に的を絞って、L1に話し、もともと民間企業側が要求していた官庁の青田買い防止の件には触れなかったということも十分に考えられるのである。
したがって、L1メモの記載は被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
(二) 公務員試験の日程の繰下げが実現した場合の青田買い防止策の必要性について
弁護人は、被告人が考えたように公務員試験の日程の繰下げが実現すれば、制度的に公務員の青田買いを防止できるのであり、観念的、精神的な努力目標にすぎない人事課長会議申合せのような青田買い防止の方策は必要としなくなるのであるから、被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)は信用し得ない旨主張する。
確かに、当時、公務員試験の受験者が、八月上、中旬に実施されていた第二次試験の実施後、合格発表前に省庁を訪問するという実態があったところ(〈証拠略〉)、仮に、被告人が意図したとおり第二次試験の実施日を一〇月一日以降に繰り下げた場合に、学生がその受験後に省庁を訪問するのであれば、就職協定による会社訪問が解禁された後のことであるから、民間の就職協定の遵守に影響を与えないことになる。
しかし、そのような繰下げが実現した場合であっても、第二次試験の実施前に、大学の夏休みを利用するなどして各省庁の人事担当者と卒業予定の学生とが接触し、その際に人事担当者が最終合格を条件として採用することを示唆する言動をすれば、やはり、民間の就職協定の遵守に悪影響を与えることが予想されるのであるから、公務員試験の日程が繰り下げられたとしても、人事課長会議申合せ等の公務員の青田買い防止策が不要になるものではない。
(三) 人事課長会議申合せが被告人の公邸訪問と無関係である旨の主張について
弁護人は、五九年度人事課長会議申合せは、人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げるための条件として、G1人事院企画課長らの独自の発想の下で日経連に示した上、人事院から人事課長会議に働きかけが行われ、成立に至ったものであって、リクルートや被告人の動きとは無関係であり、被告人が乙山を公邸に訪問した五九年三月一五日の時点では、G1やL2日経連雇用課長にとって、人事課長会議申合せと引換えに公務員試験の日程を繰り上げることは既定方針になっていた旨主張する。
確かに、L2日経連雇用課長自身は、五九年三月一三日ころの段階で、人事院からの申入れを受け入れる方向で心積もりをした上、同月一六日の中雇対協幹事会にG1を出席させることや、同月二一日にL1日経連専務理事がG2人事院任用局長と会談することを予定しており、本節第二の四3のとおり、同月一五日にR6らを叱責したのも、リクルートがL2日経連雇用課長の心積もりと矛盾する動きをしていたことに対する憤懣からであったと認められるが(〈証拠略〉)、他方で、日経連等の経済三団体の幹部がG1に対し、国の行政機関が就職協定の趣旨を尊重することを条件として公務員試験の合格発表日の繰上げについて基本的な了解を与えたのは同月一六日であり(前節第一の三5)、G1を補佐して日経連等との折衝を担当していたG3企画課員が同月一五日にL2日経連雇用課長と懇談した際には、L2日経連雇用課長は、なお公務員試験の合格発表日の繰上げについて民間企業側の賛同を得られずに苦労している状況であったのであるから(〈証拠略〉)、同日朝に被告人が乙山と会談した時点では、人事課長会議で就職協定を遵守する申合せがなされることが確実といえる段階には至っていなかったのである。
また、被告人の公邸訪問と五九年度人事課長会議申合せとの関係については、本節第二の四2、4のとおり、乙山が五九年三月一五日ころにG2人事院任用局長に電話をかけて公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせた際、官庁側も一〇―一一協定に合わせるということで理解を得つつあるという説明を受け、同月一九日にI2内閣参事官に質問した際、人事課長会議における申合せの予定について説明を受け、I2は、その後、乙山の了承を得た上、人事課長会議で申合せをしたのであるから、被告人の動きと右申合せが無関係であるということはできない。
確かに、公邸訪問以前の人事院側の担当者とL2日経連雇用課長との折衝状況等からすると、被告人が乙山に対し公務員の青田買い防止の善処方を働きかけなくても、人事課長会議で申合せがなされる可能性が高かったということができる。しかし、リクルートとしては、本節第二の二で認定したとおり、公務員試験の合格発表日の繰上げを実現しようとする人事院等の動きに抗して、政治家を通じた働きかけをすることで、公務員試験の日程を繰り下げることを企図していたのであり、仮に右企図が奏功して、合格発表日を繰り上げる動きが頓挫すれば、その繰上げについて民間企業側の了解を得るための方策として提示された官庁側の就職協定を遵守する申合せも実現が危うくなり、官庁の青田買い問題が未解決のまま残ることが予想される状況にあったのであるから、被告人が乙山に対し青田買い防止の善処方を請託することは、不合理ではない。
なお、弁護人は、L2日経連雇用課長がR6らを叱責したことからも、「被告人の行動が、結果的に日経連の意向に反するものであったこと、つまり、『申合せ』にみられる公務員の青田買い防止の施策に向けられていたものではなかったことは明らか」であると主張するところ、公務員試験の日程の繰下げを求める被告人の行動が官庁側の就職協定を遵守する申合せと引換えに公務員試験の合格発表日の繰上げを容認しようとするL2日経連雇用課長の意向に反するものであったことは確かであるが、そのことから、被告人の行動が公務員の青田買い防止の施策に向けられたものでなかったと主張するのは、論理の飛躍である。
(四) 公邸訪問時の同行者について
弁護人は、被告人が、公判段階において、五九年三月の公邸訪問にはR7が同行した旨供述するところ、右供述は、被告人を送迎した運転手のR25(以下「R25」という。)の供述や、被告人の出発を見送ったR1及びR26(以下「R26」という。)の供述とも合致するから十分に信用することができ、一人で乙山を訪問したという被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)は信用し得ない旨主張する。
しかし、R7が五九年三月の被告人の公邸訪問に同行しておらず、六〇年三月ころにR8とともに乙山を訪問したことは、後記本節第三で認定するとおりであり、同行者に関する被告人の公判段階における右供述も信用することができない。
(五) 乙山とG2人事院任用局長との電話について
弁護人は、乙山が五九年三月一五日ころにG2人事院任用局長へ電話した際、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせたのみであり、官庁側も一〇―一一協定に合わせるということで理解を得つつあるというG2の説明に対しても、具体的内容を問い質したりせず、特別の関心を示さなかったのであり、そのことは被告人と乙山との間で官庁の青田買い防止の請託がなかったことを示す旨主張する。
この点、乙山とG2との電話の内容は、本節第二の四2のとおりであり、確かに、乙山からG2に対し官庁の青田買い防止を働きかける発言はなされていないが、乙山としては、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由を問い合わせたのに対し、局長であったG2から一応の合理性のある理由を説明され、日経連とも前向きに話が進んでいる旨聞いたことから、その段階で合格発表日の繰上げの話を取りやめにして被告人から聞いた公務員試験の日程の繰下げ案の検討を求めることは不適当であると判断し、かつ、乙山が官庁の青田買い防止策の検討を求める前に、G2が官庁側も一〇―一一協定に合わせる旨話したことから、そうであれば、それ以上に人事院に対し官庁の青田買い防止策の検討を求める必要もないと判断して、特段の質問や要望をしなかったということは、十分に合理的なことである。
したがって、乙山とG2との電話の内容が右のとおりであったことは、乙山に対し官庁の青田買い防止策についても依頼したとする被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性を左右するものではない。
(六) 乙山とI2内閣参事官との会話について
弁護人は、乙山は、I2内閣参事官と公務員試験の日程を巡る話をした際、人事課長会議における申合せの具体的内容を確認する質問をしておらず、そのことは、乙山が人事課長会議申合せに無関心であったこと、ひいては被告人から乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託がなかったことを示す旨主張する。
この点、乙山とI2との会話の内容は、本節第二の四4のとおりであり、乙山からI2に対し官庁の青田買い防止を働きかける発言がなされたわけではないが、乙山は、I2に対し公務員試験の日程の繰上げについて質問し、I2から合格発表日の繰上げが実現する方向にあるという返答を得たのに対し、「この問題は色々反対もあるので、注意して進める必要がある。」と話し、I2から、近く人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをするつもりであるという説明を受けたのであるから、乙山としては、G2からの説明に加えて、内閣参事官で、人事課長会議の主宰者でもあったI2から右説明を受けたことで、被告人から聞いた事柄のうち、公務員試験の日程の繰下げについては実現の余地がないが、官庁の青田買い防止については、各省庁の人事担当課長が集まる人事課長会議で民間の就職協定に協力する申合せをすることで十分な対策になると判断して、それ以上に特段の質問や要望をしなかったということは、十分に合理的なことである。
したがって、乙山とI2との会話の内容が右の程度であったことは、乙山に対し官庁の青田買い防止策についても依頼したとする被告人の捜査段階における供述(本節第二の三1)の信用性を左右するものではない。
(七) リクルートの社内文書の記載について
弁護人は、被告人が乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を請託したのであれば、その後の取締役会で人事課長会議申合せや被告人と乙山との面談の内容が話題になって当然であるのに、前節第一の三6のサンケイ新聞の報道がなされた五九年四月二七日当日に開催されたリクルートのじっくり取締役会議の議事録(甲書1五一一)には、「協定関連」の表題の下で、「マスコミタイアップ」、「国会質問」、「業界・企業への自粛要請」、「文部省アプローチ」等の記載がありながら、人事課長会議や被告人と乙山との面談のことは何ら記載されておらず、再度乙山を通じて人事課長会議に申合せの実効性確保の要請をするなどの方策が検討された形跡もない上、その後の就職協定関連のリクルートの社内文書(甲書1五一三、五一五)にも、人事課長会議申合せや被告人と乙山との面談の内容に関する記載がなく、このような申合せに対する無関心は、被告人から乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託がなかったことを示す旨主張する。
しかし、右議事録(甲書1五一一)や社内文書(甲書1五一三、五一五)は、その記載自体から、今後の方針として確認された事項を整理して記載したものであり、人事課長会議や被告人と乙山との面談に関する記載がないからといって、それらの事柄が話題にもならなかったといえないことは明らかである。むしろ、次節で認定するとおり、リクルートでは、通産省や労働省が青田買いをした旨の新聞報道がなされると、取締役会等でこれを検討し、五九年五月から八月にかけて、丙川二郎衆議院議員に働きかけて、国会で官庁の青田買いにつき追及して政府に人事課長会議申合せ遵守の徹底方を求めてほしい旨要請し、二度にわたって衆議院文教委員会で質問してもらい、うち一度は、リクルートにおいて被告人自身も関与して人事課長会議申合せにも触れた質問案を作成して同議員に渡した事実が認められるのであり、このことからすると、リクルートが官庁の青田買い問題に強い関心を持ち続け、かつ人事課長会議申合せを重視していたことが明らかであるから、弁護人の主張は理由がない。
4 結論
右のとおり信用性の認められる本節第二の三1の被告人の各検面調書によれば、被告人は、五九年三月一五日に公邸を訪問した際、乙山に対し、公務員試験の合格発表日の繰下げのみならず、民間企業において就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が公務員の採用に関し就職協定の趣旨を尊重しないことに一因があるので、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をしたことが認められる。
なお、本件公訴事実には、被告人が、右請託に際し、就職協定が存続・遵守されないとリクルートの新規学卒者向け就職情報誌の発行・配本等の事業に多大の支障を来す旨の説明をしたという記載もあるところ、被告人の元年五月一四日付け検面調書(乙書1二五)には、「公務員の青田買いの問題が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっていて、又、私共も非常に困っております」と話したという記載があるが、右一文から、被告人が乙山に対する請託に際し、就職協定が存続・遵守されないとリクルートの新規学卒者向け就職情報誌の発行・配本等の事業に多大の支障を来すという説明をしたとまで認定することは困難であり、他に右説明をした事実を認めるに足りる証拠はない。
そこで、被告人は、五九年三月一五日の公邸訪問の際、判示第一の二①の請託(本節中において、以下「第一請託」という。)をしたものと認定した。
第三 六〇年三月ころの請託の存在について
一 問題の所在
被告人、R8及びR7の捜査段階における各供述を見ると、被告人は、六〇年三月ころ、R8とR7に対し乙山に公務員の青田買い防止等をお願いするように指示して乙山を訪問させた旨供述し、R8は、同月ころ、被告人から右趣旨の指示を受け、R7とともに乙山を議員会館か公邸に訪問して右趣旨の依頼をした旨供述し、R7は、同月初旬ころ、被告人の指示を受け、R8とともに乙山を公邸に訪問して右趣旨の依頼をした旨供述している。
これに対し、公判段階においては、被告人及びR8は、右指示や訪問を否定する供述をし、R7も、公邸に行った時期が五九年か六〇年かは明確でなく、同行者がR8ではなく被告人であった可能性もある旨の供述をしており、弁護人は、これらの供述に基づき、R7が公邸を訪問したのは五九年三月に被告人が公邸を訪問した際の同行者としてであって、六〇年三月ころに被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問した事実はない旨主張する。
そこで、以下、前節第一の四、第二の四で認定した右時期前後の就職協定を巡る状況やリクルートの動きも踏まえつつ、右訪問の事実及び請託の有無に関する関係者の各供述等を検討し、判示第一の二②の請託(本節中において、以下「第二請託」といい、第一請託と合わせて「本件各請託」ともいう。)を認定した根拠を説明する。
二 R8、R7及び被告人の捜査段階における各供述
1 R8の供述
(一) R8の元年五月一九日付け検面調書(甲書1一三一)
R8は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて、六〇年三月ころの乙山との面談につき詳述しているが、その内容は次のとおりである。
「昭和六〇年の三月ころに、甲野から私とR7が乙山先生への陳情を指示されたと思うのです。」「私とR7が甲野の執務している社長室に呼ばれました。〔中略〕応接セットに私とR7が座りますと、甲野は、『昨年は私がお願いしてきたのですが、今年も官庁の青田買いについては、乙山先生にお願いしたいと思いますので、行ってきてくれませんか。臨教審で青田買いを取り上げてもらうことができないかどうかもお願いしてきてくれませんか。』という意味のことを言ったのでした。甲野からこのような指示を受けて、乙山先生に各省庁の青田買いを自粛するようにお願いすることは昨年と同じでありますから、簡単にお話しできると思いましたが、臨教審で青田買いを取り上げていただくことについての話の持ち出し方については、乙山先生が文部省の政務次官を歴任されて文教族の一人と言われ、その方面の造詣も深いと思われたことから、大変だと思いました。」
「甲野がこのような乙山先生への陳情を私に指示したのは、一つには、私が事業部担当の役員をしていた当時にセミナーや取締役会に来ていただいてお話しをしていただいた際に、私がアテンドとして乙山先生と比較的顔見知りであること、二つ目は、このような難しい場面には、私が適任だと信用していたためだと思いました。甲野から指示されたことを果たさなければならず、臨教審の関係での説明方法をいろいろ考えて悩んだのを覚えています。」
「私とR7が甲野の指示のあと間もなくのころに、二人で乙山先生にお会いしました。お会いした場所については、議員会館でだったような気もしますが、あるいは、官房長官の公邸であったかも知れません。いずれにせよ、私とR7が昭和六〇年の三月ころに、甲野の指示で乙山先生にお会いしたことは間違いありません。」
「青田買いの関係については、『就職協定が守られず、就職秩序が混乱しています。産業界から官庁の青田買いが混乱の種と言われています。私どもが申し上げることではないかも知れませんが、昨年と同じようにお願いします。』という意味のことを言ったように思います。各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申し合わせをさせて欲しいということまでは申し上げるまでもなく、十分御承知いただけるものと思いましたし、乙山先生というりっぱな方にそんな生々しい話もできませんので、この程度の話にとどめたと思うのです。乙山先生は黙って聞いておられ、うなずいておられました。臨教審の関係については、それまでどのように話せばいいのか、いろいろ考えていたのでしたが、臨教審では教育の基本問題を検討すると理解していましたので、青田買い問題などをどのようにドッキングさせるのが良いのかということについての考えが今ひとつまとまりませんでしたし、いざ話そうとしたときには、緊張してしまい、考えていたことの一〇分の一も話せませんでした。私が話したことは、『臨教審では、学歴社会の是正についても御検討いただいているとうけたまわっております。先生に申し上げるのも憚れるのでございますが、企業が大学生を採用する際に有名大学に在学しているということだけで、採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を資料にしないで青田買いに出ることが、大学教育に影を落とし、国民の教育観をゆがめているように思うのです。このような観点から、青田買いの問題などを臨教審でお取り上げいただければと思います。』というものでした。〔中略〕乙山先生は、このような私の話をじっと聞いて下さり、うなずいておられたのでした。同席していたR7は、余り話さなかったように思います。なにか資料のようなものを持参したかどうかについては、よく覚えておりません。時間にしてせいぜい一〇分程度であったと思うのです。大役が終ってホッとしたのを覚えています。」
「リクルートに帰ってから、『行ってまいりました。』という程度の報告を甲野にしたと思います。」
「その年の四月初旬から中旬ころの間に、なにかのときに顔を合わせたR7から、『官公庁の青田買いの件は昨年同様になりました。』という意味のことを言われました。それは、R7が、そのことについて私が陳情したことから関心があるだろうということで、おしえてくれたものだと思うのです。私は、乙山先生にお願いしたことで、乙山先生が御尽力して下さったものだと思ったのでした。また、六月の初旬ころには、臨教審の答申の中に、学歴社会の是正として、指定校制や青田買いの問題が取り上げられたのを知りました。この答申を受けて、教育改革推進閣僚会議を設置することが閣議で決定されました。答申に盛り込んでいただいたことや、閣僚会議の設置などについても、乙山先生の御配慮があったためだと感謝した次第です。」
(二) 右の点に関するR8の供述経過
右(一)の供述に先立つR8の元年四月二四日付け検面調書(甲書1六三二)には、「私は現段階において具体的なやりとりを詳しく思い出せないので、断定的には申し上げられませんが、私が就職協定の件で乙山官房長官にお願いに上がったことはまず間違いないと思います。当時の状況からしてそのようなことがあったと思うのですが、五年前後も前のことでもあり明確な記憶がよみがえらないのです。」「乙山官房長官に会ったのは五九年春頃のことではないかという気がします。」「この〔公務員採用の〕問題について甲野ら私達役員は、会議で話し合いました。〔中略〕官の公務員採用は各省庁にまたがる問題でしたので、官房長官の職務に関係する事項と考え、乙山官房長官に、各省庁の人事担当者らに就職協定に悪影響を及ぼすような活動をさせないように働きかけてもらおうとリクルートでは決めたという記憶です。」「乙山官房長官にお願いすることを決めたのは、この人事担当者会議の前頃だったように思います。乙山官房長官と親しかったのは甲野ですが、その他の役員でつながりがあったのは、私、R7でしたので、私が乙山官房長官にお願いに上がったように思います。R7も一緒だったかもしれません。」という供述が記載されている。
その後の元年四月二七日付け検面調書(甲書1六三三)には、「これ〔甲書1五一〇〕は、当時の取締役会で話題になったことが記載されているものです。」「この取締役会では、政治的な結局をつけるという方向が打ち出されたのでした。一つは、各省庁が青田買いをしないように、それぞれの人事担当者に働きかけてもらうよう各省庁を束ねている内閣官房長官に陳情すること、もう一つは、試験日をずらすよう人事院の方に働きかけてもらうよう官房長官にお願いするということでありました。乙山代議士は、以前、労働大臣をされたことがあり、リクルートで就職協定問題などについてセミナーを持っていただいたことがありました。そのセミナーへの出席と、出席していただいたことのお礼の件で、当時広告事業本部の担当役員であった私と事業部長でありましたR7とが大手町にあった労働省で乙山労働大臣に二度お会いしたという経過がありました。〔中略〕私とR7が乙山官房長官とは、先程申し上げたようないきさつから、面識がありましたので、二人が陳情に行く担当となったのです。私の記憶では、昭和五九年の三月ころに議員会館の方に行ったように記憶しております。検察官から、総理大臣官邸の方に行ったのではないかとの質問を受けておりますが、その記憶はないのです。私とR7とで議員会館で乙山官房長官にお会いした記憶があり、私達二人が乙山官房長官に直接、『各省庁の人事担当者に青田買いをしないように手配していただけませんか。』ということと、『公務員試験の日程を繰り下げるということはできないでしょうか。』という二つのことをお願いしました。」という供述が記載されている。
また、R8の元年五月一三日付け検面調書(甲書1六三五)には、「昭和六〇年の二〜三月ころだったと思いますが、私とR7さんとで、乙山官房長官に陳情したと思うのです。私の発案で行ったというものではなかったと思いますので、甲野からの指示だった筈です。私とR7さんが乙山官房長官にお会いし、今年も前の年と同じように青田買いをしないことを各省の人事担当の方にお話ししていただきたいということと、青田買いと就職協定の問題は大学生の学業専念という立場からも重要なことなので、臨教審で取り上げていただきたいという意味のことをお話ししたように思います。」「私とR7が訪問したところは、乙山先生の議員会館ではなかったかという気がしますが、首相官邸だったかも知れません。」という供述が記載されている。
2 R7の供述
(一) R7の検面調書
R7は、元年五月一五日の検察官の取調べにおいて、「私とR8が官房長官公邸に行った具体的な日時はよく憶えていませんが、昭和六〇年三月初旬頃の〔中略〕I3・甲野会談があった前後頃だったと思いますが、私とR8は、甲野から呼ばれ、『この前の取締役会で決まったように、乙山先生に青田買いのことでお願いに行ってくれないか。』などと臨教審のことや官庁の青田買い問題のことで乙山さんにお願いに行ってくるようにと言われました。」「そこで、私とR8のどちらがアポイントをとったか憶えておりませんが、事前に乙山さん側に連絡をしたところ、官房長官公邸に来て欲しいということであったので、R8と二人で官房長官公邸を尋ねました。」「R8は、乙山さんに対し、『臨教審で青田買いのことを御審議いただいていますが、ありがとうございます。青田買いの現状はとてもひどいもので、昨年も通産省や労働省がフライングをしております。本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうか。また、臨教審の方でもよろしくお願い致します。』などと、要するに、乙山さんの力添えで、官庁が青田買いをしないようにたがをしめていただきたいとか、臨教審の答申の中で青田買いが学歴社会の弊害の一因になっていることを盛り込んでいただきたいとお願いしたのでした。」と供述し(甲書1五七八)、元年五月一七日(甲書1一二三)及び同月二一日(甲書1一二九)の検察官の取調べにおいても、同趣旨の供述をするほか、同月一九日の検察官の取調べにおいて、その経緯、状況につき、次のとおり詳述している(甲書1一二四)。
「確か昭和六〇年三月初旬頃であったと記憶していますが、私とR8は、甲野から社長室に呼ばれました。私とR8が社長室に行きますと、甲野は、私とR8に『どうぞ。』と言って、社長室の応接セットのソファに座るように命じました。甲野は、普段部下を呼びつけて何か指示をする場合、部下を立たせたまま指示をすることが多いのですが、この日は甲野が私とR8に応接セットのソファに座るように命じましたので、甲野が私達に何か大事な用があるのだと思いました。私とR8が応接セットのソファに座わりますと、甲野も、私達に向かい合うようにして応接セットのソファに座わり、私とR8に『昨年は私がお願いに行っているが、乙山先生に会って、乙山先生の力添えで、昨年同様、官庁の青田買いを防止していただけないかということで、お願いに行ってくれないか。』とか、『この前の取締役会で決まったように、臨教審の答申の中に青田買いのことを盛り込んでいただければありがたいとお願いしてくれないか。』などと言いました。」
「私とR8が甲野から右のような指示を受けた時期は、昭和六〇年三月初旬頃に間違いないと思います。まず、私とR8が甲野から先程のような指示を受けた年度が昭和六〇年であるということは、甲野が私達に指示をした時の『昨年は私がお願いに行っているが。』との言葉からお判りいただけると思いますし、後でお話しするように、私とR8は、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬頃出た通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の写しを乙山さんの所に資料として持って行っておりますので、私とR8が甲野から先程のような指示を受け、官房長官公邸にお伺いしたのは、昭和五九年ではなく昭和六〇年に間違いありません。次に、私とR8が甲野から先程のような指示を受けた時期は、昭和六〇年三月初旬頃であったと思います。というのは、後でお話しするように、昭和六〇年四月一〇日に各省庁人事担当課長会議が開かれ、前年の各省庁人事担当課長会議の申し合わせどおり本年も引き続いて協力するとの申し合わせがなされましたが、私の記憶では、私とR8が甲野から乙山さんの所にお願いに行くようにと言われたのは、昭和六〇年四月一〇日の会議の約一ヶ月位前であったという記憶があるからです。また、〔中略〕I3・甲野会談は昭和六〇年三月二日に行われており、私とR8が甲野から先程のような指示をされたのがその会談の前であったか後であったか判らないものの、その会談の前後頃であったという記憶があるのです。」
「甲野が私とR8とで乙山さんの所に先程のようなお願いをして来いと指示した理由ですが、R8が元事業部担当の取締役をしており、私が事業部長としてR8の下で働いていたことがあり、以前は、R8―R7ラインで動いていたことがあり、乙山さんが労働大臣時代、R8と私が労働問題に関する講演を乙山さんに依頼をしに行ったことがありますので、そのようなことを知っていた甲野は、乙山さんと面識のあるR8と私が乙山さんにお願いするには適任であろうと考えたのだと思います。R8は元事業部担当の取締役をしていた関係もあって、就職協定のことについては詳しい上、R8は、周りの人から、『リクルートの外務大臣』と呼ばれるなど政治的折衝力にたけている人であったので、甲野は、乙山さんの所に先程のようなお願いをしに行く人物として、私の他R8を選んだのだと思います。」
「私とR8は、甲野から以上のような指示を受けましたので、乙山さんの所にお願いに上がることにしたのですが、R8から『乙山先生にお願いをする時に使うので、簡単な資料を作ってくれないか。』などと言われましたので、先程申し上げたように、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の切り抜きをコピーしたものをそろえたり、公務員試験の日程や現在の就職協定の期日、すなわち会社訪問開始日が何月何日で、採用選考開始日が何月何日で、求人票等の学生への提示が何月何日以降であるなどという資料を書面にしたためました。〔中略〕私は甲野から先程のような指示を受けた後、確か議員会館の乙山さんの事務所であったと思いますが、電話をして、電話口に出た人に『リクルートの社長室長のR7と申しますが、乙山先生にお会いしてお願いしたいことがあるのですが。』などと言いました。〔中略〕先方から『○月○日に官房長官公邸に来てほしい。』と言われましたので、官房長官公邸に行くこととなったのです。」
「私とR8が官房長官公邸を尋ねた日は、甲野から指示を受けた日ではなく、その数日後であったと記憶しています。その具体的な日時はよく憶えていませんが、昭和六〇年三月初旬頃の寒い日でした。そして、確か午前中に官房長官公邸に伺ったと記憶しています。私とR8は、官房長官に会う訳ですから、背広を着てびしっとした身なりで官房長官公邸に伺いました。私とR8は、リクルート本社から車に乗って官房長官公邸に行きましたが、社用車で行ったか、あるいはタクシーで行ったか、この点はよく憶えておりません。私はこれまで官房長官公邸に行ったことはなく、官房長官公邸に行くのはこの日が初めてでした。確か官房長官公邸玄関を開けてもらうまで門番などのチェックを受けたと思います。私とR8が官房長官公邸を尋ねますと、秘書の方が中に入れてくれました。その秘書の方は、先程お話ししたように、私が事前にアポイントをとっておりましたので、私達のことを待っていてくれたのではないかと思います。私とR8は、玄関を入り、確か玄関の右側にある会議用の大きなテーブルが置いてあった部屋に通されました。そして、秘書の方から『しばらく待っててください。』などと言われましたので、私とR8は会議用の大きなテーブルの前の椅子に座って乙山さんがいらっしゃるのを待っていました。その時、私はその部屋の中を見回したのですが、とても古い感じのする部屋で、その日はとても寒かった上に部屋の暖房がよくきいておらず、座っていてもすごく寒く感じたことを今でもよく憶えています。先程お話しした資料については、官房長官公邸に来る前は私が手に持っていましたが、乙山さんが私達のいる部屋にいらっしゃる前にR8に渡しておきました。」
「しばらく待っておりますと、乙山さんが奥の方から私達のいる部屋にやって来られましたが、その時、乙山さんは、背広を着ておられ、スリッパを履いておられました。私は、乙山さんが私達のいる部屋に入って来られましたので、椅子から立ち上がり、乙山さんに『お邪魔します。』と挨拶をしました。R8も、椅子から立ち上って同じような挨拶をしていたと思います。乙山さんは、私達が右のような挨拶をしますと、私達に椅子に座わるようにと言ってくれ、乙山さんも、私達に向かい合うようにしてテーブルの前の椅子に座られました。先程申し上げたように、私とR8が官房長官公邸を尋ねた日は寒い日で、公邸内は暖房がきいていないような気がしました。だから、私達は寒そうな格好で椅子に座っていたのだと思いますが、乙山さんは、そんな私達を見て、『この建物は古いので暖房が十分行き届かないんです。』などと言っていらっしゃいました。その後、R8は、甲野に指示されたように、乙山さんに対し、官庁の青田買い防止のことや臨教審のことでお願いをしました。R8は、乙山さんに『御多忙のところ申し訳ありません。』などと言った上、先程説明した昭和五九年四月下旬及び五月下旬の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の写しをお見せしながら、官庁の青田買い防止のことについては、『青田買いの現状はとてもひどいもので、昨年も通産省や労働省がフライングをしています。就職秩序を守らせることが学生や産業界の為になることであり、産業界は官庁が青田買いをしていることが混乱の原因になっているといっておりますので、本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうか。』などと、先程申し上げたような権限を持っていらっしゃる乙山官房長官の力添えで、官庁が青田買いをしないようにたがをしめていただきたいとお願いしました。R8は、臨教審のことについては、『臨教審で青田買いのことを御審議いただいていますが、ありがとうございます。企業が学生を採用する際に有名校に在学しているということだけで採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を参考にしないで青田買いをすることが大学教育に影を落し、教育に対する価値感をゆがめている原因の一つになっているのではないかと思うのです。このような観点から、指定校制の問題と青田買いの問題を取り上げて答申に盛り込んでいただければありがたいのですが。』などと、先程申し上げたような権限を持っていらっしゃる乙山さんの力添えで、臨教審答申の中で青田買いが学歴社会の弊害の一因になっていることを盛り込んでいただきたいとお願いしました。このようにR8は、甲野の指示どおりに、乙山さんにお願いをした訳ですが、私は、R8が右のようなお願いをしている時、頭を振って相槌を打ちましたが、何も言いませんでした。もちろん、私はR8と一緒に乙山さんにお願いをしているという気持ちは持っていましたが、R8が乙山さんにいろいろお願いしておりましたし、R8にまかせておけば私がいちいち口をはさむ必要もないと考えたので、何も言わなかったのです。乙山さんは、R8の説明を『そうですか、そうですか。』などと言って熱心に聞いておられ、私共のお願いに対し、『考えてみましょう。』などとおっしゃってくれました。乙山さんがそのようなことをおっしゃってくれましたので、私とR8は、乙山さんに『よろしくお願い致します。』などと言って椅子から立ち上がり、公邸を去りました。確か、乙山さんは私達を玄関の所まで見送ってくださったと記憶しています。私とR8が官房長官公邸にどの位いたかはっきり憶えていませんが、だいたい一〇分位いたと思います。」
「私とR8が官房長官公邸に行って乙山さんに右のようなお願いをした状況については、会社に戻ってR8と一緒に甲野に報告致しました。すなわち、私とR8は、甲野の部屋に行き、R8が『乙山先生に官庁の青田買い防止のことや臨教審答申の中で青田買い防止を盛り込んでいただければありがたいと頼んだところ、乙山先生は考えてみましょうとおっしゃっていました。』などと報告しておりました。甲野は、私達に『御苦労様。』と言っておりました。」
(二) 右の点に関するR7の供述経過
右(一)の供述に先立つR7の元年四月一〇日付け検面調書(甲書1六七九)には、「具体的な時期はよく憶えていませんが、私はリクルートのR8取締役と一緒に官房長官の公邸に行って乙山一郎官房長官とお会いしたことがありました。」「その用件については、確か就職協定問題のことであったと思いますが、リクルートは就職協定が存続されかつ遵守されることを望んでいたものの、通産省や労働省といった官庁がいわゆる青田買いをして就職協定の趣旨を逸脱するような行為をしておりましたので、官房長官である乙山さんに各省庁が就職協定を遵守するような通達を出すことが出来ないかとか、会議を開いて各省庁に就職協定を遵守するよう指導していただけないかとか、就職協定問題に関し各省庁のたがを締めることが出来ませんかというお願いをR8さんと一緒にしたと思います。」という供述が記載され、同月一六日付け検面調書(甲書1六八三)には、「私が乙山官房長官の所に官庁の青田買いのことでお伺いした時期がいつであったか、はっきり憶えていませんが、とても寒い日であったことをよく憶えており、昭和六〇年の一〜二月頃でなかったかと思います。私はR8さんと官房長官公邸に乙山官房長官を尋ねました。」「私達は就職協定に関する資料を持参した訳ですが、R8さんが乙山官房長官に対し、就職協定の歴史や現状、それに労働省や通産省が青田買いをしているということを資料に基づいて説明し、『各省庁の人事担当責任者の方を集めて会合を開いていただき、官庁が青田買いをしないように徹底していただけませんか。』などとお願いいたしました。」という供述が記載され、元年四月一九日付け検面調書(甲書1六八八)にも、「私自身六〇年一〜二月頃であったと思いますが、〔中略〕R8と一緒に乙山さんに会って官庁の青田買いを自粛してほしいとお願いに行っております」という供述が記載されている。
さらに、R7の元年五月一六日付け検面調書(甲書1六九四)にも、六〇年三月初旬ころ、R8と一緒に公邸に行って右(一)と同趣旨の依頼をした旨の供述が記載され、元年五月二〇日付け検面調書(甲書1六九五)にも、R8以外の者と乙山に陳情に行ったということはなく、陳情の場所が公邸であることについても、自分が公邸に行ったのはR8と一緒に乙山に陳情に行った一度きりであり、陳情の場所を間違うはずがない旨の供述が記載されている。
3 被告人の供述
(一) 被告人は、元年四月二二日の検察官の取調べにおいて、「昭和六〇年初めころのT会議においても、就職協定遵守のための方策が話題になりました。T会議で決まった方策というのは、ひとつには、主要経済団体にアプローチして協定遵守を呼びかけたり、適宜就職セミナーを開いて協定遵守を周知させるといった対策が出ており、また、D6文部大臣に陳情するということも決まった記憶です。さらに、そのころのT会議だった記憶ですが、官庁の青田買い防止のために乙山官房長官に陳情するという方針も出ました。D6文部大臣に対してはR6がアプローチを担当することになり、乙山官房長官についてはR8及びR7が担当しました。」「乙山官房長官については、私がR8及びR7に対して、『官房長官のところへ行って官庁の青田買いを防止するために何とかして欲しいということをお願いしてきてくれ。』などと言って指示しております。D6文部大臣や乙山官房長官へのこれら陳情については、私はそれぞれの担当者から、陳情してきた旨の報告を、後日、受けております。」と供述し(乙書1一〇)、元年四月二七日の検察官の取調べにおいては、「具体的にいつ頃の取締役会で決定されたのか正確な事は覚えておりませんが、乙山官房長官に対しては、各省庁が学生の青田買いをやっているので秩序ある公務員の採用活動をしてもらうべく関係各省庁への善処方をお願いするということを決めて、その後時期ははっきりしませんが、私の部下のR8専務、R7取締役らが乙山官房長官を訪ねて只今申し上げたような趣旨で就職協定が守られるよう善処方を要請したと聞いております。」と供述し(乙書1一二)、同月三〇日(乙書1一四)、同年五月六日(甲書1一六)、同月一三日(乙書1二四)及び同月一四日(甲書1二五)の検察官の取調べにおいても、繰り返し、六〇年春ころ、R8及びR7が乙山に対し官庁の青田買い防止を陳情した旨の供述をしている。
(二) 被告人は、また、元年五月一一日の検察官の取調べにおいて、「乙山一郎先生に対し、リクルートの取締役であったR8専務、R7取締役の両名が、取締役会の決定で、昭和六〇年二〜三月頃、就職協定の問題、具体的に言えば、公務員の青田買い防止等について善処方を陳情したことがありました。」「私共としては、この時迄の取締役会などで、臨教審の答申に青田買いの防止と就職協定の遵守存続が盛り込まれることが望ましいということで論じ合ったこともありましたが、乙山先生に対し、明らさまにそういうことをお願いしたつもりはな〔い〕」という供述をするが(乙書1二二)、元年五月一七日の検察官の取調べにおいては、「私共リクルートでは、昭和六〇年三月初旬頃にも、私の指示で、R8専務、R7取締役の両名が乙山官房長官に対して公務員の青田買いの防止や臨教審でのこの問題の取上げ(もし可能ならば)などにつき善処方を陳情した事実がありました。」と供述している(乙書1二六)。
さらに、元年五月一八日の検察官の取調べにおいては、「昭和六〇年の三月頃であったと思いますが、初旬であったか中旬であったかはっきりしませんが、いずれにしてもその頃、私はリクルート本社の一〇階にある私が居る社長室の応接室にR8とR7を呼び、『前の取締役会で決ったように乙山先生に公務員の青田買いを防止するということでお願いに行ってくれないか。』と頼みました。」「更に二人に対し、『臨教審の答申でも、もしその問題に触れてもらえればありがたいということで、乙山先生に頼んできてくれないか。』ということも指示をいたしました。」という供述をし(乙書1二七)、元年五月一九日の検察官の取調べにおいても、「昭和六〇年二月か三月ころと思いますが、取締役会で公務員の青田買いのことが話し合われ、その結果、私は、R7及びR8に指示して、乙山官房長官に会いに行かせております。これは、乙山官房長官に再度、公務員の青田買い防止等につき、お願いに行かせたのです。その際、R7らに対し、併せて公務員の青田買い防止の問題と臨教審との関連についてもお願いするよう指示しております。」という供述をしている(乙書1三〇)。
4 被告人の捜査段階における供述の任意性
(一) 弁護人の主張
弁護人は、右3の被告人の各検面調書記載の供述について、次の理由で任意性がない旨主張する。
(1) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)について
被告人は、R8及びR7に対し乙山に陳情するように指示した記憶はなかったが、P4検事は「取締役会議事録がある。理屈ではこうなる。R8、R7、R10らの調書もある。四月末までには捜査を終わらせるので調書に早く署名してほしい。」などと言って、調書に署名することを執拗に迫った。
被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で勾留されていた当時、その件が終われば早期に釈放されるであろうと期待していたが、同事件で起訴された後、新たに複数の政治家との関係等について追及を受け始めたことから、保釈の期待が崩れ、その精神的ショックに加え、いつまで捜査が継続し、身柄拘束を受けるのか分からない不安感と、自分の行く末はすべて検察官の手に握られているという絶望感から、自殺をしたい衝動にまで駆られる精神状態に陥った。
右状況の中で、被告人は、P4検事の追及に対し、全く抵抗力をなくしてしまい、右検面調書に署名することを余儀なくされた。
(2) 被告人の元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)について
I1内閣の退陣表明やI1の元秘書の自殺に関して、被告人は、I1政権を崩壊させた上、元秘書を自殺に追い込んだのは自分だという自責の念から、一層追い詰められた精神状態に陥った。
元年四月二七日の取調べにおいて、P2検事は、被告人の心理状態に付け込み、「丙川次郎、Yの他にI3か乙山をやりたい。どちらかをやらないと収まらない。特捜がここまで調べて、乙山代議士について新聞も大きく報道しているので、乙山さんに何もなかったということでいまさら引っ込むわけにいかない。早期解決、早期決着を図りたい。もしも乙山代議士について認めなければ、特捜は徹底して、E3ら関連する政治家を全部やる。そうすると、全面的な対決になり、捜査は長期化する。そうすれば、本当にリクルートはつぶれてしまう。政局も混乱する。早期解決、早期決着が大局的見地から見て得策だ、という観点に立って欲しい。その方がリクルートにとっても、日本の国にとっても、あなたにとってもプラスだと思う。早期決着すればあなたも早く出れる。」などと追い打ちをかけたため、被告人は、リクルートの行く末にますます不安を持ち、右検面調書に署名させられた。
(二) 取調状況に関する被告人の供述等
被告人は、公判段階において、検察官の取調べの際にR8らに対し乙山に請託するように指示した旨供述した理由に関し、弁護人の右(一)の主張に沿う供述をし、弁護人作成の元年八月一四日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八三)には、同年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)について右と同趣旨の記載があり、弁護人作成の同月二八日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1八六)及び弁護人作成の同年七月一二日付け報告書(被告人との面会結果を報告したもの。弁書1八四)には、同年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)について右と同趣旨の記載があるほか、弁護人作成の同年八月一六日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八五)にも、同検面調書やその他の調書にR8及びR7が乙山に請託したことを聞いていたという記載があるのは、検事から「R8とR7が、そのように言っている。取締役会の議事録にも、その旨の記載がある。」と言われてやむなく迎合したからであるという記載がある。
(三) 任意性に関する検討
確かに、本節第二の三5(一)のとおり、元年四月下旬当時の被告人の精神状態については、同年二月一三日に逮捕されてから約二か月半身柄を拘束され、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められる。
しかし、本節第二の三5(二)のとおり、乙山に贈賄したことに関する被告人の取調べは、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後、起訴後の勾留中の任意捜査として行われたものであり、その当時、被告人は、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていたのであるから、右のような事情があったからといって、検察官の取調べに対し意に反する供述をし、あるいは事実と異なる供述の記載された調書に署名することを余儀なくされたという被告人の公判段階における右(二)の供述は、信用性に乏しい。また、被告人は、右3(一)のとおり、同月二二日の検察官の取調べにおいて、R8及びR7に対し乙山に請託するように指示したことを認めているが、これは、同月二五日にI1首相が予算案成立後の内閣総辞職を表明し、同首相の元秘書が自殺する前のことであるから、それら出来事と右指示を認める被告人の供述との間に関連性がないことは明らかである。
さらに、右取調べ当時、弁護人は、ほぼ毎日、長時間にわたって、被告人と接見をし、接見内容の報告書を作成した上、公証役場で確定日付を得ていたところ(〈証拠略〉)、R8及びR7に対し乙山に請託するように指示したことを最初に認めた調書である元年四月二二日付け検面調書が作成された直後の報告書は証拠として請求されておらず、その点に触れた報告書は同月二八日付けのものが最初である上、いつ保釈されるか分からないという不安や自殺衝動等で検事に抵抗する気力がなくなったから供述したという点は、同年八月一四日付け陳述録取書に初めて記載されていることからすると、被告人の公判段階における右(二)の供述は、裏付けを欠き、信用性に乏しいものである。
したがって、右3の各検面調書の作成過程において、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
三 弁護人の主張と被告人及び関係者の公判段階における各供述
1 弁護人の主張
弁護人は、R8は一度も乙山を公邸に訪問したことがなく、R7も、実際は、五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した機会に同行したのであって、R7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))は時期と同行者を取り違えて供述したものであり、六〇年三月ころに被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問した事実はない旨主張する。
2 R8、R7及び被告人の公判段階における各供述
R8、R7及び被告人は、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における各供述(本節第三の二1、2、3)と異なる趣旨の供述をしている。
(一) R8の供述(〈証拠略〉)
六〇年に乙山と会ってお願い事をしたことはなく、同年中に乙山と会ったことすらない。
(二) R7の供述(〈証拠略〉)
誰かと一緒に乙山を公邸に訪問したこと自体は間違いなく、公邸には一度しか行ったことがない。しかし、それが五九年であったか六〇年であったか明確な記憶はない。
また、捜査段階においてR8と同行した旨供述したのは単なる思い込みによるものであり、同行者が誰であったか明確な記憶はなく、可能性がある者として、被告人を含む六名の上司がおり、R8ではないように思うが、R8である可能性も否定しきれない。
(三) 被告人の供述(〈証拠略〉)
六〇年三月ころにR8とR7に対し乙山に請託するように指示したことはなく、そもそも公邸に訪問するように指示したこともない。
五九年三月一五日に乙山を公邸に訪問した際は、R7と二人で行った。捜査段階においては、随行者の有無ははっきりしないと供述していたが、R7と行ったかもしれないという漠然とした感覚は持っていた。しかし、検事から、R7はR8と一緒に行ったと供述していると言われ、自分でも、R7と行ったという記憶もなかったので、調書上は一人で行ったということになった。ところが、公判準備のため弁護士と打合せをした席上で、R1に対し、自分はR7と行ったという記憶である旨話したところ、R1から、R1がアポイントメントを取って、R7と被告人がリクルート本社一〇階で待ち合わせをし、被告人の自動車にR7が一緒に乗って公邸へ行った旨言われ、その時の情景が思い浮かんだ。
3 五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した際の同行者に関する供述
五九年三月に被告人が乙山を公邸に訪問した際の同行者については、リクルート関係者の次の趣旨の公判段階における各供述もある。
(一) R1の供述(〈証拠略〉)
被告人が乙山を訪問する三、四日前、被告人の指示で、A1に連絡してアポイントメントを取り、A1から乙山を訪問する日時、場所について指示を受けた。その後、R7がエスコート役として同行することになったので、R7に対し、公邸の入り方、場所のレイアウト、その他A1から言われたことを伝えた。
当日早朝にリクルート本社で待っていると、被告人とR7が出社してきて、両名が地下の車止めから公邸に向かうのをR26とともに見送った。社用車は私が手配し、R25が運転していた。被告人とR7が乙山を訪問した用件は、聞いていないので、知らなかった。
元年秋、リクルートの会議室において、弁護人が同席して、裁判の準備のため打合せをしていた機会に、被告人から五九年三月に乙山を訪問した際の同行者について尋ねられ、R7が一緒であった旨答えた。
(二) R25の供述(〈証拠略〉)
五六年一〇月以降、被告人専属の運転手をしていたが、被告人を乗せて公邸に出かけたことが一度だけあり、それは乙山が官房長官であった当時である。通常は朝九時半ころに被告人の自宅へ迎えに行っていたが、被告人が公邸に訪問した当日は、いつもより朝早く自宅に迎えに行き、おそらくは公邸に行く前にリクルート本社に寄ったと思う。
当日の同行者について、公邸まで送る際のことは思い出せないものの、公邸からの帰途に、誰かは思い出せないが、被告人のほかに一人を同乗させ、その人から「寄るところがある」と言われて、地下鉄霞ヶ関駅の入口で降ろした記憶がある。公邸でその人が乗る時に違和感を覚えなかったので、その人はリクルートの人で、行きにも乗せていたと思う。
(三) R26の供述(〈証拠略〉)
五八年六月から五九年四月までの間、社長室において被告人の身近で秘書的な仕事をしていたが、その間、被告人が午前九時の始業前に出社したことが二回ある。そのうち一回は、R1、R7、被告人の順に出社して、その三名が地下に降りていったので、私も同行し、R1とともに、被告人とR7が被告人の専用車で出かけるのを見送った。
4 乙山の供述(〈証拠略〉)
乙山は、R7やR8が公邸に来たという記憶はない旨供述している。
四 考察
1 就職協定を巡る状況等とR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述との符合
前節第一の三、第二の四で認定した六〇年前半当時にリクルートが置かれた就職協定を巡る客観的状況やリクルートの動き、特に、被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者が同年一月二一日のL1日経連専務理事の発言を受けて、就職協定が今後は廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、同月二三日ころの取締役会において、六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審関係者に右方向で働きかけをする旨合意したこと、実際に、R6が、そのころ、文部大臣を訪ねて、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明して、臨教審における議論の対象として取り上げてほしい旨陳情し、被告人が、臨教審の部会において、就職協定の遵守の重要性に触れた意見を述べ、リクルートの主催で、就職協定が遵守されるようにするために就職協定セミナーを開催し、同年四月から六月ころにかけても、事業部を中心に就職協定を巡る状況について情報収集活動に励んでいたことからすると、リクルートが、就職協定が廃止の方向に向かうことに対する危機感から、官庁の青田買い問題を含む就職協定の存続に影響を与える問題に深い関心を有し、その存続に向けた各種活動をしていたことが明らかであり、乙山に請託したことを巡るR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)は、そのような状況とよく符合している。
2 R8の供述について
(一) R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))は、乙山を訪問して官庁の青田買い防止の措置に関し依頼したことがあるということ自体については、元年四月二四日の検察官の取調べ以降一貫して認める内容になっているものの、乙山と面談した場所が曖昧であるほか、面談の時期について、同月中の取調べにおいては五九年三月ころと供述していたのが、元年五月一三日の検察官の取調べにおいて六〇年二、三月ころと供述が変わり、乙山に対する依頼の内容についても、元年四月中の取調べにおいては各省庁の人事担当者に青田買いをしないように手配してもらうことと公務員試験の日程を繰り下げることの二点と供述していたのが、同年五月一三日の検察官の取調べにおいて各省庁の人事担当者に青田買いをしないように話してもらうことと就職協定問題を臨教審で取り上げてもらうことの二点であったという供述に変遷している。
(二) R8は、公判段階においては、元年四月二四日付け検面調書(甲書1六三二)の記載は、乙山の所へ行った覚えがないという供述を繰り返していたところ、同月一七日ころ以降の取調べ中に、検察官から、R8とともに乙山に陳情したことを認めるR7の調書があると言われたり、R7の調書を読み聞かせられたりし、R7が供述をしているのに認めないのであれば毎日検察庁に来てもらうなどと言われ、さらに、同月二四日の検察官の取調べにおいては、「逮捕することになるぞ」、「君が否定し続けるならR8事件になるぞ。」などと言われ、R7とR8に指示をした旨の被告人の調書も読み聞かせられて、逮捕を避けるために、検察官が作文した調書に署名したものにすぎず、訪問の時期を五九年としたのも、検察官がR7の調書に合わせて勝手に記載したのであり、元年四月二七日付け検面調書(甲書1六三三)も、検察官の全くの作文であるが、検察官から心理的に脅され、捜査に協力しなければ自分の立場が厳しくなるというおそれから署名したものであり、同年五月一三日付け検面調書(甲書1六三五)も、検察官の作文であり、いったんは署名を拒んだものの、検察官に押し切られて署名したものにすぎないし、同月一九日付け検面調書(甲書1一三一)も、自分は具体的な供述をしていないのに、自分がパーティーに出席している間に検察官が作文した調書に、自己保身のために署名したにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
R8が検察官の取調べを受けた後に作成した書面(弁書1三二〜三五)には、①元年四月一〇日から一三日までの取調べにおいて、検察官から、五九年春ころに乙山を公邸に訪問して就職協定に関するお願いをしただろうと追及され、元年四月二四日の検察官の取調べにおいては、R7や被告人の供述調書の一部まで読み上げて厳しく迫られ、自分には公邸に行った記憶はなかったので、訪問していない旨一貫して述べていたが、検察官が一方的に同日付け供述調書を作成したこと(弁書1三二)、②自分は、乙山を公邸に訪問した際の情景や印象として何も思い出せなかったので、その旨主張したところ、検察官が「R8事件にするぞ」と言って迫ったため、新聞に名前が出たり、逮捕されることを恐れ、また、被告人もR7もその旨供述しているのならば自分一人が抵抗しても仕方ないと思い、署名したこと(弁書1三二)、③同月二七日の別な検察官の取調べにおいて、乙山に何かを頼みに行った記憶はない旨主張したが、検察官は、強引に同日付け供述調書を作成し、自分や家族の資産と預貯金の額を尋ねられ、前回の取調べで逮捕される恐怖を感じていたことに加えて、今職を失ったら食べていけるのかなどと言われて心胆を寒からしめられ、抵抗できずに署名したこと(弁書1三三)、④同年五月一三日の検察官の取調べにおいても、検察官から、R7と被告人の二人が明確に供述しているのだから間違いないし、表現を工夫するから調書作りに協力してくれないかなどと迫られて、不本意ながら署名したこと(弁書1三四)、⑤同月一九日の検察官の取調べの際も、乙山に対する陳情に同行した記憶は全くない旨述べたが、検察官から、R7がはっきりとR8と同行した旨供述しており、同行者はR8しか考えられないし、この調書は一〇〇分の一のウェートもないなどと言われて、不本意ながら署名したこと(弁書1三五)の記載があり、各調書の作成日の数日ないし十数日後の公証日付が付されており、同年九月に弁護人が作成した陳述録取書(R8の陳述を録取したもの。弁書1三六)にも同趣旨の記載がある。
(三) しかし、R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))には、一部曖昧な部分があるものの、他方で、検察官が誘導できるような内容ではなく、R8が供述しない限りは判明しない事項が随所に見られる。また、R8は、乙山に対し、官庁の青田買い防止策の話についてはスムーズに話すことができたが、臨教審の答申に青田買い問題を盛り込むことに関しては、どのように話すべきか悩んだなどと、実際の体験でなければ述べることが難しい具体的な供述もしており、その供述の内容自体からして、信用性が高い。
(四) さらに、R7及び被告人の各供述経過とR8の供述経過とを対比すると、R7は、R8とともに乙山を訪問した場所については、元年四月一〇日の検察官の取調べ以降一貫して公邸である旨供述し、時期についても、同月一六日及び同月一九日の検察官の取調べの段階で、六〇年一、二月ころであったと思う旨供述しており、被告人も、元年四月二二日の検察官の取調べの段階で、六〇年にR8とR7が乙山に対する陳情を担当した旨供述していたのに対し、R8の検面調書を見ると、場所については、元年四月二七日付け検面調書には議員会館、同年五月一三日付け検面調書には議員会館か首相官邸という記載があるのみで、公邸で会った可能性には触れられておらず、R7の供述との間で齟齬があるし、時期についても、R8の同年四月二四日付け及び同月二七日付け各検面調書には、五九年春のこととして記載されていて、R7及び被告人の各供述と齟齬している。
右齟齬からすると、R7や被告人が供述しているから認めろと迫られて検察官の作文に署名した旨のR8の弁解は信用し難く、むしろ、元年四月の検察官の取調べの段階で右齟齬があったことは、R8が検察官からの強要や誘導によってではなく、自己の記憶として乙山に請託したことを認める供述をしていたことを示すものということができる。
(五) 加えて、R8の公判段階における供述(〈証拠略〉)によれば、R8は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて供述した当時(本節第三の二1(一))、被疑者として逮捕されておらず、取調べの前後には弁護士と相談するなどして、自己の立場を守るべく、慎重な姿勢で取調べに臨んでいたことも認められるから、R8が被告人の指示を受けてR7とともに乙山と面談したことが一度もないという断定的な記憶があったのならば、捜査段階においてもその旨の供述を維持することが可能であったはずである。
(六) 結局、R8の公判段階における供述(本節第三の三2(一)、右(二))や供述書(右(二))等の記載は、R8の捜査段階における供述(本節第三の二1(一))の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
3 R7の供述について
(一) R7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))の内容は、具体的、詳細であり、臨場感に富んでいて、実際の体験者でなければ語ることが困難なものであり、その供述の内容自体からして、信用性が高い。また、乙山に対する依頼の内容として臨教審の関係に触れているのは元年五月一五日付け供述調書が初めてであるが、官庁の青田買い防止の措置に関する依頼については、同年四月一〇日の検察官の取調べ以降一貫してこれを認める供述をしている。
(二) 公邸訪問の時期に関するR7の捜査段階における供述(本節第三の二2(一))は、「I3・甲野会談があった前後頃」という具体的な根拠を示して、六〇年であることは間違いないというものである上、R7が根拠として挙げること以外にも、右供述では、乙山に対する依頼事項として、臨教審の答申に青田買い問題を盛り込んでもらうことに触れており、その点はR8及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、3)とも一致しているところ、前節第一の五のとおり、臨教審は、五九年八月に発足し、六〇年六月に第一次答申を出したのであるから、仮に、R7が五九年三月の公邸訪問の際の状況を取り違えて六〇年三月ころのこととして供述したとすれば、臨教審の答申の関係に触れるのは時期的に見て矛盾することである。
また、R7が五九年三月に被告人とともに乙山を公邸に訪問したとすれば、その際の陳情には、本節第二のとおり、公務員試験の日程の繰下げが官庁の青田買い防止の善処方と並ぶ重要な事項として含まれていたのであるから、陳情の内容に関するR7の捜査段階における供述に公務員試験の日程の繰下げに触れた部分があるのが自然であるのに、それに触れた部分は一切ない。このことは、R7の公邸訪問の時期が五九年三月の被告人の公邸訪問とは別の機会であったことを示唆するものである。
なお、弁護人は、R7の元年五月一九日付け検面調書には、乙山を訪問した際、「公務員試験の日程や就職協定の期日」の資料を書面にして持参した旨の供述記載があり、「公務員試験の日程」の語句は挿入により記載されたものであるところ、R7が公務員試験の日程に関する資料を持参したということは、乙山に公務員試験の日程に関して相談に行ったことを示すものであり、それはまさしく、時期的には五九年三月のことであるから、同行者は被告人であったことになる旨主張する。
しかし、R7の右供述記載は、「公務員試験の日程や就職協定の期日」の資料を持参したというものであって、「試験日程に関して相談に行った」などという供述記載は全くないし、公務員試験の日程と就職協定による会社訪問解禁日や採用選考開始日との関係は、官庁の青田買い防止を図る上で前提となる情報であるから、R7が捜査段階において供述する六〇年三月ころの請託(第二請託)の内容(本節第三の二2(一))と整合するものであり、弁護人の指摘する供述記載はR7の訪問が五九年三月であることの根拠になるものではない。
(三) R7が公判段階において公邸訪問の際の同行者につき供述する内容も、本節第三の三2(二)のとおり、被告人とR8を含む六人の上司のいずれかである可能性があるが、誰かは特定できないという曖昧なものであり(〈証拠略〉)、乙山を公邸に訪問したのは多分被告人の指示によるものと思うし、乙山と話したことは後で被告人に報告していたのではないかと思う旨の供述(〈証拠略〉)は、被告人に同行したこととは相容れないものである。
そして、公邸は、民間企業の社長室長であったR7にとって日常的には訪れる機会のない特殊な場所であり、R7自身も、捜査及び公判段階を通じ、公邸を訪問したのは一度のみである旨供述している。R7がそのような体験をした場合において、年月の経過に伴い、訪問の時期の記憶が曖昧になり、会話の詳細に関する記憶も曖昧になるのは、あり得ることではあるが、官房長官という要職にあった乙山を公邸という特殊な場所に訪問し、同行者が乙山に陳情する状況を同席して見聞きしたという経験をしながら、その同行者が、自分が社長室長として日ごろから仕えていた社長の被告人であったか、専務のR8であったかについて記憶が混乱するのは考え難いことである。したがって、R7が、実際に、五九年三月に被告人に同行して乙山を公邸に訪問したのであれば、捜査段階から被告人に同行した旨供述し、公判段階においてもその旨を明確に供述し得るはずであり、R7の公判段階における供述(本節第三の三2(二))のうち、公邸訪問の同行者が被告人である可能性を述べる部分は、それ自体不自然で、信用することができない。
4 被告人の供述について
(一) 被告人の捜査段階における供述(本節第三の二3)に任意性を疑うべき事情がないことは、本節第三の二4で検討したとおりである上、その供述の内容は、被告人自身にとっても、被告人が応援していた政治家である乙山にとっても不利益な事実であり、そのこと自体、右供述の信用性を支える重要な事情ということができる。
(二) 被告人の公判段階における供述のうち、五九年三月に乙山を公邸に訪問した際にR7が同行したという部分(本節第三の三2(三))は、起訴から三年以上を経た第一〇四回公判期日に至って唐突に言い出したものである。また、公判段階において供述している程度の事情で五九年三月にR7が同行した情景を思い出したというのであれば、捜査段階において公邸訪問の際の状況について検察官から種々取調べを受ける過程でも、同行者について思い出す契機は多々存したはずであるから、右供述は信用することができない。
5 R7と被告人が供述する面談場所の状況の相違について
乙山の公判段階における供述(〈証拠略〉)によれば、乙山が居住していた当時の公邸で外来者との応対に使用する部屋は、玄関正面にある会議室風の部屋とその右側の応接間の二室があったところ、前者は大きな応接用のテーブルを備えた二〇人以上の応接が可能な大きめの部屋であり、後者は中央に応接セットを備え、随行者用の堅い椅子も置いてある十数名の応接が可能な小さめの部屋であったことが認められる。
ところで、被告人は、捜査段階において、五九年三月に公邸を訪問した際に乙山と面談した部屋の状況について図面を作成しているが、その際、ソファー様のもの二脚とそれに挟まれた位置にテーブル様のものを描いており(〈証拠略〉)、公判段階においても、訪問の際は、応接間に案内され、高さの低い応接テーブルと比較的柔らかいソファーの椅子があった旨の供述をしている(〈証拠略〉)。一方、R7は、捜査段階において、六〇年三月ころに公邸を訪問した際の部屋の状況として作成した図面に、長方形の図形を描いて、「会議用のような大きいテーブル」という記載をし(〈証拠略〉)、公判段階においても、乙山と面談した部屋には長方形のテーブルとその両側に八個ずつくらいの椅子が並べて配置されており、応接セットはなかった旨供述している(〈証拠略〉)。以上からすると、被告人が乙山と面談した部屋は乙山の供述する応接間であり、R7が乙山と面談した部屋は乙山の供述する会議室風の部屋であったと認められる。
したがって、このことからも、被告人とR7は別々の機会に乙山を訪問したことが明らかである。
6 R1、R25及びR26の各供述等について
R1の公判段階における供述(本節第三の三3(一))は、五九年三月一五日に被告人が乙山を訪問した件について、乙山側と面会の予約を取るなどした経過や当日被告人が出かける際の状況に関し、R7が同行した点を含めて具体的、詳細であるのに対し、被告人が乙山を訪問した目的は知らなかったとするものである。しかし、R1は、本節第二の五で認定したとおり、同月二四日、被告人の指示により、R6及びR22とともに乙山を訪問して、被告人の請託についての乙山の対応を確認したのであるから、仮に被告人が乙山を訪問した目的を事前には知らなかったとしても、同日までには当然に承知していたはずであり、それにもかかわらず、R1が、被告人が乙山を訪問した目的を知らなかった旨述べ、その九日後にR6らとともに乙山を訪問した目的についても、本節第二の五5(一)のとおり、パーティーに出席したことに対するお礼であったなどと事実に反する供述をしていることからすると、リクルートから乙山へ働きかけたことに関するR1の公判段階における供述は全般的に信用性に乏しく、したがって、五九年三月一五日の訪問にR7が同行した旨の供述(本節第三の三3(一))も信用することができない。
次に、R26の公判段階における供述(本節第三の三3(三))については、確かに、その供述及びタイムカード(弁書1一四一)によれば、R26が五九年三月一五日に通常より早めの午前七時四八分に出勤したことが認められるが、被告人とR7を見送った状況に関するR26の右供述は、時期に関する点が曖昧であり、被告人が公邸を訪問した際の状況を語っていると認め得るようなものではない。
また、R25の公判段階における供述(本節第三の三3(二))は、被告人に同行した者が誰であったかは記憶がないというものであるが、同行者がいた根拠として、同行者が公邸から帰る途中で下車したことが記憶に残っているとするのに対し、R7自身は、乙山を公邸に訪問した後の帰りも上司と一緒に帰ったのではないかと思う旨供述しており(〈証拠略〉)、被告人が五九年三月に乙山を公邸に訪問した際の同行者がR7であったとすれば、両者の供述の間で齟齬があることになる。しかも、R25は、記憶にある公邸訪問の時期は、被告人が税制調査会の委員をしていた期間中に被告人とR1を乗せて首相官邸へ行き、昼食にカレーライスをごちそうになった時期と近接しており、一月離れていなかったと思う旨供述する(〈証拠略〉)ところ、被告人が税制調査会の特別委員に任命されたのは六〇年九月であり(本節第一の二1)、被告人が公邸を訪問してから約一年半後のことであるから、被告人を送迎した際の同行者に関するR25の供述(本節第三の三3(二))は、五九年三月の被告人の公邸訪問の際の状況についてではなく、別の送迎の機会と記憶を混同している可能性が高い。
したがって、R1、R25及びR26の各供述(本節第三の三3(一)、(二)、(三))は、六〇年三月ころにR8とR7が乙山を訪問して面談したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)の信用性に疑いを差し挟むに足りるものではない。
7 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、前節第二の四1の「1/23T会議決定事項」と題する書面(甲書1五二〇)には、六〇年度人事課長会議申合せについて乙山に請託することを決めた記載がなく、そのことは、被告人らが乙山に対しそのような請託をしようとは考えていなかったことを示す旨主張する。
確かに、右書面には人事課長会議申合せ等の官庁の青田買い防止策に関する記載はないが、この書面は、そもそも、R10がR6から取締役会の決定事項を聞かされて、その内容を記載したものであって、議事録のように取締役会の決定事項のすべてが記載されているものではないのであるから、六〇年一月二三日ころの取締役会で人事課長会議申合せ等の公務員の青田買い防止に向けた対策も検討した上、事業部の担当取締役であったR6が、事業部の現場レベルで対応すべき事柄や、R6自身で対応する事柄のみをR10に伝え、それ以外の取締役や社長室で対応し、現場に知らせることが適当でない事柄については伝えなかったということも十分にあり得るところであるし、また、被告人が、右取締役会の際には官庁の青田買い防止策を話題にしなかったが、その後に前年同様に乙山に働きかけることを思いついてR8らに指示を与えたということも十分にあり得るところであるから、右書面に人事課長会議申合せ等の官庁の青田買い防止策に関する記載がないからといって、乙山に請託したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)の信用性に疑問を生じさせるものではない。
(二) 弁護人は、また、右(一)の「1/23T会議決定事項」と題する書面には、「協定(決め手なし)」と記載されており、このことはリクルートが人事課長会議における官庁の青田買い防止に関する申合せに格別の意義を感じていなかったことを示し、さらに、同申合せはもともと実効性がなく、そのことは、五九年四月、五月の通産省や労働省のいわゆるフライング(前節第一の三6)によって一層明らかになっていたのであるから、被告人がこの時期に乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を求める請託が必要と考えることはあり得ない旨主張する。
しかし、リクルートでは、次節で認定するとおり、五九年及び六〇年に、繰り返し丙川二郎衆議院議員に働きかけて、衆議院の委員会で官庁の青田買い防止を求める質疑をしてもらっていたところ、五九年六月及び八月の質疑の際には、被告人も関与した上、同年三月の人事課長会議申合せを重視した質問案を作成して丙川二郎に交付し、六〇年六月の質疑の際にも同年四月の人事課長会議申合せを重視した質疑をしてもらったのである。そのことからすると、被告人を含むリクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業関係者が人事課長会議申合せを重要視していたことが明らかであり、リクルートが人事課長会議申合せに格別の意義を感じていなかったとか、人事課長会議申合せに実効性がないから被告人が官庁の青田買い防止の善処方を求める請託が必要と考えることがあり得ないなどとはいえず、弁護人の右主張には理由がない。
(三) 弁護人は、前年同様に官庁の青田買い防止を請託するのであれば、前年の人事課長会議申合せが有り難かったというのであるから、被告人からR8らに対する指示も、単に官庁の青田買い防止を請託してくるようにという抽象的な指示ではなく、より具体的に人事課長会議で昨年同様の申合せをすることをお願いするように指示するのが自然であるのに、被告人、R8及びR7の各検面調書(本節第三の二3、1(一)、2(一))中の被告人の指示に関する部分は具体性がなく、かつ、R8の検面調書中の乙山に対する陳情の内容も非常に抽象的なものにとどまっているから、第二請託の事実を認めるには不十分である旨主張する。
しかし、被告人は、本節第二で認定したとおり、前年度に乙山に対し官庁の青田買い防止策について請託し、乙山の了承の下で五九年度人事課長会議申合せがなされた経緯があるのであり、官庁の青田買い防止策を依頼すれば、人事課長会議による申合せが頭に浮かぶのは容易なことであり、具体的な依頼がなくても不自然ではない。また、R8は、右の点に関し、「各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申し合わせをさせて欲しいということまでは申し上げるまでもなく十分御承知いただけるものと思いましたし、乙山先生というりっぱな方にそんな生々しい話もできませんので、この程度の話にとどめたと思うのです。」(甲書1一三一)と、その理由を具体的に供述しており、特に不自然ということはできない。
8 結論
以上のとおり、R8とR7が六〇年三月ころに被告人の指示を受けて乙山を訪問したことに関するR8、R7及び被告人の捜査段階における各供述(本節第三の二1(一)、2(一)、3)は、それぞれに信用性が認められる上、三名の供述は、重要な点でよく符合しており、信用性を補強し合っているところ、これら各供述について、その信用性を疑うべき事情は特に存しない。
したがって、六〇年三月ころに被告人の指示によりR8とR7が乙山を訪問して面談し、その際に官庁の青田買いの防止策と臨教審の答申に青田買い問題を盛り込んでもらうことの二点を依頼した旨の右三名の捜査段階における各供述は十分に信用し得るものであり、また、右訪問の場所に関するR8の供述は曖昧であるが、R7が語る訪問先の公邸の状況や面談時の状況については、具体的、詳細で、臨場感に富むものであることからすると、訪問場所が公邸であるとするR7の供述も十分に信用し得るものであるから、その場所は公邸であったと認めることができ、結局、第二請託の事実を認定することができる。
第四 乙山に対するコスモス株の譲渡
一 A1名義によるコスモス株の譲渡
1 外形的な事実関係
六一年九月三〇日付けで、譲渡人名義をm4社、譲受人名義をA1とし、一株三〇〇〇円として、コスモス株一万株の株式売買約定書が作成された。また、同日付けで、譲渡人名義をm5社、譲受人名義をA1とし、一株三〇〇〇円として、コスモス株二〇〇〇株の株式売買約定書も作成された。
(〈証拠略〉)
2 問題の所在
被告人は、捜査段階において、右1のコスモス株のうち、譲渡人名義をm4社とする一万株は、被告人が乙山に譲渡したものと認めている(乙書1一二、一八)が、公判段階においては、自分が乙山を念頭に置きつつ乙山又は乙山事務所を一万株の譲渡の相手方として選定した旨供述して(〈証拠略〉)、自らが選定したことは認めながらも、譲渡の主体と相手方についてやや曖昧な供述をしている。他方、乙山は、自分がコスモス株を譲り受けたことはなく、A1名義で譲り受けた事実も知らなかった旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、一万二〇〇〇株のすべてを自分が譲り受けた旨供述している(〈証拠略〉)。
本件一連のコスモス株の譲渡人が被告人であったと認められることは、第一章第二の二2で判断したとおりであり、右一万株の譲渡についても同様である。
そこで、以下、譲渡の相手方について検討を加える。
二 関係証拠上明白な事実
1 A1名義によるコスモス株の譲渡とその売却を巡る事実関係
(一) 六一年九月中、下旬ころ、被告人から指示を受けたR1がR18に依頼して必要書類を準備した上、A1と連絡を取って○○ビル六〇二号室の乙山事務所に行き、持参した株式売買約定書等のコスモス株の譲渡に関する書類二組にA1の署名、押印をもらい、本節第四の一1のとおり、コスモス株一万株と同二〇〇〇株の各株式売買約定書を作成した。
(二) 一万二〇〇〇株のうち一万株の譲渡代金三〇〇〇万円については、六一年九月三〇日、ファーストファイナンスが「一時仮払金」としてm4社に支払い、同日、乙山事務所からファーストファイナンスに対し同額が振込送金されたが、その送金は後記3(三)の東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座からなされた。他方、二〇〇〇株分の代金六〇〇万円については、A1が、右(一)の際、ファーストファイナンスから同株を担保に六〇〇万円を借り入れる手続をし、同日、同社が右貸付金をコスモス株の譲渡代金としてm5社に振込送金して支払った。
(三) R1は、コスモス株の店頭登録日であった六一年一〇月三〇日の数日前に、A1と連絡を取ってコスモス株を売却するかどうかについて意向を聞き、売却するというA1の返答を受けて、同月三一日に大和証券において一万二〇〇〇株全部を売却する手配をし、それらは同日一株五二七〇円で売却された。
(四) 六一年一一月五日、右売却代金から委託手数料等を差し引いた額である六二四四万四三六〇円がA1の指定により第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座に入金された。
A1は、六一年一一月一〇日、右入金の中から六〇四万七一七八円を右六〇〇万円の借入金の元利金としてファーストファイナンスの口座に振込送金して完済し、残金の内から五五〇〇万円をA1名義で一か月満期の市場金利連動型預金(MMC)として運用し、同預金は同年一二月一〇日に満期となって、元利合計五五一一万九八八五円が右普通預金口座に入金された。
(〈証拠略〉)
2 乙山の自宅購入代金の支払等
乙山は、六〇年二月ころから東京都杉並区和泉〈番地略〉所在の土地建物を○○会館株式会社(以下「○○会館」という。)から賃借し、自宅として使用していたが、六一年一二月二〇日、○○会館との間で、その土地建物を代金合計一億三二三一万九七七四円で買い受ける売買契約を締結し、手付金二六〇〇万円及び内金二六〇〇万円の合計五二〇〇万円を支払ったところ、その支払には、第一勧業銀行亀戸支店大島出張所振出しの金額五二〇〇万円の自己宛小切手が使用されたが、この小切手は、同月一九日に同銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座から払い戻した五二〇〇万円を同銀行亀戸支店大島出張所の別段預金(自己宛小切手口)に入金して発行を受けたものである。
なお、その後、後記3(四)の大和証券本店営業部のA1名義の保護預り口座から五〇〇〇万円及び後記3(三)の東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座から三〇三一万九七七四円が右自宅購入代金の残金支払に充てられた。
また、第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座の残額は、A1が個人的用途に費消した。
(〈証拠略〉)
3 乙山事務所における資金管理状況
五七年ないし六三年当時、乙山事務所における資金管理は、次のとおり行われていた。
(一) 資金管理は、統括的立場にいたA1秘書の指示を受けて、A2秘書が担当していた。
(二) 五七年九月三〇日、東京銀行日比谷支店にA2名義の普通預金口座を、また、同年一一月一〇日、同支店にA2名義の定期預金口座をそれぞれ開設し、これらを乙山事務所の資金管理口座として使用し、乙山事務所の資金は、事務所内に置かれていた金庫と右両口座で保管し、管理していた。
(三) ところが、A2が自己の個人的用途に使用するクレジットカードの支払口座としても右(二)の普通預金口座を使用していたので、事務所経費と個人的支出とが混同するおそれが生じ、六一年三月一四日、右普通預金口座を解約し、新たに東京銀行日比谷支店にA1名義の普通預金口座を開設して事務所資金を移し替え、この口座を事務所資金管理口座として使用するようになり、この口座は、六三年三月一日に同支店に架空人である「A’1」名義の普通預金口座を開設するまで使用した。
(四) また、乙山事務所では、五九年一二月から六三年八月まで、大和証券本店営業部のA1名義の保護預り口座を利用して、頻繁に転換社債や新株の取引をするなどして、事務所資金を運用していた。
(〈証拠略〉)
三 被告人から乙山に電話でコスモス株の譲渡を持ちかけたことについて
1 R1の供述
R1は、乙山側に本件コスモス株の譲渡を持ちかけた際の状況につき、捜査及び公判段階において、それぞれ次のとおり供述している。
(一) R1の捜査段階における供述
(1) R1の元年四月五日付け検面調書(甲書1一七二)
「この時はたしか甲野さんから『乙山事務所へ行って手続をしてほしい。先方に一万二〇〇〇株お譲りする話ができている。この内一万株分は乙山先生側にお譲りすることになったが、譲り受け名義については秘書のA1さんにおまかせしているのでA1さんに聞いて手続をとってほしい。あとの二〇〇〇株の分はA1秘書個人にお渡しする分なので一万株分と二〇〇〇株分は書類を分けて持っていくようにしてもらいたい。またファイナンスを付けるかどうかについてもA1さんにおまかせしているからA1さんに聞いてやってほしい。』旨言われ、乙山先生の秘書のA1さんと事務手続をとるように指示されました。それで、私は、その直後、さっそく○○ビルの乙山事務所に電話をし、A1さんと連絡をとり合ったのです。私が電話をしたところ、すでに甲野さんの方から先方に話が行っていて、甲野さんが話してきた内容で全て了解が得られているようでありました。私がA1さんに『リクルートのR1ですが、すでに甲野から連絡がいっていると思いますが、コスモス株の譲渡手続にお伺いしたいので、御時間をいただけますか。』と言ったところ、A1は『判っています』などと言って、アポの日時をすぐに指定してくれました。」
(2) R1の元年四月二四日付け検面調書(甲書1一七三)
「これ〔コスモス株一万二〇〇〇株〕については甲野さんからこの内一万株分が乙山先生側の分であり、二〇〇〇株分がA1秘書個人の側のものである旨言われて、予めR18さんの方からその先生側の分とA1秘書個人側の分に分けて株式売買約定書を二種類用意してもらって、先方のA1秘書のところに手続に行ったことは間違いないのです。このリクルートコスモス株をこういった内容で譲渡することについてはすでに甲野さんの方から直接乙山側に話の持ち込みがなされ、先生側もその内容で全て了承済みであり、あとは手続をするばかりであるという前提で私が先方に伺がったのであり、私がそもそもの話を先方に持ち込んだということは決してありません。甲野さんの方も私に手続に行くように指示する際、すでに甲野さんが先方の乙山先生側に連絡して話をつけている旨言っており、それで私が手続に伺がったのであって、このことは絶対に間違いないのです。」
(二) R1の公判段階における供述(〈証拠略〉)
コスモス株の譲渡の相手方を選定した後、被告人に乙山側に対する連絡をどうするか確認したところ、被告人から「君がA1さんに話してくれ」と指示されたので、自席に戻った後、A1に電話してアポイントメントを取り、○○ビルの乙山事務所を訪問した。コスモス株一万株を乙山にお持ちいただきたいという話をすると、A1から自分の名義でいいかと尋ねられ、A1個人にも譲渡しないとまずいのではないかと思ったこともあって、名義のことをペンディングにしたまま、いったん会社に帰り、被告人に相談した。その結果、譲受人名義をA1とすることで了解を得るとともに、A1個人にも別に二〇〇〇株を譲渡することになった。その場で、被告人から、A1に電話をつなぐように指示されたので、電話をかけ、A1が電話口に出たところで被告人に替わり、被告人がA1に対し、コスモス株の譲受名義人はA1でかまわないということと、A1にも二〇〇〇株をお持ちいただきたいということを話して、電話を切った。その後、また自分がA1に電話をしてアポイントメントを取り、再度手続のために乙山事務所を訪ねた。
2 被告人の供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、コスモス株の譲渡を持ちかけた状況につき、逮捕前の検察官の取調べにおいては、A1に電話をした旨供述し、逮捕後の元年四月七日の検察官の取調べにおいても、同様の供述をしていたが(〈証拠略〉)、その後、同月一五日の検察官の取調べにおいて、自分がA1か乙山に電話をしたと供述を変更し(乙書1七)、同月二七日の検察官の取調べにおいては、自分がA1に電話して乙山に一万株、A1に二〇〇〇株のコスモス株を持ってもらいたいと話した旨供述し(乙書1一二)、最終的には、元年五月七日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している(乙書1一八)。
「乙山先生に対しては、前に申し上げたように、昭和六一年九月中旬頃、私が株譲渡を発意して、多分その頃、私から直接乙山先生に、乙山事務所か議員会館かに電話をして、『近々リクルートコスモス株が店頭公開されますので、先生に一〇、〇〇〇株お持ちいただきたい。詳しくは、R1を先生の秘書の所へ行かせますので、よろしくお願いします。』と話をいたしました。先生は、了解してくれました。」
「私は、前回、A1秘書に私から電話をしたように申し上げましたが、よく考えてみると、乙山先生本人であったという気がいたします。」
(二) 被告人の公判段階における供述
これに対し、被告人は、公判段階(〈証拠略〉)においては、次の趣旨の供述をしている。
① コスモス株を乙山側に持ってもらうことについて、私が乙山本人と話したことはない。私は、R1にA1との電話をつながせた上、私が、この度コスモス株を店頭公開するに当たって株式をお持ちいただきたく、詳しくはR1を差し向けますのでよろしくお願いしますという話をして、R1に電話を替わった。R1がアポイントメントを取った上お邪魔して話をしたと思っている。電話の相手をA1にしたのは、それまでの経緯から、A1が乙山事務所の会計責任者であり、金のことはすべてA1がやっていて、乙山はタッチしていないと分かっていたからである。
② 私がA1と話をしたことについては、捜査段階においても記憶があったが、右の経緯であったことは、打合せの際、弁護士から、R1が電話を取り次いで私が話をし、その後またR1が電話に出たというのが真実のようだと言われたことを契機に思い出した。
③ 捜査段階においては、検察官から、I3元首相に対し就職協定関係の請託をしなかったという点は私の言い分を受け入れて、同元首相に対するコスモス株の譲渡については立件しないから、その代わりに丙川二郎から礼を言われたことと乙山に直接電話したことを認めるようにというネゴシエーションを迫られ、それに応じて、元年五月七日付け供述調書が作成された。
(三) 弁護人作成の報告書
元年五月八日に被告人と接見した弁護人が作成した報告書(弁書1九一)には、被告人が弁護人に述べたこととして、被告人が、同月七日のP2検事の取調べの際、コスモス株の件で電話をした相手はA1であり、乙山に直接電話をした覚えはない旨主張したが、P2検事から、コスモス株に関し直接乙山に電話をしたこと、六〇年三月二日ころの首相官邸における被告人と当時のI3首相との会談で就職協定に関するお願いをしたこと及び丙川二郎から資金援助に関しお礼を言われたことの三点について調書を取りたい旨言われ、「このような覚えはない。」と言ったところ、P2検事から「甲野―I3会談の際、就職協定を問題にしてお願いしたという点はなかったことにしてあげる。その代わり、あとの二つを認めなさい。これは三点セットだ。」と強く言われ、右申入れを容れないと、I3氏の件で更に責めたてられ、事実に反する調書が作成されることになって、I3氏に大変な迷惑をかけることになると考え、やむを得ず、残りの二つについては事実に反するにもかかわらず、心ならずもこれを認める調書に署名したという記載があり、同報告書には、元年五月九日の公証日付が付されている。
3 乙山側の供述
乙山は、公判段階において、コスモス株を乙山に譲渡したいという話を聞いたことはなく、A1名義による譲渡の事実も六三年に一連のコスモス株の譲渡が社会問題化した段階で初めて知ったにすぎない旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、捜査(甲書1八一八、一〇三六)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、R1から電話連絡があったのであって、被告人とやりとりをしたことはない旨供述している。
4 考察
(一) R1の元年四月五日の検察官の取調べに対する供述(本節第四の三1(一)(1))は、被告人が乙山に贈賄したという事件に関する取調べの初期の段階でしたものであるにもかかわらず、その内容は、具体的、詳細なものであるし、同月二四日の検察官の取調べに対する供述(本節第四の三1(一)(2))も含めて、R1の捜査段階における供述は、乙山に直接電話連絡をしたことを多少曖昧ながらも認める被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))とも符合しており、R1の取調べに当たったP6検事の証言に照らしても、信用性が高い。
(二) R1は、公判段階においては、被告人の指示を受け、自分が自席でA1に電話をしてアポイントメントを取った旨供述する(本節第四の三1(二))が、この供述は、R1にA1との電話をつながせてコスモス株の件でR1を差し向かせるなどと自分で話したという被告人の公判段階における供述(本節第四の三2(二))と矛盾する上、A1自身にもコスモス株を持たせることにした経緯に関し、R1が公判段階において供述するように具体的な記憶を保持しているのであれば、捜査段階においてもその旨供述できたはずであるのに、そのような供述をした形跡がないことからすると、R1の公判段階における右供述は信用し難い。
(三) 被告人は、コスモス株の譲渡に関し、数人の政治家には自ら直接電話連絡をした旨供述する上(〈証拠略〉)、乙山とは、ゴルフやパーティー、囲む会等で年平均八回から一〇回位は顔を合わせていて、親しい間柄にあり、気軽に話ができる関係にあって、直接電話をかけようと思えばかけられる関係にあった旨供述しており(〈証拠略〉)、右供述に加え、被告人が乙山に対し、小切手を供与したり、秘書の給与を負担するなどの形で多額の資金援助を続けており、社会的な知名度も高い会社のオーナー経営者であったことからすると、創業した会社の株式を店頭登録するに先立ち、乙山事務所に電話して自分でその株の譲渡を持ちかける場合、秘書のA1と電話で話すよりも、乙山本人と話す方が行動として自然である。
(四) A1は、捜査及び公判段階を通じ、一貫して、コスモス株の譲受けについて自分が直接やりとりしたのはR1であり、被告人とやりとりしたことはない旨供述するところ(本節第四の三3)、仮に被告人が公判段階において供述するように被告人が電話でA1と話してコスモス株の取得を持ちかけたのであれば、A1は、コスモス株の取引は自分がやったことで、乙山は一切関与していなかったという供述をしていたのであるから、その言い分を支える事実として、被告人から電話で持ちかけられたことを進んで供述するのが自然であり、A1がそのように供述をしていないことは、被告人の公判段階における供述(本節第四の三2(二))の信用性を疑わせる事情ということができる。
このことに加え、右(三)の被告人と乙山との関係をも併せ考えると、A1の供述のうち、コスモス株の譲渡に関して被告人とやりとりしなかったという点は、十分に信用することができる。
(五) なお、被告人は、公判段階においては、それまでの経緯から、金のことはすべてA1がやっていて、乙山はタッチしていないと分かっていたからA1に電話した旨供述するところ、確かに、例年どおりの献金をするについてその振込先等を打ち合わせるような場合であれば、当初から乙山事務所の統括的立場にいた秘書のA1に話をするのが自然なことであるが、本件は、創業した会社の株式を公開するに先立って特定の者に取得させ、株主になってもらうという特別な場合であるから、乙山が金のことに関与しないのが通常であるといっても、このような場合にまで当初から秘書に話をするというのは、被告人と乙山との関係も考慮すると、不合理なことである。
(六) 以上の各事情からすると、コスモス株の譲渡に当たって乙山に電話で連絡をしたことを曖昧ながら認める被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))や、被告人が連絡したことを前提に乙山側に一万株、A1に二〇〇〇株を譲渡することについてA1と話をするように被告人から指示されたというR1の捜査段階における供述(本節第四の三1(一))は十分に信用することができる。
したがって、被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に対し、A1との間で乙山にコスモス株一万株を譲渡する手続をするように指示したものと認められる。
四 コスモス株の売却代金の使途について
1 乙山が六一年一二月二〇日に購入した自宅の手付金及び内金合計五二〇〇万円の支払に、コスモス株の売却代金が振り込まれた第一勧業銀行伊勢支店のA1名義の普通預金口座の預金を原資として振り出された小切手が使用されたこと(本節第四の二2)について、A1は、捜査(甲書1八二〇)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、手付金及び内金として五二〇〇万円を支払うことにしたのは、自分が購入代金約一億三〇〇〇万円の二割の二六〇〇万円を手付金とし、更に二割の二六〇〇万円を内金として支払おうと考えたものであって、当時、乙山には長女の結婚式の祝儀金がその程度残っていたと思っており、その金額がコスモス株一万株分の売却代金とほぼ一致したのは偶然にすぎない旨供述している。
しかし、コスモス株一万二〇〇〇株の売却代金から委託手数料等を差し引いた額である六二四四万四三六〇円のうち一万株分に相当する金額は五二〇三万円余りとなって、乙山の自宅の手付金及び内金合計五二〇〇万円とほぼ一致し、単なる偶然というには一致の程度が高い上、○○会館の専務取締役であったJ1の供述(甲書1七三一)によれば、契約時に五二〇〇万円を支払うことは、乙山に代わって売主側との交渉に当たっていたA1の申出により決まったと認められること、A1は、代金の約四割にも当たる高額の手付金及び内金を支払うことになった理由について、合理的理由を述べていないことなどの事情に照らすと、A1の右供述は信用することができず、むしろ、五二〇〇万円という金額は、コスモス株一万株分の売却代金約五二〇〇万円を念頭に置いて、乙山又はA1が決めたと考えるのが自然である。
2 関係証拠(〈証拠略〉)によれば、A1は、六一年一一月ころ、○○会館の親法人である学校法人○○学園のJ2秘書室長やJ1に対し、それまでは具体的な話がなかった乙山の自宅購入の件を突然申し出たことが認められるところ、この時期に自宅購入を決めた事情について、乙山やA1は合理的な説明をしておらず、乙山やA1がコスモス株の売却益を念頭に置いて、その時期に乙山の自宅を購入することを決めたとみるのが合理的である。
3 第一勧業銀行伊勢支店の口座に入金されたコスモス株の売却代金六二四四万円余りのうち五五〇〇万円が一か月満期のMMCで運用されたが、このように短期の運用がなされたのは、満期後速やかにそれを使う予定があったためであると推認できる。
4 乙山は、自宅購入代金の手付金及び内金五二〇〇万円の原資につき、公判段階において、六〇年秋の長女の結婚に際し、来場しなかった人の分を含めて一億円以上の祝い金が集まり、それを現金のまま持っていたので、六一年一二月三日、その中の五二〇〇万円を自宅購入代金の一部として現金でA1に渡した旨供述し(〈証拠略〉)、A1も、捜査(甲書1八二〇)及び公判段階(〈証拠略〉)を通じ、それに沿う供述をしている。
しかし、そもそも、娘の結婚に際して多額の祝い金が集まったというのであれば、後にお礼を述べたり、披露宴に来場しなかった人にお返しの品を贈ったりすることに備えて、相手方の氏名や金額を記録するのが社会的な常識と思われるところ、乙山(同人を被告人とする受託収賄被告事件は一審段階で本件被告人と併合して審理されていた。)からは、多額の祝い金の受領を裏付ける証拠は提出されておらず、原資に関する乙山及びA1の右各供述は客観的な裏付けを欠くものである。
また、仮に、乙山が供述するように手持ち資金の中から五二〇〇万円を用意したのであれば、それで直接自宅購入代金の手付金等を支払えば足り、コスモス株の売却代金が振り込まれたA1名義の口座にある五二〇〇万円を原資とする小切手を使用する必要はないはずである。その事情について、A1は、現金よりも小切手を持参する方が安全で便利であると考えて、第一勧業銀行から小切手を振り出してもらった旨説明するが(〈証拠略〉)、仮に小切手が安全で便利であると考えたとしても、乙山から渡された現金を乙山の個人口座や乙山事務所で管理する口座のある銀行に持ち込んで自己宛小切手を振り出してもらえば済むはずであって、A1の右説明は合理的なものではない。
さらに、乙山がA1に渡したとする現金五二〇〇万円について、A1は、A2に頼んで乙山事務所の金庫に保管してもらった上、A2に対し、乙山の自宅購入代金は自分の口座に入っている金を小切手にして払うので、乙山から預かった金のうち、三〇〇〇万円を自分の事務所からの借金の返済として事務所へ戻し、二二〇〇万円を金庫に預かってくれるように話し、その後、六一年一二月二二日ころに自分の転換社債取引のために事務所から三〇〇〇万円を借りたため、A2から、金庫に保管されている右二二〇〇万円を事務所の会計に戻すように言われて、同月下旬にそのように処理した旨供述するが(甲書1八二〇)、右の流れを裏付ける客観的な資料は存しない。
したがって、乙山がコスモス株の売却代金を原資とする小切手とは別に、自ら五二〇〇万円を用意したという乙山及びA1の供述は、およそ信用することができない。
5 以上を総合すれば、乙山がコスモス株一万株の売却代金の大部分に当たる五二〇〇万円を自宅購入代金の手付金及び内金の支払に充てたことが認められる。
五 結論(コスモス株一万株を譲渡した相手方が乙山であること)
以上の事実、特に、①被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に対し、A1との間で乙山に一万株を譲渡する手続をするように指示したこと、②R1とA1は、一万株分と二〇〇〇株分という二組のコスモス株の譲渡の関係書類を作成し、その代金も、一万株分については乙山事務所の資金管理口座から支払われ、二〇〇〇株分についてはA1がファーストファイナンスから融資を受けて支払ったのであり、両者は明らかに区別した取扱いがなされていたこと、③コスモス株の売却代金はA1名義の銀行口座に入金されたが、乙山は、右入金を原資として銀行から発行を受けた五二〇〇万円の自己宛小切手により自宅購入代金の手付金及び内金を支払ったのであり、右五二〇〇万円はコスモス株一万株分の売却代金にほぼ相当することからすると、コスモス株一万株の譲渡の相手方は乙山であったとする被告人の捜査段階における供述(本節第四の三2(一))やR1の捜査及び公判段階における供述(本節第四の三1)は十分に信用することができ、他方、A1が一万二〇〇〇株全部の譲受人であったとするA1の供述(本節第四の一2)や、その譲受けに関与しておらず、A1名義でコスモス株を譲り受けたことも知らなかったという乙山の供述(本節第四の一2、三3)は信用することができない。
したがって、本節第四の一1のコスモス株一万株の譲渡の相手方は乙山であり、乙山はそのことを承知していたものと認められる。
第五 コスモス株の譲渡の賄賂性
一 問題の所在
被告人は、捜査段階において、乙山に対するコスモス株の譲渡に本件各請託に係る報酬の趣旨が含まれていたことを認める供述をしているが、公判段階においては、本件各請託とは関係のない政治献金であった旨供述し、弁護人も、コスモス株は、従前の政治献金と同様に、純粋に乙山の政治活動に役立ててもらいたいという思いで譲渡されたものである旨主張する。
そこで、以下、乙山に対するコスモス株の譲渡が本件各請託に係る報酬としてなされたものと認められるかどうかについて検討する。
二 被告人の供述
1 被告人の捜査段階における供述
被告人は、元年四月二七日の検察官の取調べにおいて、「乙山元官房長官に対しては、リクルートが就職協定の問題について、色々お願いしたことや、私の政府税調特別委員への選任等につき官房長官として関与されたことなど、そういう関係もあって、コスモス株の譲渡を行なったものであります。」と供述し(乙書1一二)、同月三〇日の検察官の取調べにおいても、乙山に対し公務員の青田買いについて善処方を請託した経緯やその状況を供述した後、「本日申し上げたような乙山先生に対して就職協定等のお願いをしたような関係もあって、先生に対し前回申し上げたようにリクルートコスモス株一万株を譲渡したのです。」と供述している(乙書1一四)。
2 被告人の捜査段階における供述の任意性について
弁護人は、本節第三の二4(一)(2)、第二の三3(二)のとおり、元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)及び同月三〇日付け検面調書(乙書1一四)に記載された被告人の供述には任意性がない旨主張するが、これらの検面調書の作成過程において供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるといえないことは、本節第三の二4(三)、第二の三5(二)のとおりである。
3 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、乙山にコスモス株を持ってもらったのは、乙山が将来の日本を背負って立つ政治家の一人であり、乙山が自民党政権を支えていけば日本の政治が良くなると考え、そのために資金的な援助をすることが経済人としての社会的な使命であると考えたからである旨供述している(〈証拠略〉)。
三 乙山に対し小切手を供与した状況とその趣旨
1 検討の趣旨
検察官は、被告人が乙山に対し、五九年八月から六〇年一二月までの間、四回にわたり、本件各請託に係る報酬として小切手を交付した旨主張し、弁護人は、これらの小切手の供与も従前からの定期的な政治献金の一環であって、本件各請託との関連性はなく、乙山に対するコスモス株の譲渡もその流れの中で行われたものである旨主張する。
被告人は四回の小切手の供与について起訴されているものではないが、これらの小切手を供与した状況やその趣旨は、コスモス株の譲渡の趣旨を判断する上で間接的ながら意味を持つので、以下、検討を加える。
2 リクルート及び関連会社から乙山に対し小切手が供与された状況
被告人は、本節第一の二2のパーティー券を購入したことや秘書の給与を負担したことなどに加え、次のとおり、乙山に対し小切手を供与していた。そして、リクルートやリクルートの関連会社名義で乙山に対し小切手を供与していたことが被告人の意向に基づくものであったことは、被告人自身が認め、関係証拠上も明らかな事実である。
(一) 五九年三月の第一請託以前の時期
リクルートから乙山に対する小切手の供与は、検察官が請託に係る報酬と主張するものが初めてではなく、被告人は、五八年一一月二八日ころにも、被告人がリクルートの代表取締役として振り出した金額五〇〇万円の小切手を乙山に交付していた。この小切手は、同月二九日、三菱銀行麹町支店「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座に入金され、乙山事務所から同月二八日付けで、「a3会」、「a4会」、「a5会」、「a6会」及び「a7会」の五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(〈証拠略〉)
(二) 五九年三月の第一請託後六〇年末までの時期
(1) 五九年八月一〇日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額二〇〇万円の小切手と、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額三〇〇万円の小切手を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二三日、東京銀行日比谷支店のA2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から「a3会」、「a8会」、「a4会」、「a5会」及び「a9会」の五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(2) 五九年一二月一九日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手三通と、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手二通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二一日、右A2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(3) 六〇年六月二六日ころ、被告人は、リクルートの代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手五通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二八日、右A2名義の定期預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(4) 六〇年一二月五日ころ、被告人は、リクルート情報出版の代表取締役として振り出した金額一〇〇万円の小切手五通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月六日、東京銀行日比谷支店のA2名義の普通預金口座に入金され、乙山事務所から右五団体名義の各一〇〇万円の領収証が発行された。
(5) なお、当時の政治資金規正法によれば、同一の者から政治団体に対する寄附が年間一〇〇万円を超えると、寄附をした者の氏名等を記載した報告書を自治大臣に提出することが義務づけられていたため、乙山事務所では、その記載を免れるため、一〇〇万円を超える献金の大部分は、一〇〇万円以下に分割して乙山の複数の政治団体で受け入れる取扱いをし、政治献金があった際には、A2がその処理に当たって複数の政治団体名義の領収証を発行していた。右(1)ないし(4)の各小切手の供与に際して複数の政治団体名義で一〇〇万円ずつの領収証が発行されたのも、このような乙山事務所の事情によるものであった。
(〈証拠略〉)
(三) 六一年以降の時期
(1) 被告人は、六一年六月九日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手一〇通を、六二年七月一六日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手三通を、同年一二月三日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手五通を、同月二六日ころリクルート振出しの金額一〇〇万円の小切手五通をそれぞれ乙山に交付し、これらの小切手は、各交付日ころ、東京銀行日比谷支店のA1名義の普通預金口座に入金された。
(2) 被告人は、六三年六月一七日ころ、被告人個人が振り出した金額一五〇〇万円の小切手一通を乙山に交付し、同月二二日ころ、リクルートコスモス振出しの金額三〇〇万円の小切手一通を乙山に交付した。これらの小切手は、同月二三日、東京銀行日比谷支店のA’1名義の普通預金口座に入金された。
(〈証拠略〉)
3 小切手の供与の趣旨に関する被告人の供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
(1) 被告人の元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)
被告人は、元年五月一三日の検察官の取調べにおいて、五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与につき、次のとおり、消極的ながらも賄賂性を認める供述をしている。
「乙山先生に対し、五〇〇万円というような多額のお金を盆、暮という形で私共から差し上げるようになったのは、昭和五九年の八月が最初であります。昭和五九年八月に乙山先生に五〇〇万円を差し上げる少し前頃に、どこでだったか場所は忘れましたが、私から乙山先生に対し、『今後、盆、暮合わせて一、〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。』と話しましたところ、乙山先生は、『どうもありがとうございます。』とお礼を言われました。以上の次第ですので、乙山先生御自身は、私共の方から以上申し上げたような五〇〇万円の金を四回差し上げていることは充分承知されていると思います。」「昭和五九年三月中旬頃、官房長官公邸に赴きまして、乙山先生に対し、就職協定に関する問題、具体的に言いますと、公務員の青田買いの問題につきまして、これが防止されるよう官房長官の立場から各省庁のとりまとめなどの善処方をお願いした事実があります。そして、その五ヶ月後である昭和五九年八月、私共から乙山先生に対し、五〇〇万円を差し上げ、更に、その年の一二月に同様に五〇〇万円を差し上げている訳でありますから、その謝礼というふうに認められるかも知れませんが、私としましては、盆、暮のいわゆる政治献金ということで出したものであります。先に申し上げた請託のお礼の要素が無かったのかと言われれば、これを否定することは出来ませんが、私の気持ちとしては、乙山先生は、将来総理大臣までもなられる方と思っておりましたので、その政治的大成を願って、財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。これらのお金に請託のお礼の要素が少しはあったことは認めます。次に、私共リクルートでは、昭和六〇年三月初旬頃にも、私の指示で、R8専務、R7取締役が乙山官房長官に対し、私が前に行なったのと同様に、公務員の青田買いの防止等就職協定の問題等について、再度官房長官としての善処方を陳情した事実があります。そして、その三ヶ月後の昭和六〇年六月下旬頃、私共から乙山先生に対し五〇〇万円を差し上げ、更に、その年の一二月に同様に五〇〇万円を差し上げている訳です。ですから、これらのお金は、その請託の謝礼そのものと見られるかも知れませんが、私としましては、盆、暮のいわゆる政治献金ということで出しているものであります。しかしながら、この請託のお礼の要素が全く無かったのかと言われれば、これを否定することは出来ず、そういう含みがあったことは事実です。」
(2) 被告人の元年五月一七日付け検面調書(乙書1二六)
被告人は、元年五月一七日の検察官の取調べにおいても、五九年及び六〇年に乙山に対し合計二〇〇〇万円の小切手を供与した理由は、「ひとつは、政治家乙山先生に対するいわゆる政治献金的な意味、もうひとつは、私共リクルートが官房長官である乙山先生に対し、公務員の青田買い等の問題について官房長官の立場から善処方をお願いしたことのお礼の意味などでありました。」「私共が乙山先生に対し、今申し上げたお願いごとをした謝礼の意味もこのお金に含まれていたことは間違いありません。」と請託に係る謝礼の趣旨が含まれていることを認めた上、「しかしながら、私の気持としましては、乙山先生は、将来総理大臣にまでもなられる立派な方と思っておりましたので、その政治的大成を願って財政的なバックアップをしようという気持が強かったのです。つまり、いわゆる政治献金という要素が強いお金であったということを申し上げたいのであります。」「私は、乙山先生を将来の日本を背負って立っていかれる政治家であると考え、尊敬をしておりましたので、こういう人にいわゆる政治献金を差し上げたいという気持があって出したものであることを充分御理解願いたいと思います。」と供述している。
(二) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、乙山に対する資金援助につき、不確かな記憶ながら、五七年一一月の乙山の出版記念パーティーの席であったと思うが、乙山に対し、秘書の給与の負担の件とともに、盆暮れに政治献金をさせていただきたいという話をし、以後、政治献金の一環として小切手を供与してきたものであり、その供与に本件各請託に係る謝礼の趣旨は含まれていなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
4 被告人の捜査段階における供述の任意性について
(一) 弁護人の主張
(1) P2検事は、元年五月一三日の取調べに際し、①五九年及び六〇年の盆暮れの乙山に対する政治献金について請託したことのお礼と認めれば、その見返りに丙川二郎関係の有限会社b1に対する小切手の供与のうち九〇〇万円分は立件しないと話した上、「そうすれば現金分が大幅に減額され、求刑が二年半程度になる。現金九〇〇万円分が減るということは大きい。執行猶予の可能性が非常に高まる。それに乙山さんの二〇〇〇万円分も君は時効だから全く心配ない。」「全面的に認めるのではなく、基本的には政治献金だがお礼の趣旨もありましたというふうに一〇〇対三〇位にしておけば、乙山さんも執行猶予は確実だ。」「これは間違いない。主任検事である僕が求刑を決めるんだから。」などと言って「ネゴシエーション」を持ちかけ、②「もし、これを認めなければ、徹底的にやるから、更に捜査が長引く。そうなったら、リクルートやコスモスはつぶれてしまう。」などと言って被告人を脅した。
(2) 被告人は、当時、一連のリクルート事件により、リクルートの受注が激減し、その経営が思わしくないことや金融機関からリクルートコスモスに対する融資停止のニュースを耳にしていたため、これ以上捜査が長引いた場合には、リクルートの経営は一層悪化し、金融機関からの融資停止の話が他の銀行にも波及し、リクルート及びリクルートコスモスの倒産につながりかねないという危機感を一層持つようになっていたために、右(1)の脅迫を現実のものとして受け止め、捜査の早期終結や早期保釈を求めたい一心から、元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)に署名せざるを得ない状況に追い込まれた。
(3) P2検事は、元年五月一七日の取調べにおいては、被告人に対し、①「私にも上司がいてね。鬼のP5がいるんだよ。そこでだめを出されたんで取り直しをしなきゃいけないんだ。前回の分では、趣旨が弱すぎると言われたので、もう少し趣旨をはっきり出したい。」などと言って、P5東京地方検察庁検事正を引き合いに出しながら、署名を迫った上、「このような調書を作成しても乙山が実刑になることは絶対にない。僕が保証する。僕は贈収賄を専門にして本も書いているんだから。内部向けのものだけどね。乙山さんの執行猶予は保証する。」と言い、②「本日、丙川代議士と乙山代議士を正式に被疑者として取調べをしている。マスコミが大勢押しかけて、大変な騒ぎになっている。最終着地の段階で今さらそういう態度を取られても困る。悪いようにはしないから、ここは大乗的な見地に立って、きれいな着地をしたいと思っているので、是非協力してほしい。」などと言って、強引に調書に署名させてしまった。
(二) 考察
(1) 被告人は、公判段階において、右(一)(1)①、(一)(3)①と同趣旨の供述をするほか、元年五月一七日付け検面調書に署名した理由として右(一)(2)と同趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
(2) しかし、被告人は、本節第三の二4(三)のとおり、右3(一)の各検面調書が作成された当時は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見していたのであるから、仮に、取調検事が右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような露骨な利益誘導によって供述を迫れば、そのことが接見の際に弁護人に伝えられて、直ちに抗議を受けたり、マスコミに発表されたりして、以後の捜査に支障を来し、あるいは公判段階において供述の任意性や信用性を疑わせる重要な事情として利用されることが当然に予想されるはずであるから、検察官がいかに意に沿う調書に署名させたいと欲したとしても、そこまで露骨な利益誘導をするというのは考えにくいことである。
(3) 元年五月一三日付け検面調書(乙書1二四)の作成経過に関しては、弁護人作成の陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1九七)が提出されており、そこには右(一)(1)①、②、(一)(2)と同趣旨の記載がある。
しかし、右陳述録取書は、被告人が保釈されて二か月以上経過した元年八月一六日に録取した内容が記載されたものにすぎず、右検面調書作成日(土曜日)後の最初の接見日である同年五月一五日(月曜日)の接見結果を記載した報告書は提出されていないし、弁護人作成の同月一八日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1九八)には、同月一三日付け検面調書(乙書1二四)の作成経緯について若干の記載があるものの(なお、弁書1九八には、同月一四日の取調べ時のこととして記載されているが、その内容と検面調書とを対比すると、同月一三日の取調べ時のことを記載していると認められる。)、そこでは、「P2検事から、『最終決着に向かってどうしても政治献金を一〇〇%認める代わりに、趣旨も三〇%は認めてほしい。そうしなければ、この事件は着地できない。』と言われ、事件の長期化することでのリクルート・グループ、なかんずく、リクルートコスモスが経営危機にあるために、甲野氏は、やむなく趣旨の三〇%を同意したところであります。」という記載があるにとどまり、右(一)(1)①、②のような露骨な利益誘導があったことには言及されていない。
(4) また、元年五月一七日付け検面調書(乙書1二六)の作成経過に関しては、翌日である同月一八日に作成された右(3)の報告書(弁書1九八)に右(一)(3)②と同趣旨の記載があるほか、弁護人作成の同年七月一八日付け報告書(被告人との面会結果を報告したもの。弁書1九九)には右(一)(3)①と同趣旨の記載がある。
しかし、右のうち面会結果の報告書(弁書1九九)は、被告人が保釈されて一か月以上経過した後に弁護人と面会した際の被告人の供述が記載されたものにすぎず、検面調書が作成された翌日に接見した結果を記載した報告書(弁書1九八)には、右(一)(3)①のような露骨な利益誘導があったことには言及されていない。
(5) これらの事情に照らすと、右3(一)の各検面調書の作成に関して、右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような利益誘導があったという被告人の公判段階における右(1)の供述や右(3)の陳述録取書(弁書1九七)及び右(4)の報告書(弁書1九九)に記載された被告人の供述は信用することができない。
(6) なお、被告人がリクルートやリクルートコスモスの経営に関し右(一)(2)のような懸念をしたこと自体は自然なことであって不合理ではない。また、P2検事が被告人との間で、マスコミが騒いでいる旨や事件の早期決着が望ましい旨の話をしたこと自体は認める証言をしていることや(〈証拠略〉)、右(3)の元年五月一八日付け報告書(弁書1九八)の記載からすると、P2検事が被告人に対し、右(一)(1)①、②や右(一)(3)①のような露骨な利益誘導ではなく、右(一)(3)②の主張に類する説得、すなわち、早期決着のためにも、大乗的見地に立ってきれいな着地をするための供述をするようにという説得をした可能性は否定し難いところである。
しかし、そのような事情が存したとしても、右(2)のとおり、被告人が弁護人と連日長時間の接見をしながら取調べに臨んでいたことを勘案すれば、被告人の供述の任意性に疑いを差し挟むほどの事情ということはできず、結局、被告人の捜査段階における右3(一)の供述には任意性があるものと認められる。
5 被告人の捜査段階における供述の信用性に関連する当事者の主張
(一) 弁護人の主張
五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与が賄賂であったことを認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に関連して、弁護人は、次の趣旨の主張をする。
(1) 右3(一)(1)の検面調書には、被告人がどのような場所で、どのような経緯から、右申出をしたのかという記載が全くないばかりでなく、抽象的、概括的で、その記載自体からして、信用し得るものではない。
(2) 被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、五九年八月に乙山に対する定期的な政治献金を申し出たという内容になっているが、実際は、リクルートから乙山に対する資金的支援は、五七年一一月の出版記念パーティーのころに申し出た後、様々な形で行われており、定期的な政治献金も、遅くとも五八年一一月に既になされていたのであって、五九年及び六〇年中の四回の小切手の供与は、従前からなされていた定期的な政治献金の一環にすぎず、請託との関連はない。
(3) 被告人は、取調べ当初より五九年八月の献金の前から乙山に継続的に献金していた旨供述していたところ、検察官は、五七年一一月にパーティー券を購入した事実や、五八年一一月に小切手を供与した事実を知りながら、あえてこれを秘し、被告人が五九年三月の第一請託を契機として、同年八月以降、政治献金の名目で賄賂を供与したという虚偽の筋書を作り上げ、被告人に対し、盆暮れの定期的献金は同月以降であったという誤った前提の下で、半期五〇〇万円という多額の献金があったのは同月以降であり、それ以前に定期的に献金されたという資料はないと言って、虚偽供述を強要した。検察官が取調べ時に五八年一一月になされた五〇〇万円の献金の事実を被告人に言わなかったのは、被告人の弁解が右事実によって裏付けられ、献金の申出が五九年八月であったとする検察官の筋書きに反する結果になることを回避しようとしたからに他ならない。
(二) 検察官の主張
検察官は、五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与に関し、同小切手が入金された預金口座は、専ら選挙運動資金の受入口座として利用されていたものであり、同小切手は同年一二月の衆議院議員総選挙に際しての資金援助として臨時的に供与されたものであって、五九年八月から六〇年一二月までの定期的な政治献金とは性質を異にする旨主張する。
6 関係者の供述及び検察官の取調状況等
(一) 定期的な献金開始時期に関する捜査段階における供述状況
リクルート側から乙山に対し定期的な政治献金がなされるに至った時期につき、R1は、捜査段階において、五九年夏ころから大体盆暮れに五〇〇万円くらいずつの金が渡されていた旨供述し(甲書1一七五)、A1及びA2も、捜査段階において、乙山事務所がリクルートから定期的に献金を受けるようになったのは、同年八月からであった旨供述しており(甲書1八七四、一〇〇八、一〇一〇)、これらの各供述は、被告人の捜査段階における右3(一)の供述と一致している。
(二) 検察官の取調状況
被告人を取り調べて右3(一)の各検面調書を作成し、リクルート事件の主任検察官として捜査全般の指揮もしていたP2検事は、五八年一一月に小切手を供与した事実については、元年五月一〇日を何日か過ぎたころには把握していたが、当該小切手は選挙のための資金であり、特殊な献金であったので、被告人に質問することはなかった旨証言し(〈証拠略〉)、R1の取調べを担当したP6検事は、上司から、五九年、六〇年及び六三年の小切手に関する伝票を受け取り、それらについてR1から事情を聴くように指示を受けただけであるから、それ以外のリクルート側からの献金については把握しておらず、R1に質問したこともない旨証言しており(〈証拠略〉)、五八年一一月の小切手の供与に関しては、単に調書が作成されていないというにとどまらず、被告人やR1に対し、供与の事実の確認やその趣旨に関する取調べがなされていないことが認められる。
また、A1の元年五月一七日付け検面調書(甲書1八七四)は、「乙山事務所とリクルート社との関係や政治献金等のことについて申し上げます。」という書き出しで始まり、各小切手の供与を含むリクルートから乙山へ資金援助を受けたことに関する供述が記載されており、その中には、五八年一一月と同様に総選挙直前の時期になされた六一年六月の小切手の供与に関する供述も含まれているのに、五八年一一月の小切手の供与については、その事実の確認すらされていない。
さらに、乙山事務所において資金管理をしていたA2は、元年五月一〇日の検察官の取調べにおいて、五九年以降、被告人やリクルートが乙山の後援会員になり、盆暮れにそれぞれ五〇〇万円の政治献金を受けるようになったが、後援会に入会してもらう以前は、選挙の時やパーティー券の購入でお世話になっていたことはあるものの、毎年の盆暮れにほぼ定期的な政治献金を受けていたことはない旨供述し(甲書1一〇〇八)、元年五月一一日の検察官の取調べにおいては、五五年ころから五八年ころまでの間は、リクルートも被告人も後援会のメンバーではなかったし、パーティー等の時に援助してもらったことがある程度で、盆や暮れの時期に支持者の皆さんからいただいているほぼ定期的な政治献金をちょうだいしたことはなかった旨供述する上、五八年以前のパーティー券の購入や秘書の給与の負担による資金援助について供述する一方、同年一二月には国政選挙が行われたが、この選挙の際にリクルートから献金をいただいたかどうかについてははっきり記憶がないと供述し、さらに、「リクルート社から貰った小切手を東京銀行日比谷支店以外の銀行口座に入金したことはあるか。」という問いに対し、「一つもないと思います。」と答えている(甲書1一〇一〇)。これらによれば、A2の取調べに当たった検察官が同年一一月に小切手が供与された事実を把握していなかったことが窺われる。
(三) 五八年一一月の献金に関するP2検事の認識について
P2検事は、五八年一一月の五〇〇万円の献金は、政治資金関係の捜査をしていた検事が元年四月に作成した資料に記載されていて、元年五月一〇日の時点では、既にその報告を受けて把握していたし、その時点では、乙山の所に流れ込む金がどういう口座に入るのかという点を乙山の秘書等から聞いて取り調べており、五八年一一月の五〇〇万円は、東京銀行日比谷支店の口座に入っておらず、選挙のための特殊な金が入る口座に流れ込んでいるのであろうということが分かっていたと思う旨証言しつつ(〈証拠略〉)、「五月一〇日を過ぎて、何日か忘れましたけれども、いろんな資料が出てきて、選挙資金要請文書なんかが出てきて、それで口座も調べていくと、三菱麹町という口座があって、そこにその五〇〇万円が流れ込んでいたと、しかも、その口座は選挙要請によって、振り込まれた金が集積されている口座である」という形で事実が判明してきたが、結論的にはどの時点で何が分かっていたかはっきりしない旨証言しており(〈証拠略〉)、結局のところ、乙山に対する小切手の供与について被告人、R1、A1及びA2を取り調べていた元年五月中旬のどの時点でどの程度詳細に把握していたのかについては明確ではないものの、五八年一一月に五〇〇万円の小切手が供与された事実を把握していたこと自体は断定的に証言し、右事実を把握しながら被告人らにその点の供述を求めなかった理由については、衆議院の解散日に支出されている金であって、その趣旨が明らかであったから、その性質を聞く必要はないと判断したのであり、取調べに際して洗いざらい何でも聞けばいいというものではない旨証言している(〈証拠略〉)。
しかし、五九年三月の第一請託の数か月前に五〇〇万円という多額の献金がなされていた事実は、請託の経緯(被告人と乙山との従前の関係)として意味を持つほか、同年八月以降の献金の賄賂性(乙山は、コスモス株の譲受けに加え、同年及び六〇年中の四回の小切手受領についても受託収賄として起訴された。)を判断する上で重要な事情であり、捜査上も重要な関心事項となったはずである。したがって、被告人が、取調べの中で、五九年八月ころに乙山に対し今後盆暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をする旨の申出をしたことや、そこに請託に係る謝礼の要素が含まれていたことを認めるという重要な供述をし、その一方で、検察官が五八年一一月にも五九年八月以降と同額の五〇〇万円の小切手が供与された事実を把握していたのであれば、被告人の右供述の信用性を確認するために、解散日との関係等から五九年八月以降のものとは性質の異なる選挙用の金であったことが明らかであるとして済ませるのではなく、被告人に対し当該献金の趣旨を直接質問し、同月以降のものとは趣旨が異なるという返答があれば調書に残し、逆に、右供述は勘違いであって、既に五八年当時から定期的に献金していたという返答があれば、乙山の秘書も取り調べるなどして、同年一一月の献金の趣旨と五九年八月以降の献金の趣旨との異同について更に捜査を進めるのが、むしろ当然のことであると思われる。
そうすると、被告人に説明を求めなかった理由についてP2検事が証言するところは、合理的なものとは評価し難く、捜査当時、検察官らが五八年一一月に小切手が供与された事実を把握していなかったという疑いが多分に残る。
(四) 考察
五九年八月に乙山に対し五〇〇万円の小切手を供与する少し前ころ、盆暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助を申し出た旨の被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述については、被告人が乙山に定期的な献金の話を持ちかけた場所や経緯に関し何ら触れていない上、供述の内容も抽象的、概括的であって、供述の信用性を判断するに当たって重要となる具体的事実の記載に乏しいものであり、しかも、検察官が五八年一一月の五〇〇万円の献金に関し説明を求めていないため、五九年八月の小切手の供与が最初の多額の献金であったという誤った前提の下で誤導された可能性も念頭に置いて、その信用性を慎重に判断することが必要となる。
もっとも、被告人の取調状況や弁護人との接見状況は、本節第二の三5(一)、(二)で認定したとおりであって、特にその供述の任意性に疑いを差し挟むべき事情は窺われない上、被告人は、元年五月一〇日、一一日及び一二日に弁護人と接見した際には、それぞれ前日の取調べにおいて、乙山に対する五九年八月以降の四回の政治献金には請託に係る謝礼の趣旨が含まれていたと認めるように求められたことにつき弁護人と相談していたのである(〈証拠略〉)から、五九年八月以降に乙山に対し定期的な献金をしていたことに関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は、被告人が弁護人と相談を重ね、かつ被告人自身も数日間にわたって熟考した上で取調べに臨み、自らが納得した内容で調書の作成に応じたものと判断できる。
したがって、被告人の捜査段階における右3(一)の供述も、不十分な点があるとはいえ、関係証拠により、五八年一一月に五〇〇万円の小切手を供与した事実との関係で矛盾がなく、かつ、供述の信用性を支える事実が認められる場合には、その証明力を認める余地が十分にあるというべきである。
7 五八年一一月に五〇〇万円の小切手を供与した趣旨について
(一) 事実関係
そこで、次に、五八年一一月に乙山に対し五〇〇万円の小切手を供与した趣旨について検討するに、関係証拠によれば、右供与に関連して、次の各事実が認められる。
(1) 五八年一一月に供与した小切手が入金された三菱銀行麹町支店の「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座は、五七年三月一九日に新規開設されたものであり、その入金状況を見ると、同年九月上旬まで民間企業や個人から二万円ないし一五万円の小口の振込入金が散発的になされ、しばらく入金がなかったが、五八年四月、五月、七月に各一件の振込入金があり、その後同年九月三〇日に「サングレイン」という振込先から一〇〇万円、同年一〇月三日に「ショウワカンコウカイハツ」という振込先から一〇〇万円の各入金があった。
同口座の預金残高は、五八年一一月初めには一万円を切っていたが、同月一八日以降五九年一月までの間、集中的に多数の個人や企業等から一〇万円ないし三〇〇万円の振込入金がなされた。また、五八年一一月、一二月には、振込以外に六件の証券類が入金され、そのうち一件がここで問題になっているリクルート振出しの小切手による同年一一月二九日の入金である。乙山事務所では、この間、同年一二月二日、七日、九日、一三日、一六日にまとまった金額を引き出していた。
同口座には、六一年五月下旬以降六月下旬までの間、再度多数の個人や企業等から一〇万円ないし一〇〇万円の振込入金が集中的になされていた。
(2) 五八年一二月一八日に第三七回総選挙の投票が、また、六一年七月六日に第三八回総選挙の投票がそれぞれなされたところ、右振込入金が集中していた時期は、右各総選挙の直前の時期に当たり、第三八回総選挙が近づいた六一年五月には、乙山の政治団体の一つであるa3会が乙山の支援者に対し、選挙に際しての臨時会費として一口一〇万円を同口座に振込送金するように依頼する文書を発出していた。
なお、五八年一二月の総選挙については、同年一一月二日にI3首相が年内に衆議院を解散することを決断した旨の報道がなされ、同月一九日には政府が同月二八日に解散することを決めた旨の報道がなされていた。
(3) 右(1)の口座に対する入金数は、五九年二月以降六一年五月中旬まで及び同年七月以降は非常に少ないが、その間も、右「サングレイン」からは、五九年から六三年までの毎年一〇月又は九月に各一〇〇万円、右「ショウワカンコウカイハツ」からも、五九年から六三年の毎年夏から秋にかけて六〇万円又は八〇万円の振込入金がそれぞれあり、また、「ソニー」という振込先からも、五九年から六三年まで毎年一一月前後に各五〇万円、「コウギンヒショシツ」という振込先からも、六一年から六三年まで毎年一二月に各一〇〇万円の振込入金がなされていた。
(4) リクルートやリクルート情報出版(当時の商号は株式会社就職情報センター)では、第三七回総選挙の直前の五八年一一月ころ、乙山に対してだけでなく、多数の政治家に対し集中的に献金をしており、具体的には、同月二八日ころ、E2に四〇〇万円、H1に一五〇万円、E1、F5、H2及びH3に各一〇〇万円を小切手で献金し、これらのうちE2を除く五名に供与した小切手と乙山に供与した小切手は、同一の振替伝票で処理されていたほか、同月二九日ころ、H4に五〇〇万円、D2に二〇〇万円を、同月三〇日ころI3に二五〇〇万円を、同年一二月一日ころH5に六〇〇万円を、同月二日ころ、H6に二〇〇万円、H7に一〇〇万円を、同月六日ころH8又は同人の後援会に四五〇万円を、同月八日ころH9に五〇〇万円をそれぞれ小切手により献金していた。
(〈証拠略〉)
(二) 関係者の公判段階における各供述
被告人、R1及びA1は、定期的な政治献金の開始時期について、捜査段階における各供述(右3(一)、6(一))とは異なり、次の趣旨の供述をしている。
(1) 被告人の供述(〈証拠略〉)
乙山に対する政治献金は、五五年か五六年辺りから始まり、一回一〇〇万円程度を盆暮れだと思うが、節目の時期に献金するという感じであったのが、やがて秘書の給料を負担するなど金額が増えたという感じである。年二回、盆と暮れの時期に五〇〇万円ずつ献金するようになったのは、五七年一一月の乙山の出版記念パーティー以降である。不確かではあるが、そのパーティーの席上で、乙山に直接資金援助の話をしたと思う。もっとも、同年の暮れに関しては、パーティー券のまとめ買いが暮れの献金という趣旨もあったので、実際は五八年から盆暮れに献金していたと思う。
捜査段階においても、五九年八月よりも早い時期から乙山に対する献金が始まったと供述していたが、P2検事から、押収したリクルートの帳票類を見ると、そこから始まっており、それ以前にはないと話されて、客観的なデータがないものについて私が頑張ることはできないと思ったので、右3(一)(1)の検面調書ができた。
五八年一一月の小切手の供与は、選挙のための資金援助というわけではなく、盆暮れの政治献金の一環であったと思う。
(2) R1の供述(〈証拠略〉)
乙山に対する定期的な政治献金は五八年の六、七月辺りから始まったと思う。その点について具体的な記憶はないが、乙山とは、同年には秘書の給料を負担するほどの関係になっていたのであるから、同年の夏にも間違いなく献金したと思う。三〇〇万円か四〇〇万円をリクルートか関連会社から献金したと思う。
五八年一一月の小切手の供与は、選挙資金として臨時的に出したというものではなく、暮れの政治献金を選挙に合わせて少し早目に出したものであり、他の政治家にも同様に前倒しで出した記憶がある。
乙山に対しては、五八年以降、リクルート事件が世間で騒がれるようになる直前ごろまで途切れることなく、盆暮れの献金が継続しており、五九年夏の献金の際に被告人から特別な指示を受けたという記憶はない。
(3) A1の供述(〈証拠略〉)
リクルートからは、乙山が労働大臣当時の五四、五年ころ、一〇万円か二〇万円の献金を盆暮れにもらっていたことがあり、その後、五七年一一月の出版記念パーティーの券を買ってもらった後、同年末ころには秘書の給与を負担する話もいただいていたが、献金についても当然同年暮れころから二〇〇万か三〇〇万円単位でもらうようになったと思う。そのころリクルートから受領した小切手を乙山事務所の資金管理口座に入金した形跡がないにしても、乙山事務所では各種研究会名義の口座も使っていたし、現金でもらった可能性もある。
五八年一一月の小切手の供与は、通常の盆暮れの政治献金であったと思う。乙山からは、選挙前であっても、献金をもらいに行けという指示はなかったので、リクルートにも依頼してはおらず、通常の盆暮れの献金しかいただけなかったものと理解している。
(三) 考察
(1) 五八年一一月の献金は、①小切手を供与する方式であった点、②その金額も五〇〇万円であった点、③乙山事務所からは、乙山の五つの政治団体名義で一〇〇万円ずつに分割した領収証が発行された点で、五九年及び六〇年中に四回にわたり小切手を供与した際と同じであり、このうち、②の点は弁護人の主張に沿う事実ということができる。しかし、①の点は、小切手は一般に広く用いられている支払手段であって、特徴的な方法ではないし、③の点も、右2(二)(5)のとおり、乙山事務所において、政治資金規正法により寄附者の氏名等を報告書に記載することを回避するための方便として、複数の政治団体に分割して献金を受け入れる処理をしていた事情によるものであるから、①及び③の共通点は、五八年一一月の小切手の供与が五九年八月以降の小切手の供与と同様に定期的な政治献金の一環である旨の弁護人の主張を基礎付ける事情ということはできない。
(2) 次に、右(一)の事実によれば、三菱銀行麹町支店の「乙山事務所○○分室分室長A2」名義の普通預金口座は、検察官が指摘するとおり、主として選挙時期に支援者から選挙支援のために振込送金を受ける口座として利用されていたことが認められるが、他方で、選挙時期とは無関係に、五八年当時で二社、その後を含むと四社の企業から、毎年ほぼ定期的に概ね定額の金が振り込まれており、乙山に対する定期的な政治献金を振込送金の方法で受け入れる際の口座としても利用されていたことが認められるから、右口座が専ら選挙運動資金の受入口座として利用されていたということはできない。そもそも、リクルートは、右口座に振込送金したわけではなく、小切手を供与し、乙山事務所の者が当該小切手を右口座に入金したにすぎないから、右口座の性格によって、リクルートが供与した小切手の性格が一義的に定まるわけではない。
しかし、乙山事務所では、本節第四の二3のとおり、他に事務所資金を管理するための口座がありながら、五八年一一月にリクルートから受領した小切手を右資金管理口座ではなく、当時選挙支援資金を受け入れていた口座に入金し、直後に選挙支援のために振込入金を受けた金と一括して引き出しており、五九年及び六〇年中に四回にわたり供与された小切手については、これとは異なって、すべて事務所の資金管理口座である東京銀行日比谷支店のA2名義の定期預金口座や普通預金口座に入金したという相違があることは、検察官の主張に沿う一事情ということができる。
(3) また、五八年一一月の小切手の供与は、同年一二月一八日の三七回総選挙の直前になされたものであり、リクルートは、同じころ、多数の政治家に対し、一〇〇万円ないし二五〇〇万円の金額を乙山に対するのと同様に小切手により献金していたこと、同年一一月二八日ころは、「暮れ」の献金としては時期が早いこと(これに対し、五九年は一二月一九日ころ、六〇年は一二月五日ころ、六二年は一二月三日ころ及び二六日ころと、いずれも一二月に献金がなされた。)からしても、五八年一一月の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものとみるのが合理的である。
(4) 被告人及びR1は、公判段階において、五八年夏から定期的な献金が始まったと思う旨供述し(右(二)(1)、(2))、A1も、公判段階において、五七年の暮れころに定期的な献金が始まった旨供述する(右(二)(3))が、それらの供述等を裏付ける客観性のある証拠は存しない。
むしろ、リクルートから乙山に対する定期的な献金が五八年又はそれ以前から始まっていたとすれば、五九年夏の小切手の供与は既に定期化した献金の一環として例年と同時期になされるのが自然であるが、六〇年は六月二六日ころ、六一年は六月九日ころ、六二年は七月一六日ころ、六三年は六月一七日ころ及び同月二二日ころと、六月から七月半ばにかけて小切手が供与されていたのに対し、五九年は八月一〇日ころと他の年と比べて顕著に遅い時期に小切手が供与されたのである(右2(二)、(三))。右相違は、五九年の夏前までは定期的な献金がなされておらず、被告人が捜査段階において供述するとおり(右3(一)(1))、同年八月に小切手を供与する少し前ころに乙山に対し定期的な献金を申し出て、その一回目として同月一〇日ころに小切手を供与し、その後は定例化されたために夏期の出費に備えて六月から七月半ばまでに供与するようになったとみることで、合理的に理解できる。
(5) 以上を総合すれば、五八年一一月の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものであり、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものと認められる。
したがって、五八年一一月に小切手を供与した事実があることは、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、「今後、盆、暮合わせて一、〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」と話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
8 小括
(一) 五九年八月ころ乙山に献金を申し出た旨の被告人の供述の信用性
以上検討したところによれば、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をすることを話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、抽象的、概括的であって、具体的事実の記載に乏しく、五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与について触れていないという点で難点はあるが、他方で、
① 被告人は、乙山に贈賄したという事件については、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見しつつ、取調べに臨んでいたのであり、その取調状況を検討しても、任意性に疑いを差し挟むべき事情は窺われない上、五九年八月以降乙山に対し定期的な献金をしたことに関する被告人の供述は、弁護人と相談を重ね、かつ被告人自身も数日間にわたって熟考し、自らが納得した内容で調書の作成に応じたものと判断できること(第一章第三の三1、2、右4(二)、6(四))、
② 五八年一一月の五〇〇万円の小切手の供与は、総選挙に備えて臨時になされたものであって、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものであるから、五八年一一月に小切手を供与した事実があることは、被告人の右供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできないこと(右7(三))、
③ 乙山事務所の統括的な立場の秘書であったA1及び資金管理を取り扱っていた秘書のA2は、いずれも、捜査段階において、リクルートから乙山に対する定期的な献金が始まったのは五九年からである旨供述していること(右6(一))、
④ 乙山事務所がリクルートから交付を受けた小切手を事務所の資金管理口座である東京銀行日比谷支店のA2の口座に入金するようになったのは、五九年八月に受領した小切手からであること(右2(一)、(二))、
⑤ 五九年夏の小切手の供与は、その後の夏の小切手の供与が六月から七月半ばにかけてなされていたのに対し、八月一〇日という遅い時期になされたのであり、このことは、それまでは献金が定例化しておらず、八月一〇日の前に定例化の契機があったことを示唆すること(右7(三)(4))
などの事情を併せ考えると、五九年八月に小切手を供与する少し前ころ、乙山に対し、今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をすることを話したという被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、十分に信用することができる。
(二) 小切手の供与の賄賂性に関する被告人の供述の信用性
(1) 右3(一)のとおり、被告人は、捜査段階において、五九年八月以降六〇年一二月までに四回にわたり乙山に対し小切手を供与した趣旨につき、乙山を政治的に応援する献金としての意味とともに、本件各請託に係る謝礼としての意味を持つことを認める供述をしているが、これまでに認定した諸事実と次節で認定する事実、すなわち、
① 右(一)①の事実、
② 被告人らリクルートの幹部は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、広告料収入の減少や計画的な発行・配本業務に支障が生じて、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたこと(前節第二の二1)、
③ 五九年当時、民間企業の採用担当者の間では、官庁の青田買いが民間の青田買いを助長しているという意見が強く出されていたこと(前節第一の三3)、
④ 被告人らリクルートの経営陣は、職安法対策プロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、公務員試験の日程を巡る人事院と日経連との折衝に関する情報を得て、五九年三月一三日ころ、公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きには賛成することができないと判断し、むしろ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止することを企図し、その実現のために、官房長官であった乙山に働きかけることを決定し(本節第二の二6)、実際に、被告人が、五九年三月一五日、乙山に対し、国の行政機関において就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託をしたこと(本節第二の六4)、
⑤ 乙山は、右請託を受けた後、G2人事院任用局長に電話をかけ、公務員試験の合格発表日等について質問をし、部下のI2内閣参事官に対し公務員試験の日程等について質問をし、さらに、I2の報告を受け、人事課長会議で申合せをすることを了承するという行動をし、被告人の指示を受けたR6らの訪問を受けた際には、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたこと(本節第二の四2、4、五2(一))、
⑥ 実際に、五九年三月二八日の人事課長会議において、「1 求人求職秩序の維持のため、いわゆる10―11協定に協力する。 2 このため、選考開始日は、11月1日であるとの認識の下に10月1日前の学生のOB訪問及び10月1日以降の官庁訪問に対しても協定の趣旨に沿った対応をするものとする。」という申合せがなされたこと(前節第一の三5)、
⑦ リクルートでは、五九年五月から七月にかけて、繰り返し丙川二郎衆議院議員に働きかけ、被告人も関与して右人事課長会議申合せを重視した質問案を作成し、同議員に渡すなどして、同年六月及び八月に衆議院の委員会で官庁の青田買い防止を求める質疑をしてもらったこと(次節第二)、
⑧ 乙山に対し後援会費の支払や私設秘書の給与の負担に加えて年間一〇〇〇万円の定期献金をするというのは、相当に多額の資金供与であることを照らし合わせて考えると、五九年八月に小切手を供与する少し前ころに乙山に対し定期的な資金援助を申し出た趣旨に関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は、被告人がその本心を供述するものであって、十分に信用することができる。
したがって、五九年八月に小切手を供与した献金には、第一請託に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
(2) 弁護人は、乙山に対し定期的な献金を申し出たことに関する被告人の捜査段階における右3(一)(1)の供述は、終期や合計額について何ら触れておらず、政治献金の申出であればともかく、請託に係る報酬として賄賂の供与を申し出るのに、いつまでに、合計で幾らの賄賂を申し出たのかも分からない文言を用いるということ自体、非常に不自然であり、また、リクルートは、当時、政治家に対し一回に二〇〇〇万円程度の政治献金を行うことが少なからずあったのであるから、仮に就職協定の存続及び遵守がリクルートの社運に関わる問題であり、時の内閣官房長官であった乙山にそのような重大な頼み事をし、これに係る報酬の支払をするというのであれば、賄賂を分割して支払うと申し出るということも不自然である旨主張するが、請託に係る謝礼の趣旨で金員を供与する方法として、合計額や終期を明示した上で分割して支払うことや、一括して支払うことが自然であるとする理由はない。むしろ、政治家に対する場合には、請託直後にまとまった金額を支払うというあからさまな方法を採るよりも、請託に係る謝礼の趣旨を込めて定期的な政治献金の形で供与する方が外部から疑念を持たれるのを避けることができ、贈収賄の当事者にとって合理的であるともいい得るのである。
弁護人は、さらに、被告人は、五七年秋ころに継続的な資金的支援を申し出て、少なくとも五八年一一月には五〇〇万円を献金していたのであるから、五九年三月の第一請託から五か月近くも後になって賄賂の提供を申し出たというのであれば、従来の金額を相当超える政治献金を申し出るとか、請託に係る謝礼であることを少しでも匂わせなければ、継続的な政治献金とは異なる特別の供与であると乙山に気付かせることができないはずであり、賄賂の趣旨で一回当たり五〇〇万円の献金を申し出たというのは不自然である旨主張するが、五八年一一月の献金が総選挙に伴う臨時的なものであり、被告人が五九年八月一〇日の少し前ころに定期的な献金を申し出たものであることは既述のとおりであるから、弁護人の主張は前提を欠いている。
(3) 次に、五九年一二月から六〇年一二月までの三回の小切手の供与についても、右(1)①ないし⑧の諸点に加え、
⑨ 被告人が申し出たのは盆と暮れの時期の定期的な献金であり、実際に、申し出たとおり、概ね盆と暮れの時期に各五〇〇万円の小切手の供与が定期的になされたこと、
⑩ 被告人らリクルートの幹部は、六〇年度についても、就職協定の存続及び遵守が事業上重要な課題であると認識し(前節第二の二1、四)、六〇年三月ころ、被告人がR8とR7に指示して、引き続き官房長官の地位にあった乙山に対し再び官庁の青田買い防止に関する請託をしたこと(本節第三の四8)、
⑪ 六〇年四月一〇日の人事課長会議において、官側としても産業界及び大学等と同様に、五九年度人事課長会議申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めることが了承されたこと(前節第一の四3)、
⑫ リクルートでは、六〇年六月にも、丙川二郎衆議院議員に働きかけ、衆議院の委員会において、六〇年度人事課長会議申合せを踏まえた質疑をしてもらい、D6文部大臣から、官庁が右申合せを厳に守るように切に希望する旨の答弁を引き出したほか(次節第三)、同年一〇月から一一月にかけても、同議員に働きかけて、衆議院の委員会で質疑をしてもらい、人事院総裁から、人事課長会議申合せに言及した答弁を引き出したこと(次節第四)
を考慮すれば、その趣旨に関する被告人の捜査段階における右3(一)の供述は信用することができ、いずれも、官庁の青田買い防止を求める請託(五九年一二月の供与については第一請託、六〇年六月及び一二月の供与については本件各請託)に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
9 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、乙山に対する小切手の供与は、リクルート及び関連会社が正規の会計処理をした上で支払い、受け取った乙山側でも政治献金として正規の処理をしていたところ、支払側も受取側も賄賂であることを認識していたとすれば、このような処理をするのは不自然である旨主張するが、政治献金として正規の処理をすることと当該献金が賄賂であることとは矛盾することではなく、贈賄者や収賄者としては、職務との関連性や請託の事実が外部に露見することさえなければ、政治献金として正規の処理をしても不都合が生じることはないのであるから、弁護人の主張は理由がない。
(二) 弁護人は、検察官が、乙山に対する献金のうち、五八年一一月の五〇〇万円と六一年六月の一〇〇〇万円が賄賂でないとしながら、五九年及び六〇年の四回の献金を賄賂であると主張するのは不合理であり、これらの献金は、リクルートが乙山に対し継続的に行っていた一連の通常の政治献金であると考えるのが自然である旨主張する。
しかし、五八年一一月の献金は、右7のとおり、総選挙に備えて臨時になされたものであり、五九年八月に始まった定期的な政治献金とは性格を異にするものと認められるから、五八年一一月に献金した事実があることは、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂の趣旨があることを認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
また、六一年六月の一〇〇〇万円の献金についても、五八年一一月と同様に総選挙直前の時期になされたものであり、被告人が賄賂性を認める献金の後にした献金が賄賂性を有しないとしても、そのことは、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情となるものではない。
(三) 弁護人は、五九年度人事課長会議申合せは、乙山が働きかけるまでもなく、人事院と日経連等の経済団体との折衝の結果として実現したのであり、六〇年度人事課長会議申合せも、乙山が働きかけるまでもなく、前年の申合せを踏襲したものにすぎないから、被告人が乙山の働きかけによって右各申合せがなされたことに感謝して小切手を供与したものではない旨主張する。
確かに、五九年度人事課長会議申合せがなされるについては、前節第一の三5の経緯があったことが認められるのであって、乙山の働きかけによって同申合せができたわけではないが、他方で、乙山も、右8(二)(1)⑤の行動をしたのであるから、乙山と無関係に右申合せがなされたという経緯ではないし、乙山は、被告人を公邸に迎えて第一請託を受けるとともに、その後に被告人の指示を受けたR6らが訪問した際には、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたのであるから、被告人が五九年八月と一二月に乙山に対し小切手を供与するに際し、純粋に政治活動を応援するという趣旨に加えて、第一請託に係る報酬としての趣旨を含めるということは、あり得ないことではなく、むしろ、自然なことである。
また、被告人は、六〇年三月ころにも、R8とR7に指示して、引き続き官房長官の地位にあった乙山に対し第二請託をし、翌月に六〇年度人事課長会議申合せがなされたのであるから、被告人が同年六月と一二月に乙山に対し小切手を供与するに際し、純粋に政治活動を応援するという趣旨に加えて、本件各請託に係る報酬としての趣旨を含めるということも、あり得ないことではなく、むしろ、自然なことである。
(四) 弁護人は、五五年七月二三日の人事課長会議でも、上級試験合格者に対する採用面接について、一〇月一日以前には志望者の応対を行わないことを申し合わせ、五六年度ないし五八年度については、五五年度申合せにより対応されていたが、これらには全く実効性がなく、五九年度人事課長会議申合せも五八年までのものと異なるところがなかったのであるから、被告人が乙山の尽力により五九年度人事課長会議申合せがなされたと考えるような状況にはなく、申合せがなされたことについて感謝するような状況にもなかった旨主張する。
確かに、関係証拠によれば、人事課長会議では、五一年度から五五年度にかけて、毎年七月下旬ないし八月中旬に「上級職合格者に対する採用面接についての申合せ」をしており、特に、五四年度及び五五年度の申合せには、「一〇月一日前においては、志望者の応対を行わないものとする。」という一文が含まれ、五六年度から五八年度までは、新たな申合せは行わないものの、五五年度申合せにより対応することになっていたこと(甲書1一〇三二)、人事院が公務員試験の第二次試験受験者に配布する案内書には、五三年度及び五四年度のものに「中央雇用対策協議会の申し合わせで、採用側と学生との接触は、官、民とも10月1日以降となっていますので、9月30日以前は各官庁の採用担当課を訪問しないでください。」という記載が、また、五五年度ないし六〇年度のものに「採用側と学生との接触は、各省庁の人事担当課長会議の申し合わせにより10月1日以降となっています。〔中略〕(ただし、9月30日以前の訪問は行わないこと。)」という記載があり、五八年度以前と五九年度以降とで、その記載に変化がないこと(弁書1一四八)が認められる。そして、被告人も、公判段階において、五九年度人事課長会議申合せは、その直後ころに報告を受けていたが、同様の申合せは従前からよく行われており、さほど実質的な効果もなかったし、五九年度についてもおそらく守られないと思っていたので、とりたてて良いこととも悪いこととも受け止めなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、関係証拠によれば、①文部省で就職協定に関する事務を所管していた大学局学生課では、五九年度人事課長会議申合せは、民間の一〇―一一協定に協力することを初めて明示した点で前年度までの申合せと異なっており、画期的なことであると評価していたこと(〈証拠略〉)、②人事院の担当者も、五九年度人事課長会議申合せは、就職協定に協力する旨の文言が入っている点で従前の申合せとは異なると理解していたこと(〈証拠略〉)、③人事課長会議を主宰したI2内閣参事官も、従前の人事課長会議における申合せは就職協定に言及していない点で五九年度人事課長会議申合せと内容が異なると理解していたこと(〈証拠略〉)、④日経連の側でも、L2日経連雇用課長は、官民が一体となって就職協定の遵守に取り組んだのは就職協定の歴史の中で初めてであると認識しており、五九年度人事課長会議申合せに至る過程で、同課長がG1人事院企画課長や主要官庁の人事担当課長と話し合い、G1が中雇対協幹事会でも官庁側が民間の就職協定を遵守すると約束したことなどの経緯から、実質的には官庁側も就職協定の当事者になったと認識して、画期的である旨評価し(〈証拠略〉)、五九年四月五日付け日経連タイムスでも、中雇対協の申合せを報ずるに当たって、「官庁側が就職協定の当事者であることを認め、協定順守の方針を打ち出したのは初めてのことである。」と報じていること(甲書1一〇九三)、⑤リクルートにおいても、月刊リクルート五九年七月号に「就職協定遵守への積極的な動き」と題してL2文部省学生課長の談話が掲載され、そこには、「本年度の協定遵守へ向けての動きの中で大きな特色が二つあります。」として、OB訪問等の自粛をその一つとして挙げた上、「もう一つ画期的なことは、国家公務員上級職の採用事務についての申合せです。」「人事院では、三月二八日に各省庁人事担当課長会議で『求人・求職秩序の維持について』という申合せを行いました。10―11協定に協力する、一〇月一日前の学生のOB訪問、一〇月一日以降の官庁訪問について協定の趣旨に沿った対応をするというものです。」「公務員採用について協定遵守の申合せが行われたのは、就職協定の長い歴史の中でも初めてのことであり、高く評価されてよいと思います。これによって、大学、企業、中央官庁の足並みが初めて揃ったわけで、本年度は全体として協定遵守の体制がいちだんと強固なものになりました。」などと記載されていること(〈証拠略〉)が認められるのであり、さらに、次節で認定するとおり、リクルートでは、通産省や労働省が青田買いをした旨の新聞報道がなされると、取締役会等でこれを検討し、五九年五月から八月にかけて、丙川二郎衆議院議員に働きかけ、国会で官庁の青田買いにつき追及して政府に人事課長会議申合せの遵守の徹底方を求めてほしい旨要請し、二度にわたって衆議院文教委員会で質問してもらい、うち一度は、被告人自身も関与した上、人事課長会議申合せにも触れた質問案を作成して丙川二郎議員に渡した事実があったのであり、これらの事実に照らせば、五九年度人事課長会議申合せの評価に関する被告人の公判段階における右供述は信用することができず、被告人が第一請託に係る報酬として小切手を供与することは何ら不合理ではない。
(五) 弁護人は、五九年三月一五日に被告人が乙山を公邸に訪問した後、乙山が請託についての対応に関し被告人らに説明した事実はなく、リクルート側から請託についての乙山の対応に関し謝礼を述べた事実もないのであるから、右公邸訪問と約五か月後の同年八月ころの献金の申入れとの間に関連性を認めることはできず、さらに、同月に小切手を供与した際も、被告人の指示を受けたR1がA1に小切手を交付するに際し、供与の理由を述べなかったのであるから、乙山が賄賂性を認識することは不可能であった旨主張する。
しかし、右8(二)⑤、⑥のとおり、被告人が五九年三月一五日に第一請託を行った後、同月二四日に被告人の指示を受けたR6らが乙山を訪問した際、乙山から官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答を受け、同月二八日に五九年度人事課長会議申合せがなされた経緯があるのであり、R6らの訪問や人事課長会議申合せと同年八月一〇日ころの小切手の供与に先立つ被告人の申出との間隔は約四か月程度であるところ、その程度の期間が賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述を不合理とするほどの事情であるということはできない。
また、乙山は、官房長官という多忙な職にありながら、五九年三月一五日、私企業の経営者である被告人のために時間を割いた上、公邸に迎えて請託を受け、その後、本節第二の四2、4の行動をし、さらに、同月二四日には、R6らと面会して、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をしたのであるから、同じ年の八月一〇日の少し前ころ、被告人から、「今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」などと言われて高額の定期的な献金の申出を受けた際や、その後に現実に小切手の供与を受けた際には、同年三月に被告人から受けた請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていると察知するのが自然であり、その間の月日の経過や、請託との関連を明示する言動がなかったことは、乙山にとって賄賂性を認識することを困難にする事情となるものではない。
(六) 弁護人は、リクルートグループの政治献金は、五八年ころから、金額の上でも政治家の人数の上でも増加していたが、これは、被告人が、日本の戦後の繁栄は自民党の単独長期政権の結果であり、日本の繁栄のために自民党を支援しなければならないと考えていたところ、A6から、乙山ほか数名の政治家に対する支援を要請されたこと、リクルートグループの飛躍的発展と経営基盤の安定によってゆとりができたことなどから、主として自民党の国会議員に対し経済的支援を行うようになり、五九年八月前後及び一二月前後も、十数名に対し各合計五〇〇〇万円前後の献金をし、その献金額は、政治家の地位や被告人の思い入れ等を配慮して決めていて、中には乙山に対するよりも多額の献金をした例もあったのであり、乙山に対する献金は、時期や方法、金額において、他の政治家に対する献金と何ら異なるところがなかったから、賄賂でないことが明らかである旨主張し、被告人も、公判段階において、同趣旨の供述をしている。
確かに、五九年三月の第一請託の前における被告人と乙山との関係や資金提供の状況(本節第一の二、右2(一))に照らすと、被告人の乙山に対する資金援助について、親しい財界人からの要請、被告人の自民党支援の気持ちや乙山に対する思い入れが関係していたということ自体は、不合理な供述とはいえず、事実と認められるところである。
しかし、秘書の給与の負担や後援会費の支払に加え、年間一〇〇〇万円の高額の献金をすることについて、右のような、親しい財界人からの要請、自民党支援の気持ちや乙山に対する思い入れが影響していたとしても、そのことと請託を受けてもらったことに対する謝礼の気持ちとは、両立し、併存し得るものであるから、弁護人が指摘するリクルートグループの政治献金の実情は、五九年及び六〇年の四回の献金について賄賂性を認める被告人の捜査段階における右3(一)の供述の信用性に疑いを差し挟むべき事情ということはできない。
四 まとめ
1 乙山に対するコスモス株の譲渡の賄賂性に関する被告人の供述の評価
被告人は、本節第五の二1のとおり、元年四月二七日の検察官の取調べにおいて、乙山に対しては、リクルートが就職協定の問題について色々お願いした関係もあって、コスモス株を譲渡した旨供述し、さらに、同月三〇日の検察官の取調べにおいても、乙山に対し公務員の青田買いについて請託をした経緯やその状況を供述した後、「本日申し上げたような乙山先生に対して就職協定等のお願いをしたような関係もあって、先生に対し前回申し上げたようにリクルートコスモス株一万株を譲渡したのです。」と供述するところ、右供述に加え、これまでに認定した諸事実と次節で認定する事実、すなわち、
① 被告人は、乙山に贈賄したことに関する取調べ当時、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見しつつ、取調べに臨んでいたのであり、元年四月二七日付け検面調書(乙書1一二)及び同月三〇日付け検面調書(乙書1一四)の作成過程においても供述の任意性に疑いを抱かせるような事情がないこと(第一章第三の三1、2、本節第二の三5(二)、第三の二4(三))、
② 小切手の供与の賄賂性に関する被告人の捜査段階における供述の信用性を検討した項目の諸事実(本節第五の三8(二)(1)②ないし⑧、(3)⑩ないし⑫)があること、
③ 被告人は、第一請託の後、これに係る報酬の趣旨を含んで、乙山に対し、五九年八月及び一二月に各五〇〇万円分の小切手を供与し、さらに、第二請託の後、本件各請託に係る報酬の趣旨を含んで、乙山に対し、六〇年六月及び一二月に各五〇〇万円分の小切手を供与したこと(本節第五の三8)、
④ 被告人は、コスモス株の譲渡時の価格と公開後の株価との差額を利益として取得させようと考え、社外の者へ譲渡することを企図したものであり(第一章第二の三3(三)④)、六一年九月一六日の大和会議に参加した後は、通常に推移すれば、大京観光と日栄建設の二社を類似会社とする場合に四〇〇〇円以上、大京観光と三井不動産の二社を類似会社とする場合には五〇〇〇円以上の初値が付いて、その後相当期間にわたり右初値程度又はそれを上回る価格で推移するものと予想し、仮に類似会社の株価の下落や株価市況の悪化があったとしても、店頭登録当日の初値が少なくとも一株三〇〇〇円を超え、その後相当期間にわたり三〇〇〇円を上回る価格で推移することが確実であると見込まれる状況であると認識していたこと(第一章第二の三3(三)結論部分)、
⑤ 被告人は、乙山に対し電話でコスモス株一万株の譲渡を持ちかけ、その了承を得た上、R1に手続を指示して、これを譲渡したこと(本節第四の五)を照らし合わせて考えると、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)は、被告人がその本心を供述するものであって、十分に信用することができる。
2 賄賂性に関する乙山の認識
乙山は、官房長官という多忙な職にありながら、五九年三月一五日、私企業の経営者である被告人のために時間を割き、公邸に迎えて第一請託を受け、その後、本節第二の四2、4の行動をし、さらに、同月二四日にはR6らと面会して、官庁の青田買い防止については適切な対処ができるという回答をし、同年八月一〇日の少し前ころ、被告人から、「今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。」などと言われて高額の定期的な献金の申出を受け、その後六〇年三月ころには、R8らから前年と同趣旨の第二請託を受け、実際に、五九年には第一請託に係る謝礼の趣旨を含む各五〇〇万円分の小切手を二回、さらに六〇年には本件各請託に係る謝礼の趣旨を含む各五〇〇万円分の小切手を二回、合計四回にわたって受領したのである。したがって、乙山が、六一年九月に公開時には譲渡価格を上回ることが確実と見込まれる未公開株であるコスモス株の譲渡を被告人から持ちかけられた際には、本件各請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていることを当然に察知することができたものと考えられる。
乙山は、コスモス株の譲受けと本件各請託との関連を否定するのみならず、自分がコスモス株を譲り受けた事実はなく、A1名義で譲り受けたことについても六三年一〇月にA1から聞くまで知らなかった旨弁解するが(〈証拠略〉)、乙山がコスモス株一万株を譲り受けたことは、本節第四で認定したとおりであり、乙山が右譲受けの事実すら否定する不合理な供述態度を貫いていることからすると、コスモス株に関する乙山の供述の信用性は全般的に低い。また、乙山がコスモス株の売却代金の大部分に当たる五二〇〇万円を自宅購入の手付金及び内金として費消したことも、乙山がコスモス株の譲受けによる利益を通常の政治献金とは異質なものと認識していたことの証左であるということができる。
以上の諸事情を総合すると、乙山がコスモス株一万株の譲渡に本件各請託に係る報酬の趣旨が含まれていることを認識していたものと推認することができる。
3 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、五九年八月から六〇年一二月までの四回にわたる小切手の供与が賄賂であったとしても、その後の六一年六月には通常の政治献金として一〇〇〇万円の小切手が供与され、しかも、コスモス株の譲渡は、五九年三月の第一請託からは二年半、六〇年三月ころの第二請託からも一年半が経過した後になされたのであるから、株式の譲渡を申し出る際に賄賂であることを明示しなければ、乙山側にその旨理解させることは到底できず、賄賂を贈った意味もないことになるのに、被告人もR1も乙山やA1に対しコスモス株の譲渡が右各請託に係る謝礼であることを窺わせる言動をしなかったのであるから、賄賂性を認める被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)には信用性がない旨主張する。
しかし、右2のとおり、乙山は、六一年九月に被告人からコスモス株の譲渡を持ちかけられた際には、本件各請託に係る謝礼の趣旨が多少とも含まれていると当然に察知することができたと考えられるところであり、その間の月日の経過、コスモス株の譲渡の前に被告人が賄賂の趣旨を認めていない献金があったことや、請託との関連を明示する言動がなかったことは、乙山にとって賄賂性を認識することを困難にする事情ではないというべきである。
また、被告人としても、あえて請託に係る謝礼の趣旨を明示しなくても、乙山にその趣旨を酌み取ってもらえば足りることであるし、あからさまに賄賂の趣旨を示す言動をすれば、政治家である相手方に対し、不用意な言動をする者であるという警戒感を抱かせることも考えられるのであるから、被告人が請託に係る謝礼の趣旨を示す言動をせずに、その趣旨を含んでコスモス株を譲渡するということは不合理ではない。
(二) 弁護人は、リクルートや関連会社から乙山に対しては、本節第五の三2(三)のとおり、コスモス株の譲渡の前である六一年六月に小切手が供与され、コスモス株の譲渡後の六二年七月、一二月及び六三年六月にも小切手が供与されたのであり、これらは、定期的な政治献金で、特に、六一年六月の小切手の供与は、乙山が自民党の国会対策委員長の地位にあることに配慮した政治献金であったから、これらの献金の流れの中でなされたコスモス株の譲渡には資金援助以外の特別な趣旨は含まれていなかった旨主張する。
しかし、被告人が、リクルートや関連会社から政治家に対する定期的又は選挙等の需要に応じた臨時の政治献金とは別に、株式の相対取引の形式で、株式値上がりの利益を政治家個人に供与することを企図した際、各請託に係る謝礼の趣旨を含んで譲渡の相手方の一人として乙山を選定するということは、不合理とはいえないから、乙山に対し本節第五の三2(三)の献金をしたことが、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)の信用性に疑いを入れる事情ということはできない。
(三) 弁護人は、五九年度人事課長会議申合せ及び六〇年度人事課長会議申合せは、客観的に見て被告人の請託や乙山の尽力の結果としてなされたものではなく、被告人やリクルートが乙山の尽力の結果右申合せに至ったと考える状況にはなかったから、乙山に対するコスモス株の譲渡を請託に係る報酬と評価することはできない旨主張するが、本節第五の三9(三)の事情からすれば、被告人が乙山に対しコスモス株を譲渡するに当たり、請託に係る報酬としての趣旨を含めるということは、不自然なことではない。
(四) 弁護人は、被告人は、コスモス株を当時の自民党総裁をはじめとして、「ニューリーダー」や「ネオニューリーダー」と称されていた政治家に譲渡しており、当時、総裁派閥に属し、「ネオニューリーダー」の一人と目されていた乙山に対しても、その一環としてコスモス株を譲渡したのであるから、賄賂性はない旨主張するが、被告人は、乙山に対し本件各請託を行ったのであるから、請託をしなかった政治家の場合と同列に論じることはできず、右事情は乙山に対するコスモス株の譲渡の賄賂性を左右するものでない。
4 結論
したがって、コスモス株の譲渡の趣旨に関する被告人の捜査段階における供述(本節第五の二1)が十分に信用し得ることに疑いの余地はなく、乙山に対するコスモス株一万株の譲渡には、本件各請託に係る報酬という賄賂の趣旨が含まれていたものと認められる。
第六 補足(公務員の青田買い防止と官房長官の職務権限について)
国家公務員の採用権限は、内閣、各大臣、各外局の長等の任命権者にあり、その委任も各行政機関の部内で行われており(当時の国家公務員法三五条、五五条一項、二項)、国家公務員の採用活動は、各行政機関がそれぞれ所掌する事務であるところ、国家公務員の採用選考の時期及び方法を民間の就職協定との関係でどのように行うかは国の行政機関全体にわたる重要な事項であり、その点に関する行政各部の施策の統一保持上必要な総合調整事務は内閣官房の所掌する事務(本節第一の一2)に当たり、内閣官房長官の職務権限に属するということができる。
そして、国の行政機関において国家公務員の採用に関し就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の本件各請託の内容は、国家公務員の採用という国の行政機関全体にわたる事項について適切な措置を執ることを求めるものであるから、その当時内閣官房長官であった乙山が本件各請託に関する職務権限を有していたことは明らかである。
第三節 判示第二の事実(丙川二郎に対する贈賄事実)について
第一 前提又は背景となる事実関係
一 丙川二郎の経歴等
1 丙川二郎の経歴及び五九、六〇年当時の地位
丙川二郎は、五一年一二月の総選挙で公明党公認候補として東京都第三区から立候補して初当選した。その後、五四年一〇月の総選挙でも公明党公認候補として同選挙区から立候補して当選し、五五年六月の総選挙では落選したものの、五八年一二月及び六一年七月の各総選挙で公明党公認候補として同選挙区から立候補して当選し、元年六月二日の衆議院本会議において辞職を許可されるまで衆議院議員の地位にあった。
丙川二郎は、初当選以来、衆議院において、主として文教委員会や予算委員会の委員を務めるなどして活動し、これら政治活動に際しては「丙川次郎」という氏名を使用していた。
なお、丙川二郎は、四九年一一月に公明党に入党して党本部文化局次長になり、その後、書記局員を経て、五五年一二月から六一年一二月まで中央委員を務めたほか、六〇年一二月に中央委員会議長、六一年一二月に中央執行委員、副書記長、国対副委員長に就任し、東京都本部でも、五二年三月から文化局長を務め、六一年一二月には副本部長に就任し、六三年一一月四日に辞任するまでその地位にあった。
(〈証拠略〉)
2 丙川二郎の事務所、秘書及び後援会
五九、六〇年当時、丙川二郎は、東京都千代田区永田町〈番地略〉所在の衆議院第一議員会館(本節中に限り、以下「議員会館」という。)○○○号室の事務所(以下「議員会館の丙川事務所」という。)のほか、東京都目黒区青葉台○丁目のマンションの一室に「丙川次郎事務所」という名称の事務所(以下「目黒の丙川事務所」という。)を構えていた。
当時の秘書としては、五八年一二月に丙川二郎が衆議院議員に当選した後、いったんは丙川二郎の弟のB1が公設第一秘書になったが、五九年一月にB2(以下「B2秘書」又は「B2」という。)がこれに替わり、B3(以下「B3秘書」又は「B3」という。)が公設第二秘書、B4(以下「B4秘書」又は「B4」という。)が私設秘書を務めていた。丙川二郎が六一年七月の総選挙に当選した後は、B3が公設第一秘書、B4が公設第二秘書になった。
丙川二郎は、資金集めを兼ねて、五三年一一月ころから、一人一回三万円の会費で、官僚、経済人、公明党関係の政治家等を講師とする勉強会を主催しており、「b4会」と称していた。また、丙川二郎の後援会として、五五年一二月ころにできたb2会があり、これは、政治資金規正法上の政治団体で、目黒の丙川事務所を事務所とし、丙川二郎の政治活動費の一部もb2会で負担していた。
B1は、聖教新聞社の記者をしていたが、丙川二郎が五一年一二月に初当選して衆議院議員になった時から公設第二秘書を務め、途中で公設第一秘書になって、五五年六月の総選挙で丙川二郎が落選するまでその地位にあった。B1は、丙川二郎の落選中は、公明党の職員になるとともに、丙川二郎の私設秘書としての仕事もしていたが、丙川二郎が五八年一二月に衆議院議員に当選した後は、右のとおり、いったんは公設第一秘書になったものの、その後、私設秘書になり、主として目黒の丙川事務所で執務し、b4会、「b3会」等、丙川二郎の複数の後援会の運営を担当しており、六〇、六一年当時も同様であった。また、B1は、丙川二郎の選挙の際などに丙川二郎の後援者を訪問して献金を求め、これを受け取ることもしていた。
なお、b2会の事務や資金管理は、五九年七月ころから一二月ころまではB2が担当していたが、B2がその事務を滞らせたため、六〇年初めころから、B1がb2会のそれも担当し、女性事務員に指示を与えるようになった。
(〈証拠略〉)
二 丙川二郎の職務権限
1 衆議院文教委員としての職務権限
(一) 丙川二郎は、第一〇一回国会において、五八年一二月二八日に衆議院文教委員に選任され、五九年三月三日に辞任、同日に補欠選任、同年七月一〇日に辞任、同日に補欠選任、同年一一月二九日に辞任、同日に補欠選任され、第一〇五回国会会期中の六一年六月二日に衆議院が解散されるまで同委員を務め、第一〇六回国会において、同年七月二三日に再度同委員に選任され、第一〇七回国会会期中の同年一二月二四日に辞任するまで同委員を務めていた。
(〈証拠略〉)
(二) 五九、六〇年当時、衆議院文教委員会は、衆議院の常任委員会の一つとして置かれ、その委員の数は三〇人であり、文部省の所管に属する事項、教育委員会の所管に属する事項及び日本学術会議の所管に属する事項を所管し、その部門に属する議案(決議案を含む。)、請願等を審査するほか、議長の承認を得て、その所管に属する事項につき、国政に関する調査をすることができ、衆議院文教委員は、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わることができた(当時の国会法四〇条、四一条一項、二項六号、四七条、衆議院規則四五条一項、五〇条、九二条六号、九四条一項)。
(三) したがって、丙川二郎は、衆議院文教委員として、同委員会の議案、請願等の審査及び国政に関する調査に関与し、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わるなどの職務権限を有していた(なお、国会の委員会で議員が疑義を質す行為は、正しくは、右のとおり「質疑」というが、本件の証拠や訴訟当事者の意見では「質問」の語を用いていることが多いので、本判決でも「質問」ということがある。)。
2 衆議院予算委員としての職務権限
(一) 丙川二郎は、第一〇二回国会において、五九年一二月一八日に衆議院予算委員に選任され、六〇年三月七日に辞任、同日に補欠選任、同月八日に辞任、同日に補欠選任、同年四月一九日に辞任、同日に補欠選任、六一年三月六日に辞任、同日に補欠選任、同月七日に辞任、同日に補欠選任、同月二八日に辞任、同日に補欠選任、同年五月七日に辞任、同日に補欠選任、同月一六日に辞任、同日に補欠選任され、第一〇五回国会会期中の同年六月二日に衆議院が解散されるまで同委員を務めた。
(〈証拠略〉)
(二) 六〇年当時、衆議院予算委員会は、衆議院の常任委員会の一つとして置かれ、その委員の数は五〇人であり、予算を所管し、その部門に属する議案(決議案を含む。)、請願等を審査するほか、その所管に属する事項につき、国政に関する調査をすることができ、衆議院予算委員は、同委員会における議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わることができた(当時の国会法四〇条、四一条一項、二項一五号、四七条、衆議院規則四五条一項、五〇条、九二条一五号、九四条一項)。
(三) したがって、丙川二郎は、衆議院予算委員として、同委員会の議案、請願等の審査及び国政に関する調査に関与し、同委員会の議題について、自由に質疑し、意見を述べ、討論が終局したときは表決に加わるなどの職務権限を有していた。
三 リクルートと丙川二郎との関係
丙川二郎は、五五年二月ころ、衆議院予算委員会における質疑の資料を収集するため、リクルートに対し大学生の就職問題に関する資料の提供を求め、当時リクルートの事業部担当取締役であったR8と面談したことがあり、そのころ、出版業界のパーティーで被告人及びR8と会って名刺を交換したこともあった。また、五九年一、二月ころ、丙川二郎から国会における質疑資料を収集するように指示を受けたB4秘書が、リクルート事業部次長であったR9らから大学生の就職問題に関する資料の提供を受け、後日、R9が議員会館の丙川事務所にその補充資料を持参したことを契機に、リクルートと丙川二郎との関係が深まり、その後、R9がB2秘書に誘われて丙川二郎の勉強会に出席したり、丙川二郎の依頼を受けて、創価学会の会館建設用地の関係でリクルートのビル事業部から入手した物件情報を届けるために議員会館の丙川事務所を訪ねるなどしていた。
(〈証拠略〉)
第二 五九年五月下旬から七月下旬までの間の数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、五九年五月下旬から七月下旬までの間、R9らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し五回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、同年五月下旬ころ、R7及びR9が、議員会館において、衆議院文教委員会で通産省等の官庁が人事課長会議申合せに違反して青田買いをしていることを取り上げ、同申合せ遵守の徹底方を求めるなどの質問をしていただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、同年六月中旬ころ、R7、R9及びR10が、議員会館において、通産省等の青田買いを国会で指摘し、人事課長会議申合せに従い、一〇月一日前に各省庁と学生とが接触しないことを指導するように質問していただきたい旨の要請をし、三回目の請託として、同年六月一九日ころ、R9らが、議員会館において、同様の要請をし、四回目の請託として、同年七月一八日ころ、R5、R6、R7らが、料亭「艮」において、今度の委員会では国会質問をよろしくお願いしたいとして同様の要請をし、五回目の請託として、同月二三日ころ、R9らが、クラブ「寅」及びバー「卯」において、同様の要請をした旨主張する。
弁護人は、弁論において、五九年五月下旬から七月下旬までの間、被告人の関与の下でリクルートの者が丙川二郎に対し衆議院文教委員会における質疑を求める数回の請託をしたことについて、特に争っていない。しかし、被告人は、公判段階において、右請託に関する記憶はない旨供述し、弁護人も、公判手続の更新に際しては、被告人とR9らとの間には、丙川二郎に対し国会質問を依頼することの共謀がなかった旨主張していた。また、右請託に関する具体的事実関係は、その後の請託の存否、丙川二郎に対する資金供与及びコスモス株の譲渡についての被告人の関与並びにこれらの賄賂性を検討する上で意味を有する。
そこで、以下、判示第二の二①の請託を巡る事実関係について検討を加える。
二 背景事情
1 被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、求人企業と新規大学等卒業予定者との間の媒体としての就職情報誌の利用価値が低下して、求人企業から入る広告料等の収入が減少する可能性がある上、多種類の就職情報誌の計画的な発行・配本の業務に重大な支障を来し、さらには、就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、就職情報誌に対する法規制や行政介入を招くおそれもあるなどと懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していた(本章第一節第二の二)。
ところが、五八年度の就職協定については、協定違反が随所に見られた上、五九年一月一三日には、L1日経連専務理事が就職協定をやめたい旨の発言をしたという新聞報道もあったことから、被告人らリクルートの幹部は、五九年度の就職協定の存続及び遵守について、強い危機感を抱くようになり、同月一八日のじっくり取締役会議で、就職協定の遵守に文部大臣の協力をいただくように働きかけることを基本路線とし、R7やR9を中心に文部省等の関係機関とのリレーションを担当する外交組織を設けることを決め、同月末ころの取締役会で、R6事業部担当取締役、R7社長室長(前事業部長)、R22事業部長、R9事業部次長らで職安法対策プロジェクトチームを結成し、同チームに、就職情報誌一般に対する法規制問題に当たらせるほか、R7やR9を中心にして就職協定に関連する情報収集や対応策の策定にも当らせることを決めた(本章第一節第二の三1)。
2 被告人らリクルートの幹部は、右1のプロジェクトチームを中心とする情報収集活動の結果、五九年三月一三日までに、人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げる動きをしており、L2日経連雇用課長との間で、官庁側が民間の就職協定の趣旨を尊重して一〇月一日前の各省庁の人事担当者による学生との接触を自粛する代わりに、日経連側が右繰上げを了承することで合意が成立しつつあるという情報を得て、そのころ、公務員試験の日程を繰り下げさせるとともに、一〇月一日前の各省庁人事担当者による学生との接触を禁止して官庁の青田買いを防止するために、乙山官房長官に働きかけることを決定し(前節第二の二6)、被告人が、五九年三月一五日、公邸を訪ねて乙山と面談し、公務員の青田買い防止の善処方を依頼した(前節第二の一1、六4。なお、同面談時の乙山との会談内容に関する被告人の検面調書のうち、乙書1一四及び乙書1二五は判示第一の公訴事実の証拠として取り調べたにとどまるが、乙書1三〇は判示第二の各公訴事実の証拠としても取り調べており、前節第二中の認定に用いた証拠のうち、乙書1三〇等の判示第二の各罪の証拠としても取り調べた証拠のみによっても、右事実を十分に認めることができる。)。
3 その後、五九年三月二八日に五九年度人事課長会議申合せがなされたが、同年四月二七日付けサンケイ新聞で通産省の青田買いを巡る報道がなされ、同年五月二七日付けサンケイ新聞でも労働省の青田買いを巡る報道がなされた(本章第一節第一の三5、6)。
三 丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑及び意見
1 五九年六月二〇日の衆議院文教委員会における意見
第一〇一回国会会期中の五九年六月二〇日、日本育英会法案を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「五九年六月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣や政府委員に対し同法案に関連する質疑をした後、「この法案の問題とちょっとずれるかもしれませんけれども」と前置きをした上、次のとおり意見を述べた。
「就職の場というものは、十月あるいは十一月というふうに決められておりますけれども、もう一歩踏み込んで、かなり早い時期から青田刈りのような状態が出てきている。ある新聞などでは『通産省が“青田買い”東大へ官僚参上、「協定」踏みはずす』という見出しで報道しておりまして、ここにも写真が出ておりますが、先輩が来て後輩に対していろいろとガイダンスをするというふうな事態がございます。片方では、純粋な気持ちで学問を探究し大学で勉強をする学生、そして大変苦しい汗を流している学生、もう片方では、いろいろと手だてを尽くして役所までが、協定というのがあるのだそうですけれども、かなり早手回しのこういうようなことをやってくる。だんだん学生の間には、本当に純粋な気持ちで青春を過ごしてきた中で、卒業間近になってくるとずいぶん違った暮らしぶりに分かれてくる。私は、こういう状態というのは余りいい姿ではないのじゃないか。やはり就職なら就職という問題はある時期以降考えさせることとして、それまでは本当にしっかりと勉強をしてほしい。そのためにいろいろと育英奨学制度を我々はこうして審議して、国の施策としてやっている。やがてどこかに就職をされ、それがまた国家に貢献することになると思うのですけれども、私は、そういう意味で、こういう就職の問題なんかも含めてみまして、育英奨学という問題はかなり底の広い問題だ、就職の問題まで含めてトータルとしていろいろ考えていかなければならない。きょうはそういう問題提起だけにさしていただきたいと思うのですけれども、この育英奨学の問題を研究していきますと、これが結局、小さいころから受験、受験と言ってきたその一番の仕上げの部分の暮らし、そして、どこへどう場を得て勉強したことを社会に生かしていくかという部分につながってくるわけだと思うのですね。
そういう意味で、文部省としても、他の省庁等とも連携をとって、こういう就職の場での余り激しい競り合い、上級職の発表があった、それよりも先駆けて大体だれがどこへ行きそうか検討をつけて、なんかと、こう取り合いのような状態で、ちょっとルールが踏み外されているように私は受けとめているのですけれども、これなども、この育英奨学の問題と全然別のようにも思うのですが、いや、しかし深い関係はあるんだ、そんなふうに私思って、ちょっとオーバーしてしまいましたが、最後に指摘をさしていただいたわけであります。」
(〈証拠略〉)
2 五九年八月三日の衆議院文教委員会における質疑及び意見
第一〇一回国会会期中の五九年八月三日、文教行政の基本施策に関する件を案件として衆議院文教委員会の会議(以下「五九年八月の文教委員会」といい、五九年六月の文教委員会と合わせて「五九年六月及び八月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣に対し臨教審に関連する質疑をした後、次のとおり質疑をするとともに、意見を述べ、説明員として出席していたG4人事院事務総局任用局企画課長及び政府委員として出席していたD3文部省高等教育局長から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「問題は、私六月二十日にこの委員会で答弁をいただかないまま、指摘をするにとどめたテーマでございます。大学卒業生の就職と企業あるいは官庁というふうな問題でございます。随分古い話になるかもしれませんが、四月二十七日のサンケイ新聞に『通産省が“青田買い”』、こういう記事が出ております。この新聞の報道によりますと、『二十六日昼、東京・本郷の東京大学で、通産省のエリート官僚が、来春卒業する工学部学生を集め、早々と“就職説明会”を開いた。』こう報ぜられているわけです。また、五月二十七日のサンケイ新聞には、同じく『労働省率先垂“犯”?!青田買い京大でOBが説明会』という記事が出ている。三月の下旬には、各省庁の人事担当者が集まって、国家公務員試験の受験者についても民間の就職協定同様、十月一日以前には一切学生の各省庁訪問や官庁からの働きかけはしない、こう申し合わせたとあるわけなんです。この報道の真偽の問題についてはともかくとして、私は一応この報道を前提としてお伺いしたいわけなんですけれども、こういう申し合わせがあり、また現実に四月、五月に官庁と学生とのそうした接触がある、こういう問題、現実問題だろうと思いますけれども、これは人事院としてどのように見ていらっしゃるのか、お伺いしたいと思います。」
(人事院のG4説明員の答弁要旨)
大学卒業予定者の就職問題については、五九年三月二八日に各省庁の人事課長会議において、求人求職秩序の維持についてということで申合せをしていただいたが、その中では、いわゆる一〇―一一協定に協力し、協定の趣旨に沿った対応を各省庁でし、民間と歩調を合わせて求人求職秩序の維持に官庁も務めていこうという申合せをされた。私どもは、そういう方向に各省が努力していただくことを働きかけてきたところ、指摘を受けた点はよく判明しないところもあるようだが、私どもとしては、とにかくこの申合せの趣旨を徹底するようにしていきたい。いやしくも官庁の側でこの申合せあるいは民間の協定の趣旨に反すると疑われるようなことがあってはいけないのではないかという趣旨で対応してきており、五月九日にも、就職説明会への派遣の問題についても、各大学の要請に応じて各省庁が個別に対応することは適当でない面もあるので、人事院が対応するということで各省庁の了解を得ている。私どもとしては、そういう姿勢をもって申合せの趣旨が徹底されるように努めていきたいと考えている。
(丙川二郎の質疑及び意見)
「よくわかりました。くれぐれも、学生生活非常に貴重な四年間でありますので、さかのぼっていけば切りがないことでございます。いい人材を欲しい企業あるいは官庁が次々と早目早目とさかのぼっていったあげくには、もう入学した時点からそれなりの進路が決まる。決まる人はいいのですが、決まらない人は大変な苦しみと申しましょうか、いろいろ状況が出てくるわけで、そうした学生生活を、私ども関心を持つ者としては、ぜひとも今の御答弁のような形で再度各省庁との連絡をお願いしたいと思っているわけでございます。同じような問題がいわゆる私大にもあるいは一般企業との間にもあるわけでございまして、文部省におかれましても、いわゆる教育を取り扱っている官庁でありますので、卒業生を送り出した後については知らないということではなしに、やはりこの夏も暑い中を学生諸君はそれぞれ平生とは違ったようないでたちで各会社、先輩を歩いておられる。私は、そういうものも一つの大きな人生の勉強、修業だと思う反面、何とかもう少しそれぞれが学生生活をエンジョイした後にすきっといかないものか、そんなふうに思っておりまして、これは文部省としてどのような対応をなさるのか、どの部局がこれに対応しておられるのか。私自身もこの問題について文部省とやりとりするのは初めてなんですけれども、先般もたしか育英会の問題を審議した折にこの問題を取り上げた経緯がございますので、大学を所管される高等教育局長から、この問題についての現在の認識あるいは対策についておありでしたらお伺いできればと思います。」
(文部省のD3政府委員の答弁要旨)
五七年度に労働省が中雇対協の決議に加わらず、大学側と企業側の両当事者による自主的な協定となった後、就職協定全体が守られるように、大学側を十分指導し、ラジオや週刊誌の政府広報その他あらゆる機会を通じて、その周知徹底を図っている。いずれにしても、大学側、企業側双方が守っていただくことで対応していかなければならないし、指摘されたように一部官庁に大変遺憾な点があったことなどの点についても、今後十分、本年度さらに就職協定について新たな改善策で対応していることなどを各大学にも一層徹底して、就職の機会が各学生均等になるように、積極的な姿勢で対応したいと考えている。
(丙川二郎の意見)
「ありがとうございました。就職の問題、今非常に重要な時期でもございますし、くれぐれも学校での学生生活を乱さないようにしていきたいと思っております。」
(〈証拠略〉)
3 右質疑の準備資料の記載
丙川二郎が五九年八月の文教委員会において質疑をした際の準備資料である「議員発言資料59.8.3文教委」と題するファイル(甲物1七七)中の質問原稿には、通産省が青田買いをした旨の同年四月二七日付けサンケイ新聞の記事及び労働省が青田買いをした旨の同年五月二七日付けサンケイ新聞の記事に触れた上、次の二問が記載されている。
「問1 そこで『再度この時期に各省庁間で先の申し合わせを確認し徹底すべきであると考えますが、所管の人事院より、どのような措置をとられるかうかがいたい』」
「問2 さらに、『10月1日以前にOBを含めた各省庁側と学生が接触することのないよう重ねて厳重に御指導いただくことを、この場で明解にお約束いただき、今後はルール違反をさせないようにように〔原文のまま〕願いたいがいかがか』」
(〈証拠略〉)
四 右質疑前の時期にリクルート内で作成された文書
1 取締役会議事録等の記載
五九年四月二七、二八日の両日にホテルナゴヤキャッスルで開かれたリクルートのじっくりT会議議事録(甲書1五一一)には、「3 職安法改正及び就職協定関連」の項目中で、「協定関連」の表題の下、「①マスコミタイアップ ②国会質問 ③業界・企業への自粛要請 ④文部省アプローチ ⑤私学への“OB訪問”自粛要請 ⑥RBに“OB”自粛掲載」という記載がある。
五九年五月二四日付け「5/23じっくりT会議決定事項」と題するR10作成名義のリクルートの社内文書(甲書1五一三)には、「〔3〕協定関連」の表題の下で、「従来通り」という記載があり、欄外に「59・5・31」と記載のある「プロジェクトチームアクションプラン」と題するリクルートの社内文書(甲書1五一四、五五一)には、「就職協定関連」の表題の下で、「国会質問案再検討」という記載がある。
2 国会質問案の作成
リクルートでは、五九年五月から六月にかけて、R10の起案により、丙川二郎に対し国会における質疑の案として渡すため、「(通産省に対する質問)」で始まる書面(甲物1四二)を作成しており(〈証拠略〉)、この書面には、次の記載がある(原文は、横書きであり、傍線はアンダーライン〈編注 破線〉である。また、「5.」が欠落している。)。
(通産省に対する質問)
1.4/27のサンケイ新聞によると、「通産省が青田買い」との報道がされています。同新聞記事によれば、「26日昼(4/26)、東京本郷の東京大学で通産省エリート官僚が来春卒業する工学部生を集め、早々と就職説明会を開いた。」とあります。
これは、事実ですか。また、大臣官房秘書課の指示があったとありますが、本当ですか。
2.同新聞記事によると、「先月下旬(3月下旬)、各省庁の人事担当者が集まり、国家公務員試験受験者についても、民間の就職協定同様、10月1日以前には一切学生の各省庁訪問や官庁側からの働きかけはしないと申し合わせた」とありますが、
今回の説明会はルール違反ではないのですか。
(労働省に対する質問)
3.5/27のサンケイ新聞には、「労働省率先垂犯、青田買い、京大でOBが説明会」との記事が出ています。これは、労働省のフライングであると思いますが、事実ですか。
4.同新聞記事によると、「係長OBが『早いところでは8月20日すぎくらいに内定が出る。それまでには、交通費はかかるが、何回かは東京へ足を運ばないといけない。この時期になったら一度、内部を見学に来るといい。……』などと、説明した。」とありますが、
労働省は、先の申し合わせの趣旨に反して、青田買いをやっているのですか。
(人事院もしくは各省庁における採用活動を所轄する官庁に対する質問)
6.4/27のサンケイ新聞によると、「『民間企業は就職協定を守っているのに、国がこれに従わず、堂々と省庁説明会や官庁訪問を行っているのはおかしい』と、日経連がクレームをつけた」と出ておりますが、
10月1日以前に、今回の通産省や労働省のようにOBが説明会に参加することは許されているのですか。
また、日経連のフレーム〔原文のまま〕の通り、このような説明会は自粛すべきだと思いますが、
各省庁間で自粛や禁止の申し合わせをすべきではないのですか。
7.最終にお願いいたします。
10月1日以前に、OBを含めた各省庁側と学生が接触することのないようご指導いただくことを、この場でお約束いただきたい。
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①五九年五月一一日にR6、R7及びR9が、②同月三〇日午後二時ころにR7及びR9が、③同年六月六日にR9及びR10が、④同月一五日午前一一時一五分ころにR7、R9及びR10が、⑤同月一九日午前一一時五〇分ころにR9及びR10が、⑥同月二〇日にR9及びR10が、⑦同月二一日にR9及びR10が、⑧同年七月二日にR9及びR10が、⑨同年八月一日にR9ほか一名が、⑩同月七日にR9がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出て、議員会館の丙川事務所を訪問したことは、客観的な証拠からも明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第二の一)、右②が一回目の請託、右④が二回目の請託、右⑤が三回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 接待状況
①五九年七月一八日に、R6、R5、R3及びR7が、東京都港区赤坂〈番地略〉所在の料亭「艮」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、②同月二三日に、R6、R7及びR9が、リクルート本社地下の会員制クラブ「寅」において、丙川二郎及びB2を接待し、引き続き、R6及びR9が、東京都中央区銀座(以下「銀座」という。)のバー「卯」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、③同年八月一六日に、R9が、銀座のクラブ「辰」において、丙川二郎及びB2を接待したこと、④同月二二日に、R6、R5、R7及びR9が、銀座の料亭「巽」において、丙川二郎及びB2を接待し、R9が、「辰」において、丙川二郎及びB2を接待したこともまた、客観的な証拠から明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第二の一)、右①が四回目の請託、右②が五回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
3 利益供与
五九年七月二八日から三〇日までの間、丙川二郎が家族二名と一緒に京都市内のホテル○○京都に宿泊したが、右ホテルは同月二四日にR9が手配し、その宿泊費及びホテル内の飲食費は、同年八月下旬にリクルートが支払った。
(〈証拠略〉)
4 金額一〇〇万円の小切手の供与
リクルートやその関連会社は、五九年七月まで丙川二郎に対する資金供与をしていなかったが、リクルートの関連会社は、R1から連絡を受けて、同月二六日にリクルート情報出版代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を振り出し、R7は、同年八月一日、R9とともに丙川二郎を議員会館に訪ね、丙川二郎にこの小切手を渡した。
(〈証拠略〉)
六 関係者及び被告人の各供述
1 R9の公判段階における供述
R9は、公判段階(〈証拠略〉)において、次の趣旨の供述をしている。
五九年四月二七日の新聞で通産省の青田買いを巡る報道がなされた後、自分の周辺では、また就職協定が乱れそうで大変だという危機感があり、右新聞報道の後、R6専務取締役かR7社長室長から、国会で官庁の青田買い問題を取り上げてもらうために丙川二郎とのアポイントメントを取るように依頼された。
五九年五月上旬の終わりか中旬、丙川二郎の関心の所在について感触を探るため、R6及びR7とともに議員会館の丙川事務所に行って丙川二郎と面談し、通産省のフライングに関する新聞記事等を話題にして考えを聞いたところ、理解を示してくれたので、丙川二郎に対し国会質問を依頼する陳情をしてよいという感触を得た。
五九年五月下旬ころ、R7とともに議員会館の丙川事務所を訪問して、R7が丙川二郎に対し、通産省のフライングの新聞記事を見せながら、学生にとって好ましくないことであり、文教委員会で取り上げていただきたいとお願いし、さらに、官庁の青田買いと就職協定との関係、就職協定とリクルートの事業との関係について説明したところ、丙川二郎は、大変高い理解を示し、国会質問を引き受けてくれる態度であると理解した。
その後、R7を中心に、R10が書記役になって、丙川二郎に渡す国会質問案を作成したが、その過程では、役員会か被告人から、ニュアンスを強め、具体的な答えが期待できる質問にするようにという指示があって、手直しをした経緯もある。
五九年六月に入ってから、R7及びR10とともに、議員会館の丙川事務所を訪問し、R7が中心になって、丙川二郎に対し、京都における労働省のフライングの件を話し、「案としてこのように考えてみました。」などと述べて、質問案を渡した。その際、アンダーラインの所を指して、「この辺りをお願いします。」という感じの話をし、さらに、R10が作成した資料に基づき就職協定の歴史等について説明した。その際、丙川二郎は国会で質問することを了承してくれた。
丙川二郎の質問が予定されていた五九年六月二〇日の前日にも、R7と一緒だったと思うが、議員会館に丙川二郎を訪ねた。その際は、再度よろしくお願いしますみたいな感じのご挨拶に行ったのではないかと思う。
国会質問翌日の六月二一日にも、上司の誰かとともに、丙川二郎を議員会館に訪ねたところ、丙川二郎は、時間がなく頭の方で終わってしまったと話していた。
五九年七月二三日の夕方に会社に戻ると、「寅」に呼ばれ、そこへ行くと、丙川二郎、B2とともにR6、R22、それにR7かR1がおり、すぐにR6とともに、丙川二郎とB2を銀座のバー「卯」に案内した。その場で、丙川二郎から、京都旅行をしたいのでホテルを取れないかと言われたため、ホテル○○京都を手配して予約し、宿泊費用はリクルートが負担した。
2 B2の公判段階における供述
B2は、公判段階(〈証拠略〉)において、次の趣旨の供述をしている。
五九年五月以降、R9と一緒にR7も議員会館の丙川事務所を訪ねてくるようになり、私も同席の場で、丙川二郎に対し、一流企業が早くから学生を確保しており、官庁も同じようにしていることや、青田買いが横行するとリクルートの就職情報誌の存在価値にも関わることを説明し、特に役所がルール違反をすることはけしからんという趣旨を力説し、官庁がフライングしないようにする方法はないかということを話していった。
その後しばらくして、R6も、R7及びR9とともに議員会館の丙川事務所を訪ねてきて、R6が丙川二郎に対し、右と同趣旨の話をした。
五九年六月の文教委員会で丙川二郎が質疑した後、R7が来て、次の国会における質問の日を聞いて、もう一押しお願いしますというようなことを言った。
また、R7とR9が丙川二郎を訪ねてきて、先般来の新聞記事のことでこのようなことを考えてみましたがご参考までにというようなことで、甲物1四二と同じ国会質問案を丙川二郎に渡したことがあった。丙川二郎は、その質問案を見て一生懸命考えていたようであり、心得たというような意思表示をしたと思う。
丙川二郎は五九年八月の文教委員会で青田買いについて取り上げたが、その前に、丙川二郎が右国会質問案を見ながら私に質問内容を口授し、私が質問原稿を作成し、それが甲物1七七中の質問原稿である。
五九年七月、料亭「艮」において、丙川二郎とともに、R5、R6、R3及びR7から接待を受けたが、その時は、挨拶をして、何分にもよろしくということで、それ以上の話はなかった。
そのほか、丙川二郎と一緒にリクルート本社地下のクラブ「寅」に行き、そこからR6、R9とともに銀座のクラブに行ったことがある。
また、「巽」という店名かもしれないが、丙川二郎と一緒に、R5、R6、R7及びR9から接待を受けたことがある。
3 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)
「昭和五九年春ころと思いますが、確かサンケイ新聞だったと思うのですが、通産省などの官庁が青田買いをしている事実が報道され、官庁が実質的な協定破りをしていることが指摘されました。就職協定そのものは民間企業に関係する申し合わせですが、官庁においても公務員採用に関して、就職協定の趣旨を尊重した申し合わせや通知がなされているはずであり、官庁が協定無視の行為を行なうと、当然それが民間にも波及して、協定を守ろうとする意欲が減退することは目に見えていました。そのころのリクルートのT会議であったと記憶していますが、官庁の青田買いのことが話題になりました。私であったか他の取締役であったか忘れましたが、『官庁が青田買いをするのはけしからん。』といった意見が出ており、官庁の問題も含めて就職協定遵守のための対策を協議しました。その結果、協定遵守のため、国会の委員会において質問してもらおうということになり、公明党の丙川次郎議員にその質問をお願いすることになったのです。事業部のR7やR10らが中心となって質問案を検討し、作成して、私も了承して、その質問案に基づいてその頃、丙川議員にお願いして、衆議院文教委員会で質問してもらったのです。」
(二) 被告人の元年五月四日付け検面調書(乙書1一五)
「丙川代議士は昭和五九年六月二〇日の衆議院文教委員会において、『通産省が青田買いをしているとの報道がなされている。』などと質問し、又、同年八月三日の同委員会において、通産省及び労働省の青田買いに関する報道を取り上げて、人事院及び文部省に対し、その対応について質問し、両省の担当者から就職協定の遵守について『積極的に対応したい。』旨の答弁を引き出しております。この丙川代議士の青田買い防止、就職協定遵守についての質問は、前にも申し上げたように私共の会社の事業部の者らがその質問案を作るなどして行なってもらったものであり、このことにつきましては、私も承知していたわけであります。」
(三) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
「このような事情〔五九年三月に被告人が公邸に乙山を訪問して公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたこと〕から、私共としては、今後公務員の青田買いは自粛されるだろうと思っていたのですが、ところが、昭和五九年四月下旬ころのサンケイ新聞に、『各省庁の人事担当者会議で、一〇月一日以前には学生と接触しない旨の申し合わせがあったにもかかわらず、通産省が青田買いをしている。』といった趣旨の記事が報道されたのでした。続いて、五九年五月下旬ころには、労働省も青田買いをしている事実が報道されました。このようなことから、リクルートとしても公務員の青田買い防止のため更に対応を迫られたのでした。そのころのリクルートの取締役会議だったと思いますが、公務員の青田買いのことが話題になり、この問題を、政治家に頼んで、国会の委員会で取り上げてもらおうということが決まった記憶です。そして、プロジェクトチームが中心となってこの問題を依頼する国会議員の人選をしたのだと思いますが、その後の取締役会で公明党の丙川次郎代議士にお願いして、衆議院文教委員会で公務員の青田買いについて質問してもらい、公務員採用において青田買いをしないように、政府側の答弁を求めるようなことを話し合った記憶です。丙川代議士側との接触は、R7やR10らが中心となって担当していた記憶です。」「お示しの資料〔甲物1四二〕は、丙川代議士に国会での質問をお願いする際の質問案として、リクルートで作成したものということですが、私としては、お示しの資料であるかどうかは明確でないのですが、丙川代議士に公務員の青田買い防止に関して国会質問をお願いするための質問案をR7から見せてもらったような気がします。その際、私が質問案について、意見を述べたかどうかについては、述べたかもしれませんが、明確な記憶がありません。」
(四) 被告人の捜査段階における供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、次のとおり、被告人の捜査段階における右(一)ないし(三)の供述には任意性がない旨主張する。
(1) 被告人は、丙川二郎に贈賄したという事件の取調べ当時、三回の逮捕を繰り返されて、身柄拘束が二か月以上に及び、その間、判示第四や第五の各事件の捜査でP3検事の強圧的、脅迫的な取調べを受けていたため、肉体的、精神的に限界に達しつつあり、絶望感にも苛まれていた。
(2) 被告人の元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)記載の供述は、被告人には、取締役会等で国会質問を論議した記憶はなく、まして丙川二郎に対し国会質問を依頼することを了承した事実もないのに、既に国会質問案を了承していた旨の同月一六日付け検面調書(乙書1八)に署名させられていたことや、P4検事から「同じ内容のことが書いてある取締役会議事録があり、理屈ではこうなる、R7、R10らの調書もある。」などと強く迫られた結果、署名せざるを得なかったのであるから、任意性を欠いている。
(3) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)記載の供述は、それまでに作成された調書を踏襲するものであり、被告人は、それまでの厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた経緯から、強い抵抗をすることもできずにP4検事の意図に沿う調書作成に応じざるを得なかったのであって、任意性を欠いている。
4 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R7、R6及びR5は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一三日付け検面調書(甲書1一五三)
「五九年四月下旬ころにサンケイ新聞に通産省が青田買いをしたということが報道されました。〔中略〕そして、丁度そのころ、名古屋でじっくりT会議が開かれて、その場で甲野社長から、このサンケイ新聞の通産省の青田買いという記事が問題にされ、各省庁の人事担当課長会議の申し合わせに関して、このような青田買いをするとはけしからんので、国会質問で取り上げてもらって社会問題化させるべきであるとの指示があって、国会議員に頼んで委員会でこの官庁の青田買いを追及してもらうという方針が決定されたのでした。このことは、その後間もなく、R6取締役やR7社長室長からきかされて知ったのでした。」
「五月上旬ころまでには、R6取締役、R7社長室長、R9事業部次長らが議員会館に丙川次郎代議士を訪ねて就職協定の話しなどをして国会質問をしてもらえるかどうか打診に行くということがあったのです。丙川先生とはよくは知りませんでしたが、R9次長の方が何かのことで知り合っていたということで、そのR9次長の意見ですでに職安法改正問題の関係でロビーイングの対象としてリストアップされていたのですが、この就職協定のことでもお願いできるのではないかということで、早速このように丙川先生を訪ねたのでした。」
「五九年五月三一日付けのプロジェクトチームアクションプランと題する書面〔甲書1五一四〕は、私がその日行われたプロジェクトチームの会議で検討してまとめられたことを私が書いたもので、この字は私のものです。この中で就職協定関連として国会質問案再検討と書いてあるのが今述べた丙川先生に対する就職協定の国会質問案を検討し、そして、更に再検討を加えてこれを完成するということが話し合われたことを示すものです。この会議には、事業部関係のR6取締役、R22事業部長、R9次長、R11課長、それに私が出席しており、これにR5専務あたりも出席したように思います。〔中略〕就職協定担当になっていたR7社長室長は、もちろん出席していました。〔中略〕その後二週間位の間で、私がその国会質問案の原案を起案し、これをR11課長やR7社長室長、R9次長らに検討してもらい、R7社長室長からこれを甲野社長に上げてもらい、甲野社長からも、その質問案の表現などに関して具体的な指示がなされ、私の方でその指示に従って書き直したりしたのでした。」
「六月中旬ころに、私は、R7社長室長、R9次長に連れられて、国会議事堂近くの衆議院の議員会館の丙川次郎代議士の部屋に行って、丙川先生にこの質問案をお渡しし、国会質問をお願いし、私も就職協定の仕組みや実態の説明をしているのです。〔中略〕R7社長室長、R9次長そして私の三人が丙川先生の議員会館の部屋のソファーに座って、丙川先生御本人に就職協定に関して国会質問を依頼した時の状況ですが、〔中略〕まず、R7社長室長が丙川先生に『前回お願いしましたように、誠にせんえつですが、これがその質問の資料でございます。』などと言って、私達が甲野社長の指示で作成したワープロで二枚に打った質問案を先生に差し出したのでした。その際、この新聞記事二枚も丙川先生に渡したのでした。〔中略〕また、R7社長室長かR9次長かが『今年は官公庁も協定に協力するとの申し合わせが行われています。』などと説明し、〔中略〕R7社長室長は、『このように申し合わせがなされたのに、通産省や労働省が青田買いをしているわけです。先生からこの資料にありますように通産省などが申し合わせに反して青田買いをしていることを国会で質問していただき、今後は申し合わせに従って一〇月一日以前に官庁側がOBも含めて学生と接触することのないようにすることを質問していただきたいのです。官庁が青田買いを始めますと、民間企業も青田買いを始めてしまい、このままでは就職協定が廃止されてしまう恐れもあるのです。就職協定が守られていれば、その間、リクルートの就職情報誌が学生と企業双方にお役に立てるのですが、就職協定がきちんと守られないと、それだけ就職情報誌の利用価値もなくなってくるのです。就職協定が守られればリクルートの営業にとっても大変よいのですが。』などと先生に質問していただく内容などをいろいろ説明したのでした。これに対し、丙川先生は、『なるほど、このように青田買いが横行すれば、学生も落ちついて勉強ができなくなるし、困ったものです。通産省や労働省までが青田買いをするなんて、とんでもないですね。国が申し合わせを破れば、民間企業もこれにならって青田買いを始めるでしょう。』などと感想を述べられ、私達の説明をよく理解して下さったのでした。そして、R7社長室長は、『それでは、その質問資料にありますように、通産省や労働省に対して申し合わせ違反について委員会で質問していただき、また、人事院などに対してこの人事担当者課長会議における申し合わせを今後きちんと守ってくれるよう是非質問していただきたいのですが、よろしくお願いします。』などと言って、私達が作成して、その時お渡しした質問案の内容に沿った質問を是非文教委員会でしていただけるようお願いしたわけでした。これに対して、丙川先生は、『それでは、今度の文教委員会でこの資料にあるように、私から官庁の青田買い問題などを質問してあげましょう。』と言って、リクルートがお願いしたこの質問依頼を快く引き受けてくれたのでした。」
(2) R10の元年五月一八日付け検面調書(甲書1一五六)
R10は、さらに、元年五月一八日の検察官の取調べにおいて、右(1)の供述内容を再確認した上、五九年六月中旬ころに訪問した際には、リクルート発行のセールスレポート総集編中の就職協定関連の頁と「就職協定の推移」と題する書面の写しも渡したように思う旨補足している。
(二) R7の供述
(1) R7の元年五月一三日付け検面調書(甲書1一二一)
「昭和五九年四月二七日頃、新聞に『通産省が青田買い』『東大へ官僚参上』『協定踏みはずす』旨の官庁が青田買いをしたとの記事が掲載されました。〔中略〕この記事が出た頃、ホテルナゴヤキャッスルにおいて、じっくりT会議が開かれ、その席上で官庁の青田買い問題が協議されました。〔中略〕この議事録〔甲書1五一一〕は、昭和五九年四月二七日及び翌二八日に、ナゴヤキャッスルで開かれたじっくりT会議の内容をR1が作成したもので、私もこのT会議に出席していますが、この議事録の『職安法改正及び就職協定関連』の項目に『協定関連』『国会質問』と記載されているように、このT会議において、就職協定問題が協議され、通産省が青田買いをしたという先程の記事のことが話題になったのです。そして、確か甲野であったと思いますが、『官庁は課長会議で就職協定に協力すると申し合わせたのに、通産省はその申し合わせに違反するようなことをしている。官庁が青田買いをしていることを国会で取り上げて質問してもらおうじゃないか。』などと言いました。この言葉の意味は、先の各省庁人事担当課長会議において、官庁が就職協定に協力して一〇月一日以前には学生と接触しないという申し合わせがなされたにもかかわらず、通産省が右申し合わせに反することをしたので、国会議員に依頼して、官庁の青田買い問題を国会で取り上げて質問してもらおうということでした。そして、リクルートでは、就職協定が存続し遵守される為には、まず官庁の青田買いを改めさせなければならないと考えていましたので、課長会議の申し合わせに反するような行為を国会で取り上げて質問してもらうことは、取締役は皆賛成でした。このようにその日のT会議で官庁の青田買い問題を国会で取り上げて質問してもらうことが決まりましたので、議事録に『協定関連』『国会質問』と書かれているのです。」
「昭和五九年四月下旬頃か五月中旬頃、リクルートの専務取締役で広告事業本部長であったR6とR9と一緒に議員会館に丙川代議士を尋ね、就職協定のことや当時労働省で検討していた就職情報誌に対する法規制のことについてお話しをしました。そして、丙川代議士と就職協定のことについてあれこれお話ししたところ、丙川代議士が就職協定のことについて関心を持っていらっしゃることが判り、丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たのです。なお、丙川代議士に就職情報誌に対する法規制問題も相談しましたが、丙川代議士は、その法規制のことについてはあまり関心を示されず、先程お話ししたように、丙川代議士は、就職協定の方に関心を持っていらっしゃったのです。」
「丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たことについては、その後の取締役会で報告されました。先程、私は、昭和五九年四月二七日及び翌二八日のじっくりT会議の席上で官庁の青田買い問題について質問していただく代議士を丙川代議士とするということまで決まったかどうかよく憶えていないと申し上げましたが、私の記憶では、丙川代議士が就職協定問題について非常に関心を持っておられ、丙川代議士に頼めば官庁の青田買い問題を国会で質問していただけるかもしれないという感触を得たことをその後の取締役会で報告した際、その取締役会で丙川代議士が就職協定問題に関しそれほど関心をもっていらっしゃるのなら、丙川代議士が文教委員会の委員であるので、丙川代議士に頼んで、官庁の青田買い問題に関し、文教委員会で取り上げて質問してもらおうと決定されたと記憶しています。そして、確か甲野であったと思いますが、『丙川先生に委員会で青田買い問題を質問してもらうとしても、その質問案はリクルートで作成し、それを丙川先生にお渡しした方がいいんじゃないか。』などとリクルートで質問事項を記載した質問案といったようなものを作成し、その質問案を丙川代議士にお渡しして、それに基づいて質問してもらおうと発言し、他の取締役もその発言に賛同致しました。」
「以上のような取締役会の決定に基づいて、私、R9、それに事業部長であったR11、R10が丙川代議士にお渡しする質問案を作成することになったのです。その質問案を検討している途中の昭和五九年五月下旬頃であったと記憶していますが、私は、R9と一緒に議員会館に行き、丙川代議士に対し、文教委員会で官庁の青田買い問題を取り上げて質問していただきたいとお願いいたしました。私は議員会館で丙川代議士に会い、〔中略〕就職協定の仕組みや実情、それに就職協定が遵守されなければ就職情報誌の価値が薄くなって、リクルート等就職情報誌業界が困るということを説明致しました。そして、私は、丙川代議士に対し、『実は甲野から言われて来たのですが、三月下旬頃、各省庁人事担当課長会議というものがあって、官庁も就職協定に協力するとの申し合わせがなされたのに、その申し合わせに反し、官庁が青田買いをしているのです。ぜひとも丙川先生に文教委員会で官庁の青田買いのことを取り上げて質問していただきたいのですが、お願い出来ないでしょうか。』などと言いました。そうしますと、丙川代議士は、『学歴社会の是正につながることでもあるし、前向きに検討しましょう。』などと私達の頼みを前向きに検討すると言ってくださいました。〔中略〕丙川代議士からそのようなお言葉をいただいたことは、会社に帰って甲野に報告致しました。」
「丙川代議士にお渡しする質問案は、私やR10らが中心となって検討をした訳ですが、丙川代議士にお渡しする質問案を検討中、私は、私達が検討していた質問案を甲野に見せ、甲野から『ここはこうした方がいい。』などと指摘されながら、何回か私達が検討した質問案を修正致しました。〔中略〕今見せていただいた書面〔甲物1四二〕が甲野からあれこれ指示を受けながら最終的に作成した国会質問案であり、この質問案を丙川代議士にお渡ししました。〔中略〕この最終質問案が出来上がる前の私やR10らが検討した質問案は質問事項が長々と書かれていたのですが、それを甲野に見せたところ甲野から『こんなにごちゃごちゃ書く必要はないよ。もっとストレートな表現で書いた方がいいんじゃないか』などと言われた上、不必要な所に鉛筆で線を引かれたりして書き直しを命じられました。また、私達が考えた質問案は、もっと柔かい表現でしたが、甲野から『もう少し強い語調の方がいいんじゃないか。』などと指摘され、〔中略〕甲野の指摘どおり表現を改めたのです。私の記憶では確か三〜四回位甲野の所へ私達が検討した質問案を持って行き甲野から書き直しを命じられたと思います。またこの書面の番号7〔中略〕という項目は、当初我々が考えた質問案にはなかったのですが、甲野から『こういう風に付け加えた方がいい』などと指摘されて付け加えたものであり、更には、この質問案の質問事項の下にアンダーラインが引かれていますが、これも甲野から『必ず質問していただきたい所は、アンダーラインを引いた方がいいよ。』などと言われて、アンダーラインを引いたのです。」
「昭和五九年六月中旬頃であったと思いますが、私とR9とR10は、出来上がった質問案を持って、議員会館に丙川代議士を尋ねました。私は、丙川代議士を尋ねる前、出来上がった質問案を甲野に見せ、『丙川先生にお渡しする質問案を丙川先生の所に持って行きますから。』などと言いました。そして、甲野から『それじゃあ頼むよ。』などと質問案を丙川代議士に渡して、この質問案に基づいて官庁の青田買い問題を質問してほしいと頼んで来てほしいと言われましたので、R9、R10と一緒に丙川代議士を議員会館に尋ねたのです。〔中略〕この時丙川代議士にお渡ししたものは、この質問案だけではなく、先程の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事をコピーしたものや就職協定に関する資料等もお渡ししたと記憶しています。私は、丙川代議士に質問案等を渡し、『リクルートで作った質問案ですが、僭越でございますが、お願い出来ないでしょうか。〔中略〕』などと言って、この質問案に基づいて委員会で官庁の青田買い問題を質問していただきたいと頼みました。丙川代議士は、渡された質問案や新聞記事のコピー等を手に取って見ていましたが、『通産省や労働省が協定違反をするなんてとんでもないですね。民間企業が就職協定を守っているのに、国がこれを守らないのはおかしいですね。』などと言い、『それじゃ、今度の文教委員会でこれに基づいて質問してあげましょう。』などと言って、文教委員会において、リクルート作成にかかる質問案に基づき、官庁の青田買い問題を質問してくださることを約束してくれました。〔中略〕会社に戻り、私は、甲野に『丙川先生に質問案をお渡ししてお願いしたところ、丙川先生は快く引き受けてくださいました。』などと報告致しました。」
「昭和五九年六月二〇日、丙川代議士は、衆議院文教委員会において、『通産省が青田買いをしている。』などと発言してくれましたが、質問時間が切れた為、意見を述べるだけに終ってしまいました。」
「その後、私は、昭和五九年七月一八日頃、R6、それにR5、R3と一緒に、丙川代議士と丙川代議士の秘書のB2さんを『艮』で接待しました。〔中略〕丙川代議士は、リクルートが丙川代議士の為に『艮』で一席設けた趣旨がよく判っていらっしゃったようで、私達が丙川代議士に『今度の委員会ではよろしくお願いします。』などと言いますと、私達に向って『今度の文教委員会では、いただいている質問案に基づいて質問致しますから。』などと、今度開かれる文教委員会ではリクルート作成にかかる国会質問案に基づいて質問することを約束してくださいました。」
「丙川代議士がリクルートの依頼に応じて文教委員会で官庁の青田買い問題を質問して、先程のような答弁〔五九年八月の衆議院文教委員会における丙川二郎の質疑に対する答弁〕を引き出してくれましたので、そのお礼の気持ちから、私、R5、R6、R9は、昭和五九年八月二二日頃、『巽』において、丙川代議士とB2さんを接待致しました。」
(2) R7の元年五月二一日付け検面調書(甲書1一二八)
「私共が『艮』で丙川代議士やB2さんを接待して何日か経った頃、丙川代議士とB2さんがリクルートに来られました。そして、これまではよく思い出せなかったのですが、よく考えてみますと、丙川代議士とB2さんがリクルートに来られた時、私とR6さんとR9とで丙川代議士とB2さんをリクルートの会員制クラブ寅で接待したことがあると思います。〔中略〕寅での席を設けた趣旨も先程『艮』で丙川代議士とB2さんを接待した時の趣旨と同様であり、この寅でも丙川代議士に『今度の委員会ではよろしくお願いします。』などと次回の文教委員会では官庁の青田買い問題について質問していただきたいとお願いしたと思います。」
(三) R6の供述
(1) R6の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一三三)
「資料五〔甲書1五一一〕が〔五九年〕四月二七日から二八日にかけて名古屋で行われたじっくりT会議の議事録であります。この議事録の三枚目の職安法改正及び就職協定関連の項の『協定関連』と書いてある二番目に『国会質問』と記載されてあります。〔中略〕この国会質問の話は、確か甲野からだったと思いますが、『通産省が青田買いをしたということが新聞で報道されている。三月には各省の人事担当官会議で青田買い自粛の申し合わせが出ているのに、これでは困る。この問題については、然るべき先生にお願いして国会で取り上げてもらうという方針で望みたいが、それで良いか。』という意味の話をしたように思います。」
「公明党の丙川次郎代議士は、昭和五九年の一月ころ就職情報誌の法規制に対応するための会議の中で、ロビイング、つまり陳情する国会議員の一人として名前が挙がっていました。リクルートは、〔中略〕丙川代議士とも特別の利害関係や友好関係はなく、R9君あたりがかろうじて面識があるということで、ロビイングの対象に挙げられたのでした。このような状況でしたから、四月二七日のじっくりT会議の席上では、青田買い問題を国会で質問してもらう代議士として、まだ丙川代議士の名前は具体的に話題になっていなかったと思うのです。」
(2) R6の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一三五)
「リクルート一一〇番が社会党の議員により二度国会で問題になった後の数日後に、私は議員会館の丙川次郎先生を訪ねて行きました。〔中略〕私が丙川代議士に議員会館でお会いした時期は、昭和五九年五月中旬ころのことだったと思うのです。〔中略〕丙川先生を訪ねた目的は、一つは、社会党がリクルートを攻撃していることから、公明党などの野党もそのような考えを持っているかどうか情報収集することと、仮にそのような動きがある場合には、なるたけ大きなことにならないよう御配慮願うためでした。そして、もう一つは、青田買い問題についてリクルートの頼みを引き受け、委員会などで質問してくれる先生はいないかという、いわゆる当たりをつける目的があったのです。私が議員会館に行ったときに同行者はたぶんR9で、ほかにR7が一緒に行っていたような気がします。丙川先生に問題になっているリクルート一一〇番関係のお話をしましたところ、そのことを余り深く御存知ないようで関心を示されなかったことを覚えています。五分位でその話を終った後、就職協定の問題について、私からその背景事情などを説明したところ、丙川先生は大学生の就職問題について興味を持っておられることは、その態度で判りました。」
「五月下旬ころから六月ころにかけて開かれた取締役会議で、甲野が『青田買いについての国会質問は丙川先生にお願いすることにしてはどうか。』という意味のことや、質問案を準備してはどうかということを言い、出席者がそれを了解したように思うのです。〔中略〕この書面〔甲書1五一三〕は、T会議の後、私がR10に書かせたものと思います。協定関連のところに従来どおりと記載されているのは、前にT会議で国会質問のことが議題になったことがあり、そのときの決定どおりに行う意味も含まれていると思うのです。」
「六月の初旬ないし下旬ころまでの間に開かれたT会議で、R7から『丙川先生に質問をお願いして、その了解をいただきました。』というような報告があったように思います。」
「七月の中旬ころだったと思いますが、私とR5専務、R3取締役、それにR7が丙川先生とその秘書を接待したことがありました。〔中略〕七月一八日に艮という料亭で丙川先生を接待しているものです。〔中略〕この席は、R7、R9らが丙川先生に国会質問をお願いしてきて、それを了解していただいたのですが、リクルートとしても、今度は役員が顔出しをし、リクルートとしても重要なこととして考えていることを丙川先生にわかっていただき、青田買いについての質問を国会の委員会で、より一生懸命やっていただこうという趣旨で持ったものだったのです。R3取締役がここに入っている理由は、リクルート一一〇番の情報もここで丙川先生からお伺いできたらという意味もありました。もっとも、この理由は、国会質問をお願いしているということと比べれば、そう大きなものではありませんでした。私は、この艮での席で、丙川次郎先生に『国会質問の件では、R7、R9がお願いに行き、お世話になっております。青田買いの問題は、私どもでも重要なことでありまして、就職協定がうまくいきませんと私達の仕事上も困るのです。ひとつ、質問の方を宜しくお願いします。』という意味のお話しをしたと思うのです。丙川先生は御機嫌な様子でうなずいておられました。その数日後に、丙川先生と秘書のB2さんがリクルートに来られました。〔中略〕私は、確かR9に呼ばれて、リクルートの地下にある寅という会員制の倶楽部で、R9と私と確かR7あたりだったと思うのですが、丙川先生とB2秘書のおもてなしをしたのでした。その後、お二人をもう一軒別の店に御案内した記憶があるのです。このときにも、私は、丙川先生に国会の委員会で青田買いについての質問をしていただくことのお礼の気持ちを込めておもてなしをしたのです。」
「その年の八月初めころに、丙川先生が衆議院の文教委員会で、青田買いについて人事院や担当省庁を追及し、政府側から就職協定を守るよう徹底させるというリクルートにとって大変有り難い回答を引き出してもらったということをR9かR7あたりからその数日後には聞いております。そのころに開かれたT会議の席上で、丙川先生がリクルートの期待していたとおりの質問をしていただいて、期待どおりの答弁を引き出して下さったことについては、簡単に報告したと思うのです。」
「八月の二〇日過ぎころに、私とR5とR7、R9が、丙川先生とB2秘書を『巽』という料亭で接待したことがあります。〔中略〕これ〔支払依頼書〕によると、八月二二日にR5、私、R7、R9の四人が丙川先生とその秘書を巽で接待していることが判ります。〔中略〕この巽で丙川先生とその秘書を御馳走したのは、先生には国会の委員会でリクルートがお願いしたとおりの質問をしていただき、リクルートの期待しているとおりの答弁を引き出していただいたことに対する感謝の気持ちからでした。この席では、丙川先生に『先般は、本当にありがとうございました。おかげ様で私達も助かりました。今後とも宜しくお願いします。』という意味のことを言って、お礼を言ったと思うのです。」
(四) R5の供述(元年五月一七日付け検面調書・甲書1一四二)
「〔五九年〕四月終りごろに開かれた取締役会で、今度はリクルート側が、申し合わせに反して青田買いをした通産省や、それを指導する立場にいる人事院などに対して、青田買いの事実を取り上げて国会質問をしてはどうかという話が出ました。〔中略〕〔甲書1五一一の〕三枚目の協定関連と書いてあるところの二番目に「国会質問」と書かれてあります。これが先程申し上げたような経過で議題になったことを記載したものです。議員にお願いして国会質問をしてもらうということは、甲野の発案によるものだったと思われます。〔中略〕質問をしていただく国会議員の人選や依頼のための接触は、社長室と事業部のメンバーで作られたプロジェクトの者が担当することになっておりました。その年の五月中旬以降のT会議で、甲野の方から、『公明党の丙川代議士にお願いする。』というような話があり、誰も反対する者はなく、すんなりそれが決まったのでした。この書類〔甲書1五一三〕は、事業部のR10が書いたことは、その字の特徴から判ります。〔中略〕協定関連のところに『従来どおり』と記載してあります。このことは、四月二七日のじっくりT会議の協定関連のところで決まった国会質問などを含めた事項について従来どおり行うということになって書かれたものと思うわけです。」
「七月中旬ころに、私以下のR6、R3の役員とR7が丙川議員とその秘書のB2さんを『艮』という料亭にお招きしたことがありました。〔中略〕その日が昭和五九年七月一八日でした。〔中略〕艮で丙川議員らを接待したのは、リクルートの幹部が顔を出すことで、リクルートでは丙川議員のことを大切なお方だと認識しておりますということを丙川議員におわかりいただいた上、次の国会質問にリクルートのために質問していただく感謝の気持ちを表わして、そのお礼をする意味があったのでした。〔中略〕この宴席では、私がリクルートの甲野社長に代ってリクルートを代表し、お酒をおつぎして、『リクルートでは、就職協定の問題についてはいろいろ困っておりますので、お願いしている国会質問のことについては宜しくお願いします。』という意味のお願いをしておきました。〔中略〕これに対して、丙川議員は、『この問題は重大な問題ですから、わかっております。』という意味のことを言われて、全部のみ込んだ上で、引き受けますとの意思表示をして下さいました。丙川議員は、この艮で終始上機嫌でした。」
「この書類〔支払依頼書〕を見ると、私とR6、R7、R9が八月二二日に丙川次郎議員とB2秘書を巽で接待していることが判ります。この席は、丙川議員に文教委員会で就職協定問題について質問していただき、二度と官庁が青田買いをしないよう徹底するというリクルートにとって非常に意義のある答弁を引き出していただいたことに対する感謝の気持ちから設けたもので、今後とも宜しくお願いしますということで、御馳走したものでした。この席でも、私は、〔中略〕『国会質問では、御苦労様でした。本当にありがとうございました。』というようなことを言って謝意を述べたと思うのです。」
5 被告人及びリクルート関係者(R9を除く。)の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、取締役会で官庁の青田買いについて対策を協議した記憶はなく、丙川二郎に国会質問を依頼したことは知らなかったし、国会質問案の作成に関与した記憶もなく、五九年六月及び八月の文教委員会の質疑に関する請託には関与しておらず、リクルートの者が料亭等で丙川二郎を接待したことも知らなかった旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述
R10、R7、R6及びR5も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右4の供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
五九年四月二七日付けサンケイ新聞の通産省の青田買いに関する報道を受けた取締役会における協議内容をR6やR7から聞いたということは思い出せない。「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)は、自分がR6かR22から聞いて作成したものと思うが、「協定関連 従来通り」という記載は、そのように言われて記載したにすぎず、何を意味するかは分からないし、国会質問案の作成過程で被告人に見てもらったことがあるかどうかも分からない。
五九年四月以降の早い段階に議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎に就職協定を含む就職問題について説明したことが一度あり、その際はR7及びR9と一緒であった記憶である。事業部内で丙川二郎に対し国会質問を依頼する話があったので、右訪問時にも国会で就職協定問題を取り上げてもらうことができないかという気持ちを持っていたことは事実であるが、その際に国会質問案を渡したかどうか分からないし、丙川二郎とのやり取りも覚えていない。
記憶がない部分に関する検面調書の記載は、取調検事から「そういうことではないのか。」「R7がそういうふうに言っている。」などと言われて、記載されたにすぎない。
(2) R7の供述(〈証拠略〉)
五九年に丙川二郎に国会質問を依頼することが誰かからの指示であったか、何かの会合の席で決まったのかは思い出せない。
五九年四月にホテルナゴヤキャッスルで開催されたじっくりT会議で、国会質問に関連してどのような議論がなされたかは覚えておらず、被告人が検面調書(甲書1一二一)に記載されたような発言をした記憶もない。
五九年五月中旬ころ、R6やR9ととともに丙川二郎を議員会館に訪ねた記憶はない。捜査段階においても記憶がないと供述していたが、取調検事から、R9らがこういうふうに言っているから間違いないなどと言われて調書が出来上がり、自分としても早く済ませたいという気持ちもあって署名したにすぎない。
「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)中の「協定関連 従来通り」という記載の意味は分からない。
国会質問案を作って丙川二郎に渡すことを誰が決めたかは記憶になく、捜査段階において被告人がその旨の話をしたかのように供述したのは、推測にすぎない。国会質問案(甲物1四二)の作成過程では、被告人に一、二回見てもらい、被告人の意見を受けて書き直した上、丙川二郎に渡した。被告人からは、各項目の言い回しについて、平易な分かりやすい表現にするように言われ、具体的には覚えていないが、通産省に対する質問を少し強い語調にした方がよいと言われた気がするし、最後の質問を付加するように言われたかもしれず、質問のポイントの所に線を引いてはどうかと言われたかもしれない。
五九年五月三〇日にR9とともに議員会館に行った記憶はない。検面調書に同月下旬ころにR9とともに丙川二郎を議員会館に訪問した際の状況が記載されているのは、取調検事が、R9がそう言っているから間違いないなどとして、そのような文章になったにすぎない。
議員会館の丙川事務所で国会質問案を丙川二郎に渡した記憶はあるが、その時期ははっきりせず、同行者はR9かなという感じであるが、R10は記憶にない。質問案を丙川二郎に渡すことは既に決まっていたので、持参する前に被告人の了解を取ったということはないと思う。この訪問の際には、丙川二郎に対し、就職協定の推移、就職協定が破られて混乱した場合の問題点等を話し、「これは私どもの方でお作りいたしましたが、参考にしてください。」というようなことを言って、質問案を渡した。国会で就職協定問題を取り上げていただきたいということは申し上げたと思う。丙川二郎の反応は具体的には覚えていないが、拒絶的な態度ではなく、こちらの話を聞いていただいた。
五九年七月に料亭「艮」で丙川二郎らを接待した趣旨は全く分からないし、話の内容も覚えておらず、検面調書に記載されている会話は、捜査段階においても、記憶になかったと思う。「寅」で丙川二郎らと会ったことについては、全く記憶になく、捜査段階においても、取調検事から他の出席者がR7も出ていたと言っていると話されて、そうだったかもしれないと述べたにすぎない。
五九年八月二二日ころ、料亭「巽」で丙川二郎とB2を接待した記憶はなく、支払依頼書を見ても思い出せない。
(3) R6の供述(〈証拠略〉)
五九年四月のじっくりT会議議事録(甲書1五一一)に、「協定関連」の表題の下で「国会質問」という記載があるのは、就職協定に関し国会質問をしていただくことだと思う。自分自身が関与していないので、詳細は分からないが、官庁の青田買い問題について取り上げてもらうことであったと思う。それを提案したのが誰かは覚えておらず、自分の可能性もないとはいえず、被告人であったというはっきりした記憶はない。捜査段階においても、被告人からの話であった可能性はあるかもしれないと述べたかもしれないが、検面調書にあるような被告人の具体的な発言を自分の記憶で話したことはない。
リクルートでは国会質問をしてもらいたいという意向を持っていたが、丙川二郎の方も就職問題について関心が高かったので、リクルートからの依頼で国会質問をすることになったのか、丙川二郎の意向が強くて質問したのかは、報告を受けておらず、分からない。
五九年五月中旬ころ、議員会館を訪ねて丙川二郎と面談した。同行者としてR9がおり、R7もいたかもしれない。訪問の目的は、当時、社会党が「リクルート一一〇番」と称して取り上げていた就職情報誌の法規制問題について相談することであったと思う。その際、丙川二郎は就職問題について関心が高いという印象は受けたが、国会質問をしてもらう人として適任かという当たりを付ける目的はなかった。捜査段階においても、そのような目的があった記憶はなく、可能性は非常に低いと考えていたが、強引に調書を作成されて押し付けられ、不本意ながらも署名せざるを得ない心境に至って署名した。もっとも、丙川二郎との間では、大学生の就職問題も話題となり、青田買いの話も出たかもしれない。
「5/23じっくりT会議決定事項」と題する書面(甲書1五一三)は、自分の説明を聞いてR10が作成したものと思うが、「協定関連 従来通り」という記載は、十分な議論がなされなかったために、このような記載になったのだと思う。この当時の取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼するという話が出たかどうかは定かではない。検面調書中の、五月下旬ころから六月ころにかけての取締役会で被告人からその旨の提案があって出席者が了解した旨の記載は、自分の記憶と異なっており、おそらくは検事に誘導され、可能性が全く零とも言い切れないということで、そういう調書になったと思う。
取締役会でR7から丙川二郎に質問をお願いして了解を得た旨の報告があった記憶はない。検面調書に右報告があった旨の記載があるのは、その可能性が全くなかったとして否定しなかったためであると思う。
料亭「艮」で丙川二郎を接待したのは、多目的な形で懇親する趣旨であり、この場で何かをお願いしたり、お礼をしたりした記憶はない。検面調書に就職協定の話題が出た旨の記載があるのは、その状況から見て話題になったであろうと述べたにすぎず、記憶に基づくものではない。
その後に「寅」で丙川二郎と会った記憶ははっきりしないが、お相手はしたと思う。その際の話題は記憶していないが、当時の状況から見て、仕事の話がなかったとは思っておらず、就職協定の話もしたかもしれない。しかし、当日、引き続き「卯」で接待した記憶はない。
五九年八月二二日に料亭「巽」で丙川二郎らを接待したことは、多分あると思う。その際に国会質問のことも話題に出たであろうとは思うが、懇親のための接待であり、国会質問のことで感謝の気持ちを示すということではなかったと思う。右の点に関する検面調書の記載は、自分の気持ちには反していたが、いろいろな事情からやむを得ず署名した。
(4) R5の供述(〈証拠略〉)
五九年四月のじっくりT会議議事録(甲書1五一一)に、「協定関連」の表題の下で「国会質問」という記載があるのは、五九年当時、就職協定問題が国会で取り上げられたことがあるからだと思う。その取締役会で、国会議員に青田買い防止に関連した質問を依頼しようという議論が出たことは覚えていない。検面調書に、五九年四月終わりころの取締役会で、被告人の発案により国会質問を依頼することを決めた旨の記載があるのは、取調べの過程でいろいろな可能性を聞かれて、そういうこともあったかもしれないということで、そうした調書になったと思う。
「プロジェクトチームアクションプラン」と題する書面(甲書1五一四)の「就職協定関連」の項目に「国会質問案再検討」という記載があるが、同書面が作成された当時、リクルートでは国会質問案を作成しており、自分も見たと思う。そのことを踏まえても、じっくりT会議議事録(甲書1五一一)中の「国会質問」という記載の意味については、記憶がなく、分からない。国会質問案が作られた経緯についても記憶はない。
五九年当時、リクルート内で就職協定に関する丙川二郎の国会質問に関連して動きがあった記憶はあるが、具体的なことは覚えておらず、取締役会で被告人の話を受けて丙川二郎に対する国会質問の依頼が決まった記憶はない。
丙川二郎とは、五九年七月一八日の料亭「艮」における接待の際が初対面であった。その際は、R7かR9から会食の席に出るように言われた記憶であり、接待の趣旨も聞いたとは思うが、明確に言う自信はない。自分が参加したのは、社長である被告人に代わってということではなく、自分が丙川二郎の選挙区の住民であったからであったと思う。その際、五九年六月及び八月の文教委員会の国会質問との関連で接待した記憶はないが、前後関係から考えて無関係ではなかったのかなという推測はできる。その席の会話の内容は記憶になく、検面調書に記載されたような国会質問に関連した会話があった可能性は非常に低いと思う。
五九年八月下旬に料亭「巽」で丙川二郎らを接待した記憶はなく、捜査段階においては、自分の名前が記載された支払依頼書を示されて、行ったのかもしれないということで検面調書ができたにすぎない。また、捜査段階において、右接待の際に国会質問の関係で謝意を述べたという供述もしていない。しかし、検面調書(甲書1一四二)作成当時、リクルートの経営が危機的な状況にあって、捜査や事件の収束に向かって最大限の努力をしたいと思っており、検察庁からも捜査に対する協力を要請されていたので、検察官の作成した調書に抵抗するという気力はなく、署名した。
6 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 自分は、苦学した体験もあって、衆議院議員に立候補した当時から、教育問題や学歴偏重社会の問題に関心を持っており、当選後は、就職協定や青田買いの問題にも具体的な関心を持つようになり、五二年二月以降、文教委員会や予算委員会で何度か教育問題に関連する質問をしたほか、五五年二月の予算委員会では、大学生の就職問題について質疑をし、五九年三月の予算委員会でも、教育改革の視点から臨教審の設置問題について質疑をした中で、大学における就職指導に触れた質問をし、六〇年六月一四日の文教委員会でも、臨教審の問題を取り上げる中で、学歴偏重や青田買いの問題について質疑をした。
② 五九年六月及び八月の文教委員会でも、右①のような自分の問題意識に基づき、新聞報道等で得た情報を基にして官庁の青田買い問題を取り上げた。
③ R9は、頻繁に議員会館の丙川事務所を訪ねてきて、B2と接触していた。自分がR9と差し向かいで話した記憶はほとんどないが、R9が上司二名を連れてきて、同事務所内の自室で話を聞いたことがあり、その内容は、リクルートの情報誌に掲載された求人情報の不正確性を新聞が取り上げて攻撃を加えることについて対処できないかという相談であった。その際、自分が臨教審の問題に取り組んでいたこともあって、青田買いや指定校制等の就職に関連する問題でいい資料があれば出していただきたいという話をし、リクルートの者から、チャンスがあったらいろいろと協力しましょうというニュアンスの返事があったが、就職協定問題について国会で取り上げるという話はなく、公務員の青田買いの話題が出たという覚えもない。
④ その後、自分がR9らリクルートの者から直接資料を受け取った記憶はない。B2がR9と一緒に外出先から帰ってきて、甲物1四二と同じ書面を渡されたことがあるが、その前に私からB2に学生の就職に関する問題について質問の形で用意するように指示していたので、B2が作って持ってきたと思った。その際にR9とやり取りをした記憶はなく、R7やR10が訪ねてきて右書面を渡されたということもない。文教委員会における慣行として、冒頭から通産省や労働省に聞くわけにはいかないので、B2に作り直しを指示した。B2は、その後、作り直した書面を持ってきたが、右の点が直っていなかった。甲物1四二のような書面を基に、五九年八月の文教委員会における質問事項をB2に口授して甲物1七七中の質問原稿を作成したということもない。
⑤ 五九年七月一八日の料亭「艮」における接待は、B2が話を持ってきて、出版業界出身者としてリクルートに関心があって出席した。その際は、自分の選挙区のことや出版業界から政界に出た動機等について話をしたが、就職協定、青田買い問題や国会質問に関連した話題が出た記憶はない。
⑥ 五九年当時「寅」に三、四回行った記憶があるが、一度R9と一緒であったほかは、リクルートの者は同席せず、R9の名前を使って自分の待ち合わせ等で自由に利用させてもらったにすぎない。料亭「巽」で接待を受けた記憶はなく、その店自体に心当たりがない。
⑦ 五九年の夏、R9とその上司が議員会館に訪ねてきて、小切手を受け取ったことはある。リクルートが出版業界出身の自分を後援する趣旨で、陣中見舞いとか暑中見舞いとして渡してくれたものと思った。
七 考察
1 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内における検討状況や丙川二郎に依頼する経緯に関するR9の公判段階における供述(本節第二の六1)及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第二の六4)は、本節第二の四のリクルート内で作成された諸文書(甲書1五一一、五一三、五一四、甲物1四二)の記載と合致する上、リクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼しようと考えた経過も、本節第二の二の就職協定や青田買いを巡る背景事情に照らすと、事態の推移として自然であり、それぞれ信用性が高い。
さらに、リクルート関係者の捜査段階における右各供述は、重要な点で符合して、互いに補強し合っているところ、他方では、リクルートにおいて丙川二郎に対し国会質問を依頼するようになった経緯や質問案を再検討する必要があった理由等については、それぞれの立場に応じて供述するところに相違があるなど、必ずしも同様の内容のものではないのであるから、検察官の誘導のみによって、このような調書が作成されたとは考え難い。
(二) 右経緯のうち、国会質問案(甲物1四二)の作成に当たって被告人から原案の手直しを指示された状況に関するR7の捜査段階における供述(本節第二の六4(二)(1))は、具体的で、迫真性がある上、R10の捜査段階における供述(本節第二の六4(一))による裏付けもあり、しかも、R7は、この点については、公判段階においても(本節第二の六5(二)(2))捜査段階とほぼ同様の供述をしているのであって、その信用性を疑うべき事情はない。したがって、被告人が同質問案の作成に関与したことは間違いのない事実であると認められる。
(三) 次に、丙川二郎に対する働きかけの状況に関するR9(本節第二の六1)及びB2(本節第二の六2)の公判段階における各供述並びにリクルート関係者四名の捜査段階における各供述(本節第二の六4)について見ると、R9は、五九年五月ないし八月当時、事業部の幹部職員として丙川と頻繁に接触していた者で、コスモス株の譲渡等の本件の一連の事件が捜査の対象になる前にリクルートを退職していた者であり、B2は、丙川二郎の公設秘書であった者であり、両名はそれぞれ立場が異なっていた上、リクルート関係者四名は右両名とも立場が異なっていたところ、丙川二郎に対する働きかけの状況に関し、これらの者の各供述が符合していることからすると、その信用性は高い。
また、リクルートで作成した国会質問案(甲物1四二)と丙川二郎の質疑の内容とを対比すると、その表現の仕方や答弁を求める相手に多少の差異はあるものの、丙川二郎が五九年六月の文教委員会における質疑で述べた意見は、甲物1四二にある「(通産省に対する質問)」の1に記載のある新聞記事と同じ記事を基にして意見を展開したものであり、五九年八月の文教委員会では、甲物1四二で取り上げられているのと同じ二件の新聞記事を題材として、甲物1四二の趣旨に沿う質疑をしたのである。のみならず、五九年八月の文教委員会における質疑の準備資料である甲物1七七中の質問原稿の問1は、甲物1四二の番号6の最後の傍線部と同趣旨であり、同原稿の問2は、甲物1四二の番号7の傍線部とほぼ同一の文章である。これらによれば、甲物1四二の国会質問案を渡して丙川二郎に質問を依頼した旨のR9の公判段階における右供述やR10及びR7の捜査段階における右各供述は客観的証拠に沿うものである。
さらに、R9らリクルート関係者は、公判段階又は捜査段階において、それぞれの立場から、丙川二郎に対し国会質問を依頼した後、五九年六月の文教委員会では十分な質問がなされなかったため、丙川二郎を接待して依頼の念押しをし、五九年八月の文教委員会でリクルートの期待どおりの質疑をしてもらい、その後更に接待をして謝意を表した経過につき供述するところ、丙川二郎は、五九年六月の文教委員会において、当日の付議案件は日本育英会法案であったのに、これとは直接関係のない通産省の青田買い問題について、言い訳がましく苦しい表現で関連性を述べてまで、最後に取り上げて意見を述べ、五九年八月の文教委員会では、「六月二〇日にこの委員会で答弁をいただかないまま、指摘をするにとどめたテーマでございます」と前置きした上、本節第二の三2(一)の質疑をしたのであり、R9らリクルート関係者の右各供述は、右質問の状況とも符合している。
(四) 本節第二の五4のとおり、リクルートから丙川二郎に対しては、従来は資金供与がなされていなかったところ、五九年八月の文教委員会を二日後に控えた同月一日、R7が丙川二郎に対し、リクルート情報出版代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を交付したのであり、この時期に初めて丙川二郎に小切手を供与し、かつ、本節第二の五3のとおり、そのころ丙川二郎の京都市内における宿泊を手配し、後にその費用も負担していたことは、同年五月下旬から七月にかけて丙川二郎に対し請託をしていたことを認めるR9の公判段階における供述(本節第二の六1)やリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第二の六4)の信用性を支える事情ということができる。
(五) リクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決めた点に関するR7の供述経過を見ると、元年四月一〇日の検察官の取調べにおいて、丙川二郎の五九年六月及び八月の文教委員会における質疑がリクルートの依頼によるものであったことを認める供述をした上(甲書1六七八)、元年四月一四日の検察官の取調べにおいて、丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決め、被告人から指摘も受けながら国会質問案を作成した経緯や、丙川二郎に対する依頼の状況等につき、同年五月一三日付け検面調書(甲書1一二一)とほぼ同様の供述をしており(甲書1六八二)、その内容は判示第一、第二の各事件の捜査の初期の段階からほぼ一貫したものである。
(六) これに対し、R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))は、捜査段階において供述した事実の多くにつき、これを曖昧ながら否定し、あるいは記憶がないというものであるが、五九年四月ないし八月当時、R10は事業部の課長代理として甲書1五一三、五一四の各書面を作成した者であり、R7はR9とともに就職協定に関連する情報収集や対応策の策定に当たっていた者であり、R6は事業部担当の取締役、R5は専務取締役として取締役会の議事進行を担当していた者であるのに(〈証拠略〉)、これらの者のいずれもが、公判段階において、取締役会の議事や就職協定を巡る検討結果に関して作成された書面である甲書1五一一、五一三、五一四につき的確な説明ができないというのは不自然である。また、R10、R7、R6及びR5の公判段階における右各供述のうち、丙川二郎を議員会館に訪問したり接待したりしたことと国会質問との関係を否定する部分は、関係する書面の記載に照らすと、不合理であって、信用することができない。
(七) 以上の諸点からすると、リクルート内部で、丙川二郎に対し国会で質問してほしいと依頼することを検討し、同人に働きかけた状況に関するR9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)は、大筋において十分に信用し得るのに対し、R10、R7、R6及びR5の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))のうち、これらの者の捜査段階における右各供述やR9及びB2の公判段階における右各供述と相反する部分は、信用することができない。
(八) また、取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼しようと決めたことや国会質問案の作成に関与したことを否定する被告人の公判段階における供述(本節第二の六5(一))は、右(七)のとおり信用し得るR9の公判段階における供述(本節第二の六1)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)と相反するのはもとより、国会質問案の作成に関与したことを否定する点については、R7の公判段階における供述(本節第二の六5(二)(2))とも相反しており、到底信用することができない。
(九) リクルートの者から質疑の依頼を受けたことを否定する丙川二郎の公判段階における供述(本節第二の六6)も、右(七)のとおり信用し得るR9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)や、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)と相反するのはもとより、丙川二郎に甲物1四二の内容の国会質問案を渡して国会で就職協定問題を取り上げることを依頼した旨のR7の公判段階における供述(本節第二の六5(二)(2))とも相反しており、信用することができない。
なお、丙川二郎は、五九年六月及び八月の文教委員会で官庁の青田買い問題を取り上げた理由について、本節第二の六6①、②のとおり供述するところ、確かに、丙川二郎の衆議院議員在職中の国会における質疑には、教育問題を取り上げたものが見られ、中には本件で問題とされている機会以外にも、青田買い問題を正面から取り上げたものではないものの、他の問題を取り上げる中で青田買いに言及した質疑が若干存し(弁書1二四二、甲書1二一九)、丙川二郎が従来から教育問題に関心を持ち、青田買い問題にも無関心でなかったことは認められる。しかし、そのことは、まさに、リクルートの者が青田買いに関する質問を依頼する国会議員として丙川二郎が適任であると考える根拠になったことであり、丙川二郎が右のような関心を有していたことが、同人に質疑を依頼した旨のR9及びR7の公判段階における右各供述やリクルート関係者の捜査段階における右各供述の信用性を疑わせる事情になるものではない。
2 丙川二郎に依頼した経緯と状況
(一) 認定事実
本節第二の二のリクルートの就職協定に対する関心、五九年当時の就職協定や官庁の青田買いを巡るリクルート内部の検討、対応策の決定や実行状況、乙山に対する請託、五九年度人事課長会議申合せ、官庁の青田買いを巡る新聞報道等の背景事情、本節第二の三1、2の丙川二郎の衆議院文教委員会における質疑の内容、本節第二の三3、四の各書面の記載及び本節第二の五のリクルートの丙川二郎に対する接触状況に加え、R9及びB2の公判段階における各供述(本節第二の六1、2)、R10、R7、R6及びR5の捜査段階における各供述(本節第二の六4)並びにこれらの者の公判段階における各供述(本節第二の六5(二))のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、弁護人が任意性を欠く旨主張する被告人の捜査段階における供述を除いても、次の各事実を認定することができる。
(1) 被告人らリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたところ、五九年一月には就職協定の継続に消極的なL1日経連専務理事の発言も報じられたことから、取締役会で、R7及びR9を中心に就職協定に関連する情報収集や対応策の策定に当たらせるほか、民間の就職協定が遵守されない誘因となる官庁の青田買いを防止するために乙山官房長官に働きかけることを決め、同年三月、被告人が公邸を訪問して、乙山に対し官庁の青田買い防止の善処方を依頼するなどし、同月二八日には、五九年度人事課長会議申合せがなされた。
(2) ところが、五九年四月二七日、通産省が人事課長会議申合せに反した時期に学生と接触しているという新聞報道がなされたため、同日から翌日まで開催されたリクルートのじっくり取締役会議で、通産省の青田買いは人事課長会議申合せに反するとして、国会議員に国会で取り上げて質疑してもらい、人事院や各省庁の政府委員から、二度とこのようなことはしないという答弁を得て、人事課長会議申合せを徹底させようということが話し合われた。甲書1五一一の「協定関連」の項目に「国会質問」と記載されているのは、このことを記載したものである。
(3) R6、R7及びR9は、五九年五月一一日、当時社会党等が「リクルート一一〇番」と称して攻撃していた就職情報誌の誇大広告に関する問題や就職情報誌に関する法規制の問題について、公明党の方針を情報収集するとともに、官庁の青田買いについて国会で質疑してもらえるかどうかという感触を探るため、R9と面識のある衆議院議員であった丙川二郎を議員会館に訪ね、リクルート一一〇番の問題と就職協定について話したところ、丙川二郎がリクルート一一〇番の問題にはあまり関心がなく、むしろ就職協定に関心があることが分かり、官庁の青田買いについて国会で取り上げて質疑してもらえるのではないかという感触を得た。そこで、その後のリクルートの取締役会で、その旨報告され、被告人を中心に協議した結果、丙川二郎に対し官庁の青田買いについて国会で質問してもらうように依頼することが決定され、国会質問案を用意することになった。
(4) R7及びR9は、五九年五月三〇日、議員会館の丙川事務所を訪ね、丙川二郎に対し、就職協定の現状や官庁の青田買いと就職協定との関係等を説明し、官庁が人事課長会議申合せに反して青田買いをしていることにつき、衆議院文教委員会で質疑してもらいたい旨依頼し、丙川二郎はこの依頼を了承した。
(5) その後、リクルート内部では、R7を中心に、R10が書記的な立場で、新聞記事を参考にして国会質問案の原案を作成し、被告人が原案の表現を整理して直截な表現にするように指示したほか、甲物1四二の番号7の項目を付加し、必ず質問してほしい箇所にアンダーラインを引くように手直しを指示した。右作業の途中で、労働省の青田買いに関する新聞報道もあったため、リクルートでは、そのことも丙川二郎に取り上げてもらうこととし、質問案を補充して国会質問案を完成させた。甲書1五一四中の「就職協定関連」の項目に「国会質問案再検討」と記載されているのは、労働省の青田買いに関する報道を受けて質問を再検討することを記載したものであり、甲物1四二は、右経緯で作成された質問案を清書したものである。
(6) R7、R9及びR10は、五九年六月一五日、丙川二郎を議員会館に訪ね、通産省及び労働省の青田買いを報ずるサンケイ新聞の記事や就職協定に関する資料とともに甲物1四二と同じ質問案を渡した上、就職協定の現状、官庁の青田買いと就職協定との関係等を説明し、通産省及び労働省の青田買いについて衆議院文教委員会で取り上げ、人事院に人事課長会議申合せの遵守を図るように求める質疑をしてほしい旨依頼したところ、丙川二郎が文教委員会で取り上げて質疑することを了承した。
(7) 五九年六月の文教委員会における丙川二郎の発言が意見を述べるだけにとどまったことから、R5、R6、R3及びR7は、同年七月一八日、料亭「艮」において、丙川二郎とB2を接待し、丙川二郎に対し、国会質問をよろしくお願いしたいと言って依頼の趣旨を念押ししたところ、丙川二郎がこれを了解した。また、同月二三日、丙川二郎とB2がリクルートを訪ねてきた際、R6、R7及びR9は、丙川二郎とB2をリクルートの会員制クラブ「寅」で接待し、今度の委員会ではよろしくお願いしますなどと言ってあらためて文教委員会において質問するように依頼した上、引き続いて、R6及びR9がバー「卯」で丙川二郎とB2を接待した。
(8) B2は、五九年八月の国会質問の前に、丙川二郎が口授した質問内容を書き取って、甲物1七七中の質問原稿を作成したが、その際、丙川二郎は、R7らが持参した右(6)の質問案を参考にしながらB2に口授した。
(二) 補足
検察官は、R9らは、五九年六月一九日ころにも、議員会館において、丙川二郎に対し右(一)(4)、(6)と同様の依頼(本節第二の一の三回目の請託)をした旨主張する。
確かに、本節第二の五1のとおり、五九年六月一九日にR9及びR10が議員会館の丙川事務所を訪問した事実が認められ、しかも、その日は五九年六月の文教委員会の前日であったことからすると、R9らの訪問目的と丙川二郎の国会質問との間に何らかの関係があったという疑いが強い。しかし、右訪問の同行者は、関係証拠(〈証拠略〉)からR10であったことが明らかであるのに、R9は、その訪問時の同行者がR7であったと思う旨の誤った供述をするばかりでなく、五九年六月の文教委員会の前日に訪問した理由についても、「R7さんは、非常に緻密な仕事をされる、仕事熱心な方でしたから」という同行者を取り違えた認識を前提として、「何と言いますか、再度よろしくお願いします、みたいな感じのごあいさつに行ったんじゃないかと思っています。」という推測を供述するにとどまっており(〈証拠略〉)、その供述のみによっては、請託の事実を認めるに十分ではないところ、R9の同行者であるR10は、捜査段階において、右訪問の際の請託について一切言及しておらず(甲書1一五三)、公判段階における供述も、丙川二郎とはR9及びR7と一緒に三人で行った際に一度だけ会った記憶であり、同月一九日にR9と二人で行って丙川二郎と会ったことは思い出せないというものにすぎないのであるから、検察官の主張する本節第二の一の三回目の請託を認めるに足りる証拠はないというべきである。
3 被告人の捜査段階における供述の任意性等について
右2(一)のとおり、五九年六月及び八月の文教委員会における質疑に関する請託は、被告人の捜査段階における供述を除いても、十分に認定することができるから、その任意性の判断は不可欠ではないが、他の争点に関する被告人の捜査段階における供述の任意性の判断に関係する点もあるので、ここで検討を加える。
(一) まず、確かに、第一章第三の三1、3のとおり、被告人は、元年二月一三日に逮捕されてから丙川二郎に贈賄したという事件の取調べを受けるまでに、三度にわたり逮捕勾留され、本節第二の六3の各検面調書が作成された時期まで、二か月余ないし三か月余の間身柄を拘束されていたこと、その間のほぼ毎日、検察官の取調べを受け、取調時間が相当長い日も多かったことや、勾留中の被告人には睡眠障害等の症状があったことが認められ、また、同年四月二五日にI1内閣が予算案成立後に総辞職することを表明し、その翌日にコスモス株の譲受名義人の一人であるI1の元秘書が自殺するなどの出来事もあった。
(二) しかし、右(一)の事情やその間の取調状況が被告人にとって精神的、肉体的な負担になっていたとしても、被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受けていたのであり、拘置所の閉庁日を除く毎日、一日当たり約三時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていた(第一章第三の三2)のであるから、自己の刑事責任に関わる重要な事柄について、絶望感から、検察官に対し意に反する供述をし、事実と異なる供述が記載された調書に署名することを余儀なくされるような状態にはなかったと認められる。
(三) 弁護人は、被告人が元年四月二二日付け検面調書(乙書1一〇)に任意性なく署名した理由の一つとして、既に国会質問案を了承していた旨の同月一六日付け検面調書(乙書1八)に署名させられていたことを挙げるが、同調書に記載された供述は、「リクルートの方で、丙川代議士に質問をしてもらうための質問案を作るなどしておりますが、当時事業部員がそういうことをやっていて、私としても当時これを承知していたかも知れませんが、現在は良く覚えておりません。」というものにすぎず、質問案を了承したことを明示的に認める乙書1一〇の供述とは質的に異なるものであるから、右主張はその前提を欠いている。
また、弁護人作成の元年八月一四日付け陳述録取書(被告人の陳述を録取したもの。弁書1八三)には、同月二二日に署名した検面調書の内容のうち、五九年のホテルナゴヤキャッスルで開いた取締役会議で国会質問の依頼を決定したことや、R7やR10が作成した国会質問案の報告を受けたことなどは、事実に反し、全く記憶にないものであったが、検事から「同じ内容のことが書いてある取締役会議事録があり、理屈ではこうなる。R8、R7、R10らの調書もある。」などと何度も強く言われ、三回にわたる逮捕勾留のショックと、いつ保釈されるか分からないという不安で精神的に落ち込み、自殺したいという衝動に駆られることもあり、検事に対し抵抗する気力がなくなっていた状態であったために署名せざるを得なかった旨の記載がある。
しかし、右陳述録取書は、被告人が供述をした直後ではなく、保釈されて約二か月後に作成されたものである点で信用性に乏しい上、被告人を中心とするリクルートの取締役会において、国会で公務員の青田買いを取り上げて質疑してもらうことを決め、被告人が質問案の作成に関与したことは、右2のとおり、関係証拠によって十分に認められる事実であり、かつ、その関与の内容に加え、新規学卒者向け就職情報誌事業が創業以来のリクルートの基幹事業であったことや、被告人自身が同じ年の三月に乙山に対し公務員の青田買いについて善処を求める請託もしたことからすると、被告人が、捜査段階において、国会質問の依頼を決め、質問案の作成にも関与したことを全く記憶していないというのは不合理であるから、右陳述録取書に記載された被告人の陳述は信用することができない。
(四) 被告人は、公判段階において、元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)に署名した理由につき、P4検事から「表現は和らげる。」「保釈のための総括の調書をまとめて取りたい。」「あなたもやがて保釈されるだろう」と言われたり、「ここは折れ合って総括的な調書を取らなければならない。これくらいで折れ合いなさいよ。」などという言葉の裏で、代わりに早く保釈してあげるということを言われて、致し方なく国会質問案の作成についての関与の点で事実に反する調書に署名せざるを得なかった旨供述し(〈証拠略〉)、他方で、P4検事は、公判段階において、取調べの過程で保釈を取引材料として調書に署名を求めたことはない旨供述する(〈証拠略〉)ところ、被告人が国会質問案の作成に関与したことは右2のとおりであって、右検面調書の記載は事実に反するものでなく、かつ、その記憶がないというのが不合理であることも右(三)のとおりであるから、被告人の公判段階における右供述は、やはり信用することができない。
(五) 結局、本節第二の六3の各検面調書が作成された際の取調べ及び供述過程において、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせるような事情があるということはできない。
(六) また、リクルートの取締役会で丙川二郎に対する請託を決めたことを認め、国会質問案の作成についての関与をやや曖昧ながら認める被告人の供述は、右のとおり任意性があることに加えて、右2の認定事実とも符合するから、信用することができる。
4 結論
五九年五月三〇日の議員会館の丙川事務所におけるR7及びR9から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(4))、同年六月一五日の議員会館の丙川事務所におけるR7、R9及びR10から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(6))、同年七月一八日の料亭「艮」におけるR5、R6、R3及びR7から丙川二郎に対する依頼並びに同月二三日のクラブ「寅」におけるR6、R7及びR9から丙川二郎に対する依頼(右2(一)(7))は、いずれも請託に当たる。
また、右2(一)で認定した請託に至る経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことであり、丙川二郎に渡された質問案も被告人の指示を受けつつ作成されたものであることからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第三 六〇年六月中旬ころの数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、六〇年六月中旬ころ、R7らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し二回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、R7及びR10が、同月上、中旬ころ、議員会館又はリクルートにおいて、国会で国の行政機関の青田買いが行われないように質問していただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、R7、R11及びR10が、同月中旬ころ、議員会館において、本年も通産省が人事課長会議申合せに違反して青田買いをしているので、衆議院文教委員会でこのことを指摘し、人事院等に人事課長会議申合せの遵守の徹底方を求めるなどの質問をしていただきたい旨重ねて要請をした旨主張する。
被告人は、捜査段階において、六〇年四月ころの取締役会で公務員の青田買い防止等につき丙川二郎に対し国会質問をお願いすることが決まり、R7がその依頼を担当した旨供述するが、公判段階においては、同年六月ころのR7らと丙川二郎とのやりとりは知らず、自分は何ら関与しなかった旨供述している。
そこで、判示第二の二②の請託を認定した根拠を説明する。
二 背景事情
1 五九年度の就職協定は、五九年八月下旬ころから企業側が採用活動に動くなど形骸化が進み、六〇年一月二一日の中雇対協では、六〇年度についても、五八年度中雇対協申合せを継続することを決定したものの、会合後の記者会見において、中雇対協座長であるL1日経連専務理事が就職協定について完全に熱意を失っており、六二年三月以降卒業の大学生の就職問題についてどうしたらよいかは、六〇年度の就職協定の実施状況を見てから、中雇対協のメンバーが中雇対協で就職協定問題を取り扱うのが適当か否かも含めてじっくり考えていただきたい旨発言し、翌日の新聞でその旨報道された(本章第一節第一の四1、2)。
2 被告人を含むリクルートの幹部や新規学卒者向け就職情報誌事業担当者は、右発言を受けて、就職協定が廃止の方向に向かうのではないかと強い危機感を抱くようになり、六〇年一月二三日ころの取締役会で、六〇年度の就職協定を遵守させる方策を協議し、その際、被告人やR6が文部大臣に働きかけることを決めたほか、臨教審で就職協定問題や青田買い問題を取り上げてもらって、臨教審の答申に青田買い防止等の関連で就職協定問題を盛り込んでもらい、それをてこにして就職協定の存続及び遵守を図るべく、臨教審関係者に右方向で働きかけをする旨合意した(本章第一節第二の四1)。
R6は、右方針を踏まえて、そのころ、文部省にD6文部大臣を訪ねた上、就職協定が揺れ動いている背景事情や、その存続及び遵守が学校教育にとっても必要であることなどを説明して、臨教審における議論の対象に取り上げてほしい旨陳情し、一方、被告人は、六〇年一月二一日の臨教審第四部会や同年二月二七日の臨教審第二部会において、就職協定と企業における大学卒業者の採用との関係に触れた意見を述べた(本章第一節第二の四2)。
3 六〇年三月ころ、被告人の指示を受けたR8とR7が乙山を公邸に訪問して面談し、判示第一の二②の請託をし(前節第三の四8)、同年四月一〇日の人事課長会議において、一〇―一一協定に協力するという五九年三月になされた申合せの趣旨の徹底を図り、就職秩序の維持に努めていただきたい旨の人事院任用局企画課長の依頼が了承されて、六〇年度人事課長会議申合せがなされた(本章第一節第一の四3)(なお、右面談に関する証拠の一部は判示第一の公訴事実の証拠として取り調べたにとどまるが、多くは判示第二の各公訴事実の証拠としても取り調べており、後者の証拠のみによっても、右事実を十分に認めることができる。)。
4 リクルートでは、六〇年四月から六月にかけて、事業部を中心に、学生や企業の就職活動と採用活動の状況、就職協定の遵守に向けた公式、非公式の各種会合の状況、臨教審で青田買い問題が取り上げられたこと、青田買いに関する新聞報道等について情報収集活動を続け、重要な情報は被告人にも報告されていた(本章第一節第二の四3)。
その間、臨教審は、各部会及び総会で審議を重ね、六〇年六月二六日の第一次答申で、「有名校の重視につながる就職協定違反の採用(青田買い)」を改めるべきである旨の指摘がなされたが(本章第一節第一の五3)、他方で、同月一五日付けサンケイ新聞で、「通産省が“青田買い”居酒屋に東大生46人」という見出しの下、同月一四日に東京大学出身の通産省の官僚が居酒屋で翌春卒業予定の東京大学法学部、経済学部の学生を対象に就職説明会を開いた旨の報道がなされた(本章第一節第一の四4)。
三 丙川二郎の六〇年六月一九日の衆議院文教委員会における質疑
第一〇二回国会会期中の六〇年六月一九日、日本体育・学校健康センター法案を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「六〇年六月の文教委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、文部大臣等に対し同法案に関連する質疑をした後、「時間の関係で、この問題もう少しお話をしたいのですが、次の機会にしたいと思います。きょうは健康センターの問題を中心に審議してきたのですが、会期末でございまして、この機会に委員長のお許しを得まして、私前から関心を持っておりました大学生の就職の問題についてちょっと触れさせていただきたいと思います。」と述べ、説明員として出席していたG5人事院事務総局任用局企画課長及びV通商産業大臣官房参事官並びにD6文部大臣に対し、次のとおり質疑をし、答弁を得た。
(丙川二郎の質疑要旨)
就職は国民の非常な関心事だと思う。日本の場合は企業間格差もあり、いい所へ入るために受験競争が続き、教育混乱の一因になっている。そういう中で臨教審の答申が近く出されるが、学歴社会の弊害の是正、そのために指定校制や青田買いを是正していかなければならず、企業や官庁の採用時の人事慣行も改善しなければならないと指摘されている。人事院はこれにいろいろと対応されており、六〇年四月一〇日の人事課長会議等で何らかのルールを申し合わせているように承知しているが、その申合せや関係各方面にお願いした内容についてお聞かせいただきたい。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
六〇年度の大学等卒業予定者の求人求職秩序の維持については、本年四月一〇日の人事課長会議で申合せをした。会社訪問開始一〇月一日、採用選考開始一一月一日という民間の紳士協定に協力するという内容である。
(丙川二郎の質疑要旨)
先般新聞が「通産省が“青田買い”」という指摘をし、六〇年六月一四日に東大前の居酒屋に学生が集まって通産省から説明があったということである。いろいろな事情があろうと思うが、ルールはルールできっちりしなければならないし、特に中央官庁、人気があるといわれている大蔵省や通産省には今後十分に気をつけてやってもらわなければならない。新聞には、大臣官房長の話として、「初めて聞いた。組織的にやったものか個人的にやったものか、さっそく調べる。」と出ているが、この実情について通産省から伺いたい。
(通産省のV説明員の答弁要旨)
官房長からの指示もあって事情聴取をしたところ、当省の有志職員が出身大学の後輩の求めに応じて、先輩として個人的に役所の業務内容について一般的な情報提供を行ったものと聞いている。
(丙川二郎の質疑要旨)
同様のことは他の役所でもあるように聞いているが、人事院は情報をつかんでおられるか。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
いわゆる一〇―一一協定の趣旨に合わないような行動が行われているということは聞いていない。
(丙川二郎の質疑要旨)
先輩に呼ばれてあるいは先輩にお願いして後輩が集まって情報を集めることは決してあり得ないことではないと思う。これから夏休みに入り、ますます激しくなることが予想される。私はこの質問を五九年にも一遍しており、文教委員会でこういうことについて是非気をつけてほしいという指摘をするのは二回目である。人事院としては、言いっぱなしで後は知らないということではなく、今後も何らかの対応をなさってはいかがか、またすべきではないかという気持ちを持つが、いかがか。
(人事院のG5説明員の答弁要旨)
新規学卒者の青田刈りの防止問題というのは非常に重要な問題であり、教育界、産業界、公務部門の三部門が協力して対応することが必要である。そうした趣旨から、私どもも民間の一〇―一一協定に協力することにしているわけである。したがって、人事院としても、今後ともこの申合せの趣旨が徹底されるように努めてまいりたいと考えている。
(丙川二郎の質疑要旨)
今お聞きになったような就職に関する官庁の在り方についての文部省の考え方と文部行政の立場からの高等教育機関における就職の問題について大臣の意見を伺いたい。
(D6文部大臣の答弁要旨)
企業経営者が優秀な人材を自分の企業に迎え入れたいという気持ちを持つことは無理からぬことであろうと思う。しかし、企業が得手勝手にそういうことをやられると我が国の大学教育は成り立っていかない。官庁の場合も、人材を自分の役所に迎え入れたいという気持ちは分かるが、それをやられては大学の教育はめちゃくちゃにされてしまうわけであるから、そういう点は十分配慮してもらいたいと思う。
私の承知している限りでは、民間企業では概してこの申合せの趣旨を守っていると見ている。企業関係者に聞いてみても、申合せがあるのでまだということになっている。その矢先に、先般新聞に通産省の例が載ったわけであり、あるいは他の役所もやっているかもしれない。先輩が後輩の求めに応じてということであるが、果たしてそうだろうか。すぐの先輩が独自の判断でそれをするというのは考えられない。やはり内々の了承を得てのことではなかろうかと推測するわけだが、そういうことを中央官庁がやり始め、ルールを守らないということを中央官庁がやったとするならば、日本の行政は成り立たない。甚だ遺憾なことであったと思う。国家公務員上級職の一次試験、二次試験に向けて勉強している段階で、先輩、後輩といえども、たくさんの人を集めて自分の役所の宣伝をするなどということはよくない。他の役所もそうしたことを秘密裏にやっているとすれば甚だよくないことだと思う。文部省はルールはきちっと守るということをやってまいりたい。
学生が夏休みの期間に就職のことで暑いさなかを飛び回ったり、精神的に苦労するということは青年の健全な発達を図る上でも有害である。
したがって、私どもとしては、企業に対してもそうした点を十分配慮して申合せを守ってもらいたいし、特に役所の側は厳に守っていただきたいと切に希望する。
(〈証拠略〉)
四 右委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況等
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①六〇年六月の文教委員会の前日である同月一八日午後五時一五分ころにR10、R11及びR7が、②同月二六日にR7がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出たことは、客観的な証拠からも、明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第三の一)、右①が二回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 金額一〇〇万円の小切手の供与
リクルートでは、六〇年六月二四日、丙川二郎に対する寄付金として、リクルート代表取締役甲野太郎を振出人とする金額一〇〇万円の小切手を振り出し、この小切手は、B1が同月二六日に協和銀行中目黒支店のB1名義の普通預金口座に入金した。
(〈証拠略〉)
五 被告人及び関係者の各供述
1 被告人の捜査段階における供述
(一) 被告人の元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)
被告人は、元年五月一九日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「昭和六〇年一月には、中央雇用対策協議会の就職協定関連の中心人物であるL1専務理事が『私は就職協定に熱意を失っている。』などと述べており、就職協定の存続は危ぶまれる状況にありました。リクルートにおいても、このころの取締役会において、就職協定の存続遵守のための方策を検討した記憶ですが、決定的な有効策といったものはなかなか出ませんでした。」「お示しの資料は、昭和六〇年一月二三日のリクルートの取締役会の議事録ということですが、確かにこのころの取締役会で、お示しの資料に記載されているような話し合いがありました。就職協定の問題について、有効な決め手となる方策がなく、当面の方策として経済団体に働きかけたり、就職協定セミナーの実施などが出ておりました。また、文部大臣に会って就職協定の意義を説明し理解を求めるということも話し合われました。就職協定の存続、遵守を臨教審で取り上げてもらい、その答申に盛り込まれることが望ましいといったことも論じられておりました。」「その後、昭和六〇年四月ころの取締役会だったと思いますが、昭和六〇年においても前年同様、公務員の青田買い防止等につき、丙川代議士に国会での質問をお願いしようということが決まった記憶です。丙川代議士に頼みに行く役割はR7らが担当しておりました。」
(二) 右(一)の供述の任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、被告人はそれまでの厳しくかつ不当な取調べの下で、保釈を条件に、幾度となく不本意な調書に署名させられた経緯から、強い抵抗をすることもできずにP4検事の意図に沿う調書作成に応じざるを得なかったのであって、右供述は任意性を欠く旨主張する。
2 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R11及びR7は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)
「六〇年の四月下旬ころになりますと、R7社長室長から『官公庁も含めた就職協定の申し合わせと今の青田買いの現状について資料をまとめてくれ。また丙川先生に質問をお願いするから。』と指示されたのです。」
「R7さんから、就職協定に関して再び丙川先生に質問してもらうからその資料を作るように言われたのは、〔中略〕甲野社長からその旨の指示が出され、確か当時の取締役会でもこのことは話題にされて決定されたと思いますが、そのようなことで、私にその資料のとりまとめの指示があったものと記憶しています。五月に入ったころに、R7社長室長から『質問資料の骨子は、臨教審において学歴社会の弊害の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが審議されているので、それとの関連で就職協定を守る必要性があること、それに、四月一〇日に各省庁の人事担当課長会議で申し合わせができたので、今回は機先を制し、企業の青田買いを牽制する必要からも、これを取り上げて質問できるようなものにするように。』というような意味の指示があったのでした。また、R7社長室長は、その時、『資料には関連する新聞記事などもできるだけつけるように。』とも言われました。〔中略〕私は、五九年の時のように典型的な質問案という形ではなく、その質問してもらいたい要点について、その関連する新聞記事なども添付した資料の作成を行ったのです。その資料については、作成途中にR11さんにも見てもらったと思います。そして、これをR7社長室長に上げ、その時は、それが甲野社長まで上げられたかどうかはよく覚えていませんが、その内容については、R7社長室長は甲野社長の承認を得たようでした。それは、そのころ、甲野社長もそれでオーケーだという意味の話をR7社長室長が私に言ってくれたので、それがわかったのでした。」
「この質問案資料は、六〇年の六月初めころには完成させ、ワープロにも打ったように思います。この質問案資料は、六月の上旬ころに、私は、R7社長室長と一緒に丙川先生にお会いして、今度の委員会で質問していただきたいと言ってお渡ししています。その場所については、議員会館だったと思いますが、あるいは当時丙川先生は時々リクルート本社にも見えておられたので、その際にお渡ししていることも考えられます。〔中略〕この質問案の資料を丙川先生にお渡しした時は、R7社長室長が『今年は臨教審でも学歴社会の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが検討されており、今年は四月一〇日に官庁でも人事担当課長会議で、昨年同様民間の就職協定に協力して一〇月一日前の学生のOB訪問や一〇月一日以降の官庁訪問についても民間の一〇―一一協定に沿って対応するとの申し合わせを行っており、青田買いがないようにとの質問をしていただければと思うのです。官庁が青田買いを始めますと、民間企業もこれにつられて青田買いを始め、学生が落ちついて勉強もできず、教育上も問題ですし、リクルートの就職情報誌も計画的に配本できず、困ってしまうのです。』などと説明し〔中略〕たかと思います。丙川先生は、すでに五九年の国会質問の際に私達が具体的に説明してお願いしているので、のみこみは早く、後でよく資料を読んでおいて、質問の近くになればまた来てもらうなりして、更に質問の要点を説明してもらえばよいというような意味のことを言って、この資料を受け取ってくれた記憶です。」
「ところが、丙川先生にこの質問案の資料をお渡ししてから間もなくして、新聞に、臨教審第一次答申原案の内容が報道され、情報どおり、学歴社会の是正策として青田買い防止が指定校制廃止とともに盛り込まれるという記事が載りました。そして、その後、通産省が青田買いをしたというサンケイ新聞の報道もありました。それで、質問日の直前ころの六月中旬ころ、R7社長室長の指示で、私がこれらのホットニュースの関連記事のコピーを集め、一緒に議員会館の丙川先生を訪ね、丙川先生にこの追加資料をお渡しして、詳しく質問内容を説明して、文教委員会で質問していただくようお願いしたのでした。その時は、R7社長室長と私と、それにR11も一緒に行った記憶です。〔中略〕その時、R7社長室長が丙川先生に対して、先にお渡ししていた質問案の資料を一部念のためにお渡しし、それから追加資料をお渡ししたと思います。そして、R7社長室長は、『今年もまた通産省が官庁の申し合わせに反して青田買いをこのようにしております。官庁の青田買いをやめさせなければ、学生がそわそわし始め、官庁の青田買いにつられて企業も青田買いを始めてしまいます。この新聞記事にありますように、臨教審の第一次答申の原案もまとまり、学歴社会の弊害の是正策として指定校制を廃止するとともに民間の就職協定違反の青田買いも防止することが盛り込まれることとなっています。今年は、この資料にありますように、四月一〇日に各省庁人事担当課長会議の申し合わせで、去年と同様に、民間の一〇―一一協定に協力することが決議されております。それなのに、今年も、その申し合わせに反して通産省が青田買いをしているのです。先生に文教委員会でこの事実を質問で指摘していただき、通産省にもなぜそのようなことをしたのか質問し、人事院などに対してもこの申し合わせ遵守の徹底方を求める質問をしていただきたいと思うのです。〔中略〕』などとお願いして、〔中略〕質問依頼をしたのでした。丙川先生は、『学歴社会の弊害を是正するためには、このような青田買いをやめさせ、学生に落ちついて勉強させる必要がある。この前のリクルートにお世話をかけた勉強会でも、就職協定はきちんと守られるべきだという話が出たところで、そういうことなのに、また官庁が青田買いを始めるとは実に困ったものです。この件については、文教委員会で、また質問してあげましょう。』などと答えて、リクルートのお願いどおりの内容で国会質問をしてくれることを丙川先生は快く引き受けてくれたのでした。」
「六〇年の六月の文教委員会の質問は、六月一九日に丙川先生が行われ、先生は、このようにリクルートがお願いしたとおり、質問をしたわけで、この時の委員会質問の模様は、翌日のサンケイ新聞に報道されたのでした。〔中略〕この詳しい質問内容については、その後、私が国会図書館に行って、その会議録をコピーしてきて、R7社長室長にも上げているので、甲野社長にも報告されていると思います。」
なお、R10は、右供述の際、丙川二郎に渡した質問資料として、「六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面及び「青田買いの現状」と題する書面を再現して作成しており、それらが調書に添付されているが、前者の書面には、六〇年度の就職協定の内容、六〇年度人事課長会議申合せ、臨教審の第一次答申に青田買い防止が盛り込まれる予定であることなどが記述してあり、後者の書面には、通産省の青田買いに関する新聞記事を含む六〇年五月下旬から六月中旬までの青田買いに関する新聞や週刊誌の記事の写しが添付されている。
(2) R10のその他の供述
R10は、元年五月一八日の検察官の取調べにおいても、右(1)と同趣旨の供述をし(甲書1一五六)、同月二二日の検察官の取調べにおいては、丙川二郎との面会状況一覧表を示されて、前に「六月中旬ころ」と供述した訪問は六〇年六月一八日のことと思う旨供述する上、「その前の六月上旬ころにも私は質問案の資料を丙川先生にお渡しした記憶があり、その日がこの表には見当たりませんが、そうなりますと、そのころも丙川先生がリクルート本社に来られたことがありますので、その時にお渡ししてお願いしているのだと思います。」と供述している(甲書1六一五)。
(二) R11の元年五月二一日付け検面調書(甲書1一五二)
「六〇年五月下旬ころになって、臨教審の総会で、第一答申に学歴社会の是正策を盛り込み、採用慣行の改革、指定校制、青田買い廃止を提しょうする方針が決められ、その旨の新聞報道がなされました。〔中略〕ところが一方で、一流企業がその年もまた青田買いを行い、そのことが新聞報道され、さらに六月ころには、前年フライングした通産省がフライングを行い、それがサンケイ新聞に報道されるという事態になっておりました。この間、プロジェクトチームにおいては、T会議の決定に基づいて、R7―R10のラインで、前年同様丙川先生に就職協定に関する国会質問をお願いすべく動くことになり、R10がR7の指示に基づいて質問資料を作成するなど、準備を始めておりました。〔中略〕私は、R10から国会質問のための資料を見せられた記憶があります。その時期は、五月下旬か六月上旬ころのことでありました。〔中略〕「これ〔「昭和六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面〕は、R10が当時作った資料を再現したものだそうですが、私が当時見せられた資料もこのような体裁のものだったと思います。特に、この中で中雇対協や、就問懇の開催状況や決定事項を羅列した部分あたりは記憶に残っております。〔中略〕その資料は、R7やR10がそのころ丙川先生にお渡しして、質問をお願いしていると思います。」
「六月中旬ころ、サンケイ新聞が、通産省が青田買いとの報道をしたのです。そして、私達は、その新聞報道がなされた直後ころ、追加の資料を持って、議員会館の丙川事務所に丙川先生を訪ね、国会質問をお願いしたのでした。この時は、すでに前の資料も丙川先生の方に行っておりましたので、その後の状況、つまり、通産省がフライングしたことなどを補充的に説明したのでした。その時議員会館に行ったメンバーは、R7、私、R10の三人でありました。〔中略〕R7社長室長は、丙川先生に対して、前に渡してある資料と新たに持ってきた追加資料に基づいてペーパーをめくりながら、現状を説明して国会質問をお願いしておりました。〔中略〕R7さんは、〔中略〕丙川先生に対して、『今年も通産省が官庁の申し合わせに反して青田買いをしているんです。官庁の青田買いをやめさせないと、学生が落ちつかないし、企業もつられて動き始めます。通産省の青田買いを委員会で指摘していただいて、官庁の申し合わせを守るよう指導を求める質問をしてください。』などと言って質問をお願いしたのです。〔中略〕丙川先生は、『分かりました。やりましょう。通産省はけしからんですね。』などと言っておりました。」
(三) R7の元年五月一七日付け検面調書(甲書1一二三)
「昭和六〇年四月一〇日の各省庁人事担当課長会議で先程のような申し合わせ〔六〇年度人事課長会議申合せ〕がなされた訳ですが、具体的な日時ははっきり憶えていないものの、その頃、右会議の内容が取締役会で報告されました。そして、この時の取締役会であったかどうかはよく憶えておりませんが、〔中略〕昨年のようにまた官庁が青田買いをするかもしれず、そうなると、それに連られて民間企業も青田買いをする恐れがあるので、本年度もまた丙川代議士に就職協定のことについて国会で質問していただこうということが決まりました。」
「そこで、私は、昭和六〇年四月下旬頃であったと思いますが、R10に対し、『また丙川先生に国会質問をお願いすることになったから、官公庁も含めた就職協定の申し合わせと今の青田買いの現状について資料をまとめておいてくれないか。』などと言っておきました。」
「その後も、私は、R10らと丙川代議士にお渡しする国会質問の為の資料のことについて話し合い、その資料は、臨教審で青田買い防止が審議されているので、その関係で就職協定を守る必要があることとか、先程申し上げた昭和六〇年四月一〇日の各省庁人事担当課長会議の申し合わせを指摘して、政府側にその徹底遵守を約束させることなどを柱にすることに致しました。そして、丙川代議士にお渡しする国会質問の為の資料は、R10が中心になって作成致しました。〔中略〕今見せていただいた書面〔「昭和六〇年度就職協定と就職戦線の現状」と題する書面等写し〕は、丙川代議士にお渡しした国会質問の為の資料について、R10が当時のことを思い出しながら作ったものだそうですが、私も、だいぶ前のことなので、細かいところまではよく憶えていませんが、丙川代議士にお渡しした国会質問の為の資料はこのようなものであったと思います。」
「そのような資料が出来たことを甲野に報告し、その資料を丙川代議士にお渡しして、国会質問を依頼するとの甲野の了承を得た上、私とR10が丙川代議士に資料を渡して国会質問をお願いしたと記憶しています。昭和六〇年六月初旬頃であったと思いますが、私は、R10と一緒に丙川代議士に会って、R10が作成した資料を渡し、国会質問を依頼しました。私は、丙川代議士に『臨教審で学歴社会の是正策として就職協定違反の青田買いを防止することが審議されており、本年は四月一〇日の各省庁の人事担当課長会議で、昨年と同様就職協定に協力するとの申し合わせを行っていますが、本年も、昨年同様、学歴社会是正の為、青田買いのことを質問していただけないでしょうか。』などと、前年同様、国会で、各省庁人事担当課長会議のことを取り上げて、政府側の右申し合わせを遵守するとの答弁を引き出していただきたいと頼みました。丙川代議士は、私達の頼みに対し、『判りました。この資料をよく読んでおきますから。』などと言って、リクルートの頼みを聞いてくださるとおっしゃってくれました。昭和六〇年にも丙川代議士がリクルートの依頼に応じて国会質問をしてくださると約束してくださったことについては、その後甲野かあるいは取締役会で報告したと思います。なお丙川代議士に資料を渡してこのようなお願いをした場所は、はっきり憶えておらず、議員会館かあるいは丙川代議士がリクルートに来られた時であったと思います。」
「その後、新聞で臨教審の第一次答申案が掲載され、学歴社会の弊害の是正の為青田買い防止が盛り込まれるなどという記事が出たり、『通産省が青田買い』『居酒屋に東大生四六人』『三回目』『若手OBが説明役』などという記事が出たりしました。〔中略〕そこで、私、R10、それに事業部のR11も一緒であったと思いますが、丙川代議士が衆議院文教委員会で質問をされる直前頃の昭和六〇年六月中旬頃であったと思いますが、今申し上げた通産省が青田買いをしたとの新聞記事等の資料を持参して、議員会館に丙川代議士を尋ねました。〔中略〕今見せていただいた書類〔「青田買いの現状」と題する書面写し〕は、私達が国会質問直前頃、丙川代議士に追加してお渡しした国会質問の為の資料について、R10が当時の事を思い出しながら作ったものだそうですが、これも細かい所まではよく憶えていませんが、丙川代議士に追加してお渡しした資料はこのような資料であったと思います。私達は、丙川代議士に右のような追加資料をお渡しした上、私が丙川代議士に『ここにありますように、通産省は四月一〇日の各省庁の人事担当課長会議の申合せに反してまた青田買いを行いました。官庁の青田買いをやめさせないと、学生が勉強中であるのに、そわそわしたり、官庁の青田買いにつられて一部企業も動き出してしまうのです。文教委員会で通産省が青田買いしたことを指摘していただき、課長会議の申し合わせの遵守の徹底を求める質問をしていただけないでしょうか。臨教審でも第一次答申案がまとまり、学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止が盛り込まれることになっているんです。』などと、前年同様、通産省が各省庁人事担当課長会議の申し合わせに違反して青田買いをしていることを指摘して、右の申し合わせの徹底遵守を要求する質問をしていただきたいとお願い致しました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。やってあげましょう。』などと、私達の頼みを引き受けてくれると言ってくださり、『昨年に続いて通産省は青田買いをするなんてけしからんですね。おっしゃるように、学歴社会の弊害を是正する為には、青田買いをやめさせ、学生に落ち着いて勉強させる必要がありますね。』などとおっしゃっていました。リクルートがこのようなお願いをしましたので、丙川代議士は、昭和六〇年六月一九日に開かれた衆議院文教委員会において、通産省が青田買いをしたとの新聞記事をもとに質問をしてくださり、人事院等の官庁も就職協定に協力するとの答弁を引き出してくださいました。」
3 被告人及びリクルート関係者の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、六〇年四月ころのリクルートの取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼すると決めたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に対し国会質問を依頼したかどうかは知らなかったのであり、検面調書には、早期決着、早期収拾で混乱を避け、リクルートの将来のことも考えるべきであるという流れの中で不本意ながら署名したにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R11及びR7の公判段階における各供述
R10、R11及びR7も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右2の供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
六〇年六月の委員会における質問を丙川二郎に対し依頼した記憶も、R7の指示を受けて丙川二郎に渡す資料を作成した記憶もない。取調検事にも、自分がその当時どのようなものを作り、丙川二郎にお願いをしたかどうかは思い出せない旨話した。検面調書添付の資料は、取調検事から会議録を読ませられるとともに、その他の資料も見せられ、当時のものとして考えられる資料を作ってみるように言われて、持っていっているとすればという前提で一応作ったにすぎない。R7から資料の作成を指示されたという点も、取調検事から誘導されて、そのような記載になったにすぎず、R7が被告人の了承を得たという点についても同様である。
作成した資料を丙川二郎に渡した記憶もない。議員会館の丙川事務所は数回訪問したが、丙川二郎本人に会ったのは五九、六〇年を通じて一回だけという記憶である。六〇年六月一八日に訪問した際の用件は思い出せず、その際に就職に関する資料を持参したかもしれないが、丙川二郎に会った記憶はなく、検面調書の内容は、取調検事が他の者の調書を見てそのような話をしていたと思うが、自分で話した覚えはない。
(2) R11の供述(〈証拠略〉)
五九年四月から六一年一二月まで事業部で勤務していた当時、議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎と一度だけ会った記憶がある。その際、R7と同行した記憶であるが、他に一人いたかははっきりしない。右訪問の際には、新聞記事の切り抜きのような資料を持参した印象が残っている。しかし、その時期が六〇年六月であったかどうかははっきりせず、その際の用件も、R7に言われて付いていっただけなので、あまり理解しておらず、国会質問をお願いしたかどうかは分からない。捜査段階においても、時期や用件ははっきりしなかったが、取調検事からR7やR10の供述を教えられ、そうであればそうなのかなと考えて、検面調書の内容に同意したにすぎない。
(3) R7の供述(〈証拠略〉)
丙川二郎に対し六〇年六月の文教委員会における質問を依頼することが当時の取締役会で決まったということも、自分がR10に資料の作成を指示したということも、丙川二郎と面談して質問を依頼したということも全く覚えておらず、捜査段階においても、ほとんど覚えていないと供述していた。
六〇年六月一八日に自分が議員会館の丙川事務所を訪問した記憶はない。同月二六日の議員会館の面会申込書(甲物1七二)の氏名等の記載は自分の字なので、自分が議員会館の丙川事務所を訪問したことは間違いないと思うが、その記憶はなく、用件も会った相手も覚えていない。
検面調書(甲書1一二三)には、自分の記憶になく、供述していないことが記載されていたが、異議を言っても、書き直してくれるという可能性を感じなかったし、ともかく早く終わって拘置所から出たかったから、署名した。
取調検事からは、R10が供述していることや、議員会館の面会申込書等の証拠物件等を総合して、これで間違いないなどと言われた。
4 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 六〇年六月の文教委員会では、臨教審の第一次答申が同月二五日の国会閉会直後に出される予定であり、国会軽視と考えたため、先取りして、自分の考えている青田刈りの問題が同答申に入ってくるのかどうかということを念を押して聞いたものである。通産省の青田買いに関する新聞記事は、自分が資料室で収集したか、秘書が持ってきたと思うし、六〇年度人事課長会議申合せについては、人事院の担当者から事前の説明を受けたのかもしれない。
② 六〇年中に自分自身がリクルートや議員会館でリクルートの者と会って資料を受領したことはなく、同年六月二六日に議員会館でR7と会った記憶もない。
六 考察
1 被告人の捜査段階における供述の任意性について
被告人が丙川二郎に贈賄したという事件に関する取調べを受けていた当時の取調べや接見等の状況は、本節第二の七3(一)、(二)のとおりであり、自己の刑事責任に関わる重要な事柄について、検察官に対し意に反した供述をし、事実と異なる供述が記載された調書に署名を余儀なくされるような状態にはなかった。
被告人は、公判段階において、元年五月一九日付け検面調書(乙書1三〇)に署名した理由につき、本節第二の七の3(四)のとおり供述し、他方で、P4検事は、取調べの過程で保釈を取引材料として調書に署名を求めたことはない旨供述している(〈証拠略〉)。この点、前節第二の三5(三)、本節第二の七3(四)のとおり、同検面調書の作成状況に関する被告人の供述のうち、乙山に対する五九年三月の第一請託に関する部分並びに丙川二郎に対する五九年六月及び八月の文教委員会における質疑に関する部分はいずれも信用し難いのであるから、六〇年六月の文教委員会における質疑に関する部分についても、他の部分と異なって信用性があることを窺わせる何らかの事情がない限りは、同様に信用し難いというべきであるが、そのような事情は何ら窺われない。
したがって、捜査段階においては任意性なく供述した旨の被告人の公判段階における供述は信用することができず、捜査段階における供述の任意性に疑いが生じるものではない。
2 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内で丙川二郎に対し国会質問を依頼することを決めた経緯に関する被告人、R10、R11及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)は、本節第二で認定したとおり、リクルートが前年度に丙川二郎に対し国会質問を依頼したこと、本節第三の二の六〇年度の就職協定を巡る状況及びリクルートの動きに照らすと、事態の推移として自然である上、重要な点で符合し、補強し合っており、それぞれ信用性が高い。
(二) 丙川二郎に対する請託の状況に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五2(一)、(三))は、臨教審の第一次答申において青田買い防止が取り上げられること、人事課長会議において官庁が就職協定に協力する旨の申合せがなされたことの二点を柱に資料を作成して、丙川二郎に対し国会質問を依頼し、その後、通産省が青田買いをした旨の新聞報道がなされたため、この新聞報道を含む青田買いの実情に関する追加の資料を作成し、議員会館の丙川事務所を訪問して丙川二郎に対し国会質問を依頼したことなどにつき符合する上、その際の丙川二郎に対する説明や同人の反応に関する供述も一致しており、これらの点に関するR11の捜査段階における供述(本節第三の五2(二))とも大筋で符合している。
また、R10及びR7の供述する丙川二郎に対する依頼の内容も、官庁の青田買いが新聞報道されていなかった時は、人事課長会議申合せのほか、その当時社会的な関心を集めていた臨教審の第一次答申を根拠にして、官庁の青田買い防止に関する国会質問を依頼し、その後、通産省の青田買いが新聞報道されると、そのことも併せて丙川二郎に説明したなど、当時の就職協定を巡る状況に照らすと、自然なものである。
(三) 弁護人は、右(二)のうち、R10とR7の捜査段階における各供述が符合していることについて、検察官がR10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)の内容をR7に押し付けてR7の同月一七日付け検面調書(甲書1一二三)を作成したために符合しているにすぎないから、同調書記載のR7の供述は信用し得ない旨主張し(五年三月一九日付け弁護人の意見書)、R7も、本節第三の五3(二)(3)のとおり、公判段階においては、検察官から、R10が供述しているなどと言われて、記憶にないことが記載された調書に署名した旨供述している。
しかし、R7の供述経過をみると、R7は、R10の元年五月一五日付け検面調書(甲書1一五四)が作成される前の同年四月一二日の検察官の取調べにおいて、「R10に就職協定の現状といったものをレポートにまとめさせて、それを持って丙川次郎代議士にお会いし、『青田買いの件を取り上げていただけませんか』などとお願いして、昭和六〇年六月一九日に開かれた衆議院文教委員会で青田買いを追及する質問をしていただきました。」と供述し(甲書1六八〇)、同じく元年四月一六日の検察官の取調べにおいて、「昭和六〇年にも、昭和五九年の時と同様、丙川代議士にお願いして青田買い問題を質問してもらい、就職協定遵守に協力する旨の政府側の答弁を引き出してもらおうということは、具体的にいつの取締役会であったかよく憶えていませんが、確か取締役会において決議されたことであったと思います。当時、私は社長室長であり、社長である甲野の指示や取締役会の決定に基づかずに丙川代議士に委員会で青田買い問題について質問していただきたいとお願いすることは考えられず、確か取締役会において、昭和六〇年度も丙川代議士に質問をお願いしようと決議されたと記憶しています。そこで、私は、その年の青田買いの実情や問題点等を書いたレポートをR10に作成させ、それを丙川代議士にお渡しして質問をしていただこうと思い、R10に〔中略〕頼みました。そして、その後しばらくして、R10が私の所に青田買いの実情や問題点等を書いたレポートや就職協定に関する新聞記事の写しなどを持って来ましたので、それを持って確か議員会館であったと思いますが、R11と一緒に丙川代議士の所に行き、その資料を丙川代議士に渡しました。〔中略〕丙川代議士にお会いした具体的な日時はよく憶えていませんが、文教委員会の一週間位前であったと思いますので、昭和六〇年六月中旬頃であったと記憶しています。私は、R10に作成させた就職協定に関するレポート等を丙川代議士に渡し、『官庁の青田買いをやめさせないと、学生が勉学中であるのに、そわそわしたり、一部企業が動き出しますので、今回も青田買いのことを質問していただけないでしょうか。』などと、文教委員会で青田買い問題を質問して、政府側の答弁を引き出していただきたいと頼みました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。』などと言って〔中略〕リクルートの頼みを快く引き受けてくれました。」(甲書1六八四)と、R7の元年五月一七日の検察官の取調べに対する供述と対比して、請託の回数が一回少ないものの、その他の重要な点では同趣旨の供述をしているのであるから、R7の公判段階における右供述は信用することができず、弁護人の主張は理由がない。
(四) R6は、六〇年度の就職協定に対するリクルートの取組みにつき、捜査段階において、「確か、この臨教審で青田買いの問題を取り上げられることが判ったころの取締役会において、R7だったか甲野だったかははっきりしませんが、今年も青田買いの問題について丙川先生に質問をお願いしているというような話があったような気がします。」と供述し(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一三七)、公判段階においても、右のような話があったかどうかは定かではないとしながらも、六〇年度もリクルートが丙川二郎に国会質問を働きかけただろうと思う旨の供述をしており(〈証拠略〉)、これらの供述は、曖昧ではあるものの、リクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第三の五2)と一部符合している。
(五) 六〇年六月上旬の請託に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五2(一)、(三))は、丙川二郎と面談した場所が曖昧であるという難点があるが、同月一八日の面談については議員会館の面会申込書が存在して、検察官が面談の事実を把握し得た事実であるのに対し、同月上旬の面談については、他の証拠からは分からない事実である。また、R10は、同月上旬の面談時と同月一八日の議員会館訪問時の依頼内容やその際に作成した資料を区別して供述し、さらに、それらの資料を再現して作成しているなど、その内容は具体的である。
(六) 六〇年六月の文教委員会における丙川二郎の質疑(本節第三の三)は、その日の付議案件とは無関係のものであったし、締めくくりとして文部大臣に対し就職協定に関する所見を尋ねてはいるものの、通産省に対し青田買いと報道された件の実情を質し、人事院に対し他の官庁による同種行為の有無を質した上、人事課長会議申合せに沿って、官庁の青田買い防止のための具体的な対応を求めたものであり、リクルートが当時情報を収集し、対応を検討していた事柄について、リクルートの問題意識と合致する方向で質疑をし、意見を述べていたのであるから、丙川二郎が公判段階において供述する(本節第三の五4)ような臨教審の第一次答申等に関する独自の関心から質疑をしたのではなく、R10、R11及びR7が捜査段階において供述するとおり(本節第三の五2)、リクルートの依頼によって質疑をしたとみるのが自然である。
(七) R10は、公判段階において、丙川二郎本人に会ったのは五九、六〇年を通じて一回だけである旨供述するが(本節第三の五3(二)(1))、もし実際に一回しか丙川二郎本人に会っていなかったのであれば、その会った時期や目的等については明確な記憶が残っていてしかるべきであり、検察官の誘導により、記憶のない事柄について、本節第三の五2(一)のような具体的な供述をした旨の供述は到底信用することができない。
また、R11は、五九年四月から六一年一二月まで事業部に在籍していた当時、同部付課長や同部次長であった者であり、その者が業務の一環として社長室長のR7とともに議員会館を訪問して丙川二郎と面談しながら、その用件は分からなかったというのは、不自然かつ不合理であり、その旨をいうR11の公判段階における供述(本節第三の五3(二)(2))は信用することができない。
(八) 右(一)ないし(七)の各事情によれば、被告人及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)は十分に信用し得るのに対し、これに反する被告人、リクルート関係者及び丙川二郎の公判段階における各供述(本節第三の五3、4)は信用することができない。
3 弁護人の指摘する諸点について
(一) R10、R11及びR7は、捜査段階において、丙川二郎に対し通産省の青田買いを報じる新聞記事を含む資料を渡して国会の質疑を依頼した時期が六〇年六月中旬ころである旨供述しており(本節第三の五2)、検察官も、論告において、その時期が同月中旬ころであるとして、幅を持たせた主張をするが、検察官が証拠請求した議員会館の面会申込書の中で同月中旬に該当するものは本節第三の四1①の六〇年六月一八日午後五時一五分ころの面会の申出に係るもの(甲物1七一)のみであり、同日以外には同月中旬にリクルートの者が議員会館の丙川事務所を訪問した可能性を窺わせる証拠は存しない。
弁護人は、この点について、質疑前日の午後五時過ぎに訪問して請託をしたというのでは、質疑開始まで時間的余裕がなく、したがって、六〇年六月一八日の請託に関するR10、R11及びR7の捜査段階における右各供述は信用し得ない旨主張し、丙川二郎も、公判段階において、文教委員会に常時出席しない省庁の者に説明員として出席してもらう場合は、委員会の三日か四日前に答弁者の用意を依頼するのが通常であり、委員会の前日に申し入れるというのは、少し非常識であり、まずないと思う旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、R10及びR7の捜査段階における右各供述によれば、リクルートの者は、既に六〇年六月上旬、丙川二郎に対し資料を渡して人事課長会議申合せ等について説明した上、国会で右申合せを遵守する旨の答弁を求める質疑をするように依頼していたのであるから、質疑に立つ文教委員会の前日午後五時過ぎに丙川二郎との面会を申し込んだからといって、時間的余裕がないとはいえない。もっとも、六〇年六月の文教委員会には、人事院の他に通産省からも説明員が出席しており、これは、R10、R11及びR7の捜査段階における右各供述を前提とすると、委員会の前日午後五時過ぎのR7らの訪問の後に、通産省が青田買いをした旨の新聞記事に関連した質疑をするために、丙川二郎が通産省の出席を求めたことになるが、我が国の中央官庁では、国会開会中に「国会待機」と称して翌日の委員会における質疑に備えるため夜遅くまで待機する慣行があることは広く知られた事実であるから、委員会の前日午後五時台が委員会における質疑について請託をするのに遅すぎる時刻であるとはいうことはできない。
(二) 弁護人は、R7と被告人は、不正を疑われたリクルートの職員の処分を巡って意見が対立したこと(後記第三章第四の三3)から、六〇年三月ころ以降、ぎくしゃくして、疎遠になっており、同年六月当時、R7は社長室長として活動していない状況にあったから、R7が取締役会の決定と承認の下で丙川二郎に対する国会質問の依頼に全面的に関わるということは考えられない旨主張する。また、被告人は、公判段階において、その当時、R7との関係が悪くなってR7が被告人の部屋を訪ねてくることもなくなった旨供述し(〈証拠略〉)、R7も、右の対立以降、被告人が重要な事柄や秘密の事柄から自分を遠ざけているという意識を持っていた旨供述している。
しかし、R7は、六〇年六月当時、現に社長室長の立場にあったのであり、同年七月には事業部長に転じたものの、同年八月に取締役に就任していた(第一章第一の三7)のであるから、R7が被告人の信任を失っていたものでないことが明らかであるし、R7が、本節第三の四1②のとおり、同年六月二六日に議員会館で丙川二郎との面会を申し出たことは面会申込書の記載等から間違いのない事実であり、その後も、同月二九日に議員会館のE1議員の事務所を訪問したり、同年七月二日に議員会館のD6文部大臣の事務所を訪問するなど(甲物1七五、七六)、政治家との接触を続けていたのであるから、同年六月当時、R7が取締役会の決定や被告人の指示を受けて丙川二郎に対し国会における質疑を依頼することは、何ら不合理ではなく、弁護人の右主張は失当である。
4 丙川二郎に依頼した経緯と状況
本節第三の二の六〇年度の就職協定を巡る情勢、六〇年度の就職協定に関するリクルートの対応策の決定や実行状況、乙山に対する請託、六〇年度人事課長会議申合せ、青田買いに関する新聞報道等の背景事情、本節第三の三の丙川二郎の六〇年六月の文教委員会における質疑の内容、本節第三の四のリクルートと丙川二郎との接触状況に加え、被告人、R10、R11及びR7の捜査段階における各供述(本節第三の五1、2)並びに関係者の公判段階における各供述(本節第三の五3(二))のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一) 被告人らリクルートの幹部は、六〇年一月の中雇対協後の記者会見におけるL1日経連専務理事の発言から、就職協定の存続及び遵守に危機感を抱いていたところ、同年四月一〇日に人事課長会議で前年度の申合せの踏襲が了承されたことから、同月中、下旬の取締役会で、官庁の青田買いを防止するため、再び丙川二郎に対し官庁の青田買いについて国会で質疑してもらうように依頼することを決めた。
(二) そこで、R7は、R10に指示し、丙川二郎に対し官庁の青田買いにつき国会で質疑してもらうことを依頼する際の資料として、人事課長会議において前年同様の申合せがなされたことと、臨教審の第一次答申において学歴社会の是正策の一つとして青田買い防止が取り上げられる予定であることを柱に要点をまとめ、関連する新聞記事等を添付した書面を作成させた。
(三) R7は、R10とともに、六〇年六月上旬ころ、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、右資料を渡し、臨教審で学歴社会の是正策として青田買いの防止が審議され、六〇年度も人事課長会議で前年同様に民間の就職協定に協力する旨の申合せがなされたことなどを説明した上、衆議院文教委員会において、国の行政機関に対し右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(四) その後、六〇年六月一五日にサンケイ新聞で通産省の青田買いに関する報道がなされたため、R7の指示を受けたR10がその新聞記事を添付するなどして青田買いの実情に関する資料を追加して作成した。
(五) R10、R11及びR7は、六〇年六月一八日午後五時一五分ころ、議員会館の丙川事務所を訪ね、丙川二郎に対し、通産省の青田買いに関する報道や官庁の青田買いの弊害等について説明した上、衆議院文教委員会において、通産省の青田買い問題を取り上げるなどして、国の行政機関に右申合せの遵守を求めるなどの質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
5 結論
右4(三)の六〇年六月上旬の議員会館の丙川事務所又はリクルート本社におけるR7らから丙川二郎に対する依頼及び右4(五)の同月一八日の議員会館の丙川事務所におけるR7らから丙川二郎に対する依頼は、いずれも請託に当たる。
また、右認定の請託の経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第四 六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間の数回にわたる請託の存在について
一 検討の趣旨
検察官は、六〇年一〇月中旬から一一月中旬までの間、R7らリクルートの者が被告人の意を受けて、丙川二郎に対し三回にわたり請託した旨主張する。具体的には、一回目の請託として、R7及びR10が、同年一〇月中旬ころ、議員会館又はリクルートにおいて、臨教審の第一次答申に学歴社会の弊害是正策として青田買い防止が盛り込まれたことなどを国会で取り上げ、実効性のある就職協定が早期に取り決められるように質問していただきたい旨の要請をし、二回目の請託として、R7及びR10が、同月二六日ころ、同様の要請をし、三回目の請託として、R7及びR10が、同年一一月中旬ころ、議員会館において、衆議院文教委員会で青田買いのため内定取消しによる弊害が出ていることを指摘し、青田買い防止に関する政府の取組み方や就職協定の取決めの見通しなどを質問していただきたい旨要請をした旨主張する。
被告人は、捜査段階において、六〇年一〇月から一一月にかけて開催された取締役会で、丙川二郎に対し就職協定の存続に向けた国会質問を依頼することが決まり、R7とR10が担当することになった旨供述するが、公判段階においては、取締役会で右決定をしたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に国会質問を依頼したかどうかは知らない旨供述している。
そこで、判示第二の二③の請託を認定した根拠を説明する。
二 背景事情
1 臨教審の第一次答申に基づく政府の施策
文部省内部では、六〇年六月から七月にかけて、臨教審の第一次答申への対応を検討した結果、従来の就職協定は大学側と企業側とが別個の申合せを行っていて、特に企業側の遵守体制が整備されていない実情にあり、そのために就職協定を守らない企業により特定の有名大学の卒業予定者から採用する実質的な指定校制が行われているという指摘があり、有名大学へ向けた受験競争を一層激化させる原因にもなっているという認識から、学歴社会の弊害是正のため、就職協定の遵守、指定校制の撤廃等を検討する大学、企業両者の参加による「就職問題改善委員会(仮称)」を年度末までに設置することや、文部大臣が労働大臣及び経済四団体の代表等と懇談して就職協定の遵守体制の整備等を要請する対応案を策定した。
六〇年七月二日、政府は、臨教審の第一次答申を最大限に尊重し、速やかに所要の施策を実施に移すものとする閣議決定をし、同月五日、この答申に沿って教育改革を推進するため、内閣に全閣僚を構成員とする教育改革推進閣僚会議を設置し、文部省は、省内に教育改革推進本部を設置した。
さらに、同閣僚会議の下部機関として、各省庁の大臣官房長らを構成員とする教育改革推進閣僚会議幹事会が設置され、六〇年七月二九日の第一回幹事会において、早急に検討し、結論を得るべき事項として、国家公務員の採用及び人事管理に関し、答申の趣旨に即し、所要の措置について検討を進めること、また、企業の採用及び人事管理に関し、答申の趣旨を踏まえた見直しが行われるように、経済界に働きかけを行い、新規学校卒業者の採用に関しては、学歴社会の弊害の是正の観点から、大学、企業両者の連携により検討が行われるように推進することなどを合意した。
六〇年九月一二日、同幹事会の決定に基づいて、経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催され、この懇談会で、文部大臣が、新規大学卒業者の採用の在り方について大学、企業側双方が意見交換を行いながら検討を進めることなどを提案した。
(〈証拠略〉)
2 六〇年度の就職協定の遵守状況と六一年度の就職協定に関するL1の発言等
六〇年度の就職協定は、前年度よりも更に遵守されず、六〇年七月中に内定を出す企業が多数あった旨の報道が相次いだ。
このため、L1日経連専務理事は、六〇年九月一二日の経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会の席上、六〇年の青田買い現象はそれ以前に比してより激しくなっているといわれるところ、企業が採用内定取消しや自宅待機等の措置に出ないことさえ守られるならば、大学卒業予定者の採用内定をいつにしようと問題はないと思われ、五九年の日経連アンケート調査の結果からすると、就職協定を存続せよというのが大方の企業の声のようであるが、就職協定は破られるために存在するのが実情でもあるように思われ、中雇対協の座長としていろいろ考えてみて、六二年三月卒業予定の大学生に対する就職協定はこれを行わないことにしてはいかがかというのが現在の心境であり、もっとも、中雇対協の他のメンバーがその衝に当たり、また、政府において中雇対協とは別の機関を作るということに反対するものではない旨の発言をした。
(〈証拠略〉)
3 就職協定に関する新聞報道
六〇年一〇月二六日付け日本経済新聞において、「年内に新就職協定メドつける」、「C3労相意向」という見出しの下、C3労働大臣が記者会見で、就職問題で青田買いが盛んに行われていることについて、労働省、文部省、経営者団体と実務者会議を行っており、年内には何らかの新たな取り決めをしたいなどと語った旨報道された。
(〈証拠略〉)
三 丙川二郎の衆議院予算委員会及び文教委員会における質疑
1 六〇年一〇月三〇日の予算委員会における質疑
第一〇三回国会会期中の六〇年一〇月三〇日、予算の実施状況に関する件等を議題として衆議院予算委員会の会議(以下「六〇年一〇月の予算委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、I3内閣総理大臣に対し臨教審の第一次答申に関連する質疑をした後、次のとおり質疑をし、I3内閣総理大臣等から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「総理、学歴社会の問題、総論というふうに理解してらっしゃるので、具体的な問題をお伺いする糸口に学歴社会の是正の問題と非常に密接な関係がある青田刈りと言われるあるいは青田買いと言われる問題についてお伺いをしたいと思います。
この問題は、労働大臣もあるいは文部大臣もぜひ答弁をいただきたいテーマであります。特にことしは就職戦線が非常に早くから過熱をしたと伝えられておりまして、もう七月ごろから会社と学生の接触が始まり、早いところでは七月に内々定というものが具体的にあった、そして八月には既に山を越した、こんなふうに伝えられまして、就職担当者の間では、ことしは異常な現象が起きた。各企業とも優秀な人材をそれぞれ欲しいということはよくわかるわけでありますが、教育の現場から見ておりますと、もう既に大学の四年生が始まった途端から就職問題が具体化し、そして、いわゆる社会の躯け引きと申しましょうか、そうしたものが現実に学生にぶつかってきている。一方では、そういう会社からの声のかからなかった学生は、片一方で内々定をもらった学生とつき合う中で、大変むなしい思いをしながら同じキャンパスの中で過ごしている。私はこういう問題というのは、いわゆる公正というものを教え、社会の正義を教え、学問の場で学生たちが本当によりよき青春を友情を持って過ごしていくという観点から見るならば、許されることではないんじゃないか。激しい企業間の争いの中で、人材を獲得するという面も私はわからないわけではありませんが、教育改革という観点から見るならば、この就職の問題については私は、非常な熱意を持って改善に取り組んでいかなければならないのではないか。
また後から具体的に申し上げたいと思いますが、やはり教育改革の一つの糸口は大学だと思います。そして、大学に何としても入れたいという親の気持ち、そしてそれが高校、中学、小学校まで、あるいは塾に至るまで非常に激しい受験過密、そしてその中でついていける子といけない子が大きく分かれ、非行、暴行が起き、学校が荒れる。私はある面、この問題、大学生と就職という問題が教育改革の一番のポイントであろう。総理もいみじくも今答弁の中で、総論として学歴社会の問題が出てきた、こうおっしゃっておられましたが、その学歴社会の問題の一つの現象面は、この青田刈りあるいは青田買いと言われることであって、これを是正するために政治が何らかの手を打たなければならないんじゃないか、こう私は思っているわけですが、総理の御認識を伺いたいのです。」
(D6文部大臣等の答弁要旨)
I3内閣総理大臣がD6文部大臣及びC3労働大臣から答弁をさせたところ、D6文部大臣は、労働省とも協議しながら、民間企業の代表とも十分な協議をして、望ましい形で就職試験がなされ、企業の側でも守ってもらえるような就職協定を作り上げていくように努力したい旨の答弁をし、C3労働大臣は、労働省としても、文部省等の意見も十分踏まえて、経済団体等と話し合い、就職協定が守られる実効性は大変厳しいが、新たな協定を何とか模索したいということで努力している旨の答弁をした。
(丙川二郎の質疑)
「今の御答弁は、私ども前々から伺っていたと同じ話なんです。要するに、学業を妨げるから何とかしなければならない。あるいは労働省の方にしてみれば、企業のいわゆる自由だと言われる活動の中で、それを制約して、採用について何らかの制約をすることは実効性が薄い、難しい、こういうご指摘は今まで何度も聞いてきたわけであります。ですから、先ほど総理に認識を伺っているのです。総理は、担当の大臣から答弁させますというふうにお答えだったのですが、私はこれでは済まないのではないか。教育改革の根本というのはここにある。これは総理もさっき認めていらっしゃいましたけれども、非常に重要な根源的な問題である。〔中略〕教育改革を提案され、それを施策の柱に据えていらっしゃる総理が、この問題について担当大臣に任せられている。
この一番最初に出てまいりました臨教審の一次答申というのは、国民としては非常に関心を持っている。どこがどう動いていくんだろうか。特色ある大学、特色ある資格、そうした問題もこの答申の中に出ておりますが、この学歴社会の弊害を是正するという問題をよく分析していくと、教育改革がここをはっきり押さえるならばかなり前進するのではないか、私はそういう気持ちで今お伺いをしているわけでありまして、再度総理から、総理のいわゆる意思として、この問題についてさまざまな、財界あるいは労働界あるいは大学その他あらゆる教育機関がこれに関係をしてくるわけでありまして、公務員の採用の問題も後からまた人事院にお伺いをしたいと思いますが、もう一度重ねてこの問題についての総理の認識をお伺いしたいのでございます。」(I3内閣総理大臣の答弁要旨)
おっしゃるとおり非常に緊切な問題であり、今年は特にひどくなってきた。官民一体となってやらないとできないことであるので、関係大臣によく相談させて、今年の経験に鑑みて、できるだけ早期に手を打つように努力させたい。
(丙川二郎の質疑)
「労働大臣にお伺いしたいのですが、企業がなかなか守らないというのでしょうか、これは企業だけの問題じゃなくて、学生にも責任があると思うのです。やはりOBがその出身校へ参りまして、学生に声をかけ、そして学生を場合によっては飲食を、さらには缶詰にするというふうにして、一日に何本も映画を見せたり、昼はすき焼き、夜はおすし、本当に学生生活の中で今まで余り経験したことがないという話を聞いておりますが、莫大なそうした社会的なと申しましょうか接遇を受けて、そして学生に夏休み前からそういう行為が行われている。私は、これは自由な社会であるから何をしてもいい、こう許していいものだろうか。〔中略〕やはり大学は社会の模範たるべき人材を養成するのが本来の使命であって、やはり学生がそうした勧誘に乗っていくということも私は問題だと思う。
と同時に、そういう学生に声をかけ、それが会社の方針だと私はあえて申しませんが、しかしいろいろ聞いてみますと、かなり強力な会社の人事担当者への力が加わり、予算も許されて行われている。だんだんだんだん、これは協定があっても、逆に協定が悪用されて、地方からの学生には、協定があるんだから何とも言えませんという状態でそれをシャットアウトしながら、ねらった学生に対しては早々と手を打って、そしてそういう行為が行われている。今労働大臣から実効性が問題だという御答弁がありましたが、どんな点がその実効性の問題なのか、お伺いしたいのでございます。」
(C3労働大臣の答弁要旨)
中雇対協のL1座長からは、就職協定を今年限りでやめにしたいという厳しい実情認識の披瀝もあったが、各企業等に聞くと就職協定は是非必要だという認識を持っている会社が多い。労働行政としても、就職協定を守り得る新たな施策を経済四団体の関係者と協議するなど、真剣に今年の状況等を踏まえて取り組んでいる。
(丙川二郎の質疑)
「時間がないのですが、人事院から公務員の採用の問題について、私、文教委員会でも何度もこの問題を申し上げておりまして、通産省が、具体的に新聞報道されたこともございまして、改善する。公務員の採用も、いい人が欲しいことは私は重要な要素だろうと思いますが、率先してこうした時期の問題について是正をし、学生とその生活を守っていく、こういうお考えがないかどうか、御答弁をいただきたいと思います。」
(G6人事院総裁の答弁要旨)
人事課長会議において、青田刈りがないよう、官庁が率先して弊害を防止しようということを申し合わせているが、企業の方も真剣に検討しているようなので、我々もその趣旨に対応しながら措置を執っていきたい。公務員、公務所の場合は、ある意味では模範でなければならないと思うから、そういう問題が一歩でも二歩でも改善されるように努力をしたい。
(〈証拠略〉)
2 六〇年一一月一五日の文教委員会における質疑
第一〇三回国会会期中の六〇年一一月一五日、文教行政の基本施策に関する件等を議題として衆議院文教委員会の会議(以下「六〇年一一月の文教委員会」といい、六〇年一〇月の予算委員会と合わせて。「六〇年一〇月及び一一月の委員会」という。)が開かれ、これに委員として出席した丙川二郎は、質疑を申し出て、次のとおり質疑をし、説明員として出席していたC4労働省職安局業務指導課長及びD6文部大臣から答弁を得た。
(丙川二郎の質疑)
「予算委員会でも私取り上げました学歴社会の是正の問題に関連いたしまして、いわゆる青田刈りと言われる問題についてお伺いをしたいと思います。
予算委員会でも大臣から答弁をいただいておりますが、私は、今問題になっている教育改革の一番根本は、大学有名校偏重、それに向かっての幼稚園からと言われるような教育の過熱ぶり、こうしたものがいろいろなところで問題を起こしてきたという認識を持っているわけでございます。
労働省お見えになっておりますか。冒頭、労働省にお伺いしたいのですが、ことしは大変過熱をいたしまして、七月ごろから企業と学生の間に、内々定であるとか、あるいはそれの取り消しであるとかというふうなことがあったようでございます。時には、決定を見たということで本当に本人は安心をしておったところが、実はあの話はなかったことにしておいてくれ。企業の側からすれば、いい学生を確保したい余りでしょうが、予定の数よりも多目に約束をしていよいよになってそれを取り消すという非常に身勝手な、学生の側からすればショックなこういう事件、事件とあえて私は申し上げたいのですが、起きてきたわけでございますが、これは現行の労働法制、職業安定法制等いろいろあると思いますが、これに照らして問題はないのかどうか、最初にお尋ねをしたいと思います。」
(C4説明員の答弁要旨)
労働契約が成立している場合は、その取消しに対して労働基準法上措置できるので、文部省と協力しながら、学生、企業に対して、採用内定が口約束ではなく文書でされるように指導するなど努力していきたい。
(丙川二郎の質疑)
「いわゆる就職協定というものがまた問題になってきております。これは大臣にお伺いしたいのですが、労働大臣との間でいろいろ協議がなされている。総理からも、非常に重要な問題なのでできるだけ早期に手を打つように努力させたい、こういう答弁をいただいておりますが、この就職協定についてその後何らかの進展は見られているかどうか、お伺いしたいのでございます。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
協定は必要ではあるが、ほとんど守られない協定であれば、おかしなことであり、正直者がばかをみるという結果にもなりかねない。そこで、どういう中身であれば協定が守られるだろうかということの勉強をしている段階である。
(丙川二郎の質疑)
「十月二十六日付の日経新聞の報道でございますが、労働大臣が二十五日に高知市内の記者会見で、青田買い問題について、『労働省、文部省、経営者団体と実務者会議を行っており、年内には何らかの新たな取り決めをしたい』、こう語ったということですが、年内に何かめどをつけたいという意向を労働省は持っていらっしゃるのでしょうか。」
(C4説明員の答弁要旨)
大臣は、早い時点で何らかの格好でのそういった方法ができることが望ましいということを申し上げているのだと思うし、私どもも、やはりそういった時点で来年どうするかという点について一定の関係者の合意ができることが望ましいので、努力はしてみたい。
(丙川二郎の質疑)
「今早口でおっしゃったのでもう一遍確認をしたいのですが、労働省としては年内に何らかのめどをつけたい、こういう目標であるかどうか、そのことだけお伺いしたいのです。」
(C4説明員の答弁要旨)
少なくとも大臣はそういったお気持ちをお持ちになっているだろう。
(丙川二郎の質疑)
「〔略〕今の協定を年内にめどをつけたいという労働省の御意向は、文部省も同じ気持ちなのか。そして、つくる以上は、守られる、協定内容がどうこうということではなしに、どんな協定ができようと学生はそれを守るべきだという指導をきちんと文部省は大学に指導していくべきではないか。
二つほどお伺いしたいのです。年内についての時期の問題とその性格について文部省がどういう認識を持っておられるのか。社会の事件ですから仕方がない、成り行きだ、こういう考え方というのは、文部大臣の立場からおっしゃるのは私はどうかなというふうに思うのですが、いかがでしょうか。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
企業の採用試験の方法や時期というのは、企業と就職希望者との相対の関係なので、一つのルールを作って強制することが法的に可能という結論は出てこない。そういう意味で紳士協定みたいな形になっており、それを企業に強制するということは法的にいえば不可能な感じがする。何らかの協定があった方が望ましいが、協定がある以上、企業の側でも守れる協定にしなければならない。そこに内容面での難しさが実はある。そこで、どういうことであれば守れるかを勉強しているところである。
協定を作る以上は、年が明けてからではやや遅い。したがって、年末あたりに意見の交換をして、遅くとも一月早々くらいには翌年度の卒業者について何らかのルール作りができれば望ましいと思っており、そういう方向で勉強中である。
(丙川二郎の質疑)
「企業と学生の間、これはお互いに自由な契約だという御趣旨かもしれませんが、教育を今改革しようという時期です。しかも、学生は、特に大学教育に関しては、国は巨額の金を投じて足りないところを補い、学生の経費を負担して、国家の将来を担わせる人材を育成している。言うならば国家の財産だと私は思うのです、大卒の人材――大卒だけではございませんけれども。したがって、それを企業が企業の利益のために、ある意味では恣意的に教育にまで踏み込んだ時期にそうした交渉を行わせるというのはいかがなものか。むしろ、文部省は、教育行政をつかさどる上ではっきりこの時期までは困るのだ、交渉してはいけない、学生にも接触をしてはいけないと言うくらいの構えが必要だし、そのために前から私が主張しておりますのは、キャリアガイダンスと言うのでしょうか、就職に関する指導というものをかなり早い時期に大学のカリキュラムの中に組み込んで、そしてこれは必修で、学生たちが社会の現象、契約というのはこういう状況でなければそれを実らせられないのだ。あるいはまた、いろいろと私も資料を持っておりますが、中には、学生には、自分の力を十分知らないで有名な会社とか、いわゆる騒がれているところとか、力と現実との間に乖離があって、就職に随分と遠回りがあるというふうに就職担当者はいろいろと指摘をしているわけです。そうした点からも、私は、大学教育の中で適切なキャリアガイダンスをして、学生をむだなことをしないできちっといいところへ就職させていく、こういう活動が必要なのではないか、こういう考え方を持っているわけです。
したがって、文部大臣にお伺いしたいのは、文部省としてこの問題についてどういうおつもりでいらっしゃるのか。双方の間に立って考えることはいろいろできると思います。しかし、教育改革の一番の中心的ポストである文部大臣のお立場として、今の社会現象の中でこれをどう考えるか、キャリアガイダンスの問題も加えてお伺いをしたいわけです。」
(D6文部大臣の答弁要旨)
就職についての学生に対する指導、助言あるいは勉強会は、各大学が自主的に判断してなされるべきことだと思う。
(〈証拠略〉)
四 六〇年後半当時の就職協定を巡るリクルートや被告人の動向
1 就職協定に関する情報収集と実効性のある就職協定作りに向けた取組み
リクルートでは、臨教審の第一次答申の後、事業部が中心になって、大学、文部省、労働省、日経連等の就職協定を巡る動向に関する情報収集に努めていたが、六〇年九月一二日に予定されていた経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会については、事前に、労働大臣挨拶の案や就職協定問題に関する労働省の基本的見解に対する想定問答等も含まれた資料を入手し、これを基にして、「経済四団体との懇談会における労働省のスタンス」と題する書面を作成し、かつ、実効性のある就職協定を作り、その具体的な運用を強力に推進する機関として、経済四団体、国立大学協会等の大学団体、労働省及び文部省で構成する「新規学卒者就職問題協議会(仮称)」を設置する構想を立て、「大学生就職協定問題協議機関設置に関して」と題する書面を作成し、同月一〇日、被告人が文部事務次官室を訪問してD3文部事務次官と面談し、「経済四団体との懇談会における労働省のスタンス」と題する書面及び「大学生就職協定問題協議機関設置に関して」と題する書面をD3文部事務次官に渡した。
その後も、事業部では、六〇年九月二五日に文部省が開催した就職問題懇談会や同年一〇月二三日の文部省及び労働省と産業界の事務レベルとの会合等についても、参加者から聴取するなどして、情報を収集した。
また、被告人自身も、六〇年一一月二六日ころ、D3文部事務次官と再度面談して、「大学生の就職秩序確立のための新たな協議機関設置の促進について」と題する書面を渡して、新しい協議機関を作るために経済界の者と非公式の会合を持つことを提言し、さらに、同月下旬ころ、R7を介して、同次官に「大学生の就職における新しい協議機関について」と題する書面を渡した上、同年一二月九日、リクルートの費用負担で、労働大臣、労働事務次官、文部事務次官、W臨教審会長代理(日本興業銀行特別顧問)及びL3経済同友会副代表と東京都内のホテルで会合を持ち、新しい協議機関について話し合うなど、実効性のある就職協定と就職協定推進のための新しい協議機関の設置に向けた活動を精力的に行った。
(〈証拠略〉)
2 外部の者に渡した書面の記載
右1の各書面のうち、被告人がD3文部事務次官に渡した「大学生の就職秩序確立のための新たな協議機関設置の促進について」と題する書面(甲物1三一)は、リクルート事業部で作成したものであり(〈証拠略〉)、「現在の就職協定は、会社訪問開始日が10月1日、採用選考開始日が11月1日と申合せがされています。しかし、実態は青田買いが行なわれて、年々内定の時期が早期化しており、就職秩序の改善が望まれております。また、臨時教育審議会の答申の中でも『学歴社会の弊害是正』が唱われており、企業・官公庁の採用の面において、青田買いを改める努力が必要であると提言されております。総理におかれましても、臨時国会にて、緊切な問題であるとの積極的なご発言がなされております。就職秩序確立のためには、新たな協議機関の設置が必要であり、それが年内に実現されることが必要と思われます」という記載に続いて、臨教審の第一次答申、教育改革推進閣僚会議の設置、文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会の経緯に触れ、青田買いの弊害に触れた上、「この問題につきましては、現在開かれております臨時国会でも取り上げられており、そのなかで総理は『非常に緊切な問題として関係大臣によく相談させまして、できるだけ早期に手を打つように努力させたい』とご答弁されております。青田買い是正に取り組まれている総理の真しな姿に感銘をおぼえるものであります。」として、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑に対するI3首相の答弁を引用し、「しかしながら、文部、労働、経済四団体の事務レベルの会合は、世の中の期待通りには進展されていないようであります。すでに大学側では来年度の就職指導がはじまりつつあり、学生に対する就職ガイダンスも12月からスケジューリングされております。このような現状をふまえつつ、青田買いを是正していくためには、遵守される就職協定が必要であります。実効性ある就職協定をつくり、その具体的な運用を強力に推進するための新しい協議機関が必要であり、その協議機関が年内に設置されることが必要と思われます。」という意見の記載がある。
次に、被告人がR7を介してD3文部事務次官に渡した「大学生の就職における新しい協議機関について」と題する書面(甲物1二八)は、R7、R10らが関与して作成されたものであるが(〈証拠略〉)、同書面には、青田買いの現状に続いて、「青田買いの防止に向けて」の項目の下、臨教審の第一次答申や教育推進閣僚会議幹事会の動向に触れた上、「9月12日には、労働大臣、文部大臣出席のもとに、『経済四団体との教育改革問題についての懇談会』が開催され、学歴社会の弊害を是正するために政府・産業界が、協力して取り組むことで意見の一致をみています。その中で、青田買い防止については、新たに大学と企業による協議の場を設け、実効性のある遵守される就職協定づくりを検討すべきであるとの考えが示されています。また、10月30日には、衆議院予算委員会で公明党丙川次郎代議士により『青田買い防止』についての質問がありそれに対してI3首相は、『青田買い問題は、緊切な問題として……官民一体となって……できるだけ早期に手を打つよう努力させたい。』と答弁しております。また、D6文部大臣は、『労働省とも協議しながら、民間企業の代表とも協議して、……企業の側で守ってもらえるようなそういう就職協定を作り上げていく……』と答弁しております。」という記載があり、さらに、新しい協定作りの現状、現行の就職協定の申合せ、その問題点について触れた上、「就職協定における新しい協議機関の必要性」の項目の下、「このような現行就職協定の問題点を考えれば、従来のやり方とは違う、新たな協議機関を設けることが必要であると思われます。すなわち、遵守される就職協定をつくり、その具体的な運用を強力に推進していくためには、文部省、労働省、大学団体、経済団体並びに主要業種を代表する企業で構成される、新しい協議機関の設置が必要であります。」という記載があり、「新しい協議機関の年内設置の必要」の項目の下、「企業側は、本年度の採用をほぼ終え、来年度の採用計画立案の準備に入ってきております。また、すでに大学側だは〔原文のまま〕、来年度の就職指導策定の時期に入ってきており、この12月には、就職ガイダンスをスタートさせるところも多くあります。従いまして、新たな就職協定に関する協議機関は、年内に設置されることが必要と思われます。」などという記載があり、産業界の団体、大学関係団体及び人事院任用局で構成され、文部省高等教育局及び労働省職業安定局が事務局となる大学生就職問題協議会で就職協定の決議等をすることを提案するものとなっている。
3 六〇年一一月ころにリクルート内部で作成された文書の記載
(一) 六〇年一一月六日付けで「取締役会御中」という記載がある事業部作成名義の「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)は、リクルート事業部が作成してR7が取締役会に提出したものであるところ(〈証拠略〉)、同書面には、「新たな協議機関が年内に設置され、就職協定がそこで決議されるよう以下の働きかけをする」という記載に続いて、「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」、「② 労働大臣、文部大臣へ再度陳情をする。……(甲野、R8、R15)」、「③ 労働省幹部(C5職安局長・C6審議官)への働きかけをする。……(R7)」、「⑨ W(臨教審会長代理)から、経済界トップへ働きかけてもらう。」などの一〇項目の記載があり、「現状」の表題の下で、「大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態である」という記載があり、「経緯」の表題の下で、「・10/18 臨教審教育改革推進閣僚会議にて ○○総務長官の『青田買い』の質問に対して、C3労働大臣は、『新しく協議の場を作るために事務レベルで話し合いをすすめている』と答弁する」、「・10/23 文部省、労働省、経済四団体事務レベルの会合文部省より、『学歴社会の弊害是正のための大学と企業の協議の場』を設置したらどうかとの提案がなされたが、経済四団体(日経連は、『協定は別のところ(中雇対協)でやるべき』との立場をとる〔原文のまま〕」、「・10/24 文部省主催就職問題懇談会 私学側より『協定に関して大学、企業、行政とによる三者機関』を設置するが提案される〔原文のまま〕」、「・10/25C3労働大臣 高知で記者会見 『青田買い防止に向けて、労働省、文部省、経済四団体と実務会議を行ない、年内には何らかの取り決めをしたい』とコメント」、「・10/30 公明党丙川次郎氏予算委員会で青田買い防止について質問 ・I3首相…官民一体となって早期に手を打ちたい。・C3労相…企業、大学ともに検討をしはじめている。協定を推進するためには罰則が必要 ・D6文相…協議の場で検討する必要がある。内閣人事院総裁…公務員が模範となるよう、青田買い防止に努める。」などという記載があり、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の様子を伝える公明新聞の記事等が添付されている。
(二) 六〇年一一月二〇日付けで「取締役会御中」という記載がある事業部R7作成名義の「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)も、リクルート事業部が作成してR7が取締役会に提出したものであるところ(〈証拠略〉)、同書面には、「その後の進展状況」の項目の下、「1.11/15 衆議院文教委員会で公明党丙川次郎代議士が協定問題について質問」、「・D6文部大臣〔中略〕どういう協定なら守れるかを勉強している。年明けではおそい。年末には各方面と意見交換し、遅くとも1月には決めたい。」「・労働省C4課長……協定は、例年12月か1月に決まる。早い時点で決まることが望ましいと思う来年7〜8月では困る。そういう方向で努力している。」「2.11/18(13:30〜)に予定されていた、労働省・文部省と経済四団体との第二回事務レベルの会合が日経連L2雇用課長の反発にあい、急拠中止となった。」などという記載があり、「今後の対策」の項目の下、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」「・質問の趣旨 (1)就職協定づくりを推進させる。(2)守れる就職協定を口実として、労働省が職安機構の中に大学生の職業紹介業務を取り組むことを阻止する。」などという記載がある。
また、同書面には、別添資料として六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の質疑とこれに対する答弁を記載した詳細な傍聴報告と六〇年一〇月の予算委員会の会議録(丙川二郎の質疑とこれに対する答弁部分)が添付されている。
五 右各委員会の前後におけるリクルートの丙川二郎に対する接触状況
1 議員会館の丙川事務所を訪問した状況
①六〇年一一月一四日午後五時五分ころR7及びR10が、②同月二〇日R7、R10ほか一名がそれぞれ議員会館において丙川二郎との面会を申し出たことは、客観的な証拠からも、明らかな事実である。
なお、検察官の主張するところでは(本節第四の一)、右①が三回目の請託をした機会に当たることになる。
(〈証拠略〉)
2 接待状況
六〇年一〇月三一日、R5、R2らが料亭「艮」で丙川二郎及びB1を接待し、引き続き、R5らが銀座の「巳」で丙川二郎及びB1を接待した。
(〈証拠略〉)
六 被告人及び関係者の各供述
1 被告人の元年五月二一日付け検面調書(乙書1三一)
被告人は、元年五月二一日の検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
「昭和六〇年六月二六日、臨教審の第一次答申が出ました。その中で、学歴社会の弊害の是正策の一つとして、就職協定問題にも触れており、すなわち、有名校重視につながる就職協定違反の採用を改め、指定校制を撤廃するなど、就職の機会均等を確保するといったものでした。これは、青田買いの防止が、国家レベルの問題として取り上げられたものであり、青田買いを防止し、就職協定の存続・遵守を望んでいるリクルートにとっても、好ましいものでした。この答申により、政府としても青田買いの問題に本格的に取り組むことになり、六〇年七月には、内閣に教育改革推進閣僚会議が設置され、同会議幹事会において学歴社会の問題の、当面の検討課題として、学歴社会の弊害是正の観点から、公務員や企業における新規学卒者の採用の問題が取り上げられました。そして、近いうちに、企業の採用に関して、文部・労働の両大臣と経済四団体のトップとの懇談が予定されることになったのです。一方、リクルートでは、プロジェクトチームを中心に就職協定の存続・遵守のための効果的な方策を検討しており、その一つとして、就職協定の仕組みについて、これまでのような、大学側である就職問題懇談会と、産業界側である中央雇用対策協議会の双方でそれぞれ決議するといった方式ではなくて、大学側、産業界側、それに関係行政機関が一体となって決議する方式の構想を持っており、そのための新しい協議機関の設置が必要であるとの考えを持っていました。」「そこで、私らは、近々予定されている文部・労働両大臣、経済四団体の懇談の場で、できれば就職協定の存続・遵守のための具体策を打ち出して欲しいと望んでおり、そのための一つの試案的な意味あいで、新しい協議機関の設置の考えを事前に出席者に説明して理解を求めようと考えたのでした。そこで、私らは、そのころ、C3労働大臣やD3文部事務次官に会って、就職協定についての説明をし、理解を求めました。その際、リクルートで作成した資料を相手方にお渡ししていると思います。昭和六〇年九月一二日に、文部・労働両大臣、経済四団体の懇談会が開かれましたが、席上、日経連のL1専務理事が『六二年三月卒業予定者に対する就職協定を行わないというのが、私の心境です。』などと発言して、結局、就職協定存続・遵守のための方策についての具体的な意見は出なかったように思います。このようにL1専務理事が消極的姿勢を見せたことから、就職協定の問題は具体的進展がなく、リクルートとしても更に対策を講じることになったのです。昭和六〇年一〇月から一一月にかけての取締役会だったと思いますが、就職協定の存続・遵守のための方策について何度か話し合われた記憶です。その内容は、私らリクルートとしても、新しい協議機関設置の構想も含めて、就職協定が存続・遵守されるよう各方面に働きかけていくというものでした。文部省・労働省に働きかけて就職協定の存続の必要性を説明したり、産業界や大学側の主要な人物に働きかけるといったことが話し合われた記憶です。さらに、丙川次郎代議士にお願いして、国会の委員会で質問してもらい、就職協定存続のための政府側の答弁を求めるといったことも話し合われました。実際に丙川代議士のところへ国会での質問をお願いに行く役割は、R7やR10らが担当したと思います。」「お示しの資料〔六〇年一〇月及び一一月の委員会の会議録〕からも、丙川代議士が昭和六〇年一〇月三〇日及び同年一一月一五日にそれぞれの委員会で就職協定関連の質問をしていることが明らかであり、これらの質問は私らリクルートの依頼に応じて、丙川代議士が質問してくれたものと思います。」
2 リクルート関係者の捜査段階における各供述
R10、R7及びR6は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(一) R10の供述
(1) R10の元年五月一六日付け検面調書(甲書1一五五)
「〔六〇年〕九月中旬には、文部大臣、労働大臣、経済四団体のトップとの懇談会が開催されたのです。ところが、日経連のL1専務理事がその席で就職協定不要論を唱えたのです。そして、そのことが新聞にも報道されたのです。〔中略〕この状況については、私が、当時すでに事業部長になり、また八月には取締役にも昇進していたR7さんにも報告し、これは、九月中旬ころの取締役会にも出されて検討されたということであります。それは、当時、R7さんからそのように聞かされていた記憶があります。〔中略〕その後、甲野社長から、従来の就職協定を決める中雇対協や就職問題懇談会などを結集した新しい協議機関の設置のために、事業部の私やR11さんが中心となって、その新協議機関の設置案の作成に入ることとなったのでした。」
「そのような状況の中で、六〇年も一〇月に入りますと、R7さんから、『六一年度就職協定の取り組み状況と六〇年度就職線戦の総括、それに六一年度協定の課題や問題点をまとめてくれ。これもまた丙川先生にお願いする国会質問用の資料だから。』などと、再び丙川先生に対する国会質問案の資料作りを指示されたのでした。〔中略〕R7さんの話では、国会質問案の資料作りの件は、甲野社長からの指示であるということでした。また、このことは、一〇月上旬ころの取締役会でも決定されているという話でした。当時の状況が再び就職協定問題を丙川先生に国会質問で取り上げてもらい、協定締結のメドや官民双方が青田買い防止のために徹底することを質問して、政府にその対応について答弁させ、就職協定が存続し遵守されるための環境整備が是非必要な状況にあり、これは誠に時宜を得た適切な指示だと私は納得したのでした。このため、私は、その質問案の資料作りに入り、六〇年度の就職戦線の総括としては、第一に、六〇年度は七月から一部大企業の青田買いが始まり、五九年度に比べても一か月以上も早期化した結果が出ていること、第二に、青田買いがますます早期化した結果、内定取消しの事態も発生し、これが社会問題化していることの二点を中心に、これを報道した新聞記事のコピーを集めて、その添付資料としました。次に、臨教審と就職協定との関連、つまり、六月二六日に臨教審が第一次答申を出しましたが、その中で、学歴社会の弊害の是正策として青田買いを防止する必要があることが盛り込まれ、これを受けて教育改革推進閣僚会議や文部、労働両大臣と経済四団体とのトップ会談が開かれ、青田買い防止策が検討されたこと、しかし、その中で、就職協定の当事者の一方である中雇対協の座長で日経連の専務理事という要職にあるL1さんが青田買い問題に対する切々とした心境を発表し、就職協定が危機状態にさらされていることなどについて、その関連する新聞記事のコピーや書面を添付資料としました。そして、六一年度就職協定の早期締結が必要であることを指摘し、これに関連する新聞の記事を添付資料としたのでした。今、リクルート社から押収されている就職協定文書ファイルなどの資料を見ながら、これについて、その質問案の再現資料を作りましたので提出します。〔中略〕私が質問案の資料として再現した『六〇年度就職戦線の総括と六一年度就職協定について』と題する書面については、六〇年の一〇月中旬ころには、丙川先生にお渡しし、その資料の説明と委員会での質問をしていただくその質問の要点をR7さんと私とで申し上げ、再び国会質問の依頼をしたのでした。この時、R7さんは、『六月に出た臨教審の第一次答申中に学歴社会の弊害の是正策として指定校制廃止とともに青田買いの防止が挙げられていますので、この点を指摘していただいて、官民双方の青田買いの現状とその防止策遵守方の徹底について、また政府側の答弁を求め、早期により実効性のある就職協定の取り決めについて質問をお願いしたいと思います。』などと言って、丙川先生に〔中略〕お願いしたのです。この時も、丙川先生には、この資料をお渡しし、よく読んでおいてもらって、質問日直前にもう一度お会いして、リクルート側がお願いする国会質問のポイントをご説明することでお別れしたと記憶しています。もちろん、丙川先生は、この時も快く、こちらがお願いするとおりに質問することをお約束してくれたのでした。このように質問をお願いした場所については、議員会館の丙川先生の部屋を訪ねた時と思いますが、あるいは先生がリクルート本社に何かの用件で来られた際にお願いしているかもわかりません。この資料もR11さんには見てもらい、R7さんに上げて、そのアドバイスも受けて、最終的にはR7さんが甲野社長に報告して、この資料でよいという承認を得ているものであることは間違いありません。当時、R7さんも甲野社長がその資料でよいと言っていたと話しておりましたから、そのように記憶しているのですが、ただ甲野社長から資料の文言について何か指摘を受けたというような記憶もあまりないので、R7さんは、甲野社長には、あるいは資料を見せることなく、事前の口頭報告だけで済ませているかもしれません。」
「この予算委員会の丙川先生が質問に立たれるという日程については、その一週間位前には判明し、丙川先生の秘書からだったと思いますが、その日程を聞き、その質問日の直前に、やはりR7さんと一緒に私は、丙川先生に、その時は確かC3労働大臣が高知市内のホテルで記者会見し、年内に新就職協定のメドをつけると述べたことが新聞報道をされていましたので、これなどは質問直前のホットニュースでありますので、その新聞記事なども持参してお渡しした記憶があるのです。この予算委員会において、丙川先生に質問していただく事項について、R7さんの口から丙川先生に最終的にお願いしたポイントは、要するに次のとおりでした。『青田買いの防止が臨教審の第一次答申に学歴社会の弊害の是正策として上げられている重要な問題であることをまず取り上げてもらい、その上で、就職戦線は青田買いがますます早期化して内定取消しなどの弊害も出てきて、社会問題化していること。そのように混乱状態なために、六一年度就職協定の内容についての検討もあまり順調に行っておらず、しかし、大学ではこの一二月から就職ガイダンスも始まる時期に差しかかっており、六一年度の新就職協定について、できるだけ早く、かつ、守れる内容の協定を作る必要があること。官公庁の青田買いが民間の就職協定違反を誘発する要因になっていることから、その青田買い自粛の徹底方を求めること。そして、これらの問題について国の機関に積極的かつ適切な対応を求めることなどについて、委員会で是非質問してもらいたい。』というのがそのリクルートが丙川先生に委員会で質問していただく内容の要点でありました。〔中略〕丙川先生は、すぐわかっていただき、『わかりました。この予算委員会で、この資料に基づいて、今説明してくれた事柄について質問しましょう。』などと答えて、快く引き受けてくれたのでした。この時は、R7さんから、更に就職戦線の細かい現状分析もあり、『七月から内々定が出て、八月には峠を越す異常事態となっており、ますます有名校偏重の指定校制が横行し、学校間格差が大きくなり、首都圏以外の地方大学の切り捨てにもつながっている。』というような説明もなされたように思います。〔中略〕この質問依頼をした場所については、やはり議員会館の先生の部屋でやったように思うのですが、あるいは、この時も丙川先生がリクルート本社に来られた機会にお願いしているかもわかりません。」
「この公明新聞の記事〔六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の様子を伝える記事〕は、当時、すぐ切り抜いてR7さん経由で甲野社長にきちんと報告した記憶です。また、この予算委員会の丙川先生の質問の全てについては、その後、国会図書館で会議録写しを入手し、R7さんに報告して甲野社長に上げているのです。」
「その年の一一月一五日にも文教委員会が開かれることになり、〔中略〕実は、私は、R7さんから甲野社長の指示があったからと言われて、丙川先生に再びその委員会で就職協定のことを質問してもらうためにその質問依頼に行ったことがありました。この時は、確か一〇月三〇日の予算委員会の前に丙川先生にお渡しした質問資料と同じものを念のために持って行ったと思います。この時は、一〇月二六日付けのC3労相の記者会見の記事も一緒に持参したと思うのです。この時は、文教委員会の前日のあたりにR7さんと一緒にこのように確か議員会館に行って丙川先生にお会いして、再び委員会での質問をお願いしたのでした。〔中略〕R7さんは、丙川先生に対し、『先日の予算委員会では質問をしていただき、ありがとうございました。つきましては、また文教委員会で就職協定のことを質問していただきたいのですが、よろしくお願い致します。やはり何と言っても、青田買いの防止は臨教審の答申の中で学歴社会の弊害の是正策として取り上げられた重要課題でありますから、この点について政府側の取り組み方を質問してもらうことや、青田買いによる内定取消しなどの弊害が出ていることも問題点として指摘していただき、また、一〇月二六日付けの新聞では、労働大臣が就職協定について年内には何らかの新たな取り決めをしたいとも言っておられるわけですので、守られるべき実効性のある就職協定を早期に取り決めるよう国の機関に積極的な対応を求める質問を是非今度もしていただきたいと思うのです。協定の早期締結の見通し時期や特に年内にそのメドが立てられるような方向で解決を図るよう是非政府側に質問していただいて、その答弁を引き出していただきたいのです。そうしないと、大学生にも混乱が生じますし、是非よろしくお願いします。』などと言って、そのように文教委員会で質問していただけるようお願いしたのでした。〔中略〕丙川先生は、『わかりました。なかなか熱心ですね。』というようなことを言われて、この質問依頼を快く引き受けてくれたのです。」
なお、調書に添付されている「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面には、「1.60年度就職戦線の総括」の表題の下で、六〇年度は七月より一部大企業の青田買いが始まり、前年よりも一か月以上早期化したことや、青田買いの結果、内定取消しの事態も発生して社会問題化していることが記載され、「2.臨教審と就職協定(青田買い是正問題)」の表題の下で、臨教審第一次答申で青田買い是正が提言されたことや、それを受けた政府の動向が記載され、「3.61年度就職協定の締結」の表題の下で、L1の発言が波紋を呼んでいることが記載され、「4.課題及び問題点」の表題の下で、「①61年度就職協定は、いつ、どのような期日で申し合わされるか。②官公庁を含む協定遵守の実効ある具体策は何か。③青田買いと内定取消しの問題。」と記載されている。
(2) R10のその他の供述
R10は、元年五月一八日の検察官の取調べにおいても、右(1)と同趣旨の供述をした上、六〇年一〇月の予算委員会の前に質疑を依頼した場所について、「この質問依頼に際しては、リクルートファーム牧場の製品を議員会館の他の先生に配ったころに、次いで、丙川先生の部屋にR7さんとお伺いして質問日の少し前ころに最終的なお願いをしたように記憶しているのです。ただ、丙川先生は、リクルート社にも気軽に来られることがありますので、こちらからお伺いするつもりでいたところ、先生が来られたために、その際に応接室のソファーに座って、その要点を念押しして質問依頼をしていることも考えられます。」と供述し(甲書1一五六)、元年五月二二日の検察官の取調べにおいては、丙川二郎との面会状況一覧表を示され、六〇年一〇月中に議員会館で面会した形跡がないことについて、「私は、一〇月中にも中旬と下旬にR7さんと一緒に丙川先生にお会いして国会質問を依頼しているのですが、面会の結果がないとすれば、丙川先生がリクルート本社に来られた際に応接室でお会いして質問依頼をしたものと思われます。ただ、議員会館には、最初に他の先生の部屋を訪ねた後に丙川先生の部屋を訪ねたということもあり、その場合は、丙川先生に対する面会申込書は書いていませんので、あるいはそのようなことで一〇月中には私達の面会申込書が出てこないということも考えられます。私は、R7さんと一緒にソファーに座って、丙川先生に対して、この六一年度就職協定についてと六〇年度の就職戦線の総括についての質問をお渡しして質問依頼した記憶が残っているのです。」と供述し、また、六〇年一一月の文教委員会の前に依頼したのは、同月一四日の「R7外一名」の面会の際(本章第四の五1①の機会)であると思う旨供述している(甲書1六一五)。
(二) R7の元年五月二〇日付け検面調書(甲書1一二五)
「日経連のL2さんは、中央雇用対策協議会の座長であるL1さんが就職協定に熱意を失っていると発言したこともあって、R10と会った時、『この二ヶ月内に雇対協としては、就職協定の申し合わせをしないというL1座長のコメントを出さざるを得ないだろう。』とか、『守るつもりもない就職協定を申し合わせるつもりもないし、本来就職は自由でいいじゃないか。早期に内定してなぜ悪いのか。』などと、昭和六一年度の協定に関し、非常に消極的な発言をされたのでした。そして、右のようなL2さんの発言は、当時私はR10から聞いて知っています。」「私は、〔中略〕労働省の就職協定に関する考え方といったようなものの感触を得ようと思い、労働省の業務指導課長をしていたC4さんに会ったのですが、C4さんは、『現段階で協定に参加するつもりはない。機が熟するまで待つ。』などと言って、就職協定存続遵守の協力方については、あまり熱心ではありませんでした。また、昭和六〇年八月二三日に、文部省は、今度は日経連のL2さんに対して臨教審第一次答申を具体化する為大学と産業界による協議機関を設けたいなどと要請したようでしたが、これも〔中略〕協力的でなかったようでした。昭和六〇年六月二六日の臨教審第一次答申後の文部省、労働省、産業界等の就職協定に関する動向については以上の通りであり、このような動きについては、当時リクルートの広告事業本部長であったR6や私が取締役会で報告しておりました。だから、就職協定に関する右のような動向は甲野以下取締役は全員知っていたのです。」
「甲野は、臨教審の第一次答申で、青田買いの是正が国家レベルの問題として取り上げられたことから、その答申をベースにして、文部省を中心とする就職協定の組み直しをしたらどうだろうかという観点から、新しい就職協定についての協議機関の設置の構想を抱き、確か昭和六〇年九月頃であったと思いますが、私に右構想案作りを命じ、私は、R10や事業部のR11に対し、右構想案作りについて手伝わせました。そして、甲野は、出来上がった構想案を持って、文部省の文部事務次官等に会い、就職協定の存続遵守の必要性とか甲野構想にかかる新しい協議機関設置についての説明をして、理解を求めておりました。」
「昭和六〇年九月一二日頃、文部大臣、労働大臣、経済四団体の長等が出席して、教育改革問題についての懇談会が開かれ、その席上で、L1さんがまた、『昭和六二年三月卒業予定者に対する就職協定を行わないというのが私の心境です。』などと発言されましたが、労働大臣が、『文部、労働並びに経済団体でもっと知恵を出し合って守れる協定を考えてみたらどうか』などととりなしてくれた為、翌年度も就職協定を存続させる方向で検討を続けることになりました。そこで、昭和六〇年一〇月初旬頃に開かれた取締役会で、確か甲野であったと思いますが、『臨教審の第一次答申が出て、青田買いの防止が指摘されているので、政府に答申にそった対応をしてもらうよう国会で質問してもらったらどうだろうか。丙川先生にまた国会質問をお願いして、総理大臣、文部大臣、労働大臣に協定に向けて努力するという答弁を引き出してもらおうじゃないか。』などと発言し、他の取締役の賛成を得られたのでした。そこで、私は、右のような取締役会の決定を受けて、R10に『取締役会で丙川先生に国会質問をお願いすることになったから、丙川先生にお渡しする国会質問用の資料を作ってくれないか。』などと指示をしました。〔中略〕今見せていただいた書面〔「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面写し〕は、私がR10に指示して作らせた国会質問の為の資料について、R10が当時のことを思い出しながら作ったものだそうですが、細かい所まではよく憶えていませんが、R10が作った資料は、今見せていただいたような資料であったと思います。この資料を甲野に見せたかどうかはよく憶えていませんが、少なくとも、甲野には『丙川先生にお渡しする資料を事業部の方で作っておきました。』などという報告はしていると思います。」
「昭和六〇年一〇月中旬頃、確か丙川代議士がリクルートにお見えになった時のことであったと思いますが、私とR10は、丙川代議士に会って先程の資料をお渡しした上、私が丙川代議士に『いつもお手数をかけています。臨教審の第一次答申が六月に出て、その中で学歴社会の弊害の是正策として指定校廃止と青田買いの防止が上げられましたが、国会でこの臨教審のことを取り上げていただき、実効性のある就職協定の早期の取り決めのことについて、質問をお願い出来ないでしょうか。』などと〔中略〕お願い致しました。そうしますと、丙川代議士は、『判りました。この資料をよく読んでおきましょう。』などと言って、私共のお願いを聞いてくださると約束してくださいました。」
「昭和六〇年一〇月二五日頃だったと思いますが、労働大臣が高知市内で記者会見し、就職協定について、『年内には何らかの新たな取り決めをしたい。』などと発言されました。〔中略〕これ〔六〇年一〇月二六日付け新聞記事〕はリクルートから押収された新聞記事ですが、労働大臣の記者会見の内容が掲載されています。〔中略〕丙川代議士が衆議院予算委員会で質問される前、議員会館であったかリクルートであったか憶えていませんが、私はR10と一緒に、右新聞記事の写しを丙川代議士にお渡しして、先程のように、臨教審の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止が上げられていることを取り上げて、就職協定の早期取り決めなどについて、政府が適切な対応策を講ずるように質問していただきたいとお願いしたと思います。」
「丙川代議士が予算委員会で〔中略〕質問をしてくださったことは、R10らが予算委員会の記事が掲載されている公明新聞を入手して、私に報告してくれたと思います。そして、丙川代議士が予算委員会で右のような質問をしてくださったことについては、昭和六〇年一一月初旬頃開かれた取締役会で私が報告しておりますので、甲野や他の取締役も〔中略〕十分知っているのです。」
「丙川代議士が昭和六〇年一一月一五日の衆議院文教委員会に立たれるということを知りましたので、丙川代議士が質問に立たれる直前頃、確かR10と一緒に議員会館に行って丙川代議士に文教委員会での質問を頼みました。〔中略〕私の記憶では、もう一度丙川代議士に委員会質問をお願いしようということは取締役会で決定されたと思います。私は、丙川代議士に対し、『予算委員会ではありがとうございました。予算委員会でも出ましたように、青田買いの防止は臨教審の答申の中で学歴社会の弊害の是正策として取り上げられた重要課題ですので、文教委員会ではこの点につき政府側の取り組み方を質問していただき、青田買いによる内定取り消しなどの弊害が出ていることを指摘していただければありがたいのですが。』などと頼みました。また、私は、労働大臣が高知市で、就職協定について年内には何らかの取り決めをしたいとの発言をしたことにも触れ、丙川代議士に『協定締結のめどがいつ頃になるのか心配しているのですが、労働大臣のおっしゃるように年内にはめどが立つのでしょうか。先生に協定締結の見通し時期などについて質問をお願いしたいのですが。』などと頼みました。〔中略〕そうしますと、丙川代議士は、『判りました。』などと言って、私共の頼みを引き受けてくださいました。」
(三) R6の元年五月一六日付け検面調書(甲書1一三七)
「昭和六〇年の六月下旬ころには、臨教審の第一次答申が出て、その中に、青田買いについて、企業が就職協定違反の採用をしており、これを是正する必要があるというようなことが指摘されました。この答申が出てからは、それを受けて、閣議に教育改革推進閣僚会議が設置され、その幹事会などが開かれて、確か一〇月一日までに青田買い防止のため大学と企業の協議機関を設けることなどが決まったように聞いております。また、その確か第二回目の幹事会だったと思いますが、D6文部大臣とC3労働大臣がこの問題などについて経済四団体とのトップ会談の場を設けるような話が決まったと記憶しています。そして、九月に入ってから、現実にこのトップ会談が開かれました。昭和六〇年の一月の時点では、就職協定の問題については、打つ手なしという程膠着状態にあったのに、それが臨教審の答申の中に青田買い、つまり就職協定の問題がもり込まれた後は、みるみるうちに政府の担当省庁が就職協定に向けて大きく動き始めたのでした。確かに、取締役会議などでは、中間的な報告はされておりましたが、これらの一連の動きを見て、私は、『神風が吹いた。』という印象を持ちました。就職協定は、前にお話ししましたように、産業側と大学側とがそれぞれ別のテーブルで決めるという仕組みになってこれまで運用されてきました。そのために、協定を破る企業があっても、適正な制裁措置がとられなかったもので、これが青田買いの横行を許す原因の一つになっていると思われたのでした。このような制度上の欠陥があることは、リクルートの内部では誰もが認識していたことだと思っておりました。そのために、企業側つまり産業側と大学側が同じテーブルに着いて就職協定の内容を永続的に決める組織が必要だということも、私達は前々から考えていたのでした。〔中略〕この機会に新しい組織作りを提案していこうという気運が私達の間に出てきたのでした。このことは、昭和六〇年の夏の終りから秋ころにかけての取締役会で議論され、甲野の指示の下に事業部が主体になって、その組織案作りに動いたのでした。九月に、文部大臣、労働大臣、経済四団体のトップ会談が行われ、日経連のL1専務が、その席上、就職協定を廃止してはどうかとの発言をしたことや、これに対してC3労働大臣が守れる協定内容にするように努力しようなどと仲介の労をとっていただいたことを耳にしております。〔中略〕臨教審の答申以来、急速に進んできたこの協定問題がL1専務理事の発言によって頓挫しかかったのです。そのために、臨教審の答申を踏まえて、昭和六一年度の協定成立に向けて、労働省や文部省に積極的に取り組んでもらう必要が出てきたのでした。」
「その年の一〇月ころの取締役会の席上だったと思いますが、このような就職協定の状況について、もう一度丙川代議士に、今度は総理大臣、D6文部大臣、C3労働大臣に対する質問をしてもらってはどうかという話が出たと思うのです。このような話をしたのは、甲野若しくは当時事業部長になっていたR7ではなかったかと思うのです。その話の内容は、『臨教審の第一次答申が出、指定校制の廃止とか青田買いの防止が指摘されているので、就職協定について政府に答申に沿った対応をしてもらうよう国会で質問してもらってはどうか。公明党の丙川先生にお願いし、総理大臣や文部大臣、労働大臣に、協定に向けて努力するという答弁をしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。』というような内容だったと思うのです。このような議題が出て、私達もそれに異論をとなえる者もなかったと思います。この丙川先生に対する質問依頼やどのような質問をしていただくかについての具体的な検討は、甲野、R7、R10ラインで行われたと思います。」
「一一月初めころの取締役会議では、就職協定を決めるための新たな組織というか協議機関を設置するため、どのような運動を展開するかということが議題になったと思います。〔中略〕この書面〔甲書1五二四〕は、協定プロジェクトの方で作成して取締役会に提出されて議論されたものだと思います。国会質問として、F5代議士の名前が挙がっております。このF5先生は、確か港区を選挙区にしていて、役員の誰かが面識があるということでした。この先生に、国会で、新たな協議機関の必要性や、六一年度の就職協定が、その新たな協議機関で決めてもらえるよう労働大臣や文部大臣に質問して、その旨の回答を引き出していただくということだったのです。ところが、どういうわけか、後でお話しするように、また公明党の丙川先生にこれをお願いすることになったのでした。」
「その年の一一月になってからだったと思いますが、取締役会で、協定問題がL1専務理事の例の労働大臣、文部大臣、経済四団体のトップ会談の発言以降、進展が遅れて、昭和六一年度の協定についての見とおしもたっていなかったことから、新たな協議機関設置と昭和六一年度の協定成立に向けて、文部省や労働省に積極的に動いてもらうために、もう一度丙川代議士に国会質問をお願いしようという話が出たように思うのです。この話は、たぶんR7からだったと思いますが、『協定問題についてはL1発言以来進展がおもわしくないので、もう一度丙川先生にお願いしてみてはどうか。』という意味の発言があったように思うのです。このことについて、出席者全員が異議を述べることなく、それを了承したのでした。この点についての丙川先生への質問依頼と質問事項についての検討などは、甲野の指示の下に、R7、R10のラインで進められたと思うのです。」
3 被告人及びリクルート関係者の公判段階における各供述
(一) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、取締役会で丙川二郎に対し国会質問を依頼するように決めたことはなく、リクルートの者が丙川二郎に対し国会質問を依頼したかどうかは知らなかったのであり、検面調書は、P2検事かP4検事から、リクルートの人間が丙川二郎の所に行っているという客観的事実があり、「取締役会御中」と記載された書面もあるのだから、被告人が知らないと言っても通らないし、R7ら関係者の供述から被告人が知っているはずだと言われ、「そういう記憶はない。」と言うと、「じゃ思いますでどうだ。」というやり取りがあって作成されたにすぎない旨供述している(〈証拠略〉)。
(二) R10、R7及びR6の公判段階における各供述
R10、R7及びR6も、公判段階においては、次のとおり、捜査段階における右2の各供述と異なる趣旨の供述をしている。
(1) R10の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問について、リクルートの者が丙川二郎に対し質問を依頼したかどうかは分からず、自分が依頼のために資料を作成し、それを丙川二郎に届けた記憶もない。検面調書添付の資料は、議事録や新聞のスクラップを見て、その当時に事業部で作成した資料として考えられるものを一応作成しただけであり、取調検事には、それを丙川二郎の所へ持っていったかどうかは分からないと話した。R7から指示されて丙川二郎に渡す資料を作成し、それをR7に渡したことは、多分なかったと思うが、あったかどうかは思い出せないというのが正直なところである。
検面調書の記載のうち、資料を作成したという点は、取調検事の誘導によるものであり、R7がその資料について被告人に報告したという点も、記憶にはなかったが、検事から「そのようなことがあったようだ。」と言われて、そのような記載になったにすぎず、丙川二郎と会って国会質問を依頼した点についても、そのような供述はしていないのに、作成されたものである。
「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)は、取締役会に上げようとして起案したものであるが、R7が上げたかどうかは分からない。
六〇年一一月の文教委員会の直前に丙川二郎に会ったことも、思い出せない。同月一四日の面会申込書(甲物1七三)の議員名や面会者の「R7」等の記載は自分の字であるから、自分がR7と一緒に議員会館に行ったことは間違いないと思うが、丙川二郎に会った記憶はなく、秘書に会ったと思うが、具体的なことは思い出せない。丙川二郎との話の内容について検面調書記載のような供述はしなかったが、R7がそういうふうな話をしていると言われたことがあったのかもしれない。
「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)は、自分がR7やR11と協議して作成したものであるが、その中の「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載の意味は思い出せないものの、機会があれば丙川二郎に就職協定問題を取り上げてもらうということだと思う。「再度質問」ということが前に質問してもらったことを意味するかどうかは分からない。
六〇年一一月二〇日の面会申込書(甲物1七四)の「R7」等の記載は自分の字である。自分とR7以外の者として考えられるのはR11である。この際の用件や面会相手も思い出せないが、丙川二郎とは会っていないと思う。この面会日は甲書1五四四の作成日と同一であるが、両者の関係は分からない。
(2) R7の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問について、自分が依頼したことは全く覚えていない。同月初旬のリクルートの取締役会で質問を依頼すると決まったことも、よく覚えておらず、捜査段階においても、同様の供述をした。R10に質問依頼用の資料作成を指示し、作成した資料について被告人に報告したことも、同月中旬ころ丙川二郎に国会質問を依頼したことも、同月下旬ころに労働大臣の発言を報じる新聞記事の写しを丙川二郎に渡したことも、全く覚えていない。
六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑の内容は、自分が取締役会で報告したかもしれないが、思い出せない。甲書1五二四は事業部で作成し、自分も目を通しており、取締役会に提出したことは間違いない思う。その中に「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」という記載があるのは、F5議員に国会質問を依頼するという意味だと思うが、具体的なことは覚えていない。
六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の国会質問に関し、丙川二郎と会って依頼をしたことは覚えていない。同月一四日の面会申込書の記載からは、自分が議員会館に丙川二郎を訪問したのであろうとは思うが、その用件は全く覚えていない。捜査段階においても、そのことは覚えておらず、検面調書の内容は取調検事が書いたにすぎない。
甲書1五四四も自分が目を通して取締役会に出したものであり、そこにある、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載をした趣旨は覚えていないが、六〇年一〇月及び一一月の委員会における質問についてリクルートが丙川二郎に質問を依頼したことを前提にして記載したと考えられると思う。したがって、記憶にはないが、自分が丙川二郎に国会質問をお願いしたことは十分考えられる。
六〇年一一月二〇日に議員会館に行ったことも記憶にない。
(3) R6の供述(〈証拠略〉)
六〇年一〇月の予算委員会における質問については、リクルートが五九年に丙川二郎に対し国会質問を働きかけたと思われることからすると、多分同じような方法がとられたのではないかと思うが、その詳細、経緯は知らない。丙川二郎に対する国会質問の依頼が取締役会で決まった記憶はない。その依頼に関する検面調書の記載は、検事から資料を見せてもらったり、こういうことがあったとか、こういう内容ではないかと言われて、記憶は喚起できなかったが、そうした可能性があるかもしれないということになって調書が作成されたにすぎない。
六〇年一一月の文教委員会における質問についても、従前リクルートが働きかけた延長線上であろうとは思うが、そのことが取締役会で決まったかどうかは記憶になく、捜査段階においては、取調検事から記憶を喚起して取締役会の内容を話すようにと言われて、検面調書のような供述になったものと思うが、自分がそのことを記憶していて話したという覚えはない。
4 丙川二郎の公判段階における供述
丙川二郎は、公判段階において、次の趣旨の供述をし(〈証拠略〉)、また、自己の事件の公判において、被告人としての立場でも、同趣旨の供述をしている(甲書1一〇五八)。
① 六〇年一〇月の予算委員会における質問は、臨教審の第一次答申を踏まえて、総理大臣等に学歴社会の是正策を正面から聞いたものである。
② 六〇年一一月の文教委員会における質問は、臨教審の第一次答申で青田買いや指定校制の問題が取り上げられたので、学生の側から見た被害として、内定取消しの問題を取り上げたものである。
③ 六〇年にR7と会った記憶はなく、同年に料亭「艮」に行ったこともないと思う。
七 考察
1 関係者の各供述の信用性の検討
(一) まず、リクルート内で丙川二郎に対し六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑を依頼することに決めた経緯に関する被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は、本節第二、第三で認定したとおり、リクルートが五九年五月から七月にかけて及び六〇年六月にそれぞれ丙川二郎に対し衆議院文教委員会における質疑を依頼したこと、本節第四の二、四の当時の就職協定を巡る状況やリクルートの動き、すなわち、臨教審の第一次答申において青田買いを防止すべきことが指摘され、その答申を実現するために設置された教育改革推進閣僚会議の幹事会で、新規学卒者の採用について大学、企業両者の連携による検討が行われるように推進することなどが合意され、同年九月一二日には経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催されたなどという状況の中で、被告人らリクルートの幹部や就職情報誌事業担当者も、就職協定の存続及び遵守を図るため、経済団体、大学団体、関連の行政機関等による新しい就職協定作りの協議機関を設置すべきであると考え、文部事務次官に働きかけるなどして、実効性のある就職協定と就職協定推進のための新しい協議機関の設置に向けた活動を精力的に行っていたところ、他方で、右懇談会の席上でL1日経連専務理事が次年度の就職協定に消極的な発言をするなど、実効性のある就職協定作りに向けた動きが順調に進んでいなかったことに照らすと、事態の推移として自然である。
また、右各供述は、リクルート事業部が作成して取締役会に提出した六〇年一一月六日付け「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)及び同月二〇日付け「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)の記載、すなわち、前者には、「新たな協議機関が年内に設置され、就職協定がそこで決議されるよう以下の働きかけをする」という記載に続いて、「① 国会質問 衆議院文教委員会(自―F5氏)、社会労働委員会」、「② 労働大臣、文部大臣へ再度陳情をする。……(甲野、R8、R15)」、「③ 労働省幹部(C5職安局長・C6審議官)への働きかけをする。……(R7)」などという政官界に対する働きかけの予定が記載され、大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態であるという現状や、その経緯の一つとして、六〇年一〇月の予算委員会で丙川二郎の質疑やI3首相らの答弁要旨が記載され、その質疑の様子を伝える公明新聞の記事が添付されていること、さらに、後者にも、「その後の進展状況」の項目の下、六〇年一一月の文教委員会における丙川二郎の質疑と文部大臣等の答弁の要旨が記載され、同委員会の詳細な傍聴報告と六〇年一〇月の予算委員会の会議録(丙川二郎の質疑とこれに対する答弁部分)が添付されている上、「今後の対策」の項目の下、「1.11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」「・質問の趣旨(1)就職協定づくりを推進させる。(2)守れる就職協定を口実として、労働省が職安機構の中に大学生の職業紹介業務を取り組むことを阻止する。」などと記載されていることによっても裏付けられている。
(二) 加えて、右経緯に関する被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は、重要な点で符合し、互いに補強し合っている上、丙川二郎に対する質疑の依頼がリクルートの取締役会で決められたことについては、R5も、元年五月二二日の検察官の取調べにおいて、「その国会質問〔六〇年一〇月の予算委員会における質疑〕の前だったと思いますが、次も丙川代議士にお願いして国会質問をしていただくというようなことを耳にしました。それは、取締役会か何かの会議かで聞いたことだと思います。〔中略〕新たな協議機関を作るために丙川次郎代議士にお願いして、昭和六〇年では三度目の国会質問をしてもらったというような話もあったと思います。」(甲書1一四三)と、これを裏付ける供述をしている。
(三) 丙川二郎に対する依頼の状況に関するR10及びR7の捜査段階における各供述(本節第四の六2(一)、(二))も、面談の場所について記憶が明確でないという難点はあるが、六〇年一〇月中旬に資料を持参して六〇年一〇月の予算委員会における質問を依頼した上、委員会の直前の時期に、C3労働大臣の記者会見に関する新聞記事を持参して再度質問を依頼し、さらに六〇年一一月の文教委員会の直前に質問を依頼したことなどについて符合し、その際の丙川二郎に対する説明や同人の反応に関する供述も一致しているばかりでなく、両名が供述する依頼の内容は、当時の就職協定を巡る背景事情に照らすと、自然なものであり、特に、R10は、検察官の取調べの過程で、丙川二郎に渡した資料の再現として、「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面を作成するなど、その供述内容は具体的である。
(四) 本節第四の五2のとおり、六〇年一〇月の予算委員会の翌日である同月三一日、リクルート専務取締役のR5が社長室長で取締役でもあったR2とともに料亭で丙川二郎を接待したところ、この接待の趣旨につき、R2は、捜査段階において、「この接待は、その前日の一〇月三〇日が衆議院の予算委員会があったことで、その委員会において丙川先生に国会質問をお願いし、そのお礼ということで、もうけられたものでした。〔中略〕一〇月三〇日の予算委員会でも、甲野社長の指示で、〔中略〕R7さんあたりが中心になり、丙川先生に質問依頼をしていたという状況がありました。ですから、本来なら、このR7さんが質問をしていただいたことで丙川先生を接待すべきところでしたが、当時、R7さんが何かの都合で来られなかったからだったと思います。今の私の記憶でも、その時はピンチヒッターで接待したという印象が残っているのです。〔中略〕その席では、R5さんが『昨日の予算委員会での質問では、リクルートがいろいろお願いして、やっていただき、ありがとうございました。』というようなお礼のあいさつをしたのでした。丙川先生は、質問はちゃんとしたような話をされていたと思います。R5さんは、『一つ、リクルートのために、今後とも質問などでお世話になると思いますが、よろしくお願いします。』というような意味のことを話していたように思います。」(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一六〇)と供述し、公判段階においても、多分R7のピンチヒッターとして接待に出た記憶であり、接待の際に丙川二郎とR5との間で国会質問の話が出たという具体的な記憶はないが、前日に丙川二郎が国会質問をし、その直後にR5が出席して丙川二郎を接待したことからすると、丙川二郎が国会質問をしたことに関係する接待であったことが十分考えられるし、国会質問について、ありがとうございましたとか、ご苦労様でございましたとかいうような挨拶はあってもおかしくない旨供述している(〈証拠略〉)。また、R5も、捜査段階において、「この接待は、丙川代議士が、その直前ころに、国会で就職協定の関係の質問をして下さったお礼の意味があったと思っております。私は、リクルートの専務取締役として、丙川代議士に『国会での質問有り難うございました。今後とも宜しく御指導下さい。』という意味のことは言ったと思うのです。」と供述しており(元年五月二二日付け検面調書・甲書1一四三)、これらの供述は、右接待が予算委員会で丙川二郎が質疑をした翌日になされたという時期的関係や就職協定を巡る当時のリクルートの動向に照らすと、合理的であって、信用することができる。
したがって、右接待は、前日の予算委員会における質疑に対して謝礼し、以後のリクルートと丙川二郎との関係を引き続き良好に保つことを目的に行われたものと認められ、そのことは、丙川に対する質疑の依頼に関する被告人やリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)の信用性を支える重要な事情ということができる。
(五) 本節第四の三のとおり、六〇年一〇月の予算委員会における丙川二郎の質疑は、就職戦線が過熱した実情にあること、教育改革のポイントが大学生と就職の問題にあることなどを指摘した上、文部大臣、労働大臣及び総理大臣に対し、青田買い是正に向けて取り組む姿勢を尋ね、さらに、人事院総裁に対し、官庁の青田買い是正に関する考えを尋ねて、就職協定の存続及び人事課長会議申合せの遵守に向けて努力することを求めるものであり、六〇年一一月の文教委員会における質疑も、労働省に対し、内定取消しの労働法制上の問題を尋ねた上、文部大臣、労働省に対し、C3労働大臣の記者会見における発言を指摘するなどし、従来の文部省に加えて労働省も関与した実効性のある就職協定を早期に取り決めることを求めるものであって、リクルートが当時対応を検討していた青田買い防止や実効性のある就職協定作りという課題につき、政府の対応を促すものであり、また、R10が検察官の取調べにおいて作成した「60年度就職戦線の総括と61年度就職協定について」と題する書面の「4.課題及び問題点」に記載されている事項と符合する。
右の点に加え、丙川二郎が五九年や六〇年六月にリクルートから請託を受けて文教委員会における質疑をしたことをも併せ考えると、六〇年一〇月及び一一月の委員会における右各質疑も、R10やR7が捜査段階において供述するとおり、リクルートから依頼を受けて行われたものとみるのが自然である。
(六) R10は、公判段階においては、甲書1五四四の「11/27もしくは、11/29で予定されている衆議院文教委員会で再度質問してもらう。」という記載の意味は思い出せず、検察官の取調べに対しても、資料を作成したり、丙川二郎に対し国会質問を依頼したりした記憶はなかった旨供述し(本節第四の六3(二)(1))、R7も、公判段階において、甲書1五四四中の右記載は、六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑についてリクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼したことを前提として記載したと考えられると供述しながらも(〈証拠略〉)、他方で、丙川二郎に対し国会質問を依頼することを取締役会で話し合い、R10とともに丙川二郎に依頼したことは覚えていない旨供述するが(本節第四の六3(二)(2))、R10は、当時、事業部事業課長として、就職協定を巡る動向の情報収集等の実務面で中心的な役割を果たしていて、甲書1五二四、五四四という取締役会宛の書面の作成に当たっていたほか、六〇年一一月一四日や二〇日には議員会館の丙川事務所を訪問しており、R7も、従来から就職協定問題の検討や対応に関与し、この当時は事業部担当の取締役として甲書1五二四や五四四を取締役会に提出するなどしていたのであるから、その両名が、捜査段階において、右の事柄について記憶がなく、取調検事の誘導のとおり供述し、あるいは供述してもいないのに検事が作文した調書に署名したにすぎないというのは不自然である。
(七) 右(一)ないし(六)の各事情によれば、被告人及びリクルート関係者の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)は十分に信用し得るのに対し、これに反する被告人、リクルート関係者及び丙川二郎の公判段階における各供述(本節第四の六3、4)は信用することができない。
2 弁護人の指摘する諸点について
(一) 弁護人は、六〇年九月一二日の文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会では、文部大臣から「新規大学卒業者の採用の在り方については、大学と企業が連携して検討を行うことが大切であり、このため、大学側、企業側双方による『協議の場』を設け、学歴社会の弊害の是正の視点から、相互に検討を進めることも、一つの方法ではないかと考えている」旨の発言がなされ、就職協定の存続が国の方針として明確にされたのであり、この事実は、L1の消極発言にもかかわらず、就職協定の存続は盤石であり、それが廃止されることなどあり得ないことを示すから、被告人がL1の発言によって就職協定の成否につき危機感を抱くことはあり得ない旨主張する。
しかし、就職協定の一方の当事者が民間企業である以上、文部大臣が右発言をしたからといって、L1の消極的な発言にかかわらず就職協定の存続は盤石であると考えるというのは不合理なことであり、実際にも、本節第四の四3の六〇年一一月六日付け「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)には、リクルート事業部の情報収集の結果として、「大学生の就職に関する新たな協議機関の設置については、経済界、労働省が非協力であり、文部省も苦慮している状態である」と記載されているのであるから、被告人がL1の発言によって危機感を抱くということは、あり得ないことではなく、むしろ自然なことである。
(二) 弁護人は、六〇年一一月一四日午後五時五分に議員会館で面会を申し出て丙川二郎を訪ねた際に請託をしたのでは、翌日の文教委員会における質疑までに時間的余裕がなく、間に合わない旨主張するところ、確かに、同委員会には労働省の説明員も出席していたが、丙川二郎が六〇年一〇月の予算委員会における質疑の延長として文教委員会でも労働省に対する質疑を予定し、既に説明員の出席を求めていた段階で、R7らが資料を持参して質疑の依頼をしたということも考えられるし、そうではなく、質疑の前日の夕方に説明員の出席を求めるということであっても、本節第三の六3(一)の我が国の中央官庁の慣行を考慮すれば、委員会の前日午後五時台が委員会の質疑に関する請託をするのに遅すぎる時刻であるということはできない。
(三) 弁護人は、また、リクルートでは、被告人が臨教審会長代理であったWから就職協定に関する新しい協議機関の構想を描くように協力を求められたことを契機として、六〇年九月ころ以降は新協議機関の設置に向けて活発な活動を展開しており、同年一〇、一一月ころは、新協議機関の設置問題がリクルートの最大の関心事であったから、もしこの時期にリクルートが丙川二郎に対し国会質問を依頼するとすれば、この新協議機関の設置への政府の対応を具体的に質問してもらうことが主題であったはずであるのに、R7やR10らの検面調書記載の請託の内容は、抽象的なものであって、新協議機関の設置に関し具体的な質問の依頼を行ったという供述は記載されておらず、R10が再現したという資料にもその関係の記述は全くなく、丙川二郎の質疑でも新協議機関に関する具体的な質問は一切行われていないのであり、このことは、請託の存在自体に強い疑念を抱かせる事情である旨主張する。
しかし、リクルートにおいて、丙川二郎の六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑を新たな協議機関の設置との関連で意義のあるものと位置付けていたことは、本節第四の四3の「就職協定対策」と題する書面(甲書1五二四)及び「就職協定について」と題する書面(甲書1五四四)の記載からして明らかであるし、R10及びR7の捜査段階における各供述(本節第四の六2(一)、(二))には、「実効性のある就職協定の取り決め」に向けた質問をお願いした旨の供述があり、丙川二郎の質疑も、文部省や労働省が関与して実効性のある就職協定を取り決めるように求めるものであって、「新しい協議機関」、「新協議機関」等の言葉は用いないまでも、当時のリクルートの関心と同じ方向の質疑を依頼し、また、実際にそういう質疑をしたのであるから、新協議機関について具体的に触れていないからといって、請託の存在が疑わしいということはできない。
3 丙川二郎に対する請託の経緯と状況
本節第四の二の六〇年後半当時の就職協定を巡る情勢、本節第四の四の就職協定を巡るリクルートや被告人の動き、本節第四の三の丙川二郎の六〇年一〇月及び一一月の委員会における質疑の内容、本節第四の五のリクルートと丙川二郎との接触状況に加え、被告人、R10、R7及びR6の捜査段階における各供述(本節第四の六1、2)並びに同人らの公判段階における各供述(本節第四の六3)のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一) 被告人らリクルートの幹部は、六〇年六月の臨教審の第一次答申で、学歴社会の弊害の是正策の一つとして、就職協定違反の採用(青田買い)を改めるべきことが指摘され、この答申を受けて設置された教育改革推進閣僚会議の幹事会において、企業の採用及び人事管理につき、答申の趣旨を踏まえた見直しが行われるように経済界に対し働きかけを行い、新規学卒者の採用につき、学歴社会の弊害を是正する観点から、大学、企業両者の連携により検討が行われるように推進することが合意され、経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会が開催されるなどした状況を踏まえて、実効性のある就職協定を作るために、経済団体、大学団体、関係行政機関で構成する新しい協議機関の設置が必要であると考え、その実現に向けて関係者に働きかけるなどの活動をしていたが、同年九月一二日の経済四団体の幹部と文部大臣及び労働大臣との懇談会において、L1が六一年度の就職協定について消極的な発言をするなど、六一年度に実効性のある就職協定を実現する見通しが立たない状況にあった。
(二) そこで、リクルートでは、六一年度の就職協定の成立に向けて、関係政府機関に積極的に動いてもらうため、六〇年一〇月上旬ころの取締役会において、丙川二郎に対し、衆議院の委員会で、臨教審の第一次答申で青田買いを改めるべきことが指摘されていることを踏まえて、政府に同答申に沿った対応をし、就職協定成立に向けて努力することを求める質疑をしてもらうように依頼することを決めた。
(三) R7は、右決定を受けて、R10に対し、丙川二郎に国会における質疑を依頼する際の資料を作成するように指示し、R10は、六〇年度の就職戦線の総括として、六〇年七月から大手企業の青田買いが始まり、前年度と比べても一か月以上早期化したことや、内定取消しの事態も発生して、社会問題化していることを中心に、新聞記事のコピーを添付し、臨教審の第一次答申で青田買い防止が盛り込まれたことを受けて、教育改革推進閣僚会議や文部大臣及び労働大臣と経済四団体との懇談会が開かれ、青田買い防止が検討されたが、L1の発言等で就職協定が危機にさらされていることについて、やはり新聞記事のコピーを添付するなどした資料を作成した。
(四) R7及びR10は、六〇年一〇月中旬ころ、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、右資料を渡した上、衆議院の委員会で、臨教審の第一次答申で学歴社会の弊害の是正策として青田買い防止等が取り上げられたことを踏まえ、実効性のある就職協定の早期取決め等について、政府が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(五) また、六〇年一〇月二六日、C3労働大臣が前日の記者会見で年内に就職協定について何らかの新たな取決めをしたいと発言した旨報道されたことから、R7及びR10は、同日ないし同月二九日、議員会館の丙川事務所又はリクルート本社において、丙川二郎と会い、その新聞記事のコピーを丙川二郎に渡して、衆議院予算委員会で右(四)の趣旨の質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
(六) さらに、六〇年一一月上旬ころのリクルートの取締役会において、丙川二郎に対し、六〇年一一月の文教委員会でも、実効性のある就職協定の早期取決めに向けた適切な対応を政府に求める質疑をしてもらうように依頼することを決めた。
(七) R7及びR10は、右決定を受けて、六〇年一一月一四日、議員会館の丙川事務所を訪ねて、丙川二郎と会い、実効性のある就職協定の早期取決め等について、政府が適切な対応策を講ずるように求める質疑をしてもらいたい旨依頼し、丙川二郎がこれを了承した。
4 結論
右3(四)、(五)、(七)のR7及びR10から丙川二郎に対する各依頼は、いずれも請託に当たる。
また、右各請託の経緯、特に、右依頼が被告人を中心とするリクルートの取締役会で決められたことからすれば、右各請託が被告人の意思に基づいてなされたものであることも明らかである。
第五 コスモスライフから有限会社b1に対する三〇〇万円の送金とその賄賂性
一 問題の所在
六一年五月三一日、リクルートの関連会社であるコスモスライフは、東京都世田谷区玉川〈番地略〉所在の三菱銀行玉川支店の有限会社b1(代表取締役B5)名義の口座に三〇〇万円を振込送金した(甲書1二三九、七七二)。
検察官は、右送金は、被告人がR1と共謀の上、判示第二の二①ないし③の各請託に係る報酬として丙川二郎に供与したものである旨主張するのに対し、被告人は、公判段階において、右送金に関与していなかった旨供述し、弁護人も、被告人は右送金に関与しておらず、丙川二郎にも金を受領した認識がなかったので、賄賂を供与したことにはならない旨主張する。
そこで、以下、右送金を巡る事実関係とその趣旨について検討を加える。
二 関係証拠上明白な事実
1 有限会社b1を設立した経緯等
(一) 丙川二郎は、五八年ころ、大叔母であるB6(以下「B6」という。)から、渋谷区代々木にあるB6の自宅の隣地にビルが建つ旨の話を聞き、B6に自宅をビルに建て替えるように勧めたところ、B6は、ビルの一部を自分の住居とすることを条件としてこれを承諾し、ビルを建てる手配の一切を丙川二郎に任せた。
(二) 丙川二郎は、五八年初めころ、k1株式会社に右土地にビルを建築する件を相談し、同年七月二七日、同社との間で、請負代金を一億〇五〇〇万円とする工事請負契約を締結した。また、同社は株式会社k2に右ビルの設計を依頼した。
(三) 丙川二郎は、右ビルの建築資金の全額について融資を受け、B6の居宅以外の部分を賃貸し、その賃料収入で融資金を返済しようと考え、五八年七、八月ころ、三菱銀行玉川支店に融資を依頼し、同年九月七日には、同支店を訪ねて担当者と融資に関する話合いをするなどした結果、一億四〇〇〇万円の融資(うち一部は建物完成後に抵当証券会社から融資を受けるまでのつなぎ融資)につき承諾を得て、同日、手形貸付けの方法で四〇〇〇万円の融資を受けた。同銀行からの借入額は、その後、一億二〇〇〇万円に変更となり、それぞれ手形貸付けの方法で、同年一二月に四〇〇〇万円の、五九年二月に四〇〇〇万円の融資を受けた。
丙川二郎は、右三件の手形貸付けのうち、前二件については、五九年八月一〇日に抵当証券会社から八〇〇〇万円を借り入れるなどして同銀行に返済し、最後の一件は、同年一〇月二二日に同銀行からの同額の証書貸付けに借り換えた。
右手形貸付けの際の振出人の署名や抵当証券会社からの借入れ及び同銀行からの証書貸付けの際の債務者の署名は、いずれも、丙川二郎本人がし、各貸借にB1が関与したことはなかった。
(四) 右ビルは五九年四月ころ完成し、そのころ丙川二郎に引き渡されて、同年七月に丙川二郎を所有権者とする所有権保存登記がなされた。なお、同ビルは、鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階付四階建てのビル(事務所兼居宅)であり、「b1ビル」と名付けられた。また、請負代金は、途中で設計が変更され、それに伴う追加工事が行われたため、最終的に一億一二八四万一〇〇〇円となった。
(五) b1社は、丙川二郎が、b1ビルの建築過程で、弁護士の助言を受け、節税を目的として、b1ビルの管理会社とするために五九年二月に設立した有限会社であり、当初、不動産・ビルの賃貸借、売買、保守及び管理、コインランドリーの設置、経営、広告代理業並びにそれらに附帯する一切の業務を目的とし、六一年三月に出版に関する事業等を目的に追加した。
丙川二郎は、自らb1社の経営をするつもりでいたが、公明党所属の国会議員でありながら営利法人の代表者になることは差し障りがあると考え、名目上、妻のB5をb1社の代表取締役にした。なお、他の取締役は、丙川二郎、B1ほか一名であったが、五九年一二月に丙川二郎が辞任し、別の者が就任した。
b1ビルのうち、四階はB6が住居として使用し、その余の部分については、五九年四月一日付けで、賃貸人を丙川二郎とし、賃借人をb1社とする賃貸借契約が締結された。また、b1社は、b1ビル三階の一室を自社の事務所とし、その余の賃借部分をテナントに賃貸した。
(六) 丙川二郎は、b1社を設立したころ、国会における活動が多忙になって、b1社の事務を処理することが困難になったことから、B1にその業務を処理させることとし、五九年ないし六二年当時、日常の業務はB1が処理していた。B1は、b1社から役員報酬を得ており、その金額は変動があるが、月一七万円ないし五〇万円であった。
b1社は、その当時、三菱銀行玉川支店に有限会社b1(代表取締役B5)名義の普通預金口座(以下「b1社口座」という。)を有し、b1社口座の通帳や印鑑もB1が管理していた。
(〈証拠略〉)
2 コスモスライフについて
コスモスライフは、リクルートが一〇〇パーセントの株式を有する株式会社であって、五一年五月に設立され、ビル総合管理、建物営繕工事等を目的とし、主にリクルートコスモスが販売するマンションやリクルートが保有するビルの管理、営繕工事等を行っていた。
六〇年当時、R5がコスモスライフの代表取締役であったところ、同年一〇月にR7も代表取締役に就任し、R5は六一年四月に代表取締役を退任した。その後、六二年四月三〇日、R7が取締役を辞任して代表取締役を退任し、R3が代表取締役に就任した。
(〈証拠略〉)
3 コスモスライフからb1社に対する振込送金及び根拠とされた契約の実態
(一) b1社とコスモスライフとの間では、六〇年一二月から六二年一一月にかけて、以下のとおり、五度にわたり、b1社がコスモスライフに対し、技術指導員を派遣し、月二回を基本として、ビル機械監視設備の取扱い、メンテナンス、床の表面洗浄方法、カーペットクリーニング、シミ抜き方法、ビル管理従業員の人事管理等について技術指導相談を行い、コスモスライフがb1社に対し技術指導相談料を支払うこととする「ビル管理技術指導相談に関する契約」(以下「本件指導相談契約」という。)が締結されており、技術指導相談料として、コスモスライフからb1社口座に振込送金されていた(以下、②の送金を「本件送金」といい、①ないし⑤の送金を合わせて「コスモスライフからb1社に対する送金」という。)。
① 六〇年一二月一三日付けで契約し(契約期間同月一日からの半年間、技術指導相談料二〇〇万円)、同月一七日に二〇〇万円を振込送金。
② 六一年五月二八日付けで契約し(契約期間同年六月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同月三一日に三〇〇万円を振込送金。
③ 六一年一一月二八日付けで契約し(契約期間同年一二月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年一二月三一日に三〇〇万円を振込送金。
④ 六二年五月二八日付けで契約し(契約期間同年六月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年七月二三日に三〇〇万円を振込送金。
⑤ 六二年一一月三〇日付けで契約し(契約期間同年一二月一日からの半年間、技術指導相談料三〇〇万円)、同年一二月一六日に三〇〇万円を振込送金。
(〈証拠略〉)
(二) 本件指導相談契約は、コスモスライフの取締役のR27がR1から連絡を受けて締結することになったものであり、コスモスライフ側の必要があって締結したものではなく、その締結に当たってコスモスライフの者がb1社側の者と契約内容等に関し交渉したこともない。また、本件指導相談契約の各契約書は、リクルート社長室の職員がR1の指示を受けて作成し、リクルート関連会社室がコスモスライフから社長印捺印依頼書を得た上、関連会社室で管理していたコスモスライフの代表者印を押捺し、各振込送金の際も、R1がコスモスライフに依頼し、同社から支払依頼書を得た上、リクルート関連会社室で振込手続をした。
さらに、右期間を通じ、b1社において、本件指導相談契約を履行するための態勢を整えたことはなく、実際にコスモスライフに対しビル管理等に関する技術指導相談をした事実や、コスモスライフからb1社に対し技術指導相談の実施を求めた事実もない。
(〈証拠略〉)
三 コスモスライフからb1社に対する送金の趣旨及び被告人の関与
1 被告人及びR1の各供述
(一) 被告人の捜査段階における供述
被告人は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(1) 被告人の元年四月二〇日付け検面調書(乙書1九)
「丙川代議士に対して、今申し上げたようなお金〔コスモスライフからb1社に対する送金〕を差し上げるようになった経緯について申し上げます。私の記憶では、日時は、はっきり覚えておりませんが、昭和六〇年一二月頃だったと思いますが、リクルートの社長室長のR2か、同社長室次長のR1のいずれかから、私にこの件の話がありました。多分、R1の方からではなかったかと思います。R1は私に対し、『実は、丙川次郎代議士の方から強い要請が来ているのですが、政治活動の資金援助をしてほしいと言って来ています。丙川代議士には就職協定の問題でリクルートが頼んで国会質問をしてもらっているなどお世話になっていることもあり、断り切れないと思いますので、先方の要請に応じたいと思いますが。』と言って来たのです。それで私も、前回申し上げたように丙川代議士には就職協定などの問題でリクルートが御世話になっていたこともあり、丙川代議士への資金援助についてこれを承認したように思います。その結果〔中略〕最初に二〇〇万円、その後、半年毎に三〇〇万円を四回にわたって丙川代議士に差し上げておる訳です。途中で金額が増えておりますが、なぜ増やすようになったのか、よく承知しておりません。相手方へのお金を差し上げる手続き、すなわちコスモスライフとb1社とのビル管理技術指導相談に関する名目上の契約手続き、お金の送金手続きなどについては、私は全くタッチしておらず、どのように行われたのか承知しておりません。」
(2) 被告人の元年五月二一日付け検面調書(乙書1三一)
「六〇年一二月ころに丙川代議士側からR1を通じて、盆、暮れに資金援助をして欲しい旨の申し出があり、R1からその話を聞いて、私は、丙川代議士にはこれまで国会質問などで御世話になっていることでもあり、その御礼の意味もあってこれを承諾したのでした。そして、六〇年一二月に二〇〇万円、六一年五月下旬ころ三〇〇万円を差し上げ、その後も盆、暮れに三〇〇万円ずつ差し上げております。六一年五月にそれまでの二〇〇万円から一〇〇万円増額して三〇〇万円にした理由ですが、そのころR1から『丙川先生の方から、選挙を控えていることもあって、出来れば支払を早くして欲しい、また、出来れば増額して欲しいとの要望があります。』などと聞かされ、これを承諾したものでした。」
(二) R1の捜査段階における供述
R1は、検察官の取調べにおいて、次のとおり供述している。
(1) R1の元年四月一一日付け検面調書(乙書1四〇)
「昭和六〇年頃でしたが、B1さんの方から丙川先生への資金援助の申し出があったのです。〔中略〕B1さんは、『公明党では自民党のような形で企業からお金をもらうというのは党の立場として受け入れにくいので、私共の方でやっているb1社へのコンサルタント料という格好でそれをいただく名目でお金をいただけないか。』などと言ってきたのです。〔中略〕丁度リクルートの方でも関連会社のコスモスライフがビルの運営管理の仕事をしておりましたので、その際このコスモスライフのことが話題にのぼったのです。B1さんの話ではb1社も彼の方で役員をしているビル管理会社であり、コスモスライフも同じ仕事をしていて丁度好都合でしたので、コスモスライフがb1社からビル管理についてのアドバイスを受けているということにしてコスモスライフからb1社へのコンサルタント料を支払っているということにすればよいという話になったのです。実際にはもちろんそのようなアドバイスをコスモスライフがb1社から受けたというようなことはなく、これはその名目で丙川先生側への資金援助をするということでありました。」
「こういった形で資金援助することについては、さっそく当時の社長室長であったR7さんと社長の甲野さんに報告し、甲野さんの意向を確認したのです。そうしたところ、甲野さんの方では、B1さんからの依頼をそのまま受けて、丙川先生へお金をお渡しするという承認をされたのです。その金額についてはじめからB1さんが盆暮に三〇〇万円ずつ出してほしいと言ってきたのかどうか、はっきり憶えておりませんが、最終的には甲野さんの決定で、甲野さんが盆暮に各三〇〇万円ずつ先方にお渡しするということが決まったのです。」
(2) R1の元年四月一二日付け検面調書(乙書1四一)
「前回お話ししたとおり、甲野さんの承認を得て、公明党代議士の丙川次郎先生側に対する資金援助を、コスモスライフから丙川先生側の「b1社」あてにコンサルタント料を支払うという名目で行っていたことは間違いありません。〔中略〕前回は社長室長のR7さんにも報告して相談をしたと申し上げましたが、よく考えてみますと、このコンサルタント料名目による資金援助を開始したのは昭和六〇年暮頃であり、その頃には社長室長はR2さんにかわっていたと思いますので、私がこの話を報告した社長室長というのはR2さんだったと思います。〔中略〕このコスモスライフとb1社とのコンサルタント契約については半年ごとに契約を更新する形で見直しをし、その都度甲野さんの方に従前通りのコンサルタント契約名目で丙川先生側への資金援助をしてよいかどうか、その金額に変動がないかどうかを確認し、契約書を新たに作り直していっておりました。」
「契約書を見せていただいて思い出したのですが、当初の昭和六〇年一二月一日から翌六一年五月三一日までの半年間のコンサルタント料は二〇〇万円でありました。〔中略〕これははじめ甲野さんの方でその金額でスタートするという決定を下してそうしたのだと思いますが、半年たった見直し時期において甲野さんの方でその金額を一〇〇万円上乗せし三〇〇万円にするという決定が出されて、以後私が憶えていたとおり半年間に三〇〇万円を支払い、支払時期は主として盆暮の時期となったものと思います。〔中略〕それぞれ半年間の期限が切れる前後頃に私の方では甲野さんの方にこの資金援助を続けるかどうか及びその金額について確認し、今まで通りでよいという趣旨の指示を受けたので、新たに契約書を作って更新しておりました。」
(3) R1の元年四月二〇日付け検面調書(乙書1四二)
「当初の昭和六〇年一二月一日から翌六一年五月三一日までのコンサルタント料が二〇〇万円だったのに、それ以降半年間に三〇〇万円が支払われるようになった経緯についてお話しいたします。〔中略〕これ〔b1社の普通預金明細表〕を見せていただいて判ったのですが、支払金額が二〇〇万円から三〇〇万円にアップされた二回目の支払が盆暮のサイクルと異なり昭和六一年五月三一日となっていて早まっていることが確認できました。〔中略〕丁度この年は七月七日に衆参同日選挙が行なわれ、丙川次郎先生もその選挙に出馬された時だったのです。〔中略〕これはたしかこの年の五月下旬頃、B1さんの方から私が『先生側としては今年の夏はいろいろお金がいり用なのでb1社への入金を早めにしてもらえないかと言うことと、その金額の増額を頼みたい』旨の提案を受けたと思うのです。それで私は丙川先生の方では選挙を控えてお金がいり用だということからb1社への支払を早めてほしいということと、また増額の方も頼んできているのだと考えられましたので、その旨さっそく甲野さんの方に伝えたのです。そうしたところ甲野さんはすぐにそれに応じ、これからは一〇〇万円増額して半年間に三〇〇万円とし、早めにこれをお渡しすることを決定し、了承してきたのです。〔中略〕甲野さんの方としても丙川先生を大切にしていらっしゃるようであり、特にこれを受け入れるにあたって難色を示したり、ごたごたがあったというようなことはいっさいありませんでした。〔中略〕この資金援助の増額については丙川先生側の要望が発端となって、甲野さんが決定したことであり、事務方の私の方が勝手にB1さんと相談して決めたということはいっさいなく、私自身にそのような権限もありませんでした〔中略〕。」
(4) R1の元年五月一二日付け検面調書(乙書1四四)
「この資金援助はb1社という会社あてに形式上行われていますが、その実質はあくまでも丙川先生の側への資金援助であり、私としてはb1社という会社については、そこに入金することが丙川先生の側の財布に入金することと考えておりました。〔中略〕昭和六〇年一二月初旬頃だったと思います。B1さんがリクルート本社のあるG8ビル一階の喫茶店に見えられたので応対したところ、B1さんは私に丙川先生側への資金援助を頼みたい旨話してきました。それでその申し出をお聞きしたところ、B1さんは私に対し、『今年の夏の時までは先生の方にお金を直接頂くというやり方でお願いしてきたが、先生の場合は、公明党では自民党のような形で企業から直接お金をもらうというのは党の立場として受け入れにくいというので、私共の方でやっているb1社という会社へ入金するという格好でお金を頂きたい』旨話してきたのでした。それで私は丙川先生の方としては、こちらから直接先生の方に小切手や現金を差し上げるという方法をとるかわりに、先方のやっているb1社という会社へ入金するという形式で実質的には先生側の資金援助してもらいたいのだなと思ったのです。それで私はB1さんに対し先方のb1社という会社がどんなことをしている会社なのか聞いてみたところ、B1さんの方で役員をしているビル管理会社であるということでした。〔中略〕丁度リクルートの方でも関連会社のコスモスライフ社がビルの運営管理の仕事をしていましたのでそのコスモスライフの話をしたのです。そうしたところB1さんが私に対し、『b1社への入金についてはコスモスライフがb1社からビル管理についてのアドバイスを受けているということにしてコスモスライフからb1社へのコンサルタント料を支払うという形でお金を頂きたい』旨提案してきたのです。〔中略〕これはあくまでも丙川先生の側への資金援助をする為の名目でありました。〔中略〕私がB1さんの方から伝えられた提案をR2及び甲野さんの方に上げたところ、甲野さんの方ではこれをそのまま受けてこのような形式でお金をお渡しするということですんなり承認したのでした。」
(三) 被告人の公判段階における供述
被告人は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
コスモスライフからb1社に送金した事実は全く知らなかった。R1から丙川二郎側の要求を伝えられて自分が了解した事実はなく、R2とR1の両名の了解で実行されたものと思う。実体のないコンサルタント契約を結んで支払をするのは、税務当局の調べがあると、税法上の違法行為として問題にされることであり、自分が相談を受けていれば、拒否する事項である。また、コスモスライフは、リクルートの関連会社室で監査していたので、同室が問題にする可能性もある事項である。
(四) R1の公判段階における供述
R1は、公判段階においては、次の趣旨の供述をしている(〈証拠略〉)。
六一年一〇月か一一月ころ、B1から資金提供の要請を受けるとともに、公明党では政治団体として企業から寄附を受けることができないという話があり、以前丙川二郎に資金を供与した際に領収証の処理で面倒な思いをしたこともあって、コスモスライフとb1社との間で実体のないビル管理に関するコンサルタント契約を結んで金を支払うことをB1と相談した。そのようにして支払うことにしたのは、丙川二郎に資金提供をするためである。そのことについてR2の承諾は得たが、被告人には話しておらず、R2が被告人に話をしたかどうかは分からない。本件送金の際に金額を三〇〇万円に増額したのは、当時、丙川二郎も立候補した衆議院議員総選挙を控えており、B1から、選挙で入り用だという話があったためであるが、その際もR2には報告した。R2が被告人に話したかどうかは分からないが、R2には被告人の了解なく支払う権限があったと思う。
2 考察
(一) リクルートにおける政治献金の取扱いについて、リクルート関係者の公判段階における各供述を見ると、社長室長であったR2は、被告人の了解を得ていたことは間違いない旨供述し(〈証拠略〉)、専務取締役であったR5も、政治献金は被告人が直接担当する事項であり、一〇〇万円単位の政治家に対する資金援助に関し被告人の承諾なく実行することはなかったと思う旨供述し(〈証拠略〉)、R1も、毎年盆と暮れの時期の政治献金に関しては被告人の決裁を得ていた旨供述しており(〈証拠略〉)、これらの供述からすれば、リクルートでは、政治家に対する資金援助は被告人が取り仕切る事柄とされていたことが認められる。そうすると、コスモスライフからb1社に対する送金について被告人の承認を得た旨のR1の捜査段階における右1(二)の供述は自然かつ合理的なものである。
また、R2は、捜査段階において、丙川二郎が実質的に経営する会社に対しコンサルタント料支払の名目でコスモスライフから丙川二郎に資金援助をすることに関し、R1から相談を受けたことがあると思うが、いずれにしても被告人が判断する問題なので、被告人に相談するように言った旨供述し(元年五月一六日付け検面調書・甲書1一六〇)、公判段階においても、コスモスライフからb1社に対する送金については、記憶にないが、社長室長としての自分の経験からすると、被告人の了解なしにはおそらくできなかったと思う旨供述するところ(〈証拠略〉)、右各供述は、右のリクルートにおける政治家に対する資金援助の一般的取扱いに照らすと、合理的である。
(二) これに対し、弁護人は、b1社に対する資金援助は、R1とB1とが同年輩かつ同窓で、個人的にも非常に親しく交際していたことを背景として、B1がR1に要求したことが発端で始まっており、R1がB1にb1ビルの屋上へリクルートの広告を設置することを安請け合いして結局それが不可能になり、B1に負い目を感じていたことなどから、その要求を断りにくい状況にあり、一方で、R1が被告人に報告して了解を求めた場合には、被告人から拒否される可能性があったことから、R1は、あえて被告人に話さずに、R2の承諾だけでb1社に対する資金供与の手続を執ったものと考えられる旨主張し、R1も、公判段階において、右1(四)のとおり、弁護人の主張に近い供述をしている。
しかし、コスモスライフからb1社に対する送金により丙川二郎に資金援助をすることについて、R2の了承は得たものの、R2が被告人に了承を得たかどうかは分からない旨のR1の公判段階における右供述は、右(一)のリクルートの政治家に対する資金援助の一般的な取扱いに反していて、そもそも信用性に乏しい上、本件送金を含むコスモスライフからb1社に対する送金は、リクルートや関連会社の利益の中から政治献金をする場合とは異なって、外見的には営業費用となり、コスモスライフの収益状態をそれだけ悪く見せることになるのであるから、リクルートグループ全体を総括する被告人の了承を得ずに、R1が右方法による資金援助を実行し、R2がその実行を承認するというのは不合理なことである。また、R1は、公判段階において、被告人に直接話さなかった理由を聞かれ、「広告塔の件もあり、私がうかつに外の方との約束を簡単にしてしまって、ある意味では失態に近いものでしたから、私としてはちょっと言いづらいなという思いはあった」、「言ってみれば公私混同の部分も何となく感じていたことも含めて、その広告塔の失態もこれありで、私の中ではR2に報告しておけばいいなというふうな詰まる思いがあった」(〈証拠略〉)などと供述するが、リクルートでは、本節第二、第三、第四のとおり、被告人も関与した上、丙川二郎に対し、繰り返し衆議院文教委員会等における質疑を依頼しており、R1は取締役会に陪席して当然にそのことを承知していたはずであり、しかも、b1社に対する送金の方法で資金援助が開始されたのは、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が本節第四の三の各質疑をした少し後の同年一二月のことであるから、R1がB1から申出を受けて丙川二郎に資金援助をするについて被告人に相談することを躊躇する理由はなかったはずであるし、R1があえて被告人に話さずに、コスモスライフに負担させて、実体のない契約を利用した資金援助をしたりすれば、かえって、そのことが被告人に知れた場合には、被告人の叱責を受け、信頼を失うことになるおそれがあると懸念したはずであるから、R1の公判段階における右供述は不合理である。
なお、R1は、公判段階において、取調検事に対しても、R2に報告しただけで、被告人のことは知らなった旨供述していたが、P6検事から「R2はいいんだ。単なる伝達機関にすぎないから、甲野とR1の話でいいんだ。」などと言われ、再逮捕のネタはいくらでもあるし、保釈は効かないなどと脅されて、検事に屈服した結果、記憶に反して被告人に報告したことを認める検面調書に署名した旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、R1は、丁谷三郎に贈賄したという事件で元年三月二八日に起訴された後は、拘置所の閉庁日を除くほぼ毎日、一時間半から二時間程度弁護人と接見し(弁書1一二一)、弁護人がR1から聴取した取調状況を記載した報告書を作成して、公証役場の日付印を得ていたところ(弁書1一三一〜一三五)、そのうち、弁護人作成の同年四月二八日付け報告書(同月二七日のR1の取調状況を報告したもの。弁書1一三五)には、B1からの話はR2に伝えた可能性が高い旨話したところ、「R2はもういいんだ。」などと言われた旨の記載があるものの、同月一一日、一二日、二〇日及び同年五月一二日の検察官の取調べに関しては、その旨の記載がある報告書は提出されていないのであるから、R1の公判段階における右供述は、裏付けを欠いている。しかも、R1の供述経過を見ると、右1(二)(1)のとおり、R1は、同年四月一一日の検察官の取調べにおいては、当時の社長室長がR7であったという誤った前提で、R7と被告人に報告し、被告人の意向を確認した旨の供述をし、検察官もその旨の調書を作成した上、同月一二日の検察官の取調べにおいて、当時の社長室長はR2であったとして、供述を訂正しているところ、もし、R1が公判段階において供述するように、捜査段階の当初は被告人に報告したことを否定して、R2に話しただけである旨供述していたのに、取調検事から「R2はいいんだ。単なる伝達機関にすぎない」などと言われて、被告人に報告したことを認める供述を押し付けられたという経緯があれば、被告人に報告したことを認める最初の調書から、R2を通じて被告人に報告したとか、直接被告人に報告したという内容になるはずであって、R7に報告した旨の記載がなされるはずはないから、R1の公判段階における右供述は、客観的な供述経過にも反している。
(三) したがって、被告人の関与についてのR1の公判段階における右1(四)の供述は信用し難いのに対し、R1の捜査段階における右1(二)の供述やR2の捜査及び公判段階における右(一)の供述の信用性は高い。
(四) 被告人は、公判段階においては、右1(一)の供述をした理由につき、検察官の取調べに対しても、①コスモスライフからb1社に対する送金に自分が関与した旨述べたことはなく、その関与を否定したが、②検事から「それでは誰か」と問われて、R1がR2と話せばできる話だと答えたところ、P2検事から「それならばR2を逮捕する。あなたでなくR2でもいい。R2を逮捕するとまた会社はおかしくなるんじゃないの。」ということを繰り返し言われ、「事件の早期決着、きれいな着地をしたい。」「これは要求型だから、要求型の場合には罪は軽い。」などとも言われた上、③自分がP2検事に対し、「いつも検事さんは無理な調書はこれで最後にするとおっしゃっているけれども、これを本当に最後にしていただく担保がいただきたい。」と述べたところ、P2検事が「分かった。もうこれで最後にする。」と答えたので、④R2の逮捕を避け、事件の早期決着を図るために調書に署名した旨供述し(〈証拠略〉)、弁護人作成の元年四月二一日付け報告書(被告人との接見結果を報告したもの。弁書1八二)にも、被告人が弁護人に対し同趣旨(ただし、③の点を除く。)の供述をした旨の記載があり、弁護人は、被告人の右1(一)の供述は、P2検事の強要によるものであり任意性も信用性もない旨主張する。
しかし、被告人がコスモスライフからb1社に対する送金に関与していなかったという点は、本節第二、第三、第四のとおり、被告人も関与した上、リクルートから丙川二郎に対し、繰り返し衆議院文教委員会等における質疑を依頼した経緯があることや、右(三)のとおり信用性の認められるR1の捜査段階における右1(二)の供述並びにR2の捜査及び公判段階における右(一)の供述に照らすと、到底信用することができない。そして、被告人が右のとおり自己の関与について事実に反する供述をしていることに加え、被告人は、辛村に贈賄したという事件(判示第五)で元年四月一八日に起訴された後は、起訴後の勾留中の任意捜査として取調べを受け、ほぼ毎日、長時間にわたり弁護人と接見して、法的な助言や事件関係者の供述状況に関する情報提供を受けていたこと(第一章第三の三2)を考慮すると、被告人の捜査段階における右1(一)の供述は、任意になされたものと認められる。
(五) 次に、被告人は、公判段階において、①コスモスライフは、利幅の薄い商売をしていて、収益力のない会社であるから、実体のない取引を付けると、同社の人がかわいそうであり、自分が関与するとすれば、政治家に資金援助をするのに同社を選ぶことはないし、②コスモスライフは、リクルートコスモスの下に位置し、リクルートから見れば孫会社に当たるので、コスモスライフから政治家に資金援助をするならば、リクルートコスモス経由かリクルートの関連会社室経由で話を通すべきであり、R1からR27に連絡するというのは、会社の通常の指揮命令系統から外れており、自分の発想では考えられない旨供述している(〈証拠略〉)。
しかし、①の点については、関係証拠(〈証拠略〉)によれば、コスモスライフは、被告人の指示又は了解の下、R1が担当者になって、政治家の秘書や妻を含む四名の者に対し、非常勤S職としての給与名目で資金供与をしていたことが認められるから、被告人の供述は、右事実と矛盾するものであって、信用することができない。なお、被告人は、第一一七回公判期日においては、コスモスライフは、既に一人か二人の政治家秘書を非常勤S職としていたので、さらに他の人の面倒を見るほどの余裕はないと考えたのであろうというのが第一一〇回公判期日で言おうとした趣旨である旨供述するが、コスモスライフでは、b1社に対する送金を始めた後の六一年二月、従来の三人に加えて四人目の非常勤S職に対する給与支給を始めていた(〈証拠略〉)のであるから、被告人の訂正後の供述も、自らの行動と矛盾するものである。
②の点については、右のとおり、リクルートでは、被告人の指示又は了解の下、社長室次長のR1が担当して、コスモスライフに非常勤S職の給与を負担させていた上、コスモスライフの取締役のR27も、リクルートの社長室及び関連会社室は関連会社を統括していたので、そこの指示かお願いがあれば、子会社として、問題のない限りお受けする旨証言しており(〈証拠略〉)、これらの点からすれば、被告人がリクルートコスモスやリクルートの関連会社経由ではなく、社長室次長のR1を介して、コスモスライフに丙川二郎に対する資金供与の話をさせるということは、不自然なことではない。
(六) さらに、関係証拠(〈証拠略〉)によると、被告人は、b1社に対する送金に関与したことを認める内容を含む元年五月二一日付け検面調書(乙書三一)の作成に先立ち、P4検事から調書の原稿を示されて確認を求められた際、丙川二郎側からR1を通じて資金援助の申出があったこと、この申出を承諾した理由、その後丙川二郎側から増額等の要望があったことなどの部分について、右調書の原稿に手を加えて、訂正をしているところ、これらは、表現を若干変更する程度のものにすぎず、右資金援助を承諾したこと自体について訂正しようとするものではなかったことが認められる。
(七) したがって、被告人の公判段階における右1(三)の供述は信用し難いのに対し、被告人の捜査段階における右1(一)の供述は大筋で信用することができる。
もっとも、丙川二郎に対する資金供与の方法として、コスモスライフとb1社との間で実体のない契約を締結した上、技術指導相談料の名目で送金することまでを被告人が承知していたかについては、これを否定する被告人の捜査段階における右1(一)(1)の供述とこれを肯定するR1の捜査段階における右1(二)の供述との間で齟齬があるが、右(二)のとおり、本件送金を含むコスモスライフからb1社に対する送金は、外見的には営業費用となり、コスモスライフの収益状態をそれだけ悪く見せることになるのであって、その点につきR1がリクルートグループ全体を総括する被告人の了承を得ないというのは不合理なことであるから、右の点については、被告人の供述よりもR1の供述の方が信用性が高いというべきである。
(八) なお、コスモスライフからb1社に対する送金がなされるに至った経緯に関し、B1は、公判段階において、R1の捜査段階における右1(二)の供述はもとより、公判段階における右1(四)の供述にも反して、
① コスモスライフからb1社に対する送金は、自分がb1社の資金繰りに困っていて、b1社ビルの屋上にリクルートの広告塔を出してもらうことをR1に相談し、それが実現しなかったことがあったところ、その後の六〇年一一月ころ、R1から、コスモスライフとb1社との間で実体を伴わない契約を結んで金を支払う話を持ちかけてきたので、R1が政治家を志している自分に対する先行投資としてそのような話を持ちかけてきたと考え、有り難く話に乗ったこと、
② R1が資金提供のために実体のない契約を結ぶ方法を採ることにした理由は知らないこと、
③ 送金額が三〇〇万円に増額された理由も覚えていないが、b1社のことと選挙のこととは切り離して考えていたので、選挙で金がかかるから増額してほしいという趣旨の話はしなかったと思うこと
を供述している(〈証拠略〉)。
しかし、B1の右供述は、R1がB1から何の働きかけもないのに、B1に資金提供を申し出たという点で、そもそも不合理であり、かつ、R1がB1から働きかけを受けずに、資金提供のためにコスモスライフとb1社との間で実体のない契約を結ぶ方法を採ることを発意したという点も、不自然なことである。
しかも、B1が政治家を志していたという点についても、R1自身が、B1が政治家として立候補したいという話は聞いたことがない旨供述する(〈証拠略〉)ほか、B1とともに丙川二郎の秘書として活動していたB3秘書、b4会の代表世話人であったB7らB1と頻繁に接触する機会のあった者が、捜査及び公判段階において、そのような話は聞いたことがない旨供述していること(〈証拠略〉)に照らすと、やはり信用することができない。
これに対し、R1は、右1(四)のとおり、公判段階において、本件指導相談契約を結んでコスモスライフからb1社に対する送金をしたのは、B1から、公明党では企業から寄附を受けることができないという話があったからであり、丙川二郎に資金提供する趣旨で送金した旨供述し、この点については捜査段階から一貫した供述をしているところ、右供述は、その内容自体が、B1の公判段階における右供述に比して、自然かつ合理的である上、公明党では、その当時、規約等の定めはないものの、企業から献金を受けることを禁止し、政治資金報告書を点検する取扱いをしていたこと(〈証拠略〉)にも合致しており、十分に信用することができる。
3 小括(コスモスライフからb1社に対する送金の経緯と被告人の関与)
右2の考察を踏まえ、本節第五の二の各事実に加え、被告人及びR1の捜査段階における右1(一)、(二)の各供述、R1の公判段階における右1(四)の供述のうち他の証拠や事実に照らして信用し得る部分並びにR2の捜査及び公判段階における右2(一)の供述を総合すると、次の各事実を認定することができる。
(一) 六〇年一二月ころ、B1がリクルート本社を訪れた際、丙川二郎に対する資金援助をR1に要請するとともに、公明党では政治団体として企業から寄附を受けることができない旨の話をし、R1は、B1と相談して、コスモスライフとb1社との間で本件指導相談契約を締結し、その技術指導相談料の名目でコスモスライフからb1社に金を支払う方法により丙川二郎に資金を供与することを企図した。
(二) そのころ、R1が右企図を被告人に提案したところ、被告人が右方法で丙川二郎に二〇〇万円を供与することを承認したので、R1が手配して、本件指導相談契約を締結し、六〇年一二月一七日、コスモスライフからb1社へ二〇〇万円を振込送金した。
(三) その後、R1は、六一年五月下旬ころ、B1から、同年の夏は丙川二郎側でいろいろ金が入り用なので、b1社に対する送金額を増やしてほしい旨の要請を受け、被告人にその旨報告したところ、被告人が右要請を了承して、丙川二郎に三〇〇万円を供与することを決めた。そこで、R1が手配して、技術指導相談料を三〇〇万円とする本件指導相談契約を締結し、その技術指導相談料の名目で、同月三一日、コスモスライフが本件送金をした。
4 本件送金の賄賂性
(一) 以上認定した諸事実、特に、
① 被告人らリクルートの幹部は、青田買いが横行して採用活動が早期に行われることになると、リクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業の広告料収入が減少し、計画的な発行・配本業務に支障が生じて、同事業に悪影響を来し、さらには、同就職情報誌の配本が青田買い横行の原因の一つであると指弾されて、法規制や行政介入を招くおそれがあると懸念し、同事業の順調な展開のためには、就職協定の存続及び遵守を図ることが重要であると認識していたこと(本章第一節第二の二1)、
② リクルートでは、判示第二の二①、②、③のとおり、五九年五月から六〇年一一月にかけて、被告人を中心とする取締役会における決定に基づき、丙川二郎に対し、衆議院文教委員会や衆議院予算委員会で、国の行政機関に人事課長会議申合せの遵守を求めたり、実効性のある就職協定の早期取決めについて適切な対応策を講ずるように求めるなどの質疑をしてもらいたい旨繰り返し請託し、丙川二郎がこれを了承して、数度にわたり、リクルートの請託の趣旨に沿った質疑をしたこと(本節第二、第三、第四)、
③ コスモスライフからb1社に対する送金を開始したのは六〇年一二月であって、六〇年一〇月及び一一月の委員会で丙川二郎が質疑をした時期と近接しており、本件送金も当初の送金の約半年後のことであったこと
に加えて、
④ 丙川二郎に対する資金供与は半年間で二〇〇万円又は三〇〇万円という多額なものであったところ、被告人は、東京大学教育学部の同期生であるH6(以下「H6」という。)に継続的な献金をするなどして政治的に応援しており、H6は、五四年以降の総選挙で丙川二郎と同じ東京都第三区から立候補し、六〇年当時も同区当選の衆議院議員(新自由クラブ所属)であって、丙川二郎とは競合関係にあったこと(〈証拠略〉)からすると、被告人が純粋に丙川二郎を政治的に応援するための献金としてコスモスライフからb1社に対する送金をするのは不合理と考えられること
を総合考慮すれば、六〇年一二月になされたコスモスライフからb1社に対する二〇〇万円の送金は、判示第二の二①、②、③の各請託に係る報酬として供与されたものと認めることができ、その約半